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あなたにたくさんの柑橘
柑橘色の言葉が欲しかったのです 風も水も陽の光も いなくなった人たちも ふくみこんだ言葉、の 踊り方を 誰か教えて と 何も食べずに、食べずに待っていました 絵本から出られない少女のように 形見のように 髪を伸ばして どこにも行かないまま 髪だけはたくさんを知りました 荒野を、農村を、海を あなたのかけらの ないところでは虹の色に あなたのかけらの ある、ところでは透明に 染まり 体、は 街の雑踏から 動くことなく 一つの嘘をダキ、絞めて 晴れの日には、晴れのハレの皮を 雨の日には、雨粒のさかなを 畑の日には、菜の根の沈黙を 焦土の日には、石の赤ん坊を 河原の日には、水の返す光を 食べて、いました 少しも、動かずに 食べました 本当は 風も水も陽の光も いなくなった人たちも あなたも わたし、が食べたのです 絵本の少女はいつか去って きっと、一人でに妊娠して 服を織って 産まれた子どもにたくさんの柑橘 を、あげました いつかわたしも 思い出す ような速さで 男へなっていきました 雪のようにわたしが零れる 有無の日に あなたを産むことができない ようにできる ような
あなたにたくさんの柑橘 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1163.1
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2018-02-15
コメント日時 2018-03-11
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
カンキツいろ、という言葉の響きと、レモンからオレンジまでの階調、爽やかな香りと酸っぱさと甘さのない交ぜになった味わい・・・に飢えていたという「フィーリング」が、一連目から伝わってきますね。 2連目の少女と絵本と髪の毛の取り合わせ・・・つい黒髪を想像してしまうのですが、一連目の色彩の余韻と、ラプンツェルのイメージが後から来るので、そこで金髪からレモンイエロー、ゴールドの髪の毛と・・・安寧だけれども退屈な場所から、逃れたくても逃れられない、そんな「少女」を連想しました。 あなたのかけら、とは何か・・・あなたの気配を感じさせる痕跡を、かけら、という質感に置き換えうるか・・・ ないこと、あること、その根元的な問を、観念ではなく感覚でとらえるには・・・と観念を働かせている印象を覚えました(私自身にも覚えがあるので、このあたりは自戒しつつの、課題ですね) 三連目が、若干、ルーティンに陥っているようにも思われるのですが、そこから一気に、食べる、という身体的な体感に持っていくところで、うまくバランスを取れたのではないかと思いました。 四連目。客体として、あるいは何らかの憧れを持った存在を象徴する他者として描かれていた「少女」が、内面の存在、ユング風に言えばアニマのような存在として捉え直され、「感覚したもの」を食べるように飲むように自らの内に取り込む存在として描かれる。少女と「わたし」が一瞬同化し、自らの成長/変容と共に「去っていった」もののように読むことが出来そうです(そのような読み方を想定しているかどうかは別として)このあたり、特に少女が男になるという飛躍に、少し無理があるようにも思います。 男へなる、という書き方になっているのは、男へ(実が/身が)成る、と重ねているのかも知れませんが・・・ そう読んでくると、少女は、ラプンツェル的な魂の表象であると同時に、童心の擬人化でもあるように思われますね。ミヒャエル・エンデが『はてしない物語』の中で描いた、モンデンキントのように。 有無と生むの重ねは、言葉の響きが必然的に呼び出したというよりは、観念が呼び寄せた感じの言葉ですよね。 一連目の立ち上がりと、訴えてくる力が強かったので・・・イメージの世界へ沈降する2連から先、特に3連以降が、観念に頼っている感覚もあり・・・イメージの新鮮さが失速しているような印象がありました。
0花緒さん、コメントありがとうございます。 言葉の流れが柔らかいとのこと、評価いただきありがとうございます。本格的なコードをおさえたものなのか、平板なポエムぽさをなぞったものなのか、ということですが、この言い方だと、僕が何らかの「型」をなぞって書いた、というように花緒さんには感じられたのですね。 僕としては、結果としてどう見えるか、という点は置いといて、意図としては本格的なコードをおさえて書いたもの、でもなく、平板なポエムをなぞったものでもないわけですね。むしろ、意味の交差を織り交ぜつつ、自立した一つの物語、自分にとってしっくりくる言葉の反応を狙ったものなのですね。 もちろん、僕の技量不足のために、今までにあったものを真似しているように見える、ということ、あるいは僕が使おうとした童話的なイメージが、逆に僕の詩を食ってしまって、結果一つのパロディのようになっている、ということはあり得るでしょう。ただ、最近の個人的な懸念として、花緒さんのような、前衛的な試みを自称して果敢に詩の形式に挑んでいく、という方には、僕の書くような詩は、全て何か古典的なもの、何かをなぞったもの、という枠に入って見えてしまうのではないか、ということがあります。もしかしたら、僕の思い違いなのかもしれませんが……
0まりもさん、コメントありがとうございます。 少女のイメージを、童心の表れ、童話的なイメージの投影ととっていただけたことが、僕としては嬉しいです。その上で、少女ではなく、「わたし」が男になっていく、という読みをしてもらえると、僕の(作者の半ば身勝手な)意図を実現できたのかな、と思います。「わたしも」という言い方で自ら阻害してしまったのかもしれません。僕のイメージとしては、子供を産んで、去ってしまった少女、子供を産むことができない(とされる)、男になっていった「わたし」の別離が、そこにあるかのように思えるのです…… 第三連の、ルーティン的になっているというご指摘、こうした、言葉の並列的な置き方を、時たまする必要に迫られてしまうのですが、確かに、そうした時にどうルーティンに陥らないかは、もっと注意が必要な気がします。 全体的にこの詩は、結果として観念の詩になっていると思います。書いた側としては、第一連の言葉の感覚が、その後の観念的な部分に耐えうるか、という点を心配していたのですが、逆の懸念をするべきだったのかもしれません。観念と感覚のバランス、言葉が言葉を導いていくような感覚が重要なのですかね。細かく作品に即したコメント、ありがとうございました。
0個人的には、ですけれども、もの凄くいいです。言葉にするのが勿体ないくらいに。とても温かな物を感じます。
0百均さん コメントありがとうございます。温かい物が、何か、この詩の中に流れているなら、それを百均さんが汲み取ってくれたなら、非常に嬉しいです。
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