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答え尋ね
苦しみを掴むばかりの私の両手 行動すればうまくいくかなどうかな 退場した人々を逆に恨むのひどいから 避けられない多くの目線の意味を探し集合を求め得た 美しいものへの思慕要らないものにだって憧憬 いなくなればいいなんて誰も思っていないよ 少なくとも情けとしてはそうだ小さく言うよ ただ気が立ってただけさ 方針を立てれば本当に愛だってあったのに 断裂を越えること出来るの 部屋の中では何本もの棒 アレハ「ジカン」デスヨ暗がりに鳴くカナリア 空間は消え失せてしまった 鳥は答えられるかな色ばかりきれいな君は 私が答えられないようなことも言って見せてね 無責任許しがたくなること ひどい顔してみっともないな いつもここにいた私自身分身憎めはしない 秘密ないかまたはある 真夜中に太陽は上らない考えること それは悲しいことうるっとくるね 答える責任を逃れたい 痛みばかりの不安な記憶だ そしてやがて人生は実る 私の全ての光を歌おう 生きることと終えることとは同じように不安なのだから 声がかすれて消えていくのを聞き閉じて終われ最後の心はどんな風 輝きの太陽が残酷な美しさを見せているこの真夏の冬が終わるまでに 幾つの表現が断絶されまた育てられるのか 責任はすべてのものが担っているのさ君は知っているのか
答え尋ね ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1000.9
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2017-04-27
コメント日時 2017-05-08
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
このB-REVIEWをまず拝見して感じたのですけれども、パソコンから送信すると言うよりもスマホ感覚だなぁと。実際に、どの程度の割合で、投稿者の皆さまがスマホから投稿していらっしゃるのかは、私にはよくわからない訳ですし、この詩にしても果たしてパソコンのワードで一度打ってからコピペされたものなのか、それともスマホからいきなり送信されたのかは、私の想像の域を出ないのです。その上で、敢えておそらくスマホから打たれた作品と想像しまして、論を展開します。(但し間違いであれば、これは全くの勘違いから出た評になります。悪しからずお願いいたします。) この詩の面白さは、私から見ますとあくまでも推敲が一見して足りないように見える部分がむしろ魅力的なんです。 人間の脳は、鉛筆や万年筆を使って書いている時は殆どフルに活性している。パソコンから打っている時は半分くらい動いている。ところが、スマホやガラケーを使っている時は、半ば眠っている状態だと言う説を聞いたことがあります。 この詩には、まさに睡眠時の想念のように一見雑駁で曖昧な部分があるのです。覚醒した脳できちんと書いたものを、敢えて後から崩したのではなく、最初から意識、思考の流れを「ユリシーズ」の眠りに落ち込む前のとりとめの無い表現にとどめていらっしゃる感がある。それが、果たしてスマホで創作し、そのまま打たれた作品だからだと断定してよいのか迷いましたけれども、とにかくそう言った新しさがある詩だなぁと思いました。
0朝顔さんの論に触発されつつ。手書きで詩を書いていた人が、ブラインドタッチでパソコンを打てるようになった後、パソコンで詩を書くと、無意識層が自然と現れやすくなった、ということを聴いたことがあります。スマホで自動筆記的に打ち込むときは、なおさらでしょう。 朝顔さんが「推敲が一見して足りないように見える部分がむしろ魅力的」という表現をしておられますが・・・ある種の舌足らずな感じ、とでも言えばいいでしょうか。でも、モタモタした感じにならないのは、言葉の流れが歌詞的に把握されているからではないか、と思いました。 「美しいものへの思慕要らないものにだって憧憬」と、体言止め、対句的に言葉を重ねた後に「~よ」と脚韻的に止めていったり、「いつもここにいた私自身分身憎めはしない」ここにいた私、私自身、とずらしながら重ねたり、自身分身と韻を踏んだりするところとか・・・。「秘密ないかまたはある/真夜中に太陽は上らない考えること/それは悲しいことうるっとくるね」このあたりも、一気に読み流す(歌う)リズムが優先されて、通常の語法が、破壊されるほどではないけれど・・・なんだろう、崩す、とも違う、ずらす、と言えばいいのかな・・・意味を辿ると、当たり前のことを言っているのに、文体の持つリズムで、そこがむしろ新鮮に聞こえるところが面白いと思います。 三連目は、少し観念的になってしまったかな、という印象があるのですが、二連目の鳥かごに閉じ込められている(自ら檻を作りだして、その中に閉じこもってしまっている)歌い手、としての心、詩人の心をカナリアに喩えた部分が、とても素敵だと思いました。
0朝顔さん コメントありがとうございます。スマホ的だとは、書いてて思ったことです。パソコンを使いましたが、意図的にそういった機器 からの影響を意識していました。なぜそんな方法を使ったかというと、言葉の組み立て方をどうするといいのかこまったから です。情報を理解するのに、一つの意味を掴もうとする、そういったある種の言葉の断定的機能を、使おうと思いました。 情報を全て表すための、一つの方法を試してみたのです。 まりもさん コメントありがとうございます。「推敲が足りない感じの文+歌詞的」という表現をおっしゃってくださいましたが、自分では 少しの手ごたえを持ちました。細部にわたり読んでくださり、またそれを分析してくださり、大変に感謝を感じています。 とても時間と頭を使ってくださっている。カナリアは、かわいいでしょう。詩人の心、なんておっしゃってくださり、望外の 喜びです。
0自問自答するとき、詩的な何ものかが生まれやすいと思うのですが、一体それはなんだろうかと、そんなことを考えながら読みました。それは、自浄作用というものなのでしょうか。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ いなくなればいいなんて誰も思っていないよ 少なくとも情けとしてはそうだ小さく言うよ ただ気が立ってただけさ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 無責任許しがたくなること ひどい顔してみっともないな いつもここにいた私自身分身憎めはしない ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 幾つの表現が断絶されまた育てられるのか 責任はすべてのものが担っているのさ君は知っているのか ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 作品から、私が感じました「憎しみのような感情」を抜粋してみました。 自浄作用とは、「現実世界では吐き出せない呪詛を詩作のなかで吐きだしながらそれをまた飲み込む行為」と定義したとした場合、本作『答え尋ね』の語り手のその行為は「生きることと終えることとは同じように不安」という答えに着地する。 そう読解したのですがいかがでしょうか。 自浄作用とは「贖罪」であると。
0三浦果実さん コメントありがとうございます。 自問自答、のプロセスを経ていない詩はなく、もっというと、思考は常に自己参照の検閲を逃れることは、たぶんできない。 その程度は、閾値などによって、さまざまに決定的に付きまとったり、あるいは、忘れて行ったり。 僕は、健療院グループというところのメールマガジンを読んでいるのですが、そこにこんな言葉を見つけました。 引用初め-------------------------------------------------- しかし「言葉を飲み込む」ときには、 実際にのどが何かを飲み込むような動きをします。 しかも、何かを飲み込むときよりも長時間その動きを続けます。 その動きを解剖学的に言うと のどにある咽頭収縮筋という筋肉が緊張することを言います。 さて、ここからが大事なことになります。 何かを飲み込むときには、 この咽頭収縮筋は、飲み込む瞬間には緊張しますが 飲み込んだ後には緊張がゆるんで 元のリラックスした状態に戻ります。 ところが言葉を飲み込む場合、 言葉を飲みこんだ後もこの咽頭収縮筋は緊張したままになり ゆるむことはありません。 これが長く続くことで、色々な症状が出ます。 最初のうちは、のどに違和感が出てきます。 のどの中に何かがあるような感じがする方も多いです。 それはヒステリー球と呼ばれることもあります。 それを飲み込みたくて、たくさん水を飲んだり 食べ物を飲み込んだりしますが、 その違和感は取れることはありません。 更に症状が進むと、 息苦しくなったり、咳が出たり、 吐き気がでることもあります。 実際に吐いてしまうこともあります。 --------------------------------------------引用終わり ( †† 自律神経で幸せになろう †† Vol 228 * * 『 うつ病 ・ 自律神経失調症を克服しよう 』 * 健療院グループ鈴木さんのメールマガジンより。) 詩人というのは、詩に表す言葉としては、飲み込んでしまった言葉を吐き出したいという風に感じることも あるのではないかなあと。そういう観点で色んな詩を見ると、何が多様性をもたらし、何が共通して重要で ありうるか、という分析のような事が、頭に通り過ぎていきます。愛おしさを、感じますね。いい方へ向かうこと、 そんな大原則を、忘れてしまわないことが、生きていくうえでも、詩に取り組むことでも、大事だと思います。 読むのも書くのも、解放へ向かって行くべきではないかと思います。
0答えを尋ねるということは、答えがない状態でないと成り立ちません。何の答えを何故探しているのか。それに、この作品においては、どうやったら答えが見つかるかもわからない、その方法すら模索している気がします。意味のわからない言葉は「辞書を開けばいい」というその方法を知っていますが、この作品の言葉はその方法がわかっていないのでしょう。だから、「行動すればうまくいくかなどうかな」とあり、「集合を求め得」るために、ひとまずの行動を起こします。 小さく言われた「ただ気が立ってただけさ」というのは、垣間見える語り手の本音でしょう。 あと、核になっているのが「断裂」という言葉だと思いました。作中にも用いられていますが、空間=「私がいるここ=内側/私以外がいるそこ=外側・外部」との断裂がこの作品の根底にあるのでしょう。断裂はきっと境界線とも言い換えることができ、暗がりはその境界線を目に映すことがなく、その断裂を一時的にも語り手から忘れさせた時にいるカナリアに「私が答えられないようなことも言って見せてね」と淡い希望を抱いています。 最終連は畳みかけるように語り手の独白が続きます。それも「秘密ないかまたはある」「真夜中に太陽は上らない考えること」と一行の中に、相反する言葉が並べられ、語り手自身が語りながら確認作業=答え尋ねをしているのでしょう。そして、さきほどの空間の断裂ではなく、相反する言葉の繰り返し=言葉の断裂が一行の中で起きつつも融和しつつあります。 語り手の欲望は答え尋ねをしているので、一見答えを見つけたいという欲望を抱いているのかと思いきや、「答える責任を逃れたい」ので、答えを見つけてしまうこと、もしくは、答えが見つかったとしても他者に開示することをきっと恐れています。ただ、それでも「そしてやがて人生は実」り、「私の全ての光を歌」うことを決心します。その理由は「生きることと終えることとは同じように不安なのだから」とあります。 終盤は相反する言葉が語られます。それは、答えを見つけることではなく、答えを尋ねる=答えを探そうとすることへの優位性を示している気がします。結果ではなく、その過程が大切なんだと。そして、相反する言葉そのものが「幾つの表現が断絶」されていることであり、答えを尋ねる行為を示しており、そのことによって言葉=答えは育てられているということなのでしょうか。 責任は確かにすべてのものが担っているかもしれませんが、その責任を全うするのか、逃れるのか、その答えが語り手から示されていない以上、読者はこの答えを尋ねることが必要になるのでしょう。
0なかたつさん コメントありがとうございます。 「分断」がこの詩の背後にある、と言っていただいたと思います。そのとおりです。詩に現れているように、疑念が、 表れています。不安にせっつかれながら、詩を作ったという一例ですね。ご評文に指摘されているのは、カナリアの こともありますが、これは、今気づいたのですが、自分の好きな女性の象徴なのです。 どうもテーマがいくつもあるような気がしますが、それをちょっとアクロバティックにまとめようとして、この詩が出来た気がします。 最後に、なんとなく、詩作法的なアイディアというか、いいますと、抽象的な文章を紡げると、豊かな気がします。 入門的な段階の言葉なのかもしれず、じぶんの段階が恥ずかしいのですが……。すんなりとはいきませんね。
0こんにちは まるで今の私に寄り添ってくれているかのような詩文であると思いました。 たまたま私には、私の元を去った人がいるからかも しれません。 はっとさせられた箇所があります。 ≫部屋の中では何本もの棒 ≫アレハ「ジカン」デスヨ暗がりに鳴くカナリア ≫空間は消え失せてしまった 時間が可視化されている。何本もの棒として事象がある。そしてその代わりに 実存しているはずの空間が 消えてしまっている。 時間というものは過去もしくは未来の双方向に無限のはずですが、有限の空間に棒として収まっているという視座に なにか精神的なメソットといいますか、癒しを感じました。 不安に 寄り添う文章であると思います。この詩の話手の声は小声で たどたどしい感触の書き方になっているところも、寄り添ってくれる文の印象をもったのだと思います。 ≫真夜中に太陽は上らない考えること それは悲しいことうるっとくるね 不安なときは、無限に思えるものです。無限なものを有限として整理しなおすというメソットとして私はこの詩を読みました。つまり答えのない闇に居る読者に ひとつの明かりを見出すメソットとして読んだのです。そうすることで 私の こころの場合は 落ち着きました。ありがとうございます。 わたしは癒されました。ありがとうございます
0るるりらさん コメントありがとうございます。 僕の、悩みを、詩にしたことに対して、ご自分の心にとって有益で良い詩であったと、思ってくださって、ありがとうございます。 僕は、日常的には、あまりしっかりとしていなくて、落ち込むこともあります。そして、それを詩に書くのですが、それは、「自分自身」 のメソットとして、自分のオリジナルを作るには、そうしないとできないということがあるからです。るるりらさんは、様々な日常 を思い出して詩にしたり、色んな変わった視点から、物事に新しい観点を付与したりといった詩が多いと思っています。 そして、僕は、それらの詩は、オリジナルとしての意味が強いと思っています。 僕自身のオリジナルは、人のためと自分のためです。自分のためとは、業(ぎょう)としての詩作、ということです。 例えば、小平邦彦『怠け数学者の記』という本(難しくなく、大変に読みやすい本です)の中に、夏目漱石の『夢十夜』を 引いて、運慶の彫刻の話が出てきます。無造作にノミをふるっても、木の中にもともと存在している仁王像を、ただ彫り出す だけだから、決して間違えない、という話です。数学の場合の彫るとは、「面倒な計算をしたり文献を調べたり」することである そうで、非常に時間がかかるそうです。オリジナルということについて、かなり勇気づけられる話でした。 頭の中でも、色んな部分を使って、自己の可能性を彫刻していくのは楽しいことですね。自分という木が、仁王にもなりうる なんて、妄想すると、素敵です。 寄り添う……辞書を調べると、近くに寄る、という意味ですね。僕自身、人によそよそしくするのがもったいないことだと 考える方です。距離を間違えて怒らせてしまったりすることも逆にあるかもしれませんが、寄り添う、という行為は、 すごく大切ですね。誰もに対して、寄り添う気持ちを忘れないようにしたいと、思います。
0黒髪さんの詩は、優しい。と思います。 それから、聞いてきて心地が良い独白です。話すように書かれた言葉だという感じがします。 僕は中身について、というよりは、黒髪さんの書く言葉の流れそれ自体が、好きなのかもしれないですね。 ここら辺についてはもう既出の感想だとおもいますし、僕も色々書いてきたからほかに何も言えないのですけど、ある意味で一つの完成されたストーリーテラーのような存在を感じます。一つのスタイルの完成みたいなものを。黒髪さんが詩集を出されたら、多分一冊買っちゃうような気がします。勿論全部新作とか、そういう感じですけど。人生に疲れた時に買って読みたいなぁ。。。
0hyakkinnさん コメントありがとうございます。 優しい人の優しさがあったとき、見逃さないで自分の糧にする、そんな風にやってきました。見様見真似というか、くだらない ことも、もちろんしてきたのですが、やさしさの10パーセントくらいは、自分のものにできたというか。 言葉の流れについては、光栄です。もっともっと自然な流れにしていきたいです。 スタイルについては、固まってくると、やはり強みになりますね。詩集についても、考えてはいます。まだ頭の調子 に自信が持てないので、過去作をまとめるのは躊躇してしまいますが。詩というものが、ネットとの相性がいい というのは、面白いですね。そこに、力を加えたのが、発起人の方たちですね。昨日も、母親大会に出たのですが、 ああいった催しをするのと、同じような行為だと思います。みんなを幸せにしておられますよ。
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