作品投稿掲示板 - B-REVIEW

右肩ヒサシ


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コメントを必要としない詩というもの何あるものですね。 本当にいい詩です。 田中さんへ x(旧Twitter)でお見かけしないようになりましたが、お元気そうで安心しました。 (LA LA MEANS I LOVE YOU。)

2024-09-15

黒髪さん、ありがとうございます。 力を入れて書いた作品でしたので、取り上げてくださって嬉しいです。 また書こうと言う気力が湧きますね。 ここ数日、色々な方から励まされることが多くありました。 (『「詩」と「詩論」』を読んで)

2023-04-13

atsuchan69さん、コメントありがとうございます。 共感いただけたようで嬉しいです。 ただ、最後に引用下さった部分は僕の勝手な言い分なので気にしないでください。過剰な自意識を晒した詩が僕は嫌いだけれど、あっていけないことはないですね、全然。 そういう作品に共感する人がレベルが低いとかそういうこともありません。むしろ僕の書くものはちっとも面白くなく、別の立場から見ればゴミ以下だと思います。ここで述べた理屈通りに書いて発表したのが、「精密にできている」でしたが何のコメントも頂けなかったんで、これは作品としてダメなんだと思い知らされました。リーダビリティーがなかったのですね。僕が歌謡曲の歌詞のようなものを書いて人の心を動かせるか、と考えるとそれはホモ・フカノウですw何が偉い、どれが本物か、とかじゃないと思いますよ。何を書きたいか、じゃないでしょうか。 (詩と表現)

2023-03-20

お久しぶりです。Twitterでのご活躍、拝見しております。 今も自分の描いているものを詩と呼んでいいのか、はわかりません。現代詩文庫もさほど読んでいないし、知識不足は否めないと思っています。ただそういう正しい文脈から詩を書こうというつもりはなく、あくまでも僕の個的思考実験の中から生み出された流儀で勝手に悪戦苦闘しているわけです。 例として挙げられた「ナイフ」という言葉は、ある意味詩語ですよね。「錆びたナイフ」という題名の裕次郎の歌があったり、「ナイフみたいに尖っては触るものみな傷つけた」と「ギザギザハートの子守唄」でも言ってました。「少年ナイフ」という名前のバンドもありましたね。おぞましい少年犯罪でよく用いられましたし、稲垣足穂の匂いもします。でも、全くそれと違ったナイフもあるはずです。 こういう固定概念に染まった文脈から言葉を救い出し、新たな情感でブラッシュアップするのも「詩」の役割の一つかもしれません。 (詩と表現)

2023-03-19

watertimeさん、コメントありがとうございます。 そういうことです。そんな詩を書きたい、と僕も思っています。でも、僕にはいわゆる「ポエム」や「癒やし詩」を頭から否定はできません。僕は到底そのよい読者にはなれそうもないですが。僕は十分愚かな人間だし、僕の書く詩も読む人によってはめちゃくちゃ愚かな作品だと思います。でもいいや。しょうがない。道が違う相手のことはわかりません。 たとえば、「俺はお前の詩を読んだが、まったく心を動かされたことがない。俺が今まで読んで一番感動した詩は、『北斗の拳』のラオウが最期に言った、『我が人生に一片の悔いなし』というひと言だ!お前にそんな言葉が書けるのか?」と言われたら「書けません」と言って淋しく去るだけです。僕も感動して読んだもんなぁ。でも、「ラオウの一行を目指して毎日8時間詩を書き続けろ、うりうり」といわれたら絶対に嫌です。「きれいな月の夜に、菫の花を摘んで君の窓辺に届けたい、愛の歌と一緒に。」なんていう詩も排除する気にはなれないな。吐きそうだけど。 ラジカルに考え直してみると、「現代詩」というのがそもそも「詩」という概念の破壊に拠っているのだ、と僕は考えます。何でもありです。でも、「お前の詩にはお前が責任を取れよ、十年後のお前がそれを読んで恥じないだけの自信を持つまで自己破壊を続ける覚悟はあるか」と常に問われている感じがします。そういうことです。 (詩と表現)

2023-03-15

妻咲邦香さん、コメントありがとうございます。 そうなんです。僕も俳句をやっていますが、いつもイライラしていますね。季語、たとえば秋の盛りに桜の花のことを考えて句にしちゃいけないのか、現実に食べている冬の茄子のことは俳句にならないのか、ということです。それにはちゃんと理由があるのですが、とどのつまり伝統俳句は「芸」であって「文学」ではないのです。高浜虚子本人が言っているので間違いありません。それは悪いことではなくて、芸も極めれば「芸術」なのですが、僕は自身はいつか鼻をあかしてやりたいと思っています、無理なんですけど。 (詩と表現)

2023-03-15

m.tasakiさん、コメントありがとうございます。 詩の解釈というものが、作者と読者の間に多義的に成り立つというのはその通りだと思います。よく言われることですが、誤読も、その当否はさておき、読みの一つとして正当な存在であると思うのです。 ただ、僕が詩で展開したいと思っているのは、文脈によって明示されるところの事物の多義性の開示ということです。「かわいらしい小鳥がいる。」というありふれた(と僕が考える)センテンスは、「昨日の僕が鳥を見ていた。それはほぼ成体であろうと推測されたが、身体の大きさからして小鳥と呼ぶべき種であるようだった。かわいらしい、と僕は思っている。『かわいらしい』とは何だろう。小鳥の内臓の中では先ほど食したミミズが消化の過程をたどっており、ミミズの感知した時間と世界が消化液の中でふつふつと分解されている。そうに違いない。さて、今日の僕は昨日のことを思い出している。かわいらしい小鳥がいた、と。」と書けばもっと自由になるのかな、と思います。ダーウィンがきちゃいそうですがw。 (詩と表現)

2023-03-15

ABさん、コメントありがとうございます。 「手段」という言葉には、目的のために使われるだけのものであって、それ自体には価値がない、というくらいのニュアンスを含ませています。僕は「手段」というのは時間と人の意識に関係して生成されるものであって、実在していないんじゃないかと思っています。ナイフが林檎を切断するのを目前にしても、ナイフがものを切る手段として存在しているとは思いません。 言葉ばかりでなく、本当はモノとコトも多面的な連なりの中にあって、詩にはその本来的な自由の解放された状態を感知させる力があると信じています。 (詩と表現)

2023-03-15

黒髪さん、コメントありがとうございました。 眩惑は幻惑とはちょっと違うんですね。物事の持つ様々な相関を、時間的な重層性も含めて作者が一気に暗示し、読者がそれを直感的に受けるというのは幻想的な体験でありながら、リアルで明晰な叙述によって行われるべきではないでしょうか。これは正しさとは関係のない嗜好の問題かもしれませんが。ただ確かにマジシャンの表現するイリュージョンに似ているところがありますね。 僕は音楽にはミーハーな関心しかないので、柴山俊之さんは全然知りませんでした。今度Youtubeで聞いてみます。  (詩と表現)

2023-03-14

コメントありがとうございます。 ここで書いたような作品が実際できても、主題や伝達すべき感情がないわけだから、評を入れにくいものとなってしまうというのはよくわかります。 せめて読みにくいものにはならないように、いろいろと工夫をしてみたいですね。 (詩と表現)

2023-03-14

紅茶猫さんコメントありがとうございます。 返信、遅いですね。ごめんなさい。 亡くなった方のこと、人の死のこと、どうしても考えてしまうのですが、遺骸や遺骨を見る度に紅茶猫さんがご指摘下さったような、存在の異質性を痛感してしまいます。人と強く繋がりながら、ある意味では切れてしまった存在ですね。でも、それが「死」の本質なんだろうな。 どうしようもない異質性にこそ、悲しくも美しい「事実」の重みがありますね。 (サイエンスフィクション)

2021-12-18

返信遅くなりました。 黒髪さん、尾崎さん、コメントありがとうございます。 先日逝去された知人の方のことを出来るだけ正直に、平明にと心掛けて書きました。読んで頂けて嬉しかったです。 (サイエンスフィクション)

2021-12-14

yamabitoさん、コメントありがとうございます。 返信遅くなりすみません。 この作品での眼鏡の正体は何でしょうね?読まれた方それぞれが考えてくださったら嬉しいのですが。 前半と後半には確かに大きな断裂があるようにも思います。読み手に読み取りを期待してはいませんが、後半の荒廃した街の描写はシリアでの山本美香さんの殺害事件に触発されて書きました。 (私たちもあなたたちも、彼ら彼女らも、みな眼鏡を探す)

2021-03-18

鷹枕さん、コメントありがとうございます。 「超絶技巧」「非の打ちどころもない美文」そういわれるとそんな気もしてくるから不思議ですよ、実際。鼻持ちならないですよね。でもこのくらいの文を書く人は掃いて捨てるほどいるはず……。 中身がないのが唯一の取り柄かもしれません。 (私たちもあなたたちも、彼ら彼女らも、みな眼鏡を探す)

2021-03-02

よんじゅうさん、こんにちは。 これは鎮魂歌でしょうか。風の中で肉体と意識を失うと、なるほど魂はでたらめな、感知できない存在になるはずです。疎外された先で狂うことによって自由になる。風になればこの世のことは関係がありません。 ちょっと作品世界から離れた読みをすれば、風は複雑な要因によって発生しているものだけれど、物理法則から離れないぶん「でたらめ」ではないのかな、と。 (でたらめ)

2021-03-02

よんじゅうさん、コメントありがとうございます。 自分でも気に入っていた作品なんですが、今読み返すと自分でも何が書いてあるのか良くわかりませんね。 家庭で死ぬということと、紛争地域で殺されるということが対比されているのでしょうか?雲は極楽かな? どなたかに色々と考えて頂きたいものです。 (私たちもあなたたちも、彼ら彼女らも、みな眼鏡を探す)

2021-03-02

海飛さん、コメントありがとうございます。 「女声」は「女性」ですよね?声優オタかよ、と思いました(^_^)が、ちょっと色っぽくてこれもいいかも! この作品は非常にシステマチックに書かれていますけど、そういう意図には関係なく、人が読むと状況ごとに読み手の感情が乗るから面白いですよね。この作品の女性の主人公に関していえば、状況がキャラクターを生成しているような部分が大きくて、書いたものとしてはその悲劇的な境遇に対する憐憫というものはあまり感じていませんでした。が、「見られながらも聞かれながらもする自慰にはすべてをかなぐり捨てても解放されたい意志がそこにあるのだろう」という海飛さんの評言は、彼女に寄り添った、極めて同情的な、温かい言葉だと思うのですが、どうでしょうか?そうであったなら「彼女」にとって嘉すべきことに違いありません。ねじくれた、異常な作品の構造の中で、登場人物の、人間として当然そうあるべき感情の迸りは無視され、作品世界から疎外されているからです。 海飛さんは、主人公の女性の自慰に着目し、その徹底的なエゴイズムを指摘しているが、同時に女性全般にとっての自慰にかかる社会的抑圧にも同時に言及しています。AVのような偽物はともかくとして、世のほとんどの男性と同じように、僕も現実に女性の自慰を見たことはないので何とも言えないのですが、男性にとっても女性にとっても自慰は自慰で片付けられるものではないか、と思ってきました。自慰が積極的に語られないのは、それが他者から認められないがための代償行為とみなされ、社会的不適合のレッテルを貼られるのを恐れるからではないでしょうか。だから、自慰は完全に身勝手な自己愛であると同時に自傷的でもあるという二面性を持っていると僕は考えています。この女性は海飛さんのいうような感傷的な自己陶酔に浸っていると同時に、切実な自己否定に傷ついてもいるのでしょうね、きっと。 X星人は、我々が今、彼女に対して振る舞っているのと同じように批評的な視点で瓶の中の魂を観察しているのでしょうが、その存在が猥褻で卑小であることは既に作品中で自明なものになっています。それが作品からの書き手、読み手双方に対するあらかじめ仕組まれた反撃であるとも思っています。 (見ている。聞いている。)

2021-02-28

エイクピアさん、こんにちは。 渦、『愛の渦』そんな題名の映画もあるようですね。不思議な詩です。 >当然キスはするんだろうな という言葉から始まるが、これはいったい誰のセリフか?キスをせがんでくる相手のものにしては口調が乱暴で、脅迫的でもある。主人公の行動を監視し、キスを期待する第三者なのか、主人公の別人格なのか。単に「溺死の危機」に対して、詩の作者によってランダムに取り合わされたできあいのフレーズなのかもしれない。いずれにせよ、主人公はキスする余裕を失って、渦へ渦へと追い込まれていく。 唐突に鼻についての言及がある。「カラフル」だというが、「カラフル」とは多色のことである。何をどうすればそう形容するに足る複数の色が鼻に付着するのか?そもそもわざわざ鏡に向かわない限り、自分自身の鼻の色に自覚的になることはない。とすれば、色は視覚による嗅覚の置き換えなのか。それにしても多様な匂いに悩まされる、という状況があるのなら、匂いの具体性に踏み込まねばわからない。溺死に瀕して水面からわずかに突き出て呼吸する、その鼻を出入りする空気の流速や音感の頻繁な変化を言っていると考えれば一番わかりやすい。言語化されにくい無意識に働きかける様々な刺激が肉体的反応を強いているのだ。ディープなキスの邪魔になるのも鼻です。 風呂には腕が浮いています。おそらく輸送船と一緒に沈んだ兵士のものです。渦の底にいる、爆砕された本体は既に死者。この渦は風呂の湯の渦でありながら海とつながる渦です。地球の水栓が抜けて海の水はさらに遠い次元へ流れ落ちているのでしょう。腕の本体は、渦の底の音のない宇宙空間に漂いながらあの世とこの世の有様を見ている。戦地で胸を病んだ友達のことも、鉄棒で歯を打つ兵隊のリンチのことも、皆知っている。通告は意志なきものの告発だ。 これから渦の中で回り続けるしかない主人公には、通告も告白も手に余る。渦が形を変えたバウムクーヘンに思いを馳せるということは逃避です。逃避願望の「心底」から発せられる強い感情は、そのまま「早く海が干上がって/渦が無くなってほしいと思った」に手渡されていきます。海が干上がれば、渦の向こうへ吸い込まれることもない。大人のキスも受けられる。でも、実際それは抜けた水栓の縁に倒れて深淵を覗き込む姿勢で屍を曝すことに他ならないはずなのですが。 死を願うのは生の強い情動によるにも関わらず、実際の死は別れのキスも許さない虚無への旅立ちなのです。何処へも行かないでここで終わる、ということなのです。 (渦)

2021-02-27

百均さんこんにちは。 きちんと読み込めてはいません。もう今日のエネルギーが尽きています。大掴みなもの言いになりますがごめんなさい。 この作品、決して悪くないけれど、言葉のコントロールが利きすぎていて、地から足が離れるような制御不能な高揚感は得られません。言葉はものの実在と結び付いているはずなのですが、ものは非常に残酷で、その前に立った我々、主体としての意識は、詩の中でも卑小なはずだ、と僕は思います。言葉は言葉の埒外のものを背負うはずではないか、と。 そのあたり、表現として何とかならないかな。自戒を込めて。 (世界の終わり)

2021-02-25

白犬さん、コメントありがとうございます。 コメント頂きながら永らく放置していて申し訳ありませんでした。心理的にエネルギー不足で動けませんでした。 僕、えろ好きなんですよ。現実的にはこの年になるまでまったく奥手なんですが、妄想的なえろが好き。リアルとはまったく別で。歪みに歪んだ趣向の持ち主です。 残念ながらこの作品でのえろは実用的ではありません。幾度か試みてはみたけれど、僕には実用的なえろは書けませんでした。また、僕にとっては性の実用に供することはメインテーマにはなりません。ただし、下世話な話で恐縮ですが、誰かがこの作品を実用に使って下さったなら光栄の極みです。残念ながらあり得ないんじゃないかな。 作品の解釈は読み手のもので、作り手の押しつけるものではないでしょう。ただし、「主張は総て作品に込めました。解釈はお任せします。」などという人間には傲慢さが感じられて僕は好きになれません。どうせ作者の意図などは解釈の一つでしかないんだから、もうじゃんじゃん言ってしまえ、というのが僕の考え方です。しかし、実際そうしていないのは何故かというと「面倒くさい」からです。本当にダメ人間ですね。もちろん「たいしたものを書いていないくせに言うことだけはご立派だよな」と言われるのが恥ずかしいというのも少なからずありますが。 この作品のテーマは、「自意識の混濁」と「メタ構造の混乱」の向こう側にあります。 まず、作品の物語的な叙述は「あなた」への語りかけという形をとって始まります。「あなた」は一見歌謡曲的な作中登場人物としての「あなた」であるように見えるけれども、それならば「あなた」に対する「私」として、語り手も曲中登場人物の自分の立場を語りの中で明確にしなければならないはずです。この作品では当初そうはなっていない。むしろ地の文の叙述として小説で言う「神の目線」から作品のプロットを一方的に設定していきます。語りの時制を見て下さい。過去形と現在形が混在していますね。過去形は作中世界の逃れられない確定性を示し、現在形は「あなた」が読者の疑似体験として強引に一体化を迫るものであることを表しています。読者は体験的に作品世界に参加するよう誘導されるのです。そして読者は一旦死を体験させられます。ここでの「死」の馬鹿馬鹿しさは意図的です。ヴォネガットやアーヴィングを模倣した「深刻なナンセンス」です。「スローターハウス5」や「ホテルニューハンプシャー」のやり口ですね。 その後登場する「魂」も宗教的荘厳さを意図的に剥奪されています。が、一方でコミカルな笑いを扇動するような叙述は敢えて避けられています。ここでの「魂」は卑小であるけれども言辞としてのカリカチュアライズからは少し距離を置いた(暗喩的な記号からは独立した)存在感を持たねばならないからです。それは読者に「わたし」と一体化して読み進めて貰いたいという作者の願望があるからです。 ここで「わたし」を捕らえている「X星人」について考えてみたいと思います。「X星人」とは気の毒なほど安直なネーミングですね。「GANTZ」の「田中星人」のようなオリジナリティすらありません。「タイガーマスク」に「ミスターX」を登場させた梶原一騎にはすまないとは思いますが……、ネーミングセンスはゼロです。それに地球を簡単に滅亡させるほどの力を持った宇宙人がなんで昭和の子供部屋みたいな環境に暮らしてなきゃなんないのかも謎です、強大な力を持つどころかこの星人は、読者と一体化している(はず)であるところの「あなた」の自意識を無効化し、その世界を仕切るメタな存在として設定されているのですから。「魂」と同じく「X星人」にも支配者や神としての威厳はまったくうかがえません。無邪気な子どものような言動をしますが、異常者、変態でしかないのです。「あなた」はこのろくでもない支配者に圧迫され、それが星人の下世話な好奇心によって設定された場だと知りながら、過去の記憶から作られた世界でのセックスに逃げ込むしかありません。これは作品の私的幻想世界とそれに通ずる「自我」の核心に対する、作者からの冒涜です。たぶん。 さて、この幻想の中で「語り手」の正体が「わたし」の妄想の登場人物であることが明らかにされます。「語り手」は「わたし」の上位にあってすべてを掌握している存在ではなく、「わたし」の意識の一部でしかなかったわけです。その「わたし」の抑圧された性体験の切なさが、「わたし」の記憶と妄想の登場人物である語り手から明かされ慰藉されるというのも、実は「わたし」の絶望的な自己憐憫でしかありません。が、最後の「やめて。X星人が見ている。聞いているわ」というセリフで、まだ発せられていない「わたし」の言葉を語り手が発するという行為を通じて、ズレを内包したまま二人は一人に収束され、作品世界全体が甘いエロスの混沌へと絶望的に開かれていくのです。「わたし」と既に一体化している読者も、「語り手」として作品に立ち現れた「作者」、つまり僕自身も同じ絶望の法悦に浸れば、それが大団円です。この時点でようやく物語も言葉も意味を失うことができるのだ、と僕は思っています。 長々書きました。自分で言うのも何ですが、何の価値も意味もない「解釈」になりましたね。願わくば、誰かにまったく別の読み方でこの作品を楽しんで貰いたいものです。 (見ている。聞いている。)

2021-02-25

エイクピアさん、返信遅くなりました。コメントありがとうございます。 東電OL事件ですね。知っていますが、書いた時には頭にありませんでした。 ひょっとしたら殺された女性の死後の夢の中のことかも知れませんね。 (見ている。聞いている。)

2021-01-22

ささらさん、コメントありがとうございます。返信遅くなり失礼しました。 星新一は僕も好きで時間を忘れて読んだものです。贅肉の削ぎ落とされた名文はTwitter時代にぴったりかも。 お楽しみ下さったようで嬉しかったです。 (見ている。聞いている。)

2021-01-16

コメントありがとうございます。 残念ながら敏感ではないですね。鈍感です!自分でもがっかりしてしまいます? (火曜日の私の体で並木道を歩く金曜日の私が語る)

2020-12-02

ごめんなさい。誤ってカラで上げてしまいました。 形式が中身、中身が形式。表現と理解の関係からするするはみ出していく言葉の肉体が躍動している感じです。相変わらず素晴らしいですね。 (詩の日めくり 二〇一四年八月一日─三十一日)

2020-11-29

tasakiさん、こんにちは。 文章語の語彙を使って書くと言うことには、スノッブであること以上の、別の意義があります。 日常語でももちろん詩は書けますし、文章語のそれに劣ることもないのだけれど、やはり語の持つ文脈の質が違うので、大袈裟に言えば日常の感覚を異化する気持ちの良さが僕には感じられます。言い古されたことですが、今のネットの表現では多少難解な語を使うとマウンティングだとのみ捉えてしまう困った風潮があるように思われます。 そういう観点から、「灌頂」「莢膜」という言葉から、セグロカモメの死にゆく卵の魂を取り巻く背景が描き出されていくのを好ましく受けました。平家物語の灌頂の巻などを思い出すと、語の本義とは別に何か悲劇的感情がつきまとってきますね。 それを見て記述している主体との関係については、記述そのものが関係性を表しているからかあまり触れられていません。でもセンチメンタルな記述が、「孤独なセグロカモメ」であるとか、「他の夢に形を換えた」とか、「しくしくと泣いていた」とかが、意図的なものかもしれませんが、主体の立ち位置を無反省な上位視点に押し上げてしまうように思えます。これは僕の読み方の癖ですね。非常に自我の成り立ちに関する疑念が根深いのです。人やことの表出を無慈悲にさらっていく既成の文脈のパッケージが言葉に隠されていることにはより身長になりたいと僕は考えています。そこが作者と僕の(優劣ではなく)違う部分かな。 卵の魂の「成仏」を書こうと考えると、身も蓋もない剥き出しの天国に触れたくなりませんか?いや、もう触れられているのか、或いはそれが表現の前提としてあるのかも知れませんが。僕はいつも天国は生きもののシステムが解体された先のまったく窺い知れない場所にあって、生きているものにとっては「窺い知れない」ということが救いになるのだと考えています。これも妄執ですけど。 長々とつまらないことを書きました。お気に障ったらご寛恕下さい。好きな作品なので、つい。 (セグロカモメ)

2020-11-29

エイクピアさん、こんにちは。 とても面白かったです。羊は不眠の時に登場させるあの羊なのでしょうか?頭の中がどんなに暑くても、毛を刈って氷を纏わせて羊は想像したこともありませんでした。 麩だけが何なのか見当がつきません。お風呂でなぜ麩? (羊と私)

2020-05-29

コメントありがとうございます。 今回は少し腰がひけた?作者当てなのがいとをかしというか何というか、しみじみと心にしみて笑えました(失礼)。 これは旧作なのですが、あまり進歩がないですね。性的な描写が過激になったのは進歩じゃなくて堕落でしょうか。 孤独と癒しというはっきりしたテーマがあったと思います。これを書いた時、実際に日本で藤田の回顧展があり、女性の手に鳥がとまった絵がパリ遊学初期の習作の一つとして展示されていました。描線のあまりの美しさに驚かされました。 冒頭部分のご指摘は鋭いですね。僕としては、モノどうしに軽重のない並列的な関係性を感じている主人公の視界を描きたかったのでしょう。この後の展開とも無関係ではないと思います。 (感情)

2020-05-29

武田さん、コメントありがとうございます。 タイトルは『「詩」であって同時に「詩論」』というほどの意味です。作品と作品の評が一体になったスタイルそのものを書きたかったのです。作品中に登場する景物がそのまま「論」の一部にすり替わって詩論を語り出すことの面白さ。 「わたしが蝉なら脱皮してしまう」という感想、予想の遥か上をいってます!凄い。嬉しい。僕が水だったら水素と酸素に分裂してしまいそうです。悶々とした鬱屈とかはいつも感じていますが、それが作品の中で形を成し、形を変えていくことを夢見ています。 (「詩」と「詩論」)

2020-05-25

シュークリームから溢れたカスタードクリームが甘くて美味しそうです。シュークリームを食べるたびに、口元を溢れたクリームでべたべたにしながら幸せな気持ちになっています。そこからキャベツ畑、スキッパーシャツへの展開も、蛹の先の未来を幸せに先取っていますね。自由な連想が、部屋に戻って外出自粛の作者の「蛹でいられる」という宣言に繋がります。マンネリのTVより、連想の羽ばたく空で変容する雲の方が魅力的だというのはよくわかります。 (Crazy chou cream)

2020-05-24

杜 琴乃さん、コメントありがとうございます。 僕も杜さんのシュークリームの詩、好きです。どこか似たような資質を感じました。 いつも嫌われるか、鬱陶しがられるのですが、少しやる気が湧きました。 (「詩」と「詩論」)

2020-05-24

Um Fantasma さん、コメントありがとうございます。 作者名隠す機能が珍しくて、つい嬉しくなって使ってしまいました。知っている人にはバレバレじゃないのかな? 中身はありますが、「ある」という存在証明のためにあるようなもので、語のニュアンスと修辞が総てです。前半凝りすぎて重くなったし、こんな取り澄ました次元でスタイルが完成するのではたまらないので、ちゃんと変態にしました。 ただ、特定の性癖を持つ人を嘲笑したり、性的表現の苦手な人に不愉快な思いをさせるために書いたわけではありません。「変態的かつペダンティックな文章」の域には残念ながら達していませんが、いいキャッチフレーズですね。 シンプルにすると僕の場合、どうしても思わせぶりになってしまいます。もともと身も蓋もない表現が好きなのですが、そこを元にして作り込んでいくと、変な工芸品みたいな文になるようです。 (「詩」と「詩論」)

2020-05-23

主人公は、片足をいつも神のいるあの世に置いていて、「もう半分死んでいる」「いつでも死ねる」という立場ではないでしょうか。そのことが逆説的に生きる力となっているように思います。 悪魔も天使も本当は迷子で 家なんて概念を知らないから 何処に帰ればいいのか 教えてあげなきゃならない この部分。天使も悪魔も憐れまれる存在としての自覚を見失っている、だから「存在を消し、無として神の御許へ帰れよ」と彼は主張するのでしょう。彼自身も、天使と悪魔の葛藤する「場」であるのだが、死の世界においてそれは既に解決された課題でしかない。あちら側からの視界で、この世では夢として成就する本来の自分。その辛い祈りが伝わってきます。 (キリエ)

2020-05-22

尾田さん、こんにちは。 三連目まで、底の割れたクールな隠喩が好きです。昔のロマンポルノに登場したようなシンボルが、日常のブランド名で裏打ちされて連続する格好よさ。四連。「伊藤園」にはぐっと来ました。 そうすると五連目のいかにも現代詩的な後処理が残念に思えます。五連目でわざわざ考えなくとも、詩句は四連目までで十分思考している、と思えるのです。「サブカルチャー」で外しても、一回嵌めてしまうといわゆる現代詩ふうのパターンから逃れられないのではないかと思います。言っていることはわかるけど。 「伊藤園」やり過ぎるとねじめ正一になっちゃうけど、カッコの中にポツンと出てくるところが、皮肉でも何でもなく、詩的だなと思います。 (静かな底と天井)

2020-03-04

黒髪さん、こんにちは。 僕は自分や自分の発する言葉、それから与えられている言葉をまったく信頼できないので、こういう詩は書けません。 「栄光」とか「微笑む」とかはとても遠いところにある誰かの言葉です。 だから、気の利いた感想も返せませんが、こういう言葉を心の内において自分を支えている方もあるのだな、と思うと自分の持つシニカルを気取ったような姿勢が恥ずかしくなることがあります。こういう詩は誰かに書かれるべきものなのです。 何が良いか悪いかではなくて、それぞれの遍歴から選び取った言葉が違うのは当然かもしれません。 (道を見出す)

2020-01-26

るるりらさん、こんにちは。 リズムよく読めました。僕には書けないタイプの詩です。 僕の足の指は靴の癖で変形しています。今日、久しぶりに爪を切ってやりました。あの短さはちょっと可愛らしいですが、どこかふてぶてしい皮の厚さもありますね。 (ひとささんゆびたち)

2020-01-26

るるりらさん、こんにちは。返信に気づかず遅くなりました。すみません。 「エロティシズムを感じました。」という宣言がいいですね。それも「官能的権力という強い言葉で読者を殴打して」いるという「本質」を捉えた上でのことなので。 権力とその支配に置かれるものとの性的な関係にも似た気持ち悪さを揶揄したと捉えてくれていいんだけど、雌蜘蛛に食われる雄のような蕩然としたエクスタシーが被支配層には確かにあると思います。救いようがないですね。もちろん僕もその「被支配層」の一員です。 (権力の背中で嗅ぐ匂い)

2020-01-26

奥間空さん、コメントありがとうございました。 リズムや響きに注目してくださって、心地よさを感じて頂けたとのこと。幸いです。 過剰な自意識の表明を避けて、自意識というものが形作られる前の感受性をミクロな次元で書こうとしたらこうなりました。 人の意識の内実は価値的には均等な、同質的なものの展開だと思うので、その穏やかな日常も、言葉と意味のリズムにさえ注目すれば詩になるのかな、と思えます。 (傘の来歴)

2020-01-26

三羽さん、こんにちは。 80年代の始め頃、原宿で街路樹の電飾が始まった頃の軽く浮き浮きした時代を思い出しました。 そんな時代では悲しみや孤独でさえも、どこかロマンチックな光をまとうものですね。若かった頃の僕が投影された感想かもしれません。 (CITY)

2020-01-23

ミリウェイズさん、こんにちは。 丁度僕自身が書いているテーマと共通したことを取り上げているようです。 俳句だとモノ自体がもう少し前に出て行くでしょうか?この作品のような詩の書き方では、人をより前面に出していますね。 人が人以外の生き物と関わるということは、おっしゃるように「悍ましい」一面から逃れられないと僕も思います。 (讃歌)

2020-01-23

夢うつつさん、こんにちは。 宮沢賢治の「どんぐりと山猫」読んでいてくれたらいいな、と思います。 「このなかでいちばんばかで、めちゃくちゃで、まるでなっていないようなのが、いちばんえらい」 という有名なセリフがぴったり合いそうに思えるからです。そういうところにちゃんと自分を落とし込めるところがえらい。 何をいうなら、どの項目にも既視感があってそれをリズムと勢いで読ませているというところでしょうか、例によって一方的な私見ですが。オリジナリティのことを言っているのではなくて、宙に浮いたところから掬い取った詩句をどれだけリアルに自分に引きつけられるか、が課題では? (2019 今年やりたいこと)

2020-01-05

afterglowさん、こんにちは。 静かに川を行き来する砂取船、いいですね。乗組員の姿は影のようにかすんでいて、錆びた船体や鉄の機材がギイギイと軋む音だけが聞こえて来るようです。 僕の鑑賞では、人の思いは言葉を離れると意味を失くすので、砂の質量としてのみ存在し砂の溢れるがままに流れて「あなた」や「ぼく」の時間の中に円錐状に堆積するのです。 「メメント・モリ」とは死んだ自分から今の自分を振り返ることかもしれません。「罪」は言葉を失った死者にとっていつまで「罪」なのでしょうか、ずっしりと堆積する重みとして残ることには違いないのですが。 (メメント・モリ)

2020-01-05

Snowmen911 さん、返信ありがとうございます。 昨日は眠いところを急いで書いたので、コメントの最後が尻切れ蜻蛉になっています。おまけに読み直しても、続きに何を書こうとしたのか思い出せません。「ブーム」って何だろ?……?? 権力は運動暴発のような短絡的な暴力ではなく、システムとして暴力を備えるんですね。家族の関係や地域社会でも、権力の振るう暴力は常に一方的です。ただし、その根源はやはりすべての人間の本能にある暴力衝動だと思います。 権力を振るわれる側にはまだ救いがあるけれど、たまたまそういうものを手にしたときこそ人は自戒しなければいけませんね。 (権力の背中で嗅ぐ匂い)

2020-01-03

エイクピアさん、コメントありがとうございます。 蜘蛛は権力の比喩として付きすぎかも知れませんが、刺青の蜘蛛としたところで、ちょっと離せたかなとも思っています。 エイクピアさんのおっしゃるとおり、実在の蜘蛛の存在が象徴性を引っ張り込むくらいのものが書けたらいいのですが。 (権力の背中で嗅ぐ匂い)

2020-01-03

Snowmen911Snowmen911 さん、コメントありがとうございます。 これは権力という抽象を抽象のまま文脈に投げ入れてあるので、どう読んで下さっても正解であり、間違いというものはありません。ドメスティックバイオレンスについては勿論意識しています。でも加害者と被害者という二項対立の図式にはならないようにはしています。 「社会の中で、暴力は語ることを許されません。」とありますが、民主党政権時代に自衛隊を「暴力装置」と発言した政権関係者が右派から糾弾されたことがありました。国を守るために命を張っている隊員たちに対して「暴力装置」とは何事か、と言われ謝罪に追い込まれたのですが、隊員の人格や隊員の正当性とは全く別な部分で、警察も自衛隊(軍隊)も、権力の執行のための暴力=強制力を背負わされていることには間違い在りません。むしろ権力者が、権力というものの危険性を意識しないことのほうが問題ですよね。 そういう権力の問題を人間にとっての究極のプライバシーの場において見ているのが今作です。性的倒錯の要素も入れました。 美しさにも後ろ暗い美しさがあります。権力者の振る舞いの隠喩ではありませんが、文脈の許されない筈のブームに (権力の背中で嗅ぐ匂い)

2020-01-03

久しぶりに時間を掛けて書き、それなりに推敲したつもりです。 あえて人称を総て取っ払い、「権力」という語だけを残しましたが、何か僕の思っている以上のことを感じてくれると嬉しいです。 (権力の背中で嗅ぐ匂い)

2020-01-02

いまりさん、こんにちは。 官能的な作品ですね。いや、そういう筋道で読んでしまうとそれっきりなのかな。 「あなた」という二人称の関係性が、この作品の場合、世界を狭くしてしまっているのかも知れない。 >ねえ頭に思い浮かべた魚とほんとうに存在する魚とどっちがなまなましいのふたりでこんなことになって 最初の一行の破壊力が強力です。実際にこの言葉がささやかれるのと、詩句として抽象的に思い浮かべられるのとどっちがなまなましいか、しばらく考えさせられてしまいました。 この言葉が強すぎたのですね。生命の始原に遡っていくはずの詩想が、僕の中では狭い関係性の中に逼塞してしまっています。もっと自由に開かれていく可能性を持った詩だな、と思えるのですが。 (言いなり)

2020-01-02

楽子さん、こんにちは。 自分の心象風景を自分から独立させていく傾向を持ったクールな詩だと思います。 記述されたモノに対する修飾のあり方を吟味するともうすこしバランスがよくなるのではないでしょうか。 つまり修飾部に含まれる判断が、作中主体と記述者との間で互いに浸食し合っているように僕には感じられます。 また、語の修飾が既存の文脈から安易に引用されていないか、さらに詰めて検証すると詩句が引き締まると思います。 >6畳さえ満たせない白けたサウンド たとえばこの部分がそれに当たります。「白けた」のはサウンドなのか、作中人物なのか、記述者なのか、音の批評として確立している既存の文脈の引用なのか、僕には判断できず、それが違和感として鑑賞の没入感を阻害していました。 (黒点)

2020-01-02

いすきさん、こんにちは。 確かに日常は些事でできていて、その些事が強固に世界の骨組を支えています。 言葉は世界から出てきているのか、それとも世界は言葉でできているのか。 もはや陳腐な設問だけど、言葉が不断に世界を解釈していて、羅生門の下人みたいに「どうにもならないことをどうにかしようとして」あがいているのだろうと僕は思っています。 存在の本質はバラバラで不機嫌に黙りこくっているのかもしれない、とこの作品を読んでそんなふうに考えました。 この作品では、出来事の描写はちゃんと主体に回収されているのに変ですね。 (冬のお花)

2019-12-23

黒髪さん、お久しぶりです。コメントありがとうございました。 過分な評価を頂きましたが、読み返すと粗も目立ちます。「無限地獄」はやっぱり「無間」ですしね。 論理を見失わず、語り手のテンションが上っていくように心掛け、また怪談風の味も加えました。 福まるさん、コメントありがとうございます。 地獄はチラ見せくらいの方が恐さが伝わるみたいですね。 (臨終にあたって地獄の論理的実在を説き聞かされる僕)

2019-12-22

夢うつつさん、僕が中学生の頃にはとてもここまで自分の生活を表現できませんでした。語彙力、しっかりついていますね。自分を、ある意味で、嫌味なく対象化できていることにも驚きました。 「白い巨大な建物〜動物に生まれたかった」は大人でもなかなかこうは書けません。本当に中学生ならどんな人の本を読んでいるのか気になります。 詩を書き続けてください。いや、書き続けなくてもいいから、しっかり自分のことを見続けてください。上から目線なものいいですが、ついそんなことも言ってしまう魅力を持っています。 (相対性地獄理論-日記)

2019-12-22

stさん、こんにちは。 量子テレポーテーションでググってみて、学生の方が卒業論文で描いたマンガを発見しました。 文系の僕には正確に理解できたとはとても言えませんが、そちらも面白かったです。EPRペアっていうのがあるんですね! もう少し踏み込んで細かいところまで具体的に書くと、書けば書くほど面白い詩となるように思いました。そのことと直接は関係ないけど、量子力学的に言えば、彼女の気持ちがどういう状態にあるのかは観測するまで確定しない?告白してはじめて受け入れられるか、セクハラで訴えられるかが決まるんだ‼️ (量子の彼方)

2019-12-19

エイクピアさん、コメントありがとうございました。 書いたかいがありました。勢いで書いたものなのでこれでいいのかな、とも思っています。 (わたしはわたしではなかった。これからもずっとそうだ。)

2019-12-19

鈴木夜道さん、こんにちは。 これはすごいですね!絵から伝わるものが溢れんばかりです。題名が過去形。懐かしく、かつ怖い。名前の記された人物とそうでない人物、関係性の疎密。「わたし」の不在。絵の作者の「わたし」の肉体の存在感。大きく強いのに、中身のわからない感情が伝わってきます。 アートですね。 (家族がいた)

2019-12-18

蕪城一花さん、コメントありがとうございました。 引き込まれたといって頂けて嬉しいです。 夏野ほたるさん、コメントありがとうございました。 作者も気付かないような部分まで、丁寧に読んで下さっています。意識と無意識を行ったり来たりする文章のようなものを書こうとしています。 (わたしはわたしではなかった。これからもずっとそうだ。)

2019-12-18

こんにちは。 どこか甘い切なさを感じる作品でした。自我が現実の束縛から少しだけ浮いている感じ。それが作品として十分展開されているかというと疑問に感じてしまいますが、この作品の世界観(と僕が受け取ったもの)に惹かれました。読者に読解を要請するメタファーというものがどれほどの有効性と正当性を持つかは別として、星のような、この世の形象が誰かの、何かのメタファーであるということを感じ取ることが詩的な経験だと思いました。 (メタファー)

2019-12-16

こんにちは。作者の方は今現在中学生なのでしょうか。もしそうなら、とんでもないリアリティが迫ってきます。もしそうでないのなら、その鮮度ある魅力は失われてしまうように思えるのですが。 詩の「中身」の一つとして考えられるのは、この世の地獄っぷりをその人に即して明らかにすることだと僕は思います。幸福に比べて不幸のあり方はヴァリエーションに富んでいるそうですから。中学校時代の、ある種の不幸は、僕自身の生活に即してみると実に幸せな不幸だったと思います。この作品を読んでそんな感覚を思い出しました。 (相対性地獄理論-日記)

2019-12-16

母性の詩であると読みました。 母性の聖性とエゴと、エロスと反エロスが一体となってズンズンと迫ってくる迫力がありました。 愛の受け手にも覚悟と力が要りますね。 (in the heart)

2019-08-23

るるりらさん、こんにちは。 心に沁みる詩でした。語り手の死者だけでなく、死んだ兄や姉、父母の情の太い綱が錯綜している様が見えました。でも実はそれは一本に繋がっていて、端が死の深い闇に消えていくのです。 皆さんが御指摘になっていることですが、広島がいいですね。作品にかけがえのないリアリティを与えているように思います。 (グリコのおまけ)

2019-03-21

まりもさん、コメントありがとうございます。 エフェクトできるほどの技術はありません!僕がやったとしたら、無意識に使った呪術かな?でもまりもさんを呪う理由はまったくありませんねw パソコン、お大事に……。 「ある」「くる」「いた」「のだ」は、仰る通り繰り返しのリズムの生成と、その破調を狙っています。例えば「ある」「くる」「いる」「みる」だと当たり前に退屈で、作者の詩的怠慢になるとしか思えません。また強いて言えば、リズムがぐだぐだに破綻していく方が無いように相応しいのです。 「しょぼしょぼ/薄明るい尿を放ち」に注目して下さったのは嬉しいですね。きちんと書けたと自負している部分です。まりもさんの読まれた通りのことを作者も表現しようとしていました。言葉で書かれているけど観念的ではなく、押しつけがましい生々しさも持たないように、と考えて書いています。 「しと」でもいいいですが、人の寝ている枕もとにするつもりはありませんw「いばり」「ゆばり」「ゆまり」などありますが「しと」はあの句のイメージがあまりに強いですねw こちらへの投稿はいつもなぜか下ネタばかりで……。すみません。 (新年のお慶び*)

2019-03-13

みうらさん、コメントありがとうございます。 僕は日常生活でも自分のことを「ボク」と言っています。小ちゃいから自分のこと「さっちゃん」というくらいに無自覚になっていますが、小学校くらいまでは「オレ」と言っていました。周囲の男はみな「オレ」でしたが、自意識が目覚め始めて自分をフィクショナルな次元で立ち上げたい、と思ったようです。まさしく「厨二」を引きずってるんですね。無自覚に、自然にそこにいることができないのです。 ここで言いたかったのは自分の呼称ではなくて、無意識に選択した一人称複数のことなんですが、責任逃れの甘えかもしれないし、僕ではないあなたたちへの逆説的な挑発かもしれません。 まあ、いずれにせよ、大人として成熟し損なった僕が、そのまま老人になってあたふたとしているわけです。「お慶び」という言葉は現代社会の陋屋に届きはしないのに、嫌味のように執拗に正月に君臨しています。作中の「僕」はそれに突っつき回されています。 (新年のお慶び*)

2019-03-13

ishimuratoshi58さん、また失礼します。 リンク先、拝読致しました。あのようにきちんとした考えを持たれて書かれているのならば、皮肉でも何でもなく僕が申し上げるようなことはありません。歴史的仮名遣いそのもの成り立ちが非常に曖昧なこと。語義や文法が後付けの便法であること。にも関わらず、それらが動かしがたい正しさとして振る舞うことへの疑問は、僕も同じように感じています。 ただちょっと考えが違うところは、個人の着想やフィーリングがそれらへ同等に対置されうるかというと、それもなんだかなぁ、と思ってしまっている点です。言葉は借り物。自分の癖のついた刀を持って戦うより、そこらに落ちている棒きれや鉄パイプみたいな言葉をひっつかんで飛び出していく、そんなのが僕の好むスタイルのようです。 見当違いのことを申し上げているようなら、失礼しました。 (室内)

2019-03-12

帆場蔵人さん、ごめんなさい。大変失礼いたしました。 (風見鶏)

2019-03-11

ふじりゅうさん、作品拝読しました。 妙な迫力が感じ取れますね。最初読んだときにはサラリーマンの嘆き節かと思ったのですが、どうも違う。 会社や社会の非人間性を訴えているのかと思うとそうではないようです。 >まだ赤いビー玉の跡が転がっている 血眼の色滲むATMの中の数字が エアコンで コタツで テレビで 証明で AV視聴で 冷蔵庫で 充電で 日に日に じっくりと溶かして 溶けてゆく 雨漏りは 4合炊きの炊飯器くらい 胃袋で膨れ上がっている ここの部分の、モノとモノ、単語と単語とが力任せに繋がっていくところこそ詩ではないでしょうか? 熱気が作中人物の体温として伝わります。言葉の中の「人物」が言葉としての「肉身」を持つように思えました。 (内ポケット)

2019-03-10

ふじりゅうさん、コメントありがとうございます。 構成に一貫性がないですね。「お慶び」は最後どこにいっちゃったんだろう? それはつまり、書き手が言葉と喧嘩別れをしているからなんですが、そこをうまくくみ取って下さったようです。ありがとうございます。 う~ん、でも「僕たち」って「僕」と誰なんだろう?読み手かな?割とささっと書いたものなので、細かいところは書いた本人にもわからなくなっています。 (新年のお慶び*)

2019-03-10

*ビーレビ杯不参加作品です。 今年、一月一日の日に書きました。 セブンイレブンにはよく行きます。よく言われるように食品に添加物が多いのと、働いているひとやフランチャイズのオーナーに負担が大きいということ、見えないところで個人情報を収集することなど問題点は多いですね。 でも、便利で生活には欠かせないものです。せめて店員さんには礼儀正しく振る舞うように心がけています。 もっとも詩のない場所が、夢の中にまで登場するというのがこの作品のキモかもしれません。 この作品の登場人物とは別に僕自身に関していえば、最初から僕は詩人ではないと思います。 (新年のお慶び*)

2019-03-10

stereotype2085 さん、こんにちは。 >蝉の鳴き声を「何のノイズか?」と尋ねた留学生のことが、なぜか今は懐かしく感じる すごく唐突ですが、伊勢の「白玉か何ぞと人の問ひしとき」を思い出しました。 主人公に何があったかは書かれていませんが、確かに喪失感や疲労感を体験したような読後となりました。 >太平燕を食してまたも命と引き換えに大切なものを失った このフレーズが一番好きですが、「太平燕を食して命と引換えにまたも大切なものを失った」のほうが読みやすいかな、とも思います。 (故郷の中華街はいつも灰色)

2019-03-10

ishimuratoshi58 さん、初めまして。こんにちは。 静かでいい詩ですね。 >人生は書割一枚剥がせば底知れぬホラーですから(笑) 僕も全くその通りだと思います。 書割一枚でかろうじて成り立っているのが「この世のかたち」というものですが、ときには書割に隠された部分を覗いて帰ってくる冒険が必要なのですね。  いい詩ですから、遠慮なく気になった点をいくつか。 >物差しを上下させてから、物差しを机の上に置き、 「物差し」は1回でよくないですか? >芯の匂ひが、室内にうつすらと残つてゐる。 「うつすらと」という散文的な定型が全体の美質を損なっていると思います。 それから、作者のコメントは現代仮名遣いですから、作品をあえて歴史的仮名遣いにするのはあざといかな、と思いました。でも、この詩の歴史的仮名遣いは正確なものでした(上から目線のようですが、よくみる不正確な仮名遣いには引っかかりを感じていましたので)。 (室内)

2019-03-10

仲程さん、こんにちは。 面白いですね。風見鶏を見た日に作られた作品でしょうか。 緑青の浮いた古い銅板が、かろうじて形がわかるほどの早さで回って、やがて止まりかかるほどになって、ようやくちゃんとした「風見鶏」になる。すぐ回り始めて「さっき風見鶏であった何ものか」として愉快に回り続ける。そんな光景。 いや、そうではなく回ってこそ「風見鶏」で、止まっていて形があってはまだ本当の「風見鶏」ではないのかもしれませんね。 ただ、僕なら「風見鶏」という単語の数をもうちょっと減らすだろうな、と思いました。 俳句を思いつきました。  春風やくるりと風見鶏になる (風見鶏)

2019-03-10

返信、遅くなり申し訳ありません。 渡辺さん、ご迷惑をお掛けしました。次から気をつけます。 まりもさん、いつもご丁寧にありがとうございます。僕は自分のいない場所が死後だと思います。主体がある限り死というものはありません。生きている人が「死ぬ」とは生の最後の営みの一部なので、生者の語る「死」は生々しいものにならざるを得ないようです。生きる者の見る死は、過去の投影としての未来に過ぎない、ということを他人になった自分を通して自分に語ったのがこの作品だと僕は思っています。違うかもしれませんが。 中程さん。ありがとうございます。奇特な方ですねw (余呉)

2018-12-31

*「B-REVIEW杯」不参加作品 いつもお世話になっています。あまり他の方にコメントができなくてすみません。 今回から「B-REVIEW杯」は不参加という形にさせて下さい。長くやっているというだけのことで、一部の方に気を使わせてしまっているような気がして申し訳ないからです。 頑張って書いたつもりですし、書いているときはとても楽しかったのですが、まったくダメな気もします。自分の書くものは自分にはわからないですね。 (余呉)

2018-11-18

鬱海さん、こんにちは。 最後のどんでん返しには驚かされましたが、それよりも語り口、ディテールが魅力的な作品だと思いました。 初めのうち、作中の「私」が作者の投影された対象だろうと思ったのですが、読み通してみると実は絵描きの女性こそが作者ではないか、と考えるようになりました。或いは、分立した人格の一面として絵描きの自分が作者を無意識の層からコントロールしているとか。 端正で破綻のない物語を創造する作家は皆そうであるのかも知れませんが。端正ではないし、破綻もありますが、僕自身もそういう傾向があると思っています。それは良いことでもあるし、悪いことでもありますね。 「彼」も結局「私」にとって、手の届かない、自分自身のある部分を投影したものなのでしょうか。 楽しく読ませて頂きました。余計なことですけれど、ペンネームがちょっとすごいですねw (くだらない)

2018-11-18

鈴木海飛さん、コメントありがとうございます。 返信はなかなか思いつかないし、今更上げるのも何だか悪いし、テンション低いし、で。 大変遅くなり、失礼しました。 人間の脳は数%しか使われていないんじゃなくて、人間が数%しか役割を解明していないんじゃないかと僕は思います。 脳は肉体の器官の一つであってそれ以上でも以下でもないような気がするのです。人間の存在は脳ではなく、意識ではなく、肉体でもなく、人間には掴めないもの、掴める可能性も必要性もないモノのコア同士の関係性が顕現化した存在だと、今のところ考えています。 多分間違っているだろうな。僕は間違ってばかりだし、世の中に僕より遙かに頭のいい人は沢山いますから。僕があれこれ考えるのは完全に個人の趣味で、それを「詩」もどきに反映させて一人満足しているのも趣味のうちです。 人によっては気持ち悪いだろうな。でも、いいや。 この作品の三聯に出てくる、 >いつかどこかで って何時の何処だと思いますか?時制をぼやかしたんで、過去でも未来でもないんですね。 >小さな方舟を揺らすのだ ってなっているでしょ?つまり、過去に起きたことでもなく未来に起きることでもない、登場人物の無根拠な確信でしかないんです。 「無根拠な確信」の成立を、「無根拠な文脈」によって、それ自体が対象を持たない修辞として表現したのがこの作品なのです。 と言ったら信じますか?いや、僕は割合本気なのですが。気に入らなければ一笑に付すのが正しい態度だと思います。皮肉ではなくて、これは「割合」以上に本気で言っています。 作者は、孤独が宿命である作業をしていると自覚しているので、その部分に異論がなければ読者の方も孤独が宿命であると自覚しつつ感傷して頂ければ、この上なく幸せです。孤独を癒やすのは対置された孤独だけです、おそらく。 (立ってから座っていた自分を振り返る)

2018-09-16

鷹枕可さん、こんにちは。 該博な知識と、驚くべき漢語の使い方に敬意を表したいと思っています。 でも、僕にはちょっとついて行けません。知識量の問題もありますけど、造語ぎりぎりの組み合わせによる漢字熟語もあって、そこを理解することも難しそうです。 社会主義、もしくはソ連初期のロシアアヴァンギャルドのイメージを漢字によって造型している立体作品のようにも思えました。そうだとすると、全体はイメージとして受け取るべきものなので、論理ではないですね。 乳母車は、映画「戦艦ポチョムキン」のオマージュでしょうか? (11月、転落する幌附乳母車)

2018-08-23

こうだたけみさん、こんにちは。 最初はイメージの伝言ゲームのように進行していきますね。二羽→ハト→ハト麦茶→経口補水液→先生(医師) ここから先の展開は作者の個人的な体験からの連想になるようで、読者にはついていけなくなりますが。 とても軽やかでテンポのいい文章が続きます。句読点の省略も効果的でリズムに乗っていきますね。その中から「壊れている」などの語で、不十分ながら作者の心理の深淵を覗くきっかけも与えられます。 「その日」の記録として非常に有効性が高いのではないでしょうか。 ただ残念ながら、それ以上に巻き込んでこようとするエネルギーを感じることはありませんでした。それは作者も十分自覚していると思います。 やはり時間を掛けた推敲と、世界の造型が作品に魅力を与えるという面は少なからずあると僕は考えます。もちろん、これは個人的な感想で、一般化できるかどうかはわかりません。 (進化の過程¥崩壊)

2018-08-23

澤あづささん、コメントありがとうございます。 返信、遅くなりました。 僕は女性の身体に対する知識はほぼないので、参考になりました。 「妊娠」は、書いた僕は比喩的な意味で用いていましたが、生々しい女性の現実として捉えると、また凄まじい解釈になりますね。面白いです。「明日の私」は「私」を託す子どものことだったのか。 コカコーラのボトルの形が女性のボディラインをモデルにしている、という話は良く聞きます。そのことは多少頭にありました。この作品は自己疎外がテーマになりうるでしょうか?自分が自分であろうとすればするほど、何かがずれていってどんどん自分が憎くなる。自我肥大した一般人の呻きを、身体を取り巻く外部の自覚の中に置いている。そういうつもりで書いています。自分というアイデンティティは昨日という時制の中で容易に見失われ、幻想と幻覚だけがのたうっていることをおおよそ自覚しながら生きている主人公です。 (探せ。)

2018-08-19

stereotype2085さん、コメントありがとうございます。 イラッとする、というのは本当に「褒め言葉」だととらせてもらいます。実際、人生の大半はイラッとする何かを無理矢理口に突っ込まれて戻しそうになるような経験で埋め尽くされていますから。それが伝わったということですね。「思い出せない」というのは実は嘘で、忘れられないことを「思い出せないこと」にしてしまいたいという絶望があるのだ、と。そういう解釈、いいですね。 音のところ。主観にかかわらず入ってくる、モノの素に近い何か、が主体と癒着していく状態を書いたつもりでした。力を入れた部分です。 (探せ。)

2018-08-19

miyastoragemiyastorage さん、コメントありがとうございます。 甲子園、真っ盛りですね。テレビ画面を見るだけで暑くて。しかも凡戦だったりするとげんなりしますw。 おお、これは三人の心理ゲームでもあったわけですね。後藤だったら、酔った勢いでありもしないことを言い散らしてくだを巻きそうですから。 人の荒れ狂った心理を「詩」のかたちにまとめようとするのは確かに大変です。これを書いている「作者」も隠れた登場人物ですよね。 (探せ。)

2018-08-19

帆場蔵人 さん、コメントありがとうございます。 何も考えなくても、何処か気になっていつの間にか読み直している、という中毒文学を作れたらいいですね。 彼ら、彼女ら、帆場さんの頭の中でぎゅんぎゅん唸らせてやって下さい。お願いします。 (探せ。)

2018-08-19

たくさんの方にコメントを頂けてうれしいです。昨日は返信の途中で疲れて寝てしまいました。 三浦⌘∂admin∂⌘果実 さんw、コメントありがとうございます。 >河原弥生先輩がまた後藤君をいじっている物語 とすると、多少齟齬が生じるかも知れません。ちょっとキャラが違うかな。ま、別人でもいいか。とにかく後藤は不幸なやつでよしよし、と思いながら書いていました。 ファン宣言、ありがとうございます。信用していませんがw(もちろん本当であって欲しい)。 それで、なぜコメント冒頭でどもるんでしょうね? (探せ。)

2018-08-19

柿原 凛さん、コメントありがとうございます。 ご指摘下さった部分は、僕も気に入っている表現です。「銀」「目がギンギンに冴えている」などのイメージを借りて作ったオノマトペなのでした。 金属的な質感、重量感を視覚と聴覚、触覚から援用したものを統合したつもりでいます。 (探せ。)

2018-08-19

かるべまさひろさん、コメントありがとうございます。 う〜ん、オランジーナはお洒落すぎませんか?このコーラはコカコーラのイメージではないんです。どちらかというと、場末のサンガリアって感じですね。サンガリアにコーラがあるかどうかは知りませんが。 食レポとすると、蛭子さん以外には考えられませんね、主人公は女性だけど。 (探せ。)

2018-08-18

湯煙さん、こんにちは。 これ、好きです。何年前だったか、iPad miniを最高買取価格で取ってもらったので、僕の中でじゃんぱらも評価高いですよ! お伽話によく見られるパターンを踏襲していますね。花咲爺さんとか。この現実的記述がぐにゅっと歪んでいく感じが心地よいです。 僕も使いこなした試しがないのに随分こういうガジェットにお金を使いました。 (じゃんぱら)

2018-08-18

白犬さん、こんにちは。 昔のロマンポルノの映画を見ているような気がしました。天地真理の「魔性の香り」! すっかり粗筋は忘れちゃったけど、べとべとした堕落ものでした。 ちょっと理屈になるところもあるように思えますが、全体的に闇雲に走っていてやがて何もなくなる、というのがいいですね。 「残酷になっても良い、の?」というのは僕の解釈では、「残酷にして欲しい」ということと同義です。愛の解釈としてはちょっとありふれているけど、愛というもの自体がありふれていて、そしてありふれていていいものですからね。 (Nyx)

2018-08-18

tttttkjさん、こんにちは。 重陽の菊の節句に、一族で高いところに登って酒食を楽しむ習慣が唐代の中国にあったようです。なんだかそんなことを思い出しました。 あまり高すぎるビルではつまらないですね。ちょっとした丘の上や、駅前のホテルなんかから、のんびり人の営みを見るというのはこの上ない至福の経験だと思うのです。 >歩いている人もいれば、走っている人もいる。 この部分の無機的で意味の薄い書き方が僕は好きです。 (絶景)

2018-08-18

四畳半学生さん、こんにちは。 日差しも短くなってきて、昨日からだいぶ涼しくなりました。 冷蔵庫の中の炭酸水の減りが遅い。 夏は瞬く間に終わってしまうし、終わったことの思い出だけが拭いきれず残る。 そういうものですね。そのこと、改めてよくわかりました。 (どうするの?)

2018-08-18

「丸煙管男爵」は著しく品位に欠けるHNで、作品内容もお粗末。センスなし。「ガンジー」時代からあの掲示板に出入りしていた僕も随分苛つかされました。某巨大掲示板では正体が色々推理されていましたが、まさか本当に詩誌の執筆者の一人だとは思いませんでした。 もっと驚いたことは、センテンスオータム誌上で暴かれた例のタックスヘイブンの小国が、爵位の売買を仲介していて、丸煙管氏が日本人で唯一の爵位購入者として挙げられていたことですね。訴訟リスクを考慮してか、名前は伏せられていましたが、「前衛詩で名を馳せた著名なネット詩人M氏」と書かれたら彼ですよね? HNは虚構だが爵位は実である、そしてその実は不正に近い手段で 売買されたものである、とそういうプロフィールに仕込まれた自己韜晦が彼の詩のナンセンスさを裏打ちしていた訳です。 この前、自分の詩集を売りつけるために闇の方の「ポエマート」に潜り込んだとき、酔っ払った爺さんが「丸煙管は仮釈放中に逃亡して偽造パスポートで火星行きのソユーズに乗り込んだんだ」と騒いでいるのを見ました。誰も聞いていませんでしたが、ここのやり取りでちょっと信憑性が上がりましたね!いや、ほんのちょっとだけですよ。 (ウォシュレット)

2018-08-14

まりもさん、コメントありがとうございます。 僕はいつもまりもさんが嫌がる書き方ばかりしていますね。「なま」な表現ですみません。本当にセクハラや変態性欲を人に押しつけるつもりではないのです。無理に読ませてしまって申し訳ないように思っています。 まりもさんは、いつも個々の語と、全体の構成と、表現意図について厳密に読解して下さっています。以前読ませて頂いた文章では、詩の教室で読解の方法を厳しく学んでいらっしゃった、とのこと。現代詩の詩論的な流れもきちんと踏まえた上でのアプローチだと思います。 僕はネットポエマーなので、そういう訓練や勉強を積んでいません。非常に個人的な感覚と、狭隘な思考経験から書き散らかしているだけだと思います。ただ、現代美術におけるアカデミズムと作品表現との関係のように、正統的な「表現」の様式というものに対する不信感を持ち、それらから解放された完全な「自由」を楽しんでいます。論理的構成、社会的公正に則った正しさ、というものから始めて、ただ言語が言語を呼ぶ自由な次元への離陸に至るまでの過程を楽しむことが、自分が「詩」を書く動機だと思っています。 たぶん、それは間違っています。僕はずっと単純なところで間違い続けていますから。ただあえて間違いを恐れず行動すること、間違う姿を見せること、が僕の存在意義です。自分だけが自分に厳しくなれるのが、僕の考える「詩」表現なので、これからもどんどん内側へと閉じていくのでしょうね。でも、閉じつつ開くために、秘密なく自分の書いたものについて語れるようにしたいと思っています。 だから、また少し置いて、まりもさんの解釈と、自分の解釈を比べてみるつもりです。 (立ってから座っていた自分を振り返る)

2018-08-14

ゼンメツさん、「静物の台座」はちょっと、本当の意味でポルノチックかな、と反省しています。確か浅井さんからコメントを頂いて、フェミニズム的な視点から読解されたのですが、踏み込めない部分に踏み込みすぎてしまった感があります。あの女性は所詮男性的な妄想かな、と。だから、本作ではわからないところを、作者が投影された主人公から思い切って引き離して記述しています。この作品で気をつけたのは、導入からどんどん生々しさを遠ざけていくことでした。 (立ってから座っていた自分を振り返る)

2018-08-14

植草さん、こんにちは。 僕も蝉が好きです。もっとも蝉に愛情はありません。 理由は死骸が綺麗だから。大抵路上で乾燥して、ばらばらに解体して終わりになりますが、隠しもせず大量に死骸を晒すのに腐らない。臭ったり汚い血や内臓を晒すこともありません。知らないうちに消えていきます。人間はそうはいきませんね。自然死の場合は大抵だれかの手を煩わすことになります。 蝉の死骸の胴が割れて、空っぽの中身を除いたことがありますが、割とよい景色でした。詩に通じていましたね、僕にとっては。 人間が質量なく残せる遺物として、死骸や遺品に比べて言葉や文字は悪くないものです。 死んでしまえば、僕の墓だってアイスの棒でいいわけですが、生きている僕の立場だとちょっと迷惑かな。蝉はどうだろう? 僕だったら蝉の死を自分の死にしっかり紐付けして記述すると思います。言葉の根を深いところまで下ろしたいので。結構死骸の出てくる作品は書いていますが、そのつもりで書いてきました。死骸は僕自身。そう読んで貰えているかどうかはわからないのですが。 (戒名)

2018-08-13

ゼンメツさん、コメントありがとうございます。 人間は主観的にしか他者を見ることができません。しかし、主観を成り立たせる全ての要素は一つ残らず他者に由来します。 自意識は、自分の肉体も含めた他者の上に乗っかって存在しているに過ぎません。そういう自分自身の怪しさを楽しむことができるといいな、と思います。時間や他者との関わりの中で、しっかりと、明晰に、自我は揺らいでいくのです。 自我をぶっ倒し、他我をぶっ倒し、完全にピュアなものに向き合いたい。そのありえないものをありえないまま捉えるのが、僕にとっての「詩」だと思っています。 (立ってから座っていた自分を振り返る)

2018-08-12

こうだたけみさん、こんにちは。 一、二連の描写が素晴らしいですね。風景と解釈がこのように一体であると、確かな世界が現出するように思えます。 最近僕は、言葉は表現ではなく、世界の再現だと思うようになりました。 人間の本質はほぼ同じです。「青春の自我の叫び」みたいなものはコモデティ化した消費財になってしまっています。作者と読者が、静かで奥深く成立する光景を一緒に覗き込むような作品が読みたいと思っています。 (雨中遊泳)

2018-08-12

かるべまさひろさん、コメントありがとうございます。 癒やされてくれてありがとう!読んで頂けるだけで幸せというものです。 (立ってから座っていた自分を振り返る)

2018-08-12

澤さん、コメントありがとうございました。 もとよりそんな立派なものではありません。意識していたのは、「詩」としての完結性がメタな視点から次々に乗り越えられていく、そうであって欲しいということです。 第一連は独立性を持った「詩」なので、 >と言ったら河原弥生先輩が ではなく、「という詩を読んで河原弥生先輩が」とするべきでした。ただ、同時にこれは現在の「僕」の目前の風景であってももらいたいのです。「先輩」という語はリアルな社会性を持っていますが、この二人の会話も正確な回想ではなくて、「僕」の現在に侵食された記憶の中にしかないものかもしれませんね。 あとは、ノアの洪水伝説の鳩が蝉に、月桂樹の葉が欅の葉にずれていく仕掛けがあるだけです。もちろん、「立つ」から「勃つ」への転換、「間に立つ」という言い方のもたらす疎外感、それらが文脈の中に捻れて織り込まれているところを楽しんで頂けたら幸いです。 そんなことはまったく考えないで、下品でしょうがないなぁ、と思ってくれても幸いです。下品で面白いなぁ、と思ってくれたらもっと幸いです。 (立ってから座っていた自分を振り返る)

2018-08-12

stereotype2085さん、コメントありがとうございました。 最終連のこと、作者は世俗と聖性の対立として書いたわけではありませんが、「詩」の世界があるとすれば、そこは言葉にならないものからできているだろうな、という予感があります。求めて得られない、ものの実相の剥き出されたところに詩の核心はある、と僕は思うのです。 でも、それは世界の見方に過ぎず、まったく俗で下品な世界にも平然と存在しているはずです。ことさらな「詩語」の範疇では見落とされてしまう詩情を掬っていきたいし、逆に詩情の持つ身も蓋もない一面を告発し、かつ受け入れていきたいと思います。 (立ってから座っていた自分を振り返る)

2018-08-12

まりもさん、こんにちは。 「うりずん」という題名。これは直接オオゴマダラのことを指すのではなく、この蝶を生む風土の感触を表したものです。沖縄という島の、手触りのようなものでしょうか? それがまず、案内者の沖縄人の口から出ることで、作者(作中主体)の異文化との出会いが演出されます。つまり、沖縄の肌に手を当てて、その体温や血流を感じた、ということ。用意されたリスト通りに決められた施設や景勝地で見せられたものにチェックを入れ、一つ一つに箇条書き風の短いコメントを残していくのは観光旅行。この詩はそれとは全く違う。訪れた場所は >黄金(きん)色の蛹を守るビニールハウス と描写されていますが、描写の本質は図鑑的な知識の確認ではなく、むしろ >朽葉の蒸れるにおいと樟脳のような香気 という、「うりずん」の生々しさです。それが陶酔で終わらないのは、その後でシャッター商店街のさびれようを見たり、かつて米軍の射撃演習で荒廃していた山を見たことから、現実への社会的な視界が引き合わされているからか。 沖縄の人の口からは百年古酒の話も出てきます。「胃袋にじわ~っとくる」という言い方はいいですね。沖縄の風土の中に、確かにこの人の肉体があって、お酒好きの人には腑に落ちる感覚なのでしょう。「耳かき一杯くらいなもんです」という言葉をしっかり拾い上げてくれているからリアルです。 これに対して、雨の「人肌」の感触から導き出される作中主体の五感。肌に触れる「沖縄」がクリムトのダナエと繋げられます。黄金の繭に包まれるように目を瞑り身体を丸めて眠る女性、ダナエ。この黄金は神話ではゼウスが変身した黄金の雨であり、ダナエと交わって英雄ペルセウスを生ませることになる。彼は後に翼のあるサンダルで大空を駆け、アンドロメダに襲いかかる海の怪物を倒します。沖縄の土着の物語が来訪者の感覚の中で昇華され、遠い神話にまでも繋がる普遍性を獲得する、その構図を思わせます。 しかし、描写は再び「うりずん」の沖縄の風土に戻り、季節の持つ官能的な美しさが描かれるのです。 >ほほにふれる黄金(きん)色の湿り。そっと舌先で受ける。百年の千年の雨。 時代を超え、場所を越え、普遍的な官能性が作中の主体の中で花開くのです。 そうして満を持してオオゴマダラ登場。沖縄の命の継承のシンボルがハウスの中で羽化する。この蝶がハウスの外に放たれ、自由を獲得すると言うことは、沖縄が再び自らの足で立ち上がって未来へ歩み続けることに他なりません。沖縄人と作者との共通の願いでもあるのでしょう。 (うりずん)

2018-08-12

>ほどくなら頭の渦を >青波の髪に梳いてよ ここが好きです。 この部分に想像力を刺激されました。僕は隠喩というものが苦手で、読み解くより先に(詩的)実在として受け入れてしまうのです。 海と混交した母神が現れましたね。 ここにつながる男女の恋模様には、逆に強い関心が持てなかったし、事の顛末を充分捉える力も僕にはありませんでした。 (女性像/断片)

2018-08-11

平和は戦争を妊娠する、と極平凡に解釈してみます。都市は闇の安逸に背を向け、ひたすら過去と未来の死へと凄まじい量のエネルギーで人を駆り立てます。生殖は破壊と死を産むための暗い欲望を衝動として営まれ、人の意識は認識されるべき世界をもそこから同時に産んで行く。 白い雲も、青い海も、人の心で爽やかに昂ぶる破滅へのプレリュードのように思えます。織田さんはそうした認知そのものをそっと我々の側に押しやってきます。 (向日葵)

2018-08-11

ゼンメツさん、こんにちは。 世の中を支配する(かのような)神と神の定理についてのちょっとした詩的コメントかな、と思って読みましたがどうでしょうか。 彼女はかりそめの神。「僕」はルソーの絵に出てくるようなエデンの被造物としての黒豹。舞台の一場面のようにありながら、その設定は長く安定してはいられないのですね。見るまに崩れる。 最後の「物語を台無しにするキス」はお洒落だけれど、無残な現実の端くれでもあります。 (きみのしおり)

2018-08-10

よくわからないけど、確かに素敵な詩です。 水の中の生き物の生死が音ともいえぬ音となって、地上の人間の不可聴領域から魂を揺さぶるのですね。そして地上の光の、感情とも言えぬ感情へと。 こういう詩が好きです。 ([])

2018-08-08

僕も色々考えましたが、「現代詩」の現代詩たる所以は、自由ということではないかと。 自由って徹底的に総てが等価ということですね。定義付けを許さず、書かれた途端にそれは表現の結果というよりも、一つの存在そのものになる。 一木一草、石木の個々に評価は無意味だけど、それを敢えてすることでフィクショナルな評価基準が出来上がり、詩と評価基準とが諸共にある特定の場で消費されていく。そんなものではないでしょうか。 ビーレビューも評者、作者、運営との間で概ね消費の一サイクルが終わったのかもしれません。寂しいけど。 詩のムーブメントを起こせるのはこの虚しい場に無尽のエネルギーを注げる人だけ。文月悠光さんの活動なんか見ているとそんなふうに思います。 (くたばれビーレビュー)

2018-08-07

山田風太郎の「人間臨終図鑑」 を思い出しました。 ふむふむと楽しく読めましたが、ちょっと普通すぎるところが詩としては弱いように僕には思えます。 普通に納得してしまっているんですよね。最後のフィクションも、なるほどなぁ、と腑に落ちてしまいました。 こんなことをいう資格があるかどうかわかりませんが、修辞というかケレン味の問題ですね。 (死去ノート)

2018-08-07

「爆」じゃなくて「僕」でした! (微細な)

2018-07-08

とほい空でぴすとるが鳴る。 と読んだあと もっと遠い空でぴすとるが鳴るのを感じた。 梅雨が明ける 鋳鉄の重い弾倉が回り 次弾は銃筒の根元へ運ばれているだろう 焼けるものが 遥か彼方から 焼けるものが遥か彼方の詩人の胸の中に そして僕の中に。 晴れやかに晴れ尽くすと 言葉の転倒したスペースに せいせいと風が吹く 咽喉のない空間を去来する声です 記憶にない懐かしさ もう いいから みんな もういいから と 書かれなかった詩が火災と洪水のあとで更地になっている (梅雨晴れ)

2018-07-08

僕は僕の知らないものでできている。 みんなもだ。 知らない言葉、知らない食べもの 肉体の 知らない仕組み、その由来。 眼の中の光は、もう 滅んでしまった星のもの。 まぶたの裏に残す光の 記憶を転写する言葉。 それを君に届ける。 僕じゃないものが僕を通過して 爆じゃない君の 君じゃない始原へと 回帰していく。 さようなら。かつて僕だったもの、 とても甘いもの。 (微細な)

2018-07-08

三浦さん、コメントありがとうございます! 僕は底の浅い、つまらない人間なので、中身は知らぬが花ですw。 (みんな)

2018-03-20

筆を一本手にとって何か「浮かぶ詩」を描こうとするフォルムを写し取ったんですね。 「ひた」というのは擬態語で、筆の穂先を墨汁に浸すようなものかな? 僕は一を聞いて一がわからない人間なので、この詩の深淵はわからないんだけれど、読んでいると楽しさが感染してくるのですね。心にうつりゆくよしなしごと、というキワメテ抽象的なものがですね、マンガのフキダシのようなものが浮ついた金色で滲み出してくるように思えます。 (ひとつ)

2018-03-20

良い詩でした。生理的に書かれた詩ですが、モノから作者が離れないのが良いですね。モノとは作者ではない何か別のモノのことです。 こうださんの作品、僕には相性が良かったようですね。何年か後にこれを読んでニヤッとしている作者込みで、面白いと思えた作品でした。 (踏み止まるメザシ(千葉県産))

2018-03-17

こんにちは。 大抵のものは行方不明になって目の前から消えて行きます。それが雀の形を取らないと気づけないんですよね。面白かったです。 (スズメ)

2018-03-17

奇遇さん、こんにちは。 言葉によって虚実の隙間に入り込もうとする試みだと思って読みました。虚実の隙間、僕は好きなんですよ。何故だろう。ソファの下に猫がもぐりこむような……、習性なんですね。 ただ、この作品はちょっと言葉の背景が重すぎて、意味の方に引っ張られすぎますね。隙間が狭まってしまう。出雲阿国なんて特にそう。泉はたぶん黄泉だし。 勿論、僕の感性が作者とまるで違っている可能性は十分あることを自覚しながら言っています。単なる感想とお受け取りくださいね。 (透水文化学入門)

2018-01-04

硝子さん、こんにちは。 各行独立した一行詩として見た場合、一番好きなのは三つ目。死に憧れる美少女が元気いっぱいで晴れ渡った空に叫んでいる詩句見たい。可愛らしくて切ないですね。 でも俳句とは違いますね。難しいですけれども、5・7・5にしない理由が見つからないからです。ここで描かれた情趣は有季定型俳句が描いてきたものの範囲に収まっていて、ちょっと頑張れば俳句になってしまうように思えるからです。ということは俳句と同質の叙情詩だけれど、なぜか俳句にしなかった作品、解いことになります。無理に俳句にする必要はないけれど、俳句を読むと楽しいですよ。 じゃんけんで負けて蛍に生まれたの 池田澄子 御作とは読んでいる内容は違うし、ご存知かもしれませんが。いいでしょ? (四季)

2017-12-27

百均さん、コメントありがとうございます。 作品のカタチとか意図とかでなく、中身そのものの相当深い部分へ直接触れて下さったコメントだと思います。ありがとう。 普通の大人が実生活で悩んでいる少年少女に言えることって、「元気を出して」くらいしかないんです。「世の中にはもっと楽しいことがあるよ」とか「僕を見ろよ、今はちゃんと責任ある大人として頑張っているだろ?」「俺がすべてを掛けてお前を守る」なんて言ったら大抵間違いです。実際自信ありげにそんなことを言ったり、一緒にすごいことをやろうぜ、と快活に誘い掛けてくる奴はマルチ商法の手先か、熱に浮かされて上の空になっているおバカさんのどちらかなので、お尻を蹴っ飛ばしてやりましょう!相手の性癖によっては喜ばれたりもします。 大部分の大人は振り払われた手を所在なさげにしながら、気弱に情けなく笑うだけです。あるいは唐突に口笛で古いポップスをふきはじめるかもしれない。 大人を許してやって下さい。寂しげに薄笑いするだけの無力な大人こそ、悩める若者の本当の味方です。 この作品の嘘はひとつ。破局が来ようが来まいが二人は別々に死にます。そして、恐らくは(というより「願わくば」になりますが)、先に死ぬのは大人です。 (海辺で語るべきこと)

2017-12-27

花緒さん、コメントありがとうございます。 ここのところB-REVEWでは手垢のついた(と僕が考えている)言葉でいかに人に伝わるものを書くか、を試みています。それには「詩的真実」から降りて、日常にありふれた「当面の真実」に浸ること。実際に僕が苦境に置かれている少年少女の前に立った時、華麗な地獄図を詳細に描き出すというようなことはできません。カウンセリングの真似事をして上滑りした饒舌を披露したなら、それこそ舌を噛んで死んじゃいたくなると思います。 「元気を出して」という言葉は何かを言っているようで何も言っていません。出せる元気があればとっくに出してますよね。言葉にならない、ということを言葉にすると、そんなふうに言って笑って上げるということかな、と思うのです。僕の無力さをそのまま曝け出す言い方です。 凡庸であることを恐れない。ダメである自分の作品の自己疎外に耐える。それがここ最近の僕の書くもののテーマの一つになっています。 アラメルモさん、コメントありがとうございます。 元気でご活躍のようで何よりです。頑張って下さい。 (海辺で語るべきこと)

2017-12-26

百均さん、こんにちは。 みずいろの薔薇を簪にして 宝石にしてしまえばよかった は、正しい順番では、宝石にしてからそれで簪を作るんじゃないのかな、と思います。ここの順番をあえて変える理由がわかりませんでした 確かにありふれたフレーズを使っているようになってる思えますが、そもそも詩を書くということ自体がありふれたことなのかも。それが自覚できてなお書くことが大切なことだと最近思うのです。 (らふか)

2017-12-25

YUUさん、こんにちは。 たぶん、実際にお若い方ですね。ええと、大人は全く本当のことを言いません。「そのお醤油のビンを取って!」とかいうのは本当のことをかもしれませんが、どうでもいいことです。本当のことを無理して言おうとすると、見苦しいポエムを書いてしまうのですね、僕みたいに。何をしたって人生は孤独です。恋人も夫婦もある意味では厄介な敵ですし、ひどい場合は敵ですらなくもちろん味方でもないわけです。大人になることはありとあらゆる我慢をすることです。ただですね、これも僕を含めて多くの大人がまだ自分は大人になりきれていない、と思っているのですね。そして我慢ができない。これはとても見苦しいことです。僕のようになってはいけません。ただ少しだけ自己弁護させてもらえるなら、自信を持って自他ともに認める大人って、悲しくなるほどつまらないです。正しいものは大体つまらないからです。 (雨の聖夜)

2017-12-25

最近、他の方の作品に中々コメントできなくて、この作品を投稿したなり何の書き込みもしていませんでした。ごめんなさい。ここで返信をした後、書き込みます。 ティコの灯台さん、コメント有難うございます。僕は人に優しくしたいと思いながらなかなか出来ていません。他人のことに真剣になれないのですね。せめて書きものの中くらいはちゃんと優しくしたい、と思っています。 三浦さん、コメントありがとうございます。 前に「骨の王」という作品で「世界は隈なく隅々まで恐ろしい」と、確かそんなことを書きました。二番煎じとか自己模倣にあたるような気もしたけど、まあ実際そうだから仕方がないか、と思って良しとしました。 (海辺で語るべきこと)

2017-12-25

まりもさん、コメントありがとうございます。 フランス映画ですか!だったら日本海ではなくてノルマンディーの海岸ですね。当然フィクションですが、作りものっぽさが目立ってしまっている、ということでしょうか?難しいですね。そういう雰囲気も込みで楽しんでいただけたら嬉しい のですが。 (マリア)

2017-11-25

花緒さん、コメントありがとうございます。 僕にも無条件で人の心を動かせるものが書けるのか?そういうものを書いてみたいと思いました。それで普段使わない語彙を使って見ました。 (マリア)

2017-11-25

新染因循さん、こんにちは。 >わたしは茎を膣に突っ込んで、処女膜をなぐさめた。(そゆなものがあったっけ!) 仰け反って頭は天を仰いだ。静かに、雲が蟠っていた。 ここの部分がとても好きです。あとの部分はどこか定型的で、整いすぎているように読めてしまいました。 (雨に溶ける)

2017-11-23

再コメント、失礼します。 今思い出したけれど、このローマはデ・キリコのローマかもしれませんね。人のいないがらんとした空間が想像力を介して世界中の主体の核心に繋がっています。 ただ不満なのは「わたし」の言説に神秘性がないこと。僕の言う神秘性とは人間心理の幽明ではなくて、モノ自体の持つ明快な別側面のことです。 機会があったら、ネット上でもいいので、天才詩人さんに美術評論について教わってみたいです。 (ROME)

2017-11-23

hyakkinnさん、コメントありがとうございました。 とても単純な作品です。ネット上の存在はすべからく「人でないもの」です。人から抽出された「魂」として言語化されています。ただそれだけのことです。そこで紡がれるネット空間全体のカタチは物語とはならず、よく見るとバラバラのまま時間だけが経過していくようです。僕らはそこで根拠なくただただ高揚しています。そんな印象を書いたつもりですが、勿論読まれる方の解釈が間違いだと言うことは一切ありません。意地悪なつもりはないのですが、もしそういう印象があるとすれば、書かれたことがすぐさま突き放されるように、その次が展開していくからでしょうか。いや、単に読みにくいからだけでしょうけど。 (人でないもの総てがつながる勢い(改訂版))

2017-11-20

tasakiさん、こんにちは。 抑制の効いた筆できちんと書いた作品ですね。主人公の抱えている「障害」についても客観的に、距離を置いて描ききっています。 ここで展開する思索には、ギリギリ深みを見せない程度にまとめられていますが、敢えてそこで留めておくことで、読み手の側にその深みを委ねているように思えます。計算されたマージンがとられているんですね。 いいなぁ、僕もちょっと前だったらこんなふうに書けていたかもしれません!一方的で申し訳ないですが、親近感を持ちました。 (逆さの象)

2017-11-13

まりもさん、コメントありがとうございます。 というより、むしろごめんなさい。これはきちんと正面から向き合って批評されるようなものではないのです。 こんなものを書いていちゃダメだなって思いながら、ダメなところへ踏み込んでいく暗い欲望で書いています。自分のためにしか書いていないし、それなのにちっとも達成感のない領域ですね。 最近は頭がボケてはっきりしないので、あまり書くこともできなくなっています。何かが始まり続いていたということもないのだけれど、僕もそろそろものを書くことに関しては終わりなのかも知れませんね。 作品の主題はそういう気持ちそのものです。 (人でないもの総てがつながる勢い(改訂版))

2017-11-13

仲程さん、コメントありがとうございます。 ずれてはいません。盛り上がりだけを書いたつもりです。 音楽や美術のような、そんな感じで書いています。 言葉にならないものに、言葉になれない言葉で答えているのかも知れませんね。 (人でないもの総てがつながる勢い(改訂版))

2017-11-13

m.tasakiさん、こんにちは。 言葉が感情を誘いかけながら、少し距離を置いて逃げていく。そんな感触がありました。こういう詩は好きです。 >哀しみの大地に/常に己の内に抱えている/永遠に続く邂逅と離別故の震えを ここはちょっと感傷的ですけれど、結論にはなっていないので作品の味として読めるように思いました。 そもそも「哀しみの大地」という言葉は背景がないのなら、「哀しみ」とは別の何ものかでいられる可能性を持つものです。それは類型ではなく、自由な発想への起点となるのではないでしょうか。 (裸の水)

2017-11-09

花緒さん、こんにちは。 前回、即興で作って隙が多い作品だったので、改めて推敲してみました。やりたかったことは現実的具体性を一切持たないで書き切ることです。それもエネルギッシュに。難しかったですね。どんなに頑張っても面白くならないのかな? 良く分からないものを読ませてしまってすみません。そろそろ誰もが素直に泣いたり笑ったりしてくれるものを書きたくなりました。でも、僕にそんなものが書けるのか、まったく自信がありません。 (人でないもの総てがつながる勢い(改訂版))

2017-11-09

田中修子さん、こんにちは。 上下とも面白く拝読しました。地獄絵巻ですね。高校生のとき書いたとは思えない筆力です。 性的な虐待などがでてきますが、何らかの現実が投影されてはいないことを祈ります。妄想だとすると、ちょっと類型的な描写だなと思える部分も、現実の反映だとするなら心底ぞっとします。 幕末から明治に書けての「無残絵」のようなものかな。月岡芳年などが有名なようです。昔、美術館で見ました。 (「三途川」 下)

2017-11-06

こんにちは。 感想じゃないかもしれないけれど、昔、「玉川児童百科事典」のコラムに書かれていた古代ローマの子どもの登校風景を思い出しました。夜明け前、暗い石畳の道をカンテラを照らしながら学校へ向かう、とあったんですよね。ローマへの道はそういうやるせなさ、現代の日常的な感覚にも繋がっているんですね。 この文章に表れた「開発途上国」の、どこか荒廃した街、行ったことはないけれど妙に懐かしさを感じます。 (ROME)

2017-11-06

まりもさん、こんにちは。   山枯れの始まっている湯呑かな  原田喬 という俳句を思い出しました。湯飲みというモノの実感が迫ってくるようだともっと良い作品になったのではないでしょうか。  本当はもっと長いコメントを書いたのですが誤って消してしまいました……。機会があれば、また後日。 (焼成)

2017-10-05

白島真さん、コメントありがとうございました。 この具体性のまるでない、いかにも「現代詩っぽい?」スタイルは僕の中では異例なもので、これまでは散文的な、はっきりした文を書いていました。もっとも「言語明瞭、意味不鮮明」な内容ではありましたが。今回は言葉が言葉を呼んでぐるぐる飛び回るという、博覧会やテーマパークのパビリオンによくある抽象映像みたいなものを書いたんじゃないかと思います。理解不可能とおっしゃった部分は、作者にも理解不可能なのでご安心下さい。何も表現しようとはしていません。 沼尾奎介さん、コメントありがとうございました。 何をいいたいのかいまいち分からないのは、沼尾さんの読解力には関係なく、何をいいたいのかいまいち分からないまま書かれた文章だからです。読むのは疲れるかもしれませんね。 >「複眼で微分すると物語ではなく時間経過となる話」 ここは解釈の一例を示すことが可能です。つまり、物事を同時に多面的な方向から捉えることができる読み手にとっては、物語は脈絡のある事態の予測可能な進行ではなく、単に時間が経過しているとしかいえない。つまり統一を失ったバラバラの要素が、時間というフィールドにとりとめもなく散らかっている、というだけの単純な話になる、ということを書きたかったのです。 (人でないもの総てがつながる勢い)

2017-10-03

静かな視界さん、コメントありがとうございました。 脳内描写、というようなものではないのです。じゃぁ何かというと困ってしまうのですが、言葉から生まれた言葉の世界、というものかもしれません。 まりもさん、コメントありがとうございました。 同じ言葉を何回も繰り返すのは僕の書き癖です。一回だけ表れてさっと消えていくのでは、言葉が消費されているようで、どうも落ち着かないのです。何回も繰り返して読み手に刻み付けることで作品の中に定着させたい、という意図があります。 >多義的な空間は、複眼で捉えた空間に似ているのかもしれません。 この御指摘が僕の考えていることと同じでした。それが「正しい読み方」とは言えないと思いますが、同じように見て下さる方がいるというのは嬉しいですね。 具体性のまるでない描写で、よるべなく人の間をさまよう作品なのです。 (人でないもの総てがつながる勢い)

2017-10-03

夏生さん、こんにちは。 >会いたい人に/会えた/ほんの一瞬 から受けた心の動揺を描く詩なのでしょうか。それが景物、或いは景物を表す言葉に転写されていくところは、「とぼけた明るさ」でやって来る今日に見合うさわやかさを感じました。誰しもありふれたただの愚痴の聞き手にはなりたくないはずです。 >濁点を含んだ/音が/胸の奥で/あわ立った ここが一番好き。文字と音と映像が互いにふくらみを持って伝わってきました。 逆に「途方もないような顔」とか「とんでもない角度」という表現は、僕も使いたくなるのですが、ちょっと立ち止まって考えた方がいいと思います。よほど回りを固めないと、街頭インタビューで何を聞かれても「すごいと思います」と答える人と同じになってしまいませんか?ここでは論理的思考を奪うほどの衝撃と心の空白を表すために採用した言葉だとは思いますが、何も衝撃を受けなくても対象の中身を程度だけで表したがる人が多いので、僕はどうも素直に読めません。 (吸いこまれて)

2017-10-01

エイクピアさん、コメントありがとうございました。 俗には堕していますw俗そのもの。でも、好意的に御覧になって頂けて嬉しいですね。 昨日、それこそ勢いに任せて三十分で書き上げたので、いわゆる突っ込みどころ満載状態です。 おそらく着想だけ残してリライトすると思います。 普段気を遣っていることができていませんね。 「境目のないネットワーク」があるわけではなく、「ネットワークに境目がない」という認識があるだけなのだから、既に不正確。安易な連体修飾の文節の使用は詩を俗情に堕させる大きな要因になっていると思います。 (人でないもの総てがつながる勢い)

2017-10-01

エイクピアさん、こんにちは。 古き良きモダニズムの匂いがしますね。10行目からの意味の断裂が受け入れられるかどうか。ここが問題かな。「ひたいの光るもの」が「時計」という文脈は、割と容易に解釈を許すように思えるのですが、敢えて解釈しない、という道もありますね。 イタリアというのは割と南北で語られるので、東西というのはちょっと意表を突かれました。今、地図を見ましたが、北部は別として、南東部というのは、寡聞にしてイメージが湧かないのです。修行が足りないな。何の修行かわかりませんけど。 (工事中)

2017-10-01

白島真さん、こんにちは。 最終聯、最終行の >あやしくふるえて光るもの がいいですね。ここに詩情の核を感じました。体言で止めるというのは和歌、俳句の伝統的短詩のスタイルの多用する修辞ですが、この詩全体が実は短詩の情趣を持っているように思えます。 だとすると >村一番の美少女 など、過剰に散文的な説明は削れるように思うのですが……。 (「おくわ」伝説)

2017-10-01

田中修子さん、こんにちは。 これはとても良い詩ですね。久しぶりに読んでいてわくわくしました。「おくわ」の伝説がちっとも過去と結びつかず、ひたすら現代の現象であること、「私」と不即不離であることが楽しかった。 ただ着想に文章力が追いつかないでいるようにも思えます。 >友人が、たのしい地獄、と名付けた都会を歩いている。 って、いわゆる「出落ち」ではないのでしょうか。都会は天国でも地獄でもなく、ただの人口の、或いは人造物の密集地帯でしかありません。 だからこそ、この詩で書かれたように簡単に何か別の場所になることもできるような気がしています。 (「おくわ団子」)

2017-10-01

エイクピアさん、こんにちは。 犬はいいですね。生きている犬はもちろん、死骸になった犬もいいです。 おそらくこの詩の中心は実在と言語の間に成立した「犬」です。 惜しいことに犬に体臭がありません。アーヴィングの『ホテル・ニューハンプシャー』に登場する「ソロー(悲しみ)」という犬はいつもおならをしているという設定でした。 言語は言語から離れようとすればするほど意味と物語に捕らえられますが、逆に言語の持つとされる現実への対応性を形作る、そのルールに一層忠実であることで、その拘束から逃れ得るのだと思います。 (祈った)

2017-09-30

渚鳥 sさん、こんにちは。 お風呂に水を差していくところの描写がとても綺麗でした。それだけで満足できました。全体を括ってしまう題名も、最終連のよく出来た詩的飛躍も、或いは不要かもしれませんね。 (小さな実験)

2017-09-26

弓巠さん、こんにちは。 僕は数字は人に対しての悪ではないと思います。人間の主観がある型の中で成立していて、その型の本質が数字ではないかと思っているからです。どんなにあがいても、主観は数字という形で表されてしまう人間の枠組みからは逃れられない定めです。悲しいけれど主観の理不尽は通らない。大人はそれを数字を飲み込ませるという愛に溢れた暴力で子どもに教えていかなければならないのです。むしろ夢や愛という言葉をむやみに振り回して、人を絶望に追いやる連中が危険です。 飲んだ数字は飲んだ人よりも早く空っぽの浄土に帰っていく、無理筋かもしれませんが、僕はそう読んで「ココロ無き」数字を擁護したいのです。浄土には善もなければ悪もない、喜びもなければ悲しみもない。実質のない枠組みだけがあって、それが美しいのです。 (いいこ)

2017-09-26

YUU_PSYCHEDELICさん、こんにちは。 すさまじく甘い大量生産のお菓子のよう。でも、それを今本気で信じていられるのなら、その今を大切にするべきだと思います。誰にも否定はできません。 僕はこの三角形の丁寧な造形に本気、というか真摯な気持ちを感じたのですが、どうでしょうか? (一生愛したい)

2017-09-26

まりもさん、こんにちは。 非常に真っ当な詩論だと思います。 修行僧のように言葉と向かい合い、人生と向かい合う方がいる。 生活の中で自己を見つめ、社会を見つめ、思索の深淵を言葉で表現する詩が書かれている。 書かれるべき内容にふさわしい語があり、より高い表現効果を目指す修辞法が探求されている。 詩には歴史があり、学ぶべき先人の軌跡がある。 当たり前のことですよね。僕は一切の当たり前のことができないままきてしまった感じがします。 自己不信、他者不信、社会不信に取り憑かれているのです。僕は自分のことは書きたくないし、自分が考えていることも書きたくありません。此処のこと、此処にあるものに対する理解も書きたくないのです。 自分には絶対わからないこと、自分にはとてもたどり着けない場所について書いてみたいと思っています。だから僕の書くものは詩ではないと言われるのですね。 まりもさんのこの詩論を読んで、そこのところが再確認できたように思えます。 (I・・・に教わったこと あるいは批評について)

2017-09-03

りさん、仲程さん、コメントありがとうございました。 より良い読みはあっても正解と言えるような読みはないし、考える余地を残す読みはあっても、よくない読みはないと思います。読みの成否はただ自分についてだけ厳しく問われるものであって、作者の自解を含めて他人の読みはその参考に過ぎません。僕はそう信じています。 (スポンジでものを洗う)

2017-09-03

まりもさん、コメントありがとうございます。 本当にいつも丁寧なコメントを頂けて感謝しています。僕のに限らず、これだけきちんと読み込んで文章にするのは非常に力がいることですね。作中の一言一言に真摯に向き合って決してそこから文脈を外さない、というのはなかなかでくることではないと思います。題名の「体験」という語の読解の正確さには驚きました。主題と主観が追いかけ合いながら、逃げ水のように読み手の理解から遠ざかっていく構成を意識していました。 〈僕もまた不信という……〉の部分はちょっと安易でしたか?少年マンガの「戦いはこれからだエンド」みたいですねw。当然あるべき、因習の場から逃れるという選択肢を否定的に出してみたつもりでした。意識と無意識と、事実と虚構とから成り立つ自分というものからの旅立ちも、厳しく見れば予定調和的自我のありようの一局面に過ぎないのだと思います。これも有り体な物言いですが。 最後になりましたが、ご質問の回答です。打ち間違いでした!ご指摘通り「誰であってもよさそうな」が書きたかったものです。すみませんでした。 ( 夢の中で何度も繰り返しながらその都度忘れてしまう「僕」の体験)

2017-09-02

三浦果実さん、コメントありがとうございます。 この旧作を投稿したのは、これを書いた時が小説的な世界を最も意識していたからです。いかにもおどろおどろしくて、ちょっと横溝正史が入っているように思えませんか?そのつもりで書いたんですが……。 そういう方向でここまで作り込んだのは後にも先にもこれだけなので、皆さんの感想をうかがってみたかったのでした。 そうか、カタルシスがないですね!まりもさんの評にもそういうニュアンスがあるので気がつきました。僕自身も小説を読む時には歯切れのいいカタルシスを求めています。そこのところ、今度は考えてみますね。 ( 夢の中で何度も繰り返しながらその都度忘れてしまう「僕」の体験)

2017-09-02

りさん、コメントありがとうございます。 おっしゃる通り、「離人感」というのは僕の書くものの昔からのテーマです。僕自身は「離人症」になったことはありませんし、そういう症状に苦しんでいる方もいらっしゃるので、あくまでも文学上の想定にとどまっていると断らなければならないのですが。 「現実」や「自我」の圧迫からの逃避といえばそうですし、自分の亡き後の世界への冒険といえばそういうことになるかもしれません。 それから、自分ではわかりやすく「かっこいいもの」を書こうとしているのですが、そう感じてくれるかどうかは読み手の方次第ですね。文章技法的な癖というものは自覚しているので、その気になって書こうと思えばたいていの人に書ける程度の「うまさ」ではないでしょうか? (スポンジでものを洗う)

2017-09-02

中程さん、コメントありがとうございます。 自分としては、最後から二行目の「泡の球面の七色の……」の部分でスポンジに戻ったつもりでした!ちゃんとスポンジという語をを入れればよかったです。 (スポンジでものを洗う)

2017-09-02

ハァモニィベルさん、コメントありがとうございます。 率直な感想、大いに参考になりました。作品が読者に感興を催させる閾値の設定というものはどうしても自分が中心となってしまいます。僕には大きな物語を描けるだけの力がないのか、或いは「大きな物語」という小さくて凡庸な定型にはまることを過度に恐れているのか、その両方なのかはわかりませんが、どうでもいいことしか書けないのですね。自分は社会の本当に重要な部分からはオミットされている、と思っています。 そんな資格もないように思えるので、こういうものには他人の核に食い込むような鋭い主張は一切ありません。 僕は文を書くことで 、自分は本当に自分なのか、という問いかけそのものへの共感を求めているのだと思います。 (スポンジでものを洗う)

2017-09-02

シリューさん、コメントありがとうございます。 家族が憎くなったり、うんざりしたりすることはよくあって、機嫌の悪い時には怒鳴り散らしたりすることもありますが、ぶっ殺してみたくなったことはありませんね。 この作品でも「非在の妻」という架空の存在に深く取り込まれた状況を書きたかったような気がします。なるほど確かに主人公がそういう怒りを持っているという読み方もできます。殺すという言葉は、僕の勝手な想定以上に強いのですね。 (スポンジでものを洗う)

2017-09-02

葛西さん、こんにちは。 君の弟が私なら、幼い頃の私は君=お姉さんに護られていて、そのお姉さんが今、大人としての苦難に晒されている。それは大人になった僕も同じで、今はお姉さんには連帯感を持っているのでしょうか? 僕の読み方では、これは姉への思慕を詠った詩ですね。 (ある雨の日、君の弟は。)

2017-08-27

四年前、文学極道に投稿したものです。 ( 夢の中で何度も繰り返しながらその都度忘れてしまう「僕」の体験)

2017-08-27

僕はこの詩が好きです。言葉を選ぶセンスと、その選んだ言葉を動かす運動神経が圧倒的にいいのですね。だから主題を批評しようとは思えません。なんて例えようかな、不愉快にさせたら申し訳ないのですが、アイドルのグラビア写真をみているような感じ。微笑んでみたり、ちょっと拗ねてみたり、こちらを睨んでみたり、小犬を抱きかかえてみたり。ひたすらキュートなところがいいのであって、ポーズの意味を考察することに意味はないような気がします。作者が若い女性であることを知っているのでセクハラめいたバイアスがかかった解釈だと取られると困るのですが……。自分としてはそれはないと思います。 ただひょっとしたらこういう女性的な、優れた言語感覚というものだと、この時だけの花として突如消えてしまうのではないか、という不安は感じます。男女問わず、アイドルの魅力が永遠ではないように。その何処か頼りない不安定さも魅力のうちですね。 >蒸し暑いほどの夏の蜜のなかで彼女は今も誰かに瓶詰めされているのでしょうか こういう耽美的な表現、いいですね。ひたすら甘くて既視感もあるけれど、それでも読ませてしまうところが才能ですね。この部分の全体の中での配置の具合もいいと思います。 (小夜瑠璃物語)

2017-08-22

hyakkinnさん、いつも丁寧なコメントをありがとうございます。 長い輪廻の中では人間を構成している物質が元は何か別のものだったということ、今後別のものになるということは自明の現実ですが、それを現在の自分が感知するには幻想による他はありません。実を認識する手段が虚しか無い時、「非在の妻」という明らかな幻想が現実と同じ重さで存在してしまいます。その幻想に「殺す」というアクションを仕掛ける主体も幻想の一部となっていきます。 ところが現実世界では、幻想はたちまち蜘蛛という実在に転移して、八本の脚という具体性を持たされてしまうわけです。幻想は現実によって呪われた存在なのですね。幻想のなかに参入した「俺」という主体も同じ。「皿を洗う男」という現実の肉体、正当な文脈に取り込まれ「直立する」という具体性によって拘束されます。 その突き放された無機的な映像として叙述されている肉体が、幻想となることで「永遠」を感知してしまった精神を、意識の世界から疎外するのです。主題はその疎外の悲しみと苦しみということになります……。 こんな解釈はどうでしょうかね?一つの楽しみ方の提案として。 (スポンジでものを洗う)

2017-08-21

青春の気分が伝わってきました。好きな詩です。自分とは何か、を真剣に考える作中女性の姿勢が魅力的に浮かんできます。 推敲が足りない、という花緒さんのご意見はその通りだと思います。誤字脱字が数カ所あることと、第一聯がその後の展開の中で完全にズレてしまっているところが気になりました。それから、作中女性の視点が少女時代にあるのか、成人後にあるのか、が不明確です。意識的に不明確にしているのかもしれませんが、そうするという意図もはっきり伝わらないのです。これは文の書き方ひとつでどうにでもなるところではないでしょうか。 (世界)

2017-08-21

こんにちは。 すごく端折った言い方をすると、kaz.さんはあと10年20年書き続けたらとてもいい詩人になられる方だと思います。 よく学び、また表現に苦闘なさっているのがわかります。御自身の方法を貫いて下さい! (門)

2017-08-15

みいかとろさん、こんにちは。 カメラの中では、被写体を材料として、被写体ではないものが、まるでフランケンシュタインのように再創造されるのですね。 生身の「私」がカカトで脛を掻く動作が可愛らしい。 夕立ちがやむのは、人のではなく神の仕種なのだ、と思いました。 (被写体)

2017-08-15

水星さん、コメントありがとうございました。 仰って下さるほどにうまく書けているかどうかはわかりませんが、生きものとそうでないものとを取り巻く変成の歴史を可視化するという意図はありました。 現在の自分のありようを越えた何かを夢想すると、気味の悪さや怖さが湧いてくるのは当然だと思います。 (スポンジでものを洗う)

2017-08-15

まりもさん、返信ありがとうございます。 僕は読みやすいものを書いているつもりだったのに 、どうも読みにくくなってしまうようですね。比喩だとか、難解な論理は実はありません。砂の造形の材料がただの砂しかないというのと同じでしょうか。 ここでもよくやる失敗をしています。「ダンクレオステウス」の化石は国立科学博物館にあって(模造品のようですが)、何回か見てさわっている僕にとっては非常に身近な実在だったのですが、知らない人にとっては思わせぶりな詩語でしかないことに気がつきませんでした。この程度の描写では読者とイメージの共有ができるはずもないですね。 よろしかったらネットの画像検索をかけて見てください。 (スポンジでものを洗う)

2017-08-13

kazさん、ありがとうございます。 返詩 文末の鰭が動き、詩は断末魔の苦痛のうちにある 自立語と付属語の連なるその脊髄を 裁断する刃がある。木の柄を握る手がある (スポンジでものを洗う)

2017-08-13

まりもさん、コメントありがとうございます。 フィクションを訓み解く方法は様々あります。僕自身が気がつかなかったことを教えて頂けて嬉しかったです。 ただ、「理屈」の形をとっているんですが、言っていることは全く論理的ではないと思います。議論をしていてもこういう「論法」で人を煙に巻く人もよくいますw。 作者と作中人物と、作品と読者と、それぞれの関係にある「詩情」の断絶を楽しむというやり方もあるのではないでしょうか? あまりうまく言えませんが。 (スポンジでものを洗う)

2017-08-10

こんにちは。 カート・ヴォネガットをご存知でしょうか?彼はドイツ軍の捕虜としてドレスデンに抑留中、連合軍の無差別爆撃を受けています。その体験から『スローターハウス5』という小説を書いています。その小説に描かれている、混沌とした、しかし比類のない美しさを思い出しました。街の美しさ以上に、破壊し尽くされてなお失われない、人の生きる営みの核のような部分が切なく迫ってきました。 この作品の作者も恐らくタグマさんを通してそれを感じたんだと思いました。 (ダグマ Ⅲ)

2017-08-01

こんにちは。 作品の輪郭がきちんと定まり、事の顛末がわかりやすく叙述されているところにシンパシーを感じて読みました。作品に描かれた場面が二人の関係の過去と未来にどう関わり合いを持つのか、は読み手に委ねられています。これが言葉の外の世界を保証し、僕のように自我表出を表現とすることについてアレルギーを持つ読者にもやや安心感を与えてくれるようです。 ただ、登場人物としての「俺」と語り手との距離の取り方が曖昧で、行為の前後の「君」の捉え方が単純に図式化され、より生々しく複雑な読み方への障害となってしまっていることが残念でした。 (氷の女王)

2017-08-01

ごめんなさい。勘違いしていたようです。大変失礼しました。 (飛込み)

2017-07-01

まりもさん、こんにちは。 僕には『銀河鉄道の夜』のジョバンニのモノローグを聞いているように思えました。物語の少年が躍動しています。 どんなに日常的な描写があっても、いい意味で地に足がついていない。地面からの浮遊に成功していると思います。 80年代の良質な少女漫画の幻想のようでした。 (グラスハープ)

2017-06-30

村田麻衣子さん、コメントありがとうございました。 本当に楽しんで頂けていたならこんな嬉しいことはないんですが。何だかガールズバーのお姉さんのちょっと甘い褒め言葉ににやにやしてしまっているおじさんみたいですね。ガールズバー、行ったことはないんですけど、たぶん。 こういうものを書くのって、真剣に詩を書く人を傷つけていたりするのかな、と思うことがあります。なんかいやな傲慢さが見え隠れしたら最悪ですよね。僕には人を傷つけて自己確認をするような変な趣味はありません、いや、ないつもりですけど。 「精巧なエレクトロ」という言葉を頂いて、ちらっとそんなことも考えました。「エレクトロ」ってテクノ音楽の前身のことらしいけど、語感としては固くて尖ったカドがたくさんありそうですよね。 (み・か・ん・賣・り・の・言)

2017-06-29

hyakkinnさん、コメントありがとうございました。 この作品のために、とても真摯に苦労してくれて感謝しています。 >その方法自体に内容が宿るというよりは方法によって内容が拡張する ここまで言って貰えたなら本望です。どうやらこの作品も成仏できそうです! 一気呵成に転がす、ということをしたかったのですが、ただ転がすだけでは面白くないと思って仕掛けすぎましたね。読めないじゃん……。 さすがに、ツイキャスのなかたつさんも引っかかってましたね!そりゃそうだ。やってみたけど、作者も全然ダメでした。 読みにくいとおっしゃっていたところ、「部品部品」ではなく「部品部分品」です。わざとやってます。「まれながら」は「まれる→まる=万葉語の排泄する」ではなくて、「稀ながら」のつもりでした。「我ながら」を滑らせ、変形させたとしてはどうでしょうか?でも「まる」も、この後「万葉集」「古事記」へ飛んでいるので、面白い解釈ですね。そちらの方がいいのかも。 枕詞のいくつかは意味不明のようですが、もとは古代朝鮮語からきていたりするようですね。僕も詳しくはありませんが。呪禁なのかな? 実はこれ、笑いながら書いたんですが、声に出してみたらもう一度笑えました。誰も笑えないものを一緒に笑って貰えてうれしかったです。 言葉のゴーカートが暴走している感じがわかって貰えたらいいですね。 」 (み・か・ん・賣・り・の・言)

2017-06-29

村田麻衣子さん、こんにちは。 冒頭の抽象的な言葉遊びのような書き出しが、すぐに「アパートの生活感」に繋がるとは思いませんでした。 >    わたしには >  肉体だけがありませんでした。 と書きながら、徹頭徹尾肉体の詩なんですね。言葉が衛星のように詩中の肉体を回っているように思うのです。 ブレスレットで傷つけたことを詫びたくてロボットになってやって来ても、ブリキの肉体はタンパク質の複合体よりも、もっと突出して「体」です。 どこまでも「おてんば」な振る舞いをして、「体」とその付属物としての「心」の駆動範囲を確認しているように思えるのです。 この詩はそのレポートとして存在しているのかな?そんなふうに思います。 素直に読めば「あなた」の喪失の詩なのですが、「あなた」の存在は希薄で、「わたし」の肉体だけが一方的に輝きを放っているのです。 僕はいつの女性の詩のほうに、男性のそれにはない魅力を感じるのですが、それには詩における肉体の存在感が関係しているのかもしれませんね。 何か、とても甘い詩でした。 (砂糖菓子とブレスレット)

2017-06-29

口三 さん、こんにちは。 良い詩ですね。  >とてもとても/ 大切な、/ 血をこぼさないことだけが大切な/ 夜たちが/ 大切にしていること。 ここ。生活するということは、肉体に満々とたたえられた血を零さないように明日へと運んでいくことのように、僕も痛切に思っています。 僕の中でしっくりこないのは「夜たち」という表現。語り手がいくつも過ごしてきた夜のことなのか、それとも同一の夜に生きている人々の「夜の意識」が複数形で表されているのか。 僕は前者でとっているのですが、いかがでしょうか?  >ただ/ それだけに気をつけて/ いってらっしゃい。 というところを読むと、語り手がこの世の人々すべてに言っているような気もしますね。 「足」は官能的です。どろんとした官能の喜びが、人のいる夜という時間を誘っているようにも読めます。人は官能に飼い慣らされて夜を生きる存在なのかもしれません。 (足)

2017-06-25

まりもさん、コメントありがとうございました。 読解、非常に緻密で正確ですね。分析するとその通りなのですが、僕は作品を隠喩として仕上げているつもりはないのです。 俳句が最後に体言止めで終り、そこに対象としてのモノが置かれるように、抗し得ないかたちで先行して存在する「場所」や「状況」へと詩情が収束されていったらいいな、と思いながら書いています。このストーリーはフィクションですが、書いてある風景は実際のもので、そこから逆に展開させた情感を文字にしようと試みていたのでした。  これ、別名義で「日本現代詩人会」に投稿したけれど、落選でした。もっと直接的な主題への言及がないとダメみたいですね。あるいは散文の範疇に捉えられて撥ねられたか。 その前に僕の作品で入選したものはみな行分したものでした。まあ、別に落選してもいいんだけど。 (故郷の河・東京・兄の内妻)

2017-06-25

花緒さん、コメントありがとうございました。 そんなに難解ではないと思います。言葉が多少こんがらがっているだけです。「笑う人」は、兄の愛人を指しているつもりでしたが、勿論語り手の自己言及と捉えて下さっても結構です。 世界の実在と自己との関係、その確かさと不確かさ、「あわい」という語り手の立ち位置。丁寧な読解をして頂きました。 養老孟司さんの『「自分」の壁』という本の冒頭に、脳障害を起こした医者の自己観察が紹介されていましたが、自分と世界の区切り目が曖昧になって、倒れたときの浴室の壁が自分の肉体の延長のように認識された、とありました。変性意識状態で花緒さんが体験されたものも、そういう生物的なシステムとしての意識の枠組みの緩みかもしれませんね。 世界は実在しているけれど、我々が認知しているのは世界そのものではなく、それに対応した意識の枠組み、システムでしかないと思います。その先は信仰とか、詩情で語るしかない、「予覚」の世界だと思っています。 (故郷の河・東京・兄の内妻)

2017-06-25

湯煙さん、こんにちは。 あるとき感じた風景の美しさ、というものは、本当に考えれば考えるほどに、そのとき限りの特殊な状況で、ピュアに言葉にすることは難しいですね。 どうしても、何らかの形で一般化してしまうことになります。そこをどう特殊なままに、どうしようもなく私的な感性のままに、他人に開いていくか。例えば俳句なんかの永遠の課題だろうと思うのです。  >風を巻き込む、無限の白い帆、  >蝶たちが縫っていく、 ここは、既成の詩語とぎりぎりのところで渡り合って、なんとか気持ちよさがダイレクトに伝わってくるところですね。僕の一番好きな部分です。  >けして触れえない、 古い人間だからでしょうか(健さんみたいにカッコよくはないですが)、「けっして」にしてもらいたいです。  >鮮やかな緑と艶やかさ、  >好きな植物のひとつ、 ここも、もう一工夫ないと僕には不安です。そのままではあまりにも芸がないというか、厚みに欠けるように思えてしまうのですね。  >ぼくにはわからない、  >詩や幸せについて  >答えることができない。 共感しますね。僕はいつもこのことがいいたくて詩のようなものを書いています。結論はここ。ここに持って行くための物語を、無への過程として、どうやって構成しようか、いつも考えているような気がします。 (ある詩)

2017-06-18

5or6さん、コメントありがとうございます。 長すぎますよね、やっぱり。僕が読み手に回ったらとても読み通せないと思います。ただ、今回はたまたま書き手の立場にいるんですよね。 (み・か・ん・賣・り・の・言)

2017-06-05

祝儀敷さん、コメントありがとうございます。ちょっと言い訳すると、意味は無いけれど中身はあります。これはこういうもんだ、と片付けられても仕方ありません。細部を読んで貰いたいというのはやはり贅沢な望みなんだと納得しています。 (み・か・ん・賣・り・の・言)

2017-06-05

頭が取れたアシナガバチ 蜘蛛の糸くらいの細い線だけが胴体とくっついていた状態で ここまではとてもよかったのに。こういうものには感想も解釈もいらないんじゃないかな。 言葉によらず直接に自分を成り立たせている情報、というものはあると思います。 そこに言葉で触れるのは並大抵のことではありませんね。 (なきむし)

2017-06-03

ある種の若い女性には、僕にも表層的にしか捉えられないけれど、ざらっとした感触の壁を撫でているような感じを受けますね。子どもっぽい自己中心的な自我がそのまま身の回りの常識と混じり合ったまま固着して大人の自我を形成してしまった感じ。それがある層で共有されているから始末が悪いように思えます。それはそれで別にいいけれど、僕はあまり関わりたくありません。 (把握していない真相な新装の深層である心理)

2017-06-03

こころんさん、こんにちは。 僕は靖国神社の桜を思い出しました。今年も見に行ったんですが、かつてはここで会おうなどと言い交わし、遠い異国で死んで行った兵士たちが大勢いたんですね。 御国のためと言い聞かされて行ったんだろうけど、彼らの本当の価値はただ生きて特定の誰かの身体の中に存在の痕跡を残し続けることにあったのだと思います。 人は決して大義のためなどで命を落としてはならないのだ、ということをこの詩を読んで改めて思いました。 (death)

2017-05-17

5or6さん、こんにちは。 これはリボンというよりもチョーカーが合うように思いますが、いかがでしょうか? どことなく登場人物はバルテュスの少女を思わせますね。正しく背徳的です。 捏ね上げる両手?ってなんだろう (リボン)

2017-05-17

朝顔さん、コメントありがとうございます。 真実の愛は色々あってバタバタとお忙しなんですね。スナックで食べたおつまみのさきイカの一片が奥歯に挟まっていて、キスの前に何とか取り除こうと洗面所で必死に爪楊枝を使ったりもしてたんだろうな。白いスリッパにポツンとついた黄色いシミも気になるのだろうし。ご苦労なことです。 ちんすこうりなさん、一度読んでみたいです。しかし買いにくい書名だなあ。 (さざんくろす)

2017-05-17

花緒さん、コメントありがとうございます。 まだまだ、お前らには負けんぞ、ゴラ! って映画だと、この後グキッとか腰をやられて、「オヤジさん、あんまり無理するんじゃねぇよ」とか若い人から労られるパターンですね。 どうせなら若い女の人から優しく労られたいです、反エロティシズムだけど。 文学的なコメントじゃなくてすみません‼️ (さざんくろす)

2017-05-16

三浦さん、コメントありがとうございます。 エロティックが僕の本質なんでしょうかね?残念ながらストイックな生活を送ることを余儀なくされていますw 一回でいいから「愛欲に爛れた生活」っていうのを送ってみたいのですが。 よく読むとこれは「反エロティシズム」の旗を高々と掲げた新時代の理性主義文学、とならないでしょうか?ならないですよね。 (さざんくろす)

2017-05-16

塚本さん、こんにちは。 皆さんと違うけれど、僕は第一連がとても好きで、ここでこの詩は終わっていると思うのです。意味も物語もないところに、その核だけがころんと転がる景色というものを、誰もが見ているはずです。ここにはその景色があって、それをとてもきれいだと僕は感じています。 (外灯)

2017-05-15

hyakkinnさん、コメントありがとうございました。 惚れ惚れしてくれて有り難うございます。何かを誰かに届けることが出来たら、書かれたものにとって本望だと思います。 作者は作者。最も作品を分かっていない人の一人という立場で十分です。 ひいらぎさん、コメントありがとうございました。 オヌシ、もしや”ふ”の者であるかw やべぇっす。 ちょっと適当すぎる出来ですけど、三浦さんの作品に”ふ”の返詩をつけましたのでよろしかったらご覧下さい。 いや、まさか自分がそんなものを書くとは思わなかったんですが、ノリで……。 想定されていない読まれ方、とても嬉しいです。 (橋の春)

2017-05-05

BL返詩を書きました。三浦様、ご賞味下さい。    心理構造ツァー 是非ご検討下さい 密林の寺院で、いじましい見習い僧を石壁に追い詰め そこに両手を突いて逃げ場を奪いながら 愛とはなんぞや と問い詰めることができます ぐっと顔を近づければ、怯えて涙ぐんだ少年の瞳の中に お客様のサディステックな笑顔を映すこともできます 上空を旋回するヘリコプターが午後の傾いた陽光にキラキラ光り ローターの音が響いてお二人から軽佻な言葉を奪うでしょう さあ、お客様 言葉のない唇を奪うのは容易いことです 椰子の葉の影のように、ざわつく胸の予感の中から 潜水士が今命をかけて探しているものの 同じ光りを拾い上げて下さい 旅に迷いはつきもの 12万トンの客船の航跡も 青い波の上にゆったりと大きく謎の弧を描いております お客様、愛とは何でございますか 宗教に破戒はつきもの お二人でお迷い下さい 是非 果肉は腐りかけが一番おいしゅうございます はい 本当のことであります (世界構造プール)

2017-05-05

まりもさん、コメントありがとうございます。 作者も惚れ惚れとするコメントでしたw 何度も読み返して、もちろん指で隠すのもやって見ました。なるほど。 最後の行の1行空けにしないところ、当然そうすべきなのですが、「整いすぎ」からくる胡散臭さを誤魔化すためにわざとそうしませんでした。 そう、この作品には強いパッションが ないので、終始胡散臭さがつきまとうんです。それから「君」の存在が希薄すぎるんで、多少バランスが悪いんですよね。その「君」を「詩」に読み替えてくれるなんて、素敵です。本当にありがとう。 (橋の春)

2017-04-17

もとこさん、こんにちは。 とても良い詩ですね。世界と社会と私たちと私、それぞれの次元での境界線が、詩の中で重層的に語られ、お互いに融合していくようです。これも眩惑のうちでしょうか。 アナタの肩を求めて アタシは永遠に傾き続ける それは天国なのか あるいは地獄なのか 今のアタシには 分からないけれど このあたりの流れが官能的で僕の好みです。 肩のあたりから、暖かくて良い匂いがしました。 (Lean On)

2017-04-17

霜田さん、コメントありがとうございます。 そこの部分は計算したわけではないのですが、普通の流れとして書きました。1行あけたのは、逆に「切れ」を作りたかったからかも知れません。いいと言っていただけて嬉しく思います。 (橋の春)

2017-04-15

もとこさん、コメントありがとうございます。 「上手すぎる」と言われるのは嬉しい反面、手馴れたやり方で済ませてしまっていないか、という反省にもつながりますね。自戒しますね。晩年のピカソじゃないけれど、即興で書いた子どものような言葉がそのまま詩になるように書くのが理想でしょうか? 「側溝の橋の上」としたのは石造りの立派な橋や、情緒溢れる木橋では困るからです。コンクリートで作られた、文化や叙情というものへの憎悪が剥き出しになったような、醜い小橋がいいですね。 (橋の春)

2017-04-15

祝儀敷さん、コメントありがとうございます。 一連、どうですか?自分でもちょっと気に入っています。 「レスをするかもしれないが」なんていけず言わないで、お願いしますw BLか〜!三浦さん、コメントありがとうございます。 そうか、そう読めないこともないですね!敬服しました。僕はそうじゃないけど、この部分だけ取るとピッタリですね。驚きです。一番センチメンタルな部分ですが、確かにここに思い入れはあります。ホンモノの人類は1999年8月にとうに滅んでいるんですよね、きっと。影に過ぎない僕ら。パタンと軽く倒れて何も残さないのも当たり前です。 (橋の春)

2017-04-13

三浦さん、一気に借金を返します。古いものを上げてごめんなさい。 渋谷だけでなくて、土地というものは何処も実は魔界特性を持っていますよね。人も含めて、生命が生まれ、死んでゆく場ですから。つまらないベッドタウンに家を建てるときだって、地鎮祭は必らずやらなきゃ。それぞれの土地がそれぞれ特異という意味で、やっぱり渋谷は特異です。だから、そこで八重たんの、じゃなかった八重ちゃんの魂は国産みをする神となり、トカゲという地霊となり、再び人に戻るという冒険をするのです。ラノベ的に読めば、そういう女子高生のセカイ系冒険譚ですし、もう少し穿った見方をすれば、自意識からの解放と回帰ということになるのでしょうか?専門に勉強された澤さんに見られるかも知れないのにわかったふりをしてそんなことを言うのは汗顔の至りってやつですが。ただ三浦さんが看破しているように、この物語を書いた作者自身も登場人物の一人として関係に組み込まれています。作者は八重ちゃんの主観から世界を記述していますもんね。でも作者であって決して八重ちゃん自身ではではないから、そこに分裂した人格があるわけです。自意識を抜けた人格の統合としての物語が、分裂の現実から成立している、という面白おかしい事実に目を向けると、この面白くもない作品も面白おかしく読めるかも知れません。いや、そうあって欲しいなあ。ないのが当然だとは知りつつ、ですね。 (私はトカゲ)

2017-04-11

hyakkinnさん、返信めちゃくちゃ遅れてごめんなさい。 色々考えているうちにちょっと返事を書けなくなってなっていました。 簡単にいかせてください。 脳の機能の一部が壊れると、自他の区別をつけることができなくなって、自分というものがどこまでも広がっていく、例えば床や壁が自分の一部のように 思えてしまうのだ、と養老孟司が書いていました。それ、どんなものかな と思ったことがあります。死の直前の世界ってそうかな、と。八重ちゃんはそこから戻ってきたんですね、きっと。 山崎さん、八重ちゃんという 名前、古めかしくって何処か土俗的でしょ?キラキラネームのアスファルトを剥がすと、渋谷の古い地層としての人間が見えてくるのです。ブラタモリか、とノリ突っ込みしつつもそういうことなんです。二人は少女だけど、平成の人間ではないかも知れません。 (私はトカゲ)

2017-04-11

ええと、誤解されないように言いますと貶しているのではなく、次があると言いたいのです。詩以前というのは霜田さん自身の認識でもあります。これは詩ですが、作者が詩以前としている時点で、ここに留まるか否かという問題を自分に突きつけることになっているのですね。高いところから見下ろすような言い方になったことに気がついて恥ずかしいのですが、僕自身にも切実にある問題です。これは詩ではない、と何度も指摘されて、ならそれでいいや、と思う反面、詩を書くにはどうしたらいいんだろう、と考えさせられたりもしています。「いました」、じゃなくて! (詩以前)

2017-04-11

霜田さんこんにちは。 もう許されていることに気付くべきです。決して許されないことにも気付くべきです。 目の前にある物を何でもいいから見て、言葉にしてみることをお勧めします。 そうすれば詩以前に留まってはいられないはずです。 (詩以前)

2017-04-11

葛西さん、こんにちは。 古文の和文脈と口語文の融合は、とても面白い試みで、冒頭の部分の完成度は特に高いと思います。ただ全体的には詰めきれていない部分があるように思いました。一例を挙げると「それは酷な世界であった」は口語としてこなれていないし、「思い出とは反比例して」という表現は意味がとれません。詩の構成としては、少女と私との生々しい会話語のやり取りは(作者としては狙ったものかもしれませんが)全体の調子にそぐわないと思います。葛西さんとの感覚の違いもあるのでしょうが、こういうものはとにかく時間をかけて推敲し磨き上げてようやくそれらしい形になるもののように思います。語句の問題とは別に、感傷に走りすぎて均整を欠いた部分もありませんか?まだ荒削りな印象が拭えません。 失礼なものいいになってしまったかもしれませんが、着想も好きですし、ぴたっと決まっている部分は、僕の目で見ても非常に美しいのです。一連と二連の繋がりにはぞくっとさせられました。それだけにまだ見ぬ完成形を求めてしまうのです。10年かかっても美しく仕上げてもらいたいですね。工芸品のような詩、好きです。 (あさぼらけ)

2017-04-11

なかたつさん、こんにちは。 最初の部分を読むと、ともに生きてきた父からの独立と死別を書いたものかな、と思いました。不味い食べ残しを父に上げ、父はそれを受け入れる、というエピソードが厳しい父権が老いによって崩れ、逆に父が子からの理不尽な振る舞いを甘んじて受ける側に回ったことを表すのだ、と。子がそれに後ろめたさと、一抹の寂しさを感じているうちに父は亡くなり、今歩く道には、父の灰色の骨粉が混じって、自分の未来を暗く予感させる。田舎の何気ない景色にも父の生涯は投影されるし、その支配の範囲で「ぼく」の人生は迷走し、そこからはみ出せることはない、恋愛感情すらも。「ぼく」は新たな父となり、祖先や血縁が見守る中で、血脈は受け継がれるのだ、と解釈してみました。最後の「きみ」は「ぼく」の伴侶であるが、性的プライバシーでもあって、それが血脈に連なるものから露わにされようとしているわけです。「きみ」の裸を見るのが父母でなく唐突に登場した祖父母というのも、血の因縁の時間的な奥行きを示すものだと思って読みました。 図式的過ぎる読みかもしれませんね。 「きみ」の唐突な登場のみならず、前半と後半で詩句のリズムというか呼吸が違ってしまっているような違和感はありますが、自分の亡父のことなどをしみじみ思い出しながら読みました。 (道なり)

2017-04-10

葛西佑也さん、コメントありがとうございました。 以前から読んで頂いていると言うだけでうれしいですね。 「図形」ですか……、 http://bungoku.jp/ebbs/pastlog/457.html#20160111_152_8559p ですね。 オダさんからコメント頂いているのに返事も書いていません!そのうちに、と思っているうちに忘れたのでしょうか?ありゃ~。あまり評判もよくなかったようです。 「鳩が咥えてきた指」 http://bungoku.jp/ebbs/pastlog/404.html#20140731_427_7575p の発展形のつもりだったけど、十分伝わらなかったのか、主題が陳腐と判断されたのか……。 余計なことですが、「戦争」や「若者の在り方」という社会性を抜いて考えると、「 LED(或いは「雪の砂漠」 http://bungoku.jp/ebbs/pastlog/357.html#20130211_485_6689p の方ができがよいと思います。お読みでなかったらご一読下さい。 (私はトカゲ)

2017-03-25

みいとかろさん、こんにちは。 おひさまが『よつばと』のよつばみたいでした。最後に木靴をとんとんする部分ではあづまきよひこの絵が浮かんできました。愛らしいですね。内容は理科の本に載っていた、命の循環を表す図、というより挿絵のようなものに似ています。死と再生の寓話として読みました。壮大な寓話が日常生活の中にちゃっかり可愛く居ついているのがこの詩の魅力でしょうか? 冷蔵庫やクジラの登場への違和感が消えなかったのですが、みいかとろさんのコメントを拝見して納得できました。僕だったら歯を剥いて死んでいる猫の死骸にしてしまうと思います。死骸が好きということは決してないのですが、九相観図を知ってから子どもの頃空き家の裏庭で見てしまった猫の死骸のトラウマが表に現れてくるのですね。クジラの解体写真も、僕が小学生の頃には学校の掲示板に貼られた写真ニュースの捕鯨船紹介の記事などで良く見ました。 (雨ということで)

2017-03-25

kaz.さん、こんにちは。 中身よりも【1】から【4】までの副題が主張であり、要旨なんですね。そしてそれは並んだ言葉に対する装飾でしかないのです。たとえばから【1】では「無垢の果実」という主題があってはじめてたどたどしく綴られた言葉の連なりの中から「水子」とか「お腹」という受胎を表す言葉が浮かんでくるのだけど、それも実は他の語を意味的連なりというロープによって意識の表面に引き上げる役割を担っているに過ぎないと思わされる。恋、性交、妊娠、堕胎、痴話喧嘩。喜び、怒り、優しさ、思いやり、嫌悪。そういったコトや感情が明滅してきます。きっとそれは無垢の胎児が感じ取った親たちの生きる世界の知覚に近いものなのでしょう。 以上が最初の部分の読みなのですが、ここが一番好きでした。(誤読にしても、ですw)【2】【3】はわかりやすいぶん感傷的に過ぎます。それがねらいなのでしょうが、 >人の目を追い抜く鳥たちよ この映像的なテイストが並べば僕にはもっとよかった。 【4】では例の「北条」なのですが、誤変換をそのまま活かして、表現を作者の手から離す 、という試みは面白いですね。意図と意図の外とが組紐のように縒り合わされる上に、意図の外の部分はAIのロジックが紡ぎ出した集団的無意識が反映されているのですから。ただ、「文体の悪魔の怜悧なるさま」という大仰な物言いはそういう興奮に水を差しますね。悪魔なんて (声のみの声――起草)

2017-03-19

澤さん、コメントありがとうございます。 本当に期待していた以上の評でした。 わくわくしました。 花緒さん、コメントありがとうございました。 楽しく読んで頂けたようで嬉しいです。 臨死体験というのは結構な多幸感があるようですね。 (私はトカゲ)

2017-03-17

まりもさん、こんにちは。 前半、もたついていますね。繰り返し同じ言葉を使っています。 これ、リズムが欲しかったのと、世界にそれなりの密度を与えたかったからです。「散文」ではなく、 どうしても「詩」にしたかったんでしょう。 もちろんどなたからどんな読解を受けても良いし、意外な解釈も面白いのですが、まりもさんの読解については我が意を得たかのように思われます。「薬剤=言葉」と考えてもらえたら読みやすいと思います。僕自身、薬物なんか使ったことないですし、そうしたいとも思わないので。「詩を生み出していく過程」という解釈、明確にそう考えていたわけでもないのですが、まさにそれだよな、と首肯しました。 今更この古いのを出したのは、新作を書く参考にと、ちょっと文学極道で自分の書いたものを読み直していて、これ面白いかも、と思ったからです、書いたことも忘れていたので。 M学園とは関係ないつもりです。しかし太くて長いシッポですね、あれも。 (私はトカゲ)

2017-03-13

からむくろまさん、こんにちは。 これは間違いのない傑作ですね。といっても、僕にはっきりわかるのはそこまで。非常に綺麗な文法でクリアに描かれているにも関わらず、きちんとした受容ができないのは僕の未熟でしょう。 その未熟な読解では、これは言葉と世界、あるいは実体との関係を示したもの、その解説書のように読めましたが、いかがでしょうか。 一見ばらばらな三つの部分と、[(ref)line]と題された(「refrain」と「line」の複合された造語?)第一連と関連する最終連の記述から成っていますが、どれもイメージが言葉と実体との間を往き来しているように思うのです。そのフォームが既に美しいのですが、単純な言語的陶酔に留まらず、言葉が実体との関係に持つ明確な虚偽と幻想性にもきちんと目を配っているように思えます。 雨乞いのスタイルは色々あるのでしょうが、女性(巫女)の肉体を通過した呪言によることが多いというイメージがあります。当たり前のことですけれど、雨乞いは単なる科学的誤りではありません。合理性の枠外で、社会的仕組みとして機能し続けてきました。言葉が現実の降雨とシンクロすることもあれば、降雨の幻想を呼んで人々の脳裏に雨を降らせることもあるはずです。幽霊との会話の体験や写真の中での狩猟と同じですね。作者はこれを詩として作品の中に蘇らせ、追体験させようとしているのではないかと思いました。 最終連は、ちょっと前に呼んだ吉増剛造の初期の詩篇(題名を忘れたのが残念ですが)を思い起こさせました。自然現象と人の生理が分かちがたく結びついた詩でした。 見当外れだったらごめんなさい。また語句に十分即した上での全部分の読解もできませんでした。でも、面白かった。他の方の読解を待ちたいものです。 (phosphorescence)

2017-03-12

すみません。旧作です。ひょっとしたら覚えてる方もあるかもしれません。 (私はトカゲ)

2017-03-12

まりもさん、コメントありがとうございます。 返信遅くなり申し訳ありません。 宇宙、ここでないところ。感知不可能だけれども実在するところ。考えているのとは全く別の何かで、考えたら考えるそばからことごとく否定されなければならない。そういう何処かについて考えることは愚かなことです。その愚かさを、愛しさと読み換えるための手段として辛うじて言語は有効かな、と思っています。 知性と技術から入って単純無知無能な凄みに抜けられたらいいな、と思ってやっています。 (未来の私)

2017-03-11

kolyaさん、こんにちは。 この詩、良いですね。寂しくて明るくて静かで、柔らかくて口溶けがよく、何も残らないし残させない。神様のことを言っているようでもあるし、水商売の女性のことを言っているようでもあるし。 僕の理解ではこれは眠りの呪文です。呪者が「安心しておやすみなさい。あなたがぐっすり眠っている間に世界は滅び、あなたの死骸は崩れて海に流れます。何も恐れることはありません。」と言ったあと、数十万人の群衆の口から徐ろに唱和されるのです。 呪文というにはちょっとそのまま言い過ぎている部分もあるようですが、分かち書きがうまく作用して全体を適度に霞ませています。 (呪文)

2017-03-10

YUU_PSYCHEDELICさん、こんにちは。 青くて深い海に向かって思いっきり石を放るような詩ですね。投げるフォームが美しいと思います。 純色の群青と 生クリームのような白の コントラスト ここ、転ですよね?残念ながらちょっと弱いかな、と感じます。今までの流れが一挙に逆転するための説得力が語句に宿っていないのでは?ということです。 ここを表現するにはどうしても技巧的な成熟が必要ですよね。でもそんなものを身につけてしまうとピュアな良さが消えちゃいそうな……。ご存知ないかもしれませんが、田中宏輔さんならその辺を苦もなく越えて書いていらっしゃると思います。なかなかできないことだけど。 (雲)

2017-03-06

hyakkinnさん、コメントありがとうございます。 おっしゃるとおり、「死の国」というのは、死んだものの主観で見た同じ目前の世界のことです。死んだものの主観というものは論理的に存在しませんから、脱自我という虚構が投影されるということになります。言い換えればそれは限りなく甘美な幻想です。でも投影される世界には必ず我々の存在から独立した実在という核があり、必ず主観を裏切ることになります。 この作品は「未来に滅ぶ肉体」と等価の「客体」が語る主体なき未来と 、「主体なき」と語り得る主体の欺瞞を告発することからなります。 と言ってみたけど、本当かな?精神的なポルノと、その自省と言っても同じかも知れませんね。 (未来の私)

2017-03-05

天才詩人さん、こんにちは。 都市の中をすさまじい速度で転がる魂の鉄球が、接地面に火花を散らしているのを見るような。きしむ金属音を聞くような。そんな詩でした。 もともとフレームだけの物語が、さらに粉砕され鉄粉となって舞い散っているので、「お母さん」を描いた一節のはっきりとしたメロディラインは不要のようにさえ思るのです。 ただ、その中でも1945年の広島は重いですね。焼亡して影になり、人類の歴史にその整序を越えて染みついている広島だけは、どんな巨大な鉄球でも、もうこれ以上砕くことができません。 (THE COLD WAR)

2017-03-03

もとこさん、こんにちは。 わかりやすさ、とても大事だと思います。一語一語は決してわかりやすくないのに、わかったつもりになってしまうところはうまく作者の術中に嵌っている気もしますが。 僕は、地下鉄の中で半睡半覚の状態でいる少女を思い浮かべました。無責任で目が笑っていないイケメンにだまされて頬をぶたれた後、着の身着のままで彼氏のアパートだかマンションを抜け出して帰って行く。かつては望んでいた妊娠に、今は不安として苛まれながら。少女のことだから、自分と世界が混同されてしまっているのですが、目覚めたら壊れるのは彼女にとっての世界ですね。座席での心地よい刹那の眠りを永遠のものとしたい、という欲求が黄泉国の食(じき)であるパンとなって少女の内なる霊体の食欲を満たしていくわけです。 ディラックの海、僕も漫画で読みましたよ!なんだったか、オリハルコンで作った天球儀のようなフレームの向こうに阿修羅一人が逃れていくんでしたっけね。この世界の存廃も大きな反応炉の中にあって、それを外から制御しようとしている研究者のような声が聞こえてきて終わるんでしたっけ?少女の夢としてはとてつもなく大きなスケールですね。 (Tangerine Dream)

2017-03-03

きらるびさん、コメントありがとうございました。 散文に見えるけれど、実は韻文ですね。イメージとリズム、そして音韻が割合とゆったりした波に乗って流れています。美しい太極拳をみているような。 エロチックだけれど、肉体的ではないですね。転がっていく物語も、起承転結の構造体ではなく、採譜できない謎の旋律のようです。 > その瞬間、カタツムリのようにジメジメとした想いで、ちいさくなってゆく自分の姿にも、やっと気づいた。 というこの部分はちょっとありがちなオチになってしまっているように思えます。律儀に話を落とさなくてもいいのではないかな、と思います。 (まいまいつむりのまいこちゃん)

2017-03-02

きらるびさん、コメントありがとうございました。 朗読について。コメントを読んで面白そうだと思ったので今まで試していましたが、難しいものですね。やってみると、声優という職業の人がいかに凄いかということがよくわかります。 レコーディングして聞いてみると、自分の声というものはいつも聞いているものとはまったく違うので恥ずかしいものです。 どうやって発表したらいいのかわからないけれど、折角録音したので、機会があったらどなたかに聞いてほしいなとは思っています。 (この世は終らないそうだ)

2017-03-02

Kolyaさん、コメントありがとうございます。 折角きちんと書いてくださったので、ちゃんと返信を、と思っているうちにずるずると遅くなりました。 いつも不義理ばかりでごめんなさい。 言葉の世界というのは、主体の自己認識が意識化された途端に成立するもので、限りなく主観に基いていながら客体化されているという摩訶不思議な存在です。言葉の上では幻想も実在も等価で、言霊という概念はそこのところの気味悪さを言い当てていますよね。この作品は言葉を通して言葉の外側を夢想しています。天の裂け目の向こう側、という身もふたもない存在がそれですね。かなり戯画化されていますが、そうするより他思いつかないのです。色々なアプローチで言葉の外側の単純な「モノの同質性」に迫りたいのです。 取り急ぎそれだけ。 (この世は終らないそうだ)

2017-03-02

クヮン・アイ・ユウさん、コメントありがとうございます。 「生々しいにおいを感じる」と書いて頂いたこと。嬉しかったです。 実際にあるお寺で見た池が、この作品の発想の元になっています。 「目の前のもの」自体というのは言葉よりも魅力的ですね。ものがものの強度を保ったまま言葉の中に入り込んでくるような作品を書いてみたいと思っています。 「気持ちいいけど、気持ちいい」これは諦観というものです。 (未来の私)

2017-02-26

花緒さん、コメントありがとうございます。 実は行わけのものもたくさん書いています。宜しかったら文極でご覧下さい。 行分けにするとリフレインが多くなりますね。好きなんです、単純な音楽性。リズム音痴なので音楽といえば反復と変奏だ、という実に単純な思い込みがあるのかもしれません。 文中では「死の国」なのですが、日本神話に描かれる黄泉の国も気に入っています。暗くて臭いだけで、何もない汚れた世界。いいじゃないですか、それで。 (未来の私)

2017-02-26

三浦さん、コメントありがとうございます。 黄泉の国の昏い快楽とはそういうものなんですよ。自分が何を考えているか、まるでわからないのです。池の中のポセイドンもそう言っています。ロプロスは空を飛び、ロデムは変身地を駆けるのです。三つの僕っていうとナウイけど、桃太郎とどう違うのか?選ぶところはない、ってヤツですね。 人間はしょせん最期は1人で鬼の征伐に行き、未だ帰ったものはいないわけです。 (未来の私)

2017-02-24

もとこさん、コメントありがとうございます。 そう、その通りなんですけど。「あなたすてきよ。いいかんじよ」は「海辺の叙景」ですね?森田童子の「雨のクロール」ってのもありましたね! 書いたときには思いもよりませんでしたが、そういわれてみればこの系列の末端に連なっているような気もしないではありません。 (未来の私)

2017-02-24

グエン・グエンさん、こんにちは。 >多分なんにも考えていない足が >妹の性器に触れる >多分なにも考えていない足が >弟の性器に触れる ここが好きです。何も考えていない胎児の時、羊水の中で三つ子四つ子の弟や妹の体に足が当たるような、そんな感覚。自意識以前の自分が自意識の中にいるのですね。子どもの頃、時々小学校の帰り道、死というものについて考えました。父に「死んだらどうなるの?」と聞いたら、「何にも感じていないし、考えていないな。寝ているときと同じだな。」と答えて貰ったことがあって、じゃあ死んだときと同じように何にも考えるのをやめよう、と何回も実験してみました。当時から僕は頭の中のラジオが他愛もないことを隙間無くしゃべり続けている人間なのだけど、一所懸命に意識をカラにしてみると確かに「あ、今何も考えていなかった!」と思えることがあるのです。でもすぐに「あ、今何も考えていなかった!」と考えていたことに気づいて、そのたびガッカリしていました。なんだったんだろうな。当時はまだ言葉のない胎児の時のことを覚えていて、実はそれを懐かしんでこんな実験をしていたのかもしれない、とこの部分を読んで思いました。 >なにも考えていない瞳が捉えたのは >ただそこにあるだけの空 >その、紛れもない名前 このまとめ、結論に当たる部分はちょっと違和感があります。「ただそこにあるだけの空」は「ただそこにあるだけだ」と思った瞬間に、「ただそこにあるだけだと自分に思われた空」になってしまうし、「その、紛れもない名前」がひとつでも頭に浮かんだら、必然的に「何かの文脈に紛れた、関係性の中の名前」になってしまうからです。 ものの本質は結局ノスタルジーか、鏡像として意識の中で予感されるものでしかないと思います。 言葉という鏡の中の世界であるにせよ、ものがものとして放り出されるスタイルの俳句にはある種の凄味があるのですが、僕の知る現代の詩はどうしてもものを文脈や論理の中で変形させてしまうのですね。 (sense。)

2017-02-23

もとこさん、お返事ありがとうございます。 そういう事情があったんですね。そうとは思いも寄りませんでした。僕も想像で女性の立場で書くこともあるのですが、まったく想像の域を出ていません。或いは中身は男のままであることを自覚しています。 自分を中心にしてちょっと安易に人のことを推しはかり過ぎたかな、と反省しています。僕にとって理詰めに思える部分も、もとこさんにとっては感覚的な真実なのかもしれませんね。詩の読み方は、よほど気をつけないといつの間にか自分の立場に引きずられて偏ってしまっているものです……。 (フラワー・オブ・ロマンス)

2017-02-22

もとこさん、こんにちは。 僕はこの詩からつげ義春の「紅い花」を思い出しました。感覚的な作品なんだけれど、ちょっと理に走り過ぎた感じもあるように思います。現実の女性の感覚とでは、僕ら男のそれは微妙にズレてしまうのかもしれません。理詰めになっちゃうんですよね、どこか。 (フラワー・オブ・ロマンス)

2017-02-22

ごめんなさい、きらるびさんでした。 訂正させて下さい。 (なみだもろい愛をこめて)

2017-02-21

きるらびさん、こんにちは。 いいですね、この詩。 夢、屍、恋、幻、夜、月の砂漠。泪、唇、血、罪、宇宙、人魚。 甘い詩語がこれだけ出てきて、恋人たちの官能的なひと時を語っているのです。普通なら鼻もちならない「ポエム」になるはずなのに、そうはなりません。それはちゃんとした中身があるからではありません。この詩には徹底して何もない、と僕は思います。きらびやかな空虚がゆったりとしたリズムで語られ、一切余計な深化というものを見せないまま終わっています。しかしながら、その単調な快楽こそが恋の本質なのでしょうね。 恋人と抱き合う時人間は、ごく短い間ながら、何もない単純な肉体を互いに認め合うのかもしれません。 非常に逆説的な物言いになってしまいましたが、本当に僕もこういうものが描きたいのです。 (なみだもろい愛をこめて)

2017-02-21

hyakkinnさん、コメントありがとうございました。  何とか早くコメントを返さなければ、と思いながら遅くなってしまいました。自分で意図したことと、思ってもみなかったことが程よく?ミックスされた評を頂けてとてもうれしかったです。 この作品の意図が「意地悪」であるというのはその通り。ただし、何に対して意地悪なのかというと、この作品自体、もしくは作者である僕自身、そして物語世界を叙述するという態度に対してのものです。誤解の無いように言うと、僕は物語の創造者が特権的位置に立つことに対して否定的です。言葉は徹底して主観的表出です。どんなに読者という他者への伝達を念頭に置こうと、他者という概念が既に主観の中にしか存在しないからです。しかし、主体としての僕らが外的存在の関係性の結節のようなものだとすれば(僕はそう思っています)、関係性の以前に存在の核のようなものがあるはずです。それには主観の主体である自分自身と、誰かにとっての客体である言葉による逆説的なアプローチでしか迫ることはできないと思っています。自分を形作る自分以外のものは、自分という幻想の感情的な揺らぎの中から予感されるしかないと思うのですね。「自分以外のもの」とは、すなわち主観の停止した死の向こう側にあるものです。  単純に考えれば滅亡も死も、他人のそれは主観の停止とは別次元の出来事であるけれども、そのヒントとして主観を揺さぶる力は持っているはずです。だったら、揺れてみるしかないはずです。僕にとっての詩はこの「揺れ」、ダンスを見せることですね。それが他の人にとって詩といえるかどうかには大きな関心はありません。  まりもさんの言ではないのですが、僕は登場人物や作品に描かれた状況、そして物語を小手先で作り出した何かのためのパーツだとは思っていません。僕自身と、作品の外の世界と、同じ質量を持つものとして扱いながら、全身でその虚構性を暴こうとさせています。そうしているつもりです。世界の終りも地球史的に見れば現実だし、キュクロプスも「幻想」としては実在します。七人の自警団は地域の避難訓練でであった住人たちだし、死んだ友人には現実のモデルがいます。作品世界の主体も含め、すべての内容に対しての愛情と敬意は忘れてはいけないですね。彼らは僕の意図には決してつながらない自由な存在です。読み手が作者としての僕からの軛を、それぞれの鑑賞の中で解き放ってくれたら素晴らしいことです。それらは確実に僕という主体を構成する「実在する何か」の一局面であるはずだからです。その遙かな予感への陶酔がこの作品のテーマかもしれません。 >この場のすべての実在と幻想の存在はその言葉を聞いているだろうか。 という最後のフレーズは、僕と僕を取り巻く総てのものを揺らすために、戦略的に書いた詩的な(あるいはまったく詩的でないかもしれない)麻薬成分だと考えて下さったら、hiyakkinnさんの解釈へのお答えに、多少なりとも、なるでしょうか?  頂いたコメントが長いので、僕の頭の中でまとまらないところもあり、遅くなった割に十分ではないお返事になりました。ごめんなさい。 (この世は終らないそうだ)

2017-02-20

三浦さん、こんにちは。  僕はこの作品をエロチックな現場を描いた詩であると解釈してしまったのですが、どうなんでしょうか?積み上げてきている社会的な関係性みたいなものが、脳内の快感物質の爆発的な分泌でふっと無化されてしまう瞬間が描かれているのです。  ただ、それはインド人によって開発された怪しげなジェネリック(ジェネリック薬品はオリジナルに対する後発薬品で、オリジナルから開示された薬効成分をもとに作られていると理解しているのですが、だとすると「開発された」というのではなく「模倣された」のでは?)によってもたらされたキッチュな快楽であるということが、詩自体の記述から自認されているのです。浅薄さを自覚しつつ陶酔を許容する、というニヒリズムがこの詩の主体にあるのだとしたら、そういうのは割と好みなんですよね。愛の実相なんて言うのは所詮わからないもので、カッコで囲んで取りあえずあるものとした上で、セックスや作詩が行われているに過ぎないのですから。キッチュな快楽に身を委ねる、その無力な有様がはかなく、脆く、醜いからこそ、逆説的に美しい、そう僕は思います。  この詩の主体をじっと見ているのは、性のピークにいるその主体が関係性の現実的ニュアンスを剥奪している相手の「君」かもしれません。だとしたら、「君」は作者の一方的な絶頂から距離を置く、最も辛辣な観察者となっているわけです。  もし「君」が自分の切り離された自意識の一部であるとすれば、世界を設定する傲慢な詩人としての作者のゴーストということになりますし、読者だとしたら我々は露出的なプレイの目撃者の立場に立たされて戸惑い続けるわけですね。こうやって、作品のよって立つ表現基盤そのものがぐらぐらと揺すられるのもまた、作品そのもののはかなさであり、脆さであり、醜さであるのだ、と僕は思っています。ゆえに、本作の属性は「美」なのだ、と考えます。  もう少し言葉に過剰な修飾があったなら、もっとよかったですね。 (渚鳥を回転させる調教)

2017-02-19

 まりもさん、お返事遅くなっており申し訳ありません。  僕が考える詩と小説の違い、それは言葉が手段として存在するのか、それ自体が目的となっているか、ということ。小説では言葉が物語に奉仕するのに対して、詩では物語が言葉に奉仕する、と。これでどうでしょうか?一般的には語句に韻律があるかどうか、ってことではないですかね。行分け、聯分けのなされた詩には勿論、散文詩にも内的な韻律があって、それが詩を結末へと進行させるにあたっての原動力になるのだと思います。  それなのに僕の作品が書かれた物語に筆者の立場から判断や内省を与えているのはおかしいと思われるかもしれません。かつて文極で、ある詩人の方から「右肩さんは書きたいことがないのだ」と言われたことがあります。実はその通りで、僕の判断や内省は僕自身のもの、表出すべき自我、というより物語の一構成要素のつもりです。たとえ、それが僕自身の感覚や体験に直接由来していたとしても、それが作品で訴えたいことではありません。完全な客観、神の視点をもった作品、は完全な客観などあり得ないという矛盾を内包しているはずです。表現する主体の様態があらわになるべきだ、というのが僕の見解ですから、どんなに客観を装った叙述でも主体と切り離せないということを、作品そのものに語らせたかったのでした。  架空の災害の様子を主観抜きで描出しても、全能を詐称して世界を描く隠れた主体が、背後に透けて見えては台無しです。事態そのものがある人物の主観を通して語られているのだ、ということを示唆したかったのです。僕の詩には「僕」という主体と「君」とか「あなた」という対話相手が頻出するんだけど、たいていは実在の僕でも君でもなくて作品の構成要素の一部です。  もちろんどんなふうに読まれても読み手次第なのですが、読み方の一つの提案としてお受け取り下さい。 (この世は終らないそうだ)

2017-02-17

まりもさん、コメント有り難うございます。 実は長い返信を書いたのですが、アクシデントでみんな消えてしまいました……。気力が無くなったので、また今度詳しくお返事をします。   力の入ったコメントを有り難うございました。とても参考になります。 (この世は終らないそうだ)

2017-02-14

天才詩人さん、コメントありがとうございます。 自分の書いたものを客観的に見ることはできないと思うのですが、僕の作品は僕の思うような読み方で読んで行けば、かなり面白いと常々思っています。どんな書き手にとっても言えることかも知れませんが。天才詩人さんはその意味で僕の勝手に想像する理想の読み手に近いのかも知れません。 ソンタグの『反解釈』はアマゾンのほしいものリストに入れながら、高いし訳もよさそうではないし読み通せなさそうだし、で買っていません……。 さておっしゃる通り、この作品に何らかの保証できるものがあるとしたら言葉のバランス、或いはアンバランスの良さです。中身は問題ではない、というかそもそもありません。 (この世は終らないそうだ)

2017-02-12

三浦さん、コメントありがとうございます。 はい、死体は書くものの中で僕が繰り返し登場させているモチーフです。実は言語的な存在としての死体であって、死体の持ついくつかの特性しかカヴァーしていないのですが。この歳になると親しい方、それほど親しくない方の遺体を幾体か見ている訳ですが、そういう遺体の見え方というのはまたいつもの作品中のものとは異なります。 (この世は終らないそうだ)

2017-02-12

花緒さん、コメントありがとうございます。 そうなんですよ、これは天才詩人さんがおっしゃっているように、アキラであり、エヴァであり、ゴジラであり、まどかマギカであり……、というように多くの終末的イメージをことさらベタに書きました。キュクロプス(これ、実はルドンのそれのイメージです)はあらかじめ幻視と断って、主体の心理の反映でしかないことを浅薄に言い表しています。実際の幻覚に苦しんでいる人からするとそれは違うとなるのでしょうが、申し訳ないけれどそういう設定なのです。 しかし、どうも災害や、迫り来る死は作品中の現実らしいと。死んだ友だちが登場しますが、これが直近の未来の主人公です。死んでいるという事実だけがあって、思考も感情も言葉も、もちろん肉体もありません。目前の事態に何らかの影響を及ぼすこともありません。そうやって作品自体が常に否定的に前進していく(或いは停滞していく)のです。 この作品の「主題」は最後の1行にあります。 (この世は終らないそうだ)

2017-02-12

日野啓三も鄭義も検索してみるまで知りませんでしたので、そういう知識を前提として書かれた詩にコメントする資格はないのですが、抱えている葛藤の質には親近感を覚えます。小林秀雄の「モーツァルト」の冒頭のような、魂のさすらう気配。「卵を産む鶏の蠕動運動のような魂の呼吸」、既に触れられた方もおられますが、僕にも印象的な詩句でした。ただ、直喩にすると肉体的な生々しさが多少弱まってしまいませんか?実際身体の中で熱量を持った塊をじわじわと推し動かす感覚を読み取ると、実に魅力的です。しかもそれが魂という非肉体的な次元に帰結する語の流れを持つのですからね。 絵文字に関しては、僕にはその必要性が感じられませんでした。乱気流のように咲き乱れるライラックの花の豊穣なイメージが(僕にとっては)貧相な視覚的記号に置き換えられるのは残念です。試み自体を批判するつもりはありません。作品にして表現してみないと、そういう見方との間の齟齬も明らかにならないからです。僕の感覚が古いだけかもしれない。応援しています。どんどん挑戦してみて下さいね。或る日突然見方が変わって、この試みの真価が分かったとしたらそれはそれで僕にとっての新たな幸せです。 (映画)

2017-02-11

もとこさん、今気がついたのですが、以前女子高生ということでコメントのあった方は全然別人でした! 変にからかったみたいになって申し訳ありません!とり急ぎ訂正とお詫びを。 (この世は終らないそうだ)

2017-02-11

もとこさん、コメントありがとうございます。お久しぶりですね。旧女子高生の方でしたねw。 ご指摘の通り、「最期」は「最後」の変換ミスでした!恥ずかしいです。できたら訂正したいのですけど、今のシステムでは難しそうですね。 さて、幻想と現実。言葉の世界では同格な存在かもしれませんが、「その材料となった現実」は必ずあるはずです。ただし、「現実」は常に主観的であって「真実」とは異なると思うのです。 「真実」には絶対触れられない、そういうことを表現するために、仮構された「あたかも物語のような進行」の中で、絶えず自己否定を重ねていく性質を持っているのが本作です。いや、そうはなっていないかもしれないけれど、そのつもりでいます。 「真実」は人とは離れているので、「真実」を意識してものを見ると、生きている人間も死体であり、人の手になるものもすべて無意味である。と、そうなるわけです。 (この世は終らないそうだ)

2017-02-11

 こんにちは。お久しぶりです。 実はこれ、投稿して没になった作品にちょっと手を入れたものです。割と気に入っているのですが、書きたいものを総て出せたとは思えません。 内容は割と破壊的で、いわゆる「詩」的ではない過激さがあると自分では思っています。うまく伝わっていないかもしれませんが。  ええと、僕がやっているのは短歌ではなく俳句です。どうも創作の中で一番適性が無い分野を選んじゃったかな、と反省し続けながら早や十年です。 絵文字はほとんど使ったことがないので、よくわからないというのが本音です。文字との不整合なバランスがいいんですかね? 俳句や短歌に絵文字を入れる、そういう発想はありませんでした。うーん、ちょっとできそうもないですね……。 (この世は終らないそうだ)

2017-02-11

 こんにちは。僕も鳥が好きで、よく鳥のこと、書きます。 年がバレるようでいやなんですが、最初の「教官」、風間杜夫を思い出しました。「どじでのろまな亀」の堀ちえみ。いや、そうじゃなくて、問題は鳥なんですけど。  ここでは最後まで鳥の実体が登場しませんね。箱の中の消えた鳥、僕はそれを実体だと思いたいのですが、いかがでしょうか? 教官も男も、机上に並べられた口もすべて実体。幻視であっても、幻視としての実体。そう考えるのは、詩の内容に作者が制御する喩というものが不要ではないかと考えているからです。 言葉が語るものは、すべて実体に由来する幻視であって、言葉が実体そのものを語るなんて荒唐無稽な矛盾に過ぎない、と僕は常々思っています。 その荒唐無稽な矛盾に取り組むのが「詩」なのだ、といつの頃からか考えるようになりました。これは極個人的な着想であり、他の誰かにとっての詩に言及するものではありませんが。 しかし、そう考えてみると詩世界は個人が発したものながら、発せられた瞬間に個人から独立する幻想であり、そんな幻想に対する言葉の取り組みであるように思えるのです。  最初、箱の中からばたばたと鳥の翼が壁を打つ音が聞こえ、鶏小屋と同じにおいが隙間から漏れてきます。開かれた箱には鳥はいませんが、点々と糞のあとが残っているし、男の上着には味噌汁のシミがついている。どうしようもない実存在があって、それが幻想に転化していくのです。鳥は放つまでもなく不在で、最初から「君のもの」ではなく、決して見つからない次元で血流を巡らせているわけです。口の「唇」はどれもやや荒れていて、口紅の下に糊塗された皺や罅、不均一な色素の沈着があり、非常に微かに生臭い。確かに誰かのものでありながら、持ち主は永遠の謎でしかないようです。  こんな読み方は作者には失礼なのかな。 (私の鳥)

2017-02-10