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向日葵
ところで お前は夜を安全な場所にやり 戦争を妊娠しながらベットにいる 俺はといえば 日増しに膨らんでゆく ノスタルジアに 帆をたてて 太平洋を横切っていく疲れた太陽に唾を吐く 明け方の街は迷走した論理に溢れ 漂流する傷ついた人間の魂をつつきまわる鴉の群れに 澄み切った人間の感性を差し出す コンクリートは願望の歪みを記憶化し 盛り場の女たちの腰に手をまわす だが 俺は平凡な日常が存在するこの場所を 嫌悪した T町の農道でトラクターの親父が 刈り取ったトウモロコシをこぼしていく 意識と窓は似ている 修辞的な意味でそれは事実だ 神経とは統制のきかない自我なのだ 俺は窓を考えることによって人間のことを 考えている 光が人間の進化の深さと広さを残らず 照らし出した後 どんな闇がその廃墟を見つめるのだろうか 俺たちの追憶は 麻薬のように 暗い海の積荷の中に紛れ 人間から零れだした精神を海と呼び 太陽と呼び 文字と呼び 国家と呼び 人間の肉塊を蒼穹に解き放つのだ 人間を発見するのは人間しかいない その血に生きなければならない理由などなく ただ狂った肉の舞踏と悲痛な叫びがあるのみ 木蓮の花が空に突き刺さり 一億枚の窓ガラスをつき破る 今年 俺の庭の向日葵はまだ咲かない
向日葵 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1322.8
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2018-08-10
コメント日時 2018-09-07
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
「戦争」を「妊娠する」という発想が何より斬新で、この詩を最後まで読ませる要因になっていると思います。スタンダールは「小説に政治を持ち込むのは、観劇中に銃を発砲するようなものだ」と書いていますが、この「戦争を妊娠する」というフレーズはまさに観劇中の発砲かと。
0尾田さんがビーレビに初投稿された。以前ツィキャスで尾田さんは恋愛の作品しかなくて、しかもあんまり良いと思わないって言ったんだけど、この向日葵という作品は好きになった。男子の語りというか吐露系の作品は好き。尾田さんの語りの言葉は強くて、ちょっと悲しい。悲しいというか憂いというのだろうか。女子だったらこれを妖艶さというのかもしれない。尾田さんが使う人間という言葉はセクシーだ。ちょっと硬く受け取る読者がいるかもしれないが、愛やら恋やらを通り越してきた僕みたいなおじさんには柔らかく思える。まるでそれは、人間やら世界やらを考え過ぎて涙で濡れて柔らかくなってしまったあそこみたいに。
0照らす光源となるような思考はこの話者の言葉運びのように力強くあるべきだと僕は思う。僕もそのようなものに照らされたい。木蓮の花の咲くすがたは光ある方向を見上げる人々のように映る。しかしこの空を覆うものを一億枚突き破ろうとも向日葵は咲かない。それでもなお重なる濁った意識にあかりを遮られているのだろうか、しかし、「まだ」という言葉には、その先を思う意思と力がある。僕はそう受け取りました。というか、フレーズだけ読んでもこの着地と着地へ向かう言葉使いがとにかくカッコいいと思います。
0平和は戦争を妊娠する、と極平凡に解釈してみます。都市は闇の安逸に背を向け、ひたすら過去と未来の死へと凄まじい量のエネルギーで人を駆り立てます。生殖は破壊と死を産むための暗い欲望を衝動として営まれ、人の意識は認識されるべき世界をもそこから同時に産んで行く。 白い雲も、青い海も、人の心で爽やかに昂ぶる破滅へのプレリュードのように思えます。織田さんはそうした認知そのものをそっと我々の側に押しやってきます。
0stereotype2085さん、こんにちは。 「最後まで読ませる」というのは、ぼくが第一に考えていることなので、 それが拙作反映されているとしたら嬉しい。 作品への評価と価値は、そこから始まると思う。 読者の頭の中へ、あるいは胸の中へ、何を潜り込ませるか? それが詩書きの一番の目論見であり、醍醐味だと思います。 コメントどうもありがとうございます。
0三浦⌘∂admin∂⌘果実さん、こんにちは。 B-REVIEWにはずっと投稿したいと思っていたんですが、ダーザイン武田聡人に遠慮して 書かないできました。「幸い」文学極道を出禁になったのと、少し、書く余裕が出てきた タイミングがあって、投稿しました。 『悲しいというか憂いというのだろうか。』 人間というのは「悲しい」生き物だ思うのですが、その「悲しい」という感情には「種類」 がある。苦しくて「悲しい」こともあれば、嬉しくて「悲しく」なることが人間にはある。 この感情の微妙なグラデーション。これを大事にしないといけない。 甲斐がないのだ。詩はそういうところに分け入る行為なのだと思う。 ありがとうございます。三浦さん。
0ゼンメツさん、こんにちは。 『光源となるような思考はこの話者の言葉運びのように力強くあるべきだと僕は思う。』 ぼくも明晰で力強い詩が好きです。 曖昧なものに、「逃げ込む」ことができるのが、決して詩による表現ではない、と。そう 思うのです。ところで、ゼンメツさん拙作へのコメントも、とても力強く、かつ詩的なもの だと思います。コメント頂いて、投稿した甲斐があったと思いました。 ありがとうございます。ゼンメツさん。
0花緒 元メンバーさん、こんにちは。 花緒さんて詩を書かれるんだろうか?文極でお見掛けして、早々にビーレビューの立ち上げに 加わられ、さらに今の立場は山口・元メンバーと同じ。現在は、ドバイ辺りに出張中なのだろう か?ぼくにとっては謎の人です。 鮎川さんの詩と比較して頂いています。 語りというベースで似た雰囲気もあるのかもしれないですが、ぼくはあんまり好きな詩書きさん じゃないので(笑)ちょっと「心外」かなぁ。 コメントありがとうございます。
0右肩さん、こんにちは。 『白い雲も、青い海も、人の心で爽やかに昂ぶる破滅へのプレリュード』 「破壊」への衝動というのはどの社会や人の心にも潜むものだと思います。 戦争とは破壊の象徴でしょうか? けっしてそうではないと思います。 少なくとも「戦争を知らない」我々の世代にとっては。 欲望そのものがすでに「破壊」を含んでしまっている。 人間というものが、根本的に変わり得る存在であることを証明するか、実践 されない限り、この虚無と絶望から人間を引き離して語ることはできないと 思う。詩はその媒体として適している、ぼくは思います。 右肩さん、コメントどうもありがとうございます。
0蔀 県 さん、こんにちは。 『表現が強い。出だし三行でガッと心をつかまれました。』 『硬質な筆致ながら、とても優しい詩』 ぼくがこの拙作にこめた「つもり」のギミックを全部読み取ってもらえた ような感想を頂き、投稿してよかったと思いました。 蔀 県 さん、コメンどうもありがとうございます。
0おはようございます。コメント欄にて鮎川信夫を好きな詩書きでないと書かれていたので、またも心外な気持ちにさせるのは申し訳ないのですが、彼が書いていた文章に『歌う詩から考える詩へ』というのがあったように思います。私はこの作品を読んで考えさせられました。 それにしてもデッサン用のギリシャの英雄のフォルムをイメージさせますね。無駄なく磨きあげられていて、美しいです。
0こんにちは。(ベット だけすみません気になってしまいましたが) 僕はあまり分析的なコメントは残せないのですが、なんとなく前向きな寺山修司だなと感じました。 それはたぶん、「俺」という一人称が綺麗にその言葉のまま使われているところが、芯として美しかったからだと思いました。ありがとうございます。
0(【選評】の一部を、こちらに貼ります) 尾田さんの「向日葵」は、〈ところで〉という、話題の転換から始まる。話者(詩の語り手)がいる空間で、その前から続いていた〈俺〉と〈お前〉との会話に一気に読者を引き込んでしまう、実にさりげない「仕掛け」である。さりげないので、読者は油断する。油断したところで、読者は〈夜を安全な場所にやり〉という不思議なフレーズに出会う。〈夜〉は固有名詞なのか、あるいは不安や恐れといった形ないものの暗喩なのか。〈戦争を妊娠しながらベットにいる〉さらに読者は驚く。戦争を孕む。それは、時代、なのか、国家、なのか。一人の女性の胎が、歴史、地球といった時空に繋がる大きさに開かれるのだが、脳内にはベッドに居る一人の妊婦の姿が像を結ぼうとしている。そのギャップに、読者は驚くのだ。脳は、ギャップを解消するために論理で「理解」しようとする。戦争、は、戦い、争い、不穏、といった出来事の暗示なのだろうか。これから、この二人に起ること(たとえば、別れ、争い)のメタファーとしての戦争と見れば、個々の関係に絞り込んでいくことになるし、俺を人民、お前を国土や時代の暗喩と見れば、個人対国家というような、大きな枠組みがそこに出現することになる。 語り手は、読者の様々な推論などお構いなしに、相変わらずさりげない調子で〈俺はといえば〉と話題を転換する。読者は黙ってついていくしかない。〈日増しに膨らんでゆく/ノスタルジアに〉ここでもまた、像を結び難い、曖昧な、しかし誰もが知っているなにか、が現れる。夜、戦争、ノスタルジア。概念として知っており、雰囲気やムードも判っているのに、明確な形で捉えられず、輪郭を持ったものとして形容できない言葉。続いて記された〈帆をたてて〉によって、自ら帆を張るヨットのようなイメージが浮かぶ。ノスタルジアの海へと船出していく、孤独な小舟。〈帆をたてて/太平洋を横切っていく〉この流れは実に自然だ。〈俺〉のメタファーとしての、大洋を横切っていく孤独な小舟・・・を連想したところで、〈太平洋を横切っていく疲れた太陽に唾を吐く〉。突然、太陽(理性、正義、肯定、輝かしい世界etc.)に唾を吐く反逆児の姿が現れる。A.ランボーが抗ったような、あらゆるものに対する反逆。太陽のイメージによって、題名の向日葵が通奏低音のように響いていたことまで、読者は知らされることになる。 その後、語り手は〈明け方の街〉という具体的な場を提示するのだが、そこに溢れるのは肉体ではなく〈迷走した論理〉である。論理が彷徨う場所は語り手の脳内であり、いったん外部のものとしてイメージされた〈明け方の街〉が、語り手の心身の内にある世界のメタファーとして二重写しになって来る。そこを〈漂流する傷ついた人間の魂〉は(語り手の魂も含め、傷ついた者たち一般)を、〈つつきまわる鴉の群れ〉は(魂を蝕む不安や死への恐れ)と読んでいくことになるだろう。〈澄み切った人間の感性を差し出す〉は、前の行からの繋がりで読むと、「鴉たち」に感性の清らかな部分を生贄のように捧げる、というフレーズとなり、都市生活に疲弊していく人間精神があぶりだされる。〈コンクリートは願望の歪みを記憶化し〉ここでも願望、記憶化という、夜やノスタルジアと同様の、明確な像を結ばない抽象性の高いイメージが登場する。コンクリートはビル街や無機的な街並みの換喩、冷たい都市の関係性と、そこで受けた痛みの経験が投影されたフレーズと読むことが出来るだろう。疲弊していく漂流する魂を酒で紛らわす、刹那的な生き方が暗示されたところで、語り手は2連に移る。 2連は〈だが/俺は平凡な日常が存在するこの場所を嫌悪した〉と始まる。この場所、とは、コンクリートの街並みのことだろうか。そう、読者が問う間もなく、広大な北海道の耕地のような光景が持ち込まれ、更に〈意識と窓は似ている〉と思弁的な行に飛躍する。〈神経とは統制のきかない自我なのだ〉過敏すぎて都市生活では傷を負ってしまう、そんな自我を、語り手は広大な原野の中に解放しようというのか。トウモロコシをこぼしていくトラクターの親父の居る景色とは、現実の景なのか、心の内に描き出された幻想の原野なのか。ここは、その後のフレーズ、〈人間から零れだした精神を海と呼び〉の伏線ともなっている。心の窓とも呼ばれる目。目がとらえた視覚世界、それは語り手の認知世界ということでもあるのだが、そこで展開しているのは、光が〈人間の進化の深さと広さ〉を照らし出す景であり(一連で、語り手は太陽=光、に、唾を吐きかけていた)、その結果として見ることになるであろう廃墟を〈見つめる〉闇の到来への思惟だ。人間の進化、あるいは進歩を、むしろ廃墟をもたらすものとして、語り手は警鐘を鳴らしているのである。 〈俺たちの追憶〉、ここは一連の、ノスタルジアに呼応する、と見ることもできるだろうが・・・ここから一気に、詩はクライマックスを迎える。しかし、〈人間から零れだした精神を海と呼び/太陽と呼び/文字と呼び/国家と呼び〉この畳みかけていく語法がもたらす切迫感と、太陽、文字(文学、思想、思考その他、文字によって記されるものすべて)、国家(実際の国家、理念としての国家、たとえば神の国、というような言い回しも含め)という大きく、曖昧な言葉の連続がもたらすドラマティックな感慨は、具体的な実感がもたらす身体的な感慨ではなく、言葉そのもの、観念それ自体の大きさが、人間精神を圧倒する迫力からもたらされるものである。 作品は、観念の羅列に陥ることなく、〈人間の肉塊を蒼穹に解き放つ〉という、パラシュートで降下していくような身体的開放感を呼びこむ。さらに、〈木蓮の花が空に突き刺さり〉という誇張表現で春先の空を背景に置いた上で、脚韻を踏むように〈一億枚の窓ガラスをつき破る〉という鮮烈なイメージを展開する(前段に出て来た〈意識と窓は似ている〉というフレーズが、ここにも響いている)。そこから太陽、あるいは光を暗示する向日葵、それも〈俺の庭の向日葵〉はまだ咲かない、とバシッと決める終行は、俗な言い方で恐縮だが、実にカッコイイ。けれども・・・季節的な懸隔、意味内容、観念世界の懸隔、共にあまりにも大きすぎはしないだろうか。壮大なものを、凝縮して詰め込むことによって、本来、大きな広がりを持っていた意味世界が、観念語の中に折りたたまれ、仕舞われた状態に留まってしまうことになりはしないか。 一連目は、イメージが言葉に先行しているように思われるのだが(読者は、その現れては消える様相を味わいつつ追っていく)、二連目は言葉が先に立って詩を無理に率いていこうとしている、言葉に寄りかかり過ぎている、そんな印象があった。 ベットか、ベッドか、という点について、まったく関係ないかもしれないが・・・私の父母は、ベッドを「ベット」、ピッツァ(ピザ)を「ピザパイ」と呼ぶ。同じ世代の義父母も、「ベット」と言うので、そこに懐かしさのようなものも感じた。余談だが、記しておきたい。
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