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ラブレター・トゥ・ミー
名前のないこどもたちがたくさん生まれている。もう、彼らに名前はつけない。それに応じるように彼らもわたしを呼ぼうとしない。一度名前を知ってしまうと、死ぬまでそれはついてまわるし、呼ばれたら返事をしなくてはいけなくなる。やらなければいけないことがあまりにも増えてしまうのだ。それはわたしにとって、あまりにも不都合で不自由なことだった。ひとりの人間にひとつの名前がついてしまうから、自分というものを嫌でも知るようになって、自我に縛られることになる。名前のないこどもたちは、なんだか楽に生きているように見えた。今はもう、彼らの人数は数えていない。よく見ると十人いるし、まばたきをすると一人にも見える。それはわたし自身もそうだった。あるときは一千万だったし、よく考えると孤独でもあった。教室の窓から校庭を見下ろすように、こどもたちが遊んでいる様子を上から見ている。ちょうど彼らは手を繋いでマイムマイムを踊っていた。全員が中央に集まって手を挙げている様子はまるで軍隊のようにそろっていて、それは体の一部、たとえば自分の指を動かしているかのように思えた。そのとき、もしかして彼らはわたしの一部なのかもしれないとさえ思った。そうしているうちに、マイムマイムの曲はどんどん速くなっていく。彼らはそのテンポに遅れまいと、必死で手を叩いたりジャンプしたりしていた。しかし、そのうちの一人がそのリズムについていけなくなっていく。輪が乱れる。でも彼らには名前がないから、彼らのなかでいじめや差別が発生することはなかった。何かを産み続けているといずれ必ず不良品が発生することを彼らはよく知っていて、そういうときはどうすれば良いかを、ちゃんと熟知しているのだった。 高度異形成。たまたま子宮頸がん検査を医師から勧められてみたのだった。月経時に確かに痛みはあったが、まさか異形成だとは思わなかった。きょうは精密検査のため病院に来ている。待合室には三十前後のお腹の大きな女性ばかりが座っていて、何人かは旦那さんが付き添っていた。足を広げて座っている男の人の横を、すみませんと言いながら通る。待合室全体にはどことなく乳臭く甘い匂いが漂っていた。決して嫌なものではないけど、長時間嗅いでいたら頭がおかしくなりそうな匂いだ。名前を呼ばれ診察室に入る。スカートと下着を脱ぎ、検診台に座る。太ももにタオルがかけられ、ゆっくりと台が上がる。頭部はどんどん下がっていき、太ももが大きく左右に開かれていく。佐藤さん、ちょっとひやっとしますねー。膣口にひんやりしたものが当たる。内部を広げるための鉄の器具が膣の内部に少しずつ侵入する。異物。それはそんなに嫌な感触ではなかった。続けて拡大鏡が入れられ、異変がある部分を先生がモニターで確認している。ちょっとチクッとしますよー。その瞬間、わずかな痛みが下腹部に走り、小さなポリープはいとも簡単に体から切り離された。 最近は、クリスマス生まれの恋人のためにセーターを編んでいた。ユザワヤでメリノウールの青い毛糸を買ってきて、ネックから順番に編んでいる。小さい頃から、編み物のように同じことを繰り返すことが大好きだった。スティービー・ワンダーやマーヴィン・ゲイがまとう、天才的な音の連なりのような滑らかさとはほど遠かったけれど、それでも糸を拾って、それを結んで、その連なりを紡いでいくと、ただの紐がひとつの流れとなり、温もりが繋がっていく様子を見るのは愉快なものがあった。それは曲のようで、あるいは風にも似ていて、ひょっとしたら魂みたいなものに思えた。目には見えないけれど実際にはちゃんとそこにあって、自分のものにしようとすると、どこかに消えてしまうような存在。病院から帰ってきて、天気予報を見ながらセーターの続きを編んでいた。胴体部分まで終わったところで、ふと気がつく。恋人の体はこんなに小さかっただろうか? 新型コロナウイルスの影響でしばらく会うのを自粛していて、いつしか会うタイミングを逃して、気づけばもう何ヶ月も会っていなかった。そんなことあるだろうか? でもそれは実際起きていた。目をつぶって恋人の体を確かめてみる。彼の鼻や、なだらかに流れる首のライン、時々のぞく八重歯を思い出しても、もうずっと遠くに行ってしまったみたいに感じた。それはとても悲しいことだった。自分の体に、編んだセーターを当ててみる。こんなに小さくなんかない。そう確信した瞬間、セーターの糸がほころび始めた。 しっかり結んでいたはずの糸と糸がゆるやかに離れ始めて、元のセーターの形からだんだん大きくなっていく。胴体部分からほつれた糸は踊り出し、それはまるで誰かの意思によって動かされているようだった。膨らんでいくセーターはついにモジャモジャした生き物のようになり、広がったり縮んだりをゆっくり繰り返している。よく見ると、糸が細かく千切れていた。次第に連なりを失った糸たちは離ればなれになり、魂をまとい、風になり、曲を演奏し始めた。マイムマイムだ。全員が中央に集まって手を挙げている様子はまるで軍隊のようにそろっていて、彼らひとりひとりの表情はとても辛そうに見える。よく見ると、彼らは全員同じ顔をしていた。彼らは、結婚もできず、子どもも産めず、職場でも上手くコミュニケーションが取れず、世間からちょっと浮いていた。やっと見つけた恋人とも会うことすらできず、体の大きさすら忘れかけていく有様だった。そうして、わたしはようやく彼らの名前を思い出す。わたしは人々のなかで、異物な存在であった。けれど、社会と自分を簡単に切り離すこともできず、少し変わったマイムマイムを必死で踊っていた。それがどうにも辛くて、わたしは、わたしのなかの異物をずっと非難し続けた。生きているといずれ失敗することも許せず、そういうときはどうすれば良いかを、まったく学んでこなかったのだ。わたしは自分の名前を子どもたちに向かって何度も叫んだ。それと同時に、ちいさな痛みが下腹部に走り、膣から血液が流れ落ちるのを感じていた。
ラブレター・トゥ・ミー ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 2418.0
お気に入り数: 4
投票数 : 0
ポイント数 : 6
作成日時 2020-09-30
コメント日時 2020-10-05
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
---|---|---|
叙情性 | 1 | 1 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 1 | 1 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 1 | 1 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 3 | 3 |
総合ポイント | 6 | 6 |
平均値 | 中央値 | |
---|---|---|
叙情性 | 1 | 1 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 1 | 1 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 1 | 1 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 3 | 3 |
総合 | 6 | 6 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
>わたしは人々のなかで、異物な存在であった。けれど、社会と自分を簡単に切り離すこともできず、少し変わったマイムマイムを必死で踊っていた 相反する思いをもって踊っているのが、「マイムマイム」=喜びや救いの舞 であることが、語り手の痛切さをよりいっそう高めているように感じます。
0rさん、こんにちは。 つたない文章を読んでくださってありがとうございます。 マイムマイムは喜びや救いの舞だったんですね。踊りについてあまり詳しくなく、なんとなく書いてしまいました。 詩はこういう風に、書き手の意図と読み手の解釈がずれていくところが面白いですね。
0何度書きなおしてもうまく書けなかったのでなるべくシンプルに。 筋の解説や引用がいらないくらい最終連がしっかりしてて、とにかく迫力のあるテキストだと思う。リーダビリティーが高いのですらすら読めるのになんだか心が苦しかった。4K画質の72インチでドラキュラのドキュメンタリーを見てるような感じだった。特に産婦人科の描写はホラーみたいだった。 多層的な、あるいみこんがらがった、思いや考え情景などが、セーターがほどけてマイムマイムしていく様と、身体の感覚が最後にリンクするラストはかなり決まってると思う。暗いんだけどお話としてちゃんと落ちてるので、こっからわたしは救われていくのかなとも思う。 最近よく思うんだけど、プロブレムを解決する能力よりも、プロブレムを探す能力のほうが僕たちにとって必要なんじゃないかってことなんだよね。だいたいのことは気づいたときからもうなおり始めてると思うんだ。まあ何の話だって感じですね。とにかくパワフルぽっぽの筆名に恥じない力作です。
0パスワードを忘れ続けるさん、こんばんは。 何度もコメントを書いていただいたようで、スッと感想が出てくるような作品に仕上げられなくて ちょっと申し訳ない気持ちになりました。 >プロブレムを解決する能力よりも、プロブレムを探す能力のほうが僕たちにとって必要なんじゃないかってことなんだよね。だいたいのことは気づいたときからもうなおり始めてると思うんだ。 ほんとうにその通りだなあと思います。 自分に何が起きているのか分からないことって意外とあるんですよね。 だからこの作品も、自分が何を書いているのか実は分かっていなかったりして こうやって反応をいただくことで何を描きたかったかさらに深く考えることができました。 コメント本当にありがとうございました。 パワフルに生きていきます!
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