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変調
口にするものはおさめていた 写真は色つやが褒められるから 芽が伸びつづけるのをそのままに あなたも帰ってくる いつかは 蝙蝠くわえて さかさからの景色は気になり 可聴域も変調したくて 牙 のびつづける うれしい 声 まわりつづける 音符は走る空白の痕 八分音符、いいえ、血痕でした 仲間内ではよく聞いた 遠吠えの真似事 手製のジオラマから 覗く 二匹の 左半身を植える 枯れゆくのも 残して 軽いほうの水で流す 見えにくいならまた流すだけ 最も血なまぐさい部位を噛む 弾けたものがはみ出して 拭き取るのには尻尾を使う わたしの くわえた声 とどかないまで遠く 水もいつしか引いている
変調 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1038.2
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 13
作成日時 2017-08-24
コメント日時 2017-09-14
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
---|---|---|
叙情性 | 3 | 0 |
前衛性 | 2 | 0 |
可読性 | 2 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 3 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 3 | 0 |
総合ポイント | 13 | 0 |
平均値 | 中央値 | |
---|---|---|
叙情性 | 3 | 3 |
前衛性 | 2 | 2 |
可読性 | 2 | 2 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 3 | 3 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 3 | 3 |
総合 | 13 | 13 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
タイトルは「変調」です。入力ミスで消えてしまいました。 申し訳ありません。
0あなたも帰ってくる いつかは 蝙蝠くわえて いきなりのフレーズにびびった。あまりの驚きに「蝙蝠」ってコウモリだよな?ってググってしまった。まさに変調である。恋人だか、誰だかを待っているという始まり。そして、いきなり、コウモリをくわえて帰ってくることを望むという。申し訳ないのだけれども、あまりにも、コウモリへの変調のところが魅力満開で、その後の血なまぐさい描写などに、感情移入出来ない。デビッド・リンチ映画のような、え?!なにこの展開?という驚きがあって、そのまま、コウモリをくわえて帰ってきた恋人だか、連れ人だかの世界を知りたかった(いや、もしかしたら、後半部に描かれているのは、それなのかもしれないが・・)。コウモリと一緒にキャットウーマンとジョーカーも憑いてきちゃったよ的なシュール性を全面に出したほうがよかったのではなかろうか。いや、読者の私の勝手な欲である。
0〈芽が伸びつづけるのをそのままに〉とか〈左半身を植える〉といった植物的なイメージと、声、音(音楽)のイメージ。そして、猫?のような、獣に変容(なり切る)するイメージ。 〈写真は色つやが褒められるから〉〈手製のジオラマから〉写真のイメージもありますね・・・ 困惑させられつつ、言葉のリズムで読まされてしまう。迷路に迷い込むような感覚がありました。 蝙蝠の持つ、二重生活者的なイメージ(鳥でもなく獣でもなく)、嚙み殺す猫の牙と、そこから滴る血痕の鮮烈・・・。 ちょっと織り込み過ぎたのか?という印象もあります。断章的な映像の連続と、音の心地よい連鎖が印象的な一作。
0花緒さま タイトル編集ありがとうございます。 読めたらまたお願いいたします。 三浦果実さま はじめまして、コメントありがとうございます。 リンチの映画のような、と言っていただき嬉しいです。私も彼の映画が好きなもので…。 確かに後半、イメージの変容だけで終わらないような流れも考えられたかもしれないですね。 まりもさま 丁寧なコメントありがとうございます。 コラージュの迷路のようなものを創れたら良かったのですが、やはり仰るとおり、この短さでは盛り込みすぎてしまいました…。
0冒頭の「口にするもの」は二重の意味があるように思えます。 1 何かを食べること 2 何かを発声すること いずれも、「口にする」という表現を用いて表すことができますし、この作品においても、この2つの意味が通底しているのではないでしょうか。 「あなた」はまるで犬であるかのように、蝙蝠をくわえたり、牙がのびつづけたり、遠吠えをしたり、という行動をおこしています。その「あなた」を見ている語り手の私という構図、もしくは帰ってくるのを待ちわびているのでしょうか。 ただ、「口にするものはおさめていた」という一行目をどういう意味でとらえるべきなのでしょうか。1の意味では、事後のこととして、何かを食べて、体内におさめているということ。2の意味では、これから発声されるであろう何かを外に出さずに、体内におさめたままにしているということ。いずれにしても、何かを体内に孕んでいるような印象を受けました。 「音符は走る空白の痕」からの血痕へのイメージの転換。五線譜に置かれた音符は規則性があるように見えながらも、まるで五線譜の上へ気まぐれに置かれたただの染みであり、それがまるで、どこかへ無造作に滴り落ちた血痕と重なります。 「枯れゆくのも 残して」とは、「芽が伸びつづけるのをそのままに」という冒頭からの流れで、「あなた」は帰ってこず、水が不足して、枯れていっても誰も手を施さないという状態です。この植物と血痕のモチーフから、水というモチーフが引き出されているのでしょう。そして、水は何かを潤すためにあるのではなく、何かを流すためにあるという。 そして、はみ出した弾けたものはわたしの尻尾によって拭き取られるので、「あなた」がまるで犬であるのではなく、実は「わたし」が犬であることがわかり、つまり、「あなた」を待つ「わたし」が犬としてここにいるという構図なのでしょう。 「口にする」というのが、何かを食べること・発声することという仮説は、「くわえた声」という表現によって、ひとまとまりになっています。「水もいつしか引いている」という乾いた世界。それは、何かを潤すため、何かを流すためだけにあったのではなく、水の役割というのは何かを運ぶ伝達手段として、媒体として、重要な立ち位置があったのではないかと最後に思わされました。
0水星さん こんにちは、はじめまして。 これは傑作の部類に入る詩行だと感じました。 たとえば、声を用いた音楽においては、リズムや韻以外にフロウというものが極めて重要な要素となり得ると考えます。 あ、完全にラップを想定して話しています。 で、この詩行は書き手がその統覚の中で明らかに「行分け」を選択的に用いている。 書かれた文字のつらなりである詩行において、ラップで言うところの「フロウ」を構成するのはどういうことか、最近そのようなことを考えてばかりなのですが、ふつうに考えるとまずパンチラインを作らないことが大きな要素であると思っており、そのうえで、改行によって「リズム」でなく「フロウ」で勝負することの可能性、そのようなことを考えさせられました。 三連が特に出色だと思います。 「八分音符、いいえ、血痕でした」 この詩句のみをもってしても傑作だ、傑作だ、とひとり呟きたくなります。
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