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プラットホーム
記憶を失った詩人が むかし書いた詩を朗読してもらったとき 声をあげて泣いた いつかプラットホームで 「君、もう僕は詩が書けないんだよ」 「君、もう僕はどっちの方角に帰ればいいかわからないんだよ」 「君、詩を書くんだよ、」 と 若い私たちにくりかえし言った もう どっちの方角に帰ればいいかわからない ふゆのプラットホームで
プラットホーム ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1285.6
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 5
作成日時 2019-03-03
コメント日時 2019-03-09
項目 | 全期間(2024/11/23現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 5 | 5 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合ポイント | 5 | 5 |
平均値 | 中央値 | |
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叙情性 | 5 | 5 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合 | 5 | 5 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
訂正です。 「記憶を失った詩人が」→「ことばを失った詩人が」
0さいきん、山本沖子さんの(恐らく)最後の詩集を読み返しました。巻末に三好達治についての回想録が載っているのですが、そこにいくつか引用されていた(山本さんの回想する)三好の言葉の声調が、この作品中の「詩人」の声調と全く同じであることに驚きました。 そんな符号もあり、本作に描かれた詩人の声は、私の心の中で忘れ難い切実さを以て響きます。 最終連の「もう どっちの方角に帰ればいいかわからない」で、作者自身の声が我慢し切れず洩れてしまった感があり、作品世界の視野に乱れが生じたことだけが残念でした。 抒情と感傷の境界線は常に微妙ですが、視点の一貫性と純粋さを保持し切れる精神の強さが、その境界に踏み止まる力となるのでしょう。それを詩における「批評」と呼んでもよいように思います。蛇足でした。
0仲程さん、コメントありがとうございます。 たくさんのよい作品を読ませていただいています。 (昔のお名前で登録されていることもうれしいです。) 私も旧作を見直しての投稿です。 ネットのスピードで、投稿衝動だけで連日即興にアップしていた頃、 あれが「詩を書いていた」といえるのか、私の場合は疑問です。 その頃も本当の詩を書いていた方や、適切な批評を下さった方はいたと思うのですが、 自分自身は、詩のようなものに熱狂していて、それらが深奥に届いていなかったのだろう、と。 遅いと言えば遅いのですが、まだまにあうと信じて、詩を追求してみたいと思っています。 ishimuraさん、コメントありがとうございます。 山本沖子さんの詩集は存じ上げないのですが、たしか杜琴乃さんの詩の合評の時に、 「似ている」と石村さんが紹介されたお名前でしたね。 三好達治にとって、山本沖子さんが若い詩人だったのでしょうか。 >最終連の「もう どっちの方角に帰ればいいかわからない」で、作者自身の声が我慢し切れず >洩れてしまった感があり、作品世界の視野に乱れが生じたことだけが残念でした。 最終連のくり返し部分は、調子の座りのように殆ど無意識にしてしまいました。 でも、詩人の内部を自分が想像し得たかのようなおごりがあったと思います。 それを無意識にしてしまったということが、根が深いと感じます。 (他の作品でも、同様の感傷を盛大にやっていることでしょう・・・。) 「抒情と感傷の境界線」を実は考えたことがありませんでした。 >抒情と感傷の境界線は常に微妙ですが、 >視点の一貫性と純粋さを保持し切れる精神の強さが、その境界に踏み止まる力となるのでしょう。 >それを詩における「批評」と呼んでもよいように思います。 貴重なお言葉をありがとうございました。 詩作に生かすのは至難かも知れませんが、心に深くとどめたいと思います。
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