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食事
夢のなかで何を食べたのだったか 思い出せないけれど 少しだけ、考えたくなった 歯の間のわずかなねばり 小さな透明の、いくつもの破片 空に咲く花のような ほのかな赤い香り わからない ただそう言って、家を出る いつも 同じ夢を見ているのに きっと、それは人々のなかで もっとも澄んだ何かなのだ 食べた人にも すべてを忘れさせてしまうほどに そうだ、あの時のように 枝先が凍えている 人々の賑わいを 懐かしむように聞いて 今日僕は何を食べる? 覚めている時に どんな記憶を、また刻み込む? 深く土に刺さっていた、根っこを あるいは光と風をはらんだ葉を もしかすると、魚かもしれない 海水のひだをかき分けていたその体を 今度は僕が割いていくのか あるいは牛肉か 大木のように静かな筋肉の、繊維を 解いていくのか そうした所作は、ほんとうは とても優しいものなのだから 忘れても、忘れることはないだろう かつて食べたものは やがて食べるものは どこまでも透き通っていって 夢と、ここの間に 風のように座っている
食事 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 894.4
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2017-05-22
コメント日時 2017-06-03
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
食べることは命を飲むことなのだと、あらためてしみじみと感じました。 言葉の流れが美しい。下手に切り刻んで分析してしまうと、香りが逃げていってしまうようなはかなさ。 瑳峨信之さんの、夢の上澄み、という言葉を思い出しました。
0タイトルがそっけないような気もするけれど、中身はとても好感が持てました。 >歯の間のわずかなねばり >小さな透明の、いくつもの破片 >空に咲く花のような >ほのかな赤い香り この「赤い」の形容詞一語でもっていかれた印象があります。 但し全体的にうつくしくはあれど、食べることに対しての生々しさは皆無で それがいいと思うのだけれど、個人的にはあまり訴えるものがなかったかな、と。 ただ「食べることは罪である」、という定型をうつくしい筆致で次の段階まで もっていっている、とも言えて、それにわたくしがついていけないからかも知れない。
0まりもさん。ご感想ありがとうございます。おっしゃる通り、この詩はあるテーゼを言葉の美しさによって保てないか、という試みを行なっています。その点、この詩は日常とは違った詩的な理論によって書かれていて、確かに理論的に分析しようとすると、何かが損なわれてしまうものなのかもな、と感じました。 夢の上澄み、という言葉ですが、とても美しい言葉を私の詩に対してくださり、ありがとうございます。
0田中恭平さん。ご感想ありがとうございます。確かに若干タイトルが素っ気ない感はありますね。私は常々タイトルをうまくつけられないな、と感じております。 「赤い」という言葉を評価してくださったようで、ありがたいです。こうした細部の、けれど書いていて必然的に見出される言葉を大切にしたいです。食べることの生々しさが描かれてない、ということですが、確かに私もそうだと思っております。おそらく、それは食べることは本質的に生々しいものである、という物言いに対して、逆のこと、また違った真実の提示をできないかと考えた結果なのですが、確かにこのような書き方に対して、個人の考えや嗜好でスタンスがわかれるのはしょうがないことなのかもしれません。
0始めまして、ペグと申します。 とても興味深く読みましたので、拙いですが感想を書かせていただきます。 歯の間のわずかなねばり この表現がいいと思いました。前のご批評にもあるように、全体的に食べることの生々しさを抑えた表現の中で、目だっているからかもしれません。 私は夢の中で何か食べることはあまりないのですが、そんな夢を見ることがあったら、きっとふわふわしたいい気分なのだろうな、とそんな気持ちにさせてくれる詩でした。 きちんとした批評になっていなくてすみません、あまりお役に立てないかも知れませんが、、。 次回作も楽しみにしております。
0夢で起きていることは、夢の中で反芻することなく、目が覚めてから思い起こすことしかできません。そして、それは100%の再生は難しいもので、多少歪曲されているものです。「歯の間のわずかなねばり」や「小さな透明の、いくつもの破片」は、夢の中で食べたものを現実に手渡された痕跡でしょうか。それとも、単に現実世界で口の中に食べ物を残したままに眠りについただけでしょうか。ただ、「同じ夢を見ている」はずなのに、夢の中で食べたものを思い出せないのは、現実と夢との間に越えられない壁があることを示唆しています。 話は結論めいてしまいますが、この詩における食べ物や食事の役割は、夢と現実を媒介するものだと捉えました。魚や牛肉は、ただの生物であって、それを体内に取り込むためには咀嚼する必要があります。それは食べ物に限らず、目で見た景色や耳で聞いた音もただの色や音の組み合わせでしかないですが、それらを捉えた主体はそれらに対して意味を付与したり、記憶したりすることで、一つの型を見出し、腑に落とすのでしょう。 現実で咀嚼し、飲み込んだ生物だけでなく、景色や音などはただの素材でしかなく、それを捉える主体があって、主体の中に姿を変えて残り続けます。「かつて食べたものは/やがて食べるものは/どこまでも透き通っていって/夢と、ここの間に/風のように座っている」と、「ここ」というのはおそらく目が覚めた語り手がいる場所であって、言わば現実でしょう。夢と現実の間に、食べたものだけでなく、これから食べるものも居座り続ける、やはり、食べ物や食事が夢と現実の橋渡しをする役割を担っているのだと思います。 話が戻り、最後に三連目のイメージをどう捉えたかを記します。土に刺さった根っこや光と風をはらんだ葉からは、根っこが枝分かれしている画像・葉の葉脈の画像が想起され、そこから魚の骨の画像と結びつくことで、そのイメージの飛躍がすんなりと通過できます。そして、魚自身が枝葉のイメージを内包しているわけではなく、海水のひだをかき分けていく時の水の流れがまたそのイメージと結びつき、魚の外部へと視点が映り、僕が登場することができるのでしょう。ここでの牛肉の登場も「静かな筋肉の、繊維を」とあるように、当初の枝葉のイメージが通底しています。肝心なのは最後の一行「解いていくのか」でありますが、この点については上記のとおり、食べ物・素材を咀嚼することに繋がるのだと思います。
0ペグさんご感想ありがとうございます。 「歯の間のわずかなねばり」という部分は確かに一つのアクセントになっています。食事の生々しさというのをどう詩的に転換するか、というのがこの詩の課題だったのですが、この試みのためにこうした部分がアクセントになっているのだと思います。 この詩を読んで実際に夢の中で何かを食べたらどうだろう、といった想像をしてくださることは非常に嬉しいですね
0なかたつさん、ご感想ありがとうございます。 食べることが、夢の再認識と同化してる、という解釈を非常に面白く読みました。書いた私のなかで、夢の描写というものがなぜ現れたか、という必然性を再認識できたしだいです。 食事が夢と現実を架橋している、という点はまさにその通りですね。植物や、魚、牛を食す描写においては、それらがある種の一体感をもって感じられるように書きました。ひいては「僕」にも繋がっていくものであるように。
0鼻緒さん、ご感想ありがとうございます。 これまでの作品について、素直に「そうなんだ」という感がありますね。これまでの作品に比べると、今回の作は、一つの強いテーゼのもとに書かれている、というのが大きい違いであると思います。これまでここに掲載したものは、拡散的な、世界のようなものを映しだそうとしており、今回のは一つの側面を映し出している、という違いですね。 夢と内部はやはり関係が深く、しかし夢の中にも外部は存在し、また現実において食べるものも、ある内部である、そういうテーゼは確かにこの詩にあるように思います。楽しくお読みいただけたのなら幸いです。
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