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ということ
(22歳、女性、独身、彼氏は秘密、趣味はカフェめぐり、特技はどこでも寝られる事)という設定。 (女子高生のあたしは、好きでもない兄に犯されて、抵抗した、けれど、抵抗しきれなくて、ああ、もう、受け入れるしかなかった、きっと明日も明後日も犯されて、次第に、犯されることにも慣れて、犯されることをおかずにひとりイッちゃって、終には、兄の友達にも犯される)という演技。 お疲れ様です。 ぷしゅっとビールの缶を開ける夜、 ああ、生き返る! これってなんだか、 「しゃかいじん」とかいう人種になったみたいで あたしは大人になれた気がする。 誰かに見られることを売るために、 あたしはカメラを見ているけれど、 誰からも見られる必要のないこの部屋 ああ、生き返るなあ。 「ファンがあってこそのあたしです」だけど、 (あたしがあってこそのファンです)でもある。 ああ、酔いがまわったなあ、 明日は服でも買いに行こうっと。 という人間のふり。 2016年6月2日 (実は昨日夜中にコンビニに行ってたら追突事故に巻き込まれてしまい、全身傷だらけになってしまって1日入院しました)というつぶやき。 (彼女は悲劇に襲われて、撮影の外でも演じ続けなければならなかった。交通事故という不可抗力によって、身体を売る仕事から引退を余儀なくされた。彼女はその時人気絶頂だった。何人のファンが悲しんだことだか。そして、制作会社を通してファンへのメッセージを公開する。それが表舞台での最後の姿となった。メディアを通してでしか彼女の姿を見ることができなかった。)という解説。 2016年8月18日 (作品は一生残るものです。少しでも長く、皆様の心に「あたし」が残りますように。)というつぶやき。 撮影ではめられた枷が寝ても覚めてもまとわりついていたけれど、もう外れてしまった。あたしは見られるために生まれたんじゃない。見るために生まれたの。カフェめぐりなんか興味ないし、臆病だからどこでも寝られるわけがない。そんなつくられたかわいさのなにがいいの。でも、作品はあたしの生み出した子どもたちで、あたしの誇り。子どもたちには名前があるけれど、決して成長しないし、もうあたしの元にはいない。だから、みんなで可愛がって欲しい。これからあたしは誰も知らないあたしになっていく、あたし探しの旅に出るの。撮影中のあたしはもういないし、撮影をやり始める前のあたしももういない。あたしはメディアとなって、みんなの心に居ればいい。それで、こうやって、引退後のことを少しでも思ってくれる人がいればいいなあ。 という物語。
ということ ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1182.4
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2017-05-28
コメント日時 2017-06-08
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合ポイント | 0 | 0 |
平均値 | 中央値 | |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
花緒さん 分かりやすさを意識して作っておらず、むしろわかりづらいかと思っていたので、意外な感想でした。 最初3行に対して特にいうことはありません。 あたし言葉はその通りだと思います、もう少し推敲が必要だったかと。 「なんとなく、クリスタル」は知りませんし、オリジナリティとはなんぞやというところで、各作品におけるオリジナリティの差異がわかりません。 というのも読者の判断に因るものが大きく、オリジナリティは作品にではなく、読者の知識に内包されているからです。いや、嘘です、作者にも内包されていますね。 それでも、好意的に捉えていただけたことが伝わり、満足しております、ありがとうございます。
0先日、映画監督の足立正生監督の話を聞いてきたのですが・・・ 今、一番にぎわっている映画はピンク映画だ、と言われて、いきなり観に行こうぜ、となって・・・観たな。よし、撮れ、という話になって、何がピンク映画だかわからないまま、撮ることになった、というような経緯を「え~!!!」と聞きながら・・・ちょうど、性の解放が叫ばれ始めた時だったから、ということで『堕胎』を撮って商業デビューした、と聞きました。 ピンク映画というと、芸術性、ということでいえば、煽情的で官能を喚起する(上品な言い方をすれば)ものであり、実用から言えば、本能的欲望処理のための消耗品、という印象があるのですが・・・ 『堕胎』をブラックユーモアとして撮ったのに、大真面目な性教育の為の(真面目な)映画と思われたことが以外だった、とのお話に、ひとしきり笑いました。 本人は意識の上で遊んでいた、としても・・・その人の芯に、社会批評性があれば、それがにじみ出すものなのだろう、と思います。 かなり脱線しましたが・・・冒頭三行は、AVの台本というか、設定と読みました。 撮影を終えて、独りでゆっくり、部屋でくつろいでいる「女優」・・・としてのあっけらかんとした受け止め方と、「人間のふり」という言葉の間にあるもの。 本当にどうしようもなくなって、仕方なく辻に立つ、借金や脅しでがんじがらめになって、脱ぐ他に生きる道が残されていない・・・というイメージの売春行為とは違って、「女優」として受け止めていて、性を売る、という産業の一部に取り込まれている事への抵抗感がまるでない、というところに、現代の性の・・・女子高生の安易な売春や、援助交際のもろもろ、を重ねつつ・・・ ツイッターやSNSで演じた自分の方が「事実」となり、部屋で本当に生きていた、はずの自分が、虚構となってしまう・・・女優としての私、は、メディアの中にしか生きていない。ここは、いささか、予測可能過ぎる展開なのでは?と思って物足りない感覚もありましたが・・・ 「撮影ではめられた枷が寝ても覚めてもまとわりついていたけれど」この一行が、非常に気になります。見られること、それがお前という人間なのだ、と周囲から押し付けられ続けていた、そんな女性が、自立した「私」を取り戻す。そのために、虚構の世界、メディアの世界に生きる「女優としての私」を葬る。そんな物語、のように思いました。
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