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どこにいようとも。
スマホの着信が鳴りベッドを飛び起きる。 東京23区の朝は早い。烏が意地悪げに東へと飛び立ったけど 僕らが手をつける仕事は変わらない。 昨日土へと還った老翁の灰も、今日には赤子の目覚めに変わる。 今さっきすれ違った中学生も、次の瞬間には社会人だ。 物事は一瞬のうちに変わりゆく、すり抜ける。 誰もその真相を掴むことは出来ない。 コロナウィルスが覚醒した不穏な世相だ。 君のいる場所も明日には焦土となるかもしれない。 戦地となるかもしれない。 荒廃した焼け野原になるかもしれない。 仲間の妻が今日は誕生日だそうだ。 彼の3才の娘は驚くほどの画才を見せているらしい。 そんな光景、景色も瞬く間にかき消される時代だ。 だからこそ。 列車が東へ西へ走り抜けようとも 交差点を行きかう車が時にその行き先を間違おうとも。 だからこそ。 僕は最後にはきっと君のもとへと帰る どこにいようとも。 これは変わりない事実。 オッペンハイマーがかき鳴らすメロディーも 液体のりががん治療に役立つってニュースも 昨日君と笑いあったTLを賑わせる動物動画も 恐慌の不安に苛まれる学者の午後も すべて、何もかも、ありとあらゆる場所で 一瞬にして粉々に砕け散るかもしれない。 だからこそ。 飛行機が雲を作りながら見知らぬ場所へ飛び立っても T字路で親友同士が別の道を歩み、袂をわかったとしても。 僕は最後には君の寝顔を見に行く。 それは死に顔かもしれないし、輪廻の前の休息かもしれない。 だけどそれでも。 僕はきっと君のもとへと帰る。 右手の傷が深く刻まれても 僕は君のもとへ会いに行く。 どこにいようとも。 それは決して揺るがず、突き動かすことのできない、変わりない事実。
どこにいようとも。 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 2150.2
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 6
作成日時 2020-01-29
コメント日時 2020-02-16
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
---|---|---|
叙情性 | 4 | 4 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 1 | 1 |
技巧 | 1 | 1 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合ポイント | 6 | 6 |
平均値 | 中央値 | |
---|---|---|
叙情性 | 2 | 2 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0.5 | 0.5 |
技巧 | 0.5 | 0.5 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合 | 3 | 3 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
朝の目覚めという場面と詩の一行が始まるということの相性は抜群で、すっと読み進めることができます。ただ、「東京23区の朝が早い」「烏が(…)飛び立った」「老爺の灰」「中学生」といった、一見関係性のない事物が無関係のままに事が進んでいく様子は、語り手とこれらの物の無関係さも描いているように感じます。つまり、語り手が語り手の生きる世界に対して無干渉であったとしても、「万物は流転する」のように、世界は他人事のように流れていくような感覚です。それが「物事は一瞬のうちに変わりゆく、すり抜ける。/誰もその真相を掴むことは出来ない。」という詩行にも結集しているように思えます。だからこそ、「君のいる場所」が「焦土」や「戦地」や「焼け野原」になることも決してありえないことだと断定することができません。そうした、ありえないことがありえるかもしれないという世界観。その中でも「光景」という言葉を使用しているように、一筋の光であるかのような僅かな現実のものとして仲間の3才の娘も登場するのですが、その安全も確約されているわけではありません。 そうした世界の中で、語り手である「僕」ができること、選択したことというのが「最後にはきっと君のもとへと帰る」ということで、語り手のいる世界が語り手とは無関係に流転しようとも「これは変わりない事実」であると言い切るところに、確固たる決意を感じます。 「メロディー」や「ニュース」や「動画」や「午後」も、語り手と語り手のいる世界との無関係さを重ね重ね協調するための装置・演出として出てきます。しかし、それらが持つ特性として「粉々に砕け散るかもしれない」という儚さを語り手が感じています。「だからこそ」というフレーズにもまた決意の現れを思わせます。何も決意したのかと言えば、「僕は最後には君の寝顔を見に行く」ということであって、「僕は君のもとへ会いに行く」の言い換えであります。「君の寝顔」は「死に顔かもしれない」ですが、「輪廻の前の休息かもしれない」と。 この詩のポイントなのは、いわゆるポエムとして、ありがちな想いを述べた作品として完成させるならば「死に顔かもしれない」だけで済んだのですが、「輪廻の前の休息」という敢えて難しく遠回しな表現を用いたのかということです。それこそ、今まで散々語り手と語り手のいる世界が無関係に流転する、ということを主眼においてこの作品を読み解いてきましたが、このことが大いに関係あります。この詩において、流転しないと(設定)されている事実は「僕はきっと君のもとへと帰る」という語り手の決意であり、それ以外のものはおそらく移り変わりゆくものであると規定されています。だからこそ、語り手の想いがいくら強いものであろうとも、「君」という存在自体もまた語り手とは無関係である語り手のいる世界の中で流転するものであるのでしょう。その仕組みと「輪廻」という言葉がもたらす印象が非常に一致しているものだと感じさせました。 「君」が変わらずに、語り手である「僕」の中で留まっているのならば、この決意を語り手にもたらすことはなかったでしょう。語り手がこの流転し続ける世界に対して唯一抵抗できることが流転しない想いを抱くということであったのでしょう。それが「どこにいようとも」流転しないと。
0こんばんは、ステレオさん。 >僕は最後には君の寝顔を見に行く。 この言葉が出てくるとは、全く予想できませんでした。 めちゃくちゃに男らしい。かっこいいところですね。 社会が粉々になっても、それに負けずに愛を貫く、そんな具体的なイメージが 提示される所に、特質があると思います。その方向は、素晴らしいと思います。 まるで車のエンジンみたいに、爆発力と、馬力を備えた一つの機関が動くような、 その機能は、空想のコントロールを持つことで、確かに生きようとする力になり、 そのイメージはどこまでも、能動的です。
0なかたつさん、コメントありがとうございます。お返事遅れました。確かにこの詩は、絶対的なものなど何もない、不変のものなど何もないという「万物は流転する」スタンスで書かれています。その世界像で最後は帰るべき「君」だけは変わらない価値を持つ、普遍的であるという視点をも持っています。しかし自分で問うのもおかしな話ですが「君」とは一体何なんでしょう。愛する恋人?妻?。ただ一人の女性を指すだけでは余りに詩として、位置づけとして弱い。僕は幼い頃からJ POPやJ ROCKで「君」という単語が出てくるたびに特別な意味を見い出しながら楽しんできました。僕は「君」とは恒久的な幸せ、とか安住の地とか、魂の最後の行き場などやや大げさな意味合いで解釈してきました。そうするとこの一見愛の詩としてポエム的にも思える「どこにいようとも。」も辛うじて深みのある詩になるのではないかと思います。 「語り手がこの流転し続ける世界に対して唯一抵抗できることが流転しない想いを抱くということであったのでしょう」という読解はこの詩をより一層高みへと引き上げてくださっています。僕のこのコメントはやや不足のあるお返事かもしれませんが、なかたつさんには感謝の極みです。ありがとうございました。 捕捉・もちろん僕は「君」を、恋人や愛する人を指す意味合いでも使うことはあります。相矛盾するような話にもなりましたが失礼を。
0黒髪さん、コメントありがとうございます。お返事遅れました。愛の力が爆発的であるという見方は僕にも当然あります。ですがこの詩において「君」はなかたつさんへのお返事で書いたように、ただ一人の女性を指すのではない。だから自分で言うのもおかしな話ですが、そんなにカッコよくないかもしれないのです。僕と多分に重なるこの話者は笑 「社会が粉々になっても愛を貫く」というのは一人の女性に対してだけでは時に破綻を招く。この詩の話者はどこか求道者、宗教的な一面を持っているかもしれません。例えば詩の世界、文芸の世界で幸せを探し続ける、そんな人物かもれしません。何れにせよ力強いコメントありがとうございました。
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