出勤前
澄み渡った空に
月
がぽかんと置いてあった
なんだか
今日はいいことがあるかもしれないな
と足取りが軽くなる
最近、綺麗な星空を見たよ。眼鏡をかけても視力が1.0あるかないかだけど、それでも、星が優に100個は超えて、夜空に置いてあった。あの時、月は置いてあったかもしれないけれど、そんなこと気にもしなかった。それは白馬での出来事。民泊のスマフォアプリを使って、白馬の宿に泊まったんだ。外観が素敵なロッジで、友人と3人だけで泊まるはずだったけれど、戸を開けた時、友人が「靴が10足ぐらいある」と言って、少し凍りついたんだ。英語で書いてあった宿の説明文をよく読んでなくて、要はシェアハウスだった。一泊だけとは言え、十数人と一晩を共に過ごすことになった。しかも、半分以上は外国人で、緊張感を覚えた。英語で会話するのは数年ぶりで、うまくコミュニケーションが取れなかった。すぐ目の前にいる相手に、何を交換しあえるのか。夜、宴会の時に、嗜んでいるギターを少し弾いた。何が好きか?と外国人に聞かれ、「LED ZEPPELIN」と答えたら、俺も好きだ、と言われた。だから、「Stairway to Heaven」を少しだけ弾いたら、喜ばれた。その外国人はオーストラリアから来ていた。彼は僕を気に入ってくれて、名前を聞かれた。
「星を見に行こう
「え「え「え
こんな星空を見たのは生まれて初めてのことかもしれない。でも、地元の空で見えないだけであって、いつだってどこだって、星空は同じはずだった。十数人で地面に寝ころび、星空を見た。そして、外国人たちは明かりのない方へと歩みを進めた。理由がわからずにただついていっただけだったが、途中でその理由がわかった。この先に展望台があるという。どれくらい歩けば辿りつくのかわからない中、途中で宿に戻る人が何人かいた。僕は友人の一人に、お酒による尿意が訪れていることを告げ、友人もまたそうだということを確認した。外国人たちに「後で追いかけるから」と告げ、友人と二人、暗闇の中で用を済ませた。前にも後ろにも人はおらず、山の中、獣に襲われるかもしれないが、展望台へと向かった。5分ほどで展望台に辿りついた。外国人たちに「クルッテル」と言われながら、星空と白馬の小さな夜景を眺めた。記念に、自撮り写真を撮ってから、宿に戻った。先に戻っていた人たちは、就寝の準備をしていた。
(そういえば、展望台で眺めた星空は、十数人で地面に寝ころんで見た星空と変わらなかった。もう十分すぎるほど、星が見えていたから
(そういえば、展望台に向かう時、友人の一人と話していたのは、あの星々の名前が何であるかということ。二人とも中学受験をしたから、星の名前については勉強したはずだったが、今となってはわからなかった。それでも、あれは金星かもしれない、あれはアンタレスかもしれない、あれは北斗七星だ、と、普段だったら語り合わない話をした
(そういえば、僕はオーストラリアから来た彼の名前を憶えているけれど、彼は僕の名前を憶えているだろうか
(そういえば、あの時の月はどこに置いてあったのだろう
(そういえば、月の名前は、つき、でいいのだろうか
僕には
月が宿っていないから
歩みを進めるしかない
月は
あの光加減が
心地よくて
いくらでも見ることができる
(あの星から見た地球の上に、僕も友人も、あの時の外国人たちも、散りばめられて置かれているように見えるだろう
「まだだよ
「よく見たら、まだ欠けているね
「ほぼ満月だ
「照らされているのか
「照らしているのか
星々が配置された夜空は、いつだってどこだって、同じはずだったんだ
作品データ
コメント数 : 8
P V 数 : 2196.9
お気に入り数: 2
投票数 : 4
ポイント数 : 10
作成日時 2020-12-05
コメント日時 2020-12-19
#現代詩
#縦書き
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
叙情性 | 4 | 4 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 2 | 2 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 3 | 3 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 1 | 1 |
総合ポイント | 10 | 10 |
| 平均値 | 中央値 |
叙情性 | 2 | 2 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 1 | 1 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 1.5 | 1.5 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0.5 | 0.5 |
総合 | 5 | 5 |
閲覧指数:2196.9
2024/11/21 23時28分01秒現在
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月や星が「置かれる」という言い方は何気ないけどなかなか趣きがある。趣きと言って悪ければ含蓄が。コンステレーション(Kなのはドイツ語だからだろうか)というのは、星座のことである。この語のルーツは、ステラ(星)がコン(いっしょに)、いっしょに星ったみたいな意味で、俺が知る限りユング一派のよく使うタームである。母のアーキタイプがあなたのなかでコンステレーションされている。みたいに。 さて、星と月が置かれる、という表現だが、これは神さまかなんかが、はい、ここに置いときましたんでね、ご自由にどうぞ〜的な感じである。天体はあたかもバイキング形式としてそこに置かれている。それを夜空にみたひとびとは手のひらを開いてそれを掴もうとする。しかしそれは叶わない。今度は人差し指でもって、点と点を線で結び始め、やがて獣や、什器の姿を見出す。そして物語を語り始める。 言葉は鈍い列車のようで。一両、一両と続いていかなければならない。星座はあそこで瞬いていて、原では野ウサギが夢をみている、海の向こうでは領土割譲が行われ、街ではデキャンタが不意に落とされ粉々になる、そしてあの娘はヨガマットのうえで猫のポーズをとっている。それが世界。そのことは全て同時に起こっている。にもかかわらず、その現象を、今という同時的な現象を、言葉は、時間をかけて、順序をもってでしか表現できない。ストーリーでしか、人は世界を言い得ない。 世界はあたかも無造作に置かれている。お好きにどうぞ。ということなのである。どの星と星をつなげてもいい。realizeという言葉がある。気づくという意味と、実現するという意味がある。星座のことを考えるといつもその言葉が思いつく。世界が明るいのではなく、むしろ我々の瞳が諸々を照らしている。そう考えて、一向に差し支えないのだ。 生きることはとても不思議だ。それは二重にも三重にも不思議なことだ。人は星のように生きる。あまりにも広い宇宙のなか、他の星々とともに、本当の因果なんてわからない、ある種の厳格な律とともに、互いに近づきまた離れ、星座のひとつの点でありながら、ひとつの個別な星として。すべては世界のダイナミズムのなかにある。地球に立てば、はくちょう座とおおぐま座が見ることができる。しかしアルファケンタウリから夜空をまなざせば、きっとそこには、耳のみっつはえたプテラノドン座や、美女のほくろ座が、立ち現れるのに違いない。そのコンステレーションでは、地球もひとつの点で、銀河クリケット座のバットの先端に置かれ、いまこの時にも、青く光っているのだろう。
1コメントありがとうございます。 「月」はほんとに「ぽかん」感を演出したいほど、朝見えた月が鮮やかだったんだと思います。 「そういえば」のパートも、何でしょう、日常会話のみならず、街中や職場にいれば、誰かの話し声ってすごい雑多に耳に届いているはずなのに、それを聞き手が勝手に切り取っているだけで。文章にするとなおさら会話文って偽物になる気がするんですよね。僕が書くものは日常を日常のままにしたいのかなあと思いましたです。
1どもどもありがとうございます。 Konstellationに触れていただきありがとうございます。調べていただくとわかることですが、僕からは解説せず、素敵と思っていただけたあなたが素敵ですよっと。 大体書いてあるとおりなんですが、コメントの三連目からまるで別の作品が始まったみたいな感じで、そのようなことを喚起させることができたのならばよかったなと。物事って、自分が見ている世界が全てじゃないのに、それがまるで全てであるかのような錯覚をしちゃいけないよなと。だから、僕はメタ僕によって俯瞰されるように物事を見てしまったりなんて。 多分realizeという動詞も主体側に重きがあるんですよね。客体はそこに存在するし、世の中の出来事はどこかで何かが起こっているけれど、realizeしないと、主体にとって認識されないというか。そういう意味でやっぱり共通していると思います。 明言するとつまらなくなってしまうのですが、星にも種類があって、自ら光を放つ星を恒星と言うんですが、照らされる星はなんていうんだっけなとか。惑星ってどういう意味だっけなとか。だから、「〇〇は星のようだ」っていう表現って、少し乱暴なような気がしていて。星は全て自分の力では光ってないんだぞと。
1コメントありがとうございます。 こう、なんでしょうか、ある出来事に触れた時に、ふと過去の出来事を思い出すことって僕はよくあるんですね。時間が経つと思い出したことすら忘れてしまうこともありますが、でも、時間も空間もこえて過去の出来事が思い出されるということは、僕の中に確かに刻み込まれている出来事なんだなあと、そういう時に僕は何か書きたくなります。これも多分そんなものです、作品全体が日常で起きている出来事そのもので。でも、言葉を使うと、どうしても出来事の順番を記さないといけないですから、それが何度やっても難しいですね。 Led Zeppelinに目を向けていただいて嬉しいです。というのも、この作品で起きている出来事はLed Zeppelinをもとにコミュニケーションが弾んだのですが、僕の中で沙一さんがLed Zeppelinが好きな人として認識されて、もしリアルで会ったとしたら、何のアルバムが好きかとか、他にどんなバンドが好きかとか、このバンドの名前という単語一つで、いろいろなつながりが生まれうるのです。 僕は英語が堪能ではないですが、Led Zeppelinが好きでよかったと、そして、言語とかをこえて、音楽で人とつながれた稀有な出来事だったなあ、と今でもよく覚えている出来事ですね。
1はいさい ABさんとも共通することだと勝手に思っているのですが、固有名詞や地名や限定的な出来事を作品にした時、読み手が作品に対して参画できるのか、もしくは、作品が読み手に対して参画できるのか、ということを常に意識しています。 もう少し簡潔に言えば、僕の思い出を語ることで、読み手に何か喚起されるものがあるだろうか、喚起されたら嬉しいなといつも思っています。これは本当に限定的な出来事を作品にしたものですが、また時間や空間をこえて、また、作者や読み手をこえて、何かが繋ぎ合わさって、一つの図が生まれるのか。それは、見る人が勝手に定義づけるものであって、そうした人がいるものなのだろうかと思いながら、僕は細々とまた作品を書ければいいなあと思いましたですね。
0こんにちは。読みました。まず、《最近、綺麗な星空を見たよ。》から《名前を聞かれた。》までの一連から。 《民泊のスマフォアプリを使って、白馬の宿に泊まった》ことから、たぶん「僕」は旅行に慣れているのでしょう。 ところが思いがけないことが起こる。予定では《外観が素敵なロッジで、友人と3人だけで泊まるはずだった》のに、 《英語で書いてあった宿の説明文をよく読んでなくて、要はシェアハウスだった。一泊だけとは言え、十数人と一晩を共に過ごすことになった。》と、ちょっとした不注意から、予定が狂ってしまう。 しかも《半分以上は外国人で、緊張感を覚えた。英語で会話するのは数年ぶりで、うまくコミュニケーションが取れなかった。》と、当初の計画から大きく外れ戸惑うことになってしまう。 けれど《夜、宴会の時に、嗜んでいるギターを少し弾いた。》ことで、 《何が好きか?と外国人に聞かれ、「LED ZEPPELIN」と答えたら、俺も好きだ、と言われた。》と交流が生まれ、 《だから、「Stairway to Heaven」を少しだけ弾いたら、喜ばれた。》と相手を喜ばせて、 《その外国人はオーストラリアから来ていた。彼は僕を気に入ってくれて、名前を聞かれた。》などと結局のところ、うまくいっています。 先にちょっとした不注意と書いたのだけど、こうした些細なミス、例えば読み間違いや見間違いなどは無意識の働きとして語られることがありますね。また、久しぶりの英会話のためにコミュニケーションがとれなかったのは困っただろうけど、ギターを弾いたことが交流の糸口になったことは思いもよらないことだったでしょう。さらにオーストラリア人の彼も「僕」と同じくレッドツェッペリンが好きだったということは「僕」にとって不意の驚きだったと思います。 このような思いもよらないことや意図せぬところにも無意識の動きが見られます。「僕」の当初の予定とは別に、無意識が何かしらの目的をもって「僕(の自我)」に働きかけていると考えると、まさに無意識はそれを実現するために諸々の事柄を通してアレンジメントしている。言い換えれば、不注意や思いもよらないことなど、それぞれに個別であり因果関係によっては結ばれない事柄が、全体を見た場合、何かしらの目的を実現(realize)するために関連しているようであり、constellationにあるような星座的パターンを形成していると思いました。 以上のようなあたかも「偶々(たまたま)」であるような予定外、想定外の事柄の連続があったからこそ、その後の展開もあり、《こんな星空を見たのは生まれて初めてのことかもしれない。》から《就寝の準備をしていた。》の一連につながっていくのでしょう。それにしても《優に百個は超える星空》とはどんなに綺麗だったことか。《生まれて初めて》という今までの日常とは異なる非日常的星空体験。想像するだけでくらくらしそうです。それは「僕」にとっては、予定通り進んでいたら恐らく確実に起こりえなかったことであり、だからこそ想像だにしていなかった体験だったでしょう。外人たちと寝転んで星空を見たことも、友人と野ションしたことも、「クルッテル」と言われたことも、一夜の奇妙で豊かな時間を表していると思います。《(最近、)綺麗な星空を見たよ。》が星空だけではなくて、この時の「僕」の体験ひとつひとつのように響いてきます。 《最近、綺麗な星空を見たよ。》から《名前を聞かれた。》までの一連と、《こんな星空を見たのは生まれて初めてのことかもしれない。》から《就寝の準備をしていた。》までの一連はいかにも自然で、淡々と語られているように感じられます。実際、普段の些細なミスや思いがけない出来事というのは、よくあるちょっとした〈偶然〉として処理されてしまうので、特段印象を残さないトーンで語られるものだと思います。しかし、語りのなかで振り返っているうちに徐々に気づいていくことがある。それが以降の《(そういえば》に続いている。最近あったちょっとした珍事を現在から振り返って、ちょっとした珍事でしかないように思われた一連の出来事のなかに、自分なりの意味を見出そうとする動きを感じます。それはひとつずつ星を探して星座(konstellation)をつなごうとするようでもある。ああ、あれはこういうことだったのかと。ちょうど渦中では見えないことが遠目になって見晴らせることがあるように。constellationが生じる際にはその中に自分も巻き込まれているので見えにくくなっていたとしても無理はないですね。 けれども振り返られた一連の体験は現在を照射していて、それを意味のある体験として落としこもうとする視線は〈ただの珍事〉を明るくするものだと思います。 自分がいまここにいること、それは無数の人々や出来事があるなかで、それでも点と点をつないでつながれる星座のように、誰とも異なるユニークな関係のなかに置かれている。《いつでもどこでも同じだったはず》なのだけど、それが見える時と見えない時とではこの先の進むあり方も変わることでしょう。 ふとしたことから振り返られ、確かめられるなかで深いところで気づく動きと向けられる視線の広がりに感動を覚えました。 余談ですが、小さい頃、星空を仰ぐと吸い込まれそうな感覚になりました。その時、たぶん月もでていたはずなのだろうけど不思議と覚えていません。星よりは大きく明るいはずなのに。長文、失礼しました。
0コメントありがとうございます。 >先にちょっとした不注意と書いたのだけど、こうした些細なミス、例えば読み間違いや見間違いなどは無意識の働きとして語られることがありますね。 というところが、確かに核となっていますね。冷静に見ると偶然に偶然が重なった出来事に見えるのですが、文章にしてしまうとそれが何だか淡々と必然的に思えるような錯覚をしてしまうような気もして。 作品内の舞台装置を拵えているのは作者なのですが、その作者自身もまた必然的に作品を書いているわけではなく、作品内の偶然に引き込まれて、何とか世界を書き留めているような。 >それは「僕」にとっては、予定通り進んでいたら恐らく確実に起こりえなかったことであり、だからこそ想像だにしていなかった体験だったでしょう。 この部分、当たり前の指摘なのかもしれないですが、身に沁みました、確かにと。 語り手は、ほとんどの場合「見る存在」であり、つまり、主体的なものとして設定されることが多いですが、それを反転させて、語り手は絶対的な存在ではなく、「見られる存在」でもあるということ。これは、作品内世界に限らず、「いま・ここ」に生きている私たちもまたそうであるということを常々考えさせられています。こうした意識が世の中で広まれば、もう少しいい世の中になるんじゃないかなんていうおこがましい希望があったりなかったり。 星空は「いま」という時を共有していれば、大体の人に同じ星空が見える気がするのですが、「かつて」の星空と「いま」の星空が一緒であると言い切れないですね。今見ている光を放つ星は、実は今なくなっているのかもしれない。そんなことも考えながら、これからも星空を見ていきたいな、と小学生並の感想です。
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