別枠表示
なかった、ように
テーブルをふく 力をこめて たてによこに 行ったり来たり つやの出たテーブルに 満足して周りを整える 何事もなかったように 一点の汚れも逃さず ふいてもこすっても 落ちないものは 傷 削るか、ごまかすか そのままにするか 削ればひどくなる ごまかしは剥がれる そのままでは痛々しい いつの間に ついたのか つけられたのか ふれると低いくぼみ 粗い肌がわずかに見えた やさしい色のテーブルクロスを 大きく広げ 傷ごと覆い隠した これ以上 傷つかないように 汚れないように 何事もなかったように 傷を忘れられるように 本当に何事もなかった と 間違えるまで
なかった、ように ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1169.4
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2017-05-18
コメント日時 2017-06-14
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
---|---|---|
叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合ポイント | 0 | 0 |
平均値 | 中央値 | |
---|---|---|
叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合 | 0 | 0 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
寓意が、あまりにも、見えやすく、これほどハッキリした「意味」を、詩として表現する必然性を、問いたくなります。丁寧な言葉遣いなので、筆力はある方なのだと、思います。
0描写の的確さに、目を見張りました。はっきりとしたビジョンが、比喩としてうまい距離で機能していて、その愛の行為に対して、 心を洗われます。愛を知っていて、愛を隠し持っている。構想と、筆力が、幸せに溶け合っている感じです。心からの気持ち を感じることは、なかなかないもので、人が読んで気持ちのいいものは、なかなか書けません。というわけで、天性の才を 活かされている、という感じを持ちました。
0テーブルを拭く、という行為の中に、自分の心を磨く、という行為が隠れているわけですが・・・机でも床でもなく「テーブル」であるところが大事だと思いました。 ダイニングテーブル。家族で囲む食卓。ひと昔まえなら、ちゃぶだい。 周り中が「前衛詩」(暗喩満載の)を書いている時に、辻征夫さんは「ライトヴァース」「平易過ぎる」などと批判?されながら、易しく優しく心に沁みる作品を書き続けていました。あの勇気は大変なものだと思う、と、八木幹夫さんという詩人がおっしゃっていたことがあります。 優しく易しく書く勇気、について、考えさせられる一作です。
0花緒さま コメントありがとうございます!わかりやすく書くことの難しさにいつもぶつかっておりますので、とてもうれしいお言葉でした。ありがとうございます。 鳩村さま コメントありがとうございます! <ハッキリした「意味」を、詩として表現する必然性、についてですが、これを書きたい!と思って書いてしまうので、まだまだ浅いところ、描けていないところもあったかと思います。 ご指摘くださいまして、ありがとうございます。 黒髪さま コメントありがとうございます!もったいないお言葉の数々、大変恐縮でございます。大きな励みになりました。ありがとうございます。 まりもさま コメントありがとうございます!辻征夫さんのエピソードをご紹介くださいまして、ありがとうございます。わかりやすく書くことの難しさを改めて痛感しました。 深くお読みくださいまして、ありがとうございます。
0傷がなかったかのように感じるために さまざまな努力精進して 汚れをとったり磨き上げたり、最後にテーブルクロスで 傷を覆うというのが この詩です。とてもリアルなイメージが浮かび上がってきましたので、実話であると 感じました。 実話だとして、このテーブルの傷は詩作品化されたことで、作者の心になにが 今 おこっているだろうかと 想像してしまいました。テーブルをしらない読者も このテーブルには傷があることを知っています。このことから、作者が このテーブルの傷を忘れるには さらに時間が必要だということになったなあと、 思いました。 詩人は「無」のために言葉を奉じることがあるなあと おもうのです。 これは なかなかの感慨かもしれないです。 まるで 生活者としての詩人のありように対する 禅問答のようです。 この詩に限らず、なにかを わすれるために詩人は詩を書くことがあるように 思います。 そういえば、禅は 一に掃除が重んじられ、二に掃除が重んじられ、三四がなくて 五に掃除だそうです。
0るるりら様 コメント下さり、ありがとうございます! この詩の内部まで読み込んでくださり、とてもうれしく思いました。この詩を実話である、とお感じになった。半分正解でございます。 希望といいますか、もっとできたらよかった、と、今でもできればやってみよう、と思うことがあり、詩に託してみました。 <なにかを わすれるために詩人は詩を書くことがあるように 思います。 私も同感です。書くことによって「事」から解放するような感じで。
0鈴木 海飛さま ご丁寧にお読みくださいましてありがとうございます!拙作を二回もお読みくださったこと、とてもうれしく思いました。 整理整頓できることが一番良いのはわかっていても…なかなか難しいときってありますよね。私は苦手です(笑) 忘れたことも忘れ…忘れてしまうことは寂しく困ってしまうことでもありますが、忘れられることが幸せということもあり。 鈴木様のコメントから改めて考えることができました。ありがとうございます。
0個人的には、本作は傑作だと思っています。 理由は単純です。 テーブルって凄くいいモチーフだなって、思わされた。それくらいの強い意味を感じました。そう、今月一番に強い意味をテーブルから発見したのではなく、見せ付けられるような感覚。それは僕のパーソナリティを形成する大きな一部分をテーブルが担っているという所を突きつけられたからです。 テーブルというのは、よくよく考えてみると僕の人生においてはいろいろな大事なイベントがある場所でした。 実家には大きな楕円形? のダイニングテーブルがあって、そこは唯一家族が顔を合わせる場所でした。いろいろすれ違いがあっても最終的にそこに集まって顔を合わせる必要がありました。 例えば食事、朝は絶対に家族全員が顔を合わせなければいけませんでした。それから次に夕食。 あとは、小さい頃の誕生日の思い出。友達と焼いたホットーケーキ、とか、クッキーを焼いた覚えもありますね。 正月に持ちをついて皆で持ちを丸めたのもテーブルでした。 あとは、、家族会議とかでしょうか。喧嘩したり、テストの成績について問い詰められた時とか。そういった家族にとって大事なイベント事は基本的にそのテーブルの上で行われたんです。 >テーブルをふく >力をこめて >たてによこに >行ったり来たり テーブルをたてによこに拭く、という行為から僕はテーブルという平面を感じました。どこまでも伸びていくX軸とY軸が指し示す一つの大きな平面。 >つやの出たテーブルに >満足して周りを整える >何事もなかったように >一点の汚れも逃さず テーブルの表面を綺麗にしている様子から、大事に使っている事が伝わってきます。つやが出る程に磨き上げ、一点の汚れも逃さないように隅々までテーブルを拭いていく。ただ、「何事もなかったように」という一文が詩行に影を落としていきます。何事もなかったように、という事はこのテーブルの上で何かが起きたのです。 >ふいてもこすっても >落ちないものは >傷 >削るか、ごまかすか >そのままにするか ふく事では落ないもの、それを本作では「傷」という言葉で表現しています。ここが一つのみそになっています。 テーブルに傷が付く瞬間というのは、僕はあんまり想像できません。物を零してしまった時はそれこそ「ふけ」ばいいんですよね。 しかも、つやの出る程大切にしてきたテーブルに付けられた「傷」という事はそれだけ重篤な意味があると考えて間違いないでしょう。 >削ればひどくなる >ごまかしは剥がれる >そのままでは痛々しい その傷はごまかしの聞かない、見るだけで痛々しい程の傷であるという事がここからわかります。傷というのはテーブルの表面を何かで引っ掻いたものなのか、なんなのかについてはわかりませんが、多少カンナなどで表面を削ったくらいじゃ取り返しのつかないくらいに「深い傷」であること、もしくは大きな傷であることがここから分かるでしょう。 >いつの間に >ついたのか >つけられたのか >ふれると低いくぼみ >粗い肌がわずかに見えた ここで面白いのは「肌」という語が登場する所です。今まで「傷」のイメージは物質的なイメージをほぼ一〇〇%持っていた筈です。しかし、ここで「粗い肌」と表現されることによって、人間の顔が浮かび上がってくる。その顔とは一体なんなのか。 まずはテクスト上から読み取れる物を整理していきましょう。テーブルに付けられた傷は「いつの間に/ついたのか/つけられらのか」とあるように、いつなんどき付けられたのかわかりません。ですが、テーブルのメンテナンスをし終わった直後に、ごかましのきかない程の大きな傷を語り手は見つけてします。それを粗い肌、つまり手入れのなされていない顔のようだという瞬間を手で触れることによって「わずかに見てしまう」、そのことにぞっとしてしまうんですね。 語り手はきっとテーブルを大切に思っています。それは、これはここには書かれてないことですが、テーブルとはやっぱりその家、住まいの中心にあるものなんです。一人ではなく、特にふたり以上の人間がいる家では、きっとテーブルがその家の一つの中心にあると思うんです。だから、そのテーブルを大切にしている語り手が、そのテーブルの中に自分の見過ごしてきた影を見つけた時のおぞましさというのがここで一気にむき出しにされ、可視化されるわけです。 表面的に大事にしてきた、語り手の家族、もとい同居人との関係の内部にはきっとなにかしら、見えない大きな溝があって、それらは多分見過ごされてきたんですね。でも、それが許されない瞬間というのが実はもう語り手というのは見えてしまった。テーブルに入った大きな傷を見てしまった。今までは表面上は綺麗に大事に磨き上げてきた、テーブルという平面。そこに「くぼみ」というZ軸が入ることによって、新しいフェイスが見えてしまう。いや、しまった。というべきでしょうか。 それから「粗い肌」という表現から、ストレスで疲れきった人間の顔というイメージが湧き上がってきます。テーブルについた傷を、人間の皮膚のように見てしまう。「粗い肌」からそうぞうされるのは疲れきった人間のようす。健康状態の悪そうな感じがしますね。後に続く傷を隠そうとするその態度からも「傷」を付けられたなにかしらのイベントからしばらく経っても、その傷ートラウマから逃れることの出来ない語り手の疲れ、倦怠感みたいな物が一瞬だけ見ることができます。 そして、僕は本作を読んで思ったのは、やっぱり家族会議の時の思い出です。皆がいろいろな感情を溜め込んでいて、最後にオヤジがテーブルを思いっきり叩いた時に出来た傷。物をテーブルに叩きつけた時に、テーブルの表面に現れた、または残ったくぼみのことを。あるいはオヤジが僕のことを見た時のあの疲れきった顔のことを。 >やさしい色のテーブルクロスを >大きく広げ >傷ごと覆い隠した 「やさしい色」ということばで覆われた、テーブルクロスで、無理やりレイヤーを被せることによって傷を見なかったことにしてしまう語り手。目を背けるんですね。 >これ以上 >傷つかないように >汚れないように >何事もなかったように >傷を忘れられるように > >本当に何事もなかった >と >間違えるまで 過去、テーブルの上であった事をなかった事にしてしまう。つやが出る程に大事にしてきたテーブルの上に傷があることを知ったとたんにテーブルクロスで隠してしまう事で、新しいテーブル、つまり家族を演出する。家族をリセットしようとしてしまう。家族を偽装してしまう。「間違えるまで」その傷が起きた事なんか本当に何事もなかったんだよと、という風に認識が変わってしまうまで、 「傷つかないように/汚れないように/何事もなかったように/傷を忘れられるように」四行に渡って積み重なったことばによってくぼみをまるで埋めるかのように、傷の存在をなかった事にしてしまう痛切さ、そして、その舞台をテーブルに置いたその着眼点。お見事だと僕は思います。
0hyakkinn様 御丁寧にお読みくださり、細部までの解釈、言葉をくみとってくださいまして、ありがとうございます。 傑作、との評に大変恐縮しております。とてもうれしく、大きな励みになりました。 hyakkinn様のお言葉から、潜在的にある不安や昇華しきれないものなどが含まれていたこと 含んでしまった、ことに気づき、改めて良い意味での詩のこわさを感じました。 ありがとうございます!
0