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みんなでてくる
瓦礫の転がるこの街は、 コロッサスの花畑が広がっていて 迷子になった子供達が、 千切れたぬいぐるみを引き連れて とぼとぼ歩いているから 一緒に手を繋いで 「いっしょにあるこう」というと 涙を流しながら 濡れた手をつないでくれる (わたしにできることは他にないみたいに) 口を静かにつぐんで 星の綺麗な夜を 渡るように歩いている 廃墟の街、 この街に住んでいた大人たちは 灼けてしまって もういなくなってしまったのと いう事はできない ひきつれている わたしの スカートの裾を ひっぱるようにいくつも 無数の手のひらが 花のように開いては ぎゅっと握られては 離してくれない 話すことのできない 空間の散歩道を 季節のわからない 涼しい風が吹いて 何かがひらめいていくのを 感じてしまった だから歌を教えてあげた 大切な歌を 朝の煌めきが いくしか降り注ぐように わたしの歌声が 頭の上をかすめて きえていってしまったとしても わたしはこの街に住んでいて この街が滅んでいく歴史を眺めていた だから、記憶に紡がれた事実は 枯れ枝に刻まれた日記帳のようなものだ この街に引越してきてから 誰もが過ぎ去っていったことを覚えている 忘れない為に絵日記を書いていた 書いていた色鉛筆を 一緒に握って 書いてくれた あなたは いつもそばにいて、 右手の震えを包み込むように 書いてくれた 甘優しい 夢のような綴文字を 手を繋いだ 子供達に伝えることはない 伝えることのない歌は 真っ白い景色を伝えるばかりで 背後に流れている水の音は 軽やかに時を刻んだ 空を流れる 星の全てが 手を繋いだ雨の日の祈り かれてしまった喉を潤す この街の湿り気が 思い出から離れていく あなたと あなたを新しく繋いだ絆によって 振り払うことのないよう 自分のスカートを握りしめる 子供の時のわたし 大人になったわたし 声にならない言葉を持つようになった歳月 いつまでも変わらない空の密度 コロッサスのさいた 夢の花びらのせいで もう一度踏み出そうとすることをやめてしまった 夜の景色はどこまでもつづく 背後から日の光が降り注ぎ 膨れ上がる水の蒸発 朝露の歌はしわくちゃになった 茹で上がりの手のひらに増えた 皺をなぞって ぼろぼろの紐靴を脱ぎ捨て 壊れかけのビルの頂上に登る この街の景色は綺麗だった どこにでもつながっている気がした それなのに持ち上がった朝日は 何も映してはくれない そんなこの街が好きだった 好きだというくらいにあなたのことも 愛していた 即興ゴルコンダ(仮):こうだたけみさんのお題から
みんなでてくる ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1886.2
お気に入り数: 0
投票数 : 1
ポイント数 : 4
作成日時 2020-12-19
コメント日時 2020-12-31
項目 | 全期間(2024/11/23現在) | 投稿後10日間 |
---|---|---|
叙情性 | 3 | 3 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 1 | 1 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合ポイント | 4 | 4 |
平均値 | 中央値 | |
---|---|---|
叙情性 | 3 | 3 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 1 | 1 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合 | 4 | 4 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
恋と愛って何が違うんでしょうね。詳しく述べると長くなっちゃうのであれですが、「家族愛」って言葉はあるけど、「家族恋」って言葉はあるのかな、ないのかな。そう考えると「家族」って何だろうなって、ぱっと出てくるのは「自己犠牲」ってワードで、今の自分があるのは間違いなく家族のおかげで、それも家族の「自己犠牲」があったからで、そう考えると、愛って、自己犠牲をいとわないことかなって思えてくる。でも、それが全ての家族にあてはまるかどうかはまた別問題だし、きっと恋にも自己犠牲はある。 「一緒に手を繋ぐ」ということから、それは自分の一部である手を差し出す行為であって、広く言えば、自分を差し出す≒自己犠牲の一つの形だと思うんですねえ。「いっしょにあるこう」というのも、自分の時間を差し出すことでもあって。「廃墟」「瓦礫」が残る街にこれまた残されたのが「子供達」と「わたし」で、「大人たち」は灼けてしまったと。なんだこの設定。手を離すことができないと同時に「話すことのできない」ってかけているんだね。 「だから歌を教えてあげた/大切な歌を」って、はいでたー、素敵な設定。俺も教えて欲しいよ、みんなの大切な歌を。でも、その歌がどんな歌かはわからないんだよね。作品内では書かれていなくて、知るのは作品内の「わたし」と「子供達」だけで。 で、この歌って、この作品内でどういう役割を果たしているのか。ここでキーワードを出しますと、「形」なんですね。「瓦礫」も「廃墟」も、原形をとどめていない何かの跡なんだけど、「形」としてそこに在るもので。でも、「歌」って、再生はできたとしても、「形」として目に見えるものではない。この目に見えるものと目に見えないものに焦点をあてると、この作品がよく読める。 「わたし」は「この街が滅んでいく歴史を眺めていた」と、ほら、観察者としての「わたし」がいて、「滅んでいく歴史」をあらわすもの(作品内の舞台装置)としての「瓦礫」や「廃墟」なんだよね。「滅んでいく」ことを証明しているものなんだね~。 「記憶に紡がれた事実」は目に見えない、だから、「枯れ枝に刻まれた日記帳のようなもの」、つまりは、これは脆く滅んで目に見えなくなってしまうかもしれないものとして描かれている。 「歴史」とか「事実」ってどうしたら残るのか。俺ら一般の歴史を語れば、かつて詩は「叙事詩」として口承文学であって、「声」や「伝承」として語り継がれたものであるんだけど、この作品内で「歴史」や「事実」を滅ばない/目に見えるようにするために、「絵日記」を書くんだね。これって、目に見える/見えない問題によって何が起こるのかというと、「歴史」とか「事実」って、目に見える形で残っていれば共有できるんだけど、「声」とか「語り」といった目に見えない形で受け継がれると、それが正しいものかどうかわからないし、要は信用や信頼によってそれが共有できるかできないかが変わってしまう、つまり、語りの信頼性は語り手によって担保されるということ、これは、俺らの日常でもよく起きていることだよね。同じ内容のことを言っているはずなのに、言う人によって、聞き手はその情報の真偽を判断してしまうような。 「わたし」は「子供達に伝えることはない」って、「歴史」を見てきたはずなのに伝えることはないというのは、言い換えれば、「伝えるべきことはない」という「わたし」の価値判断があるんでしょう。そんな「わたし」とか「子供達」の想いをよそに、「背後に流れている水の音は/軽やかに時を刻」んだね、無関係なものとしての舞台装置。 「かれてしまった喉」があるのも、歌い過ぎたのかな。「思い出から離れていく」のも「新しく繋いだ絆」という今、そして、これからを見ようとする語り手の姿勢が示されているんでしょう。 「子供の時のわたし」と「大人になったわたし」は何が違うんでしょう。それは、「声にならない言葉を持つようになった」ということ。 「コロッサスのさいた/夢の花びらのせい」にして、「もう一度踏み出そうとすることをやめ」るんだけど、本当にそうなのかな。 なんか段々雑になってきちゃった、長いよ。 「ぼろぼろの靴紐を脱ぎ捨て/壊れかけのビルの頂上に登る」って、おお、いよいよ、もう一歩踏み出そうとするじゃん、何が起こるの~? と思ったんだけど、「瓦礫」「廃墟」「コロッサス」「歴史」とか言っておきながら、なんで「ビル」なの。俺が勝手に抱いていた古代ギリシャの世界観が急に崩れましたですね、ええ、はい。 「この街の景色は綺麗だった」のはよかったです。「そんなこの街が好きだった」のもよかったです。だからきっと、「わたし」はこの街にとどまり続けたのでしょう、語っていることとやっていることが一致していて納得です。「好きだというくらいにあなたのことも/愛していた」のもよかったです、ですが、ところで「あなた」ってどなた? ええ、つまりは、恋とか愛とか最初に述べ、最後も愛に繋がるんですが、肝心な「あなた」の描写がほとんどなくて、基本的に「わたし」と「わたしから見たこの街」の心情・情景描写が続いている。「わたし」は「わたし」を他者に差し出している。では、「わたし」は「他者」から差し出されているのか、つまりは、「わたし」の中に他者は生きているのか。でも、でも、でもでもでも、「コロッサスのさいた/夢の花びらのせいで/もう一度踏み出そうとすることをやめてしまった」というずるい言い訳に沿って、俺もずるい言葉を聖書から引っ張ってくるけれど、「愛されるより愛しなさい」ってイエス様が述べていらっしゃったので、まさにこれを体現した作品であると言えるなあと思いましたですますまる。
2なかたつさん レスありがとうございます。 作品について具体的にしゃべる事よりも、今回は恋愛詩ってなんだろねって話をしたのがきっかけでこれを書いたので、そこら辺について思う事を書きます。といっても大した考えがあったわけではなく、恋愛ってなんで日本語だといっしょくたになるんでしょうね?結局似ている概念だからくっついてしまったのかもしれないです。LOVEとLIKEの話だとか、他の言語だとはっきりしているのかもしれないし、愛情を表現する事が苦手な言語という事は、苦手であるという認識がはびこっているのかもしれないですけど、色々ごちゃごちゃしてきたので、実際の所よくわかりませんが、恋をするのは人だけじゃなくて、その場所とか過去の事実や時間なんかにも使うよなという所から、これが生まれたという経緯はあります。 そして、僕自身の視点が過去に向かっているのだとしたら、ある意味しょうもないといえばしょうもないのかなとかなんとか思ってしまったり、とかそういう思いを書きつける事ではなくて、歌として歌う事で伝わる事もあるかもしれないし、ないかもしれない。ラブレターってなんかいつもびりびりに破かれるイメージがあるんですけど、なんででしょうかね? 手紙って出来上がった関係については有効だけど、新しい関係を作る為には意味がないのかなとか、ラブレターは「恋」と「愛」だとしたら愛っぽいからそりゃそうかとか思っているうちに、やはり、声に出して、好きだったとか、愛しているとか、そういう言葉をいえる事ってよくわからないですよね。そうとしか言えないからそういうのかもしれないけど、感情の解像度としてやっぱりめんどくさいものなのかもしれないですね。だから、比喩であったり、こういう舞台装置を先において、そのプロセスでもってしかだせなくね?って思ったのかもしれない。あなたについては、最近ポルノグラフィティのアゲハ蝶をよく聞くんですが、詩人についてよく触れた歌詞だなと思って、なんか今聞いていて面白いんですよね。あなたという要素は共感性を呼び込むための箱という側面と、あなたという自分とは異なる対象を指し示したり、そこに色々な人間を呼ぶためや、あるいは遠ざけるためのものなのかなとか思ったり、ただ、あなた、わたし、大人、子供、みたいなふわっとした物があって、そこに具体的な記述を埋め込んだのは、つまりコロッサスの花畑なんですよね。そこだけハッキリ僕は意識的に書いていて、そのイメージから全て始まったのだろうなと思います。花言葉は恋愛に関するたとえものとしてよく使われますけど、あれがなんでそういう経緯を持ったのかっていうのはぶっちゃけ分からなくて、お花は象徴として使われてかわいそうだなとか思っちゃったりするんですけどね。 僕も何が言いたいのか分からなくなってきましたが、ビルにしたのは、多分現実に戻そうとしたからかもしれないですね。あまりにも幻想的な空間は一度現実に戻る必要があるんじゃねって最近思うからかもしれない。現実だけ書く事も好きですが、なんだかんだ僕は意味不明なイメージから何かを取り出す作業が好きなんでしょうね。とかなんとか。あと、女の子を主人公にすると、やっぱり僕はとても書きやすいなと思いました。 こういう返し方になってしまった理由ですが、多分こっちの方がええかなみたいな感じですね。具体的に一つ一つの返信に細かく書いて行っても、多分いつもツイキャスでやってる事と変わらへんので、それはしゃべる時にしゃべったらええやん。みたいな感じですね。こういう返信できるのはなかたつさんだからってのもありますけど、丁寧に読んでくださってありがとうございました。
1ABさん レスありがとうございます。 自分も10年前にはこどもだったんですが、今はもう大人になってしまいました。ということを考えると、子供と大人という考え方は青年期の終わりでもあるし、仕事につくことがイニシエーションになっているのかもしれないけど、大人も子供の境目ってやっぱりはっきりしないまま移行するんじゃないの。みたいなことをぼんやりと思います。いまの僕が子供のために出来たことはあるのかというとないですし、税金を納めたうちの幾ばくかがそのために使われているのであればいいのですが、そんなのわかりませんもんね。 ということも考えた時、僕には今部下がいて、上司の責任は部下の人生を良い方向に持っていく責任があることという話を今日聞いて、とても苦しくなりました。責任を持つのは苦手で、何もかも責任が崩壊してしまってから責任をもって何かをすべきだったと思うことばかりです。取り返しのつくこととつかないことと、それはどれだけの思いがあったとしても、壊れてしまったらもう取り返しのつかない事実になってしまうことが、ぼくにとっての恋と愛なのかなぁとおもいました。 今目に見える人たちを守ることが子供を守ることにつながるかもしれないし、つながらないかもしれない。ただ、場所は何もしなければ壊れてしまうし、場所がなければ誰も生きることができない、特になんの力もない存在にとっては決定権がないような世界だということはなんとなく思います。 ありがとうございました。
0あなた、とは実在の方なのでしょうか?慎ましい詩ですね、それとも夢を描かれるのでしょうか?
0あなた、とは実在の方なのでしょうか?慎ましい詩ですね、それとも夢を描かれるのでしょうか?
0てんま鱗子さん レスありがとうございます。 返信が遅くなり、申し訳ありません。 あなたとは実在であるのかというのは、難しい問いですね。 それを明言しない事によって逃げているとも言えますし、ない物を捏造しているから「あなた」とかいいようがないのかもしれません。そういう意味で、この作品は夢見がちであるという事は言えると思います。 夢と現実の話というのは、なかたつさんの返信で最後にビルを出したという所からとってもわかるかなと思うんですが、一度夢は台無しにされるべきだなと思っていて、でもそれから立ち上がってくるものはあるよなと思っています。現実と夢って対比的な文脈だけなのかなというと、多分そうではなくて、現実と夢は同居するんですよね。という所を考えていくと、あなたというのは、現実にならなった存在であると同時に、現実であった存在の影として残っている残滓を指しているのかもしれないし、特定の個人を指しているのかもしれないですね。答えになってない部分も沢山あるのですが、一旦こんな感じで返答させていただきます。 色々考えさせられるレスでした。ありがとうございました。
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