作品投稿掲示板 - B-REVIEW

石村利勝


投稿作品数: 20
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プロフィール
記録
プロフィール:
詩人・翻訳家。詩歴三十二年(うち十一年休眠)。作品少数。 著作「小詩集 愚者のルフラン」(アマゾン・ダイレクトパブリッシング)をささやかに刊行。https://t.co/0EmMEGUYYz

石村利勝の記録 ON_B-REVIEW・・・・

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ご高覧ありがとうございます。過分なお言葉を頂き大変嬉しく存じます。古い作品ですが、こうした形で新たに生命を吹き込もうという試みにも何がしかの意味があったかと安堵しております。 (映像詩「夏の水」)

2023-10-23

ご覧いただきありがとうございます。お褒め頂いた点は何よりも動画制作者である橋本氏の功績かと思いますので、橋本氏にお伝えしたいと思います。 (映像詩「夏の水」)

2023-10-23

久しぶりに来てみたらこの作品が目についたのでつい読んでしまった。ほばさんいいもん書くようになったね。 >(あ、猫……餌買い忘れてた >  こんな終わりかた……嫌か?) ここは特に良かったね。「……嫌か?)」がよく効いてる。 欲を言うと、ところどころ定型文的予定調和でまとめているかな。形式への意識の強い書き手だからそうなるのはわかる。でも、もっとはっちゃけてナンセンスでキリキリに尖って壊れてみてもイケるでしょ。そういうマグマを奥深くに持ってる詩人なんだから。 今は一読書人の元詩書きより (しけしけのしけしけのしけしけのぱれーど)

2023-06-05

コメントありがとうございます。「卑近なことを壮大な喩えで」というのは自分で書いている時は何も意識していませんでしたが、実はそうなのかもしれませんね。大したこともない話を御大層に見せかけるのがレトリックの働きだとすれば、この落書きはレトリックだけで出来上がっているのかもしれません。つまり、中身は、何もなし(笑) (エウリピアデスにも思い出せない)

2021-11-29

>突風に煽られなおも倒れない柱 んなもん、あるわけねーだろ。 匿名外れて面割れてからコメ入れてきた鈍い君に、そんなことを言ふ資格はなーい。じゃね。 (エウリピアデスにも思い出せない)

2021-11-29

こんななぐり書きにcold fishさんからもコメ頂戴してしまいました。一層、複雑な気分です。 (エウリピアデスにも思い出せない)

2021-11-08

どういうわけか揃って手練れの皆さんからコメントいただき、複雑な気分です。 さすがにこいつは誰も目に留めないだろう、コメゼロ、ポイントなし、しめしめ...とおもっていたんですが、見てる方はやはり見てるんですねえ。 即興のお遊びといえばお遊びなのですが、ロジックを用いずに抒情を出す、ということをやってみたかったのです。どってことない作品ですが、その目的は達成したかなと。 (エウリピアデスにも思い出せない)

2021-11-02

詩みたいな書き物はこの界隈で山ほど見かけますが 文体のあるこういう書き物を読ませていただく機会は 滅多にありません。ご馳走様でした。 (Alleluja)

2020-09-07

 以前に別のところで書いたことですが、すぐれた作品は安易な問いの形をしておらず、まして凡庸な答えなど記してはいないが、自ずと読み手を虚心な問いへと誘う。この作もそうです。「えらさ」「つよさ」とは何か、「誰か」とは誰なのか、読み手はそうした問いの意味を噛み締めながら、自身の人生を噛み締めると言ってもよい。答えなど出せないし出るものでもないが、どうしたってその問いを手放すことはできそうもない。そういう、極めて個人的な問いを噛み締める虚心な時間が余情と呼ばれるものなので、この作にはそれがあり、ゆえに詩なのです。Um Fantasmaさんが「態度が現代詩なのだ」という意味のことをコメントされていますが、何も現代詩に限らない。近代詩であれ和歌、俳句であれ、安易な問いや答えを何一つ述べることなく、読み手に自ずと余情を噛み締めさせる、そういう態度で存在する言葉はいつの時代でも詩です。前作よりも「傑作」であるかどうかはわかりませんが、この作者が本物の詩の書き手であることを再確認しました。 (つよさ予報)

2020-05-24

>自分の詩は喃語なのです。 ああ、なるほど!となぜか腑に落ちました(笑)。御作を読んでいるときに覚える独特の感覚がうまく捕まえられずにいたのですが、お言葉を拝見して、何が本当に分かったわけでもないのに不思議にすっきりしました。ありがとうございます。 (食べ物と死ぬ人)

2020-05-13

 何度か読み直し、漸く何か言うべきことが頭に浮かんできましたので、本作の感想を述べます。  一読、誰にもわかるのは、この作品がクラシック音楽のソナタ楽曲を思わせるような、堅固かつ緊密な形式で構成されていることです。仮に、以下のようにこの作品の構造をアナリーゼしてみましょう。 ①第一主題「朝の跡 飲み干していく 死ぬ人」 ②第二主題「最期の食べ物 食べぬよう」 ③第三主題「生きる人 泣いて 生きる人 きりもみで」 ④主題と季節をモチーフとする自由な展開部 ⑤第一主題の回帰  上記のパターンが「春」「夏」「秋」「冬」の四季にわたって繰り返され、「ああ もう食べるのも あきるなあ」のコーダ(終結部)で閉じています。その点で見れば、これはソナタ形式の四楽章というより、歌曲や歌謡の1番、2番…というのに該当するでしょう。  また、第一主題と第三主題が2番(夏)3番(秋)4番(冬)で再帰するたびに必ず変化が加えられており、その変化が④の展開部に反映されています。上記⑤で繰り返される第一主題についても同様です。  構成の面のみならず、展開部においてもこうした「繰り返し」が巧みに活用され、読み手を惹き込む力となっているのが印象的です。第三主題そのものが「生きる人」のリフレインによって強い推進力を持っていますし、それぞれの連においても例えば、1番の: >恥さらしは得意だから >得意は恥さらしだから >だから船は 朝という船は では、「恥さらし」と「得意」の入れ替えによるリフレインと行末の韻により、実に強靭で印象的なリズムを生んでいます。同様に、2番でも: >その手 強く 握ってて 滑るから >滑って滑って夏の昨日へ置いていかれるから 「滑る」というモチーフのリフレインと「から」の韻により同様の効果を生み出しているのがわかります。3番、4番にもこのパターンが効果的に織り交ぜられています。  繰り返しとは「予測可能な動き」です。予測可能であるために、受け手はその動きに参加できます。歌や舞踊などに見られる通り、リズムや主題の「パターン」とは、受け手を動きに巻き込むために、この繰り返しの力を活用することです。  また、パフォーマンスの受け手は、繰り返しに身をゆだねる安心感と同時に、それとは相反する「変化」の要素を同時に求めます。これが巧みに行われれば、繰り返しは受け手の参加の度合いを深め、高揚感をもたらします。  筆者は、こうした繰り返しの効用を非常に巧みに駆使して、堅固な形式感を生み出すとともに、絶妙なさじ加減で繰り返しに変化を加え続けることで、パターンの繰り返しが陥る陳腐さ、マンネリズムを回避しています。そうした変化が恣意的で必然性が感じられなければ逆に受け手を白けさせるでしょうが、本作の筆者はむろん、そのようなヘマはしていません。  上記は外形を表面的になぞった分析にすぎませんが、これを踏まえた上で、本作においてまず称賛されるべきなのは、 1.のっけから読み手を惹き込むインパクトがあり、かつ4つのパートでの展開に堪えるだけの可塑性と強靭さを備えたすぐれた主題(上記①~③)を得た筆者の霊感、 2.それらの主題を四季の表題と絡めて柔軟自在に展開し、読み手を牽引していく筆力の確かさ、緩みのなさ、 3.結果として読み手に、芸術作品として「完璧」という印象を抱かせるほどの作品の完結性、完成度の高さ、 であると言えるでしょう。  ひとりの書き手としての視点からは、本作は全く文句の付けどころのない傑作です。まるで、ピアノの名手がショパンの難曲を楽々と弾きこなし、技巧の面でも表現や情緒の面でも非の打ちどころのない演奏をきかされたかのような読後感。  その上で、単なる詩の一読者として、読者には許されるであろう贅沢な注文をひとつだけ付けるとすれば、本作の堅固で緊密な構成には、読み手が己の想像や感慨を自由に遊ばせることのできる空間と時間が見出しにくい。俗な言葉を使えば「余韻」「余情」にひたる余地があまりないように感じられる、ということです。  むろん、各連の展開部で作者は自由自在でめくるめくような想像力を飛翔させており、読み手はそれを存分に味わうことができます。これは、決して本作が堅苦しくて息苦しいという意味で言っているのではありません。むしろ、作者のパフォーマンスの見事さに惚れ惚れしながらも、そこで自分が視るもの感じるものすべてが、名手の手の内でコントロールされているような感覚――とでも言えるでしょうか。これは全く一読者の勝手な感覚にすぎませんし、芸術作品が必ずそのような要求に答えるべきだとも思いません。あくまで、作者にとってひとつの参考となればという思いから、蛇足として付け加えさせていただきます。  以上、一向に要領を得ぬ長文にて失礼致しました。 (食べ物と死ぬ人)

2020-05-12

藤 一紀様、懇切なご感想をくださりありがとうございます。 作者として、読む人がこの作の題名や詩句それぞれを「比喩」「寓意」と受け取って、人生論のようなものを読み取られるのが一番不本意なことでした。勿論、作者が読み方を指定できるわけではありませんし全く読み手の勝手で構わないわけですが、作者はこれを何かの《喩え》として書いたのではなく、自立したひとつの世界として提示した積りなのであります。その意味で、頂いた「一曲の音楽」という御評は作者にとってまさに我が意を得たりの嬉しいお言葉でした。感謝申し上げます。 (ダ・カーポ)

2020-05-11

サンボリズムなんてコメには書いてないぞー(笑)。みうらキャスに来られてたことがこれで判明しました。はい、もうどなたか察しが付きましたが、筆者が誰であるかに関係なく、これは出色の出来だと思います。 (二枚貝)

2020-05-10

定型的なロジックや感情とは全く無関係な、完全に自分のものでしかないロジックと感情を、ナマな言葉でごろりと提示するのが舟虫さんの作品の新鮮さだと思うのですが、この作ではその新鮮さが後退し、定型的なロジックや語り口(それもかなりステロタイプな)を用いて書き物としての体裁を取ろうとしている感じがします。随所に非凡な思想や感慨があるのですが、その良さが埋没している気がしました。 (バタフライエフェクト)

2020-05-09

>これほど生きている、ということをまざまざと実感させてくれる詩はなかなかないのではないでしょうか。 ほんと、そうですよ。こういうものを見過ごしてはいけませんね。自戒を込めて。 (バラの浴室)

2020-05-09

これは、大変な傑作であります。もっとしっかり読み、本当に意味のある言葉が十分に練られない限りは何も言うべきではないと思いますので、今はそれだけを記しておきたく思います。 (食べ物と死ぬ人)

2020-05-09

>ゲロ吐く呑吐 これの読みは「どんと」が正しいのでしょうが、なぜか「のんど」と読んでしまいました。中原中也の「サーカス」や富永太郎「恥の歌」で「咽喉(のんど)」が出てくるのが耳に残っており、この作のリズミカルな進行に触れてその音が蘇ってきたようです。挙げた二作ともリズムが印象的な作ですから自然と思い浮かんだのでしょう。面白いものです。不快なイメージを軽妙に扱いながら、読み手を黄泉の世界へと引きずり込んでいくような筆致が巧妙です。第五連の「吐くこともなく/呑んだ言霊」の腐臭、という着想が見事で、ここが一番良いと思いました。 (げろりげろげろ)

2020-05-09

>アスファルトが固いんだよな >飯食うのが早いんだよな >手取りはどうにも少ないんだよな >湿度高すぎるんだよな この連のキレの良さ、したたかさ、力強さが大変印象的でした。 (T0KY0ー2o2o)

2020-05-09

素晴らしい。イメージの硬度、強靭さがこの界隈では出色。「二枚貝」が何かの比喩ではなく自立した「何か」としてそこにあり、全編を通じて己を見事に語る。下げ進行で埋没させてはならない作なので、無内容ながらアゲ目的でコメントさせていただいた。 (二枚貝)

2020-05-08

ははあ、こりゃあ巧いしかっこいい。私もこういうものを書いてみたかったけど、この齢になるまで一度も書けたことがないので、まあ無理なんだろうなと。ライトレスにて失礼しました。 (ママンへ)

2020-05-08

描かれているお母さんに実在感があり、心情にも実感があります。題材も措辞も平凡に映りますが、実感と真情が書けているというのは全く平凡ではありません。「もう上がるよ」のひとことが本当に生きているのはそのためでしょう。こういうものを見逃してしまう読み手は不幸です。  (バラの浴室)

2020-05-08

藤様、克明なご批評有難うございます。沙一さんへの返信で記した感想がそのまま藤さんの評にも相応しい(「そうおうしい」©みうらくん)と思われますので、無礼ながら同じ言葉の繰り返しを省かせていただきますが、藤さんの非凡な「問い」は作者にも大いに気付きとなるものでした。  このような書き物は一種の投機で、「何になるのかわからないが、何ものかに必ずなる」という事前の確信だけに基づいてエイヤっと書かれるものです。書き終えた作者の方では振り返ってもみない、「で、結局何ものになったのか」が藤さんの御評で精確に記されていくのを見るのは愉しい経験でした。 (某月某日 ー 詩ではなく、批評でもない、ただの言葉)

2020-05-08

沙一様、ご批評有難うございます。興深く拝読しました。  優れた批評は、作品からどれだけ優れた問いを発見できるかに懸かっていると思います。答えの優れた批評などというものの大半は、凡庸な問いに正しい答えを出しているだけのものです。優れた作品は多くの場合問いの形を全くしていません。そこに優れた問いを発見するのが批評の仕事でしょう。  この書き物は誰の目にも明らかな、多くの凡庸な問いを含んでおり、当然優れた作品ではありません。それらの凡庸な問いに正しい答えを出して何か物を言った気になっているおバカさんがいたら陰で笑ってやろうと思っていたのですが、これまでのところ、沙一さんをはじめ評者の大半が非凡な問いを発見しておられますね。そういう問いを拝読できるのは、作者の特権的な愉しみなのです。 (某月某日 ー 詩ではなく、批評でもない、ただの言葉)

2020-05-08

ぽるりらさん、その仮説でのAとは関係性の中で生きる言葉、Bは天(あるいは神/宇宙)に向けて発せられる言葉、ということになるでしょうか。コロナ幻想は関係性を断ち切る方向に人間を向かわせていますが、そういう時こそBの言葉は阻害された個人に(意図せずして)届く言葉となるのかもしれません。つまり、我々は、詩を書きましょう(笑)。 (某月某日 ー 詩ではなく、批評でもない、ただの言葉)

2020-05-08

蛭子子様、ご高覧ありがとうございます。「我」が強く、高慢ちきで押し付けがましく、話題が偏っており、物言いが人工的との作者評はまさに言い得て妙ですね。我が意を得たり、でありました。 (某月某日 ー 詩ではなく、批評でもない、ただの言葉)

2020-05-08

白川 山雨人様、拙作に懇切なご感想を賜り恐縮です。作品が万人に向けて開かれたものになることは不可能かもしれませんが、可能な限り多くの人が自らの《詩》をそこに託せるような言葉を記したいという望みは常にあります。その意味で大変嬉しい御評でした。ありがとうございます。 (ダ・カーポ)

2020-05-07

舟虫様、ご高覧ありがとうございます。ポエトリーリーディングについてあれこれ考えてみたのは、このジャンルに携わる気のない私にとっても有益な経験でした。粗雑なメモですがリーディングの活動をされている舟虫さんに何がしか益するものがあったのであれば幸いです。 (某月某日 ー 詩ではなく、批評でもない、ただの言葉)

2020-05-07

Um Fantasmaさん、素敵なコメントありがとうございます。愉しく拝読しました。人が誰もからごころに侵されていなければ批評は不要になるでしょうから、この駄文が如何なるからごころから発しているのかを作者が突き止めていないとすればそこには批評がないので、読み手の批評がそのいかさまを突き止めるという余分な手間が必要になるのでしょう。「孔子はよき人」と宣長さんも宣っておられます。小生も古事記をそのまま信じることができませんが、宣長さんの1億分の1も古事記を読んでいない私が古事記をそのまま信じると言ったらただのいかさまでしょう。 (某月某日 ー 詩ではなく、批評でもない、ただの言葉)

2020-05-07

藤さん、ご高覧ならびに懇切なコメントを有難うございます。 抒情でもなく、自分語りでも物語でも思想語りでもない、音楽を聴くように読んでもらえる詩を書くのが理想なのですが、かりに書けたとしてもそのように読んでもらうには、心ある(愚かでない)読み手が必要になります。 理想には程遠いものしか書けていないのに、藤さんはじめそのような読み手の方々に恵まれている己の幸運を噛み締めています。 (結尾)

2020-05-04

七・五調が基調になっていて、ところどころ破調があるのですが、それがあまり効果的になっているとは言えない憾みがあります。たとえば一連の >林檎は白い肌さらし >屋烏に及ぶ口笛の哀しき音いろに >艶めいて 夜の香りを染めていく 「屋烏に及ぶ口笛の」と「哀しき音いろに艶めいて」で七・五の二行に分けるのではなく、上記のような行分けにしたことで七・五の連続が途中で切断されているのですが、読んでいるとここで唐突に調子が変わったことへの違和感が先に来ます。ところが第三連では >林檎がひとつ砕け散る 悲鳴の音いろを >みるがいい 哀しき色はどんな色? 「砕け散る」のあとにスペースが入ることで、七・五のまとまりがわかりますので読んでいてつっかえることはありません。なぜ一連でもこの処理をしなかったのか。入れ忘れですかい?(笑) 四連も一行目の破調があまり功を奏しているように思えません。七・五で一貫させるのはあまりに定型的だと思って避けたのかもしれませんが、定型は読み手を安心させるものなので、それを崩すときに生じる不安定感や不快感を効果的に転用する工夫をよほどうまくやらないと、読み手を作品世界から疎外する結果になりかねないと思うのですが。いい作品ですが、この作者なら当たり前のことなので賞賛は抜きで文句だけつけておきます(笑)。 (夜香)

2020-05-03

桐ヶ谷忍様、丁寧なコメントをありがとうございます。高いご評価をいただき恐縮です。誰でも華々しく美しい「曲」を書きたいものですが、いざ音符を置き始めると凡手の連続で失望ばかり。それでも曲を終えるまでは音符を置き続けていかなくてはならない。われわれが日々書き続けている、そういう無数の「失敗」曲のことを思いながら書いた作です。それが「美しく」見えたのであれば、作者としては手柄に思ってよさそうですね(笑)。 (ダ・カーポ)

2020-05-03

沙一様、丁寧な感想をありがとうございます。自分語りの作品は自嘲も含めていい気な自己愛の表現にしか映らないものが多いのですが、「楽天的な気」「軽妙さ」とのご指摘を見て、これでもどうにか読み物として成立していたのかなと安心しました。 (ダ・カーポ)

2020-05-03

上記のコメントに誤字がありましたので訂正を。 (誤り)事故に向けられているので →自己に向けられているので (台所)

2020-04-30

冒頭四行、意識するより先に金属のスプーンを口の中に突っ込まれた感覚に襲われる描写力は、ことばをどう働かせるかを熟知していなければできない業です。第二連も、どうでもよいようなことしか語っていないのに情感がひしひしと迫ってくる。最終連の軽みとペーソスはほのかに毒を含んでいますが、その毒が事故に向けられているのでちゃんとユーモアにまで昇華されている。シンプルな相貌ですが、驚くほどよく書けている作品です。第三連は語尾の遊びが面白い。最初はちょっとあざといかなと思いましたが、この語り手の語り口からすればちゃんと必然性があってただの遊びに終わっていない。物を書くとはこういうことだというお手本のような名品です。 (台所)

2020-04-30

「詩を五編書いて紙を破る残念」がいやによく響くというか、余韻が深い。 わかるようなわからんような定言の連なりが不思議な流動感を生んでいるのが面白いです。 最初、正仮名遣いが使われているのを見て「へえっ」と思い、しかしそれが不統一なので文句を付けてやろうと思いながら読んでいるうちに惹き込まれた。仮名遣いの不統一が計算の上なのか直観なのか単に知らないからなのか、そんなことはどうでもよくなった。詩情の質に、作者の確かな実在感、粗雑な言い方をすれば個性がよく表れている。このところ、掲示板上に次から次へと現れる「いい作品」の退屈さに食傷していた中、気分のいい読詩でした。 (世界が平和で満ちている時)

2020-04-22

るる姐さん、コメありがとうございます。 「なんともいえない」感慨を引き出せたのであれば、作者としては本望です。 >どうして こころの中と書くのでしょうか カラスに聞いておきます。「さあね、知らんよ」と言われるかもですが(笑) (春風に吹かれてる)

2020-04-16

これだけコメントが集まっている中、愚にも付かぬ私の感想で屋上屋を重ねるのは心苦しいのですが、面白かったです。私には、「」内の言葉は「俗物の俗論」の戯画化であると読めました。いかにも尤もで反論し難い「正論」に見える、空疎で実のない言葉のサンプル。一方で、これは筆者の社会的人格が日頃から私的自己に問うている疑問であり、自嘲でもあるのでしょう。その辺りの意識の揺れ加減が興味深い。 ただ、どなたかのご指摘にあったように、俗物の俗論はもっともっと尤もらしく、一分の隙もない批評であればさらに面白かったでしょうね。つまり、筆者の自己批評がさらに辛辣であれば、それに抗してなおも無償の創作行為に身を投じずにはいられない、筆者の詩人としての業が明確になり、同時に美しくもなる。そんなことを思いました。 (はやくワクチンをください。)

2020-04-16

ステレオさん、お返事遅くなりまして。いつも拙い作品に懇切なお言葉を有難うございます。 ここ1~2年は、もう俺には書くことはない、自分に与えられた乏しい才で書けるものは書き切った、と思いながら、余韻のごとくにぽつりぽつりと浮かんでくるものを書きつけている感じです。既に詩書きとしての「余生」に入っていて、いつ創作が途絶えても不思議はないし、それを恐れる気持ちもないという心境でおります。作の出来不出来もある意味どうでもよい。読者サービス(自分という読者も含め、ですが)も面倒臭い(笑)。そんな具合に書かれた物にも、目を留めて下さる方がいるというのは望外の喜びなのです。こちらも自分語りで失礼をば。 (結尾)

2020-04-12

拙作への懇切な御批評、有難うございました。 「武蔵の絵」は今の読者に通じるのかという不安がありました。ここが通じなければご指摘の通りカラスの存在感は生まれず、対話に生命が通わなくなってしまうわけですから。 「嘯く」についての解釈は興味深く拝読しました。自作自解になるようなコメントは控えますが、これもカラスの存在感を描く上でどうしても「嘯く」でなくてはならなかった、と言うより最初から「嘯く」者としてカラスが出てきてしまい、そいつに語り掛ける過程そのものがこの作品の成立過程だった、とだけ申し添えておきます。 (たいしたことである)

2020-04-07

隅々まで所作の行き届いた見事な語り口。練れた書き手さんですね。実に愉しく拝読しました。 (風に吹かれて)

2020-04-04

tOiLeTさん、お返詩有難うございます。 しんみりしました。 (春風に吹かれてる)

2020-04-03

ステレオさん、ご高覧と過分のお言葉有難うございます。 これ、書いたのは実は志村さんが亡くなる数日前なんです。その時点では亡くなるなんて全く想像もしてなかった。投稿するときに読み返して、ああ、そう言えばカラスが出てきやがるよこれ、と奇妙な暗合を感じました。作者には予知能力はありませんが、言葉にはそういう能力が宿っているのかもしれません。 (春風に吹かれてる)

2020-04-03

 お答え致します。  まず申し述べておきたいのは、私が評を書く時は、ただの詩の読者として勝手に抱いた感想をそのまま述べているだけだということです。読者は常に勝手で不親切なものですから、その勝手さと不親切さに徹した方が、むしろ作者には参考になることが多いだろうと思うからです。  作者が自分が何を書いたかを分かっているなら(つまり正しく作者であるなら)、読者の方が作者よりもその作品について知っているなどということはまずありません。勝手な読者が何を言おうと、作者が持っているその作品への確信やその値打ちを左右することは絶対にないのです。私が勝手な感想を述べる時は、その作品の作者が正しく作者である、という信頼と安心感に基づいて述べます。つまり、私が何を言おうと、作者が知っているその作品の本質や値打ちが揺らぐことはない、そういう信頼があるから安心して勝手なことを書けるわけです。  それを踏まえた上で、頂戴したお返事にお答えするために、改めて本作を読み返しました。そして、着地がどうもしっくりこない、という感想は依然として変わりませんでした。  それまでの詩行が、華がふんだんにあり饒舌とも言えるような流麗な旋律で持続していましたので、これをどう締めくくるかは難題です。同じように華のある調べで終わらせるというのはあまり味がない。自分だったらどうするだろうか、と思った時、やはり同じように言葉を極端に絞り、強く凝縮された簡潔なイメージで終わらせることを考えたと思います。  末尾二行の前にひとつ間を取り、移行をスムーズにするか。それとも狙い通りここでふっとディミヌエンドするが、リフレインを重ねることでより安定した終結にするか。もしくはこの二行に韻律感を加えるか。単に作品の完結感を出すだけなら、そうしたいろいろなやり方があると思いますが、白川さんがここで狙っているものに比べると、どうも凡庸な結果にしかならないように思います。 方向性はやはりこのままでいいのでしょう。  それで行くとするなら、やはり「春はまだ」が音もイメージも弱く思えます。弱さを示す音、弱さを示すイメージという意味ではなく、狙った効果を担う力が足りない、という意味で弱いと感じます。  ここから先は、この作品を熟知している作者自身にしかベストの解決策は発見できないわけですから、作者様にお返ししたいと思います。   (白青光)

2020-04-03

朔太郎や大手拓次あたりに通じるような耽美的なイメージですが、その耽美の味がくどくなく品が良いのは作者の美質でしょう。その美質を生かすには、もっと詩行も言葉も刈り込んで、これぞというイメージを強く浮き立たせた方がよいように思いました。いくらか冗長に感じる部分もあったからです。「春はいずこ/春はまだ」という着地はいささか不発。この美しいイメージの連続を締めくくるのはかなりの力技ですから、それだけの詩的エネルギーをこの一点に集中させてほしいと思いました。 (白青光)

2020-04-01

メロディー先行でそこに言葉を当てはめていったようなつくりに見えます。内的旋律の奔流がまずあって、それにフィットする言葉として「海面水位」「うみねこ」「きりん」といった語が選ばれてメロディーを彩っているというところでしょうか。基本にあるその旋律がスムーズできれいなので心地よく読めますし、仕上げもうまい。文句の付けようのない上手な詩なんですが、読後も心に残り、いつまでも響き続けるような、この作品のたしかな感触、痕跡というものが刻まれた感じは(これまでに三回通読しましたが)今もってしません。初発の内的感興や動機がそれほど強くないところを、手慣れた技巧の駆使で作の姿を完成させたものなのかな、という疑念も湧きます。 (きりん)

2020-04-01

短歌集なのですね。でも、一篇の詩のようにも読めます。物語としての連続性はなくても情緒の連続性によって紡がれた一篇としてのまとまりを感じたからです。甘いと言えば甘いのですがそれも心地良い。素直で繊細、清新な抒情掬すべし。稚ではあるけど拙ではない、甘さを隠さず、衒わない率直さに惹かれます。 (はずしわすれた風鈴が鳴る)

2020-04-01

すばらしい、の一語。ほかに言葉がない。 (桜の雨)

2020-03-30

ステレオさん、ご高覧有難うございます。またいつもながら過分なご期待と注文を下さること、大いに励みにしております(笑)。 ご指摘の点、要はエッジやアクセントになる要素が乏しいわけですが、それゆえにこそ美しい怠惰の永遠性に至るまでに精製・蒸留されているのであれば、文句はないわけです。和風の端正なデカダンスみたいなものを目指したのですが、有無を言わせぬ美に達するには、技量も精神の凝縮もまだ足りていない(これは藤さんへの返信でも触れたことですが)。 はい、励みにして、もっと骨身を削らんといかんということですね。もう歳だからそういうのしんどいんだけど(笑)。 (麗日)

2020-03-29

 不思議な作品だ。読みつつ次第に引き込まれ、名状し難い感覚に心を揺さぶられ、読後もその揺さぶられた感覚がいつまでも消えず、怪しいほどに続いている。謎めいた思想や情景が語られているからではない。この名状し難い、感動という陳腐な言葉では到底間に合わないのだが、それでもやはりこれは感動なのだと言う外ない感覚がどこから来るのかが謎めいていて、私の心をいつまでも揺さぶり続けている。 具象性が徹底して排され、驚くほどに単純・端的な抽象語、観念語のみで構成されているこの作の書き手には、語りを詩的な華やチャームで彩ることなどまるで眼中にないようだ。数式のように純粋・簡潔な思惟の活動の軌跡の中で、観念が人格を得て己を語り始める。 >最初に一つの心が生まれた >その心はなにかを昔に成功させて喜ぶ  >心は身体に言う >「いまだどんどんやれ、いまだどんどんやれ」 >身体は答える >「いいですねえ」 >そして心と身体はそれらに呼応するように動きだす  この一節が何を語っているのかを読者や評者は様々に解釈、解説を試みようとするだろうが、どのような解釈にも平然として動じない、このように生きて動いている観念の有無を言わせぬ実在感の前に、どんな解釈もその表面に触れることすらできない。何度読んでも、私はこの一節の所謂意味を、考える気がしない。それが無駄であることが最初から判ってしまうからだ。不条理めいた謎のまま、精神の奥深いところを揺さぶってくるこのものが、紛れもない真実であると受け容れる外ない、だからこれは詩によってしか語れない真実であり、それゆえに本作は極めて純粋な詩である。「詩的」な表現を一切必要としないほど純度の高い観念。それが詩でなくて、何であるのか。  己を端的に精確に語ること以外、何も考えていない観念がこう独白する。 >永遠に反射し続けるものに価値があるのだろうか >文字は残り続ける  それがいつしか「最初の心」と「別の心」が織りなす人間劇となる。 >だが永遠に反射しつづける心がそこで良い方向と悪い方向へ導くことを知らずに >別の心は語り続ける いや語り続ける >最初に生まれた心は思う >「永遠の反射よりか現在の心の反射を糧にするわ」 >「慢心」よりか「向上心」につなげるために  高校生の小論文のような平坦な叙述の末に、唐突に表れたこの「よりか」の破調がなぜこれほど生きて響き、心に微細だが深い衝撃を呼ぶのか。ここでまた私は、語る言葉を失う。 (永遠の反射)

2020-03-28

なゆた創a.k.a.NORANEKO様、ご高覧と過分のお言葉有難うございました。 和製ビートニク、言われてみればそんなテイストが図らずも出ておりますね(笑)。 自分語りの詩というものをずっと書かずにきましたので、過去の作品にはそんなテイストは微塵もなかったように思いますが、自分語りをやってみると、自覚のないまま性根に染みついていたその種の性向が露わになるのかもしれません。作者にとって実になる御評でした。有難うございます。 (レモンサワー)

2020-03-28

扇風機様、ご高覧有難うございます。 長い年月、詩を読んだり書いたりしてきて、「詩に対するまっすぐな心情」が今でも自分にあるのかを時々疑わしく思うこともありますが、詩句に表れているのだとしたらそれが本当なのでしょう。自分はしばしば自分に嘘をつきますが、書かれた言葉は嘘をつくことができない。そういう意味で、お言葉を嬉しく拝読しました。 (レモンサワー)

2020-03-28

音は滑らかだしイメージも鮮明。詩の姿が良く、読んでいて気分がいいです。 一行目が特に鮮烈で「おおっ!」と思う。二行目も秀逸です。「根雪」がメタファーでなければもっとよかったのだけど、後を読んでいくと具体的な情景の比喩とわかり、そこでいささか興醒めました。 全体に擬人法が多用されていて、スタイリッシュでかっこいいんですが個人的にはちょっと鼻に付きます。軽みのある抒情のセンスは好みなんですが、日常的な情景や感情をモダニズム的な比喩で煌めかせているだけなのかなとも読める。読後の余韻、感銘は正直薄いです。そういうものを狙っていないと言われればそれまでですが。 (きざし)

2020-03-27

ふじりゅう様、ご高覧有難うございます。 >筆者ご本人の感情がむき出し そうですね。長い間、私小説ならぬ「私詩」を決して書かぬと決めていたのですが、書けなくなってしまうとそういう倫理を貫く気も失せ、最近はむしろ「私詩」に傾いているのを自覚しています。 「業」という言葉を作中で使いましたが、結局は「詩が好きである」という単純そのものの事実が、「私」の手元に残った事実なのかもしれません。 (レモンサワー)

2020-03-26

黒髪さん、ご高覧有難うございます。 この作に「無限を見る」ことができる、黒髪さんのビジョネールとしての豊饒さこそがむしろ貴重なものに思われます。この貧しい作が黒髪さんの想像力を掻き立てることにいくらかでも資するものであったのなら本望です。 (麗日)

2020-03-26

みうらさんコメント有難う。 みうらさん自身が「これでいいのか」と「訴えなければならぬ使命感にかられ」るのは何故なのか、そこを見て、ぜひ書いて欲しいね。そういう批評なら作者に届くし、実にもなるよ。 「これでいいのか」はマイクアピールの意図で書いたのかもしれないし、それに付き合ってプロレスするのも別に嫌じゃないけど、俺を煽ってもあまり面白い試合にはならんよ(笑)。 こないだのイカ臭君のディスりツイートなんかが典型だけど、尤もらしい賢ぶった言葉をいくつも並べていかにも物を見て考えている様子を繕ってもさ、そう感じる自分の性根の部分だけは断じて見ないでおく評言ていうのは、批評でも何でもないんだよ。それが絶大な賞賛であれ辛辣な批判であれ、作者には届かない、全くどうでもいい空疎な言葉にしかならない。 一応質問に答えておこうか。作品を書いて人目に晒すと決めた時は、これでいいともこれで悪いとも思やしないよ。そんな問題設定をする感覚は少なくとも俺にはないね。書いてしまったものは書いてしまったんだ。いいも悪いも知ったことかね。それがどう評価されようと、そこには己の姿が隠しようもなく表れている。それを晒す覚悟以外に何があるんだろうね。そこを聞きたいね。みうらさんだけじゃなくほかの書き手さんたちに。 というわけで、気が向いたらそういう批評を書いてもらえると嬉しいです。それでは。 (麗日)

2020-03-26

藤 一紀様、貧しい作を熟読して下さり、感謝に堪えません。有難うございました。 《空の歌はきこえず/さくら花閑かなり》はむろんこの作のライトモティーフですが、思い付いたというよりはこの言葉の連なりが私に取り憑いてきて、その続きを書くように強いてきたという体のものです。 このモティーフをどこまで展開できたか、活きて響かせることができたか、そこが作者の技量が問われるところですが、才貧しいなりに精魂を使い果たすところまで書き切れたかを思うと何ともおぼつかなく、心もとない気が致します。 (麗日)

2020-03-25

Um Fantasma様、ご高覧と過分なお言葉を有難うございます。 元々昭和の人間であり、平成という時代を心底から呪っておりますので、「昭和な感じ」と評して頂いたのは本望であります(笑)。 前衛性なるものを、詩らしきものを書き始めた当初から侮蔑していました。「一周回って前衛的」になったのだとしたら皮肉なものですね。長い間詩にしがみついていると思いもかけぬ巡り合わせに遭うものだなと感慨にふけりました。 (レモンサワー)

2020-03-24

匿名になっていないことはともかく、創作の復活を祝したい。 (imagine)

2020-03-24

千才森 万葉様、懇切かつ克明な御評を有難うございます。大変嬉しく拝読致しました。 何が書かれているかというよりもその何がどう書かれているか、それがどういう効果を生んでいるのかあるいはいないのか。こうした技術的な観点での精確なレビューというのは、それを貰った書き手にとっては非常に励みになり、有難いものです。 神のイメージや宗教性の感覚というのは、自分が書く詩にそれこそ「業」のように取り憑いて離れないもので、自分でも書いていて「またか」と思いながら、出てきたその言葉が一体俺という書き手に何をさせようとしているのかに向き合い続けている次第です。いつか書き切ることができるのか死ぬまで書き切れないのか、いずれにせよ付き合って行かざるを得ない宿命のようなものです。 扱っている世界や感覚の「古さ」については、もう遥か以前から自覚しており、下手に変えようとしてもみっともないことにしかなるまいと今では開き直ってそれを通すことにしております。新しい世界観、感性、言語感覚での作品は若い才能に期待することにして(笑)私はほかの誰も書かないほど古臭いものを極めてやろうと思います。 (レモンサワー)

2020-03-23

>自己愛とかっこつけの間に引っかかってくる その宙吊り感がみうらさんの表現だと思うし、本当の意味での現代的な存在の表現の、ひとつの誠実なかたちなんではないだろうか。 だから、表現を止めてはいけない。どうせ止められないだろうが。 (大量消費されるお洒落〜トマトの缶詰めについての詩)

2020-03-22

獣偏さま、ご高覧有難うございます。 パブリックスクールですかぁ。 じゃあ、私は11月のギムナジウムの図書室で、美しい童子にウェレー訳の源氏物語でも朗読させようかなどと思いました。 (麗日)

2020-03-22

るる姐さん、【おぼろ月夜】頂きました。ありがとうございまるる。 うん、あのメロディーがたしかに合いますね。今ずっと頭のなかでループしてます。トロンボオンで吹いて貰ったらさらに佳し。 (麗日)

2020-03-20

湯煙さんお久しぶりです。ご高覧有難うございまーす。 (物を書くということ―「独言少女」評)

2020-03-18

トビラさん、ご高覧有難うございます。中年には運動が必須なので毎日外を散歩しております。 さして豊かでもない私なんぞの経験が何の足しになるかわかりませんが、コメントやら批評文やらを通じて、皆さんにお伝えしたいことは伝えてゆく積りであります。あまり期待せず見守っていてくださいまし。 (麗日)

2020-03-18

白川 山雨人様、御高覧有難うございます。過分のお言葉を頂き恐縮するのみですが、励みに致します。 引用して頂いた箇所は、執筆中最も感興が集中していたところで、拙いなりに自分では満足していたものです。目を留めて下さったことに作者として小さな満足を得られました(笑)。 (レモンサワー)

2020-03-18

帆場のダンナ、コメあざす。夜の桜だとコワすぎるので使えませんでした。そういやポーの一族ずいぶん読んでないな私。久しぶりに読んでみますわ。 (麗日)

2020-03-17

福まる様、御高覧有難うございます。 この作品には雨は降らせられませんでした。空の歌は何なのか、答えは読み手の数だけあるかもしれません。空の歌がないかわりにトロンボオンをきいてもらうことにしました。 (麗日)

2020-03-17

藤 一紀様、御高覧ならびに丁寧な読み解き、有難うございました。 筆者が無意識に言葉に浮かび上がらせている己の姿を「こう見えますよ」と伝えて頂いた思いです。 「同行二人の相方」で思い出したのはT.S.エリオットの「プルーフロックの恋歌」でした。"Let us go, then, you and I, / When the evening is spread out against the sky..." (だったかな)というのが書き出しで、このyouは誰なのかという謎解きを巡って多くの心理分析的批評が書かれましたが、詩人の心の中には常に「同行二人の相方」がいるものだというのが簡明な答えなのかもしれません。 (レモンサワー)

2020-03-17

大量消費の世界では人も物も存在が弱くて悲しいよな。ジャズ、ポップアート、フィッツジェラルド、サリンジャー、カポーティ、どれも感傷的だ。精神性の行先もそういう感傷の中で見る夢が関の山だという悲しさだ。村上春樹が描くとこの悲しみが自己愛の欺瞞に変貌するんだけど。 平成、令和の感傷にも同じく居直った自己愛の腐臭が漂っている。大量消費の渦の中にいる人間やキャンベルスープの缶詰の吹けば飛ぶようなはかなさ、弱さにじっと堪えている悲しみみたいなものはどこにもない。だから「古き良き時代」と感じるんだろう。都会の感傷から真情が失われたからだ。 佐野元春にはそういう腐臭が不思議にないね。この時代の感傷を全身全霊で生きてみることができたから、村上春樹にならなかったんだろうな。思いっきりかっこつけるというダサいことをやるには勇気が必要で、その勇気がないのが現代の自己愛リリシズムなんだな。 (大量消費されるお洒落〜トマトの缶詰めについての詩)

2020-03-17

すっきりとシンプルで音も姿もきれい。知的なリリシズムが心地よい、非常に好きなタイプの作品です。 >育ちはじめた ミのシャープ >高空に投げ上げて >澄んだ空気まとわせて まずこの出だしでぐっと引き付けられます。イメージの飛躍が鮮やかですし、「投げ上げて」「まとわせて」の韻も心地よい。「空気を」としない耳の良さもセンスを感じます。「高空」は最近の詩ではまずお目にかかれない言葉ですが、素晴らしい開放感を生み出している。ただ珍しい言葉を使っているというのではなく、それを清新に生かしているあたりに作者のたしかな技量を感じます。 >冥王星でもらった首飾り >忘れ去って 抒情歌、恋歌の私的な世界に宇宙的なイメージが入り込むというのは、私自身とても好きなタイプの抒情ですし、自分でもよく使った手法です。こういう手法は近・現代詩というよりもスピッツの草野マサムネ氏あたりが導入したものかもしれませんね。ここ以外にも、草野氏が書いてもおかしくないようなフレーズがいくつか散見されます。 全体として、初期の三好達治や北園克衛に見られるような、イマジスムやシュールレアリスムの斬新なイメージと日本の伝統的な抒情の幸福な結婚、とでも言えそうな質のリリシズムが心地よいです。日本的なリリシズムというのは感傷の甘さや情緒の湿り気が勝ちすぎてしまう場合がありますが、「ミのシャープ」「冥王星」「ラが眠っている」といったモチーフを織り込むことで、感傷の甘みにすっきりとした軽みと知的な洗練が加わり、情緒の「湿り」加減もべたつきがなく快適です。 ただ、「遠くにある/ブルーゼリーみたいな/川に行って」「冷たい雨が/沈めてしまうとしても」はいささかイージーで平板。Jポップの歌詞のレベルにとどまっています。その間の「ミのシャープ/響かせる笹舟にのせて/送り出してみる」が素晴らしく冴えているだけにもったいない。 締めくくりの二連は音もイメージもシンプルかつデリケート。何一つ変わった言葉を使わずに余韻のあるポエジーを生み出しているのが素晴らしいと思うのですが、上に挙げた二連の弱さゆえに作品の頂点、クライマックスがやや生煮えに終わっているため、この二連の描写そのものは見事なのに、それが生かし切れてなく、読み手に残す感銘が弱くなっている憾みがあります。沙一さんが「凡庸」と感じられたのはそのためではないでしょうか。 決して「いい雰囲気だけ」の作品ではないのですが、そういう印象を与えかねないところがもったいないなと心底思いました。 ですが、読み手としてそういう贅沢な要求をしたくなる力量をお持ちの作者さんです。次作にも期待しております。 (あす)

2020-03-15

stereotype2085さま、ご高覧と懇切なるご講評有難うございます。 「神はもうゐない」の転調から以降が全く弛緩しているというのは、書いていて我ながらぐだぐだ繰り言になってやがると感じていた所です。そこに着目されたのは流石ですね。構成上の冗長さもその通りかと思います。 詩的緊張や凝縮を保ち続けるのがしんどくなってきているこの頃です。年齢のせいなのか才能の枯渇かその両方か(笑)。なので、むしろ、調子の低い、日々の繰り言や呟きのようなものが詩になる境地を目指そうとしているのですがこれがなかなかむずかしい。この作はその境地を狙って消化不良に終わったものかと思います。 (レモンサワー)

2020-03-12

るる姐御、ご高覧有難うございまするる。 しゅわしゅわあと、ふつふつと、湧き上がるポエジィが涸れてしまった今日この頃でありまするる。 絞られたレモンにもまだ滴る汁が残っていると信じつつしぶとく生きる五十路男より。 (レモンサワー)

2020-03-11

大変、姿のいい作品ですね。目で追ってみて感じる形式感だけでなく、黙読して感じる、フレーズの呼吸や音の照応(行末の「~のだ」「ない」の押韻、第三連を「i」音の韻でまとめる等いくつもありますが)が非常にしっかりとした姿を感じさせてくれ、意識を行から行へと快く運んでくれます。作者の筆力の確かさと「耳」の良さがよくわかります。これも倦まず弛まず朗読を続けておられる成果でしょうか。全体の端正な造形があるゆえに五連の転調と破調がよく効いていて、緊張感のポイントがつくられているのも巧い。最終連のイメージも大変鮮やかです。優れた工芸品を見るような品格と存在感を感じさせる作だと思いました。 (遠き火をみつめて)

2020-03-09

メンヘラクレス様、ご高覧有難うございます。ご感想を読んで、自分の書いたものが自分ではない誰かの人生の時間の中で確かに存在した一瞬があったのだと受け取りました。光栄なことです。 (レモンサワー)

2020-03-09

黒髪さん、お久しぶりです。ご高覧有難うございます。 熟読して下さったことがよくわかる御評でした。作者としてそれに勝る喜びはありません。 (レモンサワー)

2020-03-09

みうらさん、ご高覧有難うございます。そうね、批評書いてほしいね。こんな駄文を支持する必要も学ぶ必要もないが、批判する必要もない。単純に、同じ作品についてもっと面白いもん書くことで潰してみろってこと。もしくはそういう詩を書くか、どっちかだよ。 (物を書くということ―「独言少女」評)

2020-03-08

トビラさん、ご高覧有難うございます。愚にも付かない駄文ですが、創作のお役に何かしら立つことができたのであれば本望であります。 恐らく「もののあはれ」「物」という言葉は、これを読むほとんどのビーレビ利用者に誤読されるだろうと覚悟の上で書いたものです。この批評文を読んでいきり立っているおバカちゃんがいましたが、私にいきり立ってみようが何をしようが物を書ける書けないという現実は変わらないので、これについて私は議論をする気はありません。いずれ己で気付くか目を逸らし続けて一生を終えるかのどちらかしかないことだからです。これは詩を本気で書いていて物を見ている人間ならどこかで自ずと気付かざるを得ないことを述べただけであり、気付かないならその人はまだ物書きではなく、これを見ることさえ拒絶している愚か者は見込みなしということです。トビラさんは本気で物を書こうとしている人ですから私の述べたことに関係なくご自身で勝手に気付かれたのでしょう。批評は何の役にも立ちません。また、何かの役に立つような批評は不潔であるとも言えるのです。 (物を書くということ―「独言少女」評)

2020-03-08

詩は「観念を詩的修辞で表現するもの」ではないということのお手本のような作。 >髪がなびいて 唇に触れるので >ミカンを剥いた指が >黄色くなっていて恥ずかしいので >手に出来た真っ赤に割れる >アカギレが十字架に見えるので こうしたそれぞれの連が皮膚に直接触れてくるような、傷口に風が当たるような肉感性を持っている。修辞のない全くの平叙法で語られているが、言葉が動かしようのない実在を得ている、要は言葉が”物”となっているのである。これが「物を書く」ということであり、情が物から生じているから、 >風が憎いんです >平和が見えています >恋を知っているんです >まだ守られています が真情として響き、それゆえに詩情と言えるものになる。この作品のクライマックス、着地点とも言える >でも私、いつも終電に間に合う人生 >生きています が決定的な行として生きて響いていて、ポオの所謂「最初の一行」というのは実際にそれが最初に着想された行であるかどうかに関係するわけではなく、その行を生かすために他の行があるのか、他の行があることでその行が生きているのか、完成品を見るだけでは誰にも分らないほどに有機体として完璧であることを言うが、その意味でこの連は最初の一行である。解釈をどれほどの数積み重ねても、この行を直に味わい、噛み締める時の実感に達することはできない、そういう実在性を獲得しているからここで本物の”もののあはれ”が生まれる。そして”物”が書かれていなければ”もののあはれ”は生じないというごく当たり前のことも書き添えておく必要がある。詩である以外の何物でもないくらい詩である作品。詩的修辞の工夫を積み重ねた模範解答を詩であると思っているうちは逆立ちしてもこのような本物の詩は書けない。    (独言少女)

2020-03-06

夜野 群青様、ご高覧ならびに懇切なコメントを頂き有難うございます。 これは昨年の夏に書いたものです。ちょうどさっぱり詩が書けなくなり、読むことも苦痛になっていた時期に、油粕を絞り出したように滴り落ちてきた言葉でした。 >この詩が胸に刺さりました そういえば、別の場所でもある方から「骨に染みた」とのご感想を頂きました。 若い頃は自分が歳を食ってからどんな詩を書くのかなど考えもしませんでしたが、抒情の泉が涸れ果ててもなお「書くべき言葉」にしがみついて生きていくのも乙なものです。 (レモンサワー)

2020-03-06

杜 琴乃さま、ご高覧ありがとうございます。 旧作で、今では書けなくなったタイプのベタな抒情詩ですが、本来私はこういうベタな抒情詩が大好きで、自分としては好きな作品です。古臭すぎてここの読者のアンテナにはまるで引っかからなかったようですが、好きと言って下さる方がいてよかったです(笑) (早春)

2020-03-06

尾田さん、ご無沙汰しております。ご高覧ありがとうございます。 コメントが消えてしまっているようで残念です。システムの不具合のようですが。。。 (レモンサワー)

2020-03-05

トビラ様、ご高覧ならびにリングネームでの素敵なコメントありがとうございます。 私は昭和プロレス世代なので「ヘブンズドアー」というWWEっぽいリングネームにはあまり馴染みがなく「キラー」「マッドドッグ」「モンスター」という大昔のリングネームがつい頭に浮かびます。 しかし昭和にもとんでもないリングネームがありました。「ジ・インテリジェント・センセーショナル・デストロイヤー(The Intelligent Sensational Destroyer)」日本では「魔王」のキャッチコピーと四の字固めで有名になったふくめんレスラーのデストロイヤーさんです。このオリジナルのリングネームをそらで言えるのがプロレス少年たちのステータスでした。 (レモンサワー)

2020-03-05

何なのでしょう.....ドキドキ........ して下さる方がいて、よかったなあと安堵感。 (レスが遅くなりまして大変失礼致しました。) (早春)

2020-03-05

藤 一紀様、ご高覧有難うございます。 >喪失の哀しみを裏にもつような透明な明るさ 若い頃、まさにそのような質の抒情をひたすら追求していたことを思い出します。 今は良くも悪くもそういうものを書くような心境ではありませんが、自分にとって大切な詩情であることに変わりはありません。そこに共鳴して下さったのは嬉しいことでした。 (北に向かつて歩く一日)

2020-03-04

作品よりも批評の方が面白くて文学として上等である好例。というよりもそこまで行かないと批評は文学になぞならない。これは立派な文章、立派な文学である。至らぬ作者ゆえに不憫な出来に終わった作品だが、このような批評文学の“出し”にして貰えたのは作者として本望である。 (妄想する人は美しい〜「レモンサワー」)

2020-03-04

抒情の質が私のツボでした。とても好きなタイプの作品です。 (なぜ悲しみばかり流れるのだろう?)

2020-02-29

お見事、のひとこと。全く言葉の運びに緩みがなく最後まで一気に読ませてくれますね。読後感爽快。 (あのね、おまわりさん)

2020-02-29

冒頭からぐっと引き込まれます。テンポ、リズムが快適で、ことばもイメージもキレがいいなという印象。そのキレの良さが詩情になっているところが素晴らしいなと。最後まで一気に運ばれるスピード感も気分がいいです。 (偽善者)

2020-02-29

これは書ける人はこれくらい奔放に好き勝手に思い付きで書いているように見えてもちゃんと書けていて詩になるということのサンプルみたいな作品であって形や選語の自由さだけ真似して芸術とか所謂前衛のように見せかけることはできても書けるか書けないかは誤魔化しが利かないのでそこで詩とそうでないものが明確に分れる。詩を読んでいて言葉に精神が運ばれていく快さが詩である以上この作品にも当然ありそれは個々の詩句が指し示す対象なりイメージなりが美しいか快いかということとは何の関係もなくて詩は汚物を主題にしたとしてもそれが詩であれば言葉が人間の精神を快く運動させ続けて止まるところを知らないということを教えてくれる。(以上文体はパロディーですが感想そのものは書いている通りです。) (干しイカを咥えた黒犬追いかけて裸足でかけてくびーれびさん)

2020-02-27

>そうか、汚点か、信じればよかったか、 この行が素晴らしい。 わからないけど、わかる前に瞬時に耳に残り、心に刻まれて響き続けるような余韻があります。とても”詩”ですね。 (•)

2020-02-27

真清水るるさま コメント返信したんですがなぜか反映されていないですね。それとも匿名筆者には見えない設定なのか。 ともあれ、拙い若書きの作品(1991年作)をお読みいただき、過分のお言葉まで下さったことに御礼申し上げまする。 夜野 群青さま ご高覧ありがとうございます。歴史的仮名遣いが流行?し始めているとしたら嬉しいですね。小生は三十年以上前から歴史的仮名遣いで作品を書いておりました。(若い頃は漢字も正漢字(所謂旧漢字)にしていましたが、近年の読書層を考えると可読性があまりに低いのでやむなく使用を控えております。)長いこと書いていると、時代が一回り二回りして戻ってくるようなことが起こるのですね(笑) (北に向かつて歩く一日)

2020-02-27

不遜な言い方になるけど、すごくうまい。普通に物書きの訓練が出来ている作者(ネット詩ではあまり見られない)だと思います。イメージをつくる選語も配置も鮮やかで精確。仕上げもきれいに決まってお見事、という感じなんですが、作者の高い技量の手の内にすべてが収まっている観があるのがちょっと不満。作者自身にもどうすることのできないような、自分を超えた何かに衝き動かされて書いている、そういうサムシングがないというんですかね。最終的に読み手を動かす力はそこから生まれると思うんですが。書ける作者さんだと思うので贅沢を言わせてもらいました。 (作り方)

2020-02-27

>ひとつとして散らすことなく蜜を食み この行の繊細さとそれゆえの精確さにひかれます。 (ヒヨドリ)

2020-02-26

詩の姿がすっきりしていて鮮明。こういう作品好きです。 (鳥)

2020-02-26

面白かったです。読んでないけど、たぶん元の作品より面白いんだろうな。書きざまからそういう感じがする。 (無意味な詩のエクスタシー〜「私の中に出して」)

2020-02-25

ふじりゅう様、ご高覧並びに凡庸な一筆書きに過分なお言葉有難うございます。 紅白が終わって午前0時を迎えるまでの静かで濃密な時間の感覚が、私も昔から好きです。あれには独特のもののあはれがありますね。 「お前さん」はこの作品の肝(こんな凡作にも肝はあるのです)なので、作者コメントは控えます。そこを読者にわかりやすく導く技が足りなかったのは、老化と元々の才能の乏しさゆえです(笑) (行く年くる年)

2020-01-09

せいろん様、ご高覧有難うございます。 こういう達観したようなことを言うのを若い頃は嫌悪していましたが、年を取ってみると、これは達観でも何でもなくどうしようもない実感なのです。 Sunano Radio様、ご高覧有難うございます。あけましておめでとうございます。 今年もよろしくというのは不思議な言葉で、誰に言っているのか何をよろしくなのかちっとも分らないし、祈りなのか願いなのか何もはっきりしないのですが、これを口にするとともあれ物事が丸く収まり、何の期待も楽しみもなくても(あるいは不安しかなくても)また一年生きましょうという気分になれます。というわけで、私からも、今年もよろしくお願いします。 (行く年くる年)

2020-01-02

ものすごく久し振りに詩が書けたので、人前に晒してみました。 (行く年くる年)

2020-01-01

 溢れるポエジーを抑えかねてしばしば筆が走り過ぎ、滑って転んだりするもこともある作者。その走りっぷりや滑りっぷりさえもが常に詩的輝きに充ち、魅力的であることも事実なのですが――本作はそうした走りや滑りがなく、すべての言葉が見事に所を得ており、真の意味で完成品であるがゆえの簡潔さと純良さに達しています。間然する所のない快作にして名作だと思います。 (めるふぇん)

2019-07-05

ハグしてええよ。 (稼働域フェチ)

2019-05-31

みうらさん、すっかり批評書きになってしまわれましたね。 批評されている題材を知らなくても面白く読め、知らないはずのその題材がどういうものなのかが彷彿と浮かんでくる、そういう批評文が私は好きなのですが、これもそういう文章ですね。気分のいい読み物でした。 (批評文 わたしの龍を読んで)

2019-05-31

「いいんだよ」という、妙に頭にこびりつくフレーズをどう解決するのかと思いながら読んでいきました。「わたしを包む繭のように/何層にも 何層にも重なって/厚みを帯びたわたしの言葉は/にごった願いが染みだしている」に着地したところで、ポエジーがぐっとしみ込んできました。安直な自分語りに終わりがちな題材を扱っているので、途中までは正直な所つまらないものを読まされるのではと不安でしたが、良い意味で予想を裏切られました。 (「いいんだよ」)

2019-05-31

「さがさないでください」の繰り返しが効いているし、音韻が滑らかで、読んでいて気分がいいです。題材も選語も、誰にでも通じる平易なものですが、平板、凡庸になっていない。「現代詩」っぽい思わせぶりなお飾りに頼ることなく、ことばを活かすことだけで読ませる、技量の確かさを感じました。 (横には恋慕)

2019-05-31

一点だけ難を言うと、大阪人は「ヘラ」を「コテ」と言います。お好み焼きだけでなく道具の呼び方まで邪道なのです。しかし、ゲロを鉄板で焼いたものを他人様に出す東京人よりはマシでしょう。 (現代お好み焼き概論)

2019-05-22

このところ、Bレビに投稿するどころかコメントする意欲も湧かない日々が続いていたのですが、この作品にエールを送らないのは、長野選手を応援しないのと同じくらい広島人の仁義にもとると奮い立ちましたので、盛大にポイント入れさせていただきました。 何よりも感嘆したのは、広島語のナチュラルさです。いや、これはネイティブ広島人でなくてはあり得ない精確で美しい広島語ではないですか。今日び、本通り辺りを歩いているとJKたちが「ねー」の代わりに「さあ」を用い、「じゃろ」を「やろ」などという嘆かわしい広島語の乱れを耳にしますが、本作の広島語は、達川光男さんが全国放送で披露されているような格調高い広島語です。広島最大のタブーである「徳川」の存在に言及されるという大胆さも含め、まさに快心の作であり、「宮島さん」を歌いながら大しゃもじで拍手をお送りしたいと思います。 (現代お好み焼き概論)

2019-05-22

ポーやボードレールに擬したいような、間然とするところのない名品だと思います。天晴! (わたしがミイラ男だったころ)

2019-04-14

今はどうか知りませんが、田舎の子供の言動はかなり残虐でした。差別やいじめのえげつなさも今にして思えば非道の限り。田舎の人が優しくて親切なんてのは都会人の幻想。弱い者にとって人生は家の中も外もホラーだったように思います。逆上がりができた瞬間に「勝利者」「強者」に転じた子供が世界を見据える目にも残虐さが宿っているように感じられ、それこそ「そらおそろしい」なと。 回想される過去が、甘い郷愁ではなく、異様な生々しさと高揚感で湧き上がってくることに呆然としながら「おそろしい」空の下で立ちすくむ所在なさ、心細さ。これもまた生きることの「そらおそろしさ」でしょうか。「もののあはれ」に打たれる最後の一行。名作です。 (そらおそろしい)

2019-04-12

>ところで君 >ただ花を握って 歩いてきたんだね この二行の見事さに感嘆しました。 全体を通じ、いい意味で衒いのない真っ直ぐな「青臭さ」が爽快でした。 こういうリリシズムは今日び貴重だと思います。御作をこれからも楽しみにしています。 (熱っぽい夜の終わり)

2019-04-03

修子さん、ご高覧並びに懇切なご感想有難うございます。  怖がってもらえて嬉しいです(笑)怖がらせるつもりで書いたわけではないのだが。  仮名遣いについては、すでに別のところでお答えしている話ですので、それ以上のことはご想像にお任せします(笑)  ひとつ、今ぱっと思い付いたのは、例えば朔太郎の詩を現代仮名遣いで読んだらどう感じるか、現代仮名遣いだったら朔太郎はああいう詩を書けただろうか、ということです。で、今はほぼ誰もが現代仮名遣いで書いている。もしこれが正仮名のままだったら、今自分はどんな詩を書いているんだろう?何が違うのだろう?あるいは、違わないのだろう?  別に答えがあるわけではないのですが、近代詩を愛読した経験があり、自分でも詩を書いている人なら、一度じっくり考えてみてもいい問題であるように思います。 (雪の十字路)

2019-03-26

 蔀 県様、ご高覧並びに過分のお言葉、有難うございます。  こういうお言葉を頂戴すると天高く舞い上がってしまう単細胞なので、天高く舞い上がることにします(笑)  評価や選考の対象としてではなく、純粋に読むために読んで下さる方がいらっしゃるというのは何よりの励みになります。お言葉に重ねて感謝致します。 (室内)

2019-03-21

着想が魅力的で、その着想の表現ぶりも鮮やか。抒情の質にも品の良い甘さと酸味が効いていてとても快いです。結尾の感慨が充分に突き詰められておらず、イージーにまとめた感あり。措辞がそれまでと一転して生硬なのがその表れであるように感じました。 (花)

2019-03-21

ルビが使えるようになって非常に嬉しいです。運営の皆様のご尽力に感謝。 それを記念?して、旧作ですがルビが使えないとお話にならない作品を投げてみました。 (雪の十字路)

2019-03-18

読み終えて、ほうと息をついて、曰く言い難い気持ちを噛みしめながら、無言。 この美しい作を読んで、コメントを書けなかった多くの心ある方々が味わったであろう状態を代弁してみました。お粗末様。 (夜の庭)

2019-03-15

 右肩さん、わざわざリンク先まできちんと目を通して下さり有難うございます。  文藝の世界はフリースタイル、フリールールの競技場。それぞれが己の信じるスタイルと磨き抜いた技で作品を世に問えばいいわけですから、お互いこれと決めた道を行きましょう。結果として面白い作品が出来上がれば、何だっていいんです(笑) (室内)

2019-03-13

 帆場さん、コメント有難うございます。  私もよくやるんで自戒を籠めて言うのですが、読んだはじからペロペロっと書かれた感想や批評や解説というのは、褒め言葉であっても書き手にはあんまり嬉しいもんじゃないですよね。  一読して言葉にし難い何かを覚え、それでも何か言葉にせずにはいられず――という自問の末に書かれた感想を貰うというのは、書き手にとっては最高の栄誉でしょう。自分の作品が自分ではない誰かの人生の時間の中に間違いなく存在した、という証ですから。  今回はそのようなご感想を拙作に頂いたものと勝手に受け取らせて頂き(笑)重ねて感謝申し上げます。励みに致します。 (室内)

2019-03-12

 右肩ヒサシ様、ご高覧並びに懇切な批評を有難うございます。  また、精確なご指摘を頂いたことにも感謝致します。 >「物差し」は1回でよくないですか?  仰る通りです。投稿後に気付き、手稿は既に修正しました。 >「うつすらと」という散文的な定型が全体の美質を損なっている  これも全くその通り。拙いの一言です。  省ければよいのでしょうが、「うつすらと」がないと作品の完結感がない。ではその言葉の代わりに何を置こうかと考え始めれば詩が理屈に堕し、作品そのものが詩として死にます。この行よりもずっと前のどこかで、言葉の行く先の選び方を間違えていたのだと思います。推敲、書き直しは失敗作の上に死物を重ねるだけですから、これはこのまま失敗作として受け容れるのみです。  仮名遣いへのご感想について。そういう印象を持たれることは無理からぬことと思いますが、私にとってはコメントで現代仮名遣いを使う方が実は不自然で「あざとい」行為です。詳しくは、以前にも同様のご質問を受けてお答えしていますので、もしご関心があればそちらをご一読頂ければと思います。(拙作 https://www.breview.org/keijiban/?id=2783 のコメント欄に、該当する記述があります。) (室内)

2019-03-11

修子さん、発見されました。こんにちは。 ご感想有難うございます。小生の作品にコメント貰ったのは随分久しぶりのような気がしますので、嬉しかったです。 「ふしぎなこと」は、我々が日々気付かない振りをしているだけで、いつでも起きていると思います。 そういうものを詩で突き付けるのが好きです。人生は書割一枚剥がせば底知れぬホラーですから(笑) (室内)

2019-03-08

るる姐さん 何で「隆」なのか、自分でも全然わからないのですが、お母さんがそう呼んでいるのが「隆」という文字込みで聞こえたので、そう書いただけなのです。 この作品世界では弟が生きていて、姉さんがあちらにいますが、視点を変えれば姉さんがこっちにいて、あっちにいる隆に会いに行ったのかもしれません。 勝手に妄想が膨らみ、るる姐さんが室内で物差しを振り下ろしているイメージが脳裏を離れません。どういうわけか、非常にしっくりと来るイメージです。 (室内)

2019-03-08

しみるのう。 広島弁じゃけ、こうなるんじゃろうね。標準語ゆうんは、どこにもないうその言葉じゃけ。 標準語じゃあねえ、こがあなこたあ言えんよ。言うたらものすごい嘘くさいじゃろうね。 じゃけんまあ、標準語ゆうんはほんまの人間の言葉じゃないんかもしれん。 そうゆう言葉ぁ使うてほんまのこと書かにゃいかんのじゃけ、詩人ゆうんはやねこいよね(笑)* *作者には翻訳不要と思われますので、標準語訳は付記しません。あしからず。 (グリコのおまけ)

2019-03-07

二カ月ぶりに作品がかけたので人前に曝してみることにしました。 出来栄えを云々するレベルにはありませんので、忌憚なきご批評を頂けると有難いです。 (室内)

2019-03-05

 さいきん、山本沖子さんの(恐らく)最後の詩集を読み返しました。巻末に三好達治についての回想録が載っているのですが、そこにいくつか引用されていた(山本さんの回想する)三好の言葉の声調が、この作品中の「詩人」の声調と全く同じであることに驚きました。  そんな符号もあり、本作に描かれた詩人の声は、私の心の中で忘れ難い切実さを以て響きます。  最終連の「もう どっちの方角に帰ればいいかわからない」で、作者自身の声が我慢し切れず洩れてしまった感があり、作品世界の視野に乱れが生じたことだけが残念でした。  抒情と感傷の境界線は常に微妙ですが、視点の一貫性と純粋さを保持し切れる精神の強さが、その境界に踏み止まる力となるのでしょう。それを詩における「批評」と呼んでもよいように思います。蛇足でした。 (プラットホーム)

2019-03-04

詩だなあ。詩ですね。美も思想も含まれているけど、美や思想のためにかかれていない。語りすぎたものも語り足りなかったものもない。すべての言葉が所を得ていて、簡素で、動かし難い。生きた純粋な時間だけが流れる完結した宇宙。くどく言えばそういうことになりますが、つまりは、ただ、詩なのです。豊かな時間を過ごさせて頂きました。 (風景)

2019-03-01

あら、昨日入れたお礼コメントが消えてしまいましたね。 書き直すのも億劫なので、簡単に。 らどみさん、るるりらさん、貧しい作を丁寧に読んで下さり、思いを巡らせて下さったことに感謝致します。有難うございました。 (罪)

2019-02-28

渡辺八畳@祝儀敷様、ご配慮有難うございます。 お手数ですが、このコメントも一定期間を経たら同様に削除して頂ければと存じます。 ですが、お心遣いへのお礼だけはお伝えしたいと思いました。ご寛恕の程を。 (罪)

2019-02-15

 貧しい作にコメントを寄せて下さった皆様、有難うございます。  自作自解にならないように述べたいのですが、小生がこの作品で捉えようとしたものは非常に重大なテーマです。それが理屈でなく、詩そのままで直に伝わるようにかくのが作者たる私の務めですが、頂いた皆様のご感想から判断する限り、その務めは果たし切れなかったようです。これは作者の「罪」でしょう。痛恨の至りです。  本作をかいた前後に創作力の「枯れ」を自覚したので現在は充電期に入っています。枯れた声で歌えない歌に立ち向かってしまった愚かさを今更ながらに口惜しく思いますが、枯れた声なりの叫び方にも何かしら存在価値はあるでしょう。いずれにせよ生まれてしまったこの作はその「罪」を背負いながら在り続け、理解や誤解、無理解という「罰」を負うことになるのです。  いずれまた同じテーマに立ち向かうことになる機会があるか、力及ばぬままくたばるのかはわかりませんが、生き続け、かき続けなくてはならない。その念願があるばかりです。   (罪)

2019-02-15

スタイルにしろ語彙にしろ1940年代~50年代頃のものを連想させるんですが、読んでみて感じるものは新鮮、のひとこと。言葉が自由を得て伸びやかに開放されており、読みながら気分よく呼吸できます。言葉に新鮮な生気を吹き込むことのできる、素晴らしい才能だと思います。 (シェルター)

2019-02-12

谷川俊太郎ばりだな――というのが一読しての印象。ですがそこに衒いの翳がまるでなく、違和感や抵抗は覚えません。スタイルや言葉の扱いの親近さよりも、新緑を思わせる清冽で伸びやかな抒情の質が図らずも谷川氏を彷彿とさせるのでしょう。得難い資質をお持ちの作者だと思います。 (水の処方箋)

2019-02-12

光栄であります。有難うございます。 (点子ちゃんだよ)

2019-01-31

素晴らしい。柔軟絶妙のポエジー。思考の展開がいちいち新鮮で快く、胸がすくようです。さいきんこの界隈で読んだ中では白眉です。 (失われていく、)

2019-01-21

新しいお名前に変えられたことは先日気が付いたのですが何とお読みすれば良いのかが分からず困っておりました(笑)たまきほのみさん、ですね。ひらがなの方が可愛いように思うのですが、如何でしょうww それはともかく、拙作を優良作品に選んで頂き有難うございます。求める基準の非常に厳しい選者に選んで頂いたことは、詩書きとして大変励みになります。御眼鏡に適うような作は中々かけるものではありませんが、ともあれ巧拙を省みずかき続けて行く中で、いくらか増しなものをお目に掛けることが出来ればと思っております。 (十二月分フル選評。)

2019-01-16

 拙作に過分のご評価を頂き、有難うございました。自分は何であれ「賞」の対象になるような作品をかいている詩書きではない――と思って参りましたので、候補に挙げて下さったことを嬉しく思う(人間が幼稚に出来ています故、褒められることは好きです)反面、意外にも感じております。仰る通り、普段の自分がかかないものをかいてしまったことが、自分では予想し得ぬ反響を生んだのでしょうか。  このところ周期性のスランプ中で詩をかくことは愚か読むことさえ全く気が進まない状態で、詩書きらしいことを何ひとつしていないのですが、これを励みにまた活動に復帰出来ればと思います。その意味でも重ねて感謝を申し上げます。 (2018年12月分選評【フル】 stereotype2085からの鼓舞「汝、冒険せよ」 )

2019-01-16

仲程様、ご高覧有難うございます。  読み手に情景が浮かぶというのはそこでは言葉が曲がりなりにも有効に働いたということでしょうから、どうやら詩にはなっていたようですね、安堵致しました(笑)  語法、文法というのは後付け、後追いですわな。当たり前の話ですが。言葉を有効に働かせる、言葉を生かす、という無数の例があって、そこに法則性を見出す、或は整理するというのが文法・語法であって、文法・語法が言葉の用い方を規定するわけではない。無数の言葉の海の中に、まだ見出されていない、あるいは見失われている有効な言葉の働かせ方はいくらでもあり、それを掬い上げるのも詩人の仕事のうちだと思います。「とある方々」を具体的には存じ上げませんが(笑)現に生きた言葉の働きを感じることができず、(後追いの索引体系に過ぎない)文法・語法上の適否の判断しかできない方というのは、ときどきいますわな(「文字通り君」と私は読んでいますが)。そういう方々は言葉に触れるという営みにおいて、そもそも不感症、不能者なのです。なのに詩に関わっていたりする。世にも不思議なことですなあ。 (墓碑銘)

2019-01-06

エイクピア様  ご高覧有難うございます。  大人のための、という意識はないのですが、童話の世界が作品の中に入り込んでしまうことがよくあります。特にファンタジーや神話の類が好きなわけでもないのに、どうしてなのだろうなと自分でもよく不思議に思います。言葉を探っているうちに自然とそうなりますので、幼少時に童話や少年少女文學から得た豊かな経験が自分の言葉の世界の核心にあるのかもしれませんね。 (墓碑銘)

2019-01-01

みうら様、 ご高覧有難うございます。ご質問ですが、「古語」というのは旧仮名遣い(正仮名遣ひ)のことと受け取って、お答えします。  何故使うか、というのは、一言で云うなら「その方が好きだから」で、それに尽きます。折角なので?もう少し付言すれば、詩を書く上での仕事道具でもあり、素材でもある言葉は、自分に馴染み、親しみがあり、落ち着くものを使いたいという理由によります。ギタリストがアンプを選ぶのにトランジスタではなく真空管を選ぶ、珈琲を入れるのにペーパーフィルターではなくネルを選ぶ、というのとさほど変わりません。  もちろん、日常の用を足すのには、用が足りればそれでよいので小生も現代仮名遣いを使います。正仮名を使えればその方が気分は良いのですが、無用の困惑を招いて面倒でもあり、却って居心地の良くないことになるので使用しません。詩をかく際にはそうした「用」から解放されて自由に言葉を用いることができるので、正仮名を使います。詩をかく時にまで馴染めない、親しめない言葉を我慢する理由はないからです。  もうひとつ、言葉というのは伝統に連なり、連続する持続の中で変容していくものだと思いますが、人々の間で用いられていく中で様相を変える「自然」を、制度によって人為的に改変してしまった、現代仮名遣い導入時の経緯に対するささやかな反抗でもあります。詩人なら言葉を大切に思うのが当然ですから、我々が日々用いている言葉を言葉にしてきた伝統を大切にしないわけには行きません。正仮名遣いを使うのは、それが使用されてきた言葉の伝統に自身を結び付けるよすがのようなものです。  とはいえ、現代仮名遣いが使用されるようになって七十年、人々がこれに馴染み、慣れ親しんで新しい伝統がつくられていることも事実であり、それに応じた言葉、詩がつくられていて、それを楽しむ人々がいるというのを否定する積りも拒絶する積りもありません。ただ、私自身のかく詩はそこに属するものではない、というだけの話です。私としては唾棄すべきこの時代と文化にもう十分に譲歩しているのですから、こういう言葉が現代において棲息する場所くらい許してもらいたいものだ(笑)と思います。ご質問へのお答えになっていれば幸いです。 (墓碑銘)

2018-12-30

つきみ様 再度の御評並びに懇切なご助言有難うございます。ま、精進しますわ。 (墓碑銘)

2018-12-30

 それが作者自身のものであるかないかに関係なく、一人の人間の独特な声調が読み手に明瞭に感じられ、心惹かれます。この語り口で四十行、五十行続いていてもただ気持ち良く耳を傾けていられそうにも思いますし、これで終わりかという気分にもなりますが、「はい、これで終わりですよ」という素っ気なさも語り手の声調に含まれるものと感じられ、不満はありません。死というモチーフが「軽み」に達している、余韻深い詩情を味わいました。 (わたしは死ねばいい)

2018-12-29

>別れのようであり >招きのようであり >溢れるのは、温度をもつ >朝と夕に焼けた飴色。 ここは実に見事だなあと。精確で洗練された、優雅とさえ言いたい鮮やかな印象を受け取りました。 冒頭から前半部はモダニズム詩の筆致を連想しましたが、古風に響くのはスタイルよりも選語の生硬さによるものでしょう。読んでいて結ばれるイメージが獏として明瞭さを欠きます。結尾の投げ出し方は素晴らしい。気持ちよく空間が拡がる思いがします。(印象評のみのライトレスで申し訳ありません。) (泳ぐ器)

2018-12-28

つきみ様、 ご高覧有難うございます。 >続きがあるなら見たい  この作品世界では、この後人間の世界は終わっており、ゆえに詩もない世界なので、続きはありません(笑)  どうということもない筆のすさびみたいな作ですが前回投稿の「秘法」より作者自身は遥かに気に入り、満足しています。「秘法」には思いがけず多くの方の感想を頂きましたがこちらは殆どなし。親友の文藝批評家からも「生で厳しい」との評を貰いました。そういうものですね。 (墓碑銘)

2018-12-26

 紛うことなき作者自身の声、語り口がはっきりと現れていて、その語り口と不可分に結び付いた心象や感情の推移に気持ちよく身を任せることができ、快い読詩の時間を味わえました。  ただ、空白後の締め括りの部分がどういう訳かイージーに響き、物足りない思いがしました。この箇所にかぎっては作者独特の「声調」が影をひそめ、どこの誰が言っていてもいいような、ゆえに響きもせず心にも残らない行に留まっているように感じ、そこが残念でした。 (ヒューマノイド)

2018-12-26

精神が自在に動いて、その動きの精妙さがやがて言葉の形を得て、眼前に広がる世界が同じく精妙な姿でそこに現れることに目の覚めるような思いがします。新鮮な空気を吸い、自分というものが世界に広がっていくような感覚を味わうことができました。こういう作品を拝読すると、詩を味わう時間の鮮やかさとそれ故の豊かさというものを改めて実感します。 (フィラデルフィアの夜に Ⅸ)

2018-12-25

「EVELISING IS  OK!」は、「EVERYTHING IS OK」のミスタイピングでしょうか。それとも、何か意図があってのことなのでしょうか。無論、意図は読者が読み取るべきものでしょうが、私にはその意図は酌み取れませんでしたので、敢えてお聞きする次第です。 (静寂と死の詩というウソツキ)

2018-12-17

るる姐さん 白虎隊への選出、ありがとうございます!! これから、若松城死守のために薩長軍に突撃かけてきます。出陣。 (【フル】るるりらの選評 11月)

2018-12-15

上記の書き込み、誤植を訂正します。 「詩っているからわかる」(誤) →「知っているからわかる」(正) 失礼致しました。 (秘法(第一巻))

2018-12-13

みうらさん、  拙作を何度もご高覧くださったとのこと、恐縮するとともに深く感謝申し上げます。 >読解するためには必要な何か、読む為に必要な知識 >本作を読むにあたって、持っておかなければならない知識  それは、ありません。作者は読み手に「期待」することはできても、「要求」することはできない、というのが小生のスタンスです。  以前に別の所で、自分の作品の受け手をある程度想定している、という趣旨のことをかきました。読書経験の量・質・種類、趣味嗜好、リテラシーの程度などなど、漠然としたものではありますが、仮想している読者のイメージは常に念頭に置いています。  ですが、それはあくまで仮の想定であって、実際の読者への要求ではありません。いったん作品を世に出せば、作品は読者のものであり、筆者の意図やメッセージが何であれ、読者の自由な読みを拘束することはできないという、しごく平凡な結論になります。 「詩には前提知識が必要であるのか」  難しい問いですね。あるといえばあるし、ないといえばない(笑)前提知識があることが読みを豊かにしてくれることもあれば、邪魔になる場合もあると思います。「前提知識」のレベルや範囲をどう設定するか、にもよるでしょう。端的に、まず「日本語の知識」は必要ですわな(笑)古語を知らないと読むことさえできない作品もあるでしょう。また、拙作のように衒学的な術語を使用する作品は、近・現代詩にいくつもあります。たとえば宮澤賢治の作品なんて、科学術語のオンパレードです。じゃあ、そうした術語を知っていれば賢治の詩が「わかり」、知らなければ「わからない」のか?私は、「詩っているからわかる」という人がいたら、その人は詩のことなんか何もわからない阿呆だと思いますね。  一方で、そうした個々の言葉が何を意味するのか知らなくても、やはり賢治の詩は読み手に「響き」、感動させてくれます。詩の力、ことばの力は「教養」よりも上位にある、というのが私の(いささか理想的な)信念です。詩の営みがペダンティズムに陥ることは厳に避けるべきであり、ことばの原初的な力、ものとしての実在性、存在感をいかに扱うかという工夫こそが、私たちの仕事なのではないか、と思うのです。お答えになっているでしょうか? (秘法(第一巻))

2018-12-13

 まりもさん、ふじりゅうさん、つきみさん、蛾兆ボルカさん、stereotype2085さん、みうらさん、fiorinaさん、ご高覧有難うございます。いずれもすぐれた書き手である方々からこんなにコメントをいただいたことに、作者自身ちょっと驚いています。というのも、本作は普段私が読みたい、書きたい種類の詩ではなく、抑え切れないインスピレーションに駆られてなかば已むに已まれず「かけてしまった」作品であり、読み手はもちろん書き手本人のことさえほとんど顧慮していないシロモノですから(笑)  その上で、皆様の御評を非常に興味深く拝見しました。ことに、空白の連を補作するというまりもさんの試みには虚を突かれました。「そうきたか」と(笑)  皆様さすがに練達の書き手であるだけあって、それぞれに核心を突いた鋭いご指摘があり、結構ひやっとしましたww 具体的にどなたのどのご指摘が、とは申し上げられません。答えを明かすことになってしまいますのでね。何しろ「秘法」ですから(笑)  みうらさんからは直接のご質問がありましたので、これには別にお答えしたいと思います。 (秘法(第一巻))

2018-12-13

 言葉にしづらいが良い詩、とふじりゅうさんが仰る通りの感想を持ちました。ただ読むことが快く、何度でも読み返したくなる。それでいて何度読んでも「ああ、こういうことが言いたいのか」という感覚は全く起こらない。ことばの連なり全体が、メタファーでもサンボルでもなく、ただ「詩である」こと以外何もしていない。ゆえにそのまま、言葉通りに読むしかない。読み手にそういう種類の「沈黙」をさせるのは、詩に限らずどんな芸術分野においても、真にすぐれた作品だけがなせる業です。  すぐれた詩には、どのような読み解きや解釈を以ても達しえない「聖域」がある、というのが小生の持論ですが、この作品は、そのような「聖域」そのものが静かに端坐し、賢しらな「読み」を美しく峻拒している、といった感があります。メッセージや表題を持たない「純音楽」があるように、これも「純粋詩」――純粋に詩情のみで存在することばのつらなり、と言っていいかもしれません。  とはいえ、こういう詩をこそ読み解いてやろう、という批評者の意欲を掻き立てる作品でもあるでしょう。小生にはその気力はありませんが、読み巧者の皆様が本作をどのように読むのか、楽しみに見てみたい気もします。 (狭さより)

2018-12-07

 鮮麗な詩的イメージの宝石箱、万華鏡といった風情の、たいへんな力作だと思います。言葉が溢れ出て止まらない、饒舌とさえ感じられる豊饒さですが、こうしたスタイルに付き纏うトゥーマッチさ、「飽食」感がないのは、音律、調子のコントロールが絶妙なためでしょう。要するに、言葉の運び方が実に快適なのです。リズムのこさえ方、崩し方も絶妙。  観念語と漢字熟語が一杯の難解な散文詩、というと悪名高い「所謂現代詩」の専売特許みたいなもので、そうした作品はこのサイトに限らずどこでも見かけますが、その大半は(名の知れた詩書きによるものも含め)作文の基本がなっていない、退屈で冗長な代物です。そうした凡庸な「所謂現代詩」と本作品が一線を画しているのは、上述したような作者の「耳の良さ」でしょう。一見して「読みやすい」「わかりやすい」作品ではありませんが、実際には非常に読みやすく、豊かな読詩体験を味わうことができます。優れた作品です。 (それは素粒子よりも細やかそれはあやとりそれは贈り物)

2018-11-26

藤 一紀さま  ご高覧ならびに懇切な御評に感謝致します。いろいろと興味深いご指摘を頂きました。自作自解は厳に慎むべきですが、ひとつ思ったのは、引用してくださった草野心平の一節との相違について。草野さんの一節は、小説やエッセイの文中にそのまま置かれても違和感のない叙述文ですね。読点がありませんが、入れたとしても表現の質、効果はほとんど変わらない。拙作はこの一文が一個の抒情であって、切り離すことができません。「読みやすく」する分かち書きにすることも試みましたが、そうすると表現されるものが全く変わってしまう。この一連の詩句があくまでも一体なのです。その意味で、読点で区切ることもやはりできない。その結果です。この一文全体がひと息に述べられている抒情であることが「ひきずる感じ」というご印象に関係しているのかもしれません。  那珂太郎さんの言葉は、心情的には極めて同感ですが、無用の反発を招くので小生でしたらこのようには申しません(笑)「旧仮名を使うのは、日本語が好きだからです。」と言い換えておきましょう。 (秋へと落ちていく音階のフアンタジア)

2018-11-23

じゅう様 ご高覧ならびに過分のお言葉ありがとうございます。「ハーメルンの笛吹き」…言われてみればその趣が無意識に入っていますね。以前に何篇か意識してモチーフにしたことがあるのですが、本作をかいている時には頭にありませんでした。どうも、あの野郎、自分の中に広がっている詩的風景の一画を占有してやがるな、と気付かされました(笑) (小さな村で見た)

2018-11-21

fiorinaさま この度も美しい御評有難うございます。すぐれた読み手の言葉に照らされて、自作の宇宙に生彩が増すのを見るのは、作者としてこの上ない喜びです。「喪われた夏」…終わろうとしている夏を永遠化したい、というのは私の詩作の原風景であり、大切な動機のひとつです。何度かいてもかき切れたとは思えないのですが、これは死ぬまで試み続けるでしょう。 藤 一紀さま 貧しい作に再度の懇切なご感想を頂き恐れ入ります。真摯な読みはどのようなものであれ「読み違い」というようなものはない、と思っております。かかれて世に出された瞬間から、作品は読み手のものです。作者もひとりの読み手にすぎません。が、さまざまな読み手に作品がどのように映じたかを見る楽しみは、幸運なことに作者のみ享受できる特権です。その意味でも、貴重なお言葉を下さったことに感謝致します。 (小さな村で見た)

2018-11-19

藤 一紀さま ご高覧ならびに懇切なコメント有難うございます。ご指摘の通りだと思いますが、現状では「それ以上に飛ばす」ことを私ごときの力量で試みれば、詩が理屈に堕す結果に終わっていたでしょう(まあ、それを才能のなさというのですがww) 理屈に終わらず、技巧に逃げず、詩を「もっと飛ばせる」ようになりたいものですが、才は足りず、努力でどうにかなるほど甘いものでもなし。さあ、どうしたものでしょうね(笑) (小さな村で見た)

2018-11-18

カオティクルConverge!!貴音さん >詩に対して失望したいのならどうぞ >この詩をご覧ください 別に何度読んでも構いませんが、詩に失望はしませんよ。あなたのこの作品が詩を代表しているわけでもないでしょうに(笑)面白いことを仰る方だ。まあ、これ以上の問答は双方にとって何の益もないと思われますので、これ切りに致します。ご健筆を。 (ビーレビの昼ドラ)

2018-11-18

不思議な一文です。措辞はしばしば不器用で生硬、時に浅薄だったり青臭く感傷的だったり。いわゆる名文とは言えませんし、冴えたポエジーも機知もない。なのに、文全体をうっすらとした光が底から照らしているような不思議な生彩があり、その光に引き入れられ、最後まで読み通しました。言葉にし難い、読後の感銘。自己告白にはたいてい一種の不潔感が纏わりついているものですが、この一文にはむしろ「清潔さ」を感じました。 (たとえ偽りに終わったとしても)

2018-11-18

 本サイトに投稿するようになったばかりの身ですので、差し出たことは言いたくありませんし、さまざまなご意見もあるでしょうが、一人の詩人、読書人の端くれとして、これは詩の投稿サイト上で目にしたい文章とは到底言いかねる、という感想を持ったことはお伝えしておきたく思います。小生ポリティカル・コレクトネスなる偽善には与しませんしフェミニズムの徒でもありませんが、読んでいて実に索漠とした失望感、虚しさに襲われました。不快さではありません。失望です。 (ビーレビの昼ドラ)

2018-11-18

蔀 県さま ご高覧ならびにまたしても身に余るお言葉有難うございます。そして、今回もまた適格なご指摘を頂いてしまいました。汗顔の至りです。仰る通り「幾千もの」はいかにもまずい。まずすぎです(笑)音律、語調に囚われて語の色調、フォルム、質感への意識がお留守になっておりました。何年もかいているのにお恥ずかしい話です。貴重なご指摘に感謝致します。 (小さな村で見た)

2018-11-18

>めざめると同時に 自由の女神になっていた >すっくと立ち 右手を挙げ 情熱の象徴を高らかに天に示し >頭の中に声が響いていた「走れ!」  もう、この書き出しからして、参りました。このいきなりの飛躍に呆然としながらも「そうだ、その通り、正しい!」と納得させられる言葉の力技。  「なぎたおしたヨモギがうなだれて悲しそうだから何もせずに帰るわけにはいかない」という不思議なロジックも、当然のごとく「そうだよね」と納得させられてしまう。あたかも、夢の中でしか成り立たない奇妙なロジックが現実界を電撃作戦で制圧するかの如きパワフルさです。まさにるるりら宇宙。いつもの誤植女王振りも含め(笑)  「走れ!」というモチーフが図らずも象徴しているように、この作者から溢れ出る言葉は、ことばそのものがアクションなのです。アクションの叙述ではなく、ことばそのものが立ち上がり、腕を振り、地を踏み鳴らし、砂埃を上げて突進する。荒れ野に立つリア王の独白がそれ自体まさにアクションであるのと同じく、るるりら詩の抗し難い魅力は、常にその言葉たちが真の意味で「劇」の力強い「役者」であること。一愛読者として、本作を通じてそのことに初めて思い当たることができました。 (よしっ。いや、ちょっと マテ。 *)

2018-11-15

仲程さま ご高覧ならびに過分のお言葉ありがとうございます。って、なんか、現フォのコメントのレスみたいなお返事で失礼しました。つい、いつもの癖というやつで(笑) >心のひだにふれて、すこしいたみも感じます。 してやったり、じゃないですけど、読んで下さった方がそういう感覚を持っていただけるというのは、作者冥利に尽きます。励みに致します。 (小さな村で見た)

2018-11-13

 非常に洗練された、スタイリッシュな現代の名文というのが第一印象でした。このくらい神経の行き届いた散文は、書店に並ぶ単行本や文藝(?)雑誌においてもほぼお目にかかることはありません(大半は私の世代の感覚では「中学生の作文」レベルですからね)。漢字とかなの使い分けのセンス、文の長短やテンポ、リズムの扱いの巧みさなど、作者の筆力は相当なものと感嘆させられます。第二連の「たまに魚を見かけた。」という書き出しなど、思わず「わあ、こりゃ巧いなあ」と唸らされました。描かれている情景も鮮明で魅力的。「彼女」との触れ合いのメルヘンティックな、快い甘さにも非常に心惹かれます。  非常に描ける作者様なので、ただの読み手として(つまり自分のことは棚に上げて)少々贅沢を述べさせてください。  エッセイやスケッチではない、自立した詩作品として本作に対峙してみると、ここに描かれているような「彼女」との美しい親和が、私たちの生きる現実世界とは共存し得ないということへの痛み、哀しみが感じられない点が、読み手として不満といえば不満です。非常によく描けているにもかかわらず読後の印象がいささか「軽い」のは、文体の軽やかさゆえではなく、読み手の真情に痛切に突き刺さってくる「もののあはれ」の乏しさゆえではないかと感じました。詩情が切実なリアリティーに至らず、完成されたスタイリッシュさの裡に自足している観がありました。決してないものねだりではなく、作者様の力量であれば、単なる「感心」を超えた感動をもたらしてくれるのではと期待しています。 (傘泥棒)

2018-11-13

あざといモチーフだなあと思いながらも、イメージの鮮烈さに引き入れられ、「でもいつか/君になら見せるかもね」の行で思わず心がざわめいてしまった(笑)時点で、作者の術中にはまった感じがします。生々しい感覚を喚起する結尾もいい。ただ、短詩としては完結感に乏しいようにも思えました。有無を言わさない鮮やかな「決め」にまで結晶させることができるのではないでしょうか。もしくは、この一節からさらに展開させるか、です。今のままだと、続きがないのが物足りなく感じます。 (みもりの日記 2)

2018-11-13

帆場蔵人さま ご高覧ならびに温かいお言葉ありがとうございます。「きざまれた言葉がまた次の言葉を引き出していく」とのご感想は、「少しずつずらしてノリで貼り付けていくように、川や子供たちを重ねて行く」というまりもさんの言葉に通じていますね。当人にはあまり意識がないのですが、そういう技巧を俺は使っていたのか、なるほど、とようやく意識することができました(笑)長いことかいていますが、技巧への意識はちっとも向上しません。 桐ヶ谷忍さま ご高覧ならびに身に余るお言葉に恐縮しきりです。ありがとうございます。私もよく「こういう詩がかけたらなあ」と溜息が出る思いで讃嘆したくなる作品に出合いますが、菲才にしてその念願が叶ったことはありません(笑)ですが、そういう心境でひとのかいた詩を見られるようになってから、むしろ自分の詩をかくことが楽になったような気がしております。 (小さな村で見た)

2018-11-12

芦野 夕狩さま ご高覧ならびに懇切なご批評、ありがとうございます。すぐれた読み手に自作を読み解いてもらえるのは、愉しいものですね。「自分が何をかいたのか」を改めて教えてもらえるような気がします。 >境目のはっきりしない黄昏のような文章 そういえば、私自身の好きな作品も、リアルでありながら異世界と地続きのようなものが多いな、と気付きました。詩に限らず小説も音楽も。現実だって幻想のひとつにすぎないじゃないか、そんなに威張るな、という反現実主義の賜物でしょうか(笑) みうらさま ご高覧ならびに過分のお言葉ありがとうございます。真摯な読み込みから生まれる言葉は、作者にとっては常に新しい自己発見の愉しみを与えてくれる、貴重な言葉です。参加して数日にしかなりませんが、拙作にそうした貴重なお言葉を何人もの方が下さったことは望外の喜びでした。「読めない、解らないでスルーしたい作品を敢えて読んで自分の言葉でコメント付けたい」という困難な課題に熱心に取り組んでおられる方々がおられることにも敬意を表したいです。小生は物ぐさで「スルー」がほとんどなのですが、出来得る限り、レッサーとしても貢献できればと念じております。不束者ですが今後ともどうぞ宜しく。 (秋へと落ちていく音階のフアンタジア)

2018-11-12

stereotype2085さま ご高覧ならびにコメントありがとうございます。「音数が多い」…ありましたねえ、そんな逸話が。モーツァルトの逸話に擬えられるのは、光栄を通り越して滅相もない、恐れ多い!というのが正直な気持ちですが、何ひとつ付け足しも削りもなく一気にかき通し、推敲もほとんどしなかったのは確かです。何か憑き物でも憑いていたのでしょう。 杜 琴乃さま 身に余るコメントありがとうございます。嬉しいやら恥ずかしいやら(笑)これ以上何か書くとバカなことを言ってしまいそうなので、やめにしておきます。これからも「萌え」な方々に喜んでいただける作品がかけるよう、お言葉を励みに致します。 fiorinaさま そうか、私がこの作品をかいた時に何が「憑いて」いたのか、いま判りました(笑) それ自体がすぐれた詩であるような美しい批評を頂き、光栄です。「作者自身の詩への思い」を酌み取って下さった細やかなお心遣いにも感謝致します。 蔀 県さま ご高覧ならびに過分のお言葉ありがとうございます。題名は、そういえばどうしてこうしたのかなあ、と思い返してみました。ものに憑かれたように一気にかき上げた後、はたと我に返って題名をどうしようと考えてみましたが、どのように気の利いたタイトルを付けても浅はかな嘘になるような気がしてどうにも思い付かず、なかばやけくそで「これでいいや」と書きなぐったものであった、と思い出しました(笑)やはり、注意深い読み手には伝わるものですね。とはいえ、「最高に恰好よく」決まらない方が自分の作品には相応しいとも思います。柄でもない、というやつです(笑) (秋へと落ちていく音階のフアンタジア)

2018-11-11

stereotype2085さま ご高覧ならびにコメントありがとうございます。ご感想を伺って、もし新仮名遣いでかいたらどうだったろう、と本作を頭の中で仮名遣い変換してみましたら、耐え難いほど貧相なものになってしまいました(笑)仮名遣いを変えたら、自分がかく詩そのものも変わってくるのだろうな――そんなことを思いました。 (小さな村で見た)

2018-11-11

大変面白く拝読しました。引用されている詩句の扱いが、おふざけのパロディーであれば不愉快なものですが、それぞれの詩句への愛着、敬意がにじみ出るオマージュとなっていることが、気持ちの良い笑いをもたらしてくれています。パロディーの対象を笑いものにするのではなく、パロディーを行う自分自身を笑いものにする潔さが、共感できる良質のユーモアを生み出している、そのように感じました。 (ポエムでチクショー)

2018-11-10

沙一さま  ご高覧ありがたうございます。折角正仮名でコメントを頂戴したので、小生も正仮名でお返事するのが当然の礼儀でせうか。日常の書き物において正仮名を使ふのをやめて既に20年以上経ち、今はすつかり鈍つてしまいましたが(笑)  正仮名の作品を楽しんで読んで下さる方がこちらにゐらつしゃるといふのは、小生にとつても望外の喜びでした。絶滅危惧種同士(笑)、今後ともご厚誼を賜れば幸ひです。 帆場蔵人さま  ご高覧ならびに過分のお言葉ありがとうございます。 >ひとつひとつの言葉を考えるよりも読みあげながら流れに身をまかせて  ああ、そのようにお読みいただければ、作者としてまさに本望です。それに勝る喜びはありません。重ねて感謝申し上げます。 渡辺八畳@祝儀敷さま  ご高覧ありがとうございます。「読みづれぇ」ですか、うーん、ごもっとも(笑)一文でどれだけ長くかき、詩作品として完結したものにできるか、という私的実験でしたので、読みやすさはある程度犠牲にしました。そういうご感想をお持ちになるのも無理からぬことでしょう。  「可読性」や「苦痛を伴う読書は脱落者を生む」ということについては、また別の視点もあるかと思います。  私が自分の作品の読み手として想定している読者層の嗜好、感性、読書の傾向や経験などから考えると、この作品を読むことは別にむずかしくも苦痛でもないというのが作者の予想でした。実際に、拙作を読んでくださった何人かの方からご感想をいただきましたが、読みづらい思いをされた方はいないようです。「可読性が低い」というご評価は、個人的な感想ではない一般的な価値判断と読めますが、そのように容易に一般化できるものだろうか、という疑問を正直なところ感じました。  例はあまり的確ではありませんが、たとえばモンテヴェルディやバッハを愛好している音楽ファンにとって、ラップは耐え難い騒音でしかないでしょうし、ハードコアパンクの好きな人がブルックナーの交響曲を80分にわたって聴かされるのは最悪の拷問でしょう。オーディエンスの層の違いというのは、どのような芸術の分野にも存在すると思います。  もちろん、真に優れた天才の作品、パフォーマンスは分野や層の違いを超えて広く人の心を打つでしょうし、万葉集研究一筋に打ち込んできた大学者が最も先鋭的な現代詩に感嘆するということもあり得るでしょう。ですが、私は発信者としても受信者としてもポンコツであり、とうていその域にはありません。あらゆる読者層に訴えかける傑作をかいてやろう、という野心も既にありません。自分のかきたい詩をかき、こういう作品を愉しんで読んでくれるであろう読者に届ける。それ以上のことは望んでいません。詩を長年かいてきて、今はある意味己を知る、という時期にいるのです。 (秋へと落ちていく音階のフアンタジア)

2018-11-10

まりもさん ご高覧ならびに美しいコメントありがとうございます。私は絵の世界に全く不案内で、谷内六郎の名前を知らなかったのですが、検索して氏の作品の画像を見て「なるほど」とおもいました(笑)私の脳裏にあった風景とよく似ております。 みうらさん ご高覧ありがとうございます。「大層であり大層でないこと、自分語りであり自分語りではないこと、虚構であって現実であること、そんな傑作を書きたい。」とのお言葉に大変、共感しました。私自身も、まさにそのようなものを書きたいと日々念じております。その域には未だ道遠し、ですが(笑) (小さな村で見た)

2018-11-10

淡々と柔らかいが強靭な語り口による、鮮明な美しさの詩的情景。結尾のポエジーはことに鮮やか。安易な読み解きなど入り込む隙のない、自立した詩世界の時空をそのまま味わい、残るのはいい詩を読んだ、という感想のみです。 (箱庭)

2018-11-09

鬱海様 あれこれと勝手な妄言を書き散らしましたが、オオサカダニケさんの仰る通り、素人の独断に過ぎませんので、どうかお気になさらず、素人が何を抜かすかと笑い飛ばされるか、黙殺なさって下さいませ。批評は常に後出しじゃんけんに過ぎず、真の勝者は常に作者です。次作も楽しみにしております。 (ばいぶる (短歌))

2018-11-08

>イヴだった頃に追いかけた蝶の翅 >ピンを打つときふと思い出す  何気なくスクロールしていて、この二行のすばらしさにハッと目が覚める思いでそのまま読んでいきました。短歌を集めたものと気付かず、ひとまとまりの詩であるとばかり思っていたのです、迂闊なことに(笑)  さて、それぞれが完結した一首であることを意識した上で読み直すと、いろいろ物足りないところ、新たに気付いたことが出てきたのは面白いことでした。  第一首、これは実に魅力的です。ポエジーが見事に完結しています。  第二首、短歌と思って読むと「今も似たようなことをしている」の音律のゆるみに抵抗を感じますが、二行の短詩と見て(実際には存在しない)タイトルがその二行の前にあるものと勝手に想像して読むと、尾形亀之助あたりの凝縮されたポエジーをほうふつとさせる、余韻深い詩行と読めます。  第三首も、完結した短歌として読むと「無残に切り刻まれた」の音律がいかにもゆるく、だるく感じられますし「無残に」が説明的にすぎ、いかにもまずい。しかし、詩中の一行として読むとそのようには感じません。形式というものの面白さですね。  第四首。「地続きである我らの原罪」の句は、いい詩に膨らむ可能性を秘めた魅力的な句ですが、全体としてはやや生煮えの憾みあり。「血をあげる」は短歌としては無論、自由詩として読んでも拙く響きます。勿体ない印象。  第五首。発想は豊かなポエジーを内包していますが、「セックスをしたら」の音律のゆるさ、平板さがやはり短歌としてはいただけない。短歌ではなく自由律俳句、一行詩として、たとえば「セックスをしたら野に咲く白百合が私の代わりに死んでしまった。」と頭の中で読み替えると、私にとってはこの一首の着想が生きて響きます。 第六首。これまで述べたことと同じような感想になります。詩の中の一行であればこれで何の抵抗もなく読めますが、短歌として読むと「恋なのに 彼も」のスペース区切りは余計なものに感じました。  第七首のアイロニーは第一首に次いで魅力を感じましたが、詩の中の一行として用いられてこそ、そのポエジーが生きる詩句であるように思います。短歌として単独で自立・完結したポエジーを生み出すには至っていないという感想を持ちました。  結論として、私にとっては、短歌の集成ではなく、一篇の詩作品として読んだ方が面白く思えます。もしかすると、筆者もそのように意図されているのかもしれないのですが(笑) (ばいぶる (短歌))

2018-11-08

人間同士の関係にとどまらず、物質宇宙はなべて「やって-やられる」「行って-来い」「作用-反作用」の連鎖にはまっておりますな。目には目、歯には歯のこの地上世界こそまさに無間地獄。なればこそ「右の頬はたかれたら、左の頬差し出したったらええやんか」というのはキリストの天才的な飛躍だったわけです。 悲しき人間の性をしっかりと自覚しつつ、それを超越する力を(神か仏か分りませんが何者かから)与えられている人間の良識への信頼が、ユーモアただよう実直な語り口から自ずとにじみ出してきます。薄っぺらなヒューマニズムでもなく苛立たしく傲慢な社会批判でもない、人間性への平明な視線と愛情が静かな感動を呼ぶ作品でした。 (触れ合う *)

2018-11-07

悠久の時間性と、存在そのものへの本源的な悲しみを、今、生きているこの日常的な瞬間のリアルな知覚、真情として表現する作者の手腕は見事なものです。世界観、リリシズムの質にも大変共感します。 >それが悲しくて、今日はケーキも食べたくない。 とくにこの一節には唸らされました。単なるセンスの良さではない、人間の真情をこのようなやり方で新鮮に提示できる智慧深さ。詩行はこうでなくては、と思います。 それだけに、第一連の入りがどういうわけか、ひらめきに欠けた、いささか凡庸な理屈語りに聞こえるのは残念でした。書き出しはどんな作品でも難しいものですが、二連以降の見事さからして、この作者であればもっともっと魅力的な導入ができるのでは、と。本当にいい詩なので、かなり悔しい。 (十億年)

2018-11-07

るる姐御、 このハンドルは、ユーザーネームそのままなんです。別にHNを登録できなくて。やり方わかんなくてww これは単にメールアドレスの前半です。グーグルが付けてくれた名前です。 私は58歳ではありませんが50代です。姐御というのは、何となくそう呼びたい方なのです、私の中でww 内輪雑談にスレを占拠しまして失礼しまっしたぁ~ほなまた。 (よしっ)

2018-11-06

ボードレールの翻譯詩、朔太郎や大手拓次などを彷彿とさせる言語感覚は、古風と言えば古風(私にはそんなことを言う資格はありませんがww)。ですが言葉には十分な鮮度があり、大正・昭和の文学に沈潜した経験の豊かさを感じさせる確かな筆致により、読み手としては安心して詩世界にひたることができ、非常に充実した詩体験が味わえます。読み手の生理的反応に直接に訴える生々しいイメージの多用は、好きな人には堪りまへんやろなww 私がこの作者について感心したのは、ユーモアの感覚です。朔太郎や拓次など、官能性に訴える作風の詩人はともすれば自己耽溺的・陶酔的で、ユーモアに乏しい。年を取ってくるとそういう耽溺性にはいささか食傷させられますが、この作者のユーモアの感覚、たとえば >そも魂とは袋の自己認識に他ならぬ >まずは断腸の思いで >口と肛門を別個に据えたヒモムシの奇跡に >思いを致し激しく感動せよ >ああ私達が一個の袋であるということは >何と悲惨にして心休まることであろうか このあたりのくだりには、筆者の自他を見つめる視線の平明さ、智慧深さが自ずとにじみ出ています。大人向けの詩。そんな感想を持ちました。 (塩の都)

2018-11-06

顔を真っ赤にして走っているるる姐の姿が脳裏にまざまざと浮かぶww きっと今も走っているのでしょう。 天才ならではの閃き、気合一発の賭け。成功しているかどうかは何ともいえまへんが、この作者らしいといえばらしい。 (よしっ)

2018-11-05

日常がさりげなく非日常と溶け合ってひとつになる、詩的想像力のやさしい細やかさが素敵な作品です。私がこよなく敬愛する山本沖子さんの作品に通じるような世界。 >翌朝のちぎれ雲は >やさしく整えて日陰に干した この二行はことに素晴らしい。想像が詩的真実になる瞬間、というのはこういうものでしょう。ちぎれ雲の質感が手に取るように感じられます。詩によってしか創造し得ないリアリティです。 ひとつだけ贅沢を言うと、「かえっておいで」と呼びかける対象は、「あの日」であると読めるのですが、対象を示唆せずに読者の想像に任せた方が、「かえって」きてほしいものの実在感が増したように思いました。もちろん「あの日」に籠めた作者の思いがあるのでしょうが。 (かえっておいで)

2018-11-05

鮮麗で美しい、好きなタイプの作品です。一、二、四行目は見事。タイトルからの響かせ方もセンスがいいですね。 三行目の「沈黙する夜空」のみ、いささか凡庸に感じました。他の行の詩語が凝縮されている分、そこが浮いて見えるのでしょうが、短い作品ですから、すべての語句にわたって隙のない音韻、イメージを突き詰める必要があると思います。 (三日月に)

2018-11-05

独言少女

2020-03-06

横には恋慕

2019-05-26

バラの浴室

2020-05-03