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ナナイロ
その声は何処へ届くのか どこから逃げるのか きれいに磨きあげたものが 歯でよかった もうあまり残されていない もし見えていない空を見ているとき きおくするための道具が耳ならいいのに 大きすぎる目を抱いて眠れない 首筋にそった形状を朝なぞると 幾らかの証を残しているのだと知る 虹をみていないひとから手紙が届いた 背中には虹は出ません ただ、とても悲しいくらいに こんな大きな虹をみたのが 上司の声の先にあったひかりを 拾うことができたことが 偶然か否か尋ねることすら 覚束ない足になってしまいました グラデーションの境を探す それはわたしの皮膚の切れ目を探すより難しくてその曖昧な色みのままで七色と呼ぶ 橋というには色素が多すぎる 見えなかったでしょ その手のかたちのとおりに 向きを変えて上っていく 意識は寸断されるのか 緩く締め出され消えるのか 五感を研ぎ縁起のいい数にする 今日の出来事に、君が笑っている 虹のくちばしをした君は いつまでもかごのままで 足の指の間によれた埃が 雨粒よりも輝けばそれで 手をふれる、そらよりも高い場所から
ナナイロ ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1164.5
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2018-02-21
コメント日時 2018-03-10
項目 | 全期間(2024/12/04現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
100歳を越えた祖母を見舞ったときのことをなぜか思い出しつつ・・・ 虹は希望の色なのか?異界へと渡るための橋なのか・・・ まっすぐに語るのが怖い。その気持ちが詩となってあふれ、迂回させているようにも思われましたが・・・ いわゆる、ストレートには読み解けない作品ですね。何度も読み返しながら、行間を感じる作品というべきか。 人の魂は鳥になって飛び立つと言います。痩せ細った人が、静かに翼を開いて飛び立とうとしている。まだ、肉体という籠の中に、魂は待っていてくれるけれど・・・ 私の勝手な(物語を重ねていく)読み方かもしれませんが・・・ 肉体の目や耳と、心の目や耳が重ねられているように思われる、そこが、慣れない読者には難しいかもしれないと思いました。
0まりもさん、感想を頂きありがとうございます。 唐突に投稿してしまいましたが、学ばせて頂きました。
0声には色がある。それは、人によって声の音色や音程が違うということ。その違いを示すために比喩としての「声色」という言葉がある。では、その声の存在意義とは何であるか。何のために、人は声を生む必要があるのか。その一つの答えとして「どこから逃げるのか」と示されている。逃げるための手段としての声。 「きれいに磨きあげたものが/歯でよかった」という安堵。磨きあげるのは、宝石や思い出でもいいのかもしれないが、あくまでも日常生活に根差した安堵が必要だったのだろう。そうした繰り返される動作で、思い出そうとせずとも思い出せる記憶とは違い、色褪せてしまう空の記憶は、視覚でとらえたものであったが、空を「きおくするための道具が耳ならいいのに」という願いがある。 「大きすぎる目を抱いて眠れない」のは、視覚に頼りすぎてしまう人間の性への嘆きか。 「首筋にそった形状を朝なぞる」のも、昨日までの記憶/存在を確かめるための手段である。 そして、「虹をみていないひとから手紙が届」く。冒頭2行で示された声が何処へ届くかはわからないが、手紙が届いたことは確かである。「上司の声の先にあったひかり」は、おそらく虹をもたらしたのだろう。ただ、その記憶は曖昧で、それが確かであったかを確認しようと尋ねることすら覚束なくなってしまった。 虹の色というのは、本来地続きになっているが、その境い目を人間の眼によってわかりやすく表現するために「曖昧な色みのままで七色と」便宜的に呼ぶことにしている。その色みの曖昧さと記憶の曖昧さが混ざり合う。 「橋というには色素が多すぎる」というのも、虹がアーチ(橋)状のものとして描写されることが多いが、橋の存在意義/目的というのは、繋がっていない地と地を結ぶものであり、その形に色みを必要としない。その目的だけが達成されればいいので、虹を「橋というには色素が多すぎる」のだろう。ただ、この対比がされることで、虹に橋の存在意義/目的をもたらすことができる。声や手紙が、隔てた地と地(人と人)を結ぶ手段であるように、虹(の記憶)もまた地と地(人と人)を結ぶものであったのかと。だからこそ、語り手は虹(空)にまつわる記憶を探しているのではないか。 それでは、虹はどこにかかっていたのか。それは、「君の口」と「語り手の耳」である。そして、虹は声である。最終連にある「虹のくちばしをした君」から発せられた声が私の耳に届く。その声は「上司の声の先にあったひかり」を生むものでもあるだろう。また、語り手は「きおくするための道具が耳ならいいのに」という願いを持っている。声の逃げ場は、語り手の耳である。ただ、これらのこと(記憶)が曖昧になって、確かなものかどうか不安であるという焦燥感が描かれた作品である。 語り手の身長に縛られた手から足元への高さ(約1mちょっと)で触れる「足の指の間によれた埃」。その高さもまた歯を磨く動作と同じように、身近な感覚であるが、その高さが「そらよりも高い場所」となるのは、この動作の過程に君の声が関与しているのだろう。ミクロな世界からマクロな世界へと昇華して作品は閉じられる。
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