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藁の家
墓参は真冬 風は 石の十字架を鉄に変える その手触りは 記憶の父にそっくりで 「死んだらどうなるの」と問えば 「記憶も意識もない闇だよ」と 夜の岸辺を指さして父は言う ああ 瞬きで夕食の味が消えていく おとうさん あなた こわくないのですか 鼻づらにぺったりと 夜がはりついていますよ 叫んでも父は岸辺に腰かけ 不機嫌そうに飯を食う やがて夜の海に逃げていく父 常夜燈がともる病室で 「よう来てくださった」とひとりごち 渇ききった歯で私を消したら そのままふいに死んでみせる おとうさん 幼いころから あなたを見るといつも不安でしたよ 大きなからだは男という藁の家 あなたのからだがばらばらになる いつか私もばらばらになる
藁の家 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1022.7
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2017-02-13
コメント日時 2017-03-04
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
どしゃぶりさんの作品は相変わらず怪作ですな。この作品について、石の十字架=鉄の十字架になったのは恐らく父なのだけど、父の屈強さではなくてもろさ、弱さ、それも肉体的な弱さが強調され、それはカフカの『審判』にも重なる部分があるように思います。
0小学生の時に、初めてつげ義春の「ねじ式」や「ゲンセンカン主人」を読んだ時のワクワクするような恐怖感を思い出しました。「石の十字架を鉄に変える」に関しては私の読解力不足と寝不足のためかイメージが浮かびませんでしたが、この詩に関しては、もう第三連だけで読む価値があると感じました。つげ義春を連想したのも、この恐ろしさと滑稽さの入り混じった第三連のせいです。 この語り部は父親にによって人生を狂わされた、あるいはそう信じているのかなと思ったのですが、これは私自身の家庭的事情のせいかも知れません。
0はじめまして。 鼻づらにぺったりと 夜がはりついていますよ という表現が、なんとなく気に入ってしまって。 私の人生の中で父親は途中で別れた存在なのですが、彼のことを今でも思い出します。 この詩を読んで、またふと思い出しました。 別れ際の父の泣き顔、そういったものです。 細かく分析して読むことは苦手なのですが、詩の全体から滲み出る空気のようなものが統一されていて、勉強になりました。
0どしゃぶりさん 投稿有難う御座います。 ごめんなさい。コメントを書こうとしたんですが、『藁の家』を読んで、かなり、思索しております。 もう少し、まとまってから、もう一回書かせていただきます。
0はじめまして。冒頭三行でひとつの世界を作り出すことに成功している。疑問に思ったのは、その、という散文的(説明的)な語が何を指しているのか、ということと、そっくり、という、これまた説明的な語ではなくて、これは父の○○だ、というような形で、実感をこめて言い切ってしまった方が衝撃力が増すのでは?と感じました。 石も冷たいけれど、まだ温もりやざらついた質感がある。それが、触れているうちに鉄・・・冷たくてつるりとしていて、人間の肌を拒絶する硬度を持ったもの、としてしか感じられなくなる。その変化が、父を(その冷ややかさ、冷酷さ?)を思い起こさせる、ということなのか・・・迷うのは、風という、ポエジーを盛り込むのに実に便利な語が先に来ているので、風が石を鉄に代える、とも読めること。 墓参が、先祖の墓で、地縁血縁に縛られる暗さを指しているのか、既に父が死んでいて、その墓参なのか・・・父の墓なら、風は父の気配、再来する魂を予感させる風。十字架の変容に、父の何を重ねているのか、死を恐れない異常さ?が鉄の魂と感じられたのか・・・ とまあ、既に冒頭の奥行きにつかまって長々書いてしまいましたが・・・内容や、意味を説明する詩にしてほしい、ということではないんですね・・・むしろ逆。 あえて言うなら、作者がどんな意識で書いていたのか、そこを詰めているのか。詰めずに、曖昧なまま何となく、詩の世界を作り出すところに主眼を置いていたのか、どちらなんだろう、というところが、バシッと伝わってこなかった、のでした。
0作品『藁の家』は、父と子が、同じ男でありながら、それぞれが持つ父性には差異があるという断絶感をあらわしながら、 「父性=社会のルール・囲い(藁の家)」の強度は、見た目ほど強くはないのだという、脆弱さを込めた作品だと思いました。
0こんにちは。露崎です。 最適な長さ、最適なポエジー、最適な読みやすさ、最適な解釈の幅。と かなりのテクニシャンだなとおもいました。テクさんって呼んでいいですか(ウソです)。 父親とのベストな距離感が今でも掴めないこのどうしようもない感じがねー、切なくてよかった。 フレーズ単位でいくと「ああ 瞬きで夕食の味が消えていく」とかお金だして買いたい一行。 とはいえ、最適化が進みすぎてどうしても小品感があり、そのへんが課題じゃなろうか。とおもった。
0▼論旨 初連の【風(化)】から終連の【ばらばらになる】に至るまで、全修辞に強靭な必然性があり説得力があってもう最高です。具体的には、たとえばこういうことです。 ①記憶が「風化する」(初・終連) ②記憶を「噛みしめる」(2・5・終連) ①②は一見、対照的な(相反する)事柄ですが、どちらも「父を【ばらばらに】(終連)するもの」として、詩の最後に集約されています。だからこの詩の結論には、逆喩のような重みがあり説得力があるわけですね。人を忘れることも、人を忘れまいとして噛みしめることも、どちらもその人を失わせる行為にほかならないのだね、と感じにです。 もう忘れかけている父の断片的な記憶を、おそらく的はずれなまま噛みしめ、継ぎ接ぎしているのだから、この「信頼できない語り手」の心象風景は、感覚のずれた非現実的なものにならざるを得ません。全表現に強靭な必然性があり説得力があります。「この詩は単なるでたらめな詩情や、単にかっこいい字づらの羅列ではない。このように書かれるべくして書かれたのだ。」と納得できるから、安心して堪能できるわけです。 * 強いて、欠点と見なせるか否かも疑問であるところの欠点を上げるなら、「解釈の幅がありすぎる。」これだけですね。語り手をなに者と想定し、語り手が父をどう思っていると見なすかによって、詩から読み取れる内容が、まったく変わってしまうということです。 たとえば、「語り手は父から性的虐待を受け、認知症の父の介護を拒否した女性である。」と想定して読むと、エセ心理学的な筋が完璧に通ってしまいます。「この詩は全体が比喩であり、【十字架】の象徴する贖いとその思想を表現している。」と想定して読んでも、やはり筋は通ってしまい、しかも宗教的解釈の大混乱に(読者が勝手に)苦しみます。そういうのを欠点と思うか思わないか自体、作者様の信条によりますから、読者の側から一概に欠点と断ずることはできません。 「解釈の幅がありすぎると、どう読まれてしまうのか?」 これを吟味なさったうえで、解釈の幅を欠点と見なすか見なさないか、作者様が判断なさるべきだと思うのですね。そういうわけで参考事例として、下記にわたしの趣味の鑑賞を置いていきます。 ▼鑑賞(※文章を煩雑にしないため断定形で書きますが、すべて筆者の推測です。) 題名『藁の家』は、聖書においても三匹の子豚においても「一大事のとき真っ先に消え失せるもの」ですね。詩はそれを【男】に擬えていますが、これは日本の家父長制を【家】と極論したものでしょう。藁葺き屋根のような、枯れたような老いた髪の、貧しい寂しい父の姿が目に浮かびます。それは戦争など一大事のとき、真っ先に死ぬべきであったのに、生き残ってしまった男の姿なのかもしれません。 男性優位社会において父は、「男の甲斐性」という強烈な重圧にさらされます。いままでいったいどれほどの父が、その重圧に押しつぶされて死んだことでしょう。わたしの実父も、病気で働けなくなったのち、家族に保険金を遺すために自殺したのですが。そのように父を文字通り押し殺す重圧は、「家族の重み」にほかなりません。 だから子である語り手は、孝行してやれなかった父の死に対して、原罪さながらの罪悪感を強いられるのでしょう。罪悪感のゆえに、逆恨みもしているのかもしれません。 【夜の岸辺】、此岸と彼岸を隔てる三途の【海】に、父は逃げたと詩は語ります。亡父は彼岸へ渡してもらえず、死んでも死にきれない亡霊として語り手に縛られています。死んだ父が生きている子を縛るのではない、生きている子が死んだ父を縛るのです。 * 情景の核心は、「父の記憶を噛みしめる」動作の描写にあります。その動作は、初連に顕著に提示される「父の記憶の風化」に対抗するような行為ですが、どちらにせよ父を【ばらばらに】する事象です。 記憶の【ばらばら】の断片の、継ぎ接ぎでしか父を語れないので、語り手の父に対する意識は「的外れ」(※原罪の原義)です。墓参りに来ているのに、2連以降、夢のようなあいまいな情景でしか父を回想しないという表現が、その複雑に的の外れた心象を描出しています。 語り手は的はずれなまま、風化した父の記憶を噛みしめています。おそらく父も生前は、自分が負っている語り手(子)の命の責任を、的はずれなまま噛みしめていたのでしょう。 父は、語り手に噛みしめられて【ばらばらに】なります。【味が消える】ほど噛みくだかれ、しかし理解はされません。ずっと咀嚼され続けて、いつまでも飲み込まれません。 「未消化」「腑に落ちない」「溜飲が下がらない」。父の死を理解してやれず受け容れてやれないという感情が、父の記憶の風化に抗うように、詩句につきまといます。 たとえば初連。 ▼引用開始------------------------------- 墓参は真冬 風は 石の十字架を鉄に変える その手触りは 記憶の父にそっくりで -------------------------------引用終了▲ 【十字架】には無数の示唆がありますが、ひとまず、題名の【家】および5連の【渇ききった歯】との関連で、「骨/骨格/肉体(霊の対義)」と見なせるでしょう。足を閉じて立ち両腕を左右に伸ばせば、人間の体は十字架を象ります。磔刑に処されたイエスは、その格好で死にました。 したがって【十字架】は、父の死をイエスの磔刑に擬えたものと思われます。父が贖いのために死んだ、語り手のための犠牲であったことを示唆するかもしれません。 【石の十字架】は父の墓碑でしょう。言ってみれば父は、その十字架に磔にされているようなものです。 対して父の記憶の【風】化によって現れる【鉄の十字架】は、クリスチャンのシンボルでしょう。語り手は首に意味の風化した象徴を書け、胸に「磔られた父の死体」を下げているのです。その姿を想像すると、まるで「父の磔が語り手の体に磔られている」ようです。 父を磔けている十字架が、子の体に磔けられています。そのように亡父は、子と不可分であり、しかし一体とはなりません。理解されず受け容れられません。噛みしめられ続ける父は、いつまでも子の腑に落ちず、子を活かす糧にはならずに、実態のない象徴として子の胸に居座り続けます。親からすれば「死んでも死にきれない」待遇でしょう────そのように「的外れ」(※原罪の原義)な感慨に、この詩が満ちているのは、風化した記憶を噛みしめるとこうなるという黙示です。 ▼結論 きりがないので大概にしますが、いかがでしたでしょうか。上記の鑑賞が作者様にとって不本意なものであったら、それはこの詩に「解釈の幅がありすぎる」ため起きたことだというわけです。 読者にとってよい詩の鑑賞は、ひたすら楽しいのでして、作者様がそれをどう思うかなど、ぶっちゃけ知ったことでありません。であればこそ作者様が、自作の解釈の幅をどうすべきか、読者をどこまでリードすべきかをですね、真摯に判断なさらんといかんのです。以上の教訓をもって話を終わりますが、つまり結局、どしゃぶりさんの詩はすごいですね。ひたすら楽しいのでもっと読み語りたいです。
0全体を読んでから、冒頭部分に戻って、書こうと思っている内に長くなってしまったので、いったん終了・・・していたら、澤さんがガーッと書いて下さっていた・・・ 乾ききった歯(病室で意識のないまま眠り続けている父の奈落の底のような口のイメージ)を思わせつつ、渇望し続けたイメージも重ねつつ・・・の部分、「子」が「父」の闇の中に飲み込まれていく(噛み砕かれて、消滅していく)感があって、興味を惹かれました。グレートマザー的に、子を精神的にも身体的にも飲み込んで消滅させたまま、勝手に死んでいってしまった父への愛憎(と簡単に言い切れない)感情的葛藤・・・を、アラン諸島の岸壁に並ぶ石の十字架の荒涼とした僧院の光景、のような寂寥感の中に描き出している、という印象を受けた、ということを、付記しておきます。
0みなさま、お読みくださり、本当にありがとうございました。 あんまり十分にお応えできていないかもしれませんが、お返事させていただきますね 花緒さま B-REVIEWのオープン、改めておめでとうございます! なんだかこのサイトができてから、生活がちょっとだけ変わってしまいました。笑 作中の「父」は、どストレートに、作者的には現実の父なんです。でも、詩としては父性、男性性ももちろん孕んでいます。そして、ご指摘の通り、主に男性性、ひいては「男の身体性の希薄さ」を槍玉にあげております。 kaz.さま 怪作との評、うれしいです。というのも、わりと素直に書いたもので、言葉のリズム感とか少年ぽくてなんかダサいなーと自分では思っていたんです。笑 なので、怪しさを感じてくださったのなら、作者としてはとても救われます。 もとこさま 私もつげ義春、大好きです! あと、諸星大二郎も大好きです。 怪奇とか恐怖とか全く狙わずに書いていたので、うれしい誤算です。 第3連、そんなふうに言ってくださって、ありがとうございます! 死後は天国に行くと無邪気に信じていた幼少の私に、父は「死んだら無だ」とにべもなく言い捨てまして、以来、死ぬのが本当に恐ろしく難儀しています。笑 Ichigo Tsukamotoさま 先ほどのもとこさんもおっしゃってくれましたし、私のリアルの知人に読ませたところ、やはり第3連が印象に残ったと言っていました。 私は結局、父の別れ際には立ち会えなかったのですが、父はキリスト教の末期の洗礼を受けました。「死んだら無」と嘯いていた父ですが、いざ死にゆくとなると、朦朧としながらも「アーメン! アーメン!」と叫んでいたそうです。この話に、当時、私は一層困惑しました。 まりもさま たしかに、「その」や「そっくり」は説明的なんですよね。詩は喩えに尽きると思うのですが、今でも書いていて、「これは読んでいる人がちゃんと暗喩と感じるだろうか」と自信がもてなくて、でも「~のような」と直喩にするのもあからさまで、挙句「似ている」と手癖で書いている自分がいます。そして、うんざりして筆が止まります。改めたいです。 さて、石や鉄の十字架なんですけど、なんにも詰めずに書いていました。実際に真冬の風がびゅーびゅー吹いている日に墓参りしたのですが、墓石が冷たくて、鉄みたいな手触りでした。それをそのまんま書きました…… 勝手に死んでいってしまった父への愛憎(と簡単に言い切れない)感情的葛藤 これはまさに、その通りなんです。うちの父は本当は何を考えていたか分からないまま死んでいったので、「父」というものがよく分からないなあと。その不可解な存在≒鉄仮面的なイメージで、墓石が鉄に変わったところもあります。 ところで、アラン諸島ってアランニットのアランですか? 漁師って感じでかっこいいですね! 父の墓があるのは山の中なんですが、できれば自分の詩の世界観を「海」で統一したいと思っているので、とてもうれしいです。 三浦果実さま 制度としても存在としても、「男」って脆弱だなあと思うんです。で、その脆弱さをうまく晒せる男は色気がありますが、結局は囲いをつくって「見せない」のではなく「見えない」ようにしようとする人が少なくない気がします。それは無粋ですわね。 あんまり答えになってなくてすいません…… 鈴木海飛さま 「心を奪われる」とは! うれしいやら恐ろしいやら、今まであまり感じたことのない心持ちです。笑 ありがとうございます。 おそらく鈴木さんの感想こそ、作者がこの詩で書きたかったことの半分(叙情的な部分)を完全に言い表していると思います。 ちなみに、私もこの詩を書いた1年後ぐらいに娘が生まれました。 それまで「父」というものが分からず、子どもをなす気が起きませんでしたが、これを書いたことで何かが変わったのかもしれません。 たくさん書いてくださったのに、短いコメントになってしまいました。すみません。 いや、実際感無量なのです。 露崎さま テクさんwww いや、それが、長さに関しては人に言われて、3回ぐらい全面改稿した結果、この長さに落ち着いたという経緯がありまして、自力じゃないのです。長さのみならず「最適」ということに、いかに自分で気づけるのか悩ましいです。 そして、「小品感」というのも、まさに課題です。私、長い詩が全く書けなくて困っています。現代詩手帖に投稿したいんですけど、あれ見てると、みんなものすごい長いの書いてますよね。それに比べると絶対見劣りするだろうなと思って、あんまり積極的になれません……。 「お金だしても買いたい一行」、うれしすぎます。ありがとうございます! 澤あづささま すごい読み応えの批評、ほんとうにありがとうございます! 望外の喜びです! 「結論」でご指摘くださった「自作の解釈の幅」ですが、各作品それぞれにリード度を設定できればいいなとは思います。が、今の私には本当に難しい問題です。というのも、自作を自分で全然コントロールできていないのです。数行書いては止まり、しばらく放置して、新しい素材を加え、あるいは削り、あるいは全くコンセプトの違う詩に移し換えたりしながら数カ月かけて、ようやく詩の体裁になるというていたらく。かなり偶然と霊感に頼って書くのに精いっぱいという状態です。とにかく今は書き続けていれば一皮むけることを信じて、愚直に書いております……。 個人的には、こうして読んでくれた方がいろいろに解釈してくださったことに、思いもよらぬことがあったりして最高に楽しく、かつ勉強になるのですが、甘えてばかりもいられませんね。
0こんにちは、「父」と「冬」のイメージで高村光太郎を思い出しました。 でも、光太郎とのつながりで何かを話すことはあたしには出来そうにないので、読んで思ったことを書きます。 冒頭からイメージがはっきりしているように思いました。 風の強い冬の日に父の墓参りに行き、父との記憶がよみがえり、記憶の中の父に語り掛ける。 とてもスムーズに展開していくなかで、たとえば最後から3つめの聯「渇ききった歯で私を消したら」という引っ掛かりもあって、ここで立ち止まって作品全体をもう一度見てみることも出来ました。(あたしはここで「私」の性によって読みが大きく変わるなあ、なんてぼんやりしているだけでしたが) タイトルも好きです。最後から2つ目の聯や最終聯と「つきすぎ」ているように思いましたが、これは好みかと思いました。
0墓参は真冬 すごくいいですね。真冬の墓参ではない理由が分かります。墓参は真冬の方が冬のそれも厳しい寒さの中薄暗いイメージが墓参にかかってきてとても味わい深いです。次に風は、とありますが次の行はだいぶ力を持った言葉が並んでいるのでここで一回切っているのでしょう。真冬に吹く風が墓石にあたる情景がよく浮かぶのでここで風は、と二語で切っていることは成功していると思います。真冬と墓石をうまくつないでいる。十字架型の墓ではなかろうと思うので、墓に宿っている死のイメージ(あるいは単に墓の中の父としても差し支えないと思います)を十字架と表し、それが石から鉄へと変容する。記憶の父にそっくりな手触りだということからなにが読み取れるでしょうか。石から鉄へと変容していく手触りとはどういったものなのか。あるいは鉄の手触りということでよいのだろうか。第一連は解釈の幅が大きく面白く読みました。石の十字架を鉄に変えるという一文で表現したかったのは、死んだ父が硬化していくような意味合いを持たせたかったのか、それとも真冬の墓参に風が当たる情景を効果的に補完したかったのか。記憶の父とあることから前者メインで後者もありというような感じだろうとして進めます。 「死んだらどうなるの」という普遍的なストレートな問いに対する、「記憶も意識もない闇だよ」という受け答え。この作品でなければ浮いていたような表現も必然性をもって受け止められます。記憶や意識といった単語はとても抽象的で日常生活でも使用頻度が高く組み込むことは難しい単語だろうと思いますが夜の岸辺を指さして死後の世界は記憶も意識もない、あの夜と海が混ざったような暗い闇だよという父の姿は大変すんなり受け入れられるイメージでした。瞬きで夕食の味が消えていく。これは露崎さんに同意で僕も参ったなと思う表現です。拍手。ですがこの部分がこの連にある必然性はあまり感じられなかった。父との受け答えに代表される父との記憶が消えていく様をあの頃の食卓の夕食の味を忘れていくことに重ねて暗示したのか。それとも夜の岸辺というのは比喩で、たとえば食卓上の何かなのでしょうか。たとえば母を指さしそのように言う真冬の鉄のように心の冷たい父の前で食べいているものの味もわからなくなってしまったということなのでしょうか。 鼻づらにぺったりと夜がはりついている これもまた丁寧な一文です。夜は死なのでしょう。こわくないのかと叫んでも(本当に叫んだとは言っていない。)不機嫌そうに飯を食う父は、無鉄砲で不愛想な性格なのかもしれません。死に言及されて不機嫌そうなのかいつも気難しいのか。飯を食うとはどういう比喩なのでしょう。比喩ではなく本当に岸辺で飯をくう父の情景に書かねばならない何かを見出したのでしょうか。どちらにせよ面白い一文です。不機嫌そうに飯を食う。これまでの描写で見えてきた硬くむつかしい父が岸辺に腰かけ弁当を貪り食う情景がくっきりと浮かびました。それは筆をとるにあまりある情景だと思います。 やがて父は死んでいくわけですが、それを逃げていくとしたのはどうしてでしょう。生き急ぐ父がどこか進んで終わりを迎えたそうに私には見えたのでしょうか。よう来てくださったとはずいぶん弱弱しい言葉です。それがひとりごち(ひとりごと)なのは私が返事をしていないからでしょう。父の弱さ、子どもに(はじめて)すりよってくる父の姿に私は怒りのようなものを感じたように思えます。渇ききった歯とは、喋り続けて、子どもに話しかけ続けて乾いてしまった口のことでしょうか。死が近い父にとっては私がどう応えるかどうかなど関係なくただ自分の思うようにまくしたて、見舞いにきた私は消えてしまう。そして死ぬ父。 幼いことから感じていた不安、それは藁の家のように吹けば飛ぶようなはかなさ、脆弱性。それは父の死によって回収されました。そしてそのはかない姿に私の姿を重ね合わせ、いつか自分も同じようにばらばらになってしまうのだと。最終連ではじめて親子としての血を意識させるものになっています。最後にそれを持ってきたこと、作品としての強度をとてもあげているように思えました。 澤さんが言っているように必然性をひしひしと感じる詩ですが、一方で解釈の幅が存分にあり読むのが難しい詩でした。といっても自分なりに意味をあてて読んでいくのは楽しく、面白い詩でした。それが意図的であれそうでなかれこの詩の価値を損なうものではないと思います。
0藁の家、父、おとうさん、あなたは、たとえば夜の岸辺を指さして、死んだらなにもないと言い、病室をおとなえば、よくきてくださったと、まるで私を忘れてしまったように言った。鼻づらにぴったりと夜がはりついている、と言っても、不機嫌そうに飯を食べるだけだった。幼い頃から、あなたを見るといつも不安でした。ふいに死んで見せる、大きな背中の父。 墓参りは真冬。すべてはばらばらになるのに、石の十字架を鉄にかえるような。そして、記憶のあなたそっくりなような。父、おとうさん、あなたは、藁の家でした。ばらばらになってしまったものがあり、そしてまだばらばらにならないものがある、この世界で、私もいつかばらばらになる。墓はばらばらにならずに鉄になった。あなたは、ばらばらになってしまった。でも、あなたの記憶や、魂は、ばらばらにならず、私のなかにある。まるで真冬の冷たい鉄のように。この世はたくさんの藁の家であふれている。全てはばらばらになろうとする。それでもばらばらにならないものもある。そんなものを背負いながら男は生きる。
0caseさま お読みくださりまして、ありがとうございます。 結構見たままを書いていまして、「歯」もただの父の歯です。祖父母の時もそうだったのですが、死ぬ前後の人を見るとなぜかまず歯に注目してしまいます。肌のほうがよほど死者然としているはずなんですけど、かさかさに乾いて白茶けている歯のほうが雄弁に何かを主張している気がしてしまいます。 そんな歯の父がもう錯乱して自らの子だと分からずに、他人行儀な挨拶をするものですから、ずいぶんぎょっとしました。 fujisaki fujisakiさま お読みくださり、ありがとうございます。 父は進んで終わりを迎えたがった節が確かにあったのですが、当時、私はまだ大学生、弟はこれから大学進学というタイミングで大変金がかかる時期でしたので、父はたいそう無責任だなと思いました。 というのも、父は自営だったのですが、ある時から仕事をあまりしなくなり、治る病気だったにもかかわらず病院に行かず、手遅れの状態になるまで放置していました。 こうした父の一連のあり方がとても不可解で、私には逃げたように感じられました。 Kolyaさま お読みくださり、ありがとうございました。また、投稿を勧めてくださって、ありがとうございます。とても勉強になりました! この世はたくさんの藁の家であふれている。全てはばらばらになろうとする。それでもばらばらにならないものもある。そんなものを背負いながら男は生きる。 最後の1連を書いた頃、確かにこういったことを考えていたと思います。一つひとつの言葉とか何で選んだかとか、どういうつもりで書いたかとか、意外と忘れますね。
0どしゃぶりさん いつかからだがばらばらになるのを作中の方は恐れることなく、どこかクールなまなざしで、記憶といまと、未来のすがたを達観している、不思議な作品でありますね。けれども、生きてゆくことの延長で死があるとは、だれしも命あるうちは、考えられないことです。ただ、魂なんてチャチなものではなく、わたしはもっと、カタチあるものとして、からだを喪いたいのです。ですから、骨の意識で土葬されるのが本望なのですが、この国ではうまくゆきませんね。からだがばらばらになり、骨もばらばらになり、わたしたちは、いったいどこへ向かってゆくのでしょうか。その、わからないことへの不安感が、親への愛情とかさなり、イタイくらいにかんじました。
0どしゃぶりさん、こんばんは。 拝読させて頂きました。 沢山の方が深いコメントを残されている理由が分かる、とても惹かれる作品でした。 私がこの詩を通して感じたのは、息子が父に持ち続けた同情(怒りを通り越して)のようなものでした。 生に対して意味を見出だす事が出来ずに、ただただ死に急いだ父の一生。家族とも(おそらくこの方は誰とも心通わす事ができないまま逝かれたのではないか。気を悪くされたらごめんなさい。)繋がれずに最期を迎えた、父の姿に哀しみしか見ることのできない主人公。その哀しみは墓石の冷たさによって尚増幅され続けている。 どなたかが、最後の行に、初めて親子の血を感じる、と書いておられましたが、私もそう感じました。それは、理解出来ないと言いながら、父の抱えていた哀しみを、幼い頃から感じていた唯一の存在としての息子、という意味合いでですが。 もしかしたら、お父様にとっては、(お嫌かもしれませんが)たった一つの救いかもしれません。
0この作品は、僕は凄くレスするか迷っていて、それはもう大体レスも出尽くしたのもあるんですが、一応やってみようと思います。他の方のレスを踏まえて読むと多分凄く面白いんですが、今の僕の状況からだと手に負えないくらい膨大なものになっているので一端無視して読んでいきます。というのも、多分話題がかぶるからです。 >墓参は真冬 >風は >石の十字架を鉄に変える >その手触りは >記憶の父にそっくりで この感じた「手触り」というのが上の三行に凝縮されています。ポイントなのは「記憶の父」≒「その手触り」であるということ。その手触りがつまり父であるということです。つまりこの作品の根底に流れる記憶の父というのは、最初の三行で全て固定されているということ。だから僕らは略して「鉄の十字架」をどう受け取るかによって、この作品の読み方が変わってくる。そして父親というのは得てしてその人の人生に影響を与えることが多い訳で、だからこそこの作品っていうのは、そういう意味で人を選ぶ作品だと思います。だから、僕は最初この作品が読めなかった。でも自分の父親を「鉄の十字架」に当てはめていくと、色々思い出すことがあり掲示板には書けない私情がむくむくと湧いてきました。だから、僕にとってはこの詩は最初で全て決まってしまっているんだ。 僕の父はまだ生きているし、というか最近漸く色々あったんだけど和解したばかりで、その時のことを思い出すと同時に、この先僕は墓参りするときがもし来たらこの詩のこの先を僕はどう読むんだろうと思いました。
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