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故郷の河・東京・兄の内妻
時間的距離、その奥行きのパース。消失点は、笑う人の笑いにある。僕の表情は今、そこに合わせて微笑している。黄変した山肌を遡る視線の先、峰の尾根筋で大きな発電用風車十機程が、列を成して回っている。風は午後の日を傾けて早くも白く、風車の長い強化プラスチック製ブレードもことさらに白い。 雲。寒の青い空に孤立するいくつかの雲塊。雲は輪郭のほつれた低密度の立体で、常に高さを内包している。佇まいが「希望」に似ているのだ。そういう類似だけが、ある時は人にとって雲の存在意義である。雲自体にとって、雲であることが存在の様態の一局面に過ぎないことは自明であるとしても。 歩をとめてみると足下の雑草も去年の今頃と同じように、びるびる音を立て風に吹かれている。ただ吹かれている。 去年の今頃。東京の兄が違法薬物の摂取で錯乱して入院し、一緒に暮らしていた女性が自殺未遂の後行方不明になっている。彼女とはそのふた月前、兄を訪ねた折に一度だけ会った。つやのある黒髪と長い首が印象的だった。美しい唇がつうっと上下に割れて僅かに白い歯を見せてくれていた。「皓歯」といい「明眸」というが、目の辺りの造型は既に記憶の空白部となっている。 顔の下半分だけに残る音のない笑い。 そこで彼女についての記憶は消失している。何を話したのか。どこでどう別れたのか。浅草の古い雑居ビルの屋上。十二月の初め、曇天。低い鉄柵の向こう側では、くすんだ白や灰色、茶色、焦茶のコンクリート建築が無秩序に錯綜し、文字と図像を混濁させた看板や広告塔が散らばっていた。大通り。路地。建築の隙間から漏出する不定形の気配。それが走る自動車だったり、あるいは歩く人々だったりする。僕が不在である世界は実在するのだと、初めて実感として知った。 あれから東京に行ったことはない。兄の病院にも顔を出していない。一度会っただけの女性のことはもともと何も知らない。知らされていない。母から名前を聞いたことはあるが、忘れてしまった。僕にとって彼女はひとつの表情だった。跳躍するプロミネンスが悉く鎮火し氷結すると、太陽は表情を変えて月になる。生死も判然としない、知らない女性の微笑が、今、故郷の河の土手から見る丘陵の尾根筋に昼間の月として淡く輝いている。 僕に関係のない世界の、僕に関係のない生命体が、僕の知らない場所から僕の情欲を支配する。とても心細い。 人間や人生の核心というべきものは僕から逃げ出し、世界と僕との間に成立した虚構の時空間を途方もない早さで移動している。傷病や死の苦痛が僕という個体を鷲掴みにする前に、僕は逃げたものを捉えなければいけないはずだ。が、それはとうに諦めている。僕を巡る公私の時間的領域が急速に消費されているのがよくわかる。 短い枯れ草が足下で風に揺れる。堤防の上から振り返り見慣れた河を見る。広大な磧、白く乾いた丸石の堆積する向こうに、冬枯れの細流が幾筋かに分かれながら光を反射している。中学生だった時、増水して鉄橋を流した故郷の河が、今は何事もなく流れている。 決定的な天変地異は、まだこれから起こるのだが。
故郷の河・東京・兄の内妻 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1533.2
お気に入り数: 1
投票数 : 0
ポイント数 : 21
作成日時 2017-06-18
コメント日時 2017-06-25
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
---|---|---|
叙情性 | 1 | 1 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 2 | 2 |
エンタメ | 10 | 10 |
技巧 | 4 | 4 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 4 | 4 |
総合ポイント | 21 | 21 |
平均値 | 中央値 | |
---|---|---|
叙情性 | 1 | 1 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 2 | 2 |
エンタメ | 10 | 10 |
技巧 | 4 | 4 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 4 | 4 |
総合 | 21 | 21 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
消失点は、笑う人の笑いにある。顔の下半分だけに残る音のない笑い。そこで彼女についての記憶は消失している。僕にとって彼女はひとつの表情だった。知らない女性の微笑が、今~昼間の月として淡く輝いている。 語り手の兄と、兄の内妻、その二人の間の生活・・・知らされていなかった間は、語り手にとっては存在すらしていなかった世界が、いきなり(暴力的ともいえる衝撃度で)語り手の世界に侵入してくる。故郷の、どこか寂し気な、でも美しい、確かに実在する(はず)の場所に居ながら、語り手は僕が不在である世界、すなわち、東京、兄がいまだに入院し、兄と内妻の生活が崩壊していった東京の恐らくは下町・・・にとらわれている。兄の事件を知らされるまでは、まったく無関係だったはずの・・・故郷の景色に、僕に関係のない世界の、僕に関係のない生命体が、僕の知らない場所から僕の情欲を支配されてしまう、ということ。心細い、と書いてはいるけれども・・・足もとが底なしの砂地に吸い込まれていくような、不安に苛まれるような心細さなのではないか、と思いました。 故郷で、枯草が風に吹かれている、という、なにげない叙景が、風が吹き抜けていくような語り手の心象を巧みに表していると思います。 兄の事件・・・を、消化できず、受容できず、ただ侵入してくるものとして、己をつかまれてしまうものとして受け止める他はない・・・それは、兄への兄弟としての愛情というような、想い出に関わるような抒情的な問題ではなく・・・傷病や死の苦痛が僕という個体を鷲掴みにする前に、僕は逃げたものを捉えなければいけないはずだ。が、それはとうに諦めている。とあるように、兄と兄の内妻が被った(引き受けざるを得なかった)傷病や死の苦痛、といった観念的な問題意識が、極めて密接な、身体的に圧迫してくるような、自然の景物に紛れ込んで語り手の元に押し寄せてくるような切迫感を持って迫って来る、という展開に詩情を感じました。 傷病や死の苦痛、といった、肉体に密接に関りながら、観念的な思考対象となるテーマを論理で突き詰めていくのではなく(たとえ突き詰めたとしても、答えの出ない問いですが)叙景や抒情といった手法で、からめとるように掴もうとする。核心を明示できるわけではないけれど、何かしらの核を含んだ、もやもやとしたものを、風景を心象の側から捉え直す、その文章によってからめとって、そこに置く。核心を突くことのできないものを、いかに言葉としてとらえるか。その試みへの挑戦を、評価したいと思います。
0すみません、引用部分に〈 〉を付けたつもりだったのですが、記号選択を間違ったらしく、反映されていません。 最初の一段落めは、全て引用です。
0花緒さん、コメントありがとうございました。 そんなに難解ではないと思います。言葉が多少こんがらがっているだけです。「笑う人」は、兄の愛人を指しているつもりでしたが、勿論語り手の自己言及と捉えて下さっても結構です。 世界の実在と自己との関係、その確かさと不確かさ、「あわい」という語り手の立ち位置。丁寧な読解をして頂きました。 養老孟司さんの『「自分」の壁』という本の冒頭に、脳障害を起こした医者の自己観察が紹介されていましたが、自分と世界の区切り目が曖昧になって、倒れたときの浴室の壁が自分の肉体の延長のように認識された、とありました。変性意識状態で花緒さんが体験されたものも、そういう生物的なシステムとしての意識の枠組みの緩みかもしれませんね。 世界は実在しているけれど、我々が認知しているのは世界そのものではなく、それに対応した意識の枠組み、システムでしかないと思います。その先は信仰とか、詩情で語るしかない、「予覚」の世界だと思っています。
0まりもさん、コメントありがとうございました。 読解、非常に緻密で正確ですね。分析するとその通りなのですが、僕は作品を隠喩として仕上げているつもりはないのです。 俳句が最後に体言止めで終り、そこに対象としてのモノが置かれるように、抗し得ないかたちで先行して存在する「場所」や「状況」へと詩情が収束されていったらいいな、と思いながら書いています。このストーリーはフィクションですが、書いてある風景は実際のもので、そこから逆に展開させた情感を文字にしようと試みていたのでした。 これ、別名義で「日本現代詩人会」に投稿したけれど、落選でした。もっと直接的な主題への言及がないとダメみたいですね。あるいは散文の範疇に捉えられて撥ねられたか。 その前に僕の作品で入選したものはみな行分したものでした。まあ、別に落選してもいいんだけど。
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