スポンジでものを洗う - B-REVIEW
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PICK UP - REVIEW

大人用おむつの中で

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終着点

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夏の名残の暑さが去ろうとする頃、九月の終わりになると必ずこの作品のことを思い出す。

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誰かがドアをノックしたから

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海の中を照らしているのですね。素晴らしいと思います☆

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ベテルギウス。まずそれに注目する感性もですが、詩の内容が衝撃。 猫。木。家族。犬(のようなもの)。女の子……。など、身近にあふれている極めて馴染み深いものベテルギウスというスケールの大きいものと対比されているように感じられました。

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スポンジでものを洗う    

スポンジから吹きだす柔らかな泡を左と右の掌に受け。 湯を張ったプラスチックボールの中でものを洗う。 ものを洗う 別のものを洗う またもやものを洗う。 繰り返す泡の連続が幸せの内実だ、と認識している。なるほど。シンク中央の排水口が丸い瞳となって俺を見ている。 目に似るものはみなものを見る。幻を見る。 主観が自らを顧みる、ということ。 では、俺はいったい何を洗っているか? お前は俺を何と見るのか?妻よ、非実在の長い髪の妻よ。 水系の果てがここだ。 水系の果てはここではない。 キッチンの隅のポータブルTVでラブソングが歌われている。ラブソングでないかもしれないが、ほとんどのポップスはラブソングとその変形だ。 スポンジは変形している。「原形を留めない」という構文が変形を記述する場合の定型としてある。 形が時間的概念であるなら、むしろ同形に留まることこそが記述に価する特殊な事例であろう。俺自身も「原形」を留めていない。 俺が洗っているのは地層の一部で採掘された粘土が焼成された、その皿である。 デボン紀の植生が原形を留めぬ変形を受けた成果だ。 などというつもりはないけどね。 俺は自分がダンクレオステウスの変形であると言い張るつもりもないのだから。 ダンクレオステウス。古代の甲冑魚。胴体部は軟骨のため残らず、頭部の装甲だけが、鋭利で巨大な歯牙を付属させて化石化した。 それだけ。 TVの内蔵スピーカーから呼ばれて振り向く。俺は非在の妻を殺害した、実在の男の幻としてスイッチが切られるまでの間、しばらく画面に立っている。 殺されても死なない妻。シンクの縁を移動する小さい蜘蛛となり、一切俺を関知しないまま、糾弾する。 蜘蛛の脚は八本である。 泡の球面の七色の反射を語ろう。人工的に着香された薔薇の匂いについて語ろう。 皿を洗う男。直立している。


スポンジでものを洗う ポイントセクション

作品データ

コメント数 : 17
P V 数 : 907.6
お気に入り数: 0
投票数   : 0
ポイント数 : 0

作成日時 2017-08-08
コメント日時 2017-09-03
項目全期間(2024/11/21現在)投稿後10日間
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2024/11/21 23時31分35秒現在
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    作品に書かれた推薦文

スポンジでものを洗う コメントセクション

コメント数(17)
まりも
(2017-08-09)

茶道のような、ある種の儀式めいた感じで始まる冒頭、も、の音を連ねていくモヤモヤ感、そして〈シンク中央の排水口が丸い瞳となって俺を見ている。〉この感覚、実によくわかります。排水口の中に広がる闇に、じっとみつめていると吸い込まれそうな気がしてきたりする・・・。何かを洗って、汚れ(穢れ)を流していく、その流れを吸い込んでいく排水口が、瞳となって見返すものとなる、反転。瞳の奥に引きこんでいく(吸い込まれていく)どこか不気味な、それでいて魅惑的な感覚。それを、どうとらえるか。 〈目に似るものはみなものを見る。幻を見る。/主観が自らを顧みる、ということ。〉ここだけ見ると、観念の直接的な表明を、説明的でうるさい、と否定的に見ることも、理智の方向に感覚を振り向けていく指標の役割を果たしている、と肯定的に見ることも出来ると思うのですが・・・もう少し読むと、続く〈お前は俺を何と見るのか?妻よ、非実在の長い髪の妻よ。〉を引き出すための前提ともなっていることがわかる。重要な布石だと思いました。 排水口、どこか不気味な、自分を異界に引きこんでいくような眼差しが、いつのまにか〈お前〉と呼びかけられる存在の眼差しに変わっている。しかも、非実在の、長い黒髪の、妻・・・。〈水系の果てがここだ。/水系の果てはここではない。〉妻、が、オンディーヌのような水性の存在であり・・・日本的なイメージで言うならば、水神、蛇のイメージも喚起される。いずれにせよ、男を死へと誘う、魔性を秘めた存在、を感じさせます。この展開は見事だと思いました。 その後の数行、特に〈俺は自分がダンクレオステウスの変形〉というところまで夢想を飛躍させるのは、いささか急峻ではないか、と思いました・・・皿、を洗う、その〈皿〉を論理で解説してしまうと・・・冒頭の、いったい何を洗っているのだろう、自身の汚れか、自身の想いか・・・といったあいまいさが、理屈に還元されてしまうような気がして、私にはちょっと興ざめに感じられる部分でした。 最後は、この〈妻〉は〈殺されても死なない妻。シンクの縁を移動する小さい蜘蛛となり、一切俺を関知しないまま、糾弾する。〉という段階にまで変容する、のだけれども・・・幻覚にしばしば現れる、不安の表象としての蜘蛛、であるようにも思われるのですが・・・いずれにせよ、不気味ながら魅惑的でもある存在、であったはずの、長い黒髪の〈妻〉が、ただ気持ち悪い、不気味なだけの蜘蛛に帰着していくのは、なぜだろう。泡の七色、これは希望の喩でもあろうか。その七、を引き出すための、八本の足、なのだろうか・・・ 排水口に「見つめられる」ところから立ち上がる、どこか魔性を秘めた不気味で美しい幻影が、途中で思考実験的な観念の世界に取り込まれ、最後は幻覚なのか実際にそこに居るのかわからない、蜘蛛に具体化する・・・。 後半の展開に、少し無理があるように思ったのですが、どうでしょうか?

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右肩ヒサシ
(2017-08-10)

まりもさん、コメントありがとうございます。 フィクションを訓み解く方法は様々あります。僕自身が気がつかなかったことを教えて頂けて嬉しかったです。 ただ、「理屈」の形をとっているんですが、言っていることは全く論理的ではないと思います。議論をしていてもこういう「論法」で人を煙に巻く人もよくいますw。 作者と作中人物と、作品と読者と、それぞれの関係にある「詩情」の断絶を楽しむというやり方もあるのではないでしょうか? あまりうまく言えませんが。

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kaz.
(2017-08-10)

返詩を書きます。 有機体の中で唯一の統御力を保っているふしぎなボヤージュを 未明に殺す、 スティーブン・ピンカーの針金虫の映画で、 窯の中に肉弾の眼鏡をくべて、 化学反応させれば、 酵素パワーの阿頼耶識なるものが、 「なるほど面白そうじゃん」 「簡単にいうけど」 つまり、出てきたのだ、泡が。 火を食らう泡が。 発泡式の消化剤で、 ぼくらの魚は逆さまになる。

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まりも
(2017-08-11)

ご返信、感謝です。なるほど・・・もちろん、「「理屈」の形をとっているんですが、言っていることは全く論理的ではない」そのことは、了解していて・・・何といえばいいのかな、〈主観が自らを顧みる、ということ。〉という、定義のような文言を、直接書き込んでしまう、明示してしまうのは、どうなんだろう・・・そのことで、読者が、パシッと弾かれてしまう、そんな印象を受けやしないか(私は受けてしまう)ということと・・・ 〈〈俺は自分がダンクレオステウスの変形〉というところまで夢想を飛躍させるのは、いささか急峻ではないか〉とコメントしたのは、詩的ロジック、というのか・・・フィクションとしての構造物の中で、論理展開が段階を追って、という丁寧な叙述ではなく(丁寧過ぎるのも、説明が多すぎてうるさくなるのですが)かなり振り幅が大きいよね、読者が、ここで振り落とされてしまうのではないかしらん・・・という、これもまた、私の主観的印象を持った、のですね。それを直した方がいいとか、直すべき、とかそういう事ではないのですが。 その効果を狙っているのか、狙っていないけれど、偶然そうなってしまったのか。 Migikataさんの〈作者と作中人物と、作品と読者と、それぞれの関係にある「詩情」の断絶を楽しむというやり方〉というコメントを拝見して、偶然そうなってしまった、のではなく、確信犯的に行っておられる操作なのかな、という印象を持ちました。 そうであるなら、読者が、台所という日常の「場」、今、ここ、という「時間」から、一気に時間も空間も超えたところに飛ばされる。そのトリップ感を楽しむ詩、として読み直したくなってきました・・・ そうなってくると、〈言い張るつもりもない〉というような、堅苦しい言い回しが、逆に気になり始めますね・・・文体そのものも、もっと破天荒でいいのかな、と・・・でも、この重々しさで、最後まで持って行く方が、Migikataさんらしいのかもしれませんね・・・ここは、コメントそのものも難しい。

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右肩ヒサシ
(2017-08-13)

kazさん、ありがとうございます。 返詩 文末の鰭が動き、詩は断末魔の苦痛のうちにある 自立語と付属語の連なるその脊髄を 裁断する刃がある。木の柄を握る手がある

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右肩ヒサシ
(2017-08-13)

まりもさん、返信ありがとうございます。 僕は読みやすいものを書いているつもりだったのに 、どうも読みにくくなってしまうようですね。比喩だとか、難解な論理は実はありません。砂の造形の材料がただの砂しかないというのと同じでしょうか。 ここでもよくやる失敗をしています。「ダンクレオステウス」の化石は国立科学博物館にあって(模造品のようですが)、何回か見てさわっている僕にとっては非常に身近な実在だったのですが、知らない人にとっては思わせぶりな詩語でしかないことに気がつきませんでした。この程度の描写では読者とイメージの共有ができるはずもないですね。 よろしかったらネットの画像検索をかけて見てください。

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水星
(2017-08-13)

洗う という行為の繰り返しと、同じかに見える生成を遂げながら形を変えていく生きものとの重ね合わせ がされているのだとすれば、これ以上の過不足ない絶妙な表し方に驚くばかりです。 削ぎ落とされながらも核を持った詩、素晴らしいです。 はじめとおわりで何も変わっていない(ように見える)止め方が、ループに思わせながらも、連なる時間による進化あるいは退化の可能性を感じさせます。 怖くて良いです、とても。

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右肩ヒサシ
(2017-08-15)

水星さん、コメントありがとうございました。 仰って下さるほどにうまく書けているかどうかはわかりませんが、生きものとそうでないものとを取り巻く変成の歴史を可視化するという意図はありました。 現在の自分のありようを越えた何かを夢想すると、気味の悪さや怖さが湧いてくるのは当然だと思います。

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百均
(2017-08-20)

面白いです。スポンジで物を洗っている、という行為そのものから広がっていくイメージから、妻を殺してしまう展開につなげていきつつ、ただ殺す訳じゃなくて、捻った殺し方をしています。 話の内容はちょっとだけ難しい事を言っているかもしれないんですが、分かるような気もします。そこらへんのユーモアの塩梅が個人的には好みですが、その良さを説明できる程僕はあんまり頭が良くない、という自覚がありますね。そこらへんが悔しいなぁ… >ものを洗う > >別のものを洗う > >またもやものを洗う。 > >繰り返す泡の連続が幸せの内実だ、と認識している。  いえるとしたらここら辺ですかね。要は反復されることっていうのは要はそれ以外の事が起きないという点で安定しているという事が言える訳ですね。ここら辺は僕は歴史の授業で平安時代の摂政関白と、江戸幕府の所で習ったのですが、治世を安定させるために必要な事は、とにかく毎年同じ儀式をつつしめやかに繰り返していく事だそうで、それは傍目に見ていると変化がなく、本当につまらない事なのですが、故に大事なのであると、そういう事らしいです。  …みたいな感じで、僕はそういう話を展開しましたが、本作の場合は化石だとかそういう方向に話をもっていっている。そこらへんのエピソードの選択のセンスっていうのが面白いですね。別にこういった話をする時に壮大なテーマであるように見せる必要はないと思うのですが、個人的には派手な物のほうがいいんです。スケールが大きい物はやはり浪漫です。極小のスポンジの何気ない変形から、 >俺が洗っているのは地層の一部で採掘された粘土が焼成された、その皿である。 >デボン紀の植生が原形を留めぬ変形を受けた成果だ。 >などというつもりはないけどね。 ここまでつなげてしまう。僕らニンゲンという生き物という物体の元素という物もやはり60億年前には既に存在していたという感じとかも、よくよく考えてみるとそうであるし、そうなんだとしか言いようがないけど、まぁ、だからどうしたという話でもあります。でも、考えてみるとそれはそれで面白い。そう思わされてしまった所に、僕は魅力を感じますね。  という訳で、ここら辺の飛躍のスタイル単純に好みとしか言いようがないですね。僕はあんまり物知らないので、こういうちょっとした知識の入ったユーモアが入った作品そのものに弱い、というのがあるかもしれません。僕は結構騙されやすいタイプです。 >皿を洗う男。直立している。 皿とかを洗っている時間って本当に不毛なんで、僕は凄く苦手な時間なのですが、だからこそそういう作業をしている時程色々極端な事を考えたりしている。単純にそういう風に話を見てもいいのかなと思います。最後のこの落ちは、「とまぁ色々考えてみたけど…なんてね」みたいな感じに思えて凄くチャーミングですね。決まっています。

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右肩ヒサシ
(2017-08-21)

hyakkinnさん、いつも丁寧なコメントをありがとうございます。 長い輪廻の中では人間を構成している物質が元は何か別のものだったということ、今後別のものになるということは自明の現実ですが、それを現在の自分が感知するには幻想による他はありません。実を認識する手段が虚しか無い時、「非在の妻」という明らかな幻想が現実と同じ重さで存在してしまいます。その幻想に「殺す」というアクションを仕掛ける主体も幻想の一部となっていきます。 ところが現実世界では、幻想はたちまち蜘蛛という実在に転移して、八本の脚という具体性を持たされてしまうわけです。幻想は現実によって呪われた存在なのですね。幻想のなかに参入した「俺」という主体も同じ。「皿を洗う男」という現実の肉体、正当な文脈に取り込まれ「直立する」という具体性によって拘束されます。 その突き放された無機的な映像として叙述されている肉体が、幻想となることで「永遠」を感知してしまった精神を、意識の世界から疎外するのです。主題はその疎外の悲しみと苦しみということになります……。 こんな解釈はどうでしょうかね?一つの楽しみ方の提案として。

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シリュー
(2017-08-30)

家族ってときどきぶっ殺してやりたくなるときあるよね。そのほうが世界のためなんじゃないかって。それだけさあ深くコミットすることがあるから、そんな異常な極限みたいな、例えば妄想だったとしても沸く。でも家族は、やっぱり自分のいちばんベースになってるものとも言えるんだよね。世界だ。あなたが微笑むとき。世界は微笑んでいる。もし家族をぶっ殺してやろうと妄想でもすることごあるんだったらそれは自殺願望みたいなもんだと思うんだよね。それは人間の、イマジネーションの、弱さともいえるし、暗さともいえるね。

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ハァモニィベル
(2017-09-01)

はじめまして。よろしくお願いします。  「人間の存在の現実それ自身はつまらない。この根本的な偉大なつまらなさを感ずることが詩的動機である。詩とはこのつまらない現実を一種独特の興味(不思議な快感)をもって意識さす一つの方法である。」(西脇順三郎「PROFANUS」)  この定義に照らして見たとき、本作が、果たして「不思議な快感」をもたらすか、それが読者から眺めたときに問題になる。  本作では、《内的独白》と言った感じの、《意識の流れ》に読者は付き合うことになるけれども、とりたてて《意識の流れ》などとそう感じるのは、若干退屈するからである。読み終わったとき、”さっさと皿を洗わんかい”とツッコミたくなるほど。しかし、それが《意識の流れ(内的独白)》の特徴であるから、そもそも、そういうコントとして書かれてもいるのだろうと感じられるので、基調として私はそれは嫌いではないが、もう少しファルスな感じの仕上がりの方が(あるいはもっと深刻な方が)、より愉しませる作品になったのではないか、と思う。 全体として、語りが薄味な印象を受けた。  どんな作品も、色々な愉しみ方が、無論、読み方によって出来ると思うけれど、もっともツマラナイ読み方に帰着されてしまう可能性は畏れなければならない、(と、わたしは)思っていて、本作の場合、その可能性が消し切れていないことを指摘しなければならない。  作者の施したデコレーションに魅了される読者はよいとして、それを薄味だと感じる読者は、デコレーション以外の骨格や、核の部分に眼が行くことになる。そうすると、そういう読者の眼に、本作品読了後、最後に強く印象に残るのは、 >お前は俺を何と見るのか?妻よ、 >皿を洗う男。直立している。 この二行である。 この二行を、《不思議な快感》によって消し切れていない。一人の読者であるわたしは、そんな風に感じた。 *〔以上です〕

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右肩ヒサシ
(2017-09-02)

シリューさん、コメントありがとうございます。 家族が憎くなったり、うんざりしたりすることはよくあって、機嫌の悪い時には怒鳴り散らしたりすることもありますが、ぶっ殺してみたくなったことはありませんね。 この作品でも「非在の妻」という架空の存在に深く取り込まれた状況を書きたかったような気がします。なるほど確かに主人公がそういう怒りを持っているという読み方もできます。殺すという言葉は、僕の勝手な想定以上に強いのですね。

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右肩ヒサシ
(2017-09-02)

ハァモニィベルさん、コメントありがとうございます。 率直な感想、大いに参考になりました。作品が読者に感興を催させる閾値の設定というものはどうしても自分が中心となってしまいます。僕には大きな物語を描けるだけの力がないのか、或いは「大きな物語」という小さくて凡庸な定型にはまることを過度に恐れているのか、その両方なのかはわかりませんが、どうでもいいことしか書けないのですね。自分は社会の本当に重要な部分からはオミットされている、と思っています。 そんな資格もないように思えるので、こういうものには他人の核に食い込むような鋭い主張は一切ありません。 僕は文を書くことで 、自分は本当に自分なのか、という問いかけそのものへの共感を求めているのだと思います。

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右肩ヒサシ
(2017-09-02)

中程さん、コメントありがとうございます。 自分としては、最後から二行目の「泡の球面の七色の……」の部分でスポンジに戻ったつもりでした!ちゃんとスポンジという語をを入れればよかったです。

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右肩ヒサシ
(2017-09-02)

りさん、コメントありがとうございます。 おっしゃる通り、「離人感」というのは僕の書くものの昔からのテーマです。僕自身は「離人症」になったことはありませんし、そういう症状に苦しんでいる方もいらっしゃるので、あくまでも文学上の想定にとどまっていると断らなければならないのですが。 「現実」や「自我」の圧迫からの逃避といえばそうですし、自分の亡き後の世界への冒険といえばそういうことになるかもしれません。 それから、自分ではわかりやすく「かっこいいもの」を書こうとしているのですが、そう感じてくれるかどうかは読み手の方次第ですね。文章技法的な癖というものは自覚しているので、その気になって書こうと思えばたいていの人に書ける程度の「うまさ」ではないでしょうか?

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右肩ヒサシ
(2017-09-03)

りさん、仲程さん、コメントありがとうございました。 より良い読みはあっても正解と言えるような読みはないし、考える余地を残す読みはあっても、よくない読みはないと思います。読みの成否はただ自分についてだけ厳しく問われるものであって、作者の自解を含めて他人の読みはその参考に過ぎません。僕はそう信じています。

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