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あだらいっぱい
水の声が幾つも聴こえたたあ もうもう 乳牛に 幸せを楽しもうと言う 俺は逡巡を凌辱され とうたう たゆたうとうと 尊いというと キッチンでカリを舐め つまりは あんまりだが 青酸カリ ではない カリを舐められ 脊椎に微量の電気を感じる あんまりだな
あだらいっぱい ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 859.5
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2018-02-01
コメント日時 2018-02-26
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
投稿有難う御座います。 結語の『あんまりだな』に牛さんの残念な気持ちが入り込んでますね。 短文コメントで、失礼します。
0知っている単語を並べただけの感想ありがとうございました。結語の短文コメント失礼しますに残念な三浦さんが入り込んでいますね。三浦さんの批評性のない感想はわりと狙い通りなので、気になさらず。察するに気にするでもなくコメントされたように感じますが。 短文コメントに対して長文コメント失礼します。
0花緒さん。初めまして。自分のコメントがヒントになってしまった感がありますが、突き抜けたものを無料でお見せすることはないという私的な事情を合わせましても、わりと花緒さんの読みは合っています。ただ、わりと合っているということの裏を返せば、わりと間違えているということになりますが、気持ちのよい誤読に満ちみてるので、最小限に留めますし、さらに気持ちのよい誤読となれば、あだらの受け取り方や蛇足に思える最後の一文があることで批評や感想が引っ張られることなどがあれば、もう少し幸福な投稿者でいられたかもしれません。ありがとうございました。
0うーん、取り敢えずものすごく読みにくいですね。それが別に悪い訳ではなく、ひたすらに酔います。どんどん梯子外されていくので、なんとも困る作品です。ストレートな感想を言ってしまえば僕は、なるべく作品を見たり聴いたりしたらイキたい訳ですけれども、故にイケない作品は中々苦手ですね。でもまぁ、そうはいいつつも、この作品とてもよみたくなるように作られているというか、まぁものすごく色々突っ込んで考えたくなるような作りをしているというか、まぁ僕時間や体力があったら徹底的に考えたくなるようなセクシーさがありますね。最初に読みにくいとかなんとかいいましたが、気になる作品である事は確かで、初見で気になったのは >水の声が幾つも聴こえたたあ >尊いというと この二行ですかね。後は、コメント読んじゃった後なので諸々後出しで申し訳ないのですが、タイトルと最後の末尾の部分とか無性に苛々します。
0はじめまして。題名の「あだらいっぱい」とは、どのような意味ですか?方言でしょうか、ご教示お願いします。
0百均さんへ この欄は批評じゃなくて、コメント欄なのですね。『祖母包茎』への私の書き込みが、それほど気に障りましたか?あなたのイク、イケないには本当に興味がないので、ちゃんと批評してください。「無性に苛々するします」なんてガッカリしました。 ウエキさんへ はじめまして。 あなたはどうお考えですか?「方言でしょうか」があなたがお考えの部分ですか?ご教示お願いします。
0爺無能別邸さんへ 「あたら」という言葉がありますが、それとは意味が違うのかなと思ったんですね。 それで「あだら」が「いっぱい(ある状態)」なのか、「あだら」が「いっぱい」を強調する何か方言なのかなと考えた訳です。「(あんなにも)いっぱい」の様な。まったくの見当違いかもしれませんが、わからないことは作者に尋ねるのが一番だと思いまして……。
0爺無能別邸さん 正直この作品を真面目に読んで、どうにかなるのかと割と思ったので、ちゃんと読まなかった面はあります。ならばコメントするなよというのはもっともだと思いますので、取りあえずは時間かけて読める所まで読んだので宜しくお願いします。失敗したら笑ってください。 >キッチンでカリを舐め >つまりは あんまりだが >青酸カリ ではない カリを舐められ >脊椎に微量の電気を感じる >あんまりだな 言い訳から始まってしまい、大変申し訳ないのですが、ここにかけた感じでイクイカないみたいな所を掛けて言いました。例えや物言いが不的確であったのであれば申し訳なく思います。でも最後まで何回か読んだ上で、ゴチャゴチャ書くよりは伝わるだろうと思ったのも事実です。細かく書きますと用は、青酸カリという死のイメージと、一瞬の快楽のイメージがごちゃ混ぜになっている。そういうのを語感のイメージの重なりで処理している所に、逝きそうで逝けないイメージあるという風にも言えるのかなぁと思いました。そういう作品は僕、とても読むのが苦手であると同時に、文章に苛立ちを覚えると同時に惹かれてしまいます。生と死の境界線で綺麗に踊っているように思えるからです。と言うわけで、この作品僕は好きなのですが、同時に嫌いです。それが無性に苛々するという、僕なりの愛情表現です。気持ち悪いと思われたら申し訳なく思います。それから、誤字誤謬脱字その他諸々沢山やらかしてしまい大変申し訳ない。というのと、祖母包茎のコメントは後々ゆっくり返す予定ですが、素敵なコメントありがとうございましたとだけ言っておきます。 それではなるべく精読したいと思いますので、以下ちゃんと僕なりに出来る事ではありますが、読ませていただきます。まずタイトルですが、 あだらいっぱいは、多分「あだらごと」で「よくないこと」と出てくる事から、「よくない事で一杯」という風にここでは解釈します。 https://www.weblio.jp/content/%E3%81%82%E3%81%A0%E3%82%89%E3%81%94%E3%81%A9 >水の声が幾つも聴こえたたあ >もうもう 乳牛に >幸せを楽しもうと言う >俺は逡巡を凌辱され >とうたう >たゆたうとうと >尊いというと 話を戻しますが、「水の声が幾つもきこえたたあ」という所が、難しい。水の声ってなんだ、という突っ込みを入れる事ができますね。檻に入れられた乳牛が同時に水を飲むときに反響する音を指して水の音なのか、なんなのか難しいですが。取りあえず、この一行魅力的ですね。たたあについても多分水の声が反響しているのでそうなっているし、次の「もうもう」も「もう」の繰り返しです。「幸せを楽しもうと言う」という風に「楽しもう」に掛かってきます。牛のつまり、水の声というのは、僕なりの見立てになりますが、人と牛の声が重なっている事を示すのかなぁと思います。だから牛の声ではダメだし、人の声でもダメなのかなと思います。逡巡を陵辱されると言う形で、この場合の逡巡は何を指していて、それをどのような形で何か陵辱するのかというのはここでは明かされませんが、多分「尊い」以降の話に関わってくる話だと思います。そのための伏線がここで張られています。次の、「とうたう」からは、良くもまぁ書いたなぁという感じで、ここはもうコメント出来ないですね。とうたうは「と、うたう」という風に分けて読むべきなのか、別に分けなくてもいいのか分かりません。「たゆたう」「うとうと」のミックス、それからそれらの音を重ねたような「尊い(とうとい)」という事に繋がっていく。ここは一種のトランス状態みたいなものかなぁと適当に書いてしまいますが、ここら辺もおそらく水の声が幾つもという所に掛かっていると思いました。 語り手の逡巡は陵辱される訳ですが、陵辱された逡巡の痕跡と言えばいいのか、なんなのか分かりませんが、そこからなぜ「尊い」という結びが導き出されたのか、ここが僕の中では答えが出ませんでした。勘で言ってしまっていいのであれば後ろの文章を参照する形で、尊厳死に繋がっていくのかなぁとちょっとだけ思います。ただ、尊いってそれだけのイメージで処理してしまっていいのか? というのはちょっとまだ未解決ですね。 >キッチンでカリを舐め >つまりは あんまりだが >青酸カリ ではない カリを舐められ >脊椎に微量の電気を感じる >あんまりだな まずは前提として、「つまりは あんまりだが」何があんまりなのか、あんまりっていうのは程度が甚だしい様みたいな感じで捉えます。 ここには二つのカリが登場します。基本的には男性器のある部分を指すカリと、青酸カリだと思います。話の舞台として、キッチンが出てくるのがそれまでの話、乳牛や水のイメージを薄ら投影しているようにも思えます。カリの話を男性器の意味合いで取るにしても、キッチンはエッチするのに良いところなのかは分かりませんが、シチュエーションとしてはいいのですかね? まぁ、取りあえず中々良い場所がセレクトされていると思います。 その二つの重なり合う音の内、青酸カリは否定され、カリを舐められるという話になる。ポイントは、舐めると舐められる所で、青酸カリは舐めるもの、カリは舐められるものという事です。最初の「あんまりだが」というのは、おそらく最初の「カリを舐め」に充てられたニュアンスから想像するに、青酸カリで自殺しようとした人に向けてのあんまり、最後の「あんまりだな」というのは、青酸カリを否定された上で、残った雁首のイメージで男性器を通じて快楽を得てしまっている語り手でしょうかね。それに対する心配に向けたあんまりだなみたいな感情でしょうか。少しがっかりしてるようなニュアンスを感じました。 ただ、青酸カリではないカリという書き方怖いですね。雁首以外の物で何かあるのかな、あったらごめんなさい。 それでこの詩は何がしたいんだろうというのは、結局の所、最初に書いた感想になります、「いきたいけどいけない」という音の重なりから分岐する逝くとイクのイメージの逡巡からイクの方に逸れてしまう感じでしょうか。よくない事というのは、死ぬ事でもあるし、快楽に溺れる事でもあるかもしれません。「あんまりだな」とか、「あだらいっぱい」とかの物言いは、多分語り手の逡巡に対する突っ込みみたいな役割を持っているのかなと思います。 方言みたいなその人のルーツにあると思われるような言葉というのは、怒ったり何かを諫める時に、有効だという話を文法学者の先生から聞いたことがあります。ここら辺細かい論理を提示することが出来なく、大変申し訳ありません。 それから、牛のイメージが最初に出て来たのは、花緒さんの読みと被る部分もあると思いますが、乳牛の置かれた立場と、自分の中にある立場には共通項があるのかぁと思います。乳牛は人に飼われその生を搾り取られますが、その結果として種の繁栄は保たれているし、死ぬまでではあるけれどもその生は乳を出しさえすれば保たれるという事。 それらが水の声という、橋を通って語り手の耳の中に入ってきた時に、自分の中に根付いている生と死の逡巡が馬鹿らしくなってしまい今を楽しく行きよう、快楽に溺れようみたいな感じにシフトしてしまったのかと思いました。なんですけど、やっぱり気になる部分は幾つかあります。 例えば「よくない事で一杯」という所で、何がよくないんだろう、何が一杯なんだろうという事です。「あだらいっぱい」うーん、つまりこの詩には良くない事が書かれているという風な認識がまず前提としてあると思うんですが、何が良くないんだろう。死ぬ事?快楽を感じる事? トランスしてる所は違法薬物とかで頭が狂っている感じなのでしょうか。社会の枠組みとしての乳牛のあり方というのを志向していくは人間には許されていないが、語り手は乳牛によって水の声を通じて唆かされた、生き方そのものに同化しようとしている事に対して「よくない」と言っているのでしょうか。 >幸せを楽しもうと言う 牛にとっての幸せと人にとっての幸せは混じり合うのでしょうか。牛にとっての幸せってなんだろう。人にとっての幸せってなんだろう。 >尊いというと それからこの「尊いというと」という不気味な一節に繋がっていくのはなぜだろう。幸せと尊い事の違いって何だろう。 >脊椎に微量の電気を感じる 脊椎に電気を感じるという事、ここもどのように解釈すべきか悩みました。単純に雁首舐められて感じてしまった事を電気が脊椎を登っていくようであると書いただけなのか。 幸せと尊いと脊椎に電気を感じる事。この三変化、考えるだけでめまいがしますね。 この詩、考えれば考えるほどドブにはまりそうです。僕にとってはこの詩読むこと自体が本当に時間食われるので勘弁してくれという意味で白旗です。ここは合評欄でもあると思いますので、他の方のコメントも読んでみたいというのもあります。
0こんにちは。私には、他の方の評価を読んでから初めて詩の内容が見えました。 正直なところ私に読み解いていける力が無かったので、この官能的な詩の雰囲気を楽しませていただきました。 乳牛はもしかしたら女性なのではないかと思います。淫猥な体つきの女性とのまぐわい。 水の音は、その行為の場所を想起させるのもありつつ、若しくは音を立てるほどに濡れて、もう既に乱れている状態を見せているのかとも思います。 求めてくる女の欲望と、流されて奔る男の快楽が重なり合って混じり合おうとしている様を感じます。 青酸カリについては、この詩の中盤にある恍惚としているような表現の意味合いを決定づけているようで、 毒物の名があることで、退廃的で背徳的な雰囲気を際立たせてるみたいです。 最後の、男の呟きとも取れる一行が 行為が始まる中で一瞬、何かの拍子に我に返ってるようなところがリアルなようで好きです。
0ごめんなさい、水の音じゃなくて水の声でした。訂正します。 なんか爺無能別邸さんの考えているところとはズレている気がする解釈ですが、 上記のような形で楽しませていただきました。
0皆さまへ。 読み解きに重きを置いた感想が多く、少し驚きました(なにせ解釈は人それぞれですからね!笑)。批評を批評たらしめるのは構造の分析だと私は考えるのですが(解釈は人それぞれですけどね!笑)、こういう詩は構造の分析から始めないと、百均さんのコメントのように長くなってしまいます。詩の、詩情、つまり余白部分をすべて読み解くことは、誰のためにもならないと思われます。なにせ「解釈は人それぞれ」で(しかし強者である)作者の一言で批評がひっくり返り、まるで誤読のようになってしまうのですから。皆さまの批評(ほとんど感想や説明ですが)を無駄にしてしまわないためにも、構造の分析を望みますが、この詩自身が構造の分析へと導かないようにしてありましたので、それは仕方がないとしても、読み解きについても思うところがあります。 すべてのテキストは無意識的に性へと結びつくので何とも言えませんが、あまりにセックスな解釈が多い気がしますし、それは死についても同様です。1番論じやすいこの2つの先を端的に読み解くこと、これが批評においては重要です。なので、好みの問題(結果的にイクイカないにまだなってますけれど)や、私はこう思います(これがイクイカない的だとも思いますが。個人的なフェチを批評に入れてしまっている方もいらっしゃるので…)的なものよりも、作品の分析をしていただきたいんですけどね。なんか自分の作品の解説をされているだけのような気がしてなりません。 ちなみに、批評する場なのでしたら「作者に聞いてみる」という選択肢なんてないですよね。いくら手軽に作者とコンタクトがとれる場だからといっても、作者に対して失礼な気がします。
0喧嘩したいのは、あなただと思うのですが。そういうコメントってズルいですよね。笑 私はまだ最初の月ですので、1篇の作品の投稿と批評(そちらもコメントあれば返すつもりですし)で様子見してました。 管理人さんが言うのならば(そう思われるのならば)、早いうちに他を当たりますが。こちらも面倒は避けたいので。わりと皆さまのためを思って書いているところもあったんですけどね。それでは、皆さまお元気で!
0作品の批評ではないが、自分が考えたことは先に書いたことで全部なので 以下の意見を挙げる。 ここでの言い合いを見て、自分の発信してきたものが果たして何だったのか、 自分で分かってないことに気づき、 まず作者の求めている「批評」と、作者が「感想」だと言った、私含む他の数名の出したものが どう違うのかを、つまりは「批評」と「感想」の定義について調べた。 (途中作者の呟いた「批評を批評たらしめるのは作品の構造の分析にこそある」については、 すぐそこで「そういうもの」としてしまうのは早計なのでとりあえずは無視する) 検索したら、とても参考になることが書かれたウェブページが一発で見つかった。 http://nagase-m.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-3203.html こちらで書かれていることは、私の中で定型化されてないもの(習性?特性?)に合致し、 定型化させてくれた。要は、この記事に同意した。ここでの定義を私の定義とする。 批評についての分析をすることは、そもそもここが詩についての評価の場であるから やらない。しかし上記で紹介した所に書かれてあることに則ると、 私達の書いたもののいくつかは「作者が求めていなかった批評」である。結論から言えば。 作者と評者の批評と感想のやりとりは、クイズに対しての解答的な部分に固執して行われるべきものではない。 ・・・それはそれとして、この作品の作者は何者なのでしょうか。 この人の正体、もしくは理念によっては、私はこの人をきっかけに多くを学べる気もします。 でもまあ、まあまあ、同じ詩を書く者同士なんですから。まあまあ。
0<ちなみに、批評する場なのでしたら「作者に聞いてみる」という選択肢なんてないですよね。いくら手軽に作者とコンタクトがとれる場だからといっても、作者に対して失礼な気がします。> これは、僕への意見ですね。 爺無能別邸さんが気を悪くされたのであれば、失礼しました。
0わたしには 他の どの参加者の みなさまとも ちがう作品印象をもっております。明日、本作品の評を書かせていただこうと、おもっておりました。 そして、できれば わたしの作品で 構造評なるものをいただきたいです。 しかし、そもそも 参加者を バカ扱いした 単文レスを つけておられます。 このサイトの発足は、荒れないサイトを 目指して たてられたという 共同認識を 持てるか 持てないかは、大切なのではないでしょうか?
0私はふつうに面白いと思ったので、こんなにもレスが荒れているのに逆に驚いている感じ。ただ、この作品の真価を汲み取ってくれる人はそう多くはなさそう。音韻のとりかたとか、文体的なリズムの良さ、そういったものがほんの数行のうちにぎゅっと凝縮されていて、作者としてはこれだけのレッサーの反応に不服を持つのも無理はないというのが、私なりの雑感です。 「あだら」というのは、たぶん仙台弁の「よくないこと」というのを指すんだろうなあと。それで、ここにはよろしくないことが書かれているわけですよね。青酸カリだの、カリを舐めるだのといったことをやって、それで「電気を感じる」。それだけの詩なんだけど、僕みたいにダラダラと長く書くタイプではないことは確かで、こういう凝集力というか、集約力というか、そういったものは、とても取っつきやすい。その反面、この詩はあんまり明るくない。ちょっと性に走りすぎていて、しかもその性もその辺の男子にありがちな妄想の域を出ないもので、それを毒のメタファーで持ち出してまとめたりするところも、なんつーか、あざとい。そんな見え透いたことをやるなら、もっとはっきりと絶頂の瞬間とか、書けばいいのに、とか思ってしまういじらしさもある。とまあ、色々思うところのある詩でした。
0そうですね。読みというのは、ある種人それぞれだと思うのですが、上に示した読みの中にはなぜ自分がこう思ったのかそこに至る論理は提示しているつもりです。無論その提示した情報そのものには意味がないのかもしれませんが、まぁ、では何が具体的にどうおかしいのか聞いてみたかったですね。というのが本音です。僕の読みは長ったらしくてくそというのはわかりましたが、どういうところがくそなんだろう。三時間程度の読みでもうしわけないのですが、ただ長いだけで棄却されてしまうのは、さすがに僕も怠いといえば怠いですね。 構造の分析は表面的な理解に終わってしまうことが僕には多いし、そういう読みはいろいろなことを見逃してしまうと思っていますので、ここではできないし、やれません。それに僕は、構造的に練られ、あるいは練った上で外されたように見える詩、というのものは基本的に苦手で、前に大きな失敗をやらかしたことがあります。そういう意味において、僕はこの詩の読者ではなかったと思います。(基本的に僕が大学で習った方法論は徹底的に作品のテクストそのものに向き合っていくみたいなスタイルだったのも起因しています。それが今現在における僕の中の読解のスタイルということになります。そこにおいては時に作者の読みすらも凌駕することが往々にしてあります。解釈は異なりますが、その異なる解釈と解釈を論理によって徹底的に詰めていくということをやっている人たちもいるわけです。)ここは合評欄ですし、各人それぞれが自分の中にある読みの方法論で読んでいってほしいと思っています。僕は読めませんでしたが、他の人は読めるかもしれません。詩はいろいろありますから、いろいろな読み方がありますし、いろいろな詩に対するその詩にあった読み方というのはあります。爺無能別邸さんが想定していた欲しい読みについても、まぁできる人がいるかもしれません。 現にkaz.さんの読みを読むと、この詩はあまり肩肘を張らずに、音、文体のリズムを楽しめばいいのだという風に受け取ればいいのだというようにも受け取れます。その部分を見落としていたのは、申し訳なく思います。るるりらさんの読みも純粋に楽しみです。そういう意味で、僕はとりあえず、二つの読みをここで試したわけですが、失敗したということにしておいて、まぁそれに対してくそと言われましたら、申し訳ないとしか言いようがありませんが、良かったらこの掲示板にはない構造に注視した批評など、展開していただければと思います。僕も勉強の途中でありますので、勉強させていただければ幸いです。(キュレーターなどといった役職についてはいますが、残念なことに僕は未熟な身でございます)この掲示板にない読みを提供してくださるのであれば、それはbreviewにとっても大きな価値だと思いますので。とりあえず返信はこれで仕舞にさせていただきます。
0初めまして、お邪魔します。コメントの下書きを作っていたら、色々なコメントが増えていてビックリ。kaz.さんのコメントに被る部分もありますが、勿体無い精神で書き込みます。ごめんなさい、長いです。 以下、自分の実力は一旦忘れて、感想混じりの批評っぽいもの。 まず、噂の「カリ」について。 パッと見で「青酸カリ ではない カリを舐められ」の一文が目に入ったので、青酸ではないカリなら硝酸かな? と思いましたが、きちんと頭から順に読むと塩化カリウムの方だったかーと思い至りました。「脊椎に微量の電気を感じる 」この一文が、特に塩化カリウム(カリウムイオン)っぽい。 次に、二度も「あんまりだ」というくらいですから、よっぽど慎重に悩んだり考えたりしていたのだろうなとか、ぽつぽつ思いましたが、タイトルと一行目は分かったつもり、にもなれませんでした。 リズムは読みやすそうですが、誤読を誘う言葉選びが、読みにくい、コメントし難いと感じさせる要因でしょう。少数でも分かる人が分かればいいという考えだったり、最初からここの読者を試すつもりだったりするなら、この詩は成功していると言えます。(バックグラウンドが全く見えない一作目に対するコメントへの過度な期待(?)は禁物だとは思いますが……) 仮に狙いが成功しているとしても、表現がわざとらしいので、初読では挑発かと思いました。そんな意図が一切無いなら本当に申し訳ないけれど、セックスな読みに誘導する為だけの言葉選びにも見えます。従って、読者が誘導されてコメントしたり、嫌悪感等から深く読もうという気がそがれたりしても仕方がないかと。先にあげた「脊椎に微量の電気を感じる」もわざとらしく感じた部分です。 最後に、私はキュレーターではありませんが、こちらの作品は良くも悪くも「不特定多数の他人にオススメする詩には選べません」し、読者を試すような気配のする文章は「とりあえず嫌い」です。 以上、だらだらと失礼しました。次回作、待っていますね!
0コメントとか見てて思ったことを書きます。 自分は詩は娯楽だと思っていて「構造を分析」だとかいうのは面倒でつまらない行為だと思っております。AIに詩を作らせようとかいう目標がないかぎり「構造を分析」って何もおもしろくないと思うんですが。 批評も娯楽の一部と考えているので、個人的には上のような意見です。
0↑論点がずれてるかもしれません。すみません。
0現実は問題山積であっても、そのさなかに、ネット内で時折包まれる幸福感(しかもあまり根拠のない)に 包まれてしまうときの、困惑とくすぐったさが、「あんまりだな」にゆーもらすにあらわれていると思いました。 最初の「カリ」は塩と感じました。 出だしの「水の声」からも、随所に五感が刺激されます。 「俺は逡巡を凌辱され」は、時折フット思い出し、かつ忘れないだろうという気がします。
0この作品がRさんの書かれているような意図によるものだったらおもしろい。 「すべてのテキストは無意識的に性へと結びつくので何とも言えませんが」 とあるが、これは作者の思い込みでは。これこそ「解釈」ですよね。
0「青酸カリ ではない カリを舐められ 脊椎に微量の電気を感じる 」 この2行が一番衝撃的だったような気がします。カリウム?カルシウムは違うかなど、微量の電気は慎重な選択だと思いました。
0わたしが抱いた本作品の印象を 書かせていただきます。 まず この詩には、牛が登場しています。牛の関係する詩と、読みました。人間が家畜に行っていることは、あなどり はずかしめ【凌辱】の逡巡であるという視点も あります。 青酸カリではないカリとは、【カリウム】だと思いました。牛に不可欠な塩に関係するカリだからです。 【減塩しお】は、カリウムで 減塩させています。 作者は、ご自分のハンドルに 爺の字を使っておられますし、老の問題を抱えておられ、減塩を考えておられると 思いました。脊椎の電気も しかりです。 そうすると、冒頭の 水の声が きこえてくるきがしました。老とは、死に繋がるカナシミです。 牛と たのしく 暮らしていても、寂寥も あるのではないかと読みました。
0せっかくソラで音読できるまで覚えたのに、残念です。でも、まあ、掲示板に残っているので、コメントします。 《水の声が幾つも聴こえたたあ》 この出だしの一行ですが、 この《水の声》、これが何を意味するかはさておき、この一行がどこまでかかっているか、なかなか決めがたいですね。 《もうもう 乳牛に 幸せを楽しもうと言う》までということも十分ありえるし、《俺は逡巡を凌辱されとうたう》この行も入っていい。《たゆたうとうと 尊いというと》も、最後に「と」が付けられているので、ここまでということも考えられる。 《水の声が幾つも聴こえた》わけだから、各々の行に「と(いう声が聴こえた)」が省略されていると考えると、ここまでは引っ張れます。 (この場合《俺》は水の声のひとつになります) 上記のように行ごとに省略があり、また誰が語りの中心なのかが曖昧にぼやかされているので、内容がひとつの脈絡のある像としては結び難く、ただ揺れている水面に影がぼんやり映っている感じがあり、もちろんその「感じ」だけを受け取れば受け取れなくもないのですが、このような捉え難さは読んでいるこちら側にしてみると、言語的な不安を感じてしまう。(ついでに、《水の声》というのも、透明でとらえどころがなく、そのくせ隅々まで行き渡るようで不気味です) 逆に《乳牛》、《逡巡を陵辱された》という部分では、飼うとか管理とか、あるいは支配的、暴力的なイメージを喚起させられ、先の言語的不安と少ないキーワードによって喚起されたイメージから、はっきりとは見えないのに確かにある底知れぬ不安を暗示しているようにも思える。と同時に、それは《幸せを楽しもう》や《尊い》といったイメージ的には明るい(けれどもどこか力のない)言葉との対比によって、不可解さ、不気味さ、不安さを増し、逆にいえば、あたかもこういった何が何とも言えないような不安のなかで、かすかに生きようとする声を聞きとるしかないというのが、実は私たちの置かれている現在なのかもしれません。 以降を後半部にわけるとして、 《キッチンでカリを舐め/ つまりは あんまりだが》は前の《キッチンでは~》を《あんまり》以下で言い換え、 《青酸カリ ではない カリを舐められ/ 脊椎に微量の電気を感じる 》そのくらいの《あんまり》だと結ぶ。それは「死(青酸カリ)」ではなくて、生の側に傾くようにさせられてしまう、ということが、死ですら自ら選ぶことができず、他者によって与えられるもの、支配されるものであると読めば、たしかに、あんまりな話です。ただ、青酸カリよりはカリの方が手近ではあるし、容易に舐めやすいかもしれず、わずかなりとも刺激を感じてしまう、という意味では、なんだかんだ言っても手に入りやすいリビドーの方を選んでしまいやすい(これもまた「ヒドい話」です)ことを示唆しているととることもできる。あっさり言ってしまうと前者はそのような社会の酷さ、後者はそのような私たち人間の酷さであるのですが、そのような社会でそのような生を営むにとどまっている人間、どちらもヒドい。 これはもう、牛も人間も変わりゃしない。ここまで書いて、《乳牛》というのは人間を喩えたものかしらん、とも思え、個人的に、牛に幾らかの哀憐を感じることもできます。笑 それにしても、省略や曖昧化などによる意味の脈絡や像の捉え難さとは、現在の捉え難さや気味悪さと重なるようで、いやはや、もう、あんまりといえばあんまりです。 願わくば、息も絶え絶えになりつつも、かすかに聞こえる《幸せを楽しもう》《尊い》を掬えたらと思うばかり。
0つーか、四の五の書いてるうちにすすんでんじゃん! 笑
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