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焼成
ひびが色づいて 馴染んだ地模様になっていた湯呑が 弾けて割れた 蒼白い閃光が走り 見えなかったものが見え始める 脳髄の先端 額の裏側から一気に突き抜け 小豆粒ほどの白い出口のその先の薄闇の中で さらさらと崩れていく湯呑のかたち 肌を伝ってふところの奥へ ぴちょん ぷちゅん 波紋だけが鎮まることなく 手がかりのなくなった空洞の広さに 呆然と立ち尽くす 暗がりでカケラを集めようとして 指先に傷を負ってしまった てのひらを合わせて 空間に差しいれる したたり続けるものが たなごころにうすくたまり 私の血が広がって行く 指の隙間から漏れ落ち 肘を伝い 二の腕から闇の底に流れ ああ だれか失われていくものを その手で受けとめてください 私の指が密に溶けあい 新しい器となるまで きつく捏ねあげ 焼き尽くしてください ひびが色づいて 馴染んだ地模様になっていたのに 今はもうない 私の知らない夜が 始まろうとしている (『詩の発見』掲載)
焼成 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 818.3
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2017-10-02
コメント日時 2017-10-09
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
細かいことを話すときりがないですが、例えば「湯呑」が「弾けて」割れたという表現の不思議さなどはミクロな視線から見て面白いのではないでしょうか。 また、湯呑が割れたことを自分の感覚に半ば無理やり結びつけていく1連から2連への移行は、無理矢理だとは思いつつも不思議な新鮮さがありました。 上手だと思いました。つまり湯呑や陶器と、自分の心象風景を結びつけるというベタなアイデアながら、ベタなアイデアを丁寧に書いており好感度が高いです。 ただ、意味先行で詩を書いているのが透けて見えました。まず明確に伝えたいものがあって、それを言語化するために詩のフォルムに落とし込んでいっているように見えました。だから言葉全体にどことなく固い印象がある。おそらく相当推敲したのでしょう。もうすこし柔らかくなればなお佳いと感じました。
0まりもさん、こんにちは。 山枯れの始まっている湯呑かな 原田喬 という俳句を思い出しました。湯飲みというモノの実感が迫ってくるようだともっと良い作品になったのではないでしょうか。 本当はもっと長いコメントを書いたのですが誤って消してしまいました……。機会があれば、また後日。
0詩を読むのは時間がかかる作業なので倦厭するのですが、この詩は面白く読むことができました。着地点が「わたしの知らない夜が/始まろうとしている」とあって、そのときになってようやく夜の始まりの詩なのだと気付かされるわけですね。そうするとまあなんというか夜がやってくるその独特の淡いの瞬間に食器を割ってしまったそういう情景が浮かんでくる。それをこのような筆致で持って書くのは、かなりむずかしいことです。ただ、着地点が意外すぎるという意味では高い技術点とは言い難い。四つ星ですね。案外そこがこの詩の弱さかもしれません。
01連目〜3連目の冒頭にかけて、「弾けて割れた」湯呑、走る「蒼白い閃光」、「脳髄の先端」そして「ぴちょん ぷちゅん」と(おそらく音をたてて)「鎮まること」のない波紋、そして広い「空洞」、このイメージの連鎖がとても鋭く、激しさと冷たさを同時に表現したような鮮烈さを感じました。それに対して3連目からは、例えるならいきなりモノローグが展開されるような語り口で、冒頭のスピード感との落差から、いささか説明的になりすぎているような感覚を受けてしまいます。あるいは、作品の本体は3連目からで逆に冒頭の部分を演出しすぎた、ということなのかもしれません。いずれにしても、何度もじっくり読まされました。
0おはようございます。高度な詩座で書いておられなあとは 思いましたが、わたしは どうも詩人の視座ではない 生活レベルで読んでしまいます。とりあえず なにをこの詩から感じ取ったのかを 書いてみます。 一連目では、湯呑が壊れる。 二連目では、壊れたときに 話手の脳のなかで パッションのようなものがおき、脳が刺激を受けることで広がった空虚。陶器の破片で怪我をした話者が 壊れた陶器を前に 再生を願う。というのがこの詩ということで よかったでしょうか? 最初は ちいさかった ひびが 次第にひびに色が加わって 味のある風合いの湯呑になっていたものが 壊れてしまったという喪失を自身にあてて書いておられる。 【焼成】という題名は、ヘルプミィなご自身の心境をしめしていて、どなたかほかのだれかの手で 新しい器となるようにしてくださいよお。という 願いがこの詩だと 読みました。 しかし、【焼成】という題名と、【ひび割れ】の 二つから 私が勝手に連想したのは、日本独自の陶器の修理方法である【金継ぎ】を連想してしました。陶器は、破損しても その ひびわれを活かして新たな陶器にする方法がありますよ。と お伝えしたくなりました。 既に焼かれて完成されたものが壊れると、もう ねんどではないので 捏ね上げるのは無理だということは分かっておられて でも再生できたら良いなあという思いを書いておられて、そここそが鑑賞のポイントだとは 理解できているつもりなのですが。 でも、陶器って以外と 大丈夫だよ。もっと素敵になる技術があるよ。などと 思ってしまいました。 このように読む私は詩人ではないのかもしれません。なにかしらの学びがあるので まりもさんの詩は いつも楽しみです。読ませていただきありがとうございます。
0完備さん いやはや、お見通しですね(笑)ありがとうございます。使い慣れていた湯呑みが、ぱきっというか、ぺきっという感じで割れた・・・のは事実なのですが、これって何かの予兆?と思いながら、様々な事象と重ね合わせつつ、自身の内部の空洞と、自身が器になる、イメージを重ねつつ・・・と構造化して書いたものです。実はあまり推敲はしていないのですが、イメージトレーニングみたいに、何度も頭の中で湯呑みを割り直したので(笑) 当初のイメージが、何度も下絵を写し直して整えた絵のような固さになったのかもしれません。
0Migikataさん 湯呑みが割れた、というところから、どんどん別方向に(内面に)進んでしまったので、物質性というのか、手触りからは、離れてしまったようです。Migikataさんの作品の、飛躍の幅が大きすぎて、ついていけない、なんて泣き言を言いながら、自分もやっているじゃないか、と苦笑しつつ。素敵な俳句をご紹介頂き、ありがとうございました。
0kaz. さん そうですね、すっと入ってくる詩と、くんずほぐれつ、になる詩と、ありますね・・・他の方の感想などとも含めて、この詩は、いかにレトリックを活用するか、というところに、かなり比重がかかっていたと思います。詩を学ぶ学生たちが読者の詩誌だと伺い、ちょっと肩肘はる、というか、しゃちこばって書いていたかもしれません。その分、勢いとか柔らかさが削がれていて、そこに皆さん、不満を感じる、ということなのだと思いました。夜は、もちろん時間的な夜と精神的な夜のイメージですが・・・夜中の窯の火の美しさとか、むしろそういう方向に向かった方が良かったかもしれません。
0survofさん 湯呑みが割れた、という事実から、何か日常にぴきっとヒビが入ったような感覚があり、そこから何かが漏れ出していくような・・・自分自身の体も殻のようにぴきっとヒビが入って、溜め込んでいたものが漏れ出ていくような感覚があった、と思います。 最初の方は「勢い」でどんどん書いて・・・その後はロジックが繋がるか?ということを意識しながら書いていたので、前半は自然湧出、後半はひねり出しています。ぜんぶバレバレなので(笑) ヌード写真出すより、詩を出す方が・・・いや、まあ、これは冗談ですが。
0るるりらさん ありがとうございます、私が伝えたかったように伝わって嬉しいです。 私の好きな伊東静雄という詩人が、初期の頃は、ドイツの観念的な詩をそのまま直訳したみたいな詩とか、哲学書の一節抜き出し、みたいなものを書いていて、同人たちに「詩人ぶってる」「高みで笑ってないで降りてこい」みたいなことを、ガンガン書かれていました(笑) 当時の詩誌はすごいです。お互い、ボロクソに言い合っている・・・もちろん、伊東は他の人を馬鹿にするつもりで高踏的なものを書いていたわけではなく、本人が、そうした世界に限りなく憧れていた、からですが・・・ よくわからないけれど、すごいのを書いてるぞ❗という人や作品に出会うと、それこそ脳髄がぴきっとなるような感じで、うおぉ、あそこに行きたい~みたいになるのですが。行ってみたら更地だったとか、そもそもたどり着く手段がなかった、とか、対岸で指くわえて見てる、とか・・・ そんな感じにもなるのですが・・・レトリックみたいなものは、たとえば川を渡るためのロープみたいな役割を果たしたりするので、使いこなせるようにするのは、悪いことではないと思っています。もっとも、手持ち道具の品評会のようになってしまっても、喜ぶのは同業者だけ、なので(笑)やっぱり、その道具を使ってどこに行くか?何をするか?どう仕上げるか?ということなんだろうなぁ、と思いました。
0古式ゆかしい自由詩の筆致でおじいちゃんおばあちゃん詩人には好評なのかもな、というのが第一印象でした。 詩はいろいろな形式といろいろな世代の希求に浮かぶ、不安定な気球なのかもしれませんね。 言葉がもたらすイメージの速度感がいちいち殺されていく選語はきっと意図されたものなのでしょうね。イメージを説明していくと息切れします。中年のマラソンみたい。 そこに厨ニ的な表現 >指の隙間から漏れ落ち >肘を伝い 二の腕から闇の底に流れ >ああ だれか失われていくものを >その手で受けとめてください を忍ばせても、ああ上から目線なのだな、という悲しさで、肉体の実感を持てないのも劇性を拒絶する演出としては機能していると感じました。 わたしにとっては退屈きわまりない作品、けれどもたくさんの読者にはきっと好意をもって迎えられるのでしょう。 非常に勉強になりました。
0もなかさん コメントありがとうございます。どちらかというと、お年寄りには不評でした・・・よくわからん、という。確かに、こねくり回して、「作って」いるところが大きいと思います。〈言葉がもたらすイメージの速度感がいちいち殺されていく選語はきっと意図されたものなのでしょう〉ご指摘いただいて再読。動きの大きな動詞と、静止した空間、形態観察的なイメージとが、たしかに互い違いに出てきますね・・・どちらかというと、無意識の選択でした。進みたい、疾走したい、気持ちと、とどまりたい、そのままでありたい、気持ちのアンビバレントが、自然に滲み出ているのかもしれません。 〈上から目線〉という感想は、予想外でした。どのあたりで、それを感じられたのでしょう・・・たとえば同じ床面で、輪読するように朗読する、そんなイメージの作品ではないかもしれないですね。聴衆がいて、舞台にいちいち立って行って、そこで朗読する、どちらかというと声を立てて、真っ直ぐに前を向いて、固い言葉で(かっこつけて)そんな読み方、になるような語感や詩行かな、と思いました。身近で寄り添うような感じの言葉ではないですね。 いろいろな発見を頂くコメントでした、ありがとうございました。
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