詩で表現すべきものとは何か。もとよりそれは作者読者双方に主観的に存在し得るものであるが、それを前提に僕自身にとって目指したい詩の姿というものを考えてみたい。
詩は伝達や表現の手段であってはいけない。詩はそれだけでが単独で成立する、一つの現実の提示でありたい。もとより我々の意識の存在理由は、肉体を核とする個別の様態の維持である。目の前のモノが「自分にとって何か」ということが最も重要なことは論を待たない。例えば道に落ちた一本のナイフは通行人の自分にとっては散歩の危険な障害物である。だが、ある人にとっては武器であり、ある人にとってはサバイバルツールであり、ある人にとっては芸術写真のための格好の場面だと映る。それは人によって、時によっても異なるはずだ。だが、その「異なる」のは解釈であり、現実としてのナイフは「マルチミーニング(用語的にはダブルミーニングでいいが敢えて)」としての佇まいを持つ、「対象としての場」である。そう考えると味わい深い。ただし僕たち人間の意識が個体の存続に寄与すべき宿命にある限りは、「その時目の前にあるそれは何であるか」を決める決断を常に迫られている。脅迫的に迫ってくるのは自分自身であるというのもやるせない。僕たちはそういう意識の設計思想、構造体としての意義の抑圧下に置かれている。
だが、僕たち自身が本来「マルチミーニング」としての存在そのものである。ただ、それに気付いても、その瞬間の自己の持つ無限の意味を多面的な輝きとして、意識化で美的に昇華することは肉体構造的に不可能なだけだ。対象としての世界も、僕たち自身も、無限に自由であるのにそれを享受する術がない。路上にナイフを見たら、これは武器だ、放置しては危険だ、と判断してすぐに拾い、交番に届けるのが人として正しい。形態として美しさや、製造にまつわる諸事情などに同時に浸るような感性は持てないのだ。これは言葉を通じてシミュレートする他はない。ただし、モノの解釈を押し付けられた文脈から解放し、様々な意味が横溢するその眩惑、光溢れる陶酔があることを暗示し続ける語句の連なりを作り上げることならば可能なはずなのだ。それが詩の役割の一つであり、より魅力的な享受の仕方でもあろう。そんなふうに楽しめる詩を作りたい。
敢えて挑発的な物言いをすれば、古典的に過剰な「自意識」をただ晒し、互いに見比べて盛り上がるという「ポエム」のスタイルは、表現というより様式化された伝統芸へと、とっくに変質してしまっているのだ。
作品データ
コメント数 : 15
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お気に入り数: 1
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作成日時 2023-03-14
コメント日時 2023-03-20
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2024/11/21 23時27分06秒現在
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水の様な文章 脳から入って全身を巡る感覚 筆者と評価者の力のバランスの問題だろうけど、適切な評を入れられる人は 数えるほどだろう 海軍 大将
3幻惑や陶酔を暗示する語句の連なりとしての詩ということが、自意識過剰への戒めとともに言われているのは腑に落ちました。そもそも多様性です。自由な意識を持つ赤子として生まれ、常識を課されては親殺しなどをして独り立ちする大人、酔えない人。詩くらいは酔えるようになりたいです。自分の中から作り出す力や、心の奥の感受性によって。情緒と明晰さのどちらかが欠けると詩を生むのに難しいことになります。どちらかを持っているだけでも大したものだ、とはならないだろうことに、詩の厳しさみたいなものがあるのかもしれないなと思います。ダブルミーニングの得意な作詞家の柴山俊之という人を僕は好きです。
2コメントありがとうございます。 ここで書いたような作品が実際できても、主題や伝達すべき感情がないわけだから、評を入れにくいものとなってしまうというのはよくわかります。 せめて読みにくいものにはならないように、いろいろと工夫をしてみたいですね。
0黒髪さん、コメントありがとうございました。 眩惑は幻惑とはちょっと違うんですね。物事の持つ様々な相関を、時間的な重層性も含めて作者が一気に暗示し、読者がそれを直感的に受けるというのは幻想的な体験でありながら、リアルで明晰な叙述によって行われるべきではないでしょうか。これは正しさとは関係のない嗜好の問題かもしれませんが。ただ確かにマジシャンの表現するイリュージョンに似ているところがありますね。 僕は音楽にはミーハーな関心しかないので、柴山俊之さんは全然知りませんでした。今度Youtubeで聞いてみます。
1はじめまして。 この論考にあります、詩のマルチミーニング、多義性に興味を持っております。 詩の作者は何かしらその背景を持っています。しかし、多くの場合読者はその背景を知ることはありません。そこで読者はあるところまでそれを推測し、そこからは自分の背景とともに読んでゆく、そこに多義性が生まれます。落ちていたナイフへの見方が人それぞれであるように。 そしてその詩がよいものであるほど多くの人々に読まれ、多義性はより大きくなります。 ただ、落ちていたナイフは交番に届けるのが正解なのでしょうが、詩の解釈は、たとえそれが幻惑や陶酔であったとしても、ひとつのものが正解でその他のものは全て不正解、ということではないように思います。 大切なのは、書かれた詩と読み手との間にたちあがる、アウラのようなものであるような気がします。 何が言いたいかというと、詩の解釈は静的なものではなく動的なもので、多様化し得るものだ、ということです。 ですから、自分の詩に送られたコメントが、自分の考えていたものと違っても、そこにアウラのようなものを感じられたなら、あえて訂正することはなのかもしれないと思いました。 長々とつまらないことを書いてすみません。 いろいろと考えさせられる論考です。
1結局一番いじくってて面白いのは様式化された伝統芸の部分だったりします。その鼻を明かしたくってしょうがないんですよ。
1根本的に間違っていますね。 詩とは空想による絵空事を表現の巧みさをもとに伝達することです。 日本の詩人は自身の思いを語る、いわゆる自分語りが多いんだが残念です。 詩における賢明な読み手とは、発想の特異性と表現の斬新さに着目することであり、 愚かな読み手とは、詩の登場人物と一体化し、そこから何らかの意義を求める人です。 もちろん、これは詩の書き手にも言えることであって、自分の思いやイデオロギーを 作品に投影すべきではありません。 良くない詩は、自身の思いが表現と混然一体化している、 そのため、読み手はその作品から鮮やかなイメージを得ることができない。 しかしながら、愚かな読み手は、そもそも詩からイメージなど求めてはおらず、 詩の中の「私の思い」と共感することしか求めてはいない、 そういうことですね。
1ABさん、コメントありがとうございます。 「手段」という言葉には、目的のために使われるだけのものであって、それ自体には価値がない、というくらいのニュアンスを含ませています。僕は「手段」というのは時間と人の意識に関係して生成されるものであって、実在していないんじゃないかと思っています。ナイフが林檎を切断するのを目前にしても、ナイフがものを切る手段として存在しているとは思いません。 言葉ばかりでなく、本当はモノとコトも多面的な連なりの中にあって、詩にはその本来的な自由の解放された状態を感知させる力があると信じています。
1m.tasakiさん、コメントありがとうございます。 詩の解釈というものが、作者と読者の間に多義的に成り立つというのはその通りだと思います。よく言われることですが、誤読も、その当否はさておき、読みの一つとして正当な存在であると思うのです。 ただ、僕が詩で展開したいと思っているのは、文脈によって明示されるところの事物の多義性の開示ということです。「かわいらしい小鳥がいる。」というありふれた(と僕が考える)センテンスは、「昨日の僕が鳥を見ていた。それはほぼ成体であろうと推測されたが、身体の大きさからして小鳥と呼ぶべき種であるようだった。かわいらしい、と僕は思っている。『かわいらしい』とは何だろう。小鳥の内臓の中では先ほど食したミミズが消化の過程をたどっており、ミミズの感知した時間と世界が消化液の中でふつふつと分解されている。そうに違いない。さて、今日の僕は昨日のことを思い出している。かわいらしい小鳥がいた、と。」と書けばもっと自由になるのかな、と思います。ダーウィンがきちゃいそうですがw。
0妻咲邦香さん、コメントありがとうございます。 そうなんです。僕も俳句をやっていますが、いつもイライラしていますね。季語、たとえば秋の盛りに桜の花のことを考えて句にしちゃいけないのか、現実に食べている冬の茄子のことは俳句にならないのか、ということです。それにはちゃんと理由があるのですが、とどのつまり伝統俳句は「芸」であって「文学」ではないのです。高浜虚子本人が言っているので間違いありません。それは悪いことではなくて、芸も極めれば「芸術」なのですが、僕は自身はいつか鼻をあかしてやりたいと思っています、無理なんですけど。
1watertimeさん、コメントありがとうございます。 そういうことです。そんな詩を書きたい、と僕も思っています。でも、僕にはいわゆる「ポエム」や「癒やし詩」を頭から否定はできません。僕は到底そのよい読者にはなれそうもないですが。僕は十分愚かな人間だし、僕の書く詩も読む人によってはめちゃくちゃ愚かな作品だと思います。でもいいや。しょうがない。道が違う相手のことはわかりません。 たとえば、「俺はお前の詩を読んだが、まったく心を動かされたことがない。俺が今まで読んで一番感動した詩は、『北斗の拳』のラオウが最期に言った、『我が人生に一片の悔いなし』というひと言だ!お前にそんな言葉が書けるのか?」と言われたら「書けません」と言って淋しく去るだけです。僕も感動して読んだもんなぁ。でも、「ラオウの一行を目指して毎日8時間詩を書き続けろ、うりうり」といわれたら絶対に嫌です。「きれいな月の夜に、菫の花を摘んで君の窓辺に届けたい、愛の歌と一緒に。」なんていう詩も排除する気にはなれないな。吐きそうだけど。 ラジカルに考え直してみると、「現代詩」というのがそもそも「詩」という概念の破壊に拠っているのだ、と僕は考えます。何でもありです。でも、「お前の詩にはお前が責任を取れよ、十年後のお前がそれを読んで恥じないだけの自信を持つまで自己破壊を続ける覚悟はあるか」と常に問われている感じがします。そういうことです。
0なによりも考察されている観点に到達されていらっしゃる詩への愛着に、いや、もしかしたら、愛着ではなくてその逆なのかもしれません。以前に右肩さんご自身が、自分の作品は詩ではないと認識されているという主旨の発言をされていたことがあった記憶があります。それを読んで同族な感覚、そういうと失礼なのかもしれませんが、安堵感がありました。詩を書かなくてもいいのかという。私は詩を書こうと意識すればするほどに選ぶ言葉が、組み立てる語句が、なにやら現実から遠のく気持ちになり、そうではなくてと、そういう残念な詩を書いて、投稿に至ります。「たとえ偽りに終わったとしても」なんて言うとかっこいいですが、つまるところ、技巧無き、無能な人間だと己を諦めるだけでしかありません。ただ「ナイフ」と言葉を書く。それだけで作者である私の人間を表せるとしたらそれこそが神の所業であるところの藝術、クリエイティブ、創造。それこそが詩によってしか為せない表現ではなかろうかと。本作を読み返しては思索した私の実感です。右肩さんお久しぶりです。
1お久しぶりです。Twitterでのご活躍、拝見しております。 今も自分の描いているものを詩と呼んでいいのか、はわかりません。現代詩文庫もさほど読んでいないし、知識不足は否めないと思っています。ただそういう正しい文脈から詩を書こうというつもりはなく、あくまでも僕の個的思考実験の中から生み出された流儀で勝手に悪戦苦闘しているわけです。 例として挙げられた「ナイフ」という言葉は、ある意味詩語ですよね。「錆びたナイフ」という題名の裕次郎の歌があったり、「ナイフみたいに尖っては触るものみな傷つけた」と「ギザギザハートの子守唄」でも言ってました。「少年ナイフ」という名前のバンドもありましたね。おぞましい少年犯罪でよく用いられましたし、稲垣足穂の匂いもします。でも、全くそれと違ったナイフもあるはずです。 こういう固定概念に染まった文脈から言葉を救い出し、新たな情感でブラッシュアップするのも「詩」の役割の一つかもしれません。
0イェイツが「このようなときには 詩人は沈黙している方がよい。事実 詩人は政治家を正せるような才能に恵まれていないから」と語るとおり、詩は、いっさいのプロパガンダから離れているべきであり、あなたが記述した「詩は伝達や表現の手段であってはいけない。詩はそれだけでが単独で成立する、一つの現実の提示でありたい」ということばには、ボクもまったく同感です。また、「道に落ちた一本のナイフ」の譬えもじつに的確な記述だと思いました。しかしあなたが言う、「モノの解釈を押し付けられた文脈から解放し、様々な意味が横溢するその眩惑、光溢れる陶酔があることを暗示し続ける語句の連なりを作り上げることならば可能なはずなのだ。それが詩の役割の一つであり、より魅力的な享受の仕方でもあろう」って、ボクのようなヘタクソには物凄く難易度が高いどころかホモ・フカノウ、ちゃう、ほぼ不可能に近いことも確かだ。(努力はするけど、、) やはり【古典的に過剰な「自意識」をただ晒し、互いに見比べて盛り上がるという「ポエム」のスタイルは、表現というより様式化された伝統芸へと、とっくに変質してしまっているのだ】とすれば、早晩「この場」も終わるべきかもしれないね。
1atsuchan69さん、コメントありがとうございます。 共感いただけたようで嬉しいです。 ただ、最後に引用下さった部分は僕の勝手な言い分なので気にしないでください。過剰な自意識を晒した詩が僕は嫌いだけれど、あっていけないことはないですね、全然。 そういう作品に共感する人がレベルが低いとかそういうこともありません。むしろ僕の書くものはちっとも面白くなく、別の立場から見ればゴミ以下だと思います。ここで述べた理屈通りに書いて発表したのが、「精密にできている」でしたが何のコメントも頂けなかったんで、これは作品としてダメなんだと思い知らされました。リーダビリティーがなかったのですね。僕が歌謡曲の歌詞のようなものを書いて人の心を動かせるか、と考えるとそれはホモ・フカノウですw何が偉い、どれが本物か、とかじゃないと思いますよ。何を書きたいか、じゃないでしょうか。
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