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遠吠えは汽笛を掻き消すほどに
遠吠えは汽笛を掻き消すほどに ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 2173.1
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 6
作成日時 2020-01-17
コメント日時 2020-02-03
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
---|---|---|
叙情性 | 5 | 5 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 1 | 1 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合ポイント | 6 | 6 |
平均値 | 中央値 | |
---|---|---|
叙情性 | 1.3 | 1.5 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0.3 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合 | 1.5 | 1.5 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
沙一さん、ありがとうございます。 なるほどです。自分でも本作は(何かが違う)とずっと悩んだまま放置していまして、答えを見つけるために投稿した節があります。 確かにそうですね。ちょっとセンスのない恋愛詩みたいな中途半端な作品でしかなくて、広がりが全然なかったのは痛恨です。勉強しなくては
0ふじりゅうさん、初めまして。 なんだか自分も幾分か昔に体感したような悔恨、辛さ、及び溶けるような幸せを再び呼び起こすような、そんな詩だと感じました。特に、タイトルがすごく好ましく感じます。僕はそれのこの詩全体に、嫌なことがあっても流れる時の残酷さを強く感じました。
1磁界さん、ありがとうございます。例えば恋人が突然死んで、一時は悲しむのでしょうが、結局なんとか生きていってしまうのが普通であり、普通足りえる要素なのだと思っています。しかし、そんな一般カテゴリの「普通」からちょっと逸脱した、センチメンタルと嘲笑われるような人を自分は好ましく感じますし、そんな世間からほんの少しはみ出してしまうような抒情詩を書いていければと考えております。
0こんにちは わたしは、オオカミについて考えるのが 結構好きなのです。ですから、オオカミが比喩として使われていて、ふるえる思いでした。 オオカミは、日本の場合は絶滅したとも言われていますよね。 この詩には、オオカミのほかに 「黒電話」というあまり使用されなくなった道具もでてきます。懐古主義的な叙情ですね。いつだったか災害のときにこうし携帯が使えない場合に、今の人々が ダイヤル式の公衆電話を使用することができるのかというルポをやっていました。ダイヤルの仕方を知らない人が多いらしいですよ。このような世の中にあって、黒電話の叙情のの解る方は もっともっと すくないはずです。オオカミも 解るようで解らない動物です。これらの分かり難いモノを用いて表現しておられるあたりに ふじりゅうさんって、攻めておられるなあと感じました。 >若草色の吐息が溢れている ↑こことか、綺麗ですね。 初読のときは、言葉に酔いすぎではないかと思いました。けれど、 みずみずしい色を吐息に感じるなんて 素敵だと しみじみ思い始めているところです。 若草色、うっとりいたしました。このふたりは ふるびない恋愛を生きているのかもしれないなあと思いました。
1るるりらさん、ありがとうございます。言葉に酔いすぎている甘ったるい詩句に反して妙に悲愴的な情景、みたいなのを当初から基本的なテーマとして書いています。黒電話とか今日日常的に使われるはずもないのですが、やや古めの時代を想定した閑散とした光景に詩情はないかと模索した感じの作品でした。
0ふじりゅうさんなので、フランクに書きますね。いや、相手によって書き方を変えるのはよろしくないのですが。 一見して、随分と大げさな表現が多いなと思いました。「零れる優しさの水滴」→「涙」、「最後の嘘を纏った電車」→「電車」、「真っ暗な膝を殺める」→「膝を落とす」と、それぞれ簡易に変換できる表現です。どうして、これらの事物がこのような仮装をせざるをえなかったのでしょうか。きっとキーワードになっているのは、「初めて素直になれる恋を見つけていた」からなのでしょうが、それは事後である今となってわかったことなのでしょう。 二連目とタイトルとにギャップを感じました。タイトルを見た時、どれだけうるさい作品になるのだろうと思ったのですが、実に閉じられた狭い空間の中にいることを思わされます。まるでスピッツの歌詞に度々登場してくる箱のような存在ですね。遠吠えとは正反対の位置にあるかのような「君の震えた声」や「囁き」があります。 最終連は「私」に焦点があたります。「最後の嘘を纏っ」ていたのは「電車」であったはずなのですが、それは「最後の嘘を纏った私」となっています。そして、「初めて素直になれる恋を見つけていた」のは、「私」だけであって、「君」はどうであったのか、今となってはその答えはわかりません。まるで無声映画を見ているような情景描写で、最終行のあとにはきっと「私」が遠吠えをあげているのだろうと思ったのですが、その「私」は空に向かって口を大きく開けて何かを言っているように見えるのですが、スクリーンのこちら側(読者)にはその音声が届いてこないような、そんな風に感じました。「最後の嘘」も「初めて素直になれる恋」も、その正体は全くわかりません。それをつらつらと書くのは、書き手の選択であって、僕だったら書いてしまうのですが、この詩においてそれがつらつらと書かれていないことによって生まれている効果は、この作品の一行目からして何かの事後であるという「事後感」にあります。ただ、それは事後でありつつも、その真っただ中にいるという、この「事後の事後」に何があるのかは、読者も「君」も知らず、ただただ「私」だけが描いていくのだろうと思います。
1なかたつさん、ありがとうございます! さすがというべきなのか、ご指摘の通りでほぼ間違いないです。「最後の嘘」「一度きりの恋」を詳しく書くか、書かないかを非常に迷った作品でしたが、投稿した後もまだ迷ってたりします。その消化不良な感じが読者に伝わってしまったかも、などと考えているのではありますが、なんにせよ非常に力の入ったコメントをくださり非常にありがたいです。また暇なときちょくちょく遊びにきてくだされば。
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