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声のみの声――起草
【1】無垢の果実 怜徹の無風で纐纈の進行を留めておきたいという意味では強いのにところでふと気がつくといいよ中として水子冬の空に私の眠りを支える影になってそっと縮んでいくみちのくの旅の途中まですぐはかなきちがい 私の中の私何度も何度も強く激昂のソーダを振りかぶる私水のこと静けさを思いやるようにしてお腹私に何かを残してくれましたかというあなた自身があなたであるが故に声の音が寂しく静けさ思いやっていました ため息とともに言葉は無実の罪を吐き出し恋に譲り渡す陰嚢の印籠の高温と奇術せよ私が私であるがゆえにゆえにがゆえにであるが故に無実の果実にあなたを捧げますか巫女の魂の絢爛たる揚々たるものを 【2】原野 人間の意思とは裏腹に 人の目を追い抜く鳥たちよ 言葉よ そなたは美しい 罪を この大いなる秘跡よ 我に力を与えたまえ 【3】睦 春風がそうすると吹くさなかに 私の春がはるかしい思いを寄せている そっか しかしこれは 至難僕には分からないかもしれないけど 【4】橋 文体の悪魔の怜悧なる様に酔いしれた我が頰には緋みが差し的中させた予感とともに虚空を徘徊する石目のごとく我が稲妻はみじんなる様を無尽蔵に北条たる石狩の架け橋にやってきた透明感のある空想の曝涼たる猛獣の如き俳諧を硬結する氷 今し方やってきたばかりの一人の若者が故に姿を消した老婆のみにくく修煉なるときを 町から滝の音が聞こえた 優れた死は意味から逃げようとする 私の顔を覆え 叫びよ
声のみの声――起草 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 902.2
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2017-03-19
コメント日時 2017-03-27
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
kaz.さん、こんにちは。 中身よりも【1】から【4】までの副題が主張であり、要旨なんですね。そしてそれは並んだ言葉に対する装飾でしかないのです。たとえばから【1】では「無垢の果実」という主題があってはじめてたどたどしく綴られた言葉の連なりの中から「水子」とか「お腹」という受胎を表す言葉が浮かんでくるのだけど、それも実は他の語を意味的連なりというロープによって意識の表面に引き上げる役割を担っているに過ぎないと思わされる。恋、性交、妊娠、堕胎、痴話喧嘩。喜び、怒り、優しさ、思いやり、嫌悪。そういったコトや感情が明滅してきます。きっとそれは無垢の胎児が感じ取った親たちの生きる世界の知覚に近いものなのでしょう。 以上が最初の部分の読みなのですが、ここが一番好きでした。(誤読にしても、ですw)【2】【3】はわかりやすいぶん感傷的に過ぎます。それがねらいなのでしょうが、 >人の目を追い抜く鳥たちよ この映像的なテイストが並べば僕にはもっとよかった。 【4】では例の「北条」なのですが、誤変換をそのまま活かして、表現を作者の手から離す 、という試みは面白いですね。意図と意図の外とが組紐のように縒り合わされる上に、意図の外の部分はAIのロジックが紡ぎ出した集団的無意識が反映されているのですから。ただ、「文体の悪魔の怜悧なるさま」という大仰な物言いはそういう興奮に水を差しますね。悪魔なんて
0レスポンスありがとうございます。今日の料理を見ながら思ったのですが、言って仕舞えば私の詩は料理なのですよね。その前の詩が「チャンプルー」と批評されたように。そう言った意味をも考慮に入れて考えると、まあとにかく食べてもらって、賞味して頂いて、あるいは毒味して頂いて、それで詩の味わいを確かめて頂けたら、と思うのです。そんな感じですね。よろしくお願いします。
0難解な詩には大きく分けて二種類あると思うんですよ。作者が作品に明確な意味というかメッセージを持たせているものと、持たせていないものです。ただ、後者も「ランダムに選んだ数字に従って、あらかじめ選んだ雑誌の各ページから1行ずつ抜き出す」みたいな手法を使わない限りは、無意識の領域で何らかの意味が含まれる場合もあると思いますが。 さて、この詩の場合はちゃんと作者が込めた意味が存在すると思います。ただし、かなり分かりにくい。詩という蝋管レコードにメッセージを吹き込む時のやり方がまずくてノイズが入ったのか、あるいは聞き手の耳が悪いのか。例えば「いいよ中として水子」は文字通り無責任な妊娠と堕胎のことなのか、私の考えすぎなのか。例えそれが私の読み通りだとしても、頂上は遙か遠くなのであります。それでも、この言葉の解体と再構築の仕方は、盆栽の素人である私でも「うーん、バカボンのパパは良い仕事をしてるねぇ」と呟きたくなるのは事実です。
0いやあ、弁が冴えますなあもとこさん。バカボンのパパという存在は、なかなか面白い例えですね。盆栽に例えられるほど私盆栽好きではないけど。ただ昔立ち読みした『家裁の人』は好きでした。
0題名からしてそうですが、中身=実を伴うことに対するイメージが連鎖しているように思えます。実を結ぶというのは、一つの形をまとうことと同時にその場に留まることを表しますが、水子や影というのは定まった形を持っておらず、また、特定の場に留まっているわけではありません。 声というのは、発する主体があるからこそ存在できるのですが、それは声という形をまとっています。つまり、声以前の歴史、声が声になる前は主体の想いや何かが形になっていない状態にある気がします。ただ、「声のみの声」というのは、声という形を持ちながらも、その中身のない、まるで種のない果実のようなものでしょう。思えば、「無実」というのは実が無いと書きますね。中身の伴わない形だけのものということでしょうか。 そして、言葉にとっての実は、この詩で言えば意味にあたるのでしょうか。この詩の「私」もしくは「我」は実の伴った言葉に期待を抱いているのでしょう。そして、私は私なりの中身=「私の春」を持ってはいるものの、それはきっと誰かに捧げられた実ではなく、誰かに開けられることのない私の中身であり、また、その実が豊かなものであるようには思えません。つまり、この「私」そのものはおそらく中身のない実として描かれているのではないでしょうか。「私が私であるがゆえにゆえにがゆえにであるが故に無実の果実にあなたを捧げますか」というのが、そういったことを思わせます。 最初に、形のないものは特定の場所に留まることがないと書きましたが、最後の徘徊する様は「私」自身が形を持たずに徘徊しているように思えます。実を結ぶということは、植物が定住する地を定め、根を張り、その場所に留まる必要があります。特定の場所に留まることをしない限り、あらゆるものは実を結ぶことがないのではないでしょうか。
0【1】の【無垢の果実】の文脈が、(目についたところを適当に繋いだ結果の大雑把すぎる印象ですが、)「炭酸飲料を飲んだあとゲップを出すように【言葉】を吐く」というような描写に見えました。 【水子】を「りんご(エデンの善悪の知識の実)の果汁を【激昂のソーダ】で割った清涼飲料水」と大胆に想定すると、全文の意味を恣意的にはほぼ完全に取れるように思い、個人的に非常な関心を持ちました。 りんご(善悪の知識=罪を定める基準)を圧搾して取った果汁を、「実体」に対する【意味】と仮定します。 その【意味】を、【2】の【(たぶんエデンの)原野】に綴られた『ファウスト』のパロディみたいな文脈における、【(善悪/美醜/好悪などを判断するための合理的な)言葉】すなわち「定義」と同義と定義します。 この【意味/定義=言葉】を【激昂のソーダ】で割って飲むと、口からゲップが出てくるように【叫び】が出てくるのだと想定します。 以上の想定のもとで【叫び】の正体は、【激昂】であり【意味】ではなく、ユングの言う「感情」(美醜や好悪を判断する合理的心理機能)ですらありません。思考と感情の表現型である【意味=言葉】のりんご果汁は、【お腹】に収まり消化して、わが身の血肉か排泄物になるでしょう。ゲップ=【叫び】は、人体にとって有益でないどころか有害ですらあるために、人体に入るなり吐き出されるのだと考えられましょう。 そのようなゲップ=【叫び】を極端に美化して、【優れた死は意味から逃げようとする 私の顔を覆え 叫びよ】などとこの詩が語っているんだとしたら、それはもう単純に「笑える」としか、わたしには考えようがないので笑いました。そう思って作品全体を見回すと、誤変換みたいなダジャレの連打等が、まさに炭酸飲料水の泡沫のように見えてきてさらに笑えます。もちろん、とりあえず笑ったあとで、まじめにいろいろ穿って考えることもできます。 * 以上の解釈は、解釈したわたしが美や音楽に関心を持たず、人間の排泄欲求への蔑視も持たず、かつ詩に【意味】を────つまりそれを消化し自分の糧にしたいと────熱望する人間であるから生じたものです。わたしの解釈についての責任を、作者様に問うことはできないということを、念のため最後に付記しておきます。
0百均さん、ツイキャスどうもありがとう。 「句読点を弾いて読めるためには、音楽というのが流れていないといけない。」というのは、すごく参考になります。「言葉から意味を抜こうとしても抜けない」というのは、とても含蓄がありますね。 「声のみの声」というタイトルは、「声なき声」「家なき子」というのの派生だと考えてもらって差し支えありません。つまり、「声なき声」というのは、レリスが言うところの「夜なき夜、昼なき昼」の影響にある、ということは申し上げても間違いはない気がします。 最近翻訳の仕事をしているので、作風も変わってくるかなとは思います。
0なかたつさん、コメントどうもありがとう。 まず、詩の読解としてはなかなか良く、ただし後半についてはあなたと意見が異なる、ということを申し上げておきます。 言葉にとっての実とは、この詩にとっての意味なのではないか これは当たっています、ただし半分くらいは。より厳密には、言葉にとっての実とは「存在しない=非在のもの」であり、在らざるもの、と解して頂くのがいいと思います。それは、より具体的には「取り消し線付きの存在」のようなものだと思っています。 その一方、というかその取り消し線付きの存在と比較して、声ははっきりと存在するものである、と申し上げておきます。ハイデガーの「良心の声」(『存在と時間』)、吉増剛造の『詩学講義 無限のエコー』(こちらではニーチェの耳
0澤さん、どうもありがとう。 それも半分くらいしか当たっていません。というか、エデンの園の果実が
0こんばんは、kaz.さん。遅くなってごめんなさい。 題名に「声のみの声」とあるわけですから、ここに表れているのは文字ではなく音声なのでしょう。私自身最近よく考えていることのひとつに、たとえばオートマティスムなどの手法で作成された作品があったとして、そこに無意識的に配置された文字を能記としてではなく所記として読解するということが作品へのひとつのアプローチとしてどの程度有効なのだろうかということがありまして。どんな文字群にせよこじつければきっと何らかの強引な解釈は可能だろうと思うのですが、畢竟それは作品の中に読み手自身を読むということに他なりません。つまるところその手の作品の評価基準としては読み手の中のコードと合致するかしないかしかないような気がします(解釈できるかできないか、とは少し意味合いが異なります)。それでこの作品についてなのですが、通読するなかで心地の良さと気持ちの悪さが入り乱れる感覚がありました。沈みこめるような隙間を見つけたと思ったら次の瞬間には強く弾かれているとでもいいますか。もしかしたらこの作品は読み手の「解釈」という介入を拒んでいるのかもしれない。一方で、あからさまな隙がノイズになって煩い部分もあります。 >優れた死は意味から逃げようとする 私の顔を覆え 叫びよ 叫びが顔を覆う、つまり意味を置きざりにして音声が先行するということなのでしょうが。 >言葉よ >そなたは美しい >罪を >この大いなる秘跡よ >我に力を与えたまえ 或いはこういう部分。叫びが響いていた詩文に唐突に顔がぶちこまれたようで私はちょっと不快でした。いや、実際はここの顔もたんなる「音声」でしかないのかもしれませんが、それならば語句のそれぞれが持つ「音程」にももう少し気を払うべきなのではないかな、と。kaz.君の最近の詩はあまりにもカラフルすぎて(絵文字が、とかそういう直接的な意味ではなくて、なんというか、大味すぎる、というのが近いかな)、私としてはちょっと目がチカチカしてしまう、かな。ただ、なんだかんだで【1】と【4】は好きです。単純に、コードが合いました。これからもこの路線を試してみるつもりなら、ぜひ顔を挿入する誘惑を振り払って、最後まで声のみで貫き通したものが読んでみたいですね。ではでは。
0kaz.さんへ。 重大な誤解が多々ありますので再レスします。 ①わたしはB-REVIEWのレスをすべて「ほかの人のレスを見る前に」書いていますので、どなたのレスの影響も受けていません。影響を受けていると思ったのは、あなたにわたしへの悪意のあるがゆえの先入見でしょう。筋を通さなければ、人の悪口を言うのはとても簡単なことです。 ②わたしはあなたのクイズを解きに来たわけではありませんし、この文章には論理的な意味がないので「正解」など存在しません。もしあなたが、この文章であなたの意思(さっぱりわからないという回答を得ること)を絶対的に表現したと勘違いしているのなら、それは勘違いだとしか言いようがありません。 ③善悪の知識の木の実がリンゴであるというのが俗説であることは、10年以上前から知っています。この詩にリンゴが出てくるから、解釈に俗説を利用しただけですが、なにが不思議なのか理解できません。論理的に問題があるのは、あなたのほうなんじゃないでしょうか。 わたしはあなたの信用を得るためにコメントを書いているのではありません。すべて「わたしの読者に向けて」書いているので、あなたの指図を受けるいわれはありません。(読解されるのがいやなら、楽譜で書いたらどうですか? 気に入らない読者を拒絶するための努力もせず、文章など書いてる時点で、あなたの主張は論外でしょう。) しかし、あなたは他者の論理に耐えられないようなので、今後はコメントしないことにします。とりあえず、わたしは上記で間違ったことを述べていないはずですから、それは了承なさるかご検証くださいね。
0見返したら上のレスに重大な二点の間違いがあったので訂正します。出かける前にあわてて書いたもので、申し訳ありません。 ①上のレスの「この文章には論理的な意味がない」というのは、「この文章には客観的に明瞭な文脈がない」の間違いです。作者の意図など関係なく、日本語に日本語の定義(たとえば「声」には「主張」という意味があるなど)があればこそ、わたしの最初のレスのようなのが起こるという事例を自分で先に出したわけですから、非論理的な物言いでした。 ②上のレスの「この詩にリンゴが出てくる」という勝手な断言は、「この詩には【激昂のソーダ】をサイダーないしシードル(リンゴが原料の炭酸)と想定できるような文脈がある」ということです。その根拠がわかるように最初のレスを書いたつもりですので、読まれていないことが意外すぎて、「リンゴという単語が出てこない」ことを失念しました。
0纐纈が、しょっぱなから読めなくて(^_^;) コピペしてググってしまった・・・ こうけつ、あるいは こうけち、でいいんでしょうか。奈良時代の絞り染め、鹿の子しぼりのこと、とな。なるほど・・・(何がどう、なるほどなんだか、自分でもよくわからないながら) 冒頭のズラッと言葉の並んだ部分、音声認識機能を使ったのか、と思ったのですが、そうではなさそうですね・・・文章がひとつあって、その文章を寸断するように他の文章が切り刻まれてはめ込まれている、という印象を受けました。 「れいてつ」と打つと、冷徹、が出て来る。作品では、怜悧の怜と徹底の徹、ですね・・・ということは、パソコンで自動的に出て来る同音異義語を偶然的に用いた、ということではなく、意図的に作った造語、ということなのかな。作者の意図が込められた部分なのかもしれませんが、冒頭から肩の力が入り過ぎ、というのか、構えた感じがしてしまう。そのことが「面白そう」「読み解きがいがありそう」と読者を引き付けることになるのか、あるいは、「難解そう」「何言ってんだかわからん」と読者を遠ざけてしまうのか・・・。 私には、「怜徹の~中として」までが、枕詞のように意味を背後に遠ざけたものとして置かれていて、「水子冬の空に私の眠りを支える影になって」がインパクトのある詩行として、こちらに飛び込んでくるように思われました。「強いのに」「ところで」「ふと気がつくと」「いいよ」といった部分は、多声の混入というのか、進入というのか・・・ノイズ的に言葉が入って来る感じ。「すぐはかなきちがい」すぐは、という言葉と、はかない、の成りかけが目に入って、すく/はかなき/ちがい と響くのだけれど、「きちがい」という言葉が最後に残って、はかな、が、ばかな、に見えてきたりする。意味がすぐに取れない、そのために読者の目が滞留する、そのために、様々な読み方が生じてしまう、気がするけれども・・・ここで(こんなところで)読者の目をとどめておく、そんなことを作者はさせたいのか?という、疑問が起きてしまう。 第一パートの二連目は、一文字アケとか句読点を用いずに一気に綴った、というだけで、つまり、あえて読みにくい感じにしているけれど、詩として成立していると思いました。「私の中の~振りかぶる私」これを「私の中の私 何度も何度も強く 激昂のソーダを振りかぶる私」と切るか、「私の中の私何度も 何度も強く激昂 のソーダを振りかぶる私」と切るか・・・少しずつ重ねながら貼り付けていった文章のような、掛詞的に意味が重なって行くようでもあり・・・。ややこしいけれど、面白いニュアンスが出る部分だな、と思いました。 余計に、第一パートの一連目の不自然さが、読者を攪乱しよう、という意図なのかな、というような・・・実験してるぞ、という意図が先に立ってしまって、空回りしているような、そんな「肩に力入ってる」感が、強く伝わってきてしまう、のですね・・・。 第一パートの三連目、「恋に譲り渡す陰嚢の印籠の高温と奇術せよ」は、恋に/故意に、奇術/記述/既述 と、意識的に二重性を用いてみた、のかな、という印象。陰嚢の印籠、肛門じゃなかった、黄門様の印籠みたいに、「陰嚢」という言葉が出て来た時点で隠微さや不穏さが出るなあ、そこに「高温」という、熱量をイメージさせる言葉を持ってくるのか、ここは面白いフレーズだな、と思います。 巫女の魂、というようなドラマティックな言葉を受けて、第二パートの、ちょっと舞台のセリフがかった、というのか、荘重な感じの部分があって、第三パート。 儀式的な、大げさな身振りで呼び出した「言葉」と「私」が、親密に睦みあう、そんなパートであるように思いました。そこに「そっか、」と肉声(口語)を入れる、これは、成功なんだろうか・・・半かっこ( を口話の冒頭に入れるとか、何か操作を加えた方がいいかもしれない。このままだと、私は文体の齟齬を強く感じます。 最終パート。纐纈/硬結、ここで冒頭と音が繋がる。ここまで持ってくるのか!長い、回りくどいぞ、とツッコミを入れたくなりました・・・。高潔もありますね、音から言えば。意味は重なるのかな・・・。「虚空を徘徊する石目のごとく」こういう、漢語の熟語を重ねていく作風を試している方も沢山いるけれども、なんというか、高踏派を狙ってます、的な印象は残るけれども、カッコよさの他に、何を目指しているの?と聞き返したくなってしまう。古さも感じますね。徘徊/俳諧の意味重ねとか・・・最後のオチが、意味としてはココを言いたいのだろう、と思う、力のこもった一行だと思うのですが、ダジャレっぽくないか?あまりにも・・・。 「優れた死(詩)は意味から逃げようとする 私の顔を覆え 叫びよ」 舞台で、青年が一人叫んで暗転、息をつめて見守っていた観客が一斉に拍手、という終り方なのですが・・・朗読などで聴衆を引き込んでいければ、最後に「おお!」と感動がある、と思うのだけれど、文字で読むと、大げさ過ぎないか?とシラケてしまう危険のある終わり方でもあるな、と思いました。 全体の印象として、力のこもった(若さのエネルギー、実験のエネルギー)作品だと思いますが、冒頭は肩に力が入り過ぎ、若干空回りしている。中盤はカッコつけてる感があり、後半は仰々しく成り過ぎている、のではないか・・・と感じました。 言葉を孕む、ということ、水子となって流れて行くもの、言葉を儀礼のように自らの上に降ろす、ということ、その言葉を発話する、ということ・・・そんな、詩の発生の時点を問おうとしている方向性を感じて、面白いな、とは思うのですが・・・なんとういうか、やり過ぎ感が強いな、ということでしょうか。
0紅月さん うむむ、うまい。
0まりもさん どうもありがとう。
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