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君について行く
君についていく 山に 川に 海に 森に 砂漠に 火山に 廃墟に どこに行くかわからない その後を 一点しか見ていない そんな君の 駆け出したら止まらない そんな後ろを 不意に声を上げ 走り去る いつも勘違いと早とちりから巻き起こる 今日も始まる大冒険 それがなんだかかわいい 力強い後ろ姿 視界に捕らえてついて行く 今日の理由も 斜め上 正しい道順気づかずに 無駄な力を発揮しての大暴走 あきれるみんなのため息気にしない ついていく ついていくから その後ろ姿が切り開く大世界 その色彩 それと君を目にしたくて ついていく ついていくから おーい それ違うよ もしもーし あーあ またやってしまったね アライさん ちょっと待って ついていく ついていくから
君について行く ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 941.8
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2018-02-01
コメント日時 2018-03-07
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
ユーモアに満ちた作品だと思いました。歌うような軽さが印象に残ります。 読後感としては、〈君〉は、ぐいぐい飼い主のリードを引っ張る、大型犬、のようなイメージもあったのですが・・・ 冒頭の〈山に~廃墟に〉、ここまで壮大だと、月とか太陽のような天体なのかな、とか、あるいは夢想や想像力のような、自分の力では制御しきれない、まるで生き物のように飛び出していく、なにか目に見えないもの、なのかな、という印象も受けました。 〈今日の理由も~〉の歌謡体のような調子の良さ、ここまで軽くする、ということの裏には、実は重すぎる現実、があるような気もしています。重さを、軽い言葉に置換することによって、乗り越える(まではいかなくとも、やりすごす)日々の歌。 二連目以降は、最後の「アライさん」も含めて・・・自由奔放に走り回る、若年性認知症を患っている方の介護のシーンを連想したりもしました。
0まりもさん、こんにちは。 どうやら上手く書けていたようです。 ええ、そのように解釈してくれたら幸いです。 投稿してから全くレスがなかったので、どうなのかと思ってました。 実は一次創作に見える二次創作です。 いずれ百均さんか、祝儀敷さんが突っ込んでくれるかと。
0貴音ですこんばんわなのだ。 懐かしさを感じる詩なのだ。 ポケモンの一番最初のオープニングを思い出させる ワクワクさせる詩なのだ。
0生き生きとした「君」が描かれていると同時に、 「君」への愛情が伝わる表現が、とてもいいなあと思いました。
0ご指名なので参上 後でコメント書くので、とりあえずトップにあがっているうちに印つけとく
0二次創作詩で議題となるのは ①元ネタというコンテクストを知らない(または察することもできない)人が読むこともあることをどうするか ②コンテクストを介さないことを罪とするかどうか となってくると思う ①において、前述の『けもポエ!』は年末に開催されたコミックマーケット93で頒布された。この詩歌句誌の大きな特徴は「文学フリマなどの表現方法を軸とした場でなく、コミケという元ネタを軸として人が集まる場で」「いわゆる「よろず」でなく単一ジャンルによって編まれた」ものだというものだ。コミケでは3日間で3万2千のサークルが参加するため、スペースの配置は似たものが寄せられる。そして『けもポエ!』は創作文芸エリアでなく「アニメ(その他)」という、詩や文章単位でなく元ネタのけものフレンズに準拠した配置となった。これはこちらとしても狙ったものである。これによりスペースには詩歌は介さずともけもフレは介する人々が訪れてくれるようになる。コテコテに文学な人でなくアニメ準拠の人々にとってけもポエはどう映るかのほうに関心があった。 二次創作詩といえどその詩のなかにおける必要コンテクスト量には作品や作者ごとに差がある。(私は流し読みしかしていないが)アニメ「TIGER&BUNNY」の二次創作詩として有名な川口晴美『Tiger is here.』はコンテクスト量がかなり少ないように思える。また『詩と思想』2016年5月号「二次創作、そしてBL」だと北爪満喜氏は同様に少ないだろう。対してブリングル氏はそれらよりはコンテクスト量が多い。渡辺玄英氏も詩自体のコンテクスト量はそれほどでもないがカタカナの「セカイ」からセカイ系、そこからセカイ系の代表であるエヴァまで繋がらないと難しいものがあるかもしれない。 けもポエとこの詩に共通する点は、HAnedaさんは詩自体の必要コンテクスト量はそれほど多いわけではないが、コンテクストを有していないと察せないワードが入ってくるところだろう。けもポエの「君はフレンド」でいえば「つまりはどうかよろしくね」の一文からモノクロームな廃遊園地までつなげることができるし、そのビジュアルから喚起されるもの寂しさが詩に対してスパイスとなってくれる。「君について行く」でも、「廃墟に」、ああーそうくるかぁと思った。作中で廃墟だとフレンズが言及したことはない。そこをあえて書くことでフェネックの聡明さ、また自分たちの世界が捨てられたものだとわかったうえでアライさんと共に行く、この「尊さ」が心に浮かび上がるんだ。 『けもポエ!』だと、矢田和啓氏や葛西佑也氏はコンテクスト量が少ないが全体的には必要量が多い作品が集まったように思える。ちなみに拙作でいえば「いえ」「躍動する石と水と苔とととととと」「あゝ、沃野 -けも山修司-」「ぼくのともだち」の順でコンテクストが必要になる。ぼくのともだちはそもそも元がけもフレ内容の夢だしね。対していえは所謂こはんコンビ(https://dic.pixiv.net/a/%E3%81%93%E3%81%AF%E3%82%93%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%93)を介していないと凡百な詩にしか見えないかもしれない。アメビとプレーリーの関係があってはじめてああ^~ってなる詩だ。 けもポエに必要コンテクスト量が多い作品が集まったことは+であった。それはなぜかというと前述のようにコミケにおけるけもポエの読者はけもフレのコンテクストを有している者となるから、必要量が多いものほど彼らによくコミットして豊かな読解に繋がれると予測したからだ。 ただけもポエはコミケ外でも享受された。これは私が通販も行ったからだが、結果として詩歌界隈の読者のほうが多くなった。そうなるとけもフレ界隈とは違った読み解き方というのが現れるのであって。 まりもさんは実はネット詩誌『新次元』8月号の時評にて『けもポエ!』をとりあげてくれている。 (http://gshinjigen.exblog.jp/26607461/) そこから引用をする。 続いて置かれた九条しょーこの短歌連作「うたえフレンズ」より、最終二歌。 へーきへーき! きみが笑ってくれることそして漕ぎだす勇気が咲くよ 紙飛行機いっぱい飛ばす着陸の場所それぞれをミライと呼ぼう ミライ、とカタカナで書く。ひるむことなく、真っ直ぐに書く。そこに若さと勢いを感 じる。いっぱい、は皆で作品を飛ば す、という意味合いと共に、せいいっぱい、という思いも重ねられているだろう。ひとつの場所への帰着を願うのではなく 、むしろ各人が独立した地に降り立つこと、その希望を乗せて飛ぶ、たくさんの紙飛行機。 このミライ、というのはただ未来でなくミライさんというキャラクターにもかかっている。(https://dic.pixiv.net/a/%E3%83%9F%E3%83%A9%E3%82%A4%28%E3%81%91%E3%82%82%E3%81%AE%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%BA%29) また紙飛行機というのは作中において重要な役割を担う道具である。けもフレを知る者、コンテクストを有する者ならばそれを踏まえた読解を行うであろうが、時評でもあるようにまりもさんはけもフレを知らない。そのためけもフレ界隈では凡そ行われないであろう読解となっている。詩の受け取り方に答えはないだろうが、しかしそれでも前提となる事象を踏まえずに読み取られてしまうとコンテクストを有する者から見れば少々奇異に見えてしまうのは避けられない。古典作品を当時の世界情勢や倫理観を知らずに現代の感覚で論じているのを見ているようなものだ。 完全にコンテクストを必要としないものなんてそうそうないだろう。ましてや詩なんてものは、読者それぞれが詩を読み解くというコンテクスト内にいないと成立しない代物だ。一般の詩歌においても例えば文学史を知ったうえではじめてこの表現は価値があると理解にいたるものがあるだろう。(田中宏輔氏の引用詩とかそれの類かもしれない)しかし二次創作においてはこのコンテクストの必要量が他のものに比べ格段に多い。そのためその条件を満たす読者となると限られてしまうし、不十分な読者に読まれることで方向違いな捉えられ方をされる危険性もある。しかし一方でコンテクストを十分に有する者が読めば、それこそ漢詩の典拠の例の如く、他では味わえない深い読解と幸福が可能になる。 ②については後程。
0カオティクルConverge!!貴音さん♪�,、こんにちは。 実はポケモンについてはほとんど知らないのですが。 割と受け入れやすい詩にできたようです。 ワクワクしてくれてよかったです。 ankoさん、はじめまして。 実は元ネタのキャラ二人がそういう関係なのです。 元ネタのキャラを気に入ったのもあって書いてみました。 一次としても読めると言う点では上手くいったかなと。
0祝儀敷さん、こんにちは。 まさかここまで小論文のような文章を書いて下さるとは思いませんでした。 まず、自分が書いている詩について、読み手はどう受け取って欲しいかと思っているか、述べたいと思います。 自分は仏教オタなのですが、まず般若心経から入りました。 般若心経の内容を簡単に言ってしまうと、物事には実態が無く見方次第だ、と言えるようです。 ですので、自分が書いた詩は、意図的に中傷するような読み方でない限り、最大限肯定します。 好きに読んで、好きに感想を持って欲しいのです。自分の意図が必ずしも正しい訳では無いので。 「けもポエ」の詩を送った後、ふと考えました。 「アライさん」は「荒井さん」とも変換できるよな、と。 そこから人によっては一次創作とも二次創作としても読める詩を書けるのでは。 そう思い、元ネタ二人を気に入っていたのもあって、書きました。 寄せてくれた感想を見るに、一次創作としてはまあ上手くいっており、二次創作としての感想はありませんが、きっと悪くは無いのではと。 それで①ですが。 読んだ人が楽しめるのかという点で考えるなら、この詩は「一次創作としても読めるならば対策できるのでは」という 実験といえます。 次々に一次創作としても読める作品はそう書けるものではないですが、①対策としては有効かと。 現代のように様々な層に向け、かくも多様な作品が色々なメディアで発信されている以上、元ネタを知らないのは必ずしも罪では無いでしょうし。知っていたらさらに楽しめるとしても。 ②についても、楽しみに待っています。
0②コンテクストを介さないことを罪とするかどうか この副題は適切でなかったなと。「コンテクストが許される範囲はどこまでか」としたほうが良かった。 極端なことだが「(こと文章表現、物語表現において)コンテクストが全く無いものは存在できない」「全く一次創作な要素を持ち得ない作品は存在しない」「元ネタそ知る者は知らない者がどう作品を読むかを想像し得ない」というのが結論になるだろう。 すいません、日跨いじゃうと長く書けなくなってしまった。②は軽く書いていきます。 教養をどの程度まで含めるかっちゅう問題になりますよね。例えば、詩やってるなら朔太郎なり白秋なりのオマージュが出てきたら反応できてこそでしょうしそれができないっちゅうのはちょっとなぁと。逆に現代詩のフィールドから外に出たら朔太郎や白秋なんか全然常識でもなんでもない。 物事には記述的な見方と規範的な見方とができる。現象をそのままみるか現象に対し「かくあるべき」と見るか。どちらも場合によって使い分けるべきであるが、規範に関してはこれ時や場によって相当変わる。私個人の感覚だとビートルズとかキングクリムゾンとかはもはや教養の域でベスト盤ぐらいは一度聴いておくべきもんだなと思っている(つうても自分もビートルズは赤盤青盤しか聴いたことありませんが)のですが、ビートルズが低俗なものロックが邪悪なものとして扱われていた時代も確かにあったわけでして。今じゃ音楽の教科書に載るレベルだが。 明日のことなど誰もわからず今日の悪が明日の正義になることもある。シェイクスピアだってそうでしょ、取締の対象にされたんでしょ。 だからもしアニメの二次創作だという点において批判したり質の低さの由来をそこに委ねる者がいたら上記のことをぶつけられたが、幸いそういうのはいないっぽいな。 HAnedaさんが既に仰っているよう一次創作としても楽しめる二次創作というのが元ネタのファンのみで構成されるコミュニティ外で作品を発表するには重要になってくるが、まぁ難しいだおう。実際そういう作品はあって二次創作がきっかけとなって元ネタのほうへ辿り着く人というのは大勢いる。でもそれを狙って作れるかとなると難しいんだろうなぁ。知ってしまった人は知らなかった頃には戻れない。 他の打開策として「世界の同人誌化、楽屋化」ってのもあるだろう。もっと現代詩のフィールドにオタクを流入させるのだ。高齢化激しいんだからそもそもこのコンテクストを解することができる人が少ない。もっと感化させるか、外から詩へ流入させるかして全体に対する率を高くするか。んまぁ~でもほんと、現代日本の風俗に対して詩の世界って違いがありすぎるよね。良し悪しは別としても。二次創作って楽屋ネタかもしれないかれど、でも今の時代その楽屋ネタがわかるって人のほうが多かったりするしね。現代詩のフィールドにてオタク系の文脈を持ち込むことの難しさよ。そこは、それをやれる人たちが一歩ずつ広めていかなくてはいけないんだろうね。 http://originalnews.nico/7148
0渡辺さんのコメントを読みながら、なるほどなあ、と、ただ、唸る他ないですね。「新次元」では、「けものフレンズ」を知らない読者、として読む、と、もちろん断って「読んで」いる、わけですが・・・それって、知っているのが当たり前、とか、大好きで、リスペクトもして二次創作をしている人達から見ると、不遜、に映るかもしれないなあ、と思いました。ロックをテーマにした作品を書評する時、知らずに書くわけにはいかない、と思い・・・ユーチューブで可能な限り聞いて、それでも足りなくて、借りたり、買ったりして聴きながら(歌詞も参照しながら)書評した、わけだけれど・・・私自身に、アニメや漫画を、文学の側の人は特に知らなくてもいいのでは?という「おごり」というのか、傲慢さがあったかもしれないなあ、と思いました。 古今和歌集を知っていること、を前提として新古今が編まれており・・・そこを探り合う面白さが「深さ」に通じると共に、閉鎖性をも生む。当然、修辞過多へと傾き、そこから万葉の素朴さ、純朴さを称揚するという反動が起きたりする・・・当時展開された「詩論」と、吉本隆明のゼロ年代詩批判を巡る様々な議論の往還との構造が、実によく似ている、という指摘を聞いたことがあり・・・その時のことも思い出しました。 西洋詩を読むときに、聖書や西洋古典、ギリシア、ラテン文学などの素養があるかどうか、そこをふまえているかどうか・・・注釈を参照しながら読んでいる段階では、「おべんきょう」でしかない。ハッキリ言って、面白くない。でも、こうした古典教養を「楽しみ」として読んでいる者からすれば、他の人が「知らない」かもしれないこと、を読み解ける、それは、推理小説を読み解いていくような楽しみでもある・・・いわゆるハナ高自慢になりかねない、時にはイヤミな読み方、でしょうけれど。 西脇なんて、まさにそうですよね。でも、注釈を「読んでいない」段階、知らない段階で読んで、衝撃を受ける、面白いと思う、そんなフレーズに触れたとするなら・・・それこそ、テキストの力、といえるのではないか、とも思う。 とりいそぎ、雑感です。
0祝儀敷さん、ふたたびこんにちは。 アニメに対してなぜか不快感を持つ人っているんですよね。しかもかなり感情的で全く理解してくれないという。 そして教養をどこまで含めるのか、ですがこれはこれで厄介なんです。 というのも高校卒業したはずなのに、連立方程式解けない人や新聞に何が書いてあるか知らない人と会った事があるので。 ある程度以上わかってくれない人はいるものとしつつ、誠実な作品作りに励む、というのが自分の現在の答えになりますが。 この作品のやり方は、理解されにくい物を受け入れやすくする一つの方法としてはありかと。 たとえ狙い通りにいかなくても。 あと、現代詩なのに現代の風俗に対して不寛容ということでしょうか。 あり得る話ですが、そのような硬直には新しい血と遊び心が必要です。 こういう作品が、一助になればなと。 まりもさん、再びこんにちは。 人によっては不遜に見えるかも知れませんが、仕方ない点もあるかと。 実際自分の親は、けものフレンズは一切ダメでしょう。かなりの漫画好きな人なのですが、今風のアニメ絵は拒否感が湧くそうです。 食わず嫌いでなく、理解しようという姿勢はあって欲しいですが。 「テクストの力」、確かに本当のその力があれば、多少の拒否感の壁は突破出来るかも知れません。 難しいですけれども、ただそれが好きであれば、やれるかもですね。
0僕はけもフレ知っているので、この話ってああこういうことかと言う風に分かるのですが、故に思うのは、だからなんで知っている事が嬉しいのかという事です。 コンテクストの話は渡辺さんが語ってくれていますけれども、僕なりに思う事で語り直すならば、共通の話題が僕とこの作品にはあるのだなという所に安心感を覚えるからだと思います。 けもフレの話もしたいし、詩の話もしたい人と会いたいのであればこの作品を通じて交流すればいいわけですからね。 要ははコミニケーションが成功していることがうれしい訳です。 それから詩というのは、ショートカット、あるいは飛躍、もしくは、日常では用いない言葉の組み合わせ、用法によって新しい言葉の枠組みを作っていったり、非日常的な言語世界に飛ばされる場所であるからかもしれません。多分分かりやすい物は表だって出てこないと思うんですね。 この詩は僕からすると、この詩にはキャラクターが見えますが、キャラクターが居ません。アライさんはいますが、フェネックはいません。 だからこそ、ここに浮き出ているのは、二人の関係性ですよね。二次創作詩としてこの詩が成立するのは、二人の関係性がいいからです。それはけもフレである事から離れて、この詩に描かれ浮き出てきた関係性そのものが魅力的であるからとも言えると思います。そういう意味で、この詩には明確な関係性が刻まれていると思いますが、でもなんてこの二人にはこの関係性が結ばれているのか、コンテクストを共有していない人にとっては難しいと思います。でもアライさんとフェネックを知っている人からすると、なんで二人の関係って見ていて和むのか、多分この詩を通じて分かると思います。その二人の関係性を詩の中に投影する上において、二人の「名前」や外見といった情報はある意味で不要だとも思います。この詩にはそういう意味で無駄がありません。故に、この詩は誤読されるべきだとも思います。あの二人の関係がいいものであればあるほど、この詩の関係性というのは人の心を揺らすコードとして的確である事に他ならないからです。良い関係性であるからこそ、人間はけもフレに熱中したわけでもあるわけですから。
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