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種子回廊
夏のともし火と共に歩行する アスファルトの上に 値踏みした懺悔を押して 守れなかったぬくもりを 再び咲かせようと 灼ける合図で抱きしめる 呼びとめる 十度の風に夢見た 扉の陰に潜むものたち 海に立ち合う砂浜に 呼びとめられて振り向くと 植物の人の種が零れ そこは終わった殻で埋まった いつもより早く去った道に まだ同じ遠景が広がっていると 名に触れることなく舞い上がれ、と ついて行くキャリーケースの車輪 アスファルトで散り散りになった影を 固体として踏むときに わたしは回収され くずおれる場所までの道を照らす
種子回廊 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1636.3
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 3
作成日時 2020-01-27
コメント日時 2020-02-05
項目 | 全期間(2024/11/23現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 2 | 2 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 1 | 1 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合ポイント | 3 | 3 |
平均値 | 中央値 | |
---|---|---|
叙情性 | 1 | 1 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0.5 | 0.5 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合 | 1.5 | 1.5 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
先ず「種子回廊」とはどんな場所であるのだろうか、と想いを馳せることからこの詩を読むことが始まります。それでもやはりこの漢字四文字だけではわかりません。 「夏のともし火と共に歩行する」とあることから、不思議と夜のことだろうかと思わされる始まり。しかし、火のあるところに向かって歩くのではなく、ともし火と共に歩くのだから、きっと動くスピードは同一であり、提灯を手に歩いているような場面を思い起こさせます。夏のアスファルトは昼の間、陽の熱を帯びて、夜になるとその熱を放射するが、「懺悔」まではきっと放射されません。だからこそ、その場所を歩くたびにこびりついた「懺悔」を語り手は思い起こされるばかりなのでしょう。「守れなかったぬくもり」がありながらも、「守れるぬくもり」があるのだろうと、藁をもすがる想いが読み取れます。 「十度の風」というのは、角度のことか温度のことか、どちらとも言えるのでしょう。「扉の陰に潜むものたち」は、なんだか不穏な雰囲気を感じさせます。そして、砂浜に呼びとめられて振り向くと、「植物の人の種が零れ」ます。この「植物の人の種」という表現が気にかかります。「植物の種」はわかります。しかし、「植物の人の種」の「人の」がなぜ必要なのかがわからないでいます。しかし、きっと、人がその地に落としたもの、そして、きっといつか花咲いて実を結ぶものだろう、という仮定をたてることはできます。 思えば、土地には名がつけられているはずなのですが、きっといつも通っているその土地を「早く去っ」て、「同じ遠景が広がっている」と、やはり、繰り返し訪れたことが示唆されながらも、「名に触れることなく舞い上がれ」と。 アスファルトには終わりがあります。どこまでも繋がっているアスファルトはなく、どこかで区切りや境目があるものであって、ましてや誰かに「値踏み」されていくように、そのアスファルトに映し出された「影」は、完全無欠なものとしてあり続けることができません。そして、その「影」を踏むということは、やはり、繰り返し訪れたことがあることを再び示唆しています。そして、その都度その土地及びその土地を訪れたという行為を思い起こされる、それがおそらく「後悔」という名を纏うために、語り手は「わたし」を「回収」せざるをえないのでしょう。思えば、ともし火と共に歩くという出だしは単なる情景描写の説明、場面設定の説明のために用いられたのではなく、「影」をそのアスファルト・土地に映し出すための装置だったのでしょう。そして、「くずおれる場所までの道を照らす」装置でもあったということなのでしょう。 それでもなお「種子回廊」という正体がはっきりと照らされたわけではないのは、その語り手の影がいつまでも纏わりついているから、とも言えるのでしょうが、そのアスファルト・土地に落としてしまった「わたし」の「後悔」という種子がある回廊なのだろうと、なんとなくともし火によって垣間見えた気がしました。
0細かな解読、ありがとうございます。 思えば、ともし火と共に歩くという出だしは単なる情景描写の説明、場面設定の説明のために用いられたのではなく、「影」をそのアスファルト・土地に映し出すための装置だったのでしょう。
0→というのはまさにそうです。影の鮮やかさを表現するために編まれた詩だと、個人的には思っています。 火に向かって歩いているわけではないという点にも気付いてもらえて、嬉しかったです。
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