別枠表示
ハッピーエンドを望んでいる
魔法が使いたい、すごいって言われたい、注目されたい、遠い場所に行きたい、私という人間を捨てたい。 魔法が使えればこんなことを私は願っているだろうか。 私が友人のようであれば、私の過去が斯様であればと常々羨望している。 親に怒鳴られず殴られないように機嫌取りをせねばならず、ニコニコ笑って毎日を凌ぐ私と友人とは違いすぎてて狂いそうな妬みで脳髄を揺さぶられる。 死にたがりの悲観主義者の私と、幸せそうな意欲的な探究者である彼の人とは何もかもが違う。私も君のような……と言いかけて何度やめたろうか。私は私であって彼の人には決してなれない。 しかし停滞したまま過去に縛られ、人の指摘を素直に受け取れず愚かな私は泣いている。様々な面で幼稚で囚われていてどうしようもない。腐った過去を憂い、捨てたくて悔やんでいる。血の雨の流さんばかりに涙し、嗚咽しつつ自分の腕を掻きむしる。 人であって良かったという友人の言葉をうけいれられず、私は早くこの世界から逃げることを願っている。 こんな人間でもこんな人生でもハッピーエンドを願うことの何が悪いのだろう。これすらも罪だと言うのだろうか。
ハッピーエンドを望んでいる ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1332.3
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 1
作成日時 2021-01-21
コメント日時 2021-01-24
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
---|---|---|
叙情性 | 1 | 1 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合ポイント | 1 | 1 |
平均値 | 中央値 | |
---|---|---|
叙情性 | 1 | 1 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合 | 1 | 1 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
ではこの言葉を。 他人と自らを比べて「優れている」とも「劣っている」とも「等しい」とも思うな。 様々な言葉を受けても自らの価値を判断しないようにせよ。 スッタニパータ 苦が生ずれば苦が生じたと見、苦が滅すれば苦が滅したと見て、惑わず、疑わず、他に依る事がない。ここに智が生ずる。 サンユッタニカーヤ 釈迦 ハッピーエンドを望むという罰を自らに課している印象を受けます。 いっそハッピーエンドを捨ててしまいましょう。 「愚者は過去を煩い、未来をあせくせし、萎れている 賢者は過去を煩わず未来をあせくせせず、輝いている」 ダンマパダ 釈迦 生きる事自体に罪も罰もないはずです。 >嗚咽しつつ自分の腕を掻きむしる。 その苦しみはただの実態も対象もない、妄想にすぎないかもしれません。 悩む人の中で悩むことなく、大いに楽しく生きよう ダンマパダ 釈迦
0すごく丁寧な返信をありがとうございます、驚いております。 そしてハッピーエンドを望む自らに罰を…という一文を読み、それがこの詩の本質だなと感じさせられました。 羽田さんは素敵な言葉をたくさん自分の中に持っていらっしゃるのですね。私もそんな言葉たちを集めて育てたいと思った次第です
0僕はこの作品を拝読して、優しい気持ちになりましたよ。 自傷的なことを書かれていますけど、自分自身を強く責めてはいますけど、他人を責めていない。 自分の苦しみを誰かや何かのせいにしていない。 自分で自分の苦しみを背負っている、そういう感じがしました。 そういうのって、そんなに簡単じゃないと思います。 僕はハッピーエンドを望んでいいと思いますよ。 それと同時に、今ある幸せも大切にしていいんじゃないかとも思います。
2冒頭から「魔法が使いたい」という突拍子のない欲望が述べられていながらも、その後には「たい」という欲の列挙がされています。この「たい」という欲について少し考えてみると、なぜそのように思ったのか、という因果関係が気になってきます。一見するとこの無関係にも見える「たい」の列挙は、その欲の優先順位や因果関係がきっとあるものであって、後の詩行を読むとその違いが見えてくるのでしょう。 というのも、「私」は「私」と「友人」を比較し、「私の過去が斯様であればと常々羨望している」と、羨望という言葉もまた欲であり、ここに「私の過去」というキーワードがあります。つまり、欲というのは因果の果であって、その欲の因となったのが「私の過去」にあると言えそうです。 その「私の過去」は「親に怒鳴られず殴られないように機嫌取りをせねばならず」「死にたがりの悲観主義者」といったことがあり、こうした「私」に対して「私は私であって彼の人には決してなれない」と自覚しています。当たり前のことかもしれないですが、「私」が「私」たりうるのは、誰のものでもない「私の過去」を「私」が持っているからだとも自覚しているのでしょう。 こうしたことを踏まえると、「魔法が使いたい」という欲を引き起こしたのは、一行目の最後にあった「私という人間を捨てたい」という欲に重点があるように見えます。 「しかし停滞したまま過去に縛られ、人の指摘を素直に受け取れず愚かな私」とあり、「私」は「私」を冷静に俯瞰できる人間だなあと、ただ、それゆえに「私」にとって「私の過去」もまた冷静に俯瞰して見えるのだろうなあと。悲観主義者とありますが、真に悲観の中にいる人物は、「いま・ここ」の目の前にある出来事への対処に追われてしまうと思われますが、「いま・ここ」と「かつて・あそこ」の二点を線にして捉えられるのは、やはり「私」を俯瞰することで見えてくるものです。 「私は早くこの世界から逃げることを願っている」と、やはり、「私」は「私」をやめたいという欲望が強く述べられています。 私見を述べれば、「ハッピーエンドを願うことの何が悪い」というのは、何も悪くないと思うのですが、なぜこのことに対して「悪い」という罪悪感が植え付けられてしまったのかということに興味がうまれました。それこそ「私の過去」の具体性がわからないから、答えはわからないものですが、この「悪い」という価値観がどこから生まれてしまったのか。ちなみに、「私という人間を捨てたい」ということに対しては、他者になっていくことが一つの手段だと思っています。私という人間に固執していると苦しいことがありますが、他者を取り込んで、他者になると楽になることもある気がしています。読んだり、書いたりすることも、他者を取り込んだり、「私」を他者化することではないかなあと。
2こんにちは。 「斯様」とか「彼の人」といった語を始め、語られている内容と語っている言葉とがアンバランスで気負った印象を受けました。しかしエネルギーがあるように思います。エネルギーに溢れた時期にある人にしか書けないものというのがあると思うので、作品としてどうかということよりも、そちらの方に惹かれます。
1そんな簡単に人からの指摘が腑に落ちるならこんなふうに思い悩み書かないよね。願望、というか情念(というには意外に湿っぽく内)、藤さんの書かれているエネルギーを確かに感じる作品ですね。この作品から詩がたくさん生まれてくれる事を願いたいです。
1過去は過去でしかないと思います、でも今と未来を繋ぐ重要な存在だと思います。この詩の登場人物は過去になにか辛いことでもあったのでしょう。
1