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未明
今を知らせに 光が来ては去る 時間を つかの間に ひたして 隅に置く いらなかった 痛みを 開いて 指先で削る 痛みは明日に 飲み込まれていく 臆病者の記録が ゆっくり反転しながら 遡る ハリボテの嘘から 本当が 滲んで染みていた まぶたの裏で 霞んだ悔いが こぼれ落ちていく あるドラマのセリフが 勢いよく 飛んできた 「正しくはないけれど 間違っていない」 二者択一の上を 細い道が一本走った 正しくはないけれど 間違っていない を かたどって いつでも引き出せる場所に 置いた
未明 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 859.0
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2018-01-03
コメント日時 2018-01-31
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
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エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
助詞で改行に置かれる。その意味が少し弱いかな、と思いますね。 冒頭「光が来ては去る~」何かを象徴するように現実にはない喩えでこの詩全体が覆われています。 同じ反復にも工夫が窺えます。ならばもう少し文全体に妙味をもたせてもよいのではないかと。 夜明けまえの印象を心象に置き換えたような詩だと思うのですが、たとえば客観的な視点をもっと取り入れて時空を意識させてみるとか、文の前後左右を入れ替えてみるとか。どうせあり得ない事柄なのだから、もっと自由奔放な躍動感を言葉に乗せてもよいのではないかと。そう感じました。
0アラメルモ さん コメントくださり、ありがとうございます! ご指摘に深く頷きました。足りない部分が少しみえてきました。次へ活かせるように精進致します。
0「未明」って変な言葉だ!と思っていた頃がありました。「未だ明けず」という字面なのに、未明はもう結構明るいので、なんだか不服だったのです。 「今を知らせる光」の去来が増えていく時間なのだ、という方がよっぽど腹落ちします。実感に近い言葉を教えてもらうのは嬉しいです。 二者択一の厳しい世界観が解けていった心象、あるいは解いていこうという決意の詩として読みました。 「痛み」はまだ体内にあっても「指先で削る」ほどに乾いて距離がとれている。 未明のように、薄明るい希望が時を進めているようで、意志をもった詩だと感じました。 余白分の言葉にも、これからたくさん出会いたいです。
0時間をひたす、という「体感」に惹かれました。 時間にひたる、のではなく、時間をひたす。自ら、時間を管理し得る瞬間。 いらなかった痛み、とは、欲しくはなかった痛み、でもあるのでしょう。自ら買って出て、負ってしまった痛み、というべきか。 臆病者の記録、これも面白い。臆病者の記憶、なら、自らの記憶に刻まれた悔恨かもしれないけれど・・・ 記録、自らの外部に記すもの。記録が~遡る、というあたりに、自分の力ではままならない、なにか強制的な流れを感じました。 正しく、間違っていない 正しくはないけれど、間違ってはいない どちらがよいのでしょう。正しくはない、ことが沢山ある、世界において、自分の取り得る最善を尽くすことが、間違ってはいない、ことなのだとは思います。 正しく、そして間違っていない、と、確信を持って言える程、人間は「正しさ」を信用することができない、のではなかろうか・・・。正しさ、とは何か。法律やルールを守っている、こと?その「正しさ」は、人間が作りだしたものに過ぎない。間違っている、間違っていない、と感じる心の仕組みは、もともと人間に備わっているもの。そう考えると、人間ではなく自然が付与した判断力、ともいえる。 正しい/正しくない を判別する理性と、 間違っている/間違っていない を判別する悟性、そんなことを考えさせられました。
0緑川七十七さん、はじめまして!コメントくださり、ありがとうございます!深く読み取って頂き、書いてよかったと思えました。 花緒@B-REVIEWさん、いつもお世話になっております。ありがとうございます!面白いと評して頂けて、とてもうれしく思いました。 まりもさん、いつも御丁寧に細部まで深く読み解いてくださり、ありがとうございます!物事の正しさが曖昧になって、なんでも絶対はないのだと感じて。 拙いながら詩に託してみました。
0光は時間を知らせる存在であるということ。確かに、朝・昼・夜といった単位であったり、朝焼け・夕暮れだって、光の加減で時間を知らせるものです。 そうした時間というのもつかの間だけ顕在化させるのですが、すぐに時間の単位は入れ替わるもので、隅に置かれます。この置かれるということがこの作品の後でも出てきます。 逆に、「いらなかった/痛み」は隅に置いてあったはずのもので、それらが隅に置かれた時間の代わりに光を浴びて、表に出てきたのかもしれません。表に出てきて、その中身を取り出すのですが、痛みもまた隅に置かれ、明日へと向かっていきます。 「臆病者の記録」にある「記録」というのもまた、過去に置かれたものを再生して現在に持ってくるためにあるものです。過去を現在に持ってくるという考えではなく、現在から過去に戻るという点で「遡る」のでしょう。 「ハリボテの嘘」もまた中身を取り出されるのです。「本当」という中身が出てきます。 「まぶたの裏」もまた普段は目に見えない箇所であり、そこから中身が滲み出てきます。 そのような、「過去」を代表として、現在目に見えていない時間/空間から、中身が飛び出してくるという連鎖。その連鎖の中でドラマのセリフもまた飛んできたのでしょう。 「正しくはないけれど 間違っていない」 正しいわけでもなく、間違っているわけでもないということ。それでも、確かにそこに存在しているもの。嘘に秘められた本当やまぶたの裏にあって普段は目に見えない悔いも目に見えない以上、あるのかないのかわからないようなものですが、確かにそこにあるのです。 そこにある、ということが一本の道となります。そのことをかたどって、いつでも引き出せる場所に置くのでしょう。置いた以上、その存在を忘れることもあるかもしれません。当たり前すぎて通り過ぎてしまうことがあるかもしれません。それでも、肝心なのは、自らがその場所に置いたということです。誰かが置いてくれたわけでも、自然に置かれるわけでもありません。そして、「いつでも」引き出せるのです。引き出しの中にしまってしまい、普段は目に見えないかもしれませんが、その気になれば「いつでも」引き出せるということ。そして、自らがしまったからこそ「いつでも」引き出せるのでしょう。
0>「正しくはないけれど >間違っていない」 ドラマからの引用があるのですが、多分偶々ドラマのかもしれません。例えば本を読んでいて、そういう言葉に出逢う瞬間もあると思います。ですが、ここではドラマを通じて、今の自分の置かれた状態を知る事になってしまいます。おそらく、意図しない形で、告げられてしまったのだと思います。 テレビという公共の電波から差し込まれたような「言葉の光」によって、自分は引き出しを引いたり開けたりすることが出来るような状態になってしまった。それは言葉が、心の引き出しを開けるようなノブの役割を持っているからかなぁと思いました。それは無意識を自意識につり上げるような感じに近いのかなぁと。
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