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鴨
鴨、あいつら すこし暖かくなったら わたしの羨望なんて知らずに またどどこかへ どこかへ。 自己肯定感 アイデンティティ 無い物ねだりで。 わたし。 わたし、 なんか、ごめん。 ほしいものほど 手から水のように こぼれてしまう。 こぼれて、しまう。 あたりまえか、 なんて、水面を見ながら考える。 じぶんのぜんぶを ダンボールに詰め込んで そしたらわたしには なにが残るのだろう。 なにが、のこるの、だろう。 何にも残らなくない? なんにものこらなくない? 真っ白な、 真っ白な、壁の、ワンルームで。 ひとり。 鴨が、もうすぐ、最後の一羽に。 一羽に、なりそうだ。 わたしなんて知らずに。 羨望という言葉すら知らずに。
鴨 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1005.9
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2017-06-03
コメント日時 2017-07-02
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
「わたしの羨望なんて知らずに」どこかに飛んでいきたい、ここではない、どこかへ…そんな遙かな憧れを、鴨に託して歌う冒頭部。 花緒さんも指摘されていますが、自己肯定感・・・少し言葉がナマすぎる、というのか・・・全体の質感に比べて、固い感じはしますね。ババロアの中の、木の実みたいな。 身と心の対話。心は、鴨の背に乗って、もしかしたら想像の翼で飛んでいけるのかもしれないけれど・・・身はここにいるしかない。段ボールに詰め込む私、この感覚がいいですね。日記とかノートとか、友達との写真とか・・・そんな、自分の綴った言葉、自分の記憶、それが「わたし」であって、今、ここで、そのことを考えている「私」は、「わたし」じゃない、というような、私が私であって私でない、感覚。 みずみずしい若さを感じます。
0「鴨、あいつら/すこし暖かくなったら/わたしの羨望なんて知らずに/ またどどこかへ/どこかへ。」この最初の一文が本当によろしくて、どこがいいかというと「あいつら」っていう風にちょっとだけ突き放した言い方をするんですね。そこに「羨望」という羨ましさが背後にある事を匂わせる。で、あったかくなったら「どこかへ」「どこかへ」って二回言うんですよ。 この二回言うっていう行為が、この作品における「鴨」と「アイデンティティ」をつなぐ、大事な架橋になっている。 「自己肯定感/アイデンティティ/無い物ねだりで。/わたし。/わたし、/なんか、ごめん。」ここに僕は強い共感を覚えます。なんとなく謝っちゃう感じ。本当は誰かに謝る事なんてないのに、申し訳なくなってしまうわたし。二回いうことによって、ただ、自分の中に芽生えた感情を確認しただけではなくて、わたしが無いものねだりしている事に気がついて、恥ずかしくなる意味合いも隠れているように思います。 「ほしいものほど/手から水のように/こぼれてしまう。/こぼれて、しまう。」から、喉から手が出るほどに欲しい物つまり「実体のない個性」っていうものは、水のように掴みどころがなく、手で掬う事は出来ないんだという事が描かれています。「なんて、水面を見ながら考え」てしまう。水面は自分の姿を映す鏡であるから、自分のどうしようもない姿が見えてしまうし、どうしても考えてしまう事になってしまう。そこで、鴨っていう存在が浮き出てくる。 鴨は空も飛べるし、水面の上もすいすいと泳げてしまう存在であって、しかも言葉を知らないから考える必要もないし、あるいは考える事をしなくてもいい。また、鴨みたいな人間が世の中にいたらみたいな事を考えてみると、鴨っていう生き物は凄く器用な事から想像するに、多分、あまり生きる事に対して、何か疑問を覚えなくとも生きれてしまう人間なのかな…みたいなことを感じます。最終連、鴨達が飛び立っていってわたし一人だけが虜残される描写に、僕は人間を見てしまいます。だから、わたしは鴨に自分の人生を投影して、私も器用に自分を持って、あるいは、自分を持つことなんか考えないで、空を飛び水を泳ぎたかった。そのように行きたかった、という風に終わるのかなと思うのです。 また、私が如何に空っぽな存在であるかという描き方も、ダンボールと部屋っていう効果的な使い方をされていて、非常に好感が持てます。私を構成する物が、部屋におかれた本やCDなどの文化的な物であるなら、それら外部的な影響を引っこ抜いたら私という精神=部屋には何が残るのだろうかという思い。それが、引越しの時ぎゅうぎゅうに詰め込んだダンボールというちっぽけな形と、まっさらになった自分の大きな部屋という形で対比になっています。
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