作品投稿掲示板 - B-REVIEW

なかたつ


投稿作品数: 35
総コメント数: 301
今月は0作品にコメントを付与しました。
プロフィール
記録
プロフィール:
詩 バンド 天然パーマ 飯島耕一 西脇順三郎
自作の一押し・・・・

なかたつの記録 ON_B-REVIEW・・・・

精力的初コメント送信者

作品への初コメント数バッジ(くわしく)
獲得バッジ数

活動的レッサー(月毎)

月毎コメント数バッジ(くわしく)
獲得バッジ数
✖0 ✖0 ✖3

ベテランB-Reviewer

総合コメント数バッジ(くわしく)
獲得バッジ数

無双の投稿者

投稿作品数バッジ(くわしく)
獲得バッジ数

大賞受賞者

大賞作品数バッジ
獲得バッジ数

打刻

2020-12-26

Konstellation

2020-12-05

ようすい

2020-09-26

編集

2020-07-31

しゅっせき

2020-06-30

ようせい

2020-04-29

けいじ

2020-01-31

証明写真

2018-12-29

俯瞰

2018-10-31

募集中

2018-10-15

語り、手

2018-08-31

ちょうりょく

2018-07-26

デイヴィッド

2017-10-29

夢の償い

2017-10-22

父の、からだ

2017-09-06

青の断章

2017-08-30

星の誕生日

2017-08-20

2017-07-17

大宮公園

2017-06-29

ということ

2017-05-28

道なり

2017-04-09

証明書

2017-03-18

あの夜の街で

2017-03-12

「地下道」 あ、俺、この曲すきなんだ なにこれ 主よ、人の望みの喜びよ へえ バッハの曲だね さあ うたうんだ さんびするんだ 最後のお願いがあるんだ なに 十秒だけ目をつむってくれないか 王様のアイディアで待ち合わせね え、それどこ え、ボタン押してなかっただけじゃん、うける え、しかも、ここ違う階じゃん、もう あのー、大丈夫ですか はははっ 芸能事務所の者ですが、芸能活動に興味ないですか あ、結構です そういえばさ、俺が去った後なにしてたの 普通に買い物してた 探してくれたの ちょっとだけ さあ あるくんだ さがすんだ 世界中のひとが敵になってもさ わかってるって 俺だけは 怒りを忘れないことが大切ですよ 怒りを忘れない? 吐き出すんですよ もし自分の葬式が開かれてさ まだはやいって 泣いてくれる人がいるって信じている なかないよ はかないね 先輩の手って、なんであったかいんですか いや、ねつがあるわけじゃなくてさ それにしても、あったかい たいしゃがいいんだよ さあ かんじょうを めぐらすんだ はしるんだ はしらせるんだ しらせるんだ あるいて あいして さがして ひろって 西武はどこですか 東口ですね おと して あるくほどに、おちるんだ、あのおとが、だからさ、ひろいつづける、この、うまれつき、きこえのわるい、みみで、つつみこむ、かんじょうを、めぐる、けつみゃく、ながれる、ひとは、かわに、つつまれて、みえないんだ、だからさ、みみで、ひろって、かく、かいている、いま、ひろった、おとを、くろく、そめて、 そういえばさ なに 地下道のあかりって消えるのかな ずっとついているんじゃない さあ こえを はんきょうさせるんだ どこに あなたの地下道に ひろったこえ は  しらせて おと   す    る (「びーれびしろねこ社賞」 応募スレッド)

2021-12-20

「接名」 拝啓 ぼくの部屋に 佳代さんへの手紙が届いた そうか、ぼくは 佳代だった 「富士吉田市にふるさと納税しませんか?」 「いつまでも仮住まいしかできなくてね  ふるさとを忘れてしまってね」 ぼくの部屋に 届くはずだった荷物が 隣の棟に届いてしまって ぼくの仮名がばれてしまった 「お名前に間違いはないですか」 「はい、たしかにそうです」 朝七時半に回収されていく段ボールを 見送った一階の住人が 慌てて部屋に戻っても トラックは待ってくれなかった 小声で交わした あの言葉がここに住んでからの 初めての挨拶だった 「おはようございます」 「おはようございます」 (ぼくは  佳代です  前に住んでいた人から  いただいた名前です  佳代が  ぼくに仮住まいしています) 「ほら、とんでいけよ」 窓の外に映る景色はスクリーンの上 部屋の中から照らす光が 街を彩って 「いいからさ、とんでいきなよ」 「ポストに入れれば届くと思ってるの  っていうかさ  何を届けたいの」 「届く、届くんだよ、届けばいいんだよ」 (宛て名を忘れないようにね) 郵便受けに響くのはお金が落ちる音、あれは誰かが誰かに宛てたお金の音、配達員は、中身を知らず、ただただ、お金が落ちる音を届けることで、自らへとお金を落とす、名前から名前へと、迷った名前は廃棄せずに、誰かへと、仮住まいさせればいい、とにかく、落とせばいいんだ、ふるさと納税すれば、仮住まいが増えるだけ 「与えたものと与えられたもの、今までどっちが多いかな」 ぼくは今日も佳代だ 佳代として起きて、支度して、家を出れば 佳代ではなくなるはずだった 仮名で呼ばれるはずだったんだ (きみは佳代なんだよ、れっきとした佳代なんだからさ、佳代として生きなよ、さようなら、きみよ、かつてのきみはもうどこにもいない、また会うこともない、いやならば、佳代と別れて、新しい仮住まいを見つければいい、別れられるならばの話、そんな仮の話ではなくて、きみは、佳代なんだよ) (そうか、ぼくは佳代だった、それでも、二回目の挨拶を交わすことができるかもしれないから、月曜日、ぼくは、段ボールを捨てに行く、きみは、段ボールを出し忘れて、トラックを見送ったきみ、を見送るために) 「ところでさ、きみの名前は」 「わたしの名前は」 「いや、そうではなくて、誰からもらったの」 とんでいけって、佳代が、いや、ぼくが言っているんだ、窓の外にあるスクリーンを破っていけば、忘れた仮名を思い出せるかもしれないって、ぼくの顔に似てしまった両親に聞けるかもしれないって、さようなら、佳代、今までこの部屋で、ありがとう 敬具 (だからさ、ポストに入れれば届くと思ってるの) (届かなくてもいいんじゃないかなって) (「びーれびしろねこ社賞」 応募スレッド)

2021-12-11

 気になったフレーズがいくつもあって、詩中にあるように、それらを区切って語っていきたいなあ、という感じがありながらもきりがなくなってしまいますね。  いわゆる「家父長制」そのものを論じていくというよりも、その言葉にまつわる出来事が並べてあって。いわゆるキーワードとかテーマとかを作品から抜き出す、もしくは、書き取る際に、その言葉について狭く深く凝縮するタイプと広く浅く拡散するタイプがあって、無論この2つはどちらか1つ選択しなければならないものではないのですが、この作品では、拡散するタイプなのかなあと。拡散して描くことで、その輪郭だけを描くような感じです。  気になったフレーズを絞って、それについて書いていきます。  「日本語を区切る。息が詰まる。」  確かに、汎用されている言葉を改めて区切ることで、その発話に支障を来たすでしょう。僕が書いているこの文章も、僕のリズムや語彙で書かれているものになりますが、やはり他者が書いた文章だったり、異国の言葉には詰まるものがあり、言葉を再定義するという作業をすることによって、「息が詰ま」ってしまうということ。  「自分の体を写真におさめてる。明日から突然同じようには写れなくなる気がして。」  いいっすね。  「手手手手手」  手が5つあること。指が5つあると、人間の手になるよなあ、とか思いました。  「よるの雲が/手のひらみたいに落ちてくるのが見えた」  この2行がすんごいキーフレーズだなあと。前の連で、手と雲の話を出しておいて、一見無関係だった両者がここで結びついてきて、読み手は容易に何かが起きているということに気付き、このフレーズだけだと飛躍についていけないかもしれないけれど、前の連からの転換がスムーズでとてもよいなあと。  「寡婦、調整」  所得の控除で「寡婦控除」というのがあって、何かそれを思い起こさせました。あと、一人っ子政策とか、そもそも生まれることが調整されるということ、産むものが調整されるということ。反出生主義とかなんとか。「家父長制」を区切るということの実践。  「寝ることが好きって言ったら、親はなんて言ったか、わすれた。」  ところで、これはどんな親なのでしょう。母親? 父親? 重点はそれがどちらであるかということより、学校の友達とは睡眠の話をよくするけれど、親の言うことは大して語り手にとって重要ではないということのあらわれなのでしょう。 些細なことですが、その前にも「市町村章」っていうのがあって、これも非限定的な表現であって。特定の章をあらわすならば、「市章」「町章」「村章」のいずれか1つを選択するべきなのですが、「市町村章」とあらわすことで、その限定化をさけていて、この姿勢が最後の「親」というところにも繋がっているように感じました。実はこの選択への回避は前にもあって、「タワーマンションに住みたい。嘘。どこでもいい」にもあらわれているでしょう。  「生まれる」ということのテーマが根底にはあると思うんですが、正しく言うならば「生まれ変わる」でしょうか。大分遡りますが、「違う町で学生になったよ。」と。「生殖くらいひとりでできるもん」というフレーズも産むとか生まれるというよりか、生まれ変わりなのかなあと。  ちょっと散らかった感じですいません。 (かふ、ちょう、せい)

2021-08-22

 使われているモチーフが好きだなあと、惹かれました。記憶と海の匂いの結びつき、波及び波の色、アルバム、つまりは、記憶と海に関することが書かれているとつい目がいってしまうんですね。  それで、内容は何について書かれているのかと。「もう一人の私」≒「昨日の自分」との対面。その「もう一人の私」は「私の全てを飲み込んでいく」のです。そもそも「もう一人の私」というのは、「私」が想定して生み出したものであり、所有物としての主従関係がありそうで、逆に「もう一人の私」に飲み込まれてしまうという逆転が起きています。  「愛のようなもの」という何気ない表現が気に入りました。そうした不確かなもの、形にできないものを不確かなままにしておくということ。  3連目でいよいよタイトルの「灰」に絡めた描写が出てきます。「私もまた灰まみれにならなければならない」という表現。この「なければならない」という使命感は、自らが自らに課したもので、誰かに背負わされたものではないでしょう。いや、強いて言うなら、「もう一人の私」がいるから背負わされたのかもしれません。  「アルバム」について、「思い出したいのに忘れたい記憶の集合体」という矛盾した表現も何気ないですが、気になる表現だなあと。本心は「思い出したい」のに、「忘れたい」ものとして錯覚しているのでしょう。  ところで、「昨日のこと」とは何なのでしょう。この語り手に何があったのでしょう。それもまた「愛のようなもの」のように(二重「ように」)、不確かなものでありながらも、「灰」や「黒塗り」にされたものとは別に「昨日のことだけが色鮮やかに、波の色を纏」っているのです。その内容がわからずとも、語り手に対して変化をもたらした出来事であろうということは、読み手へ確かに伝わってきます。  最終連の「私も微笑んでいなければならなかった……。そして、自分の首も絞められてならなければならなかった」という、改めての使命感。やはり、こうした使命感は「もう一人の私」がいるからこそ生まれたものなのではないでしょうか。  ラスト、「昨日の私が死んだのなら、これから始まる365日の全ては灰にまみれていなければならない」ということ。よほど「昨日のこと」や「昨日の私」というのが、「今の私」に重要な意味があることが繰り返されているのですが、「昨日の私」が死ぬのは、いや、「昨日の私」を殺すのは、「今の私」次第であるということでもあるのだろうと。  「今の私」が「昨日の私」を生かさなければならないという主従関係があるようでいて、「昨日の私」がいることで「今の私」の世界が灰にまみれないで済むという、お互いの少し歪な結びつきが見受けられて、どうすることもできない、少しもどかしくも感じてきてしまいました。 (灰)

2021-08-14

 結局、水の声って何なのでしょう。それを知るために、水、と、声というのが主語となって語られています。  「水は」という主語が結ぶ先は「あなたの口を潤」すのであり、「声は」という主語は「浜辺と浜辺をつな」ぐという役割を担っています。水が口を潤すという、声を発するための器官ときちんと結ばれているのが丁寧だなと。  目、手、尻子玉といった器官も出てくるのですが、この作品内で繰り返し使われているテーマが「時間」に関するワードであって、「歴史」「戦禍」「永劫」とあり、最後は「薫りも消え始める頃」というやはり「時間」を指し示す言葉でしめられています。それらを包括するのが「水」であり、「声」というのは形を残さず消える一瞬のものながらもそうした「時間」を繋ぐものとしての役割を果たしているのでしょう。  つまりは「水の声」そのものは一瞬のものとして、そして形を変えるものとして在るのですが、「水」そのものはそこに在り続けて「歴史」を証明しうるものであるということ。この作品の終わりは始まりに繋がっていて、「月下香の薫りも消え始める頃」が過ぎ、消え去った後に出来ることは再び「水の声を聴く」ということ。この循環構造がまさに「歴史のさざなみ」になっているのかなあと。 (水の声)

2021-08-09

興味を持っていただいてありがとうございます。 こちらの場でやるべき議論ではないので、もしこれ以上話すなら違う場所を設けましょう、と先に言っておきます。 1.本当にそれでいいのかな? どうなんでしょう、わかりませんが、このスタイルはB-REVIEWに参加以来、一貫して戦略的に書いていることなので、それを続けているというだけです。いいかどうかは、僕のコメントを頂いた方に問うてもよいかもしれませんし、自分でもわかっていません。 2.いかにも現代詩的な作品/読解 とは何でしょうというところは話してみたいところです。 3.乗り越えられない感 何を乗り越えるんでしょうか。わざわざしんどいを見たり、見ていていたたまれないと、見ないことも選択できることだと思います。これはつっかかっているというより、先述したように、煽りでもなく、興味を持っていただきありがとうございますというところです。 どこかでお話しましょうか。 (劫火)

2021-08-08

 白川さんの作品は、視点/焦点の分析仕事人という印象があり、それらを細部に分解したごく僅かな運動を火や水といったモチーフにより変換させていると勝手ながら思っています。全く的外れかもしれませんが。  というのは、この行分け詩を敢えて文章化した際に、句点は何個打たれるのだろうと考えながら読んだ時に、一つの運動の僅かな動きを様々な助詞や連体詞や形容動詞で名詞を膨らませていることに気付かされます。その反面、副詞で動詞を膨らませることはあまりしていないような気がしていて、これはきちんと全てを見ているわけではなく、読んだ際の思い付きです。何でこうした考えが生まれたかと言いますと、「みなみに盛る劫火の~~」という行の切れ間を探していた時に、この行の結びは「伝令馬が駆け巡る」までかかっているんどあろうと何となく腑に落ちた時、何て長い文だろうと思ったのです。詩を読む上で、文章化したりするのは、作品を貶めてしまっている気がしていて、よくないことを自覚したうえでの考えです。  作品内で特に気になったのは、「水の色」です。そもそも水に色があるのかと。絵具やクレヨンで水色とありますが、いわゆる蛇口から出る水やコンビニで売られている水には色がありません。いわゆる透明。でも、土が混ざったり、それこそ絵具が混ざったりしたら水はその色を変えます。それは、水の色がなくなったのではなくて、水の色が変わったというだけであって、変化前も変化後もその水の色なのだから、やはり、それは水の色です、トートロジー。つまり、水の色は「何かが混ざっている」ということを教えてくれる指標になっているのです。  「体温の広がりが/それをそれたらしめるところの白」というのも面白い表現で、まるで内部参照/循環していて、プログラム言語だとエラーを起こしそうな感じがして気になりました。  「群の起こした叫ぶ火」≒「劫火」は、ほとんど水分でできている体を温めると同時に、外部から挿入された熱であって、そうした作用が、「体温の広がり」≒「白」としてあるという。それらは、「衝動の比喩」だったり、「感傷の挿入」だったりといった、外部からの干渉を示唆されているのですが、それらが、体の作用として「拡張される涙腺」や「延長される体毛の細線」といった、ごく僅かな運動に焦点をあてるというところ。この辺がやはり分析仕事人という印象を受けさせる表現でありました。 (劫火)

2021-08-08

 「勿忘」「クロマトグラフィ」「躱して」「横臥褶曲」と言った単語はなかなか日常生活の中で見ないもので、意味を調べてみました。そうした見慣れない単語に、どうしても目がいってしまうものですが、どういったことが書かれているのかと。  それは単に、「あのノートを亡くしてしまった」ということ。そして、それはどんなノートであるのかと、筆になったシーツで何かが描かれているということ。その何かは明確に示されていません。それでも、出来事の連関がスムーズで、「体液」「濡らした髪」「シーツを塗った」と、そうか、描くためには、水分/油分といったものがなければできないのだと。この「ぬらす」を「濡らす」と「塗らす」で使い分けているあたりもミソになっているのでしょう。味噌もまた何かを描ける道具になりうるでしょうか、なんて。  ところで、この語り手の「私」は「国語教師の男」と「高校生」の「彼ら」とどういった関係にあるのかと。彼ら二人に干渉/作用することなく、ただノートに描いているだけであります。「国語教師」には「男」と性を特定する表現が付されてますが、「高校生」の性は何でしょう。それでも、後に「彼には桜の木に首を吊って自殺してもらった」とあるので、きっと「男」なのでしょう。それにしても、「自殺してもらった」というのは、まるで「他殺」であるかのような表現ですが、きっとノートの中の出来事。  最後、「あのノートは、朝日に強姦されて死んだ」とあるのですが、ノートに描くことができるのは、水分/油分があるからということと結びつければ、朝日に照らされて、そうしたものが蒸発してしまって、描いたものが吹き飛んでしまったという流れを思い浮かべました。「亡くしてしまった」から「それだけの逃避」と結ばれるのですが、それでも、こうして作品として一つのなった以上、これらの出来事自体は亡くならないのだろうと。 (勿忘の地図)

2021-08-08

 タイトルが色の名前の列記になっており、それぞれの色が作品内の名詞に対応しています。そもそも色というのは、物質の特性を説明するものであり、物質そのものではないということ。 Silverは砂・石灰 Pale Blueはみずいろ・泡 Violetはすみれ  「輪郭」「幻」「景色」と、視覚に関するキーワードもまた色を知覚する手段である視覚と関わってくるものです。物質や色そのものという単体は確かにそこにあるのかもしれないですが、それらが置かれている後景としての「景色」が曖昧なものとして位置づけられているのでしょう。  その中でも「遠くで犬の鳴き声がかすかに」という声は、どこから聴こえてきたのでしょう。「犬の鳴き声」そのものは「遠く」にあるのかもしれないですが、この鍵括弧の声は語り手に知覚された近くにある確かな声であるように思えます。それでも、「犬」そのものの姿を捉えられた描写はありません。それは前段にある「遠くで汽笛のなる音が聞こえ」ともあるのですが、その「汽笛」をならす物質そのものを語り手は視覚でとらえているか定かでありません。  しかし、「地球儀の回る/カタカタという音がきこえる」という二行は何気ないのですが、単に「カタカタという音がきこえる」という一行だけであった場合、その音の正体がわからないのですが、語り手はそれが「地球儀の回る」音であることを認識しており、この二行はこの作品内で唯一視覚と聴覚が一致して認識できている出来事なのではないでしょうか。  そして最後は「幻の遊園地で/眠る仔猫」と、「仔猫」そのものは確かなものとして知覚しているのかもしれないですが、やはり、後景としての「幻の遊園地」は曖昧で不確かなものとして描かれています。  不確かなものと確かなもの、いや、それを認識するという行為そのものに着目しているのかと。私的なことを言えば、「時計塔」「泡」「汽笛」「地球儀」「遊園地」といったモチーフに惹かれました。こういっては恣意的ですが、アンティーク趣味のようなものを感じさせ、そういった世界観が好みでした。 ((Silver Pale Blue Violet))

2021-08-08

 僕も一時期写真に凝っていた時期があって、一眼レフカメラやミラーレスカメラを持っているのですが、昨年から出かけることが大幅に減り、その出番も減ったというところです。その中で、こうした写真を見るということ自体も少なくなってしまい、改めて新鮮な気持ちになりました。  さて、作品です。普段はあまり意識しないのですが、写真というのは視覚に訴えるものがあるのですが、それよりもこの写真が撮られた場において、どのような音や声があったのかと思わされました。一枚目からは、スプーンが食器に当たる音やグラスをテーブルに置く音。周りの人たちのしゃべり声。二枚目からは風の音や枝が揺れる音。三枚目からは階段を上り下りする足音や館内の放送。そして、四枚目です。なかったはずの声が「さようなら」「さようなら」と二体のマネキンがあることで二回呼びかけられているのですが、この場所にこれがあったという偶然を上手く切り取って、必然に見せられてしまうという。  記憶という単語は作中でも使われているのですが、記憶もまた視覚だけでなく、聴覚が伴うものであり、ましてやその記憶が正しいかどうか判定する術は読み手にありません。それでも、写真によって聴覚が刺激されたというのは、まさに「さようなら」「さようなら」という言葉がそうさせたのであり、「さようなら」は声に出さなければならない言葉でしょう。そして、その声には現場性というのが重要であり、「さようなら」という言葉は、例えば手紙のような文字で使われたとしても、時間・空間的隔たりを伴ってしまいます。その隔たりを写真と「さようなら」という言葉によって、ないものとしているなあと。  デパートのマネキンが呼びかける「さようなら」は、デパートをあとにする人たちに向けてでしょうが、タイトルは「さようなら胃袋」と。これが父の摘出手術に重なっているもので、「さようなら」が複層的に、上手くかみ合っているなあと、その調和に対して僕は非常に成功しているという感触を覚えました。 (〈安閑夜話〉 さようなら胃袋)

2021-03-06

 一気に全部を掴もうとすると掴みきれなかったので、僕の勝手で申し訳ないのですが、便宜的に前半部と後半部に分けてから考えてみます。「紫金に/少年の頬に」という二行の後が後半部とします。  前半部では、引用を用いたり、旧字を用いたり、です・ますを使うことで呼びかけのような語りになったりと巧みなナレーターがいるように感じました。目を引いたのが、「美しい」と「考えてる」についての語りです。「確かに」と相槌を打つぐらいしかできないのですが、果たしてそう相槌を打っても「どのようにして確かなのか」と問われてしまいそうな。「美しい」も「考えてる」も形のない思考だからこそ、それが「どのようにしてそうなのか」という部分を説明するには、言葉を使うしかありません。実際に物で示せれば楽なのですが、人間って視覚による情報に頼りがちだよなとか考えてしまいます。あと、「言うは易し」で、実践というのが大事だよなあと。  「僕」という存在がどういう存在であるかの説明をですます調で語りながら、「友よ」という呼びかけ。「僕」は「この世のあらゆる醜さの/そのすべて」だと、なかなか言えないよなあと。そして「悠久の友」という対比。この関係性が「君は愚か者の心を知つてわかり、/ずつと輝きます」と、「君」は「僕」の理解者として示されているのですが、「君は僕の理解者である」ということを理解している「僕」もまた「君」の理解者であるように思えます。これは、後に出てくる「君の寂しさを思い」という一行とも無関係ではないでしょう。  後半部では、二つのセリフから始まるのですが、この二つのセリフの発話者は「君」であるように思えます。内容が愚か者である「僕」を叱咤するように見えるからです。そうした言葉に内省をする語り手である「僕」。思考した結果行き着くのは、「私には哲学がない」という、やはり「君」の指摘どおりになってしまうと。  ここで、タイトルに目を向けてみるのですが、「傷み」ですかと。基本的に語り手は「僕」なので、醜悪な心を持った「僕」が傷を負っているように見えてしまうのですが、そうじゃないかもしれないなあと。「僕」から見て「君」は輝いているようにも見え、「君」は「僕」を叱咤することもあるのですが、やはり「君の寂しさを思い」という一行がすごく効いてくるのと、ここで最初のcharaさんの引用が効いてくるなあと。「抱きしめたい」ってあるんですが、これ、「抱きしめられたい」じゃないんですよね、「抱きしめたい」んです。明言されておらず、勝手な読みですが、「君」は輝いていて、「僕」は醜悪な心を持っているかもしれないけれど、多分、「君の寂しさ」に気付いている「僕」は「君」を「抱きしめたい」のかなあと。  逆読みで申し訳ないのですが、ここで前半部の「あなたはオレンジよ」のくだりが読めてきました。「私があらゆる醜さで、あなたは光の私から傷んで/沢山の色彩の涙を流せ」と。「君」が傷んだりする原因は「僕」にあるのですね、「直射日光はお避けください」ってやつですね。そうか、「君」が輝けるのも「僕」という光があるからなのだと今更気づきました。二者の閉じた世界ではあると思うのですが、それでも、どちらかがどちらかに一方的というわけではなく、循環的な関係性であって、「哲学がない私」なりの声明なのだと受け取りました。 (金とオレンジ(傷みと光))

2021-03-06

 「空から降るものは/いつも正しい」というのがキラーフレーズで、かっこいいフレーズで目を惹きながらも、では、その意味はと問われるときちんと掴めないでいます。「正しい」があれば、「間違っている」もあるのでしょう。  「正しい」や「間違い」は誰かの価値判断であって、レッテルではないですが、誰かが値札をつけるような行為だと思っています。というのも、「野良猫が腰をくねらせる」ことを「踊りと言うのか」というのも名づける行為であって、その動きは名詞ではなく、単なる動きなのですが、どうしても人は何かを付けたくなってしまう、そんなことを考えました。  名前や価値を付けるということ、そんなことを考えながら作品を読みながらも、主題にあるのは「音」なのでしょう。じゃあ、「音」って一体何なんだろうと。一般的に言えば、何かが動いた痕跡、何かがそこに在るということの証明、とでも言えそうですが、この作品に寄り添って言えば、「形があることは/とても救われない」という言葉をとって、「音」が「形のないもの」としてこの作品では扱われているのではないでしょうか。「溜め息」も「かみさま」も「天使」も概念としては何となく理解できますが、人間の目で認識できないという意味でいずれも形のないものであります。そのままに「雨/光の音」という終わりへと結ばれています。  何となくこうしたキーワードを掴みながらも、このままではこの作品にある想いのようなものを掴めていない気がしています。特に目を惹いたフレーズが「他人の空似」という言葉でした。「空似」って、口ではいうことがあっても、そういう字をしているのかと。「祈り/ひとりぼっちの願い」と、敢えて「ひとりぼっち」であることが表明されています。これも「早すぎた別離」という行とも結びつくものです。  「音」が形のないものとして扱われていると述べたのですが、やはり、何かがそこに在ったという痕跡として、形がなくて、音だけが在るということ。それらのことと、こうした「ひとりぼっち」や「別離」といったかつてあったという過去とやんわりと結びついていて、痕跡を追っているということに主題があるのだと掴みました。 (雨光)

2021-03-06

 形のあるものが変化するのを認識するのは容易ですが、形のないものの変化をどう認識するのか。その形のないものの一つとして、この作品で扱われている声があります。  あった声がなくなるということ。しかし、それを証明するのは難しいです。なぜなら、道後反復的になりますが、形がないからです。それでも、あったものがなくなったことを証明する手段として、声と同じである「言葉」を用いることで証明ができるのでしょう。  最後「思い出せなかった」で終わるのですが、「思い出せなかった」のは、声の色や質、いわゆる声色というやつであって、そこに声があったということはこの作品で書かれているとおり思い出せるものであります。声があったということ、形のない声がさらに形のないものとしてなくなってしまうということ。普段、僕が考えていることにビビッと来たので、目に止まりました。  以前コメントを寄せた作品もそうなのですが、入間さんの作品がつくられる契機というのが好きで、何でもない出来事や日常のこと、ちょっとした声からこのように作品をつくる姿勢が好きですね。  あと、この作品の肝は、利害関係が結ばれていない二人が、声掛けによって結び付けられることでしょう。一期一会とは言いますが、街を歩けば、目の前に多くの他者がいながらも、それは完全なる他者として繋がりを持つわけではありません。それは利害関係がないからだとも大体言い換えられるでしょう。この女性は、そうした利害関係、金銭のやり取りがなくても、語り手の耳にその声が届いてしまったという。例えば、道端に落ちているゴミ、それはよくないものとされながらも、見て見ぬふりをすれば、関係を結ぶ必要がありません。そうした結ぶ必要のない関係を繋ぎとめるということ自体、何かを開くこと、それがつまり、この作品に収まるという形をもって開かれたと感じております。 (ガンバッテネ)

2021-03-06

 数日間に分けて、10回ぐらい読んでようやく見えてきました。  正直に言えば、最初全くわからなかったんですね。それで「手を広げた」という終わり方は何となく素敵だなあと思いながらも、「手を広げた」と同時に作品が開かれて終わる。作品が開かれるというのは、逆に言えば、作品が閉じるというのは一つの帰結が示されることとほぼ同義であって、「手を広げた」その先に何があるのだろうということが、作品が開かれるという表現になって。  説明的ではなく、ましてや独白や感情吐露ではなく、淡々と出来事、動きを捉えた作品。僕が得意なのは、語り手の「私」の姿が見えてくる作品ですが、こうしたカメラアイに徹して、感情吐露のない作品に対しては、いつもいつも頭を悩ませつつ挑んでいる感覚です。  「移民」というのは、文字通り移動する人であって、「口づけ」るという行為は、かつて神が息を吹き込むことで生命を与えたように、水に生命を与えるかのような印象をいだきながらも、水は「言語を失って」いて、「生きられない」と。逆に言えば、言語を得ている水は生きられるのだろうと。そして、「叫ぶ地面」とあり、水は言語を失い、地面は声を持っています。「書き始める」主体はおそらく移民。息を吹き込むのが生命を与える、と例示しましたが、ここで移民がしようとしていることは、吹き込むのではなく、吸い込むこと。「口づける」というのは与えるばかりでなく、受け取ることもできる行為であり、「水」が発する言語を受け取ろうとしてもできず、代わりに、「叫ぶ地面」の声を聞き取ったということなのでしょう。  二連目はは「僕」の行為。「熱を預ける」という行為は、片方が熱を与えると言う行為であると同時に、もう片方が熱を受け取るという行為でもあり、授受が表裏一体、これは口づけもまた同様であると。「瞳の中」とあるのですが、「瞼の中」ではなく、「瞳の中」というのは本当に僅かな空間であって、そのほんのすき間で「つむじ風」をこれまた受け取ることによって、「僕の所在を問」うということ。「熱を預け」て与える存在であると同時に、「つむじ風」を受け取る存在でもあるという表裏一体。  三連と四連は合わせて読むのですが、やはり「手を広げた」がなんなのか。掌を握れば、熱が手の中にこもりますから、手を広げることによって掌を逃がすことができるなあと。これは最初の読みだったんですが、「傘を置く」からの「手を広げた」という繋がりを読めば、あれですね、街中でよく見かける、雨が降っているかどうかを確かめる行為として、手を句中に広げるあの光景がぱっと思い浮かび、これが正解かどうかではなくて、ドンピシャにはまったということになります。まだ雨は降り続けているかもしれないですし、止みかけかもしれないですし、全く降っていないかもしれないですが、傘を置いたことによって空いた手が広げられるのはやはり、それを確かめるという行為。これは前段にある「僕の所在を問いかけたこと」にも繋がってきており、この作品は淡々と出来事を書いているだけだと最初述べたのですが、語り手自身、この出来事に対して確固たる自信を持って語っているわけではなくて、起こったことをそのまま語りつつも、その不確かさをも抱えているということなんだと勝手ながら思った次第であります。 (光を蹴る日)

2021-02-23

 僕が作品を読む際、書き手がどこに筆圧を濃くしているのかということを何となく予測しながら読みます。それはいいとかわるいとかではなく、勝手ながら読んでしまう作者の隙のようなものであって、そこをキーと仮に設定したうえで全体を読みほどいていきます。このことに則って読むと、この作品内でのその筆圧は最初の三行に濃く出ているのではないかと。言わば、感情の昂りのでっち上げを抱え続けているということ。「でっち上げ」と「贋作」が重なるものであり、また、タイトルは「薄紅色の贋作」なのですが、作品内では「薄紅色の雫」となっています。つまり、これらを繋げると、「薄紅色の贋作」というのは、感情の昂りがでっち上げられた結果、薄紅色の雫という色と形をまとって表出されているということになります。  作品内で起きている現象を取り上げて、何が起きているのかを読んでみます。  「火傷した」  これは薄紅色の雫を拾いそこねた時に起こったことです。その後、少女が出てきて、少女の左手と私の右手は握り合うのですが、この握り合うことの意義というのは、支え合うという一般的なイメージが喚起されながらも、握り合うことによって、この火傷した掌を隠してくれることでもあるなあと。  「少女の/爪先が/円を描いた/雫を蒸発させた」  これは、火傷するほどのものである「薄紅色の雫」を少女が消してくれる存在であるということです。この作品内における少女の役割は、手を握って火傷を覆い隠してくれる存在であると同時に、雫をも消してくれるという役割を担っています。  「そして大声で叫んでいる」  これは誰が叫んでいるのかと考えると、「私の心臓に還っていった」少女なのかなあと。少し前では、少女は「笑顔で」いたりするのですが、むしろこの少女そのものが実は「感情の昂り」としての偶像でもあったかもしれないと。これは勝手な読み違えだったら申し訳ないのですが、「そして大声で叫んでいる」の一行は、もう一字分だけ下に置かれる一行だったのではないかと邪推しております。  「一種の愛情を/成立させるために/他の三種を/謀殺せねばならない」  これは適したたとえ話ではないかもしれませんが、豚が豚肉になるまでには、実に大量の飼料を必要とするわけであって、その飼料だけでも多くの人の食を提供できるかもしれないのですが、そうした目に見えない犠牲によって、もしかしたら数は少なくなった形として提供されているのかもしれないと。だから、目に見える「愛情」とか、単なる綺麗ごとでは済まされないかもしれなくて、その裏にある犠牲、そこに至るまでの過程があるかもしれないということを思わされました。 (薄紅色の贋作)

2021-02-23

 いわゆるパンフレットとか案内に載っているQ&Aというのは、「よくある質問」を予め想定した上でつくられたもので、あたかも最適解であるかのように載っているのですが、それは果たして正解なのかと。この作品内におけるQ&Aはそうした「正解」とはではなく、単に「私」と「人影(インタビュアー)」による「問い」と「答え」の繰り返しであり、それが何かに導くというものではありません。これは後の「その人影(インタビュアー)は答えが欲しいのではなく。/私を揺さぶっているように思えた。」という二行からも伺えます。  一行目から感情を「あえて」隠すことという問いが投げられていますが、「問い」というのも純粋にわからなくて問うこともあれば、きっと相手はこう返すだろうと想定した上で投げる問いもあったりします。この作品内では、この後者にあたる問いなのかなと。こうした問いが投げられること自体、問う側と問われる側との関係性がある程度濃くないとできないものです。  いつからかあえて感情を隠すという問いが的確であるように見えるのは、後に「前なら答えてたじゃないですか?」という問いがあるからです。前なら答えていたことも今となってはあえて隠してしまう、だからこそ「ワタシはただ  たいだkde.」と、「~~~たい」という欲望の感情を露わにしない。でも、内容はわからなくても何かしらの希望や願いを秘めているということが露わになっています。しかし、「言ったところで感情ごと通じる訳がないのに。」と自らが自らを規定するようにしていることで、もしかしたら隠すようになったのだろうと。  「この文章は正確に解釈されることは無い」というのは、ドキッとしますね。コメントする以上、どうしても読み手の視点があり、何かしら色味を帯びた解釈が伴ってしまうもので、そもそも「正確に解釈されること」とは何ぞやと考える次第です。先ほどの「言ったところで感情ごと通じる訳がないのに」という言葉と重ねれば、そもそも「正確に解釈されること」もないのかもしれないと。ただ、少しだけ「正確に解釈」するとしたら、「言ったところで感情ごと通じる訳がないのに」という想いは、「私が書くのを辞めた理由」や「全てのものに蓋をして忘れた理由」について述べられた一行であるということで、あまり援用しすぎるのはよくなかったかもしれません。  その後、「かつての私が書いた者たち」が海の底に沈んでいる場面。印象的だったのが「わたしたちをうんでくれてありがとう」「くるしいけどありがとう」というセリフ。「私が書いた作品は私のこどもです!」という言説を目にすることがあり、僕自身にはそんな感覚はなくて、赤の他人ぐらいだと思っているのですが、これもそれも作者が作品をどう思うかという言説ばかりで、作品が作者をどう思うかという視点。作者と作品の主従関係みたいなものって、奢りかもしれないなあと。  終盤に「A.Q.A.」の三行があるのですが、今までの「Q.」の「人影(インタビュアー)」が「A.」の私を呼びかける際に「貴方」という人称を用いていたことから、この三行では「A.」が「貴方」という人称を使っていて、「Q.」と「A.」の役割が逆転しているんですね。「私」がいくらあえて感情を隠そうとも、その奥を見透かすようにして「口をどんなにつむごうと言葉は自然に紡がれる」と告げており、それが「どんなに辛くて辱められようとも」、その運命とでも言えるかのようにして「勿論」と述べるのは、やはり「A.」。これが「私」にとっての「A.」≒「正解」であるかのようなお告げ。  ところで、「口をどんなにつむごうと言葉は自然に紡がれる」というのは、こうしてコメントを寄せられたりすることだったりもするわけですね。過去の作品であろうとも、どこか(例えば深い海の底)に形さえ残っていれば、それについて語られてしまう可能性があるということ。  「手記はここで途絶えている。」という最終行もドキッとしたのですが、この書き手が手記を途絶えさせた以上、その意志を読み手が引き継ぐとしたら、この続きを描くのは、その手記を途絶えさせたその人だけでしかないのだろうと。これもまた「正確な解釈」ではないとして、もしかしたら「水銀を」どうかされてしまうかもしれないと思いつつのコメントになります。 (書かざる言わざる、雄弁に水銀を)

2021-02-23

 どうしても目に入ってくるのが「ずっと光ってるwindows」というフレーズなのですが、無機質なもので、きっと人が眠ろうともその場にい続けて、様子を変えない物として置かれているものであり、「夜」「明日の天気」「雲の形」といった変化を伴う気象的なものと対置されています。  焦点はこの気象にあったままで、次の会話のパートにうつります。「夕焼けの色が赤じゃないなんて、そんなわけないじゃんって」と述べる一人は、率直に思ったことを述べる人物です。それに対しているもう一人は自分の考えを述べるのではなく、相手の言ったことを掘り下げる人物です。しかし、この会話にも転調、言わばずれが発生します。「このまえ青色に見えたよ」と、「夕焼けの色が赤じゃない」ということに異議を唱えていたはずの一人がその意義を覆すかのようにして。それに対して「ふざけんなよ」と応えるもう一人もまた実は「夕焼けの色が赤じゃない」ということに疑問を持っていたからこそ、青色に見えるわけがないという想いがあったからつい「ふざけんなよ」と言ってしまったのではないでしょうか。さきほど、ずれ、と言いましたが、いや、実はずれていないんだなあと。  そして、「問題」。とってつけたような最後の「?」によって、問題は問題たりうることができるのですが、中身は全く問いになっていないように見えます。そして、それに対する「解答」もまた「ずれ」が発生しているように見えます。「問題」には、「鳥」について述べられているのですが、それに対する「解答」が「終電を無視する」とあり、これではまるで「問題を無視する」状態にあります。ここで気になるのは、「問題」と「解答」は二人によってなされているのか、それとも一人による自問自答なのかということ。そして、また、この「解答」は本当に正しいのかということ。つまり、誰かに採点されるのを待っている解答なのか、それとも、問題集に載っているような理想とされる解答なのか。「解答」という言葉を調べたら、「答えること」という行為そのものを指し示すことがあり、やはり、あっているかどうか、採点待ちの状態になっている答えなのでしょう。  「発った街へと帰らない旅」というのは、冒頭にあった「俚歌」と重なってきます。ここで言われてるのは、こうした旅が「劇中劇」「白昼夢」「操縦桿」「羊頭」をさがせばありふれているということ。しかし、上記4つのもの自体が存在しなければ、探すことができません。そして、「あなた」は「素通り」しているから、やはり、「発った街へと帰らない旅」は見つからない状態であると。  少し飛ばしてしまいますが、「最後に少し一対一で話したときの友人は、ほんの少し寂しそうな顔で笑った、ように見えて、そこに彼の幼い頃の面影を見た、ような気がした」という箇所が好きです。「ように」と「ような」と繰り返され、一見つっかえる読みにくい部分となっているのですが、決してマイナスになっていないという。というのも、おそらく独白の語り手とこの彼は、「幼い頃から」の関係にはなかったのではないかと。「彼の幼い頃の面影」を実際に見ていれば、「見た」と断定して終わってよかったのが、「ような気がした」と、これは実際に「彼の幼い頃の面影」を見ていないからの表現だったのかと。無責任に断定せずに、ある意味、二人の関係性に対して語り手が語るうえでの責任のようなものを感じました。しかし、語り手が彼に向けた眼差しは彼の笑顔とその奥を見ようとしたのですが、その同じ眼差しを自らにも向けています。「そしてここ数年で格段に下手になったぼくの貼り付け笑顔を、彼らはどう思っていただろうか。」と。ここに語り手の素・肝が詰まっているように感じました。この独白の序盤に「初めからもっていた差別感情」というフレーズがあったのですが、これは、人に差異をつけるということ。人と人の間にはずれがあり、この作品内でも会話でのずれがあったりしていましたが、「差別感情」を持っているということによって、そもそも「私」と「他」との間につい差異を見つけてしまおうとしているのではと。しかし、一方的にそれをするのではなく、他者に向けている眼差しを自らにも向けるというのは、ある意味で自傷行為のようにも感じます。「あなたの言葉はわからない」と断定しながらも、でも、「どうかお前に幸があればいい。そしておれにも。」というのが本音なのでしょう。だからこそ、「貼り付け笑顔」のようにして、感情に対しても「貼り付け感情」とでも言えるような二層化されているように思えます。  結末は、「3745年」にもなっており、語り手と「おまえ」の世界はまだ続いています。語り手のある意味歪んでいるような感情は「弱いじぶんを越えられないでいる/騙すか?」という部分に残っているようにも思えますが、「いや弱いままで/強くなるしかないって決めたろう」という前向きな決意もあります。それでも、「冬だから/いつまででも戦って殺してやる/できるかとはもう聞かないでくれ」というところには、実はできないのだろうなあと感じました。「もう聞かないでくれ」の「もう」には、あたかも何度も聞かれたことに対するいら立ちが感じられます。そして、本当に「殺して」しまったら、二度目はないはずなのですが、「いつまででも戦って殺してやる」と。もうすでに殺しているのであれば、「殺してやる」と言う必要がありません。語り手は敢えてぼかして強がりを見せているように思えるので、僕は敢えて言いません。少なくとも僕にはできません、と残して最後にします。 (できる?できる?できる?あなたに?)

2021-02-14

 何でもない日常ですが、あ、丁寧だなあと。  朝起きて出かけるための準備をすること、つまり、化粧をすること。それは作品にも言えることであって、作品も素の状態もあれば、化粧をされた状態があって、この作品自体もまた化粧をされているような印象を受けました。  「私にはそれが心地良い」という一行も素直に、まさに素の状態の一行。心の中まで化粧ができるかどうかなんて考えたり。  この作品、すごくいいなと思ったのが、単なる日常じゃなくて、ちょっとした秘密を開示するというスパイスがあるからなんですよね。「夫が昔にどんな顔のどんな女と寝たのか/どんな言葉をかけたのか/夜から朝にかけて誰の夢を見たのか」という、目の前にいる夫の過去を想うこと。でも、夫はそんな語り手の想いを知っているのやら知らないのやら、「私がそんなことを考えてるなんて」と。これは作品だからこそ成り立つフレーズなのですが、おそらく普段の生活で夫に対してなかなか直接言えないのでしょう。つまり、心の言葉、それも化粧をしていない素直な心の言葉であって。でも、ただひたすらに「そう思うとそれすらも心地良い」と。  でも、これだけで作品を終わらせていたら、単に人を想うだけの作品であって、語り手が夫に向けた眼差しを、語り手は語り手自身にも向けるというのが、あ、いいなと。つまり、語り手が夫に対して過去を想うのですが、語り手が語り手の過去を想うということ。それは誰に向けられた言葉なのだろうかと。  「この部屋で/昔の男が教えてくれた音楽を聴いて/イヤホンの中でどんな音楽がなってるか」と、ちょっとした秘密を暴きながらも「そんなもので/誰も嫉妬したりしないのと一緒で/それぞれの人生がある」と。平易に言ってしまうと、あ、寛大だなあと。でも、寛大では済まされなくて、誰かに向けた眼差しは自らにかえってくるということを実践して、そして、心の言葉を素直に記すということ。時にはそれがちょっとした秘密でも。ずっと隠したままで出さなくてもよい秘密を出しながらも前向きに過ごせるのは、最終二行からもわかるように、その「心地良さ」を感じているという充足感がひしひしと伝わってきました。 (布団の上で起きがけに。)

2021-02-07

 「冬の雨」もそうだったのですが、何気ない日常から拡げていくスタイルがとても好きです。この作品内でもいくつかの出来事が起きているのですが、大きな契機となったのが、「詩集を買わなかったこと」だったのかと思われます。  何かしたこと、強烈な出来事・印象、誰かに言われたこと、人は起こったこととしての「出来事」を語りがちですが、「詩集を買わなかったこと」というしなかったことを描くのも、「買ったこと」と同様に、選択肢としては同列なんですよね。ただ、詩集を買えば、その詩集は形として手元に残りますが、詩集を買わなければ、「買わなかった」という事実だけが語り手だけに残っているということ。つまりは、無いことの証明というのはなかなか難しくて、そもそも共有することがものすごく難しいことなんですよね。  そういう点で、電車内の「空席」というのも、名詞としては「空席」と存在があるのですが、実はこれも無いことの出来事であって繋がってくるなあと。  「イマニミテイロ」が「沈殿している気持ち/のようなもの」の最たるものだと、これが買わなかった理由なんだろうなあと。  僕だったら先人の詩集と入間さんの詩集が並んでたら、入間さんの詩集を手に取るかもしれないなあと。それは、やはり何気ない日常からのスタートというスタイルが好きだからですね。カタレプシーという言葉を調べるには調べたのですが、この言葉の意味がわからなくてもいいなあと思った次第です。 (カタレプシー)

2021-02-07

 沖縄と聞くと無条件に反応します。  先ず「6月23日」が何の日かを調べました。それは調べたい人が各々調べればよいと思うので、僕が御託を並べる必要はないですが、一年の中の一日の意味が変わってくるということ。それは幼稚園の時のエピソードが伏線になって、そこから全てがつながってきています。「いつもせんそうについて話し合っていた」ということ、ここに語り手自身は参加していなかったのですが、成長するにつれ、このことに参加せざるをえなくなっていくこと、それは「戦争学習」という、言わば、この地に住む人が教育によって必ず通る道があるということも示しています。  内地に理由もなく仕事をしに行くという描写も、沖縄ということをまさに示していて、沖縄って実に矛盾をはらまされた土地だよなあと。内地で仕事している人は、バカンスで沖縄に行き、沖縄で生まれた人は、仕事をしに内地に行き。  ここから、「平和」ということを考えていくのですが、「平和」について書くと長すぎてしまう予感が既にしているので、重要な点として、それが「誰にとっての平和」なのかということを常に意識しなくてはいけないと思っています。「国の平和」とか「国民の平和」とか、それって本当に言えるのかなって。一人の出来事を全体に言えるかのようにしてしまうことは多々あるし、全体的な出来事があたかも本当に全体に起きているかのようにしてしまうことも多々ありながらも、もっと時間をかけて「誰にとって」「誰から見た」ものなのかということを語り合ってもいいのではないかと。  だからこそ、この作品の「私の住んでる所の近くは平和だ」とか「平和的に問題なくデモができるということは/平和である証だと思う」とか「沖縄本島が確かに平和か?離島はもっと平和じゃない」とか、きちんと目線を変えて考えられていて、ものすごく貴重だと思うんですね。  先ほど「矛盾的」と述べたのですが、作中でも述べられていたように、内地に仕事へ行く人もいれば、基地があることによって軍属と言われる基地内の仕事に就く人もいて。「基地問題」と一言で言っても、「基地があるのは悪」と短絡的に決して言い切れない部分もあって、基地があることも恩恵を受ける人もいて、そうした二面性が在るということを沖縄の方々は重々承知しているからこそ、県民投票の際にも票数に大きな偏りがなかったのでしょう。  「日本はそろそろ自分の国は自分で守る/必要があるんじゃないかと思います」というのも、政治的な思想とかそんなんで片付けられない、「各国は間違いなく自国を最優先に守ります」という考えから導き出されていることにも、確かな思考の歩みを感じます。  最終行、何でもない願望のように見えてしまいがちですが、逆に、これってかなり恐ろしいことだよなと考えさせられました。敢えてその内容を伏せておきますが、「もし」が起きた場合に、これはこれは本当に恐ろしいなと。だからこそ、「平和で会ってほしいです」という言葉にも現実味を感じました。  関係ない話で恐縮ですが、元来沖縄とは縁を勝手に感じていて、こうした話を語り合いたいなと。それは、無論ウチナーの人でも、ヤマトーの人でも、それぞれから見た沖縄がどう見えるのかと。その見え方を僕は見たいと思っております。 (沖縄)

2021-02-07

 サナトリウムと聞くと、それだけで何だかどきっとします。と言っても、仕事の関係上、この名前がついた病院とやり取りをすることがあったりして。でも、僕はその内部にいるわけではないですから、真に何が起きているかはわかりません。  「噛む」「噂」「食べられて行く」「言えば」と口に関する動きと「雲」「風」「日光」といった気象に関すること。  前段と後段に分けられるような気がするのですが、「紫衣がうらやましくて」という欲望から「拉致して請求した」という行動力。一体前段の日常的な描写は何だったんだと思わせるぐらいの展開というか、「拉致して請求した」というフレーズがものすごく強烈ながらも、さらりと述べられていて。  ところで、「請求した」って何なんでしょう。「左利きハーモニー同盟」というのは、自分たちのことを自分たちが名付けた、言わば自分たちルールのようなものでしょう。つまりは、誰かに名付けられたわけでも、誰かに背負わされたものでもない、自分たちがここにいるということの証明であるような。それでも、「請求した」とは、平易に言えば、求めるだけであって、本当に手に入れられるかはわからないんですよね。よく使う請求書も、当たり前のようにお金を払ってしまいがちですが、別に求められているだけであって、払わないという選択肢もあるわけ (請求)

2021-02-07

 「すべてが色あせてゆく」というのが作中の大きなスイッチとして役割を果たしているように感じました。  「袋開けたスナック」「昨日の夕飯」「マンガ」「聖書」「ヘッドホン」「マーガリン」「オカリナ」とあるのですが、「スナック」と「夕飯」には多少色合いがありながらも、他のものは元から単色系だなあと。そういえば、「夢」に色がついている人とついていない人がいるとかいないとか聞いたことがありますが、こういう想起をさせたのも「色あせてゆく」という表現が、他の名詞と必然的に結びついているように感じさせるからでしょう。  そして、「ドア」が出てきますが、ドアは人為的に「開ける」ものでもありますが、人の作用を離れて「開いている」ということ。つまりは、語り手のコントロール下にないことが表されています。冒頭の「袋」は「開けた」ものであり、「マンガ」とか「聖書」とかもページを「開く」ものですね。  そもそもドアの役割なのですが、一般的には、どこかとどこかとの境目を繋げるための道具だと僕は認識しています。つまりは、この作中における世界とどこがこのドアによって繋がっているのかと。 >この思いをわかってくれる人なんてどこにもいない という切実な想いは、僕は普段から考えていて、それを敷衍して、他人の想いを僕はどれだけわかることができるのだろうかとも考えます。無論、同じ経験や感覚を持っているわけではないので、真にわかることはできない、という前提のもとながらも、似たような経験や感覚を持つことによって、推測することはできるんですよね。  その後の「大切な毎日がどんどんチープになってゆく」は、最初の「色あせてゆく」の言い換えであって、身の回りにあるものがなぜ「いま・ここ」に置いてあるのかと、その意味を問うここの詩行の連なりが好きですね。「時間が経った」ことをきちんとものに目を向けて表現されていて、「ほこりをかぶっ」ているから丁寧に扱っていないのかもしれないですが、少なくとも作品内では丁寧に扱われているという印象を受けました。  そして、こうしたものらと同様に語り手自身が年をとった時のことに想いが馳せられます。「現実の見えない空想気味の老人」とまで述べ、自分がこうなってしまう可能性を感じているのでしょう。  希望と言えば、安直かもしれません。でも、「絶対に届かないのに 光がこぼれてくるんだ」と、その先に何が在るのかは、語り手も読み手も知ることはできません。なぜならそれは「絶対届かない」からです。それでも、ドアが全くなければ、この世界にただいることしかできません。たとえ見えなくても、ドアがあることによって、きっと「向こう側」があるということを思わせてくれるだけでも、ドアがある意義があるのでしょう。 (天井にドア)

2021-02-07

 ホームランバーを一人で食べるって、寒いね。それにしても、食べ物がいっぱい出てくる。ホームランバーは何だか無機質で生き物を感じさせないし、食パンもそんな感じなんだけど、魚の鱗とかえきたいとかって、何だかぬめっとした感じ。そして、「卵の殻」、はい、出ました。でも、出てくるのはひとりきりの馬車って、哺乳類じゃん。つまりは、ありえないことがおきちゃってますよと。んで、ホームランバー食べてるのも一人だから、馬車もひとりきりってね。  「卵の殻」と「太鼓の皮」が対比されつつも、「大声」と「子供」という字面で見るとアンバランスなものの調和。  飴、マカロニ、揚げたて、たまねぎ、食べ物、食べ物。たまねぎは丸っこいね。  足の生えた星、怖いね。でも、無機質な食べ物が続きながらも、足の生えた星とかタンポポの綿毛とか、ここで生命力出てくる感じ。合掌した人の形に盛られた本、って、本としての役割を果たさずに、形を成す道具として本かあ、と。 ここで、基本的には、役割を終えたものたちが多いことに気づくんだね。食パンの耳とか魚の鱗とか卵の殻とか、それ自体はあんまり意味がなくて、本体に繋がるパーツみたいな。太鼓の皮は破けちゃうし、飴は舐め終わっちゃうし、透明なマカロニは食べられないし。タンポポの綿毛も、いや、厳密には意味はあるんだけれど、唯一、足の生えた星ってこの作品で一番いきいきしたものに見えてくる。 舌の切られた彗星、そう、やっぱり、欠損なんだね。この詩は欠損についての詩。そうした本体から外れたパーツは、ゴミ箱に捨てられちゃう。よくよく考えればコンビニに売られているものとか、大体袋に入っていて、袋に目的はあんまりなくて、袋とったらすぐ捨てちゃうね。  じゃあ、「夕方の月曜日」って、何のパーツなんだろうって、無理やり考えると、月曜日は一週間の一つのパーツだね。やっぱり、コンビニで売られるパンとかみたいに、何度でも再生してくるし、一回性のものだったらゴミ箱に捨てないね。つまりは、再生されるということ≒貴重でないということを自覚しているということ。「夕方」も一日というものの一つのパーツでしかない。でも、そうした欠損とかパーツに目を向けるってことも大事で、多分この作品を書いた人って、そういうところに目が行くんだろうなあって。だって、最初からそうだった。「駅舎の向こう側」という「駅舎」のパーツ/片隅にいるということも自覚していて、わざわざ「の向こう側」って書いているあたり、渋いね。 (夕方の月曜日はゴミ箱にしまって)

2021-01-24

 この作品には不思議な魅力があって、何度か読み返した中で何がひきつけるのかと考えました。それは「カップ」や「トースト」がそうであるように、この作品自体に温度の変化があるからでしょう。  「午前10時」と始まる連を後半部、それ以前を前半部と便宜的に分けるならば、その前半と後半とで温度差を感じたのです。それもまた作品内にある服を着て身支度を整えるようにして、後半部に至るとまるで作品自体が服を着て身支度をしているように。それゆえ、語り口調も変わっているように思えます。  前半部では、目の前にあることを単に列挙して切り取ってあり、起きていることがただ起きており、そこには疑義が生じるものではありません。「ぎゃはははは」という笑い声が似合うようにして、起きていることをそのままに受容している。それこそ、まるで「仰向けの裸ん坊」のようにして、素の状態であるということ。服を着て、食事を摂る様子から、何かに向けての準備がなされているように見えてきます。前半部で特に好きだったフレーズが「先輩」という一行です。素の状態で起きていることをそのままに受容するということ、それがつまり、目の前に人物が語り手にとって単に「先輩」であるということ。先輩がそこにいるということを説明するには、一行で「先輩」とこう記せばよいのだと教えられたような気分で、なおかつ、この一行に作品内だけに流れている時間が凝縮しているような気がします。関係ない話ですが、いまだに僕のことを先輩と呼んでくれる人が2~3人いて、僕とその人が生きている限り、先輩と呼ばれ続けるのだろうと。人間関係を表す言葉ではありますが、つまりは、「共に生きている」ということを示す言葉でもあるなあと、「先輩」。  後半部は「冷たい息」によって冷やされたせいか、冷静な語り口調となっていて、目の前のことを語っているというより、俯瞰して描写されております。部屋の中というのは、プライベートな空間であり、服を脱いでいても、うんちをしていても、何とでも過ごせますが、部屋の外と言うのはパブリックな空間であり、言わば社会的な「私」というものにならないといけません。だからこそ、「誰のものでもない朝」というものが部屋の外にあるのですが、逆を言えば、前半部は「ぼくたちだけの朝」とでも言えるのかもしれません。そして、「まばゆくおちていくのだ」と終わるのかと。この「おちていく」の真意はいまだにつかめていないのですが、ただ、前半部と後半部で、温度はおちていったのかなと僕なりに感じました。 (@morning(きみと朝食))

2021-01-24

 この作品には読みが2つ存在します。というのも、十回ぐらい読み直して、あ、2つ目の方がいいなと思った次第ですが、その過程を記します。 1.  電車の窓にうつった小娘の顔。小娘の顔が気になるのなら、直接見ればよいのですが、気恥ずかしさや照れ隠しなのか、真っ直ぐに見ることができず、窓を鏡代わりにして、相手が気づかないように見続けている。だが、車窓を鏡としてではなく、窓として見透かすと、窓の向こうにあるビルディングもまた鏡になって電車をうつしている。 私→→窓→→ビル という視線は、 私←←窓←←ビル という視線にもなりうるようであり、見る存在が見られる存在になりうるということ。そうして、気恥ずかしさや照れ隠しをごまかすために、この仕組みを「宇宙の構造」と置き換えることが必要であった。 2.  ちょっと待って。「小娘」はそもそも本当にいたのか。つまり、「小娘」は第二者・第三者ではなく、鏡となった窓にうつる自分なのではないか。自分を「小娘」と他者化するということ。確かに、私は私の顔を直接見ることができず、鏡を使わないといけないが、鏡にうつったその顔も本当に自分の顔なのかは、真に確かめることはできない。その不確かさがあるからこそ、私は「小娘」になって、「ほうけたような顔」といったまるで他人事のように見ることができるのではないだろうか。 「誰だろうか、あれは。」というのも、「小娘」となっていれば、自分と距離を持って自分を述べることができる。 「宇宙の構造について考える」のは、真っ直ぐに「小娘」を見ることができない気恥ずかしや照れ隠しといったごまかしではなく、「私」が「小娘」という他者になるための装置として車窓が鏡となった仕組みについて純粋に考えているのではないかと。 (車窓)

2021-01-24

 そういえば井戸とはよく聞くけれど、「井」という一文字がどんな意味を持つかはあまり考えたことがありませんでした。調べてみると、まさに「井戸」を意味することもあるみたいですが、区切られた領域とか、時にはまちを意味することもあるみたいですね。  この作品に目を向けた理由は、会話調の二行があったからです。「怒りが、欲しいかな」という欲とこの語り方が僕に重なり、このような会話をしたことがあったのです。  さて、作品に目を向けられると「井」が指し示すように、区切られた領域にある水の変化が語られています。「一瞬を契機として/偏在してきた可能性が/境界線を形成する」という変化。この「偏在してきた可能性」という表現が何気なくて肝になっているなあと。「境界線」は外部から与えられるものではなく、その内部にあった「偏在してきた可能性」が浮き彫りになったようなイメージを覚えました。だからこそ、「水そのものに沈殿する水が/静かな循環をはじめる」と続くことができるのであり、やはり、「境界線」が内部から生まれ出たことを示唆しており、「風の痕跡はなおも水面に届か」ないこともそれを補足しているように思えます。  「傾く内部均衡」や「静かな循環」という言葉から思い起こされるのは、「波」です。水が運動するということは、波が発生することとほぼ同義に思えます。そういえば「波」は横に向かって動いているように見えますが、あれは水自体が縦に運動しているんでしたっけ。この「波」は「音」にも結び付きます。というのも、「音」そのものが空気の震えによる「波」であるからです。  この「波」は、「井」の中にあり、外部の運動を拒むものであり、外部から力を与えられ続ければ、「波」は「波」であり続けられるのですが、一時的なもので「たった一瞬の発散と/別離が訪れる」ことで、「凪とそよぎ」をもたらすのですが、「境界線/そして点滅」だけは残り続けています。  そして、会話。今までの流れとは無関係にある会話を無理やり置き換えるとするならば、「怒り」は「波」です。言わば、この後者の人物の中に起きる内部の運動です。この時の「怒り」なのですが、この「怒り」は、他者の怒りが欲しいのか、自己の怒りが欲しいのか、つまり、「誰の怒り」が欲しいのか、というところに興味がわきます。「欲しい」という欲望は、多くの場合、自分ではない誰かから与えられるものです。それゆえに、「怒りが、欲しい」というのも、「誰かの怒りが、欲しい」と機械的に読めるのですが、今まで述べてきたように、「怒り」そのものは内部の運動であり、「誰かの怒り」もまた「誰か」の内部の運動です。これは勝手な読みで、希望なのですが、この「怒りが、欲しい」と述べた主体は、「誰かの怒り」を受け取りたいと願う存在なのではないかと考えます。「誰かの怒り」という「誰か」の運動を受け止めることにより、「自分の怒り」となり、「誰か」の内部運動を受け止めて共に「波」になることができる、もしくは、共に「波」になりたいと願う存在なのではないかと。このようにして勝手ながら読むと、前段とこの会話が結びついてくるなあと思った次第であります。  そして、最後は「互いの足元を/濡ら」しており、これもまた「産声の残響」という「波」を共有している描写に見えてきました。 (井)

2021-01-24

 最近と言っても、もうだいぶ前ですが、preserved flowerを人にあげる機会があって、そうしたことから先ず作品に興味がわきました。ice flowerというものがあるのですね、iced flowerではないのかとそんな細かいことが気になったり。それでも、その両者の違いについてなるほどなあと思いつつ。  「ラジオ」「投書」「SNS」「掲示板」から流れてくる情報は、鮮度が重要というものであり、せいぜい1~2日経つと、もう違う話題になっていることが多いです。そうした情報の速度というものがあるからこそ、「そのあと」や「今」について想いをめぐらしてみるということは重要ではないかと思います。  情報はあくまでも情報であって、その情報のもとには実在する人や物があるのだと、その人や物はあくまでも情報ではなく、存在であります。情報は鮮度が大事になってくるからこそ「今」ばかりを伝えるのですが、その「今」が時を経ることで鮮度を失ってしまうと、情報は捨てられてしまいますが、存在が捨てられることはありません。  そうした鮮度が大事な情報をそのままに残すための手段として着想を得たのがice flowerであって、この結びつけ方に驚きを覚えました。花もまた鮮度を重要とするものであって、そうした共通点を持つ情報と花を結び付け、花をiceできるなら、情報をiceにしようと。ただ、情報は実体を持つものではなく、物理的にiceにすることができません。そこでどのようにするかと言えば、おそらく言葉や文字にするということが情報をiceにする手段なのかと。  ただ、この詩はそうしたことに留まらず、最終行「どうか見つかりませんように」ということと僕が今まで述べてきたこととはあまり結びつかないように思えます。この「見つかりませんように」と願うものは、おそらく「ことばの武器」のことなのでしょう。情報をiceにして残すということは、言葉や文字にするという手段があると述べたのですが、それは単に手段でしかなく、「どのようにしてice」にするのかは、その職人・技術者、いわば、言葉や文字を扱う者次第であるということです。「美しく言語化する」ことだけではなく、時に「武器」になってしまうということ、きれいごとだけでなく、表裏一体の顔を持つ「言語化」の作用がこの作品でiceされているのでしょう。 (ice poetry)

2021-01-24

 「時間」という言葉はあまりにも使われすぎていて、説明する機会などなかなかないのですが、もし説明するとしたらどのように説明するでしょうか、なんてことを考えました。  「街路樹」、ああ、そうかと。「街路樹」は歩けずに、ずっとその場に留まりながら、ただ大きくなり、時に邪魔だと刈られ、それでも、ただひたすらに「動かない」という仕事をしているのだと。確かに「街路樹」が花を枯らす瞬間というのはあまり見ないものですね。「影は長く、明日の方角までのびている。」というのは、「影が長く」なるのは、太陽が南中にある時ではなく、沈みゆく時であって、夕暮れ間際だと思われます。「その根元にわたしという名前がある」というのが、ものすごく何気ない表現なのですが、これいいなあと思いました。「根元」に関するキーワードは「街路樹」と結びつくのですが、「街路樹」の根元に「わたしという名前がある」というのは、どういうことだろうと思わされるのですが、「その根元」の「その」が指し示しているのは「影」であって、「街路樹」と「わたし」をさりげなく重ね合わせており、「影の根元にわたしという名前がある」のかと。  「忘れてしまいたいこと」というのは一体どういう出来事だったのでしょうか。それはわからなくとも音と記憶は何となく結びつくもので、あの時に流れていた音を聞くと、あの時のことを思い出してしまうということが度々あります。そのために「靴底で足音という足音をふみなら」すことで、音を掻き消そうとしています。つまり、音を上書きすることが記憶を上書きするということになり、「忘れてしまいたいこと」を忘れてしまうための手段になっていると思われます。「青空というさみしさ」というのは、さみしいものに寄り添うと共に、その広さ、しいては、懐の広さに甘えるということなのでしょうか。  「公園のブランコ」も「街路樹」と同じように歩くことはしません。ただ、「老爺」は歩くことができます。歩くことによって「けえる」ことができます。最終行は一体何を意味しているのでしょうか。それは二連目にあった「忘れてしまいたいこと」と記憶の上書きと結びつくように思いました。「明日」が来れば、「今日」は「明日という今日」によって上書きされます。「今日」というもの自体が上書きされ続けるものであります。しかし、「忘れてしまいたいこと」が起きてしまった「今日」を忘れることができない限りは、その「今日」が常に語り手に寄り添ってきます。「街路樹」や「ブランコ」は歩くことができず、その場に居続けているというのに、「誰にも見られず」にして忘れられてしまうことがあるというのに、「今日」や「影」は動くことができるというのに、やはり忘れがたいものです。  何気ない事物の列挙が「主体」と「影」のように対照的に映って意味を成している作品だなあと感じました。この作品自体が「街路樹」のように「誰にも見られず」にいることができたら、作品内の「忘れてしまいたいこと」はいつか忘れられるのかもしれないですが、こうしてコメントしたり、読まれたりすることで、また新たな時間や人に結びつけることで上書きされるものなのかと逡巡しながらコメントしました。 (明日)

2021-01-24

 冒頭から「魔法が使いたい」という突拍子のない欲望が述べられていながらも、その後には「たい」という欲の列挙がされています。この「たい」という欲について少し考えてみると、なぜそのように思ったのか、という因果関係が気になってきます。一見するとこの無関係にも見える「たい」の列挙は、その欲の優先順位や因果関係がきっとあるものであって、後の詩行を読むとその違いが見えてくるのでしょう。  というのも、「私」は「私」と「友人」を比較し、「私の過去が斯様であればと常々羨望している」と、羨望という言葉もまた欲であり、ここに「私の過去」というキーワードがあります。つまり、欲というのは因果の果であって、その欲の因となったのが「私の過去」にあると言えそうです。  その「私の過去」は「親に怒鳴られず殴られないように機嫌取りをせねばならず」「死にたがりの悲観主義者」といったことがあり、こうした「私」に対して「私は私であって彼の人には決してなれない」と自覚しています。当たり前のことかもしれないですが、「私」が「私」たりうるのは、誰のものでもない「私の過去」を「私」が持っているからだとも自覚しているのでしょう。  こうしたことを踏まえると、「魔法が使いたい」という欲を引き起こしたのは、一行目の最後にあった「私という人間を捨てたい」という欲に重点があるように見えます。  「しかし停滞したまま過去に縛られ、人の指摘を素直に受け取れず愚かな私」とあり、「私」は「私」を冷静に俯瞰できる人間だなあと、ただ、それゆえに「私」にとって「私の過去」もまた冷静に俯瞰して見えるのだろうなあと。悲観主義者とありますが、真に悲観の中にいる人物は、「いま・ここ」の目の前にある出来事への対処に追われてしまうと思われますが、「いま・ここ」と「かつて・あそこ」の二点を線にして捉えられるのは、やはり「私」を俯瞰することで見えてくるものです。  「私は早くこの世界から逃げることを願っている」と、やはり、「私」は「私」をやめたいという欲望が強く述べられています。  私見を述べれば、「ハッピーエンドを願うことの何が悪い」というのは、何も悪くないと思うのですが、なぜこのことに対して「悪い」という罪悪感が植え付けられてしまったのかということに興味がうまれました。それこそ「私の過去」の具体性がわからないから、答えはわからないものですが、この「悪い」という価値観がどこから生まれてしまったのか。ちなみに、「私という人間を捨てたい」ということに対しては、他者になっていくことが一つの手段だと思っています。私という人間に固執していると苦しいことがありますが、他者を取り込んで、他者になると楽になることもある気がしています。読んだり、書いたりすることも、他者を取り込んだり、「私」を他者化することではないかなあと。 (ハッピーエンドを望んでいる)

2021-01-24

コメントありがとうございます。 昨年の夏はどうにもできない夏でしたが、今年は夏を夏として満喫できる年になればよいと真に願っています。 (打刻)

2021-01-23

コメントありがとうございます。 ああ、砂時計かあ、なるほどなあと。想定していなかったことを述べられると、嬉しくもなり、「砂時計」に関するモチーフを暗に散りばめていたらより世界が拡がったかもなあと。 絶対的な「自己」などないと思っていて、これからも他者になれるように書いていきます。 (打刻)

2021-01-23

遅くなりましたが、コメントありがとうございます。 >難なく世界に吸い込まれていく というのは大事で、ただ、異物感みたいなものがあってもよかったのかなあと内省しております。 (打刻)

2021-01-23

 何回か読み直したうえで、「詩とは」というタイトルなのですが、「笑い」についての作品なのだと納得しました。  いきなりで恐縮ですが、僕なりに「笑い」が起きる理由を示すと、ある時間・空間にて了解している文脈をずらしたり、壊したりする時に生じると考えています。そのずらし方や壊し方は人によって変わり、難しいのですが…、「葬式」といった場所では「笑ってはいけない」という明文化されていない習慣があり、儀式であるために、礼儀・作法・所作などある程度了解された文脈がその場所に存在するのですが、そこからずれたこと、思いもしなかったことが起きた時に笑いが生じるのだと。(無論、これが全てではなく、あくまで一つの考えとして)  つまり、この詩は「詩とは」とタイトルがあることによって、読み手は一見、「お、詩について語っているなら読んでみようと」と思ったら、詩が何であるかというよりは、詩・歌・句のパロディと言葉遊びを読まされるというズレが先ず生じます。そして、語り手自身がある程度自覚的に「大笑いがさせたくてキーを撃つ」「本当に申し訳ない。でも、この部分を聴くと笑いが……」「結局、これまで笑いも齎せず」などなど、笑いについて考えていることを示唆しています。既存作品をパロディにするということも了解された文脈をずらすという行為です。それにしても、これだけ多くの種類の詩文(歌も句も)をネタにするということ自体が、「作者」そのものが「詩」をある程度了解している存在であることを想わされます。  それで、僕はこの詩を読んで笑えたかどうかって。その答えは「うしししし」ということで。 (詩とは)

2021-01-11

 一つのポイントに絞ってみます。最後にある「赤い花」とは何であるのか。  赤い花、それは、名前が与えられず、ただ赤いという性質を持った花のことであって、それがどのような大きさで、どのような香りをするかなどは誰も知る由がありません。ただ読み手に提示されるのは、「赤い」ということであって、なおかつ、語り手もまた「光を失った私の目」を持った中で見出した色であるということです。  でも、この「赤い花」が何であるのか、その答えが動画投稿にあるのではないかと勝手な論を提示してみます。「光を失った私の目」及び「盲目の場所」とあるように、語り手は視覚を失っていることが示唆されているのですが、まさにこのことが動画によくあらわれているのです。技術的なこと、手間がかかることなど、そうした「作者」の事情もあるかもしれませんが、そこまで読むつもりはありません。このようにして提示された作品だけの情報を用いても、この動画そのものが終始真っ暗となっており、「光を失っ」ていることや「盲目の場所」にいることの証明であり、この動画にあるのは「語り手の声」だけです。つまりは、読み手は語り手の声によって愛の糸を手繰るのです。それこそ、「声だけを頼りに そこに確かにあったはずの」とあるように、「声だけを頼りに」しているのは、語り手だけでなく読み手もまた同様であるということです。そして、「盲目の場所」=「動画」に唯存在する「語り手の声」がすなわち、「赤い花」だと言えるのではないでしょうか。  作品の内容を度外視してしまった読みだけでは申し訳ないので、内容についても少し述べます。語り手の目線は、縦横に動いています。「コンビニの灯り」「地べたに落ちたアイスクリーム」といった上下、「私を見つけて手を振る君」はおそらく横方向、「愛の糸を手繰る」もなんだか横方向な気がします。しかしながらも、「私の体はゆったりと歩道橋から落ちていく」という上下方向によって、生死の境目をさまよっています。その後、「赤く血がにじんだ体には/蟻が群が」っており、「地べたに落ちたアイスクリーム」というのも役割を終えたある意味死を迎えた存在だよなあ、と気づかされます。ああ、そうか、雨もまた上下方向に動く存在でした。  ところで「私の信仰」とは何だろうなあ、と。それは最後に見出した「赤い花」なのかなと思うと、あまりぴんと来るものではなくて、多分、やっぱり「声」だろうなあと気がしています。他者の宗教、ここでは、キリスト教が用いられているのですが、「それは私が信じているものじゃなかった」と表明されています。やはり、重点は「私に届かない言葉を綴る君の/声だけを頼りに そこに確かにあったはずの/愛の糸を手繰る」という三行に、語り手の想いが凝縮されるように見えてきます。無論、赤(朱に染まった頬、血、花)や白(吐息、アイスクリーム?)によって、物が対置されていて効果的にもなっているのですが、「光を失った私の目」をもち、「盲目の場所」にいるからこそ、色よりも、声こそが信仰の対象になっているのではないかと。 (「My Religion」stereotype2085さんとの共作)

2021-01-11

 僕も幼い時の記憶をもとにして、未だに忘れられないことが傷のようにしみついて、それを元にして書くことがあるので、こうなんか、書く動機というものがわかるような気もします。もちろん、その出来事は人によって違うわけで。というのも、記憶には祖語がつきもので、先ず一つ目の疑問は、この出来事に対して、兄と兄の友だちは覚えているのだろうか、覚えていたとしたら、語り手のことをどのように見ていたのだろうか、ということです。記憶について延々と述べ続けると哲学的になってしまうので避けます。  「記憶」から話を逸らして、1つのポイントに絞ると、語り手がカエルを踏んだ動機に注目したいなと。僕自身、兄がおりまして、基本的に幼い頃の兄は強い存在であり、憧れでありました。つまり、兄になりたい、近づきたいという欲望から、真似をするようになるんですね。こうした想いは、この作品の語り手が抱いていないのかもしれません。そして、成長した今だからこそわかることもあるのですが、当時の語り手はおそらく一つ一つの行為の価値判断というのがなくて、単に「兄と兄の友だち」に対する憧憬からこのような行為をしたのではないだろうかという推測です。語り手が兄のことをどう想っていたのかは明記されていないので、読んだ僕の勝手な想いなのですが、幼い頃って、年上の人にくっついて、善いか悪いかを越えて、真似してしまうことってあるよなあ、ってそんなことを思い出しました。 (アマガエル事件簿)

2021-01-10

 詳細に見ていくと長くなるのでポイントを2つにしぼります。 1.「外はどうせ雪が積もっているのだろう」というリフレイン  この言わばセリフのような言葉は、「どうせ」という投げやりな決めつけです。実際に外を見て雪が積もっていることを確認しているとしたら、「のだろう」という推量を使うことはありません。「外には雪が積もっている」とでも言うでしょう。つまりは、屋内にいるということを示唆しており、「雪が積もっているのだろう」と思わせるぐらいに気温が低い場所であるということを暗示させられます。  この当たり前のことを明記した理由も、補遺に繋がるからです。補遺以前は、全て屋内で起こりうること(あくまで「うる」こと)であって、補遺以後は屋外にいること、もしくは、屋外からもたらされることが書かれています。「公園のブランコは全然使われていなくて/そこには雪が積もっているのだろう」と、ここでも「だろう」が使われているため、現地に行って確認しているわけではないことがわかります。そして続く「歩道の脇は」と、これも屋外です。つまり、この補遺が途切れざるを得ない必然的な理由がこの「だろう」という推量によってもたらされているのであり、実際に屋外に出て現地を確認しておらず、想像で書こうとすることに苦慮しているという、語り手の姿が浮き彫りになっています。もし外に出ていろいろ街の景色を見たとしたら、「だろう」という推量や「鉛筆の類でがしゃがしゃと塗りつぶし損ねている」こともなかったのかなあ、と思われます。 2.誰に向けられた語りなのか 「1」で述べたのは、屋内にいることについてであり、そうすると他者との出会いは、屋外にいることより制限されます(全くないわけではない)。しかし、語りは自己に向けられているというよりは、誰かに向けられているように感じられます。「今日こそは本を読むとか豪語」できるのは、他者がいるからであり、他にも「別の男」「妻」という登場人物が出てきながらも、「妻とか奥さんって禁句なんだっけ/はい死にまーすごめんなさーい」というのも、他者から見られた自己の倫理・規範の表明であります。つまりは、「他者」を想定した語りになっているのではないかということです。だからこそ、最終的に僕が「僕ら」という複数形になっていることも納得ができるなあ、と、下手くそが書く評でした。 (下手くそが書くバラッド)

2021-01-10

ありがとうございます。 主旨は書いていただいたとおりだと思います。具体と抽象を織り交ぜて書くこと、私たちひとりひとりはそれぞれに「私」がおり、それは具体であり、書くと言う行為はその「私」がどう在るかを切り取る行為でありつつも、「私」という存在は他の「私」によっても規定されるということ。常に他者がいるということ、つまり、「私」の外にも「私」がいるということ。生きている以上は「私」から「私」は逃れることができませんが、他の「私」にだったらなれるかもしれない。 あと、一つの出来事を同じ場所で同じ空間で共有したとしても、それを感じたり、考えたりしたことは、それこそ「私」の数だけあると信じているんですね。だからこそ、他者の「声」が僕にとっては大切で。記憶の祖語、それを記録するために僕は書いているようなものです。つまり、この評は実に的を射ているということですが、それこそ、他者の「声」によって再起された想いを記したに過ぎない。つまり、これは僕が語っているようでいて、他者によって語らされました。 (書くということ(選評文))

2021-01-09

コメントありがとうございます。 「私たち」が「あるもの」を語る時、「あるもの」は「私たち」をどう想っているのか、自己にとらわれず、他者から見た自己への意識、なんだと思います。 彩煙柳という言葉は、まさにこの作品を書くために調べた言葉で、この作品を書くことがなかったら一生知らずにいた言葉だったと思います。すでにご存知だったのがすごいなあと思いました。 コメントの最後が「ありがとうございました」で〆られているのが何とも嬉しく、こちらこそありがとうございました。 (打刻)

2021-01-08

こんばんは。 >信じ方の問題 そうだね、としか言いようがなく、それが評なり、コメントなりで読み手のスタンスが象られていくんだね。 語りに関しては、修士論文で扱おうとしたぐらいで、結局やめたんだけど、一時期めちゃくちゃ調べた時があった。というのも、自分のやりたい、考えたいテーマがそこにいっぱい詰め込まれていたからだね。「誰かの語りを聞くのが好き」というのは、当たり前のようであってとても大事なことで、これって詩のテーマを越えて、生きる上でもまさに活きるんだと。 まあ、でも、散々こうやって語り合いながらも、俺らがやっていくべきことは、読んで、それを最低限作者に伝えるためにコメントすることと、やっぱり、作品を書いていかないとなと。で、無理に作品は書く必要ないし、読む必要もなく、そうした機運があるときだけでいいと思う。2年半近く全く詩に触れなかった時もまた今の俺にいきていると思っているです。 (打刻)

2021-01-08

おっす、おっす。 >偶然を必然と感じる行為って字義的には反語 いや、厳密な字義では確かに矛盾しているかもしれないけれど、決して矛盾していないというか、人間としての営みだと思うんだよね。「信仰」という言葉がまさにそうで、俺は「感じる」という言葉を意識的にここで使っていて、「感じたり」「信じたり」するのは、まさに「語り」における「語り手」によるものであって、「語り手」が「そうだ」と言えば、その「語り」内ではそのように成り立つというのが、あらゆる作品で成り立っているんだと思うんです。作品内における出来事は、作品外にいる読み手は否定できなくて、それって、俺らが作品を読む時に、先ず作品内で何が起きているのかを読もうとすることに繋がっているわけで。そう、先ず、作品を信じるということ、これが読むことの前提にあると思うんだよ。そのうえで、読み手がどう思うかは、まさに「読み手」の「語り」に委ねられているんだね。その作品内に在る契機、そして、読みの中にある契機こそ、その「語り手」がどう「語っている」かを読むということが大事なんだね。 それは後者の百均のコメントと繋がってくるかな。それこそ、野家さんの本に書いてなかったかな。それか坂部恵さんの「かたり」っていう本だったかな。語るって、象る(かたどる)とも似ているし、騙る(かたる)にも繋がってくるって話。それが「思い出」の「物語化」であって、物語は語りによって象られていると。 そして、「読み」を「読み合う」ということを俺らはやっているわけだから、俺らが「読み」という「語り」によって象られていくんだね~。 (打刻)

2021-01-07

コメントありがとうございます。 悲しみ、慰め、憎しみといった感情はそもそもあんまりないかもしれません。良い詩だなと思ったその感想が良いなあと思いますが、前者も後者も私のおこがましい感情な気もするので、やはり読み手に託したいなと改めて思いました。 (打刻)

2020-12-29

長いね、俺も長いけど。 >なかたつさんの詩を読んでいて思う事はとか、大きな主語で語ってしまうと、これを人に見せる事で何を期待しているのだろうという事をなんとなく思います。 という問はすごくいい問で、全作者はこれに対して考えなければいけない気がして。いや、別に期待していることはない、という答えでもいいと思っていて、そんなもん読み手が勝手に読めばいいと。俺はやっぱり期待していることはなくて、でも、作品を投げる限り、偶然の必然を信じているんだよね。世の中、偶然しかないと思っていて、それを必然だと感じる、そう、必然は在るんじゃなくて、感じるだけなんだよ。その偶然を必然だと感じる行為を、「動機」、もしくは俺の言葉で言えば「(必然的な)契機」だす。 >足跡というのは、基本的に、汚すという概念が付いて回りますよね。 へー、なるほどなあ、と、考えていなかった。 >特に、この足裏というのが靴を履いているとかいていないので、僕の中では素足のイメージで脳内に描かれます。 へへー、ななるほどなあ、と。砂浜って、素足じゃなくて、靴でも、ビーサンでも、島ぞうりでも、ふかふかを感じるよなあ、とか。 >砂の立場から語るのは多分重たさを忘れてしまうので無理なんでしょう。 おお、なるへそなあ、と。砂を語っているようで、砂が語っているんだね、って。この話は、いつかしようと思ってたから、今度話しましょう。 というのは、 >きみに追体験させることでぼくと同じにするってことは僕と同化するので、海に沈めますねってことですね。 っていう最後の一行だけど、ここに繋がっているわけであって。自作解説とか、自己語り、思想語りについては、作品を越えてやるべきではないと思っているけど、多分、普段考えていること(抽象)が作品(具体)に出ているのかなあ、と思いましたですね。 散々、語るという行為が何であるかを話したりしたけど、語る行為を妄信しちゃいけないんだよね。それって本当に「私(作者or語り手)」が語っているのかな。何かによって「語らされている」ということが時にはあるよね。 (打刻)

2020-12-29

コメントありがとうございます。 ロマンチックになるように作った気がしたので、よかったような、作品自体が天文学的にもっと拡がりがあればなあと思いました。 (打刻)

2020-12-29

コメントありがとうございます。 今ごろはきっともうホッピーはとっくに体から抜けてしまったのでしょう。何より、僕は読み書きする時、酒を入れることができず、基本的に素面なんですが、酒を飲みながらいいと思える詩に出会えるのはすごい幸せな気がします。 基本的にABさんと同じような感じで、違う世界だけど何となく繋がるシリーズものとして書いていることが多く、自作は自分もどんなものが書けるのか楽しみです。 「喪失」ですか。過ぎ去った時は基本的に喪失、というより、時間という概念は喪失が付き物なのかもしれません。 (打刻)

2020-12-29

 恋と愛って何が違うんでしょうね。詳しく述べると長くなっちゃうのであれですが、「家族愛」って言葉はあるけど、「家族恋」って言葉はあるのかな、ないのかな。そう考えると「家族」って何だろうなって、ぱっと出てくるのは「自己犠牲」ってワードで、今の自分があるのは間違いなく家族のおかげで、それも家族の「自己犠牲」があったからで、そう考えると、愛って、自己犠牲をいとわないことかなって思えてくる。でも、それが全ての家族にあてはまるかどうかはまた別問題だし、きっと恋にも自己犠牲はある。  「一緒に手を繋ぐ」ということから、それは自分の一部である手を差し出す行為であって、広く言えば、自分を差し出す≒自己犠牲の一つの形だと思うんですねえ。「いっしょにあるこう」というのも、自分の時間を差し出すことでもあって。「廃墟」「瓦礫」が残る街にこれまた残されたのが「子供達」と「わたし」で、「大人たち」は灼けてしまったと。なんだこの設定。手を離すことができないと同時に「話すことのできない」ってかけているんだね。  「だから歌を教えてあげた/大切な歌を」って、はいでたー、素敵な設定。俺も教えて欲しいよ、みんなの大切な歌を。でも、その歌がどんな歌かはわからないんだよね。作品内では書かれていなくて、知るのは作品内の「わたし」と「子供達」だけで。  で、この歌って、この作品内でどういう役割を果たしているのか。ここでキーワードを出しますと、「形」なんですね。「瓦礫」も「廃墟」も、原形をとどめていない何かの跡なんだけど、「形」としてそこに在るもので。でも、「歌」って、再生はできたとしても、「形」として目に見えるものではない。この目に見えるものと目に見えないものに焦点をあてると、この作品がよく読める。  「わたし」は「この街が滅んでいく歴史を眺めていた」と、ほら、観察者としての「わたし」がいて、「滅んでいく歴史」をあらわすもの(作品内の舞台装置)としての「瓦礫」や「廃墟」なんだよね。「滅んでいく」ことを証明しているものなんだね~。  「記憶に紡がれた事実」は目に見えない、だから、「枯れ枝に刻まれた日記帳のようなもの」、つまりは、これは脆く滅んで目に見えなくなってしまうかもしれないものとして描かれている。  「歴史」とか「事実」ってどうしたら残るのか。俺ら一般の歴史を語れば、かつて詩は「叙事詩」として口承文学であって、「声」や「伝承」として語り継がれたものであるんだけど、この作品内で「歴史」や「事実」を滅ばない/目に見えるようにするために、「絵日記」を書くんだね。これって、目に見える/見えない問題によって何が起こるのかというと、「歴史」とか「事実」って、目に見える形で残っていれば共有できるんだけど、「声」とか「語り」といった目に見えない形で受け継がれると、それが正しいものかどうかわからないし、要は信用や信頼によってそれが共有できるかできないかが変わってしまう、つまり、語りの信頼性は語り手によって担保されるということ、これは、俺らの日常でもよく起きていることだよね。同じ内容のことを言っているはずなのに、言う人によって、聞き手はその情報の真偽を判断してしまうような。  「わたし」は「子供達に伝えることはない」って、「歴史」を見てきたはずなのに伝えることはないというのは、言い換えれば、「伝えるべきことはない」という「わたし」の価値判断があるんでしょう。そんな「わたし」とか「子供達」の想いをよそに、「背後に流れている水の音は/軽やかに時を刻」んだね、無関係なものとしての舞台装置。  「かれてしまった喉」があるのも、歌い過ぎたのかな。「思い出から離れていく」のも「新しく繋いだ絆」という今、そして、これからを見ようとする語り手の姿勢が示されているんでしょう。  「子供の時のわたし」と「大人になったわたし」は何が違うんでしょう。それは、「声にならない言葉を持つようになった」ということ。  「コロッサスのさいた/夢の花びらのせい」にして、「もう一度踏み出そうとすることをやめ」るんだけど、本当にそうなのかな。  なんか段々雑になってきちゃった、長いよ。  「ぼろぼろの靴紐を脱ぎ捨て/壊れかけのビルの頂上に登る」って、おお、いよいよ、もう一歩踏み出そうとするじゃん、何が起こるの~? と思ったんだけど、「瓦礫」「廃墟」「コロッサス」「歴史」とか言っておきながら、なんで「ビル」なの。俺が勝手に抱いていた古代ギリシャの世界観が急に崩れましたですね、ええ、はい。  「この街の景色は綺麗だった」のはよかったです。「そんなこの街が好きだった」のもよかったです。だからきっと、「わたし」はこの街にとどまり続けたのでしょう、語っていることとやっていることが一致していて納得です。「好きだというくらいにあなたのことも/愛していた」のもよかったです、ですが、ところで「あなた」ってどなた?  ええ、つまりは、恋とか愛とか最初に述べ、最後も愛に繋がるんですが、肝心な「あなた」の描写がほとんどなくて、基本的に「わたし」と「わたしから見たこの街」の心情・情景描写が続いている。「わたし」は「わたし」を他者に差し出している。では、「わたし」は「他者」から差し出されているのか、つまりは、「わたし」の中に他者は生きているのか。でも、でも、でもでもでも、「コロッサスのさいた/夢の花びらのせいで/もう一度踏み出そうとすることをやめてしまった」というずるい言い訳に沿って、俺もずるい言葉を聖書から引っ張ってくるけれど、「愛されるより愛しなさい」ってイエス様が述べていらっしゃったので、まさにこれを体現した作品であると言えるなあと思いましたですますまる。 (みんなでてくる)

2020-12-19

 これすごく面白くて、好きだなあという感想。  語り手の「わたし」を含む「わたしたち」と「あなた」との対比がすごいなあと。「あなた」について多く語られていて、こきおろしているのかと思いきや、そうではなくて、「わたし」は「わたしたちの詩はどうでもいい」と「わたし」側を卑下しています。そのうえで、「あなたが書いている詩はわたしたちの嘘くさい生をとてもよく表している」とほめているんですよね。  いや、でも、やっぱり「あなた」をもこきおろしているような気もしてきて、「愛はあなたには永遠にやってこない」という断定までしていて。でも、「わたしたちは雑魚」だと、「雑魚だから詩を書いている」と。  「現代詩手帖があなたは雑魚なんかじゃない」っていう皮肉もよくて、あ、でも、「わたし」は「あなたは雑魚なんかじゃない」と保証してくれるわけじゃないんだと。なんとなく「あなた」を褒めているけれど、「あなたが雑魚じゃない」ということを「わたし」は証明しないんだなあと。  「受付のおばさんが現実でそんな現実はみたくないよね」とか、何気ない表現だけど、わかるわかるという感じで。  作品内作品において一番気になったのは、「リアリズム」の部分で、「今夜あたりにまたやってくる」と「あなた」は詩の中で述べているのですが、いや、「あなた」はカツカレーを食べている嬢を見ているというのが「あなた」のリアルなはずなのに、よく「「リアリズム」が/今夜あたりにやってくる」と語るよなあと。つまり、「あなた」は「リアリズム」というそれっぽい言葉で「リアル」をまやかしているのだと。ここが一番の突っ込みどころで面白かったです。  「わたしたちはずっとずっと、はっぴー。」という〆も、つまりは、即物的な快楽というものが「雑魚」であろうとなんであろうと、「はっぴー」を保証するものであって、「あなた」にとっても結果的にカツカレーを食べる嬢を見ることが「はっぴー」なのだろうと。  それでもやはり気になったのは、「あなたが書いている詩はわたしたちの嘘くさい生をとてもよく表している」という語りから、「あなたの嘘くさい生をたとえてあげようか」という反転。「嘘くさい生」をたとえ合うという関係と作品内作品における「リアリズム」というタームがどうもひっかかって、「嘘くさい生」もまたどんなに嘘くさくても、生は生なんだと。どんなにたとえられたとしても、生は生なんだと、その生≒リアルを待ち望む「わたし」と「あなた」による「わたしたち」の「はっぴー」についての作品だと捉えましたですます。 (残念ながら はっぴー)

2020-12-19

 久々にお名前を拝見したので、思わず読んでしまいました。  「やさしい言葉を集めて/ネットオークションに出す日々」って、さらりと書かれているんですが、実におもしろいなあと。原因と結果、どちらがどちらなのか、ということで言いますと、「ネットオークションに出す」ため、戦略的にやさしい言葉を集めているのか、それとも、「やさしい言葉」が集まったから、「ネットオークション」に出したのか。後者だったとしても、なぜ「ネットオークション」という場所にしたのか。「ネットオークション」という場所の性質を更にとらえると、これは売りに出されているということで、「やさしい言葉」に対して、金銭を受け取るということが発生することでもあって、うーん、この2行だけでも、ものすごく想像が拡がります。  よくよく見たら、やはり後で説明されていました。「友達に、手紙を出すために/お金がたくさん欲しかった」という真の目的が。やはり、友達に手紙を出すためのお金を得るための手段としての2行だったのです。ネットオークション自体もまた「うんと遠くに住む」人とやり取りが発生するかもしれないということを考えると、対照的に見えてきます。  と、ここまではよかったのですが、急に世界観が変わります。最初は率直に欲望が示されている(心情描写)のですが、映像・世界が拡がっていきます(情景描写)。  その情景に色を与えるのが「ひかり」の役割ではあるのですが、「ひかり」は私たちの思い通りになるものではないですから、人間の意志などというものをよそにして、「含み笑い」をしているようにも思えます。「信号」もまた色のついた「ひかり」を放つのですが、そのことによってやはり世界は色づき、「空間が滲」むのですが、やはり、急に場面展開。  一行と一行のスピードが一定ではなく、改行を均一的に読んでしまうとはまってしまいますね。いきなり、「冷たい手」が出ることによって、語り手/読み手のフォーカスがずらされます。「冷たい手をしているくせに」というのは、君の手なのでしょう、つまり、君の体の一部です。そして、語り手の体を体たらしめるのが「君の愛情」であります。  「命から遠ざかっていけば」という何気ない1行が何だか意味深な気もするのですが、これは、君と私との命の距離、つまり、身体的な距離を述べているような気がしています。そうすると、私は「君の愛情」からをも遠ざかることになり、私は私の体の確実性を失うことで「指先から透明になって」いるのかもしれません。「指先から透明になっ」た先に待つ未来というのは、私の体の全てが透明になるということであり、それでも、唯一この世界に残る私というのが「脳」なのでしょう。まるで、私という体が無くなって、脳だけが宙に浮かぶような映像が浮かび上がりました。それでも、「いつか、脳は宝石のように/美しいものへと変われたはずなのに」というのは、嘆きのように聞こえてくるもので、「変われたはずなのに」というのは、変われなかった時に述べられる嘆きです。つまり、私の体は私の体として維持されており、透明になることはない。この作品内において透明であるのは「ひかり」だけであり、その「ひかり」を「美しいもの」として感じさせてくれるのがまさに「宝石」なのです。それにしても、「脳」を「宝石」に置き換えるという発想はなかなか生まれないもので新鮮でした。そして、大きくは3つのパートに分けることができると思うのですが、少ない行で多くの映像を思わせることは、僕にはできないなと。何より、最初の2行がやはりくせになりますね。 (脳と宝石)

2020-12-19

 「いつかの青い海」と「水たまり」の違いを先ずは考えました。先ず、「青い海」は「いつかの」ものであって、「いま・ここ」にはなく、語り手がかつて見たことがある存在であり、「水たまり」は「いま・ここ」にあるものです。いや、時制のことは作中に書いてあるとおりなのですが、一般的に言うならば、大きさの違いが気になります。「青い海」はその体積によって多くのものを包むことができますが、「水たまり」は多くのものを包むことができません。それは単に「言葉もアイデア」といった目に見えないものばかりではなく、語り手自身をも包めるのは「青い海」のほうでしょう。  つまりは、第二連において一見唐突に見える「泳ぎ方」という語りについて、この作品内における「青い海」と「水たまり」の違いの重点は、作中でも使われている「いつか」と「今」との時制の違いもあるのですが、「泳ぎ方」が間接的に示す「青い海」と「水たまり」の大きさにあるのではないでしょうか。  「いくら成長したって/未だにあのぎこちない泳ぎ方を/直せないんだ」と、泳ぎ方を直せないこともありますが、この作品に書かれていないことを勝手に補足しますと「いくら成長したって/青い海は包み込んでくれる」ほどのものでしょう。だからこそ、きっと「泳ぎ方を/直せない」気がしてきます。  「水たまり」も「語り手」も変わりゆく存在としてありますが、変わらないものとしての「泳ぎ方」を担保しているのは、変わらないものとしての「青い海」が堂々と在るからだと捉えました。 (才能の海)

2020-12-19

コメントありがとうございます。 >先にちょっとした不注意と書いたのだけど、こうした些細なミス、例えば読み間違いや見間違いなどは無意識の働きとして語られることがありますね。 というところが、確かに核となっていますね。冷静に見ると偶然に偶然が重なった出来事に見えるのですが、文章にしてしまうとそれが何だか淡々と必然的に思えるような錯覚をしてしまうような気もして。 作品内の舞台装置を拵えているのは作者なのですが、その作者自身もまた必然的に作品を書いているわけではなく、作品内の偶然に引き込まれて、何とか世界を書き留めているような。 >それは「僕」にとっては、予定通り進んでいたら恐らく確実に起こりえなかったことであり、だからこそ想像だにしていなかった体験だったでしょう。 この部分、当たり前の指摘なのかもしれないですが、身に沁みました、確かにと。 語り手は、ほとんどの場合「見る存在」であり、つまり、主体的なものとして設定されることが多いですが、それを反転させて、語り手は絶対的な存在ではなく、「見られる存在」でもあるということ。これは、作品内世界に限らず、「いま・ここ」に生きている私たちもまたそうであるということを常々考えさせられています。こうした意識が世の中で広まれば、もう少しいい世の中になるんじゃないかなんていうおこがましい希望があったりなかったり。 星空は「いま」という時を共有していれば、大体の人に同じ星空が見える気がするのですが、「かつて」の星空と「いま」の星空が一緒であると言い切れないですね。今見ている光を放つ星は、実は今なくなっているのかもしれない。そんなことも考えながら、これからも星空を見ていきたいな、と小学生並の感想です。 (Konstellation)

2020-12-19

はいさい ABさんとも共通することだと勝手に思っているのですが、固有名詞や地名や限定的な出来事を作品にした時、読み手が作品に対して参画できるのか、もしくは、作品が読み手に対して参画できるのか、ということを常に意識しています。 もう少し簡潔に言えば、僕の思い出を語ることで、読み手に何か喚起されるものがあるだろうか、喚起されたら嬉しいなといつも思っています。これは本当に限定的な出来事を作品にしたものですが、また時間や空間をこえて、また、作者や読み手をこえて、何かが繋ぎ合わさって、一つの図が生まれるのか。それは、見る人が勝手に定義づけるものであって、そうした人がいるものなのだろうかと思いながら、僕は細々とまた作品を書ければいいなあと思いましたですね。 (Konstellation)

2020-12-12

コメントありがとうございます。 こう、なんでしょうか、ある出来事に触れた時に、ふと過去の出来事を思い出すことって僕はよくあるんですね。時間が経つと思い出したことすら忘れてしまうこともありますが、でも、時間も空間もこえて過去の出来事が思い出されるということは、僕の中に確かに刻み込まれている出来事なんだなあと、そういう時に僕は何か書きたくなります。これも多分そんなものです、作品全体が日常で起きている出来事そのもので。でも、言葉を使うと、どうしても出来事の順番を記さないといけないですから、それが何度やっても難しいですね。 Led Zeppelinに目を向けていただいて嬉しいです。というのも、この作品で起きている出来事はLed Zeppelinをもとにコミュニケーションが弾んだのですが、僕の中で沙一さんがLed Zeppelinが好きな人として認識されて、もしリアルで会ったとしたら、何のアルバムが好きかとか、他にどんなバンドが好きかとか、このバンドの名前という単語一つで、いろいろなつながりが生まれうるのです。 僕は英語が堪能ではないですが、Led Zeppelinが好きでよかったと、そして、言語とかをこえて、音楽で人とつながれた稀有な出来事だったなあ、と今でもよく覚えている出来事ですね。 (Konstellation)

2020-12-12

どもどもありがとうございます。 Konstellationに触れていただきありがとうございます。調べていただくとわかることですが、僕からは解説せず、素敵と思っていただけたあなたが素敵ですよっと。 大体書いてあるとおりなんですが、コメントの三連目からまるで別の作品が始まったみたいな感じで、そのようなことを喚起させることができたのならばよかったなと。物事って、自分が見ている世界が全てじゃないのに、それがまるで全てであるかのような錯覚をしちゃいけないよなと。だから、僕はメタ僕によって俯瞰されるように物事を見てしまったりなんて。 多分realizeという動詞も主体側に重きがあるんですよね。客体はそこに存在するし、世の中の出来事はどこかで何かが起こっているけれど、realizeしないと、主体にとって認識されないというか。そういう意味でやっぱり共通していると思います。 明言するとつまらなくなってしまうのですが、星にも種類があって、自ら光を放つ星を恒星と言うんですが、照らされる星はなんていうんだっけなとか。惑星ってどういう意味だっけなとか。だから、「〇〇は星のようだ」っていう表現って、少し乱暴なような気がしていて。星は全て自分の力では光ってないんだぞと。 (Konstellation)

2020-12-12

コメントありがとうございます。 「月」はほんとに「ぽかん」感を演出したいほど、朝見えた月が鮮やかだったんだと思います。 「そういえば」のパートも、何でしょう、日常会話のみならず、街中や職場にいれば、誰かの話し声ってすごい雑多に耳に届いているはずなのに、それを聞き手が勝手に切り取っているだけで。文章にするとなおさら会話文って偽物になる気がするんですよね。僕が書くものは日常を日常のままにしたいのかなあと思いましたです。 (Konstellation)

2020-12-12

 僕にはこういうかちっとして、しゅっとした作品は書けないなあというのが一読しての感想。ただ、この作品における、かちっ・しゅっというのは、まるで林や髪を梳いて隙間をつくっているというよりかは、液体が個体になって密度を増しているように思えます。というのも、名詞が重たいのと一行一行の繋がりが不可欠となっていることからです。  一行目は、「音楽」という何でもない名詞を「濡れ始めた森から鳴らされた音楽」と説明しており、連体詞を繋ぎ合わせることで限定的になるはずが、実はその「音楽」の内実が読み手から離れていくような感覚があります。名詞を彩ることで、その名詞は色をまとい、限定的になるがゆえに、それが語り手の見ている世界というものを確固たるものにするゆえ、作品内世界が凝縮されて、読み手のいる世界とは別物であるということを思い知らされます。  「伝言を残した紙」もどういった伝言かは語り手のみぞ知っているわけですが、「製氷皿の中に沈められて/読まれる時を待つ」というこの二行が僕の興味を惹きつけました。何となくご存じかもしれませんが、最近ツェランの「投壜通信」について話し合うことがあったのですが、そのイメージと結びついてきます。ただ、製氷皿の氷が融ける、つまり、その氷を使う瞬間というのは、もしかしたら夏が来るまで待たないといけないとか、誰かから語り手に宛てられた伝言なのかとか、語り手から誰かに宛てられた伝言なのかとか、もし語り手から誰かに宛てられた伝言だったとしたらその方を部屋に招いて氷を用いた飲み物を提供しなければ伝言されないだとか、特にこの最後の想像が僕の勝手なフェチ想像になるのですが、伝言の紙をそのまま誰かに宛てるのではなくて、(伝言の紙が入った)氷が入った飲み物をもてなして初めて伝言される何かというのが、勝手なロマンチック想像です。でも、何を伝言するのかと。  「穴の向こう側~」の部分は、正直よくわからなくて、というのも、この「穴」は「穴」なんですよね。前段で散々「名詞」が彩られているとか述べたのですが、この「穴」はやっぱりただの「穴」で、どんな「穴」なのかが全くわからない。しかし、重要なのは、「穴」そのものがどう在るかではなくて、「穴の向こう側から」手を振っているというその動きに重きがあるのでしょう。そして、「あなたの独歩を招いて」おり、やはり、先ほどの想像というのは、何だかあてはまるような気もします。招くことで、氷にまぎれた伝言の紙を読ませることができそうですね。  でも、「二歩で消える一文字」を「カチッと照らした」と終わり、語り手が「カチッと照らした」のであれば、それは誰のために照らしたのかと言えば、語り手のためであるような気がします。少なくとも読み手には具体的に提示されていないので、語り手だけが知る情報として作品内に取り残されている。つまり、「伝言を残した紙は/製氷皿の中に沈められて/読まれる時を待つ」にこの作品のポイントがあると思っているのですが、この氷は少なくとも今時点では融けておらず、読み手がその伝言の紙を読むことができない。つまり、この作品自体が氷の中に取り残された「伝言の紙」になっていると言えるのでしょう。 (誘導道路)

2020-12-12

コメントありがとうございます。 このテーマ自体、そろそろ自分の中で使い古した感があるので、脱却しないとと思いつつ、重要なテーマなんだろうなあと、常々思っていますですます。 (編集)

2020-08-09

遅くなりましたが、コメントありがとうございます。 特になるほどなあ、と思わされたのが、 >それまでの展開のすべてをこのクライマックスへ結びつけたあとで、「ディスク」の「交換」を促し「Disc X」なる表示を残すことで、詩を読み終えて現実へ戻ってきた読者に対し、読者の人生という物語における読者自身の役割を、暗黙のうちに問うのです。 の部分で、私が予期していなかった読みの提示が示唆的でありました。 「道徳」の部分と >一方、ゲームは、クリアによって得られる満足感という精神的報酬のための行動を要求します。 という部分については、作品の中で特に描いていないので、原口さんのゲーム論として受け止めました。ただ、お話を聞いた上でも、描こうとも思いませんでした。 >月並みですが、ゲームと人生は異なります。 というのは自明のこととしてあるからこそ、ゲームと人生の共通点に目を向けてのいいのではないでしょうか。何でもいいですが、人と魚は異なりますが、共通点もあるものであり、単にどちらに視点を向けるのかという、その単なる視野の違いなので、どちらがいいとかわるいとかでもなく、納得いかないという姿勢も文面にて示されているとおりだと感じました。 あまり触れられていないですが、それでもなお、ゲームも人生も「役割」というものが、少しなりともあるよなあ、といまだに考え続けています。 (編集)

2020-08-09

コメントありがとうございます。 構成については練ったつもりなのでよかったです。 ただ、形式と内容における内容のほうがあまり効かなかったということで受け取りました。 おそらく情報の出し入れだと思うのですが、全てを説明するべきではないと思うので、読者の想像に委ねる表現が用いられており、そういった部分がおそらくフックとならずに流されたととらえています。 わかりやすい事件・出来事はそれだけで目を惹くものですが、些細な/個的な日常が、言い換えれば、個人的な体験がどこまで他者の関心を惹くかということを絶えず考えています。 書き続けたいと思います。 (編集)

2020-08-02

コメントありがとうございます。 評価が分かれるというのは、まさに上記のコメントに示されているようで、改めて自作を読み直し、考え直しました。 一つの考えとして、おそらく語り手がペシミスティックな人物として見られてしまうかどうか、というのが導き出されました。そうやって描いたつもりはなかったのですが、コメントを読んだうえで、読み直したらそう見えてしまった部分がありました。 クロスについては、よく使う手法なのですが、今回はうまくいかなかったかもしれませんね。 (編集)

2020-08-01

コメントありがとうございます。 作品はあくまでも作品であるので、作品外のことについて述べることは特にありません。 おそらく、作品内の構図や考察が浅はかで、読者に何も生まれなかったという旨を述べていらっしゃると思いますが、その点について今後考えてみたいと思います。 この作品がポジティブ/ネガティブのどちらに捉えられるかの一つの指針を示していただいたと思います。 (編集)

2020-08-01

コメントありがとうございます。 >(ぼくはこの作品、とても良い作品だと思う) については、正直に嬉しい部分がありますが、どの点がそのように思われたのかをお伺いしたい次第です。 >感覚的な描写が少なかったように思いました。 というのは、そのとおりだと思います。文字と言えど、比喩となりますが、冷たい文字と暖かい文字があると思っています。詩の中の文字/言葉は、全てが均一ではなく、その温度差を楽しんでいただけたらと。 どのようなドラムかは、ご想像におゆだねいたします。 (編集)

2020-08-01

いつもの感じです。ばらばらな出来事をなんとな~く繋がるような、あの感じです。まさにABさん調というか、そういう点は手法(形式)としては似ているのですが、切り取る出来事がそれこそ作者によって変わるわけで、僕には持っていない出来事を持っているABさんが羨ましく思えます。 また気が向いたら現れます、今後ともよろしくお願いします。 (しゅっせき)

2020-07-10

そうです、私がなかたつです。 期待外れで、何だかこそばゆい感じもありますが、作品に好感をもっていただいたと解釈して、それは単に嬉しいことですね。 読みにも、ポイントとなることが示されていて、なるほどなあと読んでいました。 僕は、詩を「声」だと思っています。ただ、一言で「声」と言っても、説明するには長々となってしまうのですが、単なる文字として書く/読むのではなくて、そこにはリズムや呼吸、間といったものが込められていると勝手に信じています。その意識が少しでも反映されたのかなあ、なんて思っています。 あと、自分が予想していなかったのが、「ずれ」の話です。多分、当たり前にあるものを当たり前に見ていては、多分、わざわざ作品を書こうとは思わないなあ、と当たり前のことに気づきました。作品なんて、答えを示さないでいいと思っているんです。それなら、人間同士のコミュニケーションなんて、要件を伝えるだけなら、数秒あればことがたりるわけで。問い続け、しゃべり続け、聞き続け、常に、出会って、わかれて、みたいな、わけわからんですね。 「僕はこう見たけど、きみはどう見たかい?」っていうのを多分やりたい気もするのですが、返事が返ってくるかどうかは、僕ときみ次第。僕の話に耳を傾ける人は、全員ではないですから。ただ、「作品を投稿する」という行為は、常に「僕」から始まる会話であって、「きみ」から始まる「読む」ということも時にはせねばならんですなあ。長々とすいません。 (しゅっせき)

2020-07-10

ご感想ありがとうございます。 眼のつけどころがまさにこうださんですね。そこに着目するとは、きっと無駄なように見えるな~んてことのない行に生を与えていただいたような気がします。この「 」部分も一応凝っているつもりです。 私が誰か。お楽しみにしていてください。きっと当たっているような気もしますし、意外だと思われるかもしれません。結局は、私にもわかりません。 (しゅっせき)

2020-07-01

ご感想ありがとうございます。 なんてことはない、時間も場所も違う出来事が一つの作品という場所において並置されることで、それぞれの出来事に新たな意が付与されればいいと、この構成・構築に最近はまっています。明確な意図というのがあると、それはわざとらしく、わかりやすくなるので、読者への余白をもたらすためにも、関係ないような出来事が何となく繋がるようには意識しています。 「お値段以上、〇〇〇」という宣伝文句が有名なものとしてありますが、ものの値段って一体なんなんでしょうね。誰が決めて、それに納得したり、時には悩まされたりして、買ったり、買わなかったりという選択もあり、同じ値段のものが必ずしも同じ効能があるわけではなく、後悔もあったり。数字は一義的なものかもしれませんが、ものの値段は一義的とも言えなさそうな気がしています。 (しゅっせき)

2020-07-01

ご感想ありがとうございます。 >私たちが後世に残したいと思うものを存続させることへ賛同する意思表示としてお金を支払うという考え方には好感をいだきました。 というところには、意外だなあ、と思いつつも、なるほどなあ、と思わされました。物を買う時に、そこまで大層なことまで考えて常に買っているわけではないのですが、こうした意を付与することができるものなのかと気づかされました。 >すくなくとも自分だったらうれしいです。 というのも、率直な欲望で、ものを書く以上、どんなに小さくてもこうした欲望があるのかもしれませんね。ものを書いて、媒体は何であれ、どこかに出す以上、誰かに読まれるのであって、それがたとえ詩誌に投稿して、その詩誌に載らなかったとしても、きっと選考段階で誰かしらの眼には触れているわけであって、自分から手放したものは必ず誰かに見られる運命なのかもしれません、と、この作品で書かなかったことへの想像が更に膨らみました。 (しゅっせき)

2020-07-01

ご感想いただきありがとうございました。 作中の文言に向き合いつつも「この二つの問に関しては、作者が知らないように思えないです。」という問は、果たして有用なのかと問います。 「正直に言わせてもらうと、僕は、思想的な魅力はあまり感じませんでした。」とあるのですが、トビラさんが他の作品に対しても「思想的な魅力」を求めているのだとして、「どういう思想」が魅力的だと考えているのかがわからないので、応えようがありません。そもそも「思想的な魅力」が重要なのかどうか、どうなんでしょうね、この作品に書かれているとおりなので、私からは述べません。 「そういうことに対する掘り下げが浅く感じました。」とありますが、そうかもしれません。「商い」について書かれた論考でも文章でもありませんから当然だと思います。 (しゅっせき)

2020-06-30

ご説明いただきありがとうございます。 スタンスの違いがあるため、おそらく平行線を辿りそうなので詳細は避けることを前置きとして、「クラシック音楽を鑑賞しているときに世間の雑音が聞こえてきたかのよう」というたとえはわかりやすく、その通りであると思います。しかし、クラシック音楽はコンサートホールで鳴らされる高尚な音楽だけではなく、それこそ、部屋の中やカフェなど日常の雑音とともに流れる場所もあり、無論コンサートホールのような箱詰めされた世界で聴くのがクラシック音楽を引き立てる方法としてよいことであることを承知の上で、それ以外の聴き方もあるのではないかという提示である、とスタンスを述べておきます。あとは、詩におけるアクチュアリティについて最近よく考えています、とも。 (ようせい)

2020-05-03

何を持って良い詩とされているのか、その基準点が気になるところで、それによって二連目がどう映ったのかが、こちらにも見えるところがあります。ただ、「素の美しさへの憧憬」という的を射たような感想をいただき、作者という人間として私自身が日々抱いていることを抜き取られたようで、それがなんだか嬉しくもむずがゆい、改めて思い知らされたことがあったので、感謝いたします。「ようせい」についての解釈は各々に委ねます。 (ようせい)

2020-04-30

 まずタイトルが不思議で、というのも、眠るという行為の後に訪れるのは通常朝であり、その通常を打ち破ることから始まっています。  構成としては、「きみ」と「わたし」を思う・考える時に差異が生まれるというわかりやすいものではあるのですが、面白いのが「きみ」については先ず「考える」ことがあり、「わたし」については先ず「思う」ことがあります。この似たようで全く違う行為である思うと考えるの使い分けも工夫されているのだと。あくまで私見になりますが、「考える」のほうが概念的であり、指示語で言うならば「あの」と「私」から遠いものを指す時に使う言葉なような気がして、「思う」のほうが身近で「この」と「私」から近いものを指す時に使う言葉であるように思いました。  「つめたい夜に/わたしときみは目を覚ます/そして相対する」とあるように、「わたし」と「きみ」は同じ夜(時間)を共有し、また、「相対する」という表現からも同じ空間を共有しているのだと思えます。それでも、やはり、タイトルのことを念頭に置くならば、なぜ朝ではなく、夜に目を覚ます必要性があったのか。それは、「きみは夜も同じように/微笑んでいるのか」や「わたしは夜も同じように/君を信じているのか」という「のか」が示すように、これらの疑問を確かめるために、夜に目が覚める必要性(必然性)があったのだとわかります。  あと、使い分けられた単数(わたし・きみ)と複数(わたしたち・きみたち)の違いなのですが、わたしから見た世界にきみがいることがわたしたちで、きみから見た世界にわたしがいることがきみたちだという読みもできるのですが、おそらく、時間軸をずらした時に表れる「わたし」と「きみ」そのものなのではないでしょうか。というのも、「暖かな記憶がはじけ飛ぶのだ」と明確に示されているわけではないですが、この作品にはやはり、「わたし」と「きみ」以外の他者が出てきているわけではなく、あくまでも「わたし」と「きみ」の世界であり、それらを複数形にする手段として、やはり「あの時のわたし」が何人も「今のわたし」に宿っており、「きみ」もまた同様なのではないでしょうか。  「今更な話」や「これから少しだけ私のはなし」という、言わば覚悟を決めて、今まで安住にしていた関係性が何か崩れそうな予感がします。それでもまだ「わたし」は、「きみは夜には/笑えるの、かしら?」と疑問を抱き続ける限りは、きっと同じ時間と場所を共有しなければならないのでしょう。眠ることによって、時間と場所は束縛されます。少なくとも、眠りながら遠くまで行くことはできません。だからこそ、「わたし」は「きみ」を手離さないために、そして、「きみ」の夜の顔を確かめるためにも、「夜になるまで(ともに)眠らなきゃ」ならないのでしょう。 (夜になるまで眠らなきゃ)

2020-04-05

いまりさん 自分としては失敗というか、無理やり書き終えてしまった没作なので、どの辺が上達(そもそも何をもって上達と言えるのか)していると思われたのか気になるところですが、久々々々々々に投稿したものにそのように言っていただき、励みになりました、ありがとうございます。 (けいじ)

2020-02-08

 この作品は言葉が少なく、ぱっと読むとぱっと読めるのですが、語らないことで物事を語るものを感じました。見落としてはいけないのだと。  後述されているのでわかるのですが、おそらく場面は雨が降っている情景です。「赤信号」自体は立体物ではあるのですが、その「赤」を伝えているのは、実に表面的な部分でしかありません。「赤信号」を裏から見てもそれが「赤」を示していることはわかりません。当たり前のことかもしれないですが、これが「赤信号」と「りんご飴」との違いです。しかし、「赤信号」というただの「赤」を伝える表面=二次元的装置が「りんご飴」という「丸くて膨らんだ」立体物であるようにとらえることができたのは、「雨」がその表面に艶をもたらしたからでしょう。きっと雨が降って、濡れていなかったら、やはり「赤信号」はただの表面的なものでしかないように思えます。  「青信号」も同様に「青」を伝えるだけの表面上の装置なのですが、「紫陽花の塊」という立体物であることを示してあります。これは単に「紫陽花」の色が「青」であるという比喩であるだけではなく、「雨」がもたらした「紫陽花」の喚起であります。青い花は他にもありますが、やはり、これが「紫陽花」である理由としては、「雨」が降っているからこそであり、本来は「雨」は偶然の出来事でしかないのですが、この作品における事物の選択は必然的なものとして導かれています。「生まれて死んでを/繰り返しながら」というのも、信号は、「赤」と「青」を同時に伝えることはできません。どちらかが存在している時は、どちらかが存在しない=死している時であると。  最後の「手を離れた/傘が転がる」という終わりも鮮やかで。というのも、この作品、語り手である「私」について語られた作品ではなく、映像として、事物が移り変わるだけであって。唯一「私」が垣間見えるのは「機嫌が悪いのは/雨のせいかな」という感慨が述べられた二行なのですが、それでも、「私」を語るための作品ではないのです。最後は、「(私の)手を離れた」と補うことができるのかもしれないですが、こうしてしまうと、語り手がこの作品世界に作用・干渉してしまうのですが、むしろ、「傘」が主体となって、「傘」が自ら転がりゆくように描かれているのがいいなあ、と。  このような「わたしわたし」していない作品で、多くを語らずして、上手くまとまっている作品は珍しいなあ、読まれてほしいなあと思いました。 (横断歩行)

2020-02-08

 必ずしも土曜日が休日であるわけではないですが、この作品における土曜日はおそらく休日であって、だからこそ「土曜日に取り残されたい」と先輩は休日を欲していると説明がされています。「土曜日に取り残されたい」とは、言い換えれば「休日が欲しい」もしくは「休日の中に居続けたい」となるわけですが、「それでもその仕事が大好きなご様子」であると。その先輩と対照的なのが、語り手である「私」であって、日々戦々恐々として、逃げ出してしまいたい、という率直な感情を述べています。  そして、語り手が考える「大人」は真っ直ぐ働いていると、これは、「私」と「大人」との間に一線を画していることを示しており、つまり、「私」は「大人」ではないという表明でもあります。そんな「私」に寄り添ってくれるのは、責任、だけであって、それがいつまでも付きまとい、また、「私」が存在・所属している「社会」は、「私」の知らないことでできていると言うのも「私」と「社会」との間にも一線を画しているのです。これらの一線は、誰かが引いたものではなく、「私」が「私」を自己規定している、自らが勝手に用意した一線なのでしょう。  「三食律義に食べてる私はちゃんと歯車として振る舞えていますか」という問いは、一体誰に向けた問いなのでしょうか。誰にとも届かない問い、もしくは自問とも言えるのかもしれないのですが、この問いを聞けるのはこの作品の読者であって、また、この「私」に手を差し伸べられるのも読者なのかもしれません。  一線を画す、という行為と対になるのは、「良い人のレッテルを貼られ」ることであって、「私」が「私」を見た時の評価と他者が「私」を見た時の評価が一致しないことは、現実世界でも多々あることです。終盤では「大人」というキーワードが多用されますが、これは、序盤にあった真っ直ぐ働く存在=「私」の定義した「大人」、にはなれない「私」の葛藤があり、言い訳としての「だったらしょうがないね」を補うとしたら、「子供だったらしょうがないね」という逃げ道を求めているように感じました。  「大人」「責任」というものとの葛藤というよりも、「私」が思う「私」と他者が思う「私」との不一致の方にこの作品の主眼が置かれていると思われました。 (詩的で素敵な忙殺)

2020-02-08

 「黒点」は「太陽」にあるものです。終わりです。うそです。  という前提・当たり前への疑問からこの詩は始まっています。単なる「太陽」だったら、きっと上記の答えになってしまうのですが、「夕暮れに/海のかなたにある黒点」という場面設定があるからこそ、この前提が崩すことができたのでしょう。「シャンパンのように泡立った波」というのは、なんだかおしゃれですね。そして、「ぬれた/私のくるぶし」と焦点が遠景から近景へとぐっと展開されています。身の回り=近景に想いを馳せるのかと思いきや、やはり、焦点は最初の疑問へと戻され、きっと海に沈みつつある太陽を見て答えの出ない問いを考えている語り手。  この遠景と近景との行き来とは別に、第二連は一気に場面が変わっています。「ステーキ」という名を纏った薄っぺらは素敵ではないと。その薄っぺらは「ステーキ」によって引っ張られたのか、第二連の場所全体が何だか薄っぺらになっているように、「白けたサウンド」「食器の音がぶつかる音」「ピックアップトラックのエンジン」と不満を覚える空間が描かれています。仕方なしに、「いま・ここ」という場所を否定するために「目をつぶ」るのですが、「いま・ここ」から飛ぼうとしてもどうしても頭にこびるいてしまったのか「あの黒点」がよみがえってしまいます。これはまるで、語り手の頭自体に黒点が存在しているような感覚です。そして、「アパートの身震い」と、きっと波立った海の震えとが共鳴して、あの問いもがよみがえります。「これは/鯨ですか 太陽ですか」と。もはや、語り手自身が海の中で身震いする「鯨」になってしまったのか、頭にあの風景が黒点のようにこびりついた「太陽」になってしまったのかと問うているように思えます。  第三連の「林檎の炭酸ジュース」や「ビール」も第一連で「シャンパン」を泡立った波に喩えてしまったせいで、もはや「海」を想起させる装置として成り立たせています。これもまた当たり前のことですが、夜には太陽を見ることができません。その前提を踏まえた上で「この暗闇を/太陽に背を向けているからだと思えないことは」までは、何となくつながるのですが、「大きな鯨が目の前にあるからだと思うことは」と、やはり、あの問いが語り手の頭で黒点のようにこびりついています。  最終連では、何気ない問いが少し言い換えられているのですが、「あるべき」と述べられており、この「べき」という何気ない表現が引っ掛かります。この問いに答えを出さなくても、この語り手はきっと生きていけるでしょう、ちゃんちゃん、と読み手が勝手に〆ることはできるのですが、語り手は自らが納得できる答えを見つけたいという確固たる姿勢がこの「べき」に表れています。偶々目にしてしまった風景、それもまた、誰かが干渉することで変えられる事物ではないものに対して、語り手が十字架(責任)を負うという姿勢が感じられます。もしかしたら、他者には見えない世界なのかもしれないですが、確かに語り手は見てしまった、そして、考え始めてしまったのであり、この問いこそ語り手だからこそ生まれたのだから、その問いに最後まで向き合うのだと。「あれは/鯨ですか 太陽ですか」という言い方は何だか自分に言い聞かしているのか、それとも、他者に問いかけているのか曖昧な表現でしたが、上記の姿勢によって、「べき」という表現が付されたのだろうと考えました。 (黒点)

2020-02-01

 先ず「種子回廊」とはどんな場所であるのだろうか、と想いを馳せることからこの詩を読むことが始まります。それでもやはりこの漢字四文字だけではわかりません。  「夏のともし火と共に歩行する」とあることから、不思議と夜のことだろうかと思わされる始まり。しかし、火のあるところに向かって歩くのではなく、ともし火と共に歩くのだから、きっと動くスピードは同一であり、提灯を手に歩いているような場面を思い起こさせます。夏のアスファルトは昼の間、陽の熱を帯びて、夜になるとその熱を放射するが、「懺悔」まではきっと放射されません。だからこそ、その場所を歩くたびにこびりついた「懺悔」を語り手は思い起こされるばかりなのでしょう。「守れなかったぬくもり」がありながらも、「守れるぬくもり」があるのだろうと、藁をもすがる想いが読み取れます。  「十度の風」というのは、角度のことか温度のことか、どちらとも言えるのでしょう。「扉の陰に潜むものたち」は、なんだか不穏な雰囲気を感じさせます。そして、砂浜に呼びとめられて振り向くと、「植物の人の種が零れ」ます。この「植物の人の種」という表現が気にかかります。「植物の種」はわかります。しかし、「植物の人の種」の「人の」がなぜ必要なのかがわからないでいます。しかし、きっと、人がその地に落としたもの、そして、きっといつか花咲いて実を結ぶものだろう、という仮定をたてることはできます。  思えば、土地には名がつけられているはずなのですが、きっといつも通っているその土地を「早く去っ」て、「同じ遠景が広がっている」と、やはり、繰り返し訪れたことが示唆されながらも、「名に触れることなく舞い上がれ」と。  アスファルトには終わりがあります。どこまでも繋がっているアスファルトはなく、どこかで区切りや境目があるものであって、ましてや誰かに「値踏み」されていくように、そのアスファルトに映し出された「影」は、完全無欠なものとしてあり続けることができません。そして、その「影」を踏むということは、やはり、繰り返し訪れたことがあることを再び示唆しています。そして、その都度その土地及びその土地を訪れたという行為を思い起こされる、それがおそらく「後悔」という名を纏うために、語り手は「わたし」を「回収」せざるをえないのでしょう。思えば、ともし火と共に歩くという出だしは単なる情景描写の説明、場面設定の説明のために用いられたのではなく、「影」をそのアスファルト・土地に映し出すための装置だったのでしょう。そして、「くずおれる場所までの道を照らす」装置でもあったということなのでしょう。  それでもなお「種子回廊」という正体がはっきりと照らされたわけではないのは、その語り手の影がいつまでも纏わりついているから、とも言えるのでしょうが、そのアスファルト・土地に落としてしまった「わたし」の「後悔」という種子がある回廊なのだろうと、なんとなくともし火によって垣間見えた気がしました。 (種子回廊)

2020-02-01

 一見して先ず感じたのは、難しい漢字が多いということでした。これはネガティブなことではなく、詩の内容に照らし合わせて後述します。  最初の二行からして、何かの事後であることを読み手に示唆されているのですが、それが何であるかはわかりません。しかし、それ自体が「まやかし」であり、「幻」であるということ。とにかく何となくわかるのは、何かの事後であるということ。  テノール=男声、ソプラノ=女声であることから、男女がいる場面を想起させますが、具体的に「いつ・どこで・だれが・どうした」というような具体的なものに変換できるわけではありません。しかし、「声」と「香」を交わし合う仲であるだろうことがこれまた示唆されます。  そして、「まやかし」や「幻」と呼応するようにして、「確かに存在するものだった」というのは、読み手への語りかけであると同時に語り手が語り手に自ら言い聞かせているようにも聞こえます。ここで「糸は切れ」と、冒頭にある「切れたその先」の内容がようやく垣間見られることになりますが、これもまた何かの事後であるという強調になっています。  「痛覚は麻痺」しつつも、「身体を蝕む 此感覚」という題名の「Phantom Pain」がここで繋がってきます。「此感覚はなんだ」と語り手が述べているように、その正体を読み手はもちろん、語り手すらわかってはいないのです。しかし、「懐かしい」という実感だけが語り手にとって唯一わかっていることです。  この詩における隙というか、鍵になっているのが「自ら千切った縁を(…)」の連だと感じました。やはり、これもまた何かの事後であるということ、取り返しのつかない状態になってしまっているということの表れです。ここで、最初に記した「漢字が多い」ということと繋げます。あくまでこれは私見でありますが、「漢字が多い」ということは、表現・言いたいこと・メッセージが遠回りになるのだと僕は考えています。おそらく、この世の中の言いたいことやメッセージというのは、簡略化しようと思えばいくらでも簡略化できると思うのですが、この詩においてはそれを「漢字」という装飾によって、できるだけ中身を見えないように飾っているように思えたのです。だからこそ、具体的な場面は語り手だけが知り得るものであって、「説明」が読み手にされていないのです(説明するべきだと言っているわけでは決してありません)。しかし、この「自ら千切った縁を(…)」に描かれている語り手の姿は、何も難しい表現がされていないことによって、限りなく素に近い状態であるように見えました。詩行と同様に装飾のない語り手の姿。  続く連では、「気が済むまで苦しめて 元通り」とありますが、これは「Phantom Pain」という痛みによって、そこに唯一残されたものが形のない「Phantom Pain」と「私」であって、あとのものは「まやかし」や「幻」でしかないと。つまり、糸が切れてしまった以上は、かつてあったことを保証してくれるの(残されたもの)が「Phantom Pain」だけなのでしょう。  最終連では、単にかつてあった過去を見据えるだけでなく、焦点はこれからのことへ向ける、つまり、これから望むこととして「マタタビを頂戴」という欲望を表明されています。「愛してる」という言葉を欲するのは、途中にあったテノールやソプラノは内容を剥ぎ取られており、具体的な言葉は何ももはや残されていないからこそ、声の中身である「愛してる」という言葉を欲しているのだと感じました。 (Phantom Pain)

2020-02-01

 朝の目覚めという場面と詩の一行が始まるということの相性は抜群で、すっと読み進めることができます。ただ、「東京23区の朝が早い」「烏が(…)飛び立った」「老爺の灰」「中学生」といった、一見関係性のない事物が無関係のままに事が進んでいく様子は、語り手とこれらの物の無関係さも描いているように感じます。つまり、語り手が語り手の生きる世界に対して無干渉であったとしても、「万物は流転する」のように、世界は他人事のように流れていくような感覚です。それが「物事は一瞬のうちに変わりゆく、すり抜ける。/誰もその真相を掴むことは出来ない。」という詩行にも結集しているように思えます。だからこそ、「君のいる場所」が「焦土」や「戦地」や「焼け野原」になることも決してありえないことだと断定することができません。そうした、ありえないことがありえるかもしれないという世界観。その中でも「光景」という言葉を使用しているように、一筋の光であるかのような僅かな現実のものとして仲間の3才の娘も登場するのですが、その安全も確約されているわけではありません。  そうした世界の中で、語り手である「僕」ができること、選択したことというのが「最後にはきっと君のもとへと帰る」ということで、語り手のいる世界が語り手とは無関係に流転しようとも「これは変わりない事実」であると言い切るところに、確固たる決意を感じます。  「メロディー」や「ニュース」や「動画」や「午後」も、語り手と語り手のいる世界との無関係さを重ね重ね協調するための装置・演出として出てきます。しかし、それらが持つ特性として「粉々に砕け散るかもしれない」という儚さを語り手が感じています。「だからこそ」というフレーズにもまた決意の現れを思わせます。何も決意したのかと言えば、「僕は最後には君の寝顔を見に行く」ということであって、「僕は君のもとへ会いに行く」の言い換えであります。「君の寝顔」は「死に顔かもしれない」ですが、「輪廻の前の休息かもしれない」と。  この詩のポイントなのは、いわゆるポエムとして、ありがちな想いを述べた作品として完成させるならば「死に顔かもしれない」だけで済んだのですが、「輪廻の前の休息」という敢えて難しく遠回しな表現を用いたのかということです。それこそ、今まで散々語り手と語り手のいる世界が無関係に流転する、ということを主眼においてこの作品を読み解いてきましたが、このことが大いに関係あります。この詩において、流転しないと(設定)されている事実は「僕はきっと君のもとへと帰る」という語り手の決意であり、それ以外のものはおそらく移り変わりゆくものであると規定されています。だからこそ、語り手の想いがいくら強いものであろうとも、「君」という存在自体もまた語り手とは無関係である語り手のいる世界の中で流転するものであるのでしょう。その仕組みと「輪廻」という言葉がもたらす印象が非常に一致しているものだと感じさせました。  「君」が変わらずに、語り手である「僕」の中で留まっているのならば、この決意を語り手にもたらすことはなかったでしょう。語り手がこの流転し続ける世界に対して唯一抵抗できることが流転しない想いを抱くということであったのでしょう。それが「どこにいようとも」流転しないと。 (どこにいようとも。)

2020-02-01

 読みやすく、説明する必要のない作品ではあるのですが、コンビニへ煙草を買いにいって店員である友人との会話を描いた作品です。おそらく、この友人との会話というのは、語り手にとっての日常であって、それだけでは、このような詩(作品)へと昇華することはできなかったのですが、そこに「ぶす・でぶの大学生らしき女」がいたということが、この場面の一回性を演出しています。詩行を読み解くに、この「女」は語り手の一人前のお客さんであって、先にレジに並んでいた人であると思われます。それゆえ、本来は後ろ姿しか見えていないはずなのですが、「ぶす・でぶ」と勝手に規定されています。しかし、語り手は「揺らいだ女の髪が少しきれいだった」という魅力を感じたこと、これこそがこの作品を作品たらしめた契機であったのだろうと思います。  風が吹いてきたわけではなく、レジを空けるためにずれたことによって髪は揺れました。それを裏付けるかのように何でもない詩行の間に何気なく「客は自動ドアから誰も入ってこなかった」という証拠があります。何でもない友人との会話を終えて、語り手はコンビニをあとにします。最後の「冷たい風がまだ春を 冬が追いかけている/と思った」という二行もまた、本当に何でもなく感じるのですが、深読みすると、何となく、「僕の視線が女の揺れた髪を追いかけている」ようにも思えて、何でもない場面の何でもない詩行に奥行きを感じました。 (マルボロ(リミテッド・エディション))

2020-02-01

 ふじりゅうさんなので、フランクに書きますね。いや、相手によって書き方を変えるのはよろしくないのですが。  一見して、随分と大げさな表現が多いなと思いました。「零れる優しさの水滴」→「涙」、「最後の嘘を纏った電車」→「電車」、「真っ暗な膝を殺める」→「膝を落とす」と、それぞれ簡易に変換できる表現です。どうして、これらの事物がこのような仮装をせざるをえなかったのでしょうか。きっとキーワードになっているのは、「初めて素直になれる恋を見つけていた」からなのでしょうが、それは事後である今となってわかったことなのでしょう。  二連目とタイトルとにギャップを感じました。タイトルを見た時、どれだけうるさい作品になるのだろうと思ったのですが、実に閉じられた狭い空間の中にいることを思わされます。まるでスピッツの歌詞に度々登場してくる箱のような存在ですね。遠吠えとは正反対の位置にあるかのような「君の震えた声」や「囁き」があります。  最終連は「私」に焦点があたります。「最後の嘘を纏っ」ていたのは「電車」であったはずなのですが、それは「最後の嘘を纏った私」となっています。そして、「初めて素直になれる恋を見つけていた」のは、「私」だけであって、「君」はどうであったのか、今となってはその答えはわかりません。まるで無声映画を見ているような情景描写で、最終行のあとにはきっと「私」が遠吠えをあげているのだろうと思ったのですが、その「私」は空に向かって口を大きく開けて何かを言っているように見えるのですが、スクリーンのこちら側(読者)にはその音声が届いてこないような、そんな風に感じました。「最後の嘘」も「初めて素直になれる恋」も、その正体は全くわかりません。それをつらつらと書くのは、書き手の選択であって、僕だったら書いてしまうのですが、この詩においてそれがつらつらと書かれていないことによって生まれている効果は、この作品の一行目からして何かの事後であるという「事後感」にあります。ただ、それは事後でありつつも、その真っただ中にいるという、この「事後の事後」に何があるのかは、読者も「君」も知らず、ただただ「私」だけが描いていくのだろうと思います。 (遠吠えは汽笛を掻き消すほどに)

2020-02-01

 この詩にある想いは「渋くてあまい」というより「甘酸っぱい」ような気もして、それこそ、この喫茶店で飲んでいるブラックコーヒーはどの豆のものなのかとも想いを馳せるのですが、高校1年の「私」には豆の種類など関係ないのでしょう。  冒頭にある「遊び」をするきっかけは、「私は違う」という周りとの比較による自己規定にあるものであるかのように描かれています。自らの行動は自らを規定することで生み出されるのと同時に、それを後押ししたのはきっと「本屋のおじさん」の「渋いね」と言われたこともあります。そのことに対して「私」は「妙に嬉し」いという感情を抱いています。そのおじさんの本意はわからないですし、深い意味もなかったかもしれないですが、その「渋いね」という一言に対する「私」の捉え方は「君は他の子と違うね」と言われたみたいであるという。ここが一番のポイントなのかなと思いました。私たちの日常においても、誰かの何気ない一言が何年も何十年も残り続けるということはあって、相手は忘れているかもしれないけれど、自分は覚え続けているというズレに僕はフェチを感じています。  「それから私は周りの人から、渋いと思われようと行動する事にした」と続くので、やはり「おじさん」の一言は大きな契機となっていることがわかります。そして、この一言の重みというのは、「おじさん」だけでなく、「少し気になっていた野球部の男の子」の一言がとどめをさすのです。  語り手なりの「渋い」と思われる行動をとる理由は、①周りとは違うことをしたい②おじさんに言われたから、という2つの理由に加え、③少し気になっていた野球部の男の子に目撃されたい、という理由へと変わっていき、最終行へと続いていきます。「何処かでまた私を目撃しているかもしれないから気を抜けない」と。いずれにしても、自己による自己規定でつくられた「渋い」と思われる行動であって、果たして本当に他者からどのように見えているのかというのは、日常においてもわからないものです。それでも、喫茶店に通って小難しい本を手にブラックコーヒーを飲むということが、この語り手にとって重要な意味があるという唯一性を十分に語り得た作品であると感じました。 (渋くてあまい)

2020-02-01

 こういう作品にコメントをつけるのは難しいです。というのは、見えている世界が僕とは違うからです。言い換えるならば、世界の見方が個的であるということであって、たとえば、「ピアノの肋骨」という出だしからしてそうなっています。ピアノに肋骨はありません。それでも、その意外な結びつきに想像を寄せるならば、肋骨は白いものであり、線状になっているものであり、白鍵のことであるのか、それとも弦のことであるのか。しかし、重要なのは語り手のフォーカスは「青白い指」にあるのであって、そのピアノを奏でている誰かを見ているということであり、「ピアノの肋骨」が何であるかということはさして重要ではないということになります。その「誰かを見ている」ということは、「それを遠くから見ていた」というフレーズにも表れているのですが、ただ、語り手が見ているのは人物だけでなく、「落ちていく夢を」も見ています。  この「落ちる」というフレーズは、その後にもいかされているものであり、「またどこかで———」の「———」の部分、ここは言わば、当てはまるフレーズがあるはずなのに、言葉にすることができない=言えないものであって、つばを飲み込む=落とすような様子が浮かび上がります。  そして、場面は展開し、繰り返される朝を過ごす中で耳にする「遠くの雨音や爆発」の音は、最初に出てきた「魚を分解して作った最新の音」と対比されているものなのでしょう。だからこそ、思い返したいという欲望を込めて「魚の展開図/を描」いてしまうのです。火に焚べることで、展開図はきっと灰になり、天に昇り、「星の降る音」になっています。語り手の外部にあった、ピアノの思い出=魚の展開図の形を焼失したはずなのに、語り手の内部にある「傷が、寂しさが/燃え上が」っています。「透明な枯葉」というのも、どこか焚火の印象とマッチしているように感じます。  そして、自らに言い聞かせるようにして、宛名のない独唱として「またどこかで/いや、もうどこかで———」とまたつばを飲み込む=落としています。  最終連は「少しずつ小さくなる。/それはわたし自身。」というのは、焼失して灰になった「魚の展開図」と自らを重ねているように思われます。  全てに共通しているのは、音、です。音というのは、言うまでもなく目に見えないものです。しかしながら、音というのは、時には場所を示してくれるものであり、はたまた、時には記憶を示してくれるものでもあります。音が鳴るほうに目を向けてしまうことがあるのは、現実世界に生きる私たちにもよくあることですし、ある音を聞くことによって、何かの記憶が思い起こされることも時にあるでしょう。途中では「遠くの雨音や爆発の、音」を聴いていたはずの語り手は、最後になって、実に近い場所で「雨が降ってい」る音を聴いている、というよりも、「少しずつ小さくなる」ことによって、雨に同化しているのでしょう。だからこそ、「わたし自身」は場所を越えて「宙を使った会話」をすることができるのだと。つまり、「わたし」が描いていた「魚の展開図」は、火に焚べたことで灰になり、「星の降る音」となって、「わたし」に降り注いだのですが、「わたし自身」は「宙を使った会話」をするために、「少しずつ小さくな」り、雨、いや、雨の音と同化したのではないでしょうか。それは、「わたし」は誰かを見る存在であったところから、「わたし」が誰かから見られる存在になるという転換をも示しているのだと感じました。だけど、音だから、その姿は見られることはないという無情さがあるような。 (冷たい)

2019-12-02

 久々にB-REVIEWを見た中で、タイトルに惹かれ作品を読みました。抜群にいい作品だと思います。  先ず、作品の構造がよくて、映像作品に例えるならば、空・植物パートは人の姿を纏わない語り手(ナレーション)パートで、Rさん・H君・Sちゃんのパートはモノクロ映像で挿入される短編のようになっています。では、*以降の語りはどうなっているかというと、実は*以前の語りとは少し違うような印象を受けました。というのも、*以前の語りは、淡々として、その語り手の人間性というものが読み取れないような、透明な姿をしているのですが、*以降の語りは、語り手の願いのようなものが込められているような気がします。具体的に指し示すならば、「花はいつか必ず咲く」という断言です。これは見過ごしがちでありがちな表現だとも言えるのかもしれないですが、実はそうではなくて、「必ず」をわざわざつける必要があったのかと考えると、語り手の願いが込められているように感じます。「花はいつか咲く」という表現は、淡々として、描かれた世界に対してどこか距離をとっているというか、無責任な立場に感じてしまうのですが、「必ず」という表現は、「花は咲かない」可能性を秘めている世界に対して、反論をしているわけであり、言わば、語り手の願いというよりも、描かれた世界に対して距離が近いというような、責任を負おうとしている姿勢が感じられたので、ここでようやく初めて、語り手の人間の姿が現れたな、と感じました。この何気ない「花はいつか必ず咲く」という表現だけでもこれだけ考えられるのも、*以前の構造がもたらすものであり、語り手と世界との距離感の操作が上手いな、と思いました。  ただ、それゆえに、このパラグラフで、語り手の隙というのも見えてしまった気がしていて、「きぼう、という言葉など知る由もない空から」というのが、語り手の想いMAX感があり、「つぼみはまたひとつ色づく」ことと、植物が生長・成長していくことと、何より、タイトルにもある、「ひかり、という言葉など」と僕だったら書いてしまうなあ、と大変失礼で余計なおせっかいで申し訳ありません。  あと、それぞれアルファベットになってしまった3人の登場人物も、さきほどの語り手の人間性の希薄さという点から言えば、アルファベット化することによって、登場人物すら非人称性を背負わされているという点で、共通しているなあ、と。これは、作中世界に限らず、現実世界に置き換えてみれば、電車やバスにはたくさんの人の姿が目に見えてはいるけれど、その人たちの生きてきた背景というのは全く知らないわけで、言い換えると、器を見ているけれど、その中身を見ることはできないものであって。この作品はむしろ、語り手や登場人物の人間としての姿を透明化していく、言わば、器を見ようとしているのではなく、その中身を見ようとしているのです。「見守る者など/いるはずもないのに」と、最終連では嘆きのように終わってしまっていますが、いやいや、この作品の語り手こそ、この「光」という作品=器の中に、Rさん・H君・Sちゃんという3人の人物を彩った「見守る者」となっているのではないだろうかと感じました。  もう少し細部の分析を書きたいところですが、長々となってしまうので、この辺でやめておきます。つまり、言いたかったことは、久々にいい作品に出会えました、ということでした。 (余談ですが、僕も仲程さんファンで、仲程さんがこの作品にコメントを寄せているのも必然的だなと思いました。というのも、「あったことをなかったことにしたくない」という根源的な欲望が共通していると作品を通して感じました) (光)

2019-12-02

この詩に無理やりジャンル付けをするとしたら「へんたい」になるが、それは決して貶める意はなく、こうした観察及び洞察、そして、その表現というのは、なかなか難しいものである。 語り手が注目するのは、「横顔」であって、正面から向き合った顔ではない。つまり、正面から向き合う関係性にはない相手との対峙ということを示している。正面から向き合うことのできる関係性というのは、既に構築された関係性であり、この一瞬の場面の切り取りというところで「横顔」を描くというのは、必然性がある。 気になったのは「もし川端康成がそのときの彼女を見たならば、「悲しいほど美しい」などと形容した上で葉子という名前をつけたに違いない。」というフレーズである。仮定での上だが、川端康成ならそう名付けただろう、と。ここで重要なのは、この名付ける行為である。僕は川端康成も葉子も知らない。その関係性を読み解くことはしないが、名も知らぬ、その場で出会った人物に名付けるということは、それと同時に、その場面を切り取って、まるで額縁にかざるようにタイトル付けをするようなものである。この作品自体が「葉子」となっているのも、この一瞬一瞬の場面の切り取りへの名付けであり、まさに、葉子と名付けることこそが、レンブラントが絵を描いて美術館で飾られているということとほぼ同義だと考えられる。 そして、「美しい」とは何であるか。これについて僕は常々考えているのだが、万人が万人「美しい」と感じるものにそうそう出会うことはない。そして、その「美しさ」というのを論理的に説明することも不可能に近い。ましてや、人の顔というのは、厳密に言えば均衡がとれているわけでなく、横顔というのも、文字通り一面でしかなく、左から見たのか、右から見たのかによっても印象が変わってくるのではないか。それでも、言わば不完全なものに対して「美しさ」を感じるということ。これこそが、この作品が作品たる所以であるのではないだろうか。「美しさ」は、物そのものに宿るのか、それとも「美しい」と感じた主体に宿るのか。少なくとも、この作品では、後者であると思えるが、きっと、前者でもあると言える。いや、そう言える権利を持っているのは、この語り手しかいないのだが、きっと、この両者であると言うような気がしている。 (葉子)

2019-06-01

見えている世界に干渉できるかできないか。例えば、電車に乗ったとしても、その走る時間というのは、暗黙の了解で遅らせるわけにはいかず、時に電車内で起きる不和の出来事を見過ごさなくてはいけないことがある。何かがおかしい、という、主体の感情の行き場はどこにもなく、目の前にしている世界には、不干渉でなくてはならないことが往々にしてある。 「覚えているのはリリースされたばかりのaikoのベストアルバムを聴きながら、ブロッコリーを茹でていたということ」という、具体的な場面展開。作品内において、固有名詞を使うというのは、一種の勇気が必要である。具体的であるということは、限定的であるということとほぼ同義でありながらも、個的・唯一性を纏うための手段である。覚えていないとする、死の場面でありながらも、それなら覚えていることを記しておこうという行為が、またしても主体の唯一性を浮き上がらせる。 いずれにしても、死した主体の唯一性を証明するのは、生きている主体による証言ではなく、死した主体そのものが為さなければならない。 「ムンクの『太陽』っていう作品知ってる?」という問いは、作中の「あなた」に呼びかけながらも、この連は読者への呼びかけにもなっている。死した主体の唯一性というのは、この主体も意識的か無意識的かはわからないが、その執着はきっとあるというのが「最後は自分が自分だということがわからなくなってしまう」という感慨にこめられているのではないだろうか。 「そういえばあなたが好きだった、ブロッコリーとキャベツのパスタ、覚えてる?」というフレーズから、死した場面のブロッコリーを茹でていた理由がわかる。「aiko」という死した主体の好物と「ブロッコリー」という「あなた」の好物が一緒に混在する空間。その空間こそ、この主体が存在していたからこそ存在しうる空間である。はたして「あなた」は、今になって「aiko」を聴いているのだろうか。きっと聴いていない。 「読まれるはずのないラブレター」というのは、生死に関わらず、存在しうるものだ。物理的な死が訪れていなくても、読まれないラブレターは存在しうる。だが、読まれないラブレターが存在するためには、トートロジー的になってしまうが、そもそもラブレターが存在しなくてはならないし、そのラブレターを書く主体が存在しなければならない。「読まれるはずのない」というのは、「届くはずのない」に置き換えることができる。このラブレターを書くということ、そして、その中でこの主体の唯一性が証明されているということ、この唯一性の証明こそが、この主体における大きな意義だったのではないだろうか。 (ラブレター・トゥ・ユー)

2019-06-01

こうだたけみさん イラレ、僕も遊びで弄ったことある程度で、なるほどなあ、ということで「視点の切り替えがおもしろい」と言っていただけましたが、こうださんもこの作品の「ぐるぐる」のように、ぐるぐるしていただいて、イラレの話からうまくアウトラインの話へとぐるぐるしていただいたなあ、と思っています。 というよりも、「話者の生活のアウトライン」が浮かび上がる、という指摘が、すごくよくて、僕たちの日常でも、目の前にいる相手と四六時中時間を共にしているわけではないので、会話とかから、その人そのものを想像する時、会話もまたアウトラインでしかないんだなあ、と思うんです。それが悪いってことじゃなくて、むしろ、それって、日常的なことなんだなあ、って。で、この作品、僕も読解できないですし、いろんな出来事が散りばめられて書かれてあるので、まさに、アウトラインというか、本質は掴めない。その掴めない感じがぐるぐるぐるぐるってものに昇華されてるのかなあ、と。 どっちかと言うと、僕がぐるぐるしているというより、誰かに書かれてしまったぐるぐるを見てしまったという感じな気がしますが、やっぱり、ぐるぐるしていまありがとうぐるぐござるぐるいまぐるぐしたる。 (俯瞰)

2018-11-14

仲程さん ありがとうございます、おそれおおいです。 率直に言えば、僕は仲程さんの作品のファンです。というのも、僕は、生まれてから引っ越したことが全くないですが、旅行する経験が多くあり、旅行する度に、その土地に住んでいる人の暮らしというものが気になってしょうがなくなってしまいます。それが、金沢だったり、沖縄だったり、僕にとって、遠い土地であるものの、身近な土地が多く登場してきます。今は、沖縄の風俗街のルポルタージュ本を夜な夜な読んでおり、沖縄という土地について深く考えています。(20回ぐらいだけ、行ったことあります…) それはさておき、僕も見直したら、ミシガン・レリックスに確かに書いていましたね…、失念していました。これらの問いだったり、キーワードというのは、僕が普段から考えていることではありますが、詩を書きながら、大袈裟に言えば、生きていながらも、ずっと考えてきていることです。 ぜひ、僕は皆様の意見も賜りたく、勝手にキーワードを用いました。 これからも作品を楽しみにしております。 (10月投稿作品選評 ―名詞が持つ働きとは何か―)

2018-11-14

ゼンメツさん 僕もまたゼンメツさんの作品の熱心な読者であります。それを示すために選評を書いているようなもので。 書いてあることは、僕宛に書かれたものですが、ぜひ、他の方にも読んでもらいたいようなことで、この駄文をきちんと読んでいただいたんだなあ、と感じました。僕が特に補足とかする必要もないですね。音楽話の例えとか、まさにその通りで。 固有名詞が「情報の「密度」を上げることができるのだ」とか、そのとおりで。 「普通名詞、固有名詞の選択は、僕も基本は読み手との距離感を操作するために選んでいる。近づけるだけではなく、もちろん意図的に遠ざけることもよくする」というのも、ほんとうに、そのとおりで。 この2点は、ありとあらゆる書き手/読み手の方に知っていただきたい。 僕はゼンメツさんの歴史を知らないし、ネットで読む作品以外のゼンメツさんについて何も知らない。それに、ゼンメツさんの作品に登場することもできない。それでも、ゼンメツさんの作品を知ることで、ゼンメツさんという人物を知ることができる。 パウル・ツェランが講演会で「詩は投壜通信だ」と述べた話を、僕はあちらこちらで紹介し続けているんですが、これに100%同意しながらも、この意味をずっと問い続けています。ゼンメツさんが述べた「狭い作品」と繋がる気がして。僕も個人的な実体験をそのまま作品に書いていることが多くて、同じ経験をした人って僕以外にいないと思っています。それでも、それを作品にして、投稿し続けているのも、どこか、この生きている世界で、偶然、興味本位で瓶/作品を拾ってくれた人が、何か思って/考えてくれたらいいなあ、と。瓶を拾ってくれるってだけで幸せだし、もしかしたら、その後はまたすぐに海に投げたり、捨てたりするかもしれないけれど、瓶の中身に入れといた作品を持ち帰ってくれたらいいなあ、と思うけれど、僕ができるのは、瓶を投げるだけで、その後、中に入っていた作品がどうなるかは、投げるまでわからない。 でも、瓶を投げるだけじゃなくて、どこか、偶然にして、僕が流れてきた瓶を拾うことはできる。その中に入っていた手紙、誰が書いたかもしれないその手紙を、誰にも知らず持ち帰って、ふとした時に家で読み返すことはできるなあ、と。それで、たまたま拾ったその手紙が僕宛ではなかったとしても、その手紙にこんなことが書かれていて、ここがよかったんだよ、って、広めることはできると思うんです。 つまり、まとめますと、僕は瓶/作品を投げても世界が変わるとは思っちゃいないけど、誰かが投げた瓶を僕が拾って僕の世界が変わることはあるし、それを広めることはできる。それが選評なんだと思います。 (10月投稿作品選評 ―名詞が持つ働きとは何か―)

2018-11-12

みうらさん 何かしら考えるきっかけになったらば、よかったです。 「作品を読むに用いる為の詩論の有無が問われる」と書いては頂いたのですが、詩論を勉強しておきながらも、詩論なんてなくてもいいと思っています。 その実践として、ある意味あの選評があって、あの選評は詩論を使っておらず(使っていないという基準は、批評用語に還元していないという意)、作品の言葉だけを繋ぎ合わせています。 そこで喚起されたのが「名詞」の持つ働きについてであって、「名詞」は詩論でも何でもなく、日常にありふれたものです。 たとえば、一つの作品について、いろいろな批評用語、というか、主題を取り出すことができると思うんですね。今回は「名詞」でしたが、「記憶」「フェミニズム」「時間」「家族」「数学」「インターネット」「外国」「故郷」などなど。無論、一つの作品について、これらのどれが適しているのかと、吟味する余地はあるのですが、要は、批評用語というのは、単なる光源でしかなくて、主役はそれぞれの「作品」にあり、選評という光をどの角度からどのように照らすのか、ということにあると思っています。 「名詞」については、詩を書き始めてから何年間も問題意識として持っています。単に好き嫌いで選評を書くのもいいと思うのですが、あなたは、どうやって光をあてているのか、と、他の選評を書いた人に問いたいですね。 (10月投稿作品選評 ―名詞が持つ働きとは何か―)

2018-11-12

じゅうさん 正直なところ、僕自身も難解で言わんとするところがよくわかりませんが、こういう風な詩を書こうと思って書こうとしたんだと思います。ありがとうございます。 (俯瞰)

2018-11-03

杜 琴乃さん ベビーベッドの話も納得ですが、それが明かされなかったとしても、このコメント自体が一つの作品としてすごい好きでした。 この作品、文体も僕に似ているような気がして、久々に、理由なき好きなものと出会えた感覚です、ありがとうございます。 確かに、柵をつくれば落ちないのかもしれないですね。最近、落ちることはなくなりましたが、夢をいっぱい見るようになりました。 鬱海さん ありがとうございます。 なんだろう、視点とか場所を一定にせずにぶらしているので、混乱/分裂と言った感覚を呼び起こすのかもしれません。 僕を構成するのは、あくまでも他者であって、そのような他者の言葉が僕の中で生きているような、そんなことを日々考えています。 あくまでも、個人的な体験ばかり書いているのですが、それでも、読者が入り込む余地があるようにするにはどうしたらいいかは考えていますが、いまだに答えは出ず、これからも考え続けます。 (募集中)

2018-10-28

ふじりゅうさん 「子であることをやめる方法」はない、という結論はわかりきっているのですが、わかりきっているからこそ、聞いてみたかったのでしょう。それよりも僕は、正直にベッドから落ちずに寝る方法を本気で知りたいです。 僕の作品はどれも背景にあることを全て語らないので、絶対に伝わらない部分があるという無責任さが伴っていて、申し訳ないのですが、それでも、なんとなくでも伝わるものがあったのなら万々歳です。 エイクピアさん 僕は当たり前すぎることだけど、忘れがちなことを書きたいんですね。 大層な思想は僕になく、僕の記憶の中で確実に出会ったはずである者に対して、相手が忘れようとも常に覚えていたい、その記録として作品を書いている気がします。正直、生きること自体何不自由ないのですが、僕にとっての苦しみとは、会いたい人に会えないことですね。 (募集中)

2018-10-17

澤さん、渡辺さん 澤さんの疑問に対する渡辺さんの回答が正直よくわからなかった。 簡潔に言えば、澤さんは現状維持でよいという理由を述べ、 渡辺さんは違う手段を持ち出してまで、制度を変えようと。 制度を変えることの理由として 「自作品の上位入賞を得よう/自推薦作品を上位入賞させようという向上心を詩人にも持ち、それを成す為に行動してほしい。」などなどと理由がいろいろとあるのですが、 そもそもフルキュレーション書いている人は、全ての作品に目を通したうえで、そのキュレーターなりの判断及び執筆という作業を経ているので、そういう向上心を多少なりとも持っている人たちであると僕は思っています。無論、内容や分量に差があり、それすらに優劣をつけたい人もいるかもしれないですが、そもそもその作業をしただけであっても、賞賛に値するのではないかと。そのため、その上で順位とか優劣だとかつける意味が僕にはわからない。 選評の中でたまに「この作品は他の人が推すだろうから、私は推さなかった」という言説を目にすることがありますが、僕は逆で「この作品は他の人が推さないだろうが、僕は推したいんだ」という気持ちがあります。どうでもいいですね。 言い方は悪いですが、大賞候補に順位付けする意味を感じませんでした。フルキュレーションという作業を経た上で選ばれた以上、フルキュレーションというキュレーターの行為がどういったものであるかが軽んじられていると感じました。 落とすとか順位付けよりも、いかにフルキュレーションする人を増やすか、しいては、読む/読める人を増やすかとか、大賞候補の投票数を増やせるか、とか、そっちを考える方が有意義だなあ、とか。 行動案がどうとかって言われそうですが、「読む/読める人を増やすか」については、近いうちに動くので。 (《ビーレビへの意見とそれへの議論を書くスペース》)

2018-10-05

 「目前」という言葉を日常でも使うことがありますが、きちんとその字面を目にすると、「目の前」という距離感を表す言葉になっています。けれど、この作品では、「その目を前に」しているので、「(自らの)目の前」ではなく、「(相手の)目を前に」しているのであって、その些細な言い換えが何とも面白いものです。その空間的近さ/短さというものと、時間的な遠さ/長さを表す「数時間過ごしてもいい」というギャップへの戸惑いが示されているのでしょう。気にしなくても生きていけることをついつい気にしてしまうと、それにとらわれてしまうような、そんな感覚を覚えます。  「得心したい心」という、まるで「頭痛が痛い」のようなダブった表現もとらえどころが鋭いような気がします。血液の中では赤血球が酸素を運んでいる、という知識としては何となく知っていることを背景として、語り手の血には、言葉が流れています。酸素≒「空気」は、誰かに呼吸されることで血をめぐることができるのですが、「血が変わった夜」というのは、その流れる「空気」が誰かのもとを離れ、また新たな誰かの血の中を流れているような転換が示されています。この循環への目のつけどころも鋭いでしょう。  「目前」「数時間」という時間的/空間的キーワードから「再び振り返るとき」に語り手に見えるものはなんであったのでしょうか。それは、「空気」が流れる/従う体を変えるように、影が入れ替わっているような情景です。影は主に従うものであり、まさに従としての存在でしかなく、その空間的イメージから「後ろめたさ」という言葉/感情を導きだされたことに必然性を感じます。  作品外に話を敷衍すると、街灯に群れる羽虫を想起させられました。その羽虫のイメージと「弱虫」というキーワードが結びついて、不自然さを感じさせず、まさにあの羽虫もまた街灯という主にまとわりつく従の存在であるのではないかと。ただ、「後ろめたさ」という従が「ついにはじけて」しまったことが、影を弱虫という存在へと変換させるのであって、本来、主に光があたることで従である影が存在しうるのですが、この作品における展開は、影に光をあてるという矛盾した行為をすることによって「弱虫」という存在が浮かび上がるのです。  個人的な感想ですが、最終行は「ただの弱虫」と終わってしまってよかったのかと思います。それはなぜかと言えば、一つの結論が導き出されているからです。それは仮の結論なのかもしれないですが、このように一つの答え/形を示してしまうことで、イメージの像が収斂してしまい、作品が閉じてしまうからです。この最終行に至るまでの過程は無論目の付け所が鋭いものであるのですが、余白を持たせるという意味で、この弱虫が行く先を明示ではなく、暗示させる何かが欲しいと、読み手の勝手な傲慢であります。 (お話)

2018-09-03

 僕は実体験から書くのですが、これはどうも創作話っぽさを感じさせます。その根拠を示すことはうまくできないのですが、場面の切り取り方が絶妙です。誰かとの思い出や記憶というのは、地続きの映像であり、何時間も一緒にお出かけとかしようとも、実際に思い出せるのはせいぜい10秒ずつぐらいなもので、そうした中で、いわゆる「大事な思い出」を語るということは、その小さな映像を繋ぎ合わせること、そして、どの映像を選択するのか、というその選択が大事になってくるのでしょう。  花火を映像として捉えるのではなく、音の記憶として捉えてあります。「愛情と母性の落穂拾い」という何でもない表現が実に巧みで、「花火」という言葉自体が比喩で、花のような火が散った後で、残るものは何もないのですが、その火がいずれは地面に落ちていて、花火が散った後の空間や時間について想いを馳せるという着想がこの「愛情と母性の落穂拾い」という表現に凝縮されていると思うと、とても惹かれました。ただ、花火の音によって、記憶されてしまったその映像に伴っているのは「僕の絶叫」であって、この絶叫がどうして生まれたかの詳細はわかりません。  そして、「お姉さん」が誰なのかも読み手にはわかりませんが、僕がお姉さんと呼んでいた人物がいたという過去があったのは確かなのでしょう。そして、単に「僕はお姉さんが好きだった」という短絡的な表現ではなく、「僕のことを呼ぶ『君』というその呼び方が僕は本当に好き」というのは、映像でありつつも、やはり、音の記憶なのです。花火の音、僕の絶叫が語り手の記憶である映像に付き物であるように、お姉さんとの記憶も僕への呼びかけという音が付き物なのです。  彼女はある本を貸してくれたのですが、僕はその本の物語を蔑みながらも、その物語のプロットを借りて、彼女に打ち抜いて欲しかったと願っています。それは「撃ち抜く」という音と同時に、読み手に花火の音を想起させます。思えば、花火は音だけでなく、その響きによって、体の振動を生んでおり、それが「内臓の粘膜を低音で揺さぶる」と描かれています。その響きによる振動がまるで、語り手の体が裂けてしまう衝動を感じさせており、花火の音/記憶というのは、語り手にとって振動で避けてしまうような痛みを伴うものであるからこそ、これが「自傷」であるのだと納得させられます。  一見ばらばらのような映像というのが、必然的に結び付けられていき、作品内における場面の選択の必然性というものを感じられ、そういう点で全く無駄がない完成度を感じました。それに、何とも言えない、この切なさが、読み手である僕はとてつもなく愛おしく感じました。 (ストロボ)

2018-09-02

「私がこの作品を真に理解できたというのはあり得ないことであるが、私が確実に知ってる数々の感情の痛みが、光が、温かさが、その繊細さそのままにここにはあって私は確実にそれらを知っていると言いたくなる。これは自分の物語だと、そう言いたくなる。こうした気持ちにさせられる作品はあまり多くない」 僕は個的なことを書くのですが、その結果として目指していることについて、まさに表現していただいて、大変ありがたい次第でございます。本当にそれ以上でもそれ以下でもありません。 (選評8月分)

2018-09-02

なつめさん 7月作品についても取り上げようと思ったのですが、怠けですいません。 拙いものですが、お力になれたなら幸い也、です、ます。 ゼンメツさん 一気書きだったので、文章としては粗雑でうんこで申し訳ないです。 ただ、何が書いてあるかということを僕なりどう捉えたかを表したくなった、という引力をもった作品であることは間違いないです。 もっともっともっと精進いたします。 (選評:8月投稿作品)

2018-09-02

仲程さん 大変ありがたく思います。 理由等は具体的ではないですが、やばかったかもしれないということは十二分に伝わりました。 書いたかいがありました。これからも精進します。 エイクピアさん 祈り、という言葉は、僕にとって常にキータームです。背景については語りません。 それを「虚無僧」という姿を借りたら、どうなるか、ある意味思考実験があったかもしれないですが、つい、自分にとって書きがちな大事なことへと繋がってしまいました。 寝る前やお風呂、ぼーっとしている時など、思考や記憶が夢のようにばらばらに思い出されながらも、時が経つと何も思い出せないことが誰しもにあるように思います。 そのような状態のように、ぼーっとしている時に、ばばばっと思い出される風景の様子を描いたのかと、今になって思いました。 (どうしようもなく、虚無僧になって)

2018-09-01

survofさん 僕は、ありがちなお涙頂戴ものに弱いです。 かと言って、それを作れる/書ける才能はないので、僕が目/耳にしたもので、大事だと思ったものを書こうとしています。 それは単に僕にとってしか大事なものではないかもしれないですが、それが僕に開かれた以上、他の誰かにも開かれることじゃないかと信じて、誰かも受け取ってくれるのではないかと信じて、敢えて個的なことを書いています。 この作品で言えば、電車の中で学位記を広げた振袖の女性とその両親が電車の席に並んで座って微笑んでいた光景を目にしたことがその1つです。 言葉にできないけれど、言葉にしてみたかったという想いを抱いていただき、この作品に誠実に向き合ってくださったと信じています、ありがとうございます。 (語り、手)

2018-09-01

まりもさん お話、って、自ら作り出すのは難しくて、聴いたことで、喚起されるものがあったりしますよね。 職場でも雑談が多く、誰かの話を皮切りに、次々と連鎖していって、最終的に「何でこの話になったんだっけ」と最近ではよくあります。 今はもっぱら、僕がちょっとしたミスをすると「千疋屋のサトウニシキ、バナナ、桃、マンゴーをプレゼントする」というネタがあるのですが、このネタが出ると上司とともに「何で千疋屋の話が出たんだっけ」と確認しても、遡れなくなっています。 そのようにして、僕の作品を読んで、喚起されたまりもさんの話というのは、作品の効力として僕は嬉しくなったりしています。 色の話は小難しく言えば、クオリアの話になりますが、そのような概念的なものではなく、具体的な消しゴムの色の話は、なんだか温かみのある話でした。 人それぞれ、どこかしら体に異常を感じた時、日常的に付き合っているものは意識しないですが、その日常が崩れる瞬間、それこそがまさに詩的、というか、発見というか、生きることを考えさせられる瞬間だったりします。 僕は、母親から「お前はわたしと似て、耳の構造が少しおかしい」と過去に言われたことがずっと耳にへばりついていて、それでも、僕にとっての日常だから、あまり意識はしないのですが、そのように言われた意味をいまだに考え続けています。 (ちょうりょく)

2018-08-05

花緒さん 詩の批評に、「文章」という語が適しているのか、それについて疑問を呈したいです。 おそらく、これは耳と声≒語りを意識というか、それを主題にした作品であって、僕らの日常会話ですら、不要な音(えーっと・あ・あー等)が入っているはずであり、人により、呼吸≒息が合間合間に入るはずです。 それは花緒さんの御作と大きく違う「語り」そのものではなく、「語りの表象」とでもいうのでしょうか、詩は常に整然とされた文章である必要があるのか、という疑問から発して、そもそも詩に「文章」という語が適しているのか、という疑問に繋がります。 かと言って、詩は「声」である必要はあるのかと言えば、それはそれで必ずしもそうではない、ということではありますが、最近の僕のテーマだったり、何よりこの作品の主題と併せて、「声」に対してのこだわりがあります。 コミュニケーションの問題と言えば、それっぽいですが、クオリアというか、感覚、簡単に言えば、痛みは共有できるのか、ということになります。 それと同様に、至極簡単な疑問として、僕の耳が悪いということは他人と比べて判明できるものであるのか、何を基準にして悪いと言えるのか、というものがありました。 かるべまさひろさん 「心の声」とありますが、現場/声が発せられる場所、言わば、日常会話というのは、その時その場所でしかなく、それを文字にするという行為は記憶と同様、ほぼ歪曲させられて描かれるので、「計算された」というのは、声を文字にした時点で必ず起こり得ることなのでしょう。 それでも、より声が発せられる現場に近づけたく、意識して書いたのは間違いありません。 「自分の思考」というのは、原因と結果が結びつけられたものとして保管されますが、むしろ、そこに行くまでのプロセスが人によって異なるということが、自然科学/人文科学の違いなのではないでしょうか。だからこそ、そのプロセスを描くべきなのだと、ディルタイの思想を学んでからはそう思えるようになりました。 グーグルグル夫さん 聴力って不思議ではないですか?と、本当に単純な疑問であり、かつ、僕にとって重要なテーマを扱ったものになります。 新幹線や標高があがった時のあの感覚はおそらく誰しもが体験し得る身近な出来事であるはずなのに、僕もそのことは忘れていました。 全ては疑問から始まり、その疑問に対する答えはいまだにわからないのですが、答えがなくとも、その疑問に付き合っていくと見えてくるものがある、とそれっぽくまとめましたが、このことが大事なんだと気づかされました、ありがとうございます。 (ちょうりょく)

2018-08-01

Rさんへ 確かに、私の読み違えがありました、大変失礼いたしました。 「如何なものか?」については、作者が表明したとおりで、私が口を出す術もなく、もし議論するならば、掲示板上のルールに発展するので、なおさら、口をはさむつもりはありません。 ちなみにですが、掟破りとは言え、この作品には私の作品も参照されておりますが、元作品より優れたものになっているとして、この点については作者を讃えるのみです。 これが「本人はどう感じるか」の一言であり、内容面において優れていると記したのは以上に付したとおりです。 (参照点)

2018-05-04

 コメントを読めば、これがどういった作品であるかがわかってしまうが、それを抜きにしても、フレーズに惹かれ、いい作品だと思った。  引用/参照元を明記すべきである、というコメントもあるが、私は不要だと思う。何故なら、引用した場合は「(…)」と括弧付けでそのまま引用し、典拠元を記すのが引用の際のルールであるが、先ず、フレーズそのものが作者によって新たにつくられたものであるからである。また、そもそも、私たちが普段使っている言葉など、そういった引用/参照している言葉ばかりではないだろうか。言葉を知らない私たちが言葉を使えるようになったのは、周りの人の発した言葉を用いたに過ぎず、見知らぬ/聞いたことがない言葉を発する/用いることが果たしてできるだろうか。  かの吉岡実の「楽園」という作品の冒頭3行はこうある。  私はそれを引用する  他人の言葉でも引用されたものは  すでに黄金化す  と。この意味合いも容易に読み取れるものではないが、引用された言葉は使い古されて錆びついたものではなく、また新たな命が宿るかのような印象を受ける。  この「参照点」は、単なる引用を組み合わせたパズルではない。作者による加工がされており、また、選択が伴っている。その選択とは、どの作品を参照するか、どの作品のどの部分を参照するか、という選択である。選択された作品、選択されなかった作品があり、同じ手法を用いて、他者が同様の作品をつくろうとした場合、先ず、絶対的に作者に起因する選択によって、結果としての作品は異なるものとして生まれるだろう。  それに、異なる主題/作者によって生まれたはずである別の作品が、一人の作者の一人の作品によって、一つの線で繋がれている。これは、間違いなく「参照点」という新たな一つの作品としてこの作品を読まなければならない理由となり得るのではないだろうか。 (余談:昔、勉強会で、T.S.エリオット→西脇順三郎→吉岡実を系譜として、引用を詩作に用いた彼らを論じたことを思い出した…)    さて、作品の内容であるが、「太陽」「草原」「青空」と自己の外部にある風景から、「ニヒリズム」「液体の精神の底」と自己の内部へと視線が移っていく。ただ、「病いは相変わらず彼の周りを浮遊しているようだった」と、内部に在り得る「病い」は自己のものではなく、自己の外部にあるものとして描かれている。あくまでも、視線は外部へと注がれている。  「夢の味」を夢想する様子は、まるで幼い時の記憶に立ち返っているような風景。この連は独立して一つの作品として成り立つような、だからこそ、映像として挿入される記憶として効果的である。  その記憶の風景の世界観をそのままに、展開は続いていく。その風景は一体誰のものであったのか。この視線は、語り手にあるはずのものであるが、「引用」がもたらす効果とは、他者を自己に取り込むことであったのかとここで気づかされた。  母と父のいない子どもたちにとって  「振り払うことなど思いもよらない あたたかな枷」  というのは、自己の価値観ではない。他者の価値観を取り込んで、風景を描くということ。「私たちではなく、幸せと呼んだのはきみで」と言うのも、他者がどのように世界を見ているかという視線を取り込んでいる。    語り得ぬことが言葉を持ち始めてやがて  きみの中で語り始める  は、キラーフレーズ。この2行に出会えただけでもよかった。  「参照点」とは、作者にとっての誰かの作品であった、というのはメタ的読みであるが、この「参照点」はそうした具体物だけではなく、作中の最終連にいる「彼女」にとっての「輝いている星」でもある。ここでも、他者の視線を忘れないでいる。「そして彼はそれを彼の世界において存在しないものと考えていたから」という、他者が同じ「それ」を見た時にどういう価値判断を下しているのかという視線。  それでも、「彼にとっても彼女にとっても内なる美であり、互いに通じはしない二点だ。」と、自己の他者との隔たりを明確化する。その互いの内なる美を知っている彼女は、彼に干渉しない。そして、干渉しないということが彼にとっての「美」なのだろう、だからこそ、彼女から離れないでいる彼。  引用/参照をするということ、それは他者の視線を借りることである。それは、単に作者というメタレベルにおいて語るべきものではなく、作中世界というオブジェクトレベルにおいても、この作品では実践されている。この語り手は、絶えず、他者が世界をどのように見ているのかという視線を取り込もうとしている。ここにこそ、この作品の魅力/議論の余地があるのではないだろうか。 (参照点)

2018-05-04

先ず、笑った。面白い。みんなも読んで欲しい。 次に、音感がいいし、自然な喋り言葉を文字として書くのは、意外と難しく、それでもわざとらしくない、本当に普通の会話として書かれているのが、何気に凄い。 あと、漫画というか、映像作品というか、そういう視覚的にも浮かびやすい。 言わば、言葉は過剰で、内容/主張があるわけではないけれど、例えるならば、居酒屋でたまたま隣の席にいた酔っ払いがこれを会話(朗読)していたら、絶対笑って、もしかしたら声をかけちゃうぐらいには、惹かれた。 (鉄コンに壁ドン、カツ丼で合コンより親父の乱闘か?)

2018-05-03

 これ、最後、逆転する作品ですかね。つまり、最初から途中までの「あなた」は語り手が読み手に呼びかけているように見せかけて、最後、実はこの「あなた」が語り手が能動的に語っているんじゃなくて、語り手が受動的に語りかけられていた「あなた」だったんだなあ、と。  僕もありますよ、母から「お前が生まれた日は、とても暑かったから大変だった。昼前だったし、なおさら」みたいな。そういう話をしたがるのって、子を産んだ人にしかわからない感情な気がして。だって、生まれた当人は、知覚できないわけだし、「あなた」にとって通時的な出来事は後から理解し得るけれど、生まれたばかりの「あなた」にとって通時的な出来事って絶対的に知覚できないじゃないですか。この赤子が通時的な出来事を知覚できない、っていう当たり前のことを気づかされたので、よかったです。だからこそ、起こり得ない出来事が語りかけられたとしても、それを否定することはできないんですね。ここに書かれているようなことも、赤子は実証できません。  内容自体は、うーん、正直「色んな事が色んな場所で起きていたのよ?」に集約されている気がして、物語性としての物足りなさを感じましたが、物語性など詩には必要ないとよく言われてきたので、それもそれでいいかと思いました、まる。 (あなたの生まれた日にね…)

2018-05-03

 声には色がある。それは、人によって声の音色や音程が違うということ。その違いを示すために比喩としての「声色」という言葉がある。では、その声の存在意義とは何であるか。何のために、人は声を生む必要があるのか。その一つの答えとして「どこから逃げるのか」と示されている。逃げるための手段としての声。  「きれいに磨きあげたものが/歯でよかった」という安堵。磨きあげるのは、宝石や思い出でもいいのかもしれないが、あくまでも日常生活に根差した安堵が必要だったのだろう。そうした繰り返される動作で、思い出そうとせずとも思い出せる記憶とは違い、色褪せてしまう空の記憶は、視覚でとらえたものであったが、空を「きおくするための道具が耳ならいいのに」という願いがある。  「大きすぎる目を抱いて眠れない」のは、視覚に頼りすぎてしまう人間の性への嘆きか。  「首筋にそった形状を朝なぞる」のも、昨日までの記憶/存在を確かめるための手段である。  そして、「虹をみていないひとから手紙が届」く。冒頭2行で示された声が何処へ届くかはわからないが、手紙が届いたことは確かである。「上司の声の先にあったひかり」は、おそらく虹をもたらしたのだろう。ただ、その記憶は曖昧で、それが確かであったかを確認しようと尋ねることすら覚束なくなってしまった。  虹の色というのは、本来地続きになっているが、その境い目を人間の眼によってわかりやすく表現するために「曖昧な色みのままで七色と」便宜的に呼ぶことにしている。その色みの曖昧さと記憶の曖昧さが混ざり合う。  「橋というには色素が多すぎる」というのも、虹がアーチ(橋)状のものとして描写されることが多いが、橋の存在意義/目的というのは、繋がっていない地と地を結ぶものであり、その形に色みを必要としない。その目的だけが達成されればいいので、虹を「橋というには色素が多すぎる」のだろう。ただ、この対比がされることで、虹に橋の存在意義/目的をもたらすことができる。声や手紙が、隔てた地と地(人と人)を結ぶ手段であるように、虹(の記憶)もまた地と地(人と人)を結ぶものであったのかと。だからこそ、語り手は虹(空)にまつわる記憶を探しているのではないか。  それでは、虹はどこにかかっていたのか。それは、「君の口」と「語り手の耳」である。そして、虹は声である。最終連にある「虹のくちばしをした君」から発せられた声が私の耳に届く。その声は「上司の声の先にあったひかり」を生むものでもあるだろう。また、語り手は「きおくするための道具が耳ならいいのに」という願いを持っている。声の逃げ場は、語り手の耳である。ただ、これらのこと(記憶)が曖昧になって、確かなものかどうか不安であるという焦燥感が描かれた作品である。  語り手の身長に縛られた手から足元への高さ(約1mちょっと)で触れる「足の指の間によれた埃」。その高さもまた歯を磨く動作と同じように、身近な感覚であるが、その高さが「そらよりも高い場所」となるのは、この動作の過程に君の声が関与しているのだろう。ミクロな世界からマクロな世界へと昇華して作品は閉じられる。 (ナナイロ)

2018-03-10

 3パートに分けて考えてみます。「カボチャ」「エッグマン」「リンゴ」です。  「カボチャ」では、カボチャを切る大変さから飛躍して、大変だった頃のことが回想されて、濁る湖、袋小路の不安などが描かれ、ひたすら旋回していた僕らがいます。それは終わりのない、何の救いもない繰り返しであって、何のためにそれをするのかもわからないままに、動いているのではなく、動かされているからこそ、いい想いをしていないのでしょう。  「エッグマン」では、自らのことではなく、他人を眺めて、描写しています。どの点がハンプティダンプティみたいだという思わされたのかと言えば、その見た目といい、話し方といい、性格といい、あらゆる点で限りなくハンプティダンプティなのでしょう。ジョン・レノンには成れないということを知ったエッグマンは、塀の上から落ちてしまうという。ジョン・レノンは塀の上から落ちることはないのでしょう。そして、グシャっと割れてしまうこともないのでしょう。  「カボチャ」にしても「エッグマン」にしても、嫌な夢・悪い夢だという。  では、「リンゴ」ではどうか。そもそも、今まで出てきた食べ物は、中身があってそのまわりを皮や殻で包まれたものばかりです。「リンゴ」も無論同様で。  カボチャを5分チンするのは、その大変さを多少和らげるためですが、リンゴを5分チンするのは、その美味しさをより美味しくさせるためです。この違いだけでも、気分がうきうきするもので、さらにさらに、その美味しさをよりよくしようとリンゴと相性のいい調味料が並べられるわけです。カボチャの大変さ・深緑色から自然と濁った湖が想起されたのとは違い、リンゴの美味しさ・赤色からはただただその嬉しさで涙が溢れるという。  甘いはずのリンゴが最後、塩味となったのは、涙が混ざってしまったからだ。  ここで、ふと思うのが、食べるまでの過程が違えど、嬉しい涙にしろ、カボチャから想起されて湖を旋回して、もし悲しい涙が出て、一緒にカボチャを食べたら、それもまた塩味になってしまうのではないかと。  あれだけ、リンゴの美味しさを引き立たせていたのに、結果は涙によって塩味になってしまったというのは、それだけ涙の味が強かったということです。それは、湖を旋回した時には流れなかった涙が体内の中に留まり続け、リンゴを食べる時に、体の奥底から湧き出てしまったのでしょうか。 (嫌な夢)

2018-01-17

 たった6行でも、何かしらが読み手に伝わるということ。  この6行を分けるならば、最初の2行と次の4行に分けられるでしょう。何故なら、舞台が違うからです。2行は路地、4行は病院の一室となっています。  2行にあるのは、「夜と朝がすれちがう路地」であり、それは夜でも朝でもない、言わば名付けようのない瞬間を表しています。その瞬間をまるで写真を撮るように、鴉を切り取ると、色を喪うのでしょう。それに、一般的に路地には、街灯や建物なども周りにあるはずですが、一羽の鴉に目を向けているのです。周りにある情報はなくともよいのでしょう。  そのようにして、病院の一室においても「生後四ヶ月の乳児がひとり」いるのです。おそらく病院にしても、ベッドや棚などがあるはずですが、目に入るのはあくまでも乳児なのです。  ここで不思議なのが、どうして「生後四ヶ月」ということを判断できるのかということです。語り手が知っているからだとしか言えないのですが、語り手は、その母親なのか、それとも病院に勤める看護師なのか、それは定かではありません。確かにわかるのは、生後四ヶ月の乳児がそこにいること、それを眺めている存在がいること、そして、その乳児が「花にむかい/笑いかけている」ことです。  では、この病院の一室における時間は一体いつなのか。これもまた定かではありません。それでも、この「笑いかけている」この瞬間は、確かに笑ったのではなく、笑う一歩手前の瞬間です。これもまた、まるで写真を撮るようにして切り取られた風景です。  鴉が色を喪ったように、乳児が笑いかけているという風景はおそらくどんな色で描かれようとも、笑いかけているという事実だけがそこに残るのでしょう。鴉の色は黒として当たり前すぎることですが、その色を喪ったとしても鴉は鴉であるように、乳児の色が喪われたとしても、笑いかけていることは間違いないのでしょう。 (未明)

2018-01-17

 まるでカフカの「変身」を思わせるようなタイトルです。  そもそも「花子」とは一体誰なのか。作者なのか、語り手なのか、それとも全く知らない誰かなのか、友達なのか、母なのか。何も情報がない中で、作中にもその「花子」は出てこないのです。そうすると、固有名詞としての「花子」ではなく、一般名詞としての「花子」、つまり、ありがちな名前を持った女性という像が立ち上がります。  それはさておき、作品全体に語り口調に特徴があります。ただ、その語り方に変化があるのです。「〇〇とは〇〇である」と言うのは、まるで辞書的な定義づけをする時に使う表現です。そのため「地平線とは崖の比喩であり」という一行は、あたかも自然の摂理としてあるかのような印象を受けます。その勢いのまま、「花とは」と次の単語に映るのですが、その語りの中で、自意識が入り込むのです。書きかえると、  「花とは、(いや、待て、まだ話は始まってすらいない…、いや、花について語らなければ…)は、花とは年輪の開花であり」  というように。僕自身も昔は何かについて熱く語っている時、語っている自分と語っている自分を上から見ている自分が同時に存在していて、自分が喋っている姿や喋っている内容がおかしければ、喋りながら即座に否定して喋っていました。それと同じような感覚を覚えます。でも、これはおかしいことではなく、自己批判ができるということです。自己を外から見ることで、自己が自己を見ているのです。 それでもやはり、花についてもまたそれらしく聞こえるように語られていきます。  カバンにティシュを以下略とまるして革靴履き散らす  という行には、二つの時間軸が含まれているのです。喋りながら、喋っている内容を略することはできません。現在の自分が喋りながらも近未来の自分も喋っていて、喋っている内容そのものを近未来から略しているのです。  そのようにして、少し先を行ってしまう自分からなのか、誰からなのか定かではないですが、「早くしてよ」と言われてしまうのでしょう。でも、ここから語り手自身の想いが前面に出てきます。「息してる暇なんてない」と、何をそんなに急ぐ必要があるのでしょうか。その理由がわからずとも、急がなくてはいけない、という事実/想いだけはあるのでしょう。  「こんな言葉誰にも届かにゃいよ」というのもまた自己批判の現れです。けれど、届かないって言いながらも、それは結果として届かないかもしれないですが、届けようとする努力をしています。「ポストに投函1日300軒」届けようと、それすらもしなかったら、本当に届くか届かないかの判断はつきません。  そして、最終行には何故か老人。今になってようやくわかるのです。この作品が「時間」というものをテーマにしていることを。  花子は出てきませんが、花は出てきます。花は「年輪の開花」です。それならば、花子は「年輪の未開花」、つまり、年輪として姿を表せない存在です。その年月を経たという姿が年輪であり、それが、花という一つの姿をまとった結果が老人なのでしょう。花子というのは、まだ年輪として未熟で、開花に至らない状態の存在。その花子が生き急いでしまっている、そういう姿を描いてるのではないかと思いました。地平線そのものは、年輪の皮の部分として在るのでしょう。では、地平線の下に見えるものはなんなのか。映像として想像してみると、語り手にとって地平線より手前にある人や家や木々などが想像できます。それらが年輪そのものを構成しているのではないでしょうか。花子もまた、その地平線の下で年輪を構成している一存在として確かにそこに生きている、そのように思いました。 (花子はある朝突然比喩した)

2018-01-16

 「永い永い雨だ」という大きな大きな世界/視野から、「草の先」という小さな小さな世界/視野へとカメラアイが移る出だしになっています。その後の展開も、この小さな世界を中心に語られていきます。そこでは、語り手がカメラに徹していて、現実であろうと虚構であろうと、目に映るものをそのままに描こうとする姿勢が感じられます。  「細い草の陰」にいる「細く細くしている蝶」と、世界をより小さく小さくとらえようとしています。それでも、語り手は僅かな想いを垣間見せます。「飛ぶことをやめるだろうか」という一行は、その小さな小さな世界を見ている存在だけが語れる一行であり、想い/主観です。  飛び立つと、地に磔にされるという矛盾。一般的なイメージとして、飛び立つことは自由になることだという考えがありますが、飛び立つことがむしろ磔=縛られることに繋がるという意外性があります。だからこそ、身を潜めている蝶。動けないということがむしろ蝶の自由を担保しているのです。飛び立つと、「永い永い雨」によって地上に打ち付けられているのでしょう。直接は描かれていないですが、雨によって地上に打ち付けられるほどやはり「細く細くしている蝶」だということがわかります。  蝶はこの雨が「永い永い雨」であることを知らないのでしょう。そして、語り手はそのことを知っているからこそ、蝶にその想いをぶつけるのです。  このまま永遠に雨が止まないと知ったとき  蝶は飛ぶことをやめるだろうか  もし、僕がこの作品の帯文をつくるとしたら、この2行を使うでしょう。これが疑問となって、作品が展開されると誰もが思うからです。そして、人間にとって蝶というのは自然の一部として見過ごされてしまうこともあります。しかし、人間にとって雨が煩わしいと感じるように、蝶もまた雨が煩わしいのではないかと想うこと。この想いがあるからこそ、「蝶は飛ぶことをやめるだろうか」という疑問が生じ得るのです。  飛ばない蝶は  生きているのだろうか  という別の疑問によって再び作品が展開されます。この2行によって、読み手にも「標本箱の蝶」が自然とイメージしやすくなっています。「美しい羽を広げたまま永遠に語り続ける」という1行は、まさになるほどと思わされました。「飛ばない蝶」≒「標本箱の蝶」にとって、「永い永い雨」が降っていようと降っていなかろうと、その羽の姿を変えることはありません。飛ぶ必要もありません。雨に打たれる必要もありません。雨に怯える必要もありません。ただただそこに居続けるということ。それこそがその美しさを担保するものです。飛ばないからこそ美しさが存在し得るのであり、「標本箱の蝶」が飛び立つとその蝶もまた雨に打ち付けられ、地に磔にされ、羽がぼろぼろになってしまうかもしれません。  つまり、この作品の醍醐味は、多くの人は、蝶は飛ぶものであるという前提をもとに飛ぶ蝶を見て美しいと感じるばかりですが、飛ばないからこそ美しい蝶もいるのだという世界を読み手に示しているのです。  蝶が飛び立つ時、その音はいつも静かだということ。そして、作中世界は「永い永い雨」が降り続けています。蝶の体が雨に打ち付けられてしまうほど細いように、その体が飛び立つ時の音もまたとても細いものなのでしょう。だからこそ、草の陰に蝶からいなくなったことに気づけなかったのでしょう。それでも、本当に飛んだかどうかはその姿を目視していないので、確かなこととして書けないものです。残された結果は、蝶がいなくなったということ。音も立てずに、いなくなったということ。  「飛ばない蝶」として美しかったであろう細い細い蝶は、その美しさと引き換えに、何を求め、どこにいったのでしょうか。その続きは、それぞれの読み手の現実にあるのではないでしょうか。 (Butterfly)

2018-01-16

 光は時間を知らせる存在であるということ。確かに、朝・昼・夜といった単位であったり、朝焼け・夕暮れだって、光の加減で時間を知らせるものです。  そうした時間というのもつかの間だけ顕在化させるのですが、すぐに時間の単位は入れ替わるもので、隅に置かれます。この置かれるということがこの作品の後でも出てきます。  逆に、「いらなかった/痛み」は隅に置いてあったはずのもので、それらが隅に置かれた時間の代わりに光を浴びて、表に出てきたのかもしれません。表に出てきて、その中身を取り出すのですが、痛みもまた隅に置かれ、明日へと向かっていきます。  「臆病者の記録」にある「記録」というのもまた、過去に置かれたものを再生して現在に持ってくるためにあるものです。過去を現在に持ってくるという考えではなく、現在から過去に戻るという点で「遡る」のでしょう。  「ハリボテの嘘」もまた中身を取り出されるのです。「本当」という中身が出てきます。  「まぶたの裏」もまた普段は目に見えない箇所であり、そこから中身が滲み出てきます。  そのような、「過去」を代表として、現在目に見えていない時間/空間から、中身が飛び出してくるという連鎖。その連鎖の中でドラマのセリフもまた飛んできたのでしょう。  「正しくはないけれど  間違っていない」  正しいわけでもなく、間違っているわけでもないということ。それでも、確かにそこに存在しているもの。嘘に秘められた本当やまぶたの裏にあって普段は目に見えない悔いも目に見えない以上、あるのかないのかわからないようなものですが、確かにそこにあるのです。  そこにある、ということが一本の道となります。そのことをかたどって、いつでも引き出せる場所に置くのでしょう。置いた以上、その存在を忘れることもあるかもしれません。当たり前すぎて通り過ぎてしまうことがあるかもしれません。それでも、肝心なのは、自らがその場所に置いたということです。誰かが置いてくれたわけでも、自然に置かれるわけでもありません。そして、「いつでも」引き出せるのです。引き出しの中にしまってしまい、普段は目に見えないかもしれませんが、その気になれば「いつでも」引き出せるということ。そして、自らがしまったからこそ「いつでも」引き出せるのでしょう。 (未明)

2018-01-16

ふじりゅうさん ありがとうございます。 新しい詩と言っても、詩を書くことについての詩は、西脇順三郎「旅人かへらず」や谷川俊太郎「旅」などでもある既存のアイディアではあります。 それをもっとラフにやってみました。 最後の結論だけあれば、この作品はよかったのでしょうか、そんなことを投げかけてみたいです。 仲程さん ありがとうございます。 本気であり、皮肉でもありますが、そこに「やさしさ」を見出した仲程さんの読みが非常に気になりました。 「やさしさ」を導き出せるのは、仲程さんだからこそだと思います。 御作、何気にファンです、作品を楽しみにしています。 まりもさん マラカスしゃかしゃかして リンボーダンスを踊ろうよ モンキーダンスはだめだ 素晴らしい!素晴らしい! 五時に成ったら何かが始まる 一緒に乗り越えましょう (詩のつくりかた)

2017-12-03

カオティクルConverge!!貴音さん♪��さん ありがとうございます。 何気にファンですよ。 多分いろいろな言及ができる作品だと思うんです。 普段はこんなものは書きませんが、アイディア先行のものを偶々書きたくなっただけです。 こんなものは、と言ってはなんですが、アイディアさえあれば誰でもかけるような。 cotonoさん ありがとうございます。 なんというか、多分、最後の部分の結論だけ言ってしまってもよかった気がするのですが、それを活かすためにも、前半部分は必要だったのか、否か。 何かしら考えるきっかけになったなら、幸いです。 コーリャさん あざまーす。 そう、まさにメタポエムなわけで、詩を書くことについての詩なわけで、オブジェクトレベル=「僕」「よしこ」がいる世界、メタレベル=「その二人を書く作者」、さらに言えばメタメタレベル=「なかたつ」なわけです。どこの階層で読み解くか、その読みを試したかったのもあると思うんですね。 (詩のつくりかた)

2017-12-03

エイクピアさん ありがとうございます。 新たな叙事詩をつくろうという野心はこれっぽっちもなかったりしますが、それでも、このテイストの作品は続けてみようと思います。 私自身、映像として思い浮かんだもの、私自身の中にあるばらばらのイメージを無作為に並べてみた、そんな映像や絵画として楽しんでいただけたらと。 (デイヴィッド)

2017-12-03

天才詩人さん ありがとうございます。 僕は、天才さんと相性が悪いものだと思ってたので、意外でした。 (デイヴィッド)

2017-11-29

白島真さん ありがとうございます。 箸のくだりは、まさに偶然の産物です。 しらけたところは残念ですね。ここの部分は、言い換えるとしたら、あなたは引退したアイドルやAV女優のその後まで興味を持てますか、とほぼ同義であり、結局人はある人のことを最後まで見届けることなどしないものだ、という皮肉です。 コーリャさん どもどもです、あざます。 ポエム上手、てへぺろ。 僕もこの娘のエンディングはわかりませんから、見続けたいと思っています。そんなエンディングが来るかわかりませんが、この娘自身も誰かに布を差し出す存在であって欲しいと思いました。 仲程さん ありがとうございます。 二文字区切りのところは、見た目も大事だとは思っているのです。 息絶え絶えに何とか言葉を紡ぎ出そうとしている、二文字吐くたびに呼吸をしなければならない、そんな様子を描きたかったのですが、選択した言葉が悪かったのだと思います。 (パッチワークライフ)

2017-11-29

 弓巠さんの作品を読んでいると、水のモチーフが多く使われていることに気づきます。  冒頭の「ひと、ヒト、ひとつ」というのは、「人」という読み替えができながらも、やはり、これらの音が修飾しているのは「雨が降る」のだから、「しとしと」降る雨の言葉足らずな感じだと捉えました。  雨が降る、のは、空の髪が死んだから、ので、クウキは埃をあずけて、くろぐろと澄んでいく、と、行間が論理的に「原因と結果」そして、その結果がまた原因となって別の結果をもたらすというように進行していきます。  雨が地上に降り、埃が舞い上がり、空気が黒ずむ、その様子を空の髪の毛が抜け落ちた様子だと言い換えており、ただ、「目の前に落ちてある髪の毛」が「空のものか自分のものか」という疑問の投げかけ。この疑問に答えは出ませんが、どこまでも鈍く、その内側へと落ち続けてあるという事実だけは淡々と在るのです。  第二連では、雨から人へと視点を変えるのですが、ここで弓巠さんが水にこだわる理由が何となくわかるような気がするのです。  人が地下へと降っていくのですが、「雨の雫として空に、止まるために/目に、他のヒトは固定され結晶していく」と。目に映る他者が、その人となりとして、堅い姿を纏っていますが、水はその姿を固定させることができません。  そして、冒頭の「ひと、ヒト」という音による仕掛けが必要だったのは、「ひととみずは/クベツがつかなくなって/ウチがワへと/降ちていく」というフレーズを導きだすためです。だからこそ、「人」という感じではなく、「ヒト」という音から導き出される雨とまさに「人」とを一体化させるために、こうした音が冒頭に用いられたのでしょう。人もまたその姿を止めないでいる存在であるということ。  時には「水にのまれ」、時には「みずをのんでいる」という、水と人の主従関係が流動的に入れ替わるということ。それこそが、「クベツがつかなくなって」ということなのでしょう。そのことにより、最終2行は、人が発する声でありながらも、自然がもたらす音が合わさった表現として捉えました。   (余談です。「万物は流転する」とか「行く川の水の流れは、絶えずして元の水にあらず」とか、「水と水が出会うところ」とか、そういう水に纏わるようなフレーズが僕は好きだったり) (ひとひと)

2017-11-16

 遠くから見たら小さな穴でしかないけれど、その小さな穴を近くから覗いてみたら、その奥に別の世界が広がっていた、そんな出だしだと感じました。  その「距離感」≒「遠近法」ということが、この作品を通底しているテーマで、5階からグラウンドを眺めるという具体的な描写によって導かれた「子どもの頃からスポーツは/遠くから眺めるもの」という語り手なりの定義。祭りでの神輿もまた同様に。  そうした一つ一つの出来事を眺めているだけの存在として語り手があり、「ほとんどすべてがそうだった。」という。  それでも、この作品はその定義が導き出されて終わるのではなく、「かれに秘密でここに来た。/近くにいるために。」と自らの意志によって、きみという対象に近づこうとしているのです。近づきたいという欲望によって、そうした行動を起こしながらも、いつもいつも遠まきで眺めてしまう。  最後の二行はただの甘い表現ではなく、やはりこの作品を通底していると思われる「距離感」「遠近法」という点において、語り手が「近づきたいけれど、眺めてしまう」という逃れられない性分を持ちながらも、「目の裏」という視覚を司る器官に最も近い場所にいつもその人がいるということ。「目の裏」を目で見ることはできないですが、「その人の残像」は目に最も近い場所で保たれてしまうという、ああ、なるほどなあ、と思わされました。 (song)

2017-11-16

 いつもの白犬節とはうってかわって、一読驚きました。丁寧に、まるで説明文のような作りになっているのですが、それが内容と一致して心地よさを覚えます。  ペリドットとエメラルドという、色だけは多少似ている宝石。そのイメージを援用して、おそらく2人の人物が似ている部分がありつつも、やはり違っているという語りかけ。それでも素直な気持ちとして「2人の誕生石の色が似ている/それだけのことが/嬉しかった」とあるのが、効果的です。好きな人ができると、何とか共通点を探そうとして、親近感を覚えるのは、決して僕だけではないでしょう。それでも、語り手は冷静に「似やしない2人の間で」という事実を忘れないようにと、自覚があることも示されています。  場面は変わり、語り手の視線はエメラルドにうつります。「エメラルドは深い闇を通って来たんだよ」という事実は、そのエメラルドをウインドウショッピングのように一見した人にはわからない、語り手だけが知り得る情報でしょう。語り手がエメラルドに近い存在であることが示唆されています。  所々挿入される声「まさかね」「君にはもっと似合う人が居るよね」というのは、眠りにつく「僕」が布団の中で聴いている声、もしくは思い出している声です。夜の闇が訪れたとしても、エメラルドやペリドットが持っている色彩が見えなくなってしまうのではなく、それらの色彩は宝石そのものが所有しており、失われる色彩として思いを馳せているのでしょう。  さきほどと違うのは、共通点を探して喜んでいたのではなく、ペリドットの淡さを孕むことで、「僕」がエメラルドのジャムを吐いてしまうということ。つまり、受け入れることを拒否し始めたのです。ジャムという、見た目としては、しっかりとした形は持たないふよふよとした、まさに吐瀉物らしい吐瀉物。僕はマーマレイドが好きなのですが、エメラルドが闇を通って来ていたものの、マーマレイドの橙色が陽の光に浴びた色として、対比しているのでしょうか。それでも、月の光の下で、同じように光ることを望む語り手の思いは、真摯に伝わってきます。  最後は、何が起きたか全くわかりませんが、ペリドットもエメラルドも砕かれてしまったということ。望んでいた月の光が地上に降り注ぐのではなく、砕かれたペリドットとエメラルドが地上に降り注ぐ。それが、語り手にとって綺麗なものではなく、痛いものとして降り注ぐ。中盤では、語り手の何気ない率直な思いが示されていたのですが、最後はやはり白犬節で、淡々と移り変わる風景を描いており、語り手の思いが一気に読めなくなります。ただ、何も考えずにそうした風景の中に読者を導いているというのは、巧いと思います。  砕かれてしまって全てが終わってしまったのかどうか。その続きは、読者の数だけ答えがあるような気がします。 (peridot marmalade)

2017-11-16

 場所にまつわる記憶、思い出。同じ場所を通り過ぎる時に、その時間が変われば、いま・そこにいる語り手の思いというのは様々に変わるものです。  「まちあわせ」というのは、今している待ち合わせではなく、かつてしていた待ち合わせのことであり、「まちあわせ」という約束をすることで、「きみ」はかつてそこにいたのでしょう。  括弧書き内は、語り手の独白。一緒にいる間は、それが当たり前のものとして、わざわざ愛情などというものを試すことはしません。そして、それがそういうものであると自らへ言い聞かせています。ただ、それを確かめるだけに、時間を使ってしまっているということも忘れないようにしています。  いまとなっては、「ひとり」でかえっており、かつて「まちあわせ」した場所を通り過ぎています。かつてあって、今となっては失われたしまったその約束、今だからこそわかる愛情というもの、それが「時間」というものによって、今となってわかる後悔なのか、悲哀なのか、ここでは淡々とその事実が語られているということだけで、語り手の気持ちを推し量るのみです。 (まちあわせ)

2017-11-16

 何でもない書き出しで、どこかで読んだことあるような小説のような書き出しで、それでもやっぱりこの作品は好き。なんで好きかって、好きなフレーズがいっぱいあって、何でもない風景からふと思い出すことがあり、いや、実はこの作品の語り手は、「あなた」の墓に行って、「あなた」を弔うという目的があるのに、その目的を明かさないままに、長々と長々と電車に乗って、バスに乗って、そこで見えたものを丁寧に丁寧に、冷静な目線で書かれているから、中盤までは何でもない作品に見えてしまう。  でも、はっきり言って、そこで見過ごしてしまう読者は、正直どうかと思う。時折見られる思わせぶりなフレーズを見落としている。電車を待っている時の「人びとは一様に、同じ方向を向いて立ち、何かを待っている。」という表現。いや、「何か」って、電車でしょ、ってツッコミたくなるけど、いやいや、あくまでも「何か」を待っているという思わせぶり。  バスの中で山の風景とかを見て「ただ、景色を眺めていると、さまざなことをとりとめもなく思い出す。思い出は、俺だけのもののはずなのに、俺はそれが俺の体のどこから湧き上がるかを知らない。」と。もう我慢汁出ちゃいますね。ふと何かを思い出す瞬間って誰しもがあるけれど、思い出すと言うことに対する思考がこれまた丁寧に描かれているわけで。で、後になってわかるけれど、この語り手は、目的もなく電車やバスに乗っているわけではなくて、これらはすべて「花束を買ったあと」に乗っているのだから、やっぱり、目的地が決まっていて、その秘めた強い思いとは裏腹に、電車やバスの風景なんかを描いたりしていて、上手い伏線になっている。  それで、ようやく花束を置くわけですが、「こんなことになんの意味があるんだろう。」という自問。え、花束置くために、長い道のりをやってきたんじゃないのかと。いやいや、大事なのは、その行為・儀礼ではないと。そして、終盤へと入るのです。  これはまさに祈りです。周りはあなたのことをこう言うけれど、俺はあなたをこう思っているんだぜ、という祈り。思い出というのは、既に失ったものに対して持てるという点で、「あなた」がこの世界から失われていれば思い出として俺の中に孕むことができますが、「あなた」はこの世界の中で生きているという俺の思い。これが祈り。  最終連の呼吸の使い方、これ、僕も最近手法として使うので、すごくわかってしまうんですよね。自問自答するように、誰かへ語り掛けると同時に自らへも語り掛け、確認するということ。結論が導き出せていれば、こんなの一行で済むんです。でも、答えを出したいけれど出したくなかったり、現実はこうだけど認めたくなかったり、そんな葛藤があったり、確かめたかったりする時に、こういった手法を用いる、はい、これ、ミソです。残念ながら、「あなた」が墓で眠っているという事実に抗うことはできません。ただ、俺は、「あなた」が俺の中で生きており、俺は人びとの中に帰る。でも、あなたや思い出や世界はどこに帰るのか知らない。ただ運ばれるだけ、あなたは俺によって運ばれていく。世界によっても運ばれていく。これはつまり、俺について、もしくは、あなたについて、誰かが語るということ、語られるということ。「あなたが永遠になってしまったと人は言うよ」という事実。人はこうして、あなたや世界、ましてや俺をも語ることで、その姿を変えさせてしまう。まさに「語る」という行為によって、「運ばれる」ということ。どこぞの誰とも知らない人があなたを語るが、俺は俺なりにあなたを語ることはできる。それでもやっぱり、最後は「みんなと同じように、運ばれて、運ばれて、いくしかないんだ。」という一つの結論に至ってしまう。 じゃあ、俺があなたを語るという行為は全て無駄になってしまうのか。その答えは、この作品に感動した僕が語るほどでもないでしょう。それでも人は、やはり、その人なりの「あなた」についてどうしても語らざるを得ない、その営みを止めることはできないでしょう。僕もそんな風に詩を書いているつもりではございますです。 (広くて静かで誰もいない)

2017-11-14

 タイトルのスリーカウントが何を示しているかは一見わからずとも、一行目のアボカドの話がどうもありそうで、一気に惹かれました。ありそうな、いや、実際にそんな話をしていたのかと、現実感がこみ上げています。ただ、その現実感に反して、語り手の思い=独白は、そんな他愛もない会話とは無関係に続けられています。  女の子が好きなアボカドはメインではなく、あくまでもサブだと、何だか、はっと、しました。でも、それを言っては、この場が崩れてしまうと思いとどまり、まさに溜飲をのむといったところでしょうか。ただ、そんなあふれ出た思いは語り手の中から去ってくれるわけでもなく、メインの海老は優雅に語り手の食道を踊っています。  そして、「出来ればしまって、いたかった。」ということは、しまっていることができなかったのでしょう、言ってしまったのでしょう、メインは海老だって。いやいや、「女の子って甲殻類が好きだよねえ」という、言わばこの場を崩してしまうことを。  そして、事態は最悪なことに。場を崩してしまっただけでなく、帰れなくなってしまったということ。  作者の配慮によって、何がスリーカウントであったのかは一目瞭然です。僕だったらきっと、「」で囲わずに、しまったの前に読点を置いて、一呼吸置く・唾を飲み込む感じで、~~~~、しまったと書くでしょう。あくまでも僕の話です。  そして、この「しまった」と、「しまって、いたかった」というのは、対比なのでしょうか。英語で言えば、「oops!」という「しまった」と物を置いておく「しまった」という二つの意味が「しまった」にはあります。その二つの意味が交錯していることで、この作品が全体に不和をもたらします。そのことによって、この語り手は「甲殻類が好きだよねえ」なんて言って「しまった」わけですが、実は、もっともっと奥に秘めた何かを「しまった」、というか「しまっている」のではないかと、この作品には書かれていない何かがしまわれているのではないかと思わされました。 (スリーカウント)

2017-11-13

 こうださん、ご無沙汰です。いじられキャラのなかたつです。  それはさておき、一見ではありますが、こうださんの人柄を知っているせいか、この「曇天サーカス」というタイトルが合っているような、合っていないような。こうださんの作風はいつも、言葉で遊んでいる、まさにサーカスのような詩を書かれているので、ぴったりだなと。しかし、「曇天」という接頭辞がいいのか、わるいのか。ただ、曇天模様だったとしても、サーカスがあるといううきうき感はきっと変わらないような気がします。  そんな前置きはさておき、「木馬」だって、役割があり、作られたからにはその役割を全うするしかありません。そして、人を乗せるための役割を担っており、そういう意味で「迷子」のイメージと木馬に突き刺さる掴まる棒に人が掴まるイメージが重なります。閉園するというのも、あくまでもマイクのテストでしかなく、本当に閉園するかはわかりません。そして、閉園後も木馬はそこに在り続けるのです。「生活が暗転して私が不在」の「私」は木馬なのでしょうか。閉園すれば見向きもされない木馬の悲哀が描かれているのでしょうか。  そして、場はカオスに。ブランコは分解し、テントは破壊されます。それでも、やはり木馬はその場を保つ存在としてそこに在り続ける。見向きもされず、置いてけぼりになった木馬。それでも、その場を守り続ける木馬がそこに在り続けるということだけで、見向きもされなかった木馬に希望を与えたのは、何よりこの木馬を描いたこうださんの功績でしょう、この作品からにじみ出るその遊び心と人柄が素敵でした。 (曇天サーカス)

2017-11-13

 最初は視覚的イメージから始まります。ただ、そのイメージ「波濤を頭から被っている」と身体的感触「濡れていない」という不一致が伴っています。ここは現実か否か。  次の連で読者は語り手に裏切られます。「波濤」という言葉が当たり前のように、読者に海を想起させるのですが、「そこは(…)台所だったかも知れない」と。ちなみに、この「そこ」というのは、波濤を頭から被りうる「岩の上」のことでしょう。このようにして、場面の展開ができるのも、「考えごとをしている」からであり、想像するならば、目をつむり何かに想いを寄せる、その行為によって、自らの意識を他の場所へ移すことができるのでしょう。  台所における主体は「青い魚」です。積み重ねられた詩集の上を泳ぎつつも、時折頭についた藻を食べているという。そして、ふるい釣り針を吐き出しているという。なぜ、このような行為が成立するのか、それは、青い魚が泳いでいる=生きている場所が「詩集の上」であり、つまり、詩集の表面に藻や釣り針が置かれているから、青い魚が泳ぐとそれらが引っ付いてしまうのでしょう。  そして、またしても裏切られてしまう。この作品全体の語り手の「考えごと」によって、いや、波濤を被りうるのは、非常階段の踊り場だったのかもしれないと。  どこにも回収されえない大型不燃物は、文字通り邪魔者として、行く手=通り道をふさいでいるという。それがきっと冷蔵庫であり、その中に「白骨化した生き物の/すべての裏側」があるという。ここに、二段階の裏側があります。 一つ目が、冷蔵庫の表=大型不燃物であり、人はそれを見た目で判断し、ただの邪魔者としか扱わないが、それを開けて中を覗くということ。中を覗くことによって、冷蔵庫の中=裏がようやく見えます。  二つ目が、白骨化した生き物の裏側です。そこに在るのは、生き物が白骨化しているという現在しかありません。きっとこの生き物も白骨化する前は皮を被って、地上だか海中だかを彷徨っていたのだろうと想像はできるが、それは目に見えていない。現在から過去は想像でしか補えません。それと同様に、過去から現在も想像でしか補えません。つまり、過去には皮を被って生きていた生き物の中身がどうなっているかを知る術はなく、現在になって白骨化しているからこそ、その生き物の中身を見ることができるということ。  いずれにしても、見えている部分がいわゆる表であり、見えていない部分を裏側とすると、冷蔵庫の表=大型不燃物、冷蔵庫の裏=中に何かが収まっているということ、生き物の表=生きている姿、生き物の裏=白骨化した姿、という二重構造の裏側がここには存在しています。見えていなかったもの=裏を見るということ。(もしかしたら、白骨化した生き物というのは、現在では絶滅しており、それが保存されていたのであるならば、それはそれで、現在では見ることのできない(=裏)生き物の姿とも言えるのでしょう)  そして、読者はまたしても裏切られます。「やはり/海であらねばならない」と。「考えごと」によって紆余曲折を経た上での結論なので、それはそれで仕方がないかと思わされます。決めつけではなく、思考した道のりがあるからこその結論です。  最終連は輪郭を失った世界観。「巨獣」「深海魚」という一般名詞によって、漠然と、珍しい生き物たちの存在を思わせ、人もまた水の中から生まれ出た存在であることを思わされます。そうして、水平に、水の表面が保たれている均衡に向かって、生まれ出るいのちの運動が波濤をもたらすのでしょう。いやいや、波濤をもたらしてのは、「しろながすクジラ」であって、詩集の上を泳いで、藻を引っ掛けてきた青い魚をゆうゆうと「飲み込んでいる」という当たり前の想像で締めくくられるのではなく、やはり最後も当たり前の想像が裏切られるのです。ダイナミックなくじらが、魚の頭を齧っているという、なんだかクジラの矮小さというかなんというかを思わされます。  それにしても、どうして「シロナガスクジラ」ではなく、「しろながすクジラ」なのでしょう。それは、勝手な想像ですが、「白を流すクジラ」なのではないかと思わされました。これもまた、「シロナガスクジラ」という当たり前をひらがな表記にすることで生まれた裏切りの表現であると言えます。「しろながす」「クジラ」は「白を流すクジラ」として、自らが白骨化して、絶滅はしないぞと、そんな白の世界を波濤の中へ流し込むような、そんなクジラなのだと邪推しました。 (ゆうゆうとしろながすクジラ                )

2017-11-13

まりもさん さすが、まりもさんです。いくつか潜めていた読みのコードを拾っていただきありがとうございます。 単純に、映像作品として楽しんでいただけたらと、西脇を真似たものにすぎません。 私自身にも解説できません、申し訳ありません。 ただ、皆さんがどう読むかは私も気になるところで、果敢に挑戦していただいたまりもさんに感謝しています。 僕にしかわからない読みのコードを潜める、というのは、西脇もやっていたことでしょう。 密かな引用がぱらぱらと詩の中に紛れているという。 単純に、1人の少年の旅物語として皆さんには楽しんでいただけたらと。 (デイヴィッド)

2017-11-08

(一回長文で書いたのですが、消えたので、思い出しながら箇条書きで書かせていただきます、申し訳ございません) まりもさん ・私学に通うという意味が、地方によって異なることを再認識しました。 ・「夢」にも二重性があるという指摘。ただ、僕は夢の材料として「現実」があるということを思っています。 ・まるかっこ語りは、多用しているので、はまっているのかもしれないですが、使い過ぎに気を付けます。 エルクさん ・読者が票集めの手伝いをする担い手という指摘はなるほどです。 ・ただ、「罪」を共有していない以上、票集めによって、その手伝いができるのかということで、読者が「世界観を完成させる」のが不可能なのかもしれません。 ・数字に関しては、あくまでも私性を担保するために必要であり、かつ、代替可能な数字として読者は読者なりに数字を置き換えできるかもしれません。 花緒さん ・アクチュアリティ、その時の僕にしか書けないものを書こうとしているので、そういう効果があったのだと思います。 ・前進したというより、書き方自体は30分一本勝負で書き続けていたので、たまたまはまっただけかもしれません。 祝儀敷さん ・ネット詩への帰属意識は全くないですが、賛辞をいただきありがとうございます。 ・小学校に通うという経験は誰しもがしていますが、そこで見ているもの、経験したものは違うので、絶対に共有できる部分とできない部分があるのだと思います。 ・選挙ぐらいしか、僕には母校に帰るきっかけがなく、それがたまたまいい契機になりました。 (夢の償い)

2017-11-08

 細かい部分でいろいろと気になって、惹かれたことがあるのですが、この作品にまつわる一つだけをコメントいたします。  最初にページから落ちてきたひかりはただの演出ではないのでしょう。何となく綺麗な世界を描きたかったから用意した演出ではないのでしょう。最後に語り手が誰かに託してひかりを閉じ込めたように、語り手が最初にページを開いた時に落ちた光もまた誰かが託した光であったのではないでしょうか。  あっ、あとは、本で読んだ世界はあくまでも作中世界であって、あくまでも読むことで再生される疑似的な世界でしかなく、登場人物の仕草だけは真似できようとも、そこに溢れている五感に訴えるものを再生することはできないという読むことの限界もまた描かれているのでしょう。  それでも、この語り手は、そうした仕草にとらわれているといいますか、最終連もまた、内容よりも形式重視の、本の表紙をなぜるという行為、それもまた、おまえのなまえがきざまれた表紙をなぜるという行為、何だかわかるようなわからないような、それでも、そういう仕草をしたくなるような感じ、いや、そうせざるを得なかった語り手の思いが、秘められているのだと、読んだなりに思いました。 (ゆくえ)

2017-10-22

 第一連と第二連が対になっており、「過去を集める男」と「野良犬」との対比になっております。両者の決定的な違いは、生きる術を知っているか、忘れているかということ。過去を集める男は死んだ人間ばかり集める、手元に置いておくが、野良犬は墓をほじくり返して晒し者にする、言わばオープンにして手放すということの違い。  この男は生きる術を忘れてしまったのだから、きっと死んだのでしょう。その魂もまた野良犬によってほじくり返され、晒し者にされてしまうのでしょう。  どうしても第一連の初めから夜の世界を思い浮かべていたので、最終二行は、朝の訪れによって、行き場を失くした男の魂のことを描いているのではないかと思いました。    全く関係ない連想をしました。  というのは、野良犬は創作者というか評論家に喩えられるなあ、と。男は過去を集めるばかりで、古本でもなんでも、先人たちの書物やらなんでも、遺物や遺言などを集めては満足しているだけであるが、野良犬は、埋もれた先人たちに「墓をほじくり返す」というひと手間を加えて、晒し者にするという。言わば、光を浴びる場所に死者たちを再び置くということ。眠った遺志は、集めるだけでは何にもならず、敢えて晒し者にすることで、多くの人に見られる可能性を持つのだという。そうして熱い光がふりそそいだ意志の魂自身は消え果て、誰かの身体へと取り込まれ、魂の器を手に入れたのではないかと妄想してみました。 (蒐集家)

2017-10-22

 「足のかたちを記憶する」という表現に惹かれました。というのも、海辺を歩くのは、足のかたちを記憶させるためではないものの、そうか、砂浜に記憶されてしまうのかと。つまり、歩くたびに受動的にならざるを得ないという発想。  この作品には様々な運動が散りばめられており、足のかたち、波紋の改竄、ひとつの飛英、少女の旋回、追いかける影など。語り手の意志とは無関係に描かれるその運動が自然な動画として、語り手がカメラアイとして徹底しており、そこには見えないガラスがあるという暗黙の了解のもとで、描かれている世界とは無関係であるという徹底した姿勢があります。  「影は少女を追いながら」という運動もなるほどと。少女の旋回に伴って、影もまた垂直に螺旋するのでしょう。  それでもやはり、この世界で特別な権利(?)を与えられているのは、海鳥たちであって、様々な運動が一つの世界の中で起きているのですが、それらはあくまでも別々の個体が生み出した運動であり、そこに関連性はないのでしょう。それでもただ、海鳥たちはひとつの飛英を共有しているから、鳥言語なるものをも共有しているが、他の運動を持つ主体は海鳥たちと共有物がないために、鳥言語を理解できないのでいるのではないでしょうか。 (No title)

2017-10-22

 distanceと言えば、空間的な世界を想像させるが、この作品で描かれているのは、時間的な隔たり、距離。それでも、第一連はおそらく現在から始まっており、その現在が中心にあって、ところどころ挿入される回想。現在と回想とのdistance  「かれ」は、小説を悪く言い、詩のことはもっと悪く罵るのに、「わたし」に対して「自殺するくらいなら詩でも書いたら」と決定的なことを述べている。「もー/ねえわたしを/どこに連れていくの、」と聞きながらも、現在から回想してみて気づくのは、「かれ」が悪く罵っていた詩を書くというところへ連れてこられてしまったのだろう。  ヒカルの碁を読んだ話もおそらく現在における会話。その中で「当時の感情はもう思い出せなくて」という「かれ」の言葉。現在と当時のdistance  そこで挿入される回想で、「かれ」がJ-POPの歌詞を良いと思えるようになって生きやすくなったという他愛のない会話。それでも、語り手がこの会話を回想したということは、現在における語り手にとって、価値があるとまでは言わないが、何かしら心に引っかかるフレーズだったのだろう。  「かれ」が当時の感情を思い出せないように、「わたし」もまた「10年前の自分はもう見えない」でいる。「結局どこ行くの?」と聞きながらも、「わたし」は当時「かれ」が罵っていた詩の世界を生きようとする。詩の世界を想像している。いわば「かれ」によって運命づけられてしまった詩を書くということがあり、このことが当時も現在も「わたし」にとって変わらないこと、つまり、「わたし」と「かれ」の関係性に他ならないのではないだろうか。それが「わたし」と「かれ」のdistance (distance)

2017-10-22

 「純粋って 残酷よね」という言葉は、誰に向けて投げかけたのでしょうか。ここは部屋でしょうか。何となく部屋の中を想像します。そして、さきほどの言葉は、ふと口から漏れ出た独り言というか、文字通り空を切るような言葉だったのではないかと思いました。いや、目の前に相手がいたのかもしれないですが、それでも、相手に届かない言葉であるように思えました。  というのも、読み進めると、「ガラス戸に跳ね返った私の声が届いたとき」とあるので、どこか空に飛ばした言葉が、最終的には自らに「かえってきて」いるのです。そして、かなしみは怒りへと変容する。  「純粋」という言葉と、幼い頃の私の映像が結びつきます。おそらく、故郷でのお話。尖った葉をあなたに斬りつけていたあの日々。それに伴う、恥ずかしいという若いからこその感情。そうしたものを手の中に収めることで、自らの所有物として抱き続けるのでしょう。  そして、かなしさでも怒りでもなく、海を隔てた、誰かの、いや、誰かのものであったのか、やさしさが打ち寄せてくるという。これもまた、やさしさが「かえって」くるということ。  私の声がかえってきて、やさしさがかえってきて、そして何より、幼い頃の記憶にかえっていくとうことがタイトルにある望郷という意を示しているのでしょう。 (望郷)

2017-10-21

 何だか言葉に表せない良さを感じました。そうした、言葉に表せない感情というものがこの作品でも扱われています。  ミネラルショップという一つの舞台で感じた語り手の感情が、語り手という名のとおり、読者へ語り掛けるように、声として届いてきます。第二連では、自らの思考の中へと意識を移し、それでも、語りは続いていきます。鯨の耳石を見ている語り手は、ミネラルショップにいるはずですが、思いをゆっくりと巡らすその様子が、それこそ静謐なミネラルショップの雰囲気を読者に想像させます。  そして、幼少時へと舞台が移り、語り手の秘密が明かされるのです。それは、選択した道ではなく、語り手が背負わざるを得なかった運命。  「慰めや同情」に、言葉は伴うのでしょうか。むしろ、言葉にすると安易になる感情になってしまうのではないでしょうか。「君の気持ち、わかるよ」などと、日常会話では使われるかもしれないですが、この語り手は、そういった「慰めや同情」ではない、深い感情を味あわせてくださいます。それこそが、「言いあらわすことの、言いつくすことのできない」という表現に集約されています。  鯨の機能を自らになぞらえて導かれた最終行は見事としか言いようがありません。 (ミネラルショップの片隅で。)

2017-10-21

 この更新がどういうペースで、そして、何より何が更新されるのかという疑問が置きます。いや、それは「僕が」更新されているのです。  面白いのは、「わかるものを呼び止めて」この更新される様を確認する描写です。この誰かは、あたかも更新のことを自明の理として、大丈夫大丈夫と答えるのですが、更新を気にする僕と更新を当たり前だと思うわかるものとの対比。わかるものは、一体何者なのだろうか。  でも、僕が抱く疑問というのは、何が更新するのかということではなく、更新がなぜ必要であるのかということ。そんな時代が来たものだと、ひとまず受け入れるのですが、抗えない更新は、なにかの完了、得体のしれない方向へと向かっていきます。  それでも、何が変わったのかという自覚は訪れることはありません。それでも、更新され続けていく。「僕は/まだまだ/変われると信じているのに」と語っているのは、僕の微かな欲望が垣間見られるような気がします。変わりたいと思う欲望、もしくは、何か目標に向かって変わろうとしている姿勢。  それでも、時代のせいにしつつ、抗えず、僕とは無関係に訪れる自動更新は、ただひたすらにマイペースに更新され続け、「とても/明るく胸に響いてくる」という僕の思いとは無関係な機械仕掛けの作用が不気味でありつつ、この詩を読んだ読者もまた得体のしれない自動更新が訪れてしまうのでしょうか。 (自動更新)

2017-10-21

 まず、唇は何のために存在するのか、そんなことを考えました。物を食べるのは歯があればいいし、喋るのも声帯があればいいし、なんだか、口を通る門番の役割を果たしつつも、唇自体に機能はありません。それでも、唇には何だか惹かれるものがあり、強いて言うならば、口づけをする機能はあるかもしれないですね。  というのも、グロスを塗る、という行為がどういう意味を持つのかを考えたのです。それは、唇をより魅力的にひきたてることです。そして、さらに魅力を増すためには、そのグロスを引き立たせるために、唇を閉じることです。すると、自然と物を食べたり、喋ったりすることができなくなります。  途中の「すきを受け止めたい」というのは、好き、でも、隙でも、どちらでも成り立つように思いました。  そして、「あなたの口に/苦いものはいらない」と相手の口を想うこと。  「無垢なままの少女」とは、グロスを塗る行為とは相反するように思いました。そして、そうか、口は呼吸をする機能をも持つと再認識し、結末は、なんだか、相手の口から吐かれた空気を取り込んで生きる「私」の存在を思わされました。 (辰砂、くちびるに)

2017-10-21

 希望や理想を抱きながら生きることは、楽しいことなのでしょうか。いや、きっとそれは苦しさを伴うものだとこの作品を読んで思いました。  展開は、いわゆる「正しく生きること」「善いとされること」を律儀にこなす語り手がいて、周りに迷惑をかけないようにと、縮こまって生きるその苦しさが描かれています。「身体中に力が入って/ちっとも楽じゃなかった」と。  そこからふと故郷の話が挿入されます。故郷の5月が好きだと。そこから、「自分にも裏があると」気づいてしまって、この挿入が見事に起承転結の転の役割を担っています。(思えば、ユーカラさんは沖縄出身でしたよね。梯梧(でいご)に、惹かれました)  でも、裏があるのは気づいてしまった今からではなく、「今に始まった事でもないし」と、最初から裏があるのだと、開き直りをします。それでも、「何を見て/心を震わせるのだろう?」という疑問符を投げかけているのは、正しく生きること・善いとされることをするという理想を白紙にしたからこそ、代替物としてすがりたいものを改めて探しているのでしょう。  空を見上げ、手をかざす。そして、ふと第二の気づきがある。「汚れた空だからこそ浮き上がる/青」の展開は、見事です。自らの生き方そのもの、と、空と手のイメージを重ねて対比させるということ。  正しく生きることは息苦しいことであり、自らにも裏があることを知り、一度白紙になった理想でも「本物の美」や「本物の青」があると、新たな理想を追い続けるというのは、まるで求道者であるような、そんな泥臭い語り手の生き方に惹かれました。 (『もう、手は洗わない』)

2017-10-21

 「でかけよう わたしの異郷へ」という冒頭一行目から目を引きました。「わたしの」という所有物であるのに、「異郷」というわたしから離れたものへ出かけるということ。それは「わたし」という存在に違う場所を取り込むということ。その手段が「じぶん以外のひととおなじ ゆめをみる」ことなのでしょう。  そうして、「わたし」に異郷を取り込むことによって、「わたし」の体に変化をもたらしています。「わたしの胸板から うまれくる森の種が銀色」と。ついには、「わたし」は地中海にいるおじぃちゃんによって、「がうでぃ」になってしまいます。そんなおじぃちゃんのポエジィ、最初の連でも言われているようなどこにでもあるようなポエジィを拾い集め、「わたし」のうちへ取り込んでいくということ。それが、わたしの異郷へでかけるということなのでしょう。  「がうでぃでぃ」という造語は、がうでぃの形容詞化なのでしょうか。そんな使い方もひらがなで書かれると心地よく、発声したくなる思いに駆られました。 (がうでぃでぃ)

2017-10-21

散文にしてみました。  深海で語り合うため、場が用意される。カプチーノより、そのままの形としてのコーヒーを用意する。夢は浮かぶものであるということだが、それを語り合うのであれば、新海であったっていい。目を閉じる動作で、夢を深海へと招待する。深海で喋るにも、声は音にならず、口からはただ泡が生まれるばかり。彩を与えてくれるのはクラゲで、これもまた場を演出してくれる。だけど、深海ではどうも息苦しい、限界が来てしまう。それでも、一人で深海魚と語り合うのではなく、誰かを招待するために、カップを用意して欲しい、と誰かに訴えかける。 (一人称多数)

2017-09-09

 説明はいらないですね、めちゃくちゃいいですね。  強いて言うならば、物や人などは目的や利害関係が在ったりして、そういう見えない偏見と共に生きていて、目的外のことを自然と見落とすように生きてしまわざるを得ないのですが、文学やら芸術やらは、そんな目的外のことへの着目への美しさを見出すものではないかと思いますね、よかよかです。 (contour)

2017-09-09

 作品を読んで思い出された、作品とは全く関係のない僕自身の話をさせてください、申し訳ありません。  小学生の時に仲良くしていた友達がいまして、家によく遊びに行きました。いつも母親が家におらず、家もちらかっていて、何かしらの匂いがいつも立ち込めていたのですが、そんなことはおかまいなしに、よくゲームしたり、公園に行ったりして二人で遊んでいました。  彼の苗字は、カタカナ名で、名前は日本語名で、名前を見れば明らかに親が外国籍であることがわかりました。それをネタにする同級生もいたりしましたが、そんなことは関係なく一緒に遊んでいました。  ある時、ふと、僕が彼に「普段何食べてるの?」と聞いたら、「昨日は母親がパチンコの景品でカレーを」と答えました。その時、ものすごいカルチャーショックを受けました。いまだに僕はパチンコ未経験ではありますが、パチンコの景品で食事を摂って育つ子どもがいるということを本当に信じられなかったのです。慈愛や軽蔑など、そういった感情をその時抱いたかも定かではないですが、とにかく、驚嘆しかありませんでした。  だからと言って、僕自身の何かが変わるわけではなく、彼自身の何かが変わるわけでもなく、ただただ驚いただけです。  中学が別々になり、その後は全く会わなくなりましたが、そのエピソードは今でも強く心に残っています。終には、100回ぐらいは一緒に遊んだであろう彼の母親にも父親にも会うことはありませんでした。 ごめんなさい、とりとめのない自己語りですが、どうかご容赦ください。 (7stars)

2017-09-09

ハァモニィベルさん 変調というか、いきなり寓話的になるから、それが飛躍しすぎだったのでしょうか。 成功・失敗というのも基準がよくわかりませんが、一感想として受け止めます。 まりもさん 上記にあるとおり、飛躍が読者を置いてけぼりにしたんだと思います。多分、世界との関係における距離の違いが一気に変わってしまったからでしょう。 内容に合わせて、語り口を変えるべきなのではないか、とそう受け止めましたが、多分その方法はとらないような気もします。この作品において、語り手は一として、様々な青の世界を語るものとして在ればいい、と多分書いたんだと思います。 最終行のことは、当たり前の日常の捉えなおしなんだと思います。光は「波」説があり、音もまた「波」でありながらも、光そのものは媒介がないと知覚することができないという。 (青の断章)

2017-09-02

 神話を生きる、主人公の目線で描かれた作品だと言うことを前提にして読みました。それはつまり、神話という定められた運命を辿るしかない主人公であり、神話そのものは語り継がれるものでありながらも、読者は物語の終わりに辿り着けばそれ以降のことは考えません。神話そのものが語り継がれる以上は、その世界に生き続けなければならない主人公。「何が起きているのだろう/話が違うようだ」とは、運命づけられた主人公の嘆きでありながらも、運命から少し外れようとする姿勢が感じられます。それすらもまた運命なのかもしれません。  「西の方角を頻りに示唆して/点在しているコスモスの花」とは、ヒマワリだったら何となく想像ができました。西は、陽が沈む方向であり、少しでも陽にあたろうと顔を向ける植物たちの姿を感じました。  「わざわざしつられられたような、/黄色い小蝶が遊んでいる」からの「寓意が立ち込める」という展開は、神話を神話たらしめる要素、わざとらしい場面配置が存在するということを感じました。そのために、やはり神話という運命づけられた主人公の「私の役目は正しく綴じられ」という行に繋がります。  物語というのは、語られた内容が全てであり、言わば語られなかったことは描く必要のなかったものとして切り捨てられています。「私の役目」とは、戦士として戦うだけでよかったのでしょう。それゆえのまた「ここで良い。」という自分自身への語りかけは味があります。  「美しい巨鳥のような銀色の機体が私を回収した」のは、果たして運命づけられた神話なのでしょうか。おそらく、神話としては描かれなかった世界として、戦士の希望なのでしょう。つまり、神話を生きるものと神話を語るものという絶対的な区別は越えられるものではない中で、せめてもの戦士の抵抗です。終盤の神話を語るのは、神話を語り継いだものではなく、神話を生きる戦士が語っているのでしょう。  ただ戦うことだけが役目であった戦士は、語り継がれることでただただ戦うことしかできませんが、その世界でいつか死にゆくことを願っているという、神話が無常かつ無情な物語であるということを考えさせられました。 (神話の果て)

2017-09-02

 自らの「弱さ」を主題とした作品であって、弱さを見つめ、その形・行方をとらえようとした作品なのでしょう。それでも、そこだけに焦点が当てられているのではなく、「道端」から草草、留まった水といった転換もあります。これらのモチーフが一体どのような彩を与えているのかと言えば、自らの死後の世界を考えるヒントとして使っています。  弱さは僕の所有物でありますが、自らの内に秘めているものという当たり前を越えて、僕の死後、僕から離れていって、「植物になって/ありつづけるだろうか」という発想が挿入されています。つまり、弱さというのは僕が所有している種であると同時に、僕の内に秘めたものであって、僕が死なない限りは表に出ないものであるということなのでしょう。  僕が生きているうちは、僕の弱さは誰にも見られることがないが、僕の死後は植物となって、誰かの目に晒されてしまいます。そうやって一つの形を纏ってしまうことに対して、最後の三行が語られているのではないでしょうか。 「どんなに寂しいだろうか」  行くあてもなく、ただその地に根差すことしかできない植物への悲嘆。 「どんなに僕は無意味だろうか」  僕から離れて、僕とは無関係に育っていく植物=弱さ。 「どんなに世界はいいだろうか」  この一行だけ逆説的になっていて、僕とは無関係になった世界と植物=弱さがただただ自然に育っていくという摂理への希望なのでしょうか。 (センサイ)

2017-09-02

 冒頭の「口にするもの」は二重の意味があるように思えます。 1 何かを食べること 2 何かを発声すること いずれも、「口にする」という表現を用いて表すことができますし、この作品においても、この2つの意味が通底しているのではないでしょうか。  「あなた」はまるで犬であるかのように、蝙蝠をくわえたり、牙がのびつづけたり、遠吠えをしたり、という行動をおこしています。その「あなた」を見ている語り手の私という構図、もしくは帰ってくるのを待ちわびているのでしょうか。  ただ、「口にするものはおさめていた」という一行目をどういう意味でとらえるべきなのでしょうか。1の意味では、事後のこととして、何かを食べて、体内におさめているということ。2の意味では、これから発声されるであろう何かを外に出さずに、体内におさめたままにしているということ。いずれにしても、何かを体内に孕んでいるような印象を受けました。  「音符は走る空白の痕」からの血痕へのイメージの転換。五線譜に置かれた音符は規則性があるように見えながらも、まるで五線譜の上へ気まぐれに置かれたただの染みであり、それがまるで、どこかへ無造作に滴り落ちた血痕と重なります。  「枯れゆくのも 残して」とは、「芽が伸びつづけるのをそのままに」という冒頭からの流れで、「あなた」は帰ってこず、水が不足して、枯れていっても誰も手を施さないという状態です。この植物と血痕のモチーフから、水というモチーフが引き出されているのでしょう。そして、水は何かを潤すためにあるのではなく、何かを流すためにあるという。  そして、はみ出した弾けたものはわたしの尻尾によって拭き取られるので、「あなた」がまるで犬であるのではなく、実は「わたし」が犬であることがわかり、つまり、「あなた」を待つ「わたし」が犬としてここにいるという構図なのでしょう。  「口にする」というのが、何かを食べること・発声することという仮説は、「くわえた声」という表現によって、ひとまとまりになっています。「水もいつしか引いている」という乾いた世界。それは、何かを潤すため、何かを流すためだけにあったのではなく、水の役割というのは何かを運ぶ伝達手段として、媒体として、重要な立ち位置があったのではないかと最後に思わされました。 (変調)

2017-09-02

 何となく、僕の作品と似ているところがあると思って読んだのですが、構成は似ているものの、本質的な何かが違うように感じてしまいました。それはさておき…。 冒頭にある「今更わかったこと」というのは何のことでしょうか。タイトルのことでしょうか。それとも、彼が秘密主義だったことでしょうか。彼のことを結局知らないままであったことでしょうか。これらを総じてのことでしょうか。いずれにしても、彼のことに対して今更わかったことがあるということでしょう。  久々にあった同級生とその中にいる彼。付き合った時のことだけでなく、今の彼もかっこよく、言い方・仕草が好きだったことが思い起こされ、もやもやする。この感覚が非常にわかります。  公園に行ってから、展開が変わります。彼の決定的な特徴、それがわたしにとっていいところであり、いやなところでもある。それが人の話ばかりきいている秘密主義者だということ。そのことによって、わたしは彼のことを結局何も知ることができずにいた。それは今だってそう。そのこともまた昔と今も変わらずにいて、私はそのことに嫌悪を抱く、というよりも、「どうしてなのかわからない」という感情を抱く。この感情が発展して「私のことどうでもいいならいっそのこと嫌いだと言ってほしい」というタイトルが導かれていく。  最後にとってつけたかのような一行があるのは、まだもやもやしている私の感情を整理するための言い訳なのでしょう。もう昔/今の彼との決別を告げたいというわたしの意思表示なのでしょう。でも、気になるのは、やはり彼がわたしをどう思っていたのかということ。それはまた、どういうきっかけで付き合って、どういうきっかけで別れたのかという理由を読者が何となく知りたくなってしまうと同時に、彼の感情を知りたくもなってしまうのです。ただ、基本的には、わたしから見た彼しか描かれていないので、わたしの感情が爆発されており、わたしの欲望が描かれているのみです。  彼もまた人間であって、何か楽しいこと、苦しいことは他の人間と変わらないように何かしらあるはずなのです。そういったところを何も覚えていなかったというわたしに対して、読者である僕は何だか悲しくもありました。彼はわたしの話を聞いてくれたから、多分わたしのことを忘れていないんだと思います。それで、僕が敢えて問いたいのは、わたしは彼の話をどれだけ聞いていたのか、ということです。途中にある「肝心なことは全部そっと包んでそのへんのゴミ箱に捨てる」というのは誰の行為なのでしょうか。この作品に描かれた部分に限れば、最終連を読むに、ゴミ箱に捨てようとしている、もしくは積極的に捨てられたがっているのは、わたしなのだと感じました。 (好きだった人にいっそ嫌いと言ってもらいたい)

2017-08-27

1番線に到着し、9番線から出るということは、入り口と出口が違うということ。そして、待つ人=どこかへ出発する人、降りる人=どこかからやって来た人であり、出発する人よりやって来た人の方が多いということ。そんな駅で、「きみ」という存在を待つ俺。 きみはどこかを出発して、無人駅=ここにやってくることを俺は待っている。けれど、どこかを出発したことは知りながらも、ここで降りるか、ここを通過してしまうかはきみ次第である。待つことしかできない俺は、きみとの新たな物語=エピソードが生まれるわけではないから、過去のエピソードを思い出す。ベンチの温度について。  切符を買うというのは目的ではなく、手段であって、どこかへ行くための手段である。そして、どこかへ行くために座る椅子もまた目的ではなく手段である。そうした、ただの通過点にしかない手段は冷たいものであり、公園というのは、目的地にあるものであるから温かいのだろうか。 きみはどこかを出発して、どこで降りるかはわからない。だから、どの辺りを走っているのか、つい心配になってしまう。俺はただ待つばかりの人であり、ここへやって来るものをひたすら通過させる。つまり、それは感情を持たないから哀しみでも何でもない。冒頭に戻れば、哀しみは1番線に到着して、9番線から出るのだから、乗り換え=寄り道が必要になるのだろう。そして、きみがこの駅に到着したら、切符を買ってまたどこかへ行くという。それはつまり、きみにとってのこの無人駅はただの通過点でしかないということなのだろうか。 この作品では、きみが到着するだろうという俺の予測しか描かれておらず、本当にきみがこの駅に来たのかは定かでない。「日に何本も到着する1番線の列車を背中に見ている」ということは、ここ=きみを待っている場所はきっと1番線ではない。1番線に来る列車より少ない9番線に来る列車を待っていて、背中越しに1番線に来る列車をやり過ごしているのだろうか。この「背中に見ている」という表現が重要ではないかと感じた。 それにしても不思議なのは、無人駅に1番線と9番線があるのだろうかということ。この世界が全体として比喩であったとしても、俺が待つホームというのは、1番線なのか9番線なのか、そして、きみが乗って来るのは1番線なのか9番線なのか。その捉え方が非常に重要ではないかと思いながらも、考察を終える。ただわかるのは、哀しみは1番線に来て、9番線から出ていくということ。その間には、寄り道なり、乗り換えなりがあって、同じ場所へ向かって/帰っていくわけではないということ。同じ姿でかえっていかないということである。 (無人駅  ~ジョバンニ発、カンパネルラ行~)

2017-08-27

 人間っぽく振る舞うこと、それがこの私の礼儀であると同時に汚点であるという。そうした汚点が文字通り点々とノートに連なっていくように、記録されつつも、抱かれてしまえば、確信犯、言わばそれも振る舞いでしかなく、表面上と内心は違うのだろうか。そんな時、ふいに汚点が記録されたノートのページが捲られ、新たな記録が生まれてしまう。終わりのないワルツを踊り始め、人間らしい振る舞いが崩れる。そのことによって、その振る舞い=自作自演に別れを告げることができる。  ドキュメンタリー、実況という状況が成り立つのは、自らを自らで俯瞰=客観視する必要がある。つまり、自らの観察者が自らの外部にいる必要があって、その観察者が映像を撮ったり、語ることができるのである。  この作品では、抱かれて確信犯となったことがきっかけとなり、上書きされたページが生まれ、自作自演に別れを告げる。それ以前と以後の違いと言えば、人間らしい振る舞いを演じていたかどうかであり、また、そうしていたことによって、ドキュメンタリーこそ台本があるものとして、演じていたのではないかと。そうした、演じるような作品に生きて、観察されるものとして対象化されるのではなく、崩れた人間味=本能のままに生きて、観察するものとして生きることを選択した、それが本来の礼儀だということだととらえました。 (しばらく麻痺)

2017-08-27

 たぶん、作為的にやられていると思うのですが、詩行の終わりにすべて名詞を持ってきています。その狙い・意図はわかりませんが、読み手に与える効果としては、一行一行がひとつひとつの物質の表れに通じるということで、物質がぽんぽんと読者が描く作中世界に並べられていくかのような印象を受けます。  それはさておき、舞台は、まるでドローンで撮影されたかのように、遠景から始まり、次に母(の言葉)、右足首・左手首と焦点がフォーカスされていきます。鬼は「赤い旗の外」にいるという。  そして、痣や傷というのは、何かの跡であって、語り手は、母の語るエピソードによって、その跡から過去に起きたであろうことを想像するしかないのです。ここで、冒頭に戻るのですが、「生まれた町 小さな町」に生まれたのは、語り手であると同時にその母でもあって、それは同じ町でありながらも時間の経過があり、場所としては同じでありながらも、語り手/語り手の母にとっては違って見えるはずです。その違いが痣や傷に対する見方・想いでもあるのではないでしょうか。  そして、おそらく語り手はこの町を出て、生活をしているのでしょう。 二連目の状況 語り手と母 → 赤い旗 → 外:鬼 「赤い旗の外には鬼がいる」 五連目の状況 無責任な家族・彼ら ← 赤い旗 ← 語り手 「彼らは今頃赤い旗の向こうで生活でもしているのか愚問」 愚問ということは、聞かずもがな、答えがわかっていることであり、赤い旗の向こうでいまだ生活し続けているのでしょう。 何か理由があって、生まれた町を出た語り手にとって、生まれた町に住み続ける母・家族は無責任なものであるという価値付けがされており、町を出たからには不要となった母の存在が、今となっては無効であるということが最後に示されているのではないでしょうか。それがまた、タイトルの「手を振る」=別れ・決別を示す行為として示されているのではないでしょうか。 (手を振る)

2017-08-27

 冒頭、目に見える世界を目に見えない世界へと細分化して描きながらも、挿入される言わば雑念のようなもの。そうしたものが語り手の思いとして、細分化した世界を超えて実感となるわけですが、「そんな甘い朝」も手放しているんですね。一読すると、この甘い朝はまるで過去のことであり、「手放す」という言葉とセットになるのは、過去の時間であるように思えます。  ただ、次の連は「ときどきそんな未来のことを思い出す」という矛盾した表現で、さきほどの予想が裏切られます。展開される詩行は「未来」について語られたものですが、その「未来」を「過去」と置き換えても違和感がないようになっています。これは、これから起きるはずであることを先取りしたものなのか、それとも、過去に起きたことが未来に繰り返されることを予測しているのか。そうした混乱に陥りながらも、「だってお化粧が濃いよね」という誰かが誰かに呼びかける二者関係がここで浮かび上がります。  そして、至るのは、美しい花=「未来」≒過去を手放すということ。それもできるだけ無残に、原型を留めないように、散り散りに破き、燃やし、結果として真っ白な砂となります。砂は軽いはずですが、語り手の想いがあるせいか重たく感じてしまうのでしょうか。ただ、その入れ物が重たいという、その入れ物とは、その真っ白な砂を持っている語り手のことでしょう。  海に撒こうが三回繰り返されているのは、おそらく葛藤の表れです。まだ決意しきれていない語り手の想いを自ら確かめるかのように、行動へと仕向けるように、自らへと呼びかけているのでしょう。 (未来の)

2017-08-27

 僕が最初に詩らしい詩を書いたもので、丸が少しでも書けたら丸でなくなって…、というようなフレーズを使っており、つまり、図形というのは概念上のものでしかなく、現実や「私」というのは、そんな完璧なものなどないのだ、というものを書いたことを思い出しました。それがタイトルの「正方形の生活」に結びつくのだろう、と。  四角いアパートや正方形の生活は、きっちりとしたルールを思わされ、それに対比するものとしてタバコの煙が生まれ、というより、「私」から生み出されていく、不完全なものとして現れています。  そのタバコの煙からイメージは飛躍し、気持ちや魂が白くて丸い煙として何個も生み出され、それが「私」自身を吐き出しているということ。そして、それは空に溜まっていくというイメージ。  「向こう」とは、私が今いるここからは遠い世界のことであり、そこには「テンポ正しく/正方形の生活が保温され」があると。ここで、保温という言葉が使われているのがミソなのでしょう。生み出されたものを少しでも長く、その形を維持しようとする行為。  「生まれた隙間に冷たさだけが写るんです」というのも何気ない表現で、隙間があるからこそ、吐き出された「私」の魂が外気の中に入る余地があるのでしょう。正方形の生活=保温、「私」の魂=冷たい、という対比もされています。  その後の詩行は風刺であるかのような。「そんなあたしから/たしからしさを」という「たしから」の音で鮮やかに展開されています。光があるからこそ、わたしのたましいとからだが写るのであり、その光の源は、向こうにあるというアパートの窓=正方形の生活にあります。「インスタばえ」なんていう言葉が流行っているように、また、「共有することは/むずかしいから」スマホか何かに食事の写真が増えていくという、逆説。  「ただいまおかえり/おなかがへったねおいしいね」という何気ない二行は少しパンチがありました。おそらく、これは正方形の生活の中にある言葉なのでしょう。当たり前の会話こそが、正方形というきっちりした形を保つための生活に必要な言葉だととらえました。  最後、「夜をむかえる温かさを教えてくれよ」と終わるのは、「私」の魂は外気に触れて冷たくなっているわけですから、暖を求めているのでしょう。そして、その暖があるのは、保温されている正方形の生活の中にあると、この語り手は気づいているのであり、正方形の生活を少々揶揄しながらも、その温かい生活に入れない「私」の魂、しいては、「私」の体もまた、正方形の生活にある温かさを知りたいのではないかととらえました。 (正方形の生活)

2017-08-27

三浦果実さん 変化したんですかね。それよりも書くことを続けたことで、勘が戻ってきたような。 それにしても、いずれも本性で、いずれも思い入れのある作品です。 「あなた」に呼びかけていると同時に、自分への呼びかけで確かめているんだと思います。 (星の誕生日)

2017-08-24

survofさん そのネーミングに関しては、僕が名付けたわけではなく、そのお母さんかもしくは先祖様です。 ずるぷかる君に会いたいという気持ちですが、いつでも会えるわけでも、僕を待っているわけでもないので、偶然出会うしかありません。いずれも偶然の産物です。 語呂はあまり意識せず、本当にそのまんま書きました。これもまた偶然の産物です。 (縁)

2017-08-24

渚鳥sさん 整然とした思考を持って書いていないです、というのも変ですが、ばらばらの出来事を何となく自分の頭の中で組み合わせて書いています。何か通底するものがあるはずだ、と。 最初と最後の行をどう読んだかは僕も気になるところです。「きみたち」が指す対象が何であるのか。最初と最後で同一人物なのか。作中の人物なのか、作外の人物なのか。 多分ですが、最後の行、僕が読んでも、ちょっとむかつくような気がします。 (仙台に行ったのは、4年前、某学会に行くために泊まりで行きました。歩くことが大事だと教わっていたので、旅先では基本的に歩き続けます。定禅寺通、広瀬通、青葉通をひたすら何往復もし、青葉城、あと松島も瑞巌寺も1日で10kmぐらい歩いたかもしれません。松島で食べたずんだもちがおいしかった思い出です。) (星の誕生日)

2017-08-23

まりもさん 「話を聞く、という行為に、本来は行き交うはずのないお金の音が聞こえる。労働対価としてのお金ではなく、誰かの話を聞いた時に、何かがキラキラ輝きながら、お互いの耳の奥にだけ響く音で、ちゃりーんと響く、ような・・・そのきらめきが、地上に流れる天の川として、幻視されている、ような」 話を聞くために本来は行き交うはずのないお金の音とありますが、話を聞くためにお金をかけてもいい、また、お金がかかるものだと僕は思っています。 雑誌のインタビュー記事しかり、読書全般だって、自分ではない誰かの話を聞く行為だと考えています。また、友達と喫茶店で過ごす時間も然り。 「お金で体を買う、買われる、という関係性の中にも、その人の心の声を聞く、というような、そんな「ちゃりーん」に匹敵する気持ちの交感のようなものが、あった、あるいはあってほしい、ということなのかな・・・。」 というように読んでいただけたのは、大変うれしかったです、自分の予想を越えていました。 そして、スナフキンをあまり知りませんが、そのように言って頂けたことも嬉しかったですね。そうなりたいですね。 (星の誕生日)

2017-08-23

花緒さん 「社会は<僕>が居なくても回る。システムは巨大で個人が介入できるものでもなく、影響を与えられるものでもないという諦念」 とありますが、前段はその通りだと思います。ただ、それは社会に還元するわけで書いたつもりではないんですね。 確かに書かれたことは一般論として通用すると思うのですが、書いた後でふと思ったのが、お金を使うということは、大きな社会の枠組みの中でも、それぞれ個人が選択するものです。 何にお金をかけるか、趣味や嗜好によって、お金の使い道は変わります。 教授は、僕なんかにおごってくれたわけで、それはそれで教授の選択なんだと思います。 そういう意味で、無意識的・日常的な浪費だって、個人の選択の結果であり、その一つ一つが尊いことなのではないかと。 (星の誕生日)

2017-08-23

渚鳥sさん 「はえた」がひらがななのは、もちろんわざとです。 どちらでもとっていただけるようにと。 僕がそれを現実のものとして、見ていたかはさておき、少女が雨の中泣いているのを見て、即座に、こういった映像・言葉が頭に浮かびました。 (Cocco/少女、の祈り)

2017-08-23

りさん ありがとうございます。 想いを伝えるために詩はあるのか、それに、その想いは誰に伝えたいのか。 いや、その前に、自分は誰かの想いをきちんと受け取れているのか、そんなことを考えました。 コメントも出尽くした感があるので、正直に言ってしまいますと、最後の 「生きてて良かった」と。 という終わり方はお気づきかもしれませんが、主語がありません。 僕自身、生きてて良かったのは当たり前であって、それ以上に、この作品には書かれていないいろいろなことを経た上で、「あなた=兄が生きてて良かった」と伝えたかったんですね。 (縁)

2017-08-23

黒髪さん さっそくありがとうございます。 自分で自分の作品を見返すいいきっかけになりました。 全体として、的を射ているように思いました。 一つ一つの出来事は点として、偶然の出来事として記憶に残るものですが、それらの点はきっと歴史や過去をはらんでいて、点と点が時間的にも空間的にも結びつくようなことを意識して書いています。 ついでに、祈りとは、自らの何かが変わることへの願いもありますが、この作品ではきっと、自己犠牲、と言ったら言い過ぎですが、誰かの何かが変わることを願っているのでしょう。 (Cocco/少女、の祈り)

2017-08-12

黒髪さん ありがとうございます。 作中の少女は恋人ではなく、あくまでも約束をしたという関係を持った少女でしかありません。 僕の他の作品でもたまにあるのですが、「自分を振り返ってしまうような」というのが、書いた自分でも不思議です。 あまりにも個人的な作品ばかり書いていながら、読者に何かを喚起させる、その理由はわかりませんが、それでもそういう結果をもたらすことができたのならば、僕も書いたかいがあったと思えます。 (縁)

2017-08-12

 まず、Powdery Blueというフレーズに惹かれました。粉状の青、とでもいえるのでしょうか、それよりは、映像として、青い紙吹雪がちらちらと宙を舞うような、そんなイメージが浮かびました。  最初の二行、ふと不思議なつくりになっています。というのも、君の傷から出てきた彼を見ているのは、語り手の私ではなく、君であって、語り手は君の観察者であることがわかります。  YukiGa, Mitaiと言ったのは誰で、Mata, Raisede.と言ったのは誰なのか。前者は君で、後者は彼であると捉えました。というのも、一章はとにかく、君と彼との関係を語り手の立場が観察した結果を描いているだけに過ぎないのだと。例えるならば、好きな人の恋愛相談を受けている私の話、のような。  「君の歩かされた道」というのは、はっとする表現でした。君は自ら道を選んで歩いていたのではなく、誰かによって歩かされていたという、それもおそらく彼によってでしょう。ただ、それが「君を/生かしているということの本質なら」、毒を飲むという、三者関係。  傷がある限り、目に見える形として、君に何かを訴え続けますが、それがなぜ「俺たちを見ろ」と、「たち」という複数形となったのかがわかりませんでした。  そして、二章では「青が暮れてゆく」と、一見夕焼けを描いているような始まり方をするのですが、外部にある青が焼ける姿を体の内部へと、奥深くへと語り手は受容していきます。それは、ただの風景の変遷ではなく、むしろ語り手の内部にもともとあった原型が共鳴し始めたような感覚を覚えました。  「きみが置いていった形見の色」が青色であるという断定はできないですが、ただ、「生まれ変わる青」として存在しつつも、それは「錯覚」であるという。それでも、語り手の中には確かな存在として知覚しているのでしょう。そして、それが錯覚だったとしても、その色が比類ない輝きを纏い、君がいる/いたであろう「そこ」に連れて行ってほしい、という君に対する語り手の欲望が一番表れているように思いました。(ちなみに、この辺でわたしときみがひらがなになっているのは、故意でしょうか)  それでも、生まれ変わる青はおそらく未完成でしか在り得なかったので、「ひとかけらの青」であり、「もうここには居ない」ものです。裾を掴みたかったけれど、掴めなかったのは、私が君を想うことより、君が何かを想う気持ちを思いやっての結果だったのでしょう。それでも、私は君が傷ついていたのを見ることしかできなったのは、何とも言えないやるせなさが伝わります。  最終連は前向きな決意が現れています。 「私はそこへ戻れないことに気がついていた」  「空は眩しい水色で/君が本当にそこへ還ったような気がしてた」  水色がここで初めて出てきます。おそらく生まれ変わった青なのでしょう。そして、その青はまだ世界に触れられていない、生まれたての純粋な青として、純度が高く、透明に近いものとして、水色で在るのでしょう。  それにしても、Powdery Blueというフレーズがとても気に入りました。 (Connected - Powdery Blue )

2017-08-12

 この作品、好きです。正直よくわかりませんが、好きですね。  何がわからないかと言えば、大きな星空・小さな星空・きみ・わたし・あれ・波が何を明示しているのかと言うこと。それはつまり、僕がこれらの名詞を比喩だと捉えてしまっているのだと。そんな必要はなくて、あくまでもこれらのものは比喩ではなく、これらのものとして存在していると思わなくてはいけないのでしょう。  というのも、「波が/波の まま 漏れ」ているように、これらの名詞もその名詞のままに作中に存在しているのでしょう。  ただ、三つの星空がなぜ三つなのか、そこに必然性があるのかと考えたくなってしまいます。その時から謎解きが始まってしまい、終いには捉えきれずに作品が終わってしまいます。そして、わたしはこの作品の世界において、一体どんな役割を担っているのか。  だから、これらの名詞を名詞のままとして捉え、それらの物体が映像として、動きとして捉えることに難はなく、その動きが面白く、それをただ楽しめたのでよしとします。 (units)

2017-08-12

 いくつか鍵になりそうな行をかいつまんでみます。  「傷跡を治せ」  何によって生まれた傷跡なのでしょうか。そして、傷跡というのは、痕跡であり、過去の何かが現在にも存在しているという証であります。その跡を治すということは、その過去を現在から消すということとほぼ同義であり、何かの決別を決意したのでしょう。  「幻想的な攻撃」  空を切る、という表現がありますが、この幻想的な攻撃は行動として実行されたのでしょうか。それとも、想像において実行しているだけなのでしょうか。どちらかと言えば、実行されておらず、想像におけるものだと捉えました。  「覚悟の瞳/陰鬱な眼ばかり」  この辺りが一番鍵になるのだと思います。というのも、結論を急いでしまいますが、この語り手は見る存在であるかのように振る舞っていますが、見られる存在であることへの打破を願っていることが終盤でわかります。自身は覚悟の瞳を持っているのですが、周りは陰鬱な眼を持っており、その祖語への葛藤がこの作品の軸になっているのでしょう。だからこそ、「信念をもう一度持ち始める」必要があり、自分自身へ言い聞かせながら、何かを行動しようと言い聞かせている様子が目に浮かびます。  それらが一気に集約したのが「透明な水槽の中で/観察された私の心の中」であり、水槽の枠で内部と外部の隔たりが示され、見られる存在であることがわかります。  「そして嬉しかった」  張り詰めた空気の中に雪が降り始めるという緊張感の中で、率直に結びつく感情が悲しみでありますが、その逆である嬉しさを感じたのは何故でしょうか。それは、「人に笑われる人格から/変わった」ことによって得られたのでしょう。  上記の葛藤や決意を経て、他者によってあたかもレッテル張りをされた自身の生き方を自身の思いによって変えること。   この作品の大まかなところはこれで捉えられたと思うのですが、実は何気ない気になる一行が垣間見られます。  「あなたが唇を軽く噛みなおす美しさ」  この行の前には「幻覚」ともあります。傷跡=過去との決別とは、①人に笑われる人格への決別、が主であるとも思ったのですが、②あなたと過ごした時間=過去との決別、も含まれているのでしょう。この作品には、まるで群衆のような不特定多数=陰鬱な眼ばかりという他者しか出てこず、自分本位な語り手の思いしかないように一見みえてしまうのですが、この一瞬出てくる「あなた」が特別な他者であるかのように思えました。 (不在)

2017-08-12

 まずタイトルですが、この-に何を入れるのかわかりませんが、なぜこう表現せざるを得なかったのか、想像するに、結論を出したくなかったという思いがあるような、それか、二人だけの世界で終わらせたかったということでしょうか。ただ、作中は「-し合うことができるかもしれないのに」と、まだ可能性であったのであり、まだ実行できていない行動であることが示唆されています。それかもしくは、タイトルと作中の-には違う表現が入るかもしれない、そんなことを考えました。  作品は、わたしによる君への一方的な視線で描かれています。つまり、君がわたしをどう思っているのかはわからない。それでも、一度だけ、君のくちびるの形を賞賛して、君に触れようとすると、おそらくはたかれてしまっています。これが君がわたしに対しての思いが読み取れる唯一のヒントです。(ちなみに、冒頭のわたしだけがひらがななのは、何か理由があるのでしょうか)  そして、最初に書いた「-し合う」の意味。私は君を「-す」ことはできているけれど、それが「-し合う」ことができないのは、君が私を「-して」いないから、「-し合う」と合うことができなかったのですね。  地上にいるままでは「-し合う」ことができないから、天に昇ることで希望を抱いていますが、結論を急げば、私は「地に埋まる骨」であるから、天に昇ることができずに「-し合う」ことができないのでしょう。  「がらすの国の王子様」という表現。あくまでも僕のイメージですが、何かをがらすに喩えるのは便利ですが、僕は綺麗なものだとは思っていません。それは、形を変えることも色を変えることもなく、また、動くこともなく、何も変わることのないままにただ壊れる・無くなる瞬間を待つだけの存在だからです。ただ、君は「がらすの王子様」ではなく、「がらすの国の王子様」であって、ただのがらすではなく、がらす界の王子様なのです。それはそれは、言うならば、がらすの中のがらすであって、よっぽど特別なのだと感じました。  最後は温度差のある食べ物によって、君と私のいる世界の違いを描いているのですが、それこそ、食べ物を用いて、天に在るがらすと地上に埋まる骨が感じるであろう、気温・地温の身体感覚の違いが鮮やかに描かれていると思いました。 (こんなに-し合っている私と君は)

2017-08-11

 一行目から何か惹かれました。双子少女の欠けら、まるで、双子のうちの一人が欠品であるかのような。むしろ、人は誰しもが何かが欠けており、完璧な人間はいないわけです。多少目が悪かったり、耳が悪かったり、では、この欠けらは何が欠けてしまっているのかと。そして、鳴く。泣くのではなく、鳴くのは、まるで動物だか、物です。もう一人は、それを憐れむのではなく、離れています。そして、一枚の窓硝子の表と裏からそれぞれを見ているような、そんな風景を描きました。ただ、それが夜であったら、窓ガラスの向こうにいる相手を見ているのではなく、ガラスに反射してしまっている自分を見ているんではないか、と映像的にはこの方が面白いと思いました。  そして、その二人を生んだであろう母親もまた欠点があり、腹が腫れています。鳥羽を毟ったので、煮詰めているのは、鳥の身でしょう。いずれにしても、母親像として、食事の用意という役割を全うしています。  そして、それを煮詰めるための鍋は鳥を煮詰めているのですが、鍋もしくは鍋の文様から砂粒というイメージへ飛躍します。傷口は誰の傷口か、双子処女の欠けらか母親か。  双つある顔は、同じ時を流れ、お互い見合っていた窓硝子の境界線が取り払われ、一体化していくイメージで、最後には腸が同時にくすぐったくなる。これは、双子少女の腸が同時にくすぐったくなっているだけでなく、腫れた腹を持っている母親のくすぐったさが双子少女に届いたかのような気がします。  映像作品として、何か撮ってみたいような衝動にかられました。 (がらす)

2017-08-11

 着想が面白いと思いました。人の顔はもちろんのこと、人の髪の毛もまた個性が出るはずものですが、そこに着目するだけでは凡庸ですが、髪の毛と日付を組み合わせ、また、「みくろんのろんど」というつい声に出したくなるような造語によって彩られているのが独創的です。それに、みくろん、ですから、とても微細な踊りなのでしょう。目で見てもわからないような踊り。  そして、「わたしは昨日に掴まったまま」とあります。日々が髪の毛に絡まるだけでなく、髪の毛の所有者であるわたしですら、日々に絡まっているのです。  僕自身、寝ぐせがひどいのですが、その寝ぐせが昨日が今日に残した産物であるという着想を得たことがなかったので、これは一つの気づきとなりました。  髪の毛に絡みついた日々を櫛で梳かすことによって、振りほどく、そして、その髪の毛が白くなっても無くなっても、みくろんのろんどを踊り続けるということ。つまり、日々が髪の毛に絡みつくことは無常であることで、それと同時に髪の毛が無くなっても、みくろんのろんどを踊り続けるということは、日々がわたし自身に絡みつくということもまた無常であるということでしょう。  思えば、今日とか昨日とか明日とかは、時間の単位でもあって、みくろんは長さの単位でありますが、いずれにしても、目で捉えられるものではありません。ただ、わたし自身が感じるものとして存在することができるものなのでしょう。その存在を確かなものとしてするために、「みくろんのろんど」という言葉が必要になったのでしょう。 (みくろんのろんど)

2017-08-11

 一読して、考えなければならないと思ったのは、この語り手がどこにいるのか、ということ、空間と時間の拡がりです。  「沖縄の島を連想させ」ているのですから、沖縄とは違う場所にいて、沖縄のことを想っているのでしょう。天井とブルーハワイという構図からヘリコプターと青い海という飛躍は鮮やかです。  「迷彩模様」のくだりは、語り手の一方的な視線や想いであり、兵士当事者は何を考えているのか、その想像はなされていません。ただ、語り手と兵士が同じであるのが「指で数えた分だけ年を取る」ということ。だからこそ、誰しもがするであろう「誕生日にケーキを食べましたか?/好きな唄は歌いましたか?」ということを確認したくなってしまったのでしょう。  沖縄の音楽を聴いている時に吹いた風を膨よかだと感じているのも、沖縄とは違う場所にいながらでしょう。そういった当たり前の風がいつもとは違って感じる時、たんぽぽが綿毛を飛ばすのもいつも吹いているような当たり前の風でありながらも、その意味合いが違って見えてくる、この表現もまた鮮やかです。  想いを巡らしている最中、その思考の旅の終わりを告げる合図が「プロペラは泊まりかき氷は溶けた」ことであり、その展開がわかりやすいです。  「手拍子で閉める海の家の鍵/来年まで誰が預かるだろう?」とありますが、勝手ながら僕のエゴをぶつけてさせてください。この語り手はおそらく、海の家の天井にあるプロペラやそこで食べているかき氷を見て、沖縄のヘリコプターや青い海を想像できる人です。では、夏の間だけ開店している海の家は、秋・冬・春になると何をしているのでしょう。そこに存在し続けて、来年になればまた開店するはずでしょう。だからこそ、「来年まで誰が預かるだろう?」という想像が働き、この想像をすることが僕は好きです。ただ、もっと想像して描いて欲しかった、というのは僕のエゴであり、そうすると全く違った作品になってしまいますから、これはこれで、こういった想像ができる人がいるということで安心しました。  もしかしたら、この海の家のオーナーが沖縄出身であったり、というより、この場所が一体どこであるのかだったり、他のお客はどこから来て、何を食べているのだろうか、この語り手だってどこからか来ているのか、それともご近所さんなのか、沖縄は異郷でしょうが、海の家もまた特別な異郷であるような気がしました。  最後の最後になって、いや、語り手はどこかの海の家にいるわけではなく、沖縄本島のどこかライブ付き居酒屋にいるのではないか、とも思ってしまいました。 (みゅーじっくはうす)

2017-08-11

 高架線の下を歩く男。高架線が在る目的は、電車を走らせるためであり、それも踏み切りをつくらずにして、人間の通り道の邪魔をしないように、利便性があるものです。その目的を果たすための高架線は、何故か詩情をもたらすのでしょう。  「軒先で家族が何かしている/じっと見つめている 誰が…」という二行が、いつもの景色が違って見えることを示唆しており、それが不気味な雰囲気を醸し出しています。というのも、家族であれば、それが誰であるかは一目瞭然であるはずですが、その視線の持ち主が「誰が…」とわからなくなっているからです。  雨の比喩を援用して「電車の音が降って」きて、そして、「落ちてきた神様の声」は電車の音にかき消されており、神様の声は言葉として存在できるかもしれないですが、男の耳に届かなければ、最初からないものと同然です。そして、男にとっては、神様の声より電車の音が身体感覚として知覚できるもの、言い換えれば、身近なものであるということでしょう。  そして、「男は高架下の音を/家路の一つとして愛していたのだ」という思いが明かされます。  繰り返しになりますが、高架線は電車が走るための道具です。そういった当たり前の日常は淡々と繰り返されます。だからこそ、「彼の足音」は電車の音にかき消されるのであり、絶対的な存在だと思われる「神様の声」ですら電車の音が書き消すのですから、「彼の足音」は消えざるを得ないのでしょう。 (高架下)

2017-08-11

VIP KIDさん 冗長的と言えばそうかもしれません。ただ、これらのことを表現するためにおそらく結論はなく、生まれたままに書き上げました。 Coccoという、どうしても固有名詞の持つ引力にひかれてしまうのは計算違いでした。 希望というのは、語り手にとってなのか、少女にとってなのか、Coccoにとってなのかで印象が随分と違うように思われます。 花緒さん Coccoの歌を聴いた時、どうしても祈るということを考えざるを得なかったのです。 それを何とか表現したく、また僕自身がかつて祈る人として熱心であったことを盛り込んでみました。 田中修子さん 僕としては、知らない人にも楽しんでいただけるようにしたつもりでしたが、それでも、知っている人だとどうしてもより楽しんでいただけると思います、ありがとうございます。 (Cocco/少女、の祈り)

2017-08-04

田中修子さん 僕はWord(一行40字、横書き)で作品を書いてから、それをコピペしているだけです。 本音を言えば、縦書きの方が読みやすいですし、このサイトのレイアウト上、一行がもっと短い文字数であると嬉しかったりしますが、投稿先によって、そのWordの設定も縦書きにしたり、横書きにしたり、一行あたりの字数も変えています。 場に合わせて変えています。 だから、ここのレイアウトが変わったり、投稿先によって、僕の書く作品も全く異なると思います。 レイアウトによって作品が縛られるのです。 (縁)

2017-08-01

花緒さん、天才詩人さん、まりもさん コメントいただきありがとうございます。 僕が予期しない方向にまで話が発展していったような気もします。 天才詩人さんの 「この作品はまとまりを欠いていて、それが豊かさになっている。ずるぷかるくんの話かと思えば母が出てて、次の兄の話、将来の結婚相手の夢想。まったくまとまりがない。で何がこのまとまりのなさを束ねているかといえば、作者が自分をとりまく人々に対してうまく言いたいことが表現できない。関係性を器用にこなせないという「葛藤」なわけです。作者の逡巡がメインシャフトとなって、ばらばらなナラティブをまとめている。」 ということ、これはポイントだと思います。 まとまりがない、というより、器用にこなせない、というよりも、これがむしろ日常であると僕は考えています。 仕事をしていても、日常で生活していても、自分が見聞きするものというのは、元来まとまりがないものばかりではないでしょうか。 それを自分の興味によって掬いたいものだけ掬うことで、記憶に残りますが、いかにその記憶に残せるか、自分の興味、何でもないことに目を向けられるかが、大事だと僕は信じています。 だからこそ、日常で拾い集めた何でもないことを繋ぎ合わせて、それとなく作品に仕上げます。 器用にこなせないのではなく、そうした何でもないことを人よりも多く集めて、明確なテーマとして一義的に落とし込むのではなく、そうした日常を作者(author)という権威(authority)によって、わざとそれっぽく仕上げたにすぎません。 その日常に興味を持つ読者もいれば、何も感じない読者がいることを承知で、僕は読者に投げかけています。 どこかひっかかればいいと、なにか想像がふくらんだり、なにか感じてくれることがあればいいと。 ただ、それではただの日記にすぎませんから、無意識的にそれが結びついたのは、まりもさんの言う「煙草」のおかげでしょうか。 僕が花緒さんのコメントで気に入ったのが、「不在」と「結果的に何かを伝えてしまっている」ということです。 僕が書く上で「不在」がしっくり来ただけであり、読む上でしっくりくるかは別問題だったのでしょう。 ただ、僕は「不在」を書きたいのでしょう、前作「ということ」で書いた最終連の引退後の様子があるように、自分たちが見聞きした世界のその後や共時的に何をしているか、そういったことが気になるのです。 ごくありふれた感情で言うならば、「好きな人は今頃何をしているんだろうか」ということ。 この作品で言えば、働いていない時のずるぷかる君が何をしているのか、「兄より.txt」を書いた時の兄は何を思っていたのか、これらは語り手が見ていない世界を思うということ。 つまり、「不在」であることは自明であるかもしれませんが、「不在」を思うことを作品にする、それが今までの僕の作品でも言えることであったので、それを指摘した花緒さんのコメントにしっくり来たのです。 蛇足かもしれませんが、作品の読みというのも作者や他の読者にとって、言わば「不在」です。 それをコメントという形で表明することによって、作品の読みは存在できるわけであって、それをわざわざ書かなくてもいいというわけではなく、書くことによってこそ意味があると言えるのではないでしょうか。 他に感じた人もいるかもしれませんが、花緒さんが最初に書いてしまった以上は、この作品に「不在」が適用できるかどうかという不在していた問題を提起した花緒さんのコメントが結果的によかったのではないでしょうか。 (縁)

2017-08-01

夏生さん 様々に入れ替わる登場人物に読者が置いてけぼりにならないかと心配ではありました。 兄の真似をするしかできないとは、多分何かに書いただけであって、作中では兄の真似をする行為は全く描かれていないので、「脱皮」したわけではなく、今になって気づいたのですが、「弟より.txt」というものを書いてしまうこと自体、兄が「兄より.txt」を残した行為の真似であるので、実は脱皮できていないんじゃないかと気づいてしまいました。 (縁)

2017-07-23

天才詩人さん 「ずるぶかくんの目線をギミックとすることで日常をポリフォニックに再掲示し直す、秀作として読みました。。」 「手垢のついたものを、新規なものとして「繋ぎ直す」という。自分が現在巻き込まれている関係性を一旦緩めることが必須である。」 という二つの部分は、僕の読みがあまいのか、矛盾しているように思えました。 多分、ずるぷかる君の目線は語り手が推測するしかなくて、語り手が見たずるぷかる君が全てであって、読み手も語り手でさえ、きっとずるぷかる君の目線に立てないのです。ただ、想うことはできることが提示されています。 「繋ぎ直し」というのは、適格だと思いました。一見無関係に思えるばらばらの出来事を一人の主体によって結びなおす。無論、一人の主体が経験したことを改めて並べているだけなのですが、それでも、「繋ぎ直す」という作業によって、多層が多層でありながらもその僅かな重なりが見えてくる瞬間が僕にとっては快感ですね。 方法論として意識しているわけではないのですが、西脇の言う「超現実主義詩論」に通じるものがあるでしょうか。 (縁)

2017-07-23

まりもさん 作品を拡げた読みがしっくりくるような、こないような感じです。 「兄、は、きっと、煙草を吸う(なにかに依存しないと生きていけない)こと無しに生きていける存在なのでしょう。弟は、その兄に憧れている。」 きっと、弟は兄に憧れていますが、その辺の描写は全くなく、ましてや兄が煙草を吸うかどうかの描写も全くありません。おそらく、ここに描かれている兄弟は兄は弟に、弟は兄に依存しているのではないでしょうか。それもお互い遠回りの意思表示でしか通じ合っていないのですが、煙草を吸うことがこの作品において何かへの依存の象徴として使われているわけではなく、我ながら意味のわからない「煙草を吸い始めたのは少女との約束を守るためだったこと」に使われているように思えます。家族の前で吸う必要がなかったのは、それが少女との約束を守るためであったからだったと述べるのはずるいでしょうか。 「ずるぷかる君、がいない、見当たらない、そのことが、煙草を買わない、煙草を辞める、きかっけになるのか?」 なので、上記のことで、ずるぷかる君が見当たらなくても、少女との約束が煙草を吸う吸わないに影響を与えたのだと書いてあるとおりだと思っています。その約束=過去によって導かれた、現在にいるのがずるぷかる君でしょうか。 (語り手の)過去=約束→(語り手の)現在=ずるぷかる君→(ずるぷかる君の)過去を想うことができる。つまり、少女との約束は煙草を吸う目的であり、それが同時にずるぷかる君に会う手段でもあって、ずるぷかる君に見当たらなくても、少女との約束が破られない限りは煙草を吸う気がします。 「生きてて良かった」の解釈については、「僕はあなたにこの歌を聞かせたいのです。どっかの歌手が歌っているのではなく、精一杯僕があなたに歌いたいと思います。「生きてて良かった」と。」の通りですね。自分で言うのもあれですが、この「生きてて良かった」の主語が弟なのか、兄なのかによって全然意味合いが違うんだと思います。そこを隠してしまったので、皆様にお委ねした次第です。 (縁)

2017-07-22

花緒さん いやいや、発見をいただきました。人物が不在であるということ。それは導かれるべくしての結果なのです。というのも、僕は、「ということ」という作品でも書いただけでなく、身の回りの人たちも総じて、自分と一緒にいる時間より、むしろ、自分といない時間もどこかで生きていることを想像するのが好きなのです。ということは、必ず不在である時に相手を想うことが僕の詩、僕の生の根源にあるということに気づかされました。 そこに合わせて、ホタル族の話は単に1~2日前に母から偶々聞いた話を用いたのですが、「結果的に、他人に何かを伝えてしまう」というのがなるほどで、僕にとってのずるぷかる君がそうなんですね。 そして、深く深く潜ると気付く他者のメッセージというのは、言われて自画自賛、偶然の産物ではありますが、こういった手法はあまり用いられていないのではないでしょうか。 この2つについては、僕自身が僕の作品への気づきを得られました、ありがとうございます。 (縁)

2017-07-22

祝儀敷さん すらすらと読めたのは形式的なことで、内容面では何も残らなかったのでしょうか、とちょっとした猜疑心を持ってしまいましたが、ポジティブに捉えたいと思います、ありがとうございます。 淵木さん てんでばらばらなことをつらつらと書いてても多分意味がないんだと思います。それとなく、なんとなーくつながりがあって、それを繋ぎ合わせることで、なにかしら生めればいいといつも思っています。それも僕がどう感じたかだけでなく、誰かとの場面や誰かのセリフによって感じる何かですね。 蛾兆ボルカさん 難しいことをやっているように見えましたか…、起きた出来事を単純にどストレートに並べただけですね。何かを思い出すきっかけはふとした瞬間であって、そのふとした瞬間が何であったかを後になってねつ造するにあたり、できるだけ自然にねつ造できればと思いました。記憶もねつ造だと思います。それにしても、この作品にコメントを書いていただいたのも、この作品の前髪を掴んでいただけたということですね。 (縁)

2017-07-19

5or6さん なんていうか、限りなく身近な出来事をいかに読み物として成立させるか、と考えますが、でも、この作品に至った結果として多分どストレートに書くしかなかったんだと思います。そういう点で毎回挑戦ではありますが、ある意味読者を信頼して投げるしかないですね、生きてて良かったです。 仲程さん ありがとうございます。最終のメッセージは当初なく、その前で投稿しようと思ったのですが、それだと何かフックがないような気がして、蛇足になるかならないかと葛藤しながら付け加えてしまいました。この作品を好き勝手にお持ち帰りいただき、好きなところだけつまんでいただければと。 完備さん 「良い」以外に出ないというのは、それだけでしかない作品でもあるということで、ただ、ポジティブに捉えたいと思います。チャラチャラした文体というのがこういうものなのか、と、ただ自然に出た言葉なので、僕がチャラチャラしているということでしょう、生き方を変えなければ文体も変わらない気がします。ご感想は、誉め言葉として受け取ります、ありがとうございます。 (縁)

2017-07-17

 冒頭に俗物が置かれているだけなのですが、むしろ詩の世界がぐっと拡がりを感じさせます。一人暮らししている小さな部屋に二人で一息ついている世界、これは僕の勝手なイメージですが、そのイメージがこの二行だけで呼び起こされました。  僕から見た君がどうであるかが書かれているのですが、そこには君の内面と外面が交差しています。「君は白痴」という内面、「胸はまぶしく/指先は枝のようにほそり」という外面。いずれにしても、僕は君を弱弱しいものとして想っているのでしょうか。  「僕は今日さえ穏やかに住む」ことから、これらの前段が当たり前かであるような日常の風景であることがわかります。無邪気な笑みもきっといつもの風景だけれども、そういったものも吐息によって攪拌し、部屋の水温に溶け込んで、その形は消えてゆくものです。  そして、君は白痴であるだけでなく、「怠惰だった」と。その怠惰を自らに課すのではなく、君に課すということが、どのような意味を持つのか。自らに対する価値判断であれば、僕は何となくわかるのですが、他者に向かって「怠惰だった」というのは何だか残念、もしくは無念の情があるように感じました。  笑い、浮かれて、泣くというのが「泣きたくなり」とあるので、そうはできないからこその欲望なのでしょう。つまり、語り手は「こころ」からの感情表現を望んでいるのでしょう。君はこころからの感情表現を出さない、つまり、表情に出さない=表に出さないことがきっと語り手にとって不服だから、そのことを「怠惰」だと述べているのだと捉えました。 (怠惰)

2017-07-16

 自分の周り=小さな世界で起きていることと自分の知らない場所=大きな世界で起きていることが交差しています。日傘を差していること、扇風機を回していること、人混みの街を歩くこと、これらはいずれも身の回りの小さな出来事ですが、それらが、水のないプール、小さな波(海)と結びつくことで空間が拡げられています。特に、扇風機を回すことが「小さな波が立つのを待って」と捉える視座が新鮮に思えました。  そして、織り姫と彦星の約束という大きな世界を日傘の中という限りなく小さな世界と重ね合わせ、そこが「狭くて広い惑星」となる拡がり。タイトルだけ見れば、壮大な世界を思い描くのですが、むしろ描かれているのは小さな世界の壮大化した様子なのでしょう。  そして、語り手とあなたは平行線で交わらないのではなく、いつかどこか遠い遠い先で交わるであろうという願いを込めることで、「二人は光になった方が良い」と「傘の中でなら素直に言える」という帰結に至るのでしょう。このイメージがあるから、小さな世界が壮大な世界と結びつける必然性を成り立たせています。 (惑星の涙)

2017-07-16

 少女を少女たらしめるものは一体何でしょうか。年齢によるものが大きいと思われますが、それだけでしょうか。  「停止線で止まれなかったから」と、止まれなかったのは何か理由があるはずです。それが外部にある不可抗力だったのかどうか。それにしても、止まれなかったからという理由づけはいわゆる言い訳でもあります。  「安っぽく光る茶色」は、茶髪に染めるという行為を揶揄した表現でしょう。キャンドルサービスという祝い事と対比して、まるでその光に髪色が照らされているかのように忌むべき出来事として染髪が描かれています。  終わりは微妙に表現が異なっています。「止まれなかった」から「止まらなかった」に。この「れ」と「ら」の違いに注目すべきであって、さきほど「止まれなかった」ことを言い訳だと評したのですが、「ら」への言い換えによって、そのことが自らの意志によって選択したことだったのだと思わされました。  最後に「終わりの無い色遊び」というのが主題になっていると思うのですが、染髪やら朽ちていく記憶やら愛の真似事やらという色遊びがあり、これらの出来事をまとめて色遊びと表現しているこの作者こそが実は最も色遊びに長けているのではないかと思いました。 (少女至上主義)

2017-07-09

 切断された性器はもはや用なしです。食卓できみに噛み千切られてしまったのでしょうか。  食卓は小さな世界のメタファー。そこから空間が拡がり、人を乗せることのない貨物列車が走る情景。もし貨物列車に窓があればそれこそ用なしです。その気づきが新鮮でした。  この作品が語る主題は「計測」なのでしょうか。それがおそらくタイトルにも表われているような。用なしになったものはその存在感を失い、ただ物質としてそこに存在します。物質として存在する以上は、形だけがそこにあります。その形を保つための神経をかろうじて持つという切迫感があるように思えました。 (mapping)

2017-07-08

 一行一行の意味を捉えようとして、一行ずつ分割しながら理解しようとすると理解が難しいのですが、読み進めていくと連関性があることに気づき、きちんと構成されていることがわかります。  腕がぎちぎちいう、という日常的な語句から始まり、なぜだろうかという率直な疑問を解決しないままに「それがどうした」とやり過ごされます。ただわかるのは、自らの身体を自ら切り離して対象化し、「あなた」と呼びかけて労っているということ。  そして、場面がいきなり展開され、目には見えない脳内の作用が語られます。それが「劇薬」のおかげであり、それが現在する薬なのか、比喩としての薬なのか、いずれでも構わないと思うのですが、ラッキーマンという象徴を用いて、外部を取り込んで自らの身体の拡張を図る様子が描かれているのでしょう。それは薬を服用することと同義でしょう。  薬は外部を取り込んで身体を拡張すること、それはつまり自らの身体を自らによって変えるということであり、それを自傷という目に見やすい行為として、いわゆる根性焼きをする様子に置き換えられています。当初は北斗七星だなんて冗談によってやり過ごせたであろうが、今となってはただの混沌となっています。  そして、そんなことをしてしまった自分を二人称化した「おまえ」がいるということが告白されています。「おれ」が壊せるものは「おれの身体」であり、その方法が薬・自傷行為であるということ。その「おれの身体」は父母から確かに生まれたものですが、その父母からの血脈を感じられないでいるのでしょう。「おれ」は「おれの身体」しか壊せるものしかないことから、「おれの身体」に対する全能感=支配を表していると同時に、たとえば「父母の身体」を壊すことができないですし、それは「おれ」の外部にある人間との関わりを持つことができないことを意味するのではないでしょうか。  最後にまたトロツキーという象徴を用いて、「おれ」を対照化しています。「悲しい色」が何色であるかわかりませんが、きっと「おれの身体」を弄ることができる「おれ」だけがその色を知っているのでしょう。 (INTERNATIONAL HIT MAN BLUES)

2017-07-08

花緒さん 不思議なのは、「なかたつさんらしい一文」をそこに感じたことです。 何でもない一行ですが、どのあたりに僕らしさを感じられたのか…。 それと、あくまでも僕にとっての話ですが、スピッツは普通の女の子が好むものではなく、サブカル好きな女の子が好むものだと位置づけています。今時スピッツを好んで聞く女の子はそうそう多くはないと思っています。 胎内回帰願望もなく、母親から見た僕を描き、かろうじて孤独を受け入れるわけでもなく、単にきみへの応援歌だったのですが、その辺は失敗だったと言わざるを得ないですね。 他者としての女性は根源的なテーマであることは間違いないです。それに悶々とすることで作品が書けています。 まりもさん 後半部分だけだったら、この作品が成り立っていたでしょうか。 僕は前半があったからこそ成り立ったと勝手に信じていたいですが…。 最終行で書いていただいたとおりですね、僕が感じている世界をきみに重ねるというアナロジーによって、言うなれば、身勝手な妄想によって、きみを救いたいのだと思います。 あとは単純に意味としても、映像としても想像していただけたのなら幸いです。 (きみを思い出すうた)

2017-06-29

 名前をめぐる作品。ここに固有名詞が出ることはなく、街中に在りがちな物が乾いて動く世界。それを描写するために、特別な名前を必要としない。  この作品の主題が名前にあると思わされてしまうが、実は違っている。言うならば、ある物とある物らしい物との対比であろう。  「私であった人の/私へ曳かれる眼差し」というのは、今の私を眺めているかつての私の眼差しであり、「かれの身体が裏返り、/まぼろしを/告ぐるはやさしい同型射。」というのは、まぼろしの正体が裏返ったかれの身体であるということ。かれの身体はどこかにあるはずだが、おそらく私は、その身体が裏返った結果としてのまぼろししか見ることしかできない。  視覚や聴覚には名前が必要ない。それらは原初の感覚として語り手に感じられるものであり、それをわざわざ名前に還元する必要がない。そのために「畸形の花/びらに似た、包装紙」があり、「ふつうの、雑草のにおい」がただそこに在る。それらはやはり、ありふれた世界の一部であるから、特別に命名する必要がない物として作品を彩っている。  果たして、私は「それ」を呼ぶためにあった名前を取り戻したいのだろうか。その手掛かりとして、お前が意味するまぼろしを求める。まぼろしとは、裏返ったかれの身体である。細部に注目すれば、「それ」を、呼ぶためにあった名前よ、と、過去形になっている。かつて名前が与えられていたであろう「それ」が今となっては「それ」になってしまっている。それを取り戻すために、「お前」が必要であり、それとも、名前などもはや必要ではなく、ただただ「お前」が明示してくれる世界=まぼろしを、名前ではなく、その中身=意味だけが必要なのではないだろうか。畸形の花や雑草のにおいに名前が必要ではないように、「それ」が意味する内容だけを欲しているのではないかと。  ある物とある物らしい物との対比とは、私であった人と私の対比やかれと裏返ったかれの対比もあれば、その物が指し示す内容=意味=感覚とその名称との対比も含まれうるだろう。 (names)

2017-06-29

 じんわりとした鈍い痛みが私をゆっくりと撫でるのは、愛にも似ているのでしょうか。つまり、語り手にとって愛とは、じんわりとした痛みが伴うものであることがわかります。そして、赤い血が私が出ることは、一カ月かけて私を更新することで、私は私でなくなるということ。赤い血=私の産物であり、私の一部であり、私そのものでもあるとも言えるでしょうか。仮に赤い血を私の一部だとして、私は私の一部を失うことで、私を更新し、私でなくなっていくことになります。  続くお風呂上りの様子が(その時が一日のうちで一番美しい。)というのが、惹かれる表現でした。そして、唐突に現れる「彼」は一体誰なのか。それが誰かわからなくても、私にないものを持っている存在であり、私は彼に対して「頂戴」「欲しいの」と私にないものを強請ります。そうすることで、失くしたものを確かめるのです。  「それは、恋にも似て。/それは、愛にも似て」と、その「それ」が一体何であるのか、きっと、「失くしたものを確かめる」ということが恋や愛の原初であると推測しました。そして、失くしたものを取り返すためにも少女たちは世界を食べるのでしょう。それも砂糖水に浸して、甘くした世界を。  ここで作品の展開は、「私が失ったもの」から「世界」へと展開されるのです。私が失った私の血は繰り返されて吐き出されるものであり、直接的に言えば、一カ月のサイクルで生まれる卵子と吐き出される卵子であって、それこそが私が孕んでいる生と死のサイクルです。私が孕んでいる生と死のサイクルをジャンプ台にして、世界の生と死のサイクルへ移行されます。  「世界は明日亡くなる」のは、四十億の少女たちが食べ過ぎてしまったから。  「世界は明日生まれる」のは、四十億の少女たちが吐いてしまうから。  少女たちは(世界を)ついつい食べ過ぎてしまうから、胃袋の許容範囲を超えて、(世界を)吐き出してしまいます。既にある世界は、少女の胃袋を通って新たに生まれるのですから、全く同じ形で再生されるわけではないのでしょう。明日の世界があるのは、少女たちが世界を飲み込み、吐き出すことによってあるという世界観。吐き出してくれる少女たちに、何か感謝をしないといけないような、そんな気持ちになりました。  最後に、雑感なのですが、女性は生理の前後だか何だかに、やたらと物を食べたくなるという話を聞いたことがありますが、あれは本当なのでしょうか。作品とは関係ないかもしれませんが、そんなことを思い出しました。 (砂糖水に浸して)

2017-06-29

 誰しもが誰しもなりに、他人には譲れない宝石(のようなもの)を自分の中に孕んでおり、それは大切なものです。その宝石は大切なものでありながらも、イメージとして、角ばっています。宝石は大抵眺めるものとして在るのですが、ぎゅっと握りしめることで、その角で人を痛めつける道具にもなりうるのです。  なぜ、その宝石を握りしめる必要があったのか。それは、立ち尽くしている人に対しての罪悪感をごまかすためです。「黒目を震わす」「球面をきらめかす」と、目が潤んでいる様子がわかります。それは、心が作用させたことですが、内的な要因で生じた目の潤みを、外的な要因=宝石を握りしめることによる痛みに変換することで、やり場のない罪悪感をごまかそうとしているのではないかと捉えました。  最終行は、神様がそんなごまかしに気づいているからこそ、指をさして笑うことができるのではないでしょうか。  そもそもこんな罪悪感が生まれたのは、「わたくし」と「立ち尽くしている人」との関係性が重要になるのでしょう。その関係性を解きほぐすことはできませんが、立ち尽くしているのは、街中で通りすがりの知らない人なのか、大学のキャンパスで見かけた知り合いなのか、何かを喪失した恋人なのか。そのいずれかはわかりませんが、「わたくし」は、その立ち尽くしている人の立ち尽くしている理由を思うことができる存在であることは間違いありません。そして、それに痛みを感じられる人であり、勝手な推測がそこにはあるかもしれませんが、人の気持ちを読み取ろうとする意思を感じられました。 (手のひらの宝石)

2017-06-29

(二次創作として) あの人が来れば、雑貨店で働く私の中にもう一つ虹がかかる。つい手を施したくなるのだが、要望がなければ私は動けない。どこから来て、どこへと帰っていくのか。あの人が来る一時、店内は雨上がりの様相に浸る。灯りは雑貨の輪郭を照らし、虹を生む。時よ、止まれ。そして、誰も来るな。虹よ、消えるな。消える、な。ああ、あの人はどこかへと帰っていく。そして、あの人はきっと、ベランダの植物を枯らしてばかりいるんだろう。今日もまた菓子を買っていった。誰かと食べるんだろうか。灯りは雑貨の輪郭を曖昧にし、あの人が開けた扉の外では雨が降り続けていた。 (Grimm the grocer)

2017-06-24

 雑感として思ったことをつらつらと。  思えば人はみずから生まれたものであって、生きていく中で水分を補給したり、失ったりしながら生きていながら、さいごにはみずを失った物へとなっていく。それを「かえる」と言った表現で喩えることもありますが、みずから生まれたことに注目すれば、「かえる」のではなく、みずを発散しつつ、吸収しつつも、生まれた場所に「かえる」ことなどできません。  「なつかしい みずにぬれた/髪の毛にくるまれて。」という表現が上記のことを思わせました。肌理というのも、人が持つ水分量によってその表層を変化させるものです。その水分量が物をふやけさせたり、ひびわれさせたりもします。  語り手は「いま・ここ」にいることで何かに恐れているのでしょうか、こころと足がわずかにふるえています。「いま・ここ」ではないどこかを求め、歩み進めることで、こころと足が互いによろこぶ場所へ「気をつけて、/いってらっしゃい。」と呼び掛けられています。  単に、モチーフが好みでした。星空、輪郭、血、水、髪の毛などなど。私がここに置いた作品(あの夜の街で)を思い起こさせました。 (足)

2017-06-24

 語り手が望むのはじわじわと感じる日焼けですが、その欲望とは裏腹に、日差しは白さを浅黒さへと変えます。日焼け止めを塗ったあとの肌が嫌いなのは、あの独特な匂いがもたらす謎の成分への不信感ではなく、じわじわ痛むような肌感覚を伴わない日焼けを人にもたらすからなのでしょう。  二連目は書いてあるとおりそのままで、あなたの汗と私の汗が同じ汗でありながらも、何か違うと感じてしまうネガティブな自意識の表れでしょう。それをきっかけとして、「夏が嫌いだ」という一つの結論が導き出されています。そして、そのことを元に、夏から派生する様々な物象も嫌いに見えてしまいます。  最終連は身体感覚の乖離を表しているのでしょう。痛い、熱い、冷たいといった身体感覚はダイレクトに人が感じるものですが、その感覚を「他人事のように感じている」のは、まさに心ここにあらずと言えます。では、一体何に想いを寄せているのでしょうか。  語り手は激情を孕んでいます。その激情は、夏が嫌いだ、という想いであったり、目から全身へ伝わった嫌悪などです。化学反応が起こりそう、とはぐらかした表現によって、実は語り手が見ている世界に化学反応がもたらされています。透明感を失った緑と青が何を指しているのか具体的にはわかりませんが、そういった綺麗な風景が語り手にとって嫌悪をもたらすものになったという変化が化学反応です。そして、そのことで夏が嫌いになっています。  実はこの緑と青がとても重要で、グラウンドの芝生と空の色だと想像しました。部活に打ち込むあなたを教室から眺めている私。その両者が流す汗は同じ汗だけれど、でも、語り手にとっては何か違うと思わされている。自堕落という自意識によって隔たりを感じたこと、それがこの作品の核なのではないかと捉えました。 (最高気温36度)

2017-06-24

 作中でも触れられていますが、ハサミは髪を切るだけの道具ではなく、紙を切ることもするのですが、語り手はハサミ=髪を切る為の道具だと思い込んでいることに、髪を切ることへの決意を感じさせます。  自分を変える行為として、髪をいじるということ。性格を変えるのはなかなか難しいですが、見た目を変えるのは簡単で、それも体の一部で、手放しやすく、変えやすいのが髪ですね。  「髪は人生のようだった」という一行が核になっていて、髪は私の一部でありながらも、私=人生そのものであるという比喩。そこから行が展開されていき、髪の起伏に恋や失恋を読み取る着想に魅力を感じます。  そして、私は髪=人生を切る。「女」は失恋をすると髪を切るというのは、失恋した部分だけ、髪の一部だけしか切りませんが、この語り手は「人生を捨てる為」に、失恋した部分だけ切るという目先の目的ではなく、人生=髪を全て切り落としていきます。そして、下には切り落とされた私の人生=髪達が散らばり、さらに髪達はどこかへと歩みだしていく。  「落ちていった少女はだあれ?」というのは、語り手の開き直りを感じさせました。「私の人生さようなら」と決意して切り落とした髪=人生は、私から手放された私の一部であり、切り落としてからはもはや私の一部ではないのでしょう。つまり、もはやそれらは他人であって、きっぱりと私の過去=人生との決別ができた証拠としてのセリフだと捉えました。 (髪を切る)

2017-06-24

 核となる比喩=表現は、風船が割れた音=フィニッシュを告げるピストルの音としていることです。日常生活においてピストルの音に対して馴染みはありません。強いて言うなら、徒競走の開始を告げるピストルですが、すぐに想像させられるのが、ピストルの音=何かを開始する音という構図であり、この作品の冒頭ではフィニッシュを告げる音となっています。  そのフィニッシュを告げられてから語り手は君を想い始めます。率直に読めば、君を失ったことへの想いですが、失うためには既に手に入れている必要があります。語り手は本当に君を手に入れていたのか、そんな疑問が浮かびます。  君を想い、風船が割れる音が今度はスタートを告げる音に変わります。これこそまさに徒競走の開始を告げるように語り手を駆り立てますが、最終連で語り手は走れないのです。なぜ走れないのかを「スニーカーを履き間違えたから」だと言い訳をするのですが、では、スニーカーを正しく履いていたら走れるのでしょうか。きっと、正しく履いていても走れないのでしょう。失意の念にあることをスニーカーのせいにすることで、語り手は何とかやり過ごそうとしている、そんな姿が目に浮かびます。何気ないオチですが、このオチには語り手のやりきれない想いを何かのせいにするしかないという、やり場のない想いが隠れながらも現れている表現だと捉えました。 (ハートブレイク)

2017-06-24

花緒さん 分かりやすさを意識して作っておらず、むしろわかりづらいかと思っていたので、意外な感想でした。 最初3行に対して特にいうことはありません。 あたし言葉はその通りだと思います、もう少し推敲が必要だったかと。 「なんとなく、クリスタル」は知りませんし、オリジナリティとはなんぞやというところで、各作品におけるオリジナリティの差異がわかりません。 というのも読者の判断に因るものが大きく、オリジナリティは作品にではなく、読者の知識に内包されているからです。いや、嘘です、作者にも内包されていますね。 それでも、好意的に捉えていただけたことが伝わり、満足しております、ありがとうございます。 (ということ)

2017-05-30

 一行目から何だこれ!と引き込まれます。でも、自己紹介しようとわたしは、自己紹介の内容ではなく、自己紹介をするための手段であるはずの声にコンプレックスを持っています。そのコンプレックスは強大なもので、「かわいい」って言われても、「うそつき」と相手への信用を持っていません。そして、わたしにとっては、声>かお、であって、かおは手術すればなんとかなるかもしれないけれど、この声は手術しようにも何ともならないと思い込んでいるほどのコンプレックスをもっています。  わたしにとっては、重要な悩みが他人とっては「小バカ」にされる対象であって、生きている限り、その声を変えることもできずに苦しみ続けるしかないことから、「いきるだけ しかばね」であるしかないのでしょう。  ところで、コンプレックスは何故生まれるのでしょうか。そのきっかけとなったのが、「雑すぎ、ひく、きもっ、しねっ」という他者からの評価が種となって、そのことによって生まれたコンプレックスは、自らで水を注ぎ続け、自らが醸成させてしまったことで大きな花を咲かせてしまったのでしょう。そして、その声は「うまれついたもの」だから、「わるかったのは、わたしじゃないのに、」という開き直りの姿勢も見受けられます。  そうした声を持って生まれてしまったと、言わば運命づけられたことに対して、「かみさまは、さいしょから、あたしを、みていないことにきがついた」と述べているのでしょう。  多分、このわたしは、このコンプレックスに立ち向かおうとしていると思うんです。運命づけられたことに抗うことは難しいですが、世界の捉え方を変えようとしています。「たのしい所で かなしいこえを(後略)」の箇所によって、「生き方を真逆に」することへ挑戦するわけです。それでも、コンプレックスによって声を失いつつあったわたしは、一度屍=ゼロの地点に立って、リセットをします。だから、髪を切り刻みます。それは、自らで自らに変化をもたらすということ。他者からの勧めでもなく、他者からの評価でもなく、そういったものとは無縁のところであって、髪の毛に手を加えること。  醸成されたコンプレックスは、きっと自らが自らに対して評価を下すことで生まれるのでしょう。そのコンプレックスを克服するために、自らの意志によって自らに対して変化をもたらすこと=髪を切るということ。それでも、「くさりかけの声」と声は付き物ですが、「せいたい」は声帯であるかもしれないし、わたしという存在そのものである生体でもあって、自らに変化をもたらしたかったというその行為が何か勇ましく思えました。 (屍)

2017-05-28

 僕としては、とても好きな作品であるとともに、完成度が高いと思いました。ただ、どのように鑑賞してよいか、感想を述べればよいか、これが難しいですね。  「天国の残りは青かった」という字面だけ見れば、そのまま意味を飲み込めるような表現ですが、意味を考えてしまおうとするとドツボにはまってしまいます。というのも、天国は概念的な場所であって、その見えないものに対して残り物があるという発想は思いつきもしないことですし、それが青く見えているということ。つまりは、天国は目に見えないけれど、天国の残りは青く目に見えるものであるということがわかります。そして、この作品において、青く見えているものが二つあり、「空は群青色」と「青い海」です。この両者のいずれかが「天国の残り」になるのか、それともいずれでもないのか。ただ、空にしても海にしても、目には見えるけれども、掴みどころのないような概念的な要素も孕んでいるように思えます。天国の残り=空・海ではないかもしれませんが、倒置的に捉えて、青く見えるものの中に天国の残りという表現を託すことができるのではないかと考えました。  さてさて、一度ドツボにはまったところで、この作品で素敵だと思った箇所は「今まで出会った人たちとの距離について考えてみる」ところです。それまでは語り手が見ていた物と物との距離について、観察する者として事物を捉えていたのが、この箇所からは、語り手が事物として対象化されます。相手によって、相手への印象や関心が異なるのですが、そういった思いに関わらず、距離は存在するということ。語り手を対象化するために、語り手とその世界にある事物の距離を示せばいいのかと、そして、そのために舞台の上にぽつんと語り手が置かれている様子。しかし、その舞台の幕が閉じた後、対象化された語り手は自らの意識とは無関係に、机の上に落ちた一粒の雨と事物化されることで、「何もかにもに気づいてしまう」のです。でも、語り手はある一つのことだけはわからなかったのです。机の上に落ちた一粒の雨=語り手を産み落とした存在が一体誰であるのかということが。  改めて「天国の残りは青かった」ことに思いを寄せてみると、きっとこの世界に生きる者は語り手に限らず、机の上に落ちた一粒の雨のような存在であり、そして、誰しもが誰かに涙によって産み落とされているのではないでしょうか。そうした、一粒の雨は、まるで空と海で循環する水のように、人もまた、涙として産み落とされ、産み落としていく存在であるということ。つまり、天国とはかつて産み落とした者達がいく世界であり、天国残りは産み落とされた者達が集う世界であり、一粒の涙が集う世界でもあり、そこには空も海もあって、水が循環する世界であるということを示しているのではないかと考えました。 (距離)

2017-05-28

 夢で起きていることは、夢の中で反芻することなく、目が覚めてから思い起こすことしかできません。そして、それは100%の再生は難しいもので、多少歪曲されているものです。「歯の間のわずかなねばり」や「小さな透明の、いくつもの破片」は、夢の中で食べたものを現実に手渡された痕跡でしょうか。それとも、単に現実世界で口の中に食べ物を残したままに眠りについただけでしょうか。ただ、「同じ夢を見ている」はずなのに、夢の中で食べたものを思い出せないのは、現実と夢との間に越えられない壁があることを示唆しています。  話は結論めいてしまいますが、この詩における食べ物や食事の役割は、夢と現実を媒介するものだと捉えました。魚や牛肉は、ただの生物であって、それを体内に取り込むためには咀嚼する必要があります。それは食べ物に限らず、目で見た景色や耳で聞いた音もただの色や音の組み合わせでしかないですが、それらを捉えた主体はそれらに対して意味を付与したり、記憶したりすることで、一つの型を見出し、腑に落とすのでしょう。  現実で咀嚼し、飲み込んだ生物だけでなく、景色や音などはただの素材でしかなく、それを捉える主体があって、主体の中に姿を変えて残り続けます。「かつて食べたものは/やがて食べるものは/どこまでも透き通っていって/夢と、ここの間に/風のように座っている」と、「ここ」というのはおそらく目が覚めた語り手がいる場所であって、言わば現実でしょう。夢と現実の間に、食べたものだけでなく、これから食べるものも居座り続ける、やはり、食べ物や食事が夢と現実の橋渡しをする役割を担っているのだと思います。  話が戻り、最後に三連目のイメージをどう捉えたかを記します。土に刺さった根っこや光と風をはらんだ葉からは、根っこが枝分かれしている画像・葉の葉脈の画像が想起され、そこから魚の骨の画像と結びつくことで、そのイメージの飛躍がすんなりと通過できます。そして、魚自身が枝葉のイメージを内包しているわけではなく、海水のひだをかき分けていく時の水の流れがまたそのイメージと結びつき、魚の外部へと視点が映り、僕が登場することができるのでしょう。ここでの牛肉の登場も「静かな筋肉の、繊維を」とあるように、当初の枝葉のイメージが通底しています。肝心なのは最後の一行「解いていくのか」でありますが、この点については上記のとおり、食べ物・素材を咀嚼することに繋がるのだと思います。 (食事)

2017-05-28

 まずはじめに、この作品をちょっとどきっとしました。というのも、僕自身が選ばれることを望んでいる人間であるからです。  それはさておき、この作品で用いられている「/」は言わば呼吸であって、手紙でも文章でもなく、声や独白のように自ら確かめながら言葉を紡いでいるという印象をもたらしました。  選ばれないことを気にしている君、と、その君を優しく諭す役割を担った僕、による作品になっていて、ただ、この作品は僕が見た・思った世界で構成されています。最初の二行で不思議だったのが、優しく諭してあげるべき僕が「君/君は今日もまた選ばれなかった」とダメ押しをするように、繰り返して確認していることです。これは君に直接述べているのか定かではありませんが、選ばれなかった君を選ばれなかった君として僕はラベリングをしています。そして、「何も変わらないよ」というおそらく咄嗟に言った言葉は、僕の中で後ほど反芻されるのです。  次には、選ぶ人と選ばれる人との関係性についての僕の考察がされています。選ぶ人には罪はないけれど、選ばれなかった人は選ぶ人を恨む、そう僕が思えるのは、選ぶ人でもなく、選ばれる人でもない第三者であるからでしょう。でも、僕は選ばれなかった君に対しての思いやりとして「何度も何度も選ばれない(中略)ことに耐えられるくらい君のこころは強くなかったみたい」と気にかけている様子が伺えます。そして、選ばれないことは即否定であるという定義があります。  「君は今日もまた選ばれないし明日も明後日もきっと選ばれない否定され続ける」と、ここでもやはり、僕は君を気遣いながらも、君が選ばれない人であるという思いが強くあることが表されています。そして、「書き続けている着飾り続けている」ことがどういった意味をなしているのか。それは、「もう自分じゃなくなっていること」「自分を殺して他の選ばれる誰かになるしかなかったこと」と同義なのでしょう。つまり、君は嫌いなお化粧によって着飾って頑張っているということは、選ばれるための行為であり、同時に、君が君でなくなってしまうことが示されています。 君が選ばれるために頑張れば頑張るほど、君は君ではなくなってしまうこと、それが僕にとって一番気にかけていることなのでしょう。そして、君は選ばれないことに慣れていないから、選ばれるように努力を続けているのであって、選ばれないことに慣れて選ばれるための努力をしなくなったら、君が「何も変わらない」ものになるという冒頭に繋がります。  ああ、そうか、選ばれるための努力をすることは、自分を多少でも変えることであるのか、とこういった部分にはっとさせられました。この作品における僕は君が書き続けることで「知らない誰か」になってしまうと捉えていますが、それでも、この僕は変わり続ける君を追いかけていくのではないでしょうか。(だってそれが僕の役割だったはずだから)という役割は、単に君を優しく諭す役割を担っているだけでなく、もしかしたら君を変わらないように留めておくという役割も担っているのでしょうか。それとも、それは変わらないでいて欲しいという願望があるのでしょうか。それはもう想像の域なのでわかりません。  あと、この作品の面白いところであり、歯がゆいところは、この君は一体いつまで選ばれることに執着するのでしょうか。この文章を書いている僕も「選ばれる」ことばかり考える人間なので、むずがゆさもあるのですが、自戒を込めて、「選ぶ」側にまわることだって、いつだってできると思うんです。僕がこの作品を気になって、コメントを書くことを選んだように。あと、この僕は君=選ばれる人と選ぶ人を考察する第三者ですが、もしかしたら、この僕と君の関係は、君に選ばれたいけれど選ばれない僕の立場も隠れているのではないかと思いました。 (今日の競争)

2017-05-27

 こう言ってはつまらないですが、この作品を一言でまとめるならば、雨後の動きを示したのだと捉えました。ただ、例えるならば、それがシュールレアリスムの絵画のようになっています。  冒頭、ミクロな空間で起こる晴天から、マクロな世界へと映像が切り替わります。スタート地点のカメラが喉の中にあって、口の外へと拡がる空間へと飛び立つように。そして、そこでは、「鳥類図鑑」の中から鳥が羽ばたいています。そして、映像は改めて身体の中へ、胸の中へと移り、おそらく今入ってきたのではなく、元から内包されていたコルク球が蠢いています。再び、映像は身体の外、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」のように、雲から釣針が垂れてきて、気づけばもぐらがいる地上へとたどり着きます。おそらく、これはしとしとと降り続けていた雨のことを指しているように思えますが、この表現方法が単純に面白かったです。そして、終には、地上を歩いているだろう人の左腕に視点がフォーカスされ、蠢く左腕を「さざ波」と表されているのでしょう。それはきっと、「雨垂れ」によって、地上が水で満たされており、その地上より高く、灌木より低くある人の左腕が地上の水の表面となっているから、左腕がさざ波に見えるのでしょう。(萩原朔太郎の作品にも、人ごみ、人のあたまだったかを波に喩える作品がありますね)  この作品の語り手は心情を語るのではなく、カメラとしての役割を徹底しています。意味を伝える作品ではなく、イメージを伝える作品として、純粋に楽しめました。特に釣針がもぐらの鼻先に落ちるところですね。 (鼓と 雨垂れのつづき)

2017-05-27

 いや、はっきり言ってしまえば、このお姉さんについていきたいというか、恋をしてしまいますね。僕は自称Mで、「困らせてあげる」なんて言われたら、「困らせてください、そして、振り回してください」と頭を下げてみたくなります。そして、一体どのような世界に連れて行ってくれるのか、そんなことを期待してしまいます。ただ、最初にこのようなことを書いてしまったのはいけないことで、この作品の結末しか鑑賞していないことになってしまいますね。ただ、それだけインパクトがあって、僕はもう恋をしてしまったわけです、このいけないお姉さんに。どういけないのかって、本当かどうかしらないですけれど、主導権を握っているということ。「さよなら」をするタイミングを知っているのもお姉さんで、それも綺麗な「さよなら」じゃなくて、困ってしまうような後味の悪い「さよなら」なんですね、やっぱりいけないお姉さんですね。  でも、僕は意地悪をしたくなります。こういったお姉さんははったりなんじゃないかって、表面上のいけなさなんじゃないかって。だから、「僕をどれくらい困らせられますか?」と挑発したくなります。こう思うと、僕はやっぱり自称Mでしかないんですね。  「さよなら」を告げるということは、主導権を握るだけでなく、何かから逃げることでもあると表裏一体なんじゃないでしょうか。作品をよーく読むと、ああ、実はこのお姉さん、弱いんじゃないかって思いました。他者との交流を拒んで、薄暗い部屋で自死してしまうんじゃないかなって。だから、「本当にさよならするのは、ずっと先」って、本当のさよならが来ることを知りながらも、それを「ずっと先」って言ってるのは、どれくらい先のことか知らないんじゃないかって。で、多分なんですけど、誰かに向けたこのメッセージは、お姉さんしか知らない自意識の話で、相手は知らなければ何も困らないかもしれない。  繰り返しになっちゃうんですけど、最後の行があるとないと全く違っていて、なければちょっとひ弱なお姉さんだけど、あることによってはったりをかましているよりひ弱なお姉さんなんじゃないかなって、本当に直感ですが、思いました。だから、むしろ、守りたいと思わされました。墓守になってやるぞー、って。でも、多分それは誰でもいいわけじゃないですよね。 (Swan song)

2017-05-16

霜田明さん そう言っていただける方が一人でもいれば幸いです。 (うぉんと えんげいじ)

2017-05-15

まりもさん B-REVIEWにおいてまりもさんの読みを一番に信用しているのですが、どうもそれでも僕の作品と言うのは捉え難い何かがあるのですね…。 僕としては、語り手・語り・場面・声を幾層にも重ねながらも「一人の作者によって生み出された世界」という、一つの主体・世界にそれを帰するのだと勝手に信じているのですが、おそらく、この信仰がまずいのでしょうか、最近の連作において感じました。 確かにネモフィラは綺麗で魅力的ですが、それはネモフィラが物として持つ美しさで、たとえ僕が死んでもその美しさはそこに在りますが、それを見る人間によってその美しさや映像が異なるのだと考えています。 僕は自作解説を無性にしたい欲望がありながらも、それは野暮だと避けます。 何より作品において精進いたします、ありがとうございました。 (うぉんと えんげいじ)

2017-05-14

 この詩を読み通した前提で先ず述べますが、語り手の視点を3つに分けて考えてみました。それは、「らりる寸前の私」「らりった私」「らりる寸前の私を見ている客観的な私」の3つです。  冒頭は「らりる寸前の私」が「結局」という言葉を用いて、結論を述べています。季節が巡るということとそれに併せて何度でも胸溢れること。それでも、その結論を「?」により、一度保留にするのです。なぜ、保留にするのかと言えば、胸に溢れた何かが流れて花になったり、痛みを伴ったりするからでしょう。  そして、「らりる寸前の私の見ている客観的な私」が「らりる寸前の私」を眺めるために一度視点を変えるべく、電波塔の上にいる必要があり、世界を眺めているのでしょう。  「らりる寸前の私」は、一度冷静になり、淡々と欲望を語ります。最初に抱いた疑問、季節が巡るにつれて痛みを伴うこと、それに対して新たな結論を付け加えます。「結局は傷んでいたい/悼んでもみたい」と。この悼む行為は、誰に対しての行為なのか。僕から君に対する行為ではなく、冷静な僕が傷んでいる僕に対して起こす行為なのではないかと思いました。  君という存在が僕にとって一体どういう存在であるのか。ただ単に恋心抱いている君に見てしまうのではなく、鍵となっているのが「なんかごめんね/夢ん中で、触れて」という箇所でしょう。僕は君に対して触れてはいけないというまるで禁忌であるかのような、何か神聖的な恋心を感じました。  恋心を抱くのが非理性であり、ただ「もうやめとけ」という理性の中で葛藤する僕はついに燃えていきます。この理性と非理性の境界にあって、葛藤しているということが「らりる」ということなのでしょう。「燃えてく僕の体が、綺麗」というのがらりっているはずなのに、冷静に僕そのものを捉えている描写であり、これが最初に書いた3つの視点の分離を感じさせる大きな要因でした。「流れてく意識/車窓の外で 雨」というのもまだ冷静さを保っているのですが、らりった僕はその見ている世界を語り始めます。  その世界では「意識」が「花」に喩えられ、そして、それは同時に「光」でもあるのでしょうか、らりっている人が見ている世界はどうもよくわかりません。それでも、「火花散る」というフレーズから読者に歓喜されるのは、火花が散るということは、火の中心から光が散らばっていくその姿がまるで花が咲いているようであるということ。それこそ、「火花」という言葉が持つ意味に改めて気づかされます。そして、この作品に置いて散っている「光」=「花」はきっと僕の意識(思い)です。  「君にもあげるよ」という印象的なフレーズがありますが、何をあげるのかと言えば「僕の感情の花」です。その花がどこから生まれたのかと言えば、燃える僕から発生した火花です。僕は燃えることによって、その花を君にあげることができるようになったのですが、「君にもあげるよ」という思いは、「もうやめとけ」という理性を通り越し、その理性と非理性とぶつかって僕が燃えたことによって生まれたものです。  果たして、僕の火花を君は受け取るのでしょうか。そして、僕は燃え続けることができるのでしょうか、僕は火花をうみ続けることができるのでしょうか。さらに、もし君が僕の火花を受け取れば、僕は一体燃え続けているのか、そして、傷み続けているのか、そんなようなことをさらに想像させられました。また、「君にもあげるよ」という言葉は、読者である僕も受け取ったのですが、僕はその火花を受け取る資格がないように思いました。それは、読者である僕は、作中の「僕」に対して理性と非理性のせめぎ合いを起こさせることがきっとできないからです。 (ル・カ)

2017-05-14

 「あまりにお粗末な終奏に 行き止まりを告げられたから」と、何かを終わりが最初にあって、そこから詩が展開されていることを前提として読む必要があるのでしょう。そして、その終わりによって、僕は立ち止まっており、その終わりとは一体何であるのか。 そこで、僕は終わり以前の様子を眺めるのですが、終わり以前を眺める時制は終わってしまった今であるので、振り帰り、そこに足跡があるわけです。それでも、僕は「重たい足取りで 交互に踏み出す」のですが、どこに向かって歩き出しているのか、それはきっと終わり以前の過去に向かってです。ただ、「感じていたはずの音が 感じられなくて/確かめたくて」と今は姿を変えてしまった過去の様子が示されています。 そして、辿り着く「置き去りにしてきた約束の場所」が「蛍火の河」なのでしょう。一見、「蛍火の河」の正体が何であるか、読者が辿り着けるかはわかりませんが、きっと、僕にとって過去の大事な場所あるように思えます。  「見捨てずに待っていてくれた」ので、僕は無事に辿り着くのですが、そこにある箱の中の「人気者の石」が「僕にはもう 冷めた蛍火」になってしまっています。  「そんなはず無いのに」と僕の強い欲望が表れていますが、それを否定するだけの力はなく、「そう感じてしまって 悔しくて 悔しくて」というのが僕の思いを非常に強く感じさせられるフレーズです。  そして、そう思った僕が起こした行動は「握ったまま」であった何かを蛍火の河に向かって「思い切り手放し」て、それが「威勢良く 水を切って」いきます。では、この蛍火の河に何を投げ入れたのか、それは冒頭にあった「濁った石」でしょう。その「濁った石」を河に水切りをするように投げ入れたことで、最後の行が生まれるわけです。つまり、「濁った石」とは「初恋の感覚」であるということ。そして、何より大事なのは、その「初恋の感覚」を「思い切り手放した」ということでしょう。それと同時に、それが今や色褪せてしまった「人気者の石」でもあったのでしょうか。  きっと蛍火の河と言うのは、僕が過去に抱いていた大事にしてきた思いの集積場なのでしょう。大事な物であっても、手放さなければならないものはあり、その大事さが僅かな火を灯す蛍火となっていて、いつでも僕を待っている。そして、手放さずに過去から現在まで握ったままでいた「濁った石」は、なかなか手放せなかった本当に大事なものであって、それを終に手放す勇気を持てたこの僕の行為に感銘を受けました。 (蛍火の河)

2017-05-14

poppociderさん コメントありがとうございます。 (卑屈だと思われるかもしれないですが…)おそらく、僕の詩がなかったとしても、ネモフィラはネモフィラでその映像の美しさを持っているのだと思われます。 断片的な台詞というのは、ここ最近の戦略的スタイルです。 本当におそらくですが、「うぉんと えんげいじ」という題に騙されているかもしれません。 (うぉんと えんげいじ)

2017-05-13

 最初の一行に惹かれて読み進めました。これが結論でもあると思うのですが、ここに引っ張られすぎてはいけないとも同時に思いました。二行目は突き放しているのではなく、あなたの死を受け入れる決意を表しているのでしょう。  「政治は腐敗して(後略)」の行は、私達とあなたの徹底的な違いを表しています。おそらくあなたは政治や国のことについて、熱心な活動家(?)であり、そういったことへの興味が強く、そういった話を私が聞いていたと思われます。ただ、私達はそういったことに対して「なんと言うこともなく」生きていける存在です。そういった政治や国のことに対して「悲しみと怒りの境界に項垂れた」のはあなたであって、あなたが死んだ以上はそういった過去は無に帰するのでしょう。そこで、草木とあなたとの対比に移り、草木は死が訪れても循環しますが、あなたは循環せず、あなたの行為が一回性を持つことしかできないことを表しています。  「あなたが私を包み込んで、私にあなたが満ち満ちる」というのは、例えるならば、まるで私の中にあなたを孕んでいるようです。「あなたの価値はたったそれだけ」というのは、「あなたに体温のあること」だけが価値を持っていることです。私は「どうか自分の価値を見誤らないで」とまるで叱責するかのようですが、むしろ、それだけしか価値がないと貶めているのではなく、それだけでも価値があってよいと捉えているのでしょう。  あなたが死んだことによって、あなたは体温を失うはずですが、逆に、あなたが死んだことで私の中にあなたを孕んだことで、私を夜な夜な温める存在であるからこそ、「あなたに体温のあることが好き」なのでしょう。つまり、「布団の中であなたの体温が膨張する。あなたが私を包み込んで、私にあなたが満ち満ちる」というフレーズと「あなたに体温のあることが好きだった」という箇所を切り離して考えてはいけないのですね。  あなたの死後、あなたの存在は居場所がありません。「桜は、周囲を見定めたように花を落とし」ているので、これは居場所ということに対するあなたと桜の対比をしているのでしょう。ただ、あなたの居場所は私の中に在る。だから、「満開の桜を、今年も私は見なかった」ので、「あなたもきっと、満開の桜を見」ることができなかったはずです。 (death)

2017-05-13

かじっちゃん様 その台詞は、決まりすぎている気もしているのですが、気に入っていただけて嬉しいです。 ぼくらしさ、ですかね。でも、力が入っていない作品という捉え方が僕なりになるほどと思いました。そして、それが共鳴しやすいというのもなるほどと。 あれですね、正直に言えば、僕は凝ったタイトルをつけるのが嫌いで、タイトルはできるだけシンプルにしたいのですが、このタイトルはダサいですね。 それに、三浦さんの考えたタイトルは決まってますね、いいですね。ただ、多分ですが、海を主役にするつもりなかったのに、多分、映像的に海が主役になるように筆が進んでしまったんですね。 (うぉんと えんげいじ)

2017-05-09

百均ちゃん 多分、僕の詩って、読者を選ぶんですかね、難しい言葉も難しい概念も使わないようにしてはいるのですが…。 というのも、なぜ読者がとらえきれないのか、自分なりには何となくわかったのですが、的外れな気もするので、沈黙を。 本当に書いてあるとおりで、何となく哀愁的なものを感じていただければそれだけで幸いです。 あくまでも客観的になったうえでならば、いつでも自作を語ります。 (めでたしの始まり)

2017-05-09

朝顔さん コメントありがとうございます。 今のうちに返しをさせていただきます。 「詩の中の少女が可哀相」になるというのが、なんというか新鮮で驚きました。 おそらく、この作品はぼくから見たきみに焦点があたりがちで、読者もきみに注目をしてしまうんだと思います。 ぼくから見たきみがどうであるかと同時に、きみから見たぼくの印象も成り立たせたかったのですが、これはいわゆるセカイ系作品になってしまい、ぼくから見たきみに注目が行き過ぎてしまい、ぼくの全能感がにじみ出てしまっているのだと思われます。 もしその全能感があるとしたら、ぼくは全く優しくなく、むしろ暴力的なのだと思いましたが、表現されている「ぼく」はそうであって、「なかたつ」は表現されていない何かを孕んでいるかもしれないです。 (うぉんと えんげいじ)

2017-05-07

百均ちゃん お疲れ様です。 逆に、最終連だけでこの作品が成り立つのか、と問われれば、成り立たないと言いたいところですが、何かその場面だけでも成り立つような気もしていて、何か悔しいですね。 ちなみにですが、書いた者として、皆さんのコメントにある読みは読みで多少のズレがあったりして、途中の部分の読みに対する解説は抜きにして、そのむずがゆさを感じています。 何より順番にコメントをつけている行為に賛辞を送ります。 朝顔さん 多分、ここ最近で書いている僕の作品の特徴だと思います、いろいろな違う場面を何となくで繋げていって、つかずはなれずに仕上げるのは。 「父の子に生まれたことの喜び、讃歌」を感じたのが何とも。 多分、詩は結論だけでは成り立たないという信念があって、この作品も結論を隠し隠しにしながら書いたんだと思います、多分。 (道なり)

2017-05-04

 物騒な作品でありますが、それでも読んでからの気づきを書きます。  冒頭は主語がありませんが、それが誰の行為なのかはおそらく後に描かれた父と母と弟の行為だとわかります。  中盤は鶏のエピソードが挿入されており、ここでのテーマとなり得るのが子と大人の対比でしょうか。子はかわいいもので、言わば観賞用、見るものとして可愛がられますが、大人になるとかわいさを失い、言わば他者との利害関係でしか結ばれない関係が描かれています。でも、それは同一の存在であるはずです。  その鶏のエピソードから類推すると、この私は大人です。そして、そんな私の体の一部を食す家族は、父→母→弟の順番で食しているので、これもまた家族における権力の順番が示されている気がします。  食されて残った私は、骨でしかなく、おそらく家族にとって私の骨は必要なかったのでしょう。骨が残ったことで、「私の骨」と私と言う存在を失うことから逃れることができます。そして、その「私の骨」がキッチンを照らすのです。逆説的に言えば、「私の骨」が存在しなかったら、キッチンは普段通りにLEDライトで照らされるだけです。  家族が私の体の一部を食す残酷な作品であるかと思いきや、ポジティブに捉えるならば、家族が私を食したからこそ、私(の骨)という存在が家族の団欒の場をより明るく照らすことができたのでしょう。言わば、私は家族の引き立て役に徹しているのでしょうか。 (聖家族団欒)

2017-04-30

 最初の三行は何でもない言い換えに見えますが、一つの現象に対して一人称・二人称・三人称と見る立場による違いが表されているのでしょう。どうしてこの表現をせざるを得なかったのか。  続きは何でもない風景描写から始まりますが、不意に「間違って受け取っていたってことに気が付いた」というフレーズがあります。この気づきが核になっていて、言わば反省的に「もう見失わないって いまはそう思っている」といまになったからこそわかっているのでしょう。つまり、いま以前は見失うことがしばしばあったのだと示唆されています。それに「間違って受け取っていた」というのは、一つの現象に対する見方の変遷が表されており、冒頭のフレーズはいまの反省があるからこそ生まれた表現なのでしょう。  そして、「なんについて言っているのか/知らない人にまで聞かす話じゃない」と、見失っていたエピソードの詳細を語り手は読者に語ることをしません。この反省は自省であり、読者に提示されるのは、語り手の過去に何かがあり、今は気づきが得られているということだけです。  ただ、間違って受け取っていたことに対する気づきがあろうとも、物の見方が変わっただけで、過去そのものが変わることはありません。その過去は映像として「通り過ぎたあの日 彼方の海 遠い世界 まぼろしの意識」と蘇らせることはできるかもしれませんが、その時の私は現在にはいないので、その時の感情そのものは似たような形で再現することしかできません。  そして、やり切れない現在の思いをはぐらかすために、語り手はおどけ始めます。おそらくいくらおどけようとも、やり切れない思いは無くならないと知りながらも、とにかくおどけることでやり過ごそうとしているのでしょう。ここでの感情は何かに対する怒りを感じます。他者へ向けた怒りは、架空の怒りとなって、きっと語り手の感情に留まるだけです。  怒りの感情から不愉快さを得ながらも、何にもならないことに気づき、「もうおかげで今があってよかったと思うしかないって」と、現在に対する受け入れをするしかなくなります。ただ、何にもならないからこそ、現在をそのまま受け入れるのではなく、改めて物の見方を変え、おどける姿勢が終盤まで続きます。  終盤における語りのスピード感や語句の選び方が冒頭の苦悩や思い出と全く異なっており、何がここまで語り手を変化させたのかは驚くばかりですが、言わばその開き直りが必要であったとしか言いようがありません。もう少し内容やモチーフの変遷に触れるべきですが、語句の並びだけを楽しみたいと思います。  そして、結末、作中のカメラが一気にズームアウトして、開き直った語り手を見守っていた唯一の存在が姿を現し、語り手のやり切れない思いを理解しているのだという姿勢が表れているのでしょうか。 (20170425)

2017-04-30

 答えを尋ねるということは、答えがない状態でないと成り立ちません。何の答えを何故探しているのか。それに、この作品においては、どうやったら答えが見つかるかもわからない、その方法すら模索している気がします。意味のわからない言葉は「辞書を開けばいい」というその方法を知っていますが、この作品の言葉はその方法がわかっていないのでしょう。だから、「行動すればうまくいくかなどうかな」とあり、「集合を求め得」るために、ひとまずの行動を起こします。  小さく言われた「ただ気が立ってただけさ」というのは、垣間見える語り手の本音でしょう。  あと、核になっているのが「断裂」という言葉だと思いました。作中にも用いられていますが、空間=「私がいるここ=内側/私以外がいるそこ=外側・外部」との断裂がこの作品の根底にあるのでしょう。断裂はきっと境界線とも言い換えることができ、暗がりはその境界線を目に映すことがなく、その断裂を一時的にも語り手から忘れさせた時にいるカナリアに「私が答えられないようなことも言って見せてね」と淡い希望を抱いています。  最終連は畳みかけるように語り手の独白が続きます。それも「秘密ないかまたはある」「真夜中に太陽は上らない考えること」と一行の中に、相反する言葉が並べられ、語り手自身が語りながら確認作業=答え尋ねをしているのでしょう。そして、さきほどの空間の断裂ではなく、相反する言葉の繰り返し=言葉の断裂が一行の中で起きつつも融和しつつあります。  語り手の欲望は答え尋ねをしているので、一見答えを見つけたいという欲望を抱いているのかと思いきや、「答える責任を逃れたい」ので、答えを見つけてしまうこと、もしくは、答えが見つかったとしても他者に開示することをきっと恐れています。ただ、それでも「そしてやがて人生は実」り、「私の全ての光を歌」うことを決心します。その理由は「生きることと終えることとは同じように不安なのだから」とあります。  終盤は相反する言葉が語られます。それは、答えを見つけることではなく、答えを尋ねる=答えを探そうとすることへの優位性を示している気がします。結果ではなく、その過程が大切なんだと。そして、相反する言葉そのものが「幾つの表現が断絶」されていることであり、答えを尋ねる行為を示しており、そのことによって言葉=答えは育てられているということなのでしょうか。  責任は確かにすべてのものが担っているかもしれませんが、その責任を全うするのか、逃れるのか、その答えが語り手から示されていない以上、読者はこの答えを尋ねることが必要になるのでしょう。 (答え尋ね)

2017-04-30

 何かを信じるということは、世の中に対する反逆であり、何よりその人をその人たらしめるものだとこの作品を読んで感じました。作中の言葉で言えば、「すなおな心のままで/そのままで生きていればいい」ということです。  出だしから、世の中の一般的な物の見方に対して一石を投じています。UFOなんていないという一般論=先入観に対しての抵抗。続く話はまるで大人が子どもに語り掛けるように、物の見方が説明されています。その中でも核になっているのが「冷たい人工物のほうが明るいの」という繰り返されるフレーズ。  次の連も、世の中における一般論に対する抵抗です。二酸化炭素が地球温暖化の原因である、という言説を信じる人と信じない人。この語り手は少なくとも信じない人であって、信じる人に対して「洗脳」というように見ています。それでも、その抵抗が無力であることを承知であるのは、最後の「なのに…」というボヤキから見受けられます。  一般論に対しての抵抗が無力でありながらも、語り手は絶望していません。だから、「すなおな心のままで/そのままで生きていればいいと思うよ/洗脳されてもそれが、幸せなら」というフレーズが生まれるのでしょう。一般論に洗脳されていたとしても幸せであって、「地球にやさしく生きていけばいい」というのが、語り手の希望です。  こうした希望を持てるのも地球=自然に対する気遣いを持っているだけでなく、この語り手は「冷たい人工物」の美しさを知っている存在です。つまり、語り手は人工物に対してさえ気遣いができる存在です。  何かを信じるということは、一般論に対する抵抗です。周りがどうあろうと、「私」だけはこれを信じていたいという欲望でもあります。この語り手は、UFOや二酸化炭素の存在に対する一般論に対して抵抗をしているわけですが、「冷たい人工物」が「きれいにきれいに光る」ことを知っており、その美しさを信じています。その物の見方こそ、この語り手を語り手たらしめる要素であり、気遣いのある存在だと読者である僕は信じています。 (やさしい無機質)

2017-04-30

 説明がいらない作品であるため、私なりの気づきを書いてみます。  終盤「たった一つ解ったのは」「俺に/開けて欲しかった/ということだけだった」とありますが、この一連の展開を読んだ読者が解ったのは、この箱を開けたいと思ったのは俺だけだったということでしょう。親ですらこの箱の中身を知ろうとしなかったのであり、箱の中身を知りたくてもがいているのは、作中における俺だけです。この切実さに読者が気づけるかどうか。  あと、タイトルは「鍵のない箱」ですが、一見何でもなく見えるタイトルも不思議さがあるものです。「鍵のない箱」と言葉だけで見た時に、「鍵がついていない箱」として何でもない箱のように読むこともできますが、この作品においては「鍵が無くなった箱」を「鍵のない箱」と言い表しています。だからなんだということになりますが、先ほどの「箱を開けたいと思ったのは俺だけ」だったということを合わせると、この箱の鍵そのものが俺であったということだと言えるのではないでしょうか。  つまり、この箱は俺がいないと開かないということを親友はわかっており、いつか俺が開けるであろうこの箱に「希望」を入れておいたのは、親友にとって俺が希望であったことを表していると思えます。この作品を読んだ時のありきたりの読解(親友にとっての俺=希望)になってしまったかもしれないですが、その理由こそ最初に記した、この箱を開けたいと思ったのが俺だけであるということが重要であるということを考えました。 (『鍵のない箱』)

2017-04-29

三浦果実さん 気づいた時にコメント返し。 独自の目線での切り口は参考になりましたし、根拠はないですが、何となくそんな気がします。 多分、僕の作品は受ける人には受けるけれど、受けない人には全く受けない、読者を選ぶ作品かもしれません。 言葉は表面上の物でしかなく、その奥底を掘りたいと思わせる、そんなんがいいと思ってます。 僕は硬派すぎる、真面目すぎるので、三浦さんのような存在も必要だと思います。 (めでたしの始まり)

2017-04-26

まりもさん モチーフが幾層か重なっているので、平易な言葉ではありますが、読者を惑わすことがあるかもしれません…。 ハニートーストにしても、杏仁豆腐にしても、比喩でもなんでもなく、ただそこにある物体であって、むしろ、まりもさんによってその味付けがされたという点で、まりもという香辛料をかけていただきありがとうございます。 杏仁豆腐はちょっと安易だったと思いますが、文字通りの杏仁豆腐に感謝をしています。お酒飲みすぎた後の杏仁豆腐は優しいです。 (めでたしの始まり)

2017-04-26

もとこさん 人が人を好きになるのは、「好きになった」という結果が先にあり、その理由は後付けになるものだと思います。この当たり前で見過ごされることが、意外と大事で、その人をその人らしくしているものなんだと。 もとこさんの過去を掘り起こすことができて幸いです。 不明点はある意味ジャーゴンとなって、文脈の不提示という作者の暴力でもありますが、それでも、それを承知で書かざるを得ませんでした。ありがとう、ペニーレイン。 (めでたしの始まり)

2017-04-25

 acid=酸ということで、この作品でも「酸化」という言葉が用いられており、では、作中において酸化しているのは一体何であるのか。 「じゅくじゅくの傷」…一度作品を読み終えてからだとよりわかるのですが、僕が傷を抱えたものであることが示されており、その傷は外部に晒されています。 「君の面影」…僕の中に翳っている君の面影ですが、これは錆びていっており、記憶としてその輪郭を失いつつあるものです。ただ、外部には晒されておらず、僕の内部にあるものです。 「僕の影・目」…終盤で僕が僕から剥離した際に、地上に残された僕は冷静で「冷たい目」をしているのですが、傷を持って空へと向かいつつある僕の影は「おかしくなってく」のです。そして、「おかしくなってく」僕の影を見ている目も次第に「酸化してく瞳抱え」ています。 「血」…地上にいる僕は傷を抱えており、僕から僕の影が剥離して、僕の影は空へと向かうのですが、その僕の影も傷を持っており、血が「ちたちたちた、いつまでも零れ続け」てしまうのでしょう。  一見この詩の構図が見えにくいのですが、モチーフを読み解くことで作品の中で起きていることがよく見えてきました。傷を持った僕は、記憶にある君の面影によって、僕から僕の影を空へと帰されてしまうのです。  強烈な印象を抱いた詩行が「空に帰るその間際に/消えないようにと願ってた/傷を開いて/血が空に昇ってく/痕跡が残るようにと/何度も抉った」の部分です。血が空に昇ってくの「血」は「傷を抱えた僕の影」の暗喩であり、一気に凝縮されているのでしょう。ただ、意味合いとして、通常ならば、傷というのは一刻でも早く塞がって欲しいものですが、この僕は地上に痕跡を残したいがためにその傷をより開くよう何度も抉るのですね。自傷の極みですが、それだけせざるを得ない強い契機がこの僕にあるのだと、その切実さを感じました。  細かい考察は割くとして、この作品は言わば夢オチだと思っているのですが、そのオチ方が陳腐になっていないと思います。「なき交わす魂たちの目覚め」という「なき」は、「泣き」なのか、「鳴き」なのか、どちらでもよいでしょう。それか、どちらでもないか。交わすためには一つでは不可能で、「魂たち」と複数形である必要があり、一体どの魂たちなのか。安易に読めば、僕と君の魂となってしまうのかもしれないですし、それでもいいのかもしれないですが、この僕と同じ境遇にあるような人たちも僕以外にいるのでしょう。そういった魂たちが集う場所がきっとあるのだろうと思わされました。と言うのも、「なき交わす影たち」となっていたら、僕と君との交わしと読めるのですが、「魂たち」という変換がされていることによって、空間が一気に拡がったからです。  何より、陳腐でないと思わされたのが最後の「目覚め」です。この作品は、「傷を持った僕は、記憶にある君の面影によって、僕から僕の影を空へと帰されてしまうのです」と途中でまとめましたが、そのような夢物語や欲望に託して終わっているのではなく、いくら思い描こうとも、最終的には地上にいる僕が傷を持っているということから逃れることはできず、そのありのままを受け入れるという不条理なのか、それとも、決意の表れなのか。作中の僕の影は空へ帰すのですが、傷を持っているということを受け入れざるを得ないのだというその現実=地上へと読者を帰すような気がするのです。 (acid & spring)

2017-04-22

 金がないことと空間認識能力が有り余ることという予想外な結びつきから始まる冒頭、そこにどういった因果関係があるのかはわからないながらも、確かなパーソナリティが示されています。  その空間認識能力という少しとっつきにくい言葉は第二連によって説明されます。ふたりきりであるということ、そして、それが素敵な空白であるという空間認識がなされ、君は麦茶を注いでくれたという空間がその能力によって補われています。また、その豊かな能力が導くのはそこにいないはずの三人目の存在。ただ、その存在は僕ら=ふたりきりで分けあっている確かな存在。  記憶は自らの行為ではなく、弛緩した強制であるので、外部から強いられて生まれるものであるという認識。そして、怠惰=何もしない=不作為ではあるものの、何もしないという、それはそれで選択した行為であって、何もしないという行為を外部からの強制によって舞い散らされてしまっています。  (希死念慮=死にたい気持ち)を(抱けず=理解できず)にいながらも、このふたりきりの空間、補えば、ふたりきりの時間によって得られたことは「短命は徳なんだ」という箴言なのでしょう。そして、ふたりきりの時間を終えて、ひとりきりの時間へと帰っていきます。  かくめいとひらがなで表現せざるを得ないのは、この名詞の意味=核心を掴み切れないながらもその意味づけの萌芽を表しているからでしょう。そして、どの生命線よりも長いものである、つまり、どの人間よりも長い時間在ることができる、どのような時間をも超えて存在し得るのがかくめいだと言えるのでしょう。それか作品の意を越えて付け加えるならば、ひとつの掌にある生命線ではかくめいという生命線の長さを超えることはできないのですが、ふたりの掌にある生命線を繋ぎ合わせること、ふたりきりの時間を共有することによって、ひとつの掌にある生命線の長さを超えることができるのではないでしょうか。 (かくめい)

2017-04-22

 ところどころに見られる言い訳のようなもの=理由付けに目がいきました。「そういう日がきたから、そうしただけで」という投げやりな言い方は、自らの行動を型にはめることで納得を示そうとしているように思えます。  冷蔵庫の中には「やっぱり」ご飯はないので、いつものことなのでしょう。「瓶に入れられたミルク」というのは、何気ない表現ですが、気になりました。「瓶に入った」ミルクと普通なら表現するかもしれないですが、「瓶に入れられた」と表現されると、誰かの手があったからこそ瓶にミルクが入ったのだということが強調されて見えてきます。それと同時に、冷蔵庫の中にミルクがあるのも、誰かの手によって冷蔵庫の中に入れられたわけですね。  私が芽吹くのは「どうしようもないから」と、また理由付けがされています。こういった行為と理由付けがこの詩の鍵となっていて、でも、その理由が自分の力ではどうしようもできないところにあるというのが「わたし」が強く思っていることなのでしょう。  ハッシュタグとは一体何なのか。僕としては、「副題」という意味ではないかと思っています。乙女たちは手首にその「副題」を示していて、言わば、その内容を一言でまとめた題であり、象徴であり、印であるような何かではないかと。  ホワイトデーのお返しはいらないというのは欲望の裏返しであり、お返しはいらないという欲ではなく、「あたしを食べちゃえば」と語りかけるのは、食べてほしいという欲が垣間見られます。最後の「そういうものでしょ。そうでしょう。」という声かけは一体誰に対してしているのでしょうか。おそらく、自分に対する声かけで納得させようとしているのでしょう。  「そうしただけで」「どうしようもないから」「どうでもいいね」と投げやりな言葉があって、様々な行為に対して投げやりな理由づけを重ねることによって、納得できないことを納得できないながらも、納得しようとするのではなく、納得せざるを得ない、そんな「わたし」の心情を想いました。 (乙女たちはハッシュタグを忍ばせて)

2017-04-16

どうしても どうしても、悲報を届けたくて ここに来ました 居酒屋のトイレに貼ってあるような ピースボート世界一周の旅!とかいうのには 全く興味がありません が、それに行ったことがあると言った 婚活パーティで知り合った女性には興味があります (好きではないけどね ぼくは旅行が好きですが 文字で読めば終わってしまう旅行ではなく そこを歩きたいと思える旅行がしたいので どうしても どうしても、悲報を届けたくて ここに来ました から ここに来たいと思わされてしまったわけですね (世界構造プール)

2017-04-16

 一行目が「県道沿いの店に転がる死骸」ではなく、「県道沿いに転がる店の死骸」なので、死骸になっているのは、人ではなく、店です。建物があるということは、それを建てた人がいて、住むなり、商売をするなりといった目的があり、さらに言えば思いがあって建てたいと思った人がいて、それを建てた人がいるということ。  僕はその店が死骸になっているにも関わらず、その店が持つ目的を全うするために手を貸しています。ただ、それは死骸を呼び覚ますことで、自然の摂理に反することをしてしまうことなので、つい「手汗がじわっと滲む」のでしょう。  最後の行がとってつけたようにあるのですが、これが効果的です。外から中を見るのではなく、中にいるからこそわかる外の日常を描けるのです。死骸の中にいるという緊張感とは別に、外では日常が動いているという対比がより中にいることの不気味さを際立たせているのではないでしょうか。  それにしても僕は何故この死骸に足を運んでしまったのでしょう。ただの興味本位なのか、それとも、何かこの死骸との間に関係性があったのでしょうか。その関係性が見えてこないことがこの作品の見えないテーマとして浮いていることが、この作品の緊張感を生んでいる原因でしょう。 (つぶれたカラオケボックス)

2017-04-16

 空というのはどこからどこまでを空というのか、実は曖昧なものであったりしますが、通常は地上から上部を見上げた時に見えるものです。ただ、海に行くと、その空が地上の延長上に見えるという不思議、空が地上に見える場所であるというだけで海の存在価値はあるように思えます。その隣り合わせになった空と海は曇りの日で同じ灰色を纏っているのですが、あくまでも空は空であり、海は海であり、混じり合うことはありません。ただ、それは見る人によってものの見え方が違うように、空は空、海は海という境い目を持っていたいのでしょう。  第二連は意識が見ている景色から変わり、「ここで見える景色」から「ここにいること」の描写に切り替わります。書かれているとおりなので説明を省きますが、第三連とセットになっていますね。ここで不意にアタシの感情が浮き彫りになってしまいます。「アタシは恐ろしくて」と。何が恐ろしいのかと言えば、「アナタの実存を確認できない」ことです。さらに言えば、「見ること」に徹していたアタシは「見ること」を拒み、「触れること」によってアナタの実存を確認しようとするのですが、触れることができずに答えが出てしまいます。  でも、それがアナタの実存を確認することの終わりではなく、おそらくアナタの肩に辿りつけるまで凭れ続けるのでしょう。それがアタシの姿勢であり、決意なのか、それとも、「ひたすらに/倒れていくだけ」なので、私の意識とは無関係に起こる動作なのか。  いや、「アタシは永遠に傾き続ける」と、傾き続けることを受け入れているのです。それはアナタの肩に凭れるまで天国か地獄かわからないので、ここでアタシは想像します、生誕の眩暈の味を。その想像が確信できるというのはよっぽどの自信ですが、アナタの肩が見つかるまで傾き続けることと、生まれる前に母のお腹の中で傾き続けていたことという二つがここで不意に結びついているわけですね。まだ起きていないことに対して確信を持つためには、既に起きたことからの類推によって導くしかありません。  「見ること」や「触れること」によって、アナタの肩に凭れることはできないでその不安が描かれているのですが、「想うこと」によって、アタシはアナタという存在に凭れているのではないでしょうか。 (Lean On)

2017-04-16

ひいらぎさん この作品、全般的に連から連への「飛距離」が結構大きい(と思う)けど、バラバラにならずゆるーく繋がってる、その屋台骨はこういうところにあるのかなぁと感じる という部分だけでも満足ですが、敢えて言わせてくれ、「ただただありがとう」と。 葛西佑也さん 思いっきり個人的な体験・固有名詞の連鎖が「重ねて読む」というところに繋がる不思議さがあります。 無論、僕も読者の立場として作品に重ねる行為をするわけで、同じ体験をしているわけでもないのに、何がそうさせるのかはいまだにわかりません。 理由はわからなくとも、それを感じていただけたのなら幸いです。 (道なり)

2017-04-12

migikataさん 読解は答え合わせではないので、内容についてコメントを差し控えますが、詩句のリズムが違うというのは、意図的だという言い訳ができるかもしれないですが、ちょっとその配慮が足りなかったのは事実だと思いました。 もとこさん 書かれているとおりなので、細部に関する考察をするより、確かにこのまま味わっていただければ幸いです。 引用は僕がよく用いる大事な手法ですが、配慮が足りなかったですね、申し訳ありません。 ただ、引用元を示す必要があるならば、引用は用いないようにします。 まりもさん 最初の連で「歩く」をそんなに用いていたのかと無意識的でした、自分でも気づきです。 イメージをコラージュで繋げているので、おそらく読者がその速度から置いていかれる部分が多くあるのだと思います。 あとは、固有名詞を使う葛藤というのは常にあります、難しいです。 (道なり)

2017-04-11

白犬さん 愛のある詩と読み取っていただけたのなら、白犬さんには十分愛が宿っているように思えました。 何より、灰色の雪が二人を包み込んでいる、というのが、僕の詩を拡げてくださるコメントで、作品に一味添えてくださいました、ありがとうございます。 桐ケ谷さん 作中における「きみ」問題は大きな問題です。 というのも、僕自身が「きみ」を用いず、「きみ」を用いた作品が大嫌いだったからです。 それが今となっては逆転、「きみ」を用いている、というより、用いらざるを得なくなりました。 「父と歩んできた道が「きみ」と歩むようになった」という読みがどこから生まれたのか気になりました。 きっと「きみ」は唐突に登場せざるを得なかったのですが、「残念」と捉えられてしまったことが「残念」で失敗だったと言わざるを得ないです、精進いたします。 ぶたみみさん よろしくお願いいたします。 詩の感想に初心者も何もないと思っております。 今まで自らが重ねてきた生を作品にぶつけて、何が返ってくるかの勝負だと思っています。 つまり、いくら詩や言葉に詳しいかではなく、いくら生きてきたか、いくら生を受け入れてきたか、なんて、関係ない話ですいません。 灰色の意味合いですね、僕自身灰色は好きでも嫌いでもないですが、灰色の洋服は嫌いです。 そして、灰があるから灰色があると同時に、灰色があるから灰があるんだとも思います。 「都会的なスタイリッシュな色」というのが意外ですね、なぜこのような印象をお持ちなのか気になります。 (道なり)

2017-04-10

 星々の光を借りて、街の明かりを対照化させているのですが、その両者の違いは、街の明かりは身近にあって当たり前のもので見逃しがちであり、星の光も身近と言えば身近と言えるのかもしれないですが、距離は遠いものです。  「天の星/競うごとくに/地に星」とあるように、その優劣はつけられていません。ただ、街の明かりは闇をほっと和ますものだと描かれています。  この作品の山場は「今ひととき/光見とれる/兵士たち/横目で愛でる/街々光」という部分でしょう。ここ見とれている光は、天にある星の光です。兵士たちは目線をあげて星の光に見とれて、その横目で街の光を愛でているのです。  その街の光が誘惑してくる、身近な光だからこそできる行為ですが、僕たちはその誘惑を断り、暗闇を目指していきます。さきほど街の明かりが闇をほっと和ますと書いたとおり、街の明かりが届かない闇に向かうのです。ただ、なぜそれができるのかと考えると、街の明かりがなければ星の光を頼ればいいのでしょう。さきほど星と街の光に優劣はないと述べましたが、僕たちにとって魅力的だったのは星の光だったのでしょう。 (街星々)

2017-04-09

満席にならないので、予約なしでいつでもお越しください。お待ちしております。 (道なり)

2017-04-09

 一つの読み方として、この作品を読んで一つの写真もしくは映像作品を作りなさいと言われたら、一体どのようなものが生まれるだろうか。  そのためには、場所と人物が必要になる。僕の場合だったら、場所はベッドの上、浴室、洗面台の鏡の前のいずれかになる。人物は二人。彼と語り手の私。でも、それを移すためのカメラは誰が持っているのか。それは語り手の私とこの作品を作った作者の二人になる。つまり、前半部分が語り手の私による描写で、後半部分が作者による私の描写になりそうだから。  前半部分、私が見ている彼は「染み付いた痣を/全部溶かして/消そうとする」が、私にはそう見えているだけで、彼にとっては違う意味を持っているのかもしれない。単なる癖で痣をなぞっているのかもしれない。というのも、「彼は/いつも/こんなふうに」と繰り返された動作であることを示唆されているからだ。それが語り手の私にとって「全部溶かして/消そうとする」ように見えるのは、(強引な読みになるが)語り手の私が何か消したいものがあって、それを投影しているのではないかと思えた。この部分の映像では、音声は流れない。語り手の私がただ彼を眺めているだけだ。  後半部分、浴室の中でひとり、何も洗わずにただただシャワーに打たれているだけの私がそこにはいるように見える。僕は除光液なんぞ使ったことはないが、それは爪の塗料を消すための道具なのだろう。それも風呂場に置いておくものなのだろう。  彼は消せない痣を何度もなぞるが、私は爪の塗料を消すことができる、その対比。ただ、この作品の世界は語り手の私を中心に回っている。私にとって意味をもたらすのは、消せない痣とそれを消そうとする動作であって、それがこの作品で描かれているということは、語り手の私にとって、また、作者にとって消せない映像であったことは間違いない。  ふと思ったのは、彼が消せない痣を消そうとしている、その痣は彼の痣なのか、語り手の私の痣なのか。外れてもいいので意見を表明しておけば、それは語り手の私の持つ痣ではないのか。全く関係ないけれど、僕は背中に蒙古斑がある、らしい。僕はそれを見ることができない。彼が彼の痣をいつもなぞるのも不思議だが、私にとってより意味をもたらすのは、彼が私の痣をいつもなぞることではないだろうか。だから僕は、この作品を映像にした時に選ぶ場所として、ベッドの上という選択肢を捨てられないでいる。 (log)

2017-04-09

 冒頭の「春よりも青の愛しかた、/教えて欲しかった。」に想いが全て集約されており、作品を読み終えてから冒頭を読み返すと、ここで言われている青は比喩でも何でもなく、それこそ青そのものを愛したかったのだと思えます。  「青い春」を愛するためには、二つの手段があるのでしょう。青を愛するか、春を愛するか。別のもので考えると、「赤い服」を愛するためには、赤を愛する必要があるのか、服を愛する必要があるのか、それともその両者を愛する必要があるのか。この詩で考えるならば、「青い春」を愛するため、春の愛し方を教えて欲しいのではなく、青の愛し方に重きを置いているのでしょう。だから、その「青」を中心としてモチーフ・イメージが展開されているのだと思います。  青臭い、青二才という言葉があります。これは、幼さを表現する言葉であり、青には幼稚性・生まれたてのイメージが伴っています。また、作中には刃物の比喩が用いられています。出来立ての刃物は鋭いですが、時間が経つとともにその鋭さが鈍化され、研ぐ必要が生じます。それと同時に刃物のイメージが重ねられた生まれたての愛というのは、鋭さがあるもので傷つきやすいものなのでしょう。つまり、愛の萌芽を描いた作品なのではないか、と思いました。  最終連の表現が魅力的です。というのも、チャイムは同じ音が繰り返されますが、それが聞こえ始めてから聞こえ終わるまで、チャイムの音が遠ざかっていく様子を文字数で表しているのだと思います。ただ、チャイムの役割はその音によって何かを告げるためにあるということです。その何かが何であるのか。おそらく誕生を告げたのでしょう。しかし、何が誕生したのかはわかりません。ただ、その誕生、つまり、幼さ=青さを纏った何かであることは間違いありません。その誕生を受け入れるためにも、「青」を愛する術を教えて欲しいのでしょう。 (ぼくたちの青色廃園)

2017-04-05

 この詩を読んだ人は冒頭からあることに気づかされます。ああ、夜とか朝には強度があるのか、ということを。屈強な夜と脆弱な朝、脆弱な夜と屈強な朝では決してなく、夜の方が強くなくてはならないのは、なぜでしょう。  フラスコには底があり、降り注ぐ液体は溜まりゆくのみです。そして、注ぎ口へと近づくにつれて許容量が少なくなっていきます。最初は余裕があるかもしれないフラスコという容器は、液体が注ぐにつれて、一気に余裕がなくなっていくものです。その反面、底のない容器も存在するのであって、それが落とし穴で、それにとても大きな落とし穴です。  この詩の魅力は、語り手の想いや経験したことが確かなものであって、それに強度を感じられることです。「生きるものは今でも生きている、死ぬものは死んでしまった。」という当たり前すぎることをあえて書かざるをえなかったのも、語り手にとって確かなものを再認識するためでしょうか。「僕ら」を「僕」に言い換えたのも、誰にとっても自明なことではなく、自らが信じているということを強調したかったのでしょう。そして、「脳、が/ねつ造できないあの東京」というのは、語り手にとって確かすぎるものだと思えます。それを「薄明」と命名すること。それは屈強な夜に浮かぶ光なのかもしれないですが、脆弱な朝の言い換えとも言える気がします。 (薄明)

2017-04-03

 デブリという言葉を辞書で引けば、その意味はわかるかもしれませんが、なぜこの作中でその言葉が選ばれて使われているのかを考えなくてはいけません。デブリが撒き散らされるためには、その主体が必要です。言い換えれば、デブリはいわばその主体から生まれた従物、つまり、その主体が生み出した部分であるということ。僕らが生み出した僕らの一部。  嘘だって、僕らのデブリ。そのデブリが生まれるためには、僕らの生産活動があるわけで、それが「脳の奥底の星」がもたらしたことなのでしょう。思考は沼に沈んで表に出ないけれど、嘘は表に出てくることができる。デブリとは表に出てくる必要があるもの。  デトックスではないけれど、デブリを撒き散らすことは生産活動だから、僕らは僕らの一部を手放して、何かを吸収して、新たな僕らの一部をまた手放す。その繰り返しが死んで産まれるということ。  でも、結末の言葉は何を示しているのでしょうか。否定の言葉が連続しているので言い換えて考えてみます。見つけられてしまうと死ぬことができなくなってしまう。見つからなければ死ぬことができる。更に言えば、産まれることを繰り返すためには死ぬ必要がある。僕らが僕らの一部を手放すためには、見つかってしまってはいけないのでしょうか。変わるということは、見つかる必要があるように思えるのですが、見つめられ続けるとむしろその変化には気づけない。それに、隠しておきたい僕らの一部というのを誰だって持っているような気がします。 (Answer song)

2017-04-02

詩とは全く関係ないことを承知で三つほど話をさせてください。そして、読んで気分を害される方がいたらごめんなさい。 1.お山の向こう 僕は標準体型で、小便をする時に全く難がないのですが、ある時太った先輩と連れションをした時に「小便をする時に、この山(お腹)の向こうに男性器があって、見えないんだよね」と言われ、衝撃を受けました。僕の人生において、小便する時にそんな困難が起こり得るということを全く想像できなかったのですが、言われてみれば物凄く納得できることで勉強になりました。  女性の場合、おっぱいが大きい方は、自分のおっぱいの裏側を見ることはできないんでしょうか。鏡を見ればわかるかもしれないですが、自分の目で直接見ることは一生できないのかと新しい疑問が今日生まれました。 2.女性になりたい理由  僕は女性になりたいと思うことがあります。その理由は、男性器を女性器に入れる感覚はわかりますが、女性器に男性器を入れられる感覚はわからないので、それを知りたい、ただそれだけの理由です。 3.誰でもいいのか  「あー、モテたいなー」という言葉が嫌いです。じゃあ、自分の好みではない人が100人ぐらい来て告白してきたら、その人は受け入れるのでしょうか。もちろん人それぞれかもしれないですが、なぜ上記の言葉が嫌いかと言えば、「あー、(○○に)モテたいなー」と「○○」の存在が隠されていると思っているからです。  この詩に「刺されたい」という言葉がありますが、刺してくる相手は誰でもいいのでしょうか、と問いかけたいです。「子供が胸を刺されて死んだ事件」という言葉もありますが、それが子供にとって望まれたことなのか、望まれなかったことなのか。刺した方は誰でもよかったのか、それとも、子供じゃないといけなかったのか、それとも、その子供じゃないといけなかったのか、そのように想像が膨らみます。 (dark star)

2017-04-01

 鶏が先か、卵が先か。その答えを知る術がないが、どちらにしても仮の答えを出すことはできる。では、雲が先か、雨が先か、川が先か、海が先か、つまり、水の出自は一体どこから始まったのか。  仮に雲が先だとしよう。雲はやがて雨を降らすと同時に、自らの存在を消してしまう。つまり、雲自らが雨になって地上に舞い降りてくる。それは、全体であり、部分でもあるのだから、人称をつけるとしたら「きみ」になるのか、「きみたち」になるのか。いずれにしても、降りてくる間は雨という名前を持っているが、地上に降り注ぐとそれは一体何と呼べばいいのだろうか。湖や海に降り注げば、その全体の一部となって名前が消えてしまう。植物に降り注げば、吸収されて、その体の一部となる。雲は白かったはずなのに、雨となることで色をなくし、地上に降りることで何かの一部となってしまう。  だが、いずれまた、元の場所に戻る機会が訪れる。湖や海の水は蒸発すれば雲に成り得る。植物が孕む水分も人に吸収されようが、誰かに踏みつぶされようが、いずれ姿を変えて、天に昇る。  天から降り注いだ水は、誰かの一部となり、また天に戻る、その循環。地上にいる「ぼく」は、それを見送るのだが、また同じような姿で訪れる「きみ」に挨拶をする。 (one)

2017-04-01

紅月さん 「書かれるべくして書かれた」というのは、僕にとってもそうかもしれません。 風俗嬢にとっての視点は正直抜け落ちてましたね。確かに僕は一方的に記憶している出来事が多くて、相手側からしたら何もない記憶、でも、そういったことがこの詩のテーマになっているのだと思います。 実際の証明書というのは、名前と印鑑が重要になる気がしますが、この作品においては、そういったものではない「しょうめい」を求めていたんだと思います。 僕は、作品を推敲するのが苦手で、書いている途中は細部をちょくちょく直しますが、書き上げてしまうと一気に投稿してしまいます。そういった意味で完成度、見直す余地はあると思っています。(冒頭の「印籠」のくだりはいらないと思ってます) ただ、他の方のコメントと似たような「この作品を読めてよかったな」という賛辞をいただき、ありがたく思います。 (証明書)

2017-03-26

 星座というのは神話に基づいて人間が作り上げた勝手なルールでしかなく、本来は生まれた星々が偶々そこにあるだけです。そうした人間が作り上げたルールである星座と同様に、「わたし」は容疑にかけられるわけです。容疑というのも、人間が人間に対して適応するルールのもとで生まれるものです。そうしたルールはおそらく誰かが生み出したものですが、長らく使われることによってルールがルールとして習慣化され、それが「いったい誰が判断を下し線引きは行われているのか」という表現が生まれたように思えます。  途中気になった表現が「ことばを吐くのか聴きたいか」という部分です。この表現は、わたしの迷いを表しているように思えますが、「わたしは無実であり最新を請求する」ということで、選択したのはことばを吐くことです。習慣化されたルールに抗うわたしの姿が見てとれます。  それでも、真正面から抗うのでなく、習慣化されたルールから逃げるように走り出し、海辺の町にたどりつき、自然であることを謳歌するのですが、終には「屈強な中年男二人」によって捕らわれてしまいます。彼らは習慣化されたルールの象徴のようであり、「わたしは何も言わずおとなしく連行されて」しまいます。結果的に、ことばを吐けなかったのです。  金平糖は冒頭の星々のイメージを思わせます。相手の要求を飲む(正しい表現かはさておき)という言葉があるように、金平糖を飲み込んだわたしは、わずかながらに原型をとどめている金平糖に原物としての希望を抱いているのか、それとも、もはや別物となりつつあることに受け入れの決意をしているのか、その答えはわたしのみ知り得るのでしょう。 (X)

2017-03-26

 自分にとって恥ずかしい行為とはどんなものがあるのでしょうか。  裸であることは恥ずかしいことです。そこで、「私は恥ずかしいから胸を隠す」のでしょう。でも、それは見る対象と見られる対象との関係性によって、同じ行為でも恥ずかしいかどうかはかわりません。僕はそうですが、家の中での様子と外での様子は全く違いますし、家の中での様子は恥ずかしいから外では見られたくないです。  タイトルの「迷子のお知らせ」というのは、言い換えれば、私と他者との関係性のリセットを表現しているように思えました。「友達、家族だと認識している人の顔は見知らぬ他人」となることで、裸であることが当初は恥ずかしかったものの、そうなった世界に対して受け入れることで、結末の「裸で笑う」ことを導くことができたのでしょう。  この作品で出てくる登場人物をいくつか挙げると、「監視している老人」「研修中みたいな若い住職」「幟をかける体格のいい人」など、何となく権威のようなものを感じさせる人がいくつか登場します。こうした人たちは、関係性を持っていなくとも何となく私との距離感を感じさせるものであり、それと同時に勝手な価値を付与することができます。逆に、私は迷子になったことで、今まで関係性を持っていた友達や家族との関係性をリセットしております。  一般的に言えば、大人は迷子になりません。そして、生まれたての赤ん坊は服を着ていません、裸です。「私」は迷子になったことで、関係性をリセットするだけでなく、幼稚性を纏ったのではないのでしょうか。その幼稚性を纏うことで、感情も理由もなく、ただ最後に残ったのが笑うという行為に繋がったのではないでしょうか。 (迷子のお知らせ)

2017-03-25

 「俺はしなびた葱」という見方は、俺自身が俺に対して位置づけて始まっているのですが、「あなたから見れば/あの小男はひじきで/俺は葱」と、その見方をあなたに託しています。つまり、俺は葱として生きることを甘受しており、俺の中のあなたからそう見られたいという欲望が少しはあるように思えます。  というのも、しなびた葱もひじきもこの作品の中ではおそらく同類のものとして扱われているからです。俺は葱であることを甘受しながらも、「おまえ」のことをひじきだと馬鹿にしたい、俺とおまえとは違うんだ、ということを俺は主張しているのですが、その俺もあなたもあなたか見れば、結局同類=弁当の添え物でしかないのでしょう。  ただ、これらは、俺から見た=推測したあなたの世界観でしかありません。俺の中ではあなたが優位なのであって、俺はきっとあなたのことをまるでお姫様かのように扱いたいのだと思えます。  終わり方は面白いです。これは僕自身のことになりますが、いろいろな買い物をする時に、ついついその金額によって他の選択肢に投資をしたら何ができるのか考えてしまいます。風俗に二万円使うのだったら、そのお金で飲み会4回は行けるな、とか、ドラムの機材が買えるな、とか。この作品において、「あなたの誕生会に/二万円もつっこんで」いるわけですが、それで得られたのは、あなたの喜びでもなく、俺の満足感でもなく、「揚げ物くさ」くなった俺の体という確かな結果でしかありません。揚げ物くさくなるために、二万円も使ったのかという消失感のようなものを勝手に感じとってしまいました。  それこそ、しなびた葱にだって、ひじきにだって、ましてや、噛み切れないローストビーフや冷めたポテトフライには、誰だって二万円を使いたいとは思わないでしょう。結果としては残念だったかもしれないですが、誕生会に二万円を使わせるほどの何かしらの魅力が一時的にでも「あなた」にあったのでしょう。 (消費期限)

2017-03-25

 「いくら悲しい君でも血の色は派手」というセリフを逆説的に捉えると、悲しくない誰で出会っても血の色は派手なのでしょう。そして、感情や内面がどうあろうと、血の色は常に派手であるということが自然の摂理として成り立っていることを想わされます。  洋服は肌を纏うものです。「肌に二色のボールペンが浮き出る」というのは画像的にみると、二色のボールペンが本体であって、纏われる側の肌が纏う側へと役割が異動させられているのでしょう。さらに言えば、「悲しい君」の悲しさもまた、君の内面にあるので、それもまた肌や服や、ましてやこの作品で言えば、表に出てくる血によって覆い隠されてしまうのでしょう。  他の方も言及されているとおり、二色のボールペン=動脈(赤、闘争)・静脈(青、哀愁)を表現しているのだと感じましたが、そこに新たに解釈を付け加えます。リストカットしたことによって、いずれかの脈から結果としては「ちいろ」=赤=闘争しか表に出てくるのでしかないのです。だが、動脈と静脈は役割が別であって、決して交わることはないとわかりながらも、誰にだってその二つを肌の中に纏っているものです。静脈も動脈も肌の下にあることを知っていながらも、実際にそれがどのようになって存在しているのかを確認することは難しいでしょう。ここで、想像力を働かせるならば、動脈と静脈が繋がっている心臓や肺はその二つが混ざっている地点であり、そこでは赤と青が混ざっている、つまり、紫の状態になっているのではないでしょうか。  手首ももちろん大事な体の一部ですが、決して目で見ることのできない体の最も大事な部分である心臓や肺には紫、つまり、悲しみが存在しているように思えます。ただ、その悲しみだって、目で見ることはできませんが、それが冒頭の「悲しい君でも」というところに繋がってくるのではないでしょうか。 (今日も、ちいろはめでたく赤)

2017-03-25

 絶えず移り行くものと変わらないものとのコントラストが描かれています。  冒頭の「はりつめたもの」の正体は決してわかることはありませんが、色を変え、緊張し、緩むことで、常に流れ続けるものです。「まるく調和した響きをめざす」の「めざす」からわかるように、現在はまるく調和していないからこそめざすことができます。  語り手が見ているのは「雪解け水がとおる細い道」であって、足元の方向を見ているのですが、「空が青いことは、なぜか わかる」のです。空が青いということは、自明の理であって、見なくてもわかることなのでしょう。  ホログラムという物体=映像を映し出す装置がありますが、この世界の成り立ちがまるで何かの装置で映し出されているように語り手には見えるのでしょうが、きっと語り手は空がホログラムでは映し出されていないと思っているような気がします。注目すべきは、「まるく調和した響き」ではないでしょうか。語り手は「まるく調和した響き」を持ったものを求めていて、流れ続けるものを眺めているのですが、眺めずとも認識している「空が青いこと」というのは、語り手にとって「まるく調和した響き」をもった完成品であるように思えます。 (ホログラムのアリア)

2017-03-25

 ずるい読み方をしてしまいますが、いきなり結末に触れますと「あたしは それで/未だきえることをゆるされず」というのは、ひらがなで書かれているので柔らかく見えますが、「ゆるされず」という強い使命感=責任感が伴われています。なぜ、この「あたし」がそういった使命感を持っているのでしょうか。それは無論あなたの存在があるからです。  ここで気になるのが、あたしにとってのあなたがどういう存在であるのか、ということです。その文脈を探るには、ここにあるだけの表現で伺いしることができません。ただ、作中には用いられていないのですが、「きつねび」のように浮かび上がってくるあなたの存在をあたしには見えるということでしょう。この見えるというのが、実在しているあなたを見ているのか、それとも、実在していたあなたを呼び起こして見ているのか、さらには、実在していないあなたを想像して見ているのか。これらすらも確証をもって判断することはできません。  あくまでも、直感的なものとしては、実在していたあなたを呼び起こしてみているのだろうと思います。というのも、「あなたは飽きるほど/この頬を/撫ぜてゆきます」や「あなたの手首から/離れなくなるのでしょう」という身体的な距離感の近さをあたしが感じているからです。  あなたがあたしをどう思っているのかは皆目わかりませんが、あたしがあなたをどう思っているかは描かれている以上でも以下でもないとしか言えません。きっと、あなたのためにあたしはきえることをゆるされていないという強い使命感を抱いており、「夕闇を閉じる役目を今日は/果たせずとも構わないでしょうか」というところにも繋がっていたんだと思います。ただ、この読み方をすると矛盾してしまっていて、夕闇を閉じる=夕闇が始まる=夕に灯りがない状態であるはずであり、さらに、「またちろちろと/夜半を越える」のだから「今日は」ではなく、「今日も」果たせない気がしていて、最後に、きつねびであるのはあなたではなく、実はあたしなのではないかとよくわからない状態になりましたが、無理やり終わりとさせていただきます、申し訳ございません。 (きつねび)

2017-03-24

 冒頭の表現に細かく注目すれば、「長い黒髪 風にゆらめかせ」というのは、髪が自然の力によってゆらめかされているのであって、風がなければ、女子高生に限らず人は自らの力=意志で髪をゆらめかせることはできません。そうした、自然の外部的な力の働きによって始まったこの作品は、そうした無意識的な作用によって展開されているのだと思います。  そのため、女子高生の顔面が落ちるのも、きっと自然な現象として受け入られる気がします。それも「何枚も落ちる」のであって、「落ちて入れ替わ」るのですから、いくつの顔面を持っているのかと気になります。また、顔面はあくまでも顔面であって、顔の表面でしかありません。「静止した胴体と反して次々変わる顔面」は、風で髪がゆらめくように自然なことであって、周りの風景も激しく変わりだすのも自然なことと思うしかありません。  全体として、諸行無常、つまり、何事も変わり続けていくことを描いているのだと思うのですが、女子高生の胴体は静止して動かないというのが何を意味しているのでしょうか。この世界では、顔面という一つのものから始まるのですが、結果的に世界そのものが激しく入れ替わっています。その自然の摂理=ルールを無視してしまう、言い換えれば、世界に流されない女子高生の胴体は強固なものと言えるでしょう。  動くことのない女子高生の胴体は、意志を持たず、また、世界についていくことのできないはぐれものというネガティブな見方ができますが、同時に、世界に流されない強いものというポジティブな見方もでき、両義的などっちつかずのものとして感じられました。 (夕陽に顔面)

2017-03-24

奏熊とととさん 僕が想定した以上に、詳細に書いていただき、誠にありがとうございます。 表現の生々しさ、というところは、確かにこの詩の持ち味かもしれません。 背景を語ってしまうと、作品が色褪せてしまいそうで、正直語りたい気持ちがあるのですが、そこは我慢して、ただ、生々しさを感じていただけたのは幸いです。 溶接に出っ張りがないというのもいい表現ですね。 詩は声であると僕なりに定義づけているのですが、それは呼吸であって、また、転調・変調も起こりうるものだと思っています。 そうした、転調の境い目を意識して書くこと・読むことはおそらくどんな詩にもあてはまることで、一行と一行の間のスピード感というのは、まさにその人なりの呼吸のスピードだと思います。 重ねて御礼申し上げます。 まりもさん 肌感覚や感情にかかわることを書いていないというのが少し驚きました。 というのは、僕が書いたから僕はわかってしまうのかもしれないですが、この詩は僕の弱さが滲みでてしまっていると思っているからです。それをごまかしているのかもしれないですね。 まさに「風俗」は、日常と地続きにある世界だと思っております。そこにいる人、来る人、場所だって、見落としているに過ぎなく、どんなものにも僕と同じような生もあれば、僕と違う生があるのだと信じています。 (証明書)

2017-03-23

 題名からしてそうですが、中身=実を伴うことに対するイメージが連鎖しているように思えます。実を結ぶというのは、一つの形をまとうことと同時にその場に留まることを表しますが、水子や影というのは定まった形を持っておらず、また、特定の場に留まっているわけではありません。  声というのは、発する主体があるからこそ存在できるのですが、それは声という形をまとっています。つまり、声以前の歴史、声が声になる前は主体の想いや何かが形になっていない状態にある気がします。ただ、「声のみの声」というのは、声という形を持ちながらも、その中身のない、まるで種のない果実のようなものでしょう。思えば、「無実」というのは実が無いと書きますね。中身の伴わない形だけのものということでしょうか。  そして、言葉にとっての実は、この詩で言えば意味にあたるのでしょうか。この詩の「私」もしくは「我」は実の伴った言葉に期待を抱いているのでしょう。そして、私は私なりの中身=「私の春」を持ってはいるものの、それはきっと誰かに捧げられた実ではなく、誰かに開けられることのない私の中身であり、また、その実が豊かなものであるようには思えません。つまり、この「私」そのものはおそらく中身のない実として描かれているのではないでしょうか。「私が私であるがゆえにゆえにがゆえにであるが故に無実の果実にあなたを捧げますか」というのが、そういったことを思わせます。  最初に、形のないものは特定の場所に留まることがないと書きましたが、最後の徘徊する様は「私」自身が形を持たずに徘徊しているように思えます。実を結ぶということは、植物が定住する地を定め、根を張り、その場所に留まる必要があります。特定の場所に留まることをしない限り、あらゆるものは実を結ぶことがないのではないでしょうか。 (声のみの声――起草)

2017-03-22

 一般論=当たり前であるかのように、淡々と語り手の見ている世界の成り立ちが表現されていますが、この語り手とは無関係な世界は確かに淡々と変化するのみですが、語り手と関係のある事物、つまり、「君」に関する事項については、躓きが表現されている気がしました。  「終わっていないすべてが/彼らになってそこを行き交う」「空にも地上にも/いい生き物たちがいる」といった表現は、おそらく語り手がいなくても成り立つ世界=一般論ですが、「君を涙するすべだけを知らない」というのは、語り手と君との関係性がないと成り立たない世界です。この詩において重要なテーマは、全体と部分であると捉えました。「物語に汚染された道の上を/小さな生き物が歩いてくる」というのもまさにそうです。  この詩において、その全体がどのように描かれているのか、語りにとってきっとよいものではないのでしょう。特に人々が生活を送る地上=道というものがそこに生きてきた人々の歴史に覆われていることがあり、人々の歴史に染まらないであろう空の世界に希望を見出しているように思えます。ただ、その空も結局は人々=「いい生き物たち」の住処であることは、「地上で木になった/微笑たちはやがて/そこに引っ越すのだろう」という表現からわかります。  様々なモチーフが交差しているのですが、でたらめなわけではなく、きちんと使い分けられており、人=木・森・植物であり、地上や道がそれらの人が住み着く場所であり、人が枯れてゆくといったモチーフもきちんと徹底されていて、この世界の見方というのはとても魅力的でした。  話は戻りますが、この詩における大きなテーマは全体と部分であると思いますが、全体の中における部分ではなく、部分と部分の交わり合いというのが重要なのだと考えられます。冒頭から何回か「行き交う」という言葉が出てきますが、これは交わることのない無責任な交差でしかないのでしょう。終わりに向かっていくまでの展開は実に見事です。風がみなもと交わりはじめ、緑がそよぎ、そして、君がみなもの時間と交わるのです。ただ、池の時間を笑い合っている人たちと君は、語り手にとって交わらないように見えていいます。  この語り手は、カメラアイ=眼差す人です。そして、フェードインやフェードアウトを繰り返しつつ、その焦点には君がいるのでしょう。すべての物事はフェードアウトして遠くから見ることで同じように見えてしまいますが、フェードインすることで、事物の違いを見極めることができるのでしょう。「透んでまた、映じていった/その小々波/海の時間」というのは見事なフェードアウトです。部分でしかない小々波の映像から見事に海全体の光景へと読者を運びます。そうしてまた、語り手も君もいい生き物たちの区別がない世界へと導かれていくのです。 (待つこと)

2017-03-22

もとこさん 詩にリアリティを求める、求めないは人それぞれであり、これが実話かどうかも議論すべきかどうかはわかりませんが、リアルで面白いという評価はうれしいものです。 後半部については、僕から特に申し上げることはありません。 ただ、風俗というのは、お金と行為による明確な利害関係が存在するのですが、その関係性を幾層にも重ね、また、風俗嬢という存在の層をたずね、それと同時に、「私」自身にある幾層の「私」を表したかった結果が、「きみ」へのこだわりが必要だったのかもしれないです。 (証明書)

2017-03-22

どしゃぶりさん 風俗ネタに限らず、すべての人の生には、その人なりの歴史が必ずあるはずで、そういったところを探るのが僕は好きです。 そういった意味で、たとえ風俗嬢であろうと、むしろ風俗嬢だからこそ、なぜあなたがそこにいるのか、ということが気になってしまうわけです。 詩にできそうで、なかなかできないイメージがあるかもしれませんが、それは風俗に限らず、あらゆるものが詩になりうるものだと信じて、それを感受する側の問題として、僕は挑戦し続けたいですが、やはり、僕は風俗ネタが好きですので、僕は僕なりに自然な行為だったと言えるでしょう。 (証明書)

2017-03-21

花緒さん コンパクトにまとめていただいて、ありがとうございます。 この作品は勢いのままに書いてしまい、私の中で書こうと思ったことと書こうと思っていなかったことが交錯して、結果的にこの形になりました。 分岐点によって選択されなかった言葉たちもいずれは何かしら書こうと思いますが、「勉強」というより、何かしらひっかかるものがあったなららば幸いです。 (証明書)

2017-03-19

 結論から述べてしまうのですが、この「わたし」は自己肯定をすることで愚かさを受け入れようとしているのだと思いました。  冒頭三つにある「わたしの知り得ないところで」の産物を見ている「わたし」は、それぞれの産物の背景を想うことができる人です。ただ、4つ目は急に転調して、「劣等感の中の生臭さ」という抽象物を「わたし」が見つめることになります。この「劣等感の中の生臭さ」は、他人のものなのか、「わたし」のものなのか、そのどちらを見つめているのでしょうか。  次の列挙は「話すこと」についての言い換えです。確かに、「話すこと」には、その背景として話す主体の感情や歴史が含まれているのであり、それによって話し方というのは一様にならないのだということを改めて認識させられました。  「宇宙で一番うるさい星」というのは、本当にそうなのか?という疑問が湧くフレーズでありますが、この「わたし」がなぜ地球をそのように定義づけることができるのか。それは、冒頭の「わたしの知りえないところ」が鍵となっており、おそらくこの「わたし」は自らが見た世界に対して、大いなる信頼を抱いているのでしょう。宇宙の中に多くある星は想像の世界にあるに過ぎないのですが、この地球に生きている以上は、この地球で起きていることをこの「わたし」は見ている、つまり、この地球以外の星で起きていることは見られないので、おそらくそのように言い切れたのでしょう。  「物が捨てられないんです」「癖になっているんです」というのは、きっと「わたし」の愚かさ=名前の中の個性を話しているのでしょう。また、最終連の「名前の中の個性は、わたしの知り得ないところでたくさんの分裂が繰り広げられた閃光だ。」というのは、名前のないものが飽和している都会に対する逆説の見方です。冒頭及び途中では、「わたし」は「わたしの知り得ないところ」で起きたことに対して信頼をしないように思えたのですが、最後のフレーズは、わたし自身=わたしの個性が「わたしの知り得ないところ」での閃光によって生まれたことを受け入れたことを表しているのではないでしょうか。  つまり、わたし自身がわたしの知り得ないところでの結果としての産物であって、わたしの個性=愚かさ=「物が捨てられないんです」「癖になっているんです」というのを、言わばわたしから手放すことによって、自己肯定をしようとしているように思えました。 (潔癖症)

2017-03-19

 作中に出てくる「水晶体」のように、洗練された表現が印象的です。  詩の冒頭では、おそらく太陽が雲に隠れていて、その雲が次第に消えゆく過程を独特の言い回しで表現しているのだと思います。地上から見た空は、雲がなければそのまま表側として見えますが、雲=「白いように思えた水」があると、地上からはその雲の表側のみが見え、その裏側にあるはずであろう空が見えてきます。「辺りは両端から這うように消えてい」くことで、光が地上に走ってくる。  思えば、雲が白く見えるのも、雲が水で出きているのではなく、飛散している粒子と水が結びつき、その粒子が光を屈折させて、地上の人間の眼に感知されるので、白く見えるような気がします(間違っているかもしれません)。それと同時に、空がいわゆる空色として色があるのも、光の屈折が大いにかかわっているはずでした。  空は空色、雲は雲色、ただ、雲は水でできているはずなのに、地上にある水はいわゆる水色とは違います。いわゆる水色は空色とでも言うべきな気がしますが、混じり気のない水は透明です。  二連目は場面が転換して、前後の文脈を無視したワンシーンが映し出されますが、その前後の文脈も「あなた」も「私」も何があったのかは知る由がありません。ただ、そこにある事実は、目をつむったあなた・言葉を失っていた私・白いように見えたシャツでありますが、第一連を受け、「私が見ている世界は確証を得られない世界である」ということが表されているのだと思います。  自分が見ている色を他人が同じように見ているとは限らないですし、また、自分が何かの色を言い表す時、その色の名前を知らなければ表現することができません。色を特定することと同様に、自分が見ている世界を言語化するという行為は、自分が見ている世界を言葉という枠組みに当てはめて、たとえ暫定的=一時的であろうと、見ている世界に確証を持つということだと思います。それができないでいる「私」は、やはり自分が見ている世界に確証を持てないのだ、という姿勢が作中で表れているのだと感じました。 (屈折率)

2017-03-19

奏熊とととさん 十分すぎる賛辞です、ありがとうございます。 大変おこがましいことを承知したうえで申し上げますと、気に入った部分やフレーズなどを提示していただけたら、今後の参考にさせていただきます。 (証明書)

2017-03-19

黒髪さん 実はちょいと昔ですが、朔太郎研究をやっておりました…。 処女詩集『月に吠える』に収録されたこの作品は無論代表作で、伝説的な作品ではありますが、そのよさを語るのはなかなか難しいです。 ありふれた批評で言えば、文語定型詩→口語自由詩に移り変わる中で、竹の生命力をその自由詩の語感(音の連鎖)によって言い表しているのが当時斬新だったのでしょう。 (余談で、読んだこともないのにこんなことを言ってはいけないですが、口語自由詩の先駆=朔太郎と言われますが、川路柳虹の方が時代的に先だったのに、あまり注目されないのは、形式的な問題だけではなく、朔太郎の詩に人を引き付けるものがあったからでしょう) これだけ「生え」とくどいぐらいに繰り返されると、確かにあの鬱蒼とした竹林のイメージ、止まった時間=点的な時間ではなく、成長していく変化=線的な時間を想わされます。 あと、朔太郎は一つの事物に対しての執念が人一倍強いように思えます。この竹に対する執念。それはまるでぬめっとした執念であって、僕の作品は逆にからっとしたものであり、また、事物が交差している点が朔太郎の竹と異なっているのだろうと思います。 街が血管で、歩く人が血というのは、書いている時には思ってもおらず、今読者となって読み返した時に思いついた後付けです、申し訳ありません。 (あの夜の街で)

2017-03-19

黒髪さん ご助言いただきありがとうございます。 ただ、ショーウインドウの中身も流出していく血液の流れも、無責任を承知で言えば、皆様にお委ねしたいと思います。 強いて言うならば、街が血管であって、そこを歩く人そのものが血であるような。 僕は朔太郎でないので、「竹」なみの作品をつくることはできないですが、「竹」のどのような部分が必要なのでしょうか。 葛西佑也さん コメントいただきありがとうございます。 僕は詩に対してストーリーが伴うことを全くもって否定していないのですが、この作品に限って言えば、内容的にも形式的にも躓かせてはいけないような気もしていて、無意識的に歩くように。あと、同じ道でも躓くか躓かないかは歩く人次第だと思います。 (あの夜の街で)

2017-03-18

 冒頭の「私は傘になりたい。」という言葉がこの作品の鍵であるわけですが、いきなりこの言葉を読むと「ははっ、何を言っているのか」と最初はやり過ごしてしまいます。それがむしろよくて、作品を読み進めていくにあたって、この言葉に意味づけがされていきます。  この私は家族の中にいながらも、その家族とは距離をとっているだけでなく、私自身からも距離をとっています。「私は私の食事をしていた。」という語りは、通常であれば「私は食事をしていた」と表記すればよいと思いますが、あえて「私の食事をしていた」とあるのは、私が私から距離をとって俯瞰してみているような印象を受けます。そのことによって終盤の「そこにあるのは私の知らない家族でした。十数年過ごしてきて、初めてその存在に気づいたのです。」ということが言えるのでしょう。目の前で起きていたであろうことを客観化できているのは、ここにある「そこ」という表記からも伺えます。  あと、この詩全体というより、特に段を下げて私が語っている部分について、私は誰に向けて語っているのでしょうか。きっと、家族に向けて語っているのではなく、私が私に向けて言い聞かせているような気がします。そうすることによって、整理のつかなかった家族の状況に対して私なりの意味づけを完了すること=私が私に向けて語りかけることで、さきほどの「初めてその存在に気づ」くことができたのだと思います。それはきっと、タイトルになっている「明日も、雨なのですか。」というのも私が私に向けて言い聞かせて納得させているように思えます。  話は戻りますが、私とその家族との距離というのを一番感じさせたのが、やはり「私は傘になりたい」のリフレインです。私が傘になることで一体何が可能になるのか。それは、外では雨が降っており、誰かが外に出る時に傘になった私を使えば、外に出られるのです。ただ、それはきっと叶わない夢であります。傘は自らで外に出られることはできません。誰かに使われることによって外に出られるのです。それに、この家族には雨が降っていても傘を使うであろう家族はいません。  「外では、雨が ぽつり ぽつり と、降り始め。」というのは、家の中から外を見ており、おそらくこの私は家の中にいることが多い気がします。タイトルの「明日も、雨なのですか。」というのは、一見ネガティブな言葉に思えてしまいますが、それをチャンスだととらえて、「私は傘になりたい」と思えたのではないでしょうか。 (明日も、雨なのですか。)

2017-03-18

繰原秀平さん 僕にとっては、歩くことと息をすることの二つの無意識的な行動を意識的な言語に置き換えただけなような気がします。皆様の感想とも重なる部分があるのですが、死との兼ね合いで捉えられることが自分では驚きでした。 ただ、無名の存在の強さを認めていただけることは、僕に限らず日常においてとても喜ばしいことだと思います。 まりもさん おそらく何も考えていなかったような気がしていて申し訳ないです。 これはあまり関係ないですが、僕は町と街の使い分けについてはかなり意識的に用いているつもりです。 (あの夜の街で)

2017-03-18

 語り手が語り手に徹している、というより、観察者としての立場を全うしているからこそ、不思議なことが当たり前に起こっているかのように淡々と語られています。そのため、描かれた主体は何の疑問もなく、すらすらと登場してきて、それと同時にすらすらと読めるのですが、やはり、そこにあえて疑問を投げかけることで、この作品がより拡がっていきます。  招かれざる客という言葉がありますが、このお宅に招いた客は、自らが避難させた鉢植えであって、招いてもいないであろう客は、お日様です。ただ、実はそれだけでなく、クジラの死骸もなぜか外からこのお宅の脱衣所に避難してきたわけです。雨が降っているという外から、あえてお日様がいるところに避難してきたクジラの気持ちはわかりません。この疑問は、僕らの日常でも同様で、海岸にクジラの死骸が打ち上げられる時に抱く疑問とほぼ同義であると言えるでしょう。  そして、急に咲くマリーゴールドは必然的に咲いたのか、偶然的に咲いたのか。もし、このお宅にお日様やクジラの死骸が避難してこなかったらマリーゴールドは咲かなかったのでしょうか。結果論でしかありませんが、鉢植えを避難していなかったら=雨から逃れることをしていなかったら、きっと咲かなかった気がしますし、お日様やクジラの死骸がなかったら咲かなかった気がします。それこそ、この詩の作品の淡々とした語りがもたらす効果であって、重なる偶然が必然として語られているように思えます。  この作品は実に奇妙な終わり方をしています。雨が止むというのに、お日様はなぜ傘を借りて外に出たのか。それがお日様ではなく人であったなら、一つの疑問=雨が止んでいるのに傘を持つ不思議しか湧かないのですが、主体がお日様であるからこそ二つ目の疑問が湧きます。それは、このお日様は自らの役割について理解していないのだろうか、ということです。きっと、お日様がこのお宅に避難しているから外に雨が降っているのですが、お日様が外に出れば雨が止むはずなのに、もしかしたら雨が降るのかもしれないと思っているのか、傘を借りていってしまうのです。僕の家にお日様に来たことはないのですが、もし来たとしたら、出ていく間際に肩を叩いて「周りは誰も傘を持っていないから、多分恥ずかしい思いをしてしまいますよ」と声をかけようと思います。 (雨ということで)

2017-03-18

 不思議だなあと思ったのは、「校庭でふざけあう子供たちのなかに/ひとつだけ人形が混じっていた」人形が、最終連になると「顔のない人形たち」と複数になることです。この私が見える世界に変化が訪れたのでしょう。というのも、新聞紙で目にした「銃撃 という記号」をもとに、校庭での様子を「命がけの銃撃戦」と意味づけしていることからも、この私にとって、この世界の見え方に変化が訪れたのがわかります。  新聞紙に書かれていることは事実かもしれません。ただ、この私に限らず、僕だって、新聞紙に書かれているのはあくまでも文字であって、本当に起きているかどうかは、そこに行ってみないと確証は得られません。逆に言えば、この私は読んだり聞いたりした物語よりも、いまここで見ている世界に対してより信頼感を抱いているのでしょう。  その見え方に変化が訪れる契機はどこにあったのでしょうか。この私にとっては、 「いつも日没は反覆だった」はずです。その繰り返しをただの繰り返しとやり過ごすのではなく、人形が増え、物事を銃撃戦と捉えられるようになったのは何故なのか。  そう考えると、この私は常に物事をなにかに喩えることを求めて続けている姿が見えてきます。「西日が差す教室も/窓の外の景色もすべてモノクロで/なにかに喩えてやりすごすのはとてもむずかしい」と述べながらも、目に映る景色をなにかに喩えてやりすごすことがこの私にとっての生きる術となっているのでしょう。そこから、改めて最初から作品を読み直すと、この私の世界の見方が自然なものと思えてきます。  ただ繰り返される=反覆されるものは、ついついやり過ごしてしまうものです。その景色をなにかに喩えること、つまり、ついつい私なりの意味づけをしてしまうことで、世界の見え方に変化が訪れます。 それは作中から離れ、今を生きる僕たちは、景色はそこにあるはずなのについついやり過ごしてしまう。そこに意味づけを出来ていない無責任さのようなものを思い直しました。 (セパレータ)

2017-03-15

 語り手が「女」であるのか、それとも「ヒール」なのか、「足裏のいもり」なのか、ついつい混乱してしまいます。  これだけの過剰な欲望を抱かせるほど、女にとっておまえという存在が大きいことがよくわかります。あくまでも僕の場合、自分の人生をある程度犠牲にしてまで咬み裂きたいと思える人はいません。誰かを傷つけることは、自らもまた代償を負うものだと思っております。無意識的に人を傷つけてしまっている場合はまた別ですが…。  最も狂気を感じさせたのは、「黄濁した粘性の液体を/おまえの喉元深く/突き刺してやる」という部分で、粘性の液体が突き刺すほど鋭利なのかと。それとも、量は質を上回るということで、えげつないほどの量の液体を喉元にふっかけるのかと。  この作品が読者の想像力を掻き立てるのは、この女の視点しかなく、作中の「おまえ」が一体女の何であって、一体何をしたのかということが一切描かれていないからです。ただ、この女が一方的に「おまえ」を想っていること、女と「おまえ」とに距離があることは間違いなさそうです。「おまえを けっして/のがしはしない」と言いながらも、「待っていよ そこで」と、おまえがいる場所を「そこ」としか言えないでいるこの女はもうすでにおまえをのがしてしまっているわけです。何となくですが、この女にはどうも「おまえ」を捕らえることができないように思えます。「待っていよ」と願うのは、おまえを見つけて、咬み裂き飲み尽くしたいからです。ただ、その「そこ」をきっと知らないでいる女。それに、「おまえ」は女の気持ちが届いていないわけですから、もちろん待っているわけがないでしょう。むしろ、この女が「おまえ」を引き付ける何かを持っていたらなあ、と想像してしまう僕もまたこの女のように暴力的なのだと思います。 (Heel improvisation)

2017-03-15

 いきなり結末部分について触れるのですが、「誰か教えて始まりを」の連は一体誰の声なのだろうかと考えました。そして、「望まれなかった神話の」の連も同様に誰の視点から見た世界なのだろうかと。特定はできないのですが、「誰か教えて始まりを」というのは、アタシの声でありながらも、もとこさんの声でもあるように思えるのです。最後の連における「期待されない女神様」は「アタシ」であって、それまでは、アタシ視点で詩行が展開されていたのに、そのアタシが女神様という三人称になって俯瞰された世界へと展開されている印象を持ちました。  「アタシが目覚めたら/世界が弾けてしまう」のは、きっとアタシが神様の一種、もしくは自意識によって神様だと思い込んでいる存在なのでしょう。そのアタシと対比されている「伏せ目がちの神様」や「ひからびた胎児」の行ったことや言ったことに、アタシは納得がいきません。ただ、このアタシに問いたいのは、目覚めたら世界が弾けてしまうということを本当に知っているのでしょうか。世界が弾けたらアタシもそこに存在できないのではないでしょうか。それとも、世界が弾けてもアタシは神様だから世界の外に存在するものとして存在し続けられるのでしょうか。  「惨い現実も残酷な真実も/お腹いっぱい食べ飽きた」のは、やっぱりこのアタシは神様としていろいろなことを見てきたという自負を表しているのでしょう。食べ飽きた=見飽きたからこそ、現実や真実を見るのではなく、目を閉じて夢を見るのでしょう。 そんなアタシは見飽きた現実や真実をそれでも見続けないといけない宿命にあるから「誰か教えて始まりを」という連の欲望を抱くのでしょう。神様はいつまでも生き続けなければならないから、始まりも終わりもなく、ただ有るのであって、無になることもありません。  このように考えると、やはり最終連の女神さまが「バトンタッチを待っている」のもこの宿命から逃れたいアタシがそこにいるように見えるのです。 (Tangerine Dream)

2017-03-15

まりもさん 「都会というスタイリッシュでドライな場所」という表現はしていないつもりで、場所を想定して書いたわけではないのですが、おそらく何かがまりもさんにそのような場所を思わせたのでしょう。 「自分自身を確認できない、したくもない、させられたくもない」というのは核心をつかれたような思いでいます、多くは語りませんがあまり僕から述べる必要がないように読んでいただけて幸いです。 三浦果実さん 結果的に嘘をついてしまったのか、故意に嘘をついているのかで、嘘の捉え方も異なるように思えます。 どちらにしても、「じゃあ、本当は何?」という疑問が湧くわけですが、嘘が嘘であるためには、その本当を知っている必要があります。 つまり、嘘だとわからない嘘は、聞いた人にとっては、本当でしかないのではないでしょうか。 事象そのものを描き、それを受け入れるしかないとは思いながらも、この詩には欲望が出てしまっているのかと考えさせられました。 (あの夜の街で)

2017-03-15

kolyaさん 作品をリメイクしてお返事をいただきありがとうございます。 今になって、詩を書いた時の心境を思い出しましたね。 今は明かしませんが、これの続編ではないですけれども、着想を頂いたので、気が向いたら作品を書きます。 もとこさん 朗読については常に考えています、元々Ustで自作の詩を読んでいたりしていました。 言葉の連関をイメージだけに頼らず、音の連鎖で繋がりを持たせるということも大事だと思っています。 というのも、僕は詩を「声」「語り」によるものだと考えているからです。 「誰に向けて、何のために」というお言葉がありますが、きっと目的などないのでしょう。トートロジーのようで申し訳ないのですが、そうなったからそうなったのでしょう。 好き勝手に想像しながらお読みいただけたのなら幸いです。 (あの夜の街で)

2017-03-14

 君のことを理解できていないでいる僕は、君を理解できないのか、それとも、理解していようとしていないのか。というのも、「たくさんのこと」が「たくさんのこと」と一括りにされてしまっていることから、先ずそのようなことを考えました。この「たくさんのこと」は様々な要素から成り立っているはずであり、君にとってはその一つ一つがきっと意味のあるものだと思うのですが、僕にとってはそれが「たくさんのこと」でしかなく、解きほぐそうとしていない。だから「美味く救えない」のだけれど、「容易く別のものを求める」のは、きっと君のことを理解できないのではなく、理解していようとしていない、もしくは、理解から逃げているように思えます。  ただ、君はひたすら僕もしくは僕の何かを求めている。「なにか大切な何かを零しゆく」のは、自然な現象ではなく、君の動作によって「零れさせられている」のではないでしょうか。ただ、ここでも「なにか大切な何か」と、僕から零れているはずのその何かの正体を僕ですら理解していない。  この詩は、「意味づけ」が鍵となっているように思えます。というのも、「たくさんのこと」や「大切な何か」もそうなのですが、きっと意味づけされていないから括弧内の言葉がひらがなになっているのでしょう。ただ、意味づけされていなくても、何となく口ずさみたくなるような言葉は確かに存在するような気がします。ただ、これらのひらがなは、実際には口に出されていない言葉なのでしょう。「けれどそれが生まれずにいるものですから」ね。  僕と君は付かず離れずいるのでしょうが、「唇が約束印で絆され」ています。この言葉はタイトルであり、作品の中盤にも何気なく用いられていますが、実は最終行にかかっているのだと思えます。「おんなじごはんを今夜は食べよう」というのは、付かず離れずいる僕と君との約束だとも言えるのではないでしょうか。  この僕と君とに限らず、誰かと誰かはわかりあいたくてもわかりあえないということは日常茶飯事です。ただ、その繋がりを担保にしてくれるのが、きっと約束するという行為なのでしょう。約束が二人を結び付ける。 (約束印の絆)

2017-03-14

 この接吻の絵には、誰が描かれているのでしょうか。あたしと誰か、なのか、誰かと誰かなのか。つまり、あたしがあたしを直接見ることができないために、あたしが接吻するのを夢見るということは、あたしを客観化した事物=絵に落とし込むことが必要になったのでしょう。見るためには、見るものと見られるものの間に距離が必要です。  話は変わりますが、誰かと握手する時、それは誰かの手を握っているのと同時に誰かに自らの手を握られているという能動と受動が同時に起きています。それは、接吻についても言えることでしょう。接吻するということは、接吻されるということ。  「いつもあるのに接吻を忘れた唇」は、接吻することを忘れたのでしょうか、それとも、接吻されることを忘れたのでしょうか。いや、することもされることも忘れてしまったのでしょう。たとえ、「母さんの乳を飲んで」いたとしても、おそらく接吻そのものの魅力としては何かにかけているはずです。そこに、「愛が流れ込んで来」るのかもしれないですが、唇が乳を求めようとも、乳は唇を求めないでしょう。  唇が求めているのは、唇。他人がいくら隣で「痛い!」と言っても、その痛みを代わりに引き受けること、実際の痛みを感じることはできません。それでも、他人の痛みを痛いものとして思えるのは、私自身の経験から痛みの推測をするしかないのです。唇と唇が触れ合う接吻は、することとされることが同時に成り立つからこそ、他者に対して入り込む感覚があると同時に、他者が入り込んでくる感覚が味わえるので、私と他者の境い目がなくなるような感覚に包み込まれる麻薬なようなもの。 (なんだか、接吻論みたいなものになってしまい、申し訳ありません) (唇の皮に色が着くよう)

2017-03-14

コメントいただきありがとうございます。 「イメージを結び付けながら読む」ということがありましたが、文字そのものの連環と声に出した時の語感を重視した作品でありまして、イメージ=映像としての連環もあるといえばあるのですが、まさに歩くようにお読みいただければ幸いです。 (あの夜の街で)

2017-03-13

 このぼくは実に好奇心旺盛であり、それがぼくをぼくたらしめているのでしょう。ぼくはおそらくいろんな街を見てきており、それだけでなく、森のおくの森までいったことがあります。それも一人で。ただ、ひとりぼっちの孤独を洗いながそうとしているので、ひとりぼっちであることをいろいろなこと=未知に出会うことで紛らわしています。  その好奇心が、七色のカタツムリの殻=未知との出会いを引き寄せたのでしょう。そして、つい宇宙について考えてしまうのも、その未知への期待から考えてしまうように思えます。宇宙に行くことや見ることはできません。だから、考えるしかないのです。  たとえ、目の前に耳鼻眼科があったとしても、ぼくは未知を期待してついつい足を運んでしまいます。受付の看護婦が述べていることは、いろいろな事象が散りばめられています。カタツムリの殻が、歌手=遠い存在が使い始めたこと、若いおんなのこたちから憧れのものであること、道徳的な教えを受ける女学生には禁止されていること。ただ単に興味を惹かれて数え始めたカタツムリの殻にそんなエピソードがあったとは、もちろん想定していなかったぼくはつい身じろいでしまいます。  期待を越えたであろう未知との出会いにいざ遭遇してしまうと、ぼくは委縮してしまったわけです。「まなざしはこころからのささやかなプレゼントである。」という冒頭は、初見だと、何だか温かい言葉であるように思えたのですが、結末まで読んでからまた冒頭に戻ると、この言葉の意味合いが違って思えてきます。このぼくに問いかけてみたいです。  「今となっては、まなざしがあなたにとってささやかなプレゼントですか?プレゼントには有難迷惑もあるかもしれませんね」なんて。 (まいまいつむりのまいこちゃん)

2017-03-13

 適した言い方ではないかもしれませんが、このように力を抜いて書かれた詩がいいですね。  みんな特別だったら、それは普通ですから、特別ではないですね。つまり、特別であるということは、普通からの逸脱・普通との比較によって成り立つものであって、綺麗・汚いも比較の問題なのでしょう。それが、「綺麗でいるためには汚くいないといけない」となってしまうのが、ちょっとわからない部分でもありました。  個々のフレーズが簡単に書かれているようでいて、魅力的で、かつ、不思議な部分でもあります。「教科書を馬鹿にしてる」のに、「恋愛論下さい」というのも、何だか矛盾しているようで面白いですね。 (プレパラートフレーズ)

2017-03-13

 実際に多く食べられているかは置いといて、ベーコンエッグは朝食の象徴として用いられているのでしょう。ただ、この詩においてテーマとなっているのは「朝」と「生」であり、直接的には語られていませんが、ベーコンエッグが「今日も生きるんだね」と責められながらも、ベーコンエッグ自体はそれこそ朝の象徴でありつつも、死の象徴でもあります。卵と肉は、それこそ生命の死そのものです。それも有機物の死。食べるということは、何かの死を抱いて生を続けるということ。逆に、反吐を吐くということは、何かの死を一度は抱きながらも、それを拒むということ。つまり、無理やりではありますが、死に近づくことだとも言え、同時に、生きることでもある。  マネキンもブリキもくるみ割り人形も、何かを食べずとも存在できるものたち。彼らがいつまでたっても生きることができないのは、食べるということを知らないから。タイトルや本題から逸れている気もしますが、そんなことを考えてみました。 (常識的に安定した殺人ウイルス)

2017-03-13

 一読魅かれました。コメントがいらないくらいによい詩だと思いますし、うまくコメントができないですね。それでも、なんとか頑張ってコメントを。  双子葉植物は生まれた時から双子葉であることを運命づけられていますが、この語り手は他者との交流=侵食を拒んでいます。  途中の片鍵の部分は、「グライドする視界」=移りゆく記憶の断章を表しているのでしょう。侵食を拒みながらも、侵食されてしまった記憶=「傷口に張り付いていた/棘の群れ」は、語り手にとってもはや吐き出すことのできないものです。前半で「せめて、唾を吐く、抵抗」をしているのですが、「これ以上身体が千切れないように/長く息を吐く」のも、きっと抵抗の表れなのでしょう。  様々なモチーフが語り手と「Dicotyledon」を交わらせていて、それがまた魅力的です。「血の透ける腕」は植物の維管束を思わせ、「羽根」はそれこそ「Dicotyledon」そのものです。ただ、一行目が魅力的でありつつ、ここがこの詩のミソになっているのでしょう。それは、①隠そうと思っても隠せないものがあるということ。それと同時に②隠しているつもりでも隠れていないものがあるということ、また、③見えているものを他者が勝手に評価すること、もしくは、隠しているものを他者が勝手に見えていると思ってしまうこと。特にこの3つ目が、この語り手の侵食を拒む理由になっているような気がします。  ここまで書いといて、見当違いな気がしてきましたが、それでも少しだけ続けて終わりにします。  と言うのも、あまり語るべきではないですが、僕自身、汚されたくて煙草を吸っています。少しでも死に近づけるように煙草を吸っています。肺はまるで、「Dicotyledon」のような形だなあ、とふと思いました。この詩には、見当違いかもしれないですが、読み取ろうと思えば、煙草のモチーフがいくつも隠されているように思えました。隠してはいないかもしれませんが、このように勝手に見えているものだと見られてしまうことを「こんなので繋がりたくない」と拒否されてもしかたありません。 (Dicotyledon)

2017-03-12

 「午前五時」について皆様もご意見を寄せておりますが、この時間に対する意味合いはこの詩の中で表されているので、説明してしまうとその意味合いが色褪せてしまうことがあることを承知で、僕なりに読み解きます。  この詩における「午前五時」は、夜と朝の狭間です。夜でも朝でもなく、「立ち尽くす僕の影に/群青は消えた」時間でしかありません。夜の時間帯は、日の光がなく、僕に影はできませんが、朝、日が昇ると僕の影が現れると同時に、「闇の中躍る街」が照らされて、その闇は消え行きます。つまり、街は闇の中で踊っていたと同時に、闇は街の中を覆っており、現れゆく僕の影にその闇が集約されるように消えてゆく、その瞬間が午前五時なのでしょう。  僕の影も街を覆う闇も僕の意思で動かせるものではありません。午前五時以前は、ひたすら闇に覆われているわけですが、その闇を照らすものが唯一「星屑」なのでしょう。ただ、その星屑は闇を振り払うほどの力はなく、また、僕にとっては決してよいものではありません。闇が僕の意思で動かせるものではないと同時に、それを振り払うためにも僕の意思とは関係なく訪れる午前五時を待つことで、その闇=群青が消えたのでしょう。  また、この僕は闇を振り払う希望を見捨ててはいません。「空を仰ぐ瞳の中に/最後の明星が見える」のですから、おそらく僕を照らすことによって、僕の影が現れ、群青が消える。僕の影があるということは、同時に、僕を照らす何かがあるということ。  必死にもがきながらも何かを諦めきれないでいる僕。確かに必死にもがいているのですが、時には僕の意思とは関係ないものに希望を託すことで、状況は好転するのかもしれないですね、そんなことを感じさせられました。 (午前五時の群青)

2017-03-12

放流

2020-09-26

いい星

2020-09-28

水の声

2021-08-06

2021-08-04