作品投稿掲示板 - B-REVIEW

百均


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コメントありがとうございます。 コメント読ませていただいて、何か書こうと思ったんですが、辞めました。多分湖湖さんから見て、下品な表現みたいな部分が本作には沢山あって、それらが足を引っ張ってしまい、作品を拒否されたのかなと思ったからです。そうなると、これを書いた意味みたいな部分みたいな所を返信すべきなのかもなと思うんですが、そこまでするとこれを書いた意味がなくなってしまうと思ったのでやめる事にしました。 個人的には、ゲラゲラとした笑い声って本作にとっては重要なフレーズなんですよね。そこが機能しなかったというのは、残念に思っています。 コメントありがとうございます。 (ポートレイト)

2022-08-20

コメントありがとうございます。 どういう風に回収しているのかみたいなのが書いてないのでそうなんだなぁという感じです。 クオリティが低いっていうのがどの部分なのかも微妙なんですが、読むに堪えられなかったってことですかね? でしたら申し訳ないです。 ありがとうございました。 (ポートレイト)

2022-08-20

コメントありがとうございます。  なんだか、読んで貰えた感じがして嬉しかったです。  本当にありがとう。 (感触)

2022-07-18

コメントありがとうございます。  様々な声を感じていただけた事、嬉しいです。  ありがとうございました。 (感触)

2022-07-17

コメントありがとうございます。  ファイトを初めて聞きました。確かに、被る部分があるなぁと思いました。中島みゆきは貰った手紙に対して出来る事をしたのかなと思ったりしました。アーティストが出来る事って、多分応援なのかなと。とはいえ、応援によって、手紙を出してくれた人がどこまで取り戻せるんだろうと思うと、その人が結局頑張るしかない部分もあって、難しいなと正直思う所もありましたが、しかし、彼女なりの回答として出来る事をやられたのかなと思いました。本作の場合は、多分そこまで振り切れなかったって感じですね。 (感触)

2022-07-16

コメントありがとうございます。  同じ境遇であるという事を感じられる場所っていうのが、喫煙所という見える場所にしかないような感じがありますよね。  地域社会はその社会を保つための義務と責任なのかもしれないですね。それが相互作用的に上手く機能すれば、その恩恵も得られると思いますが、実際の所、押し付けられる部分であったり、理不尽さの方が目立つ所もあるのかなと思いながら、再構築したいみたいな希求は若干同意する所もあります。要は、肩身が狭い物同士で、手を差し伸べ合う事なのかもしれないですね。その難しさは、結局、肩身が狭い者同士ですら、差し伸べる事が難しいっていう現実があったりするみたいな所かもしれないですが。  ありがとうございました。 (感触)

2022-07-16

コメントありがとうございます。  どこまで言及するのかというのは悩んだ所でした。  最後の部分は蛇足かもしれないですね。どこまで何を信じて込めるべきかという点で、推敲をもう少しすべきだったのかもしれません。  コメントありがとうございます。 (感触)

2022-07-14

コメントありがとうございます。  百均というHNが作品内部に登場する道具に影響することってあるんだなぁと思いました。HNの理由ってあんまりちゃんと答えられた事がない程度に、感覚的に付けた部分が大きいというのもあって、あんまりきちとんと答えた事ないんですが、しかし、言われると大量に清算され、消費されるものに対する価値の比重って低いもので、価値が低い物に対する向き合い方っていうのは、考えるべきだなと思いました。その点感謝申し上げます。  ありがとうございました。 (感触)

2022-07-14

てんま鱗子(揶白)さん コメントありがとうございます。返信遅くなり申し訳ありません。 >洗練されていて良いと思いました。カタカナと、古い言葉の間で苦しまれてるようにも感じました。 ああ、なんか確かにバランスが歪なのかもしれないですね。凄く挟まれている感じはします。 コメント、ありがとうございました。 (血)

2022-04-19

よんじゅうさん コメントありがとうございます。返信遅くなり申し訳ありません。 >ジャムで真っ赤に濡れた舌の上 >体言止めがカットアップのように舌の上でひかってみえたよ。そんな感想です。 体言止めの効果ってなんなのかなぁと思っていたのですが、カットアップのように光ってみえたっていうのがなるほどなぁと思いました。 いいヒントを頂けたと思いました。 コメントくださり、ありがとうございました。 (血)

2022-04-19

クヮン・アイ・ユウさん コメントありがとうございます。 >フルスイングと聞くとどうしてもバットのそれをイメージします。味は血の味でしょうか。誰が誰に(どこに)バットをフルスイングするのか。味覚の有無を誰が誰から(どこから)感じているのか。 >作中わたしが誰かや何かを殴りつけているようには読みませんでした。 なるほどなと、多分空振りしてるのかなといった感じを思いました。書いている時に思ったのは何かを全力で振っている行為についての着想みたいな物は凄くあったのですが、言われると、確かに何にも充てていないよな見たいな事を思いました。当たったら、正に生の実感になるわけだけれども、空振りしたって何も得られるものはないのかなとか、凄く考えちゃいましたね。鋭い指摘だと思いました。 >>味がしないわね >と言っている人は、わたしよりも社会的心理的余裕がある人ではないかと思います。 心理的余裕っていうのは、多分語尾の言い方みたいな部分なのかなと思いました。なんとなく感情が覚めてる突き放してるような言い方ですもんね。 >>登っていけよスカイスリーの先っちょ >スカイツリーではないんですよね。都会で高みの見物をする者への一種の揶揄や冷笑でしょうか。つまりわたしは、その場所を真の高みとは感じていない。そのうえで登ることもまた放棄はしていない。結局落っこちるのですが、欠片が戦いを補助するものになる。 このレスに俺はなんも返せないですねぇ。凄く読まれてしまったなという感じがします。さきっちょって一言は何気なく付けた訳ですけど、多分その着けた行為の意識みたいなのを指摘されちゃった感じですね。ジレンマみたいな部分をどう乗りこなしていくのかみたいな部分の自分の考え方みたいなものがもろにでちゃってるかもしれません。 皿というモチーフは色々あるけれど、今回なんで採用したのかについてはコメントを読んで考える必要があるなと思いました。回るイメージというのは確かにあって、でもそれが多分詩の中であまり生きていないのかもな~という事を思います。堂々巡りみたいな要素の先の部分ですね。もっとやりようあったのかもしれないと思いました。 電子レンジの中のようにひとところで回り続ける不自由さと徒労と >>味がしないフルスロットル 。 >見通しのきかない現状に苦味を感じる。生の実感。 このレスいただけて、この作品の立ち位置みたいな物を言語化して頂いた感じがして、とてもうれしかったです。 頑張ろうと思いました。 コメントありがとうございました。 (血)

2022-04-09

ねねむさん コメントありがとうございます。 >苦い血の味だけが生きている証なら >味のない世界より未来は輝くものだろう > >戦う男たちよ >血の味も悪くない > >加速してGがかかる >それだけが存在証明 やっぱ返詩って凄くいい文化だなと思いました。ねねむさんがどのように受け止めてくださったのか、誤解もあるかもしれないですけど、すっきり入ってきますね。クヮンさんが生の実感と書いてくださってますが、正にそういった部分が苦い所に出てるのかなと。後、血の味の味ってなんか不思議ですよねとかなんとか。最後の2フレーズの存在証明の部分が多分この作品から抜き出た部分なのかなと思うと、なんか読んでいただけて、返詩をいただけて良かったなと思いました。というのとまだまだ圧縮出来たりフレーズも鍛えないとなと思いましたね。 ありがとうございました。 (血)

2022-04-09

多分投票してくれたんですかね? ありがとうございました。 (玻璃)

2022-01-31

コメントと投票ありがとうございます。 好きな雰囲気と言っていただけてうれしいです。 まずは印象を与えないとどうしようもないなと思っているので、ありがたいです。 ありがとうございました。 (玻璃)

2022-01-31

レスありがとうございます。 一人で生きている分にはこじれる事ってあんまりないなと思ってるんですけど、何かと関わるってことはこじれることだなと思いながら書いていた気がしますね。直近読んだものに影響されやすいのもありますが。 ありがとうございました。 (玻璃)

2022-01-29

レスが遅れてしまい、申し訳ございません。 湯呑ってモチーフいいですよね。今回卯の花って単語を使わなかったら多分出てこなかった単語だと思います。 そこら辺がフックとして機能したのであればよかったなと思います。 ありがとうございました。 (玻璃)

2022-01-29

レスが遅れてしまい、申し訳ございません。 メンヘラ臭って意味だと直近のいかにきも凄くするからどっこいどっこいでしょ。 と思いながら、まぁ今回はこうなってしまったって感じですね。 ありがとうございました。 (玻璃)

2022-01-29

レスが遅れてしまい、申し訳ございません。 やっぱり書いてあることが遠回しだったりする以上、音とかそういう部分は気持ちよく感じて欲しいなと思って書いています。 そういった部分を感じていただけたのかなと思ったのでとてもうれしいですね。 >水晶の多面のようなさまざまなsceneをわからないながらも、引き込まれるように、読んでいました。 玻璃って言葉を見つけてからしばらく考えていて、こうして出荷じゃないですけど、まとめる事ができたのはよかったなと思っています。 ありがとうございました。 (玻璃)

2022-01-29

レスが遅れてしまい、申し訳ございません。 素敵なレスありがとうございます。 (玻璃)

2022-01-29

こんにちは。 対話から始まる作品ですね。 でも誰が誰に向かって話しているのかは分かりません。 どこに?と繰り返されるリフレインは、逃げ出したい人の選択肢を狭めているような気がします。逃げ出したい言ってしまうと、逃げ出したいという一人の人間の思いだけを浮き彫りにするために、具体的に逃げたい場所があるわけではなく、逃げたいと思っている箱の中にとじ目られた人間の存在を提示しているわけですね。 これは飛躍した感想かもしれないですが、夜ってちょっとだけ希望があるよなと思いました。こうしてコメントを書いているのは昼休みですけど、僕は昼の時間が苦手でよるのほうが好きなんですよね。夜が終わると新しい朝が来る事は希望になるかもしれないけど、それは今の現状から逃げる必要がない人にとっては希望になり得るわけですが、逃げ出したい人にとっては夜は休息の時間であって、なんとか日中帯を乗り切った人な訳ですよね。だからこそ、朝のイメージっていうのがむしろ開いていくのではなく、繰り返しの日々日常という箱の中に再度自分を投じていくような、息苦しさがあるのかなと思いました。 それが「夜を忘れてしまう前に」というフレーズや、それでも箱の中にとどまらざるをえない現状を予定という枠組みの中で話者は自分の立ち位置を規定していきます。逃げ出したいけど、逃げれないのか、逃げる前にすることがあるのか、それはわからないですが。 また、この作品は途中から変装していくわけで、それを象徴しているのが相互作用というキーワードだと思います。夜は果たして大事な時間なのかというと、最初のフレーズがわいてくる瞬間って一人でよるを過ごす瞬間だとも思うわけですよね。闇という言葉を使われていますが、駆逐すべき夜と、ある意味愛すべき夜があって、それは朝も同じで、朝は昨日の苦しみを忘れさせてくれるけど、新しい来る意味を生むし、夜を引き寄せる存在ともいえますよね。そういった相互作用の中で綱渡りをするように存在している話者がいて、スタンスとして、そういった状態に寄り添うという選択をしているのかなと思います。 長い詩行から思うのは、ある意味で日記的であると言うことですね。プロセスを描かれているのかなと思いました。結論はないし、生きていると考えてしまうことはあるけれども、祈る事によって、寄り添う事によって夜を渡り朝を愛そうとするみたいな感覚でしょうか。最後の眠りの安らぎというのが、最初に提示された質問という詰問から少しだけ解放された位置にいるような気がして、良いなと思いつつ。それでもまだこの作品の後ろには続きがあるのかなとはそういうことを思いました。 (Miniascape Escape/Good Night Polaris)

2021-11-29

こんにちは。 この作品を一読した時に思ったのは、かっこいいなと思いました。雨時計って言葉を言っちゃえば成立させて仕舞っているわけですよね。過去雨時計って言葉を使った人がいたかなんてのはわからないので、これは俺の中の話だけど、でも、詩語って言葉が皮肉や嫌みみたいな意味合いではなくて、シンプルに感じたのは、本作が初めてでしたということ。それ以上にいえる事は特にないんですよね。詩語を感じるって事は、これまた、初めて思ったけど、この作品がまさに言葉によって支えられた街になっていますね。それって世界観があるっていうか成立しているのかなと思いました。 >雨時計とは雨のふる街をさす >誰もが知らないふりをしたことだが >秒針は環状線のアシンメトリーに似ていた 特にびっくりしたのが、この一連目ですね。たまげちゃったな。本当にかっこいいんだもん。 「雨時計とは雨のふる街をさす」この一文が持っている語り手の価値観ってめちゃくちゃいいんですよね。 雨が<ふる>ってだけで、単純な掛詞として振ると、降るかかっているし、それが時計と雨をつないでいるんですね。 それから、特定の場所を指しているようで実はそうじゃないところ。ここがさらっと書いてるけど、すごいですね。固有名詞じゃないんですよね。町の特徴に雨をふるって使わないんですよ。でも、そこを大胆に宣言しちゃっている所。それから、さすって書いていることで語り手の思い込みじゃなくて、なんとなくみんなが共有している感覚的な名称っていうのを匂わせている。まさに雨の匂いを感じた時に、その町が雨時計になってしまうような絶妙な感覚ですね。それを補完する「誰もが知らないふりをしたことだが」のフレーズからの、町を覆う環状線の想起から、動いていく秒針のイメージは例えば道路なら車、線路なら電車みたいな形で、うごめいている秒針は無数の人や移動するものたち、つまり、雨粒のイメージに重なりながら、面白いのは円の形を提示しながら、それがアシンメトリーに似ていたといっている所。ここって凄い観察眼だと思いますね。ピクトグラムとか一時期はやりましたけど、単純化された形って凄く都市的なものなんだけど、それによってそぎ落とされていく形があるわけですよね。環状線というと、東京に住んでいる僕は山手線や首都高速を思い浮かべるけど、でもそれらって表示される時は単純な円として張られる訳なんですよね。でも実態としては、ゆがんでいて真円ではないよねって所。この一連目で提示されている、いってしまえばゆがみのイメージ。雨がふるときにのみ現れる町の情景が日常の中で平地された感覚をぶらしていく訳ですね。 それを2連目から描いていて、正直白旗でした。神話から始まるのは町のルーツを語る事にふさわしく、また、町は時計のように廻っていく。という円の運動を踊りに乗せて、ミクロとしての回転、傘の円(ビニール傘=雨粒が円の上に乗っかる小さな町の形で、さらにいっていると、傘を差す人の視線が空に向く動き)からマクロとしての傘=電波塔のイメージが町を覆っていきます。そこに電線のイメージを感じるとさらに面白いですね。見えない、点(人)と線(電波)が無数に飛び交い町の形に合わせてうごめき出す人間達を点と線を集めていくと円ができていくような感覚に襲われます。 人から今度は実在の町の実兄を描いていきますね。今度は大きなイメージとして地層のようにだんだんと積み上がる家のイメージから、一連目で提示したアシンメトリーの中に消えてしまう小さな炎を描いていますね。スタンド灰皿の円のイメージも隙がないです。雨が無数に飛び交う町の中にある小さな火(たばこはもう誰にも好かれないですよね)が消えてしまうイメージから、つなげていく括弧書きの言葉には、小さいけれども確かな強さを持った誰かのささやき声が紡がれていますね。 そこからつながる連想の希望から、いってしまえば阻害されてきた人、されている人達にフォーカスを当てながら、しかし、希望に目がむかないくらい毎日あくせくしている人達の事を描いていますね。それが(なくしてしまうもの)であって、もちろん毎日たばこを吹かして遊んでいればいいんだけど、でも実際としてそういう訳にはいかないという事も描いていますね。 横断歩道でびしょ濡れになることで、希望の火も消えてしまいますが、多分ぬれている人って道路を歩いている人なのかなと思うと。道行く人のほうなのかなと思います。多分めちゃくちゃびしょ濡れになっても、それを気にかける人なんていないわけですね。大部分の人はぬれていないわけですから。だから、ぬれている語り手を町や町の住民達は心配しないから、雨にだけは覚えていてほしいと語り手は願ったかのような描き方をしているなと思っていたらその発言は実は「きみ」がしていたという事が明かされますね。 きみはこの作品において多分凄く重要です。一連目の最初の雨時計を教えた存在って語り手以外にいないのだとしたら、もうきみしかいないんだもん。そんなきみの顔を忘れようとした、というのは、町の中に溶け込む人達になろうとしている(訳ではないかもしれないけど)語り手の態度に符号することがあって、きみっていうのは、どっちかっていうと、この町の中で不器用に生きている人みたいだなと思ってしまいました。 >車窓にかかる雨粒をかぞえる人は >対角線によこたえたことばを >円周の定点のひとつとして観測する このシーンは僕はこう読みました。ちょっと飛躍しちゃうところあるんですけど、ごめんなさい。観測するって言葉には多分感情がないんですよね。ただ定点観測しているカメラの向こうで、誰かがこけても、見ている人達って何もできないのと同じで、車窓というビニールの傘に張り付く雨粒みたいなたくさんの存在達がはっした言葉「雨にだけは覚えていてほしい」については観測することはできても、それに対して反応を示さない。雨に濡れたきみをみてもぬれている人がいるねみたいな形でまさに雨粒が車窓にあたるような形で、人間の一人一人にふりかかっている事を見ない訳じゃない。でもぬれているねで終わってしまうんですね。でもそれは仕方の無い事なんですよね。だって対処しきれないからね。毎日に死んでいく人達や事故にある人達って全国にたくさんいるけど、ニュース番組で報道される度に全国民が心を痛めているかというと、事故が今日も多かったね、少なかったねで終わってしまうことと同じです。 >煙草の煙で輪っかをつくろうとしている >きみはrの発音がうまくできないから >この雨もきみのついた嘘だったんだよ きみは町の形、円、時計の針が進む速度に順化できないのが、多分この連で、なんか凄くかなしい気持ちになりました。rは巻き舌で、僕もまけないんですけど、これって構造的に無理な場合はもうできないんですよね。舌が大きかったりすると器用に丸められないし、タバコを吸っているのは、希望を持とうとしているけど、でも上手く吹けなくて、わっかを作らなくてもいいのに作ろうとしているなと思ってしまいました。 この嘘っていうのは、語り手が君を観測して思った嘘だと思います。きみが覚えていてほしいと思った「雨」ってここまで読んで思うのってやっぱり、小さな雨粒達の集合体であって、雨っていうのはきみの事なんか覚えてくれないとおもうんですよね。きみも雨粒一つ一つの事は覚えられないように。っていう所が「嘘だったんだよ」と過去形になっているのも凄く悲しい気持ちになってしまいました。そのことを多分語り手はきみに伝えられてないんですよね。きみの現在はかかれていませんが >簡単にならべられた偏微分方程式たちが >いくら時間という変数に戸惑っても >明日もきっと、雨時計 多分この現状ってかわってないんだと思いますね。って感じで、なんか都会の中でほんろうされるきみと、でもそれは変わらない方程式の中におしこまれた人間達の姿であって、それは変わることはないし、そこから落ちていく存在には希望なんてないのかなとか思うと、雨が降るっていうのはいろいろなメタファーがあるけど、なんかどうしようもない事みたいなものを見せられた気がして、冷たいし、なんかもの悲しいし、きみを見つめる語り手の目線のあり方や、かすかな感情も感じられて、凄くよかったです。 それでも町は廻っていく。じゃないけど、廻らないといけない人達、廻る事をあきらめた人達、廻るのが下手くそな人達、ちゃんと廻れる人達、廻れなくなって消えてしまう人達、それらの集合が雨で、雨がふる町に俺たちは生きているよなって事をかんじさせられた、ちょっと大げさかもしれんけど、現代の都市の神話みたいなもんかもなとおもっちゃいましたね。一緒にダンスしてたら人が集まってきて待ちができたみたいな頃の方が幸せだったのかどうかはわからんけどさ。 ありがとうございました。 (雨時計)

2021-11-29

レスありがとうございます。 タイトルについてありがとうございます。なかたつさんの過去の作品から取ってきた部分もあるのですが、実は数年くらい温めてきた言葉で、なんかようやくタイトルに出来たなと思いました。ですので、本当にタイトルに見合う作品にできたのかは分からないのですが、なんかよかったなと思っています。全ての出会いに感謝だし、読んでくださってありがとう。 >1連目の子供は自分の昔の話なのかな。作品を通して全体的に自分の過去を俯瞰して、まるでテレビの画面を眺めているような感じがあります。 断片的な映像みたいのだけを残したくて、それを俯瞰で捉えたくて書いているところがあって、それは正にテレビに流れている映像に目が留まるのは、印象に残ったり、目についたからだと思います。そういったものを残してかきたかったなと思います。そういうものが因循さんの中にのこって、こうしてレスいただけたことが本当に嬉しいです。 過去というものに縛られている存在っていうのを、如何にして書くのかみたいな所はなんとなくこうして言葉にしてもらって俺の中にある書きたいテーマとかモチーフの1つなのかなと思いました。好きと言ってくださって本当に嬉しいです。 ありがとうございました。 (鎖刻)

2021-11-21

こんにちは。 夏至祭ってなんだろなっていうのは、正直わかっていなくて、ネットで調べた限りでは、西洋でよくあるお祭りみたいですね。この作品を見て思ったのは祭りに向かう雰囲気の描きかたと、祭りが終わった後の話。それから祭りという、喧噪の中で、消えている名前を持たない存在についての目線ですかね。 分かりやすく考えるのだとしたら、オリンピックとかでもいいかもしれない。オリンピックは久しぶりの大きなお祭りで、いつまで待てばいいのかと思いながら、まっている。祭りは開かないといけなくて、オリンピックが終わった後の後処理は祭りに来た人は何も考えてくれなくて、祭りを開いた側が処理しないといけないよなとか、全部おわったら秋になっていて、そのお祭りを実施するために多分色々な人が死んだり犠牲になったよなとか。そういう事を思いましたね。 という訳で、具体的な読みというのは展開できなかったのですが、夏至という陽の当たる時間が長い日の後は、落陽というかどんどん陽が落ち込んでいくだけになるだけで、ピークに至る道筋と、ピークが終わった後の話をするにはちょうどいい選語だと思いました。そこから、夏至祭に至るパレードの描写と、夏至祭が終わった後、いわば祭りの後を描く展開も面白いですね。夏至を祝う事が目的になっていて、なぜ夏至を祝うのかっていうのも考えると面白いですよね。夏至祭ってキリスト教的には、ヨハネの誕生日みたいな描写もありましたが、夏至であることを祝うのってあんまり意味ないかもなとか。(春になったら祝うなら分かりますね。海開きとか、年が始まるとかそういうのは) 単純に読み切れてないのは、名前の部分で、そこはオリンピックを題材に読んでしまったところがあって外れてるかもしれんなと思いました。手紙の部分については他の人の読みがもうちょっと聞きたいし、少し考えるべき課題かなと思ってます。 ありがとうございました。 (夏至祭は終わった)

2021-11-16

こんにちは。 初読の時は凄くて何もいえなかったです。 投票しておけば良かったですね。 みたいな事を思いました。 「あすへかえりたい」という強烈な一言。 未来を志向する言葉ではありますが、しかし、未来はなくて、 列車に飛び乗っている今しか語り手にはない。 電車はどこに向かうのか、という目的地はあるけれども、 降りる駅は選ばないといけないですよね。終点までいってしまったからといって、 未来が、保証される訳ではありません。 どこか別の場所に向かうという、言って仕舞えば指向性を持った場所、 列車の中において(未来と現在と、それから過去のはざまみたいな空間)で語られる語りは、 1つ1つの描写が絡み合っていて、いってしまえば正しくここにレスとして解説させるような余地を僕は見出せませんでした。 現実や過去を、それから「ぼく」を認識すること。 それから降り立った駅の目の前の世界を再度認識すること。 そこから言って仕舞えば今を始めるというような、 これは語り手の認識の変化であって、その周りを象る時間や、事象や、存在は変化する事はないけれども、 今いきている「ぼく」は >美しかった 間違い だった  >つかめなかった すべて  >  > てのひら  > おんがく    >  >  ゆき そういう風に結論付けるみたいな感じで。よかったですね。 「おんがく」をどう読むのかというのは結論出ていないのですが、 音楽って僕の中では楽しいものなので、なんか良かったなと思いました。 あんまりレスできてないですが、 久し振りに心揺さぶられましたね。 ありがとうございました。 (無明列車より)

2021-11-16

すいません、一回だけ返レスを失礼します。 なるほど「業」ですか。実際にそれがどれくらいのものであるか、というのは分かりませんけど、それを安易に言語化できるのであれば、言語化して対処してしまえばいいのであって、そんなものは業でもなんでもないですよね。っていう所で、自然と出てきた言葉が、正に自分の中の業と向き合う為の言葉として吐き出されたのであれば、それは、とてもいいことなのではないかと思っちゃいましたね。言っちゃえばそれは正に祈りの言葉だと思いますし、例えばこの作中に出てくる涙に感情はこもってないかもしれませんが、業はぎちぎちに詰まっているんでしょうね。 救われるか救いようがないのかは俺には分からないのですけど、 幸せならいいですね。 レスありがとうございました。 (結縁)

2021-11-16

こんにちは 先生に向けて書いた手紙ではないという所で、ある意味自分に当てた手紙でもあるし、でもそれが公開された事を見ると、宛先のない手紙をこの作品を読んだ人に向けて公開している作品という感じもしますね。そういう意味で最初の宣言っていうのは、この作品を書かれた動機みたいな部分を公開されていて面白いなと思いました。 先生は「高潔な努力家の指導者」であって、「地上の楽園」を作る存在として定義されていると思います。聖地は色々な所にあって、宗教だと総本山だったりメッカみたいな言われ方をするのかなと思うけど、そこが聖地になるには、場所が重要ではなくて、先生の存在が必要で、そこに集まる人達は先生を求めてくるみたいな発想の在り方が面白いなと思いました。そこから先の話として、先生から受け継いだバトンをどうするのかみたいな所に主題が移っていくので、先生に対しての手紙ではなくて、言って仕舞えば残された人達は先生の「教え」をどう引き継ぐのか、言って仕舞えば我々は先生になりうるのかみたいな所の話が展開されていると思いました。 >あなたから貰った人道と理想の >ビジョンの悦びを私はいつまでも抱いている >私は弱いけれどその卵を捨てられない >気が付けばいつもその卵を暖める鳥となっている 先生から教えてもらった教えを孵化させるわけではなく、大切に温める存在としての私がいて、でも、 >そんな私を優しい顔をして笑うあなたが欲しい >それはリレーのバトンだったのだから >バトンバトン、抱きしめた石の卵にならないで >私は涙を手毬して歯を食いしばる 手マリをしながら、石の卵で言って仕舞えば遊ぶ事しかできない私が最後に描かれています。 私は先生を求めている訳ですが、マザーテレサが代表的なように、その先生はもう死んでいたり、もしくは会えない存在な訳ですよね。先生とずっと同じ時間を生きる事はできない訳で、僕も高校時代や大学時代の恩師がいますが、今住んでいる所からその先生に会いに行くことはできません。先生と一緒に入れる時間というのは限られていて、限られているからこそ、その時間は地上の楽園の中に生きている時みたいに楽しい訳ですが、先生の元から離れている時間の方が実際に生きている間は長い訳で、そっちの方が問題になるよなと。 >あなたが生きている間に >故郷に錦を飾る欲望と苦しみよ 鳥の比喩と絡めて読んだ時に思うのは、親鳥は子供を温めて孵化させて育てる存在ですよね。先生は私の事を育ててくれた訳ですが、しかし、子供の鳥は親元(巣)を離れて自分の巣を持つ必要があります。私の故郷で巣を作って、そこで卵を孵化させ育てる事。私は先生のひな鳥になれないし、というかいつか親鳥になって、子供を育てなければいけない。という楽園から出て行って別の楽園を作らないといけないというのを欲望と苦しみとして見ている部分がおもしろいなと思いました。 語りてが湖湖さんと同化しているのかはわかりませんが、なんとなく個人的に思う所もあり、ここには書きませんが面白いなと思いました。楽園ってやっぱり、楽園を支える人がいなければ楽園にならないし、楽園を作るのであれば、自分が親鳥にならないといけない。たとえ自分がその楽園を求めてたとしてもみたいな所。でも簡単に楽園なんか作れないよねっていう葛藤みたいな部分に、こういってしまうとあれですが、共感を覚えました。 ありがとうございました。 (先生)

2021-11-16

こんにちは。 「結縁」って仏道に帰依する事を指すんですね。初めて知りました。という所から始めるんですが、僕はあんまり仏道に親しくないので、語りての思いみたいなのは、あんまりよく分からないといえばわからないので、ピンと来ていない部分の方が多いですね。その点、あまりあった読み手じゃないかもという所はご容赦ください。 >百日草 気になったのははなの名前で、開花時期が結構長い花みたいですね。なので。季節をまたいでも割いている花という意味だと、この詩にあった花なのかなと思います。とは言え、蝶が飛んでいるので、最初の詩の始まりは、夏なんですかね。 >夜毎半かな情愛 >最中に涙が >痕にもならず 単純にセックスの描写なんですかね。最中で出た涙が痕にもならないという事は、単純に激しい涙を流した訳ではないのか、出た涙に何も思わなかったのか、とか考えると、涙は行ってしまえば感情を発露する装置な訳で、涙を流すという事はそこに情感が乗っかるのかなとおもうんだけど、「痕にもならず」という言い方は、自分の涙を卑下した言い方だよなと思います。 確かに涙を流したが、そこには痕に残るような、言って仕舞えば記憶に残るような涙ではなかった。悲恋とか感動でもないんだろうなと、そういう意味で情愛の意味をほどいて行くと、毎晩言って仕舞えば寵愛を受けているけど、多分語り手の心はそこまで動いてないんでしょうね。涙は流しているから、相手はそれを誤解して受け取っているかもしれないですけど。 >下着に >蛾が揺らぎ なので、この描写ってとても不思議なんですが、これは干してある下着に蛾が付くのか、それとも、脱ぎ捨てた下着に蛾が付くのかな。あんまりわからんのですが、蛾に集まるのは、光とかの印象があって、言って仕舞えば下着へ本能的に興味を持った蛾が集まってくる感じって意味だと、なんかむなしい感じもしますが、下着に興味のある蛾が毎夜自分の元にやってきてセックスをする。そこに愛情はないよねみたいな感じなのかなとか思いました。 そのうちに季節が過ぎて、ただ、あるだけの語り手がいる「無始無終」って話が、タイトルにどういう風につながっていくのかは正直ピンときてないですね。 関係ない話ですが、瀬戸内寂聴の詩を思い出しますね。っても俺自身あんまり彼女の作品は読んでないですけど、最近お亡くなりになったのも思い出しますね。(ってかこれだけレスすればよかったかも)という訳で、語り手を女性で読んでみました。 ありがとうございました。 (結縁)

2021-11-16

一読して難しい作品だなと思いました。 色々触れたいところあるんですけど、なんで道化師に殺意を向けられて、泣きながら逃げているのに、 >だからどうぞ追いかけてきて >手を繋ぐことは無いけれど 友達になれないけど、追いかけてきてください。みたいな感じになるのかなと思いました。道化師と友達にはなれないけど、誰かころしてしまうくらいなら、私の事を永遠に追っかけてきてくれ見たいな感じですかね。それは途方もない自己犠牲みたいな所なのかな。 道化師の唯一の理解者であることを自覚して、そこまで道化師に入れ込む理由ってなんなのかなと思いました。という質問みたいなレスですいません。なんだろうな、シチュエーションが不思議だなと思いました。あと、道化師って何人も人を殺しても捕まらないで、道化師やってるってことは多分手練れの人だったりするので、いつまでも逃げられない所が多分語りてはいつかいたぶられて殺されちゃうかもなと思いました。その時、道化師は何を思うのかなと思うと、孤高なままなんでしょうね。 理解についてのレスがあって、そこら辺も考えちゃいましたね。 ありがとうございました。 (孤高の道化師)

2021-11-16

レスありがとうございます。 そういってくださるの嬉しいですね。この作品を投げた時に、どうなるのかわからないですし、色々思う所ありながら書いた所があったりなかったりしたので、言っちゃえば分かりにくい言葉で、分かりにくい事をかいているんですが、それが誰かに届いたのかなって思えました。本当にありがとうございました。 (鎖刻)

2021-11-15

レスありがとうございます。 そう言って頂けるのは嬉しいですね。特に「灰色のサーカス、と失意を語った方が愛や涙を思い出すのなら人生はなんて切ないのでしょう。」このコメントで逆に目が覚めた部分があって、教えてもらっちゃいましたね。本当に。やっぱり俺にとって書く事はそういう事で、読んでもらう事は何よりもうれしい事で、幸せな行為だよなと再認識させられましたね。素敵な言葉ありがとうございました。明日からまた頑張れます。 ありがとうございました。 (鎖刻)

2021-11-15

レスありがとうございます。 >欠けて、数も足りなくなった碁石の描写に随分、寂しく、切なくなりました。人生の変遷の中で、もしくは生まれつき、欠損を抱えている心や体は、存在は、傷を想って生きていくしかないのか。私はそれを自分の問題として考えているけれど、世界を、厳正にするためにモノクロ映画のように、例えば勝敗で区切るように、白黒に区切ると、世界はぐっと厳しくなります。生きていくことの困難を善悪や、闘い、優劣などに規定すると、敗者の中に自分を見出しがちで、あなたの表現はそういう厳しさと無念を扱ってらっしゃり、硬派でいて切ない気持ちが溢れ、なかなか男性的、と言っては何があるのかもしれませんが、男性的な印象に感じました。私は生きることはフィールドワーク的地面を這う喜びを探す虫の心や、唄う心、色彩を愛でる心、など、カラフルであることに焦点を絞ることで自らの救いを作っています。大人であること、というのが黒白フィルムや、黒を纏うことに象徴的に感じられ、囲碁というその洗練されたゲームの中に潜む人生の縮図のなかで、あなたが念仏を唱える、その普遍性に共感を添えつつも、七色のような声で歌う鳥を夢想したくなります。えへ! なるほどなぁと思いました。白黒はっきり勝負をつけないといけないという事はそぎ落とされていく物がある訳で、それはいらない要素な訳ですよね。そういった勝負事の非常さと、でもしっかり事実として勝ち負けが提示された時に、敗北した側はそれを認めるみたいな作業が発生するなと思いました。勿論負けたから死ぬわけではない世の中だと思いますし、それは幸せなのですが、生き残ってしまった事って結構禍根を残すし、それを癒すのは念仏しかないのかなと、湖湖さんのコメントを読んで思いましたね。 レスありがとうございました。 (●○)

2021-11-15

レスありがとうございます。 >囲碁とか将棋は元々、戦争に関連したものだし競技だから使われている言葉としっくりきますね。作中では対局する相手はいなくてひたすらに自分語りだけど、閉じてはないし最後まで読めました。ただ、安定の語りに味わいがあるだけに、どこかで崩れるのを期待してしまった。 武器が武器でなくなるときに残った精神性みたいな話を最近本で読んで、日本の弓術って本なんですけど、そういった物を見て考えるシーンが滅茶苦茶ありますね。コンピューターやネットワークみたいな物も軍事目的に開発されたシステムな訳で、でもそういったものの精神みたいな部分が残っている事についてどう思うかみたいな物って、みえないように去勢されているだけかもしれんですが、面白いよなと。自分の中の語りを落とすという意味で自分語りを真っ向からやってみて、そのモチーフに囲碁を使ってみたんですがどうだったかなって感じですね。 安定した語り口というのは、やっぱり予定調和的で読むときの楽しさにつながらないよなと思います。ここら辺は反省すべきだよなと。 >最終行はまさに自ずとしめられたのだろうけれど、そこで冒頭に持ってきたり、もっとシャッフルしてもいいのかもしれない。 ここら辺については、やっぱり推敲していくしかないんだろうなと思います。そのまま生身で出したものって、やっぱりつまらんよなと再認識させられました。 ありがとうございました。 (●○)

2021-11-15

レスありがとうございます。 >百均さんの作風、最大の武器は「青さ」だと思っているんです。それが全面に出ていて好感。問題は、50才過ぎてもその「青さ」がキープ出来るか、それに尽きると思います。そこに注力すれば、おのずと気狂いな作品を残せてゆけることでしょう。 ありがとうございます。なんだか、前にもそんなレスをいただいた気がしますね。個人的にはcold fishさんのレスに書いた通り、いつかは抜け出していきたい物だったりしますが、とはいえベースの部分は変わらないだろうなとは思っています。 ありがとうございました。 (●○)

2021-11-15

レスありがとうございます。 >子どもの頃の無知ゆえの過ちという体ですけど、人間全体そういうとこありますよね。というか、大人は過ちを過ちと認められない分質が悪い。まあ、過ち、黒歴史として腐し倒すのもあれなんですが。自分語りに立ち返っているという話ですが、そういう意味で納得感があります。えと、何が言いたいかというと、こういう自分語りは落ち着くなあということです。 ありがとうございます。最近色々と過去の事を考える事がおおくあって、そういうのを認める事も出来てない部分は勿論あるのですが、一個一個もう一度書き直してみるかみたいな感じで書いていますね。そんな所を単純に読んでいただけたのかなと思いました。 ありがとうございました。 (●○)

2021-11-15

再レスありがとうございます。 なるほど、色々入れ込んでいいんですね。なるほどと思いつつ、きょこちさんの言葉が聞きたかったですね! 教えてくれたら嬉しいな。 一緒に頑張りましょう。 それでは、レスありがとうございました。 (●○)

2021-11-07

レスありがとうございます。 「○○○○」が溢れているっていうのが、分からなさ過ぎてちょっと笑っちゃいました。なんかここに書くとまずい事なんですかね? よくわからんのですが、辛くさせた部分があるのだとすれば、きょこちさんに何か訴えかける物があったんですかね。と思うと良かったのかなと思う事にします。 ぶっ壊す所については、coldfishさんのレスに書いた通りで、いつかは壊すと思いますが、壊すためには積み上げていかないといけない訳で、賽の河原みたいな所もあると思いますが、どっかで壊してまた積み上げたいなとは思います。 レスありがとうございました。 (●○)

2021-11-07

レスありがとうございます。 最終行については、そうですね。なんか自然に書いちゃった所はありますね。念仏って結局の所、唱えていればいいという意味で、言ってしまえば意味が分からなくてもいい人にとっては、単純に救いになる所あるよなって考えがあります。声に出して何かするだけで、発散するものありますもんね。そういう意味で自分にあっているなと思うことが結構あります。 碁石の白黒が葬式を連想させるというコメントは確かになと思いました。自分が、囲碁で遊ぶ時って、やっぱり葬式とかで祖父母の実家に行く時の大人が忙しい時に遊ぶおもちゃだったりするので、なんかそういう喪的な物も感じているのかなと思いました。多分俺にとっての形見っていうと碁石なんですよね。 ありがとうございました。 (●○)

2021-11-07

再レスありがとうございます。 >ちなみに、何度も言ってるけど、百均君は、書けない側の人間じゃない、と思うよ。まあ、俺はもうビーレビに投稿する気があまりないし、今回も久々に覗いてレスしただけで、また見なくなりそうだけど、頑張ってね。また気が向いたらレスするかもだけどね。 そういってくれたことは、なんかね、俺の中で大きいっていうか、最初聞いた時は、マジでなんかね、実はショックだったんだよね。これは本当に。だってさ、俺にとっては雲の上の存在の人で、届かないなって嘆いてる中でそういわれちゃって内心発狂してましたね。 でも、なんか今はそういってくれる言葉をその通りに受け取って、そこれに驕らずやって行こうと思います。そういってくれるのはやっぱ嬉しいよなって感じ。なんかこうしてまた話しかけてくれてありがとうございました。こういう会話を10年前に出来たらと、本気で思う。けど、まぁ糞だったら見られなくなると思うのでね、今度は自然とレスしたくなるような物目に留まれるようにやってくしかないっすよね。これは本当に。頑張るしかないので頑張ります。 ありがとうございました。 (●○)

2021-11-07

レスありがとうございます。 ちょっと話したくなっちゃったので、書いちゃいます。すんません。 >これで終わらせていいの?よくある定型的な終わり方でいいの? >よくある語り口でよくある自分語りと吐露。 >本当にそれで終わりでいいの?作品としても自己語りとしてもそれで本当にいいのか? >これで良いのなら、わざわざ「語る」必要性はないんじゃないかな。 >ネットにはよくある「語り」がうんざりするほどあるのだからわざわざ誰かが語る必要性はないんじゃいかな。それが分かってないからビーレビには、うんざりするほどのそれらが溢れてるんだろうけど。 >そして、誰に向かってこれは語りたいのかな。 最近思う事としては、自分語りからとりあえず始めようって事ですね。出発点がそこにない人も勿論いて、そういう観点から物を書いている人もいるんだけど、今は、語り手を自分に設定して書くっていう、いっちゃえばシンプルな所から始めてるって所ですね。なので、これは自分の為に書いているという意味で、自分以外の所には届かないかもしれないし、言って仕舞えば習作の域を出ない部分も多々あると思います。予定調和的っていうのは、ここ以外でも人に見せているんだけど、マジで言われる。 なんですけど、そこら辺を俺は自分語りってつまらんよなで処理してしまってちゃんと見てこなかったんですよね。他の人はおいておいてまずは俺は書けない人間であることをちゃんと、アイデンティティから外して客観的に見る事。自分の話を聞いて書く事から始めて、自分が無視してきた事をもう一回聞いてみようみたいなスタンスですね。なので、いかいかさんとちゃんと話せたことはぶっちゃけないので、空想で物を語っちゃいますが、多分こういう作品を嫌われると思ったし、それが結構俺の中にちょっと前まであったんだけどね。そこら辺の棘が抜けたのでこれを投稿したって感じですね。多分いかいかさんは言って仕舞えばオーソドックスな語り、自分を語り手に配置して、過去の経験を語るみたいな行為的な部分は10代とかで終わってんじゃないのって話で、そういう視点からするとタルイ作品だろうなと思いますね。 そういう意味で、これを出す意味っていうのは、あるのかないのかってのは怪しい所はありますね。言っちゃえばオナニーだから。こうしてレスを貰う事でやっぱり点検できるし、そういう意味でこれを出してどや顔になれたというよりは、ああ、俺はマジで糞雑魚だし、ゼロから積み上げなきゃなって思った次第ですね。自分の以前の作品はだから俺にとってはゴミで、これもゴミだなと思う部分もあるし、なので、これからしばらくは基本の文章かく練習と、自分の過去のプレイを点検して課題の発見とそれの潰しこみからスタートですね。最終的にはそのスタイルを壊したものを出したいとは思ってますが、何せ基本もないし、通り過ぎるべき通過点を俺は越えずに逃げちゃった事が最近よくよく分かったので、こうしてちゃんとさらけ出しながら、言って仕舞えば初めて書き始めた感じ。そういう意味で俺は過去のスタイルは全部ゴミで、バイエルからやり直してるって感じですね。(バイエル聞いて楽しい訳がないけど、その人がピアノを自在に弾くためには、必要な過程だよね。そういうのを天然でやっちゃえる奴もいるけど、俺はそうじゃない) >https://www.youtube.com/watch?v=dhXPV-BNZU0 > >https://soundcloud.com/sibitt/shinganginga-gun-lap-run-sibitt > >を、参考の一つとしてよく聴いてるんだけど、HIPHOPの枠内でこれだけやられたらもう現代詩とポエトリーリーディング(苦笑)について「語る」必要性なんてもはやないってことがよくわかるよね。 ここら辺の音源については、いかいかさんのTwitterとかで流してたっけ。って意味で一回聞いたんだけど、でもそれは聞いてないなって事に気が付いちゃったんですよね。我ながら本当に愚か。ぶっちゃけていうと、俺はいかいかさんの作品も全く読めてなかった事が最近わかったし、いかいかさんが色んな所で、紹介している作品を見てこなかったんだよね。例えば、アンナ・カヴァンの「氷」の評を見て、買って読んだけど、結局の所俺は表面上しか見てないし、聞いてねぇなって思っちゃった訳。それは自分の過去のふるまいもそうだし、目にしてきたあらゆる創作物についてね。だから、全部勉強しなおし、志人もそうだし、俺は志人の事を知らないから何が凄いのかも知らない訳。ただ、このレスを貰った事で、紹介してもらった事で、俺は志人が読めるようになったし、吸収できるようになった訳だよね。って所から俺は全てに敗戦している事を認めて、ゼロから組み立てていくので、いかいかさんの作品も多分ゼロから見直していくよ。マジで今全然時間も足らんし、なんかバカっぽく生きてきちゃったなって反省中。マジで人生の時間無駄にしすぎた。 >百均君はもっとぶっ壊していいんじゃない?自分の語りや作風をね。または違う方法論を持ってくるとかね。百均君自身が壊れるんじゃなくて作風や語りをもっとぶっ壊しちゃえよ。もっと違うジャンルやものを参照したほうが良いかもね。 という訳で、このレスっていうのはその通りだと思うし、だから自分の語りをオーソドックスに見返すっていうスタイルに今は回帰している最中。最近思うのは、オチを付けがちになるっていう癖がマジでついてるなってわかったんだよね。だから、そこら辺から全部点検して、基礎作ってから色々な考え取り込んで、まぁ、何年かかるか分からんけど、もしかしたらいかいかさんの後追いになっちゃうかもしれんし、wからんが、素振りしてからそこら辺はやっていくよ。それがなんか確認出来たって意味でもそうだし、いかいかさんからレスもらえたのと志人改めて紹介してもらってマジで感謝ですね。ジャンルについては本当にそうだけど、俺が思うのはやっぱり見るのもいいけど、本当に栄養摂取してきました? うんこにして流してない? って感覚で、今は食わず嫌いせずに、ちゃんと食って血肉にするターンかなって感じです。なので、今回紹介してくれのはマジで感謝しかないですね。あざした。 レスありがとうございます。 (●○)

2021-11-07

レスありがとうございます。 コメントありがとうございます。 >子ども時代に犯した過ちって、結構よく覚えているものですよね。特に、無知から来る過ちは。 >ただ、こういった経験が新しいおもちゃを開発させたり、創造力の元になったりするので、一概に「悪」とは言えませんが……。 最近、色々な人とか作品を見ていく中で、子供じゃないけど、例えば蟻を殺す遊びみたいな話をした時に、蟻を殺すのは目的じゃなくて、蟻を潰した時に何が起きるのかみたいな事をその時考えてて、殺す事が目的じゃないよなみたいな事を話したんですよね。それって面白いなと思っていて、そこら辺作品の中に落とせてないんですが、戦争は人を殺すのが目的じゃなくて、戦争をした結果何かしらの利益を得られるから行われる行為なんだなと今更ながら気が付きました。同時に、戦争で傷つく個人っていうんですかね。そういった物に目を当てるか、それ以外の目的を達成するために消費される何かがあって、その折り合いみたいな部分だよなみたいな感じですね。 そこら辺の話をしだしたら切りがなくなるんですけど、ただ言える事としたら行為を変に捻じ曲げて正当化する事って多分した所で行為をした人は苦しくなるだけで意味ないよなって思いましたね。 >この部分が特に好きです。共感もあるんですけど、何よりもこの感覚を言葉として書いた、という潔さ(?)が良かったです。 構成がとても良いと思いました。最後の最後に、実家に帰ったきっかけが示されている。土台のしっかりとした物語だと感じました。 そういう意味で、言葉を切り詰めて書いたり、シンプルに書く事ってちゃんと感覚を事実として認める事だし、そこから別の対話が始まったりする訳で、なんかそこら辺の出し方という意味だとうまくいったのかなと思いました。また、これはいい意味でも悪い意味でも、予定調和的に書けたというのは、単純によかったなと思っています。まずはそこからって感じがするので。 ありがとうございました。 (●○)

2021-11-07

こんにちは。 なんか返信の返信なんで、返答しなくていいんですが、なんかもらったレスの責任について考えてしまったので、ちょっと返レスさせてください。(そういう意味で、俺の都合で返しちゃいますがすんません) 言葉をかける時になんか責任を俺は持てないし、持てない事が最近全然分かってなかったなと思う事があって、正にそうだなぁと思いました。特にそこら辺は過去してきた事を思い返すと、俺は自分の言葉に対して責任を感じた事が本当にあったのかというとそうではないなって話で、相手が自分が話しかけた言葉によって例えば振りまわしてしまったとき、(例えば約束を破ってしまったなど)その時に相手に申し訳ないという思いもありながらしかし、自分の都合でその約束を反故にしてきたなと思いました。 その時、自分としては確かに責任を感じてないし、ないと思ってしまうので、そこに俺には責任が発生しえないんだけど、相手からしたら俺にした信頼とかそういうのを裏切られたと思うし、俺に対して責任を持つという能力がない人間だなと思うんだなと思いましたね。そういった見えない力みたいなのがやっぱり責任で、それをはき違えた時に事故が起きるんだなと思いました。 って意味で俺はコーリャさんのレスを読んで、正に責任について考えさせられた訳で、その言葉をある意味ここで書かせてしまった事についてちょっと申し訳なかったなと思いました。そういうのと、俺が前のレスで気軽に話そうと思ったんだけど、そこで与える影響っていうのかな、そういう物に無自覚だったなと思いました。その点申し訳ないなって。責任を強いてしまうやり取りってでもちょっと疲れるかもなとも思うので、そういう物から少しだけ解放されるような関係ってあるのかな、ないのかな、でもどこにでもあるんだろうなと思うと、投げ出したくなっちゃう感じもするし、その責任の在り方がこの作品の中で藤さんとのやり取りの中にもあるけど、意図されていない責任の持たれ方をされてしまった時に、それを怒らないみたいな所からその在り方を少しずつ互いに受け入れ合うような話ができたたいいのにね、ってなんかそう思う時に、相手の言葉をそれはどういう形であれ、責任を持って受け止める事なんだろうね。それを俺はできないってかキャパが小さくて、そういう意味でいうとコーリャさんの事もなんか傷つけた時も多分にあったのだと思うとまぁ取り返しはつかないんだけど、なんか、話せてよかったです。 レス、ありがとうございました。 (話す言葉)

2021-10-25

お久しぶりです。 なんか色々酷評ギルドがなんだと言ってほっぽってしまってすいませんでした… 正直に言ってしまうと、白川さんの作品全然読めなかったんですよね。 という所から、この作品を読んで少しだけ書ける箇所が見つかってきたので、 その内容を感想としてお伝えしようと思います。 >「ねぇ聞こえる?」 >「ねぇ聞こえる?」 >「ねえ!ねえ!ねぇ、、、」 > >はじめて伸ばした頃の腕は >次の瞬間を求めただけの >それだけの腕でした > >傍らにあるそれが >まぎれもないそれであることを >知り得ない >遠い過去の少女が >いま >ここ >この一瞬にある >すべてのものに >薄く均一に溶け込み >海の向こうまで広がっている この作品を読んだ時に、切れている部分っていうのはここだと思いました。 切れていると思った理由について書きます。 >「ねぇ聞こえる?」 >「ねぇ聞こえる?」 >「ねえ!ねえ!ねぇ、、、」 > >はじめて伸ばした頃の腕は >次の瞬間を求めただけの >それだけの腕でした 切れている部分も二つに分けられると思っています。 そのうちの1つとして、これは語りての中の体験であろうと思われます。 「はじめて伸ばした頃の腕」は「次の瞬間を求めただけ」の「それだけの腕」でした。 という事を知ったのは、もうはじめて伸ばした頃ではないからだ。という事だと思います。 ただ、この体験の描き方として面白いのは、求める行為だけが切り抜かれている事です。 聞こえる?という事は、聞こえてほしい対象の誰かがいて、聞いてほしい内容があるはず。 でも、その内容や誰に聞いてほしいのかという事は書かれていません。 言って仕舞えば、求めているその行為が求めているのは、「次の瞬間だった」というだけで、 それ以外の要素(話の内容や、話を聞いてほしい誰か)をその腕は求めていなかったという事なのだろうと思います。 その行為に対する希求というのを了解しているのは、 今の語り手なのですが、はじめて伸ばした頃の腕はそれを知りようがなかった。 という事が最初の部分だと思います。 また更に言って仕舞えば、この腕というのは衝動的に伸ばしたという意味合いの方が強いのかもしれない。 意識の方では、誰かに今語りてが聞いている事を聞かせたかった事が主題になっているのかもしれないですが、腕が伸びてしまったのはその意識とは異なるという事です。 自分が考えている事とは別の論理で腕が伸びてしまった事の考察が、 腕の行為を「次の瞬間を求めただけ」の「それだけの腕」と定義して意識と切り離して考えるようになったのではないかという事です。脳みその命令ではなく、腕そのものが語りての意思ではない所で、衝動的に動作した事の衝撃。それが、さらに言って仕舞えば語りてにそういう考察をさせたのかなと。 >傍らにあるそれが >まぎれもないそれであることを >知り得ない >遠い過去の少女が >いま >ここ >この一瞬にある >すべてのものに >薄く均一に溶け込み >海の向こうまで広がっている なぜ腕が伸びたのか、という事が分からないもので全てにおいて溢れている。 そういう意味でここに出てくる少女というのは、伸びた腕の意味が分からない思念的な象徴。 そういう意味での無垢性みたいな物だとか、少女性みたいな部分もあるのかもしれない。 過去の自分にはわからなかったなぜ腕が伸びたのか、 その、、、ある意味意味に苦しめられている存在の象徴としての少女が、 いたるところに散らばっていて、その状態を言って仕舞えば、腕が伸びた理由を掴むと所まで持っていこうとする詩行がこれからの始まりなのかなというのと、その少女とは何かというのを多分書いているのかなと思いました。 という所で、これから多分ある出来事と、それに付随する腕のような出来事と、 それに困っている少女について書かれて行って、それが一応の解決がなされるまでの工程が、 全てのものに均一して溶け込んでいるから一個一個解決して少女を「君」と呼び、 対象化された物から、卑近な目の前存在まで引き上げ、 >一度砕けた自意識と >再構成されて混じった欠片の >たったひとつとして >あらゆるものと共に在るところの主題 >君の見る実像のシニフィエ 最期こう結論付ける作品なのかなと思います。 そういう意味でいうと、僕は作品の中の部分っていうのは、ちょっと読めなかったというのは、 内的な世界の話という事で、その話について行けるような速度みたいな部分を持っていなかったですね。 という訳で、時間かければ中身読めるかもしれないんですが、一応の感想としておいておきます。 (否応なくあらゆるものと混じり合うたったひとつの欠片としての)

2021-10-23

こんにちは。 本作を読んだ時に感じるのは、名詞の変化に伴う場面変換(ニュアンスの変化)の違和感が正に、キュビズム的な結合を感じる所ですかね。 一番わかりやすいのは、弓が刺さっている対象の変化ですよね。 「男が焼死しているロバにとどめの弓を指す⇒タラの新鮮さに不審の念⇒鹿を狙撃するのは間違っている⇒枕にささった弓を抜くと左利きの男が死んでいた」 中のタラと鹿の使い方は滅茶苦茶気持ち悪い感じがしてすごいなと思います。これは無理矢理繋げた妄想ともいえちゃうかもしれないんですが、ロバ刺さった弓が、男の枕に刺さった弓につながる中に置かれるだけで、滅茶苦茶不気味になんですよね。 この一連の動きの中から名詞を外すと多分話が通じてしまうんですけど、その連想を名詞によって惑わされている訳ですね。 焼死したロバに弓を放つ⇒弓がささった対象Aは新鮮に見えて不審⇒対象Aを狙撃したのは間違っていた⇒対象Bへ弓を放ってしまった⇒対象Bを射殺してしまった。(実は死んでいたかもしれないけど) 勿論名詞だけではなくて、色々と不気味な部分がある。 【不気味ポイント】 ・「焼死しているロバ」に「とどめの弓」  ⇒死んでいる存在にとどめはさせないが最終的な落ちでは左利きの男が死んでいる ・「枕に刺さった弓を抜くとにじむ血」=枕の裏側に左利きの男がいる  ⇒枕の色を白と幻視してしまうのは、ロバの肌とタラの肌の色、それを見間違えて打ったみたい ・「ターザン」と「敬称のいらない男」と「左ききの男」  ⇒この三人の関係性が全然見えないが、区別は出来る感じがするのが凄い  ⇒弓を使うという所から、原始的な生活?みたいな感じを連想させるターザンを置く事で弓を使う場面を出してる?   あと気持ち悪いなと自分で思ったのが、ターザンは男だってなってた。固有名詞が喚起する具体的な人物像ってえぐいなと   「敬称のいらない男」と考えると、ターザンは敬称付かないが、男と何が違うんだろう。と思うと、ターザンは弓を使わなさそうだなと。   という所で、語り手の目線がちょっと見えますね。  ⇒左利きの男っていう、これは言って仕舞えばターザンや敬称の要らない男みたいな男の特徴とは全然違うから別の存在に見える感じ。   明確な他者に見えるところ(ターザンや敬称のいらない男が左利きの男の場合もあるけど、それを示せる証拠はないの …etc みたいなぶらしているけど、でもそれがどこかで接続しているように思わずにはいられない。だか、その像がしっかり結ばれない。 色々な名詞が結合して繋がっているように見える境界をいじられるようなあり方は、なんか言葉でキュビズムやってます?みたいな感じですね。 って所と、語り手の見ている世界のいびつさっていうのが多分それを成立させている。 もしかしたら、語りてが見ている世界ってもっと単純かもしれないんですよね。 例えば「ターザン」と固有名詞で「敬称のいらない男」と敬称をいらないと判断しているのは語りてですよね。 もっというと語りての見えている世界。それが当然であると判断した結果だけが置いてある。 その過程において、これはターザンだ!とか敬称のいらない男だ!みたいな判断の結果をもたらした過程はどこにもかいてないんですよね。 判断の成果物がおいてある。 でも読むときに、ターザンはターザンだなと読み手の中で想像したターザンがでてきて、その判断が正しい物というかそこにある物として受領してしまうから、混乱がおきるのかなと思いました。 この作品に書かれている状況っていうのは、ここに書かれている名詞や判断状況からくみ取っていく必要があるのですが、 それをこの作品は拒否していると言ってもいいと思います。結果しか書いてないから。 ただ、結果を出した回路については多分エイクピアさんに聞けばわかるかもしれないんですが、それを多分開示されるのかはわからないんですけど、見せてくれるのか語りての見えている世界の光景であって。 それを当然ように見せてくるその感覚だけという所が意識的なのか無意識的なのかわかりませんが、ストイックだなと思います。 逆に言うと、その見えている世界の解説みたいなのは一度がっつりみてみたい気もしますし、聞いてみたい気もしますね。 それはこの作品をどう見ていて、どう作っているのか、みたいな話になるのかもしれないですが。 ありがとうございました。 (左利きの男)

2021-10-23

ぽえむおじさんが「きみ」に対して求めているシーンが描かれているんですけど、きみって誰なのかな。 と思うと、作中に出てきそうなきみは、「僕」なのかなというか僕しかないんだけど、そんな僕はたまたまポエムおじさんを見ただけで、そこまで関係値があるようには思えない。 >ちょっと休憩に煙草を吸いに出たのだけれど、変なオッさんの声が路地の暗やみから聴こえてきたからだ。何を言っているのかわからなかったが、バイト先の先輩によるとこのビルで投身自殺があったそうだ。 この描写を見ると、変なおっさんの声が聞こえてきて、その声が何を言っているのか分からないが、先輩から聞いた焼身自殺の話を聞いて、ジャンプの事を思い出しおっさんにジャンプを投げる。その後、 >ハンターの二乗さんは翌週、予想通りに休載していたから >ポエム好きおじさんはまだあの路地で遺書を推敲している。 という所からも、ハンター2乗を連載再開した事を知ればおじさんが死なずにすむかもしれないと思って、路地にジャンプを投げた。という事は僕はおじさんの話を聞いている訳ですね。ここら辺の関係を見た時に、おじさんは「僕」に対して「きみ」と言った訳じゃない。僕も「きみ」という名称に無理矢理指定された訳じゃなくて、なんとなく立ち聞きしている中で、「きみ」のような関係値になってしまった。みたいな所から行動しているように思います。 また、本当にこのおじさんの事を僕は知っていなかったのかというと、「遺書を推敲している」というフレーズが面白いですよね。 おじさんの叫びを遺書のようだと思っていて、ハンター2乗が休載してからまたその様子を見に行ったった結果そういう風なフレーズが僕の中に生まれたのか。 あるいは、前からおじさんがくるっていて、今にも死にそうになってしまったので、ジャンプという助け船を投げ込んだのか、そこら辺は書かれていないので分からないのですが、ただ、1つだけ言える事は、おじさんの叫びを遺書と捉えていて、またその遺書が完成しなくてやきもきしているという様子を捉えているって所ですね。 それくらいの関心が僕にはあるという事を示している。これが正に暇つぶしでポエムおじさんを見ていて、暇つぶしとしてジャンプという延命装置を投げ込んだ僕という形になるのかなと思いますが、そこで大事になってくるのは「僕」はなぜぽえむおじさんに興味を持っているのかという事ですね。 害を加えられるのは嫌なので、檻の向こうに対して餌を投げ込むように、動物園の動物を観察しているようなニュアンスも受け取れるのですが、僕は動物に興味はあんまりないので、一回見ればいいんですよね。でも複数回みているという事は、それくらいの関心はあるのかなと思います。なぜその関心が生まれたのだろうかという所が気になりますね。 ポエムおじさんと僕は一心同体で、それを分離して二つの側面から書いたとかいえなくはないんですが、それってただの推測なのでまぁこうして書きようがないという事もありますね。後は、なんでそこまでハンター2乗を求めてるんだろうかって所、それから、タイトルの一文の位置づけですよね。これの内容を書いている詩とも言える訳ですが、このセリフをおじさんが言っているのか、それともおじさんを眺めていてジャンプを与えた僕が言っているのかでもちょっと変わってくるという。視点の示し方ですね。ここら辺がおもしろいと思いました。おじさんについては、生活の困窮みたいな所の追い詰められ方もあるかもしれないけど、書くべきモチーフを毎日探して掻いては下らないと思っているのかな。 暇つぶしによる暇つぶしはだから、僕とぽえむおじさんで意味が変わるのかもしれないし、最初の一文の意味合いも変わるのかもしれない。この作品に出てくる登場人物の視点によって、タイトルと最初の一文が2通りに見える面白さがあるなと思いました。 後は、呪術海鮮とハンター2乗の語呂っていうんですかね。ちょっと笑っちゃいました。多分意味ないのかなと思うけど、そこら辺がいいよね。 ありがとうございました。 (暇つぶしによる暇つぶし)

2021-10-23

こんにちは。 思い出というタイトルからの一連目良かったです。 >一方通行の道路を車が滑っていく >車達はもう戻って来れないのだ >街路樹が並んでいるから >日陰を探して歩く >そういえば最近母に電話していない 最初の二行は語りての歩いている方向と逆なんだなと思うと、 時間の進み方を直線的に捉えるのだとしたら、車は現在から未来に、 語りては日陰を探しながら過去に歩いている。という事が過去を探しながら思い出しているみたいでなるほどなーと思いました。 思い出した切っ掛けとして具体的な母の思い出からスタートではなくて、 その前に思い出って過去の出来事だよねみたいな「定義」をしていて、その在り方も日陰っていうちょっと暗めのトーンを混ぜているのがいいなと思いました。 後は車が滑っていくというのも時間の進むスピードの感じ方は人それぞれだと思いますが、車の速度ってある程度一緒ですよね。 という所の現在の時間の進み方は一定だけど、過去をたどる時に使う時間はある意味恐ろしく長くて、でも驚く程早いよなって思わされました。 過去に会った事を考えている時間ってなんであんなに簡単に時間すぎちゃうんでしょうね。 >それでも母に電話をかけないでいる 色々な出来事をなんとなしの日常的な体験(影ともいっていいと思いますが)そこから連想される母との記憶の内容は、別に暗い物ではない。けれども電話がかけられないというブレーキがなんとも言えないですね。過去の出来事が悲惨だった、だからかけられなかったという論理ではない所でかけられない、でもかけたいと思う瞬間があるという矛盾があってそれが一番伝わってくるのが、 >嫌な事ばかりじゃなかった >それなのに何故か 嫌な事ばかりじゃなかったという事は嫌な事もあったのだと思います。 でもそれが作品の中に露出してこない。この複雑さが凄いなと思いました。 電話をかけたくない理由があれば、嫌だからかけないと決断する事ができたのだろうと思います。 でも、できないのは明確なかけない理由や、母が嫌だとは言い切れない思いがあって、それが日常の中に影を落としているし、 日常に落ちている影がそれを刺激してくる。という「ふつふつと湧く感情」をあるいみ生きているだけで刺激させられてしまう関係はなんだか大変だなと思いました。 俺も個人的にそういう風に思う事がある人がいて、楽しい思い出もあったけど、なぜか電話まで手が伸びないみたいな事があります。高校時代の友達とか仲良かったのに、なんか電話しようと思うのに、懸ける前になぜか手が止まってしまうみたいな事。向こうからしてくれる分にはいいのに。みたいな感じです。その時に思うのは、懸けた相手が自分の事をどう思っているのだろうかみたいな予測があったり、言って仕舞えば相手が自分にどういう言葉をなげかけてくるんだろう、どう相手は自分の事を思っているんだろうという事が不安になるからだと思いました。 直接会うとかではなく、電話というのもなんかキーワードが気がしてきましたが、相手からかかってくる分にはともかく、久しぶりの相手に自分から電話をするのって、なんか緊張しますよね。なんか目的があればいいのに、多分語りては電話をしたいという思いが強くて、どういう会話をしたいのかという事がここに書かれてないみたいな部分もそれに拍車をかけているのかなと思いました。(例えば、親戚の葬式にいくとかそういうのがあれば、電話をしないといけないみたいな形になるため) 以上になります。ありがとうございました。 (思い出)

2021-10-22

こんにちは。 この石って墓碑なんですよね。でもなんの墓碑かは作中に出てこないってのが面白いなと思いました。 俺にとっての墓碑って先祖の墓石なんですけど、土台の部分はコンクリートなんですけど本体は江戸時代から引き継がれてきた物で、全然傷1つないんですよね。一回空襲にあって、戦火に焼かれたらしいんですけど、それでも残って引き継いだらしい。なので、振るい墓石の文字はもうほとんど擦り切れてよめないんですけど、一見そうは見えないくらいに綺麗なんです。 って事を思うと、石を墓にすると、人間は石そのものではなく墓石を見てしまうかなと、それはそこに眠っている存在だとか、伝説だとかそういったものに目がいってしまうみたいな。語りては墓碑に選ばれた石の声を聴いている訳ですが、その目線の在り方が面白いなと思いました。なぜ墓として石を選ぶ文化になったのか。勿論、そうじゃない文化もあったと思うんですけどね。古墳とかは違うだろうし。 丘の上にあった石を墓碑としたのか、そうじゃないのかわからないんですが(多分ここに来てからとあるので、持ってこられたのかな)、墓石に選ばれる石って多分特別な石なんだろうなって思います。あんまり詳しくないけど。それは、既に何億年とこの地球上にある物質として鍛えられてきた石なんですよね。それを地層から切り出してきたのかわからないけど、人間はそういった物を墓として刻む訳だけど、その表面に刻んだ出来事って多分表面に刻んだだけだから風化されちゃうのかなと思います。その風化した後に残った石っていうのは、意味がないように思われる。でも、逆に月日が経った後だと、その存在そのものに目が行くようになって石そのものの声を聴けるようになるのかなと。そういう存在になっていくのが、(これからも)という未来を予見させてくれる。安心感ですよね。 石を墓石にするのは人間の営みですが、逆にいうと石に墓石としてこの丘の上に来てもらって、存在の声を伝えさせていただいているみたいな感じもしてきちゃうので、なんか面白いなと思いました。何億年とか、何光年とか、人間の持っている時間では感じられない気の遠くなるような時間の中を生きている石に包まれて、その存在の、、、言って仕舞えば傷を癒してくれるような存在として丘の上に立って人間を見てくれているという幻視が、最後のフレーズなのかなと思うと、ちょっと面白いなと思いました。 ありがとうございました。 (丘の上の墓碑)

2021-10-22

こんにちは。 全然最近話してないので、(話しかけてもらった事はあるけど)コーリャさんとの話し方忘れちゃったかもしれないけど許して。 この作品を読んだ時に思ったのは、この詩の語り手における「相手」っていうのかな、正確には話し相手って誰なんだろ? ってこと。この詩が語りの詩というよりは、話しの詩って感じだから、相手がいる感じがするんだけど、相手は見えない。いるとしても「君」ってなった時に、この作品の中にその蔭は見えないんですよね。読み手の僕らに向かって話しかけているのかなと思う事は出来るけど、そこら辺の話はこれが作品として閉じている以上、直接的ではなく、コメント欄でしかできないのがややこしいよね。この作品の相手になれるというよりは今俺はコーリャさんに話しかけている訳で、話しかけられるのはコーリャさんに向けて書いているからこう書いている。だからこの言葉はコーリャさんに向けて書いている話す言葉なんだけど、この作品の相手ってだれなんだろう。 みたいな所で、相手の話が作品の中になくて、相手と呼ばれる何かに向かって話しかけている言葉があるだけという作品に思われるのかなと思うけど、()の中身は誰が喋っているんだろう。これは感覚的な物だけど、語り手の中の内省的な語りかけ、語りてが語りてに大して語り掛けている言葉なのかなと思うと、相手じゃない気がする。そして。その語り掛けに対して語りては答えてないように思うんですよね。 >(ありがとうございますありがとうございます) ありがとうございます ありがとうございます ここら辺は未分化な感じというか、影響されているのかな、()の語りに。それとも出力される言葉がそれしかもたなくなってしまったのか。みたいな事も思うけど、「いやだからさ 祈るとか 感謝するとか そういうことには かろじて使える あと 遊ぶのにも適してる 人生は遊びだ ってアランワッツは言ってたよ」がそうかもしれない。 >言葉は相手のためにあるんだ 誰かに話すんだったら そうだよ もし世界が世界のためにあるんだったら 僕も世界だし君も世界だから ぜんぶ世界のためにあるんだろうか ははは そんなことは分からないから宿題にしよう (飛行機がゆっくりとレールを滑るように着陸する) 最期の部分については、着地点は見えないから宿題にしてしまったって感じで。論理が世界に飛んで行ってしまうけど、世界は相手にならないってかしてくれない。世界はあるだけで話し相手にはなってくれない。って思ったときに、この「宿題にしよう」というまとめ方を見た時に一緒に宿題をしてくれる人が本当に現れたらいいのにねって思う感じもするけどね。 この作品の中で答えてくれない君になるてっとり早いのはまあこうしてコメント欄でコーリャさんと会話する事なんだけど、でもそれって俺が話したいからってのは大きいから、俺は今話す言葉としてコーリャさんのためかもしれないけど、何よりも俺の為に使ってる所あるんだよなって話。なので、なんか今度久しぶりにちょっとはなしましょう。コーリャの兄貴。君みたいに何も答える事とか、あるいは話を聞いて理解できる存在になったりすることができないかもしれんけどね。(話された「君」が語りてに返す言葉が「語りて」のためになるのって難しいよねってマジで最近思う) ありがとうございました。 (話す言葉)

2021-10-21

こんにちは。なんか久し振りですね。 >方向性はよい。特に「俺」の主語へのこだわりは忘れないでいてほしい。 > >冗長だと気がついたら思い切り削るの心がけは忘れてはならない。 > >書き終えた最後に天空を仰げれる人であればまだ書いてゆける。 なんか三浦さんらしいコメントですね。らしいというのは、結果は教えてくれるけど過程は自分で考えな。わからないなら分からん見たいな感じ。 とはいえ、端的に書いてくださるのは考えるのが楽しいのでそれはそれで楽しいですね。 「俺」ってなんとなく使っちゃったんですよね。いつも僕なのに。ってのは思うので、頭でっかちにしなきゃ!って感じじゃないんですが、覚えておきます。 >冗長だと気がついたら思い切り削るの心がけは忘れてはならない。 これは殆ど一発で書いちゃったんですが、最初はもっと長くしなきゃとかあわあわ思いつつ投げてみたんですけど、これぐらいがちょうどいいよって感じですかね? 多分検討加える時に余計な説明は入れて事故るなよって言われた感じがします。 >書き終えた最後に天空を仰げれる人であればまだ書いてゆける。 天空ですか! 藤さんの指摘にも合うのかもしれんですね。ある意味火のオードになってはないですからね。 落ちの部分は多分これから考えていくので、なんかそういうもんになったらここに投げるかもしれません。 示唆に富むコメントありがとうございました。 (火)

2021-10-21

こんにちは。 なんかbreviewでお話するのは久しぶりですね。 >火、てすごく古くからあるモチーフですよね。しかし、古びないというか書き手をいつの時代も刺激するようです。日常のひとコマのなかで、揺れ動く語り手の内面がよく書かれていて飽きないです。怒りの比喩としての火やライターの火、温度による色の変化などを練り込み多彩な模様にされていると感じました。 火っていうのは、いつでも同じ火なんですよね。原始時代の松明の火と、キャンプで付けた焚火の火はどちらも同じ火という意味合いで。でもその火の見え方やもらたす影響というのは人間の文化や文明によって左右される。湯煙さんはそれを火のアナキズムみたいなキーワードで捉えてくださったと思うんですが、正にそうだろうと。なので、僕にとっての火とは何かと思ったら煙草に付ける火だなと思いこの作品を描いたら、思った以上に色々な火が出てきて自分でもちょっと困ってますね。。。なんか本当に自分が生きている世界の事を全然見てなかったんだなぁと。 >灰の移動も視点や対象が変わることでアクセント以上の効果もありますね。火の違う側面を考えたくなる作品でした。 灰についてはやっぱりちょっと課題だなと思いつつ、まだまだ可能性としては引き出せる検討の余地がある感じがしています。灰も言って仕舞えば同じ灰なのに、全然存在の在り方が変わって見えたりする。そこら辺の要素が最後全然拾えなかった一方で、可能性を得る事はできたなと思いました。 この作品は谷川俊太郎の「火」をベースに書いたのですが、あれ読んでから皆さんの火をどう思うのかマジで読みたくでしょうがないですね。ほばさんの火は、どんなんだろうと思うので、もしなんかになったら読みたいので読ませてください。 コメントありがとうございました。 (火)

2021-10-21

こんにちは。 こちらではお久しぶりですね。 >僕は火というとオリュンポスの山からたしかトウシングサを盗んで人間に火をもたらしたプロメテウスを思い出します。これによって人間は火を使うようになり文明を生みだすことになって喜びますが、プロメテウスは罪を犯したために山に磔にされ鷲やらに突かれる罰を受けます。神々がもつもの、この場合、トウシングサは権力の象徴であり、プロメテウスはそれを悪いと知りつつこっそり掠めとったわけです。 >だから、怒りを恐れたり、祈ったり、逆に罪悪感から罰を望んだりする。 ああ、なんかこの逸話を読んで思ってこの作品に足りない部分がちょっと見えました。 煙草の火って最初煙草を吸い始めた数年前から前かもしれないんですが、火に対する憧れがあったなと。そこを書いておけばよかったな。 火を手に持った時のうれしさとか喜び、それはライターを手に入れて、トウシングサ(煙草)に火を付けて吸った時の気持ちなんだろうな。 そういう意味だと、火って手に入れた瞬間は凄く魅力的になるのに、それを持ち続ける事が弊害を生んでいくのだなと思いますね。 権力をかすめ取った結果の罰もそうなんですが、つまり革命を起こした瞬間の英雄が気持ちいいんだろうけど、例えばそのあと英雄が火を付けた時の状態は続かない、その末路が良かったって話ってあんまりない気がするんですよね。文明は火を手に入れたけど、火を手に入れた存在はその場に存在できない。 火を付ける瞬間と火をおこし続けて持ち続ける事という意味だと、俺は今後者にいて、火を習慣としてもってしまっているが、その持っている状態によって、周りの人間に被害を及ぼしてしまったということを多分これは書いているんですが、その感じとちょっとダブりました。 >子どもが「こっそり火遊び」して、知らなかったことを知り、大人に近づく過程にも似ていますが、それはまあ置くとして、抜粋した作中の詩文には先述したプロメテウスの話を思い起こさせました。「火」による変化・変容は死や滅亡も連想させるので、そればかりではないけれど。 火遊びができるのは、火がもたらす変化の結果を知らないからともいえますよね。俺の場合は初めてライターで火を付けた時で、でもそれが当たり前になってしまうと、煙草は特別ではなくやめられない習慣になり、特別な火は同じ火の形をしながら、その火によってもたらされる変化が与える影響におそれてしまうというような感じ。 >だから、怒りを恐れたり、祈ったり、逆に罪悪感から罰を望んだりする。 俺なりに翻訳すると、最初はライターでたばこを付けるという火遊びが特別だった。しかし、その行為が習慣化するにつれて、煙草がもらたす怒り、恐れ(健康被害、臭い、灰、俺の場合は両親が煙草嫌いなので絶縁されるかもという恐怖)、祈ったり(そういう状況を許してください)、罪悪感(なんで俺は火を手にしただけでそんな怒りや恐怖を予見したり、祈ったりするんだろう。俺は悪くない。全て火が悪いんだ、いや火を手にした俺が悪いのか)に塗れてしまう。みたいな感じですね。 >とあるように★の後半では火の温度が低く、灰だからありはありなんだけどシュンと萎んだ印象で、「火」という言葉のもつ強さに対しては全体として>アンバランスに終わっている感じがしました。 最期のラストは検討の余地があるのかなと思います。その点で灰についての考察が多分足りていなくて、あるいは火そのものにもっとフォーカスを当てた方がよかったかもなと思いました。灰は変化の副産物であって、火そのものではないので、多分モチーフとして近いけど別なんですよね。最後トーンダウンした、正に弱い火を描いたら別だったのかもしれないんですが、これはある意味習作として書いた部分があって、そういう意味だとちょっと脇道にそれてしまったのだろうと思います。 もう少し検討を加えてみようと思います。 丁寧なコメントありがとうございました。 (火)

2021-10-21

こんにちは、こちらでは初めましてですね。何気に。 >(ふふふ)火をつけてあげますね。あなたの作品に。とても素敵な作品だから灰が風に飛んでいくのを見届けさせて下さい。 投票してくれたって感じなのかな? とりあえずありがとうございます。 灰が風に飛んでいくっていうのはその通りなんですよね~。最後の部分でちょっと書いてから後悔してるのは風を入れなかった事だったりしますね。 火は変化をもたらすのですが、風はその変化を更に変化させるよねみたいな部分が多分隠れていたなと。火だねを大きくなるためには、風が必要でそれが熱風を産むのかもしれないなとか。 なんか示唆的なコメントをもらっちゃいましたね。ありがとうございました。 (火)

2021-10-21

こんにちは。 お久しぶりですかね。 >タバコの火が灰を作る神秘を思いました。生じる煙の揺らめきをも。冷静な幽霊に願い、タバコとの同化を願うのか、現実と妄想のあわいにさく花。同じ火が。太陽が笑っているように思えるのは妄想なのかもしれません。 「現実と妄想のあわいにさく花。」といただけてなるほどなとなりました…。エイクピアさんなので、俳句で最近「鶏頭」のお題で初めて俳句を描いたんですけど、最初の5文字を記憶の火って書いたんですよね。火の着想は別の方のイメージをもらってきたんですけど、見立てっていうんですかね? 鶏頭を火の花ととらえたのは、正に現実と妄想のあわいに咲いていたからだと思ったります。そういう形で、火っていうのは火から連なる事物を喚起させる効果があるなと思います。太陽がわらっているように思ってしまうのは、正に人間の目線っていうんですかね、そういった物だと思うんですけど、その思い込みが呪力や神秘性を持って力に変わるのかなと思いました。そういう意味で、これが僕なりの火へのオードになっていたらいいんですけど、まだ意識的にそこまで書ける境地まで淡いの部分がかけてないかもなと思いました。 ありがとうございました。 (火)

2021-10-21

コメントありがとうございます。 お久しぶりですかね。 >✭星のマークから単純に“セブンスター”だったと思えますし、同じ黒い星の下に集う喫煙者同士の意識のつながりや五芒星などの魔除けにも見えますが。しかしこの状況はビビりますね…青い火は中心の高温部をイメージしますが。 ああ、なんか★にしてよかったなと思いました。★マークってこの作品の繋ぎとしていいなと思ったんですよね。最近は*を使うんですが、そっちの方が灰っぽいかもしれないと今では思うのですが、でも★にしてよかった。セブンスターは今は吸ってないんですが、生まれて初めて買った煙草の銘柄です。それしか知らなかったというのはあるんですけど、僕にとっての煙草の象徴だなと思います。★というのが、その形以上の要素を作品に与えてくれたのだなと思うと、湯煙さんに読んでもらって本当に良かったです。ありがとうございます。気づく事ができました。俺がなぜ★を描いたのか。 >火のアナキズムと意識の揺れと煙の化身の獣など。狭い部分での日常のちょっとした出来事ですが、私も愛煙家でもあり興味深く読みました。公共のスペースよりは路地のすき間などを探して怪しげにくゆらせたい派ではありますが。 火は変化させる媒体であって火は同じだが、その名づけられ方は異なると最近知りました。「火のアナキズム」という一言はすさまじいですね。火を使う事はあれど、火を意識することはない、ましてや火がアナーキーな存在であることなど。その存在にある意味思想や比喩を託してしまう人間の営みに目が向く事はあれど、そこで目が向くのは名付けられた火ですよね。僕は喫煙所で吸うのが一番安心するかもなと思いました。なんか家の中もそうですけど、煙草を吸っていい場所って本当にどこにもない感じするんですよね… >日常で火を扱うことについては以前から思うところはありますね。喫煙意外で扱うことがまず皆無ですし。崇め奉るといった詞も気になりましたが、自身から発せられるような機会もまずないものですね。 火を扱う機会って意味だと本当にないですよね。谷川俊太郎の火って作品がこの作品のベースになっているんですが、「火をおくれ」ってフレーズが結構使われている。で、そのフレーズを感じる時って煙草しかないよね。って僕は思っちゃったんでこれをかいてみたんですよね。 という感じで全体的になんかあーなんか湯煙さんと火についての話ができたみたいで楽しかったです。 素敵なレスありがとうございました。 (火)

2021-10-21

コメントありがとうございます。 久し振りですね。 >あっなんか渋いですねこれは 渋いってコメント読んで、鈴屋さんの名前を思い出しちゃいましたね。それで、なんとなく検索したら煙草が一杯にモチーフに出てきちゃってね。なんか、冬の散歩って作品だったんですけど、なんか高校生の時は全く読めなかったし良さっていうか、何が書いてあるかわからなかったんですよね。それがなんかすごく身に沁みちゃってね、みたいな感じですね。何言ってんだろって感じですが、コーリャニキじゃないとわからんかもなって思ったのもあるし、コーリャニキに読んでもらえてマジで良かったです。ありがとう。鈴屋さんがなんかちょっとだけよめるようになったよ。 >灰が飛んで最初は男について 最後に女につく なんだか優しいね 人間みんな繫がってる そんな読後感でした 人の優しさって許してくれることなのかな。許してくれるように崇め奉る事なのかな。わからんけど、意図なく繋がっちゃいますよね。その恐れと、それがもたらすものみたいな関係の在り方みたいな部分で最後に女につけちゃったのかもなと思っています。最後のラストは書いた後、ちょっと迷ってたんですけど、書いてよかったかもしれないですね。 ありがとうございました。 (火)

2021-10-21

本作を読んで思った事ですが、まず一番最初の文章のキュリ先輩に対する好意(と言っていいと思うんですが)の描き方ですね。 >駅を降り、水溜りを避けて急ぐ。必ずいるのはわかっているけれど、誰も来ないと落胆して帰られては困るんだ。日曜以外は毎日いるから毎日会いたい。 >鍛高譚かズブロッカを紙コップでちびちびやりながらタバコをふかす、三つ編みの丸顔のキュリ先輩に。 キュリ先輩というのが本作以前まで語り手にとってどういう存在だったのかというのは、おそらくこの2行の中に詰まっているように思います。 「水たまりを避けて急ぐという」という行動が示す意思というのは、キュリ先輩に出会う前の障害として水たまりが出てくるんですが、そういった悪路の中で転ぶリスクや急いだ結果足元が濡れてしまう事なんかより早く会いたいという気持ちを感じます。そのあとで、なぜ急ぐのかという理由を書いている訳ですが、その理由が二つあるのが面白いです。キュリ先輩側の理由と、語り手がキュリ先輩に会いたいという理由が並んでいて、無駄がないなと。 キュリ先輩は語りてを求めている訳ではなく、誰かと会いたいからいる訳で、その気持ちが傷つくのが嫌だからいく。 キュリ先輩がいる日は絶対にその場所に生きたいという語りての意志。 という二面性の描き方ですよね。キュリ先輩が求めている誰かになりたい。 言って仕舞えば、毎日語りてがその場に行くことで、キュリ先輩の中にとっての誰かが自分になってほしいみたいな感じがすごくします。 >鍛高譚かズブロッカを紙コップでちびちびやりながらタバコをふかす、三つ編みの丸顔のキュリ先輩に。 この一文というのは、語りてから見た時の好きなキュリ先輩の姿を示していて、語りてはこのキュリ先輩の姿に会いたくてほぼ毎日通っている。(あるいはそれくらいに通いたい)みたいな物が端的に描かれていると思います。具体的な酒の銘柄を差し込んでいるのも見事で、キュリ先輩のビジュアルが具体的に浮かび上がってきて、すごいなと思いました。 だからこそ、部室に入った後に語りてがその部屋から逃げ出す行為に説得力が生まれる。自分が想定していたキュリ先輩ではないという所の恐怖感というのは、自分が求めていたキュリ先輩ではないキュリ先輩がいる事が、ほぼ毎日会いたいくらいに思っている語り手が逃げ出すという、言って仕舞えば強烈な体験が語りての視界に飛び込んできたのだと思わされる。そう思わされてしまったのが、最初の文章の力だと思います。 > 部室のドアを開ける。雨に濡れて濃いグレーになった学館はどこもかしこもカビ臭い。先輩は、いつものようにそこにいて。いつも通りでないのはタバコもお酒ものんでいないこと。代わりに長机の上に丸いものが二つ。おはじきをふっくらさせたようなそれは青信号みたいなあおいろで透明で、朱色の線がくっきりと二本入っている。 前段の伏線として張られていた描写が次々に裏切られる。語りてが部屋に入ってきて迎えてくれるはずのキュリ先輩が見た目や、いつもの振る舞いをしてくれない、けれど、それがキュリ先輩であるとは分かってしまうという事が示すくらいに、状況的にこの時間にこの部屋に指定の席に座っている存在ははキュリ先輩しかないと多分語りては思っている。それがジョジョに剝がれていく様が描かれているのやばいですね。条件的にこの場にいるのはキュリ先輩しかないのに、そこにいるのは語りての知っているキュリ先輩ではないという、境界を揺さぶられるような描写。 > ワッと外が賑やかになって隣の演劇研究会に人が来た。驚いてドアのほうを向くと、視界の端で、何かが巨大なナメクジみたいに蠢いた。 この演劇研究会の喧噪とナメクジがトリガーになってある意味硬直していた語りての身体が動き始める描写はすさまじいですね… >「そうだ! 貸してた上着を返してもらうんだった」 語り手の中で、まずは部屋の中にいる存在がキュリ先輩であるかという判断を下す前に、理由を瞬時に捏造して一旦今の言って仕舞えばショック状態から回避する行動はすごいなと思うんですが、いやーこれは言語化できないんですけど、凄いですね。ここは凄いしかいえない。 > 取り繕って部屋を出る。振り返ってはいけない、そう思う。廊下には人がひしめき合っていて、分け入って進むうちに何十枚もの衣装を着せられる。 >「ミーコぉ、来てるのぉ」 > キュリ先輩が呼んでいる。いつも通りなのにいつもとは違う声。逃げ出したくても着膨れて身動きがとれない。脱ぎ散らかして山になる。とにかく一階へ。外へ。  廊下の端のエレベーターホールに駆け込んで、閉じかけた扉にすべり込む。〈閉〉ボタンを連打する。早く、早く、早く。すっと音が止む。 振り返ってはいけないからの。普段通りに声を呼ばれるという恐怖感ってなんかまがい物のキュリ先輩に呼ばれている感じがして凄いですね。。。 自分が今まで見知っていた存在の、別の側面を知った後に、見知っていた時と同じ行動をされた時の認識の変化って怖いよなと思わされましたね。 例えば、親友に好きだよと言われた後に、その親友に裏切られた後、同じ声色表情で好きだよと言われた人にとって、その言葉のニュアンスって凄く反転すると思うんですよね。そういう感じに近いんですが、それを他の言葉に置き換えられないので、中々困った感じです。えぐり方というかシーンの描き方が怖すぎる。 「いつも通りなのにいつもとは違う声。」この認識の変化が語りてに与えた恐怖って凄いよなって感じですね。 後は、逃げる時の必死さが最初の急いで会いたい時の急ぎ方と全然違いますね。 水たまりを避ける余裕がないくらいに、演劇部の衣装なのかな?それをつっきってまでエレベーターに逃げ込むというのは、急ぎ方の質が全然違いますね。 この動きの反転ぐあいというのが、語りての必死に逃げてる感じを受けて滅茶苦茶怖いです。 >「あ、しまった……」 > 先客が、私の背中に何かをなすりつけた。べたり。どろり。 > エレベーターはいつまで経ってもどこへも着かない。痺れた頭の片隅で、あの丸いものがなんの生き物だったかを理解する。 > ねえ、今ちょっとだけ安心した? この、先客の存在っていうのがまた怖くて、追いかけてきたキュリ先輩がおいついたのではないという事は、 あらかじめいたという訳で、でもあらかじめいた存在については何も書かれていません。ただ、先にエレベーターに載っていた存在が、べたりとドロリと背中になすりつけただけです。 で、背中ってのがマジで怖くて、エレベーターに乗り込んで、閉めるボタンを押すってことは、おそらくなんですけど、人が結構ギリギリまで載ってなかったんじゃなかなあって感じもするんですよね。これは俺がエレベーターに載る時に、大体先に載ってる人って開閉ボタンの前にいて、エレベーターガールみたいな役割をすると思うんですよね。そいうじゃないとしたらエレベーターの隅っこにいたのかもしれないんだけど、それって乗る時に目が付いていて、その描写が差し込まれる気もするんですよね。でもしてないっていうのは語りてが逃げる事に必死で見えてなかったのかもしれない。それくらいに目に存在が入らないくらいに、存在が薄かったのかもしれません。 ただ、その存在が閉めるボタンを押している背中に先客として居座って、違和感を押し付けてくる。 という事の恐怖って怖いなと思いましたね…自分はとりあえず逃げ切れる、逃げ切る為の最後の工程をこなしている最中に、 エレベーターの中というか、この学館が既にキュリ先輩にまとわりついている違和感に侵略されている事を理解してしまう。 してしまったのが「あ、しまった」という理解ですよね。必死さがここで抜け落ちてしまう。みたいな感じ。 そういう意味で、この作品のラストの安心したっていうのは、生き物を理解したという事にかかっている訳だけれども、理解したからちょっとだけ安心したにつながるそのラストは、えげつないなと思います。ここは解釈が難しいんですが、分かると安心するっていうのは確かになって思うんですが、そこが言語化できない。次に、この理解というのは、もう逃げられないという事に対する理解でもあるのかなと。エレベーターがいつまでも付かない事を見ている読み手の僕はこの作品世界のその後が怖くみえて、どうなってしまうんだという不安が残るのですが、語り手にとってはもう逃げられない世界なのだから、ある意味諦めてしまったという意味での安心のようにも思われる。その安心を理解したと語りかける存在は、この作品には書かれていないというか名言されていません。 語りてなのか、それとも、キュリ先輩なのか、先客なのか、生き物なのか、ただ、その「安心」という言葉だけが置き去りにされるラストを僕はこう読みました見たいな感じでコメントは示させていただきます。 蛙というお題を代入するとちょっと安心するのかな? とはいいつつ、んんん、そこら辺のモチーフが示す意味は分からんのですが、ただそれを敢えて抜かれた所というのは 「あの丸いものがなんの生き物だったかを理解する。」にかけて読むと、「あ、蛙だったのか」と読める気もするけど、 なんか違い感じもしますね。おかれている置物を蛙として読むと、その場の状況の具体性が引きあがって、恐怖感が薄らいでいく。 よく分からない物から蛙に変わるだけでこの作品って全然見え方がちょっと安心するのかも。と思いつつ、なんか違う感じもしますね。 ここら辺の読みは他の方にも聞いてみたいです。 以上、ありがとうございました。 (【百物語】あおくてきれいな二本の線の)

2021-10-20

ゴミって色々あると思うんですけど、人の形をしたゴミに限らず、 確か豚骨とかもそうだったと思うんですけど、骨とか生き物の死骸って普通のゴミで出せないよなと思いました。あれって、ごみ収集に来る人とかその捨てられた後の処理に関わる人の心を潰してしまうのかなと読んでて思いました。 人はゴミになりうると思うんですけど、死者の埋葬って社会的に色々な工程を踏むと思っていてだからこそ、面倒な事になるのが嫌なので、そういう意味でゴミの意味合いが多分ちょっと重たく感じられてしまうのだなと思います。だからこそ逆にゴミとして人が扱われた時に、普段ゴミとして扱っている物事の怨念みたいな物が人の形として迫ってくる正に「人事」になってしまうみたいな瞬間を描いているなと思っちゃいました。 黒いゴミ袋が廃止されたのって中身が見えないからだったよな~と思っていて、見える中身にみられたくない物という意味でのゴミは入れられないですよね。だから、コンクリに詰めたり下水道に流したりするみたいな発想があると思うんですが…なので、ここでは、見えないゴミ袋を使う事で語りてが捨てている物を語りてが判別しにくい状況に追い込んでいると思います。 だからこそ、その中身を知ってしまったときに、自分が人をゴミとして捨ててしまっている事がトリガーとなって、ゴミとなった存在の思念みたいな事を考えてしまう。想像が現実化する予兆とも言えると思いますが、更にそれらが現実を歪めていく様を描いて行く。一番怖かったのは黒いゴミ袋の子宮ですよね…マジで怖いと思います。正に怨念がゴミの中から生まれ出てくるみたいな使われ方をしていて、象徴的だなと。 実際に起きた訳はなさそうという最後のオチもそういう意味で怖いなと思いました。ゴミという様々な物が、1つの名詞に包まれていらない物として覆われてしまう事の意味や、覆われてしまった側が訴えかけてくる存在の空気を怨念という形で、現実に幻視させようとした作品のあり方に対し、単純に凄いな~という事と、ちょっとだけ物大事にしようかなと思わされましたね。 以上になります。ありがとうございました。 (【百物語】 フィラデルフィアの夜に XXⅥ)

2021-10-20

一読して面白い作一読してかなり込み入っている作品だと思いました。 まず、バグの発生源が書いてないんですね。それから、バグの発生している場所って、 言って仕舞えば、これがゲームの中だとしたら、その中で生きている存在っていうのは、 実際に生きている存在ではなく、繰り返し自分の求められたプログラム通りの行動をする存在だと思うんです。 でも、この作品に出てくる主人公は決められた行動は少なくとも起こしていないように思います。 (決められた人生の幸福みたいな部分をゲームに込めている部分が示唆的) ニュースキャスターの下りも、必死に自分の職務を全うしているという描写や、 不慣れな男が出てきて、涙声でニュースを伝えているという描写も、 単純に世界が制作者の手によって作られた世界で、その人達の手によって壊された訳ではないように 思われます。 そう思ったとき、この世界に起きているバグというのは世界の中にある理以外の 何か埒外な出来事、それは言って仕舞えば天災のような位置づけに思われます。 そういったおそらく突如訪れた世界の終末の中で主人公が起こした行動というのが、 ゲームを作る行為だった。その内容が言って仕舞えばRPGのような順番の組まれた道筋をクリアしている主人公の生を反転させた幸福であるというのが面白いです。それが言って仕舞えば強迫観念的な、使命感を帯びた行動につながっている。 >RPGが始まる。 >誰かが経験する訳でもない世界。 >僕は、バグる。 >経験していない幸せを、ここに残して。 バグが発生するような主人公にとっての現実世界はゲーム的だと思います。 何かの象徴かもしれないですが、ここでは自然災害のような事は一旦端に置きます。 そんな主人公が、自分が経験していない幸せをゲームの中に残るという構造。 その切実さを理解するための素材としては、 やはりゲーム的な現実が、現実を浸食して壊してしまうという所だと思います。 しかもその浸食具合が制作者を上回ってしまう程の浸食度。 ゲーム的な現実というのは難しいのですが、 主人公は作品の中の現実において、多分幸せではなかっただろうと思われるんですね。 >ここから作る、僕の人生。 > 幸せに生まれて(そんな事なかったけど)、ザコのいじめっ子やボスのガキ大将と戦闘(何もできなかった)、勉強を頑張ってレベルアップ(それもできなかった)、そうだ高校受験をボス戦闘にしよう。大学受験ももちろん、面接官と連戦させるのも悪くない。 >(何も上手くいかなかった) 自分の人生の反駁を、後悔をゲームの中に刻み込んでいく。 それは、ゲームの中に描いたストーリーをクリアしていけば、言って仕舞えば、主人公は今幸せにバグとして処理されただろう。このゲームを作らずに済んだだろうという事ですね。もしかしたら、アナウンサーみたいに、自分の生ではなく、誰かの為に最後まで職責を最後まで全うするような行動がとれたかもしれないという事です。 (更に言って仕舞えばそのストーリーはおそらくですがバグとして処理されるまでの過去に対して  と言えます。よくよく見ると、就活が終わるまでしか書かれておらず、死に方までは書いてないのがミソです) ゲームをプレイヤーとして楽しんでいた時が一番楽しかった。 幸せだったのかもしれないとここまで思いました。 現実に絶望しゲームの中にしか感じられないリアルや、あるいはメタフィクション的にゲームからプレイヤーへメタ的に語られる演出や、他にも色々な要素があるのですが、それらをゲーム的リアリズムと東浩紀が言っていましたが、僕が感じたこの作品のゲーム的リアリズムはここになります。 ゲームを過去にしていた、ゲームを作ってその中に自分がしたい体験を込めていたという過去の記憶が主人公にとっての過去における幸せな行為だったから、ワールド・ツクールは残っていたのだと思います。その中に、自分が体験できなかったリアルをゲームの中に残すというよりは託すというのは、非常に切実な行為だと思います。 自分が、言って仕舞えばゲームをするという行為にのみ、生の実感を感じていた。 その感じていた全てに自分が想像しうる最高の現実を入れ込んだゲームを残すという行為は、ゲームの中でしか感じられなかった幸せをゲームそのものに送る行為であると同時に、しかし、ゲームはプレイヤーがいなければなれない訳で、このゲームの唯一のプレイヤーはバグとして世界から消失してしまう。だから、このゲームをプレイする人はいるかもしれないですが、それを楽しむ事はできないと思います。この作品を読んだ事によってそれは可能になるかもしれないですが、しかしそれを知った人がこのゲームをする可能性は低いからです。(逆にいうと、だからこの作品はホラーになるわけですね。言って仕舞えば呪いのゲームが作られる工程を書いてるから) 自分が絶対に経験できないゲームに、自分が体験できなかった/したかった過去を保存する。 という再現する事のできるゲームに、再現される事のない意図をぶち込むという執念を僕は言語化できないですね。 自分が果たすことのできなかった現実を、ゲームの中で現実化する事によって、言って仕舞えば主人公はみたされたのかもしれない。過去を幸せな物として書き換えたのかもしれない。自分が一番リアルとして感じていたゲームの中に自分を落とし込み、その中に現実を落とし込んだというよりは改変した。という意味で、落ちとしては成仏している気もします。ただ、そこまでさせたという強い動機ですね。ここに僕は震えました。 後はこの世界を浸食するバグという意味で、この作品における現実ってなんだろね?みたいな所はあんまり考え固まってないのですが、ただ、ここまで入り組んだ構造で、メタ的であり、メタ的な世界を更にメタ的に覆っていて、メタ的な世界とメタ的な世界に生きる存在の最後の日を描き切っているみたいなのは凄いなと思いますね。ぼくだったら間違いなく気がくるってしまう。 ここら辺の着想に至った背景はものすごく聞いてみたいなと思いました。 (コメントの中でちょっと触れられているとは思いますが) 以上になります。ありがとうございました。 品だと思いました。 (【百物語】 ワールド・ツクール)

2021-10-20

こんばんは。今回は企画に参加くださり、ありがとうございました。諸々遅れましたが、コメントを寄せて書かせていただきます。 この作品の面白い所は、まず幽体離脱のシーンを一人の人間の視点だけではなく、おばあちゃんの視点からも描いている事です。言ってしまえば、語りて一人が幽体離脱して戻ったという体験談だけだとしたら、それは、そういう事もあるよねと真実味がない訳です。夢の中であった出来事として、自信はないけれども、他の人がその話を聞いてそう思ったのであれば、自分の体験は夢物語だったのだろうと思う事ができる。 しかし、この作品はおばあちゃんも一緒に同じタイミングで幽体離脱している事、語りてよりも、おばあちゃんの方がその状態を感じて死を感じていて、その体験をリアルに感じているように描かれています。そこがとても面白いんですね。 出来事の評価をするときに個々人のなかで下した判断というのはそれが絶対的な評価に繋がるのかというのは、より強い確信や論理的に説明出来る事であればできるとおもうんですけど、不思議な体験が本当に不思議だった。それが夢ではなかったって思う為には他者の評価がないとわからないですよね。その出来事を証明してくれる存在が。逆に言うと、他の人がいる事によってこのエピソードは語りての中に色濃く残ってしまって、その意味を考えざるをえなくなってしまった。ちょっとあった怖い話で片づける事ができなくなってしまっているんですね。そこが後半部分の分析に繋がっている所が非常に面白いと思いました。  また後半の分析の部分もとても面白いです。  >きっと、だれしも、ここに居る一体の自分と、それを客観視できる自分がいるのだ。人は一人なんかじゃあない。こんな体験を聞かされた人の中には、【霊】は居るといういう話を聞かされたと考える人もいるかもしれない。それは、賛成しない。  >私以外の人が、うっかり自分が二つに分かれてしまったとき、その人は「もう死んでしまったのか」と 慌てるに違いないからだ。それは、心臓に悪い。  >自分とは、ふたつに分かれて 鏡を使わずに自分を見ることが たまに、ある。そういうものだ。と、理解しておこう。  引用箇所が示す通り、この体験から幽体離脱をしてしまった自分を霊と感じてしまったおばあちゃんの感想に対してつっこみを入れると同時にその感想に対して安易に霊という既存の概念で片づけてしまう事に対して警鐘を鳴らしています。幽体離脱した事で安易に死的な概念と結びつけて考えてしまうとびっくりして、心臓に悪いーーつまり本当に死んでしまうかもしれないからです。ここら辺倒錯的に映ってしまいそうですが、そうではないというのがいいですね。  この作品は自分自信のあり方を精神と肉体の二元論的に簡単に片づけない事、単純にわかれただけであって、それは鏡を見る時の感想に近い感覚だから安心してほしいといっていますね。    鏡の向こう側の世界にとり残されたという学校の怪談が会った事を思い出します。それは怪談の踊り場においてある鏡の向こう側に自分が残されてしまうが、残った本体の方は何事もなく、生きていて、自分が鏡から遠ざかって行って、自分は鏡の中に取り込されたままになってしまうというお話だったと思います。  鏡を見る事によって自分は自分を見る事ができますが、それに対して恐怖を感じる事があるかもしれないんですが、その感覚を誇張したのが、幽体離脱から見えてくる私の感覚だったのではないか、という考察は面白いですね。先ほど提示した学校の怪談は、このはなしと合致する感覚があって面白いなと思うんですが、自分から離れた自分が、遠ざかって行ってしまう感覚を死と誤解してしまいガチだけれども、実はそうではないんだよという所で、幽体離脱の新しい見方があるなと思いました。  でもその感覚について明確な答えが出ていない所に正に恐怖があるなとおも思います。それは死の感覚ではない、じゃぁどういう感覚なんだろうというのは想像するしかないです。ないのですが、そうなってしまったらこうして作品を投稿される事はなかった訳です。切り離した本体は切り離した事を多分忘れてしまう。それはどこかで喪失感を伴って再起される事はあるかもしれないですが、糸の切れた凧が遠く海に落ちてもそれを拾いに行く人間は凧のことが死ぬほど大事ではない限り多分拾いに行きません。  一度手放した風船が遠くの空にいってしまって、そのもう戻ってこない喪失感に涙できるのは、それが目の前で失われていくからです。幽体離脱して残った本体は抜けていった本体を知覚することが出来ない限り、その喪失には気が付きません。  凧は斬り離れたら何を離した方に思うのか。それは離されないと分からない訳ですが、離された方の声は離れてしまった以上届く事ないという矛盾を抱えているので、多分語りてはその恐怖をこれからある意味死ぬまで抱えていくのだろうなと思います。よかったです。 (【百物語】視る)

2021-09-23

コメントありがとうございます。 >百均作品は全体的に生活のやるせなさみたいな雰囲気が漂っているなと思っていて、 >それが詩情を生んで、センチメンタルな気持ちを持ちつつそれでも頑張っていきましょう、 >みたいなそういう感情的なところをベースにしつつ、 >そのうえ言葉の手触りも楽しみながら文章を綴っていて >言葉遊びという側面からも楽しめる作品が多かったように感じています。 最近ずっとこだわっていたのは、書いてある内容というよりは語り口の部分なのか、語り方かもしれないですけど。そこに付随するリズムや文体みたいな所にこだわっていて、それが言って仕舞えば敢えて見せていた訳ですね。内容ではなく音の触感を出したり感じてもらえることの方が大事だと思っていました。それは勿論その通りなんで、この作品の叙述はちょっと甘いなと思う部分あるのですけど、フラットに書いてみたという背景が出ていると思います。そういう時に、多分僕は文体として、この作品にあるような語り口を採用したのだと思いますね。 一回ゴリゴリに身につけた装備を切り離して、ゼロからもう一回書いてみる事というのは、意識的に出来るかというと難しい部分があるなと思っているのですが、これは珍しくさらっとかけたので投げてみちゃいました。これがいかがだったかというのは、難しい所はあるんですけど。 >また作品の構造も最初の部分は台詞にしたり、アンナの一人語りが入っていたり、 >視点が連によって変わっているところも面白いと思います。 >人間とロボットの立場が逆転してしまう話はよくあるテーマだとは思いますが、 >それでもその話をこういう形でひとつの作品にまとめるということは >現代詩というカテゴリでは素晴らしいことなんじゃないかと思うんです。 >(そこが現代詩の悲しい部分でもあるとは思いますが…) 多分SF的な作品って意味だと、ドラえもんでもいいんですが、多分よくある話で、これはSFっていう文脈から見た時に褒められた話ではないんですよね。論理的な誤謬も多分はらんでいて、これはそれっぽく組み立てただけなので。その点、よんじゅうさんにはそこら辺のうさん臭さが見破られたのかなと思います。というときに、これは昨日なかたつさんと話してて気が付いた部分なんですけど、ロボットにインタビューする事で、ロボットを語り手にしているところに興味関心があったのかなと今では思います。そういう意味で、小説仕立てにする事も可能だったと思うんですが、この場に出してよかったのかなと今では思います。言って仕舞えば物語の質としては、だめだとおもうんですが、アンナが物語りをしている様子を描くという点においては、自然になっていたというか、アンナがパワフルぽっぽさんの中に浮かび上がったのかなという点ですね。そこって俺の中でが一個大きな変化だと思います。登場人物として、語りてとしてちゃんと機能してくれた。 そういう意味でこれが詩であるかそうじゃないかという所ではあんまり結論でてないんですけど、とりあえずちょっとだけなんか掴めたのかなと思いました。 コメントありがとうございました。 (選択気質)

2021-09-19

コメントありがとうございます。 たしかに理屈っぽいよなぁと思いました。 (選択気質)

2021-09-18

蛭子子さん 百均です。企画に関する事でちょっとだけ相談がございます。 (作品以外のレスになり、申し訳ございません。今感想を書いているので書きあがり次第再レスします。) 蛭子子さんのHNの読み方を教えていただいてもよろしいでしょうか? 実は、蛭子子さんの作品を企画の中で朗読させていただきたいと考えており、 その際蛭子子さんのHNも読み上げさせていただきたいと考えております。 よろしければ、ご教示くださるとありがたいです。 (【百物語】呪具)

2021-08-09

こんにちは。 笹の葉の擦れる音は確かに硬質だなと気づかされました。 葉の揺れるイメージってそよ風に揺れる柔らかいイメージしかなかったので、 個人的な発見がありました。 また、七夕の文化を遊び捉えている所もとても面白いですね。 願い事を書いて吊るす個人的なミクロな目線や、織姫や彦星の物語に対するイメージはあったのですが、 そこに目がいかなかったです。 という感じで、全般的に七夕に対する観察眼と それを見つめる語りての目線の位置がいいですね。 笹が幸せになりますようにという落ちの在り方が正に象徴的ですかね。 (笹は願い事を吊るされる存在で、ある意味文化の生贄ともいえる訳ですが、生贄の願い事とか考えたら面白いなと思いました) という感じで読んでいて、気づかなかった着眼点に溢れていて、 凄く語りたくなる作品だと思いました。面白かったです。 (【2021遅れた七夕企画】笹に寄す)

2021-08-02

こんにちは。百均です。 >あなたがたへ、 という言葉に距離感を感じました。そもそも星というのは距離があって、今見えている光が現在を差している訳ではなく、過去の光でしかないので、その距離感というのは適切なのかなとか思ったりします。捨てられて、抗いもせず消えた存在と、そぎ落とされていくような書き方という事を考えると、抵抗してたとえば恨みを持って死んだ場合、その念慮というものが残存する可能性もあったりするんですけど、それすらないという事は本当に消えてしまう事で、それに耳を傾ける存在すらいないのだなと思います。「次の世界」というのは、生まれ変わって現世に再び生を受ける訳ではなく、正に異世界というか全く別の世界で、「自分を生きる」つまりここで削がれている捨てられる事なく、抗う必要もなく生きられる、という事だけではなく、捨てられた状態からの復元や、抵抗が意味をなす? 世界に生まれて生きる事ができたらいいなという語り手の目線の温度を感じました。 (【2021遅れた七夕企画】現在、もしくは過去の星たちへ)

2021-08-02

ありがとうございます! >これ、財布とされていますが、それは作者、読者にとって大事な何か、人とか、心のような気がするんですよ。 なるほどなと思いました。願い事を書く時に、色々なテーマを考えたんですが、これが一番シンプルにかけたんですね。それくらい、財布っていう存在が象徴的にいろいろな物を示唆していたのだなと思いました。財布ってなんで大事なんだろうという事を当たり前と思うのか、なんで大事になってしまうのか、逆になんで大事な物を1つに集約して、なくしてしまった時にダメージを追いやすい形で管理してしまうのか、など、それはABさんのおっしゃってくれたような人との関係を保つ一個の媒体として財布は大事になってくるし、大事な物であるという事が容易に概念化されているな~と思いました。 思い切って出してみてすごくよかったです。書いた事実以上の事が見えてなかったですし、わかってなかったな~と気づかされました。 ありがとうございました。 (【2021遅れた七夕企画】財布)

2021-08-02

ありがとうございます! 切実さが伝わってきたのであればよかったです。 >ここに油断が有ったのでしょう。或いは詩的韜晦で、ザッハの効果と言うのか、事実の提示がそのまま詩になる様な感じを狙ったのかもしれません。 ありがとうございます。シンプルに書いた方が逆に想像力を刺激するんだろうなとか感想を読ませてもらって思いました。ですので、この作品は最初シンプルにかかなくてこねていたのですが、最終的に字数が取れてよかったなと思いました。 (【2021遅れた七夕企画】財布)

2021-08-02

ありがとうございます! 無事みつかりました。ありがとうございました。 (【2021遅れた七夕企画】財布)

2021-07-25

ありがとうございます! 実際になくして、この前見つかったのでよかったです。 そこら辺の気持ちを正直に書けたかなと思っています。 (【2021遅れた七夕企画】財布)

2021-07-25

こんにちは。百均です。 一読して、悲しみと正しさというフレーズが面白いと思いました。最近、自分の感情って本当に正しいんだっけみたいな疑問を持つ事が多くて、本作を読んでいる時になんかなるほどな~みたいな感じになっちゃいました。具体的には、誰かが悲しんでいて、その人の話を聞いている時に悲しくなっちゃうことがあるのですが、それって本当に正しい悲しみなのかな?みたいに思う事が結構あります。って感じですね。 という感じで悲しみってぱっとした印象だと肯定されやすい感情だと思うんですが、その感情の在り方にメスを入れるフレーズが正しさなのかなと思います。その着眼点に対して、個人的には面白さを感じましたね。というので、単純に色々な人の感情を代入しやすい作品になっているとおもいます。 ありがとうございました。 (願い)

2021-07-18

真清水るる さん こんにちは。百均です。 一読して気になったフレーズはここでした。 >無我な獣のように佇む青年のように 「無我な獣」ってフレーズを見た時に、獣って我を持っている存在として思ってたなという自分に気が付いた感じで、はっとしちゃいましたね。獣から我を引くというのはどういう状態かというと、理性とかそういう物も持たない、凪のような感情を持つ存在であるのだなと思いました。つまり、我をはじいた人間だとそれは理性が残ってしまうのですが、そこを獣というチョイスをした事で、全部そぎ落としている感じが滅茶苦茶するのですよね。 そういう事を考えた時に、この作品のオチとしてこのフレーズが置いてあることって、やっぱりちょっとしたロマンを感じちゃいますね。言って仕舞えば、織姫と彦星の邂逅っていうのが、合理的な判断だとか、獣のような恋愛感情(とぼかしておきます)ではなく、シンプルなネンに一回の出会いであって、それは一年別々の場所で働いてきて大変だった二人が出会うだけなんですよ。みたいなロマンさって感じでしょうか。 ともあれ、非常にほっこりさせられました。 とてもよかったです。 ありがとうございました。 (【2021年遅れた七夕企画】星霜日和)

2021-07-18

羽田さん こんにちは。百均です。 >我ら牛飼いたちが そうさせられますように この一行がとてもいいですね。願い事というと、他力本願みたいに自分で叶えられない願い事のタイプもありますが、本作の場合は、牛達の面倒を見る牛飼いがあくまでも主語であるという所。言って仕舞えば、毎日の積み重ねという行為が「そうさせられますように」という結果を産んでくれたらという、なんとも言えない願い事ですね。 また、「させられる」という使役表現がなんとも言えないですね。使役行為には、ある意味強制させるみたいなニュアンスも含みますけど、この場合はせめてもの思い(あるいは償いともいえるんでしょうかね)として、牛飼い達にはそうしてあげる事しかできないと言った思いが現れていて、いいなと思いました。 また、幸せという感情が生み出されるための、言って仕舞えば構造みたいな所も言及しているなと思いました。牛が幸せになるためには、牛を幸せにさせてあげたいとする牛飼いがいないといけないんですよね。牛の幸せってなんだろうというと答えは明確に出ないのですが、牛が牛舎の中に閉じ込められて一生を過ごすんだろうなという想像を考えた時に、その中の一生というのは誓約を最初から孕んでいる訳ですが、その誓約をどこまで緩和しつつ育てていくのかというのは牛飼いにしかできないですよね。(あるいは全体の方針を決定する経営者とかなんですかね?牛飼いもまた雇われになるのかな)という事と、ただ、愛着を持って接した時に何が待っているのかというと食肉として人間にくわれるためである訳ですから、牛飼いにとっての幸せって所が、牛が幸せなまま出荷されていくことにつながるのかなと思うと、個人的には極めて難しい感情だなと思いました。 みたいなエッセンスを含んだ、正にこれはもう願い事でしかないと思いますし、本企画を通じて読ませていただけたこと、とても嬉しく思います。 ありがとうございました。 (【2021遅れた七夕企画】 牛運び)

2021-07-18

白犬さん 再レスありがとうございます。 ちょっと意地悪な返信しちゃってごめんね。 >私の百均たんの詩に感じてたしょうもなさってのは、「個」でしか無いことだと思う。言葉は非常に饒舌だけれど、書かれてる内容が、とても「個人的な」小さい範囲の懊悩しか書いてないように見えるんです。 なるほどね。ここら辺についてはその通りかもなと思います。 >ただ、それは、「人間ってこんなもんよねーこんなぱたーんよねー」という、私の舐めきった雑な他者への理解の反映でそう読めてしまうだけかもしれない。ただ、そうした、「個の懊悩しか書いてないやん」という「理解」を超えていこうとするものを、百均たんの饒舌な文体から感じて居て。究極、意図的に書こうとするもの、作者の意識以上のもっと深いものが文体には現れてくるのでは?みたいなことも考えてて。百均たんのある意味注意散漫?な饒舌文体を読んでると尚更そう思うし、それこそが、「人間なんてこんなもんですやん」を突き抜けてくれないかな、とちょっと期待してる。 僕自身が内容を見ていないっていうのも正に人間を舐めているからで、大した内容なんて人間からそうそう湧いて出てこないだろって思ってる所がありますね。そんな直ぐに出てくるんだったらみんな天才とか呼ばれて重宝されているのかもしれんですけど、実際の所少なくとも自分は別に天才でもなんでもない、社会人の一人でしかないのでって感じかな。僕は人間の一人でしょうもない1つの生き物でしかないって感じだし、多分個を飛び出した物って目線が社会とかに向けられると思うんだけど、向けた奴らって多分行動を起こして変えようとするはずなんだよね。多分詩なんか書いてる暇なんてどこにもなくて、自分の身体を使って世の中の認識を変えにいくと思うよ。という訳で自分よりすごい内容を持った人間なんてどこにもいるし、そういう人たちが結果を残したりくたばったりしてるのかなと思いますね。(個々人の細かい歴史を参照した時に差異はあるかもしれないけど、そういった所に目をむければ誰だって面白いですよね。インタビューとかして話聞く度に思うもん。なので、大体人間を舐めると痛い目に合うんですけど。自分の愚かさが透けるだけ) って所で文体みたいな所だったり、書き方みたいな所しか考えてないですね。文体って所に自分が意図しない所での効果というのは僕自身も期待してる所はありますね。一応毎回何か物を書く度にちょこちょこ変えてたりもう一回試して変化を確認したりしてんるんだけど。逆にいうと変化を付けられる場所って、文体だったり、物の表現の仕方なんだろうなと思ってますね。そこから内容が変化してく可能性は充分あるし、結果的に文体を超えてくる物もあるだろうなと思ってます。(そこら辺はこういう場で物を読んだり、誰かと一緒に作品を読んだりする理由なんだけど)勿論、得意不得意あるだろうし、一技能を極める人もいたっていいとおもうけどね。逆に言うと、詩で鍛えられるこの要素って多分汎用性は高いんじゃないのかな? みたいな事は思いますね。 あ、別に「詩」である必要とかはないんですけど。変に形式ばった文句を言われにくいって意味で自由だよね。その分読みにくいかもしれないけど。 多分がっつり遠回りした方が最短距離は掴みやすくなるよね。って感じで今は難しい事は考えないようにしてますね。なぁ、技術がない奴が何いってもしょうもないし、始まりの地点にすら立ててないからしょうもないですね。黙ってかけって感じ。 >私みたいないつもおんなじような表現に終止する、栄養も取らない(いんぷっとをしない)、怠惰な文章とは違うな、と(その辺見習いたい)後、最初に、百均たんの詩のしょうもなさは「個」でしか無いこと、と書いたけど、なによりも大事なのは「個」であるとも思ってる。それを突き詰めて掘り抜いた先に、もっと開けたものが、大きなものが見えてくるのでは、と。だから、「個」に苦悩し、それをなんとか表現しようともがく百均たんは、間違っては無い気もする。そういう意味で、「しょうもなさ」に大事に拘泥して欲しいと書いた。 白犬さんの作品が成長していないのか、突き詰めているのか、変わらない程完成されているのか、どこを目指しているのかいないのかわからんのですが、単純に真似出来ない事をやっていると思うし、俺にはまねできないからなんともいえないですね。それはそれで個を確立しているともいえるし、他者が入りいる余地などないって話だと思うしね。個を振り切りたい我や欲やモチベあるなら別だけどさ。他者が振り返るものを書くのだとしたら、他者の目線や受け入れやすいフォーマットで書く事を念頭においた訓練をすればいいんじゃねって素直に思うけど、僕の興味はそこにはないし、それらを遂行するだけの我慢も出来ないかなって感じだね。 って感じで、個に苦悩って意味だと、個に苦悩しようが、個に苦悩しなかろうが、やっぱり個になっちゃうし個でしかないよ。って感じなんだよな。ってか個にこだわる限り個に縛られちゃうし逆に抜け出せなくなるでしょ。(個ってのは個々人差はあるだろうから定義出来る事もないけど)僕は個に関しては割と無視しているけど、やっぱり同じ事書いてるなって思ってるから、まぁもうしょうがないよねって感じ。(現にこの作品って直近で読んだ本のフレーズを引き出して、それを自分なりに変換して並べて、付けたしたものなんだよね。なので、個は希薄になっていてほしいなと思わなくはないけど、そんな事したって個は個だよねわらい。寧ろ個が深まっちゃう始末なんだから。) 個を表現した結果個から抜け出すっていうのは結果論であって、それはつまり読み手に委ねるしかないんだよね。たとえば、読み手が自分の事のようにこれを読んでもらえたらこれは個じゃなくなるよね。あとはこの女の語りとして受け取って貰えた時に、それは俺の話じゃなくてこの女の話になるよねって感じかな~ それは「没入感」とか、「読み手が追体験できるようなフレーズ」みたいなのはあるかもしれないけど、百均がかいているものに百均の顔が見えて、その内容の狭さで鼻が歪んでしまうのはしょうがないとおもってんだけどね。そんな簡単に認識が歪む事なんて起きないだろうし、多分書けば書くほど認識に色がついて読みは捻じ曲がるし、感覚が引き起こす推測は麻痺してくるもんだろうなとは思うけどね。そういったものがちゃんと無視されるような書き方ってのがいつかできたらいいなって感じ。書いてあることやあるいは書いてない事までストレートに読み手の脳みそに対して殴れたらどうでもいいよ。 >こんだけ書いといて、精読は出来て無いので、具体的な詩の内容・文体への言及が出来無くてごめん。応援してるで。 具体的な言及っていうのを最後に書いたのは、例えば「色々書いてるけど、女が一人芝居してるだけで覚めました」とかでいいんだよね。そしたら、狭い話を書いているし、それが全面的にでちゃったかなって言えるかなって感じだね。基本的に誰かに自分の作品を細かく読んでもらいたいとは願ってないし、やってくれたら嬉しい事この上ないけど、白犬さんがこれのどこを読んで何を思ったのか、さっきのコメントからだと拾えないなって思ったのでちょっと突っかかっちゃったな。ある意味僕の事をみていて、これを読んでないのかなと思ったのもあるけど、前から同じようなコメントを貰っていたので、今回きっちり返そうかなって思った感じですね。 ともあれ、丁寧に再レス下さりありがとうございました。 (皆殺しの比喩)

2021-07-11

白犬さん こんばんは。レスありがとうございます。 >こめ読んで、内容がしょうもない自覚あったんか、と思いました。それでも筆力あると思うし、その筆力(文章)から伝わってくるものはあると思う。だからこそ一皮剝けて欲しい気持ちがあるし、逆にそのしょうもなさに大事に拘泥して欲しい気もする。良く判らんらいとこめですまん。です。 内容がないってのは折に触れていってるし、なんなら書き始めた時からずっとそうだし、書いてからよりそう思うし、自分で変えられるものではないよなと思ってるんですよね。拘泥するも何も、最初から同じ事ずっと書いてて、それから逃れられたこともこれから出来る気もしないですね。なので、最近は作品を書く時に内容については考えないですね。考えても意味がないので。 筆力の高さってのは正直何がどうなるとあがるのかは分からんよ。今あるのかもわからん。自分ではずっとない物だと思ってるからずっと練習するしかないよねって感じ。内容のしょうもなさ(僕自身が内容の持つ力みたいな物を信じてないんですけどね。「他の人もやってる」で終わりじゃんね)をカバーするのが筆力だし、筆力が付いてくると出来るようになることが増えるかもしれんしね。出来る事が減っちゃうかもしれないけど。(「最初に書いた物の方が良かった」って落ちになるのかもしれないけど、そこら辺はもう戻れないんだからしょうもないしねって感じですかね。) 一皮むけたって言われたり言われなかったりの繰り返しだから、そういう意味では何とも言えないね。そう思う白犬さんがいて、そう思われる百均がいるってだけなんじゃないかな。って感じかな~ 具体的な言及がないからなんとも言えんよ。 レスありがとうございます。 (皆殺しの比喩)

2021-07-11

cold fishさん レスありがとうございます。 ガチガチしてるかもしれないですが、内容はしょうもないので、しょうもない感じで読んでいただければいいかな~と思っているんですけど。みたいな感じですね。たぶんここ最近はこういうのを書いているので、こういうが続くと思います。 レスありがとうございました。 (皆殺しの比喩)

2021-07-10

きょこちさん こんにちは。こちらでは初めましてですね。 >この部分なんだか好きです。瀕死をおって、入院して、お見舞いの言葉を燃やしてしまったが、もう一度話したいというような意味なのかなと思ったりしました。 >後半は小説のような展開でしたね。 一番大事な場面で大事な事に気が付かないまま後悔する事ってあるよなと思っていて、なので、後悔ってずっと引っ張るのかなと思いますが、なんか難しいですよねみたいな感じですね。 展開があると読んでいて飽きないかなというのと、とはいえぶつ切りにならない程度にふんわりできたらと思っています。 レスありがとうございました。 (皆殺しの比喩)

2021-07-10

湖湖さん こんにちは。コメントありがとうございます。 おしゃべりな女の声で再生されたという所で、 とてもうれしかったです。なんか、別の語りてが何かしゃべってる感じがずっとほしいな~と思ったので良かったなと思いました。 レスありがとうございます。 (皆殺しの比喩)

2021-07-10

三浦さん コメントありがとうございます。 冒頭は硬くなっちゃたんですけど、後半はスピードがありましたね。 読み返すと最初から速度あった方がいいかもなと思いました。 コメントありがとうございます。 (皆殺しの比喩)

2021-07-10

読んでいて思ったのは、ナラティブな感情についての描き方かなみたいな所ですね。それから、内容自体には多分意味がないといえばなくて、この作品が示している文体や語の改行のリズムや、ストロークの長さや繰り返しの部分が面白いなと思いました。そういう意味で読んでいて酩酊感が味わえたということ。それからある意味で閉じていますが、開かれている作品だなとおもいました。閉じているというのはナラティブな感情にはつきものなのかもしれないですし、そういったものを描いて伝達するという所で矛盾が生じるのでしょうがないなという所もあるんですけど。 >ひどく現実的で実際的で >比喩などでは断じてない >現実の実際の >気持ち良い >縮こまり 具体的な描写の順番みたいな所から作品を読んで行っても面白いですね。この断じてという部分に感じる筆力の強さと確信を悪い意味での抽象的な物言いから、脳内物質の羅列などと言った、理屈の部分から感情を解体しようとする動きの部分ですよね。後は文体のフローの目まぐるしさみたいな感じというのが、これは個人的な感触で言って仕舞うと、とても分かるような感じですね。言って仕舞えば、ことばにならない感情と、論理で再現できない感情を共有するみたいな物をことばというツールで共有しえない事と、あるいは出来た時の素敵さみたいな感情でしょうか。この様を優柔不断的に解釈して結論が出ない様を嫌われてしまうのかもしれませんが、この作品の持つ文体みたいな所の感情の寄り添い方みたいな所を見ると、単純に否定できない感触の良さを思いました。(結局の所、僕の中に残る作品って、いい悪いっていう判断を下せるような作品ではなくて、その在り方を認めざるを得ない作品だったりしますね) 全体的な印象の話ばっかりして申し訳ないのですが、多分上から順番にこの場合は百均の体験を代入して語る事は可能で、その順番みたいな所を踏まえても、多分その通りになります。と言ったときに、この作品は僕にとっては、自分の感情を語る時の箱になりえるのですね。例えばこの作品を読んで思うのは、ナラティブな感情ということばを僕が持ち出したように、そしてそれは僕が詩を読んでいる一番の理由なのですが、そういった感情を揺さぶられる媒体としての詩、その揺さぶられた時の感情を説明しようとするときの心の動きを正確に模写し、打ち出された作品だなということです。 簡単にいうと、あ、自分が詩に感動した時、それを誰かに伝えたいと思っても伝えられたことがないけど、伝えられたらいいなって思うとき、こういう心の動きをしてたよなって感じです。この繰り返してぐるぐるしてる感じや、結論が出ているようで出ていない感じが自分見てる感じでリアルに感じてしょうがないですね。 また、この作品の価値みたいな話になってくると、作者像みたいな視点で読んでも面白いかもしれないですが、自分はある意味語りてに同化して読んでしまったし、その点視点が多分ぶれてしまっているので、他の方の読みを期待するしかないですね。僕は他人事のように本作を読む事ができないので。 ありがとうございました。 (縮こまり快楽)

2021-07-05

白川ヨイヨさん 白川さんこんばんは。一個前の作品はコメントが流れてしまって返レスそびれてしまい、申し訳ございません。 >百均さんの作品をいくつか読んできて一貫して世の中への透徹とした視点があるなと感じています。 >ハードボイルド文学のような雰囲気があって格好いいです。 ありがとうございます。書いている本人としてはいつも書いている内容が同じだなみたいな所があって、どうしようもないなと思う所もあるのですが、最近は内容はもうしょうがなくて、それに対するアプローチとか描き方の部分でやっていくしかないかなと割と素直に思っています。そういう意味で、今回はテイストをちょっと硬め、尖り目で書いてみたという次第です。 >この作品に触れて一番に思うことは >1連から3連までの近代詩的な一般的な形式 >4連の視覚詩のような形式 >5連の完全な散文形式 >の相違です。 > >私は読み方のリズムを変えたいのではないか?と読みました。 >4連と5連は双方共にとてもリズムが良いのですが >そのリズムの良さの質に違いがあります。 この点については、結局僕の中で思っている事があって、口語自由詩では色々なスタイルが許容されている訳ですが、それらのスタイルを全模倣して開陳する事ができたら何も言えなくなるかなみたいな発想が根底にあります。といっても僕自身が使いきれる訳ではないのですが、そこら辺は練習で今はとりあえず色々な方のスタイルを吸収していこうと思っています。今回の場合は、最初行訳詩から、視覚的な要素で崩して最後散文のフローで流していくみたいな形をとってみました。序破急みたいな感じですかね。 >4連はどこか楽譜のように感じます。 > 軽すぎる感情か? >の頭が飛び抜けていて、だからこその一文だけ >黙読でも読み方が変わってしまいます。 >それを期待してのことなのか判断できませんが、 >この視覚的な効果は非常に面白いです。  感覚的に配置している要素もなくはないのですが、それを言葉に落としていった時に思うのは、  配置場所を変えるだけで見方って変わるよねって所だと思います。そういう意味で、段分けをするときに気を付ける要素としては、転換になる箇所は強めのフレーズの頭を飛ばしてあげる事って印象に残りやすいのかなと思っていて、意図的にインデントを繰り上げています。 >5連はすっと読めます。ひたすらフラットに。 >4連との対比が際だちます。 >フラットだからこそ特別な意味内容は感じずに音のみを楽しめます。 >少なくとも私にとってはそうでした。 ここら辺は脚韻で締めながら、全体的には意味内容重視というよりも音で流して聞いてほしいなと思って書きました。まずは読んでいて気持ちいい。そこから読ませられるみたいな所かもしれないなと思っています。散文詩の弱い所って、やっぱりじっくりよみにくい所にあって、散文的な韻律みたいな所の話は句読点だとか、テンポの置き方とかどっちかっていうとフロウをどれだけ鍛えるのかみたいな部分なのかなと思います。 >最後の一言 >題字だけ知ってる「お前の知識」 >以外は音そのもののみを受け取った気がします。 ここは対タイトルを一応回収しちゃったので、まぁ締としては安易かもしれないですが、これしか思いつかなかった! >内容自体は男が深刻そうな様子で >深刻そうな表情でさも深刻な声色で >休暇の終わりを嘆いている、と読めました。 >作品全体にあるシニカルな雰囲気がその一見して軽いテーマ自体を軽いのかなんなのか分からなくしています。 >作品としては絶対的なテーマを用意せずに日常の中で人生を軽くみている様子そのものを描いている、ような感じでしょうか。 作品として絶対的なテーマが見えてしまう作品って、なんか買ってに判断されて終わっちゃうような気がするんですよね。だったら他の媒体の方がテーマを伝えるだけならやった方が早いよなって思う事が多々あります。そういう所を超える訳じゃないですけど、書かれているフレーズや音の組み合わせから立ち上がってくる気配みたいな物を僕は掴みたいし、ここに出したいなと思います。それが読まれた結果として何をどう受け取られるのかというのは副産物であるし、それは僕にはある意味わからないことで、こうして読まれた結果わかる事でしかないなというのは年々思います。 >ハードボイルドでシニカルな作品、かっこいいななんて感じました。 多分この作品の弱点ってフレーズがださいとか音の踏み方が雑みたいな部分になるんですよね。そういう意味で一定の評価は得られたのかなと思います。もっとそこら辺の精度は高めていきたいですね。 コメントありがとうございました。 (Book Smmaries)

2021-06-13

Nさん コメントありがとうございます。レスが遅れてしまってすいません。 >現代的な中原中也的な雰囲気を感じました。 >もしくはもっと遡ってアルチューのランボーかもしれません。 >掲示板の一覧から、冒頭だけを読んで、ページを開かせたので、力のある作品だとは思います。 >こんな感想、無味乾燥? 中也的、ランボー的と言ってくださってありがとうございます。歴代の詩人の方と並べていただけるのは嬉しいですね。これからも頑張ります。最初のフレーズについては、候補を何個もだして、一番い奴を選びました。そういう意味で、このページを開かせられたのは素直に嬉しいです。これからもそういう作品を出していきたいなと思いますね。 ありがとうございました。 (Book Smmaries)

2021-06-13

あささん コメント下さり、ありがとうございます! >カッコいいです。 >冒頭からグイと襟を引っ張ってくるリリック。「この世の概要」みたいな強い言葉を使っても負けない文章や韻の強度。視覚詩を含んだ構成まで一つの>詩に含む意欲などを感じました。 ありがとうございます。この世の概要の部分については、大分使うのを悩んだので、その点を評価いただけたのは嬉しいです。視覚的な効果を盛り込んだ作品に仕上げたかったので、効果を感じていただけたのであれば良かったなとホットしています。 >たまたまですが私はジャグリングを趣味としているので、ビンを投げるという、危険と退廃と無意味のような印象が(勝手に)実感的に伝わってきてすごくよかったです。その後に置かれた、鍵を〜も勝手ながら「わかる」気がします。 ジャグリングを投げる時に割れる物や重たい物で廻したら多分怖いだろうなと思いつつ、シーンとして面白いかなと思って最初のフレーズに持ってきたのですが、それが生きていたという事であればよかったなと思います。また、この連についてはフレーズの連鎖というよりは、一つ一つのフレーズの持つ共感性みたいな所をオーバーラップしていけたらな(それを担保するのが韻だったりするんですけど)みたいな思惑があったので、その点拾って頂けたのは嬉しかったです。ありがとうございます。 >この作風の詩(リリック?)に対して「ルミナスライン」という言い方はちょっとキラキラしすぎているかもですが、私もこういう一文が出てくるような詩人になりたいです。 ありがとうございます。個人的にフレーズの切れ味みたいな詩行を紡ぐのが苦手なので、そこら辺を修行したいなと思って本作を書いた所があるので、そう評価頂けたのは嬉しいです。もっと頑張ります。 ありがとうございました。 (Book Smmaries)

2021-05-17

POGEさん コメントありがとうございます。 >HipHopのLyricでしょうか。ライムも踏んでいるし、読み心地は軽快です。 ありがとうございます。最近、HipHop聞いてるんですが、韻の踏み方や音の気持ちよさみたいなものが全然足りてないっていうか、読んでて気持ちよくなって音読したくなるようなもの書きたいなと思ってます。もっと精度はあげていきたいのですが、一旦POGEさんから読み心地という所で評価いただけたのは嬉しかったです。ありがとうございます。 >強烈なパンチラインが見えにくいのが残念ですが、トラックにのせて歌ったら気持ちよさそうですね。 この点反省点ですが、音の連なりみたいな所ばかりに目が行ってしまって、フレーズの強度みたいな所がおろそかになってしまっていたなとコメントを読んで思いました。最終的にBreviewの動画投稿機能で音源+朗読じゃないですけど挙げられたらなと思っているので、頑張って磨いていこうと思います。 ありがとうございました。 (Book Smmaries)

2021-05-10

いすきさん コメントありがとうございます。 >この作品は熱いと思います。「人は燃えねぇから」を読んだだけで、ああおれは今から「アレ」を読むぞ、という気持ちになる。そういうのは好きです。 ありがとうございます。最初のフレーズで気を引くというのは僕の中で礼儀になっているみたいな所があり、今回もフレーズとして勝負するときにこれだと思って書いたので、それが成功しているなら良かったなと思いました。 >文字で読むと少し寂しいので一人で音読してました。 この点についても、やっぱり音の良さみたいな所は絶対に勝負したいなと最近強く思うし、ここら辺は確信になってきているので、音読していただけたのはとてもうれしいです。頑張って鍛えていこうと思います。 >「ビンは落とさねぇようにジャグリング」以降はやや難解というか、伝わりにくい感じはしました。 >しかし、「水を買う不思議な行為」というフレーズは、非常にトリッキーでとても好きです。 今回音の重ね方みたいな所を重視してしまったので、意味内容やイメージの連鎖みたいな所の繋がりが甘かったなと思っています。ここら辺は課題なので、もう少し詰めていきたいです。フレーズの強度と音の伝わり具合と勢いと流麗さと泥臭さみたいなのがマッチするような文体を磨いていきたいなと思いました。 率直な感想ありがとうございます。とてもうれしかったです。 頑張ります。 (Book Smmaries)

2021-05-10

コメントありがとうございます! 宇宙人の日記と書いてくださった所、本当にうれしかったです。宇宙人とのやり取りを想像すると、中々言葉が通じないのかなと思うのですが、それって別に日常でもあるよなと思いながら書いておりました。誰も悪くないけど、悪いよねみたいな悲劇を描くのに動物の皮を借りて、舞台を作ってかいてみたらどうなるかなと思ってこういう作品の形式を取ったのですが、色々とくみ取っていただけたのかな思いました。とても嬉しいです!!! (マカロニオン・マカロニア【企画「食べる」】)

2021-05-01

白川さん こんばんわ。百均です。  本作を読んでいて思う事ですが、改行についてでしょうかね。  一旦ここら辺は僕なりの答えというよりは、酷評ギルドの目的みたいな部分もありますけど、なぜこのような改行のリズムにしてみたのでしょうか? と敢えて白川さんに聞いてみたいですね。(変に勘ぐって答えてしまうのはあんまりよくないなと思うので)よかったらお答えください。 >日曜日の朝に >目が覚めると >からだが散っていた >完全に  最近西脇順三郎の「詩学」を読んでいるのですが、その中でポエジーっていうのは、言って仕舞えば詩作品を読んだ時に感情を揺さぶられる事、感情が揺さぶられる時に必要なエネルギーみたいな事をポエジーと読んでおり、そのために詩作品が媒介として必要であると言っています。また、感情を揺さぶられるためには想像力を喚起させる必要があって、喚起させる手段っていうのは、さまざまな言い方ができるのですが、例えば穂村弘という歌人が、想像力を喚起させるために指示語を使うといいよとか、端的な説明で終わらせないで含みを持たせた言葉を使うと、読み手がその表現について考えるので、想像力を喚起しやすくなるよね。みたいな事を「はじめての短歌」という本の中で述べています。 と言ったときに本作の始まりっていうのは、日曜日の朝に目が覚めると、までは普通なんですよね。「次にからだが散っていた」「完全に」と論理的にはありえない事を書いています。これを一連目に持ってくるというのは、先ほど書いた通り、想像を喚起させるフックを役割をもっていて、そこから先が気になる読み手にとっては読み進める原動力(ポエジー)を引き出している訳ですね。 >しばしば起きることである 後面白いのがこの一文で、これを挟む事によってこの出来事はよくある事だっていうのを提示する事により、語り手の焦燥感みたいなのを制御していますね。よくある事だから、客観的に言って仕舞えばありえない事態であったとしてもそれを受け入れる事のできる土壌がある訳ですね。 >ふたたび集める >よりしかたなく >ひとまず >再建した >薬指 >で硬い床材を握りしめる >しずかな圧力が >わたしの頭頂まで >伝播する >肉体が >触発され >やはり >ほんのすこしずつ散ってゆく >散りゆくものは >いつも >わたしからほんのすこしだけ >離れて >ただよう >目を閉じる >鳥肌が立っている >うごく度に >散っていく >瞬間毎に >わたしが更新される >散っていった >ものたちに >肌感覚を集中する >肉体の境界面に >散っていった >ものたちが >蓄積し続けている >らしい >どうやら >そのようだ わたしが更新されるときというのは、これを読んで思いつく事ですが、皮膚って更新されていきますよねって話でしょうか。私を構成する細胞というのは、長くても一年周期くらいで入れ替わるみたいな話であって、自分というのは絶えず破壊されては新しい物に切り替わっていく一つの循環したシステムであるという事ですね。それが言って仕舞えば過敏な肌感覚として湧き上がってくるのが、日曜日の朝の寝覚めから覚醒に至るまでの時間であるととらえる事ができます。そういった所で改行のリズムを解釈する事もできるでしょうし、言って仕舞えば突拍子のない感覚というのが、自分の肉体が言って仕舞えば垢として切り捨てられ切り替わっていく瞬間の感覚という物に対してフォーカスをあて、湧き上がってきた言って仕舞えば気づきであると言えば納得がいきます。 >地球上の淡水が >残らず蒸発しても >大気に満ちる窒素の群が >高い熱量に変換され尽くしても >骨を伝わり放たれた響きが >私の概形に沿い生きている >皮膚と外界の曖昧な境界で >震えながら漂っている > >響く振動がわたしを散らせていくのだろう > なので、世界が循環する関係性と私の在り方というのが接続していきますね。 >我々が保安灯に照らされた一対であった頃 >締めたあなたの首筋に残したわたしの砕片 >それは >きらびやかな首輪として >今もあなたを戒めていますか > >左手の甲で >剥き出しの右胸を >なぞっていく >変化し続ける >わたしの境界面の >たったいまを >咀嚼する >ただよう温度が >一 >塊 >の >獣としてのわたし >の >手 >を >導く というところから、言って仕舞えば人間の関係性みたいな話に飛んでいくのですが、ここがある意味読み切れていない箇所になりますね。ぱっと読んだ感覚としては、循環する私がいるという知覚から感じる事として、循環した事によってわたしの破片を残した相手の首筋も循環されたのかみたいな発想だと思いますね。 保安灯という寄る辺なき夜道を照らしていた一対の存在同士が、互いの関係性を保証するものとして残していた首筋の傷というのが、頻繁に壊れる私という存在にはおそらくなんですけど、あまり残らないような気がします。ただ、相手は循環の速度が遅いため残るのかなみたいな心配というんですかね、悲しみかもしれませんし、感情はないのかもしれませんが(昨日あった出来事のように)そういったものを夢想しているのかなとおもいますね。言って仕舞えば、「つながる表面・表層的に」というのは身体に傷を付け合った相手同士の繋がりであって、それは時が経ち、人間というシステムが孕んでいる循環の規則に従って消えてしまう物であるという事ですね。みたいな感じで読みました。 「咀嚼する」という所で、最後の締め方はちょっとエッチだなと思いながら最後読んじゃったのですが、手というのは今一読み切れてないかもしれない。薬指から復活させたのはなぜかみたいな所の問いや、導く手の存在ですね。手というのは手を握るだけで関係性が生まれるように、言って仕舞えば表層的なつながりを表現するために一番手っ取り早い身体の部位だと思いますね。指輪を付ければ婚姻の証になるなど、指輪の跡を首輪と読み替えてもイメージの繋がりとしては問題なさそうです。(人間の首輪は指輪であると) (つながる表面・表層的に)

2021-04-29

田中宏輔さん レスありがとうございます。 お返事遅くなり申し訳ありません。 海に撃たれてというフレーズに着目してくださりありがとうございます。 こういったフレーズの開発とかは頑張っていきたいです。 ありがとうございました。 (四海)

2021-04-03

白川ロイヨさん レスありがとうございます。 お返事おそくなり、申し訳ありません。 >百均さん、こんにちわ。 >まずは全体として、構造やメタ的に語ろうとしている部分が多いので >なにか実験的な意味合いがあるのかなという印象を覚えました。 >絶対に小さくまとめる気はないぞ!という気合を感じます。 メタ的に語るっていうのはよくやってしまっていて、 やっているという事は手癖の部分もあるのですが、僕が書きたい事って 言って仕舞えば詰まる所それってどういう事だっけ みたいな突っ込みみたいな事をしたいんですよね。 って所から開いていくと、色々見えたり見えなかったりするんですが、 つまりは視点を獲得したいっていう興味なんですかね。 理解に落とし込みたいのかもしれないですけど。 という所で小さくまとめるより大きくまとめてみたいなと思うのは 年に数回くらい思って、そのうち偶に一回くらい成功した気分になるんですが、 この作品は少しだけ手に余るものを書こうとしたりしてます。 おそらくは >> 海に撃たれて から >> 夜叉の死骸は >> (それでも浮かび上がろうとするのね) までを読み進めていくモチベーションとして提供してくださっている気がするのですが むしろ北の海や視界の方がモチベーションとして強く私は感じました。 この二節を読んでから深く読み解くモチベーションが沸きました。 ここらへんみたいなのは見抜かれていますね。 意味の無い描写、でも気になるみたいなフレーズを結構置きがちなんですね。 そういうのは最後書いて行くうちに回収すればいいやみたいな気持ちもあるのですが、意味を持たないまま終わらせてしまう事があります。 とか思っていたのですが、最近山田太郎(詩人)をみかえしていて、やっぱりなんだかんだ残る詩人の物を読むと描写に無駄がないんですよね。 フレーズの読み味それ自体の旨味と論理で読み解いた時の読み味を兼ね備えているみたいな感じでね。 ってところで落ちのイメージを掴むために 必要なフックを持ち出しながらその中で手ごたえがあるものを 最後にもっていくという事をしています。 >そのモチベーションを持って改めて読んでみると >> 蹴り上げられた >> 珊瑚礁 >> 色とりどりに囁き合う >> 北極光 >> 黄昏と子蟹の群れの違いがわからなかった >なんてこの上なく洒落ていて最高で好きだなと感じたりもしました。 >この連だけではなく西の海はとてもお洒落ですね。 そういっていただけるのは嬉しいですね。 ここは援用したイメージがゼロという訳じゃないんですけど 書いていてちょっといいなって自分でも思った所だったので、 自分の満足で終わらなかったのであればよかった >西の海の雰囲気を受け取ってみると他の海の特徴も読めてきます。 >東は悲観的ですね。 >ただ何か愛のようなものを求めているような気もしますし、その意味で悲観的になりきれていない気もします。 >西は物質的、そしてお洒落。綺麗です。私の好みを言ってしまえば、こういう詩は好きです。 >南は現実主義と言ったところでしょうか。そして決して明るい訳ではありませんが、現実を受け止めうるタフネスを感じます。 幻想的なイメージを持ち出すと その反動で現実を書いてしまうというのはなんかどうしようって感じですね。 多分一貫してずっとしゃれた事を書いていたんですよね。それって気持ちいいから でもそれから目が覚めた時にもたげる現実ってやっぱりあるよねって 書いている内に思考が覚めてしまう。それは南国に居る時のイメージから 急に引きもどされたような感じといってしまえばそうですが、 僕の地元にスパリゾートハワイアンズという施設があってその中のハワイは虚構だけど 作りこまれた虚構の中でハワイを感じるよねみたいな感覚でしょうか。 その感覚を捨てきる事ができないのが多分この詩の弱い所でもあるし、 今の僕はそこを切り捨てられる程のものは書けないよなみたいな感じでしょうかね。 自分の語りになってしまいますし、書かれた物に対して自分が適切な距離感を追えている訳じゃないのですが、 そんな感じです。 >> 関係性の違いでしかないさ >> 最初から全て間違っているなら >> 間違っていることが最初からただしいのさ >この辺りが代表的ですね。また、これはただの印象なのですが、かなり音楽的でなんとなくポエトリー・リーディングに向いていそうな節かなと思いました。 >北の海が最も特徴的ですね。なぜか少女らしさがあります。南がハードボイルドであったのにかなりの落差です。 >唐突に色彩が明るいですし、自我自体がそれほど強靭でない印象を受けます。良くも悪くも若さが見えます。 >北の海のみを単体で見せられたら、なんとなくとても若い書き手を想像してしまいます。 リーディングに向いているというのは、言われてみてなるほどなと思いました。 というもの喋りで聞かせる時って繰り返し同じ言葉を吐いてもそこまでうざくならないんですよね。 言葉遊びも読ませる時程複雑な事は苦手な表現方法だと思いますが、多少の遊びくらいなら許容はされるとおもっていて、 この点は読み方で変わったりかわんなかったりしますけど、 どういう声で何が読まれるのかっていうのは割と考える事があります。 読み手の中の声色を調整するって時に多分喋りの文体や性を示唆する文体って 便利なんですよね。これからの時代そういう文体は古臭くなるというか、 多分難しくなっていくとは思うんですけどね。 少女性みたいな物はどうしても捨てられないですね。 なぜかっていったら自分から最も遠い所にあるので、 多分凄く使いやすいのだと思います。想像で書くという事は現実が帯びてこないので、 便利なんでしょうね。 >そして最後は視界ですね。 >前半と後半でまるで感覚が違う節です。 >>春の酒場 >までは非常に明るい。北の海からの印象が違和感なく引き継がれています。 >ただ >>> 満たされた羊水から >>> 生まれ落ちて >あたりから怪しい。読んでいて違和感はないのですが、どんどん黒くなっていく。 >>> 貝殻を拾って >>> (ほらまた >>> 貝殻を拾って) >>> 音を懐かしむ音の繰り返しに >あたりで明るさを持ち直すのですが、やはりそう簡単にはいかずに >>> 手を当てて顔を >>> 覆い隠してしまった >で終わる。 >正直、初見は春の酒場で終わって欲しかったと思いました。 >ただ考えてみるとそれで終わるなら北の海と視点の前半だけでいいなとも思いますし、 >その北の海と視点の前半だけの作品が良いかと問われると良くないので >最後まであった方がいいと今は考えています。 >特に >>> 貝殻を拾って >から >>> 覆い隠してしまった >の最終連は絶対に必要だな、と。 なるほどなと言った感じですね。 明るさと暗さという所から最後を読んで頂けたのは、自分にはない視点でした。 そして、結局の所痛感するのは一貫して明るく書く事ってのが僕はやっぱあかんですね。 書いている内にどうしても現実が顔を出してきてしまいます。 どれだけ自分から距離の離れた光景を見せつけても多分顔を覆い隠して逃げてしまっても。 見えてしまうので書かざるを得ないのかなと、感想をもらって思いました。 少し固めに書いてみて、 その中で色々試した所もあるのですが、 結果的に言って仕舞えば逃げられてないし、 捨てきれるものでもないけど、 認識の持ち方っていうんですかね。 もうちょっと自覚的になって書いてみたいなと思わされました。 含蓄に富むレスレスありがとうございました。 (四海)

2021-04-03

福丸さん レスありがとうございます。 返事が遅くなり申し訳ありません。 >時々ある語りは何かの自然災害か人為的な何かで亡くなられた方々の語りだと」と思います。空中都市の部分でいつかそういう技術が開発されたとき人間の理性が保たれればいいですが今のままだと危ういですね。 ここら辺はラピュタの話を持ち出して語ってもいいかもしれないですが、技術を持ったところで使い手は変わらないですよね。ってなると使い手をコントロールする技術みたいな話になるのかもしれないですけど、それも使い手をコントロールする技術を誰がコントロールするのかって話なので、色々どうしようもないですよね。 みたいな事を思いました。災害でもなんでもいいんですが、降りかかる理不尽ってどうしようもないですよね。それをどうしようもない物と受け入れるのは時間なのかもしれないですが、時間が経つまで生きた所でみたいでもあるし、それでも何か語る事で気持ちを騙るしかないのかもしれないですが、口に出してしまう事で何が失われるのかというと何も失われないのに、何か失われた気持ちになりますよね。 語る事の出来ぬ事は沈黙するしかないのかもしれませんが、沈黙で済むのであれば黙って死んでいきますし、そういう人達はどこにでもいて、ありふれていると同時に尊い事であると思う一方で、みたいな事を思ったり思わなかったりしました。 レスありがとうございます。 (四海)

2021-04-03

雨野小夜美さん  レスありがとうございます。  お返事おそくなり、申し訳ありません。  >美しく、深い。私は本当に美しいものに出逢うと、それに触れてはいけないように感じます。決して、自分には書けない世界。だから、容易く踏み込めない。詩でも絵画でもそうです が、この作品にはそう思わせてくれる何かがありました。  感覚としてそれは非常に共感を覚えますね。自分がいいと思ったものほど、それに対して言及するのって難しいですよね。簡単に自分の中にある言葉で語り切れてしまう物ってちゃんと色々な方角から語る事で見方が変わる事もありますけど、中々簡単に明言できないよなと思います。    という事と、美しいと言って頂けるのは嬉しいですね。そういう創作物に対して、僕自身憧れがあって、近づく為にできるアプローチを取り入れる中でこういう文体を作って行ったりしたという背景があるので。もちろん価値判断や評価というのは見る人によって異なりますし、自分で書いた物をきれいだと思えるかというと、中々思えない中で書いたりしているので、他者に見てもらう事で客観視できる所も多々あります。といった所で雨野さんからレスを頂けた事は素直に嬉しかったです。 >このような括弧でくくられた部分が時々この作品にはありますが、女性のとても優しい声を想像して読み進めました。女性でない声の部分もあるように思いますが。 あと、言葉のひとつひとつが、とても深く重いんですよね。 行訳のリズムって短く切る場合は、僕は重たさみたいな物を感じてほしいなと思っています。それは平仮名に開く時の感覚や熟語の使い方みたいな所のバランスにもよると思っているので、上手く言語化できない所ではあるのですが、その点伝わったのかなと思うとよかったです。女性的な語りというのは、演出としてなんとなく入れたくなってしまう事もあるのですが、女性的な語りによるささやき声みたいなのに対して憧れみたいな物もあるのかなぁというのはありますね。むさいおっさんの声でもいいのですが、どうせならやさしく突き放されたいよな。物を書いたり読んでいる時くらいはみたいな意識があるのかなと思います。ここら辺は僕の好みであるかもしれないのですが、そこら辺がなんかしら作用を産んでくれたらいいですね。 レスありがとうございました。 嬉しかったです。 (四海)

2021-04-03

白川ロイヨさん こんにちは。 「不均質な流砂」ってフレーズなんですが、着眼点っていうんですかね。タイトルなんか見ると、正に「着眼点」みたいな所の話というか象徴的な比喩みたいな物かなと思っちゃうんですが、流砂の一粒一粒って遠目で見ると均等な砂が落ちているイメージしかないんですよね。でも実際マクロな視線とミクロな視線で物を見た時に物の見方って変わると思うんですよね。顕微鏡で見る世界みたいな事でもいいんですけど、要は目という機構が捉える世界は所詮視界であって、視力によって見え方みたいなのって変化する訳ですよね。 という所で色々考えたんですが、作者像みたいな考え方があったりします。語り手ともいったりしますけど、この場合は像の方が結構重要な要素なので、あえてこういってしまいますね。日本語の形というのは一人称の語りに適した構造をもともともっているなと思っていて、三人称の語りといっても語りて目線からの物の申し方という構造になってしまうので、結果的に神の視点という言われ方をするようにある一点からの語りという側面を拭いきれないものだなと思っています。そういう意味でいうと、語りそのものを対象化して語るのが苦手だよなとも思っているので、ある物事を説明するときに作者の意図みたいな物を排除しながら語るのって逆に難しかったりするのかなと思ったりもするのですが、ある目線の中において何かを語ろうとするときは結構便利だなと思ったりします。 と言った話を持ち出したのは、簡単に言ってしまえばまなざしの鋳造ってどういう事なんだ等と思ったときに、行ってしまえば目線を鋳造しているのかなと言った感じです。読み手が本作を読んだ時にどういった効果が得られるのかという話題で読むと、個人的には面白いなと思います。 本作の始まり方を見てみると、いきなり目線というか物の見方の話をしているんですよね。具体的には多分すっごいミクロな物の見方から始まっている。 >不均質な >流砂がさらさら >落ちる >さなか >溶けていく >きみのまなざしの >熱量の >時間積分が >溶かすのです 不均質って言葉が面白いですね。 これ、僕だったら不均等って言葉を使ってしまいます。流砂って多分遠目からしたら細かい砂が地面の中に吸い込まれていくような現象の事を指していて、で、落ちていく砂そのものにフォーカスって当てないと思うんですよね。言って仕舞えば砂時計の砂って均等で、均質な砂の粒が一定の時間内に、一定の質量の同じ物体が落下するので時間を図る事のできる装置だと思うんですけど、そういったものの見方を否定していますし、もっと目を凝らしなさいみたいな話をしているとおもうんですよね。という所の終着としてまなざし多分おいえていて、まなざすという事はその対象を見つめる目線がある訳ですが、そこに二人称を使っているというのが面白いですね。その目線を見ている私がいるという語りによって、一人称の語りでは見にくい目線の分をここで像に起こしています。 というのと、そのまなざしの時間積分が、不均等な物質を溶かしていって、溶けてしまうという事は言ってしまえばその不均質さが溶けて均一になってしまうってことですね。で、これがまなざしの力だよねって話だと思うんですけど、この着眼点って面白いなと思います。つまり、不均質な物はまなざしによって溶かされ、液体となる訳ですが、その液体の均質性って個体であったときに比べてならされると思うんですよね。そして、やっぱり個体が液体になるためには基本的に熱が必要であって、その熱を持つためには時間が必要みたいな事を言っているんですが、それっていいなと思いました。言って仕舞えば、まなざしが不均質な物を溶かす時には時間が必要であって、時間が不均質な物を溶かすっていってるんですね。 >あちらこちらに >気をとられ >うつろう >一秒毎が >溶かす >不均質は >まなざしを >媒介に >きみの >半生を >つぶさに >集め >凝縮し >粘っこい >液体として っていうのがここまでの読みですね。熱量によって溶かされた君の言って仕舞えば語りとでもいうんでしょうかね。自分の半生を言葉に起こして語る時に、言って仕舞えば余計な部分はそぎ落とされて単純化されていくみたいな感じ。若い頃の自分はこうだったみたいな自慢話を想像するとわかりやすいでしょうか。そういう語りをするときに、多分綺麗な物語の部分だけが提供されて、過去の自分が語りたいそれは熱量を持って生きていた生の実感の部分だけを切り取るような語りの中に自分のまなざしを投影して書き起こす時みたいな感じですかね。とはいってもそんな綺麗なニュアンスの事を本作が語っているかというとそうではなくて、これの続きそれから本作の持つ粘り気のある文体や行訳のリズムがそれを許していないので、まだ先がある所が面白い訳ですね。 >きみの手で >丹精を込め >作りあげられた抜け道に >ぼたりぼたりと >落ち >不恰好な >成長を >遂げ >てらてらと >不均質な >固形物となるのです >ゆらいだ >不安定な >連続した >暖色の >まなざしで >きみこそが >鋳造する >いびつに >かくかくと >そびえる >もはや >流れる必要 >なんてない >固い固い不均質 これ面白いのが、液体になると多分均一になるのかなと思っているんですけど、それをある種の鋳型に綴じこめると質の異なるもの蛾出来上がるって言ってるんですよね。 つまり、液体になった瞬間は液体状になった物の中は均一になるけれども、それが鋳型へ地層が積もるがごとく、ぼたぼたと堆積していけば、その層毎によって質感が異なる物体が積み重なった物が出来るみたいな事を言っています。 ここら辺は直感的な読みになりますが、言って仕舞えば人生のステージ事によって語る自分の半生の話し方というのは、そのステージ事によって切り出される瞬間は均質な語りであるけれども、それの堆積物というのは人生を振り返ってみてみると、多分中身が変化していく。それは10代の頃に見ていた世界や自分のとらえ方と、30代になって見えてくるものの捉え方が変化するようなものです。もちろん変わらないものもあるし、根本は同じ鋳型の中に落とされる語り(まなざし)であるのですが、それは流砂の中に落ちていく砂粒の質感によって左右されますし、はもう既に固まった固形物と同じ綱粒が常に落ちて生きている訳ではない訳からですね。ただ、その微細な変化に君が気が付いている訳ではないように思います、なので、私というかきみのまなざしを見つける語り手が本作には必要だったのかなと思います。 みたいな感じの事を思いました。少し強引に読んだ所もありますが、こんな感じで読んだので破綻みたいなのは感じませんでしたし、読み味もすっきりしました。使われている語彙も、若干難しかったり、連訳されていない所から区切って読むのが難しいという印象も持たれかねない所もありますが、こうして示している通り、僕が読んだ範囲内ではこの文体やこの形式や選ばれた理由は、語りの質感の選択としてあっている事からそこら辺の文句はぶっちゃけいちゃもんに近い感じですね。 という訳で寸感程度のものですが、僕の読みは以上になります。 ありがとうございました。 (まなざしの鋳造)

2021-03-22

白川ロイヨさん レスありがとうございます。 なんか頂いた言葉でなるほどなと思う箇所ばかりで、ありがとうございますという感じです。 >私には救いがある明るい詩に読めました。 これは僕自身の書いている時のテンションみたいな所もあるし、自分の作品を対象化して受け取るみたいなのが割と苦手ではあるので、自分の作品が僕は読めないんですね。レスを貰うと気が付かせてもらう事って滅茶苦茶あって、それは酷評でも好評でもというか所謂評価軸の判断みたいな所で気が付く事もあるんですが、大抵の場合は、こうやって素直に読んでもらった感想をもらったときに見えてくる相なんですよね。(だったらなんで酷評ギルドやってんのかみたいな話でもあるんですけど、ここら辺は真剣に相手の作品と向き合ってレスを書く時に嘘を付かないみたいな所でもあるので、それはそれって話なんですけど)といったときに、確かに作中話者ってもう既に救われているのかもしれないなと思いました。なぜかといったら、それは >そこにいてくれるだけでいいと言える存在がいること、元気でいて欲しい存在がいることはその時点ですでに救われているように思えました。 >>> だから菊水をそのまま飲むしかなくて >も >飼われるネズミが >>> ゴキブリと大して変わらな >く見えても >>> 水も卵も腐りかけてい >ても >>> きみならそう言ってくれると思うんだけど >>> どうかな? >と思えることですでに人生は救われているものではないかな、なんて感じます。 この関係性が描かれている訳で、作中話者にはこういった話題を呼びかけて話せる対象が存在しているからって事ですよね。 >以上の目線で作品を読み解きますと >作品中でも言及されている >>> 沸かした夜がどういう夜でも >>> 感情があるのは、いいことだよ >という言葉こそが最も大切な言葉なのかも知れません。 >感情があるのはいいことだと言い切っている、自分がすでに救われていることを半ば以上確信しているのではないでしょうか? ここもなるほどって感じで、いやおっしゃる通りだなと思いました。結局のところ、世界の終わりみたいな事をしゃべっている時に、多分ですけど喋っている相手が目の前にいて、この作品の中で語られている会話が出来る状態である事って、滅茶苦茶幸せだろうなと思いました。本当に世界が終わってしまって、終わってしまう事を一人で確かめないといけない状態になる時に、感情を共有する相手がいないという状態って不幸だよなと気が付かされました。そういう意味で、結局のところ、僕自身が志向している作品の描き方って結局の所話せる相手がいる事って幸せだし、それでいいんじゃないのかなみたいな所に落ち着くよなという事にも気が付かされました。最近、僕は結構作品を描く事自体がコミニケーション的な所から逃れられる事ってあんまりないよね(それは誰かに読まれるという事をこの場で要求しているという前提があるけれども)と思っていて、そこら辺の喜びっていうんですかね。それが会話の節々で、描かれている言葉そのものの意味というよりは相手がいてその相手に対して言って仕舞えば下らないやり取りが出来てしまうということの愚かさというか幸福(なので世界は本当に終わる訳ではないみたいな感じ)って発想につながっていくのかなと思いました。 >で問題は >>> 私たちという偶像 >からの連です。 >まず感想としておしゃれで大好物です。言葉のエッジも効いていて流れとしては効果的だと感じます。 >ただ意味を語る詩としてその必要性があるかどうかは正直よく分からないでおります。 >>> やぁ! ここに居ましたか >>> 探しましたよ >へと続くための「あなた」への道標かしら、ととりあえずの納得をしました。 >そう考えるとすっきりはするな、と。 ここら辺の指摘については上記書いた返事からもっていくと、確かに不自然な展開で、前段の内容と切れてしまっているなと思いました。つまりあなたとの会話が切れてしまっているみたいな所で、概念を平すら並べているだけなんですよね。この二連については概念同士の対話と、対話していくことでずれていく事、ずれていった先にあなたがいるみたいな感じの思いがあったのかな、とか白川さんからの指摘を受けて自分で思っちゃうんですけど、今思えば多分作中話者とあなたでもっと会話させた方がよかったなと思いました。 多分「一」の連の主語を作中話者において、そのあとの連をあなた目線を主語にして語らせるとかですね。展開の仕方がぶつ切りで、これはいかんなと思いました。ご指摘ありがとうございます。 >のです。この二つの連は構造として複雑ですね。 >ただ考えてみると「赤ん坊の鳴き声」が落ちるのは「空間の隅」ですし、「ミサイル」が落ちるのは「遠い都会」です。 >私の世界(というものがあるとした)には落ちない。 >となるとこれ世界、終わってないんじゃないかと勝手ながら妄想しました。 > >腕一本を用いて筆者がどこかの世界を比喩を用いて終わらせた。 >前向きに進んでいく詩なのでは?と思えてなりません。 ここら辺は割とその通りだなと思ってしまったので僕からいえる事はあんまりないですね。 こうして答えてしまうと答え合わせみたいになってしまってしょうがないんですけど、でも実際はそうじゃなくて、こうして指摘をもらって自分で書いたものが分かってくるというのは正にこのレスだったりしますね。なぜ腕一本なのかというと、例えばこの詩を書いている人間を主語にするでもいいですし、特に設定は書いてないので、作中話者やあなたに対して読み手側ですきなものを代入してくれって感じなんですよね。多分そこら辺の細かい指定を進めて行くなら僕は多分小説に起こした方が伝わると思ってしまうから。そうではなくて、僕がやりたいことっていうんですかね、それってこの会話の中でやり取りされる事の全や、応答であって、応答の中に展開される目線のやり取りみたいな所だったりするんですよね。なので、行ってしまえばこの作品に描かれている世界の終わりは腕一本で書き上げた世界の終わりであるし、あなたに対して喋ったことですっきりしてしまった世界のお話であるし、なので、次の世界に生きましょう見たいな感じで締めくくってるよなと思いました。 みたいな感じで白川さんからの指摘を受けて自分の作品から距離をとって再解釈する事ができました。 >そしてここに描かれている語り部の内的動機って実はかなりしょうもない感情なのでは?みたいに思えます。 >例えば走れメロスの執筆のきっかけのようなしょうもなさが根底にあるのでは?と。 >酷評ギルドということで甘えた表現をしておりますが非常に好意的なコメントのつもりです。 >そのしょうもなさを作品に昇華する、という構造はとても好ましく思えます。 この指摘についてはおっしゃる通りだなという感じです。僕が書いている事の根底みたいな部分を探っていくと、結局の所書くべき事なんてどこにもない、あるのは女々しい感情がついて回る出来事ばかりだみたいな着想があるんですよね。なのでしょうもない始まりをどうやって書いて行くのかっていう動機はしょっぱいけど描き方はいくらでもあるよね。みたいな所でしょうか。なので、ベースは世界終わってるよね(いや終わってんのはお前の方だよ)みたいな始まり方なんですけど、それをどういう風に組み立てて物を書いて行くのかみたいな所ではあります。これ自体がどうしようもない考えだとは思うんですが僕に書ける事ってそれくらいなんですよね。走れメロスも結構ちゃんと読んでいくと割と滅茶苦茶でいい話じゃないよなみたいな突っ込みができるけど、なんかいい話みたいな感じで読まれてますよね。でも始まり方は印象的で多分読んだ事ある人ならわかるだろうなっていうライティングの強さはあるし、読ませる側の意識を酔わせる力ってあるよねみたいな所で、突っ込みどころは満載だけどでもなんか受け入れちゃうみたいな所の強さは手に入れたいな見たいな思いはあります。 >以上のように読むと詩として閉じた世界を構築なされているように思えます。 >そして読み応えもありますし、その向こうにある語り部にも手が届く気にさせてくれます。 >ただ以上の感想のようにじっくりと濾過して読まなければ修飾語句に目を奪われがちかも知れません。 >そんな言葉で締めさせていただきますが、この言葉は酷評ギルドということでひねり出した気もします。 この点については確かに課題だなと思います。というのは、結局の所この作品で使っている展開についてはABさんのレスでも書きましたが、手癖に寄っている部分があるというのと、「一つの」で始まる所や概念をぶつけている箇所の書き方自体が少し派手で、不細工って所ですね。最初の話題の提示の仕方や菊水みたいなガジェットの使い方も変に惑わせる要因かなと思います。後は作中話者とあなたの目線をもう少し分化して読みやすく加工するみたいな作業は必要かなと思いました。ここら辺の書き方は割と感覚で処理しちゃってるので、右肩さんのレスでも少し書きましたが、作り物みたいな意識や作中話者の会話している内容の肌触りみたいな所が人工的にならないようにしつつ、読み味を付けられたらなと思います。 レスありがとうございました。 (世界の終わり)

2021-03-09

ABさん レスありがとうございます。 >力作で、好きな雰囲気です。 >抑えたままの描写でも徐々にたかまって、一度も~~でたたみかけるような感情になっていくのも、意味としても、音としても、感情移入としても読み手と書き手と相互反応があるようで、いいなぁ、と。 この作品の構造というか僕自身の手癖になっちゃってる感じなんですけど、そこら辺を端的に指摘いただいたという感じですね。ここら辺が所謂作り物みたいな印象を持たれてしまうかなとは思うんですけど、作品を作る時の流れみたいな感じで、意識している部分は結構ありますね。僕なりの起承転結というよりは序破急に近いかもしれませんが、みたいな物を作品の中に持たせようとするとき、大抵こういった作りになってしまいます。とはいっても、適当にじゃぁ書いてるのかというとそうではなくて、読み手を引き入れて作中にとりませようとするときの始まり方は何が適切だろうか、というのは自分が読み手であったときにどういう始まりなら引き込まれてどういう展開を進めて行けば読まれるだろうかといった漠然とした疑問に対する回答だったりするんですけれど、なのでかけられる音楽はないけどちょっと聞いてよみたいなスタンスっていうんですかね。そこら辺は地味に大事にしていたりします。 >最後もいい。これでいいのですが、違う言葉と光景も眺めたいと欲も出てきます(これも魅力かもしれません)。 最後の締め方についてはそうですね。今回出してみて、割と急に最後終わってしまっちゃったかなと思っています。ここら辺は改善が必要だと思うので、今後の課題ですね。といってもいつも僕の中で疑問なのが終わり方ですね。終わらせることはこうして少しかけるようになったのかなと思うんですけど、なんか終わらせるために終わらせてしまったような気がしていて、終わらせるために終わらせない為には長く書いて落としどころを探すくらいしかないのかなみたいな感じで思って銃声みたいな物を書いたりするんですけど、長すぎても退屈になってしまいますからね。 今後の課題として、短いストロークの作品はちょっと書いて行かないとなと思いました。ただ、色々褒めていただいて恐縮というかありがとうございました。次も頑張ります。 レスありがとうございました。 (世界の終わり)

2021-03-09

鳴海幸子さん レスありがとうございます。 なんだかんだこっちでお話するのは初めてですね。 >だいたい2か3行ごとに同じ事について書かれていて、そのなかでは同じ名詞が2回繰り返されるのですが、この2という関係が会話のようにも見える発言をする語り手2人の役割を映しているというか、別に必ずしも以上のように表現するべきという訳ではないのですが、そういう構造=型がありますね、そうでしょう? 語り手というものが二人出てくるというのは、最近というか多分これから僕の中でスタンダードにしていきたいなと思う、書き方ですね。作品の中の話者を複数で描くというのは脚本形式の作品だとよくあるし、小説では割と当たり前の書き方だと思います。詩の作品でも結構前例がありますね。と言ったときに僕がやりたい事っていうのは語り手の顔を見せずに会話のやり取りだけをはく奪してここに置いていく。その中の制約としては一応コミニケーションの応答は残しておこうかな見たいな感じですかね。なので、必ずしも綺麗に分ける意味というのは設定されている訳ではないので、流れの中で必要なやり取りについては話させるし、必要じゃないなと思ったら未分化な状態で放置します。明確な語り手の造形が浮かび上がらないようにしながら、ささやき声だけがやり取りされている空中戦みたいな感じで描ければいいな見たいな感じはありましたね。みたいな所でぼくの思惑はこんな感じでした。 >というのもボクは、ちょっと思想しながら書いています。詩ってどうやって読むものだっけ?って全然分からないまま書くので、許して。 なるほど、僕も詩の読み方って未だに分からなくて怒られたりするんですけど、なんか大体レスもらって嬉しいなって思うときなんですが、思ってる事正直に書いてもらうのが一番いいですね。思われたってことは多分ここに書いてあることからそれが想起されたってことなので。偶に本文以外の所からの着想に引っ張られてみたいな感想をもらうときもあるし、自分でも書く時ありますが、それこそ書かれてない事なので、なんか話がずれていくんですよね。余程あたまよくないとあれは難しいです。って所なので書いてある事や読んで思った事は書いてくださるとそれだけで僕は非常に嬉しいです。 >もう、全面的に、意味はいらないと思うんです。最初の連で前口上として >音楽もかけられないけど >とあるのは、あたかも詩を読むときは音楽をかけることが当然であるかのような言い方ですが、けっこう賛成しちゃう気持ちがある。さっき言った「型」さえ分かっていれば、調性を守る音楽みたいに、意味がなくても読んでいてそれなりに気持ちいい。この詩も結構飛躍した論理や表現があるけど、気に留めないので、単に気持ちいい。 >ここで、最後の方は気持ちよくないんですよ。何が「世界の終わり」だって思う。ミサイルだとか赤ん坊だとか意味が溢れて、それが急速に詩の構造を破壊して、唐突に終わるという感じがする。しかも、「世界の終わり」、何が。金と食べ物とセックスの話してりゃそれでいいのに。 ここら辺は右肩さんのレスの中で返した回答の中でもあるんですが、ここに書いてある二人の話者の在り方自体に対して分かり味はあるけど、でもそれはそれとして世界なんて終わりませんよね。あるとしたら自分で命を絶つというありかたで、自分という世界を終わらせることはできるかもしれないけれど、その強さを持った人というのは多分黙って死んでしまうような感覚があるので、こういった会話をする力すらないのかな、なんて思ったりするので減らず口で話している正に意味の無い会話で、意味の無い会話を音楽にしているから、音楽はかけてもしょうがないんですよね。音楽をかけて話す会話には安らぎや興奮があるかもしれないですが、ここにはそういうものは必要がないので。という訳で意味がないけどなんか終わってんじゃね? みたいなそぶりの会話が続いているのですが、その中にあるのはこれは個人的に鍛えてきた書き方っていうか文体のやり取りしかないんですよね。ここら辺は右肩さんのレスでも回答した、自分の中でコントロールできるライティングの所作であって、ここら辺については文章書いていればそれぞれが鍛えられていく技術だと思いますね。僕はこういう文章を読んでいるだけで気持ちいいと思うのですが、皆さんもそうじゃないですかね? みたいな意味のない同意です。人間の感覚に寄り添った気持ちよさというドラッグですね。そういうものがまずないと僕は物を読む意味がそれこそ欠落してしまうので、中々見つけるの大変だしこういう書き方の持つ限界みたいなものもあるので、次を探さないといけないのですが。 >結局、詩中並べ立てられたいろいろな話題というのも、話者2人の微妙な関係性を描かんがためなんじゃないでしょうか。お互いの表現を真似しあって、でもどこか同一の何かになれないでいて。だから「世界の終わり」に対する2人の描写というかテンションが違う。腕が一本。(まだ見つかって、ないんだろうを導く枕詞ではありますが)特定の比喩、おそらくは暗喩、は何なのかさっぱり。詩の外にある力で終わらされたみたいで、くやしい、というのが感想です。 ここら辺については読んでいてなるほどなと思いました。割とこういう意識で書いていますみたいなのを最近は結構レスの中で開示するようにはしてきたんですけれど、流れで書いているところも結構あるので、全てに意味があってこういう立て付けで書いているという訳ではないんですね。でも書いて出したものを読んでいて、読まれた時に自分で知覚しきれていない感覚というのはあります。それを暴かれるのがコメントであってレスを貰う理由で、それ以上にエキサイティングな事って正直僕の人生には多分ないと思う。なので、僕がここで書いている二人の関係性って結局のところ僕がそういう関係性を持つことを望んでいるのかもしれないですね。でもそういう現実ってありえないので、腕一本でこれを書くという現実しかないよね。世界なんて終わりませんよね。何を分かったつもりで二人分の悟りを書いているのかしらあなたみたいな声を多分ここで書いているだけなんですよね。膨大に最後に溢れる意味やモチーフに耐える事のできないのに、簡単に世界が終わってしまっていると語ってしまう語りてを破壊する全ての比喩一つ一つの在り方に耐えられない「わたし」というものを嘲わらう暴力としての世界の終わりは卒業しましょうね。みたいな感じかもしれないですね。 詩の外側にある力というのはその通りで、これも右肩さんのレスで書いた事であるのですが、これ自体がメタ的なバックもっていて、それをあまり作中の意識として開示していないってのはあるかもしれない。それは言ってしまえば「関係性という目に見えない対話」ここに溢れているのだとしたら、多分僕はこういう事を託せる何かをこれから探すかもしれないし、描くかもしれないですね。ってもここら辺を意識が知覚した所でそれを書けるのか、あるいは認識できるのかといいうのは別物なんですけど。 という訳で色々な事を考えさせられました。レスありがとうございます。 (世界の終わり)

2021-03-06

福丸さん レスありがとうございました。 また、こちらでも返信が遅れて申し訳ありません。 >一歩間違えるとこうなる危険性があるということですね。肝に命じておきます、退廃した世界が素晴らしく良く書けてると思います 一歩間違えるとこうなってしまうみたいな感覚ってあるのかもしれないですね。いまの自分が歩いている道は正しいのかもしれないし、安全かもしれないが、踏み外している、いつの間にかみたいな感覚でしょうか。個人の感覚を巨視的に拡大して語る事ってあんまり信用できない感じあるよなと思う一方で、一人の人間が見出した感覚って通用するときもあるよなと思ったりするので中々難しい世の中だなと思ったりします。世界はもう終わっているのか、いや終わってないじゃんみたいな感じの感覚の底に落ちている栗を拾ってあげて偶には見つめるのも大事かななんて思いました。 レスありがとうございます。 (世界の終わり)

2021-03-06

右肩ヒサシさん レスありがとうございます。 お返事おくれてしまってすいません。 >この作品、決して悪くないけれど、言葉のコントロールが利きすぎていて、地から足が離れるような制御不能な高揚感は得られません。言葉はものの実在と結び付いているはずなのですが、ものは非常に残酷で、その前に立った我々、主体としての意識は、詩の中でも卑小なはずだ、と僕は思います。言葉は言葉の埒外のものを背負うはずではないか、と。 そのあたり、表現として何とかならないかな。自戒を込めて。 これを書いている時の感覚というのは、まさしくそういった感覚でしたというのはあるので正直に言ってしまいます。これを書いたのは「対話」を書いた後の数十分後なんですよね。そして対話を書いている中でも書いているから書いているみたいな感覚が出てきて、これを書いた時は、まさしくそういう意識で書いていました。というとき、そういう作品は僕の中では手癖で駄作だなと思いながら書いている。そしてこれもまたそういう意識で書いたものであって基本的には棄却されるべき作品であるなという自覚があります。タイトルや話題の内容も極端であって、捨てられるべき意識の全てなんですよね。っていう事を考えた時に、子の作品は言ってしまえばそう意識でもって世界を語るお前こそが終わっていると明言している作品であるという感じですかね。ややこしいですが、要はその発言をする時やしてしまう話者そのものののつ意識のくだらなさを自覚できない話者たちのなぐさみとしてだったら世界なんて終わってしまえばいいのに(でも世界なんてそんな簡単に終わりませんよね)みたいなメタネタではありますね。自分の意識化において物を語るという行為はやはり傲慢なものでしかなくて、結局のところ物を書くという行為は事物によって語らされていると思った方が正しいのかもしれないですし、それを凌駕する感覚を持って書いている人もいるかもしれない。それはまさしくライティング的な感覚でもって書かれた作品、行ってしまえば読者にとって良い作品という言説でもって語られてしまう事なのかもしれないですけどね。 何が言いたいのかというと、世界の終わりみたいな感じで語る人達はそれでも生きてるじゃんね。世界なんて終わってないのに世界が終わりだなんて言ってしまうのはどうなの? みたいな冷笑の元に語り手たちは生きている訳ですね。って事を考えると、この会話の内容ってまさしく頭でっかちな意味異常のものはない、開き直りが展開されているので、最後はもう世界を滅ぼすしかないんですね。みたいな感じです。 「言葉は言葉の埒外のものを背負うはずではないか、と。」 ここら辺は確かにそうだなと思うんですけど、じゃぁ僕たちってもう自分の意志や嗜好で物を語る事って意味がないんじゃないの? とも思っちゃったりするんですよね。沈黙は金とかよくいいますけど。言葉が言葉の埒外の物を拾う瞬間に出合えるまで多分書いていくしかないはアンサーだとも思うんですけど、とはいえこうして吐き出されるある意味俺は悟ってしまったんだ見たいな明言の裏側で語られる言葉というのはこれにはあって欲しいなと思ったりします。ここに書かれている感覚は信頼できない。ならば信頼できるものは細部に現れてくれないかみたいな賭けをここでは展開していたりするのかな。まぁここら辺どうここでいったとしても、書いてない事を読んでくれなので言い訳になっちゃうんですけど。という訳で、その感覚はわかるんですけど、それは狙って出せるものでもないし、出せない状況化でそれはこの作品を書いている時のようなマインド化において、何を語る事が出来るのかみたいな所でこれは向き合って書いたと言えば書いたという事になります。がアンサーです。 ありがとうございました。 (世界の終わり)

2021-03-06

福丸さん レスの返答が遅くなってしまい、申し訳ございません。 >戦争は怖いですが乱雑に捨てられた人形も怖いです。ただ、「会話」そのものは生き生きとしていました 戦争ってよくわからないなと思う事ばかりで、これは幸せな事だと思うんですが、戦争を知らないという事と戦争を知っている事の境目って結局生まれた時代や環境の差異でしかないし、その差異を積極的に埋めていくだけの知力や胆力を持つ前に、目の前の事も出来ないのに遠くの海の向こうを想像する事の意味だとか愚かさみたいな事もなんとなく考えてしまうんですけど、ただ、もう死んでしまった人達が残した話だとか、墓石みたいなのは残っているので、そこから雰囲気を感じとる事はできますよね。その意識をどう取り持つのかっていうのは、割と自分の中の対話であるかもしれないんですけど、偶に跳躍するときがあるとしたらそういう瞬間って描く事できるよなと思いながら書いたり書かなかったりしました。会話とは会って話す事ですけど会わないと話せないのかという訳じゃなくて、対象がいれば多分会話はできるんですよね。なので対話にしたのかなとか思いました。的外れかもしれませんがそんな感じです。 レスありがとうございました。 (対話)

2021-03-06

羽田恭さん コメントありがとうございます。 こんばんは。 最初の始まり方ってやっぱり大事だと思うので、 気になるように書きたいなと思って書きました。 やっぱり捕まえに来ない作品なんか読んでて楽しくないなと思ちゃうので。 読んでいて体験になるようなものにしたいなとは思うんですけど、 それを意図的に書くのは僕には無理なので、こういうの狙ってかいても大体つまらない物になっちゃうんですが、 なんかいい感じになればいいなと思ってこれを書きました。 黎さんの作品は言われてみてきたんですが、確かに()を作中で使われていますね。2月の頭の方は掲示板あんまり見てなかったので、指摘を受けて見に行ったという所もあるので、偶々似ちゃったとしか言えないんですが、()って色々使いやすいんですよね。内省的な語りでもいいし、声を複数忍ばせる時に使えたり、僕が()に影響を受けた作品は三十括弧を使う事で、世代を表現したりしていますし、僕もそれを真似て過去包茎の形を表現したりしました。という所で、()を使うときってなんでも出来るので、何でもできるようにはしたくないなという思いがあったりなかったりします。この作品においても書いている途中で多分一番意識したのは括弧なのかなと、思い返して思いました。もちろんそれが伝わるかどうかというよりは、やっぱり明確な殺意を持って表現って忍ばせないとダメだなと思います。そうしないと多分気にならないのかななんて思いました。 レスありがとうございます。 (対話)

2021-02-25

白川さん こんにちは。 正直ぴんと来ない所も結構あるし、そこらへんは真清水るるさんの感想や、なかたつさんの感想で代弁されている所もあるのかなと思うので、僕なりに読んで思ったところを書いて行きますね。 まずは、少女が出てくるのは、行ってしまえば二連目の所からで、最初の連については全く出てこないんですよね。って所を考えると、一連目の内容で描かれているのが、偽物と断定されて落されていく感情だとしたら、それを拾い上げる存在が少女なのかなって所ですね。 少女って色々なところに出てくる話だなと思っていて、少女をこの場合象徴的に読むのか、たとえば時間の経過から読んでいくと私と少女の年齢の離れから読んでいくと、少女は私の好きだった人の娘みたいな感じで読めるともいえるし、過ぎ去った過去の自分とも言えますね。この場合は少女性みたいな話になってくるので、ややこしいですが。少女性みたいな事を考えるだけで、多分色々な事が語れるので、ここでは取り合えず読める範囲で読んでいきますね。 >感情の昂りが > でっち上げられ > 四半世紀が経っていた 感情の昂ぶりがでっちあげられるって言い方なんですが、タイトルの贋作に比べてちょっと下品というか、突き放すような言い方をしてるなと思います。それから、感情の名前って沢山あると思うんですよ、喜怒哀楽とか、愛憎や好悪でもなんでもいいんですけど、ここでは感情そのものに対してでっち上げている訳ではなくて、その昂ぶり方に対してでっちあげでているみたいな書き方をしていますね。ここは始まり方として、ただ投げやりになっている訳じゃないなと思うので面白いです。感情をコントロールしているような操作をしている話者と、そのコントロールの仕方自体を自分ででっち上げと嘲っている様子がこの三行で見えてくるっていうんですかね。そのまま25年経ったという訳ではなくて、4半世紀たったという表現にしているのは、これは個人的な感覚ですが、人間の一生を100年としたときに、その4分の1自分の感情の昂ぶり方に対して嘘を付いてきたのだなと思われます。言ってしまえば、時間の長さのイメージ付けをここでしているのかなと思う訳です。25年経ったという事は、この話者の年齢を考えた時、多分大学を出て社会に出た人間であるとするのであれば、仕事をし始めて数年は確実に経っているなと思います。また、昂ぶり方をでっち上げ始めてから4半世紀であるので、本当は多分30歳くらい過ぎているのかなと思うと、人物像が見えてきます。 話者のイメージというのは虚像です。そのイメージは書かれている内容から全てが浮かび上がる訳ではありません。ですが、この三行があれば、ある程度想像が付くのですよね。そう考えると、この三行は仕事をしていますし、ここで提示されたイメージを共有出来る人にとっては、とてもいい始まりだなと思います。 >喉の奥から > 薄紅色の雫が > ボタリと落ちた >左手で雫を > 拾い上げようとした > 掴みそこね > 火傷した >痛みの走る掌を > じっと眺め > 痺れる首筋に > そっと触れた 「薄紅色の雫」とは何かというのは、正直あんまりピンと来ていないです。ただ、ここまで読んできて思うのは、雫というのはエッセンスだと思います。先ほどの読みから連想して思いつくのは、感情の昂ぶりの正体というか、でっち上げてきたものの結晶が喉の奥にため込んできたものが、薄紅色の雫となって、排出されたという事でしょうかね。これはでっちあげという言葉のニュアンスからの想像になりますが、でっち上げるっていう事は、でっち上げている意識がある訳で、その言葉の持つニュアンスから、おそらく話者がその意識を抱えているという事はあまり喜ばしくない事なんだと思うんですね。なので、薄紅色の雫として排出するのですが、それは自分が意図して抑えてきた本当の感情の昂ぶりであって、なぜ抑えてきたのかというとそれに触れてしまうと火傷をしてしまうからです。 痛みというのは、痛みを感じる事で、細胞が壊死している状態から身体を反射的にその状況下から突き放そうとする神経の反応だと思います。言ってしまえば、痛みを感じなければ人間は火事のなかで苦しんで死なないともいえる訳です。窒息して死ぬことは苦しいかもしれませんが、例えばナイフで刺されて死ぬとき、その死にゆく時に痛みを感じなければ多分いつの間にか意識が薄れて行って出血多量で死ぬと思います。 なので、排出されたこの雫は、話者にとって火傷を起こす象徴であって、それは体内にあった感情の昂ぶりを起こすトリガーとなるエッセンスであるという事を思いました。だから、感情の昂ぶりをでっち上げてきたのですね。この思いを持っていると、火傷してしまうからです。そして、その火傷が出来てしまうと、過去の自分の失敗が想起され、精神的な痛みが襲ってきます。 >痺れる首筋に > そっと触れた という訳で、ここはトラウマを思い出して心の神経がしびれる描写ですね。という訳で、痛みの描写が二段階書かれているのもとてもいいです。 という訳で、ここまで読んできて、僕はあまり破綻を感じませんし、内部に流れるストーリーを感じます。提示されている情報自体は少し隠喩的というか、あえて描いていない所と、描かない事によって浮かび上がらせようとするイメージがあって、その味わいを楽しませるための導線は引かれている印象です。もちろん、明示的に書いていない所というのはあるし、精読する事によって見えてくる箇所は滅茶苦茶あるので、読みがいのある作品だと思います。 という訳で、次に少女がでてきて、 >少女の > 左手は私の右手を強く握った ここにつながる訳ですね。これは自分で触れようとしたら火傷してしまった左手を使って火傷していない私の右手を使うという細かい所ですが、とても意味のある描写に繋げています。 >左手で雫を > 拾い上げようとした > 掴みそこね > 火傷した 後、これはかなり重要ですが、シーンの切り替えとして、いきなり少女の左手が「私」の右手を繋ぐという描写を書かずに、 >少女と > 手を繋いでいた この一行を入れている意味ですね。 この一行がシーンの転換を意味しているとも言えるけれど、この作品は言葉数が少ないです。 その中で敢えてこの二行が入る意味って、話者にとって「少女」と「手を繋いでいた」という過去にあった出来事かもしれないですが、この出来事がとても大きかった事を意味していると思います。手をつなぐという何気ない一文にこそ意味があります。そこから全てが始まったという事がとにかく大事。だからここでも象徴的な動作として、手と手をつなぐ事が、おそらくですが、火傷をしていない右手と、少女の左手が結ぶ事に大きな意味合いが生まれてくるわけですね。 >左手は私の右手を強く握った 更に言ってしまえば、この握り方も重要です。手の握り方って感情が出るんですよね。正に感情の昂ぶり方ってここに表現されます。人間が出ると言ってもいい。手を握る時、本当に触りたくない相手だったら指先だけで済ませるだろうし、手汗が多い人だったらその手汗をふき取って遠慮がちに済ませるだろうし、身体的な接触をしたいだけなら両手を使って包み込むように手をつなぎますよね。 また、この関係性を更にみていくと「私」は少女の手を強く握り返している訳ではありません。少女が一方的に強く握っているという事が分かります。 > 手先は冷たい > 重量は私に預けられている > とても軽い > 花束ほどの重さだ ここの描写はピンときていない所が結構あります。が、読める範囲で読んでいきましょうか。まず、花束ほどの重さというのを真正直に捉えると、人間の重さではないですよね。それくらい軽いという意味合いで、花束程の重さと花束を持ってきたのを単純なセンスとして捉える事もできますが、ここも象徴的に読んでいくならば、花束を渡すのは手を握る事に近い感情の発露の提示になりますよね。自分にとって好きな人や応援している人にたいして、門出の祝いや感謝を伝える時に人は花束を渡します。つまり、他者に対して自分がその他者に対してどういう感情を持って今まで接してきて、その人が提示している人生の成果に対してどういう感情を持っているのかを代弁する道具であると。(逆に言ってしまえば道具である以上、花束を渡せばそれで簡単に祝福を表現できてしまうという事にもなるので、もらった花束をゴミ箱に捨てるという事も出来てしまう訳ですが) 手先の冷たさは火傷と比較して読む事ができます。重力が預けられているという描写は次につながりますが、これって信頼性の描写だと思いますね。手をつなぐ事を許しており、そのつないでいる状態を相手はつないだ私に対して許しているし、重量を預けています。 この預けられた重さというのは、花束程に軽いという事は、花束の大きさにもよりますが、多分そこまで大きくはない花束なのかなと思います。そして、預けられているという自覚がある事もちょっと怖い描写ではある訳ですよね。言ってしまえば、少女から好意的に預けられた花束を私は捨てる事もできる、その手を流れるように離して地に打ち付ける事も出来る訳です。 >少女は > 身を乗り出し > 笑顔で言った > あなたをいつかどこかで見たことがある >少女の > 爪先が > 円を描いた > 雫を蒸発させた >雫のあった場所に > 太陽光が漏れていた ここの描写の中々で、かなり難しいですね。少女の動きにフォーカスを当てるところから始めていきましょうか。少女は身を乗り出して、私に対して言う訳ですね。「あなたをいつかどこかで見たことがある」だから手をつないできたのかともいえるけど、そういう訳じゃないかもしれない。つまり、いつかどこかで見たことがあると言ったのは手を繋いでからなので、手をつないだ理由はこれが理由じゃない。つないだ後に、少女が私のことを見てそう思った可能性もあります。というかそっちの可能性を僕は思いましたね。って所で、その言葉がトリガーになって、少女のつま先が円(縁)を描いて雫を蒸発させたともいえる。ただ、ここは難しい所で、この蒸発させたのはあくまで少女側の話なんですよね。ここに私の意志はありません。蒸発させたであり、蒸発させられたなのです。また、蒸発させたという描写と、円=太陽のイメージに繋げていく描写でもあるので、無駄が一つもありません。また、この暖かいイメージは最初の火傷のイメージにもつながっています。太陽の光は虫眼鏡みたいに光を集約させると火を放つほどの熱量を帯びますが、手先が震えているようなこの詩の場面においては、どちらかというと夏のような暑さを持つ光ではなく、冬の景色を溶かしていく柔らかな光であるようなニュアンスの方が強いですね。また、「雫のあった場所に太陽光が漏れていた」なので、これは沈むが落ちた場所のみに光が当たっている訳なので、この場面を説明するのであればこのようになるでしょうか。 ➀少女が空いている手(左手)のつま先を使って、雫が落ちていた場所を空中で円切り取るように描く ②円を描いた場所に太陽光が差し、そのしずくが瞬く間に蒸発してしまうほどの熱量を持った光が降り注ぎ、薄紅色の雫蒸発してしまう ③私はその蒸発する様子を光が漏れていた場面を象徴的に切り取ったという所から、この作中世界は空が曇天のようなもので覆われていて、  その空間に穴を空けるようにして光が降りそそぎ、雫があった場所のみにスポットライトのように太陽光が降りそそいだ光景を印象的に目に焼き付けられてしまう >私は > 言った > あなたと手を繋ぎはじめてもう四半世紀は経つのよ > 掌の火傷を > 握り締しめた > 少女を引き寄せ > 強く抱いた >少女は > すんなりと私の心臓に還っていった >心臓に手を当てた > 一瞬の不整脈を乗り越え > 平然としている > そして大声で叫んでいる >一種の愛情を > 成立させるために > 他の三種を > 謀殺せねばならない この最終連なんですが、今まで「私」という言葉を最初カッコで語っていたように、私ってここで初めて出てくるんですよね。 という事と、「あなたと手を繋ぎはじめてもう四半世紀は経つのよ」ここの描写が少女の意味に対して触れる重要なセンテンスになっているなという訳でネタバレの連になるのかなと思います。 まず、私の発言の「経つのよ」から、私は女である事が示唆されます。もちろんジェンダーレスな観点から断定する事はできませんが、ここでは少女との関係性が重要なので、単純に少女と話者の関係を男女や、ロリコン大好きおじさんみたいな物に落とさないという意味で非常に重要です。それから、4半世紀落としてきた感情の昂ぶり方のでっち上げという要素を考えていきます。「薄紅色の雫」というのは体内から吐き出されたものです。その重さは「ぼとん」というオノマトペが付いている事からも、少女と比例して重たいものであることがうかがえます。また、4半世紀かけてでっちあげてきたという枕の先に落とされたものであることや、雫というものが熱を帯びているものであり、火傷を引き起こす。私にとって痛み(肉体的にも精神的にも)を引き起こすものである事を踏まえていきましょう。 少女を手をつなぎ始めてきて経った4半世紀の末に、私は少女の手を離そうとしたのではないでしょうか。 少女は太陽をいつでも呼び起こす存在であり、また、恐ろしい事に、それを薄紅色の雫に込めて体外に吐き出したとしても、 少女はその檻を自分で溶かす事が出来てしまいます。 また、私の心臓に還っていったという描写から察せられるのは、 この「少女」というのは私がでっちあげてきた「感情の昂ぶり方」のでっち上げる前の象徴なんでしょうね。 それらをでっちあげ、対外に射出するためにますは少女という概念にして切り離そうとした。その後、雫という言ってしまえば血を固めて吐き出す程の苦しみを背負って体外に吐き出す事に成功した。 その吐き出したものは、自分が火傷を負ってしまうものというものであって、トラウマを呼び起こすものであるから、多分私は本当に切り離したいし、客観的に見て切り離すべきものだったんだろうと思います。 が、そこまでやったとしても少女は私と手を繋ごうとするし、吐き出したものを一方的に蒸発させてなかった事のようにしてしまうし、火傷を太陽の光に変えて、 まるで花束を渡してくるかように、私の心に帰ってこようとする。そこに多分悪意はなくて、行ってしまえば無垢に、当然であるかのように。その態度を私は火傷を負いながらも切り離す事はできなくて、迎え入れてしまう。 強く引き寄せ(自分の意志で)抱いてしまいます。 「そしたらすんなり還ってきた」つまり、あれだけ我慢して外に出そうとしたのに戻ってくるのは一瞬なんですよね。 分かりやすい例で例えるなら禁煙に失敗するような「ものです。 から、平然としているけど、大声で叫んでしまう。 >一種の愛情を > 成立させるために > 他の三種を > 謀殺せねばならない この三種については、分かりません。 ただ、少女の振る舞いが自分の捨て去りたかった自分の感情の高ぶらせ方であるという事を考えるならば、少女の行動から見ていきましょう。 ➀誰でも構わず好意を示して近づいてしまう ②見覚えのある存在に対しては無遠慮に無垢に接してしまう。そこに疑いはない ③相手が抱いている感情を一方的に無効かし、なかったことにしてしまう ④一度抱かれた相手には心をすんなりと許してしまう ぐらいでしょうか。 という所で「愛情」という部分を考えていく訳ですが、ここはどうだろうなぁ。愛情というのは感情が昂る一つの場面だと思っていて、例えば勘違いで人を好きになるみたいな側面を考えていくと、誰にも構わず自分の愛情表現を他者に対して提示してしまう少女の振る舞いというのは、多分少女自体はそこまで愛情をもってそういう行動をしている訳ではない(無垢なのでそこまで考えていない)が受ける相手は、そこまでの行為をしてくれる相手に対して、勘違いをしてしまうのかなとか勝手に思いました。誰にでもやさしいというのは、誰か一人特定の人にやさしいではないのですが、やさしさを受けた相手にとってはやさしさを向けてくれた人だけが優しくて、優しくしている人はみんなにやさしいという、関係性の矛盾がある訳ですね。という訳で、ここから更に「愛情」について4種類あるのかなという所を考えていくわけですが、すいません。そこはあんまりピンとこなかったですね。 1つの愛情を成立させるために切り捨てられる愛情ってなんだろうと思ったときに、一種は慈悲とか慈愛なのかと思いました。他の3種は自愛とか、になるのかな? ここら辺はもうちょっと読んでいかないと分からないかなと思いました。 まずは全体的な話の流れを話者と少女の目線から整理していくとこういう読み方が出来て、その関係性がつかめてきてからようやく愛情の話にフォーカス出来るなって感じなので、多分この作品は何度も読まないとだめなのと、読むうえでテーマを絞って読まないとダメですね。 みたいな事を思いました。 最初は少女ってなんだろな見たいな感じで正直とっつきにくかったです。 タイトルの意味もよく分かりませんでした。 ただ、こうして読んでいくと破綻はないし、 凄く練られた作品だなと思います。 細部まできっちり作りこまれていて、隙がないです。 という意味で、多分読まれにくい作品だし、書かれている事に目を向けてくれる読者は多分そうはいないかなと感覚的に思いました。 ですが、安易な表現に逃げずに、描こうとしているテーマがあって、そのテーマへの向き合い方、描写一つ一つの精度を取ってみても、個人的には高度だなと思いました。 勿論、ここまで書いた内容は別に棄却されても構わなくて、的外れな見解や推察も多分に入っているとはおもうのですが、そこら辺も踏まえて本作を読み返して思うのは、きっちり表現してますねって事で、十分な気合を感じます。 一応酷評ギルドなので酷評書こうとしましたが、 これはこれでいいんじゃないのかなと僕は思うので、単純に褒めて終わろうと思います。 ありがとうございました。 (薄紅色の贋作)

2021-02-23

白川ロイヨさん レスありがとうございます。 >手をあげたにも関わらず作品にコメントを残せておらず…… これについてはのんびりやっていきましょう。みたいな感じではあるので、白川さんのペースで全然大丈夫ですよ。僕も白川さんの作品になるべくコメントは付けていきたいなとは思ってますが、無理な時はスルーしようと思ってます。(他のコメントで僕が言いたい事が満たされていたらいえる事ないし) そういう意味だと僕はとりあえず白川さんにレス付けてもらえるような作品目指して書いて行きたいなと思っているので、どっしり構えていただければと思います。 >全体を通して比喩の繋がりが世界観をきちんと形成しており、 手触りが伝わってくる作品だと感じました。 私の目には中学生-高校生くらいの男の子が浮かんできたのですが、 これは私の実体験所以でしょうか。 ありがとうございます。手触り感という所でいうと、多分読み手との距離感みたいな意識を考えた時に、無理に背伸びをするくらいなら、等身大で出来るところにちゃんと手を伸ばす事の方が大事だと思っていて、上から見下ろす訳ではなく、一人でじっと詰めていくわけでもないところで物を書いて行きたいなとは思っています。で、こういうスタンスは最初から持っていた訳ではなくて、今の自分に合っているスタンスなのかなという所で詰めている部分もあるのですが、そうじゃないところに伸びていきたいよねという欲求はあるので、挑戦する事は忘れてはいけないと思っています。 >この部分だけ他と比べて浮いていて、だからこそ詩に抑揚が付いているなと感じました。 この一節に詩として単独の力があるかというとそんなにないとは思いますが、 この節がないと詩全体が意味不明になり兼ねないので最も大切な節かも知れません。 またホームランバーという言葉の選び方が見事で例えばこれがチョコレートやアイスクリームみたいな 一般名詞だと情景が全く浮かばない無駄な節となりますが、ホームランバーであることで 時間や空間に固有の意味合いが見つけられる。非常に勉強になるな、と。 詩の始まりという事を考えた時に、ある程度インパクトがないと僕は詩を読んでいて面白いなと思えないなと思う事が結構あります。ただ、それは始まりが面白くないと読めないというわがままであるかもしれないんですが、詩集はともかくとして、掲示板みたいに流れていく場所で、他にいくらでも読みようのある作品があふれている場所で、そうしたら最初に読んでもらえるのかという事を考えていった結果として、最初の二行にきっかけを与えられたらいいなと思っているからだと思います。これを意図的に出来る訳ではなく、多少感覚的に置いてしまう事もあるのですが、僕の場合は最初の着想の部分に魅力があってそこから展開していく作りにしているので、最初が魅力的だけど後から尻すぼみになって終わってしまう事も多いです。イントロもAメロもB目ともサビもアウトロもきっちり仕上げられるようになりたいなと思っています。 ホームランバーを最初におけた理由というのは幾つかあるんですが、ホームランバーという言葉の持つイメージのレンジの広さや、書こうとしている情景にフィットしているからここから始められたというのは大きいですね。書いている時、ネタ帳や絵コンテがあってこれを組み立てている訳ではないのですが、例えばぱりぱりバーでは出ないニュアンスが沢山あるので、ここでホームランバーを使った結果として、深く読み手に入ってこないようなお粗末な物にならないといいなとは願っています。ホームランバーという固有名詞を使用する以上、それを見た事のない人にとってはあんまりピンとこないと思うんですが、見た事のある人にはちゃんと届くようなフレーズであってほしい所ですね。それは語りたくなるようなフレーズであってほしいと願う事に等しいんですが、中々難しいですね。最初の2行を書く時はいつも緊張します。 >ホームランバーとはうって変わって詩の世界が巡っていて私はとても好きです。 また仮に私が書くなら絶対に第二節からはじめてしまうなとも感じました。 オブジェクトが大量に出てくるのでその連発によってホームランバーの実世界から 詩の世界へジャンプしている気持ちになれますね。 好きです。 あんまり速度上げて飛びすぎてしまうと、読んでいて疲れてしまうと思うんです。という反省があって、昔はとりあえず色々な物を並べて、繋げてみるという所を繰り返した結果、自動筆記的な記述に全てが完結しているように見られてしまって厳しかったです。これはいまでもあるとは思っているし、手癖にならないようにしないとなと自制を書けている所ではあります。オブジェクトの連なりを落とし込むときに僕が必要だなと思っているのは、見た目と音ですかね。これは意味よりも優先されると思っていて、それが連なるからイメージとして面白いのかなと思います。これは吉岡実を読んでいてまず思った事なんですが、彼の文章はうまいです。音がとてもきれい。だから多少無茶な事をしていても読めるんだなと思っています。彼が音にどこまでこだわっていたのかは分からないんですが、置かれたオブジェクトとオブジェクトを結合させる時に、違和感はなかったですね。そういう意味で読んでいる時に読み手に隙を与えるような文章は絶対に書きたくないなと最近思っています。なので、読んでいて音が気持ちよくなかったといわれてしまうと大分へこむんですけど、そういう評が一番ありがたいかもしれない。 >こちらの節は前節の流れを受けて発展させているように受け取りました。 ただ最後の「いくつ?」の浮き方は不思議でした。 イメージの連発の中で口語+疑問符が登場していて、ここだけ引っかかりを多少感じました。 確かに読者が詩にハッとする契機となるので良い気もするし、詩の世界から没頭できなくなる可能性もあるし これは読者次第かなと感じました。 ここについての指摘は上記の理由からとてもありがたくって、僕の弱点でもあるんですが、詩の読み筋に疑問符を付けて読み手のせいにしてしまいがちですね。ここでも連の締めをどうするかという所に困って、流れを止める事の愚かさを忘れて、取り合えず一回斬る為に疑問符を置いてしまっています。この点については、「あなた」とか「お前」みたいな二人称を読者に向けてしまう事に対する自分の逃げの常套句みたいな乱用をしがちな点に反省して、ちゃんと詩文で勝負していきたいなと思いました。ご指摘感謝いたします。ここは僕が変わらないといけないいつまで経っても残っている課題の一つですね。 >ここも展開が生まれていいですね。 視点の移動のみで詩の中での動きが見られなかった前節までとは変わって動きが生まれています。 飽きずに読めますし、読者をとても意識なされているんだろなと。 また「星」という言葉はやはり我々が実際に持っている身体の目を上に上げる効果がある気がしていて、 「馬車」や「太鼓」の視点移動とはなんだか違った実際の視点の移動の効果をあげる気がします。 陳腐な言い方をすれば肉体的な共感と言うべきでしょうか。 ここで次の節の彗星まですんまりと視線誘導されていて、とても気持ちが良かったです。 ちなみに吉岡実の詩集を久々に引っ張りだす契機となりました。 ありがとうございました。 乱文によるコメント、失礼しました。 視点の誘導というのは、僕が詩を読んでいてというか文章を読んでいて面白いと感じる要素のなかで、動きというのがあります。それは退屈で同じような表現が続くくらいなら変化を付けた方がよみやすいだろうなという考えがあるからです。現に、僕が好きな小説は、同じ事を同じように語らず、一つの事を述べるにしても、色々な情報量を込めたり、見方をかえたり、表現の方法をさぼっていないし、かといって無駄に長文じゃないよなと思うからです。その点、星というのは見上げる効果があるので、目線が上にいきますよね。そういう意味で空や朝と言った背景を持ち出して来るというのは単純に描かれている作品のスケールを広げるという意味で効果的だと思います。ただ、ここら辺を意識的にどこまででかけているかというと割と感覚で処理してしまっている部分もたたあるので、自分で読み返した時に前段のイメージとつなげたり、繋がってしまう事を自分で読み返しながら気づいて付け足していくという作業は結構します。イメージの伏線を最後に回収しようとするのは僕の手癖でもあるので、あんまりよくはないんですが、書いてる事に対して感覚で処理した方が効率の上がる事と、意図的に編集を加えた時に味の広がるよう感覚を刺激できるような物にしていきたいなとは思っています。 返信遅くなり申し訳ありません。 普段こんな事は言わないんですが、こういう事を考えながら書いているという事をこの場で甘えて言わせていただきました。 ありがとうございました。 (夕方の月曜日はゴミ箱にしまって)

2021-02-09

福丸さん レスありがとうございます。 >「下の切られた彗星」の所でひっかかりました、それまでは捨てられてたゴミという前提で読んでいたのですが、彗星は捨てられないと思ったからです。でもひょっとして地球の扱い方に誰かが怒っていたとしたら、そう考えると少し怖くなりました。詩は何かを警鐘するのに十分だと想像しました。 なるほどなと思いました。僕が食べ物を詩に出す理由の一つみたいな所で、考えて思うのは、捨てられたゴミの部分なんですよね。僕は食材を腐らせて捨てる事が多々あるんですが、出された食べ物はなるべく最後まで食べようと思っています。でもなんでなのかは難しくて言えないところもあったりするし、意識的にそうしているというよりは目の前にあるものに大しての自分のキャパの大きさみたいな物が食べ物を残すという事に対して耐えられないというよりは、胃袋の大きさが耐えられるのかもしれないですね。って所から、食べ物をなんで残すんだろうかとよく考えます。でもこういう話ってマクロの目線で物を語らないといけないから、小さな物を残すという始まりから、どれくらいのものが捨てられているのかという事について広げていくと、文字通り人の思考の手には負えなくなるのかなとか思うと、彗星みたいに人に沢山映る燃えている隕石じゃないですけど、宇宙のゴミでしかない岩って綺麗だなと思っちゃうんだなと思ったら舌を生やしたくなったのかななんておもいました。 警鐘については、なかたつさんて方と話したことを思い返すと、結局詩って回りくどいコミニケーションかなと思っているし、その回りくどさは生きていれば迂回できるものでもあるのかなと思うので、警鐘した所でそれに気が付く人達がいなければ、鐘にならないのかなと思いますね。シンゴジラは偶に見返すんですけど、あれ見て何か学んだのかなって割と思っちゃうのも事実ですね。大事な事がなんなのか分からないですが、いつだって余計な事が足引っ張って隙が出来ちゃうくらいなら、多少胡乱な表現になっても、こうして書く事しかないのかもしれないですね。なんか回答からずれちゃったかもしれないですが、頂いたレスからこんな事を考えました。 ありがとうございました。 (夕方の月曜日はゴミ箱にしまって)

2021-02-08

田中宏輔さん レスありがとうございます。 隠し玉ですか・・・いい得て妙ですが、いつか百パターンくらい色々変えながら書いてみたいなと思う事があります。 ありがとうございました。 (銃声)

2021-02-02

田中宏輔さん レスありがとうございます。 抒情ですか・・・いや、なんかあると言って頂けた事あんまりないんで、素直に嬉しいです。 いただいた感想大事にします。 ありがとうございました。 (夕方の月曜日はゴミ箱にしまって)

2021-02-02

エイクピアさん レスありがとうございます。 >食パンの耳と魚の鱗のさかいめとは何であろうかとか、大声で泣き出した子供の身長など、ユニークな発想。足の生えた星とは童画であろうかと思いました。白色矮星にも興味を持てました。 エイクピアさんにそういって頂けると嬉しいですね。 白色矮星は、超新星爆発できなかった星の辿る末路なんですが、中性子の塊みたいな星でどうしようもない淋しさがあるなと思っています。 ありがとうございました。 (夕方の月曜日はゴミ箱にしまって)

2021-02-02

福まるさんもコメント書かれてますが、不思議な雰囲気がありますね。 難しい事は言えないし、色々書こうとしたらなかたつさんに書かれてしまっていたので、僕が書く事もあんまりないんですけど、全体的に気になる感じがしました。1月の作品で一番気になった。 (明日)

2021-02-02

白川ロイヨさん こんにちは。百均です。 なかたつさんに読み込まれてしまった後なので、 ちょっとしょぼい感じになってしまうのですが、基本的には好みですって言っておきます。 描かれているシーンというか舞台のイメージの立ち上がりがいいですね。 単純に井戸の中を覗き込んだ時のイメージが一連目で浮かび上がってきます。 行ってしまえばきちんとデッサンしている作品だなと思います。 というのと、少し概念的な書き方って感じですかね。 >水の張られた >区切られた >領域の界面に >一筋が浮かび上がる 最初の三行から、「一筋」につながる所は難しいですね。 個人的にはここで躓く人と考えて読める人で多分別れると思います。 読み進めて行くとそれはそれで解決するとは思うんですが、 「一筋の光」みたいに対象が書いてある訳ではないので、難しいですね。 (界面を水槽のように横から見た時の線のイメージで捉えるならありですが、  僕は井戸を覗き込むイメージからスタートしたので上から見た時の情景で最初考えています  つまり、4行目を見た時の目線が急に移動するので混乱する訳だ) 水の境界線を見る時のイメージは水平線のように、 可視化された場所で提示される事はよくあると思うんですが、 敢えて「井戸」と言ってしまいますがみたいに横から見る事のできない 水の境界線に対して、視線をフォーカスするのは単純に面白いですし、なのでなかたつさんの「井」といいタイトルの意味から 探っていく読みをすると多分この一行の違和感って超えられるのかなと思います。 僕だったら素直にたとえをねじ込んでしまいますが、ここは最初の連なので勝負かけてますよね。 >一瞬を契機として >偏在してきた可能性が >境界線を形成する ここは難しいな。ちょっと観念よりなので、考えて読まないといけないと思います。 >「一瞬を契機として/偏在してきた可能性が/境界線を形成する」という変化。この「偏在してきた可能性」という表現が何気なくて肝になっているなあと。「境界線」は外部から与えられるものではなく、その内部にあった「偏在してきた可能性」が浮き彫りになったようなイメージを覚えました。だからこそ、「水そのものに沈殿する水が/静かな循環をはじめる」と続くことができるのであり、やはり、「境界線」が内部から生まれ出たことを示唆しており、「風の痕跡はなおも水面に届か」ないこともそれを補足しているように思えます。 なかたつさんの読みはここら辺援用して読むと具体的なイメージとして映ってきます、 って所で、描写のバランスの部分みたいな所で言うと僕はもうちょっとあった方が好みですね。 やっぱり全体的な好みみたいな所で言うと面白いなとは思います。 最終的に僕が思ったのは透明なメスシリンダーの井戸を言葉のイメージと観念で抜き出してきて、 その中で生じる温度変化による水の動きですね。理科の実験である様子です。それを井戸に見立てた上で、 人間の感情と接続する。 >--- ねえ、君は、なにが、欲しい >--- うん、それじゃあ、怒りが、欲しいかな 行ってしまえば井戸を心の入れ物みたいに捉えていて、その中に渦巻いている感情の動きを喩えているというのは、 面白いですよね。みたいに僕は思っちゃうんですけど、どうでしょうか。 書き方として解きほぐしていく読み方との相性はとてもいいと思います。 ここら辺は書き手がどこに向かいたいかが全てであるし、僕は白川さんの書きぶりはどっちかっていうと好きな方で、 実直に書いている人だなっていうのは本作からもうかがえます。 1つのモチーフを使って描こうとしているゴールがあって、 そのためのイメージとして「井」という概念をスタートにしているのもおしゃれですね。 なので、最初の入り口の部分を優しく書いてあげたらもっと読まれるだろうなとは思います。 >水そのものに沈殿する水が >微かな循環をはじめる >しかし風の痕跡はなおも水面に届かず >不在の影に覆い隠されている 水そにものに沈殿する水っていうのは、 行ってしまえば水の中にも層があってそれらは分離しているけれども、 絶えず入れ替わっているという状態なのかなと思うけれど、 言い方としては少し不親切かなとは思います。 最後の会話の二行まですんなり読めると多分繋がって来るけど、 そこの前でこけるとこの作品は読めなくなるかなと思うので、間口を広げるのであればもう少し描写を入れた方が読まれはするかな。 総評としては、2作白川さんの作品を読んで思うのは、 書こうとしている事や、そのために使用するモチーフへのアプローチは面白いです。 精読の内容としてはなかたつさんの読み筋で書かれている事の面白さについては提示されていると思うんで、これはこれで全然ありな作品ですね。 (決して適当には書いていないと思うし、それは書かれている言葉一つ一つに対してある程度コントロールが効いていて自覚的なんだろうなという印象でしかないもだけど) ただ、多分それを伝える描写という意味では少し距離感が遠い作品だと思います。 が、突き詰めていくのもありだし、読まれる方向にもっていくのであれば描写を増やした方がいいかなと思います。 以上、よろしくお願いいたします。 ちょっと他の方の読みも聞いてみたい作品だな。 (井)

2021-02-01

色々と書いてくださってありがとうございます。 こうして自分の作品に対して色々書いてくださる事って、あんまなかったような気もするので、とてもうれしかったです。 僕がこういう場に作品を投稿するのをやめられない事の理由の一つは、誰かに何かをコメントしてもらう事で色々な物をもらえるからというのがあります。もちろん、僕はもらえたものに対して返せた事なんか本当にないと思っていて、ないと思っていながらこうして作品を書いては投稿しているので、推薦文書いてくださる事って本当になんというか言葉にならないくらい嬉しいです。 本当にありがとう。 >『結局、この作品ってただ銃を撃っているだけなんですよね。ただ、その過程に色々な事を置いていて、置いた結果こういう長さになってしまったっていう感じなんですよね。』というわけである。長い作品ではあるが、それぞれに前後の繋がりやイメージの連鎖が見えるので、次はなにがくるかワクワクしながら読ませていただいた。ところどころでの発見や気づきは「ミッケ!」に似た楽しみがある。改行や平仮名パートなど緩急のつけ方にも工夫があり、読者を最後まで読ませるペース配分も流石だ。 ミッケみたいな作品と言ってくださったのは嬉しくて、それは読み返す事の楽しさにつながっているのかなとホットするからです。もちろん、一回で読んでも楽しいと思えそうな要素もちゃんと書き込んではいるつもりなのですが、細かい所に結局神髄みたいなのが意図や意図の範疇以外であっても書き込まれてしまうので、そこから拾える楽しさって無限にあると思うんですよね。そこをこの批評文の中で諸々拾ってくださったなと考えております。 >『遊ぶ』とは『ちゃんと引き金を引く』こと?そもそも『引き金を引く』とはなんなのか?ここで、詩を書くことと再び解釈してみる。つまり、自分が本当に書きたいこと・書きたいものへ照準をよくよく合わせること。それはよく見たら本当は直視するのも辛いコトかもしれないし、愛しすぎて急所が分からないモノかもしれない。それらの記憶、思い出、イメージに銃口を向け、発砲するということ。真剣に遊ぶというのは想像以上に疲労困憊、満身創痍するものなのである。 このコメントを読んでいて思い出した事なんですが、昔おもちゃの銃にはまって延々と空砲を打つ遊びをしていた事があります。その時、別に火薬が詰まっていた訳じゃないと思うんですが、銃口から煙が上がったことがあって(これは捏造された記憶かもしれない)それがとても怖かった記憶があります。その記憶がベースにあって、僕は銃というモチーフを使う時に、銃口を向けたり向けられたりすることの遊びや好奇心や意味や恐怖や、無意味であることや、それでも鉄砲遊びをしてしまう事の情けなさとか、しょうもなさとか、引き金を引く事の意味や、無意味さや責任さや無責任さや、そういったものを考えてる暇なんて銃を打つ瞬間にはないんですよね。みたいな現実だとか判断であったりとか、戻れない判断であったりだとか色々な事を銃に連想してしまうし、それをまた使ってしまいます。みたいな所から最初は銃なんて登場させるつもりなかったんです。でもタイトルは何がいいのかと思ったとき銃声しかなかった。銃にも声があるのだとしたら、その声が導き出されるまでに何もなかったのかもしれないし、何かあったのかもしれない。でもその大きな音が鳴った瞬間に僕はこの詩を書き終えた訳で、終わってしまった事は一度ゆであがった卵が二度と生卵に戻らない事なのかもしれない。 引き金を引いてしまった事の責任は打った人にしかないし、打ったからと言って必ずしも責任を負う訳ではない。的を撃っただけの娯楽かもしれないし、生きる為に何かを殺したのかもしれないし、殺される前に殺したのかもしれないし、本能の赴くままに銃で遊んだだけかもしれないし、憎しみを憎しみで愛を愛で埋め尽くすために打ったのかもしれないし、そういうものを切り離す為に打ったのかもしれないとか、色々な事が色々な風にあって、たとえそれが >なぜ「好き」とか「愛してる」を伝えるために「好き」とか「愛している」とは言わないのだろう。ね。 こういったすれ違いを産むだけのどうしようもない事だとしても、書いちゃうのだから書いちゃうのかなと思いました。この作品は言っちゃえば書いていてずるいなと思う所もあるんですけど、みっともなさもちゃんと出していかないとね。って震える手でも両手を握って、色々な人の力を借りて、覚えながら標的に向かって打つ練習もできないようじゃ、どうしようもないよなと思いながら。という訳で、返事になっているのかわかりませんが、ありがとうございました。この作品は気合入れて書いたのもありますが、とても楽しみながら書いたので独りよがりになってないか不安だったので、こうして選評分をいただけたのが嬉しいです。 返事が遅くなってすいませんが、今返せるだけの花束を贈ります。 ありがとうございました。 (真剣に遊ぶということ【『銃声』推薦文】)

2021-02-01

ネンさん ありがとうございます。 また、レスをいただきありがとうございました。 >う、美しい。清々しさが半端ないです。文章力の高さなのでしょうか。意味は分かるし情感も伝わるけれど、そこに広がる世界は無二のものですね。 そういっていただけると、嬉しいですね。僕は結局のところ、詩を読むのが好きな理由って間違いなく没頭できるんですよね。で、逆に言うと没頭できないなと思っちゃうと途端に興味が薄れてしまうので、自分の書いた物もそうならないようにどうにかなんねぇかなって悪戦苦闘するんですが、したからといって上手くいく訳でもないので、難しいんですが、美しいと言って頂けると、なんかもうそれでいいやって思えるので、とてもうれしいです。 ありがとうございました。頑張ります。 (夕方の月曜日はゴミ箱にしまって)

2021-02-01

なかたつさん レスありがとうございます。お返事遅くなってすいません。 >「駅舎の向こう側」という「駅舎」のパーツ/片隅にいるということも自覚していて、わざわざ「の向こう側」って書いているあたり、渋いね。 ここなんですよね。っていうか僕がこれを書くにあたって参考にしたのは、吉岡実と吉本隆明なんで吉吉なんですけど、死を向こう側から考えてみろ見たいな事を吉本が言っていて、向こう側から見た時の色々な事物ってどんな感じなんだろって思った時にこういう書き方をしてこういう風に書いてしまったみたいな所があります。だからどうという訳じゃなくて、僕にとって関心のある物がここには書いてあってそれは、欠損であったり、アンバランスな状況であったり、役割を終えた者たちみたいなのもそうかもしれない。そういった物を見ているとなんか自分の中で色々な声が聞こえてくるので、どうしようもないんですが、そういうものを無視出来たら多分ここに書いてないんだろうなと思います。そういうものを単純に人間はおろかみたいな感じで見下ろすのはやっぱあほだなとも思うので、ちょっと遠くの所から眺めてみてみたいな見たいな感じですね。それが向こう側で、敷居から敷居へみたいな事をツェランが書いてたのも含めて考えると、なんかよく分からんけどこうして書いていったり、誰かの何かを参照しながら書いて行くけど、自分の持っている目線って結局あんま変わらないのかもしれないね。この前、占い師に手相見てもらったんですけど、僕は升掛線で、感情と理屈の線が入り乱れていて、物の見方が4つあってそれらが入り組んでぐちゃぐちゃになってるって言われました。それはうれしいのか悲しいのかはともかくとして、ただ、向こう側から なんかゆっくり見てたいなみたいな感じで、ホームランバーでもあたりませんかね。 ありがとうございました。 (夕方の月曜日はゴミ箱にしまって)

2021-02-01

杜 琴乃さん レスありがとうございます。また、推薦文についてもありがとうございました。読ませていただきましたが、とても嬉しかったです。 最後まで読んでいただけたのがとてもうれしいですね。やっぱ見た目とかで読まないみたいな感じの方もいると思うし、僕自身長い作品あんまり好きじゃないので(なんかここら辺の矛盾が色々大変なんですけど汗)自分で長い作品書く時はやっぱり落ちは付けないとなーとか思ったり繋がったり繋がらなかったり色々やれることは全部やろうとしちゃいますね。 >ハードボイルドだって最初は生卵なんだから、きっとこんな風に色々な葛藤があるのだろうな…などと思いました。 なるほど、なんかなるほどなと納得してしまい、返す言葉がないのですが、卵って不思議ですよね。吉岡実最近読んだのですが、卵が出てくる。ただそれがボイルドされて、卵のまま終わってしまうのか、生まれて生き物として最後まで生きるのかまた卵を産んだ方がいいのか悪いのかみたいな所で色々考えちゃいましたが、やっぱりぐつぐつ煮込まれながら最後はケリをちゃんとつける事を大事に思ってるのかなとか思いました。 ありがとうございました。 (銃声)

2021-02-01

誤字を見つけてしまいました。 申し訳ありませんが、 下→舌です よろしくお願いします (夕方の月曜日はゴミ箱にしまって)

2021-01-20

白川ロイヨさん 初めまして。百均です。 フォーラムで少し書きましたが、僕なりに読んで思った事をこれから書いて行きます。 これから書いた評について疑問点や、論理の破綻などがあれば遠慮なくご指摘ください。 全体的に読んでて思うのは、それぞれの描写というか連毎に描かれているシーンが綺麗ですね。あと、選語や描こうとしている概念へのアプローチについても、ぱっと読んだ感じで直ぐに想起できるほどキャッチ―ではないのかなと思ってはいるんですが、読み込んでいくと純粋に連鎖していくので、面白いです。上記より書きなれてる方だなという印象です。 後は、ライティングの手つきが感覚的っていうか映像的であって、シーンの連続連続が破綻したりぶつ切りになったり、あるいは何かしらの感情が全面に出る訳ではなくて、ちゃんと事物に語らせている所もよかったです。が、そこが僕にとって逆にちょっと気になった所であります。 >踊子の掌が空をかき分ける >延びた先の風紋が >遠く光となる >いくつもの筋を結び >瞬間に交差する 僕の好みみたいな所で評価している部分もあるんですが、起点のイメージとてもいいですね。動きのある描写がないとそもそも結局何やってんのか分からんよなって思っていて、一行目できっちり読み手を引き込むイメージを提示しているのはいいと思います。 書き手の持っているイメージと、読み取り手が受けとる時のイメージって単純にずれると思っていて、そのずれが壊滅的になってしまうと、描写が受け取られる時の強さって下がると思っています。(所謂デッサン力みたいな要素すかね)無論、対象を書き込む事によって具体化するというのは、あらゆることの基礎能力であって、こなれてくれば論理がある程度破綻したり、飛躍しても高度なレトリック感覚によって繋げる事は可能だと思っているんですが、あまりにも温度差が乖離していると、分からんのですよね。という所が僕が本作に言いたい最大の指摘事項になります。 >踊子の掌が空をかき分ける >延びた先の風紋が そういう意味でいうと、この二行の始まり方というのはまだわかります。 踊り子がどこかで躍っているんですが、足さばきではなくて手つきにフォーカスを当てる事で空のイメージにつなげるための場所として合理的な立ち位置で始めている事。また、空をかき分ける事によって空間が一瞬で広がります。広がった空のイメージから風のイメージを繋ぎ合わせて、更に風紋とつなげる事で砂のイメージを連結し、灯台のイメージが出てきたら後は海でしかないですよね。舞台の構築に成功している訳です。その起爆剤がこの二行に詰まってるので滅茶苦茶すごいと思います。あっさり書かれているようで、割と高度な事をやられている印象です。 >遠く光となる >いくつもの筋を結び >瞬間に交差する というと所から考えると、ここのフレーズが一連目に来ているのが、シーンとしてピンとこなくなってしまうのではないかというのがこの作品の弱点なのかなと思います。 おそらく次の灯台のイメージに繋げている導線の一部であって、灯台の光が回転して前後に伸びた二つの光の線が重なる部分を描いていると思っているんですが、どちらかというと映像ありきのイメージが先行している感じがします。この描写が灯台の光であることを僕は前提に話してますが、その事実が分かるのは2連目以降なんですよね。そう考えると、ここを読み解くにはもう一度戻って読んでこないといけない。 最初の一連をまずこんな感じで読んでみたのですが、上記より、基本的に描かれているイメージについては一貫性があって、正直読み込んでいくと僕は嵌るタイプの作品です。 正直この作品については小一時間くらい喋れる程度に濃密で、描かれているシーンそのものの繋がりや、連鎖している情景を灯台という舞台を元にきっちり書いていて仕事している作品だと思います。 正直、フォーラムで声を上げてくれていなかったら見逃していた作品の一つで、非常にもったいない作品です。正直もっと読まれていい作品だと思います。 そのうえで、酷評というか、僕が気になった点ですが、基本的にそれぞれのセンテンスの持っているイメージの描き方の部分の繋がりが少し断線していて、後からわかってくる要素がちらつく所がもったいないと思っています。多分、見えてくるイメージそのものがつかめて詩文のストーリーラインが終える状態にまで行き着けば後はどこまでも読めると思うからです。例えば、一連目に灯台の光を暗示するのであれば切り裂く空は夜空でもいいんじゃないかとかですね。灯台に繋げるための要素をもう少し書き足してもいいのかなと思います。 所謂、イメージを情報開示する際の配慮を考慮して書き加えていくだけで格段に読みやすくなる作品だという事です。 もう一つ具体例をあげるならここでしょうか。 >眼下には遥か昔から彼女がいた >いつも風を纏っていた >何かを探るように丁寧に >骨が抜けそうなほど大胆に >体全体で空気に触れていた >時には真空の中で >時には粘性流体を掻き分けて 急に彼女が出てくるんですけど、彼女ってなんだと詰まったら多分終わりです。 ってもこの彼女をどう解釈するのかってよく読むと定義するための材料ってちゃんと散らばっているんですね。灯台守の傍らに置いてある写真でもいいし、あるいは、最初に出てきた踊り子でもいいです。気になる要素は沢山散らばっていて、そこら辺読めてくると一気に視界が広がりますし、一度広がりを感じられたらきっとこの作品はどこまでも読めますっていう意味でポテンシャルはあると思います。例えば彼女を踊り子であると仮定して読んであげれば、空の書き分け方の描写と風紋のイメージからどうとでも解釈できるし、灯台守と彼女との関係性を考えるのであれば、写真という過去の関係性の部分から読めます。 フレーズ一つ一つの持つ力については、僕は好みであるので、この方向性を全然詰めていくのはありだとおもいますし、それは作者の選択次第であったり、読み手の需要次第ではあるのですが。ただ、上に書いた通り細かい視点を持って読み込む事を好む事が出来る人じゃないと楽しめないかなと思います。 僕だったらこうするみちあな文言って、それ書いちゃうならもう書き換えた方が話が早くなってしまうので難しいんですが、例えば描かれているイメージの手つきをもう少し前に引っ張ってあげるといいかもしれないなと思います。例えば「何かを探るように丁寧に」ってあるんですけど、「何か」っていうのを具体化するだけでも変わりますよね。次の「骨がぬけそうなほど大胆」だと骨を自分で引っこ抜くのって多分尋常なない力とか彼女の意思があるなって思うんですけど、何かって言われちゃうとわからんのですよね。もちろん読み込んでいくことで、見えてくるものはあります。その保証の出来る作品だなと思うのでそういう要求を僕はしてしまうんですけど。 >光を埋める最後の期限を忘れたことなどなかった ここなんかくっそおしゃれて僕は好きだけど、分からん人は分からんだろなっていう予想は立ちます。そういう意味で、話者の提示しているイメージの展開内容が受け取り手が受け取りやすくなる方に調整する方向にシフトすれば可読性がべらぼうにあがって面白くなるなと思いますが、言葉の切れ味は格段に落ちると思います。その塩梅は正に書き手次第だし、どこまで読み取るのかは読み手次第ですね。(2回くらい言ってしまってますが) ただ、単純に趣味として読み込むのであれば、普通に好きな作品でした。機会があれば再読して素直に読書の対象にしたい作品です。 ありがとうございました。 (ラスト・リゾウト)

2021-01-11

沙一さん 書く事に興奮してしまって、もう一個大事な要素について返しそびれてました。直喩の話なんですが、ここがね、こういう場所で語るのは初めてなんですが、●●のようにみたいな形で例える対象というか、ある物事を特定の具体的な対象物や事象のイメージを借用して語る行為を直喩みたいに思っているですが、僕が詩を書き始めた時に、「~ように」っていう言葉を詩文の中に入れるなみたいな言説に滅茶苦茶囚われてしまって、ちゃんと考えた事が今までなかったんですよね。また、考えたとしてもそれを言葉にすることを恐れていたというのか、それは先ほどのレスで書いた通り、短いセンテンスでかける人達ってやっぱ直喩使わないんですよね。ほとんど。だから僕の中のポリシーじゃないけど、直喩って結構タブーなんです。 >これは「直喩」という語そのものがなにかしらの比喩になっているのではないかという気がしました。ではなんの比喩か。安易には喩えることのできないもの、つまり直喩できないもの、それを訴えたくて、ここまでの垂れながしとも捉えられかねない長文があったのではないかと思い至りました。 そういう事を考えた時に、直喩そのものをもう比喩にするしかないっていう発想は確かにあって、それがあの重ね掛けの語りを産み落としたっていうのは、その通りなんですよね。なので長くなってしまった。直喩という表現の持つ安易さと分かりやすさとその力に対する自分なりの向き合い方っていうんですかね。中々答えがでないんですけど、ここら辺はもっと勉強せいって感じだなとは書きながら割と自分で思って落ち込みました。 再レスになっちゃいましたが、補足として以上になります。 色々と含蓄に富む、指摘をいただいたと思っています。また多分頂いたコメントを読んで考えます。 ありがとうございました。 (銃声)

2021-01-11

ささらさん 初めまして。百均です。 > 最後の行を読んでから、これは読者宛だったかと急に当事者意識がわきました。 > 全体通して、比喩を捏ねくりまわさず素直に詩を書け、という発破?に読めました。 >  > 詩はたいてい言葉でできてて、しかし詩で伝えたいことは本来言葉(広い意味で言葉というのは世界を表現する比喩とします)で捉えられないものだと思います。 > 伝えたいことに没入するほど、言葉(比喩)なんて使ってる場合じゃないと発狂し、だけど詩にする以上言葉にせざるを得ない。そんなジレンマについて考えさせられました。 このコメントに何も僕は返せないんですよね。なぜなら、そうだなと思ってしまいました。お前っていう二人称を使ったのは、呼び掛ける対象を巻き込む為なんですよね。そして、巻き込むとどうなるかっていうと、呼び掛ける対象に対して、当事者意識を植え付ける事が出来る。っていう意味合いで、単純な暗器として使う時には、あんまり勝手に使いすぎると嫌悪感に変わってしまうと思っていて、使うときは注意しているんですけど、なんか最後はもうこれしか思いつきませんでしたって感じです。結局的な所、関係性の断絶と調和と隔離と並立みたいな感じですかね? そういう事を結んでいく時に、誰かでも何かでもいいんですが、対象という存在を僕は無視する事ができない。ただ眺めているだけの存在を単純に巻き込んで面前に出したくなってしまう。その武器が二人称で、かつ詩という言語表現でしか達成できないのはなんとも皮肉な感じなんですけどね。 > 詩はたいてい言葉でできてて、しかし詩で伝えたいことは本来言葉(広い意味で言葉というのは世界を表現する比喩とします)で捉えられないものだと思います。 > 伝えたいことに没入するほど、言葉(比喩)なんて使ってる場合じゃないと発狂し、だけど詩にする以上言葉にせざるを得ない。そんなジレンマについて考えさせられました。 二回引用しちゃいましたけど、もうここについては何も言い返せないので白旗です。特に「伝えたいことに没入するほど、言葉(比喩)なんて使ってる場合じゃないと発狂し、だけど詩にする以上言葉にせざるを得ない。そんなジレンマ」ここ、これが正にこの作品を書き始めようと決めた時にっていうか、僕が毎回作品に書き起こす時ってこういう動機があると作品化しようとします。なんで、滅茶苦茶見抜かれたなって感じです。逆に言うと読んでもらえたなって思ったのと同時に、もっと頑張ろうとと思いました。 コメントに感謝します。ありがとうございました。 (銃声)

2021-01-11

夏村木さん 初めまして。百均です。 >走馬灯。 >意識不明。 >虹の橋。 >自殺。 >発狂または殺人。 >簡単で最悪な絶望または終わり。 > >そんな感じがしました。勝手に感じとりました。 >楽しかったです。ありがとうございました。 >作者さんの意図していないもので不快に思われたらすみません。 コメントありがとうございます。こうして感じた事を書いてくれるのが、僕は一番うれしい。そこに忖度とかされてしまうと、結局書いてない事に話が注力してしまって、それてしまうからです。読んでくれた人がやっぱりどう読んでくれたかってのが、全てであって、それって僕がここでどうあがいたってもうどうしようもないんですよね。だから、やれることはやるしかないなと思っているんですが、いつもなんか同じ事繰り返してばっかりで進歩がないなって思っちゃうんですけど。 これは沙一さんの返信でも書いたんですが、落ちというかタイトルに銃声を付けて、それを最終的に色々な形で色々な事を書きました。その中で湧き上がってくるイメージが、正に走馬灯のように読み手の中で広がっていって最後につながればいいなと願っています。もちろん、そうならなかったらっていうか僕の意図よりも、結局読み手の方の方が僕よりも読めているんですよね。「簡単で最悪な絶望または終わり。」みたいな事を言って頂けたを見て、なんか僕はもっと書いたり読んだりしないとなって思いました。それは僕の意図とかそういう次元を超えてしまっていて、そっちの方が素敵になっちゃうんですよね。銃を撃って死んでしまう事っていうのは、多分簡単に最悪に終われる終わり方なんだなと思わされました。こういう感想をもらうと僕はまた次を書く事ができます。本当にありがとう。 コメント感謝します。 ありがとうございました。 (銃声)

2021-01-11

ネンさん レスありがとうございます。 >読むことを拒絶してくるような長文にかなり長いこと気を滅入らせていたので、この作品に漂う不思議な調和に安堵を覚えました。長い絵本を読んでいるようでした。文字が絵のように見えるのかもしれません、その心地好さが何処から感じられるものなのかは残念ながら私には分かりません。有り難うございました。 長文については、沙一さんの返信でも書いたのですが、長文については僕も結構苦手で、長い文章かつ意味不明だとやっぱ読むの大変なんですよね。そのうえで実入りの内文章だと、なんか時間かけて読んだのにみたいな嫌悪感に溢れてしまうんですが。そういう背景もあって、最近は短いのっていうか行訳詩ばっかり書いていたんですけど、(ネンさんの作品にストイックだなって評を寄せたのも、結局ネンさんの作風って僕が一番目指したいところにあるんですよね。ここら辺詩を書いている弊害じゃないですが、長い文章ってなんで長いんですかね?)もう一回ちゃんと書く事に向き合おうと思って、これを書きました。ってもこれは動機の部分だから、内容っていうか作品の評価とは別軸の話になってしまうんですけど。 僕が思うに、長い文章読ませようと思ったら、まずリズムはちゃんと調整する事、それからイメージのつながりの部分については気を使わないとダメかなと思っていて僕はそこら辺文体芸みたいに思っているんですが、そこら辺について自分が影響を受けた文体を全面的に展開して、なんとか長文として耐えられるようにならないかなと思って色々試してみました。っても書いている事は大したものではないのですが、調和と言ってくださったその感覚を、自分なりに頼りにしてこうして書いてみました。これが結果的にどうなっているのかについては読み手の方に委ねられている事なのでぼくからは何も言えないのですが、うまくいっているといいなって思っています。そう信じるしかないから。って僕が嫌いな作風を自分で再演しているっていう嫌悪感に対して呼び掛けてもいるので、よくわからなくなってくるんですが。 コメント感謝いたします。 ありがとうございました。 (銃声)

2021-01-11

沙一さん レスありがとうございます。 >いわゆる大作と言葉を垂れながすことの違いはなんだろうかと考えてしまいました。 >「直喩」という語が頻出していることから、詩論めいたことを語っているのかと始めは思いましたが、これは「直喩」という語そのものがなにかしらの比喩になっているのではないかという気がしました。ではなんの比喩か。安易には喩えることのできないもの、つまり直喩できないもの、それを訴えたくて、ここまでの垂れながしとも捉えられかねない長文があったのではないかと思い至りました。 >銃声といえば一瞬ですが、引き金をひくまでには葛藤や逡巡もあるかと思います。さいごの二行による断定をもし銃声と捉えるなら、発砲に至るまでの葛藤や逡巡こそが、それまでの長文に表れているのではないかとも読めました。 色々思う所があって、コメントありがとうございますという感じです。 結局、この作品ってただ銃を撃っているだけなんですよね。ただ、その過程に色々な事を置いていて、置いた結果こういう長さになってしまったっていう感じなんですよね。僕自身、本当に長らく小説を読んでいなくて、読んでいない理由ってつまらない文章が長く続いていると短くまとめてくれってなっちゃうのが原因なんですけど。でも僕の本質っていうんですかね? 結局長く書く事しか脳みそがないっていうのか、そこら辺ぐじゃぐじゃになりながら書いたんですけど、その結果として、短い詩を書いている人って凝縮率が高いわ、選択された語彙がイカレテいるわで、読むと嫉妬と羨望で泣きそうになっちゃうんですけど、僕が選べるスタイルとしてはこれしかないって所で、何が言いたいのかっていうとこの長さであることを、説得しないといけない。そのために必要な事ってなんだろうみたいな事を考えながらこれを書いていました。この作品にはこの長さが必要だったってことを多分僕は読んでくれた人が信じてくれるように努力しないといけないし、没頭させないといけない。みたいな感じです。そうじゃないと、例えばホームラン一本打つための努力として千本ノック延々とただ見るのってつらいし、そういう努力は人の時間を使わせる必要なんてなくて僕の中で処理すればいいじゃんって事になるから。みたいな感じでしょうかね。 返答としてはなんか変な感じになってしまったのですが、それよりもまず、コメントくださった事に感謝します。 ありがとうございました。 (銃声)

2021-01-11

こうださん こんにちは。返信遅くていいというか、僕も毎回コメントも作品書いたりすると大分疲弊して一日簡単につぶれてしまうので、なんかゆっくりやりましょうというか、これでいい感じですねって感じなので、最後のレスにしようと思います。 >私これ読んでうんうんわかるわーって思ったんだけど、ちょっと思ったのと違ったかしら。 >私は詩を、自分の気持ちを伝える道具だとは思っていません。気持ちを伝えたいなら伝えたい相手に直接手紙でも書いとけよって思うから。私は詩を書くことで何をしたいかというと、たぶん“言葉とあそぶ”ことなんだと思います。 >この「ふたごらいたー」の場合はまずお題があって、そこからイメージした光景を詩にするにはどうしたらいいかを考えていったわけだけど(こうだの一個目の返信参照)、書くときはいつだって、詩の中に自ら入って言葉と一緒に遊びながら私なりの出口を探したいんです。それで完成した時にはパズルを解いたみたいな快感があって、この快感を味わいたいがために私は詩を書き続けるのだろうし、こうして投稿するのも「パズル解けたよ、誰か見て!」って言いたいだけなんだと思うんですよね(子供かよ)。 > >そんなわけで、私が披露する自作の解釈というのは作者の意図みたいな御大層なものではなくて、私なりにパズルを解く過程の説明です。解き方はある程度パターン化されるけれども毎回違います。もし私が、「自分の気持ちを伝えたい」とか「信念を表明したい」とかで詩を書いていたら解釈は同じになるのかもしれないなあとは思うけど、そんなつまんないことはしないです。だって私、自分自身のことこれっぽっちもおもしろいと思わないもの。私にとって私の気持ちや信念みたいなものは、パズルのピースの一つとして利用する程度のものでしかないです。 >あ、でもどの自作も私の言いたいことは「パズル解けた、見て!」なんだから、自分の解釈の行き着く先は同じってことなのかな? それって解釈が全部同じになるってこと? うーん、よくわかんなくなってきた。笑。 なるほどなぁ。僕自身の立ち位置っていうか、言葉の付き合い方みたいなところなんですけど、ちゃんと書くのであれば、手紙っていうか仕事のメールみたいな文章で簡潔に相手に伝えれば終わる話って結構あると思っています。つまり、わざわざ論理のつながらない文章で提示する必要って言ってしまえば伝達の機能を達成する上においては無駄なんですよね。もちろん、言葉一つ一つの印象って受け取り手に与える力って大きいから敬語みたいに、言葉の態度(モダリティ)みたいな概念が生まれたり、表現一つ一つが同じ意味合いを持っていたとしてもバリエーションがあったりすると思っています。 そういう意味で言うと、僕も結局普段の仕事ではこういう文章を全くかいていなくて、なるべくセンテンスを短めに、簡潔に、相手が受け取りやすいように、目的をはっきりさせ、かつ伝える内容については整理して伝えるという事をしていて、作品として公開している文章の在り方を仕事では使っていませんっていう所がスタートとしてはあるんですけど。で、そういう表現を選択するという事から僕がやりたい事って結果的に、文章表現を駆使してまで書きたい事ってなんだろう? 別にメールで済むような事をわざわざなんでこうして書いているんだろう? みたいな所に全てが詰まっているといえば詰まっています。それはなんでかっていうと、仕事でやり取りしている言葉って読んでて仕事の役には立つけど、全然つまらないんですよね。何も興奮しない。そして、仕事で書いているような論理が明快で、伝える内容がはっきりしない文章を読んでいると、僕は生きている事を忘れるくらいに興奮する。それがとても楽しいんですね。というか楽しいっていうレベルじゃなくて我を忘れてしまうくらいにのめりこんじゃう。なので、掲示板に関わると間違いなく頭は元気になるんですが、体はボロボロになります。ギルドぶち上げた時は色々な感情や思考でぐるぐるになって、生活が絶賛壊れてしまいました。なんでここまでやってんのか自分でも分からないですが、でもそういう物を僕は根源的に求めてしまうし、それを止められないんですよね。どうしてもやりたくなってしまうし、燃えてしまうし、燃えるような出会いと対話したくなってしまう。 という訳で、読んで僕が覚えた興奮を自分の作品で覚える事は正直ないです。誰かの書いた作品になく事はあっても自作には泣けない。それは言ってしまえば自分に当てた手紙みたいな部分もあるし、自分の中にあるものだけで書くってことは、要は自分の中にある物を使って書いているっていう感じなので、それって日ごろ考える事の再生産であって、わざわざ公開する必要ないじゃんってなっちゃう。ただ、それでも暇になると書く事をやめられないって事もあるし、僕も言いたい事が最初からあって何かを書き始めるわけじゃないので、でも後から冷静になって読み返すといつも同じ手紙を自分に当てて書いてるだけだな見たくなってしまうので、しょうもな。勝手に日記に書いてればいいじゃんみたくなるっていうんですかね? みたいな所で、僕は自分の作品に「詩」って言葉を使いたくないし、「詩人」だとはいいたくないんですよね。どう考えても僕は読み手であって、読み手であることの方が100倍楽しい。めんどくさくなって詩って言っちゃうことあるけど、そういう事はどうでもいいって感じ。ただ僕が感じたいのは、日常的に存在したら怒られるような文章を読んで、そこに込められた理屈でもイメージでも、音韻でもなんでもいいんですが、何かしらの作用を持って体験したことのない感情を想起させられる事って感じですね。そういう意味だと書いている時は正に作っている時は楽しいのかもしれないですね。ただ、その体験って一回きりなので、もう戻ってこないみたいな感じ。なので飽きちゃうって感じですね。もしくは適当に見切りをつけて直ぐに終わりたくなってしまう。でもそういう事を繰り返していくとストレスが溜まって一年に一回くらいに泣きながら書くんですけど、一年の総括っぽいのが出来たなみたいな感じになるんですよね。そういうのが偶にできると、それは少しだけ好きになれます。なんていうか、だめだだめだって思いながら書いて発表してボコボコにされてくそーって思いながら、俺は俺が好きな作品に全然届かない、ああいうものが書きたいけど書けないし、そもそも伝えるべき内容なんて持ってないし、書きたい事ってなんなんだっけ?って思いながら、書いていると偶にそういうの全部消えてふわっとしたものができるんですよね。その一瞬は正に絶頂で、すっきりします。ってもそんなの数回しかないし、書いてしまったらまた気分がゼロに戻ってしまうのでやり直しなんですが。 >ちょっと気になるのは、百均さんは〈こんなもんか〉って思う時、“何と比べて”こんなもんかって思っているのかってことかな。私の二個目の返信の最後で書いたけど、私は〈今日の私は昨日より一日長く生き延びたから昨日の私よりえらい!とか思っている人間〉なので、比較対象は常に自分なんですね。他人と比べてたら自作を人目に晒そうなんてとてもじゃないけど思えないです。他人と比較してなにくそって思いながら書くほうが成長は早いのかもしれないけどね。 他者と比べてみたいな部分っていうのは、僕自身も今は割かしどうでもいいやってなってはきていて、こうださんの言う通り僕も自分の作品と基本的には比較しながら書いています。基本的に、比較それぞれの書き手の目的というのは異なるという意味合いにおいて、そもそも比較する為の基準も糞もないジャンみたいな感じなので、他者と議論を深めていくという事については、生産性みたいなものはあんまり期待してはいないです。ただ、それはこうださんのおっしゃられているように、自分の中で比較しているとは言っても、それって結果的に自分が影響を受けた作品をトップとしていて、それに届かない自作の事をひげしているって感じではあるんですよね。そういう思想が根本にあるってのはその通りです。その考えについては、年々僕の中で変わってきていて、前はあの作品には届かないみたいな感じで嘆いてたんですが、最近はああなりたいって感じになってきてるんですよね。最近だと、なかたつさんと一緒に詩集読んでるんですが、ああいう詩文書きてぇみたいな感じになってきてる。憧れとか畏怖に対して接近して、自分も自分の言葉をああいう風に書きたいという渇望ですね。 ただただ、その外に公開する事によって自分の作品の客観視(それは読み手の主観が入っていてもいい)をしてもらう事で見えてくる認識って大抵予想を裏切って面白いんですよね。(こう思えるようになったのはBREVIEWに参加してから)そっちの方が興奮しちゃうってなると、なんか僕はコミニケーションの為に書いてるだけじゃねってなって終わってしまうんですが。それはそれとして、僕の場合は自分の作品が今まで自分が興奮してきた作品と比べて興奮できない。書いてて楽しくない。楽しくないって事は公開してもしょうがない。でも公開しないとそう思い込んでいる事が正しいのか分からない。助けてくれみたいな所から色々なコメントをもらってガソリン入れて、そういうめんどうな事を振り切って自分で興奮して、誰かも興奮して、平和になったらもういいやって感じですかね。ってもくだくだ言いながら書いて行くんですけど。 >うん、なんか収集つかなくなってきた。そろそろマカロンふわふわで終わりにしますかね。 という訳で長らくありがとうございました。ふわふわ~ レスはさげ進行にしておきます。というかサゲ進行なら多分迷惑かからないってか最初からそうしとけばよかったですね。 ありがとうございました。 (ふたごらいたー)

2021-01-11

おばんです。 あら、こうださんも緊張するのですな。やっぱ話しかける時って緊張するよね。って感じで共通理解が生まれてよかった。ほんわか なんかね、きっちり割り切れる感じになればいいんだけど、一回うってなるとうってなっちゃうからね。器大きくなりたいなと思ったところで、んにゃぴですね。 自作解題については、なるほどなって感じ。僕が自作解題しない理由って、なんか自分の解釈っていつも同じになっちゃうってのと、やっぱり他人に読んでもらってもらった感想の方が興奮しちゃうってのはありますね。僕も自分の書いた作品って書いた瞬間に他人っぽくなっちゃって、何買いてたのか最近全然忘れちゃうんですけど、なので久しぶりに自分の作品読むとなんか他人事みたいな感じですね。その時の自分はこう書いてたんだね。みたいな感じ。 >私はためらいなく自作解題をしてしまうからたまに驚かれたりするのだけれど、単に私の解釈をしゃべりたいだけなんですよね。一読者として他の読者と横並びになってしゃべりたいんです。百均さんはあまり推敲をしない方だからピンと来ないかもしれないけれど、私はめちゃめちゃ推敲するので書いてる間に何度も読むんです。だから、自作の最初の読者は私だって思っているんですよね。 そこら辺で言うと、僕は書き終わった瞬間から自分の作品に飽きちゃうんですよね。最初に読んでいつも飽きちゃうみたいな感じ。書きながら一回よんじゃってるしね。書いてて落ち見えた瞬間とか、意識した瞬間にその作品に飽きてしまってこんなもんかみたいな。そのせいで、僕は長い物書いてるけど、二日連続とかで長い物かけないんですよね。前日に書いた物って書いていてこれつまらんなって思ってやめちゃった物がほとんどだから。推敲するってなったら大体全部書き直しなので、推敲って感じにならないんだよね。なので碌に技術身に付かないわ。勢いだけで草みたくなっちゃうんですけど。 いつまでたっても出さないまま捨てた物も結構あるし、ゴルコンダみたいな所は締め切りがあるので、取り合えず適当に出しちゃうんですけど、その時点でなんか飽きちゃうみたいな感じ。なんで、誰かに自分の作品読んでもらって感想もらっちゃうとさ、その時点で自分の読みより面白いなって思っちゃって何も言えなくなるくらい嬉しくなっちゃうんですけど(大体感想もらうと興奮して一日中コメント欄見てますしね。というかコメントもらうと俺の一日終わっちゃうんだよね。ずっと一日ニコニコしながら見て何返そうか分からなくなってぎゃーってなるから) 僕にとってのアウトプットって、レス返すのがへたくそだから、単純に作品を媒介にしてコミュニケーション取ってる感じにどうしてもなっちゃって、俺は人としゃべりたくて作品書いてるんだなってなるとなんかむなしくなっちゃうんですよね。とか思って延々ふてくされてる所にコメント来て、自分でつまらないと思ってる物をちゃんとつまらないとか、面白いとか、悪かった良かった色々教えてもらったり、褒めてもらったり、罵倒されちゃうとさ、なんか楽しくなる感じですかね? おお、なんか生きてるって感じみたいな感じ。そういう意味だとこのやり取りで今日も生きられました。ずっと返したくて一日仕事にならなかったし。 >〈自作語りのギルド〉については、ちょっとやってみたい気はするけど、場を作る人になる自信がないから案だけ出して満足しています。作者の意図が絶対だと思ってる人とは喧嘩になりそうだしね。笑。 案だけ出して満足ってのはいいですね。俺は勢いで作っちゃったし、なんで作っちゃったのか後々色々検討付いちゃって泣きそうだよ笑。ただでさえBREVIEWの運営耐えられなくて逃げてるのに、集団なんか作れる訳ねぇだろって感じなんですけどね。って所なんで、やっぱなんか適当に楽しくしゃべってるだけでも楽しいよね。集団行動するのも楽しいけど、建設的にやらない事って感じの空想も好きなので応援しています。 作者の意図についてはなんか誤解の渦って感じになっちゃうから、滅びちゃえって思ってるんですけどね。なんかたのしい感じにならへんかなと思うよ。マカロンふわふわとかになればいいのにね。 (ふたごらいたー)

2021-01-08

ちょっと誤字脱字が多すぎる文章だったので、ごめんなさい。一応再レスしておくと、やっぱり全く同じ(だと思うんですけど)翻訳の文章がネット上に展開されていて、それを匿名投稿で投稿して原典出さないのは、流石にきついんじゃねって感じです。自分で翻訳したのであればまだしも、ネットで検索したら真っ先に同じ文章が出てきて且つ、おそらく同じ翻訳者とは思えない動きをしているんだもの。 翻訳投稿する人がいるんだと思って少し楽しい気持ちで読んでいたのでちょっとがっかりしたってのが本音です。最初にコメントした所にはったURLと同じ人であるなら、そこら辺のステートメントというか簡単な証明は最低限してほしいなと思います。諸々勘違いだったらごめんなさい。 (白い象のような山並み(ヘミングウェイ翻訳))

2021-01-08

おっすおっす。 なんか色々楽しい事教えてくれてありがとうという感じなんですけど、なるほどね。さっき、酷評ギルドの云々についてちょっと喋っちゃったけど、読むという事は信じるという事から始まるんだったら、酷評ってのはその読んだ物を読んだ人が信じられないってことなんだろうね。ってなったらあとは信じ方の問題じゃんってなってきたのでとてもよかったです。語りによる語り手っていうのはなるほどなと思って、前にそういえば聞いたかもしれないけど、語りと語り手は別物だけど、俺はいつも混同してしまうよ。そこら辺が、正に倒錯的で笑っちゃうんですけど、多分僕はそういう読み方を好んでいて、そういう混ざり方をしてしまう作品に引っ張られちゃうんですよね。って感じで僕は僕の語りを多分楽しんでるんだなと思うと、色々よかったです。 >それこそ、野家さんの本に書いてなかったかな。それか坂部恵さんの「かたり」っていう本だったかな。語るって、象る(かたどる)とも似ているし、騙る(かたる)にも繋がってくるって話。それが「思い出」の「物語化」であって、物語は語りによって象られていると。 そして、「読み」を「読み合う」ということを俺らはやっているわけだから、俺らが「読み」という「語り」によって象られていくんだね~。 ここら辺滅茶苦茶いいなって思ったし、もうこれ詩でいいじゃんって詩を知らない語りをする語りての僕は言っちゃうけど、まぁいいや、そういうもんだろって感じ。また新しい本が出てきて、どんだけ読んでるんだよって思うけど、こういう対話を通じてもう一回打刻を読むと身が引き締まるのでとてもよかったです。ギルドの方もやっぱ参加しちゃったけど、単純に他の参加者の語り聞いてネット詩参加した時の気持ち思い出そうと思います。僕は多分誰かの語りを聞くのが好きなんですよね。で、聞いていて楽しい語りってまぁよくわからんけど僕にとって詩なのかなとか思いました。騙されてもいいや。 (打刻)

2021-01-08

こうださん おばんです。返信書いてくださってありがとう。 なんか再レスしない信条ってなんで出来たんだろうねって考えたんですけど、掲示板から交流が始まったのってBREVIEWが僕にとっては初めてなんですよね。それまではひたすら緊張しながら画面越しの誰とも分からない人の作品におびえながら読んでいたので、なんか斬り合いみたいな感じで全部始まっちゃったのがそういう感じになっちゃったのかなって感じですね。 ネット上で誰かと一緒におしゃべりするのって、いきなりするのなんか緊張しちゃうんですよね。僕の事が嫌いな人がいたとして、その人に長文送り付けたらどうしよう、いやかな見たいな感じですね。後は自分の書いた感想に魂込めて書いて外れたらごめんなさい。次頑張って読みますみたいな動機に利用していたのかもとか。今思うと、単純に気になったから声かけてどう考えながらこれをどうかいたのか気になるなら聞いちゃえばよかったんですけどね。 って感じで、なんかドキドキしながらマジで生まれて初めて再レスしたんですけど、楽しいですね。やっぱ掲示板って対話する場所なのに、僕はそういう可能性を最初から否定してたのかななんて思いながらって感じなんですけど。まぁいいやとりあえず、色々べらべらしゃべっちゃお。 ギルドについては、なんというか流れで思いついたみたいな感じで、あの話の根本って結局運営に頼らずにユーザー側で好き勝手色々やっていいよねって事なんですよね。BREVIEWを壊す方向に暴れなきゃ別に何してもいいじゃんって所で、コスト0でシステムに頼らず楽しもうよ見たいな感じで提案した内容ではあるので、別にギルドじゃなくてもいいし、みんながここでしたいことをすればいいじゃんって感じですね。それで、結局再レスの話にもつながっちゃうけど、こういう場所があって参加したいと思うなら、やっぱり誰かと何かしたいよねって感じで、そこに自由さがありあまりすぎて一歩進めないなら、コンセプトハッキリさせた集団作って遊ぼうよ見たいな感じですね。という事を考えると批評ギルドが全てではなくて、こうださんの提言されているギルドってか別にギルドでもなんでもいいと思うんですけど、やりたい事をみんな好き勝手やっている集団がいくつかあってもいいんじゃないかなって感じですね。自作改題については、なんかネット上だとタブーっぽい雰囲気ってか空気があるんですけど、なんであかんのやっけ? ってあんまりよくわからんのですよね。理由は何個か思いつくけど、それを僕は声に出したことないし、あんまり語ってきたわけでもないし、というか単にやったことないんですよね。って考えたら案外やってみて初めて分かる面白さもあるかもしれません。ってか単純にやってみたら面白いかなと思いますね。単純に即興ゴルコンダの真似事やっても面白くなるよなみたいに思うので、なんでもありだぜやっちゃおうみたいな感じですな。ふむふむ。 >“ねじ曲がってしまう”について思うこと。 >私は感想を述べるとき、うざいくらいに“私は”と書きます。そしてその“私は”の前には書かないけれども必ず“今の”が付きます。 作品を読んで読解するのも、作品を作るのも何か意見を述べるのも、全部“今の私”です。今の私とは“過去の私にとっての今”を積み重ねることでできていて、積み重ね次第で見えることも思うことも違ってくる。だから昨日の私はそう思ったかもしれないけど今の私はこう思うし、明日の私はまた違うことを思うかもしれない。その不確かさ、変われるってことが生きているってことだと思うんですよね。 なんかこの話僕も分かるんですよね。なんか僕の場合は僕は思います。とか多分とか結構口癖だったんですけど、まぁ色々考えると今の自分が思った事しか語れない訳で、未来の自分はわからないし、過去の事なんかもうどうしようもないですもんね。って所で、単純に再レスしない主義って未来の自分がどれだけ後悔したとしても今のコメント一生懸命書いて、それが失礼に終わってしまったらごめんなさいって感じなんですよね。それを延々とずるずる引きずってなんかつらくなるみたいな感じで、まぁ僕はマゾなのかなって感じなんですが。笑そういう感じを振り払ってこうして会話していく中で、お互いの考えをすり合わせて行ったり差分が見えていくのが面白いですよね。ってかそういう事を楽しむのが会話することだし、対話していくことの面白さなんでしょうね。なんか斬り合いしているんだ俺は!って思ってたけど別に殺し合いする訳じゃないし、こうしてコメントで楽しくやり取りする方が健康にいいなと思っちゃいました。 なんかダラダラとしゃべっちゃったけど、自作改題コンテスト楽しそうなので、やったら乗っかりますぜ。 (ふたごらいたー)

2021-01-08

なんとなくフォーラムみたら、著作権侵害ですねみたいなコメントがあったんですけど、ヘミングウェイって戦前の作品については著作権侵害じゃないっぽいですね。戦後の作品だと、2031年まで著作権が切れない作品もあるみたいで、この作品は著作権切れてる戦前の作品みたいです。とかいうのはどうでもよくて、単純にこの本文の内容で調べたら全く同じ作品があったんですよね。 というか検索書けると、最初に書きブログのURLが出て次にB-reviewの本作出てくるんだよな。 http://f59.aaacafe.ne.jp/~walkinon/hills.html このブログの作者だったらいいんですけど、このブログの内容を読むと、基本的に原文のURL張る人で、自分が著作権の切れている作品を翻訳する事について自覚的でありながらも、ただし原文については必ず原典を提示している作者みたいです。という事を考えると、本作の投稿者が上記参照先のブログの作者と同じに思えないんですよねって感じがするので、翻訳元の底本については最低限提示した方がいいと思いますね。また、ざっと見た感じ、上記ブログの丸々引用なんですけど、自分で翻訳したのかなって感じです。 著作権については、多分切れてるから問題ないと思うんですが、問題はそこじゃない感じかなと思います。というかネットの文章●パクリかと思っているので、なんかがっかりだなって感じです。そうじゃなかったらごめんなさいなんだけど、他人の作品を翻訳する場合は、最低限原典の提示はした方がいいと思います。 (白い象のような山並み(ヘミングウェイ翻訳))

2021-01-07

なかたつさん ちょっと再レスしたくなっちゃったから再レスします。 なんか僕の中で一回レスしたらよっぽどの事ないともう一回レスしないみたいな信条があるんですけど、掲示板で対話する事に単純に挑戦したくなったからというのは言い訳なので、ちょっとだけ書きます。 >という問はすごくいい問で、全作者はこれに対して考えなければいけない気がして。いや、別に期待していることはない、という答えでもいいと思っていて、そんなもん読み手が勝手に読めばいいと。俺はやっぱり期待していることはなくて、でも、作品を投げる限り、偶然の必然を信じているんだよね。世の中、偶然しかないと思っていて、それを必然だと感じる、そう、必然は在るんじゃなくて、感じるだけなんだよ。その偶然を必然だと感じる行為を、「動機」、もしくは俺の言葉で言えば「(必然的な)契機」だす。 なかたつニキにそういわれると俺は舞い上がっちゃうよね。俺の出す疑問なんか所詮みたいに思っちゃうからね。とか言ってるとあれなんですが、偶然を必然と感じる行為っていう字義的には反語な訳だけど、矛盾かもしれないけれど、それを行為で結んで動機、契機って呼ぶのは面白いですね。なかたつさんにとっての信仰とか言ったら怒られるのかもしれないけど、僕も詩を読んでいる時だけそういう事を偶にごくたまに思うよ。これは俺の為に書かれた作品っていう感覚をこき下ろすと、多分自分のように読めるっていう没頭感に陥る事が僕にとっての動機かもしれないなとか思ったときに、なかたつさんにとっては書くという行為が正に「動機」なのかなと思うと、ちょっとぞくぞくしちゃいましたね。やっぱそれって詩人じゃない?  >散々、語るという行為が何であるかを話したりしたけど、語る行為を妄信しちゃいけないんだよね。それって本当に「私(作者or語り手)」が語っているのかな。何かによって「語らされている」ということが時にはあるよね。 ここら辺前に話した時に上手く言えなかったのでここでもう一回語るですが、この再レスって行為が正に語るって感じなんですが、語るって行為は編集みたいな概念入ることみたいなのを思っていて、つまり沖縄の思い出っていうのは、思い出そのものを語っている訳ではなくて、物語化している訳だけど、物語るという行為がナラティブな感情に根付いていて、それが「動機」ともいえるのかなと思うけど、それって動機によってぶれる事実みたいなのあるよね。例えば砂は砂のままとしてあるけど、それを美しいと思って語るのは話者じゃんみたいな。それを受け取る時の読者っていうか僕なんですけど、見てないから美しいとは思わないかもしれないけど、それを錯覚させるのか語りだし、言葉を美しいでも鬱陶しいでもなんでもいいけど、何かしらの感情に陥れるのってやっぱり語りの作用なのかって思っちゃったりしますね。でもそれって騙そうとしている訳じゃなくて、多分いつの間にか結ばれてしまう契約なら、共犯関係みたいな言葉を使うと人―人っぽくなっちゃうから、この場合は砂ー人ー読者でーが語りなのかもね。その「ー」を結ぶ契約の糸を契機と呼ぶなら赤い糸で結ばれているみたいでロマンチックですねとか思いました。 長くなっちゃったからあれだけど、野家さんの本に多分書いてあることなんだろうなと思うと、多分読むための契機はここにあったのかな。なかたつさんと一緒に読むとそういう契約が結べるからやっぱり最高ですねとかみたいなラブレターで再レス終わりです。長くなっちゃってごめんよ。 (打刻)

2021-01-06

こうださん おばんです。なるほど、お題を見た時のイメージがあってそこから逆算して色々組み立てていったって感じなんですかね。なんだか、なるほどなと思ってしまいました。なぜかというと、所謂トリップって感じをこうださんの作品に感じるみたいな事を結構色々な場面で僕は言ってきたんですけど、多分それは僕が出来上がった作品見てるからであって、所謂着想した時のイメージっていうんですかね? そこら辺の事考えてなかったからかもしれない。なんというか僕自身直情的な所があって、一方通行で全部考えちゃってんのかなと思いました。 後、このお題を考えた時は単純に物のイメージでしたね。双子のライターのイメージしかなかったので、ごるだとたかはさんとか象徴的だと思うんですが、writerもあるよねみたいな発想全然なくて、僕自身が自分のイメージに食われすぎてしまって、何も書けなかったみたいな所あるんですが、こうださんのイメージ喚起力というんですかね。そこら辺面白いなと純粋に思います。多分僕がお題に出すのって結局自分の手に余るからみたいなのが偶にあるんですが、そこら辺なんか毎回お題出す度に書いてくれた方に供養してもらってるんですよね。 作品化する事で美しくなれたらというのは、なんかいいなと思います。多分作品に感情って直接書いちゃいけないみたいなのが僕の中にあって、それはやすっぽくなるからだみたいな信条がいつの間にか出来上がっているからだとおもんですけど、そういう意味だと本作は感情の裏返しっていうのかな、書いてなくて書いてるみたいな感じが凄いなと思います。 色々追加で書いちゃってあれなんですが、今日読み返していてなんか泣きそうになっちゃのはここだったりします。 >私ね、泣くんじゃないかなって思ったよ。 なんか、泣いたって言われるよりなんか切実っぽい感じがするなって。実際どうだったかわかんないんですけど、これは多分文脈的には泣くのは好きだった人の方なんですよね。でも、なんか「私ね」ってついてるから私が泣いているのかなみたいな感じもしてね。なんか難しいですけど、凄く託してる感じがする文章が僕はすきなんですよね。なんかやっぱり表現に託しているのを感じられるっていうんですかね。そういう一瞬に僕は惚れこんでしまいます。というのが誤読かもしれないし、というか書いている人が何考えているのかとか、何をどう読んだのかなんて読んでいる僕はいつもねじ曲がってしまいますけど、曲がってしまう中で見えたきらめきっていうんですかね。そう思えちゃう物に会ってしまうとこうして長いコメントをまた書いてしまいました。 ちょっと余計な事言ってしまいましたが、多分人生初めての誰かの作品に対する再レスでした。という訳でうざかったらごめんなさい! (ふたごらいたー)

2021-01-06

こんにちは。 ストイックさを感じる作品でした。 と言っても中々表現が難しいのですが、一行一行中々緊張していてゆるみがないですね。 というのと、詩行の積み重ねの中でビートを感じます。それは単純に読んでいてリズムを感じるというよりかは、メトロノームを刻むように音韻が統制されている感じがします。という印象の感想になってしまうのですが、全体的にきっちり決まっていていいなと思いました。 最後の2行については田中さんも触れられていますが、死ぬことについては多分というか僕も意識して書く事がよくあるのですが、最後に生きる事がないだけだよと添えられているだけで、幅が広がっているように思いました。 (曙光)

2021-01-04

こんにちは なんか読んでいて悲しい感じですね。豆知識がぽろっと最後においてあるのも、ちょっと物悲しいですね。フタコブラクダに重ねていくのはユーモアがあって思いつかない感じがなんともいいですね。それがただイメージだけ置き去りというよりは、重なるイメージが連なっている事がフタコブラクダっぽいたいな感じでいいなと思いました。後は眼鏡もよくよく考えたらレンズの双子じゃんとか思ったり。 失恋みたいな文脈というよりは、ちょっと遠くから見ていた存在みたいな感じなのも、砂漠の山の上を歩いているラクダを見つめる私みたいでいいなと思いました。なんというか距離感がある感じでしょうかね。もちろん身近な存在であって、わたしも連なりたかったみたいな事も述べているんですけどね。 >ネット記事を雀の涙の執筆料で引き受ける双子のライターが、使い捨てオイルライターを握ってカチカチしてる。利用されては捨てられて。 単純に気になったのは、ここの違和感っていうんですかね。使い捨てライターが利用されて捨てられるみたいな事が書いてあるんですが、諸々賭けていてあってうまいなって思うんですが、急にトリップしているなって感じで面白いですね。なんですが、単純にここら辺どう描いたのかなみたいなのが気になった感じです。 寸感程度ですが、そんな感じで感想を書いてみました。 ありがとうございました。 (ふたごらいたー)

2021-01-04

レスありがとうございます。 こちらでは、初めましてですね。 音が良いと言ってくださったの、とてもうれしいです。何が書いてあるのか分からないくらい無茶クチャな内容を書くのであれば、その無茶の担保として音程度は整えて出したいなといつも思っています。その点田中さんの読みに対してこの作品が耐えてくれていたのであれば、とてもうれしいです。 ありがとうございました。 (汚水の苔脅し)

2021-01-04

コメントありがとうございます。 好きと言って頂けてとてもうれしいです。 また、身近に感じていただけれた事がとてもうれしいです。語り口の所に注意して書いた物なので、その感覚が楽子さんに伝わったのであればよかったなと思います。あとは、体験という言葉が感想から出てきた所で、やっぱりぼくは読むという行為が体験になる(=ある程度の没頭感)を生み出してくれないと読んだ事にならないのかなと思っていて。その点楽子さんに届いたのであれば、とてもうれしいです。 本当にありがとうございました。 (汚水の苔脅し)

2021-01-04

てんま鱗子さん レスありがとうございます。 返信が遅くなり、申し訳ありません。 あなたとは実在であるのかというのは、難しい問いですね。 それを明言しない事によって逃げているとも言えますし、ない物を捏造しているから「あなた」とかいいようがないのかもしれません。そういう意味で、この作品は夢見がちであるという事は言えると思います。 夢と現実の話というのは、なかたつさんの返信で最後にビルを出したという所からとってもわかるかなと思うんですが、一度夢は台無しにされるべきだなと思っていて、でもそれから立ち上がってくるものはあるよなと思っています。現実と夢って対比的な文脈だけなのかなというと、多分そうではなくて、現実と夢は同居するんですよね。という所を考えていくと、あなたというのは、現実にならなった存在であると同時に、現実であった存在の影として残っている残滓を指しているのかもしれないし、特定の個人を指しているのかもしれないですね。答えになってない部分も沢山あるのですが、一旦こんな感じで返答させていただきます。 色々考えさせられるレスでした。ありがとうございました。 (みんなでてくる)

2020-12-31

打刻というのは、仕事が終わった後とか始まる時に、勤怠表に打ち込む時間の事ですね。ですねとか言ってますが、打刻というのは中々面白い表現です。時間を打つ行為とはどういう物を指すのかという事を考えていくだけで多分ごはん3杯くらい食べれます。というくらい概念として面白いです。という言葉をまくらに置いた所でどうしようもないのですが、なかたつさんの詩を読んでいて思う事はとか、大きな主語で語ってしまうと、これを人に見せる事で何を期待しているのだろうという事をなんとなく思います。期待という言葉は不適切かもしれません。僕の場合は、これを読んで何を思えばいいのだろうという疑問かもしれません。共感でも覚醒でも戦慄でもないのかもしれません。沖縄の話をきみとぼくがしているというだけで終わりかもしれないし、そうでもありません。ただ、僕が思うのは人が何かを書こうとするとき、そこに意味や無意味という枠組みではない何か書かせようとした動機みたいな物はあると思っていて、そのあとに読み手がくっついてくることはあると思っています。つまり、読んだから何があったのかとか、やりたい事みたいな物は僕が勝手に考えて期待した事なので、どうでもいいことなんですよね。 何が言いたいのかというと、多分どうでもいいことはどうでもいいことではないという事です。 >砂浜を踏み込んだ >その感触はいつまでも足裏にあるけれど >砂たちは >この体の重たさを忘れていく 砂というよりは砂浜というのが大事ですね。 公園の砂場に足跡が残ったとしても整えてくれる存在はありません。 多分刻まれた足跡の上を誰かが上書きしてしまうか、あるいは、公園の管理人さんが綺麗にしてしまうかという人為が働いた結果きれいになる事はあるかもしれませんが、砂浜に刻まれた足跡という打刻は、海の波の満ち引きによって消されてしまいますよね。自然に復活してしまうというかならされてしまう打刻というのが、ここでは中々重層的に描かれています。かなりうまいですね。砂浜の上に刻み込んだ足跡が波によって消えてしまう、というだけの情景がそれだけで終わっていません。 「砂浜を踏み込んだ」というのは、誰も立ち入っていない雪原を人間の足跡で穢していくような快感があるのかもしれないですが、踏み込んだという事は、どっちかというと自分の足跡の痕跡を砂浜に着ける事に対して、恐れみたいな物を感じます。雪原のたとえ話に引き寄せて語るのであれば、穢す事とよりも穢してしまう事に対して自覚的なのではないかという事です。足跡というのは、基本的に、汚すという概念が付いて回りますよね。あれってなんででしょう。歩く事の痕跡が残る事というのは多分考えていくと無限に語れますが、ここでは話がそれてしまうので語りません。 次に、感触の話が来るのはとてもいいですね。 足裏に残った感覚というのは話者の中に刻まれていて、それが残り続けているというのはなるほどと思います。 特に、この足裏というのが靴を履いているとかいていないので、僕の中では素足のイメージで脳内に描かれます。 触覚によって刻まれた感覚というのは多分残りやすいんでしょうね。例えば、何か生き物を捌いた時の感覚というのが脳みそに刻まれやすいように、 魚を捌くのが苦手というのは、臭いという要素もあると思いますが、多分新しい感触に対する抵抗感の方が勝るんだろうなとか勝手にこの記述を読んで理解してしまいました。 ただ、人間がどう思おうと砂たちは、いつも通り波によって刻まれた足跡を修復してしまいます。 ここからわかる事は、簡単に言ってしまえば「ぼくによって新鮮な感覚」というのは、日常的に踏まれる砂にとっては「日常的な感覚」だということです。 詩は一回性の言語で会って再現性はないみたいな事を入沢先生が言っていたのですが、本作の場合これを詩として語れるのはやっぱりぼくでしかないんでしょうね。 砂の立場から語るのは多分重たさを忘れてしまうので無理なんでしょう。 >「花火は地上からあがるから、花の火なんだね」 >「そして、あの色は、いろんな金属が光っているんだね」 >(きみの目をよく見るのは > ぼくの目の中で何が燃えているのかを確認するため) >「きみが持っている空を少しだけお借りしたいだけさ > ぼくが持っている空には沖縄で見た夏の大三角形が映っている」 >「じゃあ、夏の大三角形から見た沖縄には、あなたが映っているのね」 >(あの星の色は、炎色反応ですか > きみの目を燃やしたら、何色を灯しますか) >「血液型占いを信じるかい?」 >「全く信じないですし、血液型の話を聞くのも嫌ですが、そういうのが好きな人がいるのはわかります」 >(嫌いなものまで見るきみの目の色は > ぼくの目の色をしていた) >「ナンバーが8823の車が後ろにいたんだ」 >「きっと、宇宙から帰ってきたんだね > そして、誰よりも速く駆け抜けるんだね」 ここら辺の会話を僕は上記コメントで述べた対比で読んでしまったのかもしれないですね。 花火は綺麗ですが、例えば花火師からすると毎回上げているから感動的なイベントではない。でも花火を見る方は非日常的なイベントなので、それは「打刻」的に刻まれる。 花火の色は綺麗ですけど、実際には金属の炎色反応を人為的に操作して人間が綺麗に見えるような演出をしているだけの存在であるので、いわば花火にされた金属の砂=火薬からすると自分がそうなる存在であるので、 想定通り光るのはその通りだという日常な訳ですよね。ただ、その花火を見る側というのは、その一回性のきらめき。空に打刻される足跡に対して、視覚と聴覚を通して、脳みそに打刻されるわけだ。 ぼくときみの会話というのは、そういう意味で、詩人と砂の会話みたいだなと適当に思っちゃいました。 >「きみが持っている空を少しだけお借りしたいだけさ > ぼくが持っている空には沖縄で見た夏の大三角形が映っている」 >「じゃあ、夏の大三角形から見た沖縄には、あなたが映っているのね」 ここなんか象徴的で、君の指摘として、夏の大三角形からみた沖縄には「あなた」が映っているのねってのが、なんともなぁと思いました。 冷静に考えると、夏の大三角形を見上げる時、自分しか見ていないように思うかもしれないけど、そんなわけないですもね。っていう錯覚に対しての皮肉っぽい返しだなと思っちゃいました。 夏の大三角形があなたを意識することはない、それはあがった花火があなたを意識しないように、あなた自身に刻まれた砂ですらあなたを忘れてしまうように。 あなたに刻まれた打刻という感触を打ち付けた相手があなたの事を意識していた訳ではない…と考えると恋愛の勘違いの話にもなりそうですね。 なんか誰にでも親切な人が誤解されやすいってこういう事なのかなって思っちゃいました。 >(夜の帳が落ちて、前景に彩煙柳、光が、宙に浮かび、きみの腕には、青と赤の、花火が、流れている、これがぼくの空だ、きみの腕を、そっと、浮かべ、手を、繋げば、ぼくが宙に浮くか、きみが地に落ちるか、二人で、一つの花の火になって、ぼくは、きみになって、海に沈んでいく) >時がどのように流れたのかを見るために >砂浜を歩いている >砂たちに >もう一度きみの体の重たさを刻み込ませる なので、最後のここら辺については、流し読みではあるんですが、 「きみの体の重たさを刻みこませる」って落ちは、 多分対人だから出来る芸当なのかなと思いました。 つまり、きみは砂の方のサイドにたってぼくの話を聞いているので、 そしたらぼくサイドに引き寄せるしかないじゃんって感じですね 行ってしまえばぼくが感じた錯覚を きみに追体験させることでぼくと同じにするってことは僕と同化するので、海に沈めますねってことですね。 (打刻)

2020-12-27

ABさん レスありがとうございます。 自分も10年前にはこどもだったんですが、今はもう大人になってしまいました。ということを考えると、子供と大人という考え方は青年期の終わりでもあるし、仕事につくことがイニシエーションになっているのかもしれないけど、大人も子供の境目ってやっぱりはっきりしないまま移行するんじゃないの。みたいなことをぼんやりと思います。いまの僕が子供のために出来たことはあるのかというとないですし、税金を納めたうちの幾ばくかがそのために使われているのであればいいのですが、そんなのわかりませんもんね。 ということも考えた時、僕には今部下がいて、上司の責任は部下の人生を良い方向に持っていく責任があることという話を今日聞いて、とても苦しくなりました。責任を持つのは苦手で、何もかも責任が崩壊してしまってから責任をもって何かをすべきだったと思うことばかりです。取り返しのつくこととつかないことと、それはどれだけの思いがあったとしても、壊れてしまったらもう取り返しのつかない事実になってしまうことが、ぼくにとっての恋と愛なのかなぁとおもいました。 今目に見える人たちを守ることが子供を守ることにつながるかもしれないし、つながらないかもしれない。ただ、場所は何もしなければ壊れてしまうし、場所がなければ誰も生きることができない、特になんの力もない存在にとっては決定権がないような世界だということはなんとなく思います。 ありがとうございました。 (みんなでてくる)

2020-12-25

なかたつさん レスありがとうございます。 作品について具体的にしゃべる事よりも、今回は恋愛詩ってなんだろねって話をしたのがきっかけでこれを書いたので、そこら辺について思う事を書きます。といっても大した考えがあったわけではなく、恋愛ってなんで日本語だといっしょくたになるんでしょうね?結局似ている概念だからくっついてしまったのかもしれないです。LOVEとLIKEの話だとか、他の言語だとはっきりしているのかもしれないし、愛情を表現する事が苦手な言語という事は、苦手であるという認識がはびこっているのかもしれないですけど、色々ごちゃごちゃしてきたので、実際の所よくわかりませんが、恋をするのは人だけじゃなくて、その場所とか過去の事実や時間なんかにも使うよなという所から、これが生まれたという経緯はあります。 そして、僕自身の視点が過去に向かっているのだとしたら、ある意味しょうもないといえばしょうもないのかなとかなんとか思ってしまったり、とかそういう思いを書きつける事ではなくて、歌として歌う事で伝わる事もあるかもしれないし、ないかもしれない。ラブレターってなんかいつもびりびりに破かれるイメージがあるんですけど、なんででしょうかね? 手紙って出来上がった関係については有効だけど、新しい関係を作る為には意味がないのかなとか、ラブレターは「恋」と「愛」だとしたら愛っぽいからそりゃそうかとか思っているうちに、やはり、声に出して、好きだったとか、愛しているとか、そういう言葉をいえる事ってよくわからないですよね。そうとしか言えないからそういうのかもしれないけど、感情の解像度としてやっぱりめんどくさいものなのかもしれないですね。だから、比喩であったり、こういう舞台装置を先において、そのプロセスでもってしかだせなくね?って思ったのかもしれない。あなたについては、最近ポルノグラフィティのアゲハ蝶をよく聞くんですが、詩人についてよく触れた歌詞だなと思って、なんか今聞いていて面白いんですよね。あなたという要素は共感性を呼び込むための箱という側面と、あなたという自分とは異なる対象を指し示したり、そこに色々な人間を呼ぶためや、あるいは遠ざけるためのものなのかなとか思ったり、ただ、あなた、わたし、大人、子供、みたいなふわっとした物があって、そこに具体的な記述を埋め込んだのは、つまりコロッサスの花畑なんですよね。そこだけハッキリ僕は意識的に書いていて、そのイメージから全て始まったのだろうなと思います。花言葉は恋愛に関するたとえものとしてよく使われますけど、あれがなんでそういう経緯を持ったのかっていうのはぶっちゃけ分からなくて、お花は象徴として使われてかわいそうだなとか思っちゃったりするんですけどね。 僕も何が言いたいのか分からなくなってきましたが、ビルにしたのは、多分現実に戻そうとしたからかもしれないですね。あまりにも幻想的な空間は一度現実に戻る必要があるんじゃねって最近思うからかもしれない。現実だけ書く事も好きですが、なんだかんだ僕は意味不明なイメージから何かを取り出す作業が好きなんでしょうね。とかなんとか。あと、女の子を主人公にすると、やっぱり僕はとても書きやすいなと思いました。 こういう返し方になってしまった理由ですが、多分こっちの方がええかなみたいな感じですね。具体的に一つ一つの返信に細かく書いて行っても、多分いつもツイキャスでやってる事と変わらへんので、それはしゃべる時にしゃべったらええやん。みたいな感じですね。こういう返信できるのはなかたつさんだからってのもありますけど、丁寧に読んでくださってありがとうございました。 (みんなでてくる)

2020-12-20

早坂さん 再びのお返事ありがとうございます。 最後の最後、いつもまとめ方について考えてしまうので、 いつもより少し長く書こうと思ってああいう終わり方になりました。 それが上手く読み手の方に伝わったのであれば、 滅茶苦茶うれしいです。 ありがとうございました。 (┣演技演骨┳えんぎえんこつ┫)

2020-12-20

田邊容さん レスありがとうございます。 そして、初めまして。 書きたいものなんてないなら、書かなければいいのに、というのは、なんだかんだ未だに僕の中に重くのしかかっている事柄です。これも書いている最中はその考えがちらついて、なんでこんなことを書いているんだろうと思ったことは事実で、そういったものが結局空っぽであることから這い出てきて現れてしまったのだろうなとレスを読んで思います。 そして、こういう創作を続けていく中で、手応えのあるものができたりできなかったりするんですが、結果的に言ってしまえば、僕は失敗を挟んで挟んで、少しだけ何かに近づいたような気がしたものができてまた遠ざかる事を繰り返しているだけだという感覚だけ残され、どうしようもないなという感じではあります。 ですので、田邊容さんからいただいたレスは僕個人の話で言えば的を得ているという所で否定できない感想ですね。 そして、ストレートにレスいただけるというのはやっぱ嬉しいなと思いました。 ありがとうございました。頑張ります。 (汚水の苔脅し)

2020-12-14

ネンさん 読んでくださりありがとうございます! 楽しかったと言ってくださり、うれしいです! どしゃぶりさんの詩はなんか理屈抜きで惹かれる所があるので、いいんですよね… まぁもうBREVIEWにはいらっしゃらないのかなと思うんですが、偶に読み返しています。 ありがとうございました。 (疲れてしまったら身体に染み入るものを摂取しましょう)

2020-11-29

ABさん お読みくださり、ありがとうございます。 好きと言っていただけるのはうれしいです。やっぱ読む事の喜びって、解剖して読み込む事も楽しいけど、読んだ時の衝撃とかないとおもろくないですもんね。 ですので、今回いただいた感想は色々励みになりました。ありがとうございます。 (┣演技演骨┳えんぎえんこつ┫)

2020-11-28

てんま鱗子さん 初めまして。百均です。 お読みくださりありがとうございます。 ニヒルが洗われるような詩ということで、なんかなるほどなと書いた本人ではありますが、納得しまいました 僕自身が最近なんかどうしてもニヒルの匂いがつくものを描いてしまうところから抜け出せなくて、今回はとりあえずががっとかいてみたんですが、ニヒルを洗いたいんだなと思いました。洗礼だったり聖痕じゃないですが、なんかコメントいただいて憑き物が一つ落ちました。 ありがとうございました。 (┣演技演骨┳えんぎえんこつ┫)

2020-11-22

早坂 純一さん 初めまして。百均です。 お読みくださり、ありがとうございます! 読んでいて気持ちよく、また面白かったとのこと、 そういっていただけてホッといたしました。 ありがとうございました。 (┣演技演骨┳えんぎえんこつ┫)

2020-11-22

エイクピアさん レスありがとうございます。 上記引用していただいた箇所ですが、これは明確な誤字ですね… 正確には下記のような詩文になります。 誤 カウポーイだしが慌て出したみたい 正 カウボーイ達が慌て出したみたい 単純に推敲不足であると言われてしまったらその通りなのですが、言い訳を言うのであれば、蛾兆さんのレスで書いた通り、ここの掲示板に提出した時には誤字がない状態だと脳みそが認識しているんですよね。。。本当に中々これもずっと自分の中で解決しない問題なので、多分自分の意思ではなくて、作品を提出する前の最低限の心がけなり、仕組みなりを作るしかないと思っています。 ここでは編集機能が使えませんので、次作以降の課題とさせていただきます。 申し訳ございません。 ありがとうございました。 (カルフォルニア・スウィング/河童肉付きぺりかん船便)

2020-11-01

蛾兆ボルカさん こんにちは。 レスありがとうございます。 >皆さんのコメントや作者からの返信をしっかり読んでませんので、重複があったらすみません。 この点については、僕自身が返信するときに、同じ内容のレスを書くと最初に返した時のレスから認識がずれる事があるので、その点で前のレスで書きましたがみたいな事を書いて一旦コメ返しの分析じゃないですけど、一旦そこで書いた内容については現状の僕の認識の最善線にあるという意味で「よかったら読んでいただけると助かります。」みたいなニュアンスで返レスする事はあるのですが、コメント書いて下さるときはフラットな感覚で読んでいただけるのが一番うれしいですね。なんというか、書いてあることをそのまま読んでくださるというのが、多分ここのコメント欄を読んでくださる方とか新しくコメントを書いて下さる方によとって、最初から読む労力が減ると思っています。ですので、この後の蛾兆さんのコメントに一旦全てお返ししようと思っているのですが、僕が返したコメントはあくまでもその方との対話の中で生まれた内容みたいな感じで気軽に捉えていただければ幸いです。(この点掲示板での議論っていうのは始まったら中々ゼロに戻らないという所が難しいですね。僕がこうして書いているコメントが作品の読みを縛ってしまうのはやっぱつらい所がありますね) >先ず黙読での読みやすさと、それに反する不思議なほどの音読でのよみにくさが並行しているところが、迫力とか引力みたいなのを生んでるように思いました。 >黙読で読む限り、わかりにくい言葉も、つながりの不明な文節もなくて、すっと読めたし、イメージも青さと水で展開して、途中ちょっと河童からスイカで赤いイメージが閃いたりして、ラストも爽>やかでしたし、なんとなく纏まる感じもあり、比較的読みやすい詩と思いました。 > >だけど声に出して読んだ途端、何なんでしょうか、この読みにくさ。 >おそらく、作者が意図して発音しにくく音を配置したのでは、とも思ったのだけど、どうやったのか見当もつきません。 >結果的に、一枚の絵であることを強固に主張するような作品になってるという印象を受けましたが、それがポップアートっぽいというか、タイトルにフィットしてる感じがしました。 > >驚きを感じたと言う事と、感じの良い作品と思った、というところであります。拝読しまして、私にとって面白い作品でした。 この点なんですけど、ここは僕自身が結構課題として認識している感覚だったりします。ので、所謂読んだ時の音と声に出した時の音のずれみたいな感覚について触れていただけたのは、非常に嬉しいなと思うと同時に、僕自身も回答が出せないポイントになります。この点申し訳ない。 声に出して読んだ時の読みにくさと、読んだ時にすっと入って来るイメージっていうのが、僕の中では感覚的な物として乖離していて、そこの帳尻の合わせ方が今一分かっていません。多分僕が書き手として、自分で認識している言語感覚と、それをアウトプットして客観的に味わう「朗読」という音声的な感覚の間に溝があると思っています。そこの乖離の穴埋め作業が僕にとっての推敲だったりしますし、でも推敲した結果、中途半端な出来になってしまう事が多々あって、中々難しいですね… これは僕自身も感じている自作に対する気持ち悪さなんですけど、なぜそれが発生するのかっていう所の機序はよくわからないです。ただ、今回蛾兆さんに触れていただいた事で、自分の中にある感覚みたいな物に対して言葉を与えていただいたなと思っています。すいません、ちょっと一番僕が課題に感じている所を突かれてしまったと思っていて、正直上手く返せないです。申し訳ない。 ありがとうございました。 (カルフォルニア・スウィング/河童肉付きぺりかん船便)

2020-11-01

藤 一紀さん レスありがとうございます。 こんにちは。 >クスッとしました。「浮かんだ」(の訛り風に)と重なって。 ここはrさんの返レスでも書かせていただいたのですが、単純に笑ってほしかったというのと、その笑いのニュアンスは小さなレイヤーの積み重ねの先にあればいいなと思って書いた所でした。 >渡り蝶のように季節を横断したいね 「てふてふが一匹韃靼海峡を渡って行った」ですね。渡り蝶のイメージって頭では知っていて、単純に好きなイメージだったので、今回上手く使えないかなと思ってトライしてみました。 >全体としては気持ち悪かったです。像がつかめないでフワフワした浮遊感があって。そういう気持ち悪さ。あの、遊園地のバイキングとか絶叫マシーンで感じる胃が竦むような、何かに掴まりたい感じ。だから掴まり所を適宜置いてくれたらよかったなあ。でも、それがイイという人もいるかもしれないし、繰り返して読んでいるうちに逆にクセになる人もいるかもしれません。 素直に嬉しいです。これはrさんの返信でも書かせていただいた所ではあるのですが、気持ち悪さをねん出できるっていうのは言葉にならない感慨に近しい所があると思っています。ここら辺を少し技術的に再現できる素養を身に着けてからではあるのですが、今作で皆さんからいただいた評を糧として、他作品に展開する時のアプローチに上手く転用したいなと考えています。 ありがとうございました。 (カルフォルニア・スウィング/河童肉付きぺりかん船便)

2020-11-01

rさん レスありがとうございます。 >うーんなんだこれは? >というのが第一感。 > >ここに投稿される作品は、私にとって一読して意味がわからないものが多い。『点』という作品はその概念を少し変えてくれたというか、うまく言えないですが、意味に還元されない言葉たちが、意味を超えて迫ってくるという感覚が今一番近いです。言い換えると、作者の意図はわかるが、意味はわからない。意味はわからないが、意図はわかる。 > >しかし百均さんの御作は、意味どころか意図すら掴めない。 感想ありがとうございます。黎さんの『点』との比較という事ですが、僕が『点』をちゃんと読めていないので、ここでの明言は避けさせていただきたいと思います。ただ、僕が触れられる所としては「意味に還元されない言葉たちが、意味を超えて迫ってくるという感覚が今一番近いです。言い換えると、作者の意図はわかるが、意味はわからない。意味はわからないが、意図はわかる。」この点を僕もここ数年ずっと追い求めていて、いわゆるそれが僕なりの「読書という体験」という言葉で指し示している事だったりします。片仮名風味に表現すると、「ナラティブ」っていう新しい感情を表現する言葉があって、それを読み手の中に換気させること。これが最近よく僕が考えていることです。ただ、この感慨を狙って打ち出すことは非常に難しくて、というか書き手と読み手の相性問題というのは明確にあるだろうなと思っています。作者としては、なるべく最大公約数的に的を広げていきたいなとは思っているのですが、技術的にそれを達成するための道筋は見つかってません。(的を絞って狙い撃つには、多分本作のような書き方が望ましいのかなとは思いますがね。)そういう意味で僕はこれを掲示板に出してストレートな感想が欲しかったし、願わくば具体的にこれをどうよんだけどわからなかった。面白かったと言っていただければなと考えていました。このジャッチメントは百均の中で適当に下しても、それは元あるセンスの中で下された判断になってしまうので当てにならないからです。僕は自分の感覚というものをそこまで信頼していません。 結果的に、本作に対して多くの方がコメントを下さったので、僕としてはここでしたかった目的というのはそういう意味で達成しています。ですので、読み手の皆さんには感謝しかなく、もらった感想を元に次作をどう組み立てていくべきか毎日考えております。という訳で、いつもだったらさらっと流して感想返して終わってしまうのですが、自分の考えをなるべくストレートに書かせていただいている次第です。僕も自分の考えが正しいとは思っている訳ではないのですが、その考えを検証する為にも言語化して皆さんのレスに真剣に答える事は無駄だとは思ってないですし、これはせめてものお礼を含んだ返レスであるという事をご理解いただけますと幸いです。 >もし良ければ、創作というかこの作品>の意図みたいなものをお教えいただけないでしょうか? これを書こうと思った契機と理由、それから選択した技法についてなるべく開示しようと思います。 まず、僕はここ数か月くらい色々な掲示板の作品を読ませてもらいました。掲示板の作品は正直全部音読したと思ってますし、全て熟読した訳ではないのですが、出来る範囲内で読解させていただきました。その中で強く感じた事は、詩文の持つ音の威力という事です。 次に、最近書いた自分の作品が、どちらかというと、真面目に書きすぎてしまったり、語彙を意図的にセーブして使っているなという思いがありました。 ですので、本作のコンセプトは以下の通りです。 ➀全面的にふざけた作品を作る ②でも音はしっかり作りこむ ➀のベースとして利用しようとしたのは、過去の自分の作品でした。(今は掲載していたサイトが消えて見れません)具体的に言うと「夜を走る」という作品なのですが、高校生の時に作ったものなので、中身の詩文という意味では今思うと出来がよくないです。でも色々と形を変えていたり、「ー」で会話文を挿入していたりと、今の自分に比べて何のしがらみもなく自由に作っていたなという覚えがあって、詩を書き始めた時の初期衝動を思い出すように即興的に言葉で遊んでみようと思いました。一番最初のUgandaは見た目の面白さと②にかかるようにこの詩文の語りに「訛り」を入れようと思いました。でもただ訛り風にだとつまらないので、「鉛り風に」という形で重たさのニュアンスを加える事で、テキストベースでしか味わえない面白さを付け加えました。 後は、これは普段あまりやらないようにしているんですが、今回は敢えて試した事があって、自分の中にたまってきた、インプットされた情報をそのまま吐き出すことによって意味不明さを前面に押し出すことによって②の要素を引き立てようとしました。そういう意味でこれはそもそもの成り立ちとして秘私性の比率を高めています。意味不明な文章の根底には僕がインプットしてきた情報の連想が海底山脈のようにつながっていますが、それを知りうるのは多分僕だけですね。という自覚を持って敢えて書き込むことによって、ナンセンスな物事のつながりが意味としてはつながらないけど、何かしらのイメージを持って読者にカチコミに良くみたいな事態が発生すればいいなと思いました。 それを達成するための前提条件が、「カリブ界面にUganda(鉛風に)」っていう一文のスタートなので、ここでこけてしまうと多分全て失敗になるかなと思っています。多分ここは僕のギャグセンスが腐っているかどうかみたいな話になっちゃうとは思うんですけどね。 ですので、ある意味これは僕のオナニーみたいな詩であると揶揄されてしまったら、それはその通りだとは思っていて、読み手に対してちゃんと目を向けているかというとそうではなく、ある意味では意図的に、無意識的に外している自覚を持ってこれは作りました。 一言でいうのであれば、音やイメージだけを楽しむ詩文、意味を伝達するという視点から一回外して物を書いたり読んだりすることを再考しなおす為の作品だという感じかなぁ。 無論、B-REVIEWに僕が出した作品は読みやすさと読みにくさの淡いを結構徹底的に狙うように書いてきたという自負があるので、これが僕の全てのスタイルという訳ではありません。多分これはこれとして僕の中の肥やしとなってまた別の作品を作り始めるだろうし、無限にあるアプローチを一つ一つぶしていく過程の中の消し炭の一つになるのかなとは思っています。あるいは消し炭にするためにちゃんと真っ向からもう一度このスタイルに挑戦したというだけかもしれません。 >他でも書きましたが、私はこのサイトの感想欄で、疑問や批判も遠慮なく述べていきたいと思っています。 この点については、僕も基本的にはいいことだと思っています。僕もツイキャスで皆さんの作品をよみましたが、よくわからないみたいな感じで疑問は滅茶苦茶いってますし、先月2作品くらいにコメントを書きましたが、両方とも分からないところはわかりませんと書いています。 というか作品を一発で読み切れる人間なんてそんないないと思っているし、掲示板はそういう意味で情報交換しやすい場だと思っているので、喧嘩にならない程度に交流する事は悪くない事だと思います。 僕も、中々コメントの返信するのに考えちゃうタチなので、ゆっくりやり取りする事になってしまうとは思っていますが、こうしたやり取りを真剣にするのは楽しいと思ってます。というかこういう事がしたかった。ずっと ありがとうございました。 (カルフォルニア・スウィング/河童肉付きぺりかん船便)

2020-11-01

沙一さん レスありがとうございます。 返信が遅くなってしまい、申し訳ございません。 >タイトルからしてああこれは意味不明な現代詩だと察せられる。さいごまで読んでもみても、やっぱりわけわからない。ただ洋風と和風のイメージが混淆していたりする言葉選びがおもしろいし、さいごまで読めばきっとなにかあるんじゃないかと思わせられたのは、本文だけではなく百均さんのネームバリューも大きかった。でもやっぱりわけわからない、読後にたいしてなにものこらない、いってしまえば虚無。現代の虚無にスウィングしてるような作品。 なるほど、stereotype2085さんの返信にも返しておりますが、単純にこれがどういう風に読まれたという所を単純に僕は知りたいと思っているので、とてもうれしい感想を頂けたと思っています。ありがとうございます。 >それはそれでいいのですけど、現代詩の〈外〉に訴求力をもっているかというと疑問で、いわば内向的な現代詩だと思われます。そのいわゆる現代詩の〈内〉にこもることを"逃げ"だとするなら、ライ麦の「逃げて楽しいですか?」という発言のニュアンスも読める気がしました。 この点については、stereotype2085さんの返信にも少し書かせていただいたのですが、見た目の現代詩っぽさ(っていうか僕はあんまり現代詩読んでないので、認識にずれがあるとが思うんですけど、一応同意はしておきます)が、トータルとして内向きの詩であることから抜け出せていないのだとしたら、作者としての僕が狙った方向まで作品は飛んでいかなかったという事だと思います。 その点は申し訳なく思います。内にこもる事を主眼としている訳ではなく、寧ろ内容に目がいかないように、見た目をコテコテの派手派手にして、意味内容の受け取り方にノイズをまき散らすことで、イメージの受け取られ方や、単語同士の音節の組み合わせで読み手に何かしらのインパクトを与えたかったというのがあります。 これは僕が最近書いていて思う事ではあるのですが、意味という物自体にあまり関心がなくなってきてしまったように思っています。 僕が本作にいただいた感想については、他作でも多くいただいているんですけど、これ自体に僕自体が明確な意図を持って作ったわけではないんですね。 でも、読み手にこうして読まれた時にその内容が読み取られてしまい、また、僕が意図しなくともせずともそういった内容が書き込まれてしまうという事実については深く心に留めて必要があると思っています。 つまり、僕がどういう意思を持って何を書こうが、僕がかこうとする内容はそこまで変わらず、また見た目上のどのような表現方法を駆使しても、結果的に同じ事を書いているだけ。 要は、書き方の問題に全ては収斂していってしまうという予感ですね。 そういう意味ではライ麦さんの感想というのは、僕が再解釈した範囲内の受け取り方としては同意せざるを得ない所はあるけれど、それ自体が批判にはなりえないかなと思っています。 作者として出張ってきて、これについて何かを語るのであれば、これはもう一回自分の中の原点に立って書こうとした作品なので、過剰なセンチメンタリズム、あるいはナンセンスな要素が含まれていて当然であって、そこから何を語り得るのかという所に今回は挑戦したという感じです。 自分の中の語りをもう一度再解釈して、ナンセンスよりの遊びを提示しようとした時に何ができるだろうかという立ち位置でこれは色々な事を模索していて、ただ、失敗はしたんだろうなと思ってます。 ちょっとやりすぎましたね。 現代詩の内側に向いているのかいないのかという問題については、正直現代詩を読んだ事のない人に100人アンケート取ってみないと言えないですね。 読み手については、僕は本当によくわからない存在なので、一回突き付けてみて、その反応がどう帰って来るかが全てかなと思っています。なので、これが何向きみたいな決めつけは最初から想定せずに、書いたというのが本音です。現代詩を意識して現代詩を書く事以上につまらない事ってないなと僕は思っている…くらいしか僕にはその気持ちを証明する方法がないのであれなんですけど。 まぁB-REVIEWという場所を持ち出して語るのであれば、こういう作品ってここ数か月くらいあんまりなかったと思うので、これを出すこと自体は場に逆行した挑戦だともいえるので、どっこいどっこいかなぁと思います。 っても、それがだれであっても興味をそそられる作品ではなかったら、これが負けただけって話になるんですけど。これは僕のネームバリューとかそういうのは関係なしに、本作を見た1300pvの人たちの中にこれが残らなかったら、どんだけ僕がここで吠えようが終わりのゲームです。その事実は、これがどれだけ賞賛されようが、酷評されようが変わらないゲームだと思います。 僕は素直にこれが読み手にとってわからないのか、つまらないのか、へたくそなのか、面白いのか、言葉にならないのか、きもちいいのかわるいのか、そう思ったのであれば具体的にどこを読んでそうおもったのか、あるいは印象でそう思うのか、みたいな感想を頂けれたら他に言える事はないですね。というのはあります。まず、こうやってレスを書いてくれる事自体普通に考えれば奇跡であって、大体の作品はそっぽ向かれて終わりだというのは、知っているつもりです。 ありがとうございました。 (カルフォルニア・スウィング/河童肉付きぺりかん船便)

2020-11-01

stereotype2085さん 詳細なコメントを下さり、ありがとうございます。 >眺めているだけで楽しい。全体的な字面がよく可読性だけでなく漢字や熟語の密集度などにも気が払われている。やや厭世的で無関心を装う様も詩全体にリズムをもたらしていて軽快だ。「汚染される透明な紫式部」だなんて僕好みのフレーズで最高です。閑話。僕はこういう言葉や単語のトリッキーな繋げ方で心証を表すテクニックが好きなのです。「年がら年中借り物を楽しんでるってさ」も世事と離れる、だが完全に対象を見限っているのではない話者の視線が表されていてとても良い。無関心でありながら誰をも責めず攻撃せず、自身の心地良い場所を探す話者の心意気に満ちている。「プランクトン…」から始まる連はやや筆が乗りすぎた感もありますが次の連「極楽浄土じゃんね」でこの作品の主たるモチーフである話者の心証に帰り、無事収拾出来ている。「-もう秋口は通り越して…」から始まる最終練もこのリズミカルで比喩に富む楽園探しの締め方としてとても良いです。自分のポジションも分かっているんだぜというほのめかしも充分に伝わる。その点から自身を見つめるもう一人の自分がこの作品には存在していることも分かる。客観視出来ていて冷静なんです。話者もしくは筆者が。こんなに躍動してるのに。とにかくも今作はコロコロと読み進められて一見しただけで着想、発想にひらめきがあり、楽しい気分になれる作品であり、僕はとても好きです。 ありがとうございます。これがどう読まれたのかというのは、事実読者の方に具体的に感想を書いていただけるというのが、手っ取り早く知る事ができるので単純に嬉しいです。今度の詩作の参考にさせていただきます。 >ということでここまで思いつくまま賛辞を並べましたが、ここからはちょっとした問題提起です。 という訳で、ここからがある意味本題なのかなと思うので、お答えできる範囲についてですが、僕なりに回答させていただきます。 >それはこのような作品を作った筆者様やそれがとても楽しいと思う僕のような詩愛好家詩と、それに対する詩に慣れ親しんでいないあるいは詩に関心がない方々とのある種の温度差、距離についてです。この作品は優れている、間違いないと思います。ですが現代詩やネット詩に慣れ親しんでいない方々にコミット出来る作風かと言えば、ポピュラリティ、平明さ、読解のしやすさという点でそうではない可能性があります。 本作が単純に読みにくいか読みやすいかというと、読みにくいと思います。ただ、その読みにくさというのは意味として受け取った時であると考えてはいて、声に出して読んだ時や、フレーズを取り出した時のイメージの膨らみみたいな所だけ取り出してみてもらいたいなとは思っているんですよね。簡単にいうと、読んだという行為自体に体験が備わるような読書にもっていくにはどういうアプローチがいいんだろうかという点において、僕なりのポピュラリティの獲得は狙っている訳です。(っても最後の方で誤字っちゃっていたり、単語の使いまわしが雑だなと思う所があるので、そこは素直に反省点なのですが) 簡単に言っちゃえば「意味ではなくイメージや言葉の使われ方を楽しんでほしい」みたいな所がこの詩を書いた目的って事ではありますね。その点でstereotype2085さんからもらった感想って僕にとっては世辞抜きにしてマジで参考になります。これがどう読まれたのかって僕にとっては重要だからです。これは僕が思った通りに読んでもらった感想以外が邪魔だという訳では決してないです。 無論、一度出したものなのでこれが詰まらなかったり訳が分からなかったとなってしまったらそれはしょうがないことだし、これが読みにくい、人に受け入れにくい性質を持っているという点はある意味自覚していて(タイトルが過剰であることがその表れ)ただ、自覚した上で敢えて挑戦しています。その結果やっぱり色々爪が甘かったというのであれば僕の中で持ち帰って更に修練する必要があるなというだけであると思っています。 >僕も以前この作品のように例えとほのめかしそして言葉遊びの連続で心証や世相あるいは世間を描く作風を好み得意としていました。ですから今話者がどこでどんな状況でその詩的思索、詩的感慨に耽っているのか、具体的に分からない作品がありました。だからこそ読み手には伝わりづらい一面もあったと思います。そこで浮き上がる問題とはこのタイプの詩の存在が暗に示すところである、詩に慣れ親しんだ人とそうでない人との隔たりについてです。これは現代詩読者の人口、あるいは現代詩の間口を広げるためにとても大切なことだと思っています。これは当作と僕がかつて好んで書いたタイプの詩だけに限定されるものではないとも考えられます。隔たり、溝を埋め、間口を広げるためにはどうすればいいか。考えどころです。それはクオリティの高い作品を作っていればそれでいいのさ、で完結するあるいはさせていい問題とも思えません。僕はこの作品と非常に相性が良く、また好みだったがために手放しの賛辞をおくったのですが、「隔たり」のある一般読者様にはどうこの作品が映るのか興味のあるところでもあるのです。 あるビジネスマンは「ハンバーガー屋を営むとして成功するための秘訣は、商品の質をあげたりすることではなく、ただ腹を空かせた群衆の欲求に応えることだ」と述べたそうです。詰まるところ需要と供給。僕は間口は大きく広げた方が良いとの考えの持ち主です。でなければネット詩で細々と活動しあるいは詩誌に時折掲載されるだけで満足で終わってしまうでしょう。品質をひたすら上げる、マニア受けで満足するだけでなく、需要お腹を空かせた人々を満たすためにどんなアプローチをするべきか考えどころだと思うのです。その点百均さんにもお聞きしたいところです。以上で評と問題提起は終わりです。長文になってしまったのは失礼を。そして最後に僕はこの詩をとても楽しく読めたという点に改めて言及して、それでは。 この点については、そもそも詩は世界的に読まれていません。というのは多和田葉子が「エクソフォニー」という本の中で語に語っていたんですけど、客観的な事実として世界的に詩は売れておらず、また世界的に見ても売れる傾向にある詩集ってのは、少数言語で書かれた詩集らしいです。つまり、一部の言語マニアが言葉を保存する媒体として「詩」を重宝している。これが世界の詩事情におけるデファクトスタンダードだそうです。 まぁ、10年くらい前に出された評論なので今はどうかわかりませんけれども、今年のノーベル賞受賞者の詩の邦訳がないという時点で、詩がどれだけ世間に求められておらず、また日本の最前線の詩壇の力が弱まっているという事でもあるのかなと適当に言っちゃいますが。 という訳で、世界的に詩は読まれる需要がそもそもないので、詩に飢えている人たちはどこにもいないんじゃないの?というのが僕の一次的な回答になります。なので、そもそも詩をこうして掲示板上で投稿したり読んだりしている人は、誰にも顧みられる事のない詩という媒体を駆使してやり取りする事を楽しめるくらいには、言語に関心がある人だと僕は思うので、もう既に一種の言語のマニアだと思っています。だって自分の周りで詩を読んでいる人どれくらいいますか?って感じですね。僕はネット以外で詩をガチで読んでいる人はリアルの友達関係で一人もいません。無論、いわゆる「オタク」にも色々なレイヤーがあるように、全員がガチガチで詩歌が好きである必要性や必然性はどこにもないと思います。かくいう僕も、現代詩に出合うまではマンガとゲームしかしてきませんでしたし、今でも詩なんて一か月前までほんとに読んでなかったので、ぶっちゃけ詩について語れるほど僕は詩のマニアではないですね。一般人に比べて詩人名前は少しだけ知ってるかもしれないですが、読み切ったことのある詩集なんて数えるくらいしかないです。 ただ、これだと話が進まないので、じゃぁ需要を作っていけばいいじゃんって話をするのであれば、僕の考えではない需要を作るのって、かなり難しい事だと思うんですけど、現実的な線で考えてるのであれば、今は映像の世紀ですので、諦めて素直に他の媒体で表現する事しかないかなと思います。詩から離れずに、ポピュラリティを獲得するという事にガチで挑むのであれば、フィジカルを全面的にむき出しにして、ポエトリーリーディングするしかないんじゃないかなと思います。後は売り出し方(マーケティング)の問題かもしれないですし、詩人のフィジカルの問題かもしれません。それは、どれだけイケてる物つくっても知られなければ意味がないし、ビジュアルとして成立しない物に対して、明確なポピュラリティが獲得されないというのは、適当に世界を見渡した時に目につくとどうしようもない真実っていうのは、多分みんな知ってる事だと思います。(これはあくまで極論です) たが、ポエトリーリーディングガチでやればちょっとは獲得できんじゃね?と僕が言ってしまえる確証がある事の理由ですが、例えば、僕は米津玄師のFlamingo好きなんですけど、あれに深い意味があると思いますか? 言語的な遊びや、イメージの膨らみが異質だとは思いませんか? でも、滅茶苦茶色々な人に聞かれてるのはなんででしょ。とかkid furesino最近よく聴き返してるんですけど「何言ってるかよくわからんけど、聞いてるだけでかっこいい言葉」って沢山ありますよね。とか、Childish Gambino の「This Is America」が世界的に聴かれてる事実を見て、リリックの強っていうのは、「文化的な背景が読み取れなくても画面を通じて伝わってくる強度みたいな部分はありますよねとか」、世の中に自分の詩のスタイルを持って名声を獲得してる書き手や表現者は多数いるのは事実だと思います。 そして多分、真剣に向き合う努力を突き詰めていけば、ポピュラリティなんてものはおのずと手に入る物なんじゃないのかなぁ。まぁ、望んだポピュラリティを本当に書き手が獲得したいのであれば、それに足りうる努力を書き手側がしていくしかないので、まずは淡々と日々修練に励むことは鉄則で、それでも叶わない勝負を一生涯かけて挑んで、90%以上は割に合わないまま死んでいく。というかなり勝率の低い勝負だと思いますが。 なので、この作品がへたくそであることと、難解な詩は誰にも聞かれない読まれないというのは=で結ばれないと思ってて、まぁ簡単に述べるとしたらテキストベースで詩と呼ばれている言語の媒体は既に時代から取り残された文化の産物であって、今の時代にそもそも即していない事から、ポピュラリティを獲得するには結構きついんじゃないのというのが回答です。どうしても獲得したいのであれば、ラッパーよりも韻をなめらかに踏んで、イメージを膨らませながら音楽に負けないポエトリーリーディングを読み上げて、読み手をノリに乗せるか静謐さに沈めて、言葉そのもの自体を楽しませる、つまり詩を読み手に体験させるというアプローチで需要を生み出すしかないのかなって思いますね。っても詩はプラットフォームが世界的に死滅しているので、一人で頑張った所で誰にも知られません。 これは補足ですが、ラッパーって言ったのは例えば、R指定と呂布カルマの対決なんかわかりやすいんじゃないのかな。言葉遊びvsみたいな話はラッパー達の方が毎回disりあいしてる訳だから敏感かもしれないですね。フリースタイルバトルに出ているラッパーたちは自分の言葉が自分と観客に文字通りリアルタイムで判定される訳なので、常にポピュラリティと向き合ってるともいえるのかなと思います。 ただ、最近思うのは、現代詩を取り巻く環境って少しずつ良くなってきてると思ってるんで、何も悲観してないです。プラットフォームとして、昔は詩壇と限られた投稿サイトしかありませんでしたが、BREVIEWはもちろんの事、TwitterなどのSNSがいい仕事をしています。昔は、本当にネット上で詩や短歌を書いている人たちって見つけ難かったですけど、今はやすやすと見つかりますし、地方に居ても文章のやり取りであれば、滅茶苦茶見つけやすくなりましたよね。昔は1000pv行ったら普通にその詩は炎上してるか化け物みたいにうまい詩かみたいな感じでしたけど、多分BREVIEWでpv1000超える詩はざらにありますし、おそらく平均200は割らないですよね。また、拡散能力も昔と段違いになりましたし、今では連携したSNSで誰かが拡散すればそれだけで読者なんか簡単に増えます。(もちろん読んだ人たちがそれをどう判断するのかは別問題です) という訳で今の時代は詩人にとって優しい時代になってきたと思います。僕が高校生の頃のネット詩の界隈は、本当にマニアしかいなかったなという印象が強いです。後は一部の物好きくらいでしょうかね。かくいう僕もネット詩民としては、後発組の後発でしたので、そこら中で現代詩のマニア達が聞いた事もない詩人や評論家や小説家の名前や作品を提示しながら話しているのがわけわからなさすぎて、ずっと黙ってROMしていました。まぁ簡単にいうと文学やくざばっかりだったので、普通に怖かったし、今思うとみんなで協力して普通にがんばりゃよかったんじゃねって思ってるんですけど。 んで、色々行ってきましたけど、じゃぁ僕が今こうして掲示板で物を投稿している理由なんですけど、2ヶ月前までは本当に詩を書く理由だとか、読む理由なんてもうないなと見切りをつけていました。というのは事実としてあって、でも、最近思い直したのが「テキストベースで詩を読むことで受けられる恩恵を備えられたらまだやりようはあるかな」って所です。 本作で僕がやろうとしか事っていうのは、「読むという行為が体験」になるにはどうすればいいのかということ。それは、日常的な言葉のやり取りや、小説でやり取りされている言葉の往還とは別のアプローチとは別の方法でという縛り付きで、例えば読んだ時に広がる言葉のイメージだとか、映像に起こして味わうよりも言葉から広がる脳内のイメージの方が面白く感じられるような手触りの言葉の組み合わせだとか。敢えて行間の広い言葉を行訳で置く事によって、空想に幅をもたせられないだろうかとか。そういう事を、試しています。 ただ、今回はちょっと過剰にやりすぎちゃったなと思っているので、割としょぼくれています。 多分、タイトルは「カルフォルニア・スウィング」にするだとか、あまりにもイメージが跳躍している所はカットするとか、言葉の使い方の癖を素直にして可読性を上げるだとか、言葉の肌触りをもっとなめらかになるまで推敲するだとか、読み手に取って脳内で置換しやすい単語やイメージに置き換えるとか、もう少しマクロな飛躍ではなくてミドルレンジを狙ったイメージの跳躍にするだとか、例えば猫みたいな愛玩動物をガジェットとして置いて、読み手との距離感を近くする演出を加えるだとか、すればよかったのかなと思っていますけれど、それは次作以降の課題になります。 また、僕自身色々な人に自作を読んでほしいという思いはありますし、というか僕が何か物を書く時の発想は、読み手に感想になるような言葉を与えないくらいの言語的陶酔を味合わせて屈服させたいという欲がベースです。そのよくを理屈として成立できたら詩論になるじゃんと思って最近書いています。が、それは一人では達成できないので、独りよがりな作品にならないように、自分の作品を日々振り返って修正しつつ、100万人に読まれる詩を一本かけて、死ねたら悔いはないかな。そこまで行けるのかは毎日色々な事を試し続けて出し続けるしかないです。 最後に、この作品はゴールではなくて、やっぱり未完成品だなという事です。今度似たようなアプローチの作品を出すかどうかはわかりませんが、今回の反省をきっちり心にとどめて次作以降の作品は書いて行くつもりです。重しになりすぎたら忘れちゃうかもしれないですけど。 という訳で散漫な回答になってしまったかもしれないですが、要はFlamingo目指して頑張ります!という事です。そして、Flamingoになればポピュラリティは獲得できます。かなり難しいけれど。 以上になります。 ありがとうございました。 (カルフォルニア・スウィング/河童肉付きぺりかん船便)

2020-10-27

ライ麦さん 初めまして。百均です。 二回コメントをくださり、ありがとうございます。 数日くらいコメントについて考えていたのですが、返信するのが中々難しく、少し胡乱な回答内容になってしまう事を先にお詫び申し上げます。 >逃げて楽しいですか? 逃げて楽しいのかという問いについては、正直よくわからなかったです。自分で読み返していてこれがその印象につながったのかなと思われる箇所なんですけど、深海に逃げているという所になりますかね? 後は楽しいかどうかという所については、すいませんよくわからなかった! レスを頂いただけで単純に色々な物を頂いていると思っておりますので、こちらから逆質問してしまうのは申し訳ないのですが、もしよろしければ回答いただけるとありがたいです。今度の参考にさせていただきます。 >良さが少なく小さい詩歌だと思いました。過剰にセンチメンタルであったり悪い意味で難解だったりしない普通の詩が読みたいです この返信に対して僕から回答すると、結果的にこの詩をどういう意図で作成してどのように読まれる事を想定しているのか、あるいはこの詩をここに投稿する事によってどのような反応を得られる事を期待しているのかという事について開示する必要があるのかなと思ったのですが、取り合えず開示するかしないかの前段階の回答として述べさせていただきます。 まず、いただいたレスを読む限りの事実として「良さが少なく小さい詩歌だと思いました。」とライ麦さんに受け取られてしまった所については、僕の実力不足です。申し訳ない。次に、「過剰にセンチメンタルであったり悪い意味で難解だったりしない普通の詩が読みたいです」この点についてですが、本作が過剰にセンチメンタルな内容をはらんでおり、悪い意味で難解であると受け取られてしまった点については、これも僕の実力不足という事になります。申し訳ない。 「普通の詩が読みたいです」という指摘については、ライ麦さんの願望が混ざっているかなと思ってます。あと、多分僕とライ麦さんとの間に認識の乖離があると思っていて、というかこれについては多分人詩の定義自体バラバラなのではと考えております。という事で、これについてもなんとも言えないですね。(これももし宜しければご教示いただけるとありがたいです。)感覚的に日常的にやり取りされる言葉のやり取りを使って詩を書いてくれというオーダーだとしたら、申し訳ないのですが、本作でそれを達成することを、意図的に目指していないという回答になります。僕が今回試しにやってみようと思ったことは、平たくいうと、何が書いてあるか分からないけれども最後まで読んでしまったという感慨を読み手に持たせられるかという検証だからです。ただ、この試み自体は正直久しぶりに挑戦してみてるんですけど、中々難しいなと実感しております。 色々と、突っ込んだレスを書いてくださりありがとうございました。 今後の詩作の参考にさせていただきます。 (カルフォルニア・スウィング/河童肉付きぺりかん船便)

2020-10-24

パスワードを忘れ続けるさん コメントありがとうございます。 なんか頂いたコメントの方が仕上がってる文体やん。。。みたいな感じなので、文体に触れていただけたのは嬉しいというよりは、むしろ恐縮です。みたいな気持ちになりました。ともあれ、これだけのコメントいただけたのは素直に僥倖です。ありがとうございます。 文体については、百均の名前にしてからより追求しているテーマであるので、あんまり僕も記憶がよくないですので、誰か触れていだたけていたら申し訳ないのですが、多分パスワードを忘れ続けるさんが初めて言及してくれたのかなとかなんとか思っております。ですので、繰り返しになっちゃいますけど嬉しいです。 結局の所今僕が出来る最前線の行為は、自分の身の丈に合った文章に預けるしかなくて、それは、語彙力であったり、知識であったり、細やかな文章のテクニックとは別のベクトルの要素だと思ってます。無論それは、内容だとか、自分の中のナラティブな感情の肥大さとか、それらを突き放してみてしまおうとする、ダークトライアドな気持ちっていうんですかね?そう言ったもののすり合わせの最前線みたいな部分ですね。 そこら辺をうまく出し続けることみたいなのが百均でやっていることなのかなぁとか、コメント読んで思いました。そこから派生させて色々百均を語り直す事も可能かもしれませんが、大抵の場合陳腐になるし、それが出来るなら正にそれを書いた意味はまじでなくなってしまうので、控えようとは思いますが、色々な所で刺激をいただいたということはお返事としてかかせていただきます。 無論読み返すと色々詰めが甘いなぁと思う箇所ばかりなので、これからも意識する、せずとも書いていくしかありませんね。 ありがとうございました。 (か行の女の子のために書かれた文字列)

2020-10-03

羽田恭さん コメントありがとうございます! エッジが効いてるとのことで、嬉しいです。 エッジ効いてないのに短く書いてもしゃあないと思ってるんで、ほっとしました。敢えて描写する意識削ぎ落としてる所何点かあるんで、ちょっとだけうまくいったかなとおもってます! 引用いただいた部分が、一番最後に推敲した部分なんですよね。栗菜が一番難しかったです。あんまり気取らないように、うまく調整するの大変なので嬉しいコメントいただけたかなとおもってます。 ありがとうございました。 (か行の女の子のために書かれた文字列)

2020-10-03

こうだたけみさん こちらではお久しぶりですね。 お元気でしたか? >「紙袋をかぶったフラミンゴの群れ」というモチーフはとてもとても好きです。が、いつもの感想が口を突いて出そうになったので黙ります。たぶん百均さんならわかってしまうだろうけども。笑 ありがとうございます。ただのフラミンゴだとつまらないなと思って、紙袋かぶせてみたんですけど、あれから色々な方の本作の感想伺って、マシュメロみたいなことがしたかったのかなとか、昔読んだ漫画かなんかのモチーフで、紙袋を被ったキャラクターがいたような事をぼややんと思い出しました。 紙袋をかぶせるためが見えなくなってしまうので、穴を開けたりすると思うんですけど、穴は開けなかったのはなんでかなと自分で考えるのが最近のテーマだったりなかったり、みたいな感じで適当です。 こうださんのトリップコメントとか書くと失礼になっちゃうかもですけど、単純に僕と思考の引き出しが全然違うのでなんか読んでてライバル心が出てくるのはこうださんのコメントなので、単純にゆるくバチバチとやりましょうね。みたいな感じでした。何言ってんのかわかんなくなってきましたね。 選考は無事に死んでるのですが、やれるだけのことはやってみまーす。なんせお祭りですからね。新しいびーれびゅーの門出を出来るだけ祝いたいなと思っております。なので、作品を読むしかないんですけど。 コメントありがとうございました。 (無乳病)

2020-10-03

ささらさん 初めまして。百均です。 いただいたコメントに返す言葉がなく、なんか読んでもらえたなぁという感慨ばかりが溢れてきます。読んでくださってありがとう。 自分から命を生み出すことのできないというのは、男性の身体にまつわる要素として大きくあるような気がしていて、というのは色々な表現の中に僕の中に横たわっている感覚だから、今更殊更に大きく触れる必要はないことなんですけれどもね。 性差というものが、どのような理屈の上に成り立ってきたのかというのは、僕は正直わからないのでなんとも言えない部分があるんですけど、いのちというものに関する自分が意識せざるを得ないという感覚と、考えてもしょうがないという思考と、それでもなおこのような形で書いてしまう無意識のプロセスが完全と一体となってこれを産み落としてしまった という事が、正に何も埋めない百均がこのようなものをうみだしているという喜びに浸っているという矛盾みたいな感情の現れなのかなぁ、などとコメントを読んで思いました。 こう書いてしまうと、身も蓋もなくなってしまうことなのかもしれませんが、コメントで書いてくださったことが全てですね。 >命を生み出す私たちの肉体の男性性・女性性というものを普段意識しない私たちは,無乳病なのかもしれないとつらつら考えさせられました このタイトルでこれをつらつらと書いてしまった事が、正にその通りなのだと思います。 ありがとうございました。 (無乳病)

2020-10-03

楽子さん 初めまして、百均です。 シンプルなんですけど、味わい深くていいですね。 血の匂い(あるいは臓物の香りでもいいですが)を人間から感じる一番身近な瞬間というのは鼻血だと思っていて、その時の匂いをサカナに例えているというのが絶妙だと思いました。サカナの匂いって、確かに血生臭いんですよね。それって振り返って考えてみると、確かに鼻血みたいな臭いするなと気づかされました。また、朝ごはんという状況も添えられていますが、多分アジの干物の開きとかを食べてるんだなって思ったりするのでGoodだと思います。凄く親切ですね。サカナの切り身とかだと部分的な要素になりすぎてしまうので、人魚姫っていう生き物の姿のイメージをはっきりと書かずに、におわせながら読み手に想像させる表出の仕方が巧みだと思います。 また「人間の鼻血⇒自分の生き物としての香り=サカナ(死体)の香り」というイメージの重ね方からの人魚姫とアタシとの対比というのがなんとも絶妙です。人魚姫はサカナと人間のキメラであり、人魚姫の寓話の結末は泡になって消える事が正典で、人間になって幸せに生きるのがディズニーの打ち出したハッピーエンドになるのかなと思いますが、この場合は前者だと思います。人魚姫は泡となって消えるというある意味美しく死んでいく訳ですが、自分は血の通った生き物であって、今食べているサカナの死体に寄った存在であるという事ですね。 で、そういう自分をサカナを通じて人魚姫というファンタジーと比べて自分を客観視して、不幸だという事に気が付く語り手の状況がなんの澱みもなく、イメージされてくるので、うるりひとさんもおっしゃっていましたが、ユーモアがあるなと思いました。 >ひび割れたチャーハンの上でスプーンだけがなまめかしく生きてる。 二行目はまだ正直読み切れていません。「ひび割れたチャーハン」が難しいですね。 状況としては朝ごはんの場面だと思うのですが、チャーハンは僕の中でお昼に食べる物なのでちょっと状況がつかめないってのがあります。 という訳で、チャーハンを食べる場面についてはあまり気にしないで読んでいきます。(ここら辺他の方のレスが読んでみたい) スプーンというのは、人魚姫から連想をつなげて、小さな海のイメージです。つまり、ひび割れたチャーハンというのが語り手にとっての世界(外界)であり、そこから切り出したスプーンというのが自分の生きている世界みたいなイメージですね。「なまめかしく生きてる」というのはスプーンを動かして語りての世界にひび割れた世界を取り込んでいく動きをスプーンに化しているのは自分だからという解釈で僕は読みました。 つまり、世界がどれだけ不幸であったとしても、まるでチャーハンを最後まで掻きこまなければならないように(食べるという事は生きる事であり、死体を食べ続けエネルギーを自分の中に取り込んで生き続ける)食べて続けている。つまり不幸を摂取し続ける事を語りては辞められないという事なのかなと思います。人魚姫というのは、あっさり死んでしまう訳ですが、しかし、語りては泡になって消える事ができません。なぜなら血を流す生き物だからです。どれだけつらい事やかなわない事があったとしても、そのあとを生きなければならないという意味合いで、スプーンを「なまめかしく」動かしているのではないかなと思います。 という訳でまとめると。 ひび割れたチャーハン(不幸な世界)の上でスプーン(語りてが手にもって動かし自分の中に取り込む媒介)だけがなまめかしく生きてる。(人魚姫のように不幸の後に泡となって死なずに、不幸な世界の上で生き続けているアタシの) みたいな物として読みました。2行目の部分は、ユーモア的な語り口の一行目から、不幸である自分を客観視した事をきっかけにして生きようとしているアタシともとれるし、自分を客観視した事によってちょっと項垂れているけどチャーハンを食べてしまう自分を更に客観視しているともとれるし、正直読み手によって解釈が分かれそうです。また、二行目は割とざっくり読んでしまったので、「なまめかしく生きてる」などの要素や、「チャーハンの「上」」みたいな所をスコップしていくと、多分もうちょっと意味合いが違ってくると思います。 短いながらもギュッと魅力が詰まった作品だとおもい、一読して感想を書きたいと思いました。 ありがとうございました。 (不在)

2020-09-13

池田伊万里さん こんにちは。百均です。 >全体的にとてもうまいな、と思いました。うまい、て言ったら失礼かもしれませんが。 >波紋が心のなかで広がっていくような印象を受けました。 ありがとうございます。とりあえず安心して読める物みたいなのが僕にとっては一つのハードルというか、そこを超えないとまず読んでもらえないだろうという考えがあります。ですので、全体的にうまいという評価を頂けた事うれしく思います。波紋が心のなかで広がって行くような印象という評価も、ありがたいです。まずは何を読むにしても印象からスタートする側面があると思っていて、もちろん印象は印象でしかないので、やってみたら実は違ったみたいな事もあると思うのですけど、まずは入り口の部分で読み手の方に受けて入れてもらたらうれしいなと思っています。 >全体的に言えることですが、視覚化するのが難しいのに、すんなりと入ってきます。特にここなんそう。 >イメージとして映像化しにくいのに、とてもすんなり入ってくる。 この点については、僕が多分なんだかんだいって詩が好きな所の理由の一つです。つまり、文字を読むことでしか持てない体験ってなんだろうと思ったら、読んでいる行為そのものが体験になることかなぁと思っていて、そのためには映像的でありすぎず、かといって文章の定理から外れすぎずみたいな所を突いていくしかないのかなぁと思っています。そこら辺をうまく表現できていて、それを池田さんに受け取ってもらっていたのであれば、とてもうれしいです。 >父性、という言葉も、この詩の雰囲気からは浮きそうなのに、なぜかスパイス的に効いていてよかったです。ありがとうございます。 父性の部分は正にスパイス的に使ってみました。詩から浮きそうであるというドキドキ感は僕も書く時にあったのですが、ちょっと入れてみたら面白くなるかなと思って敢えてぶっこんでみました。ですので、効いていると伺い本当によかったと思いました。 レスありがとうございました。 (無乳病)

2020-09-12

水上 耀さん はじめまして。百均です。 僕の事ご存じでおられたという事で、なんか照れ臭い所もありますが、こうしてお話できた事とてもうれしく思います。 >情景の連続性が非常に技巧的な作品だと感じました。 >2.3.4連、それぞれの最終行が後続連とのかすがいとなっていて、脳に一息つかせることなく円滑にイメージを構築させる素晴らしい工夫だと感じます。 ありがとうございます。技巧的であると言って頂けるのとはとてもうれしいです。僕の中のコンプレックスとして、書くのが苦手というのがありまして、それを解消するのは、読んで書いて読んで書いての繰り返ししかないとはわかっていつつ、とりあえず百均として今出しているのはこのスタイルというのがあるので、なんかもううれしいとしかないですね。もちろんこれは完成しているスタイルではなく、単純にもっとうまくなりたいんですけれども。イメージが円滑に膨らんでいったのであれば、水上さんの中に届いたという事になるのでしょう。ありがとうございます。 >また、無乳病というタイトルも非常に示唆的で、考察の余白があります。 >最終連からタイトルへと回帰する構成、とても好みです。 >もう少し時間をかけて読み込んでみたいと思います。 この作品はタイトルからスタートして書き始めました。最後の落ちが尻すぼみになってしまうというのが毎度のパターンで、僕にとっての課題だったのですが、最後の部分は個人的には調整は必要かもしれないけれどもこの作品にとってはいい感じになったのかなと思っているので、評価いただけれた事うれしく思います。 お読みくださり、ありがとうございました。 (無乳病)

2020-09-12

羽田恭さん お久しぶりです。お元気でしたか? >いいですね、これは。 >どこか童謡的でもあり、誰にでも受け止めやすいのでは。 ありがとうございます!一連目ってすっと入って欲しいんですよね。 最初に面白くない作品って最後まで読もうとしないよなぁっていう感じが僕の中であって、ですから、最初の部分っていうのは色々気を使ってます。 気を使ったからと言って誰かの目に留まるかというとそういう訳ではありませんが、しかし、羽田さんの中でそういう評価を頂けた事は素直に嬉しいです。 >以下二連目以降も、ビジュアルが浮かんでくる。 >フラミンゴの動作をうまく描写しています。 >最終連、どこか不思議な描写。 >でもこれがいい。 僕がたぶん読んだ人にやって欲しい事っていうのは、まず読み手の皆さんの頭の中でイメージを作って欲しいって思います。つまり、ここに書いてある事とか、僕が書きたかった事っていうのは裏側の視点に隠れていたり、隠していたり、はたまた自分でも気が付かない物だと思っているんですね。でもそれだけだとつまらない謎になってしまうから、イメージに託すんだなぁとか羽田さんの評を読んで思いました。 色々な詩の書き方あると思うんでけど、僕はやっぱり読み手の方にまずイメージをつかんでもらえるような書き方をして、そこからそれらのイメージについて空想してもらって、それを評として出してもらって、改めて自分の作品を知るって事が好きなんだと思います。羽田さんの評を読んで、たぶん何よりも肝心な部分、つまり導入の部分はばっちり、そしてそこから続く描写も最後まで読めたよって言ってもらえたきがしてホットいたしました。 >正直投票したかったです。 ありがとうございます! 今回は選者っていうのと、あと今月はこのシステムの終わりでもあるので、なんかとりあえずやれることはやろうと思っていますが、流石に自分で書いたもの賞レースに乗せたら出来レースも甚だしいですもんね笑 なんというか、運営の熱にほだされてしまいましたね。絶対帰ってこねぇとか一時期思っていましたが、一瞬戻ってきてしまいました。そして僕が去ったあともこうして続けている人たちがいるという事に対して、それは無論羽田さん含め、敬意を表します。 素敵な感想ありがとうございました。 (無乳病)

2020-09-09

(breview滅茶苦茶進化しててたまげました。すごいなbreview…ふじりゅうさんはマジで頑張ってますわ。というのは余談です…) 月緒 桜樹さん 素敵な感想ありがとうございます! 永久保存したいくらいうれしい感想でした。 >言語化の困難な疑念のようなものが、揺さぶられて湧き上がる感覚を、覚えました。色鮮やかなようでいて、どこか濁った透明感(表現として矛盾していますか?)があって、非常に素敵です。 >「ふふっと笑ってしまって」の箇所、一瞬その濁りが解消したかと思いきや、寧ろその苦さが立っているように思いました。好きです。拙い感想で申し訳ないのですが。 拙くなんかないです。月緒さんの感想好きです。 なんかもう僕の余計な言葉付けたしたくないですもん。。。正直引用する事とお礼言うくらいしかできないです。 なんか読んでもらえたなって感じがしました。本当にありがとうございました! (無乳病)

2020-09-09

ボランティアの中身は ①選挙管理 ②受賞作管理 ③その他企画運営 この三つです。細かい内実はフォーラムの方に書き込みます。 (6月の投票箱設置とボランティアのお願い)

2018-07-17

頂上とは何かという抽象化された話題が天辺にあって、語り手は苦労して頂上に登るために努力したり色々なことをしたと思うんですが、結果たどり着いても思った何かがあったわけではなかったという所から転じて天辺から降りると今まで見捨てて来たものの光景が目に見えてくるので、尚更やりきれなくなってくるという感じがしました。 頂上とは何かというのは考えるしかありません。社会的な成功なのか、もしくはアスリートみたいな感じで何かしらの競技に人生を賭けているのかとか色々あると思います。 個人的にはこの先語り手がどうするのか見てみたいです。 (頂上)

2018-07-15

妹とは、誰かというのがなんとなくの疑問でした。何かしらの文脈が潜んでいてそのヒントが詩文にあるのかもしれないのですが。なんで妹なさようならをするのでしょうか。 平成に生まれて平成が終わる前までに大人になれなかった。というのは話としてわかるような気がします。その上で永遠の子供というのは年号を乗り越える事が出来なかった子供達というイメージなのかなぁと思います。だから永遠の子どもというのはいき続けるから永遠なのではなく時が止まってしまうから永遠になるのかなと思いました。だから妹はもう死んでいるのかなとなんとなく思います。 暑い 暑い 暑いから朦朧とした様子が伺え、熱のせいで普段考えない事や忘れていたあるいは忘れることにしていた感情が、平成最後の夏という余波を匂わせながら接近してきて一番最後にコアである妹の存在と、語り手そのものは大人になった瞬間に平成から切り離されるみたいなイメージ、、、なのかなと思いました。妹は別に生きているかもしれないし、別の解釈はもっとありそうですがまずはたたき台として提示しようとおもいます。 (永遠の子ども)

2018-07-15

まりもさん うんちとうんこの話ですが。なるほど、という感じもしたりしますね。。。うんちーはかわいいかもしれないし、うんこー!は硬すぎるかもしれないです。とかなんとか適当な事を言っておりますが、実際のところどうなんでしょうね。 うんちとうんこの話なんですが、でんぢゃらすじーさんという漫画があって、漫画の一話まるごとセリフがうんこのみという会があるんですが、偉く面白いんですよね。でもなんで面白いのか僕には検討もつかないのですが。 でもうんちとおしっこという言葉の成り立ちなり扱いについて調べていくと、伊藤さんの感じたようなカルチャーショックなどあるのかもしれません。中学生のときに読んだグレートジャーニーの道のりを辿った紀行本の中でオシッコは綺麗だから拭き取らずに寝床のハンモックで寝てしまう南米の子供達が出てくるのですが、その子達もうんこは汚いといって突っついて遊ぶ事から「うんこが衛生上人間に良くない事をここの子供達は知ってる」みたいは一文がでてくるのですが、うんちとうんこってなんなんでしょうね? とか割と思うので、何か参考になる本が欲しいです。 姉については最後に隠してしまったんですが、僕は結局のところ姉から離れることができない。どこにいっても何していてもうんちやおしっこを投げつけてにげようとしても。という感じかもしれないです。山手線せんの円環の輪の中でぐるぐるしているだけなんだとおもうと、このナンセンス気取りの駄文はやはり駄文だったという事につきるのかもしれません。 ありがとうございました。 (ANEMONE)

2018-07-15

渡辺八畳@祝儀敷さん レスありがとうございます。概念って弄るの好きなんですよね。お前が思ってる物事の捉え方って本当ですか? みたいな事とか無意味さみたいなのは割と物を書く原点にありますので。でもポストモダンやってる場合じゃないとも思うわけでこれから先どうしようかというのは永遠の課題です。 ありがとうございました。 (ANEMONE)

2018-07-15

田中修子さん 返信ありがとうございます。一か月くらい考えていて、うまく返信が返せませんでした。悩むという事はそれだけ僕の中で悩み続けてきたことに直面したレスだったということが第一にあります。本当は血みどろなものが描きたいけれども。書いたところで多分ぼくよりもっと地獄を抱えている人はいるだろう。というのが根底にあるので、書いてもしょうがないとか、所詮自分を慰めるために書いてるとか思ってしまいます。書いてる僕自身も決して楽しくはないですし。そんな中でじゃあ僕にかけるものといったら何かというとなにもないのでこうなってしまうのかなぁとおもいます。人間が書くべきことというのは満足以外になにがあるんだろうとか思いながら、返信になってないですが、代わりに返詩を書きました。感想を書いて欲しいというわけではなくあくまでアンサーとしてこれから書いていこうと思います。 ありがとうございました。 (ANEMONE)

2018-07-15

stereotype2085さんありがとうございます。 うんちやおしっこについて結構かんがえるのですが、ちょっと惰性でやってる部分がありすぎたかもしれません。おしっこがもっと自然に溶け込んでいないと、くさすぎるのかもしれません。 勿体ぶっているというのは本当に嬉しい感想です。わけわかんなくて、落っこちそうだけど落っこちないみたいな作品が元々好きで、詩を始めたりしたので。 原点回帰っぽく書いたつもりで、なんだかそういっていただけるのは嬉しいです。ありがとうございます。 (ANEMONE)

2018-06-14

花緒さんありがとうございます。 エモいって言葉、最近よく聞くので、聞いた時からムラムラしてたんですけど、コメントいただいてディスコミュニケーションにも宿るのかなぁとちょっと思いました。コミュニケーションがうまく行く事と行かない事は繋がってるのかもしれないです。 ありがとうございました。 (ANEMONE)

2018-06-14

羽田さん ありがとうございます。返信遅くなってしまいすいません。日に日に、読む力が落ちてきているように思います。それは才能というよりは体力の方が近いかもしれません。なんとなく、ですけれども、最近もっと読んでくれる人の存在みたいを背負いすぎず生きられたらと思います。羽田さんの作品も未だ読めていないのですが、今年中には読みます。 申し訳ないですが、やれる事をやっていきます。大変申し訳ないです。でも本当にありがとう。 (百均〈2018年4月選評〉)

2018-06-02

好きってあんまり詩に使いたくないんだけど、好きだなぁ。 (マヨネーズをめぐる愛憎劇)

2018-05-23

また緊急特番ですが、本日(5/16)午後10時より百均のツイキャスにて運営代表の三浦さんと4月作品についてちょっとお話します。凸も受け入れるかもしれませんので、お時間ある方は是非要らして下さい。 →https://ssl.twitcasting.tv/bungoku_was/broadcaster (B-REVIEW 2018年4月投票箱設置)

2018-05-16

神様 あの人に唐辛子入れすぎたみたい 砂糖に埋まる予言は嘘じゃなかった ここが、なんというか凄くいいっす。いいなぁ、 (ぽい!)

2018-04-26

僕がインフラエンジニアになるためのお勉強してるからかもしれませんが、なんというか凄く身に入ってきました。 IT関連の言葉って詩と案外親和性があるように思っています。寸感で申し訳ないのですが、わかるなぁという共感を得ました。 (New)

2018-04-25

なんというか、コメントしにくい作品だなぁと思いました。 言葉にし難いというのは、悪い意味ではありません。ノイズの部分が特にそう思いました。 番号が振られていることには意味があると思います。それは付けた意味がない、ということも含めてです。数字とは僕は順番であるととりあえず認識しているので、それを攪拌させるということは、この詩の書かれた順番、つまり上から下に読んでいくという人間の意識そのものをからかっているともいえるとおもいます。 一行一行の詩も弱いかというと僕はそうはおもわなくて、使われている語彙の幅が広く、セグメント単位で広い読んでもなんとなく面白いなというところがあります。上から読んでもなんとなく伝わるような感じがするのも不思議。最後の締めと終わりの一行は、ちゃんと始まりだし終わりだとも思えるのもいいのかなと思います。 この詩をどう受け止めるのか、というのは選択肢が多いので中々脳みそ使うので、他人においそれと進めるとかそういうのではなく、言葉を書く身として見たときに、どのように僕らは言葉を扱っているのか、そのアプローチとは、とか考えながら読むと何かしらのヒントは得られるのかもしれないです。そういう意味で実験的だなぁと思いました。 (00. Vexations (Tempo di Aritmia))

2018-04-25

腕まくらと膝枕ということを考えた時に、膝枕は男っぽい感じがするのはなんでだろう、腕は女みたいな感じがある。 これは勿論偏見ですし、アンケート取ったらどうなるのかわからんのですけれども。 そば殻の枕というのが、差し込まれているのが妙に気になります。そば殻の枕って今使ってる人どれくらいいるんだろう。 枕は洗わないので、天日干しはよくするかなぁとおもうのですが、ということは人が寝た数だけそば殻に人の匂いが染み込んでいくので、からの中身もうまっていくのかなぁ。 もちろんうまったからといってそのなかみを取り出すことはできないので、夢に見るしかないのですけれども。 (腕枕にさよなら)

2018-04-24

あなたはこの世界に染まりたくないので いざという時のために走りやすい靴を履いている めちゃキャッチーで凄くいいです。靴の比喩から足の連想、テーブルの足につながっていくというところ、ものすごく想像しやすい。めちゃくちゃポップで好きです。 (オリエンテーション)

2018-04-23

正直なところ何が書いてあるのか、わからないところだらけです。 だから悪いというわけではなく、感じ入るところがあるので、なんとなくコメントを考えているのですが、とりあえず文章の流れが心地よいです。射精やセックスの持つ湿潤はなく、タイトルのような宝石のごとく、大地が深い地のマグマで宝石を生み出すように当たり前の循環が提示されているようにおもいます。 でも、どのような循環てあるか、というのはピンときていません。 男達は征服者みたいな感じがするし、女や家畜は蹂躙される相手のような気もします。ミクソリディアはヒントになりそうです。 もうちょい他の方のコメント読んでみたいです。 (夢見る宝石)

2018-04-23

作りとしてみた時に小説みたいだなぁと思いました。分析して読んでみると面白いのかなぁとおもいました。時間がかかってしまうのでここでは詳しくレスしませんが、さりげない情景を描いているようで無意識に訴えかけてくる感じが面白いなぁとおもいました。 (ある春の帰り道)

2018-04-23

レモンが置かれているので、つい連想して黄色いモフモフのニュアンスを想像してしまう。グレムリンのイメージ、猫をレンジにかけて濡れた毛を乾かそうとしたら破裂したので、メーカーに対して裁判を起こしたアメリカンジョークみたいなのはなんとなく知っている。 そんな前置きはどうでもよくて、タイトルの安心感とあるように、なんとなく安心するね。なんでたろう。地味にいい作品だなぁと思います。めちゃくちゃ好きというよりは無下にできない感じ。 (安心感)

2018-04-23

まりもさんありがとうございます。多分そういうのも一時期本当に嫌だったというか、そもそもの作りの意識みたいなものから逸れて生きたかったみたいな感じではあります。作られたものの意味から疎外されたいみたいな。 今から考えると厨二病みたいな感じではあるのですが。 (きこえる)

2018-04-15

カオティクルさん素敵なトトカルチョありがとうございます。今度は僕の番ですね。...というのはジョークです。来月も楽しみにしてます。 (【選評】百均 2018年3月分)

2018-04-14

三浦さんレスありがとうございます。 カミュの異邦人、手元にあるんですけどね、どうしても読みたくなくて。だってカミュの方が同じテーマで上手いこと書いているように思うから。僕より悲惨な体験をしている人間全員殺したかった時はあります。そういう人たちがいなくなれば、僕の描くものが自動的に一番になるでしょう? みたいなことは思っていましたし。勿論今はもうそんな感情どこにもないというか乾いてしまったし、案外今の世の中悪くないなと、日本の真ん中で幸せを享受してしまっているので、僕はもう異邦人まがいのものでもなく、ただ生活の中に溶け込んでしまっています。今日は友達と勉強した後ラーメンみながらサーフボードの話を延々して一日中が終わりました。 (きこえる)

2018-04-14

まあさんレスありがとうございます。 はじめの一文と最後の一文がこの作品の要だと思いましたが、作品全体に対する二文の印象が薄いように感じられました。 とのことで、たしかに読み返すと始まりは始まろうとしていて、終わりは終わろうとしていますね。今僕が書いているものも、始まりは始まろうとしていて、終わりは終わろうとしていますが、そのくびきから未だに逃れることはできないでいます。僕は生きているので、死ぬ以外に基本的な終わりなど来ないと思うのですが、死んでも終わらないこともあるだろうし、そういう意味で僕は物事の始まり方と終わり方のサイクルを見直す必要あるのかもしれません。 文体という捉え方をしていただけたのは、素直に嬉しいのですが、やっぱり投稿して見てこの形はあかんのかなぁと思います。もっと人間の意識に寄せていかという意味で、優しみを持たせないと読むに耐えないだろうというのは、再確認しました。 (きこえる)

2018-04-14

花緒さんレスありがとうございます。 全体的に読みにくい作品だと思います。ただ、意図的にずらして書いた所も沢山あるので、申し訳ないという感じです。明らかな間違いの部分については、まりもさんの指摘くださったポイント、とりあえずそこだけかなとは思っています。 このスタイルは文章の信頼性がガタ落ちになってまともに読まれません。掲示板でも散々ボコボコにされましたし、現にどの文章の世界でも、ガタガタな文章は生きて行けないので、最近はまともな文章寄りで書いてはいますが、僕のルーツはまず文章を殺す事にありました。それしかなかったとも言えますし、それしかできなかったということもあります。 (きこえる)

2018-04-14

まりもさんありがとうございます。 階段を上ると沢山の人達が僕のもうやってきた。 ここに関してはミスというか、僕も何を書きたかったのかあまりわからないです。人がたくさん押し寄せてきたというニュアンスの言葉を作り出そうとしてやめて、消した後のように思います。二つ目は、実はこれで正常と言えば正常なんです。 昔、文章をとにかく書かなければと思っていた時にこれを書いていた記憶があるのですが、句読点のずらし方から、文章の接続に至るまでずらしていくことだけしか考えていない時のものではあります。勿論、いま読むと、例えば自分で音読すると中々悲惨な文章だとおもうのですが、でも何回か読み返していると、昔の方が書こうとしていたことがあったのかなぁという思いもあり、この場に出してみたかった、という経緯があります。 その分、やはり単純な文章のミスをなくさない限り、作品における信頼性が損なわれる事に苦しんで、結果的に正常な文章の方向に向かうように書き続けているつもりなのですが、未だに単純なミスが作品の中に生まれてしまうので、多分こういった作品は、僕はもう書けなくなるのかなぁと思っています。 作品に頂いた感想なのですが、これは昔の僕みたいなものが半分くらい投影されていて、その時はやっぱり半分くらい死んでいたと思います。今描いているものはこの作品を見ながら自分をリライトしているものなので、これを描いてから数年たって何がどう変わったのかこの掲示板に示たらと思っています。 ありがとうございます。 (きこえる)

2018-04-14

まりもさんありがとうございます。 解像度の話ですよね。細部を書き込んでいくみたいなところは、なんというか僕自身は最近やり過ぎても無駄なのかなぁと思いながら、カメラを引いていく感じでこれを書いていました。なんとなく音読寄りで書いている所があるので、中々塩梅は難しいなとは思います。とりあえず実験してみて色々な感慨が得られましたので、次に生かしたいと思います。 ありがとうございました。 (春寒の記憶)

2018-04-14

太陽を呼んで ビルのうえから 君を空に広げる この三行が目覚ましくいいとおもいました。一日かんがえていたのですが、あんまり細部を読み込む詩ではないとおもうというか、大味を楽しむというのかなぁ。そういうところからですけれども、この詩の持つある種のシンプルさが素敵だ。 (冷たい春)

2018-04-02

よく分からんから不思議というわけではなく、展開の仕方が不思議だなぁとおもいました。 風呂なので入りは多分四角い風呂桶をつくっている。そこらからその中の一つと目が合うというのが、また不思議だなぁ。何と目が合うんだろう。僕は木目の目かなぁとおもったのですが、場面的にはきつまと語り手は長いこと風呂にはいっているようにも思えるので水面に映った自分の顔のことかもしれません。 多分なにかしらのロジックが貫通すれば、見方が、変わりそうだなぁという感じがします。他の方のコメントも読んでみたい。 (風呂)

2018-04-02

たしかに、読むのが楽しいなぁと。おもいました。なんとなく共感するところがいくつかあるのですが、僕は共感する詩が苦手で、それは自分の過去の感情を、追体験するのが嫌だからなんですが、本作のフォルムに、心救われたように思います。切実なのですが、形を整えるという過程が滲んでいるようにみえるので、距離がとれているのかなとおもいます。 (円)

2018-04-02

語り手以外の声があって、それらは結論しかおいてくれないから、そこに到達するための過程は自分で手に入れなくてはならない。でもその方法はわからない。僕は今社会人になる一発目の朝でこのコメントを書いているわけですが、正直大学生活の方がやっぱり辛かったです。今はこの作品のように最後の長く、ようやく、息をはく、というような感じを本作の持つ切実さとは多分程遠い場所で。でもなんとなくシンクロするような所で、他の皆さんの感想も読みながら、本作を感受できたように思われました。 (自爆それと)

2018-04-02

竜野欠伸さん 最近、比喩とはどういう役割を持っているのかについての小さなエントリを読んだのですが、それは本来であれば重なり合わない物同士の中から、数少ない共通する何かを抜き出す事によって繋げる事。その結果、より強い結びつきが浮かび上がることによって、話の本題に戻す事の出来る作用を持つ技法が比喩であるという話なんですが、僕はそこら辺に関心があるみたいで、最近ずっと追い続けています。 >さくらの「はなびら」は、 >ひとにとって、 >きっと「人間の名前みたいな」「なみだ」のようだ。 >ラストカットとても印象的です。 さいきん考えているのは、風と唇と花びらについてで、僕がずっと気になっているのが名前という概念です。言及して下さりありがとうございました。僕の中で、書きたかった事や気になっていた事の整理が出来たように思います。 (春寒の記憶)

2018-04-01

5or6(ゴロちゃん。)さん さくらの花びらが平仮名のように映ればいいなと思ってかいたので、淡い感じが伝わったのが素直に嬉しいです。最後の部分、意識の隅の方で迷いました。最後の着地の部分の、、、なんというんでしょうか、陳腐さみたいな物が振り切れていたらいいなとは思っていたのですが。落ちをどうにかする課題早めに終わらせたいです。 ありがとうございました。 (春寒の記憶)

2018-04-01

http://golconda.bbs.fc2.com/?act=replytid=5230193#11345878 昔書いた物です。クローバーさんという方から頂いたお題を元に書きました。 (きこえる)

2018-04-01

種を止める。という言葉は本当にいいですね。普段食べているトマトの見方が、僕には子宮に思えました。僕は種を食べているんだなという思いと、その可能性を消してしまったのだなというような感覚でしょうか。人間の姿もトマトの姿にかさねられるように、冷蔵庫の中で迷子になっているのも、それがたとえ夢の中であっても、強度があるようにおもいました。 (tomato)

2018-03-31

二律背反という言葉が思いあたり、人間と矛盾というのは切り離せないよなぁという事が思いあたり、自分のためにいきることと、みんなのために、いきることと、自由にいきること、というのは、並列してなしえることでもあるし、なしえないことでもある。というところ。 このバランス感覚みたいなもののブレイクスルーがつい最近あったのですけど、この詩は宇宙人の詩なので、宇宙人が地球人になるということは、ようはバランスを身につけるということで、そのために悩むのかな、みたいなことをおもいました。振り切ることは時にだいじだけど、振り切る事を目的にしてしまうと理屈の檻に囚われてしまうような感じをおもいました。 僕は好きです。 (宇宙人の詩)

2018-03-31

なんとなく最初に読んだ時に思ったのは、文体についてで、なぜこの作品はこのような文体を用いるのだろうということをおもいました。レスを付ける意味というのは僕は最近いい意味で意味が薄れて行ってしまっており、このコメントを書いている意味や理由というものは特にないのですが、思った事を一言でいってしまうのであれば、偽装された文体であるということで、文体は自己を偽装して、あるいは鍛え上げるための武器で、だから文体には裏があるようにおもいます。裏のない文体は才能の剥き出しであるので、鋭いものだと、単純におもうのですが、この詩の語り手は話を聞いてもらうために編み出した語り口や、導入の仕方で引きずり込もうとしているようにおもいますが、しかし、なんというか壊れているようにもおもうので、半分くらい壊れた言葉が陳列されていると同時にちらかっているようです。破片の、散らばった文章には棘があり、受け答えると火傷してしまいそうなので、なるべく避けたいようにおもいます。割れたコップを手で拾い集めようとすると、止められるように。 この詩の内実に触れる読みは提示できません。その前に本能が文体に警戒しています。と同時に、その破片に映った自分の姿をみているようでもあるのかもしれません。それから、ここまで話しておきながらも、その文体の内実について。僕は答える事はできませんので的外れなコメントになっていたらごめんなさい。 (みんな)

2018-03-31

まりもさん メイキングビデオという言葉を久しぶり聞いたように思うのと、僕が多分好きなものがその一言にあるのかなとおもいました。 僕は過程を、見るのが好きというよりは、過程のないものを信じていないのだとおもいます。ので、過程を見ることがとても好きというよりは、そこに自分を投影することによって、つくられたものや作っているひとにちかづきたいのかもしれません。僕は自分で作ったメイキングビデオが、好きじゃ無い理由がよくわかったような気がします。なんというか返事が遅くなってしまったので説得力ないのですけれど、腑に落ちました。 ありがとうございました (五月とカステラ)

2018-03-31

くつずり ゆうさん 詩は書かなくても生まれるというのは、一ヶ月くらいたったからかもしれませんがそう思います。書こうと思ってかくと、僕はいつもそれてしまいます。この詩のタイトルは中身と関係がないとおもうのですが、かんけいがないからこそ、そこに僕は安心するのかもしれません。関係がなくてもいいんだよ。と自分に言い聞かせるような。 ありがとうございました (五月とカステラ)

2018-03-31

kaz.さんありがとうございます。パソコンで書いたので多分パソコン寄りになってしまうと思います。どの媒体で何を書くのかというのは、多分創作する時に多少関係あるのかもしれません。例えば、僕は今電車の中にいるのですが、電車の中の時間というのは、僕は嫌いじゃないみたいな。 ありがとうございました。 (五月とカステラ)

2018-03-31

最後ちらっと変えた所でやらかしてしまいました。「ひとの作り上げた」です。 (春寒の記憶)

2018-03-31

るるりらさん、ご指摘ありがとうございます。 大変申し訳ありません。月三作品ではなく、二作品でした。 読み替えて頂ければ幸いです。 宜しくお願い致します。 (くつのうら・舌の味・僕らの行方)

2018-03-22

ですと (五月とカステラ)

2018-03-22

運営の百均です。 大変申し訳ないのですが、月に投稿できるのは三作までとなっております。(詳しくはガイドラインを参照していただければ幸いです) お手数おかけして申し訳ないのですが、3作の内どの作品を削除するか、ここにコメントしていただければと思います。(僕の方で削除させていただきます) 宜しくお願い致します。 (くつのうら・舌の味・僕らの行方)

2018-03-22

>青いセサミのぬいぐるみ という語を見た時、わからなかったのですが、セサミストリートに出てくるキャラクターの人形なのだと気がついて、なるほどとおもいました。確かに病室には何故かぬいぐるみがおいてあって、多分メルモとか結構置いてあるよなと思いました。ぷーさんとかもそうかもしれないと。 何故ぬいぐるみがそういった場所に置かれ、寄り添うものとしてあるのかぼくはわかりません。ぼくはぬいぐるみを持たない人間だからです。でも、ぬいぐるみは必要とされ、いずれ人から必要とされなくなるとう現実がある。語り手は「職場のベッド」という形で人の死を描いている。その次に大漁旗のイメージが置かれる事によって、終末医療のイメージを僕も連想しました。漁師だった人間がおそらく手足がどんどん動かなくなって、寝たきりになって時、その側に青いセサミストリートのぬいぐるみが置かれるという事の意味を想像します。想像できないし、それは意味を超えたものかもしれないのですが。それでもそこに何かあると思ってしまいます。そういう意味で2連目まで強烈に惹かれました。 これは申し訳ない感想になってしまうかもしれないですが、それ以降はある意味それてしまったようにも思います。この詩の事を理解できているとは僕は思わないのですが、とにかく2連目が印象に残りました。読んでいてビリビリする。 (青いセサミ)

2018-03-22

渇かない水たまりのあるひとの声は よくとおる 均等な波紋が 鉄の耳の奥を引っ掻くように あなたとわたしの間には 崩せない水槽がある うまく言葉にならないですね。色々なモチーフが二本の糸で編まれた螺旋構造を組み立てていく様に迫る物を感じなくもないのですが、それ以上にこの「崩せない水槽」という言葉。なんとも強靭だと思います。人の声は常に濡れていますが、それを水たまりにかける発想も見たことがない。 細部を読み込んでいくと、この詩はもっと面白く受け取れるような予感がありますが、とりあえず初読の感想として軽く置かせていただきました。もっと他の方の感想が読んでみたいですね。 (いろか におう)

2018-03-22

>「天才は己に従う。凡人は常識に従う。雲は風に従う。詩人は筆に従う。芸術家は感性に従う。革命家は歴史に従う。生命は死に従う。果実は木に従う。料理人は素材に従う。流行は不足に従う。狂人は1%に満たないその素質に従う。音楽家は最初に頭になったメロディに従う。宗教は神に従う。哲学者はナンセンスに従う。…だいたいそんなもんだ。お前は、ちゃんと従ってるかぁ?」 ここが一番読んでてピンと来たところでした。従うというのは、色々なニュアンスを内包している言葉であって、 https://www.weblio.jp/content/従う 適当に意味を調べるだけで、従うという意味には色々なニュアンスがあるのだなぁと思います。この中だと、果実は木に従う、料理人は素材に従うという一言がとても面白い。何かに従っているというところ、これは無意識的であるのかもしれませんし、従うという意識を頭の中に飼っている人であればあるほど、その人は何かしらの属性を手に入れているように見えるという話かもしれません。空気が読めるのが普通の人だとしたら、普通の人は空気に従っているのかもしれないし、従うという事に対しておそらく意識的である人であるほど世渡りがうまいのかなみたいな感じがします。 従うという語を見逃していたなぁと感じさせられて、ちょっと悔しいですね。個人的にもっと深めて考えてみたいとおもわされました。 (➑くんESCAPE DAYS)

2018-03-22

殺戮という言葉は「多人数をむごたらしく殺すこと。」という意味だそうですが、ただそれだけの意味で禍々しい気配を字から感じるわけがないとおもいながら戮の意味を調べると、人を斬り殺す意味の他に、力を合わせるという意味があることを知りました。殺戮とは一人では行えないのだ。という前提を真似にこの詩と向き合ったとき、ここには一人、もしくは一つの死が刻印されているようにおもいます。なのに、なぜ、殺戮なんだろうということをおもったときに、戦争という言葉が唐突にむき出してくる(ii)に僕は違和感を覚えます。いいわるいではなく、なぜ、戦争なのか。 殺戮は時代を形容するように、「の」でつながれ、繋がれた時代は歯車のように回り続け、止まることはありません。殺戮でない時代は前にあったのか、これから先にあるのかもわかりませんが、戦争に付け足される青とは何かというところも気になります。アラメルモさんの感想からヒントみたいなものをもらったような気もするのですが、そこからどう深化させていけばいいのか印象に言語が追いついて行きません。  つらなりの出土したさまざまに  途切れていく水がする  書きとめられる叫びのひとの  暮れるほほえみの口がする    窓に終わっている 僕はこの詩を受け取れなかったということは上に書きました。でも、それとは別に本作の持つ文の鋭さは本当に寒気がします。これは僕の勝手な思いですが、もっと読まれるべき作品だと思います。他の方のコメントがもっと読みたい。 (殺戮の時代)

2018-03-22

アコースティックという言葉の意味を知らなくて、それはあまりにも、ギターとくっついているからだとおもうのですが、だからこそアコースティックとは音響という意味であると知ったときに糸電話という語がとても強烈なものとして僕の中に現れたように思います。だからこそ紙コップ工場っていうのが途端に輝き出すというのか、紙コップ工場という言葉にアコースティックを感じただけでなく、それが詩の導入としておかれたことに感動しました。とてもささいなものかもしれないけれど (アコースティック)

2018-03-22

書の一筆というと、相田みつをを思い出します。「人間だものは」その言葉一つで見てしまうと、なんとでも受け取れる言葉みたいな感じになってしまうとおもうのですが、相田みつを書という前提を置いてみてみると、変わってくるように思います。情報量が明らかに異なるからです。この詩の核は一に十がある、だと僕は思いました。この掲示板の中にその言葉をただ置くだけではきっと意味がありません。ので、その前提として、置かれる書の一筆という前提や、右に寄せられた文の形、縦書き、読点を重ねることで墨をいしきさせるような置き方、つまりは、一般の文章のあり方から外していくことによって、書の部分を演出しようとしている感じが伝わってきます。 狙いみたいなものは、あ立っているかあたっていないか、僕にはわかりませんが、ひとつだけいえるのは、僕なりにおもうことがあったし、コメントを追加来たくなるほどの刺激を受けたということを言いたいです。 (ひとつ)

2018-03-20

なんというか凄く わかるような感じがして、僕は好きというよりは分かる感じ がします。 僕は絵が描けないし、多分ビジュアル的なセンスに欠けている人間だとおもうんですけれども、まず詩のフォルムがいいですね。まず、丁度いいなぁ、という感慨が、印象の冒頭にきます。 (Mr.±0)

2018-03-20

いい作品というよりは謎の多い作品だなぁと。ある意味まりもさんの読みみたいな感じで、モチーフを客観的に解体するよりは、読み手毎にモチーフの表す所の意味を仮構して読んでいったほうが安定して読めそうな気もします。 個人的な見解としては、なんとなく読んでいて説得力があります。そういう意味でリアリティがあるというのか。なぜそうかんじるのか、というところの源泉はわかりません。他の方の読みも見てみたいなぁ。 (ヨモギちゃん?)

2018-03-20

ヤベェなに書いてあんのかわかんねぇよ、という感じ、からでも読点の区切り方おもしれ、ぇなぁとかおもいながら、みんな痛そうな感じで全体的にキリキリしていて投げやりなのかなぁとおもいました。ヤケ糞感をかんじるのですが、なんというか地味に色々韻を踏んでいたり、読点の置き方の妙なずらし方というのが不思議とユーモアにつながっている感じがしました。 (ケッコンしきますマスの語かつやくをネガってる)

2018-03-20

スクロールで見ると面白いですね。陰毛のところが一番すきです。なにが飛び出してくるのかと思いました。いいなぁ。 (三角錐の地球儀たち)

2018-03-20

川は血管なんだなぁと思うと、水は地であるし、せせらぎの音は鼓動であるのだなぁと、発見がありました。発想が凄くて、びっくりしました。 (水を観る)

2018-03-20

なんとなく最初は花びらで閉じるのがと思ったけど、花見だった。コメントを読んでいると、花見はみんなで飲み食いする花見ではなく、単純に花をみるという意味での花見だった。というところで、三月というタイトルが活きてくる。 少し受け取るまでのタイムラグがあるようにおもいますが、それが面白いなぁ。花見って花を見にいってるんだなぁと。僕のやったことのある花見は、新入生を迎えたり迎え入れたりするための口実でしかなかったから。逆もあるんだなぁと、少しびっくりしました。 (三月)

2018-03-20

きみの破片はとても小さく きみを、どこまでも覚えていく きみがいたすべての場所と きみが思ったすべてのことを とめどなく忘れて きみ、をどこまでも覚えて いく ここが凄くわかるなぁという感じがします。読点のずらし、たったひとつだけなのですが、これが凄くいい。一緒に誰かといた記憶は消えていくばかりで、人間だけが浮き彫りになるような感覚。波の打ち返し一つ一つの事は覚えていないのに、波と言われたら波の姿を脳内に描くことが描くできるように。人も波もそういう意味では同じだ。ただ、人には言葉があるからこそ、少しだけ違うのだけれど、おんなじだ。 (海のとき)

2018-03-19

僕はけもフレ知っているので、この話ってああこういうことかと言う風に分かるのですが、故に思うのは、だからなんで知っている事が嬉しいのかという事です。 コンテクストの話は渡辺さんが語ってくれていますけれども、僕なりに思う事で語り直すならば、共通の話題が僕とこの作品にはあるのだなという所に安心感を覚えるからだと思います。 けもフレの話もしたいし、詩の話もしたい人と会いたいのであればこの作品を通じて交流すればいいわけですからね。 要ははコミニケーションが成功していることがうれしい訳です。 それから詩というのは、ショートカット、あるいは飛躍、もしくは、日常では用いない言葉の組み合わせ、用法によって新しい言葉の枠組みを作っていったり、非日常的な言語世界に飛ばされる場所であるからかもしれません。多分分かりやすい物は表だって出てこないと思うんですね。 この詩は僕からすると、この詩にはキャラクターが見えますが、キャラクターが居ません。アライさんはいますが、フェネックはいません。 だからこそ、ここに浮き出ているのは、二人の関係性ですよね。二次創作詩としてこの詩が成立するのは、二人の関係性がいいからです。それはけもフレである事から離れて、この詩に描かれ浮き出てきた関係性そのものが魅力的であるからとも言えると思います。そういう意味で、この詩には明確な関係性が刻まれていると思いますが、でもなんてこの二人にはこの関係性が結ばれているのか、コンテクストを共有していない人にとっては難しいと思います。でもアライさんとフェネックを知っている人からすると、なんで二人の関係って見ていて和むのか、多分この詩を通じて分かると思います。その二人の関係性を詩の中に投影する上において、二人の「名前」や外見といった情報はある意味で不要だとも思います。この詩にはそういう意味で無駄がありません。故に、この詩は誤読されるべきだとも思います。あの二人の関係がいいものであればあるほど、この詩の関係性というのは人の心を揺らすコードとして的確である事に他ならないからです。良い関係性であるからこそ、人間はけもフレに熱中したわけでもあるわけですから。 (君について行く)

2018-03-07

なんとなく、分かる感じがします。丹念に解き明かす作業というのは、僕にとっては必要な作業です。全体が掴めない内はそのとっかかりを探すために全体を俯瞰するためのきっかけがないといけないからです。でも、そういう工程を超えた後に、閃く事があり、それを頼りに当てはめていくと穴を抜ける事がある。つまり、演繹法でも帰納法でもなく、仮構法ですね。みたいな事っていうのは本当に上手くいくと通る事があるみたいな感じ。 解明するのは確かにもの凄い困難、であるが故に直感がその糸を解す事ができるかもしれない。とはいいつつも、糸の絡まりを解くという工程になぞらえて考えてみた時に、最初から直感で糸をほどける人などいないというのも事実としてあると思うので、やっぱりこの理屈は天才の物だとはおもいます。もしくは、解明そのものの工程が無限に続いていくと言う事を知った人、あるいは覚悟した人にしか分からんというような。 (解く)

2018-03-07

個人的には、ですけれども、もの凄くいいです。言葉にするのが勿体ないくらいに。とても温かな物を感じます。 (あなたにたくさんの柑橘)

2018-03-07

陳さんを通じて読み手に訴えかけてくる物がありますね・・・個人的にはお三方の感想である意味出尽くしてしまったものだと思うのですが、なんというか理不尽という物が描かれる度に、その理不尽がなぜこのような作品になってしまうのかという事を考えてしまいますね。基本的に、理不尽というのは自分の中にある理が効かない所に作用すると思うので、例えば日本の就活はやっぱり他の国から特殊に見える訳ですけれども、日本からすれば他の国のやり方の方があかんのかもしれません。 多分陳さんという人がこの詩の中に立っているからこそ、この詩は成立していると思います。ただの中国人ではダメですね。陳さんだからこそ、意味があるというのか。故に多くを語らなくとも、その背景に思いをはせる事が出来るので、多分僕は考えてしまったように思います。 (陳さん)

2018-03-07

なんというか、いいな、と。なんかゴチャゴチャ書く前に、いいなと思いました。 (difference)

2018-03-07

と思ったら、あれですね。メルって「メルちゃん」なのかなぁと。。。要は人形のメルちゃんと考えると、「頚をなくした」というのも納得がいくのかなぁと思いました。なんとなく聞いた事あるなと思ったらあれですね・・・ちょっと上のレスはなかったことにしてください・・・ (メル)

2018-03-07

メルってなんだろう、という事をかんがえていくと、適当に調べるだけで色々出てくるので、あんまりよくわからないというのが実感としてあるのですが、マグメルが最初にヒットししました。マグメルは死者の国を示しますが、もともとは喜びを示す楽園だそうで、違うみたいです。次に安西信行の漫画「メル」から、メルヘンのイメージに繋げて考えてみたのですが、こっちの方があってるのかなぁと。 つまり、メルヘンのメルとしてとってかんがえてみるのはどうだろうかということです。無論名前の由来というのは、必ずしも決まっているわけではないし、音を重視して決めた名前も多いのかなとおもうのですが、例えばナウシカという名前が神話から取られているように、というかこの詩に出てくるメルもまた、何かしらの使命を負った存在であるかのようです。 といっても、僕自身メルヘンあまりしらないので、仮説を立てたはいいのですが、それを検証する頭や教養がありません。 というのは前置きで、しかしながら全体的に言葉の切れ味がすごく良く、個人的にはメルを引き算しても楽しめましたが、しかし、メルがいなければこの詩は成立しないのかもしれません。メルは一人ですし、一人しかいない世界ではな名前などいらないのだとおもうのですが、しかし、この詩には語り手がいるので、おそらくですが、この詩における語り手は神さまみたいな存在だと思いますが、そんな神さまがメルと呼ぶということはきっと愛情をがあるのではないかと思います。 メルには頚がありません。頭ではなく頚がないのです。でもその頚は実際的な意味においてないのではないと思います。唇は持っているわけですから。頚がないというのは、頭がないという事かもしれないですね。頭がないという事は意思がないという事かもしれません。 この詩の抱えている穴の数は僕がざっと感じる事を述べるだけでもたくさんあるのですが、しかし、なんとなく飛び込んでみたい穴ですね。個人的には、ある種概念のレベルまで引き上げられた言葉には積極力をあまり感じないという意味で、ストれるに思う表現もあります。例えば古典的なモラリストってなんだというところとか。考える読書もたのしいのですが、個人的にはもうちょっと読んで楽しみたいなぁとも思います。神話は突っ込んで読めば読むほど、無意識の部分にアクセス出来るような感じがするので、質問ぜめにして読みたい作品だとおもいました。 (メル)

2018-03-07

なんとなく読んでいて、脳内で言葉のピンとが合わない感じがします。この詩は春の歌というよりは花の歌みたいな感じがします。でもここには花の面影があまり明確には書かれてないか、もしくは表出していない。内側に流れる一つの気配としてそこにあるように思います。書いてある内容のそのものというよりは、春という季節を包括するものをぼかしながら描いているという感じがします。密度の濃い描写というよりは、やっぱり全体的にあっさりな感じがするし。春の始まりから種を飛ばすまでという意味で春の終わりまでがここに描かれているような感じもします。花が種を飛ばす所から、もうちょっと細かく花の名前に寄せてこの詩を読むのであれば、たんぽぽみたいだなぁとおもいました。でもたんぽぽとはどこにも書かれていない。あくまでも春の歌というような感じでしょうか。 (春の歌)

2018-03-07

あまり、評を、書きたくない作品で、こんな事言ってしまうとあれなのですが、わかるなぁという感じです。 (吐息に赤が混じって終わった)

2018-03-06

蔦の感触が面白いです。蔦は女でもあるし、個人的には巻き髪のイメージはや、コンクリートの建物を包み込むイメージから母性みたいなものな感じました。多分この後自殺するのかなぁというか予感があるのですが、建物に巻きついている蔦の優しさが語り手を受け止めてくれないかなぁみたいな感じにも思えます。蔦は鬱陶しいイメージもあるとおもうのですが、それは人間に例えるならお節介ともとれるし、寄生ともとれるし、もしくは建物との伴侶とも言えるのかなと思います。シンプルですが、僕はいいなぁと思いました。 (蔦に、からむ。)

2018-03-06

以前、『英語クリーシェ辞典』について書いた書評をここに掲載したことがあるけれど、ことわざや紋切型の表現も日本語のそれに置き換えずに「そこの国のイメージを引っ張ってくる」ほうが面白い場合も少なくない。フランス語にentre chien et loup(犬と狼のあいだ)という表現がある。キマイラのような動物のことではなく、犬と狼とのわかちがたい時刻、いわゆる「黄昏時」を指すことばである。アーティストのローザ・スコットさんは自分の作風をentre chien et loupという言葉で表現している。 「Entre chien et loup(「犬とオオカミの間」または「たそがれ時」という意味を持つフランス語)は、いろいろな形で私の作風を表現するときに使われる多層的なフランス語表現です。その言葉は、一日のうちの特別な時間帯を意味しています。犬とオオカミとの区別がつかないほどに辺りが暗くなりかけたころで、夜になる前くらいの時間帯のことです。明るさの程度がどのくらいかということばかりではなく、「慣れ親しんでいて心地よいものvsよくわからなくて危険なもの」との境目をも表しているのです。それは、希望と恐怖の間にある不確かな仕切りでもあるわけです。 私は、芸術との出会いがもたらす明快さやあいまいさ、即時性に関心があります。自分の絵画は、ロマンチックな風景を表し、また、はかなさや傷つきやすさ、勇気という観念に触れる心の風景だと思っています」 日本語でいえば、黄昏時というよりも「逢魔が時」といった感覚により近いだろうか。 コピーアンドペーストの中で引用マーク切れちゃったぽいのでつけ直します。連レス失礼しました。 (entre chien et loup)

2018-03-06

以前、『英語クリーシェ辞典』について書いた書評をここに掲載したことがあるけれど、ことわざや紋切型の表現も日本語のそれに置き換えずに「そこの国のイメージを引っ張ってくる」ほうが面白い場合も少なくない。フランス語にentre chien et loup(犬と狼のあいだ)という表現がある。キマイラのような動物のことではなく、犬と狼とのわかちがたい時刻、いわゆる「黄昏時」を指すことばである。アーティストのローザ・スコットさんは自分の作風をentre chien et loupという言葉で表現している。 「Entre chien et loup(「犬とオオカミの間」または「たそがれ時」という意味を持つフランス語)は、いろいろな形で私の作風を表現するときに使われる多層的なフランス語表現です。その言葉は、一日のうちの特別な時間帯を意味しています。犬とオオカミとの区別がつかないほどに辺りが暗くなりかけたころで、夜になる前くらいの時間帯のことです。明るさの程度がどのくらいかということばかりではなく、「慣れ親しんでいて心地よいものvsよくわからなくて危険なもの」との境目をも表しているのです。それは、希望と恐怖の間にある不確かな仕切りでもあるわけです。 私は、芸術との出会いがもたらす明快さやあいまいさ、即時性に関心があります。自分の絵画は、ロマンチックな風景を表し、また、はかなさや傷つきやすさ、勇気という観念に触れる心の風景だと思っています」 日本語でいえば、黄昏時というよりも「逢魔が時」といった感覚により近いだろうか。 http://d.hatena.ne.jp/qfwfq/touch/20140511/p1 タイトルの意味調べたら面白かったです。タイトル面白いなぁというか、やっぱり僕にとってはですけれども、翻訳は翻訳されたものを読むより、翻訳する行為の方が面白い。最果タヒも『獣か星になる季節』みたいななんかの諺みたいなのタイトルにして小説書いてたように思いますが、諺というのは、各言語にているものがあると思いますけれども、その表出の仕方が異なるというところがいいですね。 ということをみていくと、でもこれは僕が勝手に調べて思ったことか、とりあえず本編では黄昏時なわけですね。全般的にマジでやってるのかギャグでやってるのかあんまり境目がわからんので、真面目に読むべきか読まないべきか、みたいな所の判断がつけづらい。笑えるかというと笑えないし笑うべきかというとそうでもなさそう。長すぎるともおもうけれど、短いと多分繋がらないだろうとおもおもいます。音の重なりも雑に思う部分もありますが、韻を重ねるための音と、意味をずらし重ねるための音、イメージの繋げながら少しだけ重ねている音など、使われ方は多様でもあるとおもいます。/が流星に見えてくると面白いし、それらを想像するで広げていくのも面白いというよりは、そうだなぁという感じがします。 端的に言いますと、好みのフレーズとそうじゃないフレーズと、乗れそうな所でコケるフレーズがごっちゃ煮。付き合うには体力が入ります。 なんとかなるか メヤモ・ペテロ 矢口蘭堂 電撃文庫と結婚した 霞 が咳の パラレルポエム とかね!! 正直タイトルがかっこよすぎて出落ち感あるよ。今すぐ使いたいくらいだ。後は割と朗読で聞いた方が付き合い方わかるのかもしれない。 他の人の読みも見てみたい。一人で読むのは正直無理だし、何よりもったいなく思います。黄昏時の解釈から攻めていっても面白いのではないかなぁ (entre chien et loup)

2018-03-06

うーん、面白いというか、ぐぐっと引き寄せられました。「おもてなし妖怪」というタイトルから予想がつかない展開。妖怪とは何か、wikiからの引用ですが つまり、元々は妖怪的存在とは荒魂のうち祀られなかった、祀ることに失敗した、もしくは祀り捨てられた存在に求めることができるといえる みたいだそうで、現在は もっとも、時代の進行に伴い、超自然現象ではなく合理的に説明できる事象の範囲が著しく増加していく。同時に、妖怪を盛んに絵巻や絵として造形化することにより見た目の固定化、キャラクター化が進み、畏れは和らぎ、時代の流れとともに妖怪は娯楽の対象へと移り変わっていく。 このように見られるのかなという感じが多いのかなと思うのですが、本作の場合はそれらを上手くブレンドして書いているように思います。要はポップなんですけど、ちゃんと妖怪なんですね。そしてお化けではないんです。そしてこのずらし方がある意味での核だと思います。とりあえず、寸感程度のものでもうしわけありませんが、読んでいてインパクトありました。 (おもてなし妖怪2018)

2018-03-04

花緒さん レスありがとうございます。 >うまくまとまっていると思う。であるがゆえに、タイトルは本当にそれでいいのか、と思ってしまった。 >パンチはあるけれど、色物の色彩の強いタイトルだと思う。初読の印象です。 上手くまとめるのが苦手なのですが、今回は自己評価としても割と落ちがついたのかなぁとか思っていたので、花緒さんからコメントいただきたとき、ちょっと安心しました。ただ、コメントを合わせて考えてみると、最後がある意味賛否両論なので、なんとなく僕はまとめる事ができないなぁと、難しいなぁという感じです。タイトルは最初に決めて書いたので、自分もまたタイトルをこえるような物を詩行に込められたのかというと、そうではなく、故に色々タイトル弄ってかんがえてみたのですがそのまま出してしまいました。インパクトに引きずられて作品が死んでしまったかもしれません。 三浦⌘∂admin∂⌘果実さん >やばい。負けた。 >百均さん投稿有難う御座います。 何に負けたんや! という事は思いますが、勝ったのかなぁ? 三浦さん色々ありがとうございます。 仲程さん レスありがとうございます。 >包まれていたり、つつんでいたりしてたときの、それぞれのにおいとか、少しずつ浮かんできます。記憶はあやしくて、気のせいかも知れませんが。 包茎というお題はなんというか、僕の中で恥という部分を引き抜いてですが、地味な思い出がいくつかある話なので、色々少しずつ書いてみようなと思っています。ここで頂いたコメントで、なんというか本当に昔の事いっぱい思い出したので。 mojibakeさん >生という舞台の上で、祖母と孫という開いた距離における二人の交流、身体の行き来が、感情や精神や体の強弱の対比を強め、作品の強さになっているのではないかと思いました。良作だと思います(偉そうですみません!) 祖母と孫という関係、僕自身は体験する事が殆どなく、間接的に色々母親から聞かされたのですが、僕の祖母はそれはそれは出来る人で、多分小説一個くらいかけるというかそういう人なのですが、そんな祖母の事なんか全く考えないまま、卒論で死にそうなときに勢いで書いたら祖母が出てきて、結果的にいつもは祖父の死に際の記憶がかけなくて苦しんでいたのですが、祖母だとここまですっきりかけるのかというくらい書けてしまいました。mojibakeさんから頂いた感想のおかげで、多分僕にとっては近かった祖父よりも祖母の方が描きやすいのではないかと気がつきました。 >>かっこを用いた段は難解でしたが、何か熱いものを感じるので、もう少し取っ掛かりが欲しかったです。 ここは本当にもうしわけないのですが、丁度卒論で死にそうになっているときにストレスを発散させるためにこれを書いたので卒論で扱った作品の中に出てきます。ですから、僕にとってはこの三重括弧は意味がありすぎてしまって、単なる記号ではなくなってしまいました。故に熱意が伝わったのはシンプルにうれしいのですが、そのまま投げ出してしまったという意味では、本当に申し訳ないです。多分これからも三重括弧は実験していく中で使いつつ色々試してみたいと思います。その中の一つが届くようにやっていきます。 蔀 県さん >ぼくはすごく好きでした。とりわけ視覚的なリズムに惹かれました。語の拍数ではなく、読点過多で《切れる》感じ、連が移ると短文からの改行、そして三重括弧のやや抽象度の高い行からとつぜん感情的な結末に向かうさまなど、見ていて(読んでいて)ぐっときます。なおかつ内容は切実で、はじめは冗談としか思えない題名が、いい意味で裏切られる。何遍も読みたくなります。 嬉しいレスありがとうございます。なんというか作者冥利に尽きますね。僕から何も言える事がなく、なんというか伝わった感じがものすごくして嬉しいです。この感慨は一ヶ月立った今でも最初に感想を拝見した当時変わりません。これからも書いていこうと思うことができます。ほんとうにありがとう。 完備さん >「死に近づいた人間の、病院食の匂いが、たまらなく嫌いなのに、嗅いでいると、心が落ち着くのは、僕がもう死にたいと思っているからだと、祖母に言ってしまう」という冒頭は、チャラチャラした文体ではあるものの素晴らしいと感じました。しかし全体として尻すぼみな印象であり、特に最後の締め方はあまりにもありきたりにすぎる気がし、それでいいのかいう疑念を隠し切れません。 冒頭の部分は、最初細かく行分けしていたのですが、最終的に読点でつなげました。それが結果的に上手くいったのかなぁと安心しています。読点でつなげるのは、昔にやったポッキリで久しぶりにやったのですが、朗読を基準に色々句読点調整していったので、今回の感じで割と上手く行ったのかなぁという感じがします。最後の部分は書いているとき、これでいいのか? とはやく終わりたいと、これで決まった! の三すくみで書いていたので、もうその通りですね。でもこのタイトルこの詩を書き始めた時点でさいしょから落ちは決まっていたのかなぁとも思います。それらを覆えす言葉があればよかったのですが、包茎である事から出ていく事はできなかったのかなぁと思います。 爺無能別邸さん >ポエジーの無さをカッコで隠してしまうあたりが、確かにタイトルにある通り包茎っぽい。これを意識してやっているなら、なるほど、自己分析をしているのだな。と感心するが、ただカッコを使ってしまっているなら、剥いてやるべきだ。そして「。」を使わなければ、詩であるというような思い込みのようなものを消し去り、詩と向き合うべきである。 レスありがとうございます。 ポエジーのなさについては、正におっしゃる通りで、包茎という語の持つニュアンスに親和性を背後にかんじながら、あるいは寄りかかりながら詩行を紡いで行ったという事を否定することはできません。この点は、花緒さん、まりもさんのレスへの返答と被る所があるのではと思います。三重括弧については、包茎も無論意味します。ある意味、包茎の内側にあるものにギリギリのポエジーみたいなものをしまいこんでいたし、それが剥かれるべきだというのも、激しく同意します。僕がこの三重括弧をつかった経緯としてある作品があるのですが、その作品も祖母の記憶を僕が受け継ぐ事によって三重括弧の中に祖母を受け入れ、結果的にその三重括弧は剥かれます。そういういみで、この三重括弧は僕にとっては確かに包茎そのものだったのではないかないかと、感想を読んで思わされました。 それから、そうですね、この詩には一箇所「。」が使われています。というかんじで、句読点の有無の話はそのとおりだと思いますし、僕も僕なりの意図で各種記号を使い分けています。特にこの詩は朗読を前提に作りましたので、「。」は特に重要だと思っています。それがうまく読み手の皆さんに機能していたらよかったのですが。 まりもさん レスありがとうございます。 >タイトル、これでいいのか?という疑問は、私も感じました。 >祖母/包茎 であれば、もう少し祖母と孫との関係性&対立性のようなものが明確に出るのかな、と思い・・・しかし、題名そのものが持つ、なんなんだこれは?的なオドロキ、は消えてしまう・・・。 この部分一回、/入れたのですが、結果的にぬいてしまいました。この話は僕の都合が入ってしまうので、省きたい話ではあるのですが、これを書いたときに向き合っていた卒論の作品に/が一杯出てくるんです。そこまで持って行ってしまうと、引っ張られすぎてしまうと思い、抜いたという経緯があります。ですので、まりもさんの推察というか提案が僕しかしらない事ですよね、そこに接近してきて大分ビビりました。まりもさんは本当に鋭いというか怖いです。なんでここまでわかるんだろう。 >自らの少年性であったり、俗にいう「青臭さ」、未熟さの象徴として・・・そういう意味合いを持たせた「包茎」であるのか、包む、という語の持つ意味合いを中心に置きたかったのか。 > >包む、ということであるなら、胞衣(えな)という語も選択枝の中に入って来るのではないか、と思ったり・・・タイトルの選択に、いまひとつ、必然性が汲み取れない。あえて耳目を引く言葉を持ってきたのではないか、と受け取られかねないワードであるがゆえに、幼さの象徴のような意味合いプラス包む、包まれること、という意味合いを重ねた選択であるなら、いささかあざとさが残るWord選択であるような気もします。難しい。 包茎には色々な意味合いがあると思っていて、故に多分タイトルとして置くには大味すぎたのかなと思いました。胞衣ですが、最近「シドニアの騎士」という漫画の中に出てきまして、地球外生命体のガウナを包んでいるというよりは構成している物質みたいな物が丁度胞衣というものでした。そういう事をもっと早くしっていれば、色々と脳内で紐付いて…ああ、知っていれば多分この詩はもっとたくさん変容させる事ができたかもしれないです。胞衣は僕の中で宿題になりそうです。多分数年かけて書いていくのではないかと今、直感的にかんじました。やっぱり物を書いていて思うのは、僕自身が語彙を持たなさすぎる事だという事を痛感しました。このタイトルにしたのは耳目を引くためというのも二次的な理由としてあるのですが、他に思いつかなかったというのは念頭にあります。そしてその念頭から抜け出せなかったというのがこの詩の限界を示しているように思います。 >「包茎」という言葉が、性と結びつく言葉であるのかどうか、そのあたりの感覚も、実はよくわからないのですね。比喩的に「処女地」と呼んだりする、これは完全に未踏の地の意味であるわけですが、女性にあなたは処女ですか、と尋ねれば、これは完全にセクハラとなる。そこも含めて「処女」という言葉は、男性中心主義の中で使われてきた用語であるから、未踏の、といった表現に変えるべき、というような人たちもいる、けれども(私は、そこまで「言葉狩」をすることを良しとしませんが)「童貞」とか「包茎」と言ったワードも、男性に対して用いる時にはセクハラとなる、と教わった記憶もあり・・・ということは、自らの未熟さを自虐的に提示した、という意味合いもあるのかな、と思ったり・・・(このあたり、感覚的なものでもあるので、実際のところ、よくわからないのです) > >性の快感が、性器の快感と言う局所的なものに限定されるのか、どうか。広い意味での「生」の快感へと「比喩」も含めて拡大されるとき、そこには乳幼児の時の母とのスキンシップであったり、本作における祖母とのスキンシップであったり・・・成人男女の間であっても、いわゆる包み、包まれる、という感覚、その感覚から生じる「安心感」であったり、「充実感」などの方が、実は重要なのではないか、とも思います。その意味で、本作ではこうした「生きる上での快感」について視点が向かっていて、とても良いと思いました。 > この点、色々かんがえたのですが、僕は処女という言葉あんまり使いたくなくて、それは僕が女ではないので、その感覚が分からないみたいな事があります。と同様の理由で、童貞はまずいのかもしれません。童貞がなんでいけないのか、みたいな事は多分もうすでに出尽くされた議論なのかなぁとも思います。あるいみ処女と童貞はコンプラに引っかかってしまう。という事を考えたとき、包茎というのはどうだろうかというのはちょっとだけ念頭においてありました。陰茎そのものと包茎の違いというのは、結構あるというか、包茎に纏わる思い出は僕の中に結構沢山あるので、なんというかこの返レスを書いて思わされるのは、僕は包茎についてエッセイ書きたいくらいの内容を持っている事に気がついた事です。 中々性をテーマにした詩というのは難しい物があるのと、他に優れた作品やもしくは議論があると思いますので、慎重に書いていくべきだともおもうのですが、故に失敗を恐れずに何度か形式を考えながらトライしてみたいと思います。 >疑問点ばかり書いてしまいましたが、ここからは、素晴らしい、と思ったことについて、書きますね。 > >保護されたい、という感情と、そこから激しく離脱したい、自立したい、という感情の葛藤が描かれているのではないか、という一般的な予測を、 >〈「お前の体が欲しい/お前になりたい/わたしがお前であったら~〉以降の連が、実に良い意味で裏切ってくれる。 >祖母が「人間」として持つ、自然の欲望、若さへの嫉妬、スキンシップ欲求。孫が「いけす」と感じる、自立への欲望、「飼われている」「世話をされている」ことに対する反発と、抱きしめられる、という直接的な行為から得る安心感、スキンシップを通じて得る快感、包まれる、という感覚。 > >魚のイメージで一貫して綴られることにより「冷血」のイメージも重なると同時に、系統発生的なイメージも重なり・・・瞳の奥に潜む「鱗」のイメージにも響き・・・重層的な比喩が浮かび上がって来る。メタファーが、しばしば「一対一対応」の意味の読み解き、いわゆる謎解きに陥ることが多々あるのだけれども、魚というメタファーが、実によい方向で多層化されている。 > >一気に、とぎれとぎれではあるけれども、ひといきに、吐き出すように発するフレーズ(一行で、句読点を打ちながら長く綴る)と、改行で余韻や言葉の間に含まれる時間をしめす、言葉の置き方も、と手も良いと思いました。 色々勉強になる事ばかりで、つまる所僕に返せる言葉がありません。いわゆる詩が謎解きであると揶揄される感覚、僕自身無い分けではないのですが、ではなぜ自分はそう思うのかよくわかりませんでしたが、一月の作品を通じて学んだ事ですが、僕は多分答えを提示する事は苦手なのですが、過程を、それは意味という形を取りながらなのかもしれないのですが、重なっているそのものの状態しか書けないという事には、なんというか上手く耽溺できたのかなみたいな感慨を、まりもさんのレスを読んでおもいました。重層的である事と葛藤そのものを=で結ぶ事は出来ないと思うのですが、それでも重なる部分はあるのだと思います。比喩の特性とは、論理的に詰めていけば重ならない二つ以上のモチーフの中から、特にその話題となるような主題を引っ張り出して重ねる事で共通点をより際立たせることだという記事を最近見かけて、なんとなく自分の中でくすぶっていた比喩との向き合い方が少しだけつかめたような気がしました。個人的には今換喩に漸く興味が湧いたというか、比喩に対する向き合い方も考えていくべきだなぁと思わされました。 >ついしん やはり、思い入れが強すぎる、というのか、最後の一行、要考ではないか、と思いました。 最後の一行については、色々考えました。平たく言ってしまえば祖母にまだまだべったりみたいなかんじなので、困ったものなんですが、どうしたらいいのかわかりませんでした。ずっと詩ってどうやって終わればいいのか悩んでいます。祖母を殺せばよかったのか、決別をいい渡せばよかったのか。なんなのかわかりません。という所からいつの日か抜け出せたらと思います。 (祖母包茎)

2018-03-04

いかいかさん レスありがとうございます。 なんというかコメントしてくださったのが申し訳ないですね・・・いや、なんというかそのままの通りですし、なんというかコメントに色々救われたというよりは掬い上げられたように思います。色々分かられてしまっているのが、恥ずかしいですね。反論も出来ない程にその通りだと思います。結果的に言ってしまえば、そうしたら読ませることが出来るのか分からないのですね、故に技術の付け方も分からないので毎回付け焼き刃で、それは結局惰性としか言い様のないものでしょう。なんというか、まぁ僕の周りには僕より優れている人一杯いますので、大分困っています。取りあえず、今返信出来る事は以上です。 (社会)

2018-03-03

高町トビラさん レスありがとうございます。 >社会=他人、他者、自分以外の人として読みました。 >一連目は、自分に対して色々なことを言う人(語り手)がいて、そのことにもどかしさを感じていると読みました。 >三連目は、個人的には、「あなた」のために何か出来ればよかったけど出来なかったという物悲しさと、これからは何かをしていくんだという心強さを感じました。 >そういう読みの上で、自分だったら題は「あなたに」とかつけるかなと思いました。 なんというか、色々心の中の芯を突かれたコメントで参りました。僕は結局のところ心根の部分は自分本位な存在というのがあるんですが、それらを解消したいのと、自分本位な自分そのものが気持ち悪いみたいな感覚があって、色々頑張って他者を取り込もうとしてきた、みたいな感じがあります。これはある意味ここに書いてない事だと思うのですが、読み返すとモロに僕の内側に食い込んでくるなぁと思わされました。 この詩は、だから僕にとってはびーれびゅーに対する詩でもあるのかなと思わされました。僕、一年近くこの場に携わってますが、肝心な事はみんな他の発起人やキュレーターが尽力してくれたからできた事ばかりで、僕本当に何も返せてないなみたいに思うことばかりですが、それでも今回いただいたレスを返すところからもう一度社会を始めていけたらと思います。 色々気づかされるレスありがとうございました。 るるりらさん レスありがとうございます。 >わたしは、二連目が 好きでした。とくに、かえでの はっぱと、言葉遊びが、好きでした。 > >ご自身のレスを拝読して この詩に 欠けているのは、酩酊の告白が ないことだと 思いました。 >酔いどれの名詩に、李白の【月下独酌】がありますが、月と自身と自身の影の三者で 酒を飲む詩です。本作品にも 自己と他者の判別が曖昧な去来がみられて 興味深いです。 > >酔いどれ詩だったんかー。強きと弱きが いりまじるよねー。と、思いました。 > >詩で、酔拳を やるのも楽しいかもしれないなーと、思わせて いただけました。 素直になるほど、と思わされました。なんというか、酒飲みの詩とか酔拳の詩僕はあんまり信じてなかったんですが(多分僕なりのプライドもあって、自力で何もかけないのに酒に頼るとは何事だという感じだと思います)、この詩を書いてるるりらさんからレスを頂いて、また、自分がこの詩を書いたときの境遇を思い出して、この詩には欠けている事や、足らない事だらけだと思うのですが、今の僕にとっては必要な事が詰まっているのかなとおもう事ができるようになりました。言葉の緩急みたいな所は確かにというか僕はどうせやるなら全編パンチラインじゃないとあかんみたいに、極端に思っていたとおもうのですが、別にそうじゃなくてもいいんだよなという事を今更ながら、再認識しました。 示唆を含んだレスありがとうございました。 (社会)

2018-03-03

藤一紀さん レスありがとうございます。 こんにちはです。 >とても悩ませられました。いや、勝手に悩んだのかな。とある状況でなにかを感じる、この作品の場合だと《僕》が茫然と立ち尽くすよう感情に陥ってしまう、ところが、そう感じた途端に《僕》は語り手として背後に下がり、先ほどまでの自分を、そういう状況に置かれた物語の主人公のように対象化してしまう、一瞬の離れ技を見た気がして、フワッとしてしまいました。入り込んだと思いきやビュッと離れて、つい今し方までの《僕》をさえ、対象化してしまう醒めた目の存在といえばいいのか。 > >で、悩んだのは《語り手》という言葉で、この作品自体の語り手が存在すると仮定しているからこそ、私はその語り手の語りを読もうとするのですが、作品のににも《語り手》が登場してしまう。でも、作品の中に登場する《語り手》は、この作品の語り手ではない。 >そして、この登場人物としての《語り手》は、悲壮ぶっていて、そのことを《僕》は見抜いてしまっている。ということを作品自体の語り手が語っている。という風に、ひとつは作品自体の語り手、それから登場人物としての《語り手》、そして《僕》とが頭の中で入れ替わり立ち替わりぐるぐるしたからでした。表にでてきたり、奥に引っ込んだり、そこからさらに距離をおいてひとつの構図をつくりあげていたり。まったくハラハラして、面白いです。 > >いったい何のコメントだって感じで自分でも思うのですが、この感じもいわく形容しがたいのです。 なんとなく詩を書くときでもなんでもそうなのかもしれないのですが、僕は答えみたいな物を提示するのが苦手で、誰がどのような事を言っていて、言っている何かが幾重にもたくさんの人たちの間で絡まり合いながら、その中で一つの回答を出さなくてはいけないというところが苦手だという事しかいえない。ですから、それそのものを僕は書くしかなかったし、こういう事を書いてもしょうがないと普段はわりかし思っているところもあるのですけれども、でも今回は酒に酔った勢いもあって書いてしまいました。そのように読んでいただけたこと本当にうれしいです。 僕自身、ずっと視野を広く持ちたい、誰とでも仲良くなりたいしやって行きたいみたいな感じでやってきたところもあるんですけど、最近とレスをいただいたり、話したりして思ったのは、このような感じで視野を狭めて行った方がここに大したものはある意味定時できないんですけれども、何か書く動機みたいな物が見つけられるのかなと思いました。 丁寧なレスありがとうございました。 蛾兆ボルカさん レスありがとうございます。 >主題的に魔女の宅急便に通じるものがあるのかも知れませんね。 > >ひとは何度も何度も成長します。 >でもひとつのステージが終わるごとに、感慨はあるし、それをセンチメンタルに感受するか、ドライに眺めるか、雨の日に缶ジュースを飲むような内面的な経験とするか。 >その反応の仕方もステージごとですね。 この詩を書いたのは、ここには書いてない事なのですけれども、卒論の締切日でした。その日の夜にサークルみたいな奴の新年会があって、そこの帰り道で書いたものでした。つまり、僕自身本当に社会人としてこれから生きていく訳ですけれども、だからこそ社会というタイトルを最後につけてしまったのですが、なんで自分でつけたのかあんまりよくわかっていませんでした。ボルカさんのレスを読んで、多分自分はステージの境目煮立っているのだなぁと思わされました。僕もまたキキと同じボジションに漸く立てるというのか。 >初々しさがこの詩の魅力だとすれば、二連は少し硬いかな。 地を出そうとして緊張してしまった感があります。そこが流れたらリズムが内向的な詩情を生んだのでは、と思いました。 ここは、僕も書いていて思う節がありました。(自覚していた心の隙を明確に突かれて、なんというか伝わってしまうものだなと頭を下げています)その点勢いで飛ばして書いてしまったのですが、少し立ち止まって書いた方がいいのではないかとおもいました。まりもさんからの指摘もあり、この部分を書いてしまう自分の存在を心の中に留めておきたいと思います。 >好きなところは、3連でした。 > >名探偵ではない自分。すなわち語り手でもなく、登場人物でもない自分。かと言って批評家でもない、作者が、ひとつの激情に耐えて、穏やかに立っているイメージでした。 > >社会は、そんなふうな個人でできてますし。 ありがとうございます。語り手の話を1連目に入れたのに名探偵を入れた理由がわかったような気がしました。僕は名探偵になりたかったというか、なりたい。そして社会は名探偵みたいな個人たちが集まって成り立っているというのは、まさにそうだと思いました。僕の中にはたくさんの語り手がいて色々惑わされるし、惑わされる事自体は必要な行為だと思うのですが、名探偵でありたいなぁとやっぱり思ってしまいます。 考えさせられるレスありがとうございました。 (社会)

2018-03-03

 そうですね。読みというのは、ある種人それぞれだと思うのですが、上に示した読みの中にはなぜ自分がこう思ったのかそこに至る論理は提示しているつもりです。無論その提示した情報そのものには意味がないのかもしれませんが、まぁ、では何が具体的にどうおかしいのか聞いてみたかったですね。というのが本音です。僕の読みは長ったらしくてくそというのはわかりましたが、どういうところがくそなんだろう。三時間程度の読みでもうしわけないのですが、ただ長いだけで棄却されてしまうのは、さすがに僕も怠いといえば怠いですね。   構造の分析は表面的な理解に終わってしまうことが僕には多いし、そういう読みはいろいろなことを見逃してしまうと思っていますので、ここではできないし、やれません。それに僕は、構造的に練られ、あるいは練った上で外されたように見える詩、というのものは基本的に苦手で、前に大きな失敗をやらかしたことがあります。そういう意味において、僕はこの詩の読者ではなかったと思います。(基本的に僕が大学で習った方法論は徹底的に作品のテクストそのものに向き合っていくみたいなスタイルだったのも起因しています。それが今現在における僕の中の読解のスタイルということになります。そこにおいては時に作者の読みすらも凌駕することが往々にしてあります。解釈は異なりますが、その異なる解釈と解釈を論理によって徹底的に詰めていくということをやっている人たちもいるわけです。)ここは合評欄ですし、各人それぞれが自分の中にある読みの方法論で読んでいってほしいと思っています。僕は読めませんでしたが、他の人は読めるかもしれません。詩はいろいろありますから、いろいろな読み方がありますし、いろいろな詩に対するその詩にあった読み方というのはあります。爺無能別邸さんが想定していた欲しい読みについても、まぁできる人がいるかもしれません。  現にkaz.さんの読みを読むと、この詩はあまり肩肘を張らずに、音、文体のリズムを楽しめばいいのだという風に受け取ればいいのだというようにも受け取れます。その部分を見落としていたのは、申し訳なく思います。るるりらさんの読みも純粋に楽しみです。そういう意味で、僕はとりあえず、二つの読みをここで試したわけですが、失敗したということにしておいて、まぁそれに対してくそと言われましたら、申し訳ないとしか言いようがありませんが、良かったらこの掲示板にはない構造に注視した批評など、展開していただければと思います。僕も勉強の途中でありますので、勉強させていただければ幸いです。(キュレーターなどといった役職についてはいますが、残念なことに僕は未熟な身でございます)この掲示板にない読みを提供してくださるのであれば、それはbreviewにとっても大きな価値だと思いますので。とりあえず返信はこれで仕舞にさせていただきます。 (あだらいっぱい)

2018-02-26

爺無能別邸さん  正直この作品を真面目に読んで、どうにかなるのかと割と思ったので、ちゃんと読まなかった面はあります。ならばコメントするなよというのはもっともだと思いますので、取りあえずは時間かけて読める所まで読んだので宜しくお願いします。失敗したら笑ってください。 >キッチンでカリを舐め >つまりは あんまりだが >青酸カリ ではない カリを舐められ >脊椎に微量の電気を感じる >あんまりだな  言い訳から始まってしまい、大変申し訳ないのですが、ここにかけた感じでイクイカないみたいな所を掛けて言いました。例えや物言いが不的確であったのであれば申し訳なく思います。でも最後まで何回か読んだ上で、ゴチャゴチャ書くよりは伝わるだろうと思ったのも事実です。細かく書きますと用は、青酸カリという死のイメージと、一瞬の快楽のイメージがごちゃ混ぜになっている。そういうのを語感のイメージの重なりで処理している所に、逝きそうで逝けないイメージあるという風にも言えるのかなぁと思いました。そういう作品は僕、とても読むのが苦手であると同時に、文章に苛立ちを覚えると同時に惹かれてしまいます。生と死の境界線で綺麗に踊っているように思えるからです。と言うわけで、この作品僕は好きなのですが、同時に嫌いです。それが無性に苛々するという、僕なりの愛情表現です。気持ち悪いと思われたら申し訳なく思います。それから、誤字誤謬脱字その他諸々沢山やらかしてしまい大変申し訳ない。というのと、祖母包茎のコメントは後々ゆっくり返す予定ですが、素敵なコメントありがとうございましたとだけ言っておきます。  それではなるべく精読したいと思いますので、以下ちゃんと僕なりに出来る事ではありますが、読ませていただきます。まずタイトルですが、  あだらいっぱいは、多分「あだらごと」で「よくないこと」と出てくる事から、「よくない事で一杯」という風にここでは解釈します。 https://www.weblio.jp/content/%E3%81%82%E3%81%A0%E3%82%89%E3%81%94%E3%81%A9 >水の声が幾つも聴こえたたあ >もうもう 乳牛に >幸せを楽しもうと言う >俺は逡巡を凌辱され >とうたう >たゆたうとうと >尊いというと  話を戻しますが、「水の声が幾つもきこえたたあ」という所が、難しい。水の声ってなんだ、という突っ込みを入れる事ができますね。檻に入れられた乳牛が同時に水を飲むときに反響する音を指して水の音なのか、なんなのか難しいですが。取りあえず、この一行魅力的ですね。たたあについても多分水の声が反響しているのでそうなっているし、次の「もうもう」も「もう」の繰り返しです。「幸せを楽しもうと言う」という風に「楽しもう」に掛かってきます。牛のつまり、水の声というのは、僕なりの見立てになりますが、人と牛の声が重なっている事を示すのかなぁと思います。だから牛の声ではダメだし、人の声でもダメなのかなと思います。逡巡を陵辱されると言う形で、この場合の逡巡は何を指していて、それをどのような形で何か陵辱するのかというのはここでは明かされませんが、多分「尊い」以降の話に関わってくる話だと思います。そのための伏線がここで張られています。次の、「とうたう」からは、良くもまぁ書いたなぁという感じで、ここはもうコメント出来ないですね。とうたうは「と、うたう」という風に分けて読むべきなのか、別に分けなくてもいいのか分かりません。「たゆたう」「うとうと」のミックス、それからそれらの音を重ねたような「尊い(とうとい)」という事に繋がっていく。ここは一種のトランス状態みたいなものかなぁと適当に書いてしまいますが、ここら辺もおそらく水の声が幾つもという所に掛かっていると思いました。  語り手の逡巡は陵辱される訳ですが、陵辱された逡巡の痕跡と言えばいいのか、なんなのか分かりませんが、そこからなぜ「尊い」という結びが導き出されたのか、ここが僕の中では答えが出ませんでした。勘で言ってしまっていいのであれば後ろの文章を参照する形で、尊厳死に繋がっていくのかなぁとちょっとだけ思います。ただ、尊いってそれだけのイメージで処理してしまっていいのか? というのはちょっとまだ未解決ですね。 >キッチンでカリを舐め >つまりは あんまりだが >青酸カリ ではない カリを舐められ >脊椎に微量の電気を感じる >あんまりだな  まずは前提として、「つまりは あんまりだが」何があんまりなのか、あんまりっていうのは程度が甚だしい様みたいな感じで捉えます。  ここには二つのカリが登場します。基本的には男性器のある部分を指すカリと、青酸カリだと思います。話の舞台として、キッチンが出てくるのがそれまでの話、乳牛や水のイメージを薄ら投影しているようにも思えます。カリの話を男性器の意味合いで取るにしても、キッチンはエッチするのに良いところなのかは分かりませんが、シチュエーションとしてはいいのですかね? まぁ、取りあえず中々良い場所がセレクトされていると思います。  その二つの重なり合う音の内、青酸カリは否定され、カリを舐められるという話になる。ポイントは、舐めると舐められる所で、青酸カリは舐めるもの、カリは舐められるものという事です。最初の「あんまりだが」というのは、おそらく最初の「カリを舐め」に充てられたニュアンスから想像するに、青酸カリで自殺しようとした人に向けてのあんまり、最後の「あんまりだな」というのは、青酸カリを否定された上で、残った雁首のイメージで男性器を通じて快楽を得てしまっている語り手でしょうかね。それに対する心配に向けたあんまりだなみたいな感情でしょうか。少しがっかりしてるようなニュアンスを感じました。  ただ、青酸カリではないカリという書き方怖いですね。雁首以外の物で何かあるのかな、あったらごめんなさい。  それでこの詩は何がしたいんだろうというのは、結局の所、最初に書いた感想になります、「いきたいけどいけない」という音の重なりから分岐する逝くとイクのイメージの逡巡からイクの方に逸れてしまう感じでしょうか。よくない事というのは、死ぬ事でもあるし、快楽に溺れる事でもあるかもしれません。「あんまりだな」とか、「あだらいっぱい」とかの物言いは、多分語り手の逡巡に対する突っ込みみたいな役割を持っているのかなと思います。  方言みたいなその人のルーツにあると思われるような言葉というのは、怒ったり何かを諫める時に、有効だという話を文法学者の先生から聞いたことがあります。ここら辺細かい論理を提示することが出来なく、大変申し訳ありません。  それから、牛のイメージが最初に出て来たのは、花緒さんの読みと被る部分もあると思いますが、乳牛の置かれた立場と、自分の中にある立場には共通項があるのかぁと思います。乳牛は人に飼われその生を搾り取られますが、その結果として種の繁栄は保たれているし、死ぬまでではあるけれどもその生は乳を出しさえすれば保たれるという事。  それらが水の声という、橋を通って語り手の耳の中に入ってきた時に、自分の中に根付いている生と死の逡巡が馬鹿らしくなってしまい今を楽しく行きよう、快楽に溺れようみたいな感じにシフトしてしまったのかと思いました。なんですけど、やっぱり気になる部分は幾つかあります。  例えば「よくない事で一杯」という所で、何がよくないんだろう、何が一杯なんだろうという事です。「あだらいっぱい」うーん、つまりこの詩には良くない事が書かれているという風な認識がまず前提としてあると思うんですが、何が良くないんだろう。死ぬ事?快楽を感じる事? トランスしてる所は違法薬物とかで頭が狂っている感じなのでしょうか。社会の枠組みとしての乳牛のあり方というのを志向していくは人間には許されていないが、語り手は乳牛によって水の声を通じて唆かされた、生き方そのものに同化しようとしている事に対して「よくない」と言っているのでしょうか。 >幸せを楽しもうと言う  牛にとっての幸せと人にとっての幸せは混じり合うのでしょうか。牛にとっての幸せってなんだろう。人にとっての幸せってなんだろう。 >尊いというと それからこの「尊いというと」という不気味な一節に繋がっていくのはなぜだろう。幸せと尊い事の違いって何だろう。 >脊椎に微量の電気を感じる  脊椎に電気を感じるという事、ここもどのように解釈すべきか悩みました。単純に雁首舐められて感じてしまった事を電気が脊椎を登っていくようであると書いただけなのか。  幸せと尊いと脊椎に電気を感じる事。この三変化、考えるだけでめまいがしますね。  この詩、考えれば考えるほどドブにはまりそうです。僕にとってはこの詩読むこと自体が本当に時間食われるので勘弁してくれという意味で白旗です。ここは合評欄でもあると思いますので、他の方のコメントも読んでみたいというのもあります。 (あだらいっぱい)

2018-02-24

あやめさん コメントありがとうございます。ついでですが、名前入力しておきました。 正直何も言い返せないですね。僕の中にはどこにもポエジーなんてものないので、外に求めてしまっています。僕は感動がないと生きてゆけません。これは感動が欲しくて、色々ないている詩なのかもしれません。色々普段忘れているつもりな事、コメント頂いて思い出しました。 (社会)

2018-02-23

普通に良い文章とか言ったらあれですが、多分芳香剤としてのポエムみたいなのが上手く機能しているのかなと思いました。ポエムの部分については、僕もぶっちゃけ勉強してないので、あんまりポエムっぽいみたいな言葉は使いたくないのですが、この詩だと月明かりを君にと言う形で、語り手である僕は直接的な関与をするわけではなく、遠くから見守るような形で愛を語ると思うんですがその均衡が崩れるのが、多分マクロファージなどの語彙選択からも見えるような部分なのかなと思います。急に生々しくなるのは文体の変化というだけではなく、語り手が多分明確に変化しちゃったからだと思います。 >どうか、 > >月明かりを君に…… 故にこの一文はギャグになっていく。いや、あんた既に手だしたんやから、もうそうじゃないでしょみたいな感じです。今更何を言うかみたいな。 (月明かりを君に)

2018-02-22

コメントするのが難しい作品で、一度読んでから大分考えさせられました。 多分、きよらかなものになることはなれないのだと思います。具体的なイメージに寄せてきよらかなものってなんだろうと語り手は考えますが、その中において、明確な結論は出なくて、きよらなかものってなんだか分からないけど、多分きよらかなものになれるのは人間じゃなくて、神様、つまり人を超えなければいけないのか外れなければいけないのか分かりませんが、正に人外になるしかないという感じがしました。だから来世は神様の傍に居たいという風になってしまうのかなぁと。神様そのものには多分生まれ変わってもなれないので、傍に居ることによって、なんとかきよらかなものになりたいというよりは近づきたい。自分に溜まった澱という垢を転生することによって全て禊ぎにかけることによって。みたいな感じかなぁと思いました。 端的に言ってしまえば、自分が今汚れている事は分かる、でもそうじゃなくなりたい。でもそうなるにはどうすればいいのか分からない。雪になればいいのか、でもなれないから、神様に行き着くという感じが、僕には地味に切実な感情として迫ってきたかのように思いました。 (きよらかなもの)

2018-02-22

神様になった人があいつなのかなと思いました。 なんともコメントしずらい作品で、混沌という始まりから、神話に至る過程の中に宇宙がぶっ込まれているのは、わからなくもないような気もするのですが、そこに結晶がぶっ込まれている所が、ある意味オリジナルなのかなぁとちょっと思いました。最近漸くマルコによる福音書の日本語訳、読み終えたので黙示録とか読んだらまた色々変わるかも知れません。 そんな僕がコメント出来るのは、あいつという身近な存在が神様になるか、あるいは神様に近しい存在になってしまった。みたいな所で、なんというか僕の姉が今正に尼さんやっている人ですので、本作通りの展開を僕が体験した訳ではないのですが、まぁ、なんとなく感じ入る物がありました。レスレスになってないかもしれませんが、思った事を書かせていただきました。 (神はいる、か)

2018-02-22

揺れるというのは二つに挟まれる事なんだなぁと思いました。揺れるというのは、左に揺れたら戻って右にまた揺れるという事なのかなぁと。面白いのが右左の話で終わって無くて、そこに前後ろという観点をぶっ込んでいる事だと思いました。多分今の時代、あらゆる物事を二分法で語りきる事は難しいと思うのですが、この詩では確かに二つの間で揺れているんですけれども、沢山の二つが挿入されることによって立体的になっているなぁと思いました。二連の末尾に生と死がおかれているのは、そういう様々な物が折り重なる物の中心を貫く物であると同時に、生と死というのが全ての物事の振り幅の最果てにあるものなのかなと思いました。 個人的に、面白かったのは最後の逃げろっていう所で、確かに揺れている間は逃げる事出来ないよなぁと思いました。どのように逃げればいいのかという所は書いてないのですが、書いてあったらライフハックになってしまうのかなと思いました。自分の置かれている状況を認識することがこの詩の本葉であるように思います。揺れているという状態を自覚するのが第一歩というのか。 (小法師)

2018-02-22

まりもさん 返事が遅くなってしまい、大変申し訳ありません…ちょっと身辺が落ち着いてきましたのでゆっくり返していきたいと思っています。この詩は卒論の一次締め切りに間に合わなくて頭を下げまくった日にあった、飲み会の帰り道に勢いで書いた詩で多分書くのに十分もかかっていません。という所で、甘い部分滅茶苦茶あるとは思うのですが、その一方で普段忘れてしまっている素直な部分みたいなものが出ればいいなみたいな事も思っていました。 結果的に、読み返してみて、二連目は蛇足だったと思います。ある意味真面目にふざけて書いてしまったし、この作品のぜい肉になってしまったかなぁと思います。最後の締めについては、結論らしい結論が出ずに、投げ出してしまいました。魔女の宅急便も、思い返すと確かに念頭にあった感じもします。キキみたくなれればいいのかなぁというか、いま思うと、あの世界の魔女って(原作は未読ですが)社会の中に受け入れられた魔女なんだなぁと思うと、あれって魔女なのかなぁと思ったりもしなくないなぁと思いました。社会については、最近責任という虚構というポスモっぽい本を読んで、その中で読んだ事柄に割とこの作品縛られているのかなぁと思いました。確かにこのタイトル安直だと思うので、再考したいのですが、相変わらず再考する推敲するという過程が苦手です。コメント返すという過程を経ることで僕は漸く自分と向き合えているのかなと思いました。なんだかんだ一ヶ月考えて返せるコメントがこの程度の物で申し訳ないのですが、考えた事書かせて頂きました。 ありがとうございました。 (社会)

2018-02-21

うーん、自分の持っているせかいの見え方と近いんですけれどもとてつもなく遠い感覚がさりげなく書かれていて、舌を巻きました。 >雲の尻をひっかいたのは >人差し指みたいな電波塔です >左から右へ 朝っぱらから 雲に尻ってあったんだなぁとか、電波塔って確かに人差し指みたいだよなぁと、両手で人差し指立ててみたら、人差し指って人の両手を紐で結ぶときに一番邪魔の入らない指なんだなとか、この立ち上がりの三行のイメージが、自分の中になさすぎて、読んでいる時いい意味で混乱しました。 >橋や田畑や山はもう背中のずっと後ろです >ぼくの帰るのとは >逆の方へ走っていきました 大急ぎで ここも恐ろしくて、読んでると自分は立ち止まっているのに橋が足を生やして後ろに走っていくと同時に景色もまた急激に夜の方向へ走り去っていってしまって、自分が立っている場所から景色が逃げ出していく感覚が面白かったです。コメントを読むと車の中というのが分かるのですが、コメントを読む前の時はその前提がなかったので、正に時速60キロのスピードで景色が移り変わっていくのに、自分は同じ場所に立っているという感覚をモロに受けて、語り手が一人せかいから置き去りにされてしまったようだと思わされました。脳内のアニメーションがスタジオジブリ状態マックスでした。 >隻眼の男が睨んでくるのは厄介です >八方にぎらつく 鋼の髪 >馬をこなすのは見事ですが 少しきになったのは、ここの部分で、多分隻眼の男がなんなのか、分かりませんでした。適当に蜘蛛か鷹みたいなのかなぁとちょっと思ったのですが、イマイチしっくりこなかったので、他の方のコメント少し読みたいなぁと思いました。多分僕が単純に知らないだけな気もします。 (冬の帰り道)

2018-02-21

うーん、取り敢えずものすごく読みにくいですね。それが別に悪い訳ではなく、ひたすらに酔います。どんどん梯子外されていくので、なんとも困る作品です。ストレートな感想を言ってしまえば僕は、なるべく作品を見たり聴いたりしたらイキたい訳ですけれども、故にイケない作品は中々苦手ですね。でもまぁ、そうはいいつつも、この作品とてもよみたくなるように作られているというか、まぁものすごく色々突っ込んで考えたくなるような作りをしているというか、まぁ僕時間や体力があったら徹底的に考えたくなるようなセクシーさがありますね。最初に読みにくいとかなんとかいいましたが、気になる作品である事は確かで、初見で気になったのは >水の声が幾つも聴こえたたあ >尊いというと  この二行ですかね。後は、コメント読んじゃった後なので諸々後出しで申し訳ないのですが、タイトルと最後の末尾の部分とか無性に苛々します。 (あだらいっぱい)

2018-02-21

不思議な作品だと思いました。魂ってなんだろうね。というのが、僕にはあんまり分かりませんでした。でもここには多分魂について書かれているんだろうな。という感覚だけが綺麗に残っていく感じもして、中々言い表せない作だと思います。 >この魂 >あの魂 > >私、魂 この最後に置かれた私、魂というソリッドな言葉の余韻が凄く好きです。あの魂この魂とおかれる前に置かれた、 >魂は >魂は >意識とともに生まれた双子 >記憶の中で燃え続ける炎 >夢の中で零れる涙 >魂は >今を闘う私や君 この双子の話が多分導線になっていると思うのですが、魂が意識からうまれた双子という表現が面白いです。本来は魂って一つだと思うし、多分古い解釈では体と魂という分け方をなされていると思いますが、ここでは魂を更に二つに分けているところがいいなと思いました。さらに言えば、双子を炎と涙にたとえている所もなんともいえなくて、僕が今この言葉を読んで思ったことを他の言葉に還元できません、夏の音と冬の光は多分きっと炎と涙に対応し、それらが双子として生まれた一つの魂という矛盾「私の魂」の中に根付いているのかなと思いました。構造的な観点からみても、あるいは比喩の持つ解釈からせめても、あるいは僕が論理的な言葉でここにレスできなかった感情の内部みたいな所からせめても、凄く気になる作品でした。もうちょっと他の方の読みも見てみたいです。 (魂 soul)

2018-02-21

もう既に色々書かれていると思うのですが、ストーレートに感情揺さぶられました。僕自身が、色々ごまかしながら書いてしまう人間だからかもしれませんが、一人の書き手として眩しい作品だなぁと思いました。初めて書かれた物として、いい意味で無垢だと思いました。 (蔑まれ者)

2018-02-21

最後「我々の生活」となっているところが面白いと思いました。 >りんごをかじって >その酸っぱさに顔をしかめて >だからといって今日1日が >おじゃんになるほど >人生ってのはやわじゃない 最初りんごをかじっているのは多分一人で、酸っぱさに顔をしかめているという始まり方から、人生につながり、そこから自然現象の話が挟まった後で、「我々の生活」につながっていく、より一般化されていく、というよりは個の感覚が希釈されていくイメージなのかなと思いました。 些細なきっかけによって、その日、今日一日が終わってしまうという事は僕にとってはですが、とてもよくあります。そうして一日が終わってしまうと、ものすごくこれからの人生怖く思うときがあります。このままずっと失敗していくんだろうかみたいな虚無感です。でも、僕自身はだからといって死のイメージを内側に、そこまで深刻に抱いている訳ではなくて、毎日そこそこ苦しいのですが、でも生活は自然現象の様に続いていくみたいな感じです。多分苦しいと思っている瞬間も、上書きされていってしまうし、ここでは木と海が出てきて、木には雪が降り積もり、海の静寂を切り裂く?ような魚群が例として挙げられていますが、木そのものに自意識が芽生えていたら多分雪はうっとおしく感じるのかなぁと思いますが、木一人一人の感情なんか僕らは知らないし、木だってずっと雪が積もっているわけじゃないので、多分冬は大変だと思うんですがそれ以外の時期はそうでもないのかなぁとか、そこらへんに生えている木にきっと雪が積もったって、例えばせかいの枠組みから俯瞰して見てしまえばどうでもいい事に違いないように思います。だから、最初一人でりんごを食べたときに感じた感触、すっぱいっていう感想が、我々の生活の中に消されてしまうというのか、薄れていってしまう感じに、ちょっとした危機感みたいなものを感じたり、皮肉めいた物を感じたり、薄れていく感覚をなんとかつなぎ止めようとしている自意識の声みたいな物が聞こえました。 (生活)

2018-02-21

中途半端にコメント打ってしまいました。(申し訳ありません。。。) 色々ゴチャゴチャ書こうか考えたのですが、書くのが難しい作品だと思いました。只、感じた事を一言で言ってしまうならば、言葉だけで考えすぎるのもあかんよなぁと思わされました。僕も得てして目の前の理屈だけで物事を理解しようとして袋小路に陥ることが多々あるので、なんとなくそこら辺読解にも似ているなぁと、身につまされた作品でした。後は最後の落ちが仲良くなるという所に目を向けていて「愛」という表面的な言葉に対する信用を捨てて、ちゃんと人間を見ようとしている所がいいなぁと思いました。 (誰かに愛されたいならば)

2018-02-21

読んでいて面白い作品でした。 言葉が先かどうか (誰かに愛されたいならば)

2018-02-21

うーん、コーヒーが死ぬっていう表現は見た事がないですね。面白いと思いました。 偶に自分で豆を挽いてコーヒーにするんですが、そのとき自分の手で豆を殺しているんだなぁと少し見方が変わりました。色々なモチーフを重ねて読んでもいいと思うのですが、兎に角作りが丁寧で、気になる作品でした。 (コーヒー)

2018-02-20

僕はあれですね、この詩の中で突っつかれてる方に近いので、地味に読んでて辛いです。語り手が親父みたいです。 語り手が誰であるのかみたいな所が読み手によって変わっていく感じもします。例えばこれは母親からニートの息子に向けてとかでもいいし、恋人から恋人でもいいし、友達から友達とか、腐れ縁でほっておけない奴に対しての言葉とか、短い付き合いでの物言いか、長い付き合いでの物言いかみたいな感じかなぁと思いました。僕の場合は親父を思い出しました。 (触発 part II)

2018-02-20

うーん、難しいですね・・・語り手がどういう前提で何を詠っているのか、今一分からんというのが初読の感想です。音の並びは美しく、音読すると嵌まっていく感じがします。つまりは、作りの丁寧さが窺えます。そこから先の部分はリストカットと根性焼きのイメージと、後は、うーん、日々の生きづらさみたいな感じかなぁとちらっと思いましたが、内実には踏み込めませんでした。もう少し他の方の感想を聞いてみたいです。 (幻滅の悲哀)

2018-02-19

なんかあんまりレスする気が起きない作品ですね。脱力感に襲われるというか、意味を解きほぐす行為そのものが面倒に思えてしまう。全体的に観察している気がします。「対象の実態を知るために注意深く見ること。その様子を見て、その変化を記録すること。どれだけその変化を見つけられるかが重要である。」これはWikiの文言ですが、例えば、自分がいつから眼鏡を掛けているのか、僕は覚えてないないよなとか。wikiでは観察とは変化を見つける事が重要なんですけれども、気がついた所でどうでもいいというか、多分どうでもよさが只増していくばかりみたいな事を、見つけたシステムに対して思うばかりみたいな感じでしょうか。神様でも心の内に飼っているのかもしれないですね。 (未処理)

2018-02-19

赤い糸じゃなくて白い糸、というのが面白いと思いました。多分二人は恋愛関係になる事はないんですけど、そうじゃなくて、約束=白い糸で繋がっている。というのが、なるほど、と思いました。君と僕の関係は多分、近い所にあるんですけど遠い所にあるし、二人は釣り合わないんだけど釣り合うみたいな感じなのかなぁと思いました。 「君がくれた約束」とあるように、多分僕は君に対して何も出来なかったし、出来ないと思っているので、自分はすすけているし、君は眩しいのかなと思っているのかなぁと思うのですが、実は君の中には僕が確かにあってそれが約束なのかなと思いました。それは単純に好き嫌いというよりは、心の繋がり、つまり信頼の方が大事という意味合いで、だから約束なのかなと思いました。 (むすんだ白い糸)

2018-02-19

シンプルな作だと思うんですが、コメントしようとすると捻りが効いていて、少し立ち止まってしまう作品だと思いました。鰹節を人間に見立てながら、加えて鰹節の二つの側面から見ようとしているのか。体と心の話をしている所が巧みだと思いました。なんとなくシンデレラ体重思い出しますね。もう少し他の方のレスが読みたいなぁ。 (鰹節)

2018-02-19

高町トビラさん初めまして。 運営の百均です。 名前の方入力しておきましたので、宜しくお願いいいたします。 (むすんだ白い糸)

2018-02-18

間違えて消さない用のコメントです。 (re:w)

2018-02-18

瞬間の不安というか、本当に水の誘惑ですね。 冒頭の賑やかなイメージとして恋人達の間をすり抜ける様と、観覧車のイメージが提示され、その後急に水面に映った自分の姿を見る事で水に引っ張られていく。多分観覧車は誰かと一緒に乗る物だし、恋人も手を繋いでいるので、二人なんですが、語り手はきっと一人なので、二人になるには水面に映った向こう側の自分と一緒になるしかないし、自分と共にあるという事は永遠になれるという事でもあるのかなと思いました。それが深淵であると。 >私はしばし、この魅力的な案について考えた  >鏡の世界との狭間で >しばらく考えたあと、私は輝く水に背を向けた >やめておこう、今日のところは >次の機会に考えるとしよう >そうして私はいつものように駅の方まで、歩いていった ここが本当に面白い。一瞬の非日常に自分を浸すかどうかという誘惑を魅力的な案として、多分頭の上では軽くながし ながらも、ちょっとだけ本気で考えている感じが窺えます。その上で、日常に戻るというその場所として駅があるのだなぁと思います。駅はきっと人ゴミにまみれているので、鏡みたいな水面の存在しない雑踏があるばかりで、そこにはきっと誘惑なんてないのかなぁと思いました。 (水の誘惑)

2018-02-12

B-REVIEWの運営とかやっていますが、個人的に色々と中途半端な存在なので、色々言われたり、自分でも何がしたいのか分からないというか現に、そうなのですが、そういう所で共感を覚えます。僕自身無理矢理自分に言い聞かせながら生きている所が無い訳でもなく、考えればどうにかなるのかみたいな事を考えてしまいます。 お金の話が提示されていて、僕は、なんというか、お金取られた事なく、寧ろ両親の金をむさぼりながら生きている感じがするので、この詩の話者とはある意味真逆の所にいて、その立場からよく、その金を使って君は何をしたいのかと問われます。毎回、でも何を言っても答えにならないので黙ってしまいます。両親の方が正しいからです。みたいな所で、この詩の語り手とは違う所にいるような気もするのですが、共感を覚えました。 (死にたがりの生きたがりの)

2018-02-12

詩の焦点が傘に絞られていて、でも、語り手が傘である事が分かるという感じから、練られている事を感じます。 個人的な読みとしてですが、僕はよく傘を忘れてしまうし、年に10本くらい傘買うんですけれども、多分だから僕は恋人みたいなの無理だし、人と付き合うのが苦手なのかなぁと思いました。なんというかごめんなさい、でもあなたの事を忘れてしまうし、根本の部分でどうでもいいと思ってしまうみたいな感じがしました。 (傘)

2018-02-12

行分けから動悸が伝わってきます。感じた事のない空気感ですね。北海道の冬なのかという所をコメントで見てしまいましたが、空の質感が言及出来ないですね。 >祝福のファンファーレだ。 >まさに今、天に新たな命がうまれたらしい。 それまで積み上げられてきた質感がもたらすファンファーレの音色の、天に新たな命が生まれたという逆説のインパクトに詩文が負けていない、支えて切っていると思いました。 (立会人)

2018-02-12

フレーズ一つ一つを見ていくと、ぶっ飛んでいる感じがします。 >人塊 >それを墓とは呼ばない これが凄くいいです。落とし穴のイメージからそこに落ちていった人たちを塊としてしまうのですが、それを墓と呼ばないという断定がもの凄く面白いです。 >あまりに遠い >私はまた >取り戻さなければならない 最後の帰結の部分として、一連目で提示された永遠に反射し続ける合わせ鏡の中における自分の中の感情みたいな物から、それらに感染された自分から抜け出して、そうじゃない自分を取り戻すというのは、自分の過去みたいな物と色々当てはまる所があり、共感した詩です。 (感染性暴力)

2018-02-12

アラメルモさんの感想で漸く入れた感じで、難しい詩でした。愛してるってなんだろう。そもそも愛ってなんだろうみたいなのは、僕には分かりません。愛してる。という事は愛されているかも、されてないかもしれないけれども、自分はその対象を愛している。という宣言なのかもしれないと思いながら、では何を愛しているのか、みたいな所で読んで行くと、一箇所だけ愛してるが出てくる所があります。 >あなたから、 >わたしに通じる、 >枯れ花の順路を触診して、 >消炭の刻印を指先に残しておきたい >木綿の宇宙服で渡る >星間距離を、 >描線がにじみ、 >混じりあうまで寄せ合った >鼻先で確かめたい >愛してる。  読む読むと、鼻先で「愛してる。」を確かめようとしているんだなぁと思いました。そこから僕なりに作品が読めるようになりました。鼻先をくっつける事で愛しているを確かめようとするというのは、色々ギリギリな感じがしました。なんというか。抱き合うでもなく、唇を交わすでもなく、鼻先をくっつけ合うだけとうのは、愛している事を確かめる行為として見た時に、ギリギリなんじゃないのかなと思います。  愛してるまでの部分、個人的に言及出来ない程濃密で、レスしにくいです。ここら辺僕の勉強不足で困った部分があるのですが、全体的に換喩的な感じがします。とか適当な事言ってしまいますが、以下僕がこのように読みましたという読書の痕跡を残しておきます。 >どろんと星が落ちる 星は恋のイメージです。多分、突然何かしらの恋に落ちてしまうのかなと。星が落ちてしまうほど、何かしらショックな事があったという事だとも思います。 >それだけことのために、 >出窓は燃えてしまった 出窓のイメージは、この作品のキーになっています。出窓はおそらく誰かに会うための場所でありますし、そこで本を読む場所でもあります。糸車を回す場所でもあります多分出窓の月明かりに照らされながら、糸車を引いたり、本を読んだりするための場所なのかなと。 >糸車を回して、 >虹彩に >宿る色を紡いで、 >紡錘の虹を垂らして >あなたから、 >わたしに通じる、 >枯れ花の順路を触診して、 >消炭の刻印を指先に残しておきたい >木綿の宇宙服で渡る >星間距離を、 >描線がにじみ、 >混じりあうまで寄せ合った >鼻先で確かめたい >愛してる。 ここがなんとも絶品で、ここでは「糸」を滅茶苦茶有効活用していると思います。言及出来ない程濃密です。糸車を回す所から日々の生活の繰り返しのイメージ。木綿の宇宙服のイメージ。そこに虹彩のイメージを絡ませる事で、あなたとわたしの視「線」のイメージ、そこから転じて虹のイメージから光りの織物としての虹のイメージ。それらを紡錘として下に垂らすイメージから、枯れ花の茎のイメージにも重なります重なります。最終的に星間「距離」の概念まで拡張されます。 なんとも言えないのが、そうやって色々糸の概念を展開させながらも、その描線は混じり合い消えてしまう所。丁度ブラックコーヒーに垂らした、渦巻き状の白いミルクの線をスプーンでかき混ぜた結果茶色になってしまうような感じがして、それまで比較的まっすぐだった線を、織り込んできた線が曲がってしまう所に、僕は愛を感じました。 恋のイメージは赤い糸で喩えられる事が多いのかなぁと思いますが。なんでなのかなぁと思います。でもここではその糸を頑張ってたぐり寄せて、鼻をくっつけようとしていて、そのために多分色々なイメージを総動員しているのかなと思います。一生懸命薔薇の花束を贈ろうとしている。というのか。 でも、そこで始まりとして提示された出窓が燃えてしまっている所に戻るんですね。ここが謎といえば謎で、なぜ出窓が燃えてしまうのかというのは、この詩のある意味大きな謎なのかなと思います。此処の部分他の人の読み、というよりはここでは直感でもいいので、見てみたいですね。多分受け取り方によってはもの凄く変容すると思います。僕は出窓が燃えるイメージというのを上手く言語化出来ないのですが、直感的に多分出窓は燃えちゃいけないのかなと思うんですけど、燃えてしまったという所が、愛してる。なのかなと。後は鼻先をくっつけた場所も多分出窓だと思います。でもキスとかしなかった。鼻先をくっつけあっただけで、愛している。その対象はどこか遠い宇宙に行ってしまったので、燃えてしまったのかなと。もう二度と会うことは出来ない。燃えてしまった出窓のある場所に寄りつく物はないからです。 ここから文庫本の話がでてきて、糸のイメージに多分紙のイメージと言葉のイメージが加わり、ここから第二連という感じがします。そこからの話としてはアラメルモさんの評が端的に示しているような気がするので、僕からは特段言う必要もないような気もします。後は最後に気になったのは、往診のイメージと触診のイメージについてで、語り手は多分治療されたがっているのか、もしくはしたがっているのかなみたいな事です。 最後の部分を見ると、最後の出窓は多分燃えていないような気がします。原始の星にまた戻っているのかなぁと思いました。雑な感想で申し訳ないのですが、もうちょっと他の方のレスも見たいという事で上げさせていただきます。 (愛してる。)

2018-02-12

水と思想の相性みたいなのものは、言われてみると確かに老子でやったよなぁみたいな事を思い出しました。思想とは、最終的に目指すべき理想があってそこにどうやって向かうべきか、みたいな事を最近なんとなく知ったのですが、本作の場合はその結末として >なにもわからないわたしは、水になりたい。 >願わくは、その清さを好んでくれる美しい魚を住まわせる事のできるような、澄み渡った水に。 とあり、もの凄く共感しました。水と思想の相性は本当にいいと思うのは、「なにもわからないわたし」のような存在を受け入れてくれる物としての水という器の大きさだと思います。判断を下す事が言語の大きな役割であるように、人間として生きる以上判断は常につきもので、それらを下すには毎回エネルギーを使う物だと僕は思っているのですが、水そのもの自体にはそのような思考がなく、ただ流れていくだけという無常だけがあるような感じを思うからです。みたいな感じをなんとなく今読んでいて思いました。 >わたしは水が好きだ。 >その透き通った美しさは宝石にも比肩する。 >その柔らかなあり方を大変好ましく思う。 >まさに、老子が「上善は水の如し」と記した通りだ。 > >では翻って、わたし自身はどうだろうか。 >わたしはわたしのことが嫌いだ。 >わたしは美しくなどなく、誰からも愛されない。 >誰もがわたしを見て路傍の石を見るような、無関心の視線を投げつける。 >そのたびにわたしはひとり静かに、そして深く傷ついていく。 >わたしはわたしのことが嫌いだ。 >しかしそれは、わたしの自己愛が歪な形で湧き上がっているに過ぎないのかもしれない。 >ここで湧き上がっているのは、清冽な水などではなく、淀みきった薄暗い感情だ。 >感情の奔流は濁流となってわたしの中を駆け巡り、その強力な侵食作用でわたしを削り取っていく。 >わたしは磨り減っていく。 僕も自分の事が嫌いなのですが、なんで自分の事が嫌いなのかという所は本当に考えるだけでも難しいし、それを表明するのも難しいと思いますが、本作はそれらを端的に書いていて、単純に凄いという感想しか出ませんし、正に水のようだと思います。話の構成としても、綺麗な水の話からの翻り方が巧みで、好きです。 (わたしは水になりたい)

2018-02-12

非常にいいっすね。もうあんまりレスしたくないんですが、比喩がとてもいいです。 いい作品を読ませていただきました。ありがとう。 (letters)

2018-02-11

面白いというか、レシートそのもの貼り付ける詩を見た事がありまえんでしたので、うーん、いや詩って本当になんでもありだななぁと頭柔らかくなりました。世の中の誰かやってない訳ではないとは思いますけれども それから、この詩は本当に色々と軽々しくぶっ込んでいると思うのですが、レシートというのは情報の集積なので、その人がどういう人間なのかみたいなのってレシートをプロファイルの専門家に見せると割と分かっちゃうみたいなの昔テレビでやってたなぁとは思いました。例えば、ここではカード支払いですが、現金だとその人の人となりがよくでたりするそうです。僕は可能な限り小銭を出して一円を早く消滅させたい人間なので、一円単位できっちり払います。みたいな。 後は、単純な事ですけれども、消費税は変わるので案外数年後とか見返したらこの詩はその時代を明確に切り取ったみたいな証拠になるかもしれないですよ。それから、ここでは言葉を買っているので、言葉を金でやりとりするみたいなイメージも多分解釈を広げていくと面白くなるかもしれません。レターポットとかだと一文字5円で買うことによって実際に一文字=5円の世界みたいなことやってますが、そういう風に考えていくとSF的な文脈で見ても良いかもしれませんし。 言葉を買う事が常識化された世界ってなんだろうという事を考えていくと、この詩の見え方もまた色々変わってきます。そしてこの詩の一番面白い所は袋を買っている所ですかね。「ビニール袋があいうんん、袋はなるべくもらわないようにしているのに。」袋で100円ってなんだ、1000円ってなんだみたいな所を考えていくと、これでまた、大分面白いのかなぁと思いました。つまり袋一つ作るのに結構お金が掛かる世界みたいな感じとかでもいいし、真面目に考える必要もないのですが、意味付けて考えていくと、割と面白くなるのかなぁとは思います。単純に流してしまってもいいのですが、僕が言いたいのはこの文章字体十数分で書いた程度には、全体的に想像力を喚起させられる作ではないかなぁと思ったという事です。 (買い物)

2018-02-11

これは上手い詩だなぁと思いました。僕は作者の気持ちを答えなさいみたいな問いはあんまり好きじゃないというか、基本的に、そういう設問はあり得ない筈なんだけどなぁ、とは思ってる派なんですけど、テセウスの船のパラドックスを念頭にして置いて考えた時の最後の設問は中々面白いよなぁと思います。 全般的に喩えとしても面白いし、この読んでいる間に色々くるくるひっくり返っていく様は秀逸だと思います。 >Who the hell is he? > > >有機質に取って代わる無機質 >隊列は >交わり >蠢き >かたちを変える >古い設計図の羊皮紙は燃え落ちた >もとの顏がどんなだったかも解らない >怒りは >痛みは >( )は >確かにここに >ここに >在ったのに >気付けば、波音は遠く この導入がとてもいいです。野暮な解説はしたくないですが、ああ、しかし、好きな詩です。 (テセウスの船)

2018-02-11

丁度ダーリンインザフランキスというロボットアニメを見ているのですが、その中に比翼連理と、人の子と鬼の子の話が出て来ます。だから似ているというよりは、多分その作品の中で人と鬼はパイロットになるのですけれども、その背景として鬼の子は人と相容れないみたいな感じで始まるんですが、その作品が形作られた背景としては、本作がおそらく作られるにあたって参考にされたであろう何かなのかなと思いました。 つまり僕はこの作品読めてなくて、一週間くらい考えたのですが、この作品の内実の部分まで触れられないと思いました。それだけ知識がなかったし、その知識を付けるまでの体力が無かったと言えばそれまでなのですが。スタイルとし古い言い回しが使われている所から、多分人里から離れた場所、それは言葉の広がりから考えれば分かる事ですが、古い言葉の残っている地域というのは外界からある程度遮断されなくてはならない訳ですから、その点本作の語り手は多分結構山の深い所にいるのか、あるいは単純に昔に生きているのか、もしくは時代や現実の場所を考慮しないのであれば、そのようなスタイルを必要とする場所で本作は語られる必要があったという事なのかなと思います。 中々難しいと思ったのは、僕が何で君がなんなのかみたいな感じです。秋山ジョージのアシュラのイメージなんかを当てはめて読んで行けば分かるような気もするのですが、語りが全体的に内側に閉じていて、語り手が聞き手に対して何か話しているというよりは語り手のつぶやいている様を僕が見ているみたいな感じがします。 人と鬼と、幻の解釈の部分が多分僕が一番気になっていて分かっていない事だなぁと思っています。そこに比翼連理が混ざってくるという所でも分かっていない。そこら辺調べてがっつり読む気力がなく、中途半端なコメントしてしまっていいのか考えましたが、もう少し他の方のコメント読みたい作品かなぁとも思ったのであげの意味も込めてレスします。 (人の子よ)

2018-02-11

全体的にぼかしが入っています。ですます口調から、語り手の方がちょっとだけ物事を知っているような気がします。そこから例えば、子を見るような親の視線を感じます。でも、よく読んでいくと、私の中のわたしを切り離していくような感じが強いのかなぁとも思うので、子どもが大人になっていくという過程そのものなのかなぁと思いました。言葉の境界線をぼかす事によって多分射程範囲が広くなっているし、色々な見方を内包しつつその内包された見方は多分内と外を繋げているのかなと思いました。 (つばさ)

2018-02-07

これは海の香りがしますね。行間に漂う波のリズムがそう思います。海に行くと本当にそういう感じがするのですよね。 >ゆらり > >ゆらりと > >日が沈むように消えていった。 繰り返される音を行間飽きまくりの詩行の中にぶっ込むのが本当に勇気あると思います。繰り返す波の音に詩を漂わせながらそこに様々な物事の影を追っていく。その視線のあり方に海を感じました。 (遠くで船が往く)

2018-02-07

なんというか、コメントしにくすぎる。それはこの作品が良い悪いというより、僕にレス出来る事がないというだけですね。早口言葉が早口言葉になる為の条件を、僕は知りませんし、勉強しておけば良かったです。知識がなさ過ぎて語る言葉を持ちませんが、ともかくそういった縛りを持ちながら色々、パロってるし、皮肉の香りを漂わせていて、あるいみ爆笑問題みたいな感じなのかなぁ。多分意味ないのですが、早口言葉という形を利用しながら、そこに何かしらの意味をもたらしそうなジョークをまき散らしている感じです。元言語の分かる空耳みたいなもんかもしれません。 個人的にもうちょっとレス読みたいですね・・・僕には正直お手上げですが、ふざけてるけどふざけてないし、僕はここまでふざけられないし、ふざけたものを書いてないと思ってしまいました。 (言葉の体操 ― 創作早口言葉)

2018-02-06

色々考えたのですが、白旗ですね。色々レスこねくり回したのですが、僕がこの作品に対してレスするには何も足りないなぁとという感じです。語り手と聞き手を俯瞰する誰かが多分この詩の語り手でそれらを風景という形で遠巻きに見ている。詩の中身は、でもなんかの鳥になっているし、鳥に向かって多分言っているんですけど、でもこれを読んでいる僕は人間ですから、言葉を介してこの作品を読むけど、この詩の語り手は鳥に向かって言っているので、僕は今どういう立場でこの詩の命令といってもいいかもしれませんし、箴言でもいいかもしれませんが、そういうものに対して何も言い返せないなぁと思いました。 >語り得ぬことへの沈黙を破らぬよう >全ての冬を抱いて黴の煙吹く書物に 語り得る事と語り得ない事の差違と、それから沈黙とは何かとか、色々僕には何も言えないフレーズばかりですね。たった四行ですが、強靱です。僕に言われたからどうなのかという事ですけれども、まぁ、これ以上僕はレス出来ないし、それは語り得ない事なのだと思います。白旗です。もう少し他の方のレス読みたいですね。 (語り手と聞き手のいる風景)

2018-02-06

ものすごくストレートな詩だと思いました。でも、全然安直じゃないと思います。 雷鳴のイメージは一つの大きな転換点として有効だと思います。でも、ここでは何も転換しないんですね。雷が落ちるというのが、ここでは逆に何も起こらない事によって文章による演出を拒否しているとも言えるし、それらによって救われようとする態度を否定しています。空から降ってくるのはただ雨だけという所が強靱です。この詩はだからある意味表現する事を一回くぐり抜けた上で、そういうものを突き放しているとも言えます。でもだからといって、比喩していないわけではなく、雨に涙を重ねる所にきちんと回帰しています。突き放しているからこそ、美しい、そこにすがりつくニュアンスが見て取れるからです。なんとも儚いなぁ。 (窓際にて想う)

2018-02-03

うぇぇ、すごい詩だ。 と朝の4時に読んで思わず声が出ました。 多分前に頂いた、あのシーラカンスの詩集の裏表紙を思い出ました。そこに載っていたのかなぁと思いますが(間違ってたらごめんなさい)、ああ、見逃していたのであれば、自分の感性を呪います。 他の言葉にしたくないくらい好きです。最終連読んでコメカミがビリビリしました。 (春とバナナとシーラカンスの速さ)

2018-02-03

ものすごくぐるんぐるんする文体で、酔いますね。魚のキーホルダーが彼になって、彼は魚になるし、バナナは多分キリンになる。それで、多分ラクダはわたしなんだろうと思います。 正直、レス出来ないですね。こんだけぐるぐるしているので、何の話か整理付けたい欲がないわけではないのですが、しかし、それが出来ないなぁ。survofさんも指摘されていますが「わたしはいつも首を傾げているので、この前独逸語の先生に首がおかしいのかと聞かれた。その独逸語の先生はもう一人の独逸語の先生とうりふたつで、独逸語の先生になるには資格がいるなと思った。」ここが凄くいいなぁと。 もうこれは独特ですねといって、逃げたい。レス出来ない。白旗です。結構読み返して一週間くらい経ったんですけど、やばいしか言えないなぁ。アラメルモさんのレスの方が僕よりも理解が進んでいて、書ける事がないですね。 もうちょっと他の人の読みも見てみたいなぁ。 (魚とバナナとラクダの話)

2018-02-03

イメージの重なり、その移り変わり。 感覚として面白いっすね。コメント数日考えたのですが、出てこない。申し訳ない。意味を抽出するよりも、イメージの幻影を単純に追いかけて言った方がいいのかもしれない。失礼だったら申し訳ないんですが、北村さんの作品に相似している感じがします。それは僕の好みに違いないという事を意味します。 それとは別に、まりもさんの感想に近い物を感じないと言ったら嘘になります。ただ、見た事ないフレーズの組み合わせがなんとも魅力的です。最後の雑草のイメージ、非常にいいというかものすごくいい。フレーズ単体では、今の所一月で一番好きだなぁ。時間をかけられて書かれているという事で、ある意味思考の段階で、落ちてしまった所があるのかもしれない。全体的に文体が形で緊張しているイメージ、という感じが僕の受けた印象です。 (夢葬)

2018-02-03

ピリッと纏まっていて面白いなぁ。好きです。無駄がないなぁ。 >廻るあたまと生命 >ときどきの喜びでサルに戻って >皆同じいのちだと知る夜の星 ここがすごいですね。「あたま」と「生命」って分けてて、人間たる部分は「あたま」で「生命」の部分はサルだって言ってると思います。そのあたまの部分の首を切るのは喜びで、だからサルに戻るんですが、そこからあたまという特別な機関を持つ人間の部分だけで考えてしまう、人間の愚かさみたいなもんか。「あたま」でっかちな部分に「いのち」を代入していく感覚。つまり「いのち」という表記は「あたま」と「生命」のブレンド体みたいな感じかなぁ。 前段の表現もいいですね。凄く纏まっていて口を挟める部分がありません。 (星探し)

2018-02-03

色々読める詩で、シチュエーションとして色々考えられるなぁと思いました。 例えば、僕は今熊本にいて震災の被害を受けたのですが、電気は来ましたが水は止まったんですけど、避難はしなかったんですね。そのときずっと一人でいたんですけど、そういう所にいると、お湯の大切さがよく分かる訳です。お湯程生活に密着した物もない。せいかつを沸かすというのはそういう意味で、とても納得の出来る、比喩だし、表現のショートカットだと思います。その上で、一人でずっと居たのですが、いつもは平気なので溜まらずボランティア行きましたね。町の様子を見に自転車も飛ばしました。一人が耐えられなかったのかもしれません。 僕はそういう風に読みました。他にも色々な意匠を代入して読めると思います。お湯はそれだけ人間の生活と切り離せないからです。 (あっちいね)

2018-02-03

色々かき混ぜているなぁと思いました。気がついたのは、「橋の下駄」の所で、かんかんは最初踏切だと思ったんですが、それは下駄の音だよと言われるのですが、同時に橋の下駄でもあるので、橋桁でもあるのかなぁと。そこから三丁目の夕陽のイメージで見ていってもいいかもしれません。 そこに終戦のイメージが付いてきます。銃痕のイメージというのは、僕が最近朝鮮戦争に纏わる作品を呼んだのですが、やっぱり出て来て、確か海外のどっかの処刑場の施設も展示するときに、ここで人が死んだという事を示すのに、銃痕を使っていた記憶があります。でも銃痕のイメージはそうやって残さないと、消えてしまいますよね。それが電飾に変わるという事は、多分新しい通りが出来て、新しい建物が建って過去の痕跡がなくなってしまったことなのかなと思いました。 >躱した歳月を追う昔年のピヤニカ >万羽の鶴にひしゃげる軒下 >おべべの地蔵に両手を合わせて >八つ手の玉っころを数えて、ごめんな ここも昔のイメージが残っている物を羅列しているのですが、目に見える痕跡で多分昔からそこにあるものというのは地蔵が手一杯なのかなと思います。ピアニカも千羽鶴も、多分邪魔ですから残らないと思います。でも地蔵は残りますよね。そこから子どものイメージに繋げていく所も面白いです。 >くちびるなら噛んでつぐんで >前歯なんぞ草むらにほうった >左曲がりの鼻筋の >わたしはまるく真円であるから 僕は乳歯を投げたイメージからここで語り手が過去を捨て去るイメージを思いました。前段で謝ってしまっているので、多分色々子どもの頃の思い出と大人になった自分の中で蠢いている、正に撹拌しているイメージを切り離して、最後の鼻筋の部分。ここがどうなんだろう。左翼だから左になったのかな。そこら辺は分かりません。鼻筋が尖って横からみたら真円みたいなオチの意味は今一掴めなかったです。他の方の読みがもうちょっとみたいなぁ。 (撹拌)

2018-02-03

オチがとても面白いと思いました。中学生の時に、スキー場に行くついでに「本当は怖い漢字の由来」みたいなビニ本を買った事があるのですが、それは中々怖いんですが面白い。この詩も「白」を最終的に頭蓋の白に見立てる事によって、そこに至る過程の部分が成立するわけですよね。 連想の枝葉を切り落としながら、頭蓋の白に接近していく様子を描いていく。雪を冒頭に持ち、雲を次ぎに添えて安直な白の連想を断ち切った上で、次に真綿のイメージから血や、燃やすイメージで一気に不穏になる。その理由がよく分からないんですが、最終的に頭蓋が出てくる事によって、骨以外の有機物が全て真っ黒という煙となって燃え上がる感じに繋がる。それが、ただ人体を燃やした結果人から黒が抜けて白になるというだけで終わらず、潔白のイメージに繋げていく。処刑というプロセスをかませる事で、「証」の題字が生きてきます。 なぜ白は白なのか。それは頭蓋が白いからで終わるのではない。そこに物語というニュアンスを接ぎ木していくことで、なんというのか面白くなりますね。 (証 ――「白」字解)

2018-02-03

個人的に凄く心に来ますね・・・緑川さんの感想と被りますが、行為の部分ですね。僕は親父と仲悪いんですが、数ヶ月くらい時間を空けて一日くらい会うと凄く仲いいんですよ。でも二日目三日目から仲悪くなるんですよね。んで最近また会いまして銭湯行ったんですが風呂で、背中を互いに洗い流すみたいなのやったんですけどね。 個人的にものすごく、心に来てしまった。あんまり他の言葉にしたくないですね。失う事によって多分二人は同じ立場に立っているしだから成立するみたいな所が、どうしようもなく、僕と父親の関係に相似して見えてしまいます。いい詩だ。 (喪失)

2018-02-03

アスタリスクは肛門のマークかと思いました。猫って本当に、あれだな、表現との間合いが色々取れるんやなぁと思いました。シンプルですが、いい作品だと思いました。 (陽だまりに猫がいて)

2018-02-03

滅茶苦茶良いなぁ。僕は好きだし、好きだとしか言えないですね。なんつーか、宮田さんのファンですね。それだけです。 (抱かれると喋る女)

2018-02-03

コメント読んじゃったので、百合読み前提で読んでしまうと、きみは多分色々熱中している人でそういうのを追いかけつるのに夢中で振り向いてくれれない。語り手はきみの事がすきだから追っかけてるけど、きみは語り手の気持ちには気がつかないので、気づいて欲しいから告白したみたいな感じなのかなぁと思うんですが、 Twitterからの引用が、中々面白いですね。実際にいる人みたいだし、というかTwitterで言ってましたもんね。このtweetで一篇書けるみたいなこと。きみは作中の中の登場人物でありながら、Twitterの引用を通じて繋がってもいる。多分きみは理姫さんの事なんだろうけども、それは作中に明記されていない。それに、僕はその人の事何も知らないし。 大江が『取り替え子』の中でやったことは作中に自分の写真はっ付けた事なんですが、それに近い物を感じました。きみは理姫さんじゃないけど、理姫さんだよねみたいな。この詩はだから書かれたし、ある意味この詩はラブレターになっているなぁと。 >二年前の元旦から年賀状が届いた 後は、フレーズとしてはここら辺がいいですね。年賀状が二年遅れてくるっていうの、最初は今一掴めなかったんですが、じりじり読んでていいなぁと思いました。その理屈はここに書ける余裕がないので、取りあえず寸感としてここで終わっておきます。もう少し他の方の読みも見てみたいです。 (quasi-)

2018-02-03

>いくつもの一瞬に >スカートはひるがえり とてもいいですね。スカートのひだに一瞬の積み重ねを見るというだけでいい。それが見えないのもいいですね。その見えない事にも色々な重なりがあるという事もいいです。後半は流れちゃった印象で、僕の興味から外れてしまったので、コメントは控えますが、スカートの解釈が気に入りました。 (moment)

2018-02-03

朔太郎の猫町みたいだなと思いました。猫は出て来てないのですが、語り手の見える世界と、そうじゃない他人との世界の隔たりみたいなものを感じました。 ド派手なイメージが色々乱舞しています。日常に生きている限りではフィクションの中でしか見ないような事態が語り手の目の中にぶち込まれているようです。が、そんな語り手を動かすのは、蚊に刺された事や「今日はトマトジュースも百円よ」と声を掛けられた時みたいに、時折現実から自分に押し寄せてくる、ダイレクトな波、それも小さい物の方が深刻であるような気がします。 >モロモロと零れる血管や臓器を撒き散らし自宅へと帰還したのだが、これが大きな間違いだった。 大きな間違いなのか、どうかの所はコメントは上手くコメントが出てこないですね、僕はネット詩そんな長くいませんけれども、それでも、至る所で、いろいろな人が居なくなったし死んじゃったりしているので、生きて欲しいなぁとは無条件で思っています。 (火星のホットスタウト&ホルモントマト)

2018-02-02

一読していいなぁと思いました あんまり他の言葉にしたくないですね。表現したくても出来ない、ただ自分が覚えている香りがどんどん腐っていくという事すら多分、夏が来る度に忘れてしまう。去年の夏とか僕覚えてないんですよね。もう。暑かったような気もするのですが、今は冬なので寒いし。年を取る度にどんどん忘れていきますね。 標本というのもいいなぁと思いました。標本は腐らないというよりは腐らない要素を全て引っこ抜いた生き物の形を保存するという時に夏には明確な形を持っていない訳で、だから匂いの話になるのかなぁと思います。元々この詩は失敗しているし、無理な事なんですね。でも、この詩を通じて僕ら夏の匂いを忘れているという事を通じて夏の匂いについて考えたとおもうんですよね。そういえば半年前夏だったよなぁっていう簡単な事を思い出した筈だ。そういう意味でこの詩は失敗しているけれども、成功している。 (夏の標本づくりの失敗について)

2018-02-02

警笛というタイトルなんですが、まずこの始まりだけで考える事があります。まず笛なので、笛を吹く人間と吹かれる人間がいます。それは「発見」の関係とよく似ています。見つける方と見つけられる方です。その発見が「疑わしい」という所で「警笛」になります。疑わしい何かしたの発見は、時に血祭になりますよね。STAP細胞なんかそうじゃないでしょうか、その結果小保方さんのプライベートは引き裂かれた訳ですから。無論、この場合発見の内容はどうでも良いわけで、重要なのは、警笛を受けるとわたしは蒸発するということです >「聞きなれた声なんて気持ちのわるいものでわたしをつくらないでください」 聞き慣れた声というのは、例えば良くある噂によって人間性を断定させられた人間の姿とも言えます。それは「あの人はああいう風に捉えられるかかこういう人に違いない」というような物です。言葉は人を作りますが、それがそのままの人間をそっくり作り上げる訳ではなく、ずれる物だと思います。気持ちのわるいもので、わたしをつくらないでほしいという懇願は、多分多くの場合棄却されます。「」で括られた声はまぎれもなく「わたし」ですが、警笛を受けた声の持ち主でもあるので、そこに聞き慣れた声を世間と解釈してしまうと、それらに対して何か応答したとしてもその願いは届けられる事はないと思います。 >返事もなく >からまった >指を >汚すこともない 「魔法の症状」とは何かという所で、返事はないのは、多分「」で括られたわたしの願いに対して無く、絡まった指のイメージは。。。難しいですね。汚れないという所で手が汚れない所に掛けた方がいいかもしれない。そこから「症状」に繋がるわけですが、「症状」は「生体が病気にかかったときに認められる変化を総括していう場合に用いる用語。」ですから、病気に掛かっている訳ですね。なんの病気かというと「魔法」です。つまり、何かしらの魔法に掛かった結果、 >返事もなく >からまった >指を >汚すこともない なくなってしまったという事。つまりそのように変化してしまったという事。それは、以前であれば返事もしていたし、絡まった指はちゃんと汚れていたのにみたいな感じでしょうか。ここで思うのは、多分自分の手を汚さないみたいな感じかなぁというのと、返事をしないので多分、ここでは「わたし」の事情なんて一切考えずに、血祭りに上げる感じでしょうかね。わたしの事情は一切無視みたいに。勿論、血祭りに上げる方は自分の手は汚さずに血祭りに上げる訳ですから。蒸発してしまうわたしの事情なんてどうでもいいんでしょうね。 魔法というのは、以上の前提を踏まえて読むなら、コミにケーションを軸にしたテクノロジー一般を指すのかなぁと想定します。まぁ、一番分かりやすいのはTwitterかもしれませんが。 >靴のままでいいのを >いつも忘れている。 靴のままでいいという所で、魔法なんかいらないし、地面見て生きようみたいなもんかなと思いました。魔法なんかなくても外に行けるし人と話せるし。硝子の靴のメタファーが分かりやすいかもしれませんが、そんなもんなくてもいいし、普通に外に出て働いて生きろやみたいな感じが最後はしました。もしくは普通の靴を履いて外に出て人と会って返事してこいみたいな感じかもしれません。靴そのものの役割から見ていくと、文化的な側面から見ても面白いかもしれません。例えば部屋の中で靴は履きませんが、外に出る時は履くしな、みたいな。 (警笛)

2018-02-02

この詩はコメントが難しいですね。僕は長らく固定電話使っていないので、あんまり固定電話を美しいと言う観点から見たことがなかったので、あんまりよくわかんない感情でこの詩を読んでます。色々レス書いてみたのですが(例えば、いやいやスマフォの方がいいぞみたいな反論とか、数字の配列は本当に美しいのかとか)結局の所僕は携帯電話使うようになったのは高校生からなんですが、それから本当に固定電話使ってないなぁというのと、固定電話を使った記憶が殆どないし、使う時は無駄に緊張してたなぁみたいな感じです。固定電話によって他者と繋がるという感じは、やっぱり独特なのかもしれないなぁと思いました。つまり僕は固定電話の事全然考えた事なかったのですよね。 最後の切られ方も、読み手側が反論しようとしたらもう話は済んだというか、読み手よりも大事な相手と話しをする法が大事みたいな感じの切られ方で、本作の語り手が今とは違う位相空間にいるみたいな感じで、軽い断絶を感じました。僕はまだ学生なので、社会に出たら多分電話応対とかするようになると思うんですが、なんとなく億劫だなぁとも読んでて思いました。 (白い固定電話)

2018-02-02

申し訳ありません。 間違えて送信してしまいました。 それでは感想ですが、フライングバレンタインというのが、面白い。なぜなら、ずるだからです。本来であれば、二月一四日にチョコレートをあげるというルールがあって、その中で如何にチョコを渡すかっていうのが大事だし、だからその日だけ特別なんだと思います。 でもこの詩の語り手は、先にチョコレートをあげてしまうんですね。そこにアルコールも入っているので、正攻法ではありません。それでも受け取って欲しいし、今の自分を消費してほしい。それが、正論、つまり「チョコレートをバレンタインの日に渡す」というルールを破るように端から見たらおかしく見えたとしても。という感じがしました。 (フライングバレンタイン)

2018-01-31

>人の気持ちは水のように流れていくと感じるのに >なぜ >水のように気化して雨になり川になる如く循環しないのだろうか 滅茶苦茶魅力的な始まり方で、発想がすごくいいです。こういうをセンスと言ってしまうのは一種の逃げだと思うんですがとてもいいです。柳の木の意匠を紐解いていくと、より詩の深みが分かるような気がするのですが、取りあえず僕が感じたのは、川の傍に植えるのは柳の木なんですよね。それは柳の根が太くて、柳の生えている土地の土を固めるからだそうです。 延命のイメージ、それか彼岸のイメージ。三途の川のイメージ。という所に柳を置く。柳は人間だと思います。その葉は流れる長い髪のようだ。でも川の傍にあっても水のように循環する事は出来ない。 凄く切ない詩だと思いました。 (柳)

2018-01-31

シンプルなんですけど、滅茶苦茶苦いいです。 何が良いかって、宇宙のイメージ、とか、天国のイメージとか色々あると思うんですが、そういうのを蒼い屋根に登るという風にミクロの視点で語りながら(家に登ったみたいな感じでもいいと思います)あらゆるマクロ的な目線を包括してしまっている所です。 これは凄いと思います。 (蒼い屋根の下)

2018-01-31

>「正しくはないけれど >間違っていない」 ドラマからの引用があるのですが、多分偶々ドラマのかもしれません。例えば本を読んでいて、そういう言葉に出逢う瞬間もあると思います。ですが、ここではドラマを通じて、今の自分の置かれた状態を知る事になってしまいます。おそらく、意図しない形で、告げられてしまったのだと思います。 テレビという公共の電波から差し込まれたような「言葉の光」によって、自分は引き出しを引いたり開けたりすることが出来るような状態になってしまった。それは言葉が、心の引き出しを開けるようなノブの役割を持っているからかなぁと思いました。それは無意識を自意識につり上げるような感じに近いのかなぁと。 (未明)

2018-01-31

この詩を読んでなんでマリオを分かるのかという所がはやり肝なのかなと思います。つまり、ここにはマリオが詩の主人公であるという風に明言されている訳ではありません。でもなんでここに書かれているのがマリオなのか、知っている人にとっては当たり前のように分かるのか。という所にまりもキャラクターとしての強さがあると思います。 それは、マリオがただのおっさんであるという事。それらに対して身一つで立ち向かっていく所がマリオの一つの本質なのかなと思います。皆の中にあるマリオのイメージと離れてしまうと、この詩は成立しません。ですが、ここでは成立しているという事は、それだけ上手く貫いているのかなと思います。 特に本作の場合だと、マリオがジャンプする時が一番マリオらしいのだと思います。それは非力なおじさんが唯一持つ事を許された特異な技能だからです。マリオにおいて、ジャンプするという事は死と隣り合わせだと思います。敵と接触すると死ぬし、崖から落ちたら死ぬ訳で、そのタイミングっていうのは、大体飛ぶ時だからです。 それで、ここまで書いてきて思うのは、マリオはヒーローではないという事です。マリオっていうのはどういう存在なんでしょうか。勇者ではないと思います。別もかっこいいわけでもないし、ここでは特にアイテムを持たずに立ち向かうおじさんが姿の方が全面に出ている事を考えた時、中々マリオっていうキャラクターは面白いと言えるのではないかと思いました。 マリオを題材にして詩を書くという事は、そういう所を探っていくという前提においてとても面白い試みなのではないかと思いました。 (僕は跳んで)

2018-01-31

>息、行き、生き、と >ことばの影を >待ち人が数えていた 始まり方が弓巠さんの他の作品と良く似ているけれども、少しだけ違う。でもその違いが大きな意味を作品の中で持っている所に僕は実験しているなという感じを持ちます。 >犬のような影 >街のような影 >人々のような影 >伸びていく道のような、晴天のような影 >たくさんの、ぼく、の影 音が同じであるけれども意味の異なるおちう意味の、同根である語の交錯はされてきたと思うのですけれども、ここではそこに影を加える事によって、イメージすら一つの影の中に収斂させながら、混交している事に成功しています。ここが今まで違うような感じを覚えます。 ダジャレみたいな所がずらしていくという所で終わるのではなく、ずらしていくことによって最終的に一つの影に纏まってしまうという所が、面白いと思いました。最初は分解するつもりだったのに、最終的に一つになっていて、その媒介として影があるのかなぁという印象です。 どちらかというと、これは僕の勘ですが、弓巠さんの作品は解体していくイメージで捉えるような事が多かったように思いますが、今回は最終的に纏まっているという感じを覚えました。 以上が簡単な雑感で、後気になる点が沢山ありますが、やっぱり心の中でもやもやしているのが待ち人のイメージがなんじゃらほいという所で、もう少し考えて読みたいと思ってますが、時間がなく取りあえずこんな所で、一応終わりにしたいと思います。 (冬、いき)

2018-01-31

溜息が出ますね。上品さという事の定義を、余裕があるという風に僕はよく捉えますが、本当に読んでいて癒されます。 特段僕の方から何か突っ込む事もなく、毎月少しずつ読める事が楽しいですね。月の1、2ペースで本作のような紀行文が読めるという事が、なんとも幸せです。 (アメリカの少年※)

2018-01-31

>全ての雪だるまが等しく生きている >丸い体は転がってできた >小さく生まれてだんだん大きくなった >木の棒の手と >人参の鼻 >小石の目 >死に憧れるほどの強さはない 滅茶苦茶いいです。雪だるまっていう軸があるのでものすごく読みやすいかった。且つものすごくフレーズが鋭く尖ってて凄いですね。言葉にしたくないなぁ... (作られた雪だるま)

2018-01-31

うーん、中々鋭い詩編で、且つ詩行だなぁ。 >心の中は光にあふれているので >怒りを自分に課したときだって >決してごまかしたりはできなかったのだ 心の中が真っ黒だとかだとあるような気がします。心の闇とは結構あると思います。でも心の中に光があって、そこに怒りを課すという展開が面白いです。自分の中の良心の方が自分の心をきつく縛っている感じですよね。良心がなければ、光がなければちゃんと怒れたのに、という感じが。 >それは夜の手前の時間 >鐘のように呼びかけている >この景色は >吹きすさぶ風 >白色に >立ち向かう >深い感情に囚われているばかりではない >時がやけに静かになってきている >寂こそが接点である ものすごく難しい。寂こそが接点である。という所ですが、どう解釈すべきだろうか。という所で僕はまだ答えが出ていません。多分波立たない水面のイメージなのかなぁと思います。でもそれは永遠ではなくて、枯葉によって、いとも簡単に崩れてしまう均衡であるのかなと思います。寂は接点なのですが、同時に永遠ではなく、揺らいでしまう接点なのだと。見つめている分にはいいのですが、それを手の内に収めようとした瞬間に崩れてしまうというような。その契機として末尾に置かれた枯葉なのかなぁと思いました。 (静かな時に)

2018-01-31

和訳 PRINCE “BREAKDOWN” http://nikkidoku.exblog.jp/25313336/ この詩と比べて見ながら、後はプリンスのBREAKDOWN聞きながら考えたのですが、僕プリンスを知らないので中々上手く言えないなぁという結論に至りました。翻訳については、僕自身結構逃げている所があるので、あまり言える事がないのですが、試みとして凄く面白いと思いました。三浦さんのバージョンも見てみたいなぁ。 プリンス知ってる方のコメント読みたいですね。多分長い時間かけて考えると思います。素敵な試みだ。 (BREAKDOWN. 訳詩。)

2018-01-31

対話している事が分かります。でもどのような内容を持った対話をしているのかという所は書かれていません。でも対話している事が分かります。ここが面白いですね。なんでわかるのかというと、この詩は実のところ内容による対話をしてないという所にあると思います。 この詩の形に当てはまるような内容を用意すれば、多分なんにでも当てはまると思うんですが、なんにもで当てはまるという事は、その「形」そのものの構造の方に意味があると思うのかなぁと思います。これを見て思うのは、言い訳をする方とそれを受け止める方という形ですよね。 話す方と、受け止める方、どちらがこの詩の主体になるのかというのは、多分、主導権を握っている受け止める方なのかなと思います。(なぜかというと、親しみのある文体をしているからです。それは+にも-にも作用するという意味合いで)本作は受け取り手のいない言葉というのが如何に脆いものかという事を言っているかもしれません。構造を抜き出してそれを観察した瞬間に露呈する物があります。おそらくこういう会話っていうのは閉鎖した空間でなされるものなのかなと思います。固い言葉で言えば秘私性の高いそれはラインとか、対面による一対一の説教とかでもいいかもしれません。単純に電話でもいい。そこできっと会話のメインになるのは内容のある話をしている方(きっとそれは読み手の視線に重ねられている)だと思いますが、実の所こうして受け答えの方だけを取り出してむき出しにすると、会話の体を為すには中身の双方向性がある必要なんてなく、受け答えが出来てればいいし、そのバランスがとれていればいい、そのバランスの取り方にも色々あって、本作の場合はその内の一つの形であるという事だと思います。こういうのを言語学的にいうとモダリティなのかなぁと思いますが、ちょっと浅学で詳しい事は言えないのでwikipediaから引用します。申し訳ない。 >モダリティ (modality) または法性(ほうせい)、様相性(ようそうせい)とは、話している内容に対する話し手の判断や感じ方を表す言語表現のことである。 >例えば、「きっと雨が降るだろう」という文では、「雨が降る」ということに対する話し手の推測が「きっと~だろう」によって表されているので、この部分がモダリティであるといえる。モダリティには「きっと~だろう」のような事柄に対する対事モダリティと「おいしいね」「おもしろいよ」の「ね」や「よ」のような聞き手に対する対人モダリティとがある。 ここら辺もうちょっと言語学詳しかったら言えると思うんですが、要は「対人モダリティ」のくりぬきともいえます。「な」とかで話が通じてしまうのは、「対人」だからでありますよね。そこに人がいるからこそ、この会話のくりぬきは成立します。対話の内容は分かりません。「何を話しているのかはさておき、きっとこの対話は成立しているのだろう」という、対事モダリティを僕らは脳内に描いているはずですね。 (な)

2018-01-31

皆さんのコメントと、湯煙さんのやり取りが本当に、滅茶苦茶良いいっすね。やり取りがとても面白い。 もっと色々な方のコメント読みたい作品っすね。 僕がまず面白いと思ったのがタイトルです。「無題#Me too」がとてもいいです。ただの無題じゃないんですね。ハッシュタグっていうのは、同一のタイトルお題を持つ 無数の実体験の集積であるみたいな感じがします。まったく同じ経験というのはないのかもしれない。でも二人人間がいれば、おそらく相似するような経験があるのだと思います。その経験はおそらく色々あると思うのですが、その中でも「#Me too」の中で吐き出される経験というのはおそらく、それまで言葉にしてこなかった経験を言葉にするような物があるのだと思います。そういう事がタイトルから一気に浮かび上がってきました。とても凄くいいです。 >明日を担うヘルパーたち >真新しいパンパースを広げながら >夜行列車の窓に透過する >嘆き 囁き 後、僕が言えるのは夜行列車が出てくる所ですね。締めのイメージとして、終わりが中々こない長い長い夜行列車のイメージに透過させることによって、嘆きのイメージが幻想的な物になっています。ここら辺は読み手の僕にとってはありがたいですね。僕はまだ介護の経験がないので、どのように受け取っていいのか分からないからです。そこをイメージによって橋渡しされることによって僕は受け取れたような気がしました。好きな作品です。 (無題(#Me Too))

2018-01-30

年の近い先生とベテランの先生の違いってなんだろうみたいな事を考えた時に、年が離れているという事ですよね。その間に色々な変化があるのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。多分定年近い先生なので、多分色々な生徒を見てきたと思うんですよね。そういう立場の先生は良く自分は色々な生徒を見て来たのでこういう生徒だったらこういう風に成功したり、失敗したりするみたいな事を言うのかなぁと思います。というか僕の先生がそういう感じでした。特に高校の先生なんか多かったですね。 そういう所から外れていくイレギュラーな生徒っていうのが、多分語り手だった。それは人間が年を取るという経験だけでは到達できないものを、自分から何十年も年の離れた若い人間が、先取りしてしまう瞬間があるという事だと思います。 >先生、教室で >放課後 >生徒が窓をながめています。 語り手は回想する形で(その年齢は明かされませんから読み手の方で設定するしかないのですが、また、もしくは湯煙さんを想像してそこに当て嵌めて読むという形で読んでもいいかもしれません)思い出しますが、その最後の帰結として生徒を置く事によって、多分先生が生徒に対して思っているイメージの当て嵌め方から外れていく子供達も一定数いるのだという所にまで想像の幅を広げています。 それは「放課後」という学校本来の役割、社会のルールを学ぶ場所としての役割を終えた学校の時間に、窓を眺めるというある種の無駄ですよね。放課後になったら普通は帰る訳ですが、その子は帰らずにわざわざ放課後に窓の外を眺める事によって、外れるんですね。その時間にきっとその子は学校で授業を受けているのかもしれません。 (音信)

2018-01-30

コメントが難しい作品です それはもちん、悪い作品だからという訳ではありません。黒のモチーフが豊穣だからです。 どのように黒をとらえるのか、大分悩みましたが、僕は生のイメージで大枠をとらえました。 >青い幽霊を視た、 >月の夜に、 >彼と踊った、 >彼はよく笑う幽霊だった、 >私が鏡の中で剃刀で自らの腕を裂くと、 >肉の狭間から百合の花が咲き乱れ、 >彼はその青い唇で、 >その花々を食んだ、 >彼はその青い舌で、 >百合と共に零れ落ちる私の血を舐めてくれた、 >痛みは感じ無かった、 >幸福だった. このイメージが凄まじくいいですね。(というのと、今月の二篇は幽霊が出てきますね)腕を切り裂くと、血の前に百合の花が咲き乱れて出てくる所が面白い。勿論血も出るんですよ。でもその前に百合の花が出てくるんですね。黒い血は、僕は生のイメージで捉えました。あるいは土のイメージですね。鑑の向こう側の世界で花が咲くイメージから、鑑が土と空気の境界線みたいな感じかなぁと思いました。 黒い血と白いユリの花の対比でみてしまうのは危険だと思いますが、語弊を含めていってしまいますが、それだけ生のイメージは混交した色彩にまみれて真っ黒になってしまうのに、死後の世界は白くて青いのですね、みたいな感じでイメージとして掴みやすいんです。と同時に、それらが花咲く為の土壌そのものは語りきれない。という感じがします。「血を舐めてくれた」というのは僕は浄化のイメージとしてとらえました。 中々丁寧にほぐしていくのが難しい詩だと思います。もう少し他の方の読みが見てみたいですね。僕が一読して惹かれた所を抜き出して、その読みの痕跡を提示するのが今の僕に出来る事ですかね...という感じです。 (black)

2018-01-30

 語り手に色気がありますね。とか語弊を覚悟でいいますが、白犬さんの作品で明確に語り手を感じた事なかったように思います。どちらかというと三人称の文体に近い(そこに明確な登場人物が二人いて、彼らの関係を俯瞰しながら語る)ものだったのが、ここでは一人称みたいな感じがします。(無論、今までビーレビューの作品の中で一人称な作品ない訳じゃないと思うので、的外れなあれでしたらごめんなさい。。。)  個々の表現そのものに対して好感を持つ事は散々表明してきたと思うので、ここでわざわざ開陳しませんが、読んでて凄く白犬さんの声で再生されます。でも、ここにいる語り手はゴーストによる回想ですよね。語り手が30年前に死んでいる。その魂は事故現場に縛り付けられている。という前提を踏まえて読んでいくと、前半部分の読みの文脈が変化してきます。そこに僕はきらめきを感じます。  正直、コメントしきれないくらいに、語るべきポイントの沢山ある作品だと思います。もう少し時間かけて読み直したい作品ですが、他の皆さんの読みももうちょっと読んでみたいなぁ… (shepherd dog)

2018-01-30

個人的に、身につまされるような詩です。 あんまりここで言えないのですが、昔書いていた名前に掛かるような言葉があって、それがやけに自分の中に同化してくるんですね。 読んでから一週間くらい経つんですけど、感想が書けないです。 強い詩だとも言えるし、脆くて今にも壊れてしまいそうな詩だとも思います。 (元旦)

2018-01-30

多分これからの文学はSFが結構な部分を背負っていくと適当に思うんですね。というか、今までもそうだったので、これからはよりそうなっていくのかなと思います。(無論それによって忘れ去られる物も同時に保管していく必要はあると思います)新しいテクノロジーと倫理と、、、それは法律に置き換わるかもしれませんが、はおそらくセットとして扱われていくでしょうし、、、(ドラえもんなんかまさにそうですよね)という所で、やはり文学はそういう所で必要になってくるし、実際必要なので数あまたの名作が生まれるのだと思います。という所で考えていくと、僕はSF詩歓迎です。ガンガン書いてほしいと勝手に思っています。 という所で考えた時にこの詩は真正面から書いている所に好感を持ちます。突っ込みどころはあると思います。それは僕だって、ブレードランナーをこの間見たばかりだし、Cytus2に熱中している事なんかとなぞらえてなんか言いたいですが、だからどうしたという話でもあります。やはり、最初に切り込める人というのは偉大だと思います。 この詩に抱いた感想は、survofさんに近いです。この作品の凄い所は、短い文章の中で提言仕切っている事です。それを映画の予告風に書く事によって問題を分かりやすく整理しています。映画の本編については考えるしかないのですが、その考える作業こそ、まさに我々の宿題でもある訳ですよね。TEDなんか掘り起こすと沢山この話題は出てくると思いますが、そういう事を短くこの掲示板の上でやったという事に意義があると思います。 と同時に、今度はその提言の中身になるのかもしれませんが、ここら辺は、僕が勉強不足で何も言えないですね。一言だけ言えるのは、二分法敵な構造に捕らわれすぎているという事かもしれません。形と詩は常にともにあるものだと思いますが、シンギュラリティに纏わる問題は果たして二つにの問題に分けて考えられるのかという所だと思います。自分達の手に負えない知能を人間の味方につけなくてはならなくなった時に、どうするのかという所かもしれません。人間の考えを凌駕する存在に対して、そこに従来の人間的な思考で対抗できるのかという事をより考えていく必要があるのかなとは、読んでいて思いました。ここら辺まで来ると僕の宿題かもしれませんが。 (Singularity)

2018-01-30

面白かったというよりは、なんとなく色々思う事がありました。 四回繰り返す形は、まずは、季節を表します。春夏秋冬ですね。まずは多分一番表面的な変化の形を利用します。次に、物語のストーリーラインをここで全て語ってしまいます。分かりやすく、起承転結と言ってもいいかもしれません。それらを輪廻するように、あるいは振り返るような形で、あるいは内面に侵食するような形で、詩は語り手の心にフォーカスをあてていきます。そうですね今度は心象を四段階変化させる為にこの形を利用しています。もう少し細かくふれるならば、「色」を提示するんですが、最初に「清い」ときて次に「蒼」「紅」「白」とくるんですね。安直に、桜だからピンクだとか桃色だとかにならず「清き恋情」みたいな形で何かしらの感情に沿うような形で、色をあてている事が分かると思います。そういうきめ細かいグラデーションを織り込もうとしているのが分かります。 そして次に来るのが、その四つの変化を乗り越えた上で自分を振り返りつつ、自分を4方向から内省していくシーンです。つまり、ここから4段階の変化ではなくて、4っつの内面の解釈を提示していく方向にさしかわっていくんですね。 この詩の構造は{(4×2)(4×2)}+2の形になっています。前半部分は起承転結の形を取りながら読み手の語り手の内面世界の中に同化させていくような作りになっていて、後半部分は徐々に読み手を語り手の内面世界に引きずりこみながら、その中で内省を4回繰り返します。自問自答します。その答えを最後の連で起きます。4回繰り返します。更にダメ押しをするように最後に二回こういう結論を置くんですね。 >蒼き季節に、ほとんどの者たちが立ち止まる。 >そして、そのほとんどの者たちが、どんなに時間は過ぎても、そこで立ち止まったままなのだ。 > >まるで、時が止まったかのように、人は蒼き季節に憧れ続けている。 >蒼き季節とは、そんなものだ。 僕自身はあまり恋とかしないので、作品に例えて言ってしまうのですが、「蒼き季節」とあるので、僕の中では「あの日見た花の名前を僕たちは知らない」にとても似た感覚を思います。(OPも丁度「青い栞」なんです。なんか前にも言ったような気もしますが…)あの作品も夏が舞台で、やけに空が青いんですね。その中で主人公は小学校の時に亡くしたヒロインの女の子の事が原因で色々とあり、引き籠りになっちゃうんですが...みたいな話です。 ほとんどの者たちが、蒼き季節立ち止まったままなのかなぁ…ここら辺は難しいですね。 >蒼き季節は、ほとんどの者たちに何も与えない。 >そして、そのほとんどの者たちに、変えようのない喪失感を与える。 > >蒼き季節は、ほとんどの者たちに平等だ。 >そして、ほんのわずかな者たちに、かけがえのないものを授ける。 > >蒼き季節は、ほとんどの者たちが信じていた。 >そして、その信じていた者たちが、空っぽになった自分を鏡で見て、立ち尽くす。 > >蒼き季節は、ほとんどの者たちが立ち止まる。 >そして、ほんのわずかな者たちだけが、その充実のままに歩き出す。  この四つの文章が分かるような感じもするのですが、なんとなく分からんという感じです。多分色々な物が当てはまると思います。勝者と敗者、天才と凡人、貧富、運、無論恋愛でもあるし、小難しく言えば絶対と相対だとか、社会の縮図だとか、現実とか、学校と世間とか、色々な物事の差異が出始めてもう取返しのつかなくなるのが、青春であるという事。という感じでしょうか。  そこら辺が夏=蒼という形の連関が導き出されたギャップですよね。夏は暑いだけじゃないという物の見方、怜悧な一面も見せるというニュアンスを引き出していきます。 (BLUE)

2018-01-28

いやー、なんともレスしにくい作品だ! この作品を真面目に読もうとすると、なんだか「僕」になっちゃいそうで怖いしなぁ。僕も最初は変態さんの事を変態だと決めつけて素通りしようと思ったんだけど、出来なかったわけで、それが応援するまでになってしまっているという状況ですよね。僕もこの詩をギャグだと決めつけて読む子とで素通りしようとしたら、この作品の中に流れている色々な突っ込みポイント(いつのまにか僕が倒錯してしまっている所、変態の情報は「僕」による観察を通じてのみ開示されていく所とかね)があって、作りとしては真面目になっているというのか。。。とこのように、シンプルな作りでありながら奥が深いのだと、僕が言うとしたら、多分百均もまた外野からすると、「僕」みたく見られてしまうというかね。中々人を食ってしまうような作品だと思います。 話は少し逸れてしまうんですが、僕はホラーとしても読みました。なんというか、クネクネとかヒサルキみたいな洒落怖の小話を思い出します。基本的に乗っ取られる人側、つまり被害者側からああいう話って書かれないと思うんですが、本作の凄い所は「ゐやっほーう。ゐやっほーう。」によって僕が乗っ取られるまでを自然二書いちゃってる所だと思います。多分もう少ししたら僕も分析するのをやまてしまって「ゐやっほーう。ゐやっほーう。」と言いだし始めるような気がします。 (きみは変態)

2018-01-27

この詩は難しいですね。5回くらいレス、五回くらい書き直してるんですが、読みこぼしてしまいがちな詩だと思います。 この詩の難しい所は、具体的な行為の内容が書かれてないんですね。先回りしてどのようなサプライズをしたのか、その結果君からどのような意外な反応を受けて、その結果として、「並んで/一緒に/顔を見合わせて/驚くことだった」になるのかというのは想像するしかないわけですから。どのようにの部分は読み手側が補給するしかないので、その点、僕にはサプライズの経験が乏しくて、そのサプライズ、自分で言うのもなんですが、成功してしまったもんですからね。 サプライズって基本的には良いことだと思うんですよね。でも僕がその成功したサプライズを計画した時、反対意見もありまして、僕はある団体に属していまして、サプライズの対象にある子を選んだ訳ですが、その子以外もその団体で頑張っているのに、なんでその子だけ特別に祝わないといけないのかみたいな話になったんですね。それを聞いてなるほどと思い、結構ショックだった後日譚があるのですが、そういう構図をここに当てはめてみると僕としてはこのように本作を読んだ事になります。 多分僕と君の結婚記念日みたいなのがあったんですね。で、僕は君を驚かそうとして計画してたんですよ。でも君側からしても僕の事祝いたかった。でもサプライズっていうのは一方的な展開しか生まない訳ですよね。という事は同じタイミングで君が僕の事を祝おうとしていたら、どうなるでしょう。僕の方から先にサプライズされてしまったら、君は僕に感謝するしかなくなってしまいますよね。それは君からすると「私の僕に対する感謝の気持ちもある事を忘れないで」と言う話になるのかなぁと。 僕から君に、という関係で終わってしまうサプライズから僕⇔君への双方向性を持ったサプライズを君は提案しているのかなぁと思いました。 (喜んでもらいたくて)

2018-01-27

人間の本当の気持ちってなんだろうと僕は良く思います。色々な思いがマジで一人の人間には沢山あって、なんでそうなるのかというと、やっぱり自分の以外にも人間がいるからで、他に人間がいなければずっと死ぬまで一人であったら、世間なんか気にしなくていいし、一人で一生を初めて一生を終えられるんだろうと思います。そうしたら仮面なんかいらない訳で、他者の気持ちを慮る必要もない。他人がいるからこそ起きてしまう問題がある。 という事に拘りすぎてしまうと、例えば仮面がないと生きていけないような錯覚を自分の中に抱いてしまうわけですね。自分を偽る事によって、それは大人になることが我慢する事と同義であるように、と、我慢の矛先を間違えてしまう。塚本さんが朗読によって本作を読み上げ投稿する意義はそこにあります。塚本さんの生き方の実践が、カオティクルさんの言葉を借りれば、この詩の言葉をエールに換えるんですね。 簡単な言葉で言ってしまえば、誰かと一緒に生きるという事の捉え方を反転させるという事ですね。他人を馬鹿にして生きるのではなく、自分の中の馬鹿をさらけ出して共に生きるという事。人を上から蹴落とすのではなく、共に堂々と下から這い上がっていくという魂の実践です。 僕の父は良く出来た人なんですが、それは僕から見た時の出来た人で多分僕には父という仮面しか見せてくれなかったので、僕はその仮面の姿を永遠と追い続けていたのですね。父もとにかく人を馬鹿にする人で隣の家を良くやり玉に挙げていました。あのような人間になるなが説教の基本でしたし、でも父の生の部分は本当に教えてくれないし、見せてもくれませんでした。 丁度三島由紀夫『金閣寺』を僕は最近がっつり読んだんですが、主人公は色々世間に追い詰められて最後金閣寺燃やしてしまうんですね。ため込むとそうなってしまうと思います。燃やすのはやっぱりアカンし、燃やした所で主人公は救われません。それは人を殺す事と同じだと思います。だからと言って他人が世間がなくなる訳ではないからです。 自分がどのような仮面を被ってきて生きてきたのか、もしくはそうせざるを得なかったのか、みたいなのが告白出来るようになれれば本当に良いですよね。仮面を派外すのは、僕としては後天的に頑張って身につけてきた所無い訳じゃないので、外すのとんでもなく怖いですが、(ない世界で世間生きるのって怖いですから)表現者たるもの故にそうであれと思いました。 (スカルブレイン)

2018-01-24

なんというかコメント欄が凄くてですね、、、重複を前提として言える事ですが、kaz.さんの作品をそこそこ読んできてずっと思うのは、固有名詞の解釈どうすればええんやろなみたいな事でした。僕はそれらの言葉を知らないし、そういうものを読みの中でどういう風に溶かしていけばいいんだろうみたいな事を思いながら、その結果として、詩の表面の部分しか受け取れなかったような面があります。そこら辺の距離感がここでは、最初の蝉の羽の所を読んで、僕が読むときに抱いてしまう緊張感がなくなり、少しだけ解消されたかのように思います。 その結果、僕にとって本作は少しだけ読めたような気がしました。取りあえず今の所はもうちょっと他の方の読みが聞きたいですね。 (瞼の彩り)

2018-01-24

めちゃくちゃ好きですね。 記憶は真分数で、「真」分数は分子よりも分母の方が大きい数で、「仮」分数になると、分子よりも分母の方が大きくなる。真分数よりの記憶というのは、分母を記憶の総体として見た時、自分が表出できる分子はいつも真分数よりも小さくて、それはTwitterの140字という分母を分子は超えられないというような感じで、その境目としての(/)という翅があるみたいな所ですかね。翅は二枚セットで、「羽」支えているのは「/」という棒、そして分母の解釈の自然数になぞられる事によって、先が見えないけど、分子の方は多分自分の目の前にある物事なんだろうなっていう事を思うとここにある「1」の重たさというのは >自然対数を >箱詰めした >翅脈の >鼓動を感じる 鼓動なんだろうと。思います。次の話も振れたいのですが、取りあえず、読んで考えた結果このように僕は読みましたという答えだけおいておきます。 (……からの、)

2018-01-23

コメント移植しました。(遅れてしまってすいません) 宜しくお願いいたします。 (……からの、)

2018-01-04

三浦⌘∂admin∂⌘果実 (2018-01-01): 投稿ありがとうございます。数学的日記風といえばよいのでしょうか。なんか、面白いです。一旦上げてみたいと思います。 kaz. (2018-01-01): 三浦様、ありがとうございます。 こういう実験的なことができるのは、詩の醍醐味ではあります。 5or6(ゴロちゃん。) (2018-01-01): そろそろ小説書こうとしたら詩になっていた。みたいな自然体を醸し出した詩も読みたいと思いました。 kaz. (2018-01-02): ゴロちゃん、どうもありがとう。 小説を書くのは、綿密な取材が必要なので私は小説と詩を切り離して考えています。 (……からの、)

2018-01-04

5or6(ゴロちゃん。)さん >鉄棒とエッチしている。 > >この詩情を切なく表現したらキュンとするかな。 >逆上がりのひっくり返った世界。 >一人きりの革命ですね。 色々レス頂いてから考えたのですが、最近思うのは直接的な言葉はやっぱり面白くないですね。無駄に高級である必要はないのですが、使うべきタイミングや場所は考える必要があると思いました。やってる事は逆上がりなのですが、それが大きく描けていたのなら本望です。端的で且つ嬉しいレスを、ありがとうございます。 (世界)

2017-12-28

●田中修子さん 再レスありがとうございます。 >いえいえ、私もまだまだ「削っていく勇気」もないし「読んでもらいたい」より「書かねばならぬ」ところが多い人間ですよ~。 >恩師からの受け売りの言葉も多数です。人のあら、人のいいところは良く見えるんだなぁ~と。 > >詩なり童話なりまたほかの言葉の分野で、私がプロかセミプロになったら「追いつきたい」とおっしゃってください。 > >たぶん、私自身の作品に対しての言葉かけでもあったのだと思います。書き続けましょうね!! なんだか、そのまま引用する他ないのですが、僕にとっての師匠は本当にこの場所で色々な方からレスもらって勉強になったり、させられたりなのだなと思いました。僕はプロもセミプロも関係なく、田中さんの言葉に動揺しました。そして勉強になりました。僕も頑張って書き続けます。つたないレスで申し訳ありませんが、本当にありがとうございます。 ●渚鳥 sさん >だくだくと流れている川から跳ねた魚のかげを捕らえるような……、一瞬のシャッターチャンスを見逃さないとでもいうような、作者さんの精神の力・それから目の良さを感じた部分でした。 ありがとうございます。なんというか、この一行捕まえるのも大変だったのですが、捕まえた後も大変で、捕まえたはいいけどどうしようみたいな感じでした。こいつには本当に色々悩まされたのですが、しかし、予想以上に沢山レス頂けて本当に嬉しいというかありがたいというか悔しいというか。この目を鍛えていきたいし、シャッターチャンスもっと増やしてゲットしていきたいと思いました。 ●Migikataさん >みずいろの薔薇を簪にして >宝石にしてしまえばよかった ここなんですが、発想の大本は間違いなく湯煙さんのミネラルショップで、そこで鯨の耳石が宝石と同じ感じで店の中に並べられるみたいな始まり方をするんですが、そこから水色の薔薇でも簪の飾りにしてしまえば宝石と同じにならないかなぁみたいな感じです。それでこの二行が出来たのは、そういうものの集積がふっと湧き出したような感じで、要するに崩せなかった。推敲出来ませんでした。この形をリファイン出来なかったのは、僕の力不足でもあり、詩を書き始めてからの課題なのですが、この先どうしたらいいか分からんのですよね。 >確かにありふれたフレーズを使っているようになってる思えますが、そもそも詩を書くということ自体がありふれたことなのかも。それが自覚できてなお書くことが大切なことだと最近思うのです。 意味するところ中々難しいですね。色々考えたのですが僕にとって書くという行為は、生存戦略の一部みたいな物で、大体忙しくなったときにぼろっと出す事によって僕が生きながらえる事の出来る一つの方法、謂わばライフハックに近い、みたいな感じです。排泄行為よりは吐瀉物に近い。エクリチュールは排泄物に近くて、パロールは吐瀉物に近いよねみたいな話をなかたつさんとかとした事があるのですが、僕の場合はパロール的な吐瀉物が偶々宝石の様な形で出てきたが、排泄物のように固まってなかったので、削る事が出来なかったという事です。そういう文脈で考えていくと、僕の方向せいは日常から乖離している。頻繁に人間はそう吐かないからです。しかし、うんこは毎日出す。そっちは当たり前じゃないのかと思うのですが、どうでしょうか。僕の知り合いの映画監督の周辺はうんこを飾る立てる派だと言ってましたが、中々難しいですね。 (らふか)

2017-12-28

●まりもさん ずっと返信考えていたのですが、今言えるのは、白旗という感じで。そこまで読まれてしまうのかという悔しさが目立って、本当に何も返せませんでした。正直僕が薄ら思っていたけれども、自身の感覚に浸す内に目を背けてしまった物全てから銃口を向けられた気分で、それはレスを頂く身としては、骨身に沁みる程ありがたい事だと思っています。レスを自分で書けば書くほど、まりもさんのレスには勉強させられます。本当にありがとうございます。 色々白状してしまえば、本作はB-REVIEWで読んできた作品を僕なりに咀嚼した返詩みたいな物だと思っています。まりもさんの詩から水のイメージを滅茶苦茶勉強しましたし、一行目は、右肩さんへの返レスに被ってしまいますが、湯煙さんの影響を受けているし、作品の構造はfiorinaさんの山頭火の詩から多分着想を受けている。肉と骨の話は間違いなく白島さんの詩から影響されているし、そういう諸々を引き継ぎながら、それ以外の事を書こうとして迷いながら書いたのが、行き着いたのが、最終的に人間の赤ちゃんの話だった。それまでのシチューとかの話は僕が昔ネット上に作った詩集の名前にシチューを入れていたという理由が始まりのイメージで、そこから、解釈される事を離れて、この作品を書いた理由やきっかけの所の話をしてしまえば僕の都合がかなり入っています。という事しか言えません。 問題なのはその部分を自分で統御出来ないという事です。これでも数ヶ月書くのかかりました。しかし、推敲は本当に難しくて、そうやって生み出した自分の感覚に論理を沿わせる事が出来ない。色々やったはいいのですが、結果的に一連目で全て終わってしまっている。結果的に偶発的に生み出された言葉に、自分が後天的に勉強してきた言葉を付き添わせる事が出来ない以上、後はオチをどこにつけるかさまようように書いている自分しか残りません。 これがどこまで何が書けているのかも自分でよく分かっていない。そういう物を読ませてしまう戸惑いと、それでも何か達成出来たかのような気持ちにもまれながら、投稿しました。…という長い言い訳で、申し訳ないです。でもそれぐらい言われて悔しかったです。もっと書けるようになりたい。僕が思ったのはただ、そういう思いです。頑張ります。 (らふか)

2017-12-28

 正直挟める言葉がないのですが(コメント欄が恐ろしい程充実している)、僕なりに言える事と言えば、浪人時代に沢山文化人類学の文章を現代文の授業で読まされた事です。アフリカとかアメリカの話は沢山読みました。本当に色々な話を読んだので、ここに書こうと思ったり、いやいやと思いながら書くのをやめたりと、何度か繰り返しているのですが、しかしながらそれでも尚思うのは、僕が読んだ話よりも本作は短く、僕が書こうとしている例え話よりも短く、そして凄いのは色々大切に考えなくてはならない事がギッシリ詰まっていると思いました。どのセンテンスも無駄がありません。  例えば僕が同じような体験をして、同じような事を書こうとしたとき、書けるだろうかという想像は愚かだと思いますが、しかし、ああ、一度書いてみたい物だと思わされました。 ( 楢山節考※)

2017-12-28

カックイイなぁ。アラメルモさんにおいしい所全部もってかれているし、特段僕から言える事ないですね。ただ、ファンであるという事しかいえない。上手い下手ではなく「好き」で、作家性を帯びていますね。心の臓に言葉がしみてきますね。解釈を書きすぎて疲れた夜なので、イメージに唯々浸れるのか心地いいだけかもしれないのですが。一度でいいから書いてみたいなぁ。 (虚ろが新宿のユメを彷徨う)

2017-12-28

葉っぱになった気分みたいな感じかなぁ。語り手の視線がどこに同化していて何を見ているのか、上手く想像できると面白いかもしれません。落ちたいとかそういう所から果物の実のイメージかもしれません。何かしらの比喩である感じが伝わってくるのですが、どういう物に委ねて読んでいけば良いのか、あるいは体感していけばいいのかという所で解釈は開かれていますが、逆に解釈の余地が狭い作品かなとも言えそうです。 (目を閉じると)

2017-12-28

普通の文章だったら、間違いなく「僕」を弾くと思います。日本語は、主語をある程度弾いても色々修正が効く側面があるからです。つまり、この作品の僕っていうのは本来の日常の会話などにおいては不要な訳ですよね。でも、ここではそういう普段は切り捨てられる「主張」が浮き彫りになっていて、だから強く感じてしまう。適当な文化論から引っ張ってきた様な物言いで申し訳ないのですが、日本人は主張が苦手だと言ったときに。多分主語をわざわざ付けて話す事がない。みたいな所から考えていっても面白いかもしれません。 僕の連呼は、僕にとっては省略に見えました。きっとその間には様々な願望が描かれているに違いありません。しかし本作は、そんな内容などどうでもよくて、「僕」の方に目をむけています。 「僕僕僕」の間に挟まれた言葉を浮き彫りにした時、例えば「公園のトイレをもっときれいにしてほしい」と言った時、「公園のトイレがきれいになれば、みんなもっと気軽に使いやすくなる」という意識の方が先行すると思うんですが、「私が使いたいので、公園のトイレをもっときれにしてほしい」となると、「私が公園のトイレを使いたい時にきれいであって欲しい」みたいな気持ちが先行スル感じがするというのかっていう所ですよね。主語を出さないと、自分の中にある主張が隠れてしまって、述語の果たす役割の方に目が行ってしまいがちなのですが、そこで主語だけを抜き出してみると。願いの発信源が途端に自分になってしまうという感じです。ここら辺が日常の中で隠されている感じが面白い。 簡単に言ってしまえば「あたなの為に」として発した言葉が「自分だったこうする」みたいな願望を形だけ反転させた言葉になってしまう感じですかね。この言葉は気を使っているようで、実は発話者の方がその場をコントロールしようとしている、という事に過ぎないという感じです。 (僕)

2017-12-28

白旗で、正直コメントしようが無いですが、もう十回は読み返すくらい好きです。しかし、言葉に出来ない感慨ですね。ジョンビのように何度も音が生まれ変わる? 死なないのか? それとも眠れないのか、 >今日も生贄が生まれる、ハッピイィ・エェンドの夢はまだまだ遠そうだ、 >スパゲッティイ・モンスタアァ観ながら、 >ジョンビ! 火の祭り、後の祭り・・車道はもう蒸気、 >三半規管を滅茶苦茶にすることもできないまま、 >―――点と線、扉、入り口と出口、無限と有限、 >夢によって変形されてゆく発音、 >したたかな愛、雑多な要素の中で培われてゆく生命ゲエェム! >裏通りのシャドウゥボクシイィング。 >誘惑の危険。 >対称性。 >また始まる鏡像、強迫観念。 >泥酔から醒めないままハンドル握って、 >身体に孔をあけて、叫び声と婚姻する、 >この街はすべてを思い出させてくれる、 >もっとエンジン、人参! >君もその内部の同じ領域の一部だ、 >一部―――だ・・。  ここが好きだ。でも、なぜ好きで、何をどのように僕は本作から受け取ったのか言葉に出来ません。理解出来そうな所と出来る所の境目で脳がデッドレースを繰り返しているような感覚です。 (ジョンビ)

2017-12-28

アイドルが落ちぶれるのを見る男の詩、みたいな感じで読みました。 >あなたはきれいな人だから >つくりものみたいにきれいな人だから 「きれい」という言葉をここでは「つくりものみたいにきれい」と仮定しています。その具体例は >AM5:02の雪より >らむねのびんに沈む月より >あなたはきれいな人だから こうなってて、これよりも綺麗だって言っている。雪も月も、このように形容されれば普通は綺麗なイメージとして受容される訳だけれども、まぁこういう物は殆ど創作物の中にしか現れない、作られた言葉、綺麗さ美しさであることは間違いないでしょう。それらよりも「きれい」だという事。 でもそういう「つくられたきれい」が割れるわけですね。 >がらすの魚が >りんりんと音をたてて飛んで >星になれずに割れたって つまり、作り物みたいな美女なあなたが底にいると仮定しますが、そこのはアイドルか女優か知りませんがスターになりきれなかった。そこから零落していく感じが以下の描写で、 >そのほそい手足のむかう先 >蹴立てた灰が肌を裂いたって >白いスカアトひるがえし >次々と >ツギツギト >世界をきれいにかきまぜるのでしょう >たがらぼくは >あなたの散らしたかけらが突き刺さらぬように >息をひそめてまつのです > >あなたがきれいでなくなるまで あなたが綺麗でなくなる、という事は作り物のきれいさ、虚構的な「きれい」が引き裂かれた、生身の人間の部分が剥き出しになった瞬間の事かなと思いました。それまで我慢していた事を蹴立てて台無しにして、灰を被ろうが、スカートがめくれようが、かまいなく暴れる。そうしてダメになった隙につけ込むのが語り手みたいな感じで、単純に嫌な奴だなという感じがします。でも、この場合生身のあなたの方に早く戻って欲しいという願望があるとも限らないので、中々難しいですね。語り手があなたを見守る視線は提示されますが、気持ちの部分、所謂解釈の部分は書かれていないし、それこそ作り物みたいにきれいに隠されている、という感じがします。 (きれいな人)

2017-12-28

基本的に語り手は明日を見ていて、多分毎日がつらいのかなぁと、だから日々を生きる為に明日の目標を立てる事によって、日中を乗り越えてなんとか寝る。そして起きて、明日の目標をセットするみたいな感じかな。だから一連目は日中の話、二連目は夜から次の朝、《生きろ》という決意というか強い命令を下す、三連目(最終行)は次の日の日中みたいな感じかなぁ。 全体的に自己暗示みたいな感じがします。「なる」「なれる」から始まり、食べたいという風に繋がっていくのは、どうなんだろうな。この場合は達成出来たかどうかというのよりは日々の気持ちの持ち方、持ち様に過ぎないのかもしれません。 (陽だまりと常、流れ)

2017-12-28

始まりの水槽は家庭、田舎な地元のイメージとして取りました。何も無い田舎(島)から、都会(海)に飛び出していく感じ。でも飛び出した先で色々な物と出会い、感動したのだと思いますが、しかし、水槽という枠の中で生まれ育った自分は海に飛び出した所で水槽の中から出ていた訳でもなく、出られるような才能を持っていないという事に気がつくだけだった。それは自分の魂に刻まれた「我が家の暗い部屋からまんじりとも動いて居ない静止した精神と脳という牢獄」であって、自分はそこですら溺れていたのに、そこから外に出た先にある大きな海で泳げる筈もなかった。という感じがしました。ファインディング・ニモなんかのストーリーに当てはめて読んでみると大変さが分かるかも知れません。 アスファルトを海に換えて、飛び出していくけれども、水槽というのは外的な比喩だけではなく、内的な比喩でもあった。内側に抱えた水槽は爆弾みたいに心から外す事は出来ない。という限界が見えたのが個人的には共感を覚えました。つまり、地元を離れたからといって、何かが変わる訳じゃ無くて、結局の所自分の心根が変わらないと意味が無い。みたいな感じかなぁ。 (眠れなかった時代)

2017-12-28

意識的に書かれた文章というよりは、自分の中に眠っている無意識を自動筆記的に抉りだそうとしている作品だと思います。書く事というのは、外的な要素を孕んだ物でもありますが、内省的な文章に限っていえば「自分」という内部回路を剥き出しにしようとする事なのかなと思います。加藤典洋『テクストから遠く離れて』今読んでいる所なのですが、こういう文言が出てきます。 >人がある作品を書くという場合、そこでの執筆動機は彼自身にも十分にはっきりとはしていないのがふつうである。彼は、書くことを通じてそれを自分で確認していく。なぜ書くという行為が、それを自分に対してもはっきりさせる契機になるかと言えば、書くという行為の中にいわゆる作者(主体)の意図なるもの、もっと言うなら考えることそれ自体に対する抵抗の要素があるからである。…(中略)… その抵抗物との交渉の中で、自分の脳裏の「意=動機」が、「モノ」となって現れる、両者の間には当然差異がある、その「ズレ」を通じ、自分の欲していたものが何であるかが、彼自身に対し、明らかになってくるのである。 なぜ作中で人を殺すのかという事に十一歳の語り手が気がつくというのが、本作の構造なのかなと思います。それは作中に登場する人物、或いは土地を逆転させたからと言って、それは作者による些細な抵抗に過ぎない訳です。 本作の場合は色々交渉しまくったんだろうなっていう痕跡が沢山あって、どんどん登場人物も変わっていって、いつの間にか父親を殺してしまっている。それが語り手の父の姿に投影され、更には最初殺人から始まった物語が最終的に母親の方に向いてしまって、 >「だとしたら私は、きっと、人殺しもしたんだ」 人殺し「も」という風に気がついてします。父を殺した事よりも母親の方に目が向いてしまっているし、そして自分は自分が無意識の内に思う事しか書く事が出来ないという事に気がつく。自分がいくら抵抗した所で、書いた物は父を殺してしまうし、母を求めているし、それが祈りなのだと、気がつく事しかできない。 (方眼用紙)

2017-12-28

ものすごく丁寧な語りなんですが、空白が多いですね。そしてイメージの組み合わせの独特な空気から、場面の展開を小刻みに繰り返しながら「人間」を知る。掴み所がなくて、炎の女の比喩が色めきだちながら、しかしそれは地下道の幻影に過ぎない。そこに鳴り響く小石の音のようにみたいな感じかなぁ。全体的に身近な事について語っているような気がしますが、独特の距離感を持っていて、作品にどうやって触れていくべきかという所で、上手く言葉が出てこない。良い悪いではなく、言及する前に逃げていってしまうような感覚でしょうか。もう少し他の方のレスが読みたいなぁ。 (男の地下道の中心音)

2017-12-28

あんまりレスしたくない作品です(僕の場合は、多分僕が友で、わたしは父親な感じがします。そういう感じがします。)なんというか、本作を俯瞰して語る事が出来ないし、そういう語りが本作に必要かと言われるとそうではないと思います。執拗に友を呼ぶ声が悲しいですが、友の方から、本作の中で語り手に何か呼びかけられる事は一切ない。切ないですね。友は端的にドクズだと思いますが、それでもやめられないし、止まらないみたいな感じが生々しいですね。語り手の友達だったら、間違いなくもう付き合うのやめとけって言いそうになる。そういう意味でキャラクターが立っていて、作品の中に明確な人の気配を感じます。 (求愛)

2017-12-27

>月は微光を放ち 夜を照らす >対向車のライトは眼を刺す >おれを捉えはしない >気休めのように立つ街灯だけが >おれを鮮明にさせるが >それも過ぎさり >闇に融けてしまった 光の視線の組み込み方が巧みですね。この短いフレーズの中に三つ出てくるし、その意味合いも役割も異なるし、非常に面白いです。月は全てを平等に、公正に照らす明かりなので、優しいというよりは、ありのままの光。車のライトは目の前にある物だけを直線的に照らす明かりで、そこに映る物は単なる邪魔物に過ぎないから目を刺される光。街頭は道行く人を照らす明かりだけど、一緒に付いてきてはくれないから、その場限りの優しさという仕事を持った光。みたいな感じで、それらが最終的に闇に溶けて言ってしまうというのは、なるほどと思わされました。この光を提示する順番も心地よいです。 >穴底から見上げるように星を視る >闇が濃度を増すにつれ >一点の光は存在を増す >一方通行の視認だ 更に凄いのが、そこから星を見上げる事によって、照らされる光(は眩しくて見れない)ではなく、視認出来る光という方向に変えていく。ここから光を自分は求めている、という希求に繋がっていく。 断片的な印象は否めませんが、しかしながら、面白かったです。僕はこんな風に書けない。 (歩く)

2017-12-27

>こたつの中では歴史が燃えてた >ツリーの飾りに人工流星 >銀ピカ世界に映るのは知らない誰か >意地悪な重力に疲れ果てた顔してる  メチャクチャいいですね。怖いくらいだ。僕、今一ヶ月ぶりくらいにこたつでぬくぬくしてるんですが、歴史が燃えちゃったヨーみたいな感じで、たまげました。すさまじくいいです。 (クリスマスから飛び出して)

2017-12-27

サンタクロースはなぜ殺されなければならないのか、というのは難しい所ですね。この場合は世界を飽和する幻想であるサンタクロースを一個人が殺してしまう所がミソなのかなぁと思いました。でも、殺したのはサンタクロース本人ではなく、サンタの格好をした人であって、結局の所一人の人間が一人の人間を殺してしまった、という事実だけが残り、後果たせなかった事は全て八つ当たりの様に、現実世界に反映されてしまうという感じをおもいました。 (泡)

2017-12-27

僕自身俳句を読まないので、上手く言葉に出来ないのですが、置いてけぼりにされそうな空白がありますね。最近、そういう感情を余韻だという事に気がついたのですが、殴られた後の余韻がビリビリきますね。自由律だからかもしれませんが。もう少し、俳句を嗜んでいる方の感想も聞いてみたい。 (四季)

2017-12-27

クリスマスの詩、と取りあえず言ってしまうとBーREVIEWの中で(仮)規定してしまうと、文化というのは人間が二人以上いないと、多分殆ど意味ない感じもしますよね。ここの語り手から、人間を差し引いた結果祈るべき対象も、祈られる対象もなく、ただ供物だけがそこに残るみたいな感じがします。(インスタ映えも、フォロワーがいるから成立する) (口実)

2017-12-27

メチャクチャいいですね。作品と僕の間に明確な壁を感じます。僕の方から物語に干渉することを拒まれているというよりは、そもそも干渉出来ない感じがします。こういうドライさの中に拒否感が混じらず、明確な溝というのか、境界線を感じる感覚が面白いと思いました。 > 遺されたのは、雪の上に引きずられた様な無数の線状の跡だけです。 >そして雪が降り、この日の事は誰も知る事はありませんでした。 僕はここに書かれた事知っている訳ですよね。でも、語り手は知らないって言う。この秘密の共有だと思いながら読んでいた読み手は、そもそもこの物語の中にいないと言われている。事実の痕跡から想像するしかない人間達と同じ立場だと言い渡される感じですかね。ある意味読み手を特別扱いしてない。 (フィラデルフィアの夜に Ⅳ)

2017-12-27

「こちら、幸福安心委員会です」という曲が五年くらい前にネットに上がって、「幸福なのは義務なんです」みたいなフレーズがサビに来るんですが、なんであんなにはやったのかよく分からんのですけど、僕も何回か下らんと思いながら聞いていました。 結局の所「幸福」とは何か、どうやったら幸せになれるのか、というのは中々難しい話だとは思います。つまり、絶対的な幸福と、相対的な幸福が存在すると仮定したとき(それは内的、外的としてもいいと思いますが)絶対的な物は内側にあるわけですから、それを追求していけばいい。例えばこの人と一緒にいれるだけで幸せだ。自分の好きな事を死ぬまでやり続ける事が出来るとか。問題なのはそういう物のない相対的な幸福であって、誰かと自分を比べた時に、自分が幸せであるという事に対して申し訳なくなってくるみたいな感じかなぁと思いました。でも。最終的には幸せの重さを比べる事も出来ないし、自分が今生きている境遇の中で、今の自分に押しつけられた幸福/降「服」を享受してやっていくしかない。でもモヤモヤは残るみたいな感じかなぁと思いました。 (誰もが幸福してる)

2017-12-27

 なんとも切実なのですが、笑っちゃういますね。ある朝飽きたら考える人が便器に座っていたとか、便器ってそもそもが面白くて色々な便器があるのですが、ここでは金魚釣りの為の生け簀みたくなっている。発想が面白いと思いました。なぜ便所なのか、という所を考えていくと、テクストから離れてしまうのですが、それはそれでなにかしたの意味が浮上していくるテーマであると思うし、少し他の方の感想も聞いてみたいなぁ。 >わかってる あなた 疲れている >でも もしなにか釣れたら どうするの たべるの  男は多分疲れていて、だから便所で金魚を釣るみたいな行為をしているんだ、と思いつつも、実際に何か釣れそうな気配が、語り手にも感じられるくらいに真剣な感じなのかなという空気が伝わってきます。馬鹿にしつつも、その深刻さに対して頑張って向き合おうみたいな感じがします。なんというか、ユーモアもバランスがいいなぁと思いました。 >便器のおくから金魚でもいいから >とびだして 彼の釣り針に >食いつきますように と >わたしもいのれば >いいんだろうか   「わたしもいのれば/いいんだろうか」相手の狂言に乗っかってあげる事によって男の事態は多分救われる訳では無いのですが、ここで金魚が釣れたら多分男は救われるのかなぁと思いました。ゼルダの伝説BOWのアマゾンレビューの中で、 >所謂リーマンと呼ばれる社会人です。 >通勤ラッシュに揉まれ、顧客にも上司にも頭下げ、 >後輩の育成押し付けられて色々やってる内に連日残業。 >通勤途中で見える、名前も知らない山にもイラっとする。 >フラフラで帰ってきたらメシ食う力も無く、酒飲んで寝る。 >ゲームする時間あるなら、セミナー行ったり婚活しないとと、無駄に焦る。 >俺なんで生きてんだろと素で思う日々。 > >切れた酒買いに行った日に見たSwitch店頭販売で思い出した。 >子供の頃マリオ64にドハマリしてた頃に、 >「今時マリオとかだっせ!PSだろ」 >と友人に言われ恥ずかしく思った事。 >あの時俺は友達に嫌われたくない一心で、 >「確かにもうマリオは古いよな!」と返した事も。 > >あの当時のFF7の美しさと、CDをテレビで聞けるという衝撃は、 >今の子には分からない感覚かもしれない。 >それだけ当時の子供には魅力的で革新的だった。 > >何故あの時Switchを手に取ったか今でもよくわからない。 >ただビール片手に、つまらなければ売ればいいと思って本体とゼルダを購入した。 > >出勤日だった昨日、電車の窓から見えた名前も知らない山を見て、 >「登れそう」と思った瞬間、涙が溢れて止まらなかった。 >傍にいた同世代のリーマン達には「なんだコイツ」と思われた事だろう。 少し飛躍が激しいかもしれませんが、ゼルダのゲームで山を登れる事と、便器の中で金魚が釣れる事には同じ意味があるのかなと思いました。便所は多分社会の中において、一人でのんびり出来る時間なので、僕にとっては勉強や親から逃げる為の場所であり、そしてゲームをする場所だったのですが、この男の場合、例えば毎日便器に入る度に新しい金魚や魚がいて、誰にも邪魔されない場所で(釣り、という行為は時間がかかるわけだし、寧ろかけて釣っていいので日常の生活とは方向性の違う時間が流れる)釣る事が出来る。 という事を僕は思ったけど、それを眺めている語り手からすれば、訳の分からない話なので、フォローのしようがない。その男が発しているメタファーに気がついていない。ゼルダのレビューに合わせれば「なんだコイツ」みたいな感じ。この二人の間にある谷は埋まらない様な気もしますし、分からんですね。最終的に、僕は自分の書いている詩の事も思いましたし、中々難しいですね。 (平日)

2017-12-27

好きですね。凄く読みやすい。でも僕がコメント出来る事もない。それは悪い意味ではなく、僕の言葉は本作の言葉より貧弱だと思わされたからなんですが。英雄になぞられているのも、ある意味ベターですが、そういうイメージを借りながらも最後の帰結の部分、 >行けよ話の最後をつけに >泣いても戻らないけど忘れられない >絶望が希望へ 光を放ちつつ替わる >全ての愛を身に受けた >時の進行の中で輪郭が掠れていく >伝えてくれと頼まれた >ほかの誰にも言われたことがないことを メチャクチャかっこいいです。 (罪を一人だけで背負って)

2017-12-27

妥協、つまりちゃんとクリスマスをやるという事、それは、誰かをどのように祝うかで、大切な人であればあるほど、多分色々準備して祝たい。でも祝う方というのは準備をしなければいけないので、どこかで妥協しないといけない。でも肝心なのは、大切な誰かと一緒にいる、いたいという気持ちや、時間(キャンドル)だよね。という、心の部分を忘れてはいけないみたいな感じを思いました。雪のように言葉、が夜空を駆けていくのか降り注いでいくのか、喧噪なのか、祝おうとしてあくせくしている人なのか、みたいな所も良かったです。 (ホーリー)

2017-12-27

 コメントをずっと考えていたのですが、結果的に何も言えないなぁと思いました。それは悪い意味ではなく、完成されていると思ったからです。何か付け加える事のない作品「クリスマスに一人で過ごすのはさみしいし、そのさみしさを紛らわす事の出来ないくらいに自分が子供である」そういう感じが、どこも途切れる事なく伝わってくる。という事だけが僕には感じ取れます。そこから先、何か言えるかというと、Migikataさんのコメントに大体収斂されてしまうような気がします。でも前回コメントした時、申し訳ないのですが失敗したとも同時に思っているので、難しいですね。他の方のコメントもう少し見てみたいなぁ。 (雨の聖夜)

2017-12-27

単純にいいですね。 周りの人間はどんどん偉くなっていく、それは社会的にという感じでもあるだろうし、あるいは作品が認められたりだとか、もしくはそういうの関係なく、人間として成長していく感じか。そこに通勤のイメージが被さり、「頭が真っ白になる」という言葉に色々なイメージを付けているけれども「借り物競走」がとてもいい。誰かに助けを求める人と、自分は手を上げられる人間かどうか分からないというギリギリの構図ですかね。煤を綺麗にする事が出来るか出来ないか、という決意をする事が同時に頭を真っ白にする。そこを超えなければ階段を上る事は出来ないのにみたいな感じで、なんというか僕がB-REVIEWに参加する時の気持ちを思い出しました。 (朝、階段で。)

2017-12-27

 読んで思ったのはむかつくでした。上から目線で何いっとんじゃゴラみたいな感じです。多分、僕自身が僕の事を語り、知る事の段階にいるからかもしれませんが、人間を俯瞰する物言いは中々イラッときます。というのが本音ですが、それでも書いてあることに共感、あるいは同意を覚える感覚も無いわけではなく、また言われてそうかもしれないと思う部分も無い訳ではないので、何も言い返せない子供みたいな気分です。どういう所をそう思うのか、書こうと思えば多分一杯書けるし、突っ込みも同じくらい出来ると思います。「恐ろしい」事と、「恐れるな」という忠告? 「破局」のイメージと「その時」のイメージとか。あるいは、君と語り手の関係でもいいし、あるいは海と言葉についての関係、もしくはイメージでもいいかもしれない。生と死についてかもしれない。後は、一緒に死ぬ事と元気を出す事とかでもいいし、結局の所、むかつくけど無視出来ないなというの感じでもありますが、それでも手首を切らない方向で語るしかないというのか。それでも語り手は手首を掴んで切らせてくれないので、離せやおっさんという感じでもあります。 (海辺で語るべきこと)

2017-12-27

るるりらさん 返事遅くなってしまい、申し訳ありません。見返していたら気がつきましたので、遅くなりましたが返信させてください。 >うなだれている詩は そうでない詩より >地面が近くて いいなあと 思いました。こんな うなだれぎみの詩がかける方は 共感力の高い方、よりそう気持ちのあるかたような気がしました。  こういう風に言って下さって、嬉しいです。うなだれ気味の詩は、多分大体ダメだダメだと言われ気味じゃないのかと僕はなんとなく思っているし、自分でも良く思ってしまいます。でも、そういう詩なら寄り添えるだろうと言う所もあるのかなと思いながら、これを書いていた時期は特にそう思っていたかもしれません(今もそうかもしれません)。そう、地面に近くありたかった。もしくは、地面に近くあらざるを得なかったというのか。逆上がり、僕も出来ない人間だったので、出来ない人の詩というか、才能のない場所から書ける物を書いたつもりです。そういう物が、何かしらの感慨を生んだのであれば、本当に嬉しいです。 ありがとうございました。 (世界)

2017-12-22

蛾兆ボルカさん レスありがとうございます。 多分、B-REVIEWの影響とか色々水に纏わる話を沢山聞く影響が大きいのかなと思うのですが、水のモチーフは本当に色々な所に出てくる一方、なんで水をここまで使うのかみたいな事をよく考えます。その中で、色々な物にもまれながらこの詩を書いたと思うのですが、僕は物を書く時に多分そこに描くモチーフをメタ化したい欲求があるのではないかと蛾兆さんのレスを読んで思いました。 >波紋のような図を鉤括弧で示し、少しづつ、水を語ってゆく。音楽も波紋であることが、腑に落ちました。 また、給水塔の穴からの小さな虹と水を視覚や触覚に感じ、それが展開して、無限定の巨大な水への感覚を呼び起こされます。 なんで括弧書きを頭に置いたのか、給水塔のイメージを持ちだして、音楽というタイトルを付けたのか、虹を出したのか、自分で気がついていない所を気づかされました。前に、kaz.さんから、誰かの書物を通じて「水という思想」という言葉をもらったのですが、僕なりの回答がこれなのかなぁと思いました。 (音楽)

2017-12-22

●三浦果実さん レスありがとう! なんか三浦さんに褒められると安心しますね笑 色々掲示板の事もありがとう。 ●田中修子さん 色々鋭いレスを頂いて、返事を考えていました。まず、引用して下さった二箇所については、今思うと妥協しながら書いていたと思います。上手く言葉にならないのですが、自分が一番ダメだと思いながら、でもこのフレーズを書く事によってどうにか書き続ける事の出来た所を、ピンポイントで打ち抜かれてしまい、参りました。そういうのは読み手に全て感じ取られてしまう物だと言うことを、心に刻まれました。 >「書かねばならぬ」という強迫観念があるところ、エゴで書いているといって自分を否定する卑屈さを持つ人が、「読んでもらいたい」へ移行して、削っていく勇気を持つとき、何かがいい音を立てて壊れて新しいものが作り出されていくような気がします。あるいは、詩をはなれて、別のジャンルにも挑戦してみるとか。 もう何も言えないくらい、そうだなと思ったり、色々悔しい思いもあります。あー、なんというかその通りなのだと思います。田中さんに早く追いつきたいですね。メチャクチャ良い意味で心にきました。頑張ります。 レスありがとうございました。 (らふか)

2017-12-22

運営の百均です。 了解いたしました。帰宅した後片方消しておきます。 (眠れなかった時代)

2017-12-21

観察している感じが伝わってきます。大熊さんのレスと大分被ってしまうのですが、そう思いました。個人的には蝉も鳴かないというのが面白いと思いました。 後は単純に、日本にシエスタないと思うし、あるとしたら、誰も来ない田舎の公民館みたいな所だよなと思いました。多分エアコンもついてないんだろうなとか。日々の忙しさの中にある、空白の時間というよりは取り残された空間、メチャクチャ蒸し暑いんだろうなという気もするけど、多分同じくらい寒いのだと思います。その寒さが伝わってくる感じが妙にぞわぞわする。 (市営のシエスタ)

2017-12-21

信号待ちしている時の気分って言葉にならないなぁと、この詩を読んで気づきました。今まで考えた事ないなぁ。。。何かのワンシーンとしての信号待ちは良くあると思います。例えば都市の日常を表す上で、信号待ちは結構使われるイメージがあります。信号は人や車の行き交う、上手く言えないですが交通の要である道路という流れを止める事の出来るルールですが、そういった物によって強制的に停められてしまう流れというのは、日々の忙しさの中で、どんなに忙しくても平等にあるいは公正に待ったを掛けられる時間なのだと思います。その中で得た空白という余裕がここには描かれていると、思いました。思ってしまったという方が正しいのかもしれませんが。 (信号待ち)

2017-12-21

あっけらかんとしていて、確かにストレートな作品だと思いました。心の大きさや言葉の大きさが空よりも大きい。という所でスケールがでかい作品だと思いました。 (限界を超えて)

2017-12-21

>※この作品は犯罪や暴力、いじめ、性的嫌がらせなどを推奨するものではありません。この作品での行為をご家庭や学校、職場で真似することは絶対にしないでください。また、この作品での行為を仮想空間で行うことは法律で禁止されていますので絶対行わないでください。 よくありそうなフレーズに仮想空間が加わっているのはジャブで、 >※この作品に登場する人物は全て架空の人物です。また21歳未満の登場人物は存在していません。この作品の登場人物は全て証明書付き人工子宮が出産しました。証明書を確認される場合は作品ウェブサイトにアクセスしてください。 ここら辺が面白いですね。単純なメディアの配慮みたいな物だとよゐこの濱口とかがテレビでショートドラマにしてたりとか前例は一杯あるとおもうんですが、この作品は結構先の事をやっていて、人工子宮持ち出してきている所が面白い。用はレプリカントみたいな存在がいて、それらは人に作られた生き物であって、物語の為に作られた人間みたいで、逆に怖い。自分たちの作ったキャラクターに殺されそうな気もしますが、ともかく。倫理的であるかのように見せかけて、色々な逃げ道を塞ぎながらきっちりとはけ口も作っているという感じがします。 >※この作品内に、小説や戯曲、評論、エッセイなどの言語表現のような論理性、整合性を見出すのは大変危険です。また、音声、画像などのメディア情報や、触覚、嗅覚、味覚などの官能情報に変換することは推奨しておりません。文字情報で構成されている作品がすべて人物や感覚を表現しているという先入観は、作品の解釈を見誤る恐れがあります。 ここら辺も面白いですね。じゃぁなんの為にこれは存在しているのか、みたいな所を付いている。まぁ、こういったアプローチは既に色々な所で為されている感じもしなくないのですが、ビーレビューで面と向かってやったという意味では初めてじゃないのかなぁと思いました。レスを書くという行為は、この詩が抱いている「恐れ」に対して飛び込んでいく事に他ならないし、それでもやっていくだけみたいな回答は一応置いておこうと思います。 (作品)

2017-12-21

なんか分かりますね。あんまり安易に共感共感言いたくないんですが、それと言われたら、あの感じかみたいな、頭痛を体験した事のある人には分かるみたいな感じがしました。 (それ)

2017-12-21

凄くいいと思いました。正直言葉にしたくないくらい良いと思いました。個人的な理由ですが、朝起きて自分が何をどのようにしながら一日を初めて、そこにどのようなポエジーを見いだしたら詩になるのかみたいな事を考えていた時期があったのですが、この作品を読んで、ああ、すげぇなと、思いました。なんの意味も持たないレスで申し訳ないのですが、心にきました。 (ある朝にぼくは)

2017-12-21

アラメルモさんと岡田さんのやり取りで完結してしまっているのかもしれませんが、気になる作品でした。正直やり取りを引き算したとしても、レスする隙のない鏡みたいな詩かなぁと思うのですが、とにかく気になったのでレスします。(少しまた後で書くかもしれません) (雪ふる町)

2017-12-21

>青銅の竜はとぐろを巻いて眠っている >早春 >雪に光 竜が出てくるだけで印象が変わってくる。そこに季節の変化から冬眠のイメージも持ってくる。逆算して読んでみた時に、それまでに提示されてきたイメージとどう交合していくか、というのが、ピントはきませんでした。竜の寝息みたいな物で、もしくは竜の赤子が生まれる瞬間なのかなとか、竜のうろこが煌めく瞬間なのかなとかぼんやり思いました。 この断絶はスレスレな感じがして、個人的にはくせがありますが、凄く好きです。意味する所は分かりません。 (光速螺旋)

2017-12-21

脳が青いというイメージだけで、個人的には面白かったです。しかし単に青いだけでなく、「淡蒼球」と名指され、それは脳の一部の名称であるという所。そこから夢の話に持って行きながらフットボールのイメージも借りてくる。凄く短いながらも、仕事をしっかりこなしているイメージです。余韻が心地よい。青々としていて、綺麗だ。 (淡蒼球の夢)

2017-12-21

個人的な好みなんですが、好きな文章です。寝袋の話が特に好きかも知れません。頭と尻に白鷺を絡めていく所も面白いと思いました。発表したのも初めてで、推敲もなしで、このような流れるような文章を書けるというのが嫉妬しますね。整理させながらの読みはまりもさんが書いて下さったと思うので、僕からは何もいえないのですが、次作、投稿してくださるなら待ってます。 (芝生で覆われた土手一面に、霜が降りて光っている)

2017-12-21

>大切な話がある >きみが隣に腰かけた時の >膝のかたちが好きだ ここがメチャクチャかっこいいです。極端なイメージのギャップが効いています。ある意味セカイ系かなぁとも思うのですが、とにかく、三浦さんじゃないですが、上の三行が良いと思いました。 (奪われる)

2017-12-21

読んでいて不安になりました。不安というのは、僕がこうして生きている事の足下をすくわれそうな感覚というのでしょうか。 >the Milky Wayが現れ、 >失くした全てをすくってくれる この繰り返しが、怖いですね。淡々と繰り返しているだけなのですが、怖いです。「失くした全てをすくってくれる」なんて普通は無理だと思ってしまう。そこまで万能な物はどこにもないからです。しかし、この詩はそういう感慨すら全てすくっていってしまう。救済のイメージよりは揚げ物の残りかすも全て掬ってしまうような、圧倒的な気配があって、 >家はまだ形として >漂っている こういう単語が差し込まれながら、 >全てが終わる だが、 >the Milky Wayが現れ、 >失くした全てをすくってくれる このように絡め取ってしまう。あらゆる叙情をこのワンフレーズが無慈悲にすくっていってしまう。でも、これ以上に慈悲深い物もない、メメント・モリですね。こめかみがビリビリしました。 (the Milky Way)

2017-12-21

非常にプレーンな語り口だと思いました。その淡々としている事は決して作品の中において-に働いている訳ではなく、それが最後の霜に繋がっていっているような感覚が面白い。最後の霜が面白いです。タイトルも霜で思い出したようだ。ある意味、システマティックな作品とも言えるのかなと思いました。作りの巧みさに引き込まれた。 (冷たい夜明けの湖畔にて)

2017-12-21

うーん、正直な感想ですが、ちょっと読みにくいです。ミツバチが医者を目指している。登場人物は二人いて、何か会話している。二人は同じハニカムにすんでいる同僚で、先輩と後輩の関係であり…みたいな関係性が結構込み込みで、そこら辺が掴みにくい。というのが第一印象でした。でも読み込んでみたら、面白かったです。色々こじれてる感じが面白い。ミツバチの世界に人間の社会をただぶち込むのではなく、医者の卵の文脈を取り入れる。そこに先輩後輩の関係性を突っ込む所がこの作品の強度を上げているというのか。多少散らかっている感じはするのですが、そこが逆に魅力でもある。 少し他の方の感想も見たい作品です。 (先輩と後輩)

2017-12-21

感覚だけで言ってしまうのですが、最低限の形を保ちながらギリギリつながってる感じがします。何が? どのように? と言い始めると、止まらないし、結果的に僕には出来なかったのですが、上手く言えないのですが、形がありますよね。本来だったら繋がらなさそうな物がここでは繋がっているというのか。このギリギリ感を上手く、意味に託せないですね。何も言ってないのと同義で申し訳ないのですが、心に残りました。 (「Sternsingen(星哥い)」)

2017-12-21

なんだか確かに言い返せる言葉が思いつかないですね。みんながいいって言ってるのが、なんとなく自分にも当てはまるのかなと思いました。僕は松岡修造っぽい感じで読みました。読み手の置かれている状況によって多分意味合いが変わってくる。ここにはその断言に至る過程がないからです。でも熱いし、色々とほだされてしまいそうですね。 (渚へ)

2017-12-21

カルキってなんだろなと思ったら、コメント欄を見て、なるほどと思いました。正直、僕がこれ以上書く事ないくらいコメント欄充実しているし、あんまり言うことがないですね。言える事があるとしたら、そうだなぁ、本作に産毛というタイトルを付けた事でしょうか。中々付けられないと思いました。 (「産毛」)

2017-12-21

シンプルなのですが、力強いですね。まず、やっている事が分かります。虹が空に色を付けるのではなく、空に色を付ける事が「虹」なのだという、、、逆転の発想というのか。 > 今はただ >必死になって >せせらぐ小川で >あの空を洗っている ここが本当に面白い。空を洗う口実として虹を持ち出してきている。それから視点を川に持ってきている。すると、「油」の意味も強くなるし、空に色を付けるから、川に色を付けるという風に淀みなく場所を転化させていく事によって意味も生まれてくる感じがします。例えば川が汚れているから環境汚染のイメージでもいいし、心象風景のイメージに持ってきてもいい、一度色が付いてしまった者は中々透明な物に戻らないという抽象性を獲得する事に成功している。 (虹)

2017-12-21

読んでいて、最初は単にいじめの詩かなぁと思いました。なんとなくぼかされていますので、なんとなくそうかなと思っただけなのですが、ただ、渚鳥 sさんの 感想が妙にストンときたので、あんまり言える事がないですね。別にいじめでなくても高校時代には色々な人間関係のこじれがあるし、泣いたり、笑いがあるような気がしたのを思い出しました。僕は高校で、弄られキャラで通ってたんですが、表ではある意味生け贄みたいな感じで笑いを取るのですが、その背後ではやりたくなくて泣いてるみたいな感じを思い出しました。それとは別に、廊下に風が吹くと君が消えてしまう感じ、良かったです。 (世界の日本の学校の教室の一角の一角)

2017-12-20

はー、母の話ですか…いや、だとするとメチャクチャいいですね。上の読み方撤回しますよ…原文ママってママの事かよ! と突っ込み入れました。 雑な返レスで申し訳ないですが、ああ、いや、急に面白い作になりました。血が通い出したというか。でも目の前に堂々と出されながら、あるいは出しながら、僕は綺麗に隠されて締まった感じで。この詩に出てくる読者の気分になった感じがします。 (記述)

2017-12-20

花瓶は主人公の方ですか! あー! 言われて読むとすっきりしました。本当に申し訳ありません。 返レス感謝します。 (花瓶)

2017-12-20

花瓶から奥さんの流れが、始まり方が巧みだと思いました。三浦さんが引用されていますが、花瓶の形だけではなく、用途というのか、役割というのか、そこも重なっていく。コメント欄にもありますが、正にスケッチみたいな作品だと思いました。 (花瓶)

2017-12-20

うーん、アラメルモさんの感想に結構ダブりますね。 ある意味メタ的みたいな所があるのかなぁ。書くという行為や読むという行為、あるいは…それらを突き詰めて考えていくという事に対して。うーん、でも面白いですね。メタ的な物は大体微妙で終わってしまう感じがするのですが、今回は最後まで読めた。日頃考えている人でないと、多分中々厳しい物もあるのかなぁとぼんやり思いますが。それは他の方のレスを待つしかないですね。 >読者、読はいつでも終わる >あなたの日々の問題に帰れる > >指の運動 >指先と物体との滑らかで鈍重なこすりあわせ > >なんてものに触れているんだろう > >情報 >光 >光で >光 >情報再現 > >文字だけがあり、私たちに断絶はない ここは凄く光っていると思いました。普通は「断絶」しちゃう感じがするのかなぁと、僕なりの感覚で思ってしまうのですが、断絶はないと言い切ってしまうということ。そしてこの場合の私たちって誰だろう。それから、読者も「読」と切り離してしまう。ここら辺の断絶もシンプルながら、結構パンチがあるのではないかと思いました。人間から読む行為を剥奪して、行為だけをくみ取り、文字という血を通わす事によって断絶が無くなるというのか、まるで人間が悪者みたいだ。 (記述)

2017-12-20

大人のエッチとかいうと、怒られそうですが、そう思いました。寧ろそうとしか思えず、正直恥ずかしくて感想書けないですね。若造すぎて申し訳ない。水が糸を引いているような感覚から、紐、糸、意図と繋げていく感じ。糸というと中島みゆきのイメージが先立つのですが、そこから多分赤い糸のイメージもつながっていく。最後の終わり方はなんとも綺麗だし、派手だし、そして激しいですね。公園で見ちゃいけない物を見て走りさってしまいそうな光景だと思いました。 (光景)

2017-12-20

正直感想欄がエグすぎて、書ける事がないですね。多分心の中にずっと残ると思います。12月の作品、上から作品読んでいってる所なんですが、心の琴線に触れながら、一番考え込んでしまっています。作品もここでやり取りされている言葉も、つまりは作品も作者もレッサーも、凄いです。感想になっておらずすいません。 (東風)

2017-12-20

作者コメントの後なので、あれなのですが、朗読で聴きたいですね。縦乗り横乗りの話、面白いですね。隙がないっていうのは僕も思いました。全部同じ堅さみたいな感じかな。全部全部怒濤に見える。だけど、感じる息使いは静かだ。 正直読むだけでお腹一杯になってしまったので、なんとも言えないのですが、ちょっと水分多いかも知れない。食べ物で喩えるなら麺の伸びきったカレーうどんみたいなかんじかなぁ。内容に関しては述べきれないし、述べたくなるくらいに僕は好きだし、嫌いな所もある。そういう事を言っておきたいです。 (BABY NEAPOLITANS 2)

2017-12-20

 いいっすね。僕はボーナストラックで突っ込み入れましたよ。それはもう盛大にずっこけました。とてもいいです。それまで良かったのに、ヨミテニタクスになっちゃったよみたいな感じです。過激ですけどね、ずらし方がチャーミングですね。爆笑問題みたいな感じかなぁ。こういうのは好きだなぁ。ボーナストラックは読み飛ばしました。詩のボーナストラックってなんやねんって感じでずっこけました。それまでの俺の感情返せやみたいな感じ。寧ろ本番はそっちやないかみたいな。  でも数日たって読み返すと多分心に余裕が出来るので面白く読めるのかなと思いました。僕は好きです。 (お子さん、SUNgです。)

2017-12-20

 一読して、ため息が出ました。すごい。ああ、凄い。童謡(?)の「しゃぼん玉」僕は好きなんですが、この詩の方がもっと好き。ここまで書く事が、重ねる事が、展開させる事が出来るんだなぁとため息がでました。 (シャボン玉のゆくえ)

2017-12-20

>祭壇を飾るふた月の花々に >処分を忘れた母の入れ歯が棚に眠る。  全般的にピンときていないし、コメントを読む限りだと、僕は干し柿のイメージ以外多分掴み切れてないのかなと思うんですが、最終二行えげつないですね。内容なりイメージなりは分からないのですが、最後にぶっこまれた母の入れ歯が棚に眠っているイメージのインパクトは凄かった。 (ドライフラワー)

2017-12-20

宝くじは買うの楽ですが、期待値はゴミのように低いので、勝ったって当たらないんですが、それでも実家では年末絶対に一万円分くらい買うんですね。そういう感じで、コメントもついているので特段言える事ないのですが、オロナミンとタバコの間くらいだというのは位置づけとして面白いと思いました。物の価値って比べるとわかりやすいし、説得力が増す為の材料としてイメージが掴みやすいなと。 (夢をカム)

2017-12-20

子供と大人の違いは、僕は現場に立つか立たないかみたいな事だと思いました。戦うという事は向き合うという事だとも思いました。空の上から見ているだけだと分からないし、ヒーローはやっぱり幻想ですよね。地に足の付いた戦争、あるいは戦士そのものは、泥臭さの中にあります。みたいな事かなと思いました。それでもこうしてやっていっている以上、泥水の中から光を掴みたいみたいな事を思いました。 (夢と現実)

2017-12-20

形の整った詩っていうのは、整える事が先行して無理矢理堅いか、改行を無理している印象が強い偏見が僕にはあるのですが、この作品にはそれがなく、文章として流れていきます。制限のある中で流暢に紡がれる言葉なので、それだけで価値を感じてしまいます。シンプルな語り口の中で淡々と消えていく人間達の気配を感じます(李沙英さんの気配という言葉は凄くいいと思いました)二人の男の説明というかキャラクターが立っています。でも立たせるのは大変だと思います。そうやって、制限のある中で立ちがった煙草の煙が、人間の気配と同化する所に本作の強さがあります、しかもそれらを最後淡々と消してしまう、それは遠慮のない乾いた空気が何もかも無かった事のように風化させてしまうように。そうする事によって人間の気配も同時に消えてしまう。最後のラスト、涙も全て消してしまう所が、痺れました。 (悪友)

2017-12-20

いいっすねみたいな事しか言えないなぁ。正直ピンとこない所もちょこっとありますが、最終行がいいですね。といいうか僕がここで言える事、多分他の皆さんが言っちゃってますね。 そう、個性がありますね。中々個性って中々難しい言葉ですし、いや、そもそも人間ちょっとずつ違う物持ってるとは思うんですがね。この先どういう詩を書かれていくのか、分かりませんが、僕には書けないフレーズばかりだ。そういう事を思ってしまいます。いいなぁ。詩の中身というよりは、語り手の見ている世界がキラキラしている。僕の見ている世界は本当につまらないなぁと思ってしまう。 (朝焼け)

2017-12-20

セミの孵化と、タイムカプセルという組み合わせが面白かったです。セミは七年地中に埋まる訳ですからね。という発想が面白かったです。案外ありそうで無かったなぁと。そこから色々と意味を引き出せるように、かなり汎用性のある表現の発見だと思いました。そこがつかめると一気にするっと読めて、ああ、いいなぁと思いました。 物質と記憶とあるように、記憶そのものを思い出すには何かしらの媒介が必要ですよね。その媒体たり得ていると思いました。 (物質と記憶)

2017-12-20

ああ、でも語り手の日常がつらいのかなぁ。DVみたいなもんかもしれないと思いました。他の方のレスも見てみたい。 (生業)

2017-12-20

一行が偉く長くて、展開がコロコロ変わっていく頭と尻の文章に挟まれている。橋、橋の部分は読めました。それ以外の所は、正直苦手なスタイルでもあって、よめませんでした。テレビのロケットがまず分からない。そこから女と日常のイメージは湧き上がってくるのですが、ピンときません。だから悪いという訳でもありません。単純にそう思った所から言葉が出てこないみたいな感じです。 …という所から何が言えるのかというと難しいですね。コメントにもあるように、隔絶されている感じでしょうか。語り手の思考なのかな。色々な思いを抱えながら、多分家に上がったのだと思います。家に上がるまでの過程なのかな。真ん中の連だけなんであんなにゆっくりなんだろなとも思いましたが、多分子供と一緒にはしゃいだからかなと思いました。難しい思考から離れて、みたいな感じかなぁ。 (生業)

2017-12-20

言葉にならないですね。まず言葉を知らない。そこから詩の読みを始めたからかも知れませんが、 >雁が音 茶葉の一種なんだなと思う所から、文字の持つイメージと音、の広がりが広がっていきました。なんというか自分の文字に対する向き合い方の詰めの甘さみたいな物を、ガツンとやられたような感じです。まぬけな感想で申し訳ありません。ただ、僕はこの「雁が音」が「かりがね」という音で、最初に提示された事に感動しました。それが僕の無知が導き出した感慨であった事が、今そこで自分の無知が生きた事がある意味良かった。 >ここまでのrecitativoは >おそらくウシツツキによるものである   雁が音を調べ始めたのはここの連がタイミングなのですが。ウシツツキも初めて知りました。最後の連こそ本領発揮という形で、そこまで適度に揺らされてきた感覚を更に揺らされて酔ってしまったようです。自分の信じてきた見方、当たり前の光景が言葉という酒によってグニャグニャにされていく。様な感じです。陳腐な感想で申し訳ない。良い悪いではなくて、ひたすらショックでした。 (*)

2017-12-19

白旗ですね。メチャクチャいいです。思わず舌が出ましたが、なんで出たのか分かりません。そうだなぁ、表現に奥行きがあるってこういうことなのかなぁと思いました。好きに想像して思いなさいと言われてるような詩だ。引きずりこまれそうだ。怖い。 (黄金色のストール)

2017-12-19

極大と極小のイメージ。宇宙と瓶、星と金平糖。電車もまた一つの宇宙で、電車の中の人間も星。その中に自分だけが宇宙を持っているという。曼荼羅から、更に、口の中をブラックホールにしてしまう。 >部屋のパソコンを立ち上げ >ひょうたん瓶を >これも人からもらった >沖縄の星の砂が入った小瓶の横に並べてみる でももっと凄いのがこれですね。なんでぶっ込んだんだっていう話がさらっとある。ひょうたんと、沖縄の星の砂の瓶も並べるこの感じが、さらなる広がりを感じさせてくれる。なくても成立する話だと思いますが、これがないといけない。という事をなぜか思いました。ああ、すさまじい。 (宇宙の底で)

2017-12-19

 びっくりするぐらい繰り返していますね。中々繰り返すのは大変だ。二回はビーレビューでも結構見る。でも三回で、なるべく同じ形でありながら、その中で変奏していく物だと、案外ないのかもしれません。定型詩は、僕にとっては繰り返す音だと思っています。その中で音を変えたり、コードを変えたりメロディを変えていくという所か。なぜ繰り返すと気持ちがいいのかというのは最近僕も教わったばかりで、ここでは書けないのですが、  読点で文章が遮断されてしまう事で、単語により目が言ってしまう所でしょうか。朝の中のまどろみの中で同じ音を何度も繰り返してしまう。その中で古語というか、和語ですかね。それらの音、昔の音が唇から再生されていく。場面は確かに動くことなく、それは各連の頭にくるフレーズが再帰しているから。始まりは常に一定であり同じ始まりから滲み出る言葉は変奏する。人間の発する言葉は、まるで壊れたラジカセのようだと思いました。 (遠く、朝は)

2017-12-19

一文が長く、樋口一葉の文体みたいだ。一葉は本当に読めなくて、何やってるのか分からない。でも言葉は美しくて、音読する度に綺麗だと思うが、何をやってるのか分からないという感じを思いました。 相性が悪くて、文章を意味で捉えてしまいがちな僕には、無い感覚だ。でも、その一方で、この明るい部屋は美しい物だと思う。そういう瞬間が無い訳じゃないが、なぜそう思うのか分からない。一葉に重ねることで無理矢理読んでいるのは、僕の中にない物は、既視感で補う事によって多分無理矢理形にしようとしているからだと思う。そう、この文章が掴み所のないように、それでも最後の「美しい朝」という帰結に嫉妬を覚えるくらいに読んでそう思う感覚が脳内で暴れている。 結局の所、朝がなんで美しいのか、僕は良く表現の中で使いますが、まともに考えた事がなかったのかもしれません。そういう事を思いました。美しいと思う事や、美しいと思う事を提示するのは難しいと思いますが、僕は僕の思ってもみなかった方法で美しさを提示されてしまった事に困惑しました。そのような作でした。 (明るい部屋)

2017-12-19

●kaz.さん レスありがとうございます。所謂このフレーズが思いついたから書いた物なんなんですが、難産でした。始め方と終わり方、ずっと悩んでいますが、これが一つの回答としてなしえるかどうか、という所で未だ不安ですが、コメント頂けて安心している自分がいます。らふかというタイトルはカフカから音を組み替えた物なのですが、多分kaz.さんからもらった音ですね。ラフカディオ・ハーンは確かkaz.さんから教えてもらった気がします。そういった感じで、この作品は多分色々な方からもらった物つぎ込んだ物なのかなと思います。 ●ジャンブリーズさん レスありがとうございます。そういえば、Twitterの方では冒頭の数行が引用されるんですよね。とすると、更に頭本当に大事だなぁと気づかされました。僕自身、アンビバレンスモチーフを描かざるを得ないみたいな所にいる中で、多分B-REVIEWから沢山もらった物を稲妻で引き裂きたかったのかなとか思いました。単なる暴力に終わっていなかったのであれば、と思います。 ●アラメルモさん 鋭いですね。そうです。冒頭の9行で、一回終わったんですね。そこまでが感覚的にふと思いついた言葉を並べて終わりました。でも、そこで終われなかったんですね。続けないと、自分の感覚を覆い尽くして滅ぼすような意味を、解釈を自分の手で編み出さねばみたいな強迫観念でもって以降は綴りました。やはり、終われなかったし、切り取る事も出来ませんでした。ある意味最初の一連が僕の書いた絵で、以降は僕による解釈だとも言えるのかなと、気づかされました。 B-REVIEW、僕の感覚がどんどん壊れていくので、再構築時間掛かりますが、次の標が見えたようなきがしました。ありがとうございました。 ●くつずり ゆうさん 多分僕にとって食卓は大事な場所なのだと思います。言葉を並べるというのは、正にそういう事だと気づかされました。対称的でありながら重なる物、あるいは多重の意味を持つ物を、読み手に思考させるのではなく感じさせるような物が、多分僕は書きたいと思っています。そこに上手くつながるような詩が書けたのかなぁと、ちょっとだけ思いました。 ありがとうございました。 ●カオティクルConverge!!貴音さん♪ おはようございます。僕もカオティクルさんの書いたような詩が書きたいです。この詩はB-REVIEWに参加しなければ間違いなく書けませんでした。本当にありがとう。 ●り さん あおあおしさが詩的表現のなかにぎゅうぎゅうで この悩ましさぎゅうぎゅうのなおかつなまなましさ、少し狂気 この詩をかける瞬間にかいたことが、こころの底からうらやましい、 この瞬間をのがさなかったのはすばらしい才能 最初の一連のととのってうすくなってる感はそれはよい、 そのあとのおわらなさ、もっといい、だってこんなものはおわらないから 作者の年齢や思想、瞬間もきりとっている、そういう類いのやつ らふかごっこしよう!! おはよーです! ああ、何も返せないですね。コメントで下さった事、そのまま体現出来ていたら、もうそれでいいです。最初の始まり方本当に不安で、陳腐だと思われたらどうしようって投稿したので、嬉しいです。狂気も、最後にひねり出した落ちも、僕が書ける瞬間にいたという事が、また次があると思えました。 皆さんのレスも含めて、ありがとう。らふかごっこしよう! ●李沙英さん おはようございます。裏と表、両方受け止めながら書いていきたい、あるいはどちらかを選択する事になったとしても、その背景に何かがあることを忘れてしまってはいけない。というのは、僕のエゴみたいな所だと思うのですが、そこを忘れないようにして、何が書けるのかというのが、多分僕が追い求めている物なのかなぁと、レスを通じて思いました。中々難しいですが、人間の自意識には裏が多すぎますね。僕だけなのかもしれませんが。ここに一つの世界が構築出来ていたのであれば、本当に嬉しいです。 レスありがとうございました。 (らふか)

2017-12-19

あなたって誰かなぁと思いました。読み手に話しかけてるのかな。二人称の丁寧語は、僕は、あんまり好きじゃ無いです。対象があんまり良く分からないからです。作中ある人間か、読者か、そのどちらにも効くようにか、もしくはそれ以外か。 あなたと語り手の断絶みたいな所から、わかるわからない、愛している愛していない。あなたを見ているわたしをみている。わたしをみていない。あなたをみていない。みたいな感じ。信じる信じない、信仰する、信仰しない、一緒に死ぬ、死ねない、生きたい。あなたがいないと生きられない。死ねる。別に生きられる。死ねない。みたいな感じ。常にアンビバレンスで、水みたいだ。心は硝子であるよりも、水であった方が割れないし、生きやすいだろうと思いました。 (帰らないものたち)

2017-12-18

三浦果実さん こうだたけみさん survof  ずっと返信考えていたのですが、やっぱり答えでないですね。三人から頂いた言葉ずっと僕の中の宿題です。今思うと、これは朗読と書き物の中間くらいのイメージで書いていました。多分このテキストは僕が声に出して読むべきのものであるし、そういった文脈が必要なのかなと思いました。ただ、思ったはいいのですが、最近舞台に立つまで確かな事も言えませんでした。最近思うのは僕に取っての詩はやはり音楽に近いという事です。言葉なのですが、言葉じゃ無い物それは音楽の音が日常に溢れていない事と同義であると思いました。そこに何かあるのではないかと信仰してしまっているのかな。この作品はその途上にあるような気がしました。  これから僕は生きるたびに色々な文脈を身につけながら、それらをそぎ落としながら、それでもまた身に付けなたら最後はシンプルな比喩に連なる何かを手に入れたいと思っているのかなぁとは思っていますが、回答は見えません。かなり遅くなってしまったのですが、多分答えられる時が来たら作品やレスで徐々に還元させて頂く事になると思います。  素敵なレスをありがとうございました。 (音楽)

2017-12-17

シンプルなのですが、手抜きに感じないですね。なんというか質量のある行分けに感じますが、なんでそう思うのかは分からないです。だから惹かれるという事です。でも説明は出来ません。評は出尽くしているような気もしますし、ことさら僕が書くべき事はないのですが、それでもレスしたいと思いました。 (夢、裸体、そして残酷)

2017-12-17

言葉出てこないですね。 凄く好きです。そういう事だけいいたいなぁ。 >夜が枯れ木をさぁあ……と震わして >砕けた針音が巡り会う >ガラス瓶の中の森で >新しい迷路で  これが凄いなぁ…ホワイトフラッグです。 (再開)

2017-12-17

僕は、あまりすきじゃない。全てそぎ落としてしまう事は悟りに近いのかもしれないが、虚飾無き言葉で何かを救える人間は神様だけだ。というのがある。僕の周りの人間はそれで色々奪われてしまったし、それは真理だけど人理に背くみたいな感じですかね。何言ってるのかという話だと思いますが。 これは個人的な思いなので、僕はまだ抗いたいなぁみたいな感じです。良い悪いっていうよりは、スタンスに対する個人的な苛立ちが先立つなぁ。嫌いという訳ではなくて、忌々しい。信仰を馬鹿にされながら隣で恋愛話に興じられているようだ。 (literal)

2017-12-17

なんかの授業で、物語についての講義があったんですが、物語って恐ろしい程多義的で、逃れられないなぁと思いました。どこもかしこも物語だらけですよね。物語から抜け出して、あるいは物語がないと信じられない。あるいは裏切る事が出来ない。みたいな感じでしょうか。物語がない言葉は詰まらないし、物語の分からない話はつまらない。だとしたら酩酊の中においてその中で揺らす事しかできない。その隙間を縫いながらOKをもらうしか無いみたいな感じを思いました。 (alcholol)

2017-12-17

先生と人っていう繋がりは、やっぱりあんのかなぁと。先生って言っても色々な先生がいますけど、一般的には学校の先生ですよね。という所から考えていくと、学校の先生は選べないから、選べない人について物の見方や考え方を学ぶという事に対する当てつけなのか、それともその先生以外に語り手の思いをぶつける人がいないからかなぁとか思いました。 僕の場合は間違いなく先生が父親になります。僕は怖くて出来ませんでした。せいぜい怒鳴るくらいしかやってませんでした。自分から敢えてタブーを破る事によって人じゃなくなるか尋ねる所が、中々上手く言えないですね。そしてこの詩の形式は高橋先生を通じて読み手に突き刺していますね。高橋先生は高橋先生ですが、高橋先生ではありません。語り手が犯したタブーを指さしてあれは人のする事ではないと言った人たち、あるいは思った事のある人たち全てをさしての高橋先生です。高橋の上から人じゃない物を見下ろしているみたいですね。という感じかなぁと思いました。僕は「ごめんな」としか言えないのですが。 (高橋先生)

2017-12-17

 無条件に好きですね。 >僕は海に還ろうと >三番線ホームに独り立っている >名前の無い駅 名前の無い君 >波のような雑踏も消え >海流のような線路も消え >遥か彼方 サイレンが鳴り響き >僕に白い浮輪が投げ込まれた  僕がすべき仕事は既に他の皆さんがやって下さった感じなので、最後が凄くいいです。僕は単純にイメージが好きだなぁ。それだけだとも言えます。内容ではなく、物の置き方と写真の撮り方です。綺麗だ。 (海に砂糖を、僕には何を?)

2017-12-17

猫と人間はよく似ているのかなぁと思いました。犬ではなくて猫であるのは、(別に犬と猫という対比でもなくていいのですが)猫の方が人間に近いからかもしれません。人間の側にあるために体の大きさを小さくしたのが猫だといいますね。生存戦略としての欲望。欲望は人間の本質であるように。猫は人間に気に入られる為に、生き物としての本質を捨てました。なぜなら人間は互いに殺す事が基本的には許されていないからです。その代理として情報で違いを殺し合うように。みたいな感じかなぁ 猫については丁度、新海誠「彼女と彼女の猫」を漫画で読みました。もしくは、川村元気でもいいし、フォルカスの倫理的な死でも良く、多分もっと一杯ありますが、なぜ猫というモチーフを選択して人はそれを利用するのかみたいな所は案外見た事ないかもしれません。向き合っている詩だと思いました。 (広告と猫)

2017-12-17

 読んでてわかりやすかったです。 >「書く」ということの困難さを >全身で顕しているかのように  ここは評価分かれますね。僕は最後の二行で説教から、語り手にも分かんない事があるんだなみたいな事を思いました。本質を体現するのは人それぞれであって、物ではなく、鉛筆を使い描き、描かれた物を読む人間によって本質は宿されていくが、しかしながらどのような過程を経る事によってそのような物が立ち上がるのかについては、分からないという感じがしました。 (Bの鉛筆)

2017-12-17

 確かによく見ると、あれですね。結構東洋的なのか。  カインとアベルとエデンの名前にごまかされそうになった所で、最初はいきなり畳だし、着物だし、蛍だし、墨だし、屏風だと思いました。というわけで、基本的にまりもさんの感想とダブります。極道の文脈は僕はあまり持っていないのですが、そのようなイメージを持ってきて、兄弟間を争いをカインとアベルに絡ませていくと、詩が立ち上がってくる気配を感じ取る事が出来るようになりました。 (掌の上には太陽)

2017-12-17

過剰であり、劇的ですね。という事を思いました。溢れて溢れて溢れて、その先に題名という「名前」を手に入れるという事によって立ち位置を手に入れるみたいな感じです。 詩に出来ると安心しますよね。だから幸福になると同時に、このような詩は書けなくなるのかなと思いました。 (四肢なき体)

2017-12-17

 昨日の僕こんな感じでした。ので、そのまんまだと思いました。特段何かしら得た物があった訳ではないのですが、ああ、自分だなぁと思いました。 (白々しく輝く)

2017-12-16

>糸も簡単と 簡単じゃないですよね。本当は。そういう事を思いました。コメント欄がまぶしいので、思った事一言書かせていただきました。 (黙々と)

2017-12-16

空白ですね。情報がない事はそれだけで、怖いですね。 僕の知らない事実があり、そこで人が働いている事。どういう環境で働いているのかも分かりません。雪中行軍したことありませんが、雪の中でスキーしている時ほど多分何も考えてない時間もないかもしれません。掲示板を通じてこの文章を読むときに、何を背景にして読むのかの背景はありません。それは雪の中にある自分のようにないのかもしれないし、ないから書きようがないのかもしれません。描写を厚くして書く事が、この文章の進軍をより際立たせる事につながるのか分かりませんが、しかしながら、そこに人がいて行軍している事は確かだと思いました。そしてそういう事を思ったというだけです。 (来るのを待つ)

2017-12-16

二項対立的ですね。幸福であることと、そこから外れていく物。幸福な生活を支える物、もしくはそういう生活を僕らが過ごす上で、見過ごしたり、おざなりにしているもの、その残滓を嗅ぎ取る瞬間を鉄くずと、電灯の蛾に見る事で、「幸福」な物に対する揺らぎを演出する。直接的に伝えるのではなく遠くから伝えていく。伝えるというよりは見やるという方が正しいかもしれませんが、確かにこういうを伝えるのは難しいのかもしれません。僕はここから色々受け取る物もありますが、同じものを描けと言われたら無理かも。 (幸福な一日の終わり)

2017-12-16

アンビバレンスな感じがいいですね。言葉による断定や理由は一つでは抑えきれない。一つで抑えられるのは切れ味であって、支える事は出来ない。この詩は天秤ですね。言葉の重さが均一です。それを緩やかに破綻なく描いている感じがするというのが巧みですね。 (細部)

2017-12-16

空を無理矢理こじ開けているようで、子供の遊びを見ているみたいです。他人がレゴブロックで作った塔を壊していくみたいな感じ。感覚というよりは理屈でという感じです。子供と喩えたのは皮肉ではなくて、ちょっと暴力的な所ですかね。結構所所力業で、粘土をこねくり出して何か引きだそうとしていますが、漢字を解体した所で終わっていってしまっていますね。「君」を求められないというのをそこに付け足すと、多分更に意味が映えてくるのかな。君に触れられるならなんだってやれる。のかなぁ。なんかまだ先がありそうですね。空から落ちてない。 (空をひらく)

2017-12-16

ああ、フロウが心地いいです。 >ラの次は何 シだよ、とは平易に言えてしまいそうで、言えないですね。とても力強いです。肩の力を抜いて読む事が出来ました。 (お菓子な心)

2017-12-16

クマノミを飼っている俺かわいいだろみたいな感じですかね…多分黒塗りのベンツに乗っている男が、運転席に座って助手席に座っている女の子を口説いているのかなぁとか適当な事思いましたが、こういう想像であっているのかぁ。 3/10くらいの笑いでした。 (短歌~無題)

2017-12-16

>《善罪》 > 美味い > 満腹刑。 最高でした。出落ちでおわらなかったのもいいです。洗罪が一番すきです。 (最終判決)

2017-12-16

最初のイメージは饒舌で溢れている歌。テーマも種子に絡めていて、壮大です。丁度今大学の授業で地球の誕生から現代までの話を聞いているのですが、それに似た感じを思います。そして溢れすぎていて、僕自身上手く受け止めきれてないですね。三浦さんがレスされていますが、気持ちの感触というのは、多分僕も思いました。少し日を置いて、余裕があれば再読したいと思います。 (歌声へ(螺子と種子))

2017-12-16

人間というよりは獣人間の恋みたいだ。というか、「漣の音に 和毛に覆われた 猫の耳を澄ました」ここでそう思いました。人よりも性に近いからかもしれません。僕が性に対してどうでもいいものだと思っているからかもしれません。多分人間同士で描くと、生臭さく思ってしまうのかなぁと思うのですが、獣だとそうじゃないと思いました。性に忠実な感じがするからという偏見で、それは僕が人間であると多分無意識に自分が思う以上に思い、差別しているから。 >願わくば 眠れ > > >捻れた海の底の 姉妹のように 兄弟のように > > > >冷たい青は 美しかったよ 張り詰めたようなラストで今朝の7時ですが、目が覚めました。震える。 (冷たい青)

2017-12-16

 まりもさんの感想読んで、お姫様に恋をした男の話なのかなと思えました。「宝石」がわかんなかったのですが、お姫様の事を付けている宝石の重さで量るのではなく、心の重さ、つまりは一人の人間としてみたいみたいな感じかなぁと。落ちぶれたお姫様は死ぬ寸前で、だれもその死に対して何も思っていない。とか、登場人物がつかめると一気に楽しめるのかなと思います。多分「火葬の夜にそばにいたいと提案します」と言った語り手が誰であるか分かると、そこから色々想像を広げていけるようになっているのかなぁと。 (白絶の火)

2017-12-16

>かなしみって >あの列車のことかも知れない   仲程さんの感想と被りますが、ここで読む意識変わりました。凄く言いですね。この宣言が、表現がここで一気に回答されます。ここから始まらないのがいい。車窓を見ていたら急に答えが導き出されてきたような感覚に似ています。 >ぼんやりと >適切なとこに戻っていく >僕が >現れる気がした 適切な所というのもいいですね。列車が結ぶ行く末は駅に固定されていますし、固定されている駅の周辺に人は住みますしね。味わい深い作品だと思いました。芥川の蜜柑とはまた違った煌めきがあります。 (回送)

2017-12-16

 面白くもなく、つまらなくもない文章だ。これは別にけなしている訳ではなく、僕は面白すぎる文章や考えなくてはいけない文章が多すぎると、疲れて読めなくなってしまう感じなのですが(例えば石牟礼道子の文章は重すぎて、今いやいや読んでいるドフトエフスキーの罪と罰は軽すぎる)そういう感じがありませんでした。ちゃんとした文章というよりは読み進めるのにほどよい速度の文章だと思いました。普段飛躍している所の隙間もだからジャンプしやすいしカーブしやすい感じです。 中身については、「日記のような堆積にはなっていくだろう。ただそれだけだ。」という感じで、内容よりはスタイルの方に目が向いてしまいました。もう一回読む機会があれば踏み込んだ読解をしたいと思います。 (書が好きよ、街を出よう《クリエイティブ・ライティングとしての所作》)

2017-12-16

 掴み所がないですね。普通はそれでつまらなくなるのに、これはつまらなくない。この感慨は珍しい。講談のリズムです。砂のような文体の中にどれだけの情報がつぎ込まれているのか、でも出てくるのは糞ですね。脱糞しているのに、脱糞してない。 (砂)

2017-12-16

>疑わしい歌をする人 >かじりかけのクルミがテーブルの上に転がっている >待てよ >愛はないからさ >嘘をつく必要がない >騙されるという人は中がいっぱいになった頭を抱えて >騙すという人は空っぽな意図しか持っていない >教えられるという人は騙すようになれることだけを念頭に持つ >教えるという人はその意図を知ったうえで深い知識の泉を揺らす 難しい詩だと思いました。別に書いてある言葉或いは語彙そのもの自体は平易だと思うのですが、始まりの疑わしい歌と嘘をつく必要がないのは、愛がないからと、その間に挿入されるかじりかけのクルミがテーブルの上に転がっている状況。ですよね。ここが、なんというか、上手くつかみ取れそうでとれないような距離感があって、絶妙だと思う一方。なんで絶妙なのかが分からんという感じです。そこに詩の鉱脈がある感じがするのですが、中々そこら辺が難しい。まりもさんの返詩という形式でのアンサーというのが、なんだろうな、伝わるのかなぁと、思いました。基本的に、僕が毎回黒髪さんの作品に思うことは濃密である事、まずはそこから始まるので、毎回同じような感想になってしまうのですが、取りあえず僕が好きだった所を触れる事でひとまずの感想にしようと思います。 騙す/騙される 教えられるという人/教えるという人 というスラッシュがあって >ゆっくりと学ぶ人はバックスラッシュをいとおしむ >トタンに打ち付ける雨か ここがものすごく面白いですね。イメージとして、バックスラッシュに逆向きで降ってくる雨をかぶせてくる。それからやっぱり、冒頭の二行が好きで、それは同時に僕はイメージそのものを通じて自分を知るのがてっとり早い人間なのかなと思いました。多分大事な事ほどゆっくり考える必要があるだろうし、簡単に結論を出していけないとは思うのですが、中々時間というのもは短くてどうしようもないですね。今回はここまでという感じです。 (暗い星のために)

2017-12-09

一行一行の密度が濃すぎて、どう読んだらいいのかの組み合わせ爆発というんですかね。多分一行一行の主体がどこにあるのかが明記されていない所から始まっている。この言葉は誰が誰に向けて発話しているのか。という所で発話者が全く現れない所から自分自身に宛てて書いているのか、それとも読者に呼びかけているのか、話しかけているのか、あるいは、と、そういう意味で見境のない文章のように思います。「信頼の入り口に明かりがついている」という所からも、凄く際どい表現で。まずは求めに従うという条件があり、それによって気持ちを突っつく事の出来る権利を手にする事が出来る。その気持ちを突っつくにもきっとリスクがあり失敗することもあるが、それを乗り越えてやっと、信頼という神殿の入り口があいた事を示す松明がついたかのようです。そうしてたどり着いた「こんな場所」のこんなとはどういうニュアンスがあるのか。「楽しいこと」「喜びをかんじるということ」普通に考えたら「信頼されるということは」がくるのだろうか。しかし、その後に「ダメに生きたから」と来るから、この場合のダメとは信頼を得られなかったからこそ、招いた生き方でそれによって手痛いい失敗をしたという事でしょうか。そこから信頼される為の試練を乗り越えて信頼神殿の明かりをつけ、そこを守る=平和を作る事にした。その結果ある一定の場所にきちんととどまる。つまり所帯を持つことができたので、心が穏やかになる。それは気持ち突くという行為をなしえたから、そういう代償を払ったからこそも安寧であると、それはささやかだけど、嬉しい事。喜びに女がつく事によってという所から、多分自分の伴侶となる相手に告白した結果、あるいは振り向いてもらえるような行為をした結果として信頼を築く事ができたのかなとか思いました。 (信頼を築く幸せ)

2017-12-09

猫ってなんで許されるのか。みたいな感じで、なめ猫とか、東京ニャクザあるよなと思ったら、僕自身は猫にそこまで興味があるわけではないので、考察は進まないのですが、取りあえず笑ってしまいました。このハゲネタは色々な所で見ましたが、多分初めて笑いました。 (猫田議員の猫詩データー、完全版。)

2017-12-09

最近、寺山修司「煙草の益」って、話を読んだのですが、それは「ぼくの初めて吸った煙草の味の感想」をする話なんですけどね。その感想の話自体が、一つの人生みたいな物を内包して語られる訳です。それが創作か現実かはともかくとして、本作の場合は、煙草吸ったっていいこと一つもないし、なかったのに吸っているという所。そこに延々と焦点が当てられている所で、その中に語り手の人生があるという事です。逆に言ってしまえば煙草吸ったって一つもいいことないってずっと書いているのに煙草のネガキャンとして全く聞こえてこないという逆説がここにあるのかなと思いました。 >どうして止めないか? 止められないのか? >病気、遺伝、環境や習慣等。さまざまに言われるもののはっきりしない。 >そもそも止める意志らしきものが芽生えないが、これは何だろうか。 意志の向こう側にある物を言葉を連ねる事によって浮き上がらせようとしていく、あるいは一つ一つ検証して潰していった先に残る物を期待しているかのようなまなざし。 >灰を見つめる。 >  >          >          」 この空白の味が知りたいのかなぁと思います。そういう意味で、ある種、結論の(が)見えない作品になっている風にも感じます。しかしながら、ここが見たいけど見えない訳ですね。そのための前振りはすべて振られているといっても過言ではない。という所に、限界があるのかもしれないですね。 (たばこをめぐる断章)

2017-12-09

>今夜は満月が明るいよ > >月の光の下なら >ペリドットもエメラルドも >同じように >見えるんだろうか からの >ペリドットとエメラルド > >砕かれた > >砕いてしまった ここが凄く巧みというかなんというか。 色が似ているからという始まりを否定するような「似やしない2人の間で」から、 同じような色をしているけれども、似ているけれども絶対的違う相容れないもの。それは「エメラルドのジャム」「ペリドットのマーマレード」にも現れていて、ジャムとマーマレードも似ている物だけど、やっぱり違うんですよね。そして、ジャムとマーマレードは僕は血の比喩として読みました。…とかなんとか、そういった否定を挟みながら。月の光の下なら確かに同じに見えるかもしれない。という希望を裏切るように、 砕けてしまう。 >──────冷たい月の光に 小さな魔法をかける > >深い夜のエメラルド 僕はここで、無理矢理同化した印象を覚えます。1+1=1にするための手順というのでしょうか。僕は一緒に心中したみたいな感じがします。水面の奥深く海底に入水したイメージです。 (peridot marmalade)

2017-12-08

毎回こういう事を思うたびに、それ以外の感想が出てこないのか、とか自分でも良く思うのですが、気持ちの分かる作品だと思いました。この作品の肝みたいなのは >わたしは生産的な人間で反生産を標榜するものでもありません。いつかひとの役に立てる日を夢見て日々無為でも生きているのです。 ここにあるのかなと思いました。思いました。そして思ったという事は僕もそう思いながら生きているのですが、現状中々出来ていない訳で、毎日中々屑に生きています。そして、このですます調そのものがなんというか、自分がそういう手段を作品に持ち込んできた経験から言ってしまうのですが、ここに描かれた敬意っていうのはどこに向かっているのかと言うこと。ある意味で、ここに綴られた敬意はこの独白を聞かせている読み手に向けられているようにも思えます。それはこの作品を読み手に読み聞かせる様な感じになる。そして、ここに綴られた生活というのか、そういう物を読み手が受け取った時にどうすりゃええねんみたいな感じでもあるわけで、それを逃がさない為の敬意みたいな感じで僕はよく使ってしまう。 この作品に綴られた生活を読んで、例えばひとつひとつの表現の中に見え隠れする物を受け止める事が正解なのか、それとも受け流すべきなのか、あるいは心を痛める事が正解なのかは分かりません。それはおそらく読み手の社会的なステータスによって異なるようにも思えます。 という所で読んでしまうと、僕にとってはこの作品は中々つらい所があって。これ以上は評にならないのですね。個々の表現を見ていった時もどうしても自分に引っ張られて締まって例えば、 >大きな絆創膏がほしいと考えて、なぜか図書館に向かいました。司書さんは清潔で、こころ洗われました。洗われ過ぎて、胸が痛いです。 >ボスカフェラテを飲み干してその甘味に酔いしれながら、ええ、そうです、最近は缶コーヒーにさえ酔ってしまうのです。青白く、少し痛んだ指でキーボードを叩く と脳に良さそうだな、と考えます。ざらついた紙へ心象を書き落としていくのも悪くはないのですけれど。 ここら辺なんか、僕も結構やるんですよ。今朝の5時ですが、景気付けに缶コーヒーをアパートの隣にある自動販売機に良く買いに行きます。色々詰まってくると高い缶コーヒーを買うんですね。そして、最近僕は筆ペンで良く書くんです。ネット上で書く事に対して、最近ちょっと熱が落ちてきた事もあって、その気持ちの一部分が此処にあるわけです。こういうの見てしまうと、要は客観視できない。正に僕の生活と重なる部分がそこにあるし、そしてその重なる部分と重ならない部分というのも確かにあるわけですね。例えば >緩やかなカーヴを曲がってコンビニエンスストアに向かいますが、ほしいものは何もありませんでした。  僕だったら、多分何があってもコンビ二に入ったら欲しい物があるんですよ。みたいに思ってしまう事は、もうそれは批判でも批評でもなく、単純に生活の違いでしかない。そういう風にしか思えない程、僕にとってこの作品は身近であるという事です。 (生活)

2017-12-08

凄くいいですね。なんというか凄くいいです。正直言える事、ありません。言えるとしたら、「ELEGANCE」がよく、「サムバディ・タッチド・ミー」が本当にすきという事しか。「いのちが先行して歩いていく」凄く好きです。そして、最終連が本当にいいです。 後は、、、正直まりもさんの評が良すぎて、僕からは何も言えないですね。言うことがないというのか。こういうのを納得というのか、適当に悟りというのか分かりませんが、評も含めてまとめて引用させていただくと、 >四章の〈祈りは聞き入れられ >俺は路傍に一人じゃなかった >あたたかいのか、つめたいのか >確かに手が触れた >誰かが俺の背中に触れていた。〉 >この最終連がたどりつくべき「家」なのかもしれない、と思いました。 >壁を持った家、家族という明確な安全圏が見当たらないような、朧に霞むミルク色の空間の中で触れた、誰か、の気配。背中に触れていてくれる、見えざる気配。 ここが、素晴らしい。素晴らしすぎて。何もいえない。 (家 その他三編)

2017-12-08

二人称の難しい所であなた=読み手の部分もあれば、おそらく語り手にとってのあなた(詩作品内部における特定の人物)、もしくは、書き手にとってのあなた、、みたいな感じで、謂わばどうとでもとれる書き方をしている。故に、 >本当は... の次が見たい聞きたい。個人的には、それまでの文章は前振りに近く、始まってすらいない感じで、状況の説明にほぼ終始している感じが全面的にあります。あなたの意味、捉え方によって解釈は多分変わってくるのだと思います。本当は…の向こう側も、もう既に本文で提示されていて、そこには余韻しかないのかもしれない。あなたはどういうあなたで、わたしはどういう私で、本当は何で、とかそういう部分、もっと細かい部分や先が知りたい。情報がもっと欲しい。 (あなたへ)

2017-12-08

ああ、すげー好きですね。あんまり言葉にしたくないなぁ…耽美的みたいな感じな言葉は僕はあんまり好きじゃ無いです。それは、僕はバナナを腐らせた事がないからです。味わった事のない体験を僕は文章によって体感したいと思うからです。ですが、本作に限って言えば、 >おいしそう、の幻想を >もうずっと極限まで高めたい ここがすごいですね。こういう感触を文章で感じた事がないなぁ。僕は漫画とかアニメとか結構見るんですが、おいしそうなご飯って本当に読んだことがない。綺麗な物とか作ってみたいものとか、あるいは、おいしそうに描かれた料理を食べる人間の表情によっておいしそうと思うことはあっても。本作は読んでて、凄く甘い香りがしました。でもそれは僕が嗅いだ事のある究極的な甘い香りを思い出した訳で、本作に描かれているバナナの香りではない訳です。 耽美的な甘い匂いは語り手しか知っていないという独占感ですよね。この高級な言い方が本当にここではずるいんですよね。しかもそういう読み手を無視して語り手は >だって >食べられなかったバナナのことは >いつまでも忘れられないから >そうして >現実では決して得られはしない >想像上のバナナのおいしそうを >永遠に、味わっていたい 匂いの夢想に浸っている訳で、僕はこの光景を見せつけられているのか、覗いているのか、側に突っ立って見ただけなのか分からない置き去りにされた形になっている感じ。印象的なバナナのシーンから引きずり込まされて、置き去りにされるこの感じたまんないですね。正直白旗です。 (空想のバナナ)

2017-12-08

心が桃になっちゃう所がいいですね。単純にネット色々やっててずっと何か書いてる人おっかけると、なんかそんな感じな感じを思いますよね。後は、例え話の類型として、桃太郎はやっぱり便利だなぁと思いましたよ。でも、大体どこもマジで滑ってる物ばっかりだなぁと思ってます。本作はそういうの感じませんでした。そういう意味で頭抜けてて、器用さを感じます。川の上から桃なんてもう腐るほど流れてきた訳で、そういう部分も考えると多分ね、この作品はいい意味で俯瞰仕切れていると思います。 (寂しくて辛い)

2017-12-08

少し読みにくい作品かなぁと思いました。後々になってくると、具体的的になってくるからです。頭から読もうとするとこんがらがるのかなぁとおもいました。でもそこは多分ちょっと意図的な部分もあるのかなぁと二回くらい読んで思いました。それは、心地よいストレスのかけられ方、というのかなんとか。二週目にパンと脳に焼き付いてくる感覚がいいですね。 >相容れない静かな表情の壁だ >ぼくの不安とは >あまりにかけ離れた強固な壁だ > >対峙するとき >浮き彫りになるのは >内部に他ならないのだが >そこでも空洞を想像させる女の表情が >壁 >として聳えている …(中略)… >大事なのは表層だ >きみの美しい表にのみ内部は揺さぶられる ここが面白い。静かな表情の壁は、相容れない強固な壁。それによって浮き彫りになる内部の所在は、語り手にあるのか、それとも対峙する表情の側にあるのか、分かりませんが、しかし、そこに接ぎ木されるのが。「空洞を想像させる女の表情」 更に大事なのは表層ときて、「きみ」という対象が提示され、揺さぶられる内部は、そのきみの美しい表にのみである、という。 単純に表情の読めない素敵な彼女に心動かされる男のスケッチみたいな風に言ってしまってもいいと思うのですが、個人的に好きなのは「大事なのは表層だ/きみの美しい表にのみ内部は揺さぶられる」です。 きみの表情に心揺さぶられるとこう書いてしまっていない、あくまでも表層であって内部、それは壁であるし、壁の中は空洞なんです、表情から情、つまり心、あるいは正体、向こう側なんてどうでもよくて、人と人が額を付き合わせるのって普通あったかい物を感じる時にすると思うんですが、ここでは「壁に額を押しつけた時に感じる冷たさ」なんですよね。 でもそこで鼠が壁をかじってしまうと、笑ってしまうから、そういう冷たさが溶けてしまう。緊張の内部、わざわざここまで丁寧に回避した情の部分が出てきてしまう。というオチがあるのかなぁと思いました。 単純に、受ける文章じゃないと思うのですが、個人的には凄く好みです。 (表層)

2017-12-08

洗練されたユーモアを感じます。おしゃれですね。些細なダジャレが音はもちろんの事、意味も踏んでいく。そこにイメージの繊細な飛躍が潜んでいる事。おかしみとおさしみ、テーゼとガーゼ。更には語り手の立ち位置も巧妙にずらされていて、語り手〈僕〉は〈きみ〉に食べてもらうために作っていると思うんですが、そういう立場を最初に提示する訳ではなく、まずは醤油の話をしながら刺身そのもの自体に自分の意思を滑り込ませていくような書き方をしています。単純に擬人法も言い切れない、面白いコントラストのさせ方で、読んでいるとなんとも心地の良い酩酊感が襲ってきます。 >おかしみを >ひと口で >きみに >食らって >もらう >為に >美しい綺麗な >お造りになりきって >おかしみって >言ってる >おさしみって >言ってた  絶品ですね。凄くいい作品だ。 (お造り)

2017-12-08

>海の縞模様が 砂の城に 住んでいます。 >幸いなことに 泣き方をしらないのです。 >今も絶え間無く砂が この街に注がれ続け >この部屋の容積も 埋められて います。  るるりらさんの今回の作品は、僕はうまく読めてない自信があります。それは単純に僕の中にない遠い感覚で詩行が紡がれているからです。本作の場合はイメージよりも、所謂詩的感覚をベースにしたひとつの、、、言い方は悪いかも知れないですが、哲学というか、認識の在り方、あるいは自己の存在の仕方。生体としての感覚の在り方。もしくは置き方というのか、そういうのがひたむきに綴られている感じがします。  そういう意味でちょっと上級者向けな作品ではないかと思いました。じっくり読んでみたい作品です。それは時間をかけてゆっくり取り込んでみたい作品だと言うことです。そして、僕がこの作品にかけるべき、あるいはかけられるべき言葉は、既に黒髪さんとまりもさんによって導かれていると思いますので、レスはここまでにしたいと思います。   (砂の中の海)

2017-12-06

 僕が一番最初に読んだ右肩さんの作品、「白亜紀の終わり」なんですが、結論を言ってしまうと、僕は白亜紀の方が好きなんですね。単純に感情が綺麗に書かれてしまっている。という意味で、これは僕の勝手な妄想かもしれませんが、書かれていない事が明瞭にあるという事が分かる作品程、僕にとっては面白いです。今はそういう気分です。ただ、結果的に対比すべきは「君の名は。」かもしれませんね。表向きではきっちりエンターテイメントをしつつ裏側ではエグい事、もしくは自分がやりたい事をやるという手法です。千と千尋の神隠しもそうかもしれません。あれは神様のキャバクラが舞台な訳です。 とか適当書きましたが、作品を読んで思う事はたったひとつで、 >何もかもが消えていく >思い出も >君の名前も 君の名前は多分マリアだと思ってしまったことです。そして、マリアの名前を忘れてしまうという事、多分本当に目に見えてわかりやすい悲劇? もしくは失恋がここにあるわけですが、そういう体験をすぐに忘れてしまう語り手が最後に現れる。それまでの事は全て前振りで、最後のこの三行で勝負みたいな事を思いました。 >どのみち人生に悩むほどの意味なんかない。そのことも素直に納得できるようになった。 これは「白亜紀の終わり」の最後ですが、「人生に悩む意味なんかないと素直に納得できるようになった」と書く事と >何もかもが消えていく >思い出も >君の名前も こう書く事のどちらが、受け取りやすいかという事をかんがえた時に、僕は本作の方が多分わかりやすいと思いました。単純に恋の話に絞っているからです。 (マリア)

2017-12-06

>参議 > >ギマと言う古本屋 >ギマと言う魚 >抓(つね)ったら悲鳴を上げる >参議が砂糖をなめていた  いきなりこれで、何もかも分からないですね。ただひとつだけ言えるのは、こういった言葉を引っ張ってきて無理矢理組み込んでもそこそこ成立しているような感慨をもたらされる所でしょうか。正直読める作品と、組み合わせの妙さだけ残される作品の二つありますが、先月のキイチゴに続いてこの作品はちょっとだけ言える事があります。  まずは、「ギマ」という語感を持ち出してきた事で僕の中では大分面白いです。単純にしらなかったんです。しかも魚の「名前」であるという所が面白いですね。本屋とギマは普通並んで使われる事はありませんが、しかし、ここでは並列的な物として扱われています。そう、名前というのは文脈をつなげてしまうんですね。そして本作の場合順番がいいですね。「ギマ」という古本屋を出してから魚の名前に繋げている所に好感を覚えます。だって僕は知らなかったからです。その後で実在すると言われたら調べますよね。そこでほんとだとか思っちゃう訳です。ここでまぁこの作品は僕の中で半分くらい凄いです。    そこから更に古本屋に繋げていってもいいでしょう。余り名前の知られていないが、しかしとてもおいしい魚を古本に例える事もできるでしょうし。  そこから凄いのが更に全く関係のなさそうな参議が出てくる所です。参議VSギマ&古本屋更に時代小説と的を絞りながら巧みに魚と時代小説並列させながら、参議と対比させていく。最初の「抓ったら悲鳴を上げる」と「砂糖をなめる」を対比させているのも中々感覚的に分かりながらも、しかし、そこまでの具体的な像を結ばない言葉の連なり。 >参議は歯で門を作り上げて >歯でオートバイを設計した >時代小説はあまり読まれなくなり >魚は死んだ >参議の門にはたくさんの弟子の列が連なり >オートバイには黒い羽根が >生えて来て >飛ぶ鳥のように飛んで >何処かへと消えて行った  ここら辺、正直に言ってしまうと言葉にならないですね。まぁ、なんちゅう物を書くのかと、完備さんも言っておられたが、切れ味のある文章である事は間違いないし、これらの参議と魚と時代小説の関係性の中に、歯とオートバイと黒い羽やら弟子やらが入ってくる。この入れ方が乱暴かと思えば、そうでもないような気がする。要は文脈そのものをこじつけて読んでいる自分がいる。歯が門になる事はイメージで分かるし、歯の隙間のイメージから車輪のイメージにつながり、それが廃れる、時代小説を捨て近代化を果たすことで自転車からバイクになる。そして歯から門下生のイメージへ繋げていく事で連綿と続いていく未来のイメージ。それらを象徴するようにオートバイから次ぎの時代につながるようにバイクは空中バイクになる。みたいなイメージ。その中で昔からある物が死に絶え、読まれなくなるという事。みたいな感じ。  ただ、この読解自体に確証は持てない。この作品の中に流れるイメージをつなぎ止めて仮縫いしただけに過ぎないし、そこに砂糖や微笑みとかいった言葉を組み込んでいけば、それだけで成立する物もあるでしょう。そういう予感があります。 (参議)

2017-12-06

正直に言ってしまうと、あんまりうまい感想が出てこないっすね。僕の悪い癖で、書いた人の事情みたいなの勝手に想像しながら感想を書こうとして毎回苦しむみたいなのがあるのですが、今回は取りあえずそういうの無視して、これだけ読んで思った事かきます。  ものすごくよみにくくて「人でないもの」ってなんじゃという所が凄くひっかかります。最初に提示されるのはあくまでも「虫の眼を持ち飛ぶべきところを飛ぶ」だし。多分虫ではない。虫のような特徴を持った「何か」。この何かというのもおそらくより煎じ詰めていく必要があると思います。    あんまり作者の話絡めた事したくないのですが、やっぱり右肩さんの作品は基本的に意地悪ですよね。  いやしかし、この文章自体のどこに主眼を置いていいのか分からないような感じですね。この文章に散らばった情報をかき集めながら見ていくという所で、正に複眼によって微分された景色の総体を見せつけられているようです。それらが一つの大きな関数として起動しているというのか、それが正に勢いであり傾きなのかなとかぼんやり書きながら思いました。その結論としてあるのが、多分   >これを喜びと言ってみようよ、さあみんな、斉唱しよう  ここというのか、全部つながった結果として喜びが出力されるというのか、ここを皮肉と捉えるべきなのかどうかについては、判断できません。例えば、僕らがこうしてネットでつながれているという事自体はきっと恐るべき事なんだと思いますが、その結果として未だに原始的なコミにケーションを繰り返しているみたいな所を考えるとやっぱり皮肉なのかなぁとか思いますが、でも今まで出来なかったコミにケーションがとれるようになった事を思えばそれは喜びとした言いようがないだろうとか、そういう感じで適当に理解した場合すると今まで書かかれてきた断片的な情報に意味が連なる事によって、意味が形成されるような感じかなぁ。  でも、この読解も多分誤読なんだと思うんですよ。僕は結局の所感想をやたらめったら書いているけれども、それらが本当に正しいと思っている訳ではなく、その時々に思う総体を提示しているに過ぎません。例えば、見逃している語も幾つかあって、「魂」については一切ここでは触れていない訳だし。 >複眼で微分すると物語ではなく時間経過となるこの冒険  上で処理した微分についても、「物語」ではなく「時間経過となるこの冒険」であるわけですね。こういう細かい差違が転がっている作品であって、個人的なこの作品は注意深く読まれるべき作品だと思います。  一方で、これ以上今のところ細かく読もうとすると、ぶっちゃけ体力もスタミナも中々足りないっすね。現時点での感想の限界はひとまずこういう感じになります。 (人でないもの総てがつながる勢い(改訂版))

2017-11-17

本作をどう感じたのか、うまく言葉にするのは難しい。僕はモールス信号知らないのです、ラピュタの冒頭のシーンに出てくる事以外はあんまり知らない。僕は専門家じゃないから細かい事は言えないのだけれど、モールス信号は我々の持つ言葉から形と音を奪って、棒と点の形に置き換えてしまう。その他の要素は多分あんまり差違はない筈で、でもこうして置き換えられた途端に、タイトルに「かもめ」と置かれてしまった瞬間にそれまで保たれていた形や音が、カモメの群体に変化してしまう。 そういう意味で言葉の性質をより形として認識してしまうというのですかね。中々難しいですが、言葉から形と音を奪い、そこに新しい形を植え付けるという試みかな。そういう意味ではちゃんと喧嘩を売れている感じがします。この作品は「日本語」で書かれた文章なのですが、モールス信号を取り入れてない人間からすれば、かもめの群れに見えるっていうんですかね。 (かもめ)

2017-11-15

個人的には、好きです。好きだなぁとしかいえない。タイトルもいいです。凄くシンプルそうに見えて少し考えると深く読めそうな作品でとてもいいです。 前半と後半の話にはズレがあって、要は後輩の話と彼女の話があるわけですが、彼女のパートの部分を読むと、普通に男女の話かと思った所に女同士の可能性の方がぶっこまれるところみたいなのが面白いです。ちゃんと性別について明記されてないのはわざとで、彼女から胸を揉まれる所から始まってるのがなんともおもしろい。タイトルも光ってきますね。そこから創作の話に、広げてもいいし、いやー色々な読み方ができる作品だと思わされました。 うまくいえないですが、完備さんの投稿された作品の中ではダントツに好きです。 (mirage)

2017-10-01

 個人的にはもう職人芸の領域だと思います。 >切り裂かれた >首の向こうに >レモンジュースの泉が >光る  滅茶苦茶物騒じゃないですか、やってることはね。  でもレモンジュースの泉で全部爽やかなものになってる。最初読んだ時は、首をまるでレモンみたいに二つに綺麗に切り裂いた話のように思いましたよ。  植物の果汁から、血につなげていく、そこから更に葡萄の実を食べる  >僕は葡萄の一粒を口に含んだ  >血の味を知らないくせにと君が笑った  で、そこで一回戻すんですね。血から果汁に戻した所で、  >植物の流す血は乳白色だろう?  >僕は葡萄を口の中で潰しながら言った 汁は咥内を流れ喉の奥へ伝う  >  >僕の暗がりへと  >  >忘れたこと 彼らの来歴 明日の空の色  >僕の背中には翼があるから  >僕の心臓には過去がないんだ  >  >レモンジュースを飲み干して  >君はけらけらと笑った  >  >血の色よ  >その赤よ  >絡まれたその鎖よ  >魂ってどんな味だろう  これは凄いなぁ…いちいち解説入れたくないですね。こんな発想よくできるわっていう感じですね。  素晴らしい。植物の血を赤いイメージから一旦切り離して白い血に変えます。そこから喉元を伝って心臓につなげていく。そこから魂の味にダイレクトに繋げていく豪胆さ。えげつないですね。  君と僕との関係については、多分色々深めていけるポイントはあると思うんですが短めの読書だとそこまで上手く掴めなかったので今回はレスしませんが、それからこのラストですよね >切り裂かれた >首の向こうに >レモンジュースの泉が >光る > >泳ぎに行こうか  なんで泳ぎに行くんだ! って突っ込みは可能だと思うんです。が、僕は納得しちゃいましたね。果物の盛り合わせ、で僕と君がいたら側に海でも湖でもないといかんよなみたいな所で、ここら辺もいい意味でずるいっすね。泳ぐという行為の爽やかさも相俟って、逆に唐突に出てきた所が締めのシーンとしての説得力を生み出しているというのか、なんとも荒業だとおもうんですけどね、いやー凄いな…     (lemon juice lemon eye )

2017-09-28

 端的に連想のジャブの連続みたいな感じだなぁと。kaz.さんと電話してる時に感じる飛躍のあの感じに近いように思います。  なんというか、至極真っ当にストレートですよね。別に難しく考えて読むものでもないと思いました。細かく読んでいくと、それはそれで面白いのかもしれないのですが、個人的には流して読むのが一番面白いのかなと思います。ただ、その面白さをこの詩から抽出して自分の体内に取り込むといった段になると、大変な気がしますね。  個人的に、一番くだらなかったのは始まりの部分で、 >あーめん、あーめん、って、 >終わらせて、ざーめん、ざーめん、と からの加藤鷹みたいな所ですかね。多分、男なら考えたこと一度はあるはずだ。詩人ならそうに違いない。 そこから辞書で意味を調べまくって連想しまくる話と、熱帯魚屋さんの話が出てくる。五月雨と頭痛の話も出てくる。そして間に挟まれる熱帯魚の絵文字から連想するに、彼らの模様てカラフルだと思うんですよね。色々な色が組み合わさっている。みたいな感じで色々な話が熱帯魚の模様のように集まっていて、それぞれが意味を為している色であると。でもそれらをつなげようと藻掻けばもがくほど、水槽は割れてしまうのかなぁみたいな感じ。 >その日の帰りは五月雨だった。五月雨式に五月雨である、と言ったら頭痛が痛い、みたいな話になるんだろうか。ちなみに頭痛という言葉には心配・苦労といった意味も含まれていて、痛いという言葉には取り返しがつかないほどひどいという意味も含まれているので、苦労が取り返しがつかないほどひどい、という解釈も可能ではあるが。だらだらと長続きする雨が、自転車のヘッドライトによって無数の縦線となって円状に浮かび上がる。群発頭痛が痛いように、つまり1〜2ヶ月の一定期間、睡眠時や早朝時などに起きる激しい頭痛が取り返しがつかないほどひどいように、雨は激しく頭を打ち付け自転車を打ち付け体を打ち付け、そして光をかき乱していた。 >朦朧とする意識の中で私はシャワーを浴びるのも忘れてひたすら書いていた、それが冒頭の詩だった。私の頭の中では熱帯魚屋のガラスケースが破壊されるのを、熱帯魚屋に行く度想像していた。そうすれば辺り一面が今の私の体とともに水浸しになるだろう。また、沢山の魚の死骸が先に見た夢のように溢れ出るだろう。あくまで仮定の中で、私は自由に想像していた。  ここら辺の叙述が好きですね。凄くいいです。  売れるかどうかみたいなのは分かんないですけど、僕は読んで満足しました。絵文字も今回は、使われてる用途そのものに見合った読みが出来ているとは全く思わないんですが、なんというか今回は合っている感じがしましたね。 (コリドラスの夢彩)

2017-09-28

 単純に好きだなぁ、という感じがします。言葉に出来ない日常の二項対立というのかな、煙草とパチンコ、それから五〇年続いてるカレー屋、この二つの行き方の違いを感傷的なタッチを極力排除しながら淡々と俯瞰していく感じ。煙草に七曜を掛けてるさりげなさもおしゃれだし、そういう所からも一歩引いた所から何かを見ようとしてる感じが凄くいいですね。  なんというか、意味で韻を踏んでいるんですね。それが凄く心地いいんだ。みたいな所かなぁ。    個人的にはこういったある意味、社会一般的な目線から見たときの「クズ」寄りの中庸っていうんですかね、そういう作品が好きだなぁ。  色々ごちゃごちゃ言おうと思いましたが、取り敢えず好きですね。 (7stars)

2017-09-28

sonetiraさん >女子ならどの世代も共感できるような、誰もが口に出したかったけどうまく言えない感情をこまかく表現していると思いました。 >読んだあと、悔しくなりました。嫉妬しました。 女の子になりきれているか、本当に毎回書く度に怖いのですが、それが本当に達成できていたのであれば、こんなに嬉しい事はないように思います。読んでくださり、本当にありがとうございました。頑張ります。 (世界)

2017-08-28

三浦果実さん >大凡、グジグジ的なセンチメンタルな内容の作品というのは、失敗すると沼になる。読むものとすれば、そんな沼には入りたくないと拒否感が先にくる。  b-reviewを始めて、色々作品を読んできましたが、多分評価を下さねばならなかった時に一番辛かったのは、多分三浦さんの言葉を借りれば「沼」をもつ作品。僕は一貫して「辛い」という言葉で表現してきた作品だと思います。それは僕自身もそういうものを題材にして書いてきた事が、大きく背景にあります。なぜなら、そういった作品がどこに行っても大体評価されなかったからです。でもそういった事を例えばレスとして託して批評できるかという時に、それはやっぱり僕の個人的な都合であるという風にも強く思っていたので、だから自分が書いてきた事に対してダメ出しを無理やりつけていくみたいで、本当に辛かったですね。僕はやっぱり自分に近いと思ってしまう作品のスタンスが本当に苦手だ、という時に僕にできる事を考えた時に、もう一度僕なりに沼を書いていく事が、ある意味有用かなという所で、模索し始めた所があります。    何も伝わっていないような気もしますが、僕が女の子を主人公にしている理由はつまるところそこにしかありません。どうやったら皆読んでくれるだろうかっていうのとどうやったら僕にとって書きやすいだろうか。その結果として何が伝わるだろうか。という事。現実は本当に甘くないですね。でも頂けたレスは本当にどれも貴重な情報で溢れている。僕には見えなかった景色ばかりです。三浦さんから指摘してくださった所を読むまで、本当に嫌いでしたが、効果的だといって下さって本当に嬉しかったです。次の作品を書くための道筋や、頂いたコメントを客観視するきっかけもいただけました。ありがとうございます。 (世界)

2017-08-28

まりもさん 性的な物のモチーフをネタにするという時に、やっぱり連想に力が非常に強く働いてしまうのだなぁと、思いました。要はセックスってなんというか万能であるし、その分使う時にはどうしても引っかかってしまう連想の糸を意識するか断ち切る形で使ってやらないといけない諸刃の剣なのだと思いました。 普通の部分については、色々な見方があると思います。そこらへんについても、多分未成熟な所で出してしまったのかなぁと思います。推敲の部分にも絡んでくる所ではあるのですが。僕は推敲が一人じゃやっぱり出来ないんですね。物を書いている時に10作品位のうち9作品くらいは過程で終わってしまっている。その最終点を模索するための作品を公開し、アドバイスをもらうことによって一作何かしら納得するものができる。それができる度にまた最初から何かを作り始める、という所で本作は多分僕にとっての過渡期に当たる作品。そういう意味で今回頂いたレスの多くが未熟であるという指摘は、自分で自作をそう思ったり、たかをくくってみる以上に、ガツンと大分心に来ましたね。なんだかんだいって落ち込みました。 そこら辺も含めて、女の子を主人公になぜ僕は据えたのかについても、姉と弟が登場するのかとか、普通みたいな概念について、明確な回答を作品の中で提示できるように、やってみようと思います。といいつつ、中々狙って書けるものではないのですけれども。 (世界)

2017-08-28

Migikataさん 花緒さんの指摘して下さった事で、ある意味対面的な拙さみたいな所については僕はあまり返せる言葉を持たないのですが、なんというか、やっぱり本作は実験みたいな所もあったのかなと思います。例えば「エッチ」っていう部分については女の子が自然とエッチっていう言葉をどういう時に使うのかなみたいな所で、試しにやった部分もあります。勿論それだけではないのですが、そういう新しい事を試す代償として作品が拙くなってしまう…みたいな所が一応の言い訳になっちまう所ではありますね。 今回女の子の部分については、エッチの所はともかくとして、半分くらいは成功して半分くらいは失敗しちゃったのかなぁという感じがします。次回以降の作品で上手く調整出来たらと思いました。 (世界)

2017-08-28

花緒さん 色々頂いたレス読んで考えたのですが、やっぱり書き手の都合みたいな物の方が勝りすぎてしまったのかなぁと思いました。ここら辺、多分プロみたいに文章を売るみたいなところで考えていったときの親切さみたいな所が大切なのだろうと思いました。なんというか、無駄な所で破綻したって誰も得しないし読まないよみたいな所ですよね。 最終的にそういう所に行き着けたらいいなぁと思いました。そういう意味で本作が僕にとっての過程の詩であるという再認識が取れたように思います。率直な感想ありがとうございました。 (世界)

2017-08-28

竜野欠伸さん ずっと物を書いてる時に考える事なのですが、作品の中で暴力を振るうことについて、ずっと考えています。そのことについてもためらいを感じる一方で、では何故それを描くのかというと、やはり、暴力は常に僕らが生きている世界に存在し、それを見ない事には出来るかもしれないが、排斥する事は出来ないからだと考えています。ただ、それをリアルの世界で起こしてしまうと、それこそ戦争になってしまいます。 人を殺す実験、という言ってしまうと本当に不謹慎な事かもしれないのですが、そういう事を作品の中だからといって無邪気に殺してしまう時に脳裏を遮る感情があります。それは多分、僕が作品を書いているときの見た目には分からないのですが、本当に頭の中では疲れが生じます。本当に人を殺す事は大変だ。でも、そのそばで僕は日々当たり前のように肉を食べているという事実が頭をもたげ、その度に自分の中にある人を殺してはならないという思いだとか、なぜ自分の行き方に詰まったときに殺すという発想が出てくるのか。そして戦争についても確かに頭の中を掠めていきます。 最後の最後にホテルが出てくるのは、僕が行った事のない外国がイメージになっています。イメージとしては中東みたいな感じですが、それは、おぼろげな僕の中にあるイメージだけでふんわりと思い描きながら描いた虐殺のイメージです。でも彼ががなぜそのホテルにいて殺されるのか、そこに必然性なんかどこにもないのですよね。偶偶その土地にいてそこで生きていたからというだけなのかもしれないし、そこには何かしらの明確な因果が絡んでいるのかもしれないんですよね。そして、そのような話をなんとなく僕は遠い国の話として捉えるばかりで、うろんげに死を捉えているという事。そんな僕が死んでくださいといってしまう事みたいな事を考えたときに 1たとえ命を奪う悲惨さの自覚がなくても相当に命を奪う時間を費やす。 2命を奪うことには困難さや不条理が多大に伴います。自らの未来を失う危険にも追い込む。 3命を奪うことを望んでもやはり他者の命は、他者以外の人間にもかかわり、それは、自身も無関係ではありえない。 4すべての命には背景説明は極めて困難です。原爆投下もやはり理由が諸説あり、それらは根拠や真実ですら無数になる。 5近しい伴侶として異性の死をともに痛まざるをえない。強く異性の安否を意識する。 頂いた5つのポイントについて個別に僕が何かいうことは本当に難しいのですが、しかし、僕は自分で自分の作品を読み返したときになぜこのような記述が本作にとって必要だったのか自覚し、認識する事ができたように思います。 レスありがとうございました。 (皆殺しの比喩)

2017-08-27

小笠潔さん ><しんでください>の連呼は、他者というよりむしろ自らに向けて発されているかのようです。 この頂けた一文、、、なんというか一番ビビリましたね…。 もう、、、なんというか、頂けたレス全てに、白旗としか言いようがありません。 これを書いている時に、本当に自分が大嫌いというかですね、死んでくださいといってしまう自分みたいな物の方が本当にくだらないのに、なんでこういう事書いてるんだろうかみたいな所から、常にこの作品は内側に向けて書いていた自覚があります。それを逸らす為に多分外側に向けて暴力を振るう形で、エネルギーを読み手に差し出すしか方法がなかったのかなとか色々な事を考えてしまいました。 >苦しみに遭遇し、自ら望んで生きているのではない、と生を受けた理不尽さを嘆きます。しかし、その嘆きに呼応してくれる存在が少なからず生きていると感知します。その存在は、苦しい生に垣間見る残火のような希望です。しかし、それすら消され、ひとすじの煙が上がったとき、ヒトの暴力性が表出するのではないかと考えさせられました。 正直、このような感想がいただけると思ってもなかったです。多分僕が書きたかった事、そのものを超越したような、色々な物が凝縮された感想だと思いました。 それは、悔しいとか、そういうのじゃなくて、多分こういう事しか言えない自分の未熟さに困惑してる感じですね。僕は多分これからこの頂いた一文の事、折に返しては数年間考えてまたこのレスを見返しながら考えていくと思います。本当に素敵なレスをありがとうございました。 (皆殺しの比喩)

2017-08-27

返信が大変遅くなってしまい、すいません。頂いたコメントを飲み干して自分の物にしていく、事にどうしても時間がかかってしまいます。無下しているわけではなく、大切だからこそ、こうして遅れた返信になってしまう事、申し訳ないと同時に、本当に素敵なコメントをありがとうございました。と前置きに置かせていただきたく思います。 (皆殺しの比喩)

2017-08-27

 コメントするついでに直しておきました。ご確認ください  …とはいいつつも、出来れば一発投稿をお願いしておりますので、次回以降はミス無いよう宜しくおねがいいたします。  一読して思うのは、単純に読んでてすがすがしい思いになる作品っていう事です。  ここに描かれている事のように大人というか今の現代人が生きるのは多分大変な事のように思います。  そういう意味で本作を楽天的な詩であるとみなす事が出来る一方で、逆にこのように生きてしねたらいいなという願望のようにも思えます。だから生きる事と死ねる事がここでは等価であり、同じように軽い命の営みとして描かれている。  命の重さっていうのは、自然を生きていく上で、どれかくらい感じなければならない事なのか、というのは人間に生まれてしまった以上は、重くなる一方なのかなと思います。単純に僕は物を書いている時に命の重さみたいな物を単純に「重く」どうしても考えてしまいガチですが、命の円環そのものというのは自然を見渡せばありきたりなんだよ。そこまで気負う必要はないのだよ。と言われたような気がします。  僕個人としては、それでもやっぱり金稼いで生きていかないといけないし、僕はこれからも、ある意味根暗なスタンスで生きていくんだろうという思いから、本作のスタンスそのものに対して心から賛同はできませんが、スタンスそのもののあり方自体に対する憧れや、そういったあり方を心の隅にもって置く事は大事だと思わされました。 (野を駆ける)

2017-08-20

>光のように眠い >迫撃砲という言葉を >あなたは軽々しくもルビに塗る この三行が素晴らしい、っていうよりは、なんでしょうね。こういう表現の仕方があったのだなぁと思いました。 軽々しくルビに塗るのか、迫撃砲という言葉を、というこの実感を他に言葉にする手段を持ちませんね。僕が多分、僕が認識している範疇のニュアンスで、同じ事を表現せよ、と言われたら無理だと思ってしまいます。多分説教とか、若気の至りみたいな所で終わってしまうと思います。 その点本作はある種のハードルを越えている感じがします。僕は、ここまで比喩を使えないですね。直喩に近い程意味が明確に伝わる飛躍する距離は小さいのかもしれないですが、重量のある比喩だと思いました。なんというかニュアンスを正確に伝える為に選び直した語のずらし方が非常に良いです。 これは僕自身がこういった言葉の使い方そのものが好きだからと言ってしまえばそれまでなのですが。 そういう意味で僕は本作そのものが好きですね。いい意味でコメント書きたくない作品です。僕が何か物を書けば書くほど作品に余計な贅肉がついてしまう事だけは避けたいなぁ。 (黙すること)

2017-08-20

 なんとなく一読して、一行一行ごとの繋がりみたいな所がうまく見えてこないという実感が先立ってくる感じでしょうか。    >汚点に連なる音符は感傷的にもドキュメンタリー  ここら辺も、難しいですね。  多分個人的な解説を入れていくならば、ドキュメンタリーな性質を持つ物っていうのは、汚点が音階を奏でていくような物であるという所、また更にそういった物は感傷的な物がおおいし、感傷は多くの場合他人から見た場合はつまらない物がおおいから、私の礼儀として指し示す時に器用さを演出した私を表に出すことによって、面白い人間である事を皆の前にさらけ出して、それをもって無機質な人間を演出する。それによってワルツを踊るみたいな感じかなぁ。  でも、そういった演出された人間の実況そのものっていうのは、やっぱり自作自演であるから、そういう虚構そのものに築いてしまうと、やっぱ茶番だしやらせだからつまらんなくなってしまう訳ですね。そういう意味で、サヨナラして、自然の自分であろう。ドキュメンタリーに生きていこうみたいな感じなのかなぁと思いました。  内容を僕なりに追っていくとこんな感じなのですが、単純に作りの面で見ていくと結構投げやりな部分もおおいのかなぁという感想が最初に出てきます。    僕が上で書いた内容に、多分不倫みたいな物のイメージ重ねていくとより色々明確に見えてくるのかなぁと思うんですが、少し感覚的な筆致の具合が高すぎる印象です。ある程度読み手の方で内容を想定して埋め込んでいく必要が生まれる読書だとも思うので、そこら辺の手間がちょっとかかる作品かなぁと思います。一行一行を多分読んでいくと、面白い表現だとは思うんですが、そこに至るまでのストロークがちょっと長く感じるかなっていう感じですかね。 (しばらく麻痺)

2017-08-20

 古い道にはやはりそれだけの歴史があると思う。そして、歴史があるという事は、そこで色々な事件があり、文字通り人が死んでいたり、もしくは怪我しているという事でもあると思います。そしてこの場合の歴史というのは、人類史に残る程でもない程度の死の積み重ねみたいな物の気配という事が言えるのかなと思います。  電脳コイルっていうアニメがあるのですが、その雰囲気に似ています。そのアニメにはイリーガルという黒い影みたいな存在があって、そいつらは基本的に古い道や空間に出来るデータの割れ目みたいな所にいるのですが(詳しい事はあんまり覚えていない)そいつらは確か元々は電脳世界に生まれた電脳ペットたちなんですね。それらが何かしらの影響を受けてバグになってしまった結果、電脳世界の表に出る事が出来なくなってしまった存在になりはててしまう。みたいな、そんな感じだったような気がします。  だからパクリだとかそういう訳ではなく、裏路地という時の裏っていうニュアンスは例えば「裏S区」みたいな怖い話にの接頭語にもあるように、そこには消す事の出来なかった怨念に近い何かしらの残滓、というニュアンスがついてまわるように思う。そこに路地という狭い道、或いは空間が接ぎ木されることによって、多分広い道では薄れてしまう思いが自然と凝縮されていくようにも思います。また路地というのは区画整理がされていない印象も持ちますから、そういう所から曲がりくねっていう所から生じる歪みや、車が通れなさそうな感じからの人気の無さのニュアンスなんかもうかがえる。そこに本作の場合は適格な映像表現に適した言葉の使いかた、物事の情報提示あるいは開示の仕方がなされていると思います。  ここにはある意味明確な意味はない、でも、そこに何がいる気配があるし、ここには何がいて、それらが近隣の空間を覆っているのだという事は感じる。電脳コイルではそれは「霧」で表現され、そこにはイリーガルが生息している。そいつらは人や電脳ペットの情報を食べる訳ですね。 >痙攣痙攣痙攣痙攣痙攣 >痙攣痙攣痙攣痙攣痙攣 > ただただ震え続ける >  生え伸びた無意味 ここなど最高だと思います。祝さんの作品では今の所一番すきかもしれない。 (裏路地)

2017-08-20

面白いです。スポンジで物を洗っている、という行為そのものから広がっていくイメージから、妻を殺してしまう展開につなげていきつつ、ただ殺す訳じゃなくて、捻った殺し方をしています。 話の内容はちょっとだけ難しい事を言っているかもしれないんですが、分かるような気もします。そこらへんのユーモアの塩梅が個人的には好みですが、その良さを説明できる程僕はあんまり頭が良くない、という自覚がありますね。そこらへんが悔しいなぁ… >ものを洗う > >別のものを洗う > >またもやものを洗う。 > >繰り返す泡の連続が幸せの内実だ、と認識している。  いえるとしたらここら辺ですかね。要は反復されることっていうのは要はそれ以外の事が起きないという点で安定しているという事が言える訳ですね。ここら辺は僕は歴史の授業で平安時代の摂政関白と、江戸幕府の所で習ったのですが、治世を安定させるために必要な事は、とにかく毎年同じ儀式をつつしめやかに繰り返していく事だそうで、それは傍目に見ていると変化がなく、本当につまらない事なのですが、故に大事なのであると、そういう事らしいです。  …みたいな感じで、僕はそういう話を展開しましたが、本作の場合は化石だとかそういう方向に話をもっていっている。そこらへんのエピソードの選択のセンスっていうのが面白いですね。別にこういった話をする時に壮大なテーマであるように見せる必要はないと思うのですが、個人的には派手な物のほうがいいんです。スケールが大きい物はやはり浪漫です。極小のスポンジの何気ない変形から、 >俺が洗っているのは地層の一部で採掘された粘土が焼成された、その皿である。 >デボン紀の植生が原形を留めぬ変形を受けた成果だ。 >などというつもりはないけどね。 ここまでつなげてしまう。僕らニンゲンという生き物という物体の元素という物もやはり60億年前には既に存在していたという感じとかも、よくよく考えてみるとそうであるし、そうなんだとしか言いようがないけど、まぁ、だからどうしたという話でもあります。でも、考えてみるとそれはそれで面白い。そう思わされてしまった所に、僕は魅力を感じますね。  という訳で、ここら辺の飛躍のスタイル単純に好みとしか言いようがないですね。僕はあんまり物知らないので、こういうちょっとした知識の入ったユーモアが入った作品そのものに弱い、というのがあるかもしれません。僕は結構騙されやすいタイプです。 >皿を洗う男。直立している。 皿とかを洗っている時間って本当に不毛なんで、僕は凄く苦手な時間なのですが、だからこそそういう作業をしている時程色々極端な事を考えたりしている。単純にそういう風に話を見てもいいのかなと思います。最後のこの落ちは、「とまぁ色々考えてみたけど…なんてね」みたいな感じに思えて凄くチャーミングですね。決まっています。 (スポンジでものを洗う)

2017-08-20

>日々は髪の毛の真ん中を >回りながら落ちてゆく >二度とない今日から >一度もない明日へ >みくろんのろんど みくろんのろんど >わたしの髪は黒く踊るよ  なんとなく、もう少し言葉を補完していくと多分見えてくる発想があって、それが面白い感じがします。 これは、僕がなんとなく感じた事なので、それが目新しい表現や発想につながっているのか、については明言も保障もできませんが、例えば髪が踊るっていう所の考察というか、意味付けの重ね方という所が重層的であり、且つねぶとい感じがしてそこが面白いのではないかと思いました。  「髪の毛」という言葉に置き換える前に、ミクロンという単位に置き換えている事。それから「ろんど」っていう風にちょっとだけずらしてから「踊る」っていう風にちょっとだけ、具体的な動詞に置き換えているというのか 「みくろんのろんど」=「わたしの髪は黒く踊るよ」  意味としてはこうかもしれないんですが、実際は 「みくろんのろんど」≒「わたしの髪は黒く踊るよ」  なんですよね。この小さなな飛躍が、多分面白いのではないか。例えば髪の毛が単位に置き換わるだけで、ここでは意味の幅が一気に広がると思います。  髪の毛はミクロンっていうある意味長さの最小単位(っぽいイメージ)から、日々のイメージにつながっていきます。髪の毛が抜けるっていう行為は、英語とかの時制でよく習う直線のイメージとも連動して見えてくる。髪の毛が伸びれば伸びる程根本が今で、過去はどんどん下にたれていく。そして、髪の毛には明日、つまり未来は記述されていない訳です。 そして、一度抜けた髪の毛に刻まれた今日は、抜けた戻ってこない訳です。 髪の毛と時間の関係を >二度とない今日から >一度もない明日へ たった二行で示しています。 そのあとで提示される髪の毛が踊るっていう通底音、それから一連目冒頭の二行 >日々は髪の毛の真ん中を >回りながら落ちてゆく >みくろんのろんど みくろんのろんど >わたしの髪は黒く踊るよ ここの時間と髪の毛と踊り、それから最小のイメージの重ね掛けと、それらをよりよく伝えようとするイメージの多面性っていう説得力っていうのが、個人的には面白く感じました。これは余談ですが、髪の毛の詩が結構B-REVIEWは多くて、書き手によって本当に描き方が違うなぁと、本作を通じて思いました。 二連以降は一連のイメージをよる細かく噛み砕いて説明していくみたいな感じがします。髪の毛を梳いたり、髪の毛が白髪になったりするときの感じみたいな物を、より日常に接近させながら、優しく書いている感じがいたします。 (みくろんのろんど)

2017-08-02

樹々が着がえて うっすらとはにかんでいる 冬のあいだ咲き続けた一輪のアザレアの 傷口の色があふれはじめた赤に埋もれ 静かにその役割を終える >樹々が着がえて >うっすらとはにかんでいる >冬のあいだ咲き続けた一輪のアザレアの >傷口の色があふれはじめた赤に埋もれ >静かにその役割を終える  一連目のイメージの焦点の当て方っていうのが初読の段階で難しかったです。樹が着替えてはにかむ。それから、アザレアの花っていう僕にとって初めて対面する花のイメージ。からその傷口の「色」、そして役割を終えるという締め方。 長い一文(に見える、という方が正しいと思いますが)の中で、ちょっとだけ複雑な文の作りになっているというのか、ぼかされて書かれているというのか、そういう始まりから、ネギが出てくる。ここが物凄く新鮮で、なんだろうな、多分今月一番好きだと思います。この二連は至極です。 >入れ替わる大気の中で >ネギを切る >白い同心円からあふれだすつゆが >朝日を吸って暗闇に落ちる >排水管の中を明るませて >しずくは海まで行くだろう >とどこおり停滞し >壁面にはりついた悔恨を >ひきはがし押し流し >流れていく金色のしずく 他の言葉に換言できないですね。最高すぎます。ここの連だけでも多分30分はしゃべれるくらいの偉い密度と、技術とセンスの塊だと、個人的には思ってしまいます。それは、ものすごく勉強になるというか、凄いとしか言えないですね。これは僕にとっては、になってしまうかもしれないのですが、これほどまでに親切な表現であるのに、多分僕には書けないだろうという連想というか、詩の構成というか、語と語の絡み合い、意味のなだらかな変容具合だとかそういう所です。僕は語に纏わるイメージ、あるいは音がグラデーションしていく詩が好きなんですね。その点、この二連は至極絶品です。僕が朝台所でネギをいくら切った所で、それをスケッチしようとした所で、海を持ち出す事はおそらくない。そういう意味で7月の作品ではある意味一番スケールの大きい作品だと思います。 正直、ここでレス仕切れる自信がないので、後日改めて再レスさせていただきたく思います。それはまりもさんの為、というよりは僕が勉強させて頂きたいっていう所が大きいかもしれません。 加えてスケッチっていう所、言葉でスケッチを取るという事の重要性みたいな点について考えさせられました。言葉で何かをスケッチするという事は、その書き手の、詩的視座というのか、あるいは単純に認識、思考と言ってよいのか、わからんのですが、そういう物の追体験が非常にしやすいのではないかと思いました。 どのように語り手はその世界をとらえているのかという部分を視覚的な面ではなく、なんでしょう。ある種イメージによる、余白のある共有というのか、中々僕が本作を読んで体験した事をうまく言葉にできないのですが、その感慨を垣間見れるものなのかなと思いました。 個人的に絶賛する他なく、客観的なレスを書くのは僕には無理です。 (朝のスケッチ)

2017-08-02

 正直な感想を言ってしまうと、いろいろちぐはぐな感じが強くて、かみ合ってない印象が強い。そういう意味で惜しい作品なのではないかと思います。何かしら感じる意図みたいな物はありますが、でもそれを楽しいか、と思えるかどうかの前に、不整合さのほうが際立つ感じです。 >君の声がきこえた >君は僕を見つめた >眩いばかりの陽射しが >僕らを照らしている > >やばい 遅刻しちゃうよ >ちょっと 急がなきゃね >信号 点滅してる >やっぱり 止まろうよ >そうだね  ってきて >ぼんやりとした日常が >はっきりとした日常へ >変わった その瞬間を >僕は恋と呼びます > >きっかけを見つける度に >ちっぽけに見える日々が >輝いた その瞬間を >僕は恋と呼びます  日常や、きっかけを見つける瞬間が一連目のどこにあるのかっていう所で、説得力がない感じ。 何が言いたいのかっていうと、僕としては >僕らは怒鳴られながら >こっそり 目線を合わせて >バレないように 微笑んだ  この三行が素敵です。こういうのを多分詩の中にもっとちりばめていったほうが多分キュンとするんじゃないのかっていう感じがします。基本的に遅刻はいけない事ですが、信号機を無視せずに守った二人だけの小さな秘密(正当性)みたいな所と、遅刻して怒られる時に全く反省してない感じの共犯性みたいなやつでしょうかね。あんまりうまくいえないのですが、そういうものが絡み合った目線と微笑みがある所に、若狭と甘酸っぱさがきれいに表現されていると思います。  僕はこういう所に恋を感じるけど、これが前段に示された恋に符号するかっていうと割と疑問。 >夏はこうして始まった、、 この場合の「夏」は付き合いだした二人にとっての初めて夏みたいな感じなのかなと思いますが、そこにつながる前に、この場合の「夏」的な要素って多分どこにも書かれてないので、なんでなんやっていう感じがますします。 話のメインは遅刻そのものだし、夏の始まりを匂わせる要素っていうのは気候ぐらいじゃないのかっていう所で、説得力に欠けます。余韻とか始まりの予感っていうよりは、結局何が言いたかったんやっていう感じです。  ここからは作品から少し離れた余談になってしまいますが(迷惑だったら申し訳ない)、本作を読んでて思ったのは桑田佳祐の「TSUNAMI」、それからスガシカオ、ついでに「ですます」の話です。  「TSUNAMI」は内容の濃さというより言葉の音の踏み方がとにかく完璧。で移り変わり方もよい。物語も綺麗にギャップがうまくはまっていて、サビの女々しさに説得力が生まれているっていう感じ。そこに音楽と桑田のキャラクターがはまってさらによいっていう感じです。  カタカナにしてある所は、スガシカオが前NHKで話してた時に打消しのイメージがああるって言ってて、ちょっといい感じに透かしたい時に有効な手段って言ってたんですよね。真面目と常識っていう所の持つ字面の堅苦しさがここでは、多分ちょっとだけこじゃれている風になっている所は嫌いじゃない、という風に思いました。  それから、ですますの所については、僕はあんまり好きじゃない派です。ですますは、最後につけるとそれだけで簡単に韻が踏めてしまうっていう所で、割と手抜きがしやすいっていう所。簡単に定型が作れてしまうので、要はフレーズが埋もれやすくなるイメージがあります。例えば上に上げた「TSUNAMI」は、雨、何故、誰、っていう面白い踏み方してるので、歌いあげてる情感が自然に雨にオーバーラップしていくようになっている。  この話は余計すぎかもしれないのですが、単純にちょっとだけガチでぶつけて話がしてみたかったというのがあります。余計なお世話でありましたらスルーして頂ければ幸いです。 (通学路)

2017-07-30

 僕にとっては少しぼやけている部分が結構多い作品です。そういう意味で詩の輪郭みたいな所に僕の焦点が合わない所が、正直に言うとあります。けれども、そういうのがどうでもよくなるくらいの個々のパーツそのものに対して、何かコメントするのが億劫になるくらい素敵です。  一か月くらい悩んでたんですよね。細かいレスをつけて、それらに無理やり整合性をつけて、一つの読解として提示しようしたんです。が、そういうのはやっぱり無粋に思えてしまいました。   >肌理細かな >みずと肉を >やわらかな骨にまとわりつかせ  人間の体をみずと肉という二つの要素にわけてしまう。それを「やわらかな骨」に「まとわりつかせる」ることで合成してしまう感覚。僕らはまず水と肉からできていて、それがやわらない骨にくっついているだけなんだよみたいに言われた感じを僕は他の言葉で言い換えられない。納得してしまう。そこに「肌理細かい」という肌の一文字が入るだけで、皮のイメージもわいてくる。この三行で人間の体が成り立ってしまう。 >希薄でさみしい血液に >学習させたら >かろうじて 息ができる  そのあとに血液のイメージがぶっこまれで、面白いのが血に学習させるという事、それによって息ができる。という感覚。さらに血液に「希薄」で「さみしい」という修飾がくっついていますが、ここに明確な理解を加えられるかというと僕には難しいのだけれど、ここでいう血液の意味っていうのは豊穣だと思う。人間の肉体は水と肉で出来ているが、それが骨によって繋ぎとめらた時に血が流れ始める。その血は、物を覚えることによって日に日にその量が増えていく。それは何もできない子供が学習する度に体が大きくなり、物を覚える度に血の両もまた大きくなる。その結果として自立するために必要な物を覚えることによって、息=生活する力=自分の足で立って生きていくことが可能になる。 >互いによろこぶ >こころと足の >あるべきところへ > >気をつけて、 >いってらっしゃい。 いってらっしゃい。という何気ない最後の一言が眩しすぎる。 こんなにも送り出す言葉の先にある光を感じる最後があるのだろうか。みたいな事を思います。 子供が羊水の中から生まれて、それから少しずつ大切なことを覚えていって、最後は自分の足とその心で、自分の愛する人を見つけなさいみたいな感じでしょうかね。親の暖かな視線みたいな事と、未来みたいな物を感じました。 (足)

2017-07-27

   「水に流す」っていう事の意味を僕はあんまり知らないんですが、ここでは、名前みたいな物を水に流してしまう感じがしました。…っていうかそういう事しか言えなくて、僕は弓巠さんの作品が基本的に好きだし、これは客観的に正しい解釈ができたかどうかというのは差し置いて、僕はこの作品に納得を覚えてしまった。 >透明が水になって流れていく >光を細かく砕きながら >思い出してしまったことのように >ように ここなんか絶品ですね。この作品を読んで僕が強く思うのは「水」という思想、あるいは水そのものの性質っていうのか、あまり呼び方を僕は知らないのですが、そういうのひっくるめて水というモチーフの持つポテンシャルみたいな物の高さを思い知らされました。水っていうのは何にでもなれるし、流すことができる。なかったことにできてしまう。それは透明という目で見えない何かすらも身に包み込んでしまえる優しさと、光すらも砕いてしまう暴力的な何か。  川の上を流れる水に同じ水が流れることはない。だからみなもに向かって何回も名前を呼ぶけれども、同じ水は流れてこない。しかし、それでも私たちは、流れてくる川の水を、水と呼ぶことしかできない。水A、水Bと呼ぶことができない。と同時に、目で見ることのできない水なるもの。それが川の上に溢れて流れていること。それは風みたいな物。そういう透明なものに水や風と名前を付けてしまう事。 渢 この漢字は、だから水と風なんですね。世界のどこにでもある水と風を掛け合わせたこの漢字 >きっと答えではない音(ひかり)たちが >死にながら、生まれていく >渢(みなも)、ここでどこまでもいこう、と >身をひたしていって >確かに刻んでいる、零れることで  このラストに対して僕は他の言葉を持たないですね。素晴らしいです。僕がどれだけレスを書いた所で、本作に流れている思想や表現や「渢」には敵わない。 (水のおぼえ)

2017-07-27

 個人的にすごく好きっすね。  宇宙的な隔たりがある二人を最後、傘の中にこっそりいれてあげちゃう感じが、スケールがでかい話なのにやってることは小さいっていうギャップがたまらないです。愛は勝つじゃないですけど、素直に素敵だとしかいいようがない。「言える」っていう最後もいいですね。傘の中に入れるだけじゃなくてその先があるっていうか始まる感じがします。    好きな作品でした。なので、あんまりレスしたくないです。 (惑星の涙)

2017-07-27

なかなか、一概にレスが出来ない作品かなぁと思いました。 単純に、目抜き通りみたいに人があふれているところや、海岸線みたいに人が全くいないところで自分の実存を問うて、「俺、今なにしてんだろうか」みたいな風にとらえていいのか。それとも、日常そのものみたいな物の移りゆく連続性そのものの無意味さ、と、それでも、その続いていくさなかで残りゆく感情の剥奪された情報としての記憶の残滓みたいな物で揺れ動く自分みたいなところのほうがより重大なのか。 >細胞が細胞を脱がせるようにして >考えも新しいものに移し替えられ >いつのまにか >覆すために覆す どうして >古いものは捨て >先端からはじめていくのか 細胞を脱がす→考えを移し替える→覆すために覆す→古いものを捨てる→そして先端からはじめていく→そして先端を覆す。 という円環が最初に提示されていて、この流転していく感じはなかなか他の言葉じゃ言い換えられない強度みたいな物があると思います。(僕もこうして→でしか表現できなかったみたいに) 僕は人生の諦めとか、虚無みたいな物を感じる作品が好きっていうか、そういうものがまず物事の根底にあるべきだと思っている節があるので、そういう所でシンパシーを感じました。個人的には、最初の細胞のたとえ話の6行のインパクト、最後の >目抜き通りで >海岸線で >確かに立ち止まっていた >はじめて見たわけではない ここがすごく良かった。真ん中は、頭と最後よりも説明的である意味密度がないところが正直に言うとちょっとつまらなかったかもしれない。必要なパートであると思います。ですが、結論がある意味ない分、余韻の感じられる作品でした。 (先端覆す。)

2017-07-27

 なんとなく、言葉になんねぇ作品ですね。  あなたとわたしみたいな物の分裂していたものは一つだってのか、元々無だったのか、みたいな最後の「誰が?」みたいな感じ。「と」とかで息継ぎされ、膨らんで行く詩行と、下降するにつれて覚醒していくっていうか気付いていく詩行みたいな感じで、形にもこだわりが感じられる感じがする。  目的なんてどこにもないみたいな感じで、人生の虚無さみたいな物に無理やり回答を見出そうとして、あなたの為にとか、あなたを目指して、みたいな感じの、目標とか、犠牲?(なんかもっともらしい熟語があったかもしれないが思い出せない)みたいなものを作ったり、設定したりしながら、そうじゃなかったり、そんな人そもそもいなかったり、みたいな、元から横たわっている無みたいな物に気がつかずに、それをごまかす為の具体的な何かを探しては違うそうじゃないと言っている感じ…  みたいなものを感じました。そういう事を無理やり頭ひねって書いたというよりは、するするこうして出てきたっていう事は、それは韻律や形だとか、あるいは詩に用いられた何かしらのメタファーはアフォリズムみたいな物の総合的な作用が僕に働いたからなのかなとか、そういう意味で、好きな作品だと思います。長さも丁度よく、短すぎず中身もある意味でシンプルな作品なのかなと思います。 (無能)

2017-07-24

 もうここまで来ると職人芸っすね。みたいな感想がまず第一。  乗れると面白いっす。  行間の空いた所の言葉が微妙にダサいっていうか単語が浮き出ててあれなんですが、その単語血肉を散文的なパーツが綺麗に縫合する事によって、ちゃんと読んだときのリズムの変調、ステップの変化がまるでカクテルシェーカーみたいだ…とか僕、バーで飲んだ事あんまりないんだけど、そういうイメージが脳内に焼きあがる。結構唐突な場面展開が言葉で刻まれるんだけど「創るの??」とか言われても、なんかわかっちゃう感じ。でも説明出来ない感じが。正にトリップしてて掛け算の詩っていう感じがする。  最初は読み始めた時に、アクセル踏みすぎじゃないか? とか恐る恐る読み始めたんですが、読み始めたらいつもどおりの白犬さんの作品っていう安定感。ただ、ぶっちゃけ作品毎の違いについては分からないから、割と作家性みたいな所で無意識の内に買っちゃってる所がないわけではないから、客観的にどうかっていうのは僕にはもう分からない。既に作品酔ってしまっているし。 (steps)

2017-07-24

 僕が好きな作風っていうよりは、あんまり見過ごせない作風であると、失礼かもしれませんがそう思いました。    単純に、僕も書いてある事と同じ思いになり、こういう書き方を、よく作品の中でする事があるのです。それはパクリとかそういう事を言ってるのではなくて、単純に僕が書いている事よりも上手いと思ってしまいました。僕はそういう意味で、本作の書き方が好きだし、同時に上手いので憎たらしさを感じます。特に改行によって後付けを巧みに植え付けていくところ。完備さんもコメントされていると思いますが、そこに丁寧さを感じます。  僕が、kikunaeさんの作品を幾つか読んできてみて、今一番思うのはとにかく作品が丁寧である事。その丁寧さが、僕の中に綺麗な解釈を生み出させてくる事です。表現の華みたいなところになると、僕は上手く説明をつけられないのですが、それ以上に読み手にとって優しい表現である所に好感を持ちます。こういう事をいうと、上から物を申しているようになってしまうのですが、感じた事を正直に言えばこのようなレスになってしまいます。とても捻れた言い方になってしまって申し訳ないのですが、僕が本作や本作以外の作品を読んで感じる魅力をちょっと広げてかかかせて頂きました。 (きれいな爪をしているから,いまはまだだいじょうぶ)

2017-07-24

泥棒さん なんか言いたい事あるっちゃあるけど、大体言われたとおりなのかなぁ、と思う一方で、もっと長くしろっていうのは、笑いました。多分中途半端はやめろって事ですよね。(だったら前の方がよかった的なあれかな) 良かったら、教えてくれると有難いっすね。それを軸にして長くでももっと短くでも、機会があれば書いてみるかもしれません。 あとは、、、もし良かったら、7月8月くらいまでは東京にいるので会いましょうぜ。 まぁ、なんのメリットもないかもしれないけど。 (皆殺しの比喩)

2017-07-20

まりもさん 丁寧なレスありがとうございます。 色々レス考えていたのですが、正直な所僕からお返し出来る事がありません。 これは皮肉でもなんでもなく、その通りとしか言いようがなく、わざわざレスして下さった事に対して僕がいちいち肯定するようなレス書くしかなく、実際に書いていたのですが、そういうの野暮だなぁとしか考えられませんでした。 僕が出来る事は、そういう意味で本当にありません。 この作品は、多分色々ちぐはぐすぎる面が確かにあるので、色々分裂させた方がいいのかもしれません。ただ、これは僕の未熟な点だとも思いますが、これ以上カットすると、僕からみた時に、なんとも脆く見えてしまうのと、まぁそういう未熟な部分を詰合せた感じが好きなのかもしれません。そういう意味で、多分これから上手く書けるようになったら、こういった作品を書く事はなくなってしまうかもしれません。 ここら辺の、例えばボルカさんからの指摘でもあった、名探偵が足りないという所や、あるいは爽快感みたいなものであったり、作りの丁寧さ、みたいな所は、多分僕が創作を続けていく先で、一番大きな壁なのかなとおもっています。僕はどうせ書くなら沢山の人に読まれたいって、やっぱりどうしても心の底で思っている事は否めないからです。 Twitterの部分は、実は前書いていた時は「ブログ」だったんですが、ここに投稿する前にTwitterっていう風に変えました。僕はフォロー/フォロワーが100~200前後ですが、それでも色々な人の呟きがドンドン流されていくみたいな感覚。昔は多分記録に残る事のなかった誰かの言葉をネットを通じて毎日百人の言葉を一斉に眺める事の出来る事の重大さと、同時に感じる一つ一つの軽さみたいなものと、それらに対峙する時の姿勢についてだとか、それは掲示板を運営するという立場に立ってから一番感じている事ですが、その間で引き裂かれる感情と、引き裂かねばならない感情みたいな物の間に立っている僕、みたいな物とか、、、そういう事引っ括めて多分僕にとってはTwitterの方が近いのかなっていう風な事かもしれないですね。SNSというメディアそのものに対する嫌悪ではなくて、そういうものを使う僕と、使われる僕と、使わざるを得ない僕と、そういう事態に疲れる僕と、それでも殺しきれないから忘れる選択肢を本能的に選んでしまう僕みたいな感じかも知れないですね。 …という感じで、回答になっているのか分かりませんが、レスを拝読させて頂いて僕なりに考えた事をレスさせて頂きました。レスありがとうございました。 (皆殺しの比喩)

2017-07-20

僕にとってのウルトラマンはティガでした。っても筋金入りの特撮マニアではなく、その時やっていたウルトラマンがティガ、ダイナ、ガイア、コスモスの流れで、一番好きだったのがティガだったという事です。  キリエル人の話はティガの三話と二五話に出てくる事は知っていたのですが、その内実までは知らなかったです。小さい頃、1~4話は家にビデオがあったので、キーリキリキリとか言っておけばそれなりに物まねしやすい怪獣程度の認識と、とりあえず怖い話だよなみたいな事だけ印象に残っていました。ニュースキャスターの逆立つ髪の毛と、それから多分沢山流用されたであろうあの爆発シーンっすよね。後は夜の戦闘も好きでした。(指紋認証のギミックとかも難しくてわかりませんでしたし) それで、昨日は本作を読む為にニコニコ大百科を頼りながらダイジェスト版を見て、その後二五話を借りてきて初めて全部見たのですが、怖かったです。ですが、それ以上に面白かったのと、それと、ティガの結末に直結してる、前半部分のピークなんだなという事で、色々吃驚しました。  という訳で、色々語りたい事もありつつ、でも僕はそこまでティガの事をよく知らない立場で本作を読み始めた訳ですが。キリエル人側から考えてみると急に話が面白くなってくる。 本当に25話が重層的な物に思えてきました。いやー、この感慨を上手く言葉に出来ないのですが、そう思ってしまった以上僕からは何も言えないですね。僕は本作を通じて幼い頃ちょっとだけ怖いけどお茶目な怪獣だと思っていたキリエル人を供養出来た気がします。なんだか、ティガまた見返しそうですね。  それから、小中さんが噛んでいたという話も、実は最近知ったんですけれども、そりゃ怖くなるよなっていう事を思いました。僕は今までlainを作った人っていうイメージだったんですけど、ティガも作ってたんだなぁっていう謎の感動でした。 故に、クテュルフを踏まえた話っていうのもちょっと伺ってみたいのも本音ちゃ本音です。 それから形式的な所でみると、全体的に厳かな雰囲気が漂っている所。読点が排除されている所ですかね。この感じがキリエル人の話す時のちょっと気取った感じに似ている感じがします。 >そのキリエル人は惑星を見捨てると嘘を吐いた。負け惜しみだった。 キリエル人は最後の最後で、邪神に勝てないと言って逃げちゃうんですよね。そこに対するストレートな気持ちが硬質な言葉使いで進めてきた展開から漏れ出すその瞬間を負け惜しみに感じました。キリエル人は、僕にとっては、やっぱりなんだかかわいい奴なのかもしれないなと思いました。 (キリエル人(きりえるびと・ウルトラマンティガ))

2017-07-16

 十三階段っていうのが、西洋の絞首台のイメージっていう風に単純にとらえていいのであれば(さっき調べたのでちがってたらすいません)見た目でパット分かる所にビジュアルとしての好感度があります。形に意味があるというのは、やっぱり安心できるからです。  次に面白いかどうかについてですが、最後の二行が面白いです。 > 降りてゆく重苦しい階段は >この狂おしくも上に向かって  作品を読んでいくと、上から下に向かって読み進めていく事になる訳ですが、それはつまり階段を降りていく事と同義になるわけです。でも最後の末尾の展開としては、階段を上に向かって昇っていく死刑囚の視点になっている。ここら辺のすれ違い感が、形と呼応している所に意味が溢れています。 (十三階段)

2017-07-16

 単純に僕は白犬さんの作品が好きなんですが、どこが好きっていうのは難しい。  僕は多分言葉の内容とかそういう事ではなくて、読んでいて、単純に心地いい音楽みたいなものを感じるという一点、それだけである意味他の事がどうでもいいみたいな感じくらいには思っているような気がします。 >腐敗という美を刻まれた星団 >それでも書き記そうとする手はすべからく白い >なら 僕は黒い手を得てみたい >盗人のそれで  ここら辺なんか神がかっている。 >暗い場所 >犠牲者のような雨の中で >僕らの体は冷えていった >泥の味がした >君を失いたくないと言えば >君は満足した目で >僕から離れていくだろうし >君のことなどどうでも良いと言えば >君の存在が傷つくのを知っていた  ここの凄くいいです。「犠牲者のような雨」っていうの、思いつく自信がない。白犬さんの作品を見ているとまぁ僕なりの感想ですが、詩語の宝庫ですね。そんな投げ売りしないでくれっていうくらい面白い語と、 >君を失いたくないと言えば >君は満足した目で >僕から離れていくだろうし >君のことなどどうでも良いと言えば >君の存在が傷つくのを知っていた  こういう風な展開が一緒くたになってもみくちゃになっている。ある意味こういう展開をもっと比喩に託してプレスしていく事も出来るのかもしれないし、でもその結果として作品に流れている音楽みたいな物や、ある種の雑味みたいな物が消えちゃうのかなみたいな事を思います。 >書き記したいのは > >凡ては凡て >沈黙すること >無数は無数 >唇に偽の歌 >真実はあまりにも >退屈だと聞いた >(途方もない忍耐) >存在しない僕を証明し >それをあらゆる角度から耐えうるものに出来るだろうか? > >存在しない君を >証明出来るだろうか > > >「僕ら」の悲しみについて > > > > >君を癒せない僕の詩に、どんな意味が?  言葉の奔流、メッセージというよりは、全体に散らばっている色々な矛盾するイメージが同居している所かなぁ。そういう所のセンスみたいな物が好きなんですが、ある意味深く入り組んでいる作品でもあると思います。矛盾する物が多分この作品の中にありすぎるという意味で、僕がこの作品を語ろうとすると手に負えないというのがまず一つ。そういう意味で、この作品はある意味で雑だし、それが逆に丁寧であったりする。適当な言葉の積み重ねっていう風に受け取れる瞬間もあるけど、読んでいくとそういう初見の舐めた感想みたいなのが吹き飛んでいく。だから、個々の細部みたいな物を語るのは多分いくらでもできるけど、全体として上手くレスを纏めようとしたら結構骨の折れる作品かなぁみたいな感じがします。 >僕はハミングする >大好きな歌達を その血の美しい痛み > >あの歌を聴いている >耳を塞いで >笑って >僕は埃っぽい屋上のコンクリを蹴る  こういうのも、好きな歌をハミングする時に、血が出てきて、その場合の「好き」って多分より鋭利な意味になってくる。大好きな歌をハミングした後に「あの歌」を聴いているっていうくせに、耳を塞いで聞いているとくる。そして屋上のコンクリの石を蹴る。ハミングから石を蹴るっていう行為に変奏していくこの感覚を僕はどう言葉で表現したらいいのか分からない。分からないんですが、この感覚が心地よいとしか言えないですね。 後は、例えば最初この詩には具体的な銃のイメージは出てきても、実際に「銃」って言葉が使われるのは後後になってから。 >螺旋と貫通と響音 >弄ぶ引き鉄 >君の悪夢の中に銀を撃ち込みたいなぁ  弾が銃口から飛び出て多分螺旋のイメージ捻りながら飛んでいくイメージ、それから目標に当たって貫通する時の音、そして銃身から空薬莢が落ちる音、みたいな所を描いている。それから今度は銃弾が銀で出来ているイメージ。それによって悪夢から君を救いたい、という、冷静に考えると、ひらすらに暴力。しようとしている。でも、 >僕は朝食を食っている >バター・ソースの中からの視線  次の連に目を移すと、「僕」は朝ごはん食べてしまっている。この透かし方が面白い。 >僕は煙草を吸っている >銃声  ここでもう一度銃のイメージが出てくる所で、煙草を吸うと一緒に聞こえてくるっていう揺り戻し方も面白い。 >あの日言った言葉を >嘘にするつもりか >僕はあの日の言葉を >信じている > > >幻視 植物の笑い 獣の夢 翼 重く響く地鳴り > >交わらない悲しみを鏡に > >きらり と 反射 > > > >乾いた空 > >一滴の雨 > >笑うよ  ここら辺も、抜き出してみるとあまりにも単語単語しすぎてて分からないかもしれない。それはぽつぽつと空から降ってくる雨粒一つみたいな物で、それら一つ一つを見ただけでは雨そのものの総体の予感を感じる事しかできないから、みたいなものだと思うのですが、本作では多分前段でそのイメージについてめちゃくちゃ入り組んだ書き方をしているので、そこから少しだけ漏れ出た、象徴としての単語が、何かしらの滲んだ感情を宿しながら読み手の心に降ってくるのかなみたいな感じ。  中身みたいな物については、僕は触れられない。触れようとしたら、多分他の作品にレスが付けられてなくなってしまう。でも僕は本作を読めた事、それ自体がうれしいと思う一方で。もっとより、大きな絶頂を味わいたいとか言ったらあれなかな。多分僕は白犬さんの作品の部分はやっぱりすき。毎回どの作品読んでも欲しいセンスの塊です。でも全体を見渡した時の受け取り方みたいな物のうけとりかたが分からんので聞き流している所があるということ。でもそれはそれで全然悪くないと思う一方で、消化不良に感じる所もある。みたいな感じです。より、具体的に読める時間があれば、多分面白く読めるとは思うんですけどね。 (dry and rains )

2017-07-16

塚本一期さん レスありがとうございます。 >長いよ!長くて体力が続かなくて、流すようにしか読めなかったよ! >にも関わらず、目の端っこに張り付いて離れない表現がいくつもですね、ありましたこれは本当で。 >まず冒頭から死んでくださいの連発でもうそこから引っ張り込まれてしまったんだろうとおもわれるんですよね。 >そもそも書きたい比喩なんてどこにもなかった。 >百均くんは、どこまで実際の生活の話をしていてどこから頭の中の話をしているのかわからないけれども、私はわからないながらもその渦の中に引きずり込まれてぐるぐるとですね、してしまったようです。 >面白い面白くないという観点ではなく、文章としてどうかというと、なかなかに、引力のある文章だったなと。私がハエだとすればですね、おそらく>ハエ取り紙のようなですね、そういう文章だったという風にですね、私には、感じ取れました。はい。なんともない愛の話が、非常に、大切なわけです。 僕は短い物を書くのが本当に下手くそでした。短いと粗とか技術の無さとか目についちゃうし、簡単に突っぱねられてしまうと思ったからです。あとは「そもそも書きたい比喩なんてどこにもなかった。」ここもそうでした。何もない所から何か生み出した所で何がどうなるのかみたいな事を延延と探してるみたいな感じでした。 だから、長く書く事で下手な鉄砲数うちゃ当たる状態にならないか、みたいな事で自分が満足するまでとことん書いたのがコレになります。 ですから、中身の善し悪しのその前に、エネルギーみたいなものが出ていたのであれば、単純に嬉しく思います。これは過去の作品をリメイクした物になるのですが、あの時のエネルギーみたいなのは多分僕にはもう無いので、そこに魅力みたいな物を感じていただけたのであれば、これ以上に嬉しい事はありません。 (皆殺しの比喩)

2017-07-14

 皆さんレスありがとうございます。  返事がおそくなってしまい、大変申し訳ありません。 ボルカさん レスありがとうございます。包茎を剥いていくのって、個人差あると思うんですが、銭湯とかに行くと子供はあのデカイ奴に圧倒されると思うんですよね。自分も将来ああるのか、ならないのか。みたいな感じです。という事を、本で読んだ事あんまりないかもなぁと僕も思いました。 >しかし、何故か、(ああ、面白いなあ!)という感想に至りませんでした。 > >何が不足だと自分は思うんだろう、と、しばし悩んだのですが、 >ここにはやはり、名探偵が欠けています。そこなんじゃないかなあ、と私は思いました。 > >(よせばいいのに)謎を解いてしまう怪物的阿呆。その怪物性への哀しい共感が、この作品では寸止めされていらるように思います。 ここは、まさしくその通りというか、新しい比喩を見つけるという事、それすなわち、名探偵的な仕事に近いのかなとか思ったりするのですが、ここでの語り手は、そういう物に気付く事ができない、みたいな感じで比喩を殺しにかかってしまう。レスを頂いてから考えたのですが、多分語り手はオナニーに成功できてないんですね。だからマスを書く事しかできないし、本も読むことができない。みたいなのかなぁと思いました。 ここからは僕、作者の話になってしまいますが、そう考えると、読み物としてはやっぱり弱いのかなぁという納得が生じました。 レスありがとうございました。   (皆殺しの比喩)

2017-07-14

「鴨、あいつら/すこし暖かくなったら/わたしの羨望なんて知らずに/ またどどこかへ/どこかへ。」この最初の一文が本当によろしくて、どこがいいかというと「あいつら」っていう風にちょっとだけ突き放した言い方をするんですね。そこに「羨望」という羨ましさが背後にある事を匂わせる。で、あったかくなったら「どこかへ」「どこかへ」って二回言うんですよ。 この二回言うっていう行為が、この作品における「鴨」と「アイデンティティ」をつなぐ、大事な架橋になっている。 「自己肯定感/アイデンティティ/無い物ねだりで。/わたし。/わたし、/なんか、ごめん。」ここに僕は強い共感を覚えます。なんとなく謝っちゃう感じ。本当は誰かに謝る事なんてないのに、申し訳なくなってしまうわたし。二回いうことによって、ただ、自分の中に芽生えた感情を確認しただけではなくて、わたしが無いものねだりしている事に気がついて、恥ずかしくなる意味合いも隠れているように思います。 「ほしいものほど/手から水のように/こぼれてしまう。/こぼれて、しまう。」から、喉から手が出るほどに欲しい物つまり「実体のない個性」っていうものは、水のように掴みどころがなく、手で掬う事は出来ないんだという事が描かれています。「なんて、水面を見ながら考え」てしまう。水面は自分の姿を映す鏡であるから、自分のどうしようもない姿が見えてしまうし、どうしても考えてしまう事になってしまう。そこで、鴨っていう存在が浮き出てくる。  鴨は空も飛べるし、水面の上もすいすいと泳げてしまう存在であって、しかも言葉を知らないから考える必要もないし、あるいは考える事をしなくてもいい。また、鴨みたいな人間が世の中にいたらみたいな事を考えてみると、鴨っていう生き物は凄く器用な事から想像するに、多分、あまり生きる事に対して、何か疑問を覚えなくとも生きれてしまう人間なのかな…みたいなことを感じます。最終連、鴨達が飛び立っていってわたし一人だけが虜残される描写に、僕は人間を見てしまいます。だから、わたしは鴨に自分の人生を投影して、私も器用に自分を持って、あるいは、自分を持つことなんか考えないで、空を飛び水を泳ぎたかった。そのように行きたかった、という風に終わるのかなと思うのです。 また、私が如何に空っぽな存在であるかという描き方も、ダンボールと部屋っていう効果的な使い方をされていて、非常に好感が持てます。私を構成する物が、部屋におかれた本やCDなどの文化的な物であるなら、それら外部的な影響を引っこ抜いたら私という精神=部屋には何が残るのだろうかという思い。それが、引越しの時ぎゅうぎゅうに詰め込んだダンボールというちっぽけな形と、まっさらになった自分の大きな部屋という形で対比になっています。 (鴨)

2017-07-02

停止線っていうのが、二つの意味を持っている。 道路の停止線を飛び出して、交通事故に会ってしまう自分。 と 絶対に超えてはいけないラインを飛び出して、自分の身体を売ってしまう自分。 みたいな感じですかね。 >キャンドルサービスで焼けた黒い前髪は >奪われた処女性を反射して >安っぽく光る茶色に堕ちた > >ピンクネオンのシロップに浸けた毒を知った夜、 >聖なる純潔の記憶が >黄ばんで >朽ちていく夢を見た > >焼け爛れたピンク色のその先で、愛の真似事ができるなら >色を足して、 >交ぜて、 >終わりの無い色遊びを続ければいいじゃない > >遊び疲れた最期の色は >灰色かしら >?  ギャルっぽいイメージとか、自分の身体をまずはおしゃれで茶髪にする。そこに処女っていう煌き笑をぶっこむ。次に、ピンクネオンのイメージから純白のイメージを夢っていう精神の世界で黄色に焦がしていく。  次に、ピンクをネオンのイメージから肉体の方にフォーカスさせて、ピンクを爛れさせてしまう。  という感じで、綺麗な色のグラデーションが肉体と精神、それから場所のイメージなんかに匂わせながら、徐々に身体を蝕んでいく感じで綺麗に描かれているのがわかります。  最後に灰色という形で、色を限りなく白に近い黒、みたいな感じで収めていくのもグレイトだと思います。  灰色っていう色は停止線のライン色に通じることや、灰のように燃え尽きた肉体と精神も示すと思いますし、白髪っていうストレスのイメージにもつながってくると思います。  単純によく纏まった作品なのではないかという感じがいたします。 (少女至上主義)

2017-07-02

>シュール > > >「ル」が、家出をすると >家族は、シュークリームのシューになった > > >ヘイ わたしは、シューだ >もう つかもうとしないよ つつもうともしないよ >あまいクリームは わたしには不要さ  もうこの時点で、僕としては凄いんです。何も言葉返せないくらい好きを通り越して心に響きました。シュークリームが僕はモチーフとして本当に好きなんです。それが「シュール」から「ル」が家出する事によって「シュー」と「ル」にそれぞれ人格が宿ります。更にシュークリームの「シュー」になってしまいます。更に次の展開として「クリーム」の部分を否定します。否定する事によって、食べられる事はなくなるし(つかもうとしないと)、わたしが君を可保護する事もないよ。(ルーが家出した経験から、包むことをクリームに強要しないんですね。)  わたしは甘ったれた存在を許容しない、疲れたからねやれやれみたいな感じのシュー父さんの声が聞こえてきます。  という読み方は多分僕の妄想によるところも強い事は認める一方で、しかし僕にはこう読めるし、こう読んだ読み以外の突っ込みポイントも腐るほど出てきます。なんともいやぁ、圧縮された表現でしょう。 >どちらにしろ >死人と生者の間に属する中間管理職的な生き方しか ありはしない  これも凄い。多分「ル」は逃げて死人になった(「る」っていう単語によって存在するのは多分現代の日本だと難しいでしょう)、あるいは家で皿た側の「シュー」は単独では成立しえない事から、生者である「クリーム」(この単語一個で成立する)と合体しないと言葉として生きる事は出来ない。「シュー」は「シュークリーム」や「シュール」という語にならないと生きる事ができない。だから「中間管理職」なんですね。 >キミが のこしていった爪切りセット >ピラミッド型の透明なケースに >さまざまなタイプの金の爪研ぎ用小物が 四つ >やけに 重厚感がある > >写生しようとすると遠近法を思い出してしまった > >立ち上げたいのは 思い出や夢想の物語の部屋や町なんかちゃあない >この胸にある うずき >のびてしまう爪の先でも うごめいている  問題なのはここからで、なんで爪切りなんだろう。というところで僕は納得してしまいます。が。なんで納得してしまうのか、一切答えが出ません。爪を切ってしまうという行為は、多分ビーレビでは始めてなのではないかなぁ。(髪を切るとか、そういうのはあったので色々考えたのですが)しかし、  この詩の後半部分は魔力の塊です。何も僕は声を書ける事ができません。ただ、傑作としかいえないなぁ。  たった爪切り一つから広がる日常の小さな行為、あるいは風景、なのに。そこから立ち上がる意味、イマージュの豊かさ、溢れ出る何か。それは 「 思い出や夢想の物語の部屋や町なんかちゃあない/この胸にある うずき」正にこれとしか言いようがありません。今月の湯煙さんの詩とるるりらさんの本作が、今月僕の心を貫きました。はっきり言って白旗です。理由は一切述べられないです。一年後くらいに何位か言えるかもしれませんが。 (シュール)

2017-07-01

 一読して、いい作品だなぁと思いました。  最初、ビルとビールというダジャレから始まって、それが泡で完結している。  そう、滑ってないんですね。単純な言葉遊びから始まる深刻さみたいなものを軽くする事に成功している。ビールの泡を口に付けて一気に飲み干した時の軽さに似た文体。 >ビルがビールみたいに運ばれて >泡をくっ付けて聳えてるけど >飲み干しても >飛び降りても >埒があかない  ビルをビールに見立てて、そこから吹き出る泡と、そこから飛び降りる人間が重ねられています。埒があかないと呆れている所もポイントです。そんなことよくあるよねみたいな軽さで重い事を語られている。 >長いテーブルの向こうの絵みたいに一枚 >僕が掛けられている > >次の宴会が始まって >絵は人のように見ている  ここが本当に不思議な感じです。「絵は人のように見ている」っていう距離感、ここはまりもさんも触れていると思いますが、秀逸だなぁと思います。  それから、泡の使い方が巧みです。 >泡をくっ付けて聳えてるけど >ビルのなかで泡吹いて仕事することも >泡みたいに爽や かな白になる >運ばれてくるビールみたいに泡吹いて >泡みたいなはなし。 全部出てくる泡の使い方。最初は泡がくっつている。次に泡吹きながら仕事する自分。次は、真っ白い泡みたいに白紙になる。つまり全部なかった事のようになってしまう事を指している。次に、運ばれてくるビールの泡が吹き出す状態に再度語り手が投影され、泡みたいに消えてしまう物語のオチとしての泡があります。 >そんなのは嫌だ >という >泡みたいなはなし。  ささやかな抵抗もビールの泡みたいに片付けられてしまう。というこのあっけなさが、凄く悲しい。でもそういうのが現実だよね、というドライさが、ビールでもあるよな。みたいな感じで凄く好きなオチです。 (ビールみたいに運ばれて)

2017-06-30

 本作は、さらっと読めるんですが(内容の筋を追っていくだけならば、不倫みたいな所で考えていけばいいんですけどね)結構突っ込んで考えると、考えるべきポイントみたいなのが幾つもあって、底に手を突っ込むと中々引っ張り出せなくて、侮れない作品だなと思いました。  まず、この作品の語り手というのは既になくなっている。そして、古い橋とある事から、おそらく結構なくなってから時間が経ってるんですね。その状態で、あなたが、新しい人を見つけて、その人を愛している、みたいな状況を発見して恨みを持って禁忌を犯してまでも、あなたがわたしを忘れてしまっていることに対して仕返しをする、という感じ。という風に終わってしまってもいいんですが、しかし、そこからもうちょっと考えてみたいことがいくつかあるんですよね。  この作品を読んでて、凄く最後が怖いなと思いました。なんで怖いと思ったのかというと、あなたが一生懸命語り手をブロックしてるのに対して、それら全てを乗り越えて復讐しようとしていること。そこが怖い。まず最初に精神的な物を遮断する為の結界を張ります。次に、橋を壊すことによって物理的な接触を経とうとします。そして、橋を壊すことによって関係を水に流そうとします。ようはもう無かったことにしてしまおうとします。更に、それを避けたととしても、向こう岸に渡るまでのタイムリミットとしての朝陽があります。    それら全てを乗り越えて、霞になった瞬間に、語り手が、あなたの背中に傷の残します。 >消えていく身体と橋を残したまま >わたしはあなたの背中に > >今、 >辿り着いた  ここがこわい。たどり着くっていう表現がこわいです。語り手は、あなたのことが本当に好きでしょうがなかったんだなという気持ち。生者である、あなたの生身の身体に、自分の痕跡を物理的な形で残すことができるという事(キスマークみたいなモンで)からくる安心感。傷って見るたびに思い出しますし、あなたのことを新しく愛した人程、多分この傷を見る事になると思うっていうのと、抱きしめた時にその傷を触れるのは、あなたではなく、あなたを新しく愛している人ですよね。  つまり、あなたっていうのは傷を付けられたことによって、常に語り手に身を寄せているだけでなく、包み込まれているし、他の人がそれを見たら前の愛した人によって愛の牽制を受けているイメージみたいなのが吹き出しちゃうんですね。これはこわいですよ。傷っていうのは消えない限りその人のそばにあり続ける永遠であることは間違いないでしょう。 >あの日 >あの時 >あなたの命を飲み干していれば >永遠に共に居れたのに > >愛 >という感情が >身体を持たぬわたしの中に >まだ息づいていたから  古い橋とあるように、僕としてはあなたは多分もう再婚してもいいタイミングなのかなみたいな感じだとおもうんですよね。死者の語り手側からすればきっとそうじゃないと思うんですけど。人間は生きている以上、まぁ変化せざるを得ないタイミングっていうのはどこかしらにあるとおもうんですよね。その時に、故人に対する感情っていうのをどこまで忘れずに支え切れるかというのは、本当に難しい問題だとおもうんですよね。  身体のない語り手は自分の愛があなたから消えていくのがわかった。だから、今度は自分の魂という形のない愛を「傷」という「欠損」(細胞を傷つける)という「形」で愛を残そうとしたんですね。形ある物に愛を変換させることによって、一度死んだ身体から生き延びた魂をも殺す事によって現世に自分の一部を残そうとしたというのか、なんというのか。この執念をなんと表現すればいいのかという感じですよね。  それで、ここでタイトルに翻って考えた時に、『渡る』っていう行為にフォーカスが当てられていると思います。そうなんですよね。ここでの主題は橋でも愛でもなく、渡るという行為が全てなんですね。そういう風に考えていくとこの作品に横わたっているテーマの重層さみたいなのが一気に噴き出してくる。語りだしたら止まらない作りになっていう事がここで分かると思います。    ここから、話を広げていくのであれば、例えば「禁忌」みたいな事を踏まえてもいいし。    >あんなに愛してると言ってくれてたのに >護りたい人が >他にできましたね?  愛してると護りたい、この違いも大きい。 >こんなに綺麗な光を >わたし >見たことがなかったのです >生きていた時にさえ  この時に見た光ってなんなんだろうか、みたいな事も考えると面白いです。綺麗な光のニュアンスを僕はもうレス似できません。すごく複雑な感情、それでも抑えきれない愛というエゴ、によってあなたを傷つける事によって霞という細分化した光となって、あなたに傷をつけることによって、その人は死者の国に行っても成仏しきれなかった心を一方的に救われると同時に(霞になりますから当然無になっちゃうわけですね)、しかし、傷をつけられたあなたからすれば、重層的な呪いをある日突然付けられたみたいなもので、今度はあなたが呪われてしまう。それこそ死んだとしても、もう語り手はどこにもいませんから、一人でこの傷の意味を抱えなくてはいけない訳です。これはえげつない。  と思いました。人の思いって本当にこわいな、と思いました。ある種の例え話でありながらも、そこからじっと目を凝らして思考に励んでいった時に見える物が非常に豊富であるという点において、優れた作品だと僕は思います。 (『渡る』)

2017-06-30

 最初みた時は「うっ」ってなりました。それがまず第一です。次にツイキャスで声に出して見て読みました。そしたら面白かったです。何箇所か笑いました。次に、落語っぽいのかなと思いまして、そこから背景とか探ってみようかなと思ってる内に手に負えなくなってきたので、今回はテクスト主体から読み取れる、あるいは感じ取れる物について書いていけたらと思います。  とりあえず押さえておくべき一つ目のポイントというのは、シニフィアンとシニフィエみたいなもんかなぁと思いました。シニフィアンは記号そのもの、シニフィエはイメージ、概念、意味、内容そのものを指すと単純に考えた時に、本作の場合は、シニフィアンで遊ぶ事によってシニフィエがくっつくみたいな感じなのかなという気がします。  最初はその作品を書く内容があって、それを表す為の方法、手段としてシニフィアンを駆使していくのが通常の作品であるならば、本作の場合は、言ってしまえば「ただの蜜柑」というシニフィエをシニフィアンを巧みに絡ませる事によって意味内容を膨らませていく、あるいは偽装していくという感じで、シニフィアンからシニフィエが生まれでているのかなぁと。その結果として蜜柑が売れる。あるいは蜜柑というイメージ、意味が飛躍し飛び火していく。という事なのかなと思いました。  そのヒントも結構作中に散らばっていて、例えば、 >なりなりてなりあわずなりふり何ふり鍋古いと波振るいフリートークせよといいやせんよとややまったくせんよとせんよ専用と酔うと上等等々などなどなぞ謎めけば何ぞ彼誰そかれながら我ら喇叭族にしてラッパーにあらざる  ここなんかは多分面白い。ここはイメージの連鎖も噛み合っていて絶品。中華鍋を振るって具材をかき回す速度で、波が押し寄せる、それはフリートークみたいに色々なテーマが5分毎に切り替わりながら言葉によるわらかしあいが続いていくみたいに。それからラッパーっていうのも多分そうで。内容の熱さに韻を塗していくラッパーと、シニフィアンを全面に押し出した「韻」で観客を沸かせていくラッパー多分二種類いるとおもうんですが、本作のスタンスとしては多分後者寄りのラッパー。R指定っぽい感じがします。(フリースタイルダンジョンの呂布カルマとR指定の対戦なんか多分凄く分かりやすい対比になってると思うので、参考資料としてもしよろしければ皆さん聞いてみてください)  ここまでグダグダ言ってきて、何言ってるかわからんっていう方はまず声に出して読んでみて欲しいんですね。自然と笑っちゃうと思います。  僕が好きなのは、下ネタの所かなぁ。「蜜柑」というのは蜜の詰まった柑橘類みたいな感じでまずは、捉え直すんですね。そこに最初に股の味、生殖器の味みたいな感じで蜜をふしだらな笑イメージに連結させていく、そこから  >をのこをのこきのこきのこのこの蜜漏れるれろれろなあの感じめくった皮の何かはせんの線のなみ波のなみ波乗りのなみ並の蜜柑  ここのイメージですね。簡単に言っちゃえばチンコの皮を剥くイメージ。  下ネタっていうのは本当に万能で、それは意味内容による連鎖、飛躍の仕方が言葉遊びみたいに、多少理不尽でも音が似ていたり、あるいはちょっとでもイメージが似ていたらハマりやすいという事かもしれません。   >ただ一個の蜜柑ただ一個の金柑ただ一杯の酒の燗ただでもらったただの蜜柑、よろしからん。  蜜柑を売るという仕事、ただの蜜柑をどれだけの言葉の装飾を持って上手く売りつけるか、という感じで、ここではただの蜜柑というシニフィエを如何に、言葉で遊ぶ(いわゆる一般のイメージの力ではなく、それ以外の効用によって)というシニフィアンの力によって大げさに一個の蜜柑を読者に売りつけていくのか、そういう所に力点が置かれている作品なのかなと思います。  そして、結局の所イメージの力というか論理ですよね。それってやっぱり強いので、実際に声に出して読むなど、そういった形で、論理を体験によって裏切らないと、僕は本作に入れなかったのかもしれないなぁとかぼんやり思いました。  >どういうのどごしかどのなんというどんなのどごしなんだとなんなんだとただたたなづく青垣や  こういう所なんか読むと頭痛くなりますが、声に出すと面白い。なんとなくこれを書きながら思いましたが、早口言葉ってなんで面白いのかなみたいなのも多分ちゃんと考える必要があるのかなぁと思いました。  >蜜の部品部分品先から奥へつまりは詰まる妻に積まれてまれながらややまったく詰まる政治の味  あとはこことかでしょうか。部品部品と来て次は多分「しな」と読まないといけない。そこからつまる妻に積まれて「まれる」っていう謎の言葉がでてきたり、そのあと政治の話かと思ったら「味」っていう風にストレスがガンガンかかってくる。予想が裏切られるストレスみたいなのが結構あって。これ声に出して読むと笑えるんですが、読んでると思考がチカチカして本当にイラつくんですね。  >どういうのどごしかどのなんというどんなのどごしなんだとなんなんだとただたたなづく青垣  ここなんかも凄くストレスかかるんですけど「たたなづく」が本当に読めないし、本当にこんな言葉あるのか? って疑ってみたくなるんですけど「青垣」とあるので、枕詞として今度は論理っていうのかな慣習、文化によって保証されている論理だったりする訳でにゃーってなるわけですね。(ついでに思うと、枕詞って基本的にシニフィアン寄りなのかなぁとか適当に思いますが。。。なんか怒られそうなのでここでは触れません)   >上等等々などなど  ここも地味にいらついて、じょうとうとうとうなどなどなのか、じょうとうなどなどなどなどなのかどっちなのか? みたいな感じで実はどっちも正解だとおもうんですが、中々いやらしい。頭から読んでいけばとうとうになるかもしれないし、あとの論理が気になる人は後者の読みを選択するかもしれないとかね。ここら辺音読するとその人が出たりするのかなと思います。僕は多分前者の読み方、なかたつさんの朗読を聞いた時は後者の読み方でした。  そんな感じで、翻弄されつつ、憎いけど憎めないし、面白くないのかと思いつつ案外面白く、笑える所もあるし、結果的に蜜柑というイメージがシニフィアンによって陵辱されたような感じもしなくないし、いつの間にか蜜柑を売りつけられてしまったような感じがします。上に書いたようなギミックは読み手をそれこそ熱燗で酔わせるように、論理的な読み方の思考を揺らすひつようがるという意味で行訳するのが難しい作品であって、そういう意味で見た目をひどく損している作品だとは思います。  ただ、僕はこうして読んだり考えたりしてる中で色々収穫がありました。つまり、言葉遊びが詩になるという事、方法論によって飛躍が生まれる瞬間、その方法自体に内容が宿るというよりは方法によって内容が拡張するというのか、そういう意味で自分の今までもっていた読み方というのが揺さぶられる酩酊感が楽しかった、かなぁ~という事は言えるかなと思いました。 (み・か・ん・賣・り・の・言)

2017-06-27

 北さんありがとうございます。  今言われて気がついたのですが、塩を入れる理由をずっと誤解してたみたいですね。母親になんで塩を入れるのか聞いた事があって、その時に麺がくっつかないようにするためと言われ、そのままずっとそういう物だと思っていました。今思うと、多分母は理由がよくわかってなかったのかもしれません。  それでもって、一人ぐらしを始めてからも、塩を入れなかったらくっついたので、そういうもんなのかなとか。今考えると、単純に茹でるのが下手くそだったのかなと思います。   というわけで、単純に誤解に誤解が重なった結果からくるものです。思わぬ突っ込みがはいって割と動揺しております。いやー、まじすか。六年くらいそう思ってたのが、砕ける感じで、うーん、ショックです。でも冷静に考えると塩関係ないよなとか思いました。理屈もよくよく考えるとアレですね。なんで塩入れたら麺が解けるんだとおもってたんでしょう。  なんにせよ、情報ありがとうございました。今度書き直す時は書き直すか、情報をちょっと修正した形で掲載します。 (む(ム (無  (夢  )   )  口(くち) ちゃん、日曜日を過ごす)

2017-06-25

 髪を切る行為っていうのに、人生の決別そのものの行為みたいなものを見出すというのは、僕も書いた事があるんですけど、本作の場合は髪そのものが自分が生きてきた19年という人生そのものになっています。そこが面白いと思いました。ああそっか、髪って伸ばしただけ、その人の人生と共にあるんだなぁって思いました。   >今 切ろうとする髪は >私の背丈を遥かに超えて >そう、まるでラプンツェルのようね >黄金色ではないけど >私の漆黒の髪は >生まれた時に切る事を忘れた    生まれる時から伸ばしてきた髪の毛っていうのは、現実問題としては無理かもしれないんですけど(それは物語の中だけしかありえない事みたいなという意味で)でも出来たら、それはその人と同じ人生を歩んできた一心同体の物であるということができますよね。人間の細胞は一年で基本的に全部入れ替えるみたいな話を聞いた事がありますが、多分髪の毛はそうじゃないですよね。まるで年輪のように、その時生きてきた自分を髪の毛に痕跡として残しながら伸びていきます。 >丸々ときれいなここは恋をした時 >白くちぢれたそこは失恋したのね、と。 >人生をなぞれるほどに >鮮明にあらわしている  自分の人生の思い出っていうのは髪の毛と共にある。それは例えばデートしたり、あるいは、誰かと付き合っている時の自分、別れた時の自分。そうでなくても、誰かがなくなった時とか、改まった時の自分とか、逆にグレたときとか、髪の毛を染めてみた時とか、色々あると思うんですけどね。多分今まできってきた髪の毛っていうのをつなげて一本の糸にしたら自分の人生がきっと表現出来るんですよね。運命の糸とはよく言ったもので、その人の人生っていうのは、髪の毛一本に見て取れる訳です。    この作品に出てくる髪の毛というのは、紙のように薄くて、どうでもいい物であると同時に大切な物であって、自分の人生を表す、物であると同時に精神を表すメタファーであることがここから伺えます。 >下へ下へとまっさかさま >落ちていった少女はだあれ?    それを切ってしまう事によって「少女」は「大人」になる。という所から、多分なにかしら、振り出しに戻るような強いきっかけがあったのかなぁ、ターニングポイントがどっかにあったのかなぁみたいな事を思います。それは勿論かいてなくて、多分読み手の心情に合わせてここの受け取り方が変わってくるとおもうんですよね。でもなにかした気合を入れたり、けじめを付ける時や、何かを変えたい時に人は髪を切ると思うので、その瞬間に今までの自分=「少女」がなくなるという感じは、多分共通してるのかなぁと思いました。    髪を切るという日常の行為に人生が切り替わる瞬間を描いた、いい作品なのではないかな~とか堅苦しい事をつらつら書いてきましたが、そんなことを思いました。 (髪を切る)

2017-06-25

 注釈だけ読んだ方が面白いですね。むしろ注釈ぐらいの飛躍の方が面白いのではないか。例えば注釈を最初において、その後で本作を置いた方が読みやすいかもしれない。とりあえず注釈の情報を頭に入れた状態で読むと、作品に対する視野がちょっとだけ広がった漢字でするっと読めるのかもなぁとか思いました。  カラジウムの葉っぱも、多分最初に見たら、葉脈が浮き彫りになっている葉っぱの漢字が、!iの逆転している感じ(いつも見ている葉っぱの印象とは逆転する感じ)に繋がったりするのかなとかね。  >7なお、タイトルとなったカラジウムはサトイモ科の球根植物で、葉の模様が特徴的である。熱帯生まれであるため雨に強い。  この一文を見て、調べたらびっくりしました。面白い葉っぱだなぁと。この時点で、僕は注解の方が面白いと思ってしまったのと同時に、作品と注釈を見比べながら読まないとなぁとか思い込んでしまって、二日ぐらい放置しちゃったんですけど、改めて読んでみると、注解から読み始めると、面白いなぁと思って。つまり、「!i 」読む順番が逆転したところに驚きがあったわけですよ。注解の方がむしろメインなんだなぁという事に気がついた。    注解の一つ一つがもう詩ですね。一文がクソ長い上に、一つ一つに込められた飛躍、並びに接続の速度が早すぎるので、真面目に読もうとするのではなく、面白い所から見ていく事にする。 >門――もちろんこれは神や女性器といったメタファーなのだが――を通して開かれるのみであり、さらには窓――これも外からの光を取り入れるという役割からして、神や女性器のメタファーとなっている――という表現からして、推察するに、この一節が言いたいのは、色彩豊かな合成獣、すなわち遺伝子の作為的な突然変異ないしはノックアウトを適用した生物によって、窓そのものが外され(この一節だけで小説が書けそうだ、何故なら窓枠を取り外すのには一定の手続きがいるからだ、とりわけこの辺りの市街地の住人には。何故ならこの地区では窓枠を取り外す行為は条例によって規制されており、外界からの明るい光を取り入れる、すなわち形質転換的な禁忌の行為として見なされているからだ。まず、役所に窓を外す旨を書面で提出しなければならず、次に付け替える窓を購入した際の領収書を「窓枠購入証明書」に付随して提出しなければならない。役所における一般的な見解としてはそれは騒音対策であったり、遮光性能の向上であったりするわけだが、どうしてそういう書類を提出しなければならないのかといえば、それは窓枠というものが一種の贅沢品として見なされているからである。)、世界史が通底する、というのは窓を外すことによって世界の歴史がよく見えるから、それは窓枠に歴史があるように、最初木製でブラックウォルナットを使っていたのが金属製の真鍮やアルミを使ったものに変わるように、という程度の意味合いであってそれ以上でもそれ以下でもない、と言及することによってさらなる意味の付随を図るのだが、という話はさておき窓――すなわち女性器――が外されてその向こうに門が見え、門――すなわち第二の女性器――が開かれるのが見える、その様子を再現すると、窓が外されて開かれ、門の閂が外されて開かれる様子が、ありありと目に浮かぶだろう。  ここら辺が中々読んでいくと面白くて、門と窓の話が出てくるんですね。で、門と窓っていうのが神様と女性器だってさ。みたいな所から色々話が展開してくんですよね。キメラが出てきて、色々ぶっ壊したり、窓枠は神様云々カンヌンの話から付け替えるのに役所に申請がいるとかね。中々ぶっ飛んでます。    >という話はさておき窓――すなわち女性器――が外されてその向こうに門が見え、門――すなわち第二の女性器――が開かれるのが見える、その様子を再現すると、窓が外されて開かれ、門の閂が外されて開かれる様子が、ありありと目に浮かぶだろう。  何がありありと…みえねぇよ! って感じだとおもいますね。閂のの「ー」が「ーーー」として挿入される一文っぽいし、挿入は女性器とチンコによる抜き合い差し合い、つまり閂を入れたり入れなかったりみたいでしょ。だから単純に下のイメージでやらしく読んでも面白いと思います。そう単純に、そう捉える事が出来たら面白く読めると思います。僕はまず閂ってやらしいなと思う事からはじめました。そしたら一気に面白く読めてきましたね。  赤と言及したときに赤い空が思い浮かび、空に結ばれた創世記エヴァンゲリオンのATフィールドの如き赤い糸が空から垂れ下がってくるのを想像して、それが『赤い糸』を連想させるような陳腐なものであったような気がして青い色の空にチャネルを切り替え、すると青という言葉から青信号が連想されて青信号の中の青色発光ダイオードが喚起され、それはやや緑であることが認められ、その光が入道雲に乱反射するときの色はきっと緑色の雲だけれども、その想像をあえて逆手にとって白色、ミルク色の空を呼び起こし、そのぬめりがぎんぎらとした感触を舌に与え、それが燃えているときの火の色はおそらくはオレンジであり、『アリエナイ理科の科学』を参考に調理したバーニングみかん、すなわち電子レンジ内のほの明るさの中で電極を刺したみかんに放たれる電気の映像を撮影しようとしたらフィルムが焼けて磁気も受けて使い物にならなくなり、黒色のフィルムを取り出すのにも苦労したなあという過去の印象が湧き上がってきて、ここで唐突に灰色に切り替わる、書物の色、そして音楽はジミ・ヘンドリックスの「パープルヘイズ」なので紫色の煙、紫が魔法っぽい色なのでマジックの色、マジックのキュキュっという書き音が鳥の性行時の鳴き声みたいなので「交わるときの色」という意味で用い、そしてはっと我に帰るとピンクがフラミンゴと共に幻視され、あるいは落下する桜の花びらと共に幻視され、そうして色彩を意識したときには錆色である緑青がかねてより錆びついている取り替えた窓枠と共に思い起こされ、その窓枠を取り外しているキメラは遺伝子改変のため尻尾が蛇のライオンのようになっており、その体毛は運動するにつれ風のつむじを引き起こすのだ。その風が、その(彼女=)キメラの鼠蹊部にある女性器を、一言で言えば、花開かせる、というわけだ。  女性器をなんで花開かせるのか、みたいなのは本当に訳わからん。なんでだよ! と突っ込みをまず入れていいと思います。本文をみると、色に関するほにゃららが書いてあるんですけど、多分読んだだけじゃ情報が足りなくて読めないと思います。だから注解があるわけですね。注解では、色々な色に対する作者? 語り手? の考え、色から色へ飛び移る飛躍について解説がなされています。まぁ、もうここで色々わかってきたとおもうんですが、ここにおける注解とは、作者の頭の中で起きている思考を少しずつレベルを落とす形で読んでいくというような感じの作品であるという事だと思います。だからまぁ、こういう次々トリップしていく感覚っていうのが掴めたら一気にどうかして、注解を見たあとで、本文に戻ると、F1見てる時の爽快感が味わえるのかなぁと思います。だから、わかった所から読み始めて、ちょっとずつ加速していくと、波に乗っかっていく読み方が出来ると、サーフィン出来るのかなという感じがします。  まぁ、こういう読み方は、僕が今『創世記』とかそういうのを読んでいる時の感覚に近いかもしれません。あれってそのまま読んでもいいんですけど、先生が解説をちょこちょこ入れつつ、僕ら側が疑問を提示する事よって、その応対を先生がする事によって、面白く読める訳ですね。テクストというのは、時に一方的に受け取らんといかんのですが、この場合はあれかなぁ、注解を軸にして、色々突っ込んで読んでみるのがいいのかもしれません。無論わからんところも結構あるのですが、そこはコメント欄で是非突っ込んでいただきたい(とか言ってみる…)多分、そこに作者が注解を新たに加える事によって、また多分注解の注解という形で、テクストが延長していく。  つまりテクストが三重、四重、、、構造になる。あるいは脱構築するというのか笑(なんか違う使い方になりそうですが笑)    >最終連。それまでの連との繋がりが断たれ、それまでの流れからいうと起承転結の転に近いものになっている。しかしこれまでの解説を踏まえて読むならば、それまでの連が音韻学に立脚した自由連想的、連鎖的なものであったのに対し、この連は言伝という形で台詞が続くようになっており、「あるのは倫理だけ」という連が印象的に響くが、その倫理さえも前の連が参照した『掟の門前にて』において脱構築された《Gesetz》とみて読むならば、もはや何も存在しない、と表現するのが正しく、そのような侵犯をなすことによって表現されるのは、この連以降に連綿と続く一種の自己注解という形式そのもの、ないしはそれ自体である。しかしそれでも美意識だけは残るのだと言おうとしての『いきの構造』なのだ。もっとも、これだけの言伝では「いき」を再構成することもままならないだろうけれども。  ここら辺よく分かるようでわからん。という感じですね。なんか分かりそうだけど、わからん。実直な感想としてはそんな感じがする一方で「いきの構造」というものに惹かれる感じがしますね。なんかだかね。再構成する、というのは注解以前のテクストを注解によって再構築する事というものかもしれない。注解以前のテクストというものを、単純に作者? の美意識と捉えるのであれば、ちょっとはなるほどと思いつつ、こんなのが美しいの? みたいな感じで思っちゃうのも事実、で、だから、「いき」、粋という窓枠というのは注解によって侵犯した所で到底伝わらんよね。この注解面白かったですか? みたいな感じなのかなぁと思いました。Gesetzについては、なんか分かりそうでわからん感じなので、まぁ、もうちょっと詳しいお話が聞きたいですね。翻訳の話が出ているので、つまり言葉に出来ない、あるいは変換出来ない人間の意識、つまり「いき」美意識みたいな物に近い概念として、この語があるのかなぁと思いますが。  一番面白かったのが参考文献。 >『参考文献により注解をズタボロに引き裂く』Mr. Children編著  書いてないでしょ笑 >『Mr.によるMr.』Mr.著  ひでぇ  『アーティストは境界線上で踊る』斎藤環ほか  ミスチルと、上の虚偽の参考文献みたいなのがある所からせめて行ってもいいかもしれないですね。この境界線上っていう語は、今回の作品に大きく関わってくる語だと思いますね。この作品は、ぶっちゃけ逆から読んでいった方が面白いのではないかと思います。上で三十構造とか言いましたが、既にここでもう三重になってますね。    というわけで結論としては、参考文献から読んでみたほうが面白い、注解一個ずつがもう飛躍にまみれた詩、本文はF1並(波)に早いので、慣れるまでは、下のclassになれましょう。という感じでしょうか。その上でわからん所はコメントで質問して、よりよい脱構築を目指しましょう。みたいな感じでしょうかね。あとはまず、カラジウムの葉っぱ見て、頭柔らかくしましょう。みたいなメッセージを受け取りました。あとは、付き合いきれんわ! って思う瞬間と、なんやねんこれっていう風になった瞬間と、ちょっとくだらないけど面白いなっていう瞬間と、よくよく見てみると面白いなという瞬間と、結構参考文献ちゃんと見たら笑った、罠にはめられたなっていう瞬間とか同居しましたね。  そういう意味で最初に抱いた印象を裏切られた作品ではありました。総合的に今の所は読んでよかったなーに落ち着いております。今度読むことがあったらまた変わりそうな気もします。 (カラジウム)

2017-06-25

僕は怪獣というモチーフが好きで(それは特撮をちゃんと追いかけているという程に好きというわけではなく)、例えば怪獣のバラードという合唱曲があるんですが、怪獣が一人寂しく砂漠の真ん中でバラードを歌っていて、海がみたい恋がしたいって歌う歌があるんですけどね。小学校の時凄く好きだった。 怪獣というと、ゴジラのイメージを最初に僕は思います。大きな災害のイメージを直接書くのではなく、怪獣という大きな虚構によって演出する事によって、見る側に隙を作ってやる。ちゃんとしたイメージ(形)を与える事によって理解しやすいようにする。それはいわゆる一般に生きる人間たちが避けがちなイメージにちゃんと目を向けるようにさせる為に。 >僕は生まれ出るのが早すぎて腐ってるようだ >皮膚も溶けて色んな穴という穴から体液が >吹き出してとても痛い >海に流れ出た僕の体液の周りで魚たちが腹這いに浮いている > >僕はそれでも火を吐く、世の中焼き尽くす >僕が生まれた証、存在した痕跡残すため >街や山がボウボウ燃えてキレイ、生き物たちが駆け回る > >今朝、路上で車に撥ねられ即死した子猫が 空想の街や自然を盛大に破壊し続ける お迎えが来るまで、繰り返す そんな朝、かいじゅうの朝 本作では一般人の住まう町を破壊する怪獣という極大のイメージと、一般人の乗った車によって跳ねられて死ぬ無垢な子猫のイメージが対比的に描かれ、更に二連の町が燃えるようすを通じて、リンクさせています。更にその様子の眺める傍観者(一般人)の目線が最後に付け加えられている。 凄く短い詩篇の中にこれだけの展開を詰め込んで、世の中の不条理をきっちり描いている所に好感を持ちます。ただ、対比的に描くのではなく、ここでは巨神兵的な自分の力によって傍観者を当事者に出来る虚構的な存在と、それを夢のという虚構の中でしか実現できない、非力な子猫という極小のイメージを交遊させていく。 そして、一番最後の最後で怪獣、子猫という形で人間という直接的なイメージを用いない事によって傍観者側が普段画面の中の虚構や、目の前でひき殺される猫をスルーしている現実を突きつけていく。 本作を読んでいて思うのはまくるめ「フォルカスの倫理的な死」https://kakuyomu.jp/works/1177354054881239629という小説。ここでもフォルカスという子猫が出てくるんですが、フォルカスの場合は、人口肉を食べれない存在として子猫が使われている。子猫や怪獣というモチーフは、このように色々便利なのだという感じがします。だからこそ、本作は凄くよく纏まった良作であると考える一方で、傍観者の立場、保健所に電話をする人間の立場、町を壊す必要性のある当事者に加えて、町を壊される側の立場という目線がやっぱり必要だと感じます。 僕は毎日魚や肉を食べています。ですが、命を食べているという実感はなく、肉は肉だし魚は魚なのです。その食べる物に対して一々何かを考えていたら気が狂ってしまいます。という立場もある。そういう視点を盛り込んでみた時に、本作はある意味弱いという事もいえるのです。最後のワンフレーズが傍観者を振り向かせる必殺のフレーズである一方で、同時にそれが既に傍観者の側にとって想定済みの事態であるという可能性。そこにどれだけ立ち向かえるか。振り向かせる事が出来るか。というのを見てみたい。 叙述が凄く好きなので、その先が読んでみたいというのが、僕の読んだ感想というか欲望というのでしょうか。これ位に対する反論でもいいので、少し話がしてみたいと思わされる作品でした。 (かいじゅうの朝)

2017-06-21

僕は本作を最初に読んだ時に、ヒモの詩だと思ったんです。かっこいいけど悪い男に騙され続ける女みたいな感じ。 でもよく読んでみると、逆で、エッチなおねぇさんに誘惑されまくって永久的に貢ぎ続ける男みたいな詩なのかなと思って、面白いとなりました。 そこに至るまでの細かい格闘については、夕方の放送でゴチャゴチャやったので良かったら録画を見てくださいませ(良かったらこれをお読みの皆さんも是非)http://twitcasting.tv/bungoku_was/movie/381551267# まず大前提のなるのは「 僕 = ザクロ = 花嫁 」です。この図式を忘れてはいけません。 それで、色々読んでて面白いなと思ったのが、ザクロっていう植物の使い方が多層的であるということ。まず、最初の一連で「肌」の話が出てきます。スプレーで色をつけても、緑色に戻っちゃうよっていう所。 >僕が信じられるのは無論 僕の世界のみ 君がスプレーで色を付けても やがては還っていく緑色へ 次に、土を肥やすのは君で、その栄養を吸って綺麗になるのはわたし、そんなわたしを独り占めしたくなるのは君ってうシーン。 >君は花のように無害なものじゃない.土のように痛々しくて健康で >糞を手に入れて肥沃に 温かく、ふくれ上がった >その中を、僕は蠢く やがて芽吹いて、細い首を太陽にもたげ >長い手足を雨に曝して洗い始める >君はいつかそれを、一人占めにしたいとおもうだらう ここら辺、ザクロちゃんの官能的なテクニックみたいなのがムクムクしていますね。最初読んだときはザクロ君で読んでいたので、ムキムキの男がシャワー浴びてるシーンだなと思って笑いましたが、ザクロちゃんという風に考えていくと、中々艶美なおねぇさんに見えてきます。 ザクロという植物を通じて語られる君と僕の関係。 ザクロという賞物を通じて語られる僕の身体、官能表現というのか。こういう描き方が面白い。 ザクロの実というと、まず思い起こすのは頭をかち割ったときの脳に例えられる描写、それから乳房。そこに君によって育てられるザクロ、僕、花嫁。みたいな関係性がここに見て取れて面白いです。 植物を飼うっていう行為にひらたく言えば人間でいう「ヒモ」という関係を見立てるのは面白いなぁ。多分結婚しても絶対に飽きないっていうのは、植物っていうのは実をつけてなんども生まれ変わることができるからだとおもうんですよね。つまり、いつ何時も若返る。同じ「僕」という存在。それが人間の脳に見立てられるザクロの実の比喩とリンクして僕には見えます。(中々、どう言葉にすればいいのか悩みますが) 永遠に約束されたブーケパスというのが、ザクロを育てる君の手が止まらない限りは延々に約束されているというこの関係性。僕が君を魅了する限りはザクロの実を育て、その実からザクロの実が生まれるという円環は終わらない。ザクロちゃんは何度も同じ若さ、美しさで、結婚すると同時に実を産み捨てて死ぬ。君は花嫁と結婚する為に土を肥やし、美しいザクロちゃんを育てる。という終わらない結婚式。 いやー、凄いですね。植物と人間が結婚するという話(この読みはぶっちゃけあかん感じもするのですが!)、そのむちゃぶりがザクロ一つでつながっていう感じがします。 (ザクロの花嫁)

2017-06-21

夏生さんの作品が僕は好き。 今の所大体クリーンヒットで、読むたびに凄く波長が合う感じがします。それは僕の方から一方的に寄せた、空振りに過ぎてしまう所もあるという事で、必ずしも作品の良さを紹介するには繋がらない事が多いのだけれども。 そこが、僕の側近の課題だとも最近思う毎日です。 この作品が上手いのは、洗面所の前で全部完結している所だとおもいます。 洗面所の前で、痰を吐いたり、使いきりそうな歯磨きチューブを搾りだすイメージとかを、上手く言葉に絡ませながら描いている。 その手順が僕は特に面白いとおもいます。 まずタイトルが「言葉弔い」そこから、言葉にならない感情を描く一連目で始める。 弔う話なのに言葉が生まれる瞬間を描くんですね。 次に排水溝が出てくる。 次に軌道が出てきて食道のイメージが出てくる。 そして歯磨きチューブが出てきて、ここで洗面所が完成する。 そして最後にヤマイダレに炎と書いて痰=言葉を火葬する+生まれたての、もしくは生まれる前に堕胎してしまった言葉を火葬するイメージに転化していく。最後の一連はなんとも壮絶だ。 漢字形を利用したギミックも確かですが、それが痰という日常顧みられるもののないもの、いわば排泄物として処理される物に焦点を当てて言葉を考察する。歯磨きチューブの出る瞬間に詩が宿るという例え話は結構聞いたことがあるんですよ。でも夏生さんはそこから一歩先に進むんですね。詩が言葉になる前に捨てられる瞬間を描くことによって逆説的に言葉を描こうとしている。 言葉にならない言葉を日常の歯磨きという行為の中に見出し、歯を磨き、痰を吐き出す行為に詩を見出す。それを僕に能動的に感じさせてくれる。そこに、僕は惚れてしまいますね。 (言葉弔い)

2017-06-21

 ラグというのは 【カーペット】 屋内の床に敷くための織物や敷物の総称 【ラグ】 小型の敷物 (一畳から三畳未満) 【マット】 小型の敷物 (一畳未満) カーペット > ラグ > マット  らしいそうですね。知恵袋にありました。(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1032548485)つまり、ラグというのは自分自身を程よく包み込む、ちょっとだけ大きな柔かいものであるのではないかとおもいます。そのサイズ感としての「ラグ」という大きさの選択がある。  「わたし」がなんどもリフレインする事によって、白い部屋の中にいるわたしという物の存在がどのように停止しているのか、つぶさに重ねられるように描かれていきます。 ==========引用=========== 毛足の長いラグに へたりこむ わたし 視神経に異常はないけれど 何も視ない わたし ========================   毛先の長いようすから、僕はもふもふなラグマットを想像し、それに身を委ねる事によって間接的に「床」に接触すると同時に、まるで長いまつ毛を閉じるような感覚で、毛先の長いラグによって視神経に蓋をする事によってシャットアウトする感じ(ここら辺パソコン用語で用いられるラグのイメージも重なってくるのかもしれないのですが、)、それが =========引用========= いきることを ひとときの間 やめている わたし ===================  ここまである意味極端なフレーズにつながっていく。目を閉じる事が、なぜいきることをやめる、という強い言葉まで繋がるのか、それは目からもたらされる情報量が凄まじいからです。目を通して僕らはいろいろな情報を得る事ができると同時に、目は日に日に酷使されていきます。目を閉じるという事は、つまり、部屋の外で生きる為に必要な大事な道具なんですよね。それがもしなくなった状態で明日投げ出されたらそれこそ生きるハードルは高くなっていくでしょう。  だからこそ、一番最初に外界との接触を立つ為に、語り手は部屋に入った途端目を閉じ、いきることをやめるのです。 =========引用=========== 何気なくおかれた 指先から 流れ出してゆく わたし 髪ばかりがつやつやと ひかる ===============  ここはまりもさんの読みが素晴らしい。僕から加えるとしたら、多分指先を置いたのは「ラグ」があることからフローリングの床なのかなと思っています。自分の体温、生きている感覚を気が付く為には、床を触るという行為をするのがてっとりばやいのかなとおもいます。  そして電気を付けた途端に「わたし。」というものの意味合いが急激にかわってしまう。それは、今まで積み上げてきた「わたし」があるからこそ成立する「わたし」なんですね。   電気を付けるっていう事は、スイッチを入れるという意味合いもそうだし、僕らが社会的な生活を営む為に必要なインフラとしての側面、そのインフラを使う為に社会に対して奉仕せねばならない外的な物とのコミニケーション。そういう物の果てに、金銭を稼ぎ電気を付ける事ができるという意味を、ちょっと深読み過ぎかなともおもうんですが、そういう事を感じました。  なぜこういう事を考えるのかというと、それは僕がバイトに行く時に、絶対にやる事があるんですね。僕の場合は決まった自動販売機でコーヒーを飲む事で、気合を入れます。そしてスイッチを切るために、決まった定食屋で漫画を読みながらご飯を食べる。んで、なんでバイトするのかというと、生きるためですね。自分がこうしてネットとか使ったり電気や水道を使うためにバイトするんです。その為に部屋にいる自分を切り替える必要があるし、切り替える為のきっかけがないとやってけないんですね。  そういう背景から読んでいくと、この詩は働いている人で、毎日クタクタになっている人を描いているともいえるし、部屋を心の象徴のように捉えるのであれば、表の顔と裏の顔みたいな心の二面性を歌っている詩であるともいえる。更に突っ込んで言ってしまえば、人間という社会的な動物の様態を描いているという事も感じます。  それをシンプルに上手くまとめた作品、且つ見所もある作品で、上手いと思いました。 (ラグ)

2017-06-20

なかたつさんとラジオで毎週土曜日、午後10時、一回、掲示板の作品をひらすら読みまくるラジオをやっています。 http://twitcasting.tv/bungoku_was/show/ ↑ 上の履歴から放送が見れます。 毎回二時間できる所まで読み込むスタイルでやっています。書いてある事を愚直にどこまでも時間の範囲内で読んでいくので、中々聴いている側も大変だとおもいますが、やっている側も毎回必死なラジオです。作品と作者に揉まれながら、それに加えてB-REVIEWの精神であるマナーという名の元、ひらすらに誠実に作品を読んでいます。 リクエストなどは雑談掲示板などからお願いします。 また演者も募集しています。 先々々週はひいらぎさん、先々週は白犬さんをお招きしてたっぷり二時間、作品と作者の話を伺いました。 出演料などは一切でませんが、出て頂けるのであれば二時間ゲストで出てくれた方の作品の話しかしないという特典がついてまいります。 ツイキャスができる環境の方で、B-REVIEWに二作品以上作品を投稿されている方で、興味がある方は雑談掲示板の方に書き込みをお願いします。 また、毎週一回程度ですが、どの作品をどの作者を取り上げてどのような話をしたのか、かけたらなとおもっています。それは、ブログや雑談板などで本来は書くべき話かと思っていたのですが、放送の中で、是非掲示板の方で毎回張り出して頂きたいというコメントが多くかり、実験的に試してみようかなとおもっています。問題が出るようでありましたら、コメントなど適宜いただければ幸いです。それを元に放送の方もブラッシュアップして参りたいとおもいます。 加えて今週は次の日曜日の午後9~10時より、今度は祝儀敷さんをお招きしてお話を伺う予定です。ご期待ください。個人的には大賞を受賞した作品や、オホーツクの詩作品、カミノテクノの話や、諸々のネットでの活動など絡めつつB-REVIEWの作品についてはなしていけたらと思っています。 実は、来月にも、余裕があれば放送に出たいと黒髪さんが放送中名乗りをあげてくださっております。個人的な話ではありますが、僕は黒髪さんの作品とはある意味ちょっとした長い付き合いであり、僕がネット詩に関わる中でなんどもお世話になった覚えがあります。一度、機会があればお話を伺ってみたい所で、手を挙げてくださり、本当に嬉しくおもっております。 私の作品を読んで欲しい、或いはこの作品を放送で撮り挙げて欲しいなどとありましたら雑談掲示板、もしくはTwitterの方にリプやDMください。 (B-REVIEW /ON)

2017-06-20

 こいつはかっこいいいな…。そらまめがいいパンチを効かせてますね。最初「きみのこと」の方にコメントを寄せようと思ったのですが、素晴らしいですね。白旗です。この作品が売れるかどうかとか、いうとある意味でキャッチーさみたいな物はもうちょっと欲しいのかもしれない。けれども、個人的に凄く好きになってしまったなぁ。多分僕が好きなツボを全て押されてしまったような感覚でしょうかね。なんというか傑作というよりは、受けてしまったみたいなもんかなぁ。    湯煙さんの持つ創作の幅というか、器用さは随一ですね。ビーレビに限って言えば、石窯パンから任侠もの、あるいはナンセンスなものや、ちょっとしたSFちっくなものまで、本当によく書かれるとおもいます。色々詩集として編み上げられた物も読んでみたいっすね。多分あとで再レスしますが、凄い読み終わっていい気分です。僕は感動しました。 (ある詩)

2017-06-15

 個人的には、本作は傑作だと思っています。  理由は単純です。  テーブルって凄くいいモチーフだなって、思わされた。それくらいの強い意味を感じました。そう、今月一番に強い意味をテーブルから発見したのではなく、見せ付けられるような感覚。それは僕のパーソナリティを形成する大きな一部分をテーブルが担っているという所を突きつけられたからです。  テーブルというのは、よくよく考えてみると僕の人生においてはいろいろな大事なイベントがある場所でした。  実家には大きな楕円形? のダイニングテーブルがあって、そこは唯一家族が顔を合わせる場所でした。いろいろすれ違いがあっても最終的にそこに集まって顔を合わせる必要がありました。  例えば食事、朝は絶対に家族全員が顔を合わせなければいけませんでした。それから次に夕食。  あとは、小さい頃の誕生日の思い出。友達と焼いたホットーケーキ、とか、クッキーを焼いた覚えもありますね。 正月に持ちをついて皆で持ちを丸めたのもテーブルでした。  あとは、、家族会議とかでしょうか。喧嘩したり、テストの成績について問い詰められた時とか。そういった家族にとって大事なイベント事は基本的にそのテーブルの上で行われたんです。 >テーブルをふく >力をこめて >たてによこに >行ったり来たり  テーブルをたてによこに拭く、という行為から僕はテーブルという平面を感じました。どこまでも伸びていくX軸とY軸が指し示す一つの大きな平面。 >つやの出たテーブルに >満足して周りを整える >何事もなかったように >一点の汚れも逃さず  テーブルの表面を綺麗にしている様子から、大事に使っている事が伝わってきます。つやが出る程に磨き上げ、一点の汚れも逃さないように隅々までテーブルを拭いていく。ただ、「何事もなかったように」という一文が詩行に影を落としていきます。何事もなかったように、という事はこのテーブルの上で何かが起きたのです。 >ふいてもこすっても >落ちないものは >傷 >削るか、ごまかすか >そのままにするか  ふく事では落ないもの、それを本作では「傷」という言葉で表現しています。ここが一つのみそになっています。  テーブルに傷が付く瞬間というのは、僕はあんまり想像できません。物を零してしまった時はそれこそ「ふけ」ばいいんですよね。  しかも、つやの出る程大切にしてきたテーブルに付けられた「傷」という事はそれだけ重篤な意味があると考えて間違いないでしょう。 >削ればひどくなる >ごまかしは剥がれる >そのままでは痛々しい  その傷はごまかしの聞かない、見るだけで痛々しい程の傷であるという事がここからわかります。傷というのはテーブルの表面を何かで引っ掻いたものなのか、なんなのかについてはわかりませんが、多少カンナなどで表面を削ったくらいじゃ取り返しのつかないくらいに「深い傷」であること、もしくは大きな傷であることがここから分かるでしょう。 >いつの間に >ついたのか >つけられたのか >ふれると低いくぼみ >粗い肌がわずかに見えた  ここで面白いのは「肌」という語が登場する所です。今まで「傷」のイメージは物質的なイメージをほぼ一〇〇%持っていた筈です。しかし、ここで「粗い肌」と表現されることによって、人間の顔が浮かび上がってくる。その顔とは一体なんなのか。  まずはテクスト上から読み取れる物を整理していきましょう。テーブルに付けられた傷は「いつの間に/ついたのか/つけられらのか」とあるように、いつなんどき付けられたのかわかりません。ですが、テーブルのメンテナンスをし終わった直後に、ごかましのきかない程の大きな傷を語り手は見つけてします。それを粗い肌、つまり手入れのなされていない顔のようだという瞬間を手で触れることによって「わずかに見てしまう」、そのことにぞっとしてしまうんですね。  語り手はきっとテーブルを大切に思っています。それは、これはここには書かれてないことですが、テーブルとはやっぱりその家、住まいの中心にあるものなんです。一人ではなく、特にふたり以上の人間がいる家では、きっとテーブルがその家の一つの中心にあると思うんです。だから、そのテーブルを大切にしている語り手が、そのテーブルの中に自分の見過ごしてきた影を見つけた時のおぞましさというのがここで一気にむき出しにされ、可視化されるわけです。  表面的に大事にしてきた、語り手の家族、もとい同居人との関係の内部にはきっとなにかしら、見えない大きな溝があって、それらは多分見過ごされてきたんですね。でも、それが許されない瞬間というのが実はもう語り手というのは見えてしまった。テーブルに入った大きな傷を見てしまった。今までは表面上は綺麗に大事に磨き上げてきた、テーブルという平面。そこに「くぼみ」というZ軸が入ることによって、新しいフェイスが見えてしまう。いや、しまった。というべきでしょうか。  それから「粗い肌」という表現から、ストレスで疲れきった人間の顔というイメージが湧き上がってきます。テーブルについた傷を、人間の皮膚のように見てしまう。「粗い肌」からそうぞうされるのは疲れきった人間のようす。健康状態の悪そうな感じがしますね。後に続く傷を隠そうとするその態度からも「傷」を付けられたなにかしらのイベントからしばらく経っても、その傷ートラウマから逃れることの出来ない語り手の疲れ、倦怠感みたいな物が一瞬だけ見ることができます。  そして、僕は本作を読んで思ったのは、やっぱり家族会議の時の思い出です。皆がいろいろな感情を溜め込んでいて、最後にオヤジがテーブルを思いっきり叩いた時に出来た傷。物をテーブルに叩きつけた時に、テーブルの表面に現れた、または残ったくぼみのことを。あるいはオヤジが僕のことを見た時のあの疲れきった顔のことを。 >やさしい色のテーブルクロスを >大きく広げ >傷ごと覆い隠した  「やさしい色」ということばで覆われた、テーブルクロスで、無理やりレイヤーを被せることによって傷を見なかったことにしてしまう語り手。目を背けるんですね。 >これ以上 >傷つかないように >汚れないように >何事もなかったように >傷を忘れられるように > >本当に何事もなかった >と >間違えるまで  過去、テーブルの上であった事をなかった事にしてしまう。つやが出る程に大事にしてきたテーブルの上に傷があることを知ったとたんにテーブルクロスで隠してしまう事で、新しいテーブル、つまり家族を演出する。家族をリセットしようとしてしまう。家族を偽装してしまう。「間違えるまで」その傷が起きた事なんか本当に何事もなかったんだよと、という風に認識が変わってしまうまで、 「傷つかないように/汚れないように/何事もなかったように/傷を忘れられるように」四行に渡って積み重なったことばによってくぼみをまるで埋めるかのように、傷の存在をなかった事にしてしまう痛切さ、そして、その舞台をテーブルに置いたその着眼点。お見事だと僕は思います。 (なかった、ように)

2017-06-12

 この作品は一連が「こども」パート。二連が「おとなになる」パートになっています。   ●一連 「お星様がいない夜」つまり、星から飛躍して天の川=ミルキーウェイのイメージから、ミルクコーヒーのイメージも微かに匂ってきます。こどもから見たときのユーモアある物の捉え方から素朴な語り手のキャラクターも見えてきます。  語り手は初めて「おとな」の飲み物であるブラックコーヒーを飲みますが、本当にまずかったんでしょうね。  そこから逆ギレするようにこじれて「おとな」を一緒に馬鹿にしてしまうわけです。 語り手はブラックコーヒーの表面的な「苦さ」しか分からない。それで、その分からない感情が飛躍して、大人ってなんなんだっていう疑問をぶつけてしまうわけですね。そこが「マグカップに入ったブラックコーヒー」の「暗闇」に喩えられている訳です。  意固地になった語り手はそれを知ろうとしませんでした。 ●二連  そのまま二連に入って「おとなになる」パートになります。  時間は戻す事ができません。戻ることもできません。そして、逆週からは一週間のニュアンスも微かに臭ってきます。月曜から始まる長い長い社会人という道のりです。  鉄棒とコンクリートで囲まれた箱という表現から、語り手が都会、もしくはそれに準ずるような町で、社会人として働いている様子が伺えます。個人的には檻のイメージのニュアンスも伺え、まさに社畜のイメージにつながってくるでしょう。 そして、まだまだ若い新入社員の語り手は、自分が如何に若い存在であるかを自覚したばかりなので、罵声や説教を沢山受けまくります。そしてそのことが本当に辛い。軽く受け止めることができません。「おとな」的な物に反抗するためにまだブラックコーヒー(星のない夜の味=二四時間明かりのついている社会の味=辛酸なんか舐めたくない)なんか飲みたくないと反抗しています。  それでも、働いてクタクタになった自分の目の前にある自動販売機は「社会」が作り上げた一つの機構(「箱」)であってその中には煌びやかなジュース達がズラッと並んでいます。自動販売機は基本二四時間稼働していて、真っ暗になることはほとんどありません。しかも、多分その多くの商品が売り切れ状態なんですよね。その様はまさに、自分はまだ若くて社会の一員になりきれていない様子に加えて、そのようなリア充なジュース達(勝ち組)達に対する小さな嫌悪感を投影しているようです。  そんな中、語り手は売れ残ったブラックコーヒーを買ってしまいます。今まで避けていた筈のブラックコーヒーがここではなぜか弾きものの自分と、同化して見えてしまったんですね。(ブラックコーヒーは日本の自動販売機とかを見るとわかりますが、暑い夏の日とか本当に売れ残っちゃうんですよね)  そこで久しぶりに手に乗ったブラックコーヒーを飲んだ時にブラックコーヒーの「苦さ」から「優しさ」という概念を獲得するんです。  これはどういうことか。  「おとな」になるというは、苦さを楽しめるようになるということなんですね。これは、青年漫画と少年漫画の違いについて鳥嶋社長が白泉社のインタビューの中で答えていますが、精神年齢が上がるということは、人生の中にある苦さを、楽しむことができるようになるということだと思います。  語り手は、今までブラックコーヒーの表面的な味しか掴めませんでした。苦い物はいやだ、説教や罵倒はいやだ、働きたくない、逃げたい、おとなってなんなんだ、なんであんなに我慢して仕事して生きてるんだみたいに、「知ろうとする事」から逃げて何もかも分からん分からんと拒否反応を示したり、理解する事を反抗し、拒もうとします。    ですが、いざ、自分がおとなになって、初めてブラックコーヒーを飲んでみたら、それが美味しかったんでしょうね。そして、大人達がなぜブラックコーヒーを好んで飲んでいるのか、という事を一瞬で悟る訳です。ブラックコーヒーの持つ苦さが、自分の中にわだかまっていた「苦さ」っていうの教えてくれる。  つまり、「知ろうとしなかった」自分に対して、ブラックコーヒーが「おとな」というものを「教えてくれた。」そこに優しさがあるわけです。ここに「同情の味ではいい表せないほど」というニュアンスの隠し味があるわけですよね。  反抗期の自分に対して、文明が差し出したいっぱいの缶コーヒー。それが教えてくれたおとなという立場、それがブラックコーヒーの工業的な辛酸のイメージを掻き立ててきます。  幼い頃おとながマグカップに淹れてくれた暗闇の味を表層的な理解から、おとなになる事で、深く知る事ができる。つまり、この語り手はブラックコーヒーを飲むことによって、おとな=辛酸を知ったのです。おとなになるという事は、その人生を、渋みを知りながら、受け止めて、それらを人生の味わいとして感受しながら長い道のりを生きていくだと悟るんですね。  その結果表層的な「トラウマ」としてあったブラックコーヒーというほろ苦さが、おとなになりかけの語り手の心をすくってしまったのです。  それが本作の最大の見所であって、僕が押したい理由です。書いてあることはただおとなになってブラックコーヒーを飲んだ、ただそれだけ。ですが、それを単なる二項対立に収めず、ブラックコーヒーをブリッジにして人生における苦味の獲得を多層的に、立体的に描いています。本作を読んだ後に、BOSSのCMを見ていただければ、よりそのニュアンスが伝わるのではないでしょうか。 (ブラックコーヒー)

2017-06-12

 これは秀作だなぁ。文句の言い様がない。  奏熊とととさんの作品の中では一番の好みです。  単純な子共と大人の対比として描いている訳じゃなくて、多層的、重層的な作りになっていますね。そこからにじみ出る詩情が素晴らしく、言葉にするのが勿体無い作品です。    これは近い内にブログの方に紹介記事書かせてください。社会人の心にすっと入ってくる、とてもいい詩だと思います。ああ、とてもいい。   (ブラックコーヒー)

2017-06-03

   >単純、っていうならば、時間や場所に関係なく、海外からでも書き込みをできるこの掲示板につながることのできる、「現代」を取り扱った作品ってのが「壮大」っていうのであって、それに比べればこの作品なんてのは人が地上にはいつくばってる人を扱っただけの、ロマンどころか「みすぼらしい」作品なのだと思ったりするのだけれど、どうでしょう。  まぁ、結論から申し上げますと、人の見方感じ方によって、異なるという風な答えになってしまうとは思うのですが(それはまさしく虚構という概念が一見あらゆる物事に対して万能であり、絶対的なゼロとして機能してしまうように)  僕は本作の例え話をちょっとだけ気に入ったというだけの話です。「現代」を取り扱った作品というのが、おしなべて壮大であるかどうか、というのは僕は甚だ疑問です。現に僕は今は海外にいる発起人達と連絡をとりあっていますけれども、うまれた時から既に、ネット環境が側にあった僕からすれば、そこまで壮大な事には思えない訳です。    たとえば、僕は昨日みんなで『創世記を読もう』みたいな会に参加していて、そこで「サラの埋葬」の章を読んだのですが、そこでサラの埋葬地をアブラハムが決める時に、「わたしはここの土地を銀四〇〇なんちゃらで買ってここをサラの墓地にするぞ!」とみんなの前で宣言するシーンがあるんですね。では、なぜそんな事をしたのか、今だったら紙に書いて証拠を残したりするじゃないか、っていう疑問を僕が投げかけたら、そこから一時間半紙の歴史の講義が始まって、それが中々面白かったわけです。しかも、そこではさらに、浅井さんがここでくださった情報に加え、上に示した下克上の知識も重なって非常に面白い話が出来ましたし、見識が広がりました。自分が手にする紙に対する感覚も少しだけかわりましたしね。さて、こんな体験は、果たしてネット上だけで起こりうる物だったのでしょうか?  僕からすれば昨日のアナログな読書会は、ロマンに溢れていましたよ。僕は今、人の持つ文化という物、あるいは虚構でもいいですが、そういうものが好きになりました。  僕がいいたいロマンというのはつまりこういう事ですよ。遠い時代の物を見たときにむしろ僕らの生きている現代というものが浮上してくる。その瞬間こそがドラマなんですよね。その遠さというのは、紙のつくり方一つとってもぼくらは何もしらないという所に一つの端緒がみられるかと思いますけどね。そういうものにクローズアップして歴史を描くことによって、ロマンは再生するのではないでしょうか。むしろかえって。  そして、浅井さんがここに示してくださった、例え話というのは、もっと厳密に見ていくと面白い事が沢山いえると思うんですが、まぁ良くもこれだけ短い詩篇の中につぎこんでくださったと思います。色々な方と本作についてちょこっと話したときに、最後まで読みきれなかったという意見をききましたが、その点は僕も少しだけおもいます。一連目はある意味牽制球みたいなもんですもんね。別にただの例え話であると聞けば校長先生の長話みたいなもんであって、落ちに全てが詰まっているあの感じかなとか思うのですが、しかし流して読み切ってしまえば僕からすれば知らない情報ばかりですし、そこから意味を抽出して自分なりの(あるいは語り手なりの)回答を導き出している。普通に読んでいて破綻している箇所は僕には見当たらないし、ならば今は受け入れるしかありません。無論、そこに何かしらの「欠点」があるかどうかについてはわかりません。僕はあくまでも語り手による講義の聞き手であって、そこに感心してしまったただの人間でありますからね。ここに記述された歴史そのものに対する疑義を唱えられる訳もないので、まぁ僕は素直に読書を楽しんだという事であります。 つまり、僕にとって本作を読書する事には意味があり、現実にその意味が役に立ちました。その意味がこれから僕の人生において、校合され無に帰す事があるかもしれませんが、今この瞬間にネット上で、本作を拝めた事、それ自体の意味は僕の中で失われる事はありません。そういう意味では現代という時代はロマンに溢れているのかもしれませんけどね。要は浅井さんからのといに対する僕の答えは「そんな事聞かれても困る。本作が僕にとって既にロマンとなってしまった以上、なんと答えればよいのか。僕はこの感慨を作者に殺されたくない」という感じになりますかね。 (no title)

2017-06-03

口三さん  レスありがとうございます。  詩を読むときに最近思うのは、詩を声で読むときと黙読で読むときに生じる差異についてです。僕も男なので、女の子みたいな声それ自体を持とうとしたら、色々大変です。でも、物を書くときだけは女の子になれるよな。声がないから。という事にきがついたのが、最近で、それを試してみたかったというのが、本作の狙いとしてはあったります。    その結果、個人的にはかなりの収穫を得られたのではないかと思っています。  口三さんのレスをよませていただくと、その点、上手く語り手を演出出来たのかなと、嬉しくおもいました。 (屍)

2017-06-02

kaz.さん 「自己紹介して!」  という一文は、実は一番最後に付け加えたもので、個人的には結構勝負したものではありました。今思うと、面接の待ち時間に書いていたものなので、そういう無意識的なものが出てしまったのかもしれないなぁと、みなさんのレスを読んでて思っている所です。  視覚的な要素については、これから少しづつ勉強していきたいと最近ガチで思っているところです。この詩に視覚的な要素を取り入れたのは、スマフォで行間をスクロールする事に詩情が生まれる事があるのだな、という作品に最近であったのが大きいです。ここら辺、次のステップに進んでいく為にも腕を磨いていきたいですね。  「チャかシズム」については、載せて頂けるのであれば是非とも喜んで! この作品に限っては原稿料とか著作権とか、そういうのもいらないので、好きに使って頂けたらと思います。(返信遅れてすいません!)  レスありがとうございました。 (屍)

2017-06-02

なかたつさん  分析的なレスありがとうございます。個人的には何も言い返せないくらい仔細に読んでいただけたと思っています。いい意味でコーリャさんのレスと対照的であって、今回の作品は本当に充実したレスをいただけたと思っています。本当に、僕は幸せものだと思います。  何か具体的なレスを返してしまうと、それが悪い意味で正解のように取られてしまいそうなので、(正に、この詩の語り手が言わんとしてることに近いのかもしれませんが)具体的どうこうというのは、放送の方で、宜しければ互いの作品について読んでいけたらいいなと思います。 互いの腹の斬り合いになってくたばる事のないようにかは、気をつけて! ですが!  本当に読んで下さってありがとうございました。 (屍)

2017-06-02

鳩村さん  レスありがとうございます。魅力的なフレーズが多い、との事で、純粋に嬉しいです。フレーズの持つ魅力で、上手く読み手を引きずっていきたいという願望が昔からある一方で、中々達成するのが難しい事だと、個人的には思っていますので。  >気になるのは、使われている、テクニックが、妙に古い気がする、というところですね。2010年前後に、流行ったスタイルの印象です。  多分、僕が好きな書き手による作品が、2006年~8年位に集中してるのが大きい影響かもしれません。(ネット詩限定で!)こういう風に読点で切っていくスタイルが、肌にあってるのかもしれんと思っている所があります。とはいいつつも、しばらく封印気味ではあったのですが、今回は個人的にちょっとだけ挑戦してみたいと思い採択した次第です。 (屍)

2017-06-02

コーリャさん  ずっと返信が返せないんですが、多分コーリャさんの返信が、もうそのまま詩になってますよね。アンビバレンツなものを、僕はこの語り手の声に込めて書いたつもりです。それが、伝わったという事をレスの返答からひしひしと感じます。いいたい事沢山あるのですが、書ききれないや。五回くらい書き直して諦めました。  今度電話した時でも話しましょう。 (屍)

2017-06-02

まりもさん  遅れてしまってすいません。  「丘」という言葉をどうしても使いたくて、でも、僕には丘という記憶がどこにもなかったので、捏造するしかなかったのですが、その過程の中で、丘の持つイメージというのが、何かしらの象徴みたいになりそうな予感がしてきましてて、それが最後に上手く弾けてくれればいいなと思いながら本作を書いたのですが。それがまりもさんには伝わったのかなと思い、レスを読んでいて嬉しくおもいました。  文章のどこを書き足して引き算するのか、というのが、今回は少しだけ上手くいった感じがあります。今回引用して下さった所は、個人的に調整みたいなのを加えた所が多く、ちょっとだけ推敲の手触りというか、こういう感じで持っていけばいいのかなという感じが得られたような気がしました。  レス、ありがとうございました。 (丘の向こうに消えてゆく)

2017-05-22

紅月さん  色々、遅れてしまってすいません。  なんだろうな、凄く嬉しいレスでした。なんだか、上手くここでは返事ができないのですが、最近の紅月さんへの色々な返事の中で書いているとおり、僕の場合は「姉」という存在が非常に偉大な物としてありまして(それは良くも悪くもなのですが)父や母ともそれで色々あったのですが、そういう物の一部分を、今回は少しだけ描けたのかなと思います。  とはいいつつも、本作は、多分紅月さんからの影響を割と、モロに受けている感じが、しています。  レスありがとうございました。  僕は自分の書くものが何もかも嫌いだと思いながらずっと生きているのですが、少しだけ好きになってもいいのかなとおもいました。 (丘の向こうに消えてゆく)

2017-05-22

 一緒にお酒飲んだから、いつもよりなんかあれかなぁ、安心して読めたかもしれない。あの状況まんまですもんね。だから、多分あれだな、kaz.さんの事をもっと知れたら、知れただけkaz.さんの作品は面白く読めるかもしれないですね。もちろんこれは、あの時に花緒さんから出されたお題だったから、偶々そう思うのかもしれない。普段の作品で、それが通用するとは思わないけれども(多分、個々の作品毎に用意される背景というのは異なるだろうから)、そんなことを読んでて思いました。 これは、もう感想じゃないレスになってしまってるし、だからなんだという話だと思うのですがね。すごく漠然とした言葉でこのレスを纏めるなら、読んでて凄く切ない気分になった。酔っ払いの詩ではあるけれども。 (言葉にチェイサーを)

2017-05-11

うーん、これで一応僕は四月分全部レスつけたことになるのかな? 頑張った、と言われてすごく複雑な勝手な気分であります笑 僕はエイクピアさんの、作品の味わい方があんまりわかんねーんですけど、結婚するから急にぶっ飛びすぎですよね。今月一番振り回された詩かもしんない。なんか読んでてズッコケタ気分になる詩では個人的には優勝っすね。 (頑張った)

2017-05-11

なんじゃこりゃ笑 突拍子がなさすぎる気が第一にしますが、それでもなんだかうーん、変に納得しちゃうような詩行の連続ではありますね。ある種ニッチな需要はありそうですけれども、売れない感じがします。作者は何考えて投稿してんのかなぁ (宇宙人)

2017-05-11

肉を食べる、という事を考えた時に、育てる、或いは屠殺する、という過程を僕は見た事ないし、やった事も無ければ、普段気にして考えることはない。 という人が、本作を読んだ時に、おそらく考えるきっかけを持つことができるきがします。肉を食べるという、所謂業の話は色々な人が色々な仕方で書いているけれども、でもそのきっかけみたいなものを、読者に掴ませるのか、という点でまず大変なことのようにも思います。その点本作はシンプルに語り手が思う所の着想の出発点をしっかり描いていると感じます。 (牛肉)

2017-05-11

骨、というと思いつくのは、僕は今九州にいましてちょっとだけ歴史の勉強をしたんですけれども、その中で一番強烈だったのが宣教師達の遺骨が祀られた、今は博物館になっている聖堂の部屋で、あの部屋に入った途端にものすごい禍々しさを感じるんですよね。言葉では形容しがたいものがあって、それは吉野ヶ里遺跡の甕棺墓をそのまま展示した古墳もそうで、兎に角臭いが尋常じゃなく臭い。 骨壷のイメージが作品に蔓延っていて、骨のイメージは多分色々な所で用いられているんですけどね、本作の感触が一番骨をわかっている感じがします。今は出先でちゃんと読めてないのですが、すごく好きな作です。今度再読したい。 (ジムノペディ)

2017-05-11

夜はかわいくない、から始まって流れていく、比喩の硬さも程よく、選語も滑らかでいいですね。 本作は何よりも始まり方がいい。ノイズって何? というタイトルから、夜の可愛さから、雨の話にもつれ込む。そこから都市、湖への緩やかな広いイメージのつらなり、ミルクを挟んだ後で、宴会(都市)のイメージ、からお気に入りのシガレットが無味に感じる、という所でストレスの消し方の対比があって、そこから滝雨のイメージを世界の名付けてしまう、この疲れ切った感じ。 止まない雨はない、とはいうけどそんなの嘘で、ノイズの絶えない都市はまるで湖のように皆のストレスを底にたたえながら機能し続ける終わらないスコールの中にある世界だと言われたような気がします。本作の言葉が身に染みる方は結構いるのではないかと思います。まるで、一杯のミルクを飲んだような気分だ。 (ノイズ)

2017-05-11

 僕が飼った事のあるペットは金魚で、その金魚を飼う水槽がなかったらペットボトルの中に入れてたんですけど、やっぱりすぐ死んじゃって、その時初めて命の喪失、というか根源的な恐怖を感じた覚えがあります。それは小さい頃に自分の祖父が死んだ時とは全く違う感情で、、、今は、例えば、「生殺与奪の権利」という言葉を使って説明出来るかもしれないけれども、高校三年生の自分にはそれがわかりませんでした。あの時僕は初めて命を自分の手で殺した実感があって、そのまま金魚のしたいが浮かんだペットボトルを机の下に隠しました。二週間後に親に見つかって捨ててこいと言われた時に、僕は多分初めて弔いみたいな事をしたのですけど、本作を読んで思うのは、僕は弔いなんかしてなかった。勝手に金魚に対して一方的な贖罪の念を傲慢にも抱いて投影していただけだったなぁ…ということを今おもいました。  …紅月さんの過去作を読んでいると、僕は自分の過去を常に追体験させられるような気分になります。あの時抱いていた感情がさっきあった事のように思われる。それがいつも普通に暮らしている時にふと昔の思い出を思い出して全身かきむしりたくなる時とは違って少しだけ、勝手に救われた気になるんですよね。それが、僕にとっての紅月さんの過去作を、今読んでいる理由だったりします。あの日、あの時、に思った事がここには明瞭な比喩によって綴られているというのか。本作を読めば何かわかるかも知れないという小さな期待です。。。という事を言って仕方ないので、以降は自分なりに内容について触れていきたい。多分、浅井さんのレスで僕のいいたい事は大方回収されてしまったような気がしているのですが。  仔兎はかわいいし、多分色々な生き物から一方的に蹂躙されてしまう生き物だと思います。そういう存在に生まれることの意味ってなんだろうね? みたいな事を全体から感じます。兎はなんで生まれてなんで死んで、語り手は弔うのか。という事。その舞台が設定されるのが一群目。という感じ。 1 人の死を悲しみいたんで、遺族におくやみを言う。「遺族を―・う」 2 死者の霊を慰めるために追善供養を営む。「先祖の霊を―・う」  弔いの意味は大きく二つあるけど、語り手がここで「弔う」事にどれだけの意味があるのだろうか、という疑念が膨れ上がっていくのが最初のリフレインだと僕は思います。 >兎が死ぬ世界にいる >わたしの誕生 >兎が死ぬことのない世界にいる >わたしの誕生  兎は生まれる事がなければ、死ぬ事はなかったし、死ぬという事のない世界に生まれればきっと生まれる事もなかった。死ぬという事はここでは「病理」とあるように、多分苦しみながら死んでいったのかなと思うのですが、生まれなければこんな目に会う事はなかった。死のない世界に生まれればこんな辛い目にあわなくてもよかったのに。みたいな感じでしょうか。しかし、兎が生まれて、死ななければ、私はこうして兎を弔うという行為に対して目を向ける事はなく、そこから意味を抽出する事なんかなかった。だから、兎を弔う事によって、それを表現する事によってそこから意味を見出す事が出来たわたしを「祝う」 >兎を、弔う >兎を弔うわたしの誕生を、祝う >兎を弔うわたしを祝うわたしを、弔う >兎を弔うわたしを祝うわたしを弔うわたしの誕生を、祝う  という風にずれていく。こじれてしまう。ただ、兎を弔うというだけの事が >兎の死骸がわたしに問いかける 散華の花言葉を知っていますか 答えられるはずがないなぜならわたしは自分の尻尾を追いかけている最中で >指先から葉脈を追っていくとやがて深い海溝に辿り着いた 夜闇が信号機を運んでくるのではなく点滅を繰り返す黄信号が夜を運んでくるのだから >影絵で遊ぶ手が失われたから夜は薄暗いのかもしれないと呟く右手に絡まる影が兎の死骸をぐわりと攫っていったとき街には三角点が散乱し >空中庭園のうえから飛びおりていくひとつひとつの清潔な比喩が骨のない魚の鰓を手入れするのだとして  まるでこの終わらない一行のように、生きているわたしの首を絞め続ける。 >わたしの背に >連綿とつづく原野 >そこに暮らしていた >一匹の仔兎が >今夜 >死にました >、 >という >ひとつの間違い  そして、兎が死んだという事を間違いにして忘れようとしてしまう。見なかった事にしてしまう。それは「弔う」という事が死を忘れるという行為であるという事。それは弔う側の一方的な事情であって、弔われる方の事情ではないという事を思わされます。そして、兎は言葉を持たないから、本当は何をどう思っているのかなんて死んでからじゃ伝えようがない。兎と人間の関係には最初から大きな溝があるのです。 >約束を啄む >巨大な世界樹に >わたしは >愛犬と同じ名前を付けてやる >ポチ >ほら ポチ >わたしは犬など >飼ってはいないのだけれど  犬に名前を付ける、名前を付けるという行為によって、多分近づけようとするんですけど、そんな事やったってしょうがない。という感じがします。多分また兎が死んだ時のような事になってしまうでしょうから、多分世界樹を犬に見立てたのは、樹は自分が死ぬまで生きているからだと思います。世界樹を弔う必要なんかどこにもないから。兎の代わりにしてしまったのかなとかおもいました。    (Land Scape Goat)

2017-05-10

 少しきついレスになってしまうのですが、長い自問自答の果に風と一緒に行くのはいいのですが、やはりそこが本質であると思うので、そこらへんに纏わる説得力が欲しいですね。「風」とは何か? というところの描写が皆無であって、後は嵐くらいですよね。本質が風であるという事の証明がここにはなく、つまりプロセスがなくて結果が連呼されているという感じがします。 (風とともに生きてゆく)

2017-05-08

UFOから始まるのずるいですね。皮肉もたっぷりですし、多分読めば大体の人には伝わると思います。 僕はそれでもあれですね、もうちょっと生きてたいし、基本的に人間は環境を壊す生き物だと思うので、あれだな、この作品のスタンスには抗って生きていきます! みたいな感想しか出てこないくらい、あれだな。作品の作りとしては、後少し短く出来るとは思いつつも、引き締まっていると思います。個人的には始まり方が多分今月の詩の中で一番好きだと思います。最初タイトルだけ見てどんなもんかときてUFOが来たからちょっとノックダウンされた。これはユーモアの力ですね。 (やさしい無機質)

2017-05-08

 面白いですね。「膜」というイメージ一つで、ちょっとボケてるけどなんとなく分かる感じ、というか想像力を喚起させられるようなバランス感覚に長けている感じがします。これが天然なのか、作為的などうなのか、というのはあれですが、ある種の才能みたいなものを感じます。  膜というのは、多分最初は学校のカーテンみたいな感じで読んでいましたが、二連読むと、僕にとっては医者に呼ばれたときのイメージになる。つまり、最初は透明な薄いカーテンだったのが、真っ白で分厚い、何かを隔てるカーテンになる。そこから洗い流すイメージが加わって、粘着質な粘膜のイメージになる。体液っぽい感じになるのかな。マスクが出てきて、そこで鼻水が鼻を塞ぐイメージになったりする。 >裂いた指で丁寧になぞる > >膜が破れるまで >繰り返し あいだ少しだけ飛んで(あんまりピンと来ないところもあります)、膜を裂くイメージと破れるイメージで最後締める訳ですが、そこらへんの動詞の使い方が面白い。膜一つで色々な事が出来るんだな、という事で言葉の広がりを感じる作であるいっぽう、膜を使ったテーマ、その内実にもう一歩踏み入れられたらというもどかしさがありますね。もうちょっと考察を入れていきたい作です。 (膜)

2017-05-08

>風のにおい 目を閉じれば > >静かに脈打つ 秋の産声 > >かすかに響く 夏の歌声 > >秋は夏を喰い破る  まず風のにおいとくる、次に目を閉じて、そこから脈の鼓動、から産声、命のイメージ。から響く、ときて歌声に転じる。次に食い破るときて少し不穏なイメージが舞い込んでくる。 >夏が 少しずつ こぼれてゆく > >全てが秋に染まってゆく > >かさり、と音を立てる柊の葉 > >秋の腹には もう冬が宿っている > >そしてまた 冬は秋を食い破る  あっという間に秋になって、柊で冬のイメージをまず植え付ける。「柊」の字が凄くポイントですね。かさりと、音でつないでいるのも注目に値すると思います。そこから「秋の腹」っていう風にちょっと変調していく。「冬が宿る」というイメージから「食い破る」のイメージにつないでいく。  ここで面白いのは、腹の内側から新しい次の季節が外側にある季節を食い破ってくる、円環のイメージ。こういう季節感覚が面白いなぁ。この作品は大きく二つに分かれていて、最初の夏と秋の話では、多分食い破るの種のなるような脈と歌声のイメージが「内」「外」で多分撒かれていて、それを少し不穏な感じで食い破るとおいてみる。(印象付け)  そして次の季節では、その確信となるイメージを最初の展開では似た感じで表現しつついきなり腹をぶっ込んでいく。そこからネタばらしをしていく格好で確信の季節感を述べていく。  季節は巡ってくるものだから、来年も去年も春は春、夏は夏みたいに捉えがちですけど、ここでは毎回生まれ変わるんですよね。前の季節をもしゃもしゃと食べてその彩り方を身につけたり吸収したりして、膨れた蛇の腹を食い破るように新しい蛇が生まれる。という感じ。  凄くわかりやすい言葉で、これだけ鮮やかに季節の変容を独自の世界観を作りながら端的に描くというのは、中々にアクロバットな感じがします。個人的にちょっと押したい一作です。 (喰らふ)

2017-05-08

 私と彼女がくどいくらいというか、実際くどく書かれて最後に燃やしてしまう所で、私と彼女っていうのが同一的な存在であり、分裂したもうひとりの私であるという事を思います。  あんまり突っ込み所がない。表現として、しっかり整えられている感じがします。故にちょっと前半部分の私と彼女との思い出パートみたいなのは少しつまらなさの方がむくっとはしました。その積み上げがあるからこその最後のオチに繋がるのは分かるいっぽう、それだけ個々の比喩については普通という感じなのかもしれないですね。そういう所でちょっと小説的かなぁと思ったりしました。これは贅沢すぎる要望だとは思いつつなのですが。 >病院のプラタナス。の下を飛び去った虫の大群。 >燐寸箱の傷は古かった。 > >灰が掻き消してしまったあなたの歌。 >油の匂いがする。 > >友達を燃やした。 >大事な友達だった。  しかしながら、この最後のオチは凄く好きです。そこから翻ってタイトルを見たときにじんわり胸に焼きついてくる感情は言葉で形容しがたいですね。お見事だと思います。 (親愛なる灰へ)

2017-05-08

 少しピンとがボケているような詩で、小さい頃のイメージというと、幼稚園児の絵のイメージみたいなのが出てきて、そういう感じなのかなぁとぼんやりおもいました、最後に >何で泣いているの? >母は笑いながら >私の手をひいた  この3行が入るだけで、それまでの表現のボケボケ感を許してしまいたくなるというか、僕は許してしまった。(ここら辺僕は結構厳しく見てしまう人間なのですが)この感覚はB-REVIEWにはなかったなぁとおもいました。 (暗いくらい水の中)

2017-05-08

>くもり空を引きちぎる > >そしてぎゅうとめをつむり > >ごくりと喉を鳴らして呑んだ > >口から はあと雲がこぼれる  ここら辺が面白い。雲から息につなげていく所で温度の冷たさを伝えていく、所で、 >春なのに > >ここはまだ寒い > >足元には > >生命が燃えよ燃えよと > >くすぶっている > >そろそろつくしが頭を出す頃か  春のイメージを持ってくる。雲に季節が色付いてきて、そこに春になる前の冬っていうイメージをつけていく、季節の詩っていうのは短調な色で埋め尽くされてしまうことが多いのだと思うのですけど、本作の色の付け方はなんとも絶妙ですね。つくしを最後に持ち出す事で、僕は更に五月のイメージが付け加えられて、そう、春の冬のイメージから、五月なのに曇り空でつくしも生えてこない春のイメージに変わってしまう。この感覚は中々面白いとおもいました。これだけの最小限の手数で上手く書ききっていると思います。 (息)

2017-05-08

 パンチがある話で、それは詩の造形から、入りから尻に抜けていく時の裏切り具合が痛快なのだと思います。人と鳥(ここでは鶏かな)を人間、家族に置換していく作りで、何気ない残酷さをキチンとむき出しにしていく手法、そこにユーモアを感じます。あんまり言葉にするのも無粋かなというくらい明瞭な比喩を表現し伝達させる為に作られた感じがします。これは単純にお見事だとおもいました。文句の言いようがない。ちょっとうますぎる、という優等生をなぶりたくなるような意地悪な気持ちはちょっぴりありますけれども。 (聖家族団欒)

2017-05-08

 黒髪さんの詩は、優しい。と思います。  それから、聞いてきて心地が良い独白です。話すように書かれた言葉だという感じがします。  僕は中身について、というよりは、黒髪さんの書く言葉の流れそれ自体が、好きなのかもしれないですね。  ここら辺についてはもう既出の感想だとおもいますし、僕も色々書いてきたからほかに何も言えないのですけど、ある意味で一つの完成されたストーリーテラーのような存在を感じます。一つのスタイルの完成みたいなものを。黒髪さんが詩集を出されたら、多分一冊買っちゃうような気がします。勿論全部新作とか、そういう感じですけど。人生に疲れた時に買って読みたいなぁ。。。 (答え尋ね)

2017-05-08

 なんとなく丸いもののイメージが羅列されている感じでしょうか。鳩の目を検索で掛けて見たときに、なんとなくてんとう虫っぽいなと思いました。 >果物が ある >電球と 稀に 豆電球は >まえかけに貯めて >小ネジを加えて  ここら辺が大体丸い。まえかけももしかしたら「ま」るいかもしれない。なんつってって感じですが。  >それから家屋は  >不在票を見つけた。  ここで、家の中に散らばっていたガジェット? が「家屋」っていう風に一気にズームアウトさせられる感覚というのも、面白いと思いました。といういっぽうで何をやっているのか、についてはとんと分からず。最後の奥様についても、首をかしげたいかなと思います。ただ、鳩の目って面白いなぁとおもいました。。。。多分この気持ちがこの作品の核なのかもしれないですね。「鳩の目のような寝返り」という「写真集」という事は、そのようなものを多分集めた写真集なのですから、鳩の目を見た時のような感じを受けるものを日常の中から探ってみる、という行為、好奇心、あるいは些細な発見。ちょっとした着眼、そのきっかけみたいな感じで、タイトルを理解すると、多分この詩の味わいみたいなのが少しだけほかの人にも伝わるかもしれないですね。 (黄緑色の虫)

2017-05-08

 三浦さんの作品の中で一番好きっすね。  これは面白い。皆言ってるコメントに何か付け足す事もないし、ローターを持ってきてるのが、ちょっぴり面白いけど、なんとなく馬鹿にもしきれない感じが、残念としかいいようがないし、作品に流れているちょっとしたやるせなさが、気の抜けたリュウとかの駆け引きに綯交ぜにされていて、最後の綺麗なオチにすっぽり収まっていく感じ。好きですね。 (大陸的な夜の残念さについて)

2017-05-08

 うーん、面白いですね。小さな太陽をレモンに見立てる、という小さな着想をここまで広げる手腕というか、その巧さに舌を巻きます。短詩の見本みたいだ。加えてまさかレモンにここまでの邪悪さ、みたいなのを感じる日が来るとは思いませんでした。  >レモンとデーモンが似ているのは  >偶然ではない  >どちらも  >お日さまを かくしている    ぼくが好きな遊戯王で「レッド・デーモン・ドラゴン」っていうキャラクターがいるんですけど、皆略して「レモン」って呼んでて、まさかここでそう来るか! と思いもよらず、多分この掲示板では一番ぼくがこの例えに頷いている感じがします。面白かったです。 (小悪魔)

2017-05-08

 面白いフレーズもいくつかありつつ、それを探って書いていくような感じで推敲感がなく、ノイズもキッチリ入れつつ語り手の思考、あるいはプロセスを詩に書き付けていこうとしている感じがします。そういう意味でよくも悪くも売り物にはならないかもしれないのかもしれない。最初の3行は個人的にはちょっと苦しくみえる。   >井戸で > >春が 呆けた笑いを すすり泣く  最後のオチは綺麗ですね。 (20170425)

2017-05-08

 セーラームーンが多分援助交際みたいな事を始める所から、月野うさぎとしての私、セーラームーンとしての私みたいな所に援助交際っていうか売春かな、のイメージを絡めていく事でキャラクターの二面性っていうのを読者に意識させる作りで、そこら辺がある種暴力的であると思います。セーラームーン好きな人にとってはちょっとムッとすると思います。(これはよくも悪くもっていう感じですかね。ブラックジョークたり得ている感じはするし、多分皆案外使ってる感じもします。皆がよく知ってるイメージや、最後の「戦死」に掛けて行くには必要なパーツである事は間違いないと思います。)  個人的に読めなかったのはママとパパが出てくるシーンから、という感じでしょうか。そこから向こう先のコッペパンや、ペルシャ絨毯など、少しだけ語のイメージに託したかのような展開が後半から始まっていく、所からこの作品自体にも二面ある、という感じがするのですが、、、なんとなく読めず。なんか僕自身が本作を読むために必要な素養が欠けているのかもしれません。という感じが強くします。誰かと一緒に読んでみたい作品ですね。   (はるのつき)

2017-05-08

 正直に言うと訳わからん感じです笑  意味を下手くそに勘ぐるとこけちゃうのかなぁとレスを読んで思いました。多分めでたい事なのになんでさようなら、みたいな所から始まっているのかな、とか、そこらへんの感情の機微が多分僕の中で真っ二つに分かれていて、最初読んだときは元カノの結婚式に呼ばれてんのかなとか、適当にそんな事思ったり、結婚したから今までの関係から一歩飛び出してちょっとだけ関係が変わるからさようならなのかな、とか、どっちかなぁ、とか思ってる内に杏仁豆腐が飛び出してきて、うーんという感じでしょうか。(杏仁豆腐がとにかく強烈すぎますね…大分引っ張られた感じがあります。) >(人は誰しもが目を求めている、それが人の愛を満たすから、一目惚れをして、目があるから、目に惚れて、愛でる、滅すれば、すなわち、目を思い出す、そして、ハニートーストに乗った生クリームがほどよく甘く見える、もう十分だ、ありがとう、さようなら) ここらへんの(もう十分だ、ありがとう、さようなら)あたりが少し不穏に感じちゃうんですけどね、ちょっとテキストから離れて読みすぎかもしれない。 >茶色の髪色と >優しい目の輪郭だけが >浮かび上がる夜に >別のきみを想う >(つまり、見飽きた黒髪とキツネ目のことだ > >ありがとう、ストロベリーフィールズよ >その上に生クリームを乗せて >メロトロンの音に誘われて >君を思い出す夜を迎えるよ >その髪色を確認するために >僕の目があるんだ    ここら辺とか、もう少し整理しながら読んでみたい箇所もいくつかあるのですが、ちょっと散らばり過ぎてる感じもしなくないかなと思いつつ今度よかったらお話聞かせてください。 (めでたしの始まり)

2017-05-08

>通電のたびに生まれる言葉 その産褥  一見ペダンティックに思っちゃうような語の連続で最初結構困惑したのですが、ここのフレーズを見て「言葉」にまつわる事を言ってるのか、という事が理解出来た途端に書き込まれた比喩や表現の煌きが五割増に見えてくるという点で、とても面白い作だと思いました。そう、本作の核のイメージを言葉に置くまでが中々大変でしたが、一度読めたらかなり明瞭に言葉で言葉を構築するというのか、見事な詩だと思います。  詳しくはなかたつさんと話した録音があるので、それを元にいつか再レスか動画にまとめたく思いますが。寸感としてこんな感じでまとめさせて頂きます。 (夢魔)

2017-05-08

>他人にできることは、たとえば、同情や世話の芽を摘み取ること、切迫に対峙したら匿名になること、告発に優越感を抱かないこと。パーソナルスペースをやたらに主張する的外れな自己防衛は孤独とか退屈よりも大きな空洞を脊髄に開けて、中身のない大人をつくる。フットワークは軽くなくちゃ、世渡り上手が勝ち組だ、われわれは他人、絶対善にも絶対悪にもならない、リアル、われわれは現代を正しく生きるにんげん。 > >夏は多くの家庭のプライバシーが無料開放されていて、われわれは選択の余地を与えられず、不愉快な事柄たちが平気な顔で五感に侵入する。名も無き戦争に巻き込まれ、ワイドショーは娯楽ではないという事実を突き付けてくる。 夏は個別感情の熱量が沸点を超えやすい。六感を研いで彼を崇めて運命を信仰する。わたしたちはしあわせとかいう自己完結のメロドラマが絶対愛に変換されるのをスルーしてメリハリって言葉に浮かれているのは意識高い系の成功者たちなんだよねとぼやき、知らないうちにできた内出血をシーツの摩擦で上塗りして、聖俗をバランスよくカーニングするのだ。 この二連を挟むように、 >隣に住む子供が、にんげんをころした、と言った。 >それから意味不明の言葉をブツブツ言って、エレベーターから降り、首に下げていた鍵を開け、ただいまぁ、と言った。 >推定9歳の可愛い声は、少し前、13かいのやつぜんいんしね、と叫びながら廊下を駆けていた。君はもう既にその若さから戦場に立っていようである。 >おかえり >ねえねえ >隣の子が >また変な >こと言っ >てたよ。 >平和だね >え………  とあって、それがなんというかもの悲しさみたいなものを作っている感じがします。  説教臭いけど、多分語りとしては上手い感じで中庸を説いている感じがします。極端な語や状況を持ってきて、だから真ん中がいい。みたいな形に収めるというのか、ここの説明に細かい突っ込みを入れていく事は可能だと思うのですが、その語り口の表現そのもの自体のスリムさという所には突っ込みようがないです。  その肝心の中身に対する突っ込みにすら、作品の中でセルフ突っ込みが入っているわけで、それが特に顕著なのが四連の、多分近所のおばさんとかが口元に手を抑えて何いってんのこいつ? みたいな陰口で表現されている。ここら辺が絶妙ですね。    一連と四連に囲われた二,三連の、ある種真摯な言葉というものが突っぱねられる状況というのか、その歪な感じを面白いというのか、実際にこういうのありそうだ、という感じがします。 (こんなときの愛)

2017-05-08

 繰原さんの作品をずっと見てきて、少しずつ読みやすくなってきている感じがします。ちゃんと一つの構造物としての強度というのか、そういうものが垣間見えるような感じがします。  行訳や連分け、元ネタを投げやりにするのではなく、多分何かしらの語彙のイメージに託している所、とかでしょうか。悪魔を召喚する為の舞台の電脳的なイメージ、世界観、みたいなものを考えたときにBLAME! を思い出しますね。最近だと横浜駅SFみたいな感じでしょうか。言葉から意味を剥ぎ取ってなにかしらのオブジェにしていくような試みというのは、多分共時代的な叙述よりは通時的な叙述の方がええかもしれないですね。多分一〇年後に読んでもこの文章の読まれ方というのは、あんまり変わらないような感じがします。 >切り開かれた内臓の黝い液體に沈む白い都市空間。 >記憶素子の光箭! >近代的蒸気と硝煙の狭間に潜む青褪めた薬指を、歪む唇を見たか。 >血涙を流す矮小な、しかし融合する水素に身を窶す二一世紀の妖精は >飛散した赤い卵巣の爆心地へ戦争を知らない子供達の手を引いて降りて行く。  僕自身が語彙に乏しい読み手である事が、まぁイメージを楽しめられない一番の原因だと思うのですが、そんななりでもちょこちょこ面白く感じるフレーズがあります。と同時に、一行で飛ばしすぎてなんだか訳分からず、取り敢えず雰囲気で楽しんでる感じもします。 (demon)

2017-05-08

 非常にわかりやすい作品だと思います。この作品の見所は二つの空をひこうき雲で繋げた所だと思います。それだけといえばそれだけだと思うのですが、しかし、凄くシンプルですが力強いイメージだと思いました。つまりイメージの出発点としてとても潔がよい。パンチがありますね。  飛行機雲が突然現れて目を見張り見つめる空を貫く矢としての飛行機雲。その存在を感じて言葉にする事、昼と夕方の空という時空を繋げる事、という意味じゃ凄く好きですね。勿論表現として戦っていくにはもっと色々な事を注ぎ込まないといけないと思うのですが、詩の最初の出発点としては凄く面白い詩になっていると思います。 (ひこうき雲)

2017-05-07

 「かくめい」というのが難しいですね。「政治や経済・それまでの価値観・常識などが根本からくつがえること。」という意味で捉えると、まぁ何か引っくり変えるのかなぁと思いつつ、生命線はひっくり返る事があるのかというと、ひっくり返らないのか、  という感じで多分読むのに時間がかかる作品だなぁという感想がまず一つ。一つ一つの語に自分から意味を与えて仮設を作り読解していく、でもその仮説を当てはめて読んでいった時に全体的な像のイメージを結べるかというと曖昧になってしまい、各連毎のイメージを処理する事は多分出来るけど、連をつなげようとする瞬間に諸々破綻していくというのか、そういう意味でちょっと読みづらい作品。どこからどう読んでいけばいいのか分からん。    というと、もう感想としては既出なので、そういう評価というか判断でいいのかなぁと思います。こんな事はいいつつも個々のイメージの意味深具合は気になっているし、ちゃんと読んだら面白い何かが得られるような感じがする。ただ、それを読む為にはエネルギーが必要だし、多分四dなら疲れるという感じがします。今度皆で読んでみたいなぁとは思います。 (かくめい)

2017-05-07

 「君」というイメージに色々な意味を持たせている作だと思いました。ここら辺はまりもさんが端的に纏めてくださっているのですが、まさにそのとおりだと思います。ぼくは恋人のイメージでもいいのかなと思ったりしますが、まぁ君という語に毒されているかもしれないですね。 >ゆっくりときた道を戻ったら日が >あっという間に沈んでいく > >まだなんにも知らない子供の頃みたいに >早く帰らなきゃって家路を急ぐ >また登っていく為に今日も帰ってきた  階段というのは人生に置ける時間軸のようなものでもあるし、先を行くという事は年を取っている事も意味するだろうし、物事の熟練度とか才能だとか色々なメタファーのパラメーターゲージを示すものでもあると思います。階段を下りて二人で一緒のスタートラインからまた始める事に、幼さを絡めるという事が自然に思えるのはそれだけ階段という比喩がしっかり機能しているからだと思いました。  そういう感じで巧い作品だと思いました。 (登っていく)

2017-05-07

 星の王子様読んだ事ないので、そこらへんの事はよくわからないのですが、読んでいて、分かる話だという感じはしました。ぼくも詩というか、物を何年か書いてきてここに描かれているような人間みたいな感じだし、今でもそう思いながら生きている感じがします。  才能というのも多分色々あるんだと思います。それは沢山あると思うんですが、ここには総じて中途半端な才能みたいな物で苦しんでいる人たちみたいな物を感じます。自分が中途半端な才能しか思っていない、という自覚、でも他人から見ればその才能は意外と稀有な物だったりするけれども、しかし他人の中でも同業者から見れば大した才能なんかじゃなく、その程度の人間なんかゴロゴロいるみたいな感じでしょうかね。    この話を例えばネット空間に広げて考えてみたとき、多分自分と同じ立ち位置の人間っていうのは思うよりも沢山いて、そこから上にいけども同じステージに立つ人間というのは絶対にいる。そこに年齢みたいな軸を加えると、才能の差や機会みたいな物がより残酷になっていくし、、、  みたいな事を思いました。例え話、としては読んでて面白いというよりはなんとか読めたという感じがします。佐藤秀峰の『描くえもん』とか、なんだろう、こういう状況、みたいなものにぶち当たる話みたいなのは多分今の世の中には沢山あって、それらに比べると弱い、という感じがします。これはこの詩の中の語り手にとっては、多分一番聞きたくない話だと思うのですけれども。何がいいたいのかというと、この先、もしくはこの先のどん底をもっと読みたいという感じです。よくも悪くも愚痴で終わってしまっていると思います。 (小さな星の孤独な王)

2017-05-07

 ああ、追加で青を教えてというのは、そういう事なのかもしれないと思いました。上でつらつらと書いた事は青色のイメージの変容ですものね。それを夜とセックスのイメージに絡めながら、それこそ官能的に描いているという事を思いました。 (ぼくたちの青色廃園)

2017-05-07

 最初にいきなり「青の愛しかた/教えてほしかった」とくる。  青春は「青」と「春」から多分できていて、青色が廃園するという所から、青のイメージを主軸に話が進行していくのが分かる。青春というのものが崩れ落ちていく、一つの恋愛を通して、みたいなものを感じます。大人になるというか、その前に青色に朽ちていく綺麗なもののイメージ、というのが、チャイムと十字架から教会のイメージ、に加えて逆さになっている所からの子宮のイメージ=誕生に繋がっていく。  多分ぼくと語り手の初夜のイメージなのかなぁとかおもうのですが、その日の夜はきっと月が照っていて、夜が青かったのかなぁと思います。(夜のイメージというのは、そういえば黒一色じゃなかったよなぁと、ここで今更ながらに思ったりするのですが。) > ( ぼくの心臓は水色をしているんだ。 > >      確かに。 >      せせらぎのような、 >      無垢な流れの音がきこえる。 > >( 地球は惑星なんかぢゃないよ、 >( ただの水滴さ。  青色から水色のイメージに心臓を入れ替えて透明さを加える上に青色をぼかしていく色彩感覚を文章に芽生えさせ、心臓の鼓動をかわのせせらぎの音に置き換える流麗さ。そこから地球のイメージに飛躍して水滴に置き換えてしまう、マクロ的なイメージをごく小さな一粒の涙なのか、あるいは体液じみたイメージにしてしまう力量というのか、恐ろしくイメージが尖っていていいと思いました。  次の連で骨を出したり、刃物の煌きが出てきたりと、青さのイメージが次々と広がる展開から、危なっかしさみたいなものも接木していくのも見事ですね。 (ぼくたちの青色廃園)

2017-05-07

 凄く面白い作品ですね。雨のイメージを綺麗に裏切っている感じがします。神様を皆で励ますシーンなんか面白い。単純な比喩といえば比喩なんですが、愛嬌があって微笑ましい。B-REVIEWでは「雨」をモチーフに使った作品が多いとおもうのですが、その多くは悲しみのイメージに繋がっていたり、それに終始しているイメージがあるのですが、ここでは、失恋で泣いた神様を人間が励ましているという事、それに神様が気が付く為の媒体として雨が使われている。そこが面白い、 >故に僕らがみんな >色とりどりの傘をさす訳は >ブルーに沈んだ神様の >気持ちを励ますためなのだ > >びしょびしょに >濡れながら地面を這い進む >車のワイパーは >涙を拭うものではなく >空に手を振るものなのだ > >神様に向かって、 >元気を出してと。  痛快に心を打つ傘やワイパーの比喩のすがすがしさ。表現の豊かさを感じました。秀作だと思います。 (神様の落日)

2017-05-07

 そうだなぁ、いい感じで「ボヤキ詩」みたいな感じで、B-REVIEWにはなかった視点かもしれないなぁ。と思いました。日めくりカレンダーで、なんとなく毎日ちょこっとだけがっくりきたい時に本作を読むと面白いかもしれない。と思いました。  そうですね、まりもさんも指摘されている事に近いのかもしれないのですが、音に対する配慮みたいなのを強く感じます。改行のリズムが心地よい。なんだかんだ最後まで読んでしまう。結構中身自体の考察だとか、そういうのは、ポケーとしている感じがするのですが、深く考えずに眺めているだけならいい感じで軽いような気がします。これぐらいなら付き合ってもいいかもしれないという感じがします。なんだろうな、そういう意味で連作が似合う作風なのかもしれないですね。 (連投)

2017-05-05

 割と皆思う事なんじゃないかなぁ、、、という点で考えると、的は突いている。と思います。ただ、「皆これぐらいは普通に思うよね」という感じが強いし、そういう意味では無価値かなとも思います。このままだと単なるボヤキっていう感じすかね。 (ふるさと)

2017-05-05

 気持ちの分かる作品です。僕は高校生の時部活動で狂っていたから、あの時の三年間の仲間というか、あの熱狂する感じみたいなのは、多分二度と味わえないんだろうなというのがあります。  ストレートに語り手の気持ちが描かれていて、そこは好感を持つ一方で、語り手の気持ちを介さない人に向けて、という意味での訴求力という意味では、魅力がたりないと思います。良くも悪くも内輪に届く範囲の言葉だと思います。そこから一歩抜け出す表現みたいなのがあるとより引き込まれると思います。 (友人へ)

2017-05-05

 YouTubeで挙げられてる音源を聞いて、凄く面白かったです。出来れば朗読セットで紹介したい作品だと思います。最後の万々歳は聞かないと多分魅力が伝わらないと思います。なんというか、そういう所が歌詞的だと思うからです。  歌詞的だというのは、多分語り手のテンションっていうのは、僕ら側で想像しないといけないという所だと思うんですが(例えば「あー」ってどういう感じで読めばいいのか? だらけて読めばいいのか苛立ちを含めて読めばいいのか)とか、そういう所を歌で聞くと多分掴めるからです。 >霊安室で目が覚めた >気分はどう? >良くはないよね >そっちのほうこそどうなの? >悪くない? >立派な人殺しめ > >今さら生きていたなんて >言いながら帰る場所もない >どんな面して生きりゃいい? >とぼけたよう >な間抜けな面か > >なんで生きてるかなんてそんなこと知るかよ あー >真面目くさって散々飲んだ死までの痛み あー >みんな知らん顔で通り過ぎる幻だ >まして何回も試してまたもや >失敗 最初の入りの三連がとてもおもしろく、音源を聞いた時に体に入ってきました。 (霊安室で目が覚めた)

2017-05-05

 なんじゃこりゃっていう感じですね。四元康祐の受付みたいhttps://blogs.yahoo.co.jp/day7week1/47907645.html  四元も確かアメリカで長いあいだ財務マンやってて、日本経済新聞とかで詩の連載とかしてたような気がするんですけど、多分そういう人じゃないとこういうの書けないような気もしますが、んな事ないのかもしれない。とか適当に思ったことを書きつつ、単純に読んでて面白いのか面白くないのかというのか、そういう感想が何も出てこず、分からん。というのがただ一つ。世界は大きなプールなのかもしれないし、四元からすれば階段なのかもしれない。でもこういったマクロの目線で何か世界をなぞるような作品って、案外書くのは難しいんじゃないのかなぁとか思います。そういう意味で不思議な読後感のある作品でした。 (世界構造プール)

2017-05-05

 >本を読んでいた。誰かに見つけてもらいたくて。でも誰もいなくて、よくわからない形が、ぼくの眼球に触れ、傷を付けていった。  ここが面白い。「眼球に触れ、傷を付けていった」という発想。眼球は渇求の音をうまく踏襲しているゆるい繋がり。と、同事に、 >朝顔は咲かないって知ってる。 >ああこれって 夏 ?  ここら辺も面白い。朝顔が咲かないっていう裏切りとか、思い出したように「夏」をぶっ込んだり。各連の尻で暴力をふるって、それがうまく余韻みたく聞こえるというのか、ちょっと耳に痛い感じがする。こういうのが青春っぽかったりする。「好きだよって肯定してあげたい傲慢。かなしさをずっと許さない。」から「馬鹿みたいな空色がプールサイドに混じる。全てが曖昧になって、眩しいふりをした。」プールにに飛び込む所なんか見事だ。  「目」のイメージを起点にしながら、各連の空白の隙間とイメージの飛躍具合をかろうじて繋げながら作品として成立させようとしていく気概が感じられて、素敵だと思います。「ねえ、スティックハイライトはどこに射すの/ああこれって 夏 ?」こうやって読み手に呼びかけるように作品を閉じるのもいいですね。 (あこがれて渇求)

2017-05-05

 つよい意味みたいなものを感じる一方で、カタカナの表記に加えて「するんだ」という弱々しいのか、確信に満ちた意味なのか、という所で少しだけ希望的な観測に過ぎない、未来、みたいなものを感じます。そういう意味で、この場合の「想像」っていうのが少し引っかかります。  個人的には前半部分の「愛している」と「真実」についてもう少し話を聞いてみたいという感じでしょうか。もう少し説得されたい。そしたら立ち止れるだろう、という感じがします。 (路肩の花)

2017-05-05

 個々の表現が綺麗。だし、流れているのを感じる。  けれども、失恋の詩っていうのか、単純にモチーフにうまくタッチできなかった。(まりもさんのおかげで読めた所が大きい)つまり、核心となるモチーフを偽装するための表現の羅列、という意味で終わりがない、失恋の痛みの終わりなき変奏というのか、そういう意味で空っぽな作品だと思う。でも、強さがないかというとそういう訳じゃなく、そこに僕は白犬さんの力量というか魅力があると思っています。 >眠る間際に >君の声を聞いていた 残響? > >もういいかい? > >なき交わす魂たちの目覚め  このオチは素晴らしい。ここら辺の考察はなかたつさんの読みに僕も同意する。 (acid & spring)

2017-05-05

うーん、レスするのが難しい作品だ。 多分、色々と微妙なんですよね。それを狙ってやってんのかはともかくとして、一〇〇点中五〇点の微妙みたいなもんですかね。微妙にちょっと怖いけどありそうなランキングみたいなものを作ったら上にくると思う。でも洒落怖に出したら多分つまんないって言われる。そういう感じ。下手くそかというとそうじゃない。でも巧いかというと巧いけど、多分なんかスパイス欲しい。みたいな気もちになるみたいな。良くも悪くも微妙という感じか。   トラックの音っていうのは、静かな所程よく聞こえる。カラオケボックスっていうのは基本的に防音バッチリな場所な訳で、外部の音が聞こえちゃならない場所。そこにトラックが通った時の臨場感。僕のばあちゃんちは海沿いにあってすぐそばを国道6号線が通っていたから、止まる度に絶対風を切る大型トラックの音が耳に入って、少しだけ怖かった思い出があります。そういう感じでオチにトラックを持ってきたのは、いい選択だと思う一方で、こういう思いはみんなしているのかなぁっていう気もする。そこらへんが良くも悪くも想定内の状況描写になってしまっていて、ホラーとあるあるが微妙に混ざった空気になっているのかもしれないですね。 (つぶれたカラオケボックス)

2017-05-05

>頭上では満開の桜が >堰を切ってこぼれ始めるこぼれてくる >身体を離した僕たちが瞼を赤らめたまま >官能の幻想から解放されるともはや >総ての言葉の隙間に花弁が惑乱している >さようならも死にたいもお腹がすいたも >気圧が低すぎるもなんだか肌寒いも >白に近い色彩の嵐のただ中にある うますぎる。いや、惚れ惚れしますね。桜の花びらにそこまでこめるかと言わんばかりの感じ。ここまで込められるのかという驚きもあります。ほかの箇所のグレイトとしか言いようがないのですが、細かい読解は一人でやれる自信がないな…ちょっと時間かかってしまうと思うんですが、後で再レスしたいですね。 (橋の春)

2017-05-04

 本作は、非常に一つ一つの語彙に、明確な意図みたいなものを感じる作りになっていると思います。なかたつさんと僕で色々この詩の語を一つ一つ見ていったのですが、それらを解剖してつなげていくと、ちゃんと繋がっているという事が「感じられる」。これはどのように描かれたのか、みたいなのは僕はわからないけど、そう読み取れたという事と、そういう風に感受出来たという事が、この詩の強さの一つである事は間違いないと思うんです。   >生活残響  というタイトルから、 >夕方、果てが見えるおやすみの前では >どんなに強い武器も役に立たないから >きみが口にした言葉を全部 >五線譜から外れた音符として永久に残す >予感ありきの日没を見る > >だからぼくは >きみを別枠に配置して歌うことにした  五線譜から外れていく、音として表記されない音、生活の音、或いは残響。  きみとぼくの関係をメロディから外していくという所で歌うというオチが、タイトルにやけにリンクして独特の感情がむくむくしてくる。  必然的に配置された語彙から立ち上ってくる、計算高いポエジーみたいなもの、を僕は感じてしまう。そう、そういう意味でこの作品はとても巧い作品だと思います。 (生活残響)

2017-05-04

>「わたし」が楽しいと「あなた」も楽しい >「わたし」が退屈だと「あなた」も退屈 >でも >「わたし」が悲しいと「あなた」も悲しい >・・・とは限らない > >たぶんきっと >「楽しさ」は >「わたしとあなた」の間に生まれるもので >「悲しみ」は >「わたし」の中に生まれるものだから > >「わたし」の中の水鏡に「あなた」の影が映る >その水鏡が平らかに凪いで >水底が透き通るほど美しく澄んでいれば >「あなた」の悲しみも喜びも映るだろう  ここの叙述の「」で括られた言葉が非常に曖昧であるし、その曖昧さを担保する言葉もないので、取り敢えず読み始めの段階で僕は躓いてしまったんですけど、その後を読んでみると、上に引用した事をそれ以下の叙述で例え、表現し、伝えていこうとしている感じがします。僕は本作をなかたつさんと一緒にツイキャスで読んだんですが、その中で、僕となかたつさんの関係が「わたし」と「あなた」になって、「ことのは」=言葉を通じて、ここに描かれている感情を解剖していったのですが、そういう行為を繰り返していく内に、僕らの読解の結果が一致した瞬間があって、それが一枚の鏡越しに映った僕らの感情が水鏡の上に言葉を通じてリンクしたように思えた事がありました。感情とは何か、心とは何か。これは大雑把な括りになって申し訳ないのですが「木」と「水」を用いてそれらを考察していく様はじっくり向き合ってよんでみると、凄く面白くて、とても良い読書体験が出来ました。 …という謎の感想しか吐けなく申し訳ないのですが、僕は本作が好きだという事。読解を通じて好きになった事をここで伝えたく思います。 (一枚の鏡のように)

2017-05-04

ああ、面白い。という感想がまず出てくる。 非常に魅力的な叙述です。最後まで一気に読んでしまった。久しぶりに何も言いたくない詩に出会いました。人の気持ちを描こうとしている所に好感を覚えます。「YにはKしかいなかった。」これを人に伝えるのがどれだけ難しく、また、それを表現する、出来るという事は、それだけ気高い事だと僕は思います。面喰らいました。 (『鍵のない箱』)

2017-05-04

 百均です。    了解しました。(作品消すと返事も消えてしまいますので、こちらにレスさせて頂きます)  今後共B-REVIEWを宜しくお願いします! (ル・カ)

2017-05-04

アナタが出てきた所から一気に面白くなってくる。そこにラインが交錯してきて境界が生まれ、そらがじわじわと傾いていく。それが寂しさに結露して詩が終わっていくラストの情景。美しいです。 >きっと生誕の眩暈も >こんな味だったのだろう >そう確信できるほど >静寂の中で >傾き続ける世界は >とても >寂しい匂いがした いやぁ、もう職人芸の領域では? と思わされる絵力ですね。これを見事というほかに、僕に表現出来る語彙はない。味から匂いに跳躍していくその共感覚具合に舌を巻く。そこに傾きの意味が熟れ落ちて綺麗なラストを演出しています。見事だ。 (Lean On)

2017-05-04

 こういう詩を見ると思わず反論したくなる。という事をいつも思うんですが、でも今回は割とすっと許してしまう感じがして、ちょっと面白い。「こういう詩って何?」 とかいうと、これは僕の定義ですが、僕にとって分かった事だらけの詩っていうのはけっこう無価値だったりします。表現の中に発見がない作品っていうのは僕にとって面白くないんですね。  本作に描かれている「気持ち」(…と言ってしまえば)なんですが、なんとなくわかる感じがする。僕はけっこう内生的な叙述に対してはあんまり好ましく思っていない人間ですが(大抵の場合詰まらないからです)本作の場合はその、表出の仕方が面白いと思っているのかなと思います。なんで面白いと思うのかについてはわかりません。なんせ初めての体験ですからね。  なんだろう、一票入れたくなるような感じがします。 (詩以前)

2017-05-04

 面白いなぁ、時事ネタ綺麗にぶっこんで成立させてるという点で面白い。  「ー」がアイススケートの軌跡ようでもあるし、途切れとぎれに聞こえる音声のラグそのものでもあるようだし、砂嵐っぽい感じもしますね。「漣」がいい味を出してるし、その前の神対応なんか、割とギャグとして面白い飛躍とブッコミ感があり、けっこう受けるんじゃないかみたいな事を感じます。 (誰にも真似できないように)

2017-05-04

 試みとして面白いというのと、ちょっと読みにくいですね。という所で、その読みにくさの部分に刺激も感じるし、でも多分とととさんの作品の中では一番好き。オチもいいし、問いかけと非常にマッチしている一作だと思う。作りも丁寧に感じるし、形に意味を感じるという所で作品としてのハードルは超えていると思います。。。という感じでちょっと概念的な読みになっちゃうんですけど、僕は成功していると思う。  春風が吹いているというオチが結構中々どうして素敵じゃないかと思います。     (春作と風時)

2017-05-04

>いつかきみをこの家に招いてみたい >そして風呂から上がったきみの裸をまじまじと眺めてから >笑顔の祖父母が眺める横で >静かな夜を過ごして >止まってしまった家系図のその先に >一筋の道を掘り起こしたい  最終連がとても光ってますね。面白い。という事は、それまでの部分に蛇足を感じたという事でもある事。多分ここには沢山の大切な思いが過剰なまでに盛り込まれている。という事かもしれない。僕が単純に受け止めきれなかったのかもしれない。  ただ、最終連。表現として、凄く好きだ。レッサーの皆さんの読みも面白く、これ以上は何かいうのが正直な所無粋に感じる。   (道なり)

2017-05-04

 繰原さんの作品群に対して、単純にどう声を掛けたらいいのかというので、正直にいうと大分悩んでいました。それで今思うのは、そう、ビジュアルとして多分B-REVIEWで一番濃いのは間違いなく繰原さんの作品群であろうという事でしょうか。そういう事をまず思います。  これは、余計かもしれないですけど、詩を読んでbloodborneプレイした時みたいな体験が出来たら多分凄く面白いと思います。それを言葉でどう演出するのか、というのは難しいかもしれないんですけど、達成出来たら多分面白い事になると思います。個人的に本作は今までの作のなかで一番面白い。 (abaddon)

2017-05-04

 ツイキャスで、なかたつさんと色々読んだんですけど、今度動画として編集してアップ出来たらしようかなと思います。葛西さんもその場にいらっしゃって、面白いと言ってくださったので、多分公開してもいいと思うんですけどね。  この作品は最初古文からはじまって、途中に歌なんかも混じって、少し読み手のハードルが上がるみたいな感じを受けるかもしれないんですけど、どこからでもいいので読んでいくと凄く面白い作品だという事にきがつきました。結構計算高く積まれていたり「少女」というキータームというか伏線が綺麗に最後の背中に重なっていく所など見事でした。一つのうた物語のようでもあるし、とても面白かったです。 (あさぼらけ)

2017-05-04

 単純に、花緒さんのレスに僕は殆ど同意といえば同意で、そうじゃないといえばそうじゃない。    kaz.さんにこの詩のよさを聞いた時に除光液でマニキュアを溶かすという事は爪の細胞を溶かす事なんだという所が面白いみたいな事を言っていて(上にも書いてあるのかな…意味を取り違えていたら申し訳ない)それで、結構この作品を見る目が変わったっていうのと、僕はマニキュアを付けた事ないから、わかるような分からんような感じでした。  そうだなぁ、多分ひいらぎさんの作品を読むと僕はいつも苛立ちを覚えるのは、ここにある世界の事を僕は何も知らないのだ、という隔たりに打ちのめされるからかもしれないし、だから上に示された皆さんのレスを読むと安心する自分がいるというか、そんな感じ。  つまり、何がいいたいのか、というと四月の二作品。愛憎含めて僕は気になっているという事でしょうか。僕がこの作品を正確に捉えきれてない自信があるから、より囲っておいて滅ぼしたくなる。という弄れた評価の仕方ですけれども。 (log)

2017-05-04

 五七調にしなくてもいいのかなという感じがまず最初に出てくる。その次に天と地の星(街明かり)というのがコロコロ出てくるのが面白い。そこに兵士が出てくるので少し緊張感が高まってくる。  という所でレスを見ていくと作者がこれを書いた時の心境みたいなものがより鮮明になるので、状況が理解できて詩の読解が進むという所で、そう、レス読んだ時の方が面白かったです。一晩進軍している時の様子を思いながら読むと色々読んでいて想像の具合が締まるんですよね。そういう意味で、ちょっと惜しい作品だと思います。少し書き足すだけで魅力がますんじゃないのかなぁとか勝手に思いました。 (街星々)

2017-05-03

短文の格言をピッピと貼り付けてバシっと決められるのは、単純にかっこいいですね。 ここにあるのは、ある意味正論だし、正論という事は反論してもしゃぁないという事で付け入る隙がないので、まぁ、自己完結している対話みたいなもんだし。正しい事とモテる事は別という事ですね。ただ、それだけのこと。これで全部世の中終わっちゃいますからね。僕はかっこいいと思うと同事に、つまんないかなぁと思います。 (アイデンティティ)

2017-05-03

 なるほどなぁ…という感じがしますね。これはレスを読んでいて、大体の感想が自分と相違ないという所からくる感じだと思うんですが、そういう意味で本作は多分読み手側がそれなりに似た解釈を感受出来るという点において、力のある作だと思いました。  大体の感想は上に出尽くしているような気がしますので、これ以上突っ込んで読むのは少し野暮だろうという感じがします。個人的に気になるのは主題の輪郭の所かなぁ、これはまりもさんの読みを読んで、なるほどと思ったのですが、浴槽に収まる自分や透明な卵の中にいる自分みたいなもの、人間や魚の卵っていうのは基本透明なんだとおもいますし、それから肺呼吸に繋げて口から出る泡や、口角そのものにもつながってくる、という軸に確かになってるなという気づきが芽生えた瞬間に面白く読めてきました。 (輪郭は滲むけれど)

2017-05-03

端的に「カタログ」みたいな事について、僕自身が馴染みがないからかもしれない。この詩を読んで、カタログとは何か? みたいな事について考えている内にレスを書く手が大分止まってしまって、個人的な理由になりますが、中々困った作品だなぁと思います。 それは良くも悪くもカタログという発想に結びついているのが、ネックという事でしょうか。僕の親父や母親はまずものを買うときにカタログを取り寄せてものの見定めをするわけです。最近は車なんかがそうですね。僕はなんでそうするのか、みたいなのがあんまり分からなかったりする。それはネットがあるからかもしれないし、大きな買い物をした事がないからかもしれないんですけどね。もしよかったらですけど、カタログとは何かみたいな事について、上のレスにも書かれているとは思うんですが、もう少し細かい話が聞いてみたいと思いました。 (カタログを埋める重言)

2017-05-03

 個人的に #を飛ばすという事の意味が僕はあんまり分かってなくて、今ではTLの流れが激しい時にそれらを目で追って整理して読みたい時に使うくらいなのですが、ここでは多分そういう使い方をしてないんですよね。 >さ、さ、さ、さいた。たましい。い、いただきます、わをん。     個人的にはここはしりとりみたいなもんかなと思います。唐突に一人しりとりみたいに無理矢理繋げて、そのうちに面倒になって閉じてしまうわをん。  みたいな感じで、だから#というのはまぁ繋がりなのかなぁと思うんですけどね、手軽に一語で繋がれるみたいな奴かもしれない。後はなんだっけ、前どっかの記事でみたけど、自分の裸をネットで晒すみたいな事、みたいなのを突き詰めていく記事みたいなのをどこかで見たんだけど、そういう事かもしれないですね。表現の突っ込み方でいうと、なかたつさんの読みにほぼ同意なので、これ以上言える事もないんですが、言えるとしたら、、、なんだろうな、つまり言葉で言ってしまえるという事、それによって安易な繋がりは得る事が容易になった。けれども、まぁ、所詮言葉といえば言葉なのかな。みたいな感じも受けます。  なんだろう、手首を切って血を流しても滅多な事じゃ死なない。むしろそうする事でかまって欲しいのサイン、みたいな話を唐突に思い出しました。上手く煮え切らないコメントでもうしわけないです。 (乙女たちはハッシュタグを忍ばせて)

2017-05-03

>寂しい、と >口にしたら >消えてしまう結晶たちが >アタシの中で >そっと >光りはじめる  レスを読んだ後ですので、僕も後付けの感想になってしまうと思いながらも最後にこういうオチがあるという事で、なんだろうな、ちょっとした唐突な感じを受けました。それは悪い意味で、というのではなく、それまでの連で紡ぎあげてきた風景の描写が「に」で切られてしまう事によって現実の寂しさが舞い込んでくるという事。強がっていた結晶という幻想が、消えてしまうという所に光が宿るというラストに、言葉にならない気持ちが出てきました。  それまでの連で紡がれてきた情景は切り刻んでいくと、多分繋がっているよりは羅列のイメージが強くそれが形にも現れているのかなという感じでした。それが、こうしてレスを読んだ後で、逆算するように読んでみると、ある種の納得というかちょっとだけメイキングをみているような気がして、2回楽しめる作品だなと思いました。最後まで読めてしまったら楽しい作品だと思います。 (Alpha)

2017-05-03

 なんとなくネットのオカルト文化にちょこっとだけ嵌っていたので、最初流してみた時は、元ネタに寄りすぎでは? みたいな感じだったんですけど、しっかり読んでみたら最初から最後まで結構面白い。  巨人のイメージで言うと、今だと進撃の巨人とかになっちゃうのかもしれないんですが、僕はこれを読んでて絵本のイメージがずっと頭の中ぐるぐるしました。「めっきらもっきらどぉんどん」とか、「かいじゅうたちのいるところ」とかでしょうかね。巨人っていうイメージは多分なんだろうな、人の心を揺さぶる何かがあるんでしょうね。こういうのは多分もうちょっと僕が詳しければ何か物が言えるんでしょうけど、ここでは「巨頭オ」のあの独特の頭の隅をつついてくるような語感のイメージを上手く巨大なもののイメージをゆるく絡ませて読んでみると、中々面白い読書体験が出来るのかもしれないと思いました。Twitterでもナンセンスな笑い取る人が結構使ってるのを見ると、効果はあるんだと思います。初めてみた人は結構興味そそられる力があると思います。 (ふぁんしーあいらんど)

2017-05-03

 音感がいいですね。そういう事がわかる、というのは読んでいて突っかかりがないからです。丁寧な作りをしていると思います。なんだろう、丁寧な作りなんですよね。 >机の上 素っ気なく >置かれた >赤色ボールペン 眺める >窓の外 沈む夕陽に >今の想い 重ねてしまう 「赤色ボールペン」と夕陽を重ねる描写からの >闇の中 人混みに紛れて >何かを捜し続けた >ピックが ペンに替わっても >何も変わりはしなかった ここが生きてくる。 >今年こそ もっと 強くなりたい >昨日の自分に負けぬよう >この夢 全力で 追いかけてみせる >外れたボタン 元に戻して >少しずつ 一歩ずつ この街と共に  ボタンを一つ一つ下から掛けて行く、という動作が一歩一歩進んでいこうとする語り手の気持ちの比喩になっています。こういう小さな飛躍が綺麗に弾けているという所にこの作品の美点を感じます。綺麗ですね。多分書いてある事はきっと読者に伝わるであろう、優しい言葉できっちり描いていると思います。  故に、なんだろうな、もう一歩先踏み出せたら後3歩くらい跳ねるような下地はある、という感じがします。それはつとに、多分あれだな、読み手に伝わり過ぎちゃうのかもしれないですね。これ以上は個人の好みになっちゃうのかもしれないんですけどね。 (夕暮れ時の戯言)

2017-05-03

 なかたつさんと一緒に本作を読んだんですけど、ここに描かれている事柄の裏にある背景みたいなものを感じ取れると、一気に詩の世界が広がっていく感じがして、個人的には初読と再読の間で評価が逆転した作品で、それはこの作品の持つ雰囲気みたいなものを保つために削がれた情報みたいなものをどう解凍していくかという事なのかなとおもうのですが、  >はじめまして。  >出町のお千代の孫の康代です。  この一言とか、多分ここの言い方の意図を探って何かしらの答えがでた時の納得感が、結構ハンパなかったなぁ、、、答えの内実については、ちょっと忘れちゃったのですけれども。  謳われている情感を多分表面的に受け取るのは簡単な作、でもってその中身を味わうにはちょっとだけ能動的に読む必要がある、そこが評価の分かれ目かもしれないと思ったりします。多分連続テレビ小説の真ん中をくりぬいたらこういう話になるんじゃないかなとか思ったりするんですよね。 (供養)

2017-05-01

 レシピ、織物、というものと、 羊皮紙、に描かれる物語でもいいし或いは地図でもいいのですが、その差異みたいなものかなぁ、というのが交錯しながら最終連に結び付けられていくという事。 今丁度「本好きの下剋上 ~司書になるためには手段を選んでいられません~」http://ncode.syosetu.com/n4830bu/これ読んでてですね、文章の質とかそういうのはさておき、結構同じ事を異世界転生でやってるのをここで再読したような感じがして、なんだか楽しかったです。(まだ序盤までしか読んでないので紙の部分についてはあれですけど…紙を作るのは単純に大変ですよね)美味しいレシピは男の腹を満たし、綺麗な布や(もしくは装飾でもいいかもしれない)は女を磨くので、なんだかんだあっても伝わりやすいのかもしれませんね。紙に綴られるものという所については、まぁ、単純に野暮ですね。これ以上何か書き添えるのは。最後の連を読めばそこに答えは書いてあるという感じです。 細かい指摘については突っ込めるほと細読しきれていないので、今は保留ですが、単純に例え話として壮大な気がしました。そういう意味でロマンにあふれた作品ですね。一つの世界と歴史をまとめた地図であるという感想でひとまずは閉じようと思います。 (no title)

2017-05-01

 時間経過のだるさ、みたいなのの表現については成功しています。が、個人的にはプロセスの側面が結構目立ってしまっていて、多分、上手い人はこれを3行、下手したら一行の比喩に託してしまう。例えば個人的にはスキマスイッチの「君の話」なんかが、結構似た話をついているんですけど、僕はあっちのほうが好きかなと思います。    無論、このやり方でも面白い事は出来ると思うんですが、個人的にはもう一味欲しい、という所の感想が一歩先にたちます。 (ずっと同じはなしをきいてる)

2017-05-01

レスをちらっと読んでしまったからかもしれないんですが、タイトルに後づけを加えながら作品の広がりを堪能していく作品であると思いました。その味わい方っていうのが多分上の感想を見る限りでも各人異なる順番で、異なる認識で読んでいるというのが、ちょっとだけ面白いですね。フリーシナリオみたいな味わい方で、でも多分最後みんなが、読者が抱く感情というのはどこか繋がったものがあるのかなと思います。 この詩の味わい方というのは、だから規定するのは結構難しいかもしれないですね。組み合わせを提示する事は多分出来るとおもいますが、それはそれでちょっと無粋なあれかもしれません。個人的にはこの作品の手法が面白いと思いました。 (さんかく、まる、しかく、におい)

2017-05-01

>(いっつも思う事だけどさ、 > 「食う」って表現、 > あれ食われてるのはこっち側だよね、)  既にでた感想ですけど、ここが面白かったです。一端、流して読む目が止まりましたね。これに言葉添えるがなんだか無粋だと思うので「よかった」という感想だけ書き添えておこうと思います。(時間があったら細かく読んでみたいとおもいますが、上の感想で大体掘り尽くされたような気もしています…)単純に…なんでしょう、読み流して読めた感じがして、いい感じでなめらかな仕上がりを感じます。個人的に、結構好みな叙述です。 (Answer song)

2017-05-01

単純に読んでいて疾走感がある。という点で白犬さんの作品が、僕は好き。そういう意味でロックなのかなぁと勝手なイメージ…いや、メタルなのかなぁ…そこらへんの区分はよくわからないので飛ばしますが、俄なりにそんな精神を感じます。 >あの子の頭に突き刺さってるポッキー >どうでも良いことを話してる魚卵と鶏卵 >入口を探す破壊したがりの男性器 >壊れていくよかんの恐怖を >舌に乗せて >じっと味わってみる こういう所も結構面白い。こういうぶっ飛んだ武器を隠し持ちながらも、勢いに乗せつつ、危ない所をギリギリ躱しながら、それでも最後まできっちりタイトルを貫き通している。非常に正直な作品だと思います。(ただ、直感的な感想ですけど、少し息切れも感じます。オチをどう上手くまとめるのか、あくせくしているような感じもする。そういう意味で最後に余裕なり余韻があるんすけどシーンとしてもっと決まるとカッコイイのかなとか勝手に思います) (dark star)

2017-05-01

「何も知らずに何もしないと、爆弾は落とされ、子供たちは吹き飛ばされます。」 という日本語訳が尻に置かれ、上の段には Without knowing anything, but not do anything, the bomb is dropped, children are blown off. という一文を挟み込みながら、一文で色々と拗れた状態を僕らは俯瞰するような漢字で読まされるみたいな舞台設定というのが、わかりやすく表現されていると思います。取り敢えず皮肉みたいなものは伝わると思います。つまりちゃんと「露骨」であるという事。これが大前提としてきっちり成立している事に好感を覚えますし、そういう意味で男気を感じます。手を抜かずにこの短さでやりきるというのは、単純に凄いですね。 後の感想は個人の好みの問題になっちゃうので、控えようと思います。外の感想は以上ですかね。内については、やってもしゃあないからという感じです。メッセージの内実が、それを謳っている以上は。 (Without knowing anything, but not do anything, the bomb is dropped, children are blown off.)

2017-05-01

oneからはじまって、 一、というものを灯台から始めたという所で、僕はなんとなく一定の満足を得られたような気がします。市も位置も、語のセレクトが好ましいですね。内実についてどこまで掘り下げて読めたのだろうか、というのは、僕はまだそこまでこの作品を読めてないのでなんともいえないのですけど(多分もっと内実を湯掻いていけば、それなりに実った読解を提示出来るのかもしれないのですが、位置が多分一番好きですね。)それらは他のレッサーの読みで示されているように思うので、個人的には取り敢えず文章がなだらかであったという所感を、まず伝えたい。 レスを読んだ後で、金子光晴をさっきざっと読ませて頂いて、少しだけ金子光晴の詩集を手にとって読んでみようと思いました。 (one)

2017-05-01

 コンパクトに情感が詰められた作で、一読して読んだ感じが凄くします。冒頭の木訥とした酩酊感のある語りからもたらされるバンドマンの悲しみみたいな物が解凍されていくにつてれ、冒頭の音や夜のイメージ、オチの「薄明」から「薄命」への転換に確かな技術を書きます。単純にうまい作だとおもうのですが、それとなく自然に書かれた印象もあり、いい意味で覚めた熱のような物も感じます。簡単な言葉で表現してしまうと、冷静な凄みがある。個人的には良作です。雑誌の片隅に載っていたら思わず目を引いてしまうと思います。 (薄明)

2017-05-01

 湯煙さんは個人的には流暢な散文で書くイメージのほうが、勝手に面白いと思っている印象が引きずっているからかもしれないんですが、結構ちぐはぐな印象がまず一番上にくる。その上でも思うのは、ちゃんと最後「木立」という形できっちり余韻を作っている所がなんだかんだいって心に残る事でしょうか。この一点については個人的に評価したい。僕がこういうリア充みたいな感じの思い出がないからか、前半は「なんか渋い恋愛だぜ」という感じで終わりですかね。良くも悪くもオーソドックスな作品かなと思います。 (目)

2017-05-01

勢いがある。し、「スポスポスポーツ!!」は面白い。こういうやけくそ感は大好き。「はっきりさせようじゃないか、」というオチもなんか決まってる感じがする。 本作はスマフォから見ると結構面白いし、そういう意味で読後感は爽やかだけど、何してんのか、というのは割とさっぱり訳わからん。という感じかなぁ。感覚で流す感じならギリ付き合えるという感じです。 細かく見ていくと、 >感受性の祝祭 >腐敗性物質 >あるいは >朗読の録画 >僕らの詩は読まれなければならない >地名論のように ここはちょっと面白いかもしれない。地名論っていうのが僕には分からんのだけど、なんか興味がありますね。それが「読む」という行為にひっついているというのが、ちょっと意外なのかもしれない。 普通の詩とはなんなのか、というと、取り敢えず声から始まるものなのかみたいな所から攻めてもいいし、そこから絵文字は「読める」のかという感じで読んでもいいかもしれないけど、どうでしょうね。まぁ、僕がkazさんの作品にある意味での慣れを感じてしまっているのも大きいかもしれないけどね。 (ようやっと普通の詩を書いてきたと思ったら)

2017-05-01

百均です。 コメントのついていない作品については、三浦さんとのやり取りから判断して、僕の方で消去させていただきました。 後ほど、感想を寄せさせて頂きたく思います。(個人的にツイキャスをやっている時に作品を拝見させて頂いて、単純に面白いと思い、僕から本作の投稿を勧めた経緯があります、という事を、一応ここに書き添えておきます。四月末ですしね) 投稿してくださってありがとうございました。 (喰らふ)

2017-04-28

俺たちだって裏で色々動いてんだよね。投稿者のためにさ。 次レス書いた奴はイエロー出します。いや、あれだな、レッド出します。続きはフォーラムから飛んで雑談板でやってください。 以上。 (はるのつき)

2017-04-26

作品の読解とかになると、まぁ、あれか、なんか面倒になるのかな…まぁ正確には「当該スレッド上に投稿された1作品から読み取れる物」という表現にしておきます。ここまで書いても何いってんのか分からんっていう人は僕に連絡ください。以上 (はるのつき)

2017-04-26

そうだなぁ、この議論については、僕は正直不毛だと思ってるし、ぶっちゃけ下らないと思ってるので、取り敢えずストップかけます。返答も無し。これは僕の権限です。(一応責任者です)対応が遅れた事については申し訳ありません。これでも就活生でして、明日締切のエントリーシートに追われている身です。ってか皆仕事とかしながらやってるので、そういうのも加味して、もっと皆さん同士で優しくなっていただきたいと思います。この議論で誰も幸せになってないと思うので、まぁそうだなぁ、僕からすれば「不毛」という結論でこの場は締めさせていただきたい。個人的にはお互いの気持ちの部分、文字の上だとすれ違う事も多いと思うんですが、ちょっとだけ大事に思ってください。(そういう書き込みも多々あると思っていますので、いつも思うんですがこういうすれ違いはかなしいです。ほんとに。基本皆さんの事、僕は信じてますからね) 作品の読解についてとかは書き込んでくださってOKですが、それ以外はちょっと控えて下さい。 理由については、後ほど雑談板の方に書きますので、そこで以降は議論して頂ければ幸いです。 (はるのつき)

2017-04-26

http://b-reviewhyakkinn.bbs.fc2.com/  URL間違えましたこちらでございます。申し訳ございません (B-REVIEW /ON)

2017-04-14

4/15日(土)午後10時から大体一時間くらいB-REVIEWで活躍されている、なかたつさんとリアルタイムで掲示板の詩を読んでいく会をツイキャス上にて行います。乞うご期待です! 内容といたしましては、まず掲示板を開き、上にある詩からガンガン朗読しつつ、その場で作品を読んでいきます。多分お互い初見の状態でガッツリ読んでいくスタイルです。詩の読み方が分かんないという方には是非聞いてもらいたいなぁと思っています。肩の力を抜きつつ、フランクに詩を読んでいきながら、いつのまにか詩にのめり込んでいるような時間に出来たらと思っています。 また、百均の方で何人かの参加者の方に声をかけておりまして、一緒にツイキャスやらないかとかなんとか言っています。毎週土曜日or日曜日の午後10時から放送出来たらいいかなぁと思っていますので、これからの番組作りにもご期待ください。細かい告知などは、雑談掲示板の方で気軽に出来るようになったらなぁと勝手に思っていますが、まだですので、頻繁に上げないよう配慮しながらここに告知していけたらと思っています。 なんというか、コラボ放送に限ってここで告知する感じがいいかもしれないですね! 細かい告知については、雑談板が出来るまでは(仮)reviewhyakkinn.bbs.fc2.comの方に掲示していこうかなと思いますが、めんどくさくなってやらなくなるかもしれません。そこら辺のシステムのつくり方もちょっと考えていく必要がありますね。 (B-REVIEW /ON)

2017-04-14

シーンのつくり方がうまい。花緒さんのレスに僕も同意。銃口は私を向き、よーいどんっていうだけでもう絵になる。単純に、中吊り広告に銃口突きつけた横顔のモデルを飾っておいて、それをふとみた乗客の脳内にイメージとして残っていく感じがする。つまりこの詩を売り出そうと考えたときの戦略みたいなのが、僕みたいな素人にも容易に想像出来るような感じを受けました。 という意味でキャッチコピー的な瞬発力を持った作品だな。開幕エンドロール っていうタイトルをこの詩を読んだ後に見せたらやろうとしてる事のイメージは多くの人に伝わるのではないでしょうか。 (開幕エンドロール)

2017-04-03

>。/          私は傘になりたい。  凄く切実だとおもいました。葛西さんの作品は本当に等身大だと思います。だから悪いのではなく、だから本当に強い。ストレートになぜここまで書く事ができるのだろう。それがなぜ卑屈さをまるで感じないのだろう。と、傘になれるわけじゃないのに、傘になる事によって本当に救われる訳などないかもしれないし、語り手が傘になる事によって本当に救われるのだろうかとか、色々そういう事も考えたくなってしまう気持ちが、いつもならどこかにあるのに、そういうのが読んでいくと消えてしまう。希望という物をネガティブとポジティブの狭間で天を仰ぎながら透明なビニール傘を差そうとしている強さを感じます。  この詩を読んで僕が思うのは自分の家族の事です。僕の家族は多分父親が傘になろうとして、それが無理を産んで色々壊れかけそうになった家だったので、なんというか父親の事おもいました。朝から涙が出そうです。極上の読書体験でした。このような作を投稿してくださり、本当にありがとうございました。 (明日も、雨なのですか。)

2017-04-03

 これはいいですね。話も分かりやすい。綺麗な仕上がりで。好印象です。読んだ感じが凄くします。  「石窯」という着眼が面白いしので、そこから上手く話を広げていくと多分色々な視点からこの詩を読めるし、そう読まなくても石窯ラッシュのイメージで単純にギャグとして読んでも楽しそうです。石窯と付けるだけで湧き上がってきそうなイメージの連鎖反応、に何回も挿入されるパンが小憎たらしいし、パチンコなんかも故に憎たらしく読める、し、単純によくネタ切れ起こさないよなとか、斎場の締めもなめらかだし。文量の調節も面白い。石窯の煙をもくもくと詩行の書き方をずらす事で表現したり、視覚的に四角で区切られた文章を頭と尻に乗せてケムリの部分を上手く芳醇な焼きたてパンの香りみたいなものに乗せてる所も形として面白い。何よりそういうフォルムにこだわっている事が伝わるから石窯ラッシュが手抜きに見えないのかなとか思ったります。それらが読んでて読みやすいに全部繋がっている感じ。  傑作だとは思いませんが、佳作かなと思います。適当に休憩時間にちょっと読んでクスッとしたり、ちょっとだけ石窯について考えてみるにはいい作品なのではないかと率直におもいました。 (石窯パン)

2017-04-03

>疑問は深い水準を装った >地平に現れるのに >苦悩はいつでもすぐそばで >親しげな顔をする  この四行が素敵です。   >(秋のショーウィンドウの透明さ)   >病的な時期を除けば   >暮らしの殆どの場面は詩にならない  ここもわかるような感じがします。勝手な同情みたいなもんなんですけれども。  暮らしとは何かみたいな所のニュアンスが上手く掴めるか、それと詩作と生活とは何か、みたいな事をこの詩からどれだけ受け取れるのかみたいなのが鍵みたいな感じがします。  たとえば僕はこうやってレスを書くと、洗濯とか料理みたいな行為は本当に億劫になるし、でも排泄する事だけはどうしてもやめられない、みたいな線で考えていくとこの作品の持つ表情が現れてくるとおもうのかなぁとぼんやり思いました。 (秋の街路(2016.11.01))

2017-04-03

kaz.さんへ 百均です。こんばんわ。 投稿ありがとうございます。のですが、、、 kaz.さんは既に二作品投稿されておりますので、本作は投稿受付不可となります。 ですので、四月になったら再投稿されて頂ければ幸いです。。。というと面倒なので、本作は四月の投稿作という扱いにしようかなと思うのですが、それでいいでしょうか? (色々面倒なので特例扱いという感じです) 宜しくお願いいたします。 (ようやっと普通の詩を書いてきたと思ったら)

2017-03-31

 円周率っていうのは無理数(分数で表せないことを無理数といいます)であるから、まぁ延々と数が続いていく物であるから、印象としては、割り切れない物、よくわかんないもの、先が見えない物、みたいな感じで、喩えの入口、比喩の器として大きい話題なのかなと思います。  ここでは、八木さんという人間のよくわからない行動、人柄に反するような点数の付け方みたいな所が、いい感じで円周率みたいな感じに喩えられてるなぁと。つまり人間っていうのは分数で表現できない、よくわからん無理数みたいな奴かなぁと思います。 (πをわりきる)

2017-03-30

 愚直にこの作品を読んでしまうと、やっぱり色々ツッコミどころのある作品。舞台用の作品という事で、僕が気になるのはこの作品を僕ら読み手がどういうふうに読んでいけばいいのか、声のリズムや音の調子、真面目に読めばいいのか、ふざけて読めばいいのか。「セイヨウカガク」という書きブリから、例えばなんでもかんでも「あべやめろ」みたいな感じで揶揄する人たちの事をそのまま描いているのか、それを揶揄するように描いているのか。みたいな事も考えていくと、結構難しいですね。  つまり僕ら読み手側で設定をいくつか付け加えて読んでみたりする。と少しこの作品の印象はわかってくるかもしれない。という事をコメントをヒントに少しかんがえてしまったので、僕としては作品自体は割と弱いイメージ、つまり語り手の情報みたいな物がここにつけ加えられると読み物としての、読み幅が広がるのかなぁとおもいました。 (セイヨウカガク)

2017-03-30

 最後のパフォーマンスというか、ラストライブを見届ける感じですね。いい感じに直球的な作品。これもいい感じで青春だと思います。  >ライブハウスの片隅で  >明日もあなたの声が聞こえる  >それがすべて  >「幻」だったとしても…  ここの締め方も面白い。ラストライブを終えたアーティストがライブ会場に立って再び語り手の前に立って歌を歌ってくれる事はない。けれども頭の中にその歌のイメージは残り続けるという事。その歌の精神みたいな物は残るという事をそこを明瞭に「幻」という言葉に詰めて表現しているという所が、なんとも潔いです。多分同じ思いをした人にとっては思いの伝わる詩になっている、ような気がします。やっぱり自分の応援するアーティストの演奏、一回くらいは直に聞いておかないとなぁとか、読んでて後悔が吹き出してきました。解散してからじゃ、色々おそいですもんね。。。  自分が体験した思い出を思い出すように、それは思い出の曲を頭の中でリピートしたときに溢れ出てくる感情、を思い出させてくれる詩だと思います。(回りくどくてすいません。) (最終小節)

2017-03-30

 面白いですね。凄く面白い。やってる事は単なる擬人化なんですけど、その使い方がとても面白い。正に怪作みたいな感じで、読めば読むほど味の出てくるスープみたいな作品だと思います。そして、これは僕がTwitterを通じて知ったあれなので、申し訳ないのですが、弁当って凄いですね。手作り弁当だけじゃなくて売り物の弁当も弁当だ。スーパの売れ残り弁当にシールを張った途端買いあさっていく男たちの姿を見かける僕としては感慨深い物があります。なんとも切ない詩です。  具材のチョイスも面白い。そこから掘り下げていくのも面白い。誕生会に二万円というのもいい感じに悲しい感じです。これは面白い読者自身も例えば自分を野菜というか食べ物で喩えるとどんな感じになるのだろうかとか考えていくと面白い。つまりこの作品は皆を擬人化できてしまう面白さがあったりする。そういう意味で当事者意識をわかせる事も出来るし。そういう意味で読解もできれば話題にも出来る作品。そういう意味で、怪作かなぁと。    僕は自分の事を結構玉ねぎに喩えるのが好きでよく使っていたなぁ、という事をおもい出しました。今度がっつり読んでみたい作品。後は詩に馴染みのない人でも面白く読めそうだなぁともちょっとおもいました。皆で鑑賞したら結構楽しくなりそうです。 (消費期限)

2017-03-30

 雨をモチーフにした作品っていうのを結構僕がここで読んできてしまっているので、結構厳しい読み方にどうしてもなってしまいます。上手くそこらへん客観的に読めなく申し訳ないです。押し付けがましいレスになってしまったらすいません。  最初のオノマトペの意外性から雨に引きずろうとしている点、句読点のない詩行から、愛する事の苦しさに二連から繋がけていこうとする点などが好印象でした。言ってる事が伝わる。けれども説得力という意味での表現力が一連でピーク。そこから以降が、一連のイメージの解説になってしまい、読んでいて一歩面白くなっていかない感じがします。  前頭葉など、色々語彙を重ねていくなかで見えてくる物もあるのですが、難しいですね。 (はるの雨夕)

2017-03-30

 個人的に凄く好きというか、泣きそうになってしまった。  感想言いたくないなぁ。  色々どん底で、落ち込んでいた時の心に染み込んでくるような詩句の数々、逆説のばらまかれた詩句の数々、、、という感じでしょうか。星が打ち上がり、それを最後の  >透んでまた、映じていった  >その小々波  >海の時間  静かな波の打ち返す夜の静寂を見つめている語り手の視線で閉じていく。個人的には技術的っていうより心に来たという意味で傑作です。詩を読んでこういう気持ちになったのが本当に久しぶり。なんというか、そうひさしぶりに詩を読んで僕は泣きそうになった。細かい話もしてみたいけど、一ヶ月くらいはこの気持ちを大事にしてたいなぁ。。。 (待つこと)

2017-03-30

 凄く切ない詩で、切ないとしか言い様がないですね。  僕らが美しいと思う物、というのは全てホログラムのように三次元に演出された一つの装置、というか理知であるという事。一連目の音楽の描き方がそういう感じ。 >拍動は理知的にそれを揺らしている >通奏低音の導きで >くるりくるりと色を変え  僕は少しだけ合唱音楽をガチでやっていたので、音楽というのは如何に計算的なもので、楽譜とは如何に物理的な物の集合であるのか、という事をやり感覚的に音楽をやるという事が正解だと思っていた今までの自分にとっては結構ていたい思い出があります。それが二連目の風景の描写に繋がっていく。この一連の叙述に感じる物すらも、結果的にはホログラムである。賛美歌すら、どんなに美しいアリアも、この世界の仕組みによって描かれたホログラムなのだと言われてしまったようで、凄く切ない。 (ホログラムのアリア)

2017-03-30

 面白いですね。映像的というのは僕もそう思います。なんでなんだろう。上手く説明できない。    顔だけが落ちて皆色々変わりまくる。顔だけが落ちるというのが面白い。それで落ちるとまわりの景色がガンガン変わっていく。女子高生の胴体、というか女子高生ってなんなんなのか、という事で、女子高生っていうのは最強なのかもしれないですね。なんで最強なんだろう。  256色でデジタルにダイブしたりする所なんか印象的、虹所じゃないですもんね。あんまよくわかんないんですけど、ドット絵みたいな感じもします。    という訳で、多分顔が落ちてるだけなんですけど、それだけで面白いし、落ちて変化していく世界は全部変化していくから、色々突っ込んでいくと自分を精神分析にかけていくように読んじゃいそうだし。そういう意味で作品として一定の器みたいな物を獲得してるような感じがします。無論荒っぽさみたいな物も感じるので細かく読んでいくと、突っ込みの意識も出てくるのですが。という事で、今の所は読んでて何かしら思うことがあったことをつたえて一度退散します。 (夕陽に顔面)

2017-03-30

凄くしまった作品だなぁと思います。 急に雨が降ってくる。晴れる。たったそれだけの事を面白く見せていく作品。 さっきから 足をぷらぷらしている お日様が 洗面台に 座っていて 外は雨ということで 鉢植えの避難を終え いまは床の木目を ずっと見つめている。 >脱衣所に突然 >なにかが激しくうちあげられて >それは冷蔵庫で 白いボディが >波頭のように破裂し >クジラの死骸がぞろぞろ >すべり出てくる  強い雨が降り出すイメージを脱衣所っていう風呂場の前っていうクッションを挟む。次に打ち上げられるイメージを波頭に繋げる所で波しぶきが堤防を乗り越えて陸に上がってくるイメージ。に鯨をもってくる。ここが面白い。雨が降ってくる様子を嵐の海で視覚的に演出した後に鯨の大きさと腐った時の臭いをかぶせてくる。雨が降った時の排水口から立ち込める独特の腐臭を死肉に喩えるというインパクト。次に >ほぐれてゆく筋繊維とは >海洋生物の体温とは >かくも静かに香るものなのか  鯨の筋繊維を絡めてくる所で、僕は雷を想像した。そこに暖かさを混ぜる事で気候も伝わってくる。多分季節は夏。白い鯨みたいな入道雲がもくもくと湧き上がってきて急に降り出した雨の様子なんだ、という事を僕は読み取りました。 >洗面台のくぼみの中で >倒れずにいた鉢植えに ぽっと >マリーゴールドは咲いた。  マリーゴールドが咲いた途端雨が止むという比喩。 >小さな木靴を >たたきでトントンして >お日様が 玄関でふりむく >そろそろ >雨も止むということで >傘を借りて >戻る という。  最後も粋だなぁと思わされるオチ。太陽の擬人化というのが雨宿りする人のイメージに上手くかぶさっている。木靴のトントンっていう音を感じさせるのはなんでいいかわからないのですが、技を感じます。  という事で、僕が言いたいのは比喩の力を感じる作品だということでしょうか。  個人的には基本に忠実に一つの方法論を用いて一作情景を演出して見せたという感じで、秀作だなぁとおもいました。 (雨ということで)

2017-03-30

 女性的みたいな所を感じるのは  >お揃いに延ばした髪が  >雨を呼ぶかの如くざわついています  >  >この胸に繋がる鎖は  >いずれ幾重にも編みこまれ  >あなたの手首から  >離れなくなるのでしょう  こういう所でしょうか。伸ばした髪を鎖骨のイメージにかけていく。そこから編みこまれた心の呪縛を手首で表現している所、  >眠り方を忘れてはいつも  >あなたは飽きるほど  >この頬を  >撫ぜてゆきます  こういうタッチの仕方っていうのが、まぁ女の子ぽいいのかなとおもいました。多分着目の仕方が繊細な部分に向かっているからそう感じます。漫画なんかを読んでいる時に、男と女の漫画家だとちょっと違いがあったりするみたいな話から適当にそう思っただけなんですけどね。  後はなんだろう。きつねびは魂のようにも感じます。ただの火の魂というよりは、幻影の節があるというか、そこらへんが心のイメージに上手くかぶさっている選語なのかなぁと思います。  読んでいてどっちつかずな印象もありつつ、ちゃんと読み込もうとすると読めそうなきもするけど、読んでみるといい感じに外されてる所もあり、流して味わうのがいいのかなと思う作品です。(するっと読めたのは引用した箇所のみです。)  結論をいうと、きつねびが支えのイメージとして上手く機能しているし、それが掴めれば楽しめる作なのかなとおもいました。 (きつねび)

2017-03-30

チョコレート工場というと「チャーリーとチョコレート工場」が出てくる。昔みた映画のイメージしかなく、原作の方は読んでないからなんとも言えないんですが、映画のイメージをなんとなく思い出してみると。。。という点でちょっと僕の中で色々読みが詰まっている作品。(無理に重ねる必要はないと思いながらも、やっぱり重ねてしまうという所で難しいですね)   僕はホラーにそこまで詳しくないからなんとも言えないんですが、恐怖ってなんなんだろうな、みたいな事を考えていった時にまず僕が思うのは、不可解な事象に外堀を埋められていく感覚なんですよね。それは、僕の中ではまさしく得たいの知れない比喩と同格なのですけれども、その点この詩は結構直接的な恐怖を書いてしまっている。だから結構文章自体から怨念が浮上してくるかというと、そうではなく、結構温度の下がった文章かなと思っています。     >おもちゃサイズのチョコレート工場はまるで >亡霊 >工場に眼球などあるはずもないのに >私が微細な動きさえもしないよう >無機質のそれは冷徹に見張ってくる >チョコレート工場だというのに陽気さはひとかけらもない 工場に眼球などない、とう一節から、逆に監視カメラみたいな物のイメージが浮上してくる。そこから監視カメラに常に見張られる恐怖みたいな物が湧き出てくると思うんですが、個人的にはちょっとくどい言い回しかなという印象が勝ります。 >かわいらしい大きさとは裏腹の暴力的な機械音は >生物を命あるまま砕いているかのようで >変わらず鮮やかに光っている電球は >工場から漏れ出た屍の怨念ではないだろうか 結局の所、工場とは何かという話になってくるのかなぁとも思います。チョコレートは工場を引き出す為のブラフにすぎなかった。というのが僕の第一印象。次にホラーに通じる為の扉を開ける為の鍵としてチョコレートがある。でもチョコレートを作る時に何かを殺すかというと別に何も殺さないんじゃないのかなという所でイメージがずれていく。亡霊なんて工場のどの段階で発生するんだろうかみたいな感じです。そこから、これは本当にチョコレートを作っている工場なのかなぁという感じで読んでて醒めちゃう。作られた恐怖のイメージが出てくる。 多分、チャーリーとチョコレート工場ではちゃんとチョコレート作ってるんですよね。あれはファンタジーでありながらも、映像の中できちんと金を掛けて暴力をふるっているのに対し、割と工場とは関係のない言葉にパッケージ化されたそのままの恐怖が羅列されている印象です。結果、単純に映像として弱いかなぁという感想が残りました。 (kissはチョコの味)

2017-03-27

>水の色について語りきれないままだ > >あなたは目をつむり >私は言葉を失っていた >あなたのシャツは確かに >白いように見えていたのだが  水の色については皆さんのおっしゃるレスに同意する他ない。本当に面白い。「白いように見えていたのだが」ともってくる所に技を感じます。この詩を読んだ時に語るベきポイント、読むべきポイントというのが明確に提示されており、真っ向勝負でテーマに対する考察を深めている、表現しようとしている所に男気を感じます。いい詩だと思います。 (屈折率)

2017-03-27

さらっとした作品、でもしっかりと最後の締めのイメージが面白く、それが発光禁止のイメージ綺麗に直結していく。細かい内容については、他のレッサーの皆さんと同意です。 (発行禁止)

2017-03-27

この作品は凄くいい。これは僕の見方の問題かもしれないんですが、 >* これが必殺の記号というか、落ち葉と、雪の結晶の象っているとおもいました。光に透過された、落ち葉がアスタリスクのマークに全て結合している。それが*に隔たれたパート毎の隙間に置かれているだけ、僕は身悶えしました。  この詩は凄く言及するのが難しい作品。それほどまでに落ち葉が豊穣な表現として機能しているし、落ち葉を光で透過させるという所から展開される凄まじい程の感情の表現の豊かさというが伺える。  例えば、透明な葉っていうのを言葉を捉えてみる。心に降り積もる言葉を考えてみる。すると一気に読みが面白くなってくる。  落ち葉っていうのは基本的に悲しみのメタファーを仕込まれてる存在だと思うんですが、そこから一端悲しみを色素を引き抜く、つまり単純な悲しみじゃないっていう事をここで主張していく。更に透明な落ち葉は目に見えない形で胸に積もっていく。という事で、言葉っていうのは目に見えて分かる悲しみを背負っていない。が、きっと目で見えてしまう悲しみよりも激しい暴力性があるのだという事が伝わってくる。  更に落ち葉っていうのは、まっすぐ落ちてこない。  光っていうのはまっすぐ直線的に太陽から降り注ぐ光線である。光というのは僕は時間だと思った。数直線上に表現される、時間軸というのを英語の時間にぼくは習ったのだけれど、その考え方をおうおうしてみると、光が刺さるというのは、正に直裁的な事実的な時間のあり方だと思います。しかし、落ち葉っていうのは空中で彷徨いながらフラフラと地面に降り積もるんです。つまり時間の落ち方が光とは異なるんですね。透明な落ち葉を透過していってしまう、残酷な光(老いにもかかってくると思いますが)それとは別に心に残る時間=思い出というのは、いつまでも心の中に今すぐそこにあったような悲しみとして残り続けるんです。  ここが以下の三連から >空がすっかり >悲しくなってしまった >何をも失えずに >一人 >光が刺さるままにしていた > >雲が夕方の光を透かして >見えない衣を >いくえにも、いくえにも降らせた >それは地面で枯れて >けれど >胸にだけ積もった >ただ歩いた >落ち葉が優しく >あたりを歪ませていく >ただ歩いていく >長い髪を梳くように優しく >光を折り曲げていく  想像出来る。長い髪を梳く人っていうのは身近な存在の人じゃないと多分やだと思うんですよね、だからその手つきは優しくなる。優しさっていうのは、その場所に流れる時間っていうのを歪ませる。それは落ち葉が降り積もる速度のように、人が感じる時間、光を屈折させてしまうんですね。  という事を踏まえて三パート目を読んでみると、凄く文章が締まってて、心に迫ってきますね。コメントの仕様がありません、 >枯葉が降る >光年が降る >立ち止まって >そのために流されていく > >落ち葉がはためく >空を線引く声をたてて >葉々は風に変わっていく >失われるすべてが >笑うことも泣くこともなく >まじまじと、光を押していく >いつか >死んでしまうときには >今が結晶するだろうか >言葉と物が結ぶだろうか > >一人立ち止まった >老いた木がやわらかく >陽を揺らしていた >風が吹いて >人は >同じ虚空に接吻していた  死というのは即ち、その人に流れている時間と思い出が一つの物体として結局化する最後の瞬間なのかなとおもいました。死とは僕は光を失う事でもあると思うんですが、そういう事を考えていくとこの詩からはまだまだ色々な事が読み取れるだろうと思っています。最後に老いた木が出てくるというのもさりげないんですが恐ろしく秀逸。木の年齢みたいな物を考えてもいいし、落ち葉というものを振り返ってもいいかもしれない。言葉を持たない木が、人に話しかける時に、陽を揺らし、その言葉を揺らしてきすをしようとする。自分の葉と、透明な落ち葉を降り積もらせた人間が接吻する。という一つの邂逅。圧巻です。  個人的な心残りとしては、二パート目の約束の部分が上手く読み込めなかった所。単純にスタミナが切れてしまったのもあるんですが、上に抜粋した詩行に心奪われました。 (光、落ち葉)

2017-03-26

コメントして気がつきましたが、「四日目の夜」なんですよね。。。色々仕込まれてるのかなぁと今更ながらに気がつき、これを最初にレスに書くべきだったと後悔しました。燐光が光を溜めて暗闇に青白い光を跳ね返すような感じで、なんともしてられたような感じです。今更ながら修正かけるとこれまた延々と終わらない感じがするので、簡単な付記を最後に付けさせて頂く感じで一度レスを閉じさせていただきます。グダグダとどうしようもないレスになってしまいましたが、それだけ感じる事を言葉に出来ない詩であり、正に食えない詩ですね。他のみなさんの読みがもっと見てみたい。 (phosphorescence)

2017-03-26

この作品をどう読んでいくか、というと、なかなか難しくて、一つは思う事がありすぎる、というのと、ありすぎて何をどういったらよくわからんという気持ちと、実は読んでて4連と3連の最後の平仮名以外はようわからんという気持ちと、そんでもって付いてるレスとかTwitterでの感想とかをみると見方が一気に変わって自分の読みがガンガン裏切られたり、例えばタイトルの意味を調べるだけで語句から色々な物が吹き出してきたりする。どんどん最初はなんとも思わなかった文章に色がついていくような作品で、いい悪いというよりは、器が大きすぎて手に追えない作品かなぁとおもってます。それで、少しづつ小皿に分けて読んでいく読み方が適切かなと今は思っています。  という訳で、どういうレスをこの作品に付けていくと面白くなるか、という点で僕が感じた面白いと思った所を羅列していく方針でいきたいと思います。 ①4連のミルク ミルクが付け足されるだけで、なんでこうも繋がってしまうんだろうか、とおもいました。ミルク最強ですね。上の三連に描いていきた女のイメージ+、、、なんでしょうね。ミルクっていうのは、やっぱりパンチのある飲み物なんだなと思わされます。この感慨をどう表現すればいいのか本当に難しいのだけれど、雨乞いする人々の上にミルクが降るっていうだけで、雨がミルクに読み替えられるだけでこんなにも脳内の映像の質が変わるのかって思うんですよね。ミルクというのは多分哺乳類にとっては一番最初の食事になるのかなと思うんですが、その血は女の乳房、[bunch]から出てくる雨であって、血であるということですよね。それが大地に降り注ぐ雨に重ねられる。そんでもって大地っていうのは二連で地図に置き換えられてるのでそう考えると、母なる大地みたいなものに繋がっていく。ということや街中をミルクで満たしていくイメージや、挨拶に絡めていくと、、、なんとも壮大な下の話にすり替えていくことも可能だなぁ、、、、ということを考えながら、、、   ②[line]と[(rif)line]    、、、、一連目の女と雨の描写を振り返ると、最初は訳わからなかった一連目の[line]が[(rif)line]に滅茶苦茶かかってきているのが分かる。()に閉ざしてるだけなのに、更に「ライン」が「レイン」になるのも凄い。何十にも意味のくくられ、そして断絶された(rif)としかしそれでも繋がってるんだよ、例え読み方が変わったとしてもという意味としての()、それから「繰り返す」というフレーズにもかかってくる。更に繰りかえされるのは呼吸なんですよね。で、呼吸は >僕はサイドボードに置かれた青いLEDのデジタル時計の点滅を眺めつづけていた。彼女の呼吸と電子的な明滅のテンポは隔たりと交わりを繰りかえす。繰りかえす。 にかかってくるから、多分タイトルの燐光、もしくは青白い光の部分に関わってくるここから3連に飛躍させていくと、、、とたったひとひねりの工夫が軽くなされているようで、ここが必殺すぎて笑えないですね。高等テクニックすぎる。ここまで全部僕の中でつながってしまうんですから。 ③文法  ここも必殺で、乳は白いから、白い文法なんだなと思うと、紅月さんの作品の中に思い当たる作品が出てくるなと思いつつも、そこまで手を出したらレス終わらないと思うのでやめますが、何故か、文法がいきなり飛び出してくる。これはなんでなのか。そこで、少し詩を遡って読み直すと、気になるのが「地図が読めない」みたいな話で、地図もある意味文法の塊みたいなもんかなと思うことにします。(ここの理由付けについては飛ばします)そういう所に考えていくと、「地図」を「女の体」に読み替えられるのかなぁとか、 >蔦に侵食され罅割れたアスファルト >iPhoneで地図を確認するのだけれど、そこにはいくつもの線が波紋のように広がっている不思議な図形だけが描かれている。 が、 >干からびて使い物にならなくなった文法だけが、ただそこに遺されて、降りそそぐ線の集合のふたしかさを距離に喩えつづけていた。 ここに呼応してるのかなと思ったりする。地図に書かれるまっすぐな線っていうのは例えば緯線経線かなと思います。それらが狂ってしまうと自分の位置っていうのは把握できなくなってしまうわけだから、文法が罅割れてしまうとコミニケーションが取れなくなってしまうように地図が読めなくなってしまう。それが、女の体という曲線という不可解なものに重ねられていくのかなぁと。。。 >降りそそぐ線の集合のふたしかさを距離に喩え る、とはどういうことか、この「距離」というのが難しいのだけれど、今の所僕の考えですが文法というのは一つの理解であり一つの断絶でもある。そこにある文法を把握できなければ僕らはそれを理解することが出来ない。まっすぐじゃないと読めない物が曲がっていたとしたら、それらを読むためには、曲がってるのをまっすぐにするか、まっすぐなのを曲げるしかない。ということなのかなぁ、 で、そこから語り手は多分まっすぐな文法しか読めない。というふうに仮定して読んでみる。 まっすぐ同士の文法(線=line)っていうのは並行だから交わることがない。でも曲がってる文法は絶対にどこかで交わることが出来る。つまり、まっすぐな文法が交わる為には曲線がないとだめだし、曲線から働きかけないとダメ。という意味で、女の子の気持ちが語り手にはわからない。だから干からびているし、故に相手が自分の交わってくれるのを、いつの間にか集合してくれるのを、待つしかないみたいな感じなのかなぁとその待ち時間のlineが距離なのかなと距離が時間に比例しますからね、、、という事をおもいました。 (phosphorescence)

2017-03-26

血と街が繋がった所で街中を巡る水路のイメージが重なり合い、街がまるで人間みたいに思えてくる、所で、その上を歩き出す肉刺のイメージから出血のイメージ、水路から漏れ出した水、みたいなイメージ。みたいに、どんどん言葉に色々な物が重なりあっていく、それは形を似せていたり、語を置くポイントを調整していたりで、そういう意味でちょい狙っている感じはあるのですけれども、その狙いが上手く体内に取り込めると面白くなってくる。上手くこの詩に組み込まれたリズム通りにイメージを楽しんでいくと、 >わたしが見える場所は >エンディングになければ、はじまりにもなく、 >ましてや、 >夜のショーウィンドウは、孤独だった  こういう所が凄く面白く読めるのかなと思いました。「夜のショーウィンドウは、孤独だった」というオチに向かっていく。それまでに沢山蒔いてきた種がここに上手く吹き出しているような感じがします。と思う一方で、なんとなく足を引っ張っているフレーズもあるのかなと思ってしまったりするのも事実です。 >生まれていく >そして、 >死んでいく    一連でピンとこなかったのはここです。 >(鏡に付き物のパラドックス、常に抱えた孤独という命題)  ここは一連の最後と呼応しているのがわかりますし、これがないと例えばショーウィンドウのガラスに反射する自分と、その向こう側の服を着たマネキンみたいな物、みたいな感じから出てくる孤独みたいな物が浮き出てこないのかなぁとおもったりするのですが、ある種説明ではあるし、僕は自分でこういうことを言っててわがままだなぁと思いつつも。つまらなさというか惜しい感じがめちゃくちゃしました。丁寧な作りだとはおもうのですが、一連の最後のフレーズが必殺すぎて前段が蛇足に感じたという事でしょうか。  二連目の医者の声から始まる所の印象的です。ただの声じゃない所に、こういうと語弊がある事は覚悟してオリジナリティというかいい意味で表現のひねくれを感じました。血や生や死、声、みたいな結構扱うのが大変な語を纏め上げた手腕みたいな物を感じる詩だなあとおもいました。 (あの夜の街で)

2017-03-19

 凄くテクニックとして上手いと頭の裏っかわでちょっと思ったりするのですが、それ以上に効果の方を先に感じたうなってしまう。気持ちがいい「うるさい」と「オフテゥン」、、、いや、これは僕好きですね。レッサーの皆さんもやっぱり気になっている感じがするし、祝儀敷さんのレスに僕は結構同調してる感じがするので、これ以上レスを書く意義もあんまりないといえばないのすが、思わず一票入れたくなる詩という事で、レスさせていただきました。 (Cold Song)

2017-03-19

 凄くテクニックとして上手いと頭の裏っかわでちょっと思ったりするのですが、それ以上に効果の方を先に感じたうなってしまう。気持ちがいい「うるさい」と「オフテゥン」、、、いや、これは僕好きですね。レッサーの皆さんもやっぱり気になっている感じがするし、祝儀敷さんのレスに僕は結構同調してる感じがするので、これ以上レスを書く意義もあんまりないといえばないのすが、思わず一票入れたくなる詩という事で、レスさせていただきました。 (Cold Song)

2017-03-19

 相変わらず右肩さんの詩は怖いです。トカゲが出てきた所で全部繋がっていく、あの行間の    >改めまして、こんにちは。みなさん。  >  >私はトカゲです。目を閉じたトカゲ。目を閉じたトカゲの魂。目を閉じたトカゲの魂の、そのしっぽにあたる部分。  >私はこんなにわかりやすい神話として生まれたんだ。  ここが必殺すぎて怖いです。えげつないですね。トカゲのしっぽに、投体自殺によって精神が肉体から剥離されていく瞬間が覆いかぶさっていく、それから錠剤によってトランスしていく様相が渋谷の街と重なりあう所、様々な体液、分泌物というのか、排泄物という、肉体から切り離されていく物というのか、上手く言葉にならないのですが、そういう物も全て繋げていく荒業が、荒業に見えないまま、いつの間にか繋がっていくし、それがイザナミ、イザナギ=神話につながっていっちゃうというか、結局の所神話っていうのは、ある意味万能なんですよね。本当に。  >私は気持ちよくきもちよく内と外の刺激を反転し、やや攻撃的にそれを受容して山崎さん、あなたとあなたの渋谷を、ピンクでねとねとして生暖かい暗闇へ力任せに突っ込んだんだ。と。ゴトン。アスファルトに頭が落ちました。柔らかくありません。あいたた。  >カレーの匂い、鶏肉を焼く匂い。それから麺を茹でるふわっとした湯気、その匂い。まだある。牛革のバッグの皺の寄った匂い。真っ新な衣服の匂い。もちろん人間やそうでない生き物の皮膚と様々な分泌物、排泄物の匂いも濃厚だ。都市の下水網、そのさらに地下にある水脈、地殻の下にもやもやと予感されるマントルの灼熱も。みな匂う。  >それらがまるで水彩の染みのように滲んで入り混じっている。聴覚もない視覚もない、肌触りすらない世界だけれど、私は確かに地表にいるし、私は確かに数万メートルの気圏の果てにいる。わかった。広大な出来事の総体が私でありました。    もう少し突っ込んで考えてみたい事柄ばかりなのですけれども、正直時間が足りないという事、それからTwitterでなんとなく、話そびれてしまったのですが、死と生についての突っ込んだ話について、後は神話ってなんなんだろうか、みたいな事についての考えを聞いてみたいと思いました。凄く話の広がる話題を豊富に含んだ作品だと個人的には思っています。後、名前について、も聞いてみたい。なぜ山崎さんと八重さんなのか、名前とは何かみたいな事について、グエングエンさんの作品に寄せた右肩さんのレスを思い出してから無性に気になっています。(理由はないのかもしれないのですが、ないなんて事は有り得ないだろうという確信があります) (私はトカゲ)

2017-03-19

>接吻を 夢見ていたことがあって接吻の >絵を描いた >見えるものは現実とは違う >あたしが夢見たものは遠く届かないところにあった >棚の上、飛んでいる飛行機の中 >あたしはそこに無理矢理に飛び込んでいって >無理矢理に手に入れた  この始まり方が印象的。唇の絵を書くという所から手の届かない棚から、飛行機に一気に飛んでいく飛躍の気持ちよさが、夢のなかで時々起こるような、情景が次々とトリップしていく様が目に浮かびます。前作とはある意味真逆な作語りの雰囲気をかんじました。点っている蝋燭に照らされ、浮かび上がった唇から、静かで、正に論を語る時のような語り口調で話が進行していく気配をかんじました。  冒頭の一連で心が結構掴まれたのですが、叙述のダブりみたいな所が気になると言えば気になるか。でも整理が付けばつくほどこの詩の味が落ちていく感じもしますね。色々ごちゃごちゃ言いましたが、面白かったです。 (唇の皮に色が着くよう)

2017-03-19

 般若心経みたいな感じ、つまりお祈りの言葉で、適当に手を組み、跪いて、目を閉じ、この詩を暗唱するように、いるのかいないのわからない神様に向かって、この文体のスピードに合わせて読んでみる。縦書きの所はゆっくり読む。横書きの所は流れるように読む。不自然な改行はおぼろげに思い出すように、搾り出すように読んでみる。単純な語彙は誰にでも分かるように。テクニックがあるとしたら、誰もいない、ひとりきりの聖堂の真ん中でおもむろにいるのかいないのか分らない神様の事を想像しながら適当に祈りを神様にあげようとしている自分みたいな物の口から適当に折れだした祝詞のリズムみたいな物が感じ取れるという事でしょうか。   そういう意味でこの詩は楽しむ物ではない。呪文は唱える事が楽しい訳ではないから。そしてこれは桐ヶ谷さんの「祈りの残骸」を読んで思った事なのだけれども、祈るという行為はそもそもが悲しさに溢れている。この呪文を、おまじないを唱えたところで世界は好転しないし、反転しない、人が救われる事もなければ何かしらの概念が覆る事はないが、それでも祈ってしまう物だ。神様を信じていなくても人はここぞというときに神様を頼ってしまう、或いは死を頼りにしてしまうという脆さと儚さみたいな物の呻きと呟きが、ここには多分いい塩梅で凝縮されている。と思いました。 (呪文)

2017-03-18

 ストレートな作品で、情感はだからシンプルに心を打ってくる。三途の川へ会いにいくために、多分自分の瀕死の身においてまで会いに行こうとする語り手の覚悟みたいな物。死という断絶が目の前にあって、それがわかっていながらも会いたいと思いつつ会えない。みたいな所の境界線として三途の川が流れている。  普通は死にかけたら目の前に川があるんですが、ここでは死者に会いにいくための三途の川があるという所が、なんともストレートに感情をぶつけてくる詩だと思うので切なさを感じます。確かに三途の川のモチーフが多分皆書いてるはずなので、比較とかやりだしたら多分この詩は埋もれてしまうのだと思うのだけれども(僕も何作か思い当たる物はあります)それでも、語り手の感情が伝える為の三途の川という所が感じられたのが、読めてよかったと思っています。また何作か読んでみたい。 (三途の川)

2017-03-18

 ストレートな詩で、でも僕は割と覚めた目で最近はこのことを見てしまっているので、何とも言えない感じです。僕は震災の当時、そこそこ近い場所にいたので、あれだったりします。んで、この原発に対しては、色々な考え方があって、色々ぐにゃぐにゃしている中で、最初は原発反対くらいに思っているだけでしたが、結局何もよくわからないまま、みんな地元に帰ってきて普通に暮らしているし、実家からじゃがいもや玉ねぎが送られてくる。という所で、 >私が云う覚悟とは、主語が「私」になっているかどうか、ということ(文法の主語ではなく)。 >読者の皆さん、作中の傍観的な言葉と言葉の余白に存在する、「私」をみつけることができますか?  という三浦さんのレスが心に響いてくる。この作品に対して私情をぶつけようとしている自分がこうして出てきている訳であって、僕はこの作品を通して少し原発のことを思い出しました。もう6年も経ったので、みんな普通に暮らしてたり、暮らしてなかったりする感じで、情報も無駄に隠蔽されたり錯綜している中で、こういった感情を今持ち出せるというのは、それだけで稀有な事なのかもしれないですね。ある意味この詩は風当たりの強い立場を貫いている物だと思いますが、支持したいと思います。無論ここにある感情全てを受け入れた訳ではなく。 (メルトダウン)

2017-03-18

>肌に二色のボールペンが浮き出るんだ ここが面白い。動脈と静脈という風に理解すると、仕込まれた幾つかの比喩がほどけていく感じがします。 >紫色の悲しみを >紺色の絶望を >青色の哀愁を >緑色の優しさを >黄色の希望を >橙色の眩しさを >赤色の闘争を >持っていて失くしてしまった >だから、手首が言ったのさ >「赤色が派手すぎる」って >だから、血脈は言うのさ >「闘争と哀愁しかないんだよ」って >リストカットした今日 >も、ちいろはめでたく赤  虹の色から来る、性質みたいな物を人間に符号させていくと、人間の持っている色というのは赤と青だね、みたいな所に繋げていくという発想が面白い。リストカットみたいな所に絡めていくと、多分リストカットには浅く静脈しか切れない場合と、深く切ってしまう場合と二つあると思うんですが、そういう所に絡めていくと、また違う作品の顔が見えてくると思いました。とととさんの作品は勝負しようとしてる、気概が伝わってくるような、見せ場を持たせた作品が多くてそこが好きです。 (今日も、ちいろはめでたく赤)

2017-03-18

>君の額に銃口を >それが僕らの >聖なる愛の >印となるように  ここが入口と出口をしっかりになっている。  銃突きつけて、それを打った時に空いた穴のringっていうのが、聖なる印であり、聖痕であるという事。その罪深さみたいな物の比喩になっていて、その感じが最初の段階だとただのサスペンス。でも中をしっかり読んだ後だと、色々な愛や恋の血の苦しみというのか、そういう物につながっていく。    という感じで、この印象が最初と最後でどう変わっていくのか、みたいな所をどこまで感じ取れるかが、この詩とどう向き合っていくのか的なポイントになるのかなと思いました。白犬さんの詩はギアが上手く僕と噛み合ってくると、スイスイ読めて楽しいんだけれども、内容の理解はもとこさんのレスに助けられた所が大きかった。多分白犬さんの詩を後何作か読み込んでいけばもう少し詩の視界が広くなってきそうな感じがしています。という感じで、なんというか、需要のある作品だと思いました。 (ring)

2017-03-18

 ダグマと語り手を通じて、いろいろな事をこれから伝えていこうというか、書き綴っていく作品だとおもうのですが、まだまだよくわからない事だらけで、読んでてピンとこない所が多かったというのがひとまずの感想です。(多分。僕は天才詩人さんの作品を先に読んでしまってるからかもしれない。)  続きの作も投稿されているので、それを読んでから感想を寄せた方がいいのかもしれないと思いつつも、気になった所について、少し触れてみたいと思っています。  >「日本の自然はとても美しい」  この返事の仕方ですかね。なんとなく連載の始まりみたいな感じで、個人的にはちょびちょび読んでいけたらいいなと思っています。間違いなくこういった紀行文を書ける人っていうのは、、、増えてきてるかもしれないんですが、それでもやっぱりリアルタイムで読んでいけるというのは単純に楽しみです。 ( ダグマ 1 [南仏紀行])

2017-03-16

 ズバット言い切ってしまう感じで、いいですね。割と好きかもしれない。金子みすゞに食ってかかる感じも一行目でちゃんと布石を張った上で堂々と張り倒そうとしてる感じも潔い。そこから教科書の否定に走る所もいいし、分裂と連呼する所のこの長さだから許されてる感じもある。という意味で、あるいみ計算高い作品かなと思いました。  といいつつも、感性で無理やりぶっ飛ばしてぶち切ってる投げやり感もツボと言えばツボで、とはいいつつも(二回目)これはこれでちゃんと需要のある詩だなぁと思いました。 (プレパラートフレーズ)

2017-03-16

塚本一期さんこんばんわ。百均です。 名前の方表示されないみたいですね…大変申し訳ありません。 僕じゃ原因が分らないので、少しインフラ担当に相談しておきます。 もし名前を変更する際にトラブルが起きたのでありましたら、僕らの方で、アルファベットから漢字表記に直しておきたいと思います。お手数おかけして大変すみません。後、これは余談ですが作品の投稿お待ちしておりました。後ほど読ませていただきます。 (唇の皮に色が着くよう)

2017-03-14

 僕はあんまり本読まないので、つまりは語彙が貧弱な訳だ。そういう理由からこの作品に描かれたイメージが分らない、という可能性が十分にあるのだけれど、そこを一端外してこの作品を読んでみようとすると、イメージの設定集みたいな感じかなという感じです。一連のイメージとしてつながっているかんじというよりは、多分色々物が集合してる感じかなぁ、という訳で、流して読んでいくと次の行のイメージがなんでつながるのか訳わからん感じです。 >無数の死体に犯された少女が最も鋭利な復讐の表象として匕首を研ぎ澄ます。 >それは鬼を視るということ。 >「窓の外で『何か』が哭いている」 >恐怖する子供の両眼を潰せ。  例えばこの四行みたいなのは、うーん、なんとなく言葉はおどろおどろしいのですが、なんでこういう接続になるのかなぁと思ったり。 >「放たれた言語の鉛直な強度は所詮、自死を躊躇った柔らかい金槌の結果に過ぎない」    分かるような分からんようなっていう感じですかね。多分ゆっくり読めば掴めそうな気もしなくないんですが、例えば金槌の節と言語の節を入れ替えて読んでみると、結構面白いイメージが湧き上がってきます。    以下は僕が勝手に思った事ですが、例えば「サイレントヒル」みたいなイメージを開示されると、どうこの作品を受け取っていいかちょっとだけ掴めたりする訳で、そういう感じで情報が足りないのかなぁと思ったりします。この作品の根底に流れているテーマというか柱が幾つかあると思うんですが、そういうのが分かると面白くなるのかもしれません。つまり行間とか単語と単語のあいだに潜んでる接続、その論理みたいな物、或いは感情でもいいのですが、そのどこに着眼を置いて、腰を落ち着かせて、この作品を楽しめるのか、みたいな所でしょうかね。そういうのがあると僕は読んでて楽っちゃ楽だし、楽しいかなあぁ。まぁ僕とこの詩の相性みたいな所が大アリなのですがね。 (homecoming)

2017-03-14

 一読してなんとなく思ったのは、中々終わるのが難しい作品だなぁ、という感じでしょうか。締めのイメージはなんとも、美しいと言ってしまっていいのか、悩ましい所を感じます。なんとか鞘を収めたという感じがしますが、所詮感じなので根拠はありません。再読するとそうでもないかなと思うので、やっぱり悩ましい。  といいつつも、向こうとなかたつさんのレスを読んでから割と冷静に読めるようになった節があるので、初読の感想でそう思った、とは言い切れないのですけれども。終わらない会話(」がない所とか)や断続的にフラッシュバックするイメージの羅列、というよりはぶり返すイメージか。そういうのが最後の >黒い。 >黒い。 >黒い。 >黒い。 >黒い、  という所の苦しさみたいな所に結実している部分を多く感じます。この場合の苦しさっていうのは、読んでて辛いというよりは、自然に感じられる苦しさみたいなもんでしょうか。それらは、不協和音、助手席などのモチーフや、括弧で閉じれない会話、つまり一種のすれ違いみたいなもんで、或いは不器用なチャットやラインの会話みたいなものであり、タイトルであり、肺から吹き出す黒くて長い息、この場合の息っていうのはタバコの息かもしれないし、単なるため息かもしれない。ため息を吐く時っていうのは、考えてみると結構パターンは絞られてくるような感じもします。 という訳で、五つの黒いは自然な感じがしました。 後言える事としたら、タイトルのイメージをそこにおけばそこまで読むのは辛くない作品だろうなと言うことでしょうか。二人の関係というか、二というイメージを、どういうふうにこの作品から受け取るか、もしくは描こうとしているのが、みたいな所で考えていくと、結構ガリガリ読める作品なのではないかと思います。 (Dicotyledon)

2017-03-14

なんとも穏やかで、ストレートな詩ですね。と読んで最初に思いました。何回か感想を書いてきても、やっぱり、僕は黒髪さんの作品に、上手く言葉を乗っける事ができない。ある意味、テクニックから解放された詩のような感じがします。多分、とても自由なんだと思います。この自由というのがよくわからないのですが、僕はここに描かれた言葉をそのとおりに受け取ってそのとおりに流していきたいと思いました。 (海)

2017-03-14

>6㎜×35行  っていうのはノートの行間の長さと行数ですね。という事が分かるとこの詩の距離感っていうのはグッと縮まってくる。と思います。ノートに走り書きした言葉の断章。というふうに捉えると、結構愛嬌のある詩なんじゃないかなと思います。つまり、この詩は即興的であるという事です。授業を受けている時になんとなくいいフレーズとか思いついた時にノートに走り書きする事が僕は結構あるのですが、正にそんな感じです。 >だいたい愛が地球を救わないことみんな見てるじゃないか8月。 こういう言い切り方は割と好みで、8月を最後にぶっ込んでくるのが、一方的にシンパシーを感じるというか、僕が勝手に自分のスタイルをこの詩に見ているからかもしれませんが、面白いというよりは共感する感じでこの詩を読みました。だから、評価を受ける作品という所で考えていくと難しいのかなとも思います。中身よりスタイルの方に目が行ってしまうからです。 (6㎜×35行)

2017-03-14

>描いた螺旋の時にあり >輝かしくもえさかるもの >つま先からくまなく染め上げていく >取り出し投げ入れた瞳ひとつ >くわえこみ飲み込んだ自動販売機 >が軽量なる音響をたて >ころころころトマトころがす 最後のオチがなんとも素敵だなぁというかんじで、後の部分はとっちらかっているというか頭でっかちというか、メタファというかなんというか、ツギハギな印象です。ただ、『骨董屋』というタイトルが結構好きで、ネット詩をそこまで知ってる訳じゃないんですが、あんまり見た事ない着眼だなと思いました。なんでだろう。骨董屋は行った事ないんですが、骨董市には行った事があって、そこでガラスペンを買った覚えがあります。あの雰囲気は、なんとも独特で好きだったなぁ…という感じがしました。そういう感じでちょこちょこ不思議なイメージがにょきにょきしているのはいい感じだと思います。僕は最後のトマトが転がっていくオチが凄く好みだったというだけであって、読む人によっては好きなフレーズが変わってくるかもしれない。 (骨董屋 改訂版)

2017-03-14

 なんか好きなんだよなぁ。という感想がまず一つ。読み方というか、多分僕はこの作品を分析して読む手法は持ってないからあんまり細かい事は言えないので、感覚に特化した感想になってしまうのですが、「火の子」というタイトルを通低音として置いておけば、多分最後まで読めるような気がします。なんだか読んでると、火の子っぽい感じがします。火の粉というと粉なんでしょうけど「子」っていう事を考えると最後の >卵巣の飛散した無口なオレンジの恒星  このオチがしっくり来る感じもします。言葉の組み合わせが面白いというよりは中々思いつかないよなぁ。という感じのフレーズが続いて、独自のコードを生み出しているような感じがします。まぁ、なんというか文体としてある意味で完成されちゃってる感じというんでしょうかね。そういう意味で突っ込を入れる余地はないかなぁ… (火の子)

2017-03-14

もとこさん >その昔、のりピーこと酒井法子は「うれピー」という言葉を普及させました。そんなことを憶えている世代にとっては違和感のない「かなC」というタイトル。そして内容もかなC。というか、残念すぎる。 うれピー! 僕もなんだか懐かしいですね。なんでだろう。多分母親と父親がふざけて使っていたからでしょうか。先日ニコニコ動画見てたら「かなC」を見掛けまして、なんかどっかで見た事を使ってるのかなぁとちょっと思いました。 >それにしても残念すぎるラストシーン。虫眼鏡で黒点を炙るのは、もっと早く卒業すべきでありました。もう40年くらい前の笑福亭鶴瓶の「オールナイトニッポン」で、男の子が風呂場で自家発電をして発射した直後に親が入ってきた時に、「これ、リンスでんねん」と苦しい言い訳をしたというエピソードを思い出しました。がんばれワカゾー(何から何まで古い 深刻なように見せかけて、実は全然そんなじゃないのに、という感じで、笑い飛ばすのもありかなという一方で、上手く他の方向で纏まらないかなと思いつつ書きました。つまり「かなC」なのですが、それが全面に出ていたら他に言うことはないかなと思います。長いあいだ思いついてから書けなかったテーマでしたので、これで成仏できればと思っています。ありがとうございました。 まりもさん >髪を切る、ということの凶暴性と自傷衝動(実際には、今現在のどうしようもなさ、が万が一改善されれば・・・億分の一、ほどの希望かもしれないけれど・・・生の衝動へと転化するはずのエネルギー、であるはずの)から出発する作品であるのだから、いっそ女子になりきって書いた方がよかったかもしれない、と思いました。 >まつ毛に目がとまるあたりも、繊細な女子目線が感じられるので・・・なおさら、「床屋」ではなく「美容室」にしてみるとか。 女の子を主人公にして書く、という事に、挑戦してみたいと思いました。僕は絶対に無理だろうと思っている節がずっとあったのですが、掲示板でのやり取りをへて、まりもさんから言葉を頂いて、挑戦してみようと思いました。結果的に表面的な部分の模倣になっちゃうかもしれないのですが、そうなったときは女性の皆さんに色々指摘いただけるような出来にまで最低限は仕上げておきたいと思いました。 >読点の打ち方の多さ、この細切れ感は、意図的なものでしょうか。散文体でさらさら流していきたくない、のであれば、体言止めや言い切りの形、唐突に断裂する文章、そういった形で、文体そのものにリズムをつけるというのか、空隙を作って行く方法もあるかもしれない。あえて散文体にするのであれば、読点が多すぎるのではないか…という印象があります。言いよどむ感じ、語りをデコボコにしたい、そうならざるを得ない、という心境を描くのであれば、またそれなりの読点の打ち方もあるだろうな、と思いつつ・・・。 ここら辺が僕の癖、になってしまっている部分は否めないです。作るときの下書きみたいな形で言葉の雑な部分が残ってしまうので、そこらへんの調整の仕方をいい加減学んでいかなければならないと思いました。多分僕はもう少し推敲の感覚を鍛えていくべきなんだろうと思います。こういった散文の形式を取る際にはそこら辺にもう少し意識を傾けて詩作していきたいと思いました。ありがとうございます。 クヮン・アイ・ユウさん >この描写から、悲しみがじんわりと伝わって来ました。 なんとなくキラーフレーズみたいな文を差し込む事によって目を引いていただきたい箇所を仕込んでいて、そこが読者の方に伝わればと思いながら色々と付け足しをしたのですが、そこが上手く機能してくれたのかなとホットしています。今後もそこらへん上手く文章に忍ばせていきたいと思います。 >はじめ、読点の多さと一文の長さは気になりました。しかし、何度か読み直す中で、本作の「わたし」の年齢(実年齢、精神年齢ともに)やその他の状況とを想像すると、この形がやはり一番いいのではないかという答えにたどり着きました。好感が持てる作品でした。 いい意味での「整わなさ」に美しさを感じました。ちょうど、思春期の子らの完成しきっていない顔にそれを見るように。 自分の文章を読み返すと、下手くそだなぁと思いつつも、それが逆に味を出しているときだとか、後々読み替えすと雑なのですが、その時はいいなぁと思ったりだとか、そういう部分を憎んだり憎めなかったりしながら書いているので、結構悩ましい問題だなぁと思っています。それが表現に少しでも繋がっていけたのであればよかったなぁと思っています。より好感につながるような書き方を模索していきたいと思います。ありがとうございました。 (かなC)

2017-03-13

色々な詩が投稿されているB-REVIEWですが、しかし、そのどれとも似つかわしい、毛色の違う詩が投稿されたと思いました。読み上げると、兎に角気持ちいい言葉の流れがあって、それがいいケレン味を出しているとまず思いました。なんとなくレスが出尽くしてる感じもあるのですが、レスしないのには忍びない作だとも思いました。端的な印象で纏めると、壮大なテーマを言葉の流れに乗せ、まるで何かの口上みたいにバッチリと決めている作品だなと思いました。 (一擲)

2017-03-13

 およそ紺にてさん、迅速なお返事ありがとうございます。それでは当該作品の方を削除させていただきます。運営側の方で、掲示板の方に杯の要項の方を掲示しておくべきでした。(大変申し訳ありません。)これからもB-REVIEW杯を宜しくお願いいたします。 (プレパラートフレーズ)

2017-03-12

 この詩は凄い。声にならない声が文字を通して、というか文字の上を這いつくばっていると思いました。読んで思ったのはまず中学生の時の自分でしょうか。「じのぶんのはなし」とは「地の文」であると同時に「自分」であって、平仮名なのはその二つを繋げる為と、文字の上に声を演出する為、という事で三つの役割を内包している、という感じが直感的にしてやはり上手いとしか言えないだろうと思いました。  中学生の自分が、読んでて出てきたのは、「ふーあーゆー」この一言。で、英語を習い始めるのは、今は小学校からでしょうか、多分大体の子は中学からやり始めると思うんです。その時に基本的な例文を沢山習う中で、もっとも基本的な話から文法を見つめ直していくなかで、単純な疑問文というのは、やっぱり自分の根源を問いただすときに凄く便利だなと思うんです。でもそれを日本語でやるのではなく、英語で聞いてみるというのは、少しのカッコ付けでもあったりする。 >踏み切れずにいる いくじなし!いくじなし!いくじなし!いくじなし!いくじなしぃぃぃぃ!なんども叫ぶ人がいる/いた ここもいいのですが、 >ほろぼす。ほーろーぼーすーっ。  ここの言い切り方で、身悶えするくらいに声を感じました。地の文から出ていこうとするけれども叶わないような言葉の力。見えない壁(窓)があってその向こう側に行く事のできない駄々を捏ねるような叫び方が印象的です。 >この空間は限りなく無機質で >そこには窓と鏡だけがあった >わたしはそっと念仏でもつぶやくように >唇をはたらかせて >空気を振動させた >「ふーあーゆー」  最後にちゃんと一番最初に立てた疑問を振り返る形で「ふーあーゆー」を尋ねるという形で、一つの完成された作品をきっちり堪能したかのような気がしました。 (じのぶんのおはなし)

2017-03-12

こんにちは。百均です。 3月のB-REVIEW杯なのですが、投稿は一人二作品となっております。 現時点で三作品投稿されていますので、大変申し訳ないのですが一作品取り下げて頂きたく思います。(コメントを書いて下されば運営の方で作品を掲示板から消しておきます)。来月も開催する予定でございますので、その時に再投稿して頂ければ幸いです。 お手数おかけいたしますが、よろしくお願いいたします。 (プレパラートフレーズ)

2017-03-12

 いやーちょっと怖いっすね。ヒールの音っていうとクールビューティーみたいな適当なイメージでチャラチャラ僕は適当に思っていたのですが、ヒールの音っていうのは考えようによっては怒りであり、ある種の恐れであり刃なのかなぁと、感情がむき出しになった女の街中を闊歩する姿が目に見えました。怖いです。 (Heel improvisation)

2017-03-11

不思議な感覚に陥る詩で、容易くレスできない、ちょっとした凄みがある詩だなぁと思いました。これは、、、すごいなぁ、、、舌を巻く詩だなぁ… 最初抱いた印象としては文章が上手いというよりは、文章の使い方が上手いという感じです。言っている事、イメージが伝わりそうで伝わらない、という所に >ほら、白い色のシャツが透明度を上げてゆきます こういった「ですます調」の呼びかけを挟む事で空気を入れ替えていく。ここが一番ぞわっとした。最後の >おんなじごはんを今夜は食べよう このオチも絶品だ。と言いつつ、結局の所この詩がどういう所に行き着こうとしているのか、については胡乱なまま読了してしまう。という事は僕はきっとこの作品を再読するんだろう。独特の肌さわりを持つ語の感触組み合わせが、一見読者を突き放しているようだけれども、詩文に挿入される「詩」という言葉と呪文がそれをしっかりとつなぎとめている、つまり、「約束印の絆」であり、 >雨を薄めて飲むことにした君は >その一口を大切そうに僕に与えては >たくさんのことを >そこにこめて伝えようとする > >それを美味く救えない舌先は >容易く別のものを求めるけれど >唇が約束印で絆され >結わえられた >僕の口角は君の指先から滴るる >なにか大切な何かを零しゆくのでありました 冒頭の二連で逃げ道を封鎖されたかのような感じだ。その封鎖された感じも窮屈かというとそうでもない。ああ、僕はこの詩が好きなんだなぁと思わされました。確かにこれは魔法でありましょう。 (約束印の絆)

2017-03-11

こんにちは百均です。訂正しておきましたのでご確認の程宜しくお願いします。(コメントは後ほど・・・) (骨董屋 改訂版)

2017-03-09

 なんとなく、アクションがテンションにおいついていない感じがまずくる。得に差し込まれる行間の語、文のパワーがっテンションに地味に追いついていない感じ。アクセル踏みすぎる瞬間が結構あって、タイヤが滑る感じが結構あります。 >ふ、と気が付けば体をナゾル目は >正確に魂の蝶番を刺してる ここなんか凄く決まっててかっこいいんですが次に >とどのつまりこれはつまりここはつまり >私まだバラバラ死体になる気はないんだけど  こういった遊びが入ってる感じ。いい感じでドリフト決めたところで凸凹道に突入してグワングワンになった感じがします。という訳で文体のドライブ感に身を預けて読んでいると、身が持たない程、大変なので、冷静に読んでいく。すると、ここが怖く感じました。 >ところで、あなた、だれ?  なんか浮気してバレたときの目線みたいなものを感じました。語り手は女の子で、多分彼氏、「僕」がいる。でも「僕」には他に好きな子がいるのか、そのせいでトカゲみたいな「僕」の存在が、どんどん透明になっていく。だからこれは別れの詩で、日曜日は二人の日だかったから、その日に二人の思いが溶けてしまうという感じかなと思いました。だから、文章がある種の苦しみに満ちている危なっかしい感じで、覆われているのはやむなしなのかなぁと思いました。  つまりこの詩のテーマみたいなものを僕が設定できた途端に表現が急激に光って見え始めたんです。凄く素敵だと思います。 >ところで、あなた、だれ? > >日が傾いて、透明な日曜日が存在を濃くしていくころ > >貴方の虹彩に、瞳孔に、その奥に古い記憶を見つける 覗き込む >螺旋では説明がつかない >貴方の目の奥に失踪した女の髪が見える >繋ぎとめた物語も意味を成さない透明な日曜日に > > >虹彩 > >貴方の灰色の虹彩の奥に >失踪したはずの古い記憶を見ている >捉えた筈の樹影は揺らいでは消え >長い豊かな髪を揺らす >痩せた女がそのバラバラの手足を浮き上がらせる > >ねぇ、好きだよ >夜が来る頃 >私は蜥蜴に囁く > >透明な夜が来る  つまり僕は前半で色々誤解してしまった。それが落ち着いて後半から読み直したら凄く面白かった。後半のこの行間に挟まれた一言「ところで、あなた、だれ?」が再読したときに綺麗な具合にフックとして機能した。という感じです。 (透明な日曜日のトカゲ )

2017-03-06

凄く清々しい詩ですね。言いたい事をしっかり堂々と言っている感じがします。 自分の青春を振り返って、それが青春だったんだという気づきという発見。それを教えてくれた天気、雲に感謝している。という人生の歓びの詩で、なんとなくあんまり口を挟みたくないなぁ。僕にとっては凄く眩しい詩でした。 (雲)

2017-03-06

森の中にビニール袋が差し込まれる違和感。から >卒塔婆の前で茶を飲みつついがらいがらしい声で >英霊というやっかい言葉を嘘にしてみたいのに >聞こえるんだ >ザクザクザクザク >軍隊の >行進していく足音が 卒塔婆、軍隊と一気に話が進行していく、この飛躍。をどう受け取るかというのは、上手く答えが出てこないのですが、ビニール袋が風に舞う時の独特のザワめきが、まるで戦争の開幕の合図みたいだ。つまり軍隊が行進する時の音。みたい。 >餓死すれば鐘がなるなり法隆寺 幽体 > >手帳に遺された億人の青い血のその一滴に過ぎず >僕は明るく死んでしまった >草 草 草 >青色の蛇はヘヴィーに鼠を喰らい >もうコイツがツチノコでいいんじゃない? >わからないことを >わからないと言えるきよさは郊外に馴染め  一連目のなんとなく終わりが不思議、なんでツチノコが出てくるんだろうか。そこから「郊外に馴染め」というのがどういう感じなのか。という事を考えていくと、やっぱり「草」のリフレインの導火線として、まずはあるのかなという感じ。次に森の位置を示す為の郊外、と考えたときに郊外という土地はなんなのか、 >わからないことを >わからないと言えるきよさは郊外に馴染め という場所が郊外。そしてその比喩としてのツチノコ。 そして、石の眼とは何か…という事を考えていくと、この詩は精神に深く寄り添った詩という事で、精神性、神秘性に包まれた作品だと思う。だからツチノコという比喩が一連でこっそり顔を出しているのかな。 多分石の眼という言葉に踏み込んで考えていくとこの詩が見せる顔が変わってくるんだろうなと思うのですが、今の所は今一つかめないので、他の人の読みをちょっと期待したい。 (石の眼)

2017-03-06

>排水口に引っかかった哀れな子犬を抱きかかえ >火をくべた暖炉の中へ放り込んでやろう >灰まみれの乳房を優しく撫でてやろう >その小指につけた君の指輪で >僕らの中に穴を開けよう > >拳銃の可愛らしい寝息に耳を澄ませながら >微笑む眼の充血した蟻がいる ここがすっげぇ。最後に蟻っていうのがいい裏切り方だと思いました。つまり「充血した目」に極小の生き物のイメージ、ここではまるで働き蟻を人間に見立てたような錯覚が起きる。なんとも殺伐とした詩で、何が何を表しているのか、初読みの段階ではあんまり分からない所も多いけれど、最後のフレーズにむけられて組み立てられた導火線みたいな物が節々に見える。(という事はある意味で明瞭ではない所もあるという事ですが) 後はプリンっていうのがなんなんだろうなぁ… >果実の上で横たわる女 とあるからおっぱいみたいなもんかなと思いました。という事で上で書いたよくわからんというのは一連と三連のイメージっていうのがなんで置かれたんだろう。という疑問です。ここら辺について他の方の読みが少し見てみたい。 (プリン)

2017-03-06

結局の所読み方がわからなかった。ので愉しみ方が分らない。が、語の組み合わせとかも楽しい。幾つか元ネタがす婚であるのが分かるが読んだり見たことがないのでわからん。しかし、文章は流れているし、そういう意味で滑っている感じがない。そういう意味で、アクションとテンションの釣り合いが取れている感じがするが、にしてもチンプンカンプンと言えばチンプンカンプン。そういう意味でで一人歩きした文章でもあるけど、ここから何か汲み出す事が出来たら面白いかもしれない、という予感は感じる。というのが感想です。つまり可能性の種のとしての価値はあるのかなと思いました。僕にはこういった趣向の文章が書けないから、読み手としては不相応な反応しか返せなくて申し訳ないのですが。 (dead end)

2017-03-06

 凄くいいです。多分田中ジョヴァンニさんの作品で一番好き。  モンゴルの草原に冴えない男が立ち会う事で、道が開けていくのが伝わりました。文章は、僕はこれでいいと思いました。勿論ある程度破綻した部分している部分というのは細かく見ていけばあると思うのですが、僕は好き。この文体と量。人生の描き方。この軽さこそが正に無感動そのものであって、しかし悲嘆に暮れすぎる事もなく、だからこそ最後の目の前に広がっていく草原の力強さが、僕の脳内にフラッシュされる。  なんかの漫画で、仕事が出来る男が仕事に忙殺されて、そこまで寄り添った妻の勧めに従って仕事をやめたときに、妻の実家でゆっくり休んでいたら、目の前に広がっていく田舎の道の見てもう一度やり直せるだろうか、云々みたいな漫画があって、それとはいい意味で逆のシチュエーションで、僕は凄くいいと思いました。  後はなんだろう…やっぱり、パートナー大事ですね。 (愛とモンゴル)

2017-03-06

>春のお月さまに話しかけながら >歌作をする我 とあるから、色々と野跡駅近くを散歩しながら歌とか考えている語り手の思考、を行訳でざく切りにした物を見せられたような感じがします。それがそれでいいと思うんですけど、まぁ面白いかと言われると、全部は面白くなかったです。他人の思考してる最中という意味でのプロセスの追体験っていうのは厳しい物があります。もうすこし情報が欲しいなぁ…という意味で投げやり感がまず最初にきました。といいつつ気になる表現もあるので、種はちゃんとあると思うんですよ。 >帰りに猫は居なかった >行きには居た猫 >猫の居た東西道 >仏壇屋の有る東西道を帰った ここが凄く不思議、その後春の夜、お月様が出てきて話しかける自分は猫の鳴き声のように歌を作っている感じみたいな感じでなんか風流みたいな感慨を勝手に覚えました。 (日清戦争)

2017-03-06

>セパレータ とあって、 >いつも日没は反覆だった とあり、 >ごみ箱に弁当の中身を捨てる >箱の中 >散らばった白飯が造花のように咲き >今朝解凍された惣菜がぽろぽろと転がる >(それだけしかないから) >誰にも見つからないようにすっと >西日の差す教室を後にした >あかるい放課後  これだけでもうすごい。弁当という偽物感がえげつない。それが二連目の人形に繋がっていく為の、説得する材料に繋がっていく。ゴミ箱を弁当箱に変える。それは作り物のイメージと呼応しながら、箱を区切られた箱に変換してタイトルと呼応させる。そして >誰にも見つからないようにすっと 捨てるのではなく >西日の差す教室を後にした 教室を後にする、という裏切りがあり、それが >あかるい放課後 になり、最初の一行、日没という反復のイメージを裏切っていく。更には「学校」というテーマをきっちり匂わせていく。つまり、この詩は、僕にとっては最初の一連で示した世界を二連以降で解凍(解答)していく、という展開が目に見えた。最初の一連で叩きつけられた表現という暴力。この作品に込められた表現を理解するには二連目以降の僕にとっては説明的な叙述が絶対に必要。でも一連目で僕は満足してしまった。だからある意味一連目で僕の読書は終わってしまった。そういう発見が弁当箱にあるなんて、今まで思いもよらなかったから。感動した。この着眼はすごい。 (セパレータ)

2017-03-06

なんつーか不思議な詩だ。 >自動筆記に勝つことの出来なかった人類によって教科書に載る文章の大半は人工知能が書くことになったので作者の意図を問う問題は消えてしまったんだよ吾郎くん いきなりこれぶっ込んでくるんだもんなぁ。その後に、100円の話題から駄菓子屋の話に移行して、僕が正にそういう子供だった(一週間のおこずかいが350円で、そこから100円使って週に一回近くの駄菓子屋に行って買っていた。)読んでて調子の狂わされる詩で、なんか凄く追い詰められてしまった。 >さっきから尋ねてくる >きみは だれ >緑のフェンスに捕まって >空を飛ぶことのできない鶏が >一日に躓く回数の平均を >ぼくたちの左手で割ると >そこからいくつもの屋根が生まれる >赤い羽根 >脂ののった >脚はイソフラボンに近いのかもしれない  このオチも不思議だなぁ…分かんないんですけど、多分、僕がイソフラボンとは何か、よくわかってないんだろうなぁ。きみは誰なんだろう。そういう意味でこの詩にはオチがないという事がオチで、だから柔かいのかなぁ…ちょっと判断に困る作品だ。色々な人の読みがみたい。 (み)

2017-03-05

滅茶苦茶フリーダムな作品で、はっちゃけてる感じは凄いですね。ある種の酩酊状態みたいな感じ。ちょいオヤジギャグっぽいし。 という訳で酔っ払ってる感じが凄く、今のままだと、良くも悪くも与太話っぽい感じが強いかなと思います。 (営み)

2017-03-05

 >いっときの愉楽のためにこの世界に映画はあるんだから  >わるいやつらはみな殺しすればいい  >車には火を放てばいい  >かわいい女の子たちには悪女としての余生を与えてしまえばいい  >だれだってほんとうはいいひとにはあきあきなんだから  ここが凄くいいなぁと最初読んだときに思ってしまった。僕も早く、悪い奴になりたいな…と思いつつ。まぁ僕は皆で仲良くしたいのですが。余計な配慮は払わずにね。という感じでレスおわりたい。映画あんまり知らないので、基本的には「へぇ、そんな人がおるんや」という感じ。時間があったら映画を見てみようと思います。 (鈴木清順が死んだあとに)

2017-03-05

>闇は、やみとお遊びするの。 この一言が凄く良くて、病院がちいさなラヴホテルに変わる瞬間でしょうか。そういった「闇」が「やみ」に開かれていくような感覚。それが「かたつむり」という一つの存在であり比喩であり、それから粘性をもった性と絡み合いながら話が展開していく。そういういう意味でこの作品の持つ音、という感性の持つねじ式の雰囲気が絶妙なラインをたたき出している。。。感じがしますが、ここまで大げさな感じではないかもしれません。 なんというか、いい意味で、評価に困る作品…凄く難しい。つまりこの作品はもっと短くエッセンスを絞り出した物が読みたいという気持ちと、このままでもいいよね。という所のゆらぎがあります。時間があれば、本腰入れて読んでみたい作品です。 (まいまいつむりのまいこちゃん)

2017-03-05

これは凄くいい。正に「Tangerine Dream 」。適当に、緋色の夢とかなんとかカッコつけて言いたい。凄いなぁ、この幻想的な世界。レスする余地がないなぁ…あるとしたら、多分思い切って何連か削除して切り詰めたら、より幻想的になるだろうなという予感がします。これは個人的な好みでもうちょっと濃密なカルピスが飲みたいという欲求でしょうか。そしたら、多分読むのが大変になるかもしれないけど、多分最強というか僕の中では優勝していた。もっと読みたい。 (Tangerine Dream)

2017-03-05

この作品は感覚がむき出しになっていて面白いですね。凄くぶっ飛んでて面白いパーツが転がっているし、 >ポークソテーが「馬鹿だ」と鯵フライが「騙せた」とキャベツの千切りが「こっちに来るかい」と こういう表現がいい。テンポが良くてちょっとした群像劇を魅せられてるみたいだし、そのカメラを向ける速度も程よい。ただ、その分情報量がもっと欲しい。色々と飛び火していく展開は心地いいのですが、その内実を読み取ろうとするとせっかくいいテンポで詩が流れているのに、一々立ち止まって読み込まないといけないという所で、雑味を多く感じます。  この詩は多分一見ナンセンスだけど、明確なメッセージや伝えたい発見みたいな物が多く詰まっている。だから文章の順接がこじれたりとかもしているんだろうと思うんですが、そういう意味で今一芸に欠ける。もっと作品が整っていったらよりユーモアに溢れたいい詩になる萌芽がある作品だなと思いました。 (常識的に安定した殺人ウイルス)

2017-03-05

>キティさんがキティちゃんになる >=若返る、 (濫作)

2017-03-05

写真みたいな詩で、いい感じに情景が見えます。一連目の提示から、二連目の展開と余韻(が特にいいですね。)、とてもいい。  >「ほら、そこ」  >と、指さしてみれば  >人の温もりにも似た  >半透明な夏の眩暈 綺麗。余韻があります。だから三連目のオチが今一。勿論タイトルに表したオチをちゃんと遂行しているという意味では好感があるのですけど、最初からオチが確定しているという意味で、予想の範疇に収まってしまった感じがします。タイトルが更に最終連で飛躍して、天に昇っていくもしくは、それ以上の何かがあったら最高だなとちょっともったいない感じがしました。これは、僕の考えですが映像的が一段階繰り上がると、幻想的な物になると思うんですよ。 (茄子のうし)

2017-03-05

口とは何か。これが多分この作品の一つの肝なんだろうと思います。 >外では嵐が吹き荒れていて >この風雪に耐えてこそ生きる資格がある・・・ >教官のダミ声が切れ切れに聞こえてくる > >落伍者と自らに告げるだけでよいのに >私の口はいやがってどこかに行ってしまった >幸い目と鼻と耳はまだそばに居てくれる 目も鼻も耳は側に居てくれるっていうのは多分こいつらは受動的な器官だから、口っていうのは多分感情とか意思を発信出来る最も能動的な器官という意味で、多分特別であって、その「人」を表すんだと思います。  という所で、だから「鳥」っていうのはやっぱり「鳴き声」であって、そこからどれだけの感情を読み取れるかというと微妙なんですよね。そういう意味で鳥の口と人間の口は異なるんでしょう。だから、そういう意味でkazさんの嘴という批評はクリティカルなんでしょうね。そこが読んでて僕は今一掴めなかったのですが、ここでは鳥の鳴き声を「歌声」として読み替えていきます。 「私の鳥」とは多分私の口であると同時に嘴であり、そして籠の中の鳥であって、それは箱入り娘、みたいな感じで口≒四角≒箱のイメージ。 そして、だから口というのは自分の個性みたいな物、教官という大人的な存在に封じ込められる「私」という存在が個を発する事の出来る、唯一の器官であるという風に最後の並んでいる口というのをみました。口の数だけ人がいて、歌の歌い方はあるんだよという風に。 (私の鳥)

2017-03-05

 そうだなぁ、、、この作品。。。やっぱりチャンプルーかなぁ。  色々と切り替わっていく所がたくさんあって、それにギリギリ追いつけたかなという感じ。ボカロと文学極道知ってれば多分元ネタ的な所の理解は容易いと思います。後は絵文字かなぁ。面白い所もたくさんあって、最初のスタンスの提示。言葉を絵に見立てますよっていうこの引用の仕方、言葉を絵的に引用するというのか、これはちょっと面白いなと思いました。 >立ち止まってそうかこれは詩でも文でも絵でも (色彩)

2017-03-05

この作品は、僕は凄くレスするか迷っていて、それはもう大体レスも出尽くしたのもあるんですが、一応やってみようと思います。他の方のレスを踏まえて読むと多分凄く面白いんですが、今の僕の状況からだと手に負えないくらい膨大なものになっているので一端無視して読んでいきます。というのも、多分話題がかぶるからです。 >墓参は真冬 >風は >石の十字架を鉄に変える >その手触りは >記憶の父にそっくりで この感じた「手触り」というのが上の三行に凝縮されています。ポイントなのは「記憶の父」≒「その手触り」であるということ。その手触りがつまり父であるということです。つまりこの作品の根底に流れる記憶の父というのは、最初の三行で全て固定されているということ。だから僕らは略して「鉄の十字架」をどう受け取るかによって、この作品の読み方が変わってくる。そして父親というのは得てしてその人の人生に影響を与えることが多い訳で、だからこそこの作品っていうのは、そういう意味で人を選ぶ作品だと思います。だから、僕は最初この作品が読めなかった。でも自分の父親を「鉄の十字架」に当てはめていくと、色々思い出すことがあり掲示板には書けない私情がむくむくと湧いてきました。だから、僕にとってはこの詩は最初で全て決まってしまっているんだ。  僕の父はまだ生きているし、というか最近漸く色々あったんだけど和解したばかりで、その時のことを思い出すと同時に、この先僕は墓参りするときがもし来たらこの詩のこの先を僕はどう読むんだろうと思いました。 (藁の家)

2017-03-04

 どしゃぶりさんの感想が僕は全てだと思っているので、何かレスするとしたらそこから広げていく感じしかないのかなぁ…どういう事かというと、天才詩人さんの言葉はデザイン的だなぁという事です(一目見てなんだか分かる感じ)。つまり言葉で写真を撮ってるみたいなもんで、それを僕は見させられてんのかなぁという感じです。  だからそういう意味で僕はこの作品の内容を細かに見る必要性を感じません。それは絵画を滅茶苦茶近くで見るのと少し離れたところで見るでは、どっちがいいのか? という事を考えたときに、この作品は後者の方が楽しめるだろうから。  という訳で、僕はこの作品にそういう物を感じたけれども、故に芸術としての詩が完成してから一気読みしたいなぁと思います。不満があるとしたらそういう事でしょうか。もったいぶらずに全部見せてよ。という感じです。 (#芸術としての詩 03)

2017-03-04

>なにも考えていない瞳が捉えたのは >ただそこにあるだけの空 >その、紛れもない名前  右肩さんとあるいみ同じ感想になってしまうのかなと思いつつ、やっぱり最後のオチが謎なんですよね。「空」っていう名前についてですね。 >清浄な空気が空気清浄機から産まれ >産褥の苦しみに涙を流している >空という紛れもない名前  「空」という名前というのは生まれてきた子の名前なんだろうかね…ここについて、ちょっと他の人の読みが聞いてみたい所。他の箇所は本当になめらかだし、おそらくもっと言葉尽くせる感じもするんですけど、それ以上に「空」っていうのが不思議で。他の箇所に触れる前にどうしても気になります。この詩の特異点とも言えるという感覚だけがむくむくと湧いてくる。なんで空なんだろうなぁ…sence。ってそういう事なんだろうか? 結局の所名前決める時ってなんなんだろうなと思う。子持ちの方とかに話を聞いてみたいなぁと思いました。この作品は凄く気になるなぁ… (sense。)

2017-03-04

>旗は はためく >鰰(はたはた)の 旗 もうこれで完結してるなぁと思っちゃった。鰰、もうこの文字をここにもってきてルビを振った。それだけでこの作品の着眼は成功しているし、そういう意味で僕はオヤジギャグみたいなものだと思いました。オヤジギャグがオヤジギャグたる為の要素を詩に上手く転化してそこから一気に感性を爆発させていく、これこそ僕は天然だと思う。つまり神の感性だ。   >な あせるな   >ほれ このハタハタパイ食べろ   >おまえの海にも    >神がいっぱい群れだって育っているど  このオチと始まりがある限り、途中は僕にとってはどうでもいい。(ただ間に何か挟む必要はあるのでそういう意味では必要)ハタハタパイは大事かもしれないけれども、いや大事だな。でも最初と最後が綺麗すぎてなんもいう事がない。見事すぎる。僕はこの詩を読んで笑った。 (はたはたパイ 食べろ)

2017-03-04

 絵文字無しの方が好きかなぁ、、、と思いつつないとないで、なんか物足りないような気もしますね。絵文字って言葉じゃないくせに偶に言葉より強いメッセージを持つ事があるからでしょうか。多分僕自身絵文字ってよくわかってない。だから使うの凄く下手くそなんです。というのはともかく、三浦さんの作品は、ある意味天然だけど確信的な部分もあるので、そこら辺のズレが僕のレスを書く手を止める。 >ハイネと朔太郎が >ペンギン (殺されたポエムの子供)

2017-03-04

 最後まで読んでしまったというのが、最初に感想としてくるし、それでいいんだろうと思ってしまう。それこそが一つの文体なんだろうなと思います。僕にとっての文体とは読んでしまったという結果が残る物なのだ、という事をこの作品から発見しました。  細かい読みについては他の皆さんの読みが素晴らしく特にまりもさんの細かな読みが凄く、僕からは何も言える事がないのですが、一言コメントさせていただこうかと思います。読めて良かった。 (なみだもろい愛をこめて)

2017-03-04

>魚影が >もう少しだけ未来の私 >死の国の死の国な私  この作品はレス書くのはちょっと難しい。だってそういう詩だからです。誘惑の詩だから。締めの三行これが本当にえげつないと思うんですよね。色々ゆるいイメージを誘っておきながら、最後未来と死を並列で並べて去っていく釘みたいな形の魚影が「気持ちいいけど気持ちいい/そういう/匂い、うろんな幸せの水を」を刺していくっていう締め方。これは怖い。文字通り釘を刺された。でも刺してくれなかったら危なかった。  多分死の国に誘われたんですよね、僕はそれを最後に引き戻されたんですよ。 >死の国は今日も >濁った古い池のかたち  この詩って本当に難しい。「死」という言葉がちゃんと色々な所に挿入されてると思うんですよ。しかも「濁った池」って言ってる訳じゃないですか、でもこの作品に描かれた池の周りの様子を見ていると、なんだか気持ちいいなと思っている「私」がいる。それは死の国なのにか、死の国だからなのか。気持ちいいから気持ちいいっていうのは論理とか理性の放棄なんですよね。つまり「死」という極楽浄土のイメージの混濁、死の国という非論理の持つ魅力、というものがトランス状態の最中で色々右肩さんに書き換えられていくような感じで、洗脳感された感が凄くあった。タイトルが「未来の私」というのも結構怖い。  そういう意味で僕はこの作品に操作されたんだなと思って、いや怖かった。 (未来の私)

2017-03-04

罅があるという事は殻があると思うんですよね。この作品を読んで思うのは、殻の部分ですよね。殻とは何かという所で、ここでは安心した生活、順風満帆な生活みたいなものかなと思いました。それを破って崖っぷちの世界に飛び出していく熱情みたいな物があると、そういう感じだと思うんですけど、下に引用する所からはあんまり殻を感じられなかった。 >気だるい幸せを身に纏って >春の中を女がいく >失うものなど一つもなくて >けれど背中はやけに重い >足りないものは何一つないのに >心はいつも空虚で痛い >愛の中に埋もれながら >愛したことなど一度もなくて >世界中を旅しながら >自分の世界から抜け出せずにいる 殻って破るものだなと、殻について考えていると思うんですよね。でもここでは抜け出せない物ってある。抜け出すっていうとどこらかというと籠の印象があるよな、という所でタイトルと最初の自分の世界という所のズレを僕は感じました。多分卵の中に入っているっていうのは閉じこもっている感じなのかなと思ったりするんですが、この場合は、多分ちょっと違うと思うんです。そういう殻じゃない。そういう訳で僕としてはこの作品独自の殻をもう少しだけ感じてみたいなという物足りなさがありました。  だから、後半の部分は僕は逆に好きで、落ちもいいと思いました。世界の縁っていうのはもじどおり自分の世界であって、殻の外郭な訳だ。そこから一歩でも外に踏み出したら下に落ちて割れてしまうという瀬戸際な感じがして、新しい世界に飛び出していく熱情と危険さ、とそれから脆さみたいなのが凝縮した表現になっていると思います。そういう意味でいい作品だと僕は思いました。 (罅)

2017-03-04

>伽藍堂どうどうどう堂々巡りの 現実感の無い世界でもがいて >伽藍堂どうどうどう堂々巡りの いつかいつかの夢を夢見る >伽藍堂どうどうどう堂々巡りの 伽藍堂どうどうどう堂々巡りの この締めが凄くいい。 一つの人生をこうして一つの作品に落とし込んでいくというのは、それだけで多分小説がかけるくらいの魅力が詰まっている事であると同時に、それは大変な苦労があると思うんです。だからその場面を的確に引っこ抜いて僕らにどう提示するかというのが大変だと思うんです。 作為的に見えてしまう瞬間っていうのが出てきたらそれで僕は作り物の人生を場面だけくり抜いて、もしくは創作してここに出したんじゃないの? みたいな感じに醒めてしまう。 >1990年8月1日 私はNICUに生まれた >心に穴が開いていて ヘモグロビンが新しい酸素を持って来られなかった >でもそれはあまり関係ない 体育の時間は一人きり 木陰で休んでいたけれど >美術好きのきっかけになったぐらい >そもそも何も覚えていないし ひけらかすには浅薄すぎる  この理由の提示がやっぱり一つの世界を作っている。関係ないといいながら実はものすごく関係のある逆説。というのがある。だから僕はこの作品の生誕を文字通りに感じる事が出来たし、その後語り手の人生によりそう絵というものを感じ取ることができた。そして何より、その通低音としての「伽藍堂どうどうどう堂々巡り」というくりかえしがあって、それらが場面の展開と、これからも延々と人生が続いていくような感じを僕は受けるんです。つまり安易に人生に落ちを付けていないという所。それが尻切れトンボのようではなく、毎日お寺が鐘を決まった時間に鳴らしていくような終わりのない人生の象徴であるようなエコーであって、それが身にしみました。 (がらんどうどうめぐり)

2017-03-04

 この詩は一昨日まで本当に心えぐられた。という個人的な感傷もりもりで、コメントなんて絶対書いてやらねぇみたいな事は思ったけど、でもまぁ、一番読んでて心地いいなぁとも思った。すみれ、ってずるいよなぁと。  泥棒さんの詩は詩人とかが前に出てくると、なんか自分がいつも考えてる事を綺麗にトレースされたみたいな気分になって凄く嫌だ。福沢諭吉の詩は多分詩人っていうかお金がモチーフだから、小説家や詩人がモチーフの作品よりも多分読まれるんだろうなと思う。多分泥棒さんの作品に出てくる人間達っていうのは、あれなんだなちゃんとキャラクターになってるんだろうな。  で、この詩には詩人しか出てこない。だからこれが詩人がメインキャラクターのキャラクター詩なんだよ。(という事を誰か言ってましたという事をまた聞きで聞いたののアンサーとして僕が間接的に理解したコトバをここで返しておきたい) だからこの詩読んでると自分読んでるみたいで気持ち悪いんだ。肝心な所で誤魔化したり、適当に話空したり、薄っぺらいのを隠すために一行あけていい感じの軽さ演出して逃げようとしてる感じとかね。ドラクエの呪文とかもそうだなぁ。アスファルトの行間に生えるすみれになれれば、詩人は詩になれるんじゃないかなぁ。とかね。絶対なれないけど。なってもそれは詩じゃないしね。いや、しかし、こいつは常に何アホな事思ってるんだろうな。と、いう視線も分かってるから全方位にバカ野郎! な訳ですがね。 >闇って >そんなに単純なのか >優しい言葉って >どんな言葉なんだろう >優しさのかけらもない >そんな言葉も必要だとして >いつ使うんだ >だっ >何を読んでも理解できない >見ても聞いても信じられない >すべての直感は >見事っ >的を外す >いったい何をしたら >経験したことになる >君を見ても >君ではない気がする  こういう所とか一昨日まで僕はどう頑張ってもコメント打てなくて、死んでたんだけど、今はちょっと違う考え方で動けるようになったからコメントこうして打ってるんですが、あれだよね。泥棒さんが詩集作ったら多分世の中の人の心がぶっつぶれんじゃないかな。その詩篇だけキャラクターの異なる詩集みたいなのね。どこまでバラエティのある物になるかは、しらないけれども。 (すみれ)

2017-03-03

読んでいると、すごく静かな詩だなと思いました。そういう感想が先に出てくるのは、 追悼とあって、 >kuroifukumokanashmimomotazuni, > >ぱちぱちぱち、ざざざあ >ざざざざざ、ざあああ >ぱちぱちぱちぱち とくる所、ここが凄くなんだろうな。感覚的に納得しました。 このローマ字の並びは読みにくいんだけれど、じゃぁなんで読みにくいんだろうっていう所を先に引き出して考えてみると、ぼくにとっては雨の音でした。それを示す為に一連目の雨のオノマトペが必要だったのかなと思いました。人のつぶやきが雨に混ざりながら、葬式の最中の風景をボソボソと雨の「音」のように無表情に記述していき、それが喝采という語で締めくくられるというのが、なんとも潔いなと思いました。この潔いって思ってしまう力が、凄いと思いました。なんでそう思ったんだろうっていうのが、上手く言葉にならないです。 (追悼)

2017-03-03

こんにちは。百均です。 >ペットボトルでできた >母なる海で浮かぶ >透明な乳房 これが凄まじくいいですね。こういう見立てで驚く事ってあんまり最近ないんですけど、これは白はたあげたいなぁ。透明な乳房に符号する物がこの世にはあるんだなぁ…っていう気づき。それが意味するとことってえげつないし、えげつないから言葉にできないからポエジー。みたいな感じ。だってここから広げていこうとしたら、もう「いろはす」とかね、そこから水のイメージなり、どんどん広がっていくもの。そこから、最後の「いちごシロップ」的な血のニュアンス、つまりはイメージの感触にかさなっていくしその為の綺麗な伏線でもあるよね。透明な乳房から吹き出す透明な水という大地の血のイメージと、それらがパッケージ化されて都市に売り出されたり、エロ本に映る乳房のイメージだとかね、この感慨をどう言葉にすればいいんだろうな。という所でいつかガッツリ読みたいんだけど、他の人のレスの方が面白いなと今は思うしその為の体力作る時間がないから、今は何も言えないんですけど、僕はこの詩に対して一つの納得を得てしまった。今はそれだけだしかいえない。 (いちごシロップ)

2017-03-03

>女を知らないやつがこんなものを書いてるんだ >嗤いたければそうするがいいさ  >平日のマーケットで >金色の星を浴み  >ブラームスを聴きながら >ブロスの下着を撰びたい > >そしてアパートに帰って >シュトラウスのドン・キホーテをかけながら >かの女がくそをしたあとの、 >便所の水のながれをずっと聴いてたい >ずっと聴いてたいんだ >それはきっと >美しいにちがいない  すっと染み渡ってくるなぁという感想しかないし、それでいいのかなぁと思いました。僕は、今は女の子の事についてあんまり知らないし、知らなくてもいいかなぁという感じだから(欲はあるけど)多分上に引用した所はぼくにはこんなに短くしゅっつと言い表せないだろうなぁと思いました。僕は美しい物っていう感覚はないけど、汚いと思う心はある感じがしていて、それが結局の所排便の音だったりするんだろうけど、でもそういう物の方が汚い事がはっきりしているから美しく感じたりする。自分のおならの音や糞の香りは肌になじむように、見ず知らずな他人の糞の匂いがダメなみたいに、彼女の排便した後の水の流れの音は、もしかしたら綺麗かもしれないですね。クラッシックの音楽みたいに? 僕の場合は合唱が好きだからブラームスは高嶋みどりになるのかな (ひさしぶりに詩と呼ばれるらしいものを書いてみたんだ、アリシア。)

2017-03-03

これはこの作品というよりは「もとこ」さんという一つのキャラクターの形成に関係しているのかもしれないんですけれども、「アタシ」という一人称が、毎回僕の目につく。という事、この作品は特にそれが顕著であって、だから僕はこの作品を相手取るときに「アタシ」について考えざるを得ないし、それが、前回もとこさんの作品に寄せた僕へのアンサーに対する回答だと思ってこのレスを書きます。 「アタシ」とは何かについて、はレスの往還からヒントを得る事ができます。つまり、作品から立ち上がってくる物というよりは作家論的な見方になってしまうのですけれども、これは女の子が「ぼくは」と一人称を変える理由についてです。一人称とは何かという事を考えます。一つは、それすなわち性であるという事。一番手軽な性の転換こそが、一人称の変換であるということ。と同時に手軽であるからこそ、一人称の持つ性の枠組みから僕らは簡単に逃げられないということ。そういう意味で「I」っていうのはある意味自由なんだろうかとか勝手に思いました。 という訳でもう一つ頻出の「薔薇」という言葉はやっぱり女に関係しているから「アタシ」にまとわりつくものとしてずっと側にある。それを自分の方向から切る事が出来ないからここまで執拗に「アタシ」と「薔薇」が描かれ続けるという事なんだろうなと思いました。そこが多分今のままだとそのまま表面に出てきているので、多分冗長さが浮き彫りになっているのかなと思いました。そういう意味で構成という点については若干の失敗を感じます。 (フラワー・オブ・ロマンス)

2017-03-03

「妻の夫 」このタイトルがいいですね。ちょっと変な感を想起させてきます。感覚を持っている奴こそが上手くこの作品を楽しめるのかなぁと思いました。(この作品は単品では上手く感覚がつかめず、レス読んでから結構なるほどと思ったのですが、それはなぜかというと、僕の父親は家で仕事してるので家事とか虫を殺したりだとか普段からやってるんですよね。僕もまだ大学生なので、あんまり感覚がないっていう感じなのです)   妻の夫という事はつまり妻がいなければ夫は成立しないという事ですね。夫というのは所詮、滅茶苦茶動き回り飛び回る妻=カマドウマ以下の存在であるということ。でしょうか。そして夫は妻に逆らえないっていう感じなのかなぁと思いました。この作品読んでると、家の両親の事をなんとなく思い出します。やっぱり一番主導権握ってるのは母親だし、母親が消えると親父はどうなるんだろうなとか、思いました。例え家事をちょっとでもやる親父にしろ、なんにせよ夫婦ってなんなんだろうなとぼんやり思いました。大人の皆さんにちょっと感想を伺いたい。 (妻の夫)

2017-03-03

こんにちは この作品は、中々ピンとが合わなくて読むのが難しい。結局の所、なんとなく綺麗だなと思うイメージはありつつも、それがどのような映像を結ぼうとしているのか、という所が拡散している感じが強くて、故に雰囲気がいいとしか言えないかなぁ。特にどこら辺がいいかというと、煌きの表現の仕方で。 濃紺の夜に星が落ちていて拾うことができない。 川底に揺れる骨のように青く光る疑念。 ナイフがきらめくあの一瞬。 この三つのシーンはイメージの起点としてムズムズする良さを感じる。川に映った夜空の情景を「落ちている」書き込む感じは、一読して振り返ると、個人的には納得する感じが強いです。だから、コーリャさんの感想をここで振り返ってみると、「時間どおりに来るバスといつまでも現れないきみ。」がレスの落ちに来ていると思うんですよね。そういう風に、この作品にちらばり拡散した情景を個々人、読み手が繋げる努力をしてあげられたら多分面白い読みが出来るんだと思った。僕の場合は今の所ここだけかなという感じです。 (白い夜)

2017-03-03

>一杯の白湯がかたむすびをほころばせてしまった 最初はここで一回ずっこけて、なんとなくどう感じていいのかわかりませんでした。でも澤さんの「湯気」という語を見て開眼して、このかたむすびの紐は、白湯かた立ち上る湯気なんだなぁと、勝手に合点しました。湯気が窓に張り付いて霜になったり、それが祈るように指の編み込みにつながっていったりだとか、そういう風に見ていくと面白い。といいつつ、それでもやっぱり難しい部分も正直にあります。この詩のチャンネルに上手く合わせられるようなとっかかりが正直にいうと欲しい。皆が綺麗だと言っているその感性に僕も合わせてみたいなぁ。という思いが一番強いです。  という事で、ある意味ではレスによって僕はこの作品を初めて読めた気がします。これは失礼な事かもしれないんですけれども。 (prayer)

2017-03-03

呼称というタイトルから始まって >名付け難いものが溜まって >スライドショーにして流す。 テーマがまず提示される。テーマっていうよりはスライドショー的に色々流していくよ。みたいなものかなと思いました。そこから「、」で区切られる色々な語の羅列、に微妙なニュアンスを含んだ形容する何かや文がまとわりつきながら、スライド的に流れていく言葉の川があって、それが尻の >意志を括りつけて二度と浮き上がらない我が名、 >命名されたその日から今日まで、 >結晶、覗く、顕微鏡で名が透けるそこに豊な文字、文字だ。 名前という文字、という呼称に向かっていく。そういうオチで終わるという意味で凄い好感をもった。書いている事は貫徹している…と思います。ただ、その過程の部分で悪い意味で無駄を感じました。「宛名」はいい着眼だと思いました。始まりが「目」や「顔付き」なんかで始まるのも名前を付ける対象であり、呼称の対象であるのであればいいのかなと思ったりするのですが、他の多くの部分に対しても同様にオチという発見に結びつくような発見へのプロセスが語られている。けれども、それがただ開陳されているだけのような印象があります。個人的にはもう少し整理が付くと読みやすいかもしれないと思いますが、それが作者の目指している表現じゃないとは思うので、多分これ以上は、徐々にいいからさんにちょっと話を伺ってみて色々聞いてみたいなぁと思いました。 (呼称)

2017-03-03

こんにちは。 >君と僕とが踊った感情線が >鳥になって >花になって >木となり >葉となり >森となる >君の体が縮まっていく内に >僕の体は大きくなる この言葉の重ねかたがシンプルだけど綺麗。それを引き立てているのは、君と僕の踊った感情線の軌跡、二人の目線が合いながら踊りつつ、その背景がどんどんリズミカルに変わっていく。背後でなる音楽が切り替わるような感じで語が変わるんですね。余計が装飾がついていないからか、二人が過ぎ去る時間を忘れるかのように延々と踊っている感じがしました。  ただ、なんとなく前半の踊りの話(物語と言っていいのかもしれないけれど)と僕がいいと思った所最後の部分とオチについてとpencilについては今一ピンと来なかった。これはそういう意味で三浦さんのレスに同調を覚えるかなぁ。 (pencil)

2017-03-03

>スローカーブする海辺 >無造作にふるえる水面の上 >いつかの涙が鳥の群れになって飛んでゆく > >じっとみている君の名は ここがすごくいいと思いました。これが僕にとってのポエジー。だから君の名は。というのが、最初見たときはギャグだと思ったけど、ちゃんと読んでみると綺麗にスカット嵌りました。一連二連は説明なので一度読めばいいし、もっと短く出来るだろうと思いました。最後の綺麗な情景に比べるとやっぱりだれてしまうなぁと思いました。やっぱり三浦さんの詩は瞬発力なのかもしれないですね。それが乗ってるくると大化けするという可能性を感じました。 (渚鳥を回転させる調教)

2017-03-03

こんにちは。 色々読んでて中々難しい詩だなと思いました。ここには、着想の種になるようなワードが散らばっているように思えるんですが、そこから先の事を既に考えている場合とそうじゃない場合では読み方がなんとなく異なりそう。そういう意味で難しいなと思いました。多分、一番ピンとこなかったのは、死に方の方で、死に方がどう多様なのかとか理由がなぜひつようなのか、とか、そこらへんについて、もとこさんも指摘されてると思うのですが、語り手が何を着想に死に方は多様であるのか聞いてみたいと思いました。 (生まれて来ました)

2017-03-02

この作品のいい所は群青がちゃんと消えた所。それを僕が綺麗だなと思えた所。それだけだと思うし、そこにポエジーがあると思いました。真ん中二つの連は、そういう意味で情景としては、僕には弱く見えるけど、そういう所を覆すくらい群青が綺麗。ストレートで心に響きました。心動かされた。 (午前五時の群青)

2017-03-02

まりもさん レスありがとうございます。確かに最初の書き出しは少しあざとくてもいいから並べ立てました。つまり排泄欲と性欲という伏線というか、そこから汚したいという衝動と、それでしか汚すことの出来ないわだかまりと故郷と、という所で、最後の切れどころ、これが本当に難しくてさっき三浦さんと話をしていて、そのオチが見つかった所なのですが、それは正に詩だと思いました。ここでちゃんとけりをつけたいと思いました。#2で皆さんからいただいた指摘を生かした物にしたいと思います。 この作品は今思うと悪い意味で中途半端だったなと確信しました。レスありがとうございました。頑張ります。 花緒さん  いつも書いててオチを見つけるのが苦手で、どんどん分からなくなり、結果的に連打する事で誤魔化している節があって、そこがまずかったし、何より色々厳しかったなとレスを読んで思いました。最後のオチについてはもう本当に今思えばですが愚かな事をしたと思いました。#2ではいい風にきちっと締めたいと思います。レスありがとうございました。 もとこさん  投稿してから、色々と入力ミスをしていた事に気がつきました。本当に申し訳ありません。こういう所が本当にダメだなと毎回思うのですが、投稿する前に誰かに一度読んでもらうとかしてもらおうかなと思いました。  長さについては、これは僕の都合ですが、毎回オチを探すためにダラダラと書いている節があって、一応ゴールみたいなものは今回あったのですがそれが出しきれないまま投稿してしまったなと、日を追うごとにやってしまったなと自分でも思いました。  ふぁっくについても、多分もう少しポエジーの込め方を工夫できたはずなんですよね。でも今のままだと、次の展開を繋ぐ為の機能しかもってないダメワードになっちゃったなと思いました。  ダジャレの部分に関しても、B-REVIEWで得た知見が幾つかあり、ちょっと試そうとして失敗した感じが見返すと凄いです。ちょっと、、、修練を積みます。レスありがとうございました。 (何もない場所#1 )

2017-03-02

こんにちは。百均です。 タイトルからしてちょっといい加減な作品かなと思ったら。割とそんな感じだなぁと思いました。三つの語にシチュえショーンを与えてなんとなく考察してみる作品っぽい雰囲気で、何か特別に良いなと思う事もなければ、悪くもないな、という感じで、パンチのない三連構成の作品で、でも地味になんとなく関連性があるように思われる。所もあり、それが地味に凝ってる物を見たときにいじらしい気分を想起させてきます。タイトルの「Z3」は3は三連あるから、この三連を書き終わった後になんとなくつけたのかな、とか。3は数だしな。とかZは最後のアルファベットだよなとか。そんな感じです。それらが何を意味するのかはわかんないです。 面白いと思ったのは「数」と「並ぶ」ですね。数の話題に指を持ってくるという発想が、あるようであんまないなという気づきがありました。後その並んでる順番であったりね。自分で指を動かしながら一連を読んでると不思議な気分になります。それが最後の三連の「並び」の叙述にオーバーラップしていき。謎の余韻を残していきます。「男」の連はなんとなく読めませんでした。 一連と三連は、雰囲気は好きなんですけど、それがなんでいいのか、とか意味みたいなものは、あんまり言語化できそうにないかなという感じです。二連に関しては雰囲気が微妙なので、やっぱりいいとも言えずという感じでしょうか。個人的には湯煙さんの作品好きなのでガッツリした奴を一本読んでみたいと思いました。 (Z3)

2017-02-25

こんにちは。百均です。  この作品は凄く僕好みでいいとおもいました。特に、オチが凄くいいとおもいました。  最後のセリフからにじみ出る切実さ、それを引き出す為の「エイリアン」という比喩ですよね。ここが凄くいいとおもいました。  ただ、この作品の全てが素晴らしいと手放しで褒めている訳ではありません。一番気になるのは内省の比重が少し後半になるにつれて多くなる事でしょうか。(語り手の心の感情がむき出しになりすぎてしまっている所が、必要である事は強く感じるのですが、そこはこの作品に感情を移入出来る人程一度経験した事だと思うので、もう一度自分を見返した時のような面倒くささの方が勝ったという感じです。)しかし、それでも力のある作品だと思いました。個人的には多分、一番心の奥底に染み込んでくる作品でした。 (擬態)

2017-02-25

こんにちは。百均です。 この作品が面白いのは、いきなり「夏」と「冬」、「朝」と「夜」、「生」と「死」が出てくるという事です。なんでいきなり季節の話が飛び出してくるのかと思ったのですが、適当に思い起こすと、枕草子みたいなもんかなと思います。四季というのは僕らの生活に根ざしている物だとおもますし、それらが一つの文化を作り上げている物の一つの要因であるという事は、ちょっとは言えると思うんですよね。 >アタシは夏が嫌いだった >生まれた朝を思い出すから >アタシは冬が嫌いだった >自死する夜が思い浮かぶから この四行を読んで思うのは見事なくらいに二項対立! それらの対立するイメージが綺麗に編み込まれています。+と-のイメージと言ってしまうと、乱暴ですが、それらが綺麗に交錯しています。この感じが正にタイトルの彷徨に繋がってくるのだと思います。この一連の恐ろしいのが、ものすごい大きなテーマを簡単に四行でまとめあげている所です。多分僕らが書き得るテーマみたいな物の内、大きな話題の多くがここで出きってる感じがしますよね。これを大雑把という言葉でまとめあげてもいいのですが、それじゃつまらない。ので、僕としては以下の受け取り方で読んでいきたい。  この作品は一連目で、この作品が示そうとしているスタンスをまず読者に提示しています。それから少しずつ細かい話題や比喩を使いながら、少しずつ「アタシ」の深みに入っていくような叙述が続いていくわけです。「アタシ」という一人称を主軸にこの二項対立の編み込み、錯綜は加熱していく。 >誰かの不幸は誰かの幸福 >当たり前の法則はとても残酷 >勝者と敗者は水と油だから >薄い皮膜は永遠に破れない  これは凄く分かりやすい話題だと思うんですよ。多分誰でも一度は思った事があること。そういうモデルを提示しながら、次の連で >もうひとつの恋を探して >無垢な娼婦が荒野をめざす >力尽きた神の代わりに >老いた赤子が産み落とされる > > >アタシはコンパスだけを頼りに >白夜の通学路を彷徨っている >真理を知っている誰かさんは >肉親の薄情さで沈黙している 一気に編み込んでいく。なんとも絶妙です。二つの相対する物があって、それらを綺麗に混ぜ込みながら、その中で揺れ動く「アタシ」が延々と描かれていくこのスタイルは、好きだなぁ。 (彷徨)

2017-02-25

今日も午後10時くらいから放送します。 今回はあれかな、作品の削除とかについての簡単な連絡などしていきます。大した内容ではないので、聞きたい人はどうぞという感じです。 マナーガイドライン:運営のお知らせ的な所にも同様の内容は貼るつもりです。 (B-REVIEW /ON)

2017-02-16

 まりもさんこんにちは。百均です。  申し訳ないのですが、今B-REVIEWのフォーラムは色々と問題があって、使えない状態です。  ですので、僕の権限で一個、掲示板に議論スレッドを立ち上げておきたいと思います。(雑談スレと分けなくてもいいのかなと思ったりもしますが、一応念のため)  そこで続きの議論をして頂ければと思います。  今後共よろしくお願いいたします。  (私の鳥)

2017-02-16

 こんにちは百均です。  この作品を読んで思うのは、色々な要素が緩やかに絡み合いながら、最後のフレーズの問いに向かって説得力を持たせるように作られているという事かなぁという事です。もしくは、その問いに読み手を立たせようとする、というのか。立たざるを得ない問いに立たされる状況に追い込まれるというのか、僕はこの詩を読んで大分色々な皮肉の聞いた意地悪な詩だと思いました。この詩を読んだ僕らは、次にどのような言葉を実存と幻想に存在する物に声を掛ける事が出来るのでしょうか?  ここには、多分程度の差はあれ、様々な対立する物が描かれていて、それらは大体二項対立的に実存と幻想(長いので以下幻想と略)に分ける事ができます。  例えば「生」と「死」、「この世」と「あの世(向こう側の世界)」、「キュプロス(巨人)」と「人間」、一人(個別的な死)と数十万の人間(数で処理される死)、そこから一人の女性と七人の自警団という数で処理され始めそうな数の人間達(七人の小人のようなね)、だとか、もしくは大災害とノアの洪水のイメージ、河川や雨のイメージと三途の川のイメージなどなど、あげたら切りがありません。    つまりここに描かれている「この世の終わり」というのは、それらの境目がなくなる時、だと思いました。僕らを生み育て上げた「水」という存在、によって分たれていた筈の「生」と「死」、というのものが空、あるいは僕らが生きている宇宙の外側に回帰していくということや、それは雨合羽がいらなくなるのと同時に、僕らは生きる事が出来なくなるという事、つまり生と死が接近してその境目が消失してしまうという事です。それが意味するのは何かというと、多分右肩さんがこういう事を前に言っていたと思うんですよ。「僕らが何か物を書く事というのは、突き詰めていくと生と死という問題に行き着く」みたいな事です。つまり、その大事な事が言葉から消え去ってしまうということ、最大のモチーフが無くなってしまうという事、実在と幻想の境目が消えてしまうということ、その時僕らの認識を司る「言葉」というものは何を描きうるのか、もしくはどのような意味(皮肉)を為し得るのかい? という意地悪な問いが、だから最後に置かれているのかなぁと思いました。  この作品は色々な物毎の置き方の順番が非常に凝っている作品だと思います。だから、「僕」がその時その時に思い描く感情というのか思考というのか、或いは認識というのか、そういうものにモロに出ているし、面白いぐらいに多分コロコロ変わっていくんだなと思います。死んだ高校生の友達が出てくるまで「僕」はこの自体、この世が終わろうとしているこの自体を痛快だと思っている訳ですが、その言葉が今まで守ってきた認識という籠から出された途端混濁したリアルとファンタジーに奔走されていく訳ですからね。  最初に出てくる神話的な終焉のイメージ…ここではキュプロスが町を歩き、ノアの大洪水が起きようとしているような大雨の降っているイメージがある訳です。しかし、そんな神話を信じていない僕らにとっては、巨人なんてフィクションに過ぎないしノアの洪水も、単なる大昔にあった一つの寓話的な大災害の一つでしかありません。僕は今「Fate」っていうゲームをやっているんですけど、その中では神話的存在英雄達は一つのキャラクターとなってバレンタインチョコとか人間の僕らに上げてたりする訳ですよ。まさに「メギド・クリニック」に茶化される状態でありそのような存在であって、例えば巨人みたいな無骨な存在程、ギャップを持たせる為に「実は律儀な存在」みたいに描かれてしまう訳です。   >どうせ幻想の存在なのに律儀だ。その律儀さはどうやら僕に由来する。僕のものである。    神話というのは、おそらく僕らが如何にしてこの世に創造されたのか、という意味合いがここでは大きいのかなという事で、基本的には「創世神話」風な意味として「神話」という語を使っていきたいと思います。さて、今の僕らがどれだけ神話を信じているのだろうかというと、まぁ信じてないと思うんですよ。端的に言ってしまえば人は猿が進化して人になった訳ですよね、神様が作った存在ではないわけです。さらに言ってしまえば「神話」とは言葉であり、つまり神話を信じる人たちは言葉、もう少し突っ込むと人間の持つ想像する力によって生み出された存在であるという事でもあるわけですよね。その想像した物語によって人間が人間を統治しようとした、政治的に人間が人間を利用する為に神話というのは作られたということ。ですよね。   >言葉から始まる文明が、局地的に揺らいでいる。    つまり、言葉から作り出された存在がその言葉という物の力を信じなくなってくる状態=神話の否定(天皇の否定とかいうと怒られそうですが)、世界の始まりの否定であるとしたら、それはこの世の終わりにつながるのかなぁと思います。そこにつながってくるのが色々な伏線を孕んだ「ちぎれた電線」という比喩なんだと思います。 >意味を共有する構造体としての人間が、一時的に解体しかかっているのだ。痛快である。群体の離散が始まるのか。 瞬間、空の端から端までが、ばりばり引き裂かれた。この痛快という概念も瞬時に破け散り、僕は感情を失う。空の長い裂け目を見上げている。裂け目の向こうは僕には認識不可能な領域だった。  という訳で「僕」は言葉の持つ幻想の力みたいな、究極的な事を考えると所詮はフィクションなんだと気がついてしまったので、痛快に思ってしまう訳です。群体の離散とは、言葉の持つ重篤なまでに綿密なネットワークに秘匿されてきた、意味という物の持つ無意味さの露出です。「言葉にならない感情」なんて物すら、多分言葉があるからそう表現する事が可能だったわけで、言葉がなくなったら「感情」と呼べる定義すらなくなってしまうんだろうとか。つまりそれほどに僕らは言葉によって色々な事を侵食されフィルターを掛けられている。ので、言葉を剥がされるともう認識不可能な領域が目の前に広がるしかない訳です。言葉は認識そのものですからね。その認識が壊れてしまったら答えようがない。「ちぎれた電線」を直すのは大変な話です。 >「向こう側」とは何か?どんな場所なのか?そういうものがないことはない、と。そう答えるしかない。  >裂け目へ向かって河が流れる。天の裂け目へ向けて膨大な量の水が巻き上げられていくのだ。立ち上がった河の、そのねじくれた柱にキュクロプスたちがしがみつき、よじ登っていく。これも幻想だ。この世界は幻想だ、と僕は叫んでいるが、その僕も幻想なので、叫びには当然感情はなく、叫ぶ声は意味をなさない。幻聴でしかない。  >死んだ高校時代の友だちが三メートル先を浮遊している。皺の一本一本までよく見えるにもかかわらず、顔に表情がない。死んでいるからだ。     面白いのが、ここで明確が「死」が急に浮上してくるという事でしょうか。それまで大分フィクションのような終末が描かれていたと思います。冷静に見てみると、誰も何も殺してないんですよね。「メギド」はハルメギドが起こる場所なのに、人を助ける場所である所のクリニック病院であるし、一つ目の巨人はゴジラのように町を焼かないし踏まないんです。ノアの洪水みたいに町を水が流れていくかと思ったら逆巻きに戻っていく訳で、しかもそれは登る事が出来るという。  その幻想に明確な「死」が混ざり込んでくる事によって、場面にリアルが浮上してくるという事。そこがこの作品の面白い所です。  言葉の枠組みが壊れてしまった世界では想像する術を持ちません。もしくは目の前で起きている事を想像であると表現する術を持たないという事でしょうか。フィクションもノンフィクションもなくなってしまったこの世界に、已に幻想の存在となってしまった高校生の友達が現れる。事によってなぜかこの幻想そのものがよりリアルじみてきてしまうという逆転現象、が発生しているという事。    つまりこの世界に描かれていたフィクションじみた世界が、もう已にこの世に登場する為にはフィクションにならざるを得ない存在、身近な死者の登場によって、「死の向こう側の世界」がリアルに接近する訳です。説明が下手くそで申し訳ないです。 >七人の自警団は、みな半天の上からフード付きの雨合羽を着込み、長靴を履いている。一人のフードが風でめくれると、長い髪の毛がこぼれてきて、びしゅっと後方に靡いた。十数万本の漆黒の理路。彼女は直立する河に向かって叫んだ。 「何なの?世界の終わり?」  ここがすごいですよね。つまり、僕というのはこの状況を夢の中みたいなだから痛快だと他人事のように思っていたと思うんですよね。それが死んだ高校生の友達と、七人と数として処理されていた一人の自警団の子がフードを脱いだ瞬間の、その髪の毛のもつ「十数万本の漆黒の理路」に目を惹かれてしまうわけだ。つまり「電線」というのは僕らの今のネットを通じた関係と例えば捉えるとそれらはまるで言葉のようにフィクションな繋がりなんですよね。こうした僕らの関係というのは言葉によって成り立っている訳です。  それが「髪の毛」という一つのネットワークによって実在的に語られるという事。でしょうか。この髪の毛というのは僕らの関係が生み出す一つの美しさであり、言葉であり、関係そのものであるという事だと思います。つまり幻想的だとかなんとか思っていて電線的関係が髪の毛=神の毛によって大切な実在に回帰していくという事。 しかも世界の終わりに。言葉や幻想とリアルの境目がなくなってしまいそうな今になって。でしょうかね。 >「世界は終らない。このあたりで数十万の人間が亡くなるだけだ。」  最後の幻想的な存在がそしてこう口走る。こう言われた時に、僕が思い出すのは東日本大震災の時かなぁ…人の死が数で消化されてしまうんですよね。一人一人の死というものを他の人がどこまで弔う事ができるのかというと無理なんですよね。そこまで実在した物を実在したままに抱え込む事は出来ない。から幻想的に数で処理せざるを得ないという事です。多分、原発とかもそうですよね。  つまり実際にあった莫大な死、災害の結末という物は数という形で処理する事によってリアリティを薄めさせる事ができるという事です。これほどまでに残酷なまでにリアルを体現している筈の「数字」という存在が逆にフィクションを際立たせているという事。それが、一と数十万の死の対比です。ここでも高校生の死と大量の死の逆転が起きている訳です。  そのような要素がこの詩の最後では一つに統合されようとしていると僕は思いました。実在と幻想、生と死が一つになるとき、言葉にとって一番重篤な意味の差異がなくなる時、つまり十数万本に分かれた言葉達が一つに束ねられる時、それが終わってしまった時に、さて、言葉は次に何を描き、どのような意味を為すのだろうか。読み手の君、とくに「僕」と同調できるような人たちはどう思う?   という事を僕はこの詩から思いました。色々乱暴に纏めた所も多く、正直まだ気になる所も多いのですが、僕がこうして一つの解釈を提示しようとする態度こそ律儀すぎる、もしくは無理に一つにしようとしている、あるいは答えをだなさいといけない、(ことばに纏めなくてはならない)と言われているような気もします。という事でここら辺でレスは終えようと思います。ありがとうございました。 (この世は終らないそうだ)

2017-02-15

今から掲示板を見つつ適当にコメントを考える放送します。垂れ流しみたいなもんですけどね。毎日二時間くらい出来たらいいかなと思っています。時間があったら聞いてください。録音も需要はないと思いますが公開します。 (B-REVIEW /ON)

2017-02-15

皆さんこんにちは! B-REVIEW始まってから早くも一週間経とうとしていますが、いかがお過ごしでございますでしょうか。 以前から少しずつ告知はしていたのですが、明確にはお伝えしていなかった、ラジオ放送の日程などについて、ここで告知していきたいと思います。 尚、これは個人的な野望なんですけれども、B-REVIEW上で音声によるレス付けが出来るような感じにもしていきたいと思います。 ついでに言うのであれば、詩の朗読、YouTube上にB-REVIEWチャンネルを設けたりなど、色々考えていますが、色々人員も足りていないのでここでそういう事も相談出来ればいいかなと思っています。 さらにいうと、参加者の皆さんでツイキャスなりニコ生なり、音声でレス付けていきたい方がいらしたら、ここにURLを張るなり、宣伝なりして頂いて構いません。色々な方法で色々な発信をしていけるように頑張りましょう。 (B-REVIEW /ON)

2017-02-15

不在

2020-09-12

one

2017-04-01