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余呉
僕は何か不吉なものに身体の奥を揺さぶられたと思った。が、そうではない。湖畔の草むらから大きな鴉が飛び立った、ただその音を聞いたのだ。 吉村の前世は鴉だ。正確に言えば、そういう確信に満ちた自己認識が、彼という人間の中心を形作っている。彼は何も語らない。しかし、僕は偶々そのことを知っている。 だから、吉村が鴉の飛び立った草むらの方へ、不意にほっそりとした首を曲げ、食い散らかされた生き物の死骸を探そうとした、その衝動をよく理解することができた。 水面に落とした墨汁の一滴が、雫の形から解放されて水に広がっていこうとする衝動。リボンがほどけるような穏やかな拡散。その様態こそが、殊に明るい死への誘惑である。存在しない、という意味において、前世は来世と同じだ。吉村が過去を確認することは、未来に爪を立てることである。柔らかい爪、色を失う直前の薄い薔薇色。人は必ず死ぬ。死んでみたいと思う。 余呉の湖は、鴉の翼から散らばって落ちる夜の羽根で、水面にうねる小波の隙間を埋めようとする、徐々に。 「だが、そうなる前に」と吉村は言って僕を見つめた。「一日の昂ぶりはまだ当分消えることはない。余呉の水は光の粉末を溶かし込んでいるから。末期の暗さがよほど祓われている。」嘘ではない。湖の周りの稲田も、葦の群生も、自ら輝いて明るい。 彼は短い驟雨を何度か潜り抜け、賤ヶ岳の起伏を越えてここまで来た。自分の魂を肉体に運ばせる作業に伴う快楽。吉村の前髪は濡れていた。額から鼻先へ雫がこぼれている。 土地への愛情ではない。刹那的な快感原則が、彼の肉と魂に羽根を与え、ここまで羽ばたかせたのだった。 湖面から、この日の最後へ迫る輝き。静かに迫る。束の間、舌が痺れるほど甘い。彼に、吉村に舌を吸われる女性が、口中に感じるであろうものが、それだ。紫がかった叢の包む、赤い腐肉が醸し出す甘みにも等しい。かつて生きて目を見開いていたものの、それ。眩しい甘さ。 湖岸の道は草を分けて伸び、歩けば先々を精霊飛蝗が跳ぶ。ためらいなく飛ぶ。僕らの前を過ぎり、足下から逃げるように跳ね、逆にこちらへ向かってくるものもある。薄暮に透き通る緑の個体。腹に消化官が透け、食われた草の色がだんだん研ぎ澄まされてくるのも見える。 湖畔の、実りかかった稲田と、続く畦の茅の群生が、跳ねるもの、飛ぶものたちを抱えている。この時、この場所の金色。交じる緑。 さらに、その全体を法則性が抱えている。 「すべての法則は脆弱だ。脆く、とてもはかない。」吉村、お前はそういうが、吉村、それは主観だよ。脆いのはお前で、はかないというのはお前の感傷だ。 存在は法則に先行して少しも揺るがない、すべての法則は存在の様態の一面に過ぎないから。余呉も。 そう答えかけると、白い風が湖から渦を巻く。吹き出した風に巻かれ、幾重も巻かれ、吉村の身体が細かく震えだし、やがてスニーカーの足が地上を離れ始めた。 吉村は、このまま高い場所、遠い場所へと飛ぶ。飛ぶのかどうか。いや、飛ぶだろう。 俯瞰するなら、家々の屋根。西岸の田畑。その畦道に僕がいる。さらに上って低層の層雲、高層の巻雲、余呉の湖は一枚の短冊、南方へ展く古戦場。北国街道、琵琶湖北岸塩津の街道、下って長浜、彦根に草津。大津辺りの八景、水の近江。 地球という球体。描かれた地理も地質の造型も、やがて遠く青く潤み、研ぎ澄まされ、刺すような輝きに。 だが、吉村は実際まだ眼前にわずかに浮くままだ。余呉の地誌の圏内に一メートルほど浮遊したまま、僕を見下ろしている。 大きな黒目。冷然と見下ろしている、と僕の主観は彼を描写する。 暗い浮草が水面でびるびると小さな葉を震わせた。震わせる。 吉村、吉村。ここは何処だ。今世は何処にあるのか。
余呉 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1304.5
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2018-11-18
コメント日時 2018-12-31
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
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可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合ポイント | 0 | 0 |
平均値 | 中央値 | |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
*「B-REVIEW杯」不参加作品 いつもお世話になっています。あまり他の方にコメントができなくてすみません。 今回から「B-REVIEW杯」は不参加という形にさせて下さい。長くやっているというだけのことで、一部の方に気を使わせてしまっているような気がして申し訳ないからです。 頑張って書いたつもりですし、書いているときはとても楽しかったのですが、まったくダメな気もします。自分の書くものは自分にはわからないですね。
0どうもです。 次回からは題名に「※」や「杯不参加」など目印を入れてもらえると助かります。 というのはアーカイブ編集の際に題名からすぐ不参加作品とわかるようにする為です。基本本文は開かずに編集をするので、今回のようコメントにしか不参加の目印がないと抜けてしまう可能性が高いからです。よろしくお願いします。
0余呉の湖、芭蕉、蕪村・・・過ぎ去った者たちへの感傷に誘われつつ、水墨画のような背景の中で、「吉村」と「僕」は、腐肉を漁る鴉=死神(的な存在)に魂を吸い取られるような官能の(タナトスを充たされるような)口づけを交わしている、という情景が展開されているように思いましたが・・・エロスとタナトスの溶融、というような方向性というか意図は、あまり感じられず。滅びへの志向が強いのか。 後半、情より理が勝った会話に移行するのは、精神が肉体から離れかけているようなイメージなのか・・・。肉体からの分離を暗示するような飛翔体験への夢想シーンが、唐突に現れる印象も受けました。前段が丁寧に助走を持つような描写であるので、なおさらそう感じたのかもしれません。
0返信、遅くなり申し訳ありません。 渡辺さん、ご迷惑をお掛けしました。次から気をつけます。 まりもさん、いつもご丁寧にありがとうございます。僕は自分のいない場所が死後だと思います。主体がある限り死というものはありません。生きている人が「死ぬ」とは生の最後の営みの一部なので、生者の語る「死」は生々しいものにならざるを得ないようです。生きる者の見る死は、過去の投影としての未来に過ぎない、ということを他人になった自分を通して自分に語ったのがこの作品だと僕は思っています。違うかもしれませんが。 中程さん。ありがとうございます。奇特な方ですねw
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