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アメリカの少年※
彼は図書館でアルバイトをしていた。授業の空いた時間に司書のようなことをすると学費と食費が免除になる。彼は入り口付近に置いたテーブルに、レポート用紙を細長く切ったカードを並べ、フランス語の熟語を書き込んだり、並べかえたり、めくって記憶したりを繰り返していた。最上級クラスにいて流暢に話し、既に辞書ほども豊かな知識を持っているように見えたが、傍らにはそれを上回る分厚い辞書を置いていた。訪れる学生に丁寧に応対し、一言二言用事以外のことを言って笑うので、周囲には穏やかな時間が流れる。真面目すぎる印象が女の子を遠ざけていたらしかったが、ついに情熱的なメキシコの少女と向かい合って食事をするようになった。彼女はいつも図書館の奥まった席で勉強をしていた。 ある日、彼の片方の目が真っ赤に充血した。それはすぐもう一方の目にうつり、両眼の白目の全体が発色して、話しかけようとしてもついこちらが目をそらしてしまうほどだった。そのことを彼自身が気にして、大食堂での食事も俯いてするようになった。メキシコの少女は、その後彼の友人と親しくなった。彼は心の葛藤を周囲にみせず彼女とも友人とも談笑していた。 図書館の小さい一角にオーディオコーナーがあって、静かな音でなら音楽を聴くことができた。私は日本から持って行ったジェシー・ノーマンのCDを掛けてもらった。CDの中のアメイジング・グレイスを彼も気に入り、人が来ない時間を見計らって二人で繰り返し聴いた。彼は真っ赤な眼をしたまま、司書の仕事も、カードをめくってフランス語を暗記することも淡々と続けていた。「アメリカに帰りたい?」と尋ねると、少し考えて「帰りたい」と言った。留学期間はまだ数ヶ月残っていた。 その頃日本からやってきて、体調を壊し一週間で帰国することになった女性がいた。彼女と私はロシアのダンスの公演を観に行くことになっていたのだが、その不要になったチケットを彼女から譲られていた。それを彼にプレゼントした。公演の当日、夜8時からの開始にあわせ、夕暮れの海岸通りを二人で歩いて行った。「チケットの席は離れているのよ」と私が言うと、しばらくして「どちらがいい席?」と聞く。私が黙っていると彼も黙った。私たちはロビーで別れそれぞれの席に行った。 華やかな舞台だった。長いスカートに隠れた足を忙しく動かすと、水の上をすーと流れているように見える。きらびやかな民族衣装を身につけた女性たちが、音楽に載せ様々なラインを作ったり交差したり、万華鏡のように静かで美しいが単調な動きのくり返しだった。彼は退屈したのではないかと私は思ったが、ロビーで再会するととても感激していた。私たちは深夜の海岸通りをダンスの足取りをまねながら帰った。 単なるタイミングに過ぎなかったかもしれないが、その後眼が回復の兆しをみせた。日毎に赤みが薄らいでいった。彼にそのことを言うと頷いて、かかっていたフランス人の眼医者にダンスの夜のことを話したら、それがきっと良かったのだと言ったという。 2002年の春、彼は帰国した。その後消息を知らない。辞書ほどのフランス語の知識を持ったやさしい少年の顔を、私はテレビのニュースの画面につい探してしまう。 2004作・改稿 ※bレビュウ杯不参加作品です。
アメリカの少年※ ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 913.2
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2018-01-04
コメント日時 2018-01-31
項目 | 全期間(2024/11/23現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
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構成 | 0 | 0 |
総合ポイント | 0 | 0 |
平均値 | 中央値 | |
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前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
面識のない方に、じっと魅入られることがあったりしたら彼かもしれませんね。 彼もそんな時を待っている気がします。
0この話知ってる気がする。いや自分の記憶の中に似た光景がある。そんな風に思わせられる文章でした。読み手がこれは自分の話だ、と思わせることができるかどうか...というような話をある作家さんがしていたようなことを思い出しました。毎回上質で味わい深い文章で、とても楽しみにしております。<辞書ほどのフランス語の知識を持ったやさしい少年の顔を、私はテレビのニュースの画面につい探してしまう。>のラストは特に好きです。一読者にすぎない自分の心さえも見透かされてしまっているような、そんな鋭さを感じさせる一文でした。
0不思議で上質な作品に、ため息がでてしました。 神の視点から一人称への不思議なゆらぎが、確かにそこにいた彼の存在から、もはやテレビの画面の中を探すしかなくなってしまった彼との別離まで、 読者を誘ってくれます。 ひとつの体験を、確たる技術で心地よく、させられてしまう。私はフランスに行ったこともないのに。静かな物語をこんな風に書ける筆力が、うらやましいです。
0こんにちは。 彼の充血した眼。その原因もわからないまま読み終えてしまいました。 さすがに流暢な文章ですね。ですが、綺麗過ぎてもう少し文体に起伏がほしいとも感じました。何か原因もあるのだろうか。それで主に文章だけを拾うように再読してみました。べつにfiorinaさんに限らずとも誰にも癖は付き物ですが、~して。連語というのかな格助詞ですね。これが多用されてますね。なので、却って平坦な流れが内容を読み取り難くしているのかな。とか思ったりもしてみました。
0*くつずり ゆうさん、ありがとうございます。 あ、何か映画のストーリーみたいですね、時空を越えた…。 そもそも私の経験はそこまでロマンティックなものではなかったのですが、 だからきっと凄くいい思い出です。 *survofさん、ありがとうございます。 > <辞書ほどのフランス語の知識を持ったやさしい少年の顔を、 > 私はテレビのニュースの画面につい探してしまう。>のラスト ちょうどあの頃から世界がテロの時代に入り、アメリカは派兵などもしていたので、 豊かな知識を活かすことなく散ってしまう命があることを(それが彼自身でなくとも)、 不条理に感じていました。 紀行文は思い出しつつ書くのが楽しいので、押し付けになりそうで心配ですが、 楽しみ、といってくださって心強いです。 *緑川七十七さん、ありがとうございます。 >神の視点から一人称への不思議なゆらぎ、確かにそこにいた彼の存在から、 >もはやテレビの画面の中を探すしかなくなってしまった彼との別離まで、 私も彼も長期滞在でしたので、なんとなく親しくなる時の流れが出ていますね。 言葉ができないので黙って集団の中にいるだけでしたが、 存外いろいろな情報をキャッチしていたことに、こうして文字に起こすと気付かされます。 フランス紀行はまだ続きますので、これからもお読みくださるとうれしいです。 *アラメルモさん、ありがとうございます。 本当に眼の充血の原因、何だったのでしょうか? >綺麗過ぎてもう少し文体に起伏がほしいとも感じました。 >~して。連語というのかな格助詞ですね。これが多用されてますね。 何も考えず自分の呼吸だけで書いているので、気づかない欠点が諸々あるでしょうね。 やっぱり一度ちゃんと考えないとだめですね。 少なくともわたしの理想とするのは、流麗な文章ではないですので。 柳でなく、梅の木、花枝が好きなんです。(柳に失礼かも。)
0語り手は、目の充血の原因を知っている(そして、そのことを読者には伏せている)そんな気がしました。 なぜ、フランス語を学ぶのか。他者に対して誠実で、自己に対して厳しく、それでいて周囲をなごませるジョークや雑談などの配慮を忘れない苦学生。 彼は、国連職員になりたかったのではないか?・・・そんな気がします。 目の充血の原因は、あるいは失恋の悲しみで泣き腫らしているのかもしれないし、不穏な世界情勢を懸念しているのかもしれない。アメリカの少年/青年であるなら、戦場に兵士として立つことも有りうる。 911以降の世界の不安定さを、日本に住む私たちは、まるで素通りして来てしまったけれども・・・311の時も、アラブの春、と同時期で、中東が戦禍に見舞われていた時期でもある。当時、海外にいた人の方が、原発の事故に関しても、世界と日本との認識の落差についても、肌で感じていたのではないか?と思います。 アラメルモさんのご指摘にも重なりますが、語り手の気持ちが揺れないように、意図的に平坦に、抑制された筆致で描かれているように思いました。ドラマティックに盛り上げていくのを、あえて避ける、慎重に「物語る」ことに徹する。 ロシアのダンス・・・何となく白鳥などの水鳥の動きを思い起こしました。民族舞踊団のダンスなのか、バレエやモダンダンスなのか・・・春の祭典とか火の鳥などの公演の際にも、モダンダンスであっても民族衣装を身に付けますよね。 フランスの国際性と、そこで民族色を表現として打ち出す民族性、固有性。 それをアメリカと日本、別々の出身地の二人が、二人とも別々の席で、同じものを観て感動を共有する。 故郷から離れているという心もとなさと、故郷の想いや特色を忘れない表現、その表現が国境を越え人種を越え、人を心身ともに癒す効果をもたらしているかもしれない、ということ・・・ うまくまとまりませんが、感想です。
0*まりもさん、ありがとうございます。 >語り手は、目の充血の原因を知っている もしや、と思うことはありました。 >意図的に平坦に、抑制された筆致で描かれているように エッセイというのは、書くのが楽しいのでどこまでも行っちゃいそうになりますね。 昔「笑いを取ろうとするな」と(他の人が言われているのを)小耳に挟んだことがあるんです。 そうか。笑いも泣きも、取ろうとしちゃいけないんだ、と残念な気持ちになりました。 でも、心を抑えることと退屈な文章はやはり違うと思います。 アラメルモさんのご指摘は、目からウロコでした。 読む人が何故ともしれず活き活きとなる真摯で静かな文、が書きたいです。 一語一行が秘密かも‥。 >その表現が国境を越え人種を越え、人を心身ともに癒す 眼から鼻から皮膚から様々な人種を日々吸収し、いつしか源流へと意識が向くように。 ただ呆然とそこにいただけですが、得たものは歳月とともに重くなります。 あの時観たロシアのダンスがyoutubeにありました。 私の表現が足りないのがよく分かる映像。 → https://www.youtube.com/watch?v=QgNB3ZLp0ho
0*まりもさんへ~追記 じつは、まりもさんのコメントの前半部のレスとして、昨夜ずいぶん長く書いたのですが、 割愛しました。いつか別の作品として、書きたいと思っています。 いつも、示唆に富んだコメントをありがとうございます。
0リプライから作品が生まれることってありますよね。 自分が無知であることを知っている、それゆえに、おまえは世界で一番賢い、その言葉を受け入れた「産婆」に、少し、近づけたでしょうか(笑)
0溜息が出ますね。上品さという事の定義を、余裕があるという風に僕はよく捉えますが、本当に読んでいて癒されます。 特段僕の方から何か突っ込む事もなく、毎月少しずつ読める事が楽しいですね。月の1、2ペースで本作のような紀行文が読めるという事が、なんとも幸せです。
0*百均さん、コメントありがとうございます。 心強いお言葉、とても嬉しいです。 フランスの頃の私は語学のためばかりでなく、言葉を喪失していました。 取り戻した今、あれらの時間に言葉を添わせていく作業かな。 記憶が圧縮した映像のように何故か衰えないので、まだ文章にしていないものも含め、 投稿を続けたいです。 渡仏前後、日本の知人たちにも不可解を残してきたので、いつか、いくらかでも届けばいいなと思います。
0twitterれんけいを忘れておりました~
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