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書くということ(選評文)
>砂浜を踏み込んだ >その感触はいつまでも足裏にあるけれど >砂たちは >この体の重たさを忘れていく つねに波の侵蝕にさらされ、時間の経過とともに不可逆的な変化を繰り返す場である「砂浜」を踏み込むという行為、あるいは「砂浜」に〈足跡をつける〉という行為は、《砂たちは/この体の重たさを忘れていく》ことをわかっている者にとってはいくらか悲しみを含むものであろう。その感触が自分自身には《いつまでも》残っているものならばなおさらのことだ。自分には感触が、あるいは感触としての記憶が残っているにもかかわらず、それを証しする対象は失われてしまうのだから。しかし、記憶は不変か。そうではない。記憶もまた時間という波にさらされて少しずつ変化していく。その時確かに感じていた〈実感〉などというものも時間の経過、目まぐるしく変化しながら繰り返す日常と関わっている間に気づくと感情的な強度を失ってしまうことは珍しくない。波によって洗われ変化していく砂浜、ひいては絶え間なく訪れる日常のなかで変化していく記憶、ここに〈足跡をつけること〉、言い換えれば〈痕跡を残す〉ということは、〈書く〉ということ、あるいは文字によって〈刻みつける〉ということであると言えまいか。こうして見ていくと二連、三連には強い目の働きを感じる。目に焼き付いた/書きつけられた、記憶。 しかし、こうした記録(=記述)という行為もその上から積み重なる多くの言葉のなかに埋もれて忘れられないとはいえまい。どのみち無常の営みという部分は消えないのだ。だが、いや、だからこそというべきか、そうした寄る辺ない時間への抵抗として、なお、言葉によって「書く」ことへの意志をもつのが詩人という人種ではないかと本作は語りかけているように思う。そう読んだ時に、 >時がどのように流れたのかを見るために >砂浜を歩いている >砂たちに >もう一度きみの体の重たさを刻み込ませる という四行のなんと美しく響くことだろうか。
書くということ(選評文) ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1459.5
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作成日時 2021-01-09
コメント日時 2021-01-09
ありがとうございます。 主旨は書いていただいたとおりだと思います。具体と抽象を織り交ぜて書くこと、私たちひとりひとりはそれぞれに「私」がおり、それは具体であり、書くと言う行為はその「私」がどう在るかを切り取る行為でありつつも、「私」という存在は他の「私」によっても規定されるということ。常に他者がいるということ、つまり、「私」の外にも「私」がいるということ。生きている以上は「私」から「私」は逃れることができませんが、他の「私」にだったらなれるかもしれない。 あと、一つの出来事を同じ場所で同じ空間で共有したとしても、それを感じたり、考えたりしたことは、それこそ「私」の数だけあると信じているんですね。だからこそ、他者の「声」が僕にとっては大切で。記憶の祖語、それを記録するために僕は書いているようなものです。つまり、この評は実に的を射ているということですが、それこそ、他者の「声」によって再起された想いを記したに過ぎない。つまり、これは僕が語っているようでいて、他者によって語らされました。
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