作品を読む
疲れてしまったら身体に染み入るものを摂取しましょう
さようなら、こんにちは 簡単なおしゃべりが 今もまだ終わらない *** 感想を書くという行為はいつだって緊張するものだ。というのは、生きている作者が目の前にいて、彼らに対して勝手に好きになったり、嫌いになった結果を突きつけら行為っていうのは、ストリートで見かけたパフォーマンスを無視する時の心の痛みとは違う。明確にパフォーマーの前まで行ってあれこれ注文をぶつけるようなものだ。 嫌なら見なくていい、感想が言えないなら黙って金を払ってその場を去ればいい。自分の中に生まれた感想は本物だ、よくよく考えたら誤解だった。みたいな事を突然言ったり言われたりする関係性というのは、たとえその感覚を無かったことにしようと、努力したところで消えない感情である。その歪さをこうして述べたところで、でも、結果的に言ってしまえば、読んで何かが言いたくなった。というただ、それだけの簡単なおしゃべりに過ぎない事を、悩んでしまって、最終的にこんな事を書いてしまっているのだから、結局のところ、言葉にならない事を言葉にしようとするときに言葉が必要なのだ。 こんな簡単なおしゃべりから全てが始まり、この簡単なおしゃべりは尽く作品の評価とは関係がない。だが、関係を持たせてしまい、このサイトの中に保存される推薦文という呟きである。 どしゃぶりさんはもうどこにもいなく、このサイトに別名で投稿されているかは知らないしわからない。偶々薬をもらいに乗った電車の中で、手に持った詩集よりもどしゃぶりさんの詩が読み返したくなった。ただ、事実だけを切り取ればそれだけのことである。作品の評価には全く関係がない、これは簡単なおしゃべりだ。 *** 一、 ずっと昔、一基の灯台だったころ 蠍の祭で頸をきられた ぼくたちのからだは書庫に打ち棄てられたまま 頸の断面から夜ごと伸びた羽 ヒヤシンスの芽のように 紫色のこどもたちの実がなって ぼくたち、切り刻まれながらも 世間を知った あれから、ぼくは 土くれを寺院にして僧侶になった 夜にはほそい四肢に炭を塗り 砂浜にひとり 火を鏡としてくらす そこにきみの顔がみえた気がしたから けものたち、あたたかい どうか、このまま 朝まで血をくべて *** 世間という感覚はいつの間に持ってしまったのかというところで、世間という言葉はむずかしい。この中に描かれている世間のイメージは僕にはわからない。ということも言えるし、ピンとこないからなんなのだという話でもある。文句が言いたいわけではなく、こうしたしゃべくりの中で見えてくるものは確かにあるわけで、例えば一台の灯台だった、からの頸を切られただけいい。拾い読みしていくのだ。拾い読みではなくてもいい、最悪印象から拾っていけ。文章にも少なからず印象があり、その印象は読み込めば人間が見えてきて愛着が湧き、弾くことができなくなり、印象など所詮何かを判別するためだけの記号でしかない、などと言ったらまずいが、自意識が過剰になる前に興味を持ったイメージが存在するのであれば、そこから読みを開げて進んでいけばいい。読むという行為は喰らい尽くす行為でもあるが、食われる行為でもある。文章に嫌悪感を覚えながら、己のマゾヒズムを震わすイメージを手元に持ったら後は読んでいくだけだ。 作品に殺されてしまえ。 *** 市、 橙色の麦ばたけできみをみた その日から 葡萄をふみしだく花嫁の足首 船をひく偏西風の手首 古時計のねじの回転に きみをみた 夏の空におちる火のなみだ 灰を塗った顔は きみだった *** きみという言葉を見ると苛立ちを覚えてしまう、という事はあまり人に言ったことがない。きみってだれやねん。どこにも何も書いてないのに、君君うるさいねん。と言いながら、自分でも書いてしまう愚かさよ。結局のところ、人称代名詞や指示語は書いた認識が前提としている光景や対象があって、それらを明示的に示すことが無粋であったり、人の感情を入れるための器にしたいのだろうと、思ってしまう。だから、適当に使われているのをみるとサボりだなと印象が殴ってきて全てが終わってしまうので我慢だ。己のマゾヒズムを解放して拾い読んでいく。 例えば、きみは亡霊のような存在で、姿形を描く事を嫌っているような感じがするなとか。足首や手首は人間を表しているわけではない。花嫁は人間だが、花嫁の足首は少なくとも人間の一部でしかない。よくわからなくなってきたのでこれは失敗だ。何が言いたいのかわからなくなってきたらシンプルにこう考えよう。二番目の印象がつげてきたのは、君を形作る要素は、人間の思い出に限らない。具体的な事物な、似たような印象を持つイメージが重なり合い、浅井像を結ぶことできみという、よわっちいイメージとしてしか語れないのではないかということだ。 *** 位置、 この街の 一番高いところに立つきみは 風にたなびく かみのようにまっしろく あんなに強い風、あそこからやってくる 砂漠に生える葡萄の木の下あたり 砂に抱かれて沈んでいった 閉じた瞼に映る涸れ川あたり 今にも張り裂けそうな葡萄の実 それらがたたえるあまい水は 忘れ去られた川の記憶だ 煮出された血液は 複雑な水路をたどり やがて色はうしなわれ みんな、みんな、 きみへとつながる きみの横顔を映す鋏で きみはみずからを刻んでいく 風は吹き散らす、足の先から まっしろな切片を 最後のきみは、どこに宿っていたのだろう この街はきみで埋め尽くされて ぼくはみうしなった *** 見失ってしまった、この蓮は本当にわからない。わからないが、ならば、そこから読み進めていくべきである。わからない事はわかる事よりも、謙虚だとおもっている。分かったといって適当にまとめると人は怒るし、僕もまとめられると怒ってしまうのだから人の事は言えない。言えないのに言ってしまうのは、語りえない事を自分より堂々と語っているからかもしれないが、そんな事はどうでもいい。 至る所にいる君は、灯台だった頃の自分のイメージに重なるのだろう。この詩には葡萄でもいいが、色々と重なるイメージが沢山おかれていて。なんでこんなに執拗に描くんだろうとおもったのだが、今のところの結論は、至る所にきみを見てしまうという事を描きたかったのではないかと思う。つまりoneである。デジャヴといってもいい。 後はそれが今だけでなく、過去形で語られる全てでもいい。何かを読んでいるとき、まるでこれは自分のことのようであると思ったことがあるならそうだろう。つまり、君はどこにでもある器である。 それがいつまでたったもどこにいても立ち現れてくるoneなのだとしたら、幻覚をみているのかもしれないし、幻視的であるともいえなくはない。残念なのは、私の中にあるイメージでは追いつかない部分があるということだ。自分が灯台であって頸を切られたというところから、一番高い所に立つ君の姿に髪を垂らしたら後は髪を切るだけだ。 そこから加速するなら、灯台を男根に見立てて去勢された精神を見ることも可能だが、それはつまらないのでやめた方がいい。すくなくともここにはかいてない。幻視であり、思い込みだ。 というだけの話が書かれているのか、そうじゃないのか、わからないが、少なくともこれだけの文書を書いてしまうくらいには、こうしてどしゃぶりさんの作品をまた見返して好き勝手にいってしまうくらいには、作品に対して安心しているのだろう。とおもったら、僕の中にある君の器はどこまでも小さいなと落ち込んでしまった。 *** さようなら、こんにちは 簡単なおしゃべりが 今もまだ終わらない *** 最近はこんな感じでものを読んでいる。 どしゃぶりさんおすすめです。
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作品データ
P V 数 : 1124.0
お気に入り数: 0
投票数 : 0
作成日時 2020-11-28
コメント日時 2020-11-29
簡単なおしゃべり、読んで楽しかったです。どしゃぶりさんを初めて知りました。
1ネンさん 読んでくださりありがとうございます! 楽しかったと言ってくださり、うれしいです! どしゃぶりさんの詩はなんか理屈抜きで惹かれる所があるので、いいんですよね… まぁもうBREVIEWにはいらっしゃらないのかなと思うんですが、偶に読み返しています。 ありがとうございました。
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