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たいしたことである
縦長の紙の中央に鋭く吐き出された呼吸のような筆致で一本の枯木が描かれている。その頂には一羽の鵙(モズ)が羽をたたんでとまっていて、下方を見ている。図形化すれば、一本の垂直に引かれた細長い線の上に大きな丸という構図だ。そして、その線のやや高いところを上に向かって動いているものがある。一匹の虫だ。 以上が、剣術家であり、絵もよくしたといわれる宮本武蔵の『枯木鳴鵙図』である。説明ではわかりづらいだろうから一度検索してみてほしい。 >ほら ちよいと >武蔵の絵みたいな >構図ぢやないですか と、詩作品の中に絵画作品の構図を持ち込むことで、詩作品がひとつの明確な構図をもった世界として立ち上がる。冒頭からの語り手視線のぼやきのような語り(そのために存在感の薄いカラス)は、一旦消え、構図を得ることで実像として再び現れる。そして三行以降では、モズとしての「カラス」と虫としての語り手二者が、どちらも欠かせない作中の登場人物として動きはじめる。だから、二者の会話が自然な会話として成立するのだ。 物理的に高い位置にある者はそのために一度に広くを見ることができる。カラスのような翼あるものともなれば方々を飛び回るので、より多くのものを見ることができるだろう。蓄えられた知識は計り知れない。肉体的精神的に高みにある到達した者は経験値も高く、知恵をもち、落ち着きがあると言えるかもしれない。 他方、その途上にある者は目の届くだけの狭い生活範囲のことだけでも精一杯である。枝にしがみつき、地道に這うことでしかよじ登ることができない〈虫〉のように、些細なことにも一喜一憂し、場合によってはすわ、一大事とばかりに騒ぎ立ててしまう。無論私は〈虫〉の側だから、例えば作中の語り手同様、《そいつは何とも/おきのどく》と言いたくなってしまうクチで、長く生きたカラスのように《なんてこたあ ないんだよ》とは言えそうもない。それが人情というものだろう。よし理屈でそう思ってみるとしても、そのあと蒸し返すようにくよくよと自問自答するのが関の山だ。 しかし、《何か面白いお話でも》という問いかけに対してカラスはなぜ男と女の人情沙汰を語ったのか? 《なんてこたあ ないんだよ》というのであれば語る必要もないだろうに。そして語り手は「男」のことを気にしているが、カラスは答えない。 >カラスはそつぽ向いたまま >うす雲たなびく空の下 >春風に吹かれてる と飄々としている。 いや、チョット待て。カラスは答えないのではなく、答えられない、または答えたくないのではないだろうか。実は長く生きたカラスにとっても男と女のエピソードは大したことであり、だからこそ語らずにいられなかったのだ、と私は思う。ただ、だからといってどうすることもできない生きることにつきまとう痛みはある。であるならば。 「うそぶく」には「平然としている」や「ホラを吹く」、「知らん振りをする」といういくつかの意味がある。いかにも「平然としている」ふうな様子のカラスであるが、 >ほつぺたを掻きながら >長生きのカラスがまたうそぶく の「うそぶく」は「知らん振りをする」ほうの「うそぶく」ではないだろうか? あるいは知らん振りのふりをする、とでもいうような。語り手には「平然としている」が、カラスとしては「知らん振りをする」という取り違えがここにはあるように思う。もし、そうであるならば《たいしたこたあ ないんだよ》でも二者の間で取り違えが生じており、その取り違えから語り手の問いがはじまっていると言える。 本当に「たいしたことはない」という「平然としている」という意味と、強がりやそう言う以外にないという場合の「たいしたことはない」──先ほど挙げなかった「うそぶく」のなかの「ホラを吹く」である──という二つの意味で、語り手は前者をとった。カラスは後者の意で自分を突き放してみせたのだ。 などと書いてみても結局、語り手の自問自答と変わりゃしない。まったくもってたいしたことの「た」の字にもならないが、作品は実にたいしたもので、春風に吹かれているカラスの孤高の寂しさよ、という感であります。
たいしたことである ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1518.7
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作成日時 2020-04-07
コメント日時 2020-04-08
拙作への懇切な御批評、有難うございました。 「武蔵の絵」は今の読者に通じるのかという不安がありました。ここが通じなければご指摘の通りカラスの存在感は生まれず、対話に生命が通わなくなってしまうわけですから。 「嘯く」についての解釈は興味深く拝読しました。自作自解になるようなコメントは控えますが、これもカラスの存在感を描く上でどうしても「嘯く」でなくてはならなかった、と言うより最初から「嘯く」者としてカラスが出てきてしまい、そいつに語り掛ける過程そのものがこの作品の成立過程だった、とだけ申し添えておきます。
1コメント、ありがとうございます。武蔵の絵を見た時に、電信柱の上のカラスと下の語り手が立体的になりました。この三行なしでは違ったものになっただろうな、と思った。それで、武蔵の絵を軸に書こうと試みたのですが……いやはやなんとも難しいですね。それでもやっぱり武蔵の絵については触れておきたかったし、残しておきたかった。半分以上は意地みたいなもんです。 「うそぶく」の解釈は、どうも最終連でそっぽを向いているカラスが、悲しくて目を逸らしたような気がした、そこから始まったように思います。まあ、なんにしろ、書きたいことを漏らさず文章にまとめるというのは、書きながら読みが二転三転することも加わって、なかなかうまくいかないものです。冒頭の《翼をたたんだカラス》というのも、その前の動きがあることを暗示していなければ《カラス》で済んだだろうなあ、と思いながら踏み込めていないし。精進、精進だなあ。とまれ、どうしても書いておきたかったこと(武蔵の絵)は書けたのでヨシとします! ありがとうございました! 押忍!
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