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戒名
アイスを 舐めたあとの 棒 を 庭で死んでいた 蝉の墓標 にする “アタリ”って 戒名が 蝉に ついた
戒名 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1245.6
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2018-08-13
コメント日時 2018-09-15
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
読んで一言「おめでとう!」と言ってしまいそうになりましたが、そういう詩ではない。蝉の短い寿命と夏によく食べるアイス(大量消費されるであろう)対比が絶妙で、蝉の孤独感とわびしさのようなものが出ていますね。この蝉の墓標をたてた人物が子供なのか大人なのか、女性なのか男性なのかも気になるところですが、少なくとも墓標を立てた人物の蝉への哀悼、そして短い生命というものへ向けた一種の敬意のようなものも情景とともに浮かんできました。深読みしすぎているようでしたら失礼を。
0蝉も当たり前に死んで、アイスも暑ければ当たり前に食べられて、 そんな当たり前が少し悲しくて せめてわたしくらいは 墓をつくろう。 一読目はアタリっていう戒名がついた、という落ちのような言葉に、皮肉げな感覚を得たのですが、再度、読み返してみるとただのシニカルな笑いではないように感じて、詩としてはぼくは何か不足を感じるのですが、でも気になる作品でもあります。言葉たらずで失礼しました。
0帆場蔵人さんの「詩としてはぼくは何か不足を感じるのですが、」に乗っかってコメントさせてもらいますが(失礼!)、本作に詩情を見いだす読みが可能か否か?という命題を拒否するというメタファーこそが、本作が醸し出すニヒリズムの正体だと思うのです。蝉に戒名などもちろん不用。しかし人間だって不用でしょ?的なメタファーが示すところのこと。それは性善説の否定にもつながる。情を他者に求める時、無意識のうちに他者とは善なる者と錯覚をする。食後のアイスバーで供養されるなんて不義理な話があるわけがないと。ある種の残酷性。詩情満載な場所に立つべき塔婆に情けはない。言語は最初から死んでいて、詩としての言語は塔婆のように思い込みによる思い出集めと妄想でしかない。 そう。アタリという偶発性に妄想するのはいつも愚かな人間たちだ。
0こんにちは。子どもの頃、よくやりました。蝉だのカブトムシだのクワガタだのの死骸を見つけたら、埋めてアイスの平たい棒を墓がわりにたてました。そのくらいあの棒はそこらにあった。と、ここまでは経験の範疇なのですが、「アタリ」が戒名になるのは、よくある経験からトンボを切るようで斬新でした。この言葉の「軽業」を見る快感、嬉しいものです。
0ストレートに好き。かわいい。でも素直にかわいい。をまず受け取りたい僕は 行分けされてないほうが好みかも。3行か、最後分けて4行くらいで、 でもそれだと普通はハハハって、それだけでおしまいにされちゃうかな。 でも、ハハハってなって、後でふと思い返したら、おお、な、なんかやっぱ、 ちょっと深いいのかもしんないぞあれ、みたいな。 自分で気付きたいタイプには、って感想でした。
0当たったことがないので、というかそもそも当たり付きのアイスを食べないのでわかりませんが、アタリと書いてあったらお店に持っていけばもう1本もらえるとか、そういう仕組みだったかと思います。 その権利を行使せずに墓標にしてしまうというのは、アタリの棒がまとっているポジティブな要素(おかわりアイス1本分程度の好運)を死者に捧げる行為になるのかなと。 蝉もアイスも供養も夏らしくて、戒名という着眼点が効いていて、そしてちょっとノスタルジックな詩だという印象を受けました。
0植草さん、こんにちは。 僕も蝉が好きです。もっとも蝉に愛情はありません。 理由は死骸が綺麗だから。大抵路上で乾燥して、ばらばらに解体して終わりになりますが、隠しもせず大量に死骸を晒すのに腐らない。臭ったり汚い血や内臓を晒すこともありません。知らないうちに消えていきます。人間はそうはいきませんね。自然死の場合は大抵だれかの手を煩わすことになります。 蝉の死骸の胴が割れて、空っぽの中身を除いたことがありますが、割とよい景色でした。詩に通じていましたね、僕にとっては。 人間が質量なく残せる遺物として、死骸や遺品に比べて言葉や文字は悪くないものです。 死んでしまえば、僕の墓だってアイスの棒でいいわけですが、生きている僕の立場だとちょっと迷惑かな。蝉はどうだろう? 僕だったら蝉の死を自分の死にしっかり紐付けして記述すると思います。言葉の根を深いところまで下ろしたいので。結構死骸の出てくる作品は書いていますが、そのつもりで書いてきました。死骸は僕自身。そう読んで貰えているかどうかはわからないのですが。
0死骸を埋めて墓標を作る、という行為自体、「禁じられた遊び」みたいで少しゾッとしました、死骸を埋めていい事した気分?満足した気分に浸る感情みたいなものに恐怖を感じるのです。しかし、この詩はあまりそんなものを感じませんね、たまたまあたり棒を持っていて、たまたま蝉が死んでいたので、お墓を作ったら蝉に戒名がついたようだった、という。そこに蝉も、主人公の気持ちも介しないのだろうと。多分存在するのは夏の茹だるような暑さだけ。あと、アイスの甘い後味。 とりあえず、好きです。短く簡潔な点も好きです(o^-^o)読解間違っていたらすみません、とりあえず解釈の1例、ということで…
0皆様、感想ありがとうございます。 たいへん興味深く読ませていただきました。 「詩としての物足りなさ」が、根本的な私の資質のなさから来るのか、はたまた文字数を抑え、本来必要だったかもしれない言葉を削って、元来一つだけあるべき作者が用意すべき正解=解釈を放棄して、物語やイメージの自由度を獲得して、多義的で多神教的な、ある種の約束された救済のない無常をユーモアやノスタルジックな要素で包んで、ただ読者の皆様に投げかけた作品なのかもしれません・・・。 って自分でも何言ってるかわからんです・・・。 重ね重ね感想いただき感謝申し上げます。
0泣いてしまいました。 この詩を見つけて読んだとき、「かわいい…!」と声に出してしまいました。 その後すぐ、家族にこの詩を読み聞かせたのですが(家族からも好評でした)、 自分の部屋に戻ったとき、自分の読んだ声が頭に残っていたからでしょうか、 どんどん感情が胸の中で膨らんできて、気づけば嗚咽するほど泣いていました。 かわいいものが、かわいいものを、かわいく慈しみ、かわいい帰結に辿り着く。 もう少し掘り下げると、かわいいものが何かに「かわいい」という感情を抱くということそれ自体。 こういうのほんと自分はダメなんです。 私にとって、これ以上、胸を熱くさせるものはありません。 本当はこの感動を言葉にしたくないくらいです。 なぜ語れば語るほど、本質から遠ざかってしまうのでしょうか。 感動とはそういうものだと思います。 最高の詩です。 ずっと大切にします。 そして「とってもいい詩があるんだよ。」と周りの人たちに紹介していきます。 この詩を書いてくださってありがとうございました。
0しかし罰当たりなやつや。一番最初に地獄に行くタイプがこのタイプや。 蝉の死にむかうこの「残酷」な行為の先に人間の「死」がある。 ここがこのポエムのキーポイントかな。 「アタリ」のアイスバーが“背負っている”ものは、結構重い。
0山本さん、尾田さん、感想ありがとうございます!私は感想に感動しております。またよろしくお願い致します。
0素晴らしい詩だと素直に思いました。
0感想ありがとうございます。無駄な改行のご指摘ごもっともなことと思います。私自体も改行をよりオーソドックスに組もうかと思ったこともございます。私は自作朗読をオープンマイク等でするのですが、そのリズムがもととなり、この改行になりました。(朗読で常にそこで切るわけでもないのですが・・・)またテキストの視覚的にも、今の改行が作者の主観的には合っていて、この形になっております。これは作者の自分勝手な我儘の改行であり、人によってはノイズのように感じられると思います。ただ、私はそのノイズを、この作品では入れたかった。シンプルの素晴らしさに一点ノイズを混ぜたかったのです。美しい顔に、黒子や皺やシミを入れてることで人間味をテキストに持たせたかったのです。 だいぶ後付けも入ってますし、今でも改行等いろいろ悩んでおります。今回の意見を参考に今後に生かしてゆく所存です。ありがとうございました。
0※このコメントは8月選評です。作者様でなく閲覧者様に向けて執筆しました。またこの評はわたしの感想すなわちわたし自身の表現であり、作者様には関係も責任もありません。 その日その庭でその蝉が死んだのも、その蝉がその庭で死んだその日に語り手がアイスの当たりを引いたのも、その貴重な当たり棒を語り手が一匹の蝉に捧げる気になったのも、一般的に言えば「偶然」でしょうが、仏教には偶然という概念がありません。その日その蝉がその庭でその当たり棒に弔われ得た、奇跡的なほど低い蓋然性にも、業なり縁なりがあると説かれています。 【アタリ】という戒名の「当たり/辺り」という、いかんとも言いがたく両価的に感じられてならない掛詞に、衆縁所生の無窮を見た気がして、ひとりで勝手に興奮しました。この仏教的にあり得ない興奮を、合理的に説明する自信はありません。その蝉の衆縁=わたし自身の人生も含む全世界が、語り手の行為によって「当たり」と命名されたような気に、ひとりで勝手になったのでした。われながら罰当たりなほどおめでたい。
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