「おくわ」伝説 - B-REVIEW
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ことば

ことばという幻想

純粋な疑問が織りなす美しさ。答えを探す途中に見た景色。

花骸

大人用おむつの中で

すごい

これ好きです 世界はどう終わっていくのだろうという現代の不安感を感じます。



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「おくわ」伝説    

とり残された桜並木の土手を歩く はなびらが路上を染めるころ 時折、うすい血のにおいがする おくわ団子のたれが濃すぎたせいだろか 土手には風化した石造りの祠がひとつ 傍らに曼珠沙華の茎がせつなげに赤をひそめ 贄の娘おくわが聞く とおい夏祭りの声 快活な恋人たちは祠の影にも気が付かない 桜並木を分断した大通りを背に川にでた 鵜匠の庭の剪定鋏が水面のひかりをさらに光らせた 河原で白い首の女がおくわのしずまる水と戯れる わたしの片脚に絡みついた川藻が取れない 川のいのちに浮かぶ篝火が ゆっくりと夜を動かす  鵜の嘴が苦しまぎれに何かを吐き出した 村一番の美少女が黄泉で食した銀色の あやしくふるえて光るもの


「おくわ」伝説 ポイントセクション

作品データ

コメント数 : 19
P V 数 : 1217.9
お気に入り数: 0
投票数   : 0
ポイント数 : 0

作成日時 2017-08-30
コメント日時 2017-10-02
項目全期間(2025/04/09現在)投稿後10日間
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閲覧指数:1217.9
2025/04/09 17時04分38秒現在
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    作品に書かれた推薦文

「おくわ」伝説 コメントセクション

コメント数(19)
三浦果実
(2017-08-30)

何かしら、生贄がキーワードとしてある神話が背景としてあるのだろうかと一読した。その神話か史実としてか知識を持ち合わせずに読んだので、置かれている言葉から受けるところの情景は極私的なものになってしまうが、この作品にある夏祭りが生活する地域に潜む禍を鎮めるため、という目的があるとすれば、「贄の娘」と「快活な恋人」は、今昔の時空を超えた不思議な繋がりを感じる。その不思議なる感じが、「祠の影」であり、結末にある「あやしくふるえて光るもの」に現れ、夏祭りの賑やかな描写の影としてコントラストを与えていると思う。しかし、読者の欲を言えば、霊的なものの象徴としての娘、美少女であるとすれば、その少女・娘の表情まで描かれていた方がいい、と思う。なぜならば、幽霊を私は何度も観ている。彼、彼女らは、一般的に語られるような無表情ではなく、いつも微笑していたり、怒っていたりするから。失礼。

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ハァモニィベル
(2017-08-30)

はじめまして。よろしくお願いします。 雄総の桜堤から夜の長良川にいたる叙景詩。絵画ならラファエル前派など神話伝説を題材にしたみごとな作品がありますが、本作も、スケッチというより絵画のように彩られた、伝説をモチーフにした作品ですね。 《ひとに命を捧げるものを詩人という》という定義にしたがえば、この小さな祠に祀られた、偉大な少女(=《詩人》)をタイトルにした詩としては、一読したとき、ドライな印象を受けたので、むしろ「おくわ」より「伝説」という方に重点をおいたリアリズムなのかな、と思いましたが、よく読むと、渋い(抑制のきいた)ロマンチシズムが香っている、あるいは、拭いきれないロマンの苦さをさり気なく湛えた、とても好ましい名品と(わたしは)感じました。  「とり残された桜並木」からおちた路上の花びらに薄れつつある血のにおいを思い出す。その抒情から、一聯めのおわりは、一転団子の話へ(リアリズムを思わせる)。  つぎの聯でも、同じく、情景描写から、さいご一転、「恋人たちは祠の影にも気が付かない」 とリアリズムな感じ。  そこで、リアリズムな感性の作者なのか、と思わせながら、じつは、第三聯からは、 「わたしの片脚に絡みついた川藻が取れない」とリアリズムにはなり切れない心情が、かすかに吐露される(ようにわたしは感じた)。  なぜなら、次の聯で、「鵜」が、「苦しまぎれに何かを吐き出」さねばならなかったから。  それが、たんに鵜の嘴に瞬殺されたアユであるなら、(鵜自身も)なにも苦しむことはない。けれど、それが、人々のために自らを貫いた《覚悟》であったなら、その偉大な《詩人》のこころを想うもう一人の詩人のこころに、絡みつき、胸につかえたものになるに違いない。  私は、そのようにこの作品を読みました。 (以上です)

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白島真
(2017-09-01)

三浦さん 遅くなってすみません。コメありがとうございました。 史実かどうかはまだまだ研究の余地がありそうですが、一応、江戸期の長良川氾濫をせき止めるため 生贄の風習があったことは、いくつかの地区でも言い伝えが残っています。 この「おくわ」の祠は自宅のまん前にあり、徒歩1分です。伝承は以下のブログを参照してください。 http://www.lets-gifu.com/page/machi_detail.php?c_topic_id=7883 私が書きたかったそもそもの動機は「風土」という問題意識からで、たまたま家の前の祠のいわれを調べたことから始まりました。当初は伝承そのものに関心があり、詩にするつもりはなかったのです。 >「贄の娘」と「快活な恋人」は、今昔の時空を超えた不思議な繋がりを感じる その通りで、贄の娘「おくわ」も伝承によれば生きながら人柱にされたわけですから、さぞ無念であっただろうし、現代の若者のように恋のひとつもしてみたかったと思います。河原の「白い首の女」も同じような意味あいで登場させていますが、やや怪しい雰囲気作りの導入部となっています。 少女・娘の表情まで描いて欲しかったとのことですが、それですと神話的意味あいが薄らいで、あまりにリアリティーを持ちすぎてしまうので、私は同意しかねます。おくわに対して「幽霊」という発想も皆無でした。

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白島真
(2017-09-01)

ハァモニィベル さん コメ、ありがとうございます。 >雄総の桜堤から夜の長良川にいたる叙景詩 冒頭から意表を突かれてしまいました。詳しいし当たっている・・・・(笑 岐阜市にお住まいなのか、伝承にご興味があって調べていらっしゃるのか、あるいは私の詩集(作品は未掲載ですが)を読んでいただいて、跋、あとがきなどから類推されたのか、ツイッターを見てらっしゃたのか、いずれにしろビックリw  リアリズムをベースにした詩の切り取り方の考察、とても参考になりました。 この詩は実は伝承を調べているうちにどうしても書きたくなって、詩作。 たまたま市の文芸祭があるのを知り、間にあって応募したところ文芸祭賞受賞となりましたが、 その時の選者のひとりが、リアリズムの素晴らしい詩を書かれる方でした。(受賞後に買って拝読) この場合のリアリズムとは、生活の中から詩を発見して言葉にすると言う意味で おそらくここでのハァモニィベル さんもそのような意味合いで使ってらっしゃるのではと思います。 いわゆる生活詩と呼ばれるものもその一つでしょう。 通常、私はもっと観念的な詩のスタイルですが、やはり伝承というテキスト、祠という実在物、おくわ団子、長良川、鵜飼という叙景などがあるので、どうしても観念とリアルが結び付き、拮抗することになります。 そのリアリズムと観念のバランスを無理なく調和し、違和感を持たれないよう作詩したわけですが、 果たして成功しているかどうかは、読者の判断を待つしかありません。 そういう意味で辛口のハァモニィベル さんに「好ましい作品」と言っていただけたことは、素直にうれしいです。 技法的には >快活な恋人たちは祠の影にも気が付かない >わたしの片脚に絡みついた川藻が取れない この2行の意識的な「カ音」の多用。 >川のいのちに浮かぶ篝火が ゆっくりと夜を動かす この行だけで、20回位は書き直し、推敲を入れております。 ちなみに生贄の娘を詩人と思う発想は皆無でしたが、言われてみれば、なるほど、そういう解釈もあるなーと思いました。  「あやしくふるえて光るもの」は勿論、直接的には「鮎」ですが、鮎は神話上、この世とあの世を繋ぐ生き物とされています。鵜飼という行事もそれだからこそ、長い伝統を持ったのでしょう。ですから、これは少女の化身でもあり、光に反照されるわたしたちでもあるという気持ちを込めました。それが、ひらがなに開いた意味でもあります。

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まりも
(2017-09-01)

四行ずつに形にまとめられた連が、さらに四連重なっている。起承転結を、自然な形で二重に封じ込めた構成的な美に、まずは感嘆しました。 〈時折、うすい血のにおいがする〉〈土手には風化した石造りの祠がひとつ〉〈わたしの片脚に絡みついた川藻が取れない〉〈鵜の嘴が苦しまぎれに何かを吐き出した〉 異界へ取り込まれていきそうな不穏さが、ひしひしと迫ってきますね。 無理のない「写実」的表現によって綴られていく。この場合の「写実」は、写真機で映した情景、ということではなく、心の眼がフォーカスを絞った点を写生した、というような、そんな意味での「写実」です。 かつて、生贄として捧げられた少女の魂は、まだ川の中を漂っていて・・・時に川藻に宿り(少女の髪の毛のように、訪れる者の足にからみ)、時に鵜に飲み込まれて、苦しさのあまり鵜によって吐き出され・・・(鵜は有と音が同じですね、そういえば。)ひかりながら、ふるえながら、再び川に戻っていく。 〈川のいのちに〉ここで、いのち、という言葉を使ってしまって、いいのか、どうか・・・私も、いつも迷うところです。なんだか、安易に観念に逃げてしまっているのではないか、そんな気がしてしまう。川が息づいている、なまめかしくうねっている、その表に反射する篝火・・・川藻が生み出す女の髪のイメージから、さらには女の肌のイメージにまで行けそうなところ、ですが・・・妖しすぎるかな(笑) 河原で~の情景のあと、わたし、の片足が水の中にある景に飛ぶ。もちろん、充分に情景は観えるのですが・・・たとえば。踏み入れたわたしの片足に絡みついた川藻が取れない、と動きを先に入れておくと、川に入ってしまったわたし・・・禁忌の領域に踏み込んでしまったわたし、というイメージが、さらに増幅して迫って来るのではないか、なんて、余計なことも考えたりしつつ・・・ 美しく妖しく凝縮された作品だと思いました。

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前田ふむふむ
(2017-09-02)

こんにちは、白島さん。 作者が、村の繁栄を願いながら人柱になったおくわ伝説のことを 思いながら、村の繁栄を願う、夏祭りがおこなわれている この対比がとても、鮮やかに出ていて、このテキストを、より ダイナミックにさせていると思いました。 全体として、コンパクトに4連でまとめていて、 とても密度も濃く、語られている情景が、見事なほど、 リアルに読み手の僕に、ひしひしと伝わってきました。 また同時に、 「河原で白い首の女」「銀色の あやしくふるえて光るもの」 「鵜匠の庭の剪定鋏が水面のひかりをさらに光らせた」など、 夜なのでしょうね。この世とあの世をつないでいる 境界をイメージ出来て、エロスさえ感じます。 ただ、1連目の、僕の誤読かもしれませんが 少し弱く感じました。 「染めるころ」「せいだろか」という語り方が、 やや感傷的なせいかもしれませんが、 「染めるころ」を「染めていた」としたなら、 2連目以降の、きっちりとしたリアルな強さが出たのではないかと思いました。 でも、そうしたら、全体がギスギスしてしまうかもしれないので、 あくまでも、僕の好みの感想です。 勿論、見事に纏めた、とても、良い作品だと思いました。

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田中修子
(2017-09-02)

何と申しますか、とてもエロティックですてきですー! 「おくわ団子のたれ」 すごいですね。ぞっとしました。 私はおくわも、おくわ団子のことのことも、はじめてこの詩で知ったのですが、 二回目に拝読したときに、みたらし団子のようなおくわ団子のたれが真っ赤な血そのもので染まって、 夏祭りでみんな美味しそうに血塗れの団子(=おくわの魂であり肉)を食べている、 そうして胃でおくわ団子が溶けたころ、自身にもなぜか贄にされた記憶がかすかに思い浮かび、 快活な恋人たちが、快活に笑いながら川に入って自ら意味もなく贄になってゆく、 という死の伝染のような情景が浮かんできました。 想像過多なんでしょうけれども、想像過多にさせる文章って見事で素晴らしいですね。 おくわという響きがもうたまりませんでした。

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白島真
(2017-09-04)

まりもさん オーソドックスで的確な読みをありがとうございます。 そもそもこの詩を書き始めた動機は、前にも言ったとおり「風土」に関心を持ったからです。洪水を止めるため「おくわ」という村一番の美少女(処女でしょう)が、抜擢されて生きたまま埋められる人柱となる。彼女が進んでその犠牲を受けたのか、相当の逡巡があった末なのか、言い伝えは分かれています。このころの長良川の氾濫は畑を水没させ、村人を飢餓に陥れるほどひどかったといいますし、やさしいおくわはしばらくの逡巡後、自ら引き受けたのではないでしょうか。従って、片脚に絡みついた川藻は、おくわの長い髪というイメージは勿論あるのですが、おどろおどろしいものではなく、生贄の風習に対してと、その犠牲者が忘れられていくことに対しての反発の隠喩でした。 反発といえばその前の桜「並木を分断した大通り」も行政批判の隠喩です。昔はずっと延長された素晴らしい土手だったのですが、環状線着工がそれを分断し、短い桜並木になってしまいました。白い首の女も現代の川端で遊んでいる少女の象徴ですが、川で遊べることに、同じような年齢の死を書けた行為があったこともきっと知らないでしょう。怪しい雰囲気作りへの導入部と書きましたが、多少の現代の若い人たちへの皮肉もこめられています。従って3連はかなり批判的な連といってもいいかもです。 そのような中で川の安寧、静けさが保たれているので(勿論、おくわ人柱だけの効力ではないですが)、あえて「いのち」という表現を入れました。この辺りは斎藤道三が戦ったところでもあり、多くの血が川に流されています。おくわ、戦死者の命を浮かべる歴史の川なのです。 >女の肌のイメージにまで行けそうなところ >禁忌の領域に踏み込んでしまったわたし、というイメージが、さらに増幅して迫って来るのではないか いずれも一理あって面白そうですが、4行で纏めるという制約の中では難しそうです。 「踏み入れたわたしの片足に絡みついた川藻が取れない」ですとどうしてもセンテンスが長くなってK音の効果も薄れてしまう気がします。 しかしながら、しっかりした読み込み、感謝です。 ありがとうございました。

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白島真
(2017-09-04)

前田ふむふむ さん >「染めるころ」「せいだろか」という語り方が、 >やや感傷的なせいかもしれませんが、 たしかにそういうお考えもあるかと思います。 しかし、「染めていた」ではその光景や「染めていたそのもの」に主眼が要ってしまいます。 ここはあくまで「季節」を打ち出したかったので、「ころ」としました。 実はおくわ団子を売っている時期は夏まつりではなく、桜満開の春なのですね。 そしてどこかで村の夏祭りがあり、(勿論、土手でも簡単なものをやってます)、やがて曼殊沙華の秋を思わせてと、結構、季節の時間の流れも読み込んだつもりなのです。 あと「おくわ団子のたれが濃すぎたせいだろか」は、これから少し重い人柱(贄)のことを語るので 導入部わざととぼけた感じで意図的に軽くしました。「何じゃ、これは?」と思っていただければ大成功といったところです。 ただ、この2行で全体的な雰囲気をやや壊しているとお感じになれば、それは各人の感性、詩的体内リズムのせいでしょう。わたしには、とぼけていてもそう違和感がありません。

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白島真
(2017-09-04)

田中修子さん おくわ団子への想像力、素晴らしい。もう、これは修子さんの詩的世界だから、是非、そのような作品を書いてください(詩でも散文でも) きっと修子さんの筆力なら面白いものが書けそうだね。 団子に焦点を当てて、ここまで想像を膨らませられる修子さん、 おぬし、やはり只者ではないわー。

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前田ふむふむ
(2017-09-04)

こんにちは。僕は、夏を主眼に読んでしまい、季節の流れを読みませんでした。誤読したようですね。失礼しました。 でも、その誤読でも、詩の良さが十分出ていて、映像を思わせる良さがありました。とても良い詩です。

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白島真
(2017-09-04)

まりもさん 私の返信箇所、2連「死を書けた」ではなく「死を賭けた」です。訂正します。

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白島真
(2017-09-04)

前田ふむふむ さん 詩は誤読あって何ぼのものと思っています。 特に最近の現代詩は意味のとりにくいものが多く、 大半の読者や選者が誤読を前提として、詩を読んでいるような気がします。 それでいいのだと思うのです。 映像を思わせる詩という褒め言葉は狙ったものであっただけに、うれしいです。

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二条千河
(2017-09-05)

こんにちは。 おくわ団子、祠、桜並木、鵜飼のいる川などの具象性が、詳細の書かれていない(ゆえに、知らない読者には実際に存在するものなのかどうかすらわからない)伝説のミステリアスな雰囲気と相まって、とても印象的な作品ですね。 一人の少女が人柱として埋められ、それが迷信とか因習とか見なされる時代になった今、こうして詩という形で掘り返すというのは(作品の外側の感想で恐縮ですが)、時を超えた浪漫があるなあと思いました。

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白島真
(2017-09-06)

二条千河さん ご感想をいただき、ありがとうございます。 風土の中の言い伝え(因習)や、迷信、あるいは名付けられた土地の由来など、調べていくとなかなか面白いものがあります。その中で詩のネタになるようなものもあり、結構、その時代に浸る感覚を覚えたりするので楽しいです。伝説の再生産、ってところです。

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田中修子
(2017-09-29)

「おくわ団子」  友人が、たのしい地獄、と名付けた都会を歩いている。この街はいつも電気と人の祭りで、夜中になろうとするのに、夜があかるい。  ここではみな、男も女も見分けがつかない。年寄りも若いのも、うじゃうじゃいて、みんな同じだ。  この群れの中では私ははみだしものだと思いたいけれど、はみだしものすらうじゃうじゃに混ざって、やはり、私もなんでもない。  誰かをいじわるに思う私すら、いったい誰だろう。部屋に大量に湧き出て、無表情でつまみあげて塩をかけた巨大ななめくじたちのように、都会という排水溝の中にまざりあって溶けている。  電車ですぐ来られる距離にかかわらず、私は普段ここまで外出することがない。近所のスーパーに買い物にゆき、運動不足の解消のため近所のスポーツジムでときたま泳ぐ、精神の安定のために近所のカウンセリングに行く、人をならしてたのしい地獄の病。  それで時たま祭りに参加したくなる。昔ながらのハレの祭りではない、ケの日常でもないのなら、名づければ毎日催される、どんより曇の毎日誰もが無理やりはしゃぐ祭り、排水溝の中でぐちゃぐちゃにまざりあってゆく都会のあかるい夜よ。  外国人が巨大な電気と人のぐちゃぐちゃに入乱れる交差点をを動画におさめ、私はそれを見る。すらりとしたいまどきの人形のような女の子が歩いてゆく。体のどこかにピアスを付けた男が歩いてゆく。こないだ来たときとも変わらずに毎日催される、けばけばしい、どんより曇祭り。  私も緑の電車にしゃがみこんで、そっと参加している。  隣にいた男がごそりとリュックから紙を取り出して読み出すと、いきなり、その声で曇が割れた。  都会の薄明るい空がごっそりと、田舎の夜のように暗くなる。電光掲示板に、巨大な狐の面が浮かぶ。白に赤、ニヤリと笑う。 「 おくわ伝説 とり残された桜並木の土手を歩く はなびらが路上を染めるころ 時折、うすい血のにおいがする おくわ団子のたれが濃すぎたせいだろか ・・・・・・ 」 ほがらかな人柄を思わせる、しかしなにかがのりうつったように腹からひびく声を聞いて、私の耳にとどろいた。  男のとなりには幼子のような男の妻が立っていて、男の腕に手をかけほほ笑んでいる。  私は猛烈に腹が空いた。  腹が空いてめまいがして倒れそうになった。  瞬きして気づくと、そこは、祭りだった。  老若男女すべてが、とつぜん、浴衣を着こなし下駄をはいていた。ヘンテコな今様の浴衣をきている若い娘も、ピアスが映えるような黒い浴衣を着ている若い男もいれば、正当で、あれぞ日本じゃ、とほれぼれするような着こなしをしている人々も多い。片手に缶ビールや電球ソーダ。もう片手に焼きそばやたこ焼き、それから、団子を持っている人々も多い。  その団子は、いっけんみたらし団子のようだったが、みたらし団子と違ってタレは茶色ではなく、ぞっとするような、血のように澄んだ赤なのだった。  私だけは取り残されたように、近所のスーパーで適当に買いそろえたままの服を着ていた。  あれが、「おくわ団子」だ、と私は分かった。そうして、知らぬはずの「おくわ」のついての知識が、脳の階層の中からふっと発見されたアンモナイトの化石のように、つやつやと思い出されてくるのであった。  「おくわ」とは、ある町の発展のために人柱にされてきた娘であった。そうして「おくわ」は、実はすべての人柱の、もととなる者だった。  人柱の風習がはじまって終わるまで、人柱とされた娘には、たとえば「すず」とか「おりょう」とか、そういう名前の娘ももちろんあった。しかし、日本で最初に人柱となった娘の名が、「おくわ」であった。そうして、いままでに何十人か何千人か知らぬけれども、人柱となってきた「すず」とか「おりょう」たちも、実は、すべて「おくわ」の生まれ変わりなのである。同時代、同時刻に人柱にされた「すず」も「おりょう」も、不気味なほどに同じ容姿をしているのだが、それに気づいたものはない。中には、双子が人柱となるときがあり、手をつないで息絶えるとき、ふたりの「おくわ」ははじめて、ひとりゆく孤独を知らないこともあった。  私は、本当の名前を思い出した。  私は、「おくわ」である。  いくつの村、いくつの町のために、どれだけ人柱となってきたろうか。どれだけ荒ぶる川に投げられ、土に埋もれてきただろうか。テレビで恐ろしい氾濫を起こすあの川の底に、いまはくさむらとなったあの廃村の空き地にも、輝く都会の地の底に、私は存在していた。  私が幼いころから両親に疎まれてきた理由が分かった。何人か男と付き合ったが、誰も私の空虚を埋められた男はいなかった。私は数多の自らの死の上に立ち、飽きて、そして、死を乞うていた。  巨大な交差点は、トウトウと黒く鳴る川になり、浮き灯籠が赤に橙に輝きながら流れ、夜だというのに鵜も、鵜飼いもいるようである。  渋谷の駅前の百貨店は「露店ストア」と名が変わっていた。  さて、最後の腹ごしらえをしよう。私はうきうきと「露店ストア」に入っていく。  威勢のいい男たち女たちが、リンゴ飴や広島焼、ビッグ・ポテトフライやケバブ、射的ゲームなどに声をあげて客寄せをしている。私はこれから人柱になるので、手を差し出せば多くのたべものが手に入り、子どものようにはしゃぎながらゲームをやった。  最後に〆で食べたのは、もちろん「おくわ団子」であった。  もともと「おくわ団子」とは、川に入った「おくわ」の死体を食べて肥えただろう鮎(鮎が取れない時期は、白身魚で代用する)をすりつぶしてつくね芋や卵白と合わせてはんぺんのようにし、水あめにベニバナをといたタレをかけたものである。すこし塩辛く、タレはべとりとして甘い。  もう、腹はいっぱいである。  「あなたのその帯をいただけませんか」  となりの若い女の子が現代風の帯にしている淡いチュールをそのように頼むと、女の子は素直に帯をほどいてくれ、浴衣の前がはだけたが、それよりもこれから行われる儀式の一部に自分の帯が使われることを誇りにしているようであった。  さきほどまで巨大な交差点であった、いまは浮き灯籠が赤に橙に黒く流れる川の前に立ち、私は足をチュールの帯でくくった。  私の両隣には、私とまったく同じ顔をした女たちが、同じようにずらりと並び、人柱になる準備をしていた。数百人はいる。彼女たちは私であって、すべての「おくわ」であった。  足をくくりながら私たちは懐かしくおしゃべりをする。  「ねぇ、これだけ私たちが人柱になって、この街は、この国は、またどのように発展するかしら。ぜんたい、私たちのおかげよねぇ」 「私たちがこれだけ集うことも珍しいわね。はじめての出来事かしら。いいえ、日本書紀に出てくるあのころ、いちどあったような記憶もあるわね」 「あなたよく覚えていてね。私はもう覚えてないわ。でも嬉しいわ、私たち、これまでだいたいひとりぽっちだったのにね」 「滅びるんじゃないかしら」  もう、誰が私で、私が誰なのか、どの「おくわ」がそういったのか分からない。  「滅びのための人柱ではないかしら」  「じゃ、お先に」  私は立って川に飛び込んだ。  暗く流れる川の底、私の口や鼻から漏れてあがってゆく銀色の泡。底から見上げる浮き灯籠の輝き、ひらめく魚たち。つぎつぎにしずかに「おくわ」たちが川の底に落ちてくる。  息苦しさに目をつむる。  これから素晴らしい発展をとげるこの街、そのすばらしき礎。 --- 「おくわ団子」があまりに頭を離れないので書いてしまいました! (書きあがりナウ。誤字脱字ないかこわいナウ) もちろん作中のおくわ団子は私の創作です。 そもそもは白島さんの詩で思いついちゃったものでありますからしてどうしようかな~と。 とりあえずこちらに投稿ポチン。

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白島真
(2017-09-30)

田中修子さん 私の詩にインスパイアされての作品、 とても興味深く拝読し、うれしく思いました。 10月に入って、逆にこの作品にインスパイアされた作品を 書いてみたいと思っておりますが、できるかどうか。 しかし、おくわがこのようなSF的変貌を遂げ、ひとつの現代文明批判さえ 帯びるようになるとは思ってもいませんでしたが、新鮮な刺激を得ています。 是非、修子さんも独立した作品として投稿くださいませ。 (二重投稿になるのかならないのか、そのあたりはよく知りませんが) では、では、まずは御礼まで。

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右肩ヒサシ
(2017-10-01)

白島真さん、こんにちは。 最終聯、最終行の >あやしくふるえて光るもの がいいですね。ここに詩情の核を感じました。体言で止めるというのは和歌、俳句の伝統的短詩のスタイルの多用する修辞ですが、この詩全体が実は短詩の情趣を持っているように思えます。 だとすると >村一番の美少女 など、過剰に散文的な説明は削れるように思うのですが……。

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白島真
(2017-10-02)

Migikataさん ご感想をありがとうございます。 >この詩全体が実は短詩の情趣を持っているように思えます。 これはうれしいご指摘でした。多少、短歌をかじっているからかも知れません。 >村一番の美少女 まあ、説明的と言えば、そのようにもとれるのでしょうが、 生贄が若くて処女で美少女であるという語り継がれたおそらくは後世作られた伝説を、 そのまま生かしました。それは生贄という当時の条件が現代ではほぼ忘却されているからです。「むらいちばんの、びしょうじょが」一応7・5調です(笑

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