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冬、いき
息、行き、生き、と ことばの影を 待ち人が数えていた 一つの影だけを もてたならよかった 冬の白い 歩道の一日に ただよっている と、いきがみえた 空きをたわませて あった その向こうにいきの影があった ほどけながら ただひとつのままに 溶けていった だからいきと影は同じだった あとには、ぼく だけが立ちすくんだ なぜあのときにやめなかったのだろう ただひとつのまま はじめて詩を書いたときに はじめて歌を聴いたときに ふれたときに 生まれたときに。 日がかわり、灯りがともり 影は何度もはがれ はがれていった 巡っていく 犬のような影 街のような影 人々のような影 伸びていく道のような、晴天のような影 たくさんの、ぼく、の影 の、ために ひとりだった そうしていきを体から 離した 日が溶かして いきは見えなく 影と同じになった 何度もはき、はいて 重ねたから 冬空は見えないいきであふれた 夜が暗いのは その影が見えるからと 思って、ここに、いる 待ち人のような影 そこに ぼく、が、それともその人が いないことだけが証していた 待ちつづけるぼくは はがれて いま、あるぼくが影なのか ないぼくが影なのか どちらともそうなのか わかりはしない だろう ただいる、ものたちは 冬の空に浸っている いきにまみれている 吸い、吸われながら 肺に何度も 影を巡らせていき すこしだけでも永い時、の 影をいき わからないなら いき、それでも、ひとつのまま
冬、いき ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1213.2
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2018-01-07
コメント日時 2018-02-27
項目 | 全期間(2024/11/23現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
いき、は息をする、生きる、とおそらく同根。息吹きに対するイメージと、プネウマのイメージが類似していることを思い起こすとき、何千年時を隔てていても、場所や民族を違えていても、生きるということに対する意識は、あまり相違ないのかもしれません。 面白いのは、あき、といき、が対比的に現れるところ。この場合の あき は、今まであったはずのもの、が、いなくなったあと、の空虚なのか。実体という確たるものが、あったはずの場所から消えて、そこには影が残る。今、ここにある時間を生きている実体が、そこにいたという記憶だけを残して、その場から消える(そして新しい場所を占める) 冬の白い息のとらえどころのなさと、無数の影の残存として体感されていく記憶の残存とが、イメージの中で連結しているように思われました。 疑問というより質問なのですが、影は、いつから、光を物体が遮ったときに現れるシルエットを意味するようになったのでしょう。 たまたま「かぐや姫」の話を聞いてきたのですが、天皇がかぐや姫の実体を見るシーンがある。ここで、かぐや姫は 影 になるのだけれど、それは月影の影、光の固まりとしての影と解すべきだという。光そのものであった影が、いつから、光と物体とが生み出す黒い影に変容したのか・・・少し作品とは脱線しますが。
0まりもさん コメントありがとうございます。 息をすること、生きることの連動は、この詩において重要なものなのだ、と僕も思います。後付け的に言うならば、この詩における、生きること、は、複数の影を持ってしまうことであり、一方で、息というものは、一つの影だけを持ったままに、消えていく。本来同根なはずなのに矛盾している。 僕にとっては、こうした矛盾が大切なものに思えたのです。 あき、と、いきの対比、は半ば自然発生的に出てきたものでもあるのですが、やはり、息をする、という行為が、空にいきを放っていく、ということと繋がる、ために生まれたものなのだと思います。息、生きは、空きが、前提となっているからあるのかもしれないですね、、、 「かげ」の話について、少し調べてみたのですが、なかなか奥が深そうで、はっきりとはわかりませんでした。「かげ」の語を光の固まり、とする用法、また、物が光をさえぎることで作り出すシルエット、とする用法、双方ともに、万葉集において見られるそうです。ただ、国語辞典、古語辞典の用例の引かれている数を見ると、「光の固まり」としての用法の方が多かったように見受けられ、「シルエット」の意味で使われているものは、一つしかないみたいです。そこから時代が降り、源氏物語になると、双方の意味での用例が見られるようになる。その過程として、「かぐや姫」はあったのでしょうね。 こうした移行の延長として、「シルエット」の用法を一般的に捉える現在の傾向がある、と考えて良さそうです。角川古語辞典には、「かげ」の意味を四つに大別していて、①光源、②(光を受けて浮かび上がる)形、③シルエット、④光が当たらないところ、となっています。この四つの用法が、順々に現れたのだとしたら、個人的には納得がいくかな、と思っています。 光源から、光を受けるものとしての形、姿、そこから、光を受けて作り出されるシルエット、最終的に、光が全く当たっていない状態、巨大なシルエットとしての、光が当たらないところ、という移行、ですかね。 見ること、と光、の関係を昔の人たちが意識していたのだとすれば、面白いですね。例えば、景なんて言葉は、まさに光と見えるもの、風景の結びつきの上にできているように思えます。
0「息が一つ」 おぼろげながら白く息が形をとる。そんな冬だからこそ語られるべき感慨ですね。すごい感受性。 対比して、ぼくはたくさんの影や待ち人の中に溶け込んで、一つが判別できなくなっている。 「ただいる」という在り方への憧れがあるのでしょうか。
0>息、行き、生き、と >ことばの影を >待ち人が数えていた 始まり方が弓巠さんの他の作品と良く似ているけれども、少しだけ違う。でもその違いが大きな意味を作品の中で持っている所に僕は実験しているなという感じを持ちます。 >犬のような影 >街のような影 >人々のような影 >伸びていく道のような、晴天のような影 >たくさんの、ぼく、の影 音が同じであるけれども意味の異なるおちう意味の、同根である語の交錯はされてきたと思うのですけれども、ここではそこに影を加える事によって、イメージすら一つの影の中に収斂させながら、混交している事に成功しています。ここが今まで違うような感じを覚えます。 ダジャレみたいな所がずらしていくという所で終わるのではなく、ずらしていくことによって最終的に一つの影に纏まってしまうという所が、面白いと思いました。最初は分解するつもりだったのに、最終的に一つになっていて、その媒介として影があるのかなぁという印象です。 どちらかというと、これは僕の勘ですが、弓巠さんの作品は解体していくイメージで捉えるような事が多かったように思いますが、今回は最終的に纏まっているという感じを覚えました。 以上が簡単な雑感で、後気になる点が沢山ありますが、やっぱり心の中でもやもやしているのが待ち人のイメージがなんじゃらほいという所で、もう少し考えて読みたいと思ってますが、時間がなく取りあえずこんな所で、一応終わりにしたいと思います。
0緑川七十七さん コメントありがとうございます。 すごい感受性、と言っていただけて、純粋に嬉しいです。ほんの少しだけ舞台裏を話すと、僕は小学校から高校を卒業するまでの間、冬に多く雪が降り積もる地方に住んでいたのですが、そういうあたりでは、冬の朝など光が強い時間には、自分の吐いた白い息の、影がぼんやりと、雪の上に見えるのです。もちろん、白い息がすぐに消えてしまうように、その影もすぐに消えてしまうのですが。 読み解いてくださったように、この詩では、幾重にも影を持ってしまうこと、が、ただ影を持つものであること、ただあること、(そしてそれに対する憧れ)に逆行していくように描いています。それでも、「いき」という限り、それは一つである、という矛盾も孕んでいるわけですが、、、 書き手として、こうした矛盾についてどう考えていこうか、と思っています。少し思うのが、自意識とか、自分をどう認識するか、とはまた別の自己のようなもの、そうしたものが、「ただいる」ことへの契機なんじゃないか、ということですね。
0百均さん ご無沙汰してます。コメントありがとうございます。 僕の作品には解体していくような、拡散していくようなところがある、という点、どこかわかるような気がしています。浮遊、というか、遠のいていく感覚ですかね。そうした感覚は、割と詩を書くときに重視、というか無視できない、といった感じがしています。 この詩では、おっしゃる通りに、拡散と収斂が、同時に起こっている、というか、いき、という言葉の中に、それが篭っていく、という感覚ですね。そこには、一つの矛盾があって、けれど、ある意味で、融和的なものなのだ、と僕は思っています。 待ち人、というのが何なのか、という点。作者ながら無責任なことを言うと、この詩には、分裂が、時間と関係付けられて語られている。時間を生きていくこと、それが、自己を分裂させていくことである、となっていて、でも、待ち人、というのを待ち続ける、ということは、一人の存在に意識を収斂させていくことでもある、ということなのかな、と漠然と考えてみました。
0名状しがたい感覚をおぼえます。伝えるための言葉というよりは、手ごたえを確かめるための言葉。それは社会性や共通の表現などから遠のいていきながら、しかしより生に迫っていくようです。ろくな批評が書けません。すみません。私はこういう詩がすきです。
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