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選評:8月投稿作品
0. はじめに 生きているうえでふとした疑問が脳裏に思い浮かぶことがある。幼い頃はそれを両親に聞くなどして解決してきたが、大人となれば、余計なことを考えないように生きることをシステム化されてしまう。仕事をしていれば、仕事の内容について考えるのは当然のことであるが、そういう時こそ、広義での遊びが驚きに変わることもある。お客様から、考えればわかる当然の疑問について聞かれて、その疑問自体が当たり前すぎて考えもしなかったのだが、その疑問がものすごく新鮮に感じたのは昨日のことだった。 考えなくてもいいことを考えることは苦しいというか、疲れることだ。余計なことはしなくてもよい。それでも、日常会話にしても、日常生活にしても、そのような余計なことや遊びに有り触れている。無自覚的な会話・発言・行為について、ふと疑問を抱くということ。これが、詩を書くことにも繋がっているのではないか、と私は信じている。 詩を書いたり、読んだりすることは、私にとっては余計なことである。しなくても、生きていけるし、何より、詩のことを考えている時間が有り触れているわけではない。それでも、仕事の昼休みには、食後、図書館に行き、15分だけでも毎日詩を読むようにしている。詩集コーナーで目についたものや詩の雑誌を気の向くままに、手に取り、読む。仕事のことを忘れ、つい詩の世界に没頭する。突き詰めるならば、仕事が主にあって、昼休み/読書が従にあるのだが、その従があるからこそ、主が豊かに過ごせることがある。クレーマーに罵詈雑言を浴びた後に行った図書館では、詩がよく読めたのは、つい最近のこと。 関係ない話が続いてしまった。何度でも声をあげるが、詩を書くこと、読むこと、なぜ「あなたにとって」詩が必要なのか、さらには、どのような詩が必要なのか、どのように詩が必要なのか。どのような詩が必要、と、どのように詩が必要、この両者も1文字が違えば、伝わる意味が変わってくる。一字一字にまで目を研ぎ澄ませるほどの詩に出会う経験は少ないかもしれないが、このような余計なことをすることで、より詩が豊かに伝わりあうのではないだろうか。詩そのものが余計なこと/遊びであるならば、突き詰めて余計なことまで考えてもよいのではないか。 最後に、口を酸っぱくして言うが、作者が自らの詩を好むのは当たり前のことであって、他者の詩/視線をいかに自らのうちに取り込めるかが重要だと考えている。書くのが好きなのは当たり前だが、読むのが好きだという人物に出会えることを切に願うが、私自らがそうでないといけないので、単なる傲慢でしかない、ですね、はーいはいはいはい。 1. 大賞候補 「おだくん」くつずりゆう https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2199 他者への視線、想いを寄せるということで大賞候補を選ぶならば、この作品が大賞に値する。 「おだくんは わたしにとって静かな存在感の人だった。/ 口数が少なく、勉強でもスポーツでも目立った記憶もなく、面白い話しもなく、休み時間にワイワイとするわけでもなく、かといって友達がいないわけでもないらしく、寂しそうでも悲しそうでもない。」というおだくんの説明を読めば、彼が何でもない存在であるという設定を描くには十分すぎる説明である。ここで読み手は、おだくんはおだくんという呼び名を持っているだけの存在であるということを知る。ただ、このわざとらしい設定を目にして、一体このあとどのように続くのかと疑問を抱いてしまう。 彼が持つ特徴は、頬が紅潮して、まるで全身を使うようにして照れるということである。この特徴を語り手が見過ごしていては、最後の展開まで続くことはなかった。 どこにでもいるような、彼らの中の一人(one of them)としてのおだくんが、確固たるおだくんとして語り手の心の中に残り続けたのは、「将来なりたい職業について発表する」という授業を契機にしたことだ。この設定自体もわかりやすいものである。 「五月の中学1年生の多くは、学校の先生とか塾の先生、看護師、警察官、漫画家など、身近な存在の職業をあげていった。」という、これもありがちな説明なのだが、この説明は決して無駄な説明ではなく、この作品においては必要な説明である。このことによって、むしろおだくん以外の存在がただの彼ら(them)へと成り下がることができる。 話は少し脱線するが、詩行を書くことにおいて、削るタイプと盛るタイプとで分かれるだろう。この作品においては、説明や描写を重ねることをしているので盛るタイプだが、時には、無駄であったり、冗長的になったりすることがある。そうした時、読み手は退屈さを覚えてしまうのだが、そこに必然性があるならば、読み飛ばすことはできない。これらありがちな説明、特に上記の表現も場合によっては、無駄とも思えるかもしれないが、おだくんという存在を際立たせるための説明なのであり、決して無駄なのではない。こうしたことが意識的だろうと、無意識的に書けるということが、作者の巧さへと繋がっていく。その詩行がそこにあるという必然性を読み手が感じられるかどうかということは、書き手も読み手も常に考えなくてはならないことだ。 さて、おだくんの「将来なりたい職業」はと言えば、「花火師」であって、そのこと自体は読み手にとってさほど重要ではない。知らない人のなりたい職業が花火師だろうとなんだろうと知ったことはない。ただ、読み手が知るべきことは、この「花火師」というおだくんの願いを語り手が引き受けるということだ。 「おだくんの唇が『ハナビシ』という言葉を発したほろ苦さ」という表現は、非常に巧である。私自身、誰かが発した言葉がずっと脳裏にこびりついていて、それが何年たっても色褪せず、そのことについて考え続けてしまうことがある。それこそが、私にとって大事なことであると胸を張って言えることであり、そのような体験がこの作品で描写されていて、嬉しくなった。 そして、語り手が見抜いていたおだくんの紅潮する頬という特徴とおだくんの花火師になるという願いを重ね合わせる最後の展開は、思わず感嘆な声をあげざるを得ない。 誰かが言った、とりとめのないことをずっと想い続け、抱え続け、そのことについてずっと想うということ。それこそが他者を想うということであり、それに加え、きちんと他者に眼差しを向けているということ。それは、語り手にとってしか大事なことでしかないのかもしれない。おだくんが言ったことなど、他の誰もが忘れているかもしれない。もしかしたら、おだくん自身も忘れていて、なんでもない職業に就いて、なんでもない人生を歩んでいるかもしれない。それでも、この語り手は、おだくんがあの時確かに言ったであろう些細な一言を忘れないでいて、それが叶っているようにと想うこと。 実に個的であると言えば個的であるのかもしれないが、個的であるからこそ、他者への確かな眼差しや想いを感じることができた、という点で、大賞にふさわしいと考える。 2. 優良 「[]」― https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2097 「海は戻ってくるんだ」と、どこに戻ってくるのか。そのような読み手の疑問をよそに、語りは進んでいく。淡々と物事がうつりかわっていく。その中でのカギとなるのは、「声をきく」もしくは音を聞くことである。この作品自体が、語り手により語りであることは自明でありながらも、この語りに読み手は耳を傾けていく。 「サンゴが魚を食べる」というありそうなこと。これが実際に起こり得るのかどうかが重要なのではない。これが、なんだかありそうであるということから、ほこりへの視点の転換が鮮やか。忌み嫌われるものとしてのほこりに眼を向けるということ。どうして、ほこりがほこりとしてそこに存在し得るのか。そして、「吹けば飛ぶこの生」というほこりの性質を他の存在へ視点を重ねる。 場面展開がされる。前半部分の語りを聞いていたのは、読み手であったはずなのだが、一人の登場人物である「電信技官」が現れる。この技官は読み手の代表者としての役割もになっている。受話器が受話器であるという当たり前のことに想いを寄せる。「受話器はなぜ受話器というのだろう」という疑問は、考えなくてもいいことだ。受話器は受話器として使用/利用すればいいだけなのに、その受話器にすら存在意義を問う語り手の視点。ほこりに眼を向けられる語り手、強いては「作者」であるならば、必然的に生まれ得る疑問だろう。そして、「それはこちらが話すことを前提としていない」という断言により、「声を聞く」という前半部分と繋がっていく。 ほこりの存在を認識できるのは、光が照らすからであって、ほこりがあるということと光があるということは同義となる。ほこりは舞い、そのほこりに絡んでいく光。ほこりがどこから来たのかと問うと同時に、光がどこから来たのかと疑問を転換させていく。この眼差しの転換が丁寧で、巧みで、考えなくてもいいことかもしれないことへの想いの寄せ方に惹かれるものがあった。 「もうなにもかも知らないし何も知らなかった」ゼンメツ https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2150 コンビニそのものは身近ながらも、その中にいるコンビニの店員というのは、近いようでいて遠い存在であって、コンビニの商品はお金で手に入るけれど、コンビニの店員は売っているわけではない。コンビニの店員については、私自身も「縁」という作品で描いたが、その描き方が全く異なる。私の場合は、たまたま外国人であったことも付与して、全く手に入らない存在であって想うことしかできないものとして描いたが、この作者はその遠いものを手に入れてみることを描いている。 書いてあることについては、書いてあるままであって、やはり、近いように見えるけれど実は遠い存在であるコンビニの店員を手に入れてみた、と思ったら、実は手に入らなかったという、この着想に惹かれた。 さらに、単なる空想で終わってはいなくて、憧れのコンビニ店員を手に入れてみて、はい、ハッピーエンドでした、なんていう陳腐な終わりではなく、現実を忘れてはいない。確かに、世界というのは、「私」という存在がいなくてもぐるぐるまわっていて、必ずしもコンビニ店員はいつも一緒であるわけではない。そのような当たり前すぎる現実がきちんと最後に描かれていて、もしかしたら前からいたかもしれない店員がいるというこの描写を入れるだけでも、世界は拡がり、語り手及び作者の視野の広さを窺える。決して蛇足でも、無駄でもなく、作中世界が決して閉じられないようになっているのは、作者の力量が表れている。 言葉として説明はできないながらも、店員と語りの手が震えているというこの事実だけが描かれえる結末も魅力的である。この理由を淡々と説明されていたら、萎えてしまうだろう。 3. 推薦 「朱肉の空」桐ヶ谷忍 https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2171 「わたし」や「ぼく」といった一人称はないが、語り手としての「私」は観察者としてこの作品に確かに存在している。そして、この作中世界に対して関与している。 展開を改めて書き記す必要もないが、それでも、「水槽で死んだ金魚が松の枝先に括りつけられ、その姿が消え、その時の空が金魚の身体のような朱色だった」というだけだ。 先に記した、見えない語り手の存在をここに書き足す必要がある。生きていようが死んでいようが、金魚が自ら「庭の松の枝先に括りつけ」られることはない。つまり、誰かがそうしたのであって、それこそ語り手である。見えない語り手は①金魚を括りつける②空の色を描写する、という2点においてのみ、この作品での役割を果たしているのだが、この2つは前者がなければ、後者は成り立たない。前者がなければ、後者は単に、朝焼けだか夕焼けだかによって、「空が朱色に見えました」で終わるだけだ。語り手が自ら行った行為≒責任が生じるからこそ、空が「鮮やかな朱色」に見えるのである。 そもそも金魚が死のうが、空が朱色になることもある。つまり、金魚の死と空が朱色に因果関係は、本来ないのだが、この両者を結び付けたという作者の着想こそがこの作品を作品たらしめるのであり、この着想に惹かれた。 「我が労働歌」鈴木 海飛 https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2096 タイトルからは鬱屈としたイメージを想起させるが、書かれている内容は全く違う。それは「労働」という言葉が引き付けるイメージが強いからなのか。 語り手の役割/労働は「ひとりの街灯」であるということ。その下を走りすぎるランナーの無事を祈るのだが、はたしてランナーはその祈りに気づいているのだろうか。 そもそも街灯の役割とは何であるか。それは、暗い街中を照らし、行く先を示すことであろう。それこそが、ランナーの無事につながるのだろう。 街灯は光を照らすことがその役割であるが、その光が不要な時刻もある。その時の描写が「ゆっくり目をつむる/光の刻をとめ、雨粒を空中にうかべよう」という2行であり、読み手に対して鮮やかにその光景を想起させる。何でもない、力のこもっていない2行なのだが、この脱力して書かれた2行こそ、光を照らすべきだという役割を失った街灯の存在を作者が照らしているのだ。作者がそこにぽつねんと立つ街灯を照らすというこのメタ構造、しびれる。 休憩後、「ふたたび頭に走る電流」によって、街灯は労働を始める。街灯は歩くことをしらず、「たちんぼのまま」だが、それが役にたつならば、の後の展開。街灯は電気が無ければ仕事ができない。街灯がそこに存在するだけでは、役割を果たせない。街灯が街灯たる所以は、その街灯に対して力を送っている装置があるということ。街灯の背景にまで目を向けて、そこに想いを馳せる作者の眼差しがなんとも尊く感じられた。 この作品の括弧付きの「作者」こそが、街灯の存在に光を照らすことのできる、本当の街灯なのだ。 「まとめのにがてなこどもみたいな、こどもっぽい、こと。」なつめ https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2075 「ミドルネームが欲しかった」という願っても叶わない欲望から詩行が始まる。この出だしだけでも、惹かれるものがある。それはまるで、男の子が「大人になったら、お母さんと結婚する」と駄々をこねるようなもの。大人にしたら「ありえない」の一言で済まされるかもしれないが、語り手は「本気で願っていた」のだ。 ただ、語り手は、その到底叶えられないだろう欲望を叶える手段を知ってしまう。「宗教」である。キリスト教では洗礼を受ければ、洗礼名が与えられる宗派がある。そして、語り手の時間は「小学生で止まっている」のだ。 部屋を片付けるという行為に、過去を捨てるという意味合いが込められているだろうが、「昔の私は今の私より、/詩らしいものを書くじゃあないか」という羨望がある。今の私は生きながらも、過去の私が今の私の中で生き続けている。だからこそ、部屋を片付けながらも過去の私は片付けられずに「それでもいつかプリキュアになれるんだって思」い続けてしまう。 今の私の中で生き続ける過去の私は片付けることができない。いや、そもそも、過去の私と今の私を選別する必要がないのかもしれない。今の私の中で過去の私が生き続けていることは当たり前だ、私は生きている限り、地続きになっている。 もっと大人になったとしても、きっとミドルネームが欲しいままなのだろう。大人にしたら「ありえない」の一言で片付けられてしまうようなこと、それを片付けるのを決めるのは、私自身なのだろう。 そして、語り手は想いを膨張させつつも、「夢の世界にドボンする」ことで、言葉の世界から姿を消した=記号化されたのだ。 「指でなぞった憂鬱」田中ハル https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2211 灰色という単色は、灰色そのものであるが、灰色という存在そのものは黒色と白色が混ざると出来上がるという性質がある。それでも、その割合によって灰色の濃度は異なってくる。 「その時が来ないと動き出さない、」と変化を予兆しつつも、確かにわかっていることは「いまを息してるってことでしょ」と。その息をしている空気が灰色であるということ。 灰色が灰色で在り得るのは、光がそのように見させるからであって、「わたし」は光ではない、灰色を灰色と感じてしまう。 語り手にとっては「秋が灰色」に見えつつも、秋には「紅葉」がある。わたしは「無色」である。その無色であるわたしの中で、灰色の空気が循環している。雨が落ち、時が動きながらも、やはり、確かにわかっていることは「いまを息してたってこと」なのだ。これは語り手にとって疑いようの余地のないことである。 最後に、語り手が喫茶店にいたであろうことが読者に想起される。アイスコーヒーはアイスコーヒー色をしており、その色彩を確かに見ており、気分は「さみしいのに、/ちっとも灰色じゃないじゃない」ということ。なぜ、灰色という色が選ばれたのか。わたし=無色は変わらず、秋=紅葉という色の変化があり、アイスコーヒーは水で薄まってもアイスコーヒー色をしているが、グレーな気分という慣習的な表現に着想を抱いたことがこの作品のキモにあるのだろう。色への着想と変化するもの/しないものが巧みに描かれた作品である。 4. おわりに 久々にやってみました、はい。無論、他にも好きな作品はありますが、選評をやる責任を果たすためにも、7作品だけに絞りました。選外佳作、という欄で紹介しようとも思ったのですが、やめました。いや、単に息切れなのかもしれません。 あなたにとって大事なものはなんですか、と聞かれたら、なんて答えますか? ここで重要なのは「あなたにとって」ということです。あなただけにしか語り得ないものであるのは当然ですが、あなたなりの理由や視点というのがそこには必ずあるはずです。そういう点で、作品は個的になってしまってもしょうがないと思うんです。僕自身も、個的なことばかり書いていますから。ただ、個的なことになった時、開かれている必要もあるので、そこでどのような詩行を書くべきかと何度も吟味したり、僕はある一文字をどうするか、てにをはをどうするかと10分ぐらい悩む時もあります。それはつまり、こう書いた時、読み手はどのように受け取るか、と考えるからです。無論、考えたとおりに伝わらないことも多々あります。それでも、その一文字をどうするか、ということだけを考えているその時間だけは、他の余計なことを全く考えることはできません。まさに、詩に没頭している時間であって、そのような時間はいくらあってもいいぐらいで。 あー、ついつい関係ない話になってしまった。 そのようにして、僕も日々精進します。もっと読みます。書きます。僕はいまだに詩がわかりません。だからこそ、もっといっぱい詩を読んで、詩を考えます。それだけです。 余計なこと/僕にとって大事なことは、作品で表現したいと思います、あでぃおす。
選評:8月投稿作品 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1140.5
お気に入り数: 0
投票数 : 0
作成日時 2018-09-01
コメント日時 2018-09-19
なかたつ様 うわー、驚きました。まさか、なかたつ様が私の作品を推薦してくださるとは…。感無量です。丁寧に読んでくださってありがとうございます。 そうですね、過去の自分と今の自分、どっちも私なんですよね。実は今もミドルネーム欲しいのです。恥ずかしながら…。本当にありがとうございました( *´•ω•`*)/
0ありがとうございます! もちろん自作についても本当に嬉しいのですけど、実は選評に挙げようと思っていた作品が大分被りまして、しかもしかも! 僕はなかたつさんの書かれた批評に、一人で声を出すほど圧倒されてしまったのです。いや、本当にこれ、もの凄いですね。本気で嫉妬します。こんな批評が書けるようになりたいなあ。
0なつめさん 7月作品についても取り上げようと思ったのですが、怠けですいません。 拙いものですが、お力になれたなら幸い也、です、ます。 ゼンメツさん 一気書きだったので、文章としては粗雑でうんこで申し訳ないです。 ただ、何が書いてあるかということを僕なりどう捉えたかを表したくなった、という引力をもった作品であることは間違いないです。 もっともっともっと精進いたします。
0なかたつさま 評価をいただきまして、感謝申し上げます。 詩として表現をするために、あの光景を改めて自分に記録するために、どうにか形になっておりましたら嬉しく思いますし、こうして丁寧な感想を頂けたことをこれかもずっとわすれないです。 ありがとうございました。
0〈他者の詩/視線をいかに自らのうちに取り込めるか〉この視点、素晴らしいと思いました。 選評を読んだ感想を、他の人にも聞いてみたいです。
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