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【百物語】視る
私は、他人から聞いた変な話は どんなに まことしやかであっても、信じないことにしている。けれど、もし自分自身が見てしまったことは、どんなに変なことでも 信じるしかない。 あれは、中学生の時だった。お婆ちゃんと二人で 布団を並べて寝ていると、私は自分の体を抜け出して 自分の体を眺めていた。 臨死体験としては、よく聞く話だ。棺から抜け出し周囲の様子を見るというよく聞く話。あんな感じだ。ただ、よく聞く話と違うのは 私の横に寝ているお婆ちゃんも 寝ているお婆ちゃんと浮いているお婆ちゃんとの二人がが、そこに居たって点だ。 六畳の部屋に 二人しかいないというべきか、それとも四人とカウントすべきなのかよく分からない状況だった。浮いている私は、浮いているお婆ちゃんに 話かけた。「変だよね。浮いているよね。朝がきたら元に戻るんかね。これが本当のことが覚えておくために、部屋の様子を覚えておこうね。」ということで 窓が十センチくらい空いていることなんかを話した。 目が覚めると、どうやら 夜中の間に目を開けたまま寝ていたらしく、目がひどく乾燥していた。ビカビカに乾いていて筋肉もバカになるほど開き切った瞼は まばたきすらままならない。 しばらく目を開閉させて やっとお婆ちゃんを見て、「覚えている?」と聞く。すると、お婆ちゃんは 窓のほうを見ている。私は、「浮いているときに窓の開け具合の確認の話したよね。」そして、もう一度「覚えている?」と聞いてみた。 お婆ちゃんは ながいこと黙っていたが、青ざめた顔で こう言った。 「死んだのかと……、もう死んでいるのかと……」 その顔をみて、私の経験は ほんとうだったことを悟った。お婆ちゃんも確実に 自分が横たわっている姿を、見たのだ。 多くの人の臨死体験に 死んだ自分の姿を見ている自分が居るという経験をしておられる。つまり、それは、自分というものは 自分を分けるなんて書くけれど、自分が二つに分かれることは ある。て、ことだ。自分だと感じている存在は だれしも 一人ではない。という事だ。 きっと、だれしも、ここに居る一体の自分と、それを客観視できる自分がいるのだ。人は一人なんかじゃあない。こんな体験を聞かされた人の中には、【霊】は居るといういう話を聞かされたと考える人もいるかもしれない。それは、賛成しない。 私以外の人が、うっかり自分が二つに分かれてしまったとき、その人は「もう死んでしまったのか」と 慌てるに違いないからだ。それは、心臓に悪い。 自分とは、ふたつに分かれて 鏡を使わずに自分を見ることが たまに、ある。そういうものだ。と、理解しておこう。 はて、もし、宙に浮いていた私が あのまま宙に居たままだったらどうなっていただろう。あのとき確か、宙に浮いていた私と寝ていた私の肉体は臍の緒のような紐状のもので繋がっていたのだが、もし むっくりと私の意志とは関係なしに私の肉体が動きはじめたら、宙に浮いていた私は どうしたろうか?凧のように、肉体について行くしかなかったんだろうか?
【百物語】視る ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1448.8
お気に入り数: 1
投票数 : 1
ポイント数 : 2
作成日時 2021-08-10
コメント日時 2021-09-30
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 2 | 2 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合ポイント | 2 | 2 |
平均値 | 中央値 | |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 2 | 2 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合 | 2 | 2 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
個人的な話になってしまいますが、私はこの詩をあるところで朗読させていただきました。 るるさんはまだお子さんで不思議な気持ち、おばあさまにとっては、さぞかし、恐怖だったのだろうと思いました。
1こんばんは。今回は企画に参加くださり、ありがとうございました。諸々遅れましたが、コメントを寄せて書かせていただきます。 この作品の面白い所は、まず幽体離脱のシーンを一人の人間の視点だけではなく、おばあちゃんの視点からも描いている事です。言ってしまえば、語りて一人が幽体離脱して戻ったという体験談だけだとしたら、それは、そういう事もあるよねと真実味がない訳です。夢の中であった出来事として、自信はないけれども、他の人がその話を聞いてそう思ったのであれば、自分の体験は夢物語だったのだろうと思う事ができる。 しかし、この作品はおばあちゃんも一緒に同じタイミングで幽体離脱している事、語りてよりも、おばあちゃんの方がその状態を感じて死を感じていて、その体験をリアルに感じているように描かれています。そこがとても面白いんですね。 出来事の評価をするときに個々人のなかで下した判断というのはそれが絶対的な評価に繋がるのかというのは、より強い確信や論理的に説明出来る事であればできるとおもうんですけど、不思議な体験が本当に不思議だった。それが夢ではなかったって思う為には他者の評価がないとわからないですよね。その出来事を証明してくれる存在が。逆に言うと、他の人がいる事によってこのエピソードは語りての中に色濃く残ってしまって、その意味を考えざるをえなくなってしまった。ちょっとあった怖い話で片づける事ができなくなってしまっているんですね。そこが後半部分の分析に繋がっている所が非常に面白いと思いました。 また後半の分析の部分もとても面白いです。 >きっと、だれしも、ここに居る一体の自分と、それを客観視できる自分がいるのだ。人は一人なんかじゃあない。こんな体験を聞かされた人の中には、【霊】は居るといういう話を聞かされたと考える人もいるかもしれない。それは、賛成しない。 >私以外の人が、うっかり自分が二つに分かれてしまったとき、その人は「もう死んでしまったのか」と 慌てるに違いないからだ。それは、心臓に悪い。 >自分とは、ふたつに分かれて 鏡を使わずに自分を見ることが たまに、ある。そういうものだ。と、理解しておこう。 引用箇所が示す通り、この体験から幽体離脱をしてしまった自分を霊と感じてしまったおばあちゃんの感想に対してつっこみを入れると同時にその感想に対して安易に霊という既存の概念で片づけてしまう事に対して警鐘を鳴らしています。幽体離脱した事で安易に死的な概念と結びつけて考えてしまうとびっくりして、心臓に悪いーーつまり本当に死んでしまうかもしれないからです。ここら辺倒錯的に映ってしまいそうですが、そうではないというのがいいですね。 この作品は自分自信のあり方を精神と肉体の二元論的に簡単に片づけない事、単純にわかれただけであって、それは鏡を見る時の感想に近い感覚だから安心してほしいといっていますね。 鏡の向こう側の世界にとり残されたという学校の怪談が会った事を思い出します。それは怪談の踊り場においてある鏡の向こう側に自分が残されてしまうが、残った本体の方は何事もなく、生きていて、自分が鏡から遠ざかって行って、自分は鏡の中に取り込されたままになってしまうというお話だったと思います。 鏡を見る事によって自分は自分を見る事ができますが、それに対して恐怖を感じる事があるかもしれないんですが、その感覚を誇張したのが、幽体離脱から見えてくる私の感覚だったのではないか、という考察は面白いですね。先ほど提示した学校の怪談は、このはなしと合致する感覚があって面白いなと思うんですが、自分から離れた自分が、遠ざかって行ってしまう感覚を死と誤解してしまいガチだけれども、実はそうではないんだよという所で、幽体離脱の新しい見方があるなと思いました。 でもその感覚について明確な答えが出ていない所に正に恐怖があるなとおも思います。それは死の感覚ではない、じゃぁどういう感覚なんだろうというのは想像するしかないです。ないのですが、そうなってしまったらこうして作品を投稿される事はなかった訳です。切り離した本体は切り離した事を多分忘れてしまう。それはどこかで喪失感を伴って再起される事はあるかもしれないですが、糸の切れた凧が遠く海に落ちてもそれを拾いに行く人間は凧のことが死ぬほど大事ではない限り多分拾いに行きません。 一度手放した風船が遠くの空にいってしまって、そのもう戻ってこない喪失感に涙できるのは、それが目の前で失われていくからです。幽体離脱して残った本体は抜けていった本体を知覚することが出来ない限り、その喪失には気が付きません。 凧は斬り離れたら何を離した方に思うのか。それは離されないと分からない訳ですが、離された方の声は離れてしまった以上届く事ないという矛盾を抱えているので、多分語りてはその恐怖をこれからある意味死ぬまで抱えていくのだろうなと思います。よかったです。
1私は、他人から聞いた変な話は どんなに まことしやかであっても、信じないことにしている。けれど、もし自分自身が見てしまったことは、どんなに変なことでも 信じるしかない。 ↑これは、いらなかったかもしれません。ご指摘ありがとうございます。実は、この話。自分でも信じてよいものかどうか 迷うのですが、本当の話しかしていないと 感じていて、自分でも 謎であることは、前置きに書かずにいられなかったです。
0あら 朗読をしてくださったのですか?それは お聞きしたかったです。読んでくださってありがとうございます。 お婆ちゃんは このあと 二十年は生きました。自分でも何を書いているか、よく分からないのですが、 へんな話だと 思います。変な話ですよね。
1百均さん。お返事がたいへん遅くなり失礼しています。 なんども百均さんのコメントを読み そのたびに 嬉しい気持ちでいっぱいになります。 この話は、口述で さまざまな人に 喋ってきた話なのです。浮遊者が二人いると書いたのは、私の実力でもなんでもなく、私からしたら ただの報告として そうだったんですよ。ということではあるのですが、私のドキドキのような感情が 百均さんに伝わったことが よく分かりました。とても嬉しいです。 喋っているうちに、浮遊を体験した当事者でない人は、この話を聞いたら霊と捉えることを知り、表現上では そこを取り入れたりしました。お婆ちゃんは、自身が死んだかとほんとうに思ったらしく、ほんとうに怖かったようです。案外と、このような理由で死を迎えた方は いらっしゃるのではないかと 個人的には思っています。 できるかぎりの言葉をつくして この詩を評してくださって、身にあまる喜びです。お婆ちゃんも喜んでいると思います。身を超越して、お礼を申し上げます。ありがとうございました。これからも 百均さんのご活躍を楽しみにしています。
0臨死体験ですか。自分が見たものでも信じない方がいいものがあるのかもしれませんが、そうも言って居られないですね。分裂状態。死んで居る自分とそれを見ている自分。鏡を使わずに。鏡を使わずに見る自分とは。御婆ちゃんも分裂している。御婆ちゃんも見ている、自分のしたいと言うか臨死体験の姿を。「霊」は居ると言う確信(賛成できない考え方かもしれませんが)。宙に浮いていた私。視る、見るではなくて。視覚の凄み暗に暗示しているのかもしれません。
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