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しばらく麻痺
器用に人間味 私の礼儀 汚点に連なる音符は感傷的にもドキュメンタリー 食べていく汚点に募る罪 そんな夜は抱かれれば連なる 確信犯 そんな時にページは捲られ上書きされる 無制限のワルツを踊るよう 無機質に崩れる人間味 追いついた自作自演の世にサヨナラした 実況は望まない本来の礼儀
しばらく麻痺 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 882.8
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2017-08-20
コメント日時 2017-08-30
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
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構成 | 0 | 0 |
総合ポイント | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
申し訳ありません。 連投してしまいました。 以後、気をつけます。
0なんとなく一読して、一行一行ごとの繋がりみたいな所がうまく見えてこないという実感が先立ってくる感じでしょうか。 >汚点に連なる音符は感傷的にもドキュメンタリー ここら辺も、難しいですね。 多分個人的な解説を入れていくならば、ドキュメンタリーな性質を持つ物っていうのは、汚点が音階を奏でていくような物であるという所、また更にそういった物は感傷的な物がおおいし、感傷は多くの場合他人から見た場合はつまらない物がおおいから、私の礼儀として指し示す時に器用さを演出した私を表に出すことによって、面白い人間である事を皆の前にさらけ出して、それをもって無機質な人間を演出する。それによってワルツを踊るみたいな感じかなぁ。 でも、そういった演出された人間の実況そのものっていうのは、やっぱり自作自演であるから、そういう虚構そのものに築いてしまうと、やっぱ茶番だしやらせだからつまらんなくなってしまう訳ですね。そういう意味で、サヨナラして、自然の自分であろう。ドキュメンタリーに生きていこうみたいな感じなのかなぁと思いました。 内容を僕なりに追っていくとこんな感じなのですが、単純に作りの面で見ていくと結構投げやりな部分もおおいのかなぁという感想が最初に出てきます。 僕が上で書いた内容に、多分不倫みたいな物のイメージ重ねていくとより色々明確に見えてくるのかなぁと思うんですが、少し感覚的な筆致の具合が高すぎる印象です。ある程度読み手の方で内容を想定して埋め込んでいく必要が生まれる読書だとも思うので、そこら辺の手間がちょっとかかる作品かなぁと思います。一行一行を多分読んでいくと、面白い表現だとは思うんですが、そこに至るまでのストロークがちょっと長く感じるかなっていう感じですかね。
0hyakkinnさん、コメント下さりありがとうございます。 この詩は一行詩を連行した作品です。 最近、書き方を学んだばかりで試行錯誤中ですが、コメントをいただく度にそれなりに成っていくと考えています。 この手の詩は長くならない方がいいと思っています。 hyakkinnさんのコメント通りで自分は感覚が先行する詩を書いています。 それを感じると言葉を軽んじる詩にならないように自分の言葉に責任より記憶する事で学び気づきを大切にしています。
0麻痺、礼儀、ドキュメンタリー、罪、人間味・・・い、の音で終わる行が連なって生み出す流れを感じます。 一行詩の連作、とのことですが・・・確かに、全体の流れはあるのに、その行間が広すぎて、ついていくのが大変、という感覚はありました。 人間味、食べていく汚点・・・生きて行くために食べる、という行為が繰り返されるわけですが、実際に「食べる」ことと、人を喰って生きて行く、というような、比喩的な意味での「食べる」こと、両方を含めて、そのことに汚点を感じてしまう、そんな潔癖さ(青春期特有のもの?)を感じました。 感覚を先行させることはとても重要だと思います。 思うけれども・・・せっかく、無制限のワルツ、〈上書きされる〉生、を見出しつつあるのだから、そこを攻めていってほしいなあ、という読後感を持ちました。 〈実況は望まない本来の礼儀〉が、冒頭の〈器用に人間味 私の礼儀〉に還っていくのであれば・・・これは、花緒さんが呼ぶところの「ループ詩」の一種なのかな、と思いつつ。 しばらく麻痺、した感覚の中から、これを言いたかったんだ!というものが表に強く出て来るといいなあ、と思いました。
0人間っぽく振る舞うこと、それがこの私の礼儀であると同時に汚点であるという。そうした汚点が文字通り点々とノートに連なっていくように、記録されつつも、抱かれてしまえば、確信犯、言わばそれも振る舞いでしかなく、表面上と内心は違うのだろうか。そんな時、ふいに汚点が記録されたノートのページが捲られ、新たな記録が生まれてしまう。終わりのないワルツを踊り始め、人間らしい振る舞いが崩れる。そのことによって、その振る舞い=自作自演に別れを告げることができる。 ドキュメンタリー、実況という状況が成り立つのは、自らを自らで俯瞰=客観視する必要がある。つまり、自らの観察者が自らの外部にいる必要があって、その観察者が映像を撮ったり、語ることができるのである。 この作品では、抱かれて確信犯となったことがきっかけとなり、上書きされたページが生まれ、自作自演に別れを告げる。それ以前と以後の違いと言えば、人間らしい振る舞いを演じていたかどうかであり、また、そうしていたことによって、ドキュメンタリーこそ台本があるものとして、演じていたのではないかと。そうした、演じるような作品に生きて、観察されるものとして対象化されるのではなく、崩れた人間味=本能のままに生きて、観察するものとして生きることを選択した、それが本来の礼儀だということだととらえました。
0まりもさん、コメント下さりありがとうございました。 この詩は生の実感を得られる為に何が自然的な行いかを説いた詩のように思いました。 しばらく麻痺は今の現実に疑問を持って自分らしく生きていく感じが表現できればと思いました。 まだまだ、不足がちですが書いて良かったと思っています。
0なかたつさん、コメント下さりありがとうございました。 僕よりも詳細に読んで下さり感謝します。 この詩はいつ上書きされるかは本人の第三者的意識で自由に捲られるように感じました。 感覚が先行しますと、コメント下さって自分の詩がまた蘇生されるようで、コメントへの返事が微妙にズレている事が出てきますので申し訳なく思います。 少しずつ、捕捉する行も考えていきたいと思います。
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