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ひとのかたちをしたかなしみ
ほばさんの詩を読む時にたまに思う事であるが、人間を描く時に人間を見つめる目線が単純に冷たいなと思うことがある。だが、それは冷たいと思う事が冷淡なという修飾を伴って表される表現とはまた違う景色を見せる時があって、それを僕が読み物から感じてしまうということは、僕自身も人間というものに対してあんまり良い人間ではないのだと思う。仲良くなった人には思い付いたように言ってしまう口癖として、僕は人間が嫌いだという文言があるが、言った後で嫌いなのかどうかというのはまぁ重要ではなく、結論から言ってしまうと一人の方が気が楽なことが多いからそう言って人を遠ざけようとしているだけなのだと気がつくのだけれど、そんな事はどうでもいい。ぼくがただ、言葉の吐き出し方を勘違いして、人を傷つけただけの話だ。 *** あるくとおく、流れ流れて 流されてきた弱さを恨むのか 水にとけた光に問いかけた 転倒した月日の果てしなさ ただ勘違いしていただけだ *** 言葉を出した後で、それは足跡を見た後で気がつくのは、痛みだけを誰かに焼き付けて去った月日の連続ばかりだ。僕は色々なところで言っているけれど、ネット詩以外のコミュニティにながら書いた事がなく、大体数年単位でこのコミュニティにいることに飽きて、大体のことは投げ出してきた。こうしてbreviewに関わり、投稿している事は珍しくもあり、逆に言えば唯一ネット上で足跡を刻むことのできる立場であるとも言える。色々な場所で色々な傷つけ方や迷惑をかけてきただけの存在であり、それでも尚この場所を歩いてこうして書いている存在が痛々しくなくてなんなのだろうと書きながら笑ってしまう。今更こうして書いたものを誰が読むのだろう、ましては買うなどと。そう言った事を教えてくれて、こうして書いている肺の座標は常にここにあり、そしてほばさんの、詩を読む自分の足跡にある。 *** 月日は数えるだけしかなく 切り売りして歩くお前など 誰が買うというのか、痛みだけだ 残されたのは痛みだけだ、痛みは 確かな明かりではないか、痛みは 手が、足が、舌が、背中が、 ある、と知らせてくれたのだ 倒れこみ水は冷たいと知る 息を吸えば痛む肺の座標で 転がり続けて仰ぎみた、風にうごめき はりつめた空を割いて 花が、わっ、と、咲いて、いた もう、歩く、こともない 地に根が満ちるような痛覚は ひとのかたちをしていた *** 人の形をした何かであることというのは、例えば花が花である事を自覚する前に散り去ってしまうように、自覚した瞬間に生まれ出る痛みの手遅れの延長線上にある、さらなる痛みの足跡にあって、それに気がついて歩く事をやめてからよくわかる事もある。それを後悔と呼ぶのか、感情のよりそわない逡巡の中に廻る虹彩の夢なのかはわからない。ひとのかたちを自覚した全ては、どのような形で痛みを自覚して人になったのだろう。ひとはいつからひとであることをしるのだろうという事を考える時に、痛みが全てであり引き金であるとしったならば、この詩に染み渡る痛覚の音色をいることができるだろう。 つまり、悲しいのである。 とかなんとか思いました。 おすすめです。
ひとのかたちをしたかなしみ ポイントセクション
作品データ
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作成日時 2020-12-15
コメント日時 2020-12-15