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じのぶんのおはなし
「ふーあーゆー」と問い続けることの連続で、 「ふーあーゆー」と口を動かし続けることの連続で、 わたしたちは形作られていき、 ふとしたときにわたしたちは、 鏡というものをみて 「ふーあーゆー」と問うてみる。 永遠に磨かれることのない窓は 古い記憶のなかの誰かを向こう側に 持っていて 都合の良いときに その誰かをひっぱり出してくる 確かにわたしが 確かにわたしが 望んだはずではあるのに わたしは問うている/Wh- のどを潤す 一滴の水さえも この世の無駄でないのか と 思えるほどに 我が身の愚かさを 自覚しながら も 踏み切れずにいる いくじなし!いくじなし!いくじなし!いくじなし!いくじなしぃぃぃぃ!なんども叫ぶ人がいる/いた 地の文とそれ以外との境界線は消えた。 わたしの前には鏡があって いつも綺麗に磨かれている 地の文との境界線の曖昧さは、 何ものかのために生きるということのために ただひっそりと存在した。 空間は無機質で、 そこにいるというだけで全否定される/何が? わたしを罵倒する声。 響いていたものはいつの間にか消え、 明日をも知れぬというのでもないけれど、 くだらぬ悩みに身を震わせて、 ほろぼす。ほーろーぼーすーっ。 昔ある老婆は、吐露するために/何を? 壮大な物語を行った。 わたしは文字だけの地の文だけの世界に 行こうとした。確かに。うん。いっそのことね。 このまま埋もれてしまおうか 誰かに手を差し伸べさせてみようか この空間は限りなく無機質で そこには窓と鏡だけがあった わたしはそっと念仏でもつぶやくように 唇をはたらかせて 空気を振動させた 「ふーあーゆー」
じのぶんのおはなし ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 955.5
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2017-03-08
コメント日時 2017-03-25
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
じのぶんのおはなし。縮めると「じぶんのおはなし」、「ふーあーゆー」と問い続ける自分。時には鏡の中の自分ですら、何者か分からず「ふーあーゆー」と問いかけてしまう。自分が愚かだと感じ、一滴の水すら飲むことが許されないのではないかと自己嫌悪に陥ってしまう語り手。彼は地の文だけの世界へ逃亡しようとした。しかし、そこで「ふーあーゆー」と言ってしまう。次の瞬間、彼は地の文だけの世界から追放されることだろう。それでも彼は言わずにはいられなかったのだ。 たぶん作者の意図とはまったく関係ないと思われますが、私は「ふーあーゆー」でザ・フーの同名曲を思い出しました。ギタリストのピート・タウンゼントがクラブで泥酔して、最終的に警察沙汰になった失敗談から生まれた曲。あの曲の歌詞は、何となくこの詩とつながっている気がします。英語は苦手ですけど、そんな気がするのです。
0「筆致力」という言葉を、賢き読者の皆さんは御存知だと思うけれども、現代詩ど素人な私は、言葉を知ってはいるけれども、実感として感じる機会があまりなかった。先月、当掲示板がスタートして、その始まりの頃、migikataさんの『この世は終らないそうだ』を読んだ際に、「ああ、これが筆致力を感じるということか」と思ったりしたのだけれども、『この世は終わらないそうだ』はどちらかと云えば、ストーリ性に富んだ作品だった為、特に筆致力が印象として残ることはなかった。 今回、初登場された葛西佑也 さんの『じのぶんのおはなし』。 これこそが、筆致力を読者に実感させてくれる作品ではなかろうか。その実感とは、言葉が、生々しく、私なりに云えば、「ウソが無い」のだ。以前、誰かに教わったけれども「語り」とは「騙り」ともいうと。それに沿って云えば、たしかにウソの無い作品などあるわけがないと思う。しかし、『じのぶんのおはなし』には「ウソとは思わせない」ものを感じてしまう。筆致力とは、高度な技術力であり、「騙し力」ではないかと思う。 まさしく、鏡にむかって自分と思われる映しに「ふーあーゆー」とつぶやくこと。それは、「自分は自分である」という騙しの作業なのだ。読者の皆さんはどう思うか。
0もとこ様 コメント、誠にありがとうございます。ザ・フー、名前は存じておりますが、そこまで詳しくはありませんので、これを機会にと思い、曲を聞いてみました。なんだかコミカルだけど、少し皮肉な感じもあり、素敵な歌ですね。この詩自体は、「地の文」と「自分」を、掛詞的にして、なおかつ「地の文」と「会話」「心内」、「自分」と「他者」とがあいまいになっていくさまを、二重の構造で表現していこうという一つの目的があって書かれたものです。言葉遣いや記号などは現代詩に毒されているようにも見えなくないと思うのですが、古典文学世界に於ける修辞であったり、世界観を現代詩にさりげなく落とし込むというのが一応の目標となっております。それができたかどうか、まったく自信はありませんけれども、コメントを拝見するに、私の意図した内容とそうずれなく読んでいただけたのかなと思っております。ありがとうございます。 花緒様 コメントありがとうございます。自己存在のあいまいさというのは、近代以降、思想分野を中心によく取り上げられるものだと思いますが、この詩の中ではそれはあまり深刻なものとしては扱っておらず、すこし間の抜けた感じで、ある意味あっけらかんと書いたつもりでございました。ですので、ユーモアというお言葉、うれしくいただきます。 三浦様 コメントありがとうございます。「筆致力」なるものが私にあるか否かは疑問なのですが、そういっていただけて光栄です。この詩自体は、おそらく書いたのは三年ぶりくらいです。三年前に「文学極道」に投稿し、その際に断筆宣言を致しました。それまでにも書く、書かないと何度も繰り返していましたので、いい加減にしろというお叱りも受けていたのですが、また書いてしまいましたね。一番最初に文学極道に投稿したのが、12・3年前、詩の書き始めは15・6年前になりますから、まだ書き続けていられたんだなぁと我ながら思います。その昔、文学極道で何かは忘れましたけど、賞を頂いて、それから調子に乗ってしまって、詩誌の投稿欄にも送って、のっけてもらったこともありましたけれども、その時も今も「筆致力」なんて自分にはないなぁと思っています。お名前あげて頂いた、migikataさん、私のしっている右肩さんと同一人物なのでしょうか?あの方は、確かに抜群の筆致力をもっていらっしゃると私は思いますが。 みなさんコメントありがとうございます。他の方の詩を拝読し、私も何かコメントをと思っておりますが、いろいろスローペースなもので遅くなるかもしれません。どうぞ今後ともよろしくお願いいたします。
0この詩は凄い。声にならない声が文字を通して、というか文字の上を這いつくばっていると思いました。読んで思ったのはまず中学生の時の自分でしょうか。「じのぶんのはなし」とは「地の文」であると同時に「自分」であって、平仮名なのはその二つを繋げる為と、文字の上に声を演出する為、という事で三つの役割を内包している、という感じが直感的にしてやはり上手いとしか言えないだろうと思いました。 中学生の自分が、読んでて出てきたのは、「ふーあーゆー」この一言。で、英語を習い始めるのは、今は小学校からでしょうか、多分大体の子は中学からやり始めると思うんです。その時に基本的な例文を沢山習う中で、もっとも基本的な話から文法を見つめ直していくなかで、単純な疑問文というのは、やっぱり自分の根源を問いただすときに凄く便利だなと思うんです。でもそれを日本語でやるのではなく、英語で聞いてみるというのは、少しのカッコ付けでもあったりする。 >踏み切れずにいる いくじなし!いくじなし!いくじなし!いくじなし!いくじなしぃぃぃぃ!なんども叫ぶ人がいる/いた ここもいいのですが、 >ほろぼす。ほーろーぼーすーっ。 ここの言い切り方で、身悶えするくらいに声を感じました。地の文から出ていこうとするけれども叶わないような言葉の力。見えない壁(窓)があってその向こう側に行く事のできない駄々を捏ねるような叫び方が印象的です。 >この空間は限りなく無機質で >そこには窓と鏡だけがあった >わたしはそっと念仏でもつぶやくように >唇をはたらかせて >空気を振動させた >「ふーあーゆー」 最後にちゃんと一番最初に立てた疑問を振り返る形で「ふーあーゆー」を尋ねるという形で、一つの完成された作品をきっちり堪能したかのような気がしました。
0hyakkinn様 コメント誠にありがとうございます。中学生という言葉に、ぎょっとしました。確かに、そのくらいの年齢をイメージして書いた部分があるかもしれません。特定の年齢は想定せず、ただ思春期的な何か、けれども、歳を重ねてもどこかでひきずるようなもの、大人になりきれないイメージで書ききったつもりでしたので、意図と遠くなく読んでいただけたのかなと思いました。いずれにしても、もったいないほどのお褒めの言葉誠にありがとうございました。
0永遠に磨かれることのない窓、という、内面化された窓(鏡)のイメージと、実際に自分の外面にある、綺麗に磨かれた鏡のイメージ。 窓は、他者の作品を通して見えて来るイメージの堆積を透かして見ているようにも思われ・・・対する鏡は、他者の眼に映る自分、他者の眼を通して見える自分、そんなイメージでもあります。 地の文という言葉から、たとえば「おくのほそ道」のような、散文と詩文の混交文体を連想。地の文が平穏な日常(没個性的な人生)、詩文の部分が、創作活動への飛躍を重ねているように予想したのですが、この作品では、地の文にあえて埋没していく、その欲求を示している。となると、「何ものかのために生きる」のが地の文以外の人生で、地の文の中に入り込んでしまう、というのは、自分の為だけに生きる、そんな世界のことなのかな、と思いました。 境界線、というものを挟んで、創作世界と実世界との揺らぎの中で「自分」とは何者か、と問う・・・そのあたりを、より鮮明に、体感的に描いていただけると、もっと読者を奥へ引き込む力を獲得するのではないか、と思いました。 「いくじなし!」や「ほーろーぼーすーっ。」というような口語(話し言葉の音声化)を持ち込むことは、臨場感につながる一方、観念的な自問自答、という全体のテーマに、果たしてふさわしい語法であるのかどうか、若干とまどいがありました。 この部分、あえて万葉仮名にしてみるとか・・・・(吉増剛造みたいになってしまいますが)
0まりも様 コメントありがとうございます。創作世界と実世界の揺らぎ、なかなか難しいことですね。自分とは何者かというという問いよりも、まず「地の文」「自分」との掛詞が先行していて、そのイメージでささっと作ってしまった詩なので、本当はもっと推敲を重ねるべきだったんですよね。我ながら大反省しておりますが。万葉仮名で書くというのも面白いかもしれませんが、なかなか奥深い世界なので、これで正しいのかなど気にし始めてすごく時間がかかりそうですね。どうもありがとうございました。
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