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INTERNATIONAL HIT MAN BLUES
もっぱら腕がぎちぎちいいましょう で、それがどうしたというのだ はなから捥げるものでない、と知っている その程度にはじゅうぶん、《あなた》もくたびれたろう ―告白しよう ドパミン・セロトニン受容体 その《左右》へと、等し並みに作用する パーシャル・アンタゴニスティックな機序に惚れていた かの《劇薬》のおかげなのだ 左の手背から肘にかけ、つまりは 左前腕が塗り固められて、二〇〇二夏 わたしは、すこぶるラッキー・マンの様相を呈した 左腕の手背から肘にかけ、忙しい傷跡がいまも残る 右のほうの、腕が少しばかし粗忽であったばかりに 煙草を握りしめては、左、の皮膚へと 七つ、八つ、九つ、と焼いて、焼いて 七つ目までは、北斗七星として輝いていたの! しかし、モア・アンド・モア いまや見る影もなくグチャッとしている 世の混沌、《ザ・ケイオス》といったところ そんなロクでもない女男の たった左右の腕から産まれでたのだ 腕は捥ぐものでない、とじゅうじゅう 承知しているはずの《おまえ》が ―告白しよう おれの壊せるものは おれの身体ひとつ、それしか 残されていないんだ などと、日々生活的答案で笑っている だから、父よ母よ あなたがたのうしろ姿に 《共産主義的人間》の、血脈をみることも叶わない ああ、インターナショナル トロツキーがあらゆるソ連邦のフィルムから抹消されたように おれもおれの身体を、《悲しい色》に染めあげて 薄くうすく、奏でていたい
INTERNATIONAL HIT MAN BLUES ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 905.2
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2017-07-05
コメント日時 2017-08-02
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
四行ずつ綴られていく、安定感のある詩行、脳内ニューロン?の情報伝達に作用する・・・というような、学術的な考察が展開されるのか、と思いきや・・・「根性焼き」、でしょうか?(違っていたら、ごめんなさい)びっくりです。 あなた、とは、誰なのか、何者なのか・・・もぎ取られるような痛み、そこまでして求める刺激、〈おれの壊せるものは/おれの身体ひとつ、それしか/残されていないんだ〉・・・その切実さ。 共産主義の崩壊、それは、信じた理想の瓦解(裏切られた、絶望、失意、情熱の矛先を失った虚無感)ということでもあるのでしょうが・・・ 私は、浅間山荘事件の年に生まれたので、学生運動の熱気や失望を、伝聞で聴くに過ぎませんが・・・あるいは、この語り手は、あの時代を経ているのか。そんなことを想像させる作品でした。 上手く読めていないように思いますが・・・
0一行一行の意味を捉えようとして、一行ずつ分割しながら理解しようとすると理解が難しいのですが、読み進めていくと連関性があることに気づき、きちんと構成されていることがわかります。 腕がぎちぎちいう、という日常的な語句から始まり、なぜだろうかという率直な疑問を解決しないままに「それがどうした」とやり過ごされます。ただわかるのは、自らの身体を自ら切り離して対象化し、「あなた」と呼びかけて労っているということ。 そして、場面がいきなり展開され、目には見えない脳内の作用が語られます。それが「劇薬」のおかげであり、それが現在する薬なのか、比喩としての薬なのか、いずれでも構わないと思うのですが、ラッキーマンという象徴を用いて、外部を取り込んで自らの身体の拡張を図る様子が描かれているのでしょう。それは薬を服用することと同義でしょう。 薬は外部を取り込んで身体を拡張すること、それはつまり自らの身体を自らによって変えるということであり、それを自傷という目に見やすい行為として、いわゆる根性焼きをする様子に置き換えられています。当初は北斗七星だなんて冗談によってやり過ごせたであろうが、今となってはただの混沌となっています。 そして、そんなことをしてしまった自分を二人称化した「おまえ」がいるということが告白されています。「おれ」が壊せるものは「おれの身体」であり、その方法が薬・自傷行為であるということ。その「おれの身体」は父母から確かに生まれたものですが、その父母からの血脈を感じられないでいるのでしょう。「おれ」は「おれの身体」しか壊せるものしかないことから、「おれの身体」に対する全能感=支配を表していると同時に、たとえば「父母の身体」を壊すことができないですし、それは「おれ」の外部にある人間との関わりを持つことができないことを意味するのではないでしょうか。 最後にまたトロツキーという象徴を用いて、「おれ」を対照化しています。「悲しい色」が何色であるかわかりませんが、きっと「おれの身体」を弄ることができる「おれ」だけがその色を知っているのでしょう。
0まりもさん はじまして、こんにちは。 コメントありがとうございます。 語り手が、往事を経ているという指摘、参考になりました。 ありがとうございます。 花緒さん こんにちは、はじまして。 コメントありがとうございます。 「大きな物語」とこの詩行が関連しているとは書き手としてはまったく想像していませんでした。 なかたつさん こんにちは、はじまして。 異様に妥当な読みを示していただきありがとうございます。 ただ、書き手として、《あなた》が語り手の身体にのみ限定されて読まれるとすれば、力不足だったと感じます。 フェアな読み、感謝しつつ以後精進いたします。
0お三方へ 取り急ぎのコメント返しです。 後日、もう少し述べさせてください。 いずれにしろ、どれも貴重な感想でありがとうございました!
0http://adzwsa.blog.fc2.com/blog-entry-39.html#IHMB 鑑賞に関しては上記リンク先のブログ記事に書かせていただきました。趣旨が伝わるか否か、筆者のわたしにも不安な体裁でして、心ある方にぜひ「批評技術を」批判されたいという意向なのですが。「この作品は重層的・拡散的なイメージが大変よくまとまっており、内容がすこぶる充実している。」ということを主張したつもりです。 しかし、わたしが充実した読書を楽しんだ(だから上記のような記事を書いた)という事実が、この作品の客観的な価値を保証できるわけではありません。記事内でも紹介した「この書き手のめっぽうすぐれた既存作品群」と見比べて、この詩が特別にすぐれているとは、やはり言えないと思います。 * 重層的・拡散的であるということは、「情報として不明瞭である」ということです。すなわちこの作品に、一般的にいう情報価値はありません。これは「自由詩」を名のる文章のほとんどに言えることで、この作品やこの書き手に限った特徴ではありません。 情報価値がないなら、ほかになんの価値があるのでしょう、「魅力」これ以外のなにを「自由詩」に期待するのでしょう。この書き手のめっぽうすぐれた既存作品群の、派手なフォルム、心地よいリズム、かっこいい物言いその他よりも、この作品が「魅力的」だと言えるでしょうか。わたしはわたしが一番重要と思っているその一点において、この作品に疑問を感じました。有り体に言えば、「この人ならもっと書けるだろ。」と勝手ながら。 * とは言え、わたしが充実した読書を確かに楽しんだこと(でなければブログにまで書くわけがないこと)が、上記リンク先のブログ記事で伝わるとよいのですが。
0たいへんコメント返しおそくなりました。 順次、コメントを受けてのリアクションをしていきたく思います。 花緒さん 「大きな物語」という観点ですが、やはり私自身は書き手としては、そういう言説と切れたところで詩について考え書いているので、うまく返答できるか、心もとないです。 「大きな物語」ときいてひとまず思い出す書物としては、まず『物語の哲学』(野家啓一)です。 文学、あるいは表現一般で「大きな物語」という言説にそれなりに加担しているものとして、宇野常寛の一連の仕事があると思います。ただ、宇野氏の著作に関しては、『ゼロ年代の想像力』を読み、読み物としての面白さ以上のものはないと考えたので、以後フォローしていない状態です。 一篇の詩行、あるいは漫画や映画や小説やアニメや音楽やなんでもいいですが、それらを評するときに、「大きな物語」というタームやその含意、文脈を用いるには相当注意深くなる必要があるように思われます。 そして、私自身は、詩や詩学といったものと、あるいは詩論といったものと、「大きな物語」はなんら内在的には切り結ばないという考えであり、これ以上言及することがないのですが、ともかくも、花緒さんのコメントによって改めてそのことを確認することができました。 ありがとうございました。
0澤あづささん こんにちは。 コメント返し、たいへん遅くなりました。 いくつか、もし、私自身がこの詩行をヒヒョーするなら、という観点でリンク先を示してみたいと思います。 「パーシャル・アンタゴニスティックな機序に」 http://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/all/series/drug/update/200606/500878.html 「すこぶるラッキーマンの様相を」 https://www.youtube.com/watch?v=NBsib89HVdY https://www.youtube.com/watch?v=01TOcbxurGo 「≪共産主義的人間≫の、」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E9%81%94%E5%A4%AB#.E8.91.97.E4.BD.9C 「≪悲しい色≫に」 https://www.youtube.com/watch?v=xQeEOoKhIqg さしあたって、こんな感じでしょうか。 概して、澤さんの「読み」が示されていて、非常に興味深く拝見しました。 以下は、蛇足ですが、詩作品の批評というものは、ほんとうに難しいと思います。 テクスト分析、というものが、どこまで機能し得るのか、という点で。 私自身は、『詩の構造としての覚え書』を15年前、必死に読んでいました。大学図書館にて、ひたすら書き写していたのは、先人の詩行よりも、むしろこの入沢康夫の「詩作品入門書(イニシアシオン)」であったわけです。 その後、この書物での入沢のテーゼ「詩は表現ではない」に対して、北川透が猛烈に反発し、『像の不安』という書物が書かれるわけですよね。 この論争自体は、70年代後半の話です。 しかし、この問題圏から詩の批評、あるいは、詩を読む行為が自由になっているとは私はまるで考えられない。 近年では、『トルタの国語 冒険の書』にて、故・安川奈緒が「感傷的筋肉、詩的虚構について」というエッセイを寄せています。 そこでは、入沢ー北川の問題系を、ジェラール・ジュネットやドミニク・コンプの議論を参照しながら、「抒情主体」の在り処について分析がなされています。 「抒情主体」の問題系は、私自身の関心、という領域をはみ出ていると思います。なぜなら、詩の歴史はある時期、それも何千年単位以前の時期から、どうしても「抒情」というものと切れない関係を結んでしまったからです。 INTERNATIONAL HIT MAN BLUESは、2016年初頭に作りました。 私の過去作(2008~2011くらいまでの)との比較を行うと、あきらかに「詩的技術」の側面では、ゆるくなっていると写るかと思われます。しかし、私自身は当然、近年のもののほうが気に入っている。あるいは、詩学への意識が反映されていなかった以前の作品群はすべて「抒情小曲集」程度にしかとらえられずにいるのが正直なところです。 それらの他人、他者からの評価とはイレレヴァントに。 以上です。 素敵なヒヒョー、ほんとうにありがとうございます!
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