作品投稿掲示板 - B-REVIEW

fiorina


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樹木(ヤマモモ、キョウチクトウ)の毒が効果的に使われていると感じました。 それぞれの毒性と癒やしがひびきあって生き物を生かし、 育てる庭という場所に死角があると言うことも。 弱々しい「べっちょない」が通奏低音のようにきこえます。 (神の庭)

2019-05-07

琴乃さん、コメントありがとうございました。 黎明と夕暮れは、奇跡中の奇跡ですね。 毎日どこですごすかで、一生の贅沢度が違う気がします。 ただじっと眺めてるんですけど、猛烈にしゃべっているようなw そのことばをきっと、山や空、外界は聞き取っているんでは? そしてまた翌日出血大サービス! そしてひとには文字が残される・・・。 琴乃さんもたぶん、そんな日々でしょうね! (夜の庭)

2019-03-29

鈴木歯車さん、コメントありがとうございました。 「最高密度の青色(最果タヒさん)」はまだ手にしていませんが、 眼に広がるタイトルです。 なづけようのない、苦しみではかるしかできないときがあり、 よろこびすらも苦しみの形のように、 そこでしか見られないものを見せてくれますね。 (夜の庭)

2019-03-26

静かな視界さん、 技術が見えるというのは、技術がないことで、生硬なのでしょうね。 私もそれを感じます。 ただ読む歓びだけであって欲しいと思うのです。 「流れゆく露のひとひら」は、ひとしずくが本当かも知れませんが、 「うたのように宿す」ときに水っぽくない方がいいかと・・・(後付けです・笑) 。コメントありがとうございました。 (夜の庭)

2019-03-26

田中修子さんへ コメントありがとうございます! おしゃべりなくせに、ここでことばを発せられたら、と言うタイミング的に不器用だと痛感するのですが、 だから、その瞬間は相当痛いリアルを生きることになるんですけど、 心の中で一度生まれた言葉は、死なずにどっかで達者で生きてるんですよね。 どこをどう放浪しているのか、 瞼の母のように、邪険にして捨てたことばと、再会をするのが自分の詩かもしれないなとおもって・・(続くw) (夜の庭)

2019-03-24

ふじりゅうさん、コメントありがとうございます。 稜線フェチで、 稜線をみると眼の中に快感が走るので、前世は山男だったのかも。 わりと自分では何を書いてるかわからないような感じで書いた詩ですが、何かがお渡しできたとしたらよかったです。 (夜の庭)

2019-03-24

石村さん、コメントありがとうございました。 自分では、アップしたあと、石村さんがよく言われる「詩のようなもの」になっているのでは、と心配していました。 現代詩の中に入ると、何から何まで古くさくて、、、と思うのですが、たぶんこのままで行くのでしょうね。また読んで下さると希望が湧いて、生まれてもいいよ、とどんな子でも言ってもらえたようにうれしいです。 (夜の庭)

2019-03-23

グーグルでログインしたら、ポイントできました! (【お知らせ】サイトリニューアルに伴う工事の予告)

2019-03-19

かるべさん、おつかれさまです。 シンプルというのは、創造が広がる気がしますね。 ログインして初ポイントを入れているのですが、反映されません。 クッキーとかはどこで外せますか? (【お知らせ】サイトリニューアルに伴う工事の予告)

2019-03-18

仲程さん、コメントありがとうございます。 たくさんのよい作品を読ませていただいています。 (昔のお名前で登録されていることもうれしいです。) 私も旧作を見直しての投稿です。 ネットのスピードで、投稿衝動だけで連日即興にアップしていた頃、 あれが「詩を書いていた」といえるのか、私の場合は疑問です。 その頃も本当の詩を書いていた方や、適切な批評を下さった方はいたと思うのですが、 自分自身は、詩のようなものに熱狂していて、それらが深奥に届いていなかったのだろう、と。 遅いと言えば遅いのですが、まだまにあうと信じて、詩を追求してみたいと思っています。 ishimuraさん、コメントありがとうございます。 山本沖子さんの詩集は存じ上げないのですが、たしか杜琴乃さんの詩の合評の時に、 「似ている」と石村さんが紹介されたお名前でしたね。 三好達治にとって、山本沖子さんが若い詩人だったのでしょうか。 >最終連の「もう どっちの方角に帰ればいいかわからない」で、作者自身の声が我慢し切れず >洩れてしまった感があり、作品世界の視野に乱れが生じたことだけが残念でした。 最終連のくり返し部分は、調子の座りのように殆ど無意識にしてしまいました。 でも、詩人の内部を自分が想像し得たかのようなおごりがあったと思います。 それを無意識にしてしまったということが、根が深いと感じます。 (他の作品でも、同様の感傷を盛大にやっていることでしょう・・・。) 「抒情と感傷の境界線」を実は考えたことがありませんでした。 >抒情と感傷の境界線は常に微妙ですが、 >視点の一貫性と純粋さを保持し切れる精神の強さが、その境界に踏み止まる力となるのでしょう。 >それを詩における「批評」と呼んでもよいように思います。 貴重なお言葉をありがとうございました。 詩作に生かすのは至難かも知れませんが、心に深くとどめたいと思います。 (プラットホーム)

2019-03-05

訂正です。 「記憶を失った詩人が」→「ことばを失った詩人が」 (プラットホーム)

2019-03-03

ishimuraさん、コメントありがとうございます。 何度かご指摘いただいたことが、いくらかできたのかと、うれしく読ませていただきました。 >美や思想のためにかかれていない 風景は、それだけで詩ですね。草木たちが口々に由来や美しかるべきを語り始めたら、それはうるさいことでしょうね。それと同じことをやっていたのかも知れないと思いました。音楽性がないような気が、アップしたあとしたのですが、次作では それを念頭に置きたいと思います。 (風景)

2019-03-03

galapaさん、コメントありがとうございます。 いつか河川敷を歩いていたとき、日傘の中に蝶が入ってきて、長い時間一緒に散歩しました。 この世界に不思議でないことは何一つない、と言う気がしていますが、その上に重ね塗りのように、亀裂のように、横切っていくものがありますね。 (風景)

2019-03-03

本日3月1日(金)21時より、【突発的弓庭夜話】を実施します。 場所はtwitter 作品は、くつずり ゆうさん「湯灌」→https://www.breview.org/keijiban/?id=3031 ご参加予定、閲覧ご希望のかたは、fiorinaをフォローして下さいませ。→@bara20006 初の試みで、どんな風になるのかわかっておりません。まずは、ふるってご参加下さい! (湯灌)

2019-03-01

くつずりさん、おひさしぶりです。 くつずりさんのお作は、息を詰めるように、次の行をおそれるように読ませていただくのですが、 大切なかたを送られた直後の、特別な時間が特別な作品となっていると感じました。 くり返し読むたびに新しく、作者のぬくみと怜悧をともに感じます。 そっと落としたものを拾って ああ、ここね!と詩友とまた何度でも語りたくなる、、、 また読ませて下さい。 (湯灌)

2019-03-01

仁川路 朱鳥さん、コメントありがとうございました。 ご指摘下さった行の不思議から、書き始めた詩でした。 歩いていると本当に感じます。 また、いつも語りすぎる私なのですが、読者にお渡しできるものが残せたなら、うれしいです。 橋は私の心の風景でもあります。 ふしぎな橋が この町にある 渡った人は かえらない こんな歌もありましたね。 (風景)

2019-03-01

沙一さん、コメントありがとうございます。 声というのは、文字が生まれていなかった古代でも、受け手が同時に共有すると言うことができる方法だったのですね。 インターネット時代でも、文字での受容は個的であり時差がありますね。 (その分じっくりと味わえると言うことなのでしょうか。) 好みはあると思いますが、詩の伝達手段として、声を生かさないのはもったいないという気がしなくもないです。 谷川さんが声でと思われたのは、わかるような気がします。 谷川さんの詩は、口語でできてますね。口から出てくるときの感じが、一番ぴったりするのではないでしょうか。 文語詩、ですとやはり詩自身が「孤独に文字で読んでくれい!」と言ってるかも。 聞いてみないとわかりません(笑)。 朗読に陶酔、と言うことがよく言われますが、かつて、「陶酔せよ、君たちは詩を書き終えたあと、陶酔しているか」みたいな格好いい檄を読んだことがありました。(記憶なので正確ではありませんが・・・。) 私はあらゆる過剰は陶酔の一種だと思うので、陶酔を叱る人の過剰もまた陶酔と感じたりw、感情を抑制しすぎるのも陶酔と感じます。 谷川さんは、その生き方も読み方も自然で、素敵ですね。 (声)

2019-02-28

訂正です。   誤「うたわれ」→正「うたはれ」 (罪)

2019-02-11

他の習慣、教えでは肯定的にたとえば「愛」として讃えられるものが、 すべて執着にすぎないと、むかし初めて聞いたときと同じ驚きが、この作品にありました。 でも、詩は驚きをこえ、魂の震えに変わりました。最終3連のすばらしさ!    *** 「咲き」「実り」「うたわれ」「えがかれ」etc・・・ いずれも命の歓びそのもののはずですが、 「花は さかなくてもいいんだ」 「麥の穂は みのらなくてもいいんだ」 となぜか作者は語り出す。 田村隆一の「言葉なんかおぼえるんじゃなかった」(「帰途」)を想起させる屈折したひびきに、 この作品を書かねばならなかったおもいが隠されているのかも知れません。 いいんだ いいんだ とたたみかけながら、それでも 「罪にをののきながら うまれてくる」 後から後からどうしようもなく生まれてくるものたちへの不思議と慈しみ。 究極の歓びを生み出す源には罪があり、 生まれたその子どももまた罪の子としてふるえている。 この詩の新鮮さは、人間の存在そのものを罪と言っているのではなく、 行為を罪と表現していることです。 (少しニュアンスがずれそうでこわいのですが、) 私は以前から、詩(生まれた言葉は)は、そのものが傷だと感じていましたが (だから些細な酷評?もあれほど痛い・・) 詩作の中で作者が 「罪にをののきながら うまれてくる」 と書かずにいられなかったことが、読者をして身動きできないような静謐に取り残すようでした。 (罪)

2019-02-11

るるりらさん、 引き続いてのご高察、かたじけのうござる。 先に書きました「時の遍在」は、宇宙の端っこ?を見れば、そのまんまという感じで信じられるんですが、それすなわち存在の遍在とも思うのですね。 >いやまて、フェイントで るるりらでも 良い気がしてきました。 >はたまた、つきみさんでも悪くはない気がしてきました。 全くその通りでございます。そして、いつか るるりらさんとつきみさんが冬の哲学の道で、一枚の紙を広げて、 何かに読みふけっているかも知れないのですね。 登場人物は限りなくリアルの存在でありながら、その存在を消していくとき、 自分だけの道案内人になる? そして、冬の哲学の道をもし訪れることがありましたら、枝という枝にもう小さいつぼみが雨露のようにあって、静かさの中の命の喧噪に驚かれることでしょう!         (琵琶湖、湖西線の旅の中にて) (【哲学の道散策】※)

2019-01-04

****************** ええと、昨年書き忘れたまま、すでにコメント欄が表示されない拙詩「まなざし」へのレスを、 ここでさせていただきます。(反則かも・・・) stereotype2085さん、田中修子さん、ごめんなさいっ!! ☆stereotype2085さん、 当初長い間、コメントをいただいてたことにまったく気づいていませんでした。田中修子さんからのコメントがあったときに、あっと思ったのですが、ステレオさんがいいと言ってくださっているのに、 私はこの詩をあまりいいと思えなくなっていまして、(書いた直後は、わりと名作?wと思ったのですが)、お返事をどうしたものかと考えているうちに忘れてしまって・・・。 昨年のことではありますが、ここでお詫びします。 何故いいと思えなくなったのか、修子さんへのレスに書きますね。 肉声の熱いコメント、ありがとうございました! ☆田中修子さん、 修子さんからのコメントはすぐに気がついたのですが、そしてとてもうれしかったのですが、 その時点で私は、この詩にちょっと飽きていたのですね。何故かというと、予定調和的といいますか、リズムが単調で、たとえば修子さんの詩が持っているような、どうにもならないような破れがない。 いみじくも言ってくださっている「綺麗に配置」を何とかしたい思いに駆られてました。 で、返信をためらっているうちに、うっかり忘れてしまいましたっ。 何度か思い出して、また忘れてしまいました・・・。 ただ、自分の書くものが、おしなべてこのようであることには、ずっと心が行っていました。 まだ、何かを見つけた訳ではないのですが、 多くの方が何となく指摘してくださってたことが、よくわかるのです。 でも、 「とおいむかしわたしも歩いた 霧の道 そのすべてはいつか燦々と光につつまれる 、と 」 ↑この部分は、詩のできとは関係なく、つらい人に「そうだよ、ホントだよ」と 年長者の特権で言い続けたいことでしたので、同じ霧の道を歩いたんだ、ということが、 燦々と光につつまれる時間を私自身にもたらしてくれました。 いつも、生きた言葉をありがとう~! (【鞍馬山中散策】※)

2019-01-02

つきみさん、コメントありがとうございました! つきみさんのコメントは直感に満ちていますね。 「第六感」も「神秘」も、たまたままだ明かされていないことにすぎない、と思っているのですが、いつのひか、万一、完全にすべてが明かされたとしても、その根っこに相変わらず謎がで~んとあるというのが、私の信頼、安心?で、知りたいといろんな道に無謀に迷い込むときと、無知こそ楽し♪という怠け者がおります。だから(でも?) >死んでいたかもしれない。のに。生きている。 (【鞍馬山中散策】※)

2019-01-02

るるりらさん、 読んだ方が歴史上の人物に思いを巡らせてくださるのは、うれしい驚きでした。時代小説にこよなく憧れるのですが、知識も研究熱心さも乏しい私には、無理だとあきらめていたからです。歎異抄の引用と、哲学の道魔法のおかげですね! こうなったら明かさないのが作者道かもしれませんが、ええい新年のお年玉だいw 月清は、るるりらさんもよくご存じの詩人ですよ。 どうぞ、これによって作品が死んだ小鳥のようになりませんように・・・。 コメントありがとうございました~ (【哲学の道散策】※)

2019-01-02

つきみさん、 最初のコメントをまるごとうれしく拝読しました。 次のコメントの月清のモデルですが、さまざまに思いめぐらせてくださって、作品冥利に尽きます。 私も一読者として、検討してみました。 >九条良経様の秋篠月清集(簡略化されて呼ばれる月清集)の事を仰っていらっしゃるんではないでしょうか? 歎異抄の作者とされる親鸞聖人の弟子唯円と、九条良経は、伝えられる生年の時点で53歳の開きがあり、九条良経が歎異抄に接するには、最短87歳ほどの高齢以降ということになりますが、これも伝えられる九条良経の死没は37歳で、早世ですね。 けれど、父の九条兼実は、若き親鸞の最初の妻玉日姫の父でもあり、その周辺に作品の出自を感じていただいたのは、楽しいことでした。数年前に吉川英治の『親鸞』を読んで、京都をあるくときの案内書にしているのですが、その中に九条家の人々が魅力的に登場しています。そのことがこの作品を書かせたと言っても過言ではありませんので、時代考証めいたものよりもつきみさんの直感の方が素敵です。また、私は時の遍在をまじめに信じていますので、年代を無視した神出鬼没は不可能ではありません。 その流れで言えることは、この求道者は、いにしえの若き僧かも知れず、現代の一詩人であるかも知れないですね。 どちらにしろ、私がつきみさんよりも遙かに無知で、これからの学びへの道をまた開いていただけたと感じています。ありがとうございました! (【哲学の道散策】※)

2019-01-02

エイクピアさんの登場する月の最終日でしたね。 (花緒さんは、いまいずこ?・・・・・・) >嫉妬しそうな私の油断 ああ、これはよくわかります。 しっかり鍵をかけておかないと、それこそ猛獣なのですよねw。 >逃亡は覚束ない そうそ。ひたすら逃げるしかないのに、逃げおおせることもたぶんムリ。 人類すべてカインの末裔、とあきらめています。 そのジェラシーを味方にし、おいしく味わうを 本作品は実現してるな、と思いました。 (ヨンシー)

2018-12-31

エイクピアさん、 月清は実在なのですよ。拙文はオマージュとして書きました。 人通りがまばらになる冬か、夕暮れの哲学の道には、 月清の足音が今もかすかにきこえるはず・・・w。 コメントありがとうございました~ (【哲学の道散策】※)

2018-12-31

エイクピア さん、 猛獣がたしかにいたようでした・・。 上り坂にいるときは、でも、何かが麻痺するようですね。 恐怖は、きびすを返して下り始めてからでした! >動物園から逃げて来たような、猛獣 は、ある意味我々だったかもw 小さい生き物は驚いたでしょうからネ。 コメントありがとうございました~ (【鞍馬山中散策】※)

2018-12-31

沙一さん、 実際起きたことは、二人の靴がボロボロになったと言うことだけでしたが、今思っても背筋を冷たいものが伝う心地がします。というのは、あとで地図で確認しましたら、目的地には永遠にたどり着かない、平行線の道を登っていたようなのです。 夜の山は、空の暗黒とは異質の、闇の塊ですね。小さいときから山には親しんできたのに、初めて知る質感でした。そこで棲息する生き物も闇の一部なら、さっきまで彷徨っていた自分たちもその一部であったという・・・。 >なにかが起きそう、なにかが在りそう、だけど寸手のところで顕れることがない そういうものたちに護られて、わたしたちの日常はあるようですね。 コメントありがとうございました~ (【鞍馬山中散策】※)

2018-12-31

EVELISINGのSINGに意味があるのかと思いましたが、コメント欄のEVERISNGをみるとそうでもないようですね。 誤植を確認するでもない、酩酊のままの投稿を、なにかダイレクトと言いなしているような感もちょっとしました。 けれどおそらく、詩に対する、生存に対する作者の、もっと深く長い信念に裏打ちされた投稿衝動かと。 ネット(詩)の同時間性、瞬発力、殺到する今を受け止め発信すること、に(のみ)価値を置いておられるのですね。 他の生き物、は皆そうしているではないかと。 >犬も猫も鳥も虫たちも老若男女、森羅万象の一切が >言葉なくして、高貴なる存在の堂々たる態度だけで >染み渡っている この「染み渡っている」、と言うことばに、作品中とくに強い印象を持ちました。 そして「作品」とは何だろうと。 作品などというもの、静寂や安心などというものは、死に等しいのでしょうか? >ハイとは状態だ 神とは意識の状態なのだ >だからいまハイであるならば、そもそも >言葉で繋がろうとする必要がない >発した時点で、それは不安の現れなのだ 「ハイ」に拘泥するこの作者は、うつ病を経験されたのかも知れない。 しかし、不安と言うことには、もっと哲学的な意味があるのかも知れないと思い直しました。(哲学不案内です。) ごく当たり前に存在とは、それほどまでに不安なものなのでしょうか。 リルケが、「幸福とはにまぢかに迫りつつある損失の性急な先触れにすぎないのだ」と『ドゥイノの悲歌』で言っていました。 死という損失?から逃れられない人間には、不安こそが本来の姿だと言うことでしょうか? などなど。 (静寂と死の詩というウソツキ)

2018-12-18

>勤勉な蟻にも >何割かは いつも働かない蟻がいる この2行がとても好きです。 蟻の行列をみてて、何故が外れていく蟻がいて、 どんな集団にも、個の必然というものがあるのだなあ、 と微笑ましくなります。 最初、この作品に触れましたときに、 「あなまどい」と言うタイトルの語感から、 一連目の 「しずかに くびを しめられているとき わたしは いつも いきていました」 への流れが、 詩を読むという歓びに、水を差しているように感じられました。 >その言葉は やわらかくて まるくて >くずもちのような かたまりで >そっとほりおこした黒土にうずめると >ありたちが いちれつになって >一心不乱に はこんでいきます ↑これがそのまま一連にあったらな、と。 その後に、 >しずかに くびを しめられているとき >わたしは いつも いきていました >くるうことさえできたら とあれば、生々しいフレーズが生きるのではないかと 勝手に読み替えてみました。 (他の方のコメントを読んでいませんので、重複があるかも知れませんが・・・。) (あなまどい)

2018-12-15

渡辺さんへ 批評(コメント)に対する酷評箱は追加していただけないでしょうか? (【実験企画】酷評OK箱の設置 )

2018-12-13

丁寧なご返信、ありがとうございました。 いろいろ勘違いをしまして、恥ずかしい限りです。 こころよりお詫びいたします。 共感することも多々あり、つきみさんの知識と慧眼に改めて驚異を覚えます。 ただ一点だけ、 《着物を着るでも着せられるでもなく自分に成る》ということ、 たいせつですね。 でも、これが仮に最初から入っていたとしても、 この言葉自体をやはり指南書にあるものだと感じるのです。 《着物を着るでも着せられるでもなく自分に成る》と言うことをことばで知るよりも、この成った、生身の女人の姿を眼前に生き生きと見せられることこそ、読者が求め、書き手が創作として提供できるものではないでしょうか。 (自分にはできてませんのに、、、、勢いで言ってしまって・笑) お話しする中で、多くのことを学ばせていただいています。 ありがとうございました。 (正風亭)

2018-12-13

つきみさんへ ここに綴られていることは、わたしがそのようでありたい、そのように暮らしたいと願うことそのままでありました。 ときおり、文法的にどうなのだろう、と思うセンテンスの乱れのようなものが、 ありそうでなさそうな幻の料亭を想起させ、 もしかしたら中里恒子のようなものを書かれる方かも知れないと思いました。 そして再読、再々読いたしました。 とくにお客様を迎える正風亭のような場所でなくとも、かつて皆当然のこととして、 疑いも持たずにやっていたこと、そして今はともすれば喪われている日本人が日本人らしかった日常、 そのことに生真面目すぎるほどの想いを込めて、正しく?生きる取扱説明書のように綴っていることに、 それを正風亭と名付けられたことに、つきみさんが現代に投げかけたい問いを感じました。 わたし自身着物を縫う仕事をしていたこともあり、 正面から着付けを作品として書かれていることに感動もしました。 そして、再読の感想は、みうらさんに近いものでした。 とくに着付け、そして料理の流れ、選ばれたことばに、それらの指南書以上の何かを感じられませんでした。 わたしは実は、つきみさんは男性ではなかろうかと、ずっと感じていました。 化粧に対する詳細な記述や他サイトでときおりみました女性性を、 男性が女性になるための化粧や研究で培った知識ではないかと。 わたしもかつて短期間ネットで男性を演じたことがありましたが、とても続かず、 相当力量のいることと知っていますが、演じようとするときの何か、生真面目すぎる正統性が、 作品をぎこちなくさせる。 女性が化粧をするときも、着物を着るときも、もっと大雑把で、その崩れが色気になるとわたしは信じるのですが、 本作にも、ぎこちなさの方を感じました。 ともあれ、つきみさんは、わたしにとって非常に魅力的な謎を持った方です。 失礼がありましたら、お許しください。 これからじっくりすべての作品を読ませていただきますね。 (正風亭)

2018-12-12

はじめまして。 お作を熟読したとは言えない段階で書かせていただきます。 というのは、作品によって文体をすっかり変えられ、そのそれぞれが読者は読むことを(作者は書くことを)こよなく愉しむという、文学の歓びを実現していると感じ、おいしいものを一番いいときに味わうように、残していると言う状態だからです。今日はよい天気で、わたしはわたしの住む地の正風亭をたずねなければなりませんし。 作者が渾身で書いたものを渾身で受け取る世界が、あるのだと思います。 それとは別に、通りすがりに歳月に色の抜けたのれんが、風に揺れるのを眺めるだけのときも、一人の人間にあります。 むかし、『ボヴァリー夫人』と言う小説を読んだとき、テーマから逸れるような自然描写が延々と続くのを、読み飛ばすようにして筋を追ったのですが、あるとき再読し、かつて読み飛ばしたところが、その植物の名前ひとつさえ、歓びとしてそこに差す光とともに、飛び込んでくるのでした。(それと全く同じ経験を、女流作家が書いておられました。) 登場するたくさんの名前を、その名が指すものを、作者が手に触れ愛おしんだことが、そのまま作品を構成している。etc..... 又ゆっくり書かせていただきますね、勿論歓びとして。 (正風亭)

2018-12-12

自分に訪れたものは、すべて啓示と思うことにしてるんですけど、同じ感じをこの詩から受け取りました。断片であるけれど、何かしらの印象を残しているものを、手のひらにおいて、時の流れがそこに何かの反映をしていくのを、秘法としている。 すべてでありつつ、わりとそっけないような断片で、と言うところが、愛おしく・・・。 (秘法(第一巻))

2018-12-12

まだまだ身近に隠れている、世にも美しいもの。 人間の過失が一手間加えると、こんな風に姿を見せる。 後半の展開が、軽やかでした。 最初の一行はやや説明的。 思い切った省略により、 辞書から蝶が幻想的に動き出すのでは? この一行をこのように書きたい気持ちは、 わたし自身がよくやりますので、 とてもわかりましたw 最初の衝動で書いた作品はそれも作品として残し、 もう一編書くつもりで推敲作を、と、 自作を見直してみたくなりました。 (琥珀色の蝶)

2018-12-03

全部がじみーにツボですね。 >いつも正義の味方をするだけで 悪と戦うところは 誰も見たことがありません がんじーですね。 (正義の味方)

2018-12-03

それまでの英タイトルの、スタイリッシュで非日常な日常の詩、を脱ぎ捨てたような和名の作品。 社会と接点を持とうとしたゆえに陥っている底感が、 本来強く持っているバランス感覚で、自己を告発するように書かれていると感じました。 希望というかなしみ。 歓びであるはずの睡眠や食事が強大な敵となってしまう現代の、 何か大切なものを省略してしまってきたのではないか、と言う想いを 略称の多用に重ねて読みました。 柔らかな感性が、知の鋭さに理由なき責めを受けているような、印象も。 (障害者)

2018-11-30

なかたつ詩論で学んだ大切なことは、まず、詩の全体を鵜呑みにする、と言うことでした。 又後で、コメントさせていただきます・・・ (障害者)

2018-11-19

なんか、うるさいかもしれませんが、みうらさんを他人と思えないので。 みうらさんとツイキャスで何度かお話しして、聞き上手だと思いました! 言いたいことの芯を聞いてくださると、感じました。 只、その後のみうらさんの返答が、ぴょ~~んと飛んだところから帰ってくる。 それが、会社ではびっくりされたのかもしれませんね。 >愛やら恋やらもどうでもいい これは、もったいないです!自分を詩人に、どころか、人間にしてくれる愛や恋があると思うんですよ。詳しくは、鈴木海飛さんにお尋ねくださいね。 (たとえ偽りに終わったとしても)

2018-11-19

みうらさん、 500マイルは、列車に揺られながら聴くと、過去を置いて遠ざかる距離がそのままに感じられますね。 三浦さんの文体になれてしまったのでしょうか。わたしには、最後まで心地よく読めてしまいました。 >文学者はその死に方によって文学が蘇るという話。 >これを私は実践してみようと思うのです。 これがtwitterをやめることだとしたら、吉本隆明が困惑しないかなと思いました。でも、この軽さと真剣さが、みうらさんなのかも。 愛しいものたちがいるネットをやめるには、わたしの場合海外逃亡が必要でした。それなのに、こっそりコンピューターを持参し、言葉や知識のなさから、アクセスがついにできなかっただけというていたらくでした。 それでも、ネットにアクセスできなかった2年間は、今思っても生きることとその固有の地が密接に結びついたものとなりました。 ご健闘を祈ります。 (たとえ偽りに終わったとしても)

2018-11-18

追記します。 私は映画しか見ていないので、ジバゴ(詩人)とコマロフスキー(エンターティメント)とをやや乱暴に分けてしまいましたが、コマロフスキーこそが詩人である、と言う感じ方もあると思います。 コマロフスキーのような人物は、多く分裂した舞台回しのような役で登場しますが、若い女性に愛し抜かれるという点では、不利だな、でも言い尽くせないかなしみを背負っている人物だと感じたことがありました・・・・。 貴音さん作品で感じた疑問は、自己の表現を信じているなら、キャラクターに依存するような固有名詞や人物設定が、必要だったのかな、と言う点です。 (ビーレビの昼ドラ)

2018-11-18

「時間を超越した、永遠の、夏。」 まりもさんが暗示されているように、ここまでにすべきだと思いつつ、 喪われた夏、をかさねて、 「幾千もの帽子が 高く高く舞ひ上がつていつた いつまでも青い空へ」 「それら幾千もの帽子は 入道雲を吸ひ込み 空に溶けていつた」 「がらんとして高い。秋空。」 をみています。過去現在未来が一つの絵の中にあるような、 そんな時間を感じました。 (小さな村で見た)

2018-11-18

登場人物三者ともに敗者である、 と言う筋に、普遍的なテーマが秘されていて、興味深く読みました。 ドクトル・ジバゴを思い出しました。コマロフスキーのような、この世の蜜を臆さず味わっている人物のエンターテインメント性に、巻き込まれていく若い女性に、 「・・・との子供だと判った途端すごく嫌になり、間も無く堕胎したと」と言わしめるもの。 エンターティメントは、詩にかなわないのではないかと。 この女性の直感は、相当普遍的なものだと思います。 (ビーレビの昼ドラ)

2018-11-18

弓庭夜話の自薦作品に、この詩があげられましたね。 選評で言い残したことがあったので、よかったです。 作者を交え、「癒ゆ」を語りたい。 あの水の流れる場所にまで行った人は、こうしてかえっておいで、と言われてるような気もしました。かえってきたら、後は漢詩に任せませうw (一作品選評 「癒ゆ」渚鳥)

2018-11-15

ステレオ様、ありがとうございます。毎度お手数おかけします! (一作品選評 「癒ゆ」渚鳥)

2018-11-15

何故か二回分になってしまいました。お手数ですが、2度目の「一作品選評 「癒ゆ」渚鳥」以降を削除訂正お願いいたします。 (一作品選評 「癒ゆ」渚鳥)

2018-11-15

私はこの詩をヒエログリフのように、秘密が綴(つづ)られ、解き明かされるのを待っている 風の文字、のように読みました。ですから、この文体は作者ではなく、詩によって選ばれたもの。 ヒエログリフは王の永遠性を書き記したとか? この文字は、ごく普通の人(びと)の永遠性を 羊の皮という失われゆくものに綴って、気付かれないまま滅びてしまってもいい、と言うところが、素敵だなと感じました。 それは作者自身の詩への思いに通じるのではないでしょうか。 「風のさやぎに入りまじつて埋められた身體たちが折々にするどくさけぶいきどほりについ耳をかたむけてしまふのでわたしは」 現代に生きる私たちの近い記憶を揺すぶりながら、 遠い日に埋められた身體たちがふいに足首を掴むような心地がしました。 (秋へと落ちていく音階のフアンタジア)

2018-11-10

三浦さんにつられて自分語りをします。友人と鎌倉からの帰り、夕日を首筋に浴びながら電車に乗っていました。彼女は若い頃艶やかな歌や詩を書いていましたが、ある頃から随筆家となりました。わたしはかつての彼女の詩が忘れられず、「どうして詩を書かないの?」と何気なくたずねました。「詩を書いて」と少し甘えるように言ったら、穏やかな彼女が驚くほど強く、その言葉を忘れたのですが、言い返しました。私は小さく「詩じゃなくちゃ、だめなんだ・・・」と言いました。でも彼女の書く随筆は詩のようでした。そして、そのころ私は随筆がかけませんでした。私には丁寧な暮らしというものがなかったのです。若い感情で、暑いトタン屋根の上の猫のような言葉を追いかけて、詩だと思いこんでいました。しばらくして、彼女は再び、詩を書くようになりました。やっぱり詩じゃなくちゃ、だめだったわ、といいました。琴野さんの詩は、日常から滲み、目に映るものに宿っていく言葉でつむがれている。私も今は信じる、後悔しないみちを詩と共に歩いておられる。え、でも、白島さんと三浦さんの詩。変わるんですか・・・? (かえっておいで)

2018-11-06

沙一さん、 鮮烈な白のイメージ、憧憬、作中詩は沙一さんのオリジナルか否かを考えながら、読ませていただきました。こちらこそ、ありがとうございます。三日月を見あげるたびに、あそこに水滴があるのを思います。 (<選評フル>  大賞は「薄明」)

2018-10-25

オオサカダニケさん、 ものすごいハンドルですねw 「15行にも及ぶ長めの詩」って、短いです! 過分なお言葉ありがとうございます。 (まなざし)

2018-10-25

二条千河さん、 子どもの頃、見送るだけでは足りず、学校まで来て教室の後ろでずっと立ってみているお母さんがいました。多分、殆どのお母さんがそうしたいのでは? 自分の手の届かないところがどんどん増えて、それを黙って受け入れていくのが育てると言うことなのかと、私にはできないわ、と思います。 (まなざし)

2018-10-25

かるべさん、 悲しみだけでなく、すべての感情、経験を、私だけがお前に与えた、と言う時期があるのですよね。妬む、と言う気持ちがよくわかりました。愛情もお金も?、得た分だけ失う運命にありますね。ありがとうございました。 (まなざし)

2018-10-25

斉藤木馬さま >とりあえず、一回それを信じましょう。 >作品では起きているのですから。 bれびフォーラムで展開してます、なかたつさんの詩論喫茶というところで、 上記のようなお言葉がありました。 「いっかい鵜呑みする」が目下の私のテーマとなっています。 「薄明」は鵜呑みにするには、ゴツンとした塊ですが、大丈夫ゆっくりと溶けています。 いい詩をありがとうございました。 (<選評フル>  大賞は「薄明」)

2018-10-19

帆場蔵人さん、 須賀敦子さんは、エッセイと映像で足跡をたどったことがありました。 イタリアに滞在したときの、シンプルで究極にうつくしい部屋が目に焼き付いています。 私が知ったのは亡くなった後でした。 たたずまいの優しい強さが印象に。 ゴミ出しに言った朝の道で、 お母さんたちが長い間立ちつくして子どもを見送っているのをよく見かけます。 コメントありがとうございました。 (まなざし)

2018-10-18

渡辺さん、了解です!うっかり忘れて送信して気がつきました。差し替え可能でしたらお願いしたいですが、不可能でしたら次回からそうします。 (まなざし)

2018-10-17

※b-review杯不参加作品です。 (まなざし)

2018-10-17

渡辺さん、ありがとうございました! (<選評フル>  大賞は「薄明」)

2018-10-16

帆場蔵人さん、コメントありがとうございました。 なぜこの詩がこんなに好きなのかを語るのも又楽しいものです。 少し後になりますが、ブログの方に今は他人と思えないポストのことを書きますね。 (<選評フル>  大賞は「薄明」)

2018-10-16

やはり15日を過ぎると、先月15日までのコメントはできないようですね。 大賞推挙作についてのみ、こちらに掲載させていただきました。 (これも反則かもしれませんが。) 残りについては、ブログに掲載しURLを張ることにさせていただきます。 (<選評フル>  大賞は「薄明」)

2018-10-16

前夜酒場で、女性を巡ってのトラブルでもあったのだろうか。 未明に起こされてキッチンにぬかづき嘔吐する。 ない記憶ごと吐き出されるモノから立ち上る臭気と「酸っぱい思慕」 キッチンの窓から見える朝日に白々とした現実が射しこむ。 女の細首への思いを断ち切るように。 積み重ねた過去が 今は一本のはらわたとして独りの部屋にのたうっている 脂汗にまみれ苦痛に耐えても、死は遠い。 遠いのにまるで我が物顔にそこにいる。 お前にはできはしない、と言っているかのように。 この現実は、誰にも訪れる。 かつて母の死の傍らにいたとき、私は母にそれがやりおおせるとは思えなかった。 死はただ訪れるのではなく、こちらからも飛び越えてゆかねばならないものだとかんじた。 死に直面した人が、ろうそくが消える最後の一瞬に赤く燃え立つのと同じように、 奇跡的に元気になるのは、その飛び越え、死と抱き合う力を与えられるからではないか。 終連に、死にきることの困難さと、主人公(イコール作者ではありません。)がどのような人生を送ってきたかが発揮されている。 生きたようにおそらく誰もが死んでいくのだ。 初読から含めて十度以上読みました。 少しも色あせることなく私に生と死を教えてくれました。 (<選評フル>  大賞は「薄明」)

2018-10-16

前夜酒場で、女性を巡ってのトラブルでもあったのだろうか。 未明に起こされてキッチンにぬかづき嘔吐する。 ない記憶ごと吐き出されるモノから立ち上る臭気と「酸っぱい思慕」 キッチンの窓から見える朝日に白々とした現実が射しこむ。 女の細首への思いを断ち切るように。 積み重ねた過去が 今は一本のはらわたとして独りの部屋にのたうっている 脂汗にまみれ苦痛に耐えても、死は遠い。 遠いのにまるで我が物顔にそこにいる。 お前にはできはしない、と言っているかのように。 この現実は、誰にも訪れる。 かつて母の死の傍らにいたとき、私は母にそれがやりおおせるとは思えなかった。 死はただ訪れるのではなく、こちらからも飛び越えてゆかねばならないものだとかんじた。 死に直面した人が、ろうそくが消える最後の一瞬に赤く燃え立つのと同じように、 奇跡的に元気になるのは、その飛び越え、死と抱き合う力を与えられるからではないか。 終連に、死にきることの困難さと、主人公(イコール作者ではありません。)がどのような人生を送ってきたかが発揮されている。 生きたようにおそらく誰もが死んでいくのだ。 初読から含めて十度以上読みました。 少しも色あせることなく私に生と死を教えてくれました。 (薄明)

2018-10-16

<選評フル>  大賞は「薄明」 【大賞】 ~命~ 薄明 斉藤木馬  作成日時 2018-09-11 →https://www.breview.org/keijiban/?id=2307 【優良】 ~好きなんです、としか!~ ☆唯一の友だち 帆場蔵人  作成日時 2018-09-03  →https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2271 ☆氷菓 沙一  作成日時 2018-09-29  →https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2360 ~圧倒的な表現力に~ ☆選評:「うほうほ」におけるスパイラルモヒカンの誤用をめぐっての断章 survof  作成日時 2018-09-01 →https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2244 ☆ヨミテニ・タクス4 カオティクルConverge!!貴音さん  作成日時 2018-09-01 →https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2255 ☆マフィンが美味しいと評判のレストランでマクガフィンの重要性を語る亡霊マルチーズ 湯煙 作成日時 2018-09-09 →https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2299 【推薦】 ~安定した表現、次回作に限りなく期待~             ☆陰  紺 →https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2298 ☆0. my world. 三浦天才詩人果実 →https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2237 ☆どうぶつ図鑑 穴秋一 →https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2251 ☆蝉の死骸 蛭子子 →https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2256 ☆嵐の前の 杜 琴乃 →https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2275 (初期投稿において、「マフィンが美味しいと評判のレストランでマクガフィンの重要性を語る亡霊マルチーズ」の 作者 湯煙さんのお名前を記していませんでした。お詫びし本欄にて加筆修正します。) (<選評フル>  大賞は「薄明」)

2018-10-16

ステレオさん、ありがとうございます! 反則でしたが、最初に表明できたことで満足しています。 運営の方にお手数をかけ、又他の選評の方に不快な思いをさせたかもしれないことをお詫びします。 では、コメント欄に改めまして結果を投稿します。 (<選評フル>  大賞は「薄明」)

2018-10-16

今はまだできるようですので、今日中に、と言うことで。 (<選評フル>  大賞は「薄明」)

2018-10-16

今もう16日ですが、以降というと16日も入りますか? もし16日中で大丈夫でしたらそうしますし、もうすでにコメントできなくなっているようでしたら、 どういう形かで不可能になった作品のみご本人にお伝えするようにします。 それもだめでしたら、今回はコメントなしと言うことに。 いろいろお手数をかけすみません。 (<選評フル>  大賞は「薄明」)

2018-10-16

そうですね・・。 では、運営チャットでのお返事をお待ちして、改めてコメント欄に変更を記したいと思います。 (<選評フル>  大賞は「薄明」)

2018-10-16

では、大賞推挙が受け付けていただけるなら、このままでお願いしたいです。 次の機会には、従うようにしたいと思います。 (<選評フル>  大賞は「薄明」)

2018-10-16

確信犯的ではありませんが、間違いですとも・・。 大賞と準大賞は最後まで三作品で争いました。 優良三作品は選評を超えて圧倒された特筆すべき才能です。 大賞1作優良3作推薦4作と言う風に変更すると、私の中で何かが崩壊しそうですが、 失格になりますか? (<選評フル>  大賞は「薄明」)

2018-10-16

ロジカルなのだが、それが心でなされる人のことばがユーモアを滲ませて、読むこと自体が私にとっては限りなく贈り物のようだ。 時々違和に対して厳しく抗議するときの明快さは、(実際にはどうか知らないが) 決して後々までわだかまりを残さない潔いものとして私には映る。 >私が確実に知ってる数々の感情の痛みが、光が、温かさが、その繊細さそのままにここにはあって私は確実にそれらを知っていると言いたくなる。 光の温かさ、匂いを感じる文体、批評です。 (選評8月分)

2018-10-15

詩にまつわる書き込み、もしくはpcの画面に向かって、泣いたり怒ったり固まったり・・・。 私自身いくども捨てようとして捨てられないのは、ここが私たちのファンタージェンだからだろう。 リアルとこの画面の向こうの宇宙の両方が豊かにならなければ、もはや私たちの何かが枯れ衰えていく。 >外では憂鬱な事が多かったですが >ビーレビでは嬉しいことばかりです。 生きていくのって、結局これかなあ、と思う。(この逆もあるが・・) 皮膚や血液や、体温やリンパの流れが、(時には骨、肉が)、外の憂鬱と内側の嬉しいを隔てながら溶け合い心に育む。 貴音さんの選評は読んでいて元気が出る。 音楽に培われる言葉と絵画に培われた言葉がある聞いたことがあるが、 音楽に培われた言葉で音楽に培われた言葉たちの高みへ案内してくれる。 (作品フル選評を目指して、先を急ぐので、「選評」についてはここまでに。) (貴音さんの選評、8月篇)

2018-10-15

上記二作品の合評をもちまして、【弓庭夜話】はフォーラムに移行します。 かるべさん、フォーラム開設ありがとうございます! 皆さま、フォーラムにてお待ちしております~ (【弓庭夜話】へのお誘い~2018/09)

2018-10-06

<作品3>なつり、はし 「鏡の道化師」https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2218 … 作成日時 2018-08-29 コメント日時 2018-09-01 積み上げられた白骨の下で 目覚めは吐き気から始まる ざらざらした角砂糖をほおばり 守護霊の呪文を諳んじながら だだっぴろい 瓦礫の海をだらだらと歩む ここは 焼け爛れたプラスチックの異臭が巣くう 滅びた街 鋭角のビルが隙間なく重なる頭上 はるか遠い隙間から覗くのは 輝かしい朝の陽 あれは光の世界 はるか遠い 天上の国 ―そのとき ふいにうろたえたのは 恋人に 纏わるアリアが聞こえたから 人間の中にいるという うら寒さ さいなみ食らいつく劣等感のケモノから逃げたわたし 苦痛から快楽へ抜け出すための 鍵は かつて なめさせられた不幸をはかること 愛すべき傷口 実際には 滅びに縛り付けられた みにくい懺悔 長い時の間に 横たわるスローモーション 消されたはずの モノラルレコードのノイズ 記憶の観客の声に 独り心を叩き割られる 憂鬱 憂鬱 憂鬱……の鎖がきつく心を縛る 虫にさえ与えられた 深き快楽を拭い捨て 私は 燃え立つ黒い炎の中へ飛び込みました エデンの園はもう近い 冷たい空気が 微笑ましく待っている ―あのとき 難解な自動ピアノの音が 私の指を食いちぎったのです ジストニアの手錠にからんだ 私の失望 アモルフィ化された 道化師のアリアを聞くな 積み上げられた白骨の上に 捨てざりにされた 私のカラダ ただれ肉を カラスが喰らう そのまま そのまま 白い灰となって 青い水底にとける とける きえる きえる…… ♢ ♢ ♢ ♢ ♢ ♢ [オーディエンス1]好きだ! [fiorina]田中修子さんの作品(註:「三途川」)と、小野小町の九相図、を思い出してました。 みなさんは、ロールプレイングゲーム、やりますか? [オーディエンス1]うーんと昔はやりましたが、いまは時間がもったいなくて。 [杜 琴乃]前作で貴音さんが、RPGのような...とコメントしていて、今作もヴァーチャルな世界観を感じます。 >人間の中にいるという(〜)劣等感のケモノから逃げたわたし ここで主人公は閉塞的な生活をしているように思えます。 その前段、>鋭角のビルが隙間なく重なる頭上/はるか遠い隙間から覗くのは 輝かしい朝の陽 とあり、外界へ出て行けないことを嘆いているようにも感じました。 ジストニア...筋肉が強ばるほどの緊張に苦しみながら、それでも外の世界へ出ていくことを希求するうちに、VRの世界にのめり込んでいく...そんな情景が浮かびました。 [fiorina]脳内麻薬、脳内不幸、そういうのをやりとりするのが、今の詩の現場かな、とちょっと [オーディエンス1]現実の苦しみをゲーム化して描写している?? のかなあ?? 私はゲーム詳しくなくて汗汗 [fiorina]閉ざされているがゆえに広がり続けるエネルギーを感じますね 私もやったことないのですが、尊敬する詩人が凄くはまってて、 ゲームを軽んじるのは愚かだとか言ってましたっけ でも、私は外界(と言ってもある意味わたしたちのリアルだって幻想かも知れないけど)の花一輪のほうに。 この詩の世界は死んだらいずれ行く場所なので、今から追求するのもったいないと思う私は、愚か者?w [オーディエンス1]あー! 内面世界への旅。 ゲーム製作者は尊敬しますし、ゲームで少し息継ぎをするのはきっとあたりまえだけど、ゲームに逃避しすぎるのはちょっと。 でも、このゲームが「詩」にも言える笑 この方には小説を書いてほしいなあ。 [杜 琴乃]ゲームも割と、重たいテーマのものがあったりしますよね。冒険とか、伝説とかだけではなくて、精神世界とか。 うまく言えないけど、いっけんただの冒険もののようでありながら、悪の根源は登場人物の憎悪であったりして。 [fiorina]心が二次元になってるとも 探求すれば、それは一つの大きな世界なんでしょうね [杜 琴乃]ちょっと道がそれてしまうけど...詩って、現実の二次創作では?と最近思ったりします。今更、ですかね。 [fiorina]琴乃さん、詩論をもう少し読んで、そのご質問考えますね [杜 琴乃]オーディエンス1さんの、小説を書いてほしい、が分かる気がします。 [fiorina]私、脳内麻薬のやりとりに傾きすぎていると感じているので、現代詩 [オーディエンス1]あはは! そうですねえ…… これはこの詩ではなくてゲーム批判? ひいてはネット批判になっちゃうけど、ネットがあるから消えたものがありますね。 ネットがなかった時代に青春を送ってみたかったなー [fiorina]私の知人には、ネット拒否者が多いのね メールも知らない人たちw 手紙の時代はよかったわよ [オーディエンス1]わーすてき!(とここで言ってどうなるんだろう笑 でも、良さそう〜〜 [fiorina]一通の手紙でドキドキが一週間続くw 自分が書いたとき、郵便屋さんが運んでるとき、相手のポストに落ちたとき、相手が読んでる時間→一週間 手紙の時間の方が、ぜったい豊かと信じるw [オーディエンス1]どんどんこの詩からズレてしまう笑 ほんとに久しくゲームをしてなかったので、なんだかゲームで再現したらこの詩は軽くなってしまった。なぜだろうなあ。 [fiorina]多分ね、この作者の心の経験と言うより、脳の経験で書かれてる気がするのね [オーディエンス1]面白い! こころの経験、脳の経験 [fiorina]才能ある方だと思うので、この世にいる間は、リアルの心の経験をして創作に生かして欲しいかな、 ここに登場する名詞、骨とかいろいろ、実際に見たり触ったりはしてないと思う そういう意味で、琴乃さんの言う2次創作かも 創作って、でも、わたしたちだって二次創作の要素はみんな持ってるよね 小さいときから絵本とか、お話とかで育って、何かしゃべるとその上に乗っかってるから [杜 琴乃]>アモルフィ化された 道化師のアリアを聞くな ここはヴァーチャル世界へ完全に堕ちることへの注意喚起に思えました。 アモルフィ化、がまだ分からないのですが、なんとなく、仮想現実のアバターを現実と勘違いするなよ、と言っているような。 青い水底、は電子の海、的な表現かしら。それともネットゲームで夜を越して、明けていく空(現実の朝)かしら。。 [帆場蔵人] ネットやゲームから何を感じ取るかも違うのでしょうね。 ぼくはダイスを振るゲームの方が好きだけれど。 こころの経験と脳の経験、 知識と体感することの違いかな。現実の身体が動くような感覚を覚える詩ではないとは思いますね。 (すみません、今日はこれで失礼します。おやすみなさい。) [杜 琴乃]脳の経験、なるほどです。(おやすみなさい!) [fiorina](おやすみなさい!) わたしたちもそろそろですけど、詩論をちょっと読んだら凄く面白いので、そんな話も又できたらいいですねー さいごに ネットの画像検索で、小野小町、ともうひとり誰だったかな、絶世の美女(註:檀林皇后)の死後の肉体変化を実際に見て描いた九相図というのがあるのね だんだん腐乱していって、途中からはカラス(野犬)がつついてる それもこの詩から連想していました [杜 琴乃]調べてみます! [fiorina]では、今日はこの辺で、ありがとうございました~! (【弓庭夜話】へのお誘い~2018/09)

2018-10-06

<作品2>Rata 「あかね美人」 https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=2229 … 作成日時 2018-08-31 コメント日時 2018-09-01 おとぎ通りのあかね道 肩を撫でる大手毬 君は和紙を返すよう 古い枝葉を はらり と摘んで 艶やかな季節を想い また来てね… と 笑みをこぼした 思いどおりの紅い美事 肌を撫でる氷飴 僕は和紙を透かすよう 震う美肌を ふゆり と吹いて 円やかな微熱を覆い また来たね… と 君をこぼした ♢ ♢ ♢ ♢ ♢ ♢ [杜 琴乃]なんとなく情景は浮かぶのですが、最後の「君をこぼした」が引っかかりました。 [fiorina]この詩は、いろいろ仕掛けを感じます [鈴木 海飛]冬の詩? いんをふむの好き好き。 [fiorina]大手毬のさく季節ですね 春四月ごろです [杜 琴乃]五月頃なのか! おっと。すみません (【弓庭夜話】へのお誘い~2018/09)

2018-10-06

命の始まりや終わりを、空の下で日々目撃している道。 いつか自分もあのように始まり、そのように突然絶たれる。 その光景、色や香りをまるごと我が道として歩む、たしかな日常が背後に垣間見えます。 かつて別の道(ROUTE a ?)を求めた日もあったのでしょうか。 いまはこの道と定めた目にうつる、 「珊瑚樹の実が赤黒く潰れ」たさまが、 「たとえ小鳥が死のうとも」を ことばだけに終わらせない質感を持っていると感じました。 (ROUTE b)

2018-10-05

ネット内反応詩のような、twitterのエアリブのような・・・。 時々刻々の湧き上がる歓びや時には憤懣を、不特定多数であり特定の『君』に、伝えうる(と信じてしまう現代?)詩は、 多くがこの作品のようになっていくのかな、と未来を示唆されておられるように感じました。 伝えたいことと伝えたくないことが、絶妙に醸し出された文体を編み出されていると思います。 (灰の様なこころ、灰のようなこころ)

2018-10-05

+++++++++++++++++++++ “夜話、1回追加分”【ゼロの焦点】 8月投稿作の中からもっともコメントの少ない作品、bレビの片隅にひっそりと咲いた詩の合評をしました。 <日時>  9月26日(水) 21:00~23:00 <作品1> かじか 「あすなろ の意味を僕は知らない。」作成日時 2018-08-31 終わると言うから、僕らは特別焦る。 大事かどうかは置いておいて、去り難き人への挨拶をいつもより丁寧にする。 息を吸っただけ浪費する時間と、息を吐いただけ浪費する感情を天秤にかけないまま、衝動で酒を煽る。 格好つけている という大衆の価値観を気にして、僕らは心の赴くあるがままの事に乗り気になったら萎えてしまったりする。 夏は終わるのか、まだ終わらないのか。何十何年生きたこの体はそれすら知らないというのに。 それこそが愛ということを、僕はどうもいまいち確証が持てない。 [fiorina](皆さんが来るまで独り言です。)出来事に遭遇して、自分の心に即したよりよい対応、と言うものに、疑念を持っている。 そういう選択をした結果、萎えてしまう経験を持っていて、自分がどう振る舞うかを迷ってしまう。 かつてはそうではなかったから、おびえやまよいで佇んでしまい、「挨拶をいつもより丁寧にする」ような消極的なところで、 終始している。 何十年?生きたからこその迷い。 ネットによって、と言うこともあり、わたしたちの【経験】は幸か不幸か、飛躍的に大きい。 共感するところの多い作品。 具体的な描写がなく、心模様だけが説明的に書かれている。何かを伝えようとしているのに、伝わってしまうことを怖れてもいるかのよう。 タイトルはいいなと思いました。 よりよい選択って、あるんだろうか、みたいな ちなみに、wikiから抜粋すると、あすなろ→名称の由来はヒノキに似ていることから「明日(はヒノキに)なろ(う)」の意と言われているが 一方で、文学的にヒノキになりたくても決してなれない哀れな木として扱われている。 でも、このちょっと苦み走った深い思索の感じは、好みであります。 最近の出来事も想起させます。 [鈴木 海飛] 何かひっかかるんだけど 愛という言葉がオールマイティーだからかなー。 最後の愛で、あれ、私には見えなくなっちゃった。追えるのは作者の心情に近い人だろうなぁなんておもいました。 ただ、残るものはあります。すごい言葉にしづらいけど。 [fiorina]>それこそが愛ということを、僕はどうもいまいち確証が持てない。 (かいとさん、こんばんはー) [鈴木 海飛]私もこういう思索のスタイルは好きですね。 こんばんはー。 [fiorina]「愛」がたしかに突出した印象ですね だからかえって、愛と無縁に生きてしまった悔いをかかえているのでは、と思いました そして、心のままに向こう見ずに発信している人を見たりして、眩しく感じているのかな [鈴木 海飛]確かにフィオーリナさんのいうとおり最近の出来事を想ったことで私はメガネが曇ってしまい。あのときは感想がつけれなくなっていましたね。 >そして、心のままに向こう見ずに発信している人を見たりして、眩しく感じているのかな なるほど、そういう風に視点を開くのですね [fiorina]「終わると言うから、僕らは特別焦る。」←唐突ですけど、うまいっちゃあ、うまいですよね。丁寧に心のひだを内側で拾ってる 「大事かどうかは置いておいて、去り難き人への挨拶をいつもより丁寧にする。」←こういうところに、品性みたいなのが出ますねーという部分 「息を吸っただけ浪費する時間と、息を吐いただけ浪費する感情を天秤にかけないまま、衝動で酒を煽る。」ここは最初わかりにくかったけど、凄くうまいなーと思いました。 [鈴木 海飛]ふむむ。 そうか、なんか礼儀正しき虚無感を楽しめばいいのかな。 [fiorina]息を吸った、というのは、名にもしないで自分に閉じ込めたとき (そうですね^^)もうひとつね、 この作者が晩年に至っているとすると、 人との関わりを怖れて、愛を知らずに死んでいくのかと思うと、残念感、焦燥があると思うんですよね。 [鈴木 海飛]ちょと、お風呂ーだよ!!と妻キレ気味なので一旦ごめんなさい。くそう。 [fiorina](おーけー) もう一つの人生があったのではないかと、小さな事件をきっかけにプチ?思索している [杜 琴乃]一行目、うまいこと言うなぁと思いました。そういうことあるよね、という共感を覚えます。「あすなろ」、「明日はもっと大きくなろう」という意味を持っているようですね。世間体などを気にして、自由に生きていくことが難しく感じていることへの諦めに、そうやって生きていける子供の(ような)感性を素直に羨ましく思えることこそ、愛、なのかな。 [Keisei.hhh]お邪魔してもよいですか? [杜 琴乃]こんばんわー! [fiorina]あ、にぎやかw [杜 琴乃]結局喋ってる、私w [ 帆場蔵人]こんばんは〜、 人と関わらず何もして来なかった。息を吐いただけ浪費する感情、感情て能動的に動きそうでここでの愛は、行動することになるのかな。行動しなかった。 それが後悔としてある。 [fiorina]琴乃さん、「感性を素直に羨ましく思えることこそ、愛、なのかな。」←これ作者が喜ぶでしょうね! 多分昔のいつか、行動したことはあったのではないかな。その結果萎えてしまうような経験もして、 [帆場蔵人] それが行動や、素直に感じることにブレーキを掛けている [fiorina]この萎える、って、言うのが一番こわい場合がありますね、多分 [Keisei.hhh]かじか様の作品ですが、「去り難き人への挨拶をいつもより丁寧にする」が何とも言えず上手いなぁ、と思います。 このもどかしさ、でも去り難き人への別れの姿勢として、これほど美しいものはなかなかないかと。 [fiorina]ですね、けいせいさん。あそこ文語体をつかってるのもね、 [杜 琴乃]子供っぽい人をみるとどこか馬鹿にしながらも、本当は素直に生きれたらなぁと思う。そういう人に対して嫌悪感を覚えるけど、 それを受け入ることができたら、明日の自分はもっと楽しく生きていけるのではないか。なんてことを思いました。 [fiorina]誰しもにありますね。 [Keisei.hhh]マグリットの絵画で「無限の感謝」という作品があるのですが、感謝を伝えながらも、別れを予期している。 それに近いものを感じました。「いつもより丁寧にする」 [杜 琴乃]「大事かどうかは置いておいて」という前置きにもブレーキを感じますね。予防線みたいな。 [fiorina]https://www.google.com/search?q=%E3%83%9E%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%88%E3%80%8C%E7%84%A1%E9%99%90%E3%81%AE%E6%84%9F%E8%AC%9Dhl=jatbm=ischsource=iuictx=1fir=ZZHXIpuUOZYRsM%253A%252C-9nuedzLauiigM%252C_usg=AI4_-kQYTBiuteO_F8OE1K6aCzltRbTdSgsa=Xved=2ahUKEwitx-us2tjdAhUSUN4KHfgJAOoQ9QEwAXoECAYQBA#imgrc=ZZHXIpuUOZYRsM …: 感謝が別れの時に大きくなりますね [Keisei.hhh]愛とか魂とか万能用語で、どうにでも一面使えるんですが、僕は自然と浮かんだ時は、使うようにしています。かじか様もそのようなところがあったかと。 [fiorina]大事かどうか、のくだりもそうですけど、心を丁寧に追う方ですよね [Keisei.hhh]無限の感謝。本当に素敵ですよね。 [なかたつ]「夏は終わるのか、まだ終わらないのか。何十何年生きたこの体はそれすら知らないというのに。」とあるので、それ、というのは、夏は終わるのか、まだ終わらないのかのこと。確かに、生きてきた年数だけ、夏を過ごした回数を増すのですが、それでも毎年、夏の終わりというのは、どうもいつになるのかわからないものです。 [fiorina] かじかさまは、愛を自分は知らないのでは、と思っているかと思いますが、この詩じたいに愛があると琴乃さんは言われたのですね [なかたつ] この1行の次に「それこそが愛ということを、僕はどうもいまいち確証が持てない。」とあるので、ここでの「それ」もまた、夏が終わるのか、終わらないのかということになると読めるとして、そうすると、冒頭の終わるも、夏に対してだと読めることが、作品に書かれた情報だけで何とか読み取れる。 「息を吸っただけ浪費する時間と、息を吐いただけ浪費する感情」を天秤にかける、とありますが、息を吸うのは通常酸素を取り込み、エネルギーを蓄える時間、つまり、準備期間であって、その後の感情というのは、準備を経て、何か行動して得られた結果であって、息を吸う=原因/準備、息を吐く=結果という対比になっていて、その両者のどちらが大事なのかは、気にせずに、酒を喰らうと。 [fiorina]そうか、夏へのオマージュ、と言う構造。重層的な詩でもありましたね [杜 琴乃] そういえば平成最後の夏、でしたね。 [なかたつ]僕は頭でっかちなので、作品ごりごり読みしか提示できないですが…、作品内の情報だけを取り込めば、何とかここまでで、 読み手に引き付けて、喚起されたものの方がいいですね。 「去り難き人」ってのも、一筋縄でいかない言葉です。去り難いという価値判断は、誰が誰にしたのか、つまり、その相手が語り手に対して「去り難い」と価値付けしたのではなく、語り手がある対象物に勝手に価値付与したものだと思うんですね。 [fiorina]なかたつさん登場で、夏のイメージが明確になりました [なかたつ]去り難い、って、どういうシチュエーションで使うんでしょうか。 [杜 琴乃]なるほど。私もなかたつさんの読み方、すごく勉強になります。 [fiorina]あそこは文法的に?でたどたどしさを狙ったと思ってましたが。 [なかたつ]楽しい思い出があって、家に帰りたくないなあ~、って、去り難いって、自分から言うのは容易ですが、この詩の場合は、 語り手がある対象物に対して「去り難き人」と呼びかけているんですよね 「わたしは、去り難き人です!」と自ら宣言する人はいないと思うんです。 「あなたは、去り難き人だ!」と価値付けるのも、何だか気が引けます。 [杜 琴乃]そうですね。去る人のことなのか、見送る側の相手への感情なのか。 [fiorina]去り難さを表明した人、そのことによって、固有名詞化が作者の中でなされちゃった人? [なかたつ]作者は多分ここまで想定せず、多くの読み手もこの部分に注目しないと思うんですが、この「去り難き人」という使い方だけに注目すると拡がる気がして。 その「去り難さ」も、例えば、環境に起因して去り難くなる人もいると思うんです。本当は心から去り難いのに、たとえば、何かに拘束されている人。逆に、環境的に去らざるを得ないのに、「去らないでください」と言われている人。 [杜 琴乃]同じこと言ったかも。難しい。 [fiorina]そうですね、作者は狙ったように私は感じています。突然ですが、時間です。去りがたいですが、次に行っていいでしょうか? [なかたつ]去りましょう 次の詩で読みを書いたら、寝る寝るねるねいたします、すいません。 [鈴木 海飛]お世話になった人を見送るとき。 別れのタイミングが不明のとき。 人というより、シチュエーション。はい。タイムアップル <作品2><作品3>につづく。 (【弓庭夜話】へのお誘い~2018/09)

2018-10-03

そうか、この方法があった!まりもさん、ありがとうございます~ (ambient)

2018-09-28

自分が軽んじていたひとが、もしかしたら生のどの場面にも通じる何かを体現していたと、 思うとき。 時を経てもう一度そのときに出逢う。 相手は過去の姿のままで、周囲の誰よりも身近に、現在の自分に存在してくれる。 偽物、と言うことばは強すぎて、詩の言葉としては苦手ですが、 人間を偽物と本物に峻別する友人が過去にいたための個人的トラウマかも。 >水面の月を啜り泥の味を覚え >水面の月を叩き割り僕も偽物で >この泥の月を描きたいと 「描く」という生き方が、こういう再会を豊かにもたらすことを思いました。 (泥の月)

2018-09-27

渡辺さん、了解しました。フォーラムが実装されるまで従来どおりとし、 され次第移行と言うことで。 おてすうかけました~ (【お知らせ】合評活動のすゝめ ※運営からのお願い)

2018-09-25

再度質問です。 今、合評のログをまりもさんに準備していただいていますが、 >作品欄の方に貼って良いですか? と言うおたずねがありました。 私は全く思いついていませんでしたが、合評の結果のみをその作品のコメントとして掲載する、 と言う方法もありかな、と思います。 これに関しては問題がありますでしょうか? 他のコメント欄にも、代理とか複数名の評が掲載されているようですが・・・。 お手数ですがよろしくお願いします。 (【お知らせ】合評活動のすゝめ ※運営からのお願い)

2018-09-25

たびたびすみません。 みうらさんのお願いによって、夜話の月1回の発言が認められていたことを知りました。 フォーラムが実装されるまで、引き続き、月1回の発言は大丈夫ですか? 場合によっては、 実装されるまでしばらく夜話開催を待ってもいいかな、と考えています。 (【お知らせ】合評活動のすゝめ ※運営からのお願い)

2018-09-24

あ、行き違いがありましたね。 >とりあえず今はコメント欄で我慢していただきたいです。 了解しました~ (【お知らせ】合評活動のすゝめ ※運営からのお願い)

2018-09-24

節度をまもるという条件で、【弓庭夜話】に関しましては投稿回数フリーとさせていただけると助かります。月3回合評やるとして、少なくて3投稿、おおくて6投稿となるかと。 (【お知らせ】合評活動のすゝめ ※運営からのお願い)

2018-09-24

質問です。 【弓庭夜話】と言う文字チャットの合評活動をやっていますが、一ヶ月分、2~3回の作品案内などを私の批評分として一発言でやり、合評ログの掲載もすべてコメント欄の中に押し込んでいる状態です。コメント欄が果てしなく伸びて見にくくなっているのですが、ログの掲載をしてくださる方(今回はまりもさん)の新規発言として投稿してもいいでしょうか? ルール的にどうなんでしょう? 又許されれば、月2~3回の合評をまとめずに、それぞれ新たな発言とさせていただくと、すっきりいたしますし、掲示板も賑わうかと思いますが・・・。 (【お知らせ】合評活動のすゝめ ※運営からのお願い)

2018-09-24

>いつも心掛けているのは、こんなエッセイ詩では崩壊しようもない人間関係の構築である。 これですね! (【大阪紀行〜梅田・住之江・難波・天王寺】※)

2018-09-24

軽部さんの文章を読んで、私のことばは固いなあとよくわかりました。 親しい友人に語りかけるように書くんですねー。 私からも返詩、返文? 【ヴェルサイユの庭】 旅に際してあまり予習をしないんだけど、ヴェルサイユ宮殿に行く前は現地の書店で『ヴェルサイユの薔薇』全巻を買って読んだ。 そうしてかき立てて宮殿の前に立ち、門をくぐる段になってもやはり中に入ることができない。 そのうち悪寒と立っていることができないほどの疲労が押し寄せてきた。 その日は入城をあきらめ、宮殿近くの簡易なホテルをとった。 ベッドに倒れ込んでそのまま眠り込んだが、頭痛と高熱はその部屋で3日間続いた。 2日目もうろうと近くの食料品店に行って、栄養のあるものをと生まれて初めてキャビアの瓶詰を買った。 私はそのときまでイクラが食べられなかった。 小さい粒が沢山並んでいるのを見ると嘔吐をもよおす癖があったのだ。 プラネタリウムもそのために敬遠する。 そのときは何かが変化していた。 黒い宝石のように光る粒をクラッカーに盛って食べたときのおいしさ! すぐに食べ尽くしてまた大急ぎで買いに行った。 普段は食費に殆ど金をかけずにいたが、衰弱していた体はワインとキャビアのおかげで回復し、ついにヴェルサイユ宮殿の門をくぐった! 日本人客のかたまりにくっついて添乗員の説明をききながら、絢爛巨大な城を巡りバルコニーに立って遠くまで広がる庭園を見た。 この庭は、太陽王ルイ14世がヴォ・ル・ヴィコント城という家臣の城の庭に嫉妬したあまり、 その家臣を失脚させ、同じ建築家、庭師、室内装飾家を用いて、より規模を大きく作らせたものだとか。 両側の広大な森に挟まれて、ひたひたと湛えられた水庭、シンメトリー幾何学模様の植え込みが、 広島の平和公園が模したと言われる絶妙の傾斜ではるか彼方まで見晴らせる。 しかし、覆いようもなく照りつける太陽、白く乾いた土に光が反射して眼に痛く、 大好きなはずの庭にいて再び精気が奪われていくのであった。 (日本の庭のしっとりとした陰影が恋しい。) 訪れるべきだったのは、ヴェルサイユでなくヴォ・ル・ヴィコント城、あるいはルイ16世の御代になって、 マリー・アントワネットが自らの逃避のために敷地内に作らせた小さな離宮、その手作りの農園のような庭だったかもしれない。 モンマルトルに帰ってもキャビアのおいしさが忘れられず、スーパーで探したが見つけることができなかった。 レジに並んで「キャビアはどこにありますか?」と何気なく聞いたら、 店の人も並んでいた客たちも「カビア!」「カビア!」と大騒ぎになり、結局「ここにはありません」とのこと。 モンマルトルは下町であり、ヴェルサイユはやっぱ特別な地なのであった。 ところで、家臣が自分より美しい城や庭を持っていることに嫉妬したという例は日本でもあったらしい。 自然と人間が歳月と心を合わせて作る庭。 そのような美しすぎる庭が、今もどこかで嫉妬を買わないようにひっそりと香りたっているにちがいない。 (【大阪紀行〜梅田・住之江・難波・天王寺】※)

2018-09-24

帆場さん、お待ちしています! 先ほど海飛さんからご連絡があり、るるりらさんがご参加くださいます。 楽しみですね♪ 後9席ほど余裕がありますので、みなさま観覧だけでもどうぞ~ 参加された方はおわかりと思いますが、40分たつのは早いです! 詩が時間を食べちゃうのかな。。 ですから、事前の読み込みをくれぐれもしっかりして、真剣勝負で参りましょ~ (【弓庭夜話】へのお誘い~2018/09)

2018-09-19

5or6(ゴロちゃん。) 、素敵な詩をご推薦くださってありがとうございます! 青春ですねー 合評は残念ながら一編となりますので、ご参加の皆さんはどちらを語りたいかをこころに決めていらしてください。 わたしは~、!? どちらが選ばれても、即対応できるように、2編ともしっかり読んできてくださいねー。 (【弓庭夜話】へのお誘い~2018/09)

2018-09-18

杜 琴乃 さん、ありがとうございます。では、当日21時に杜さんがいらっしゃれば、進行をお願いいたしますね。pcが復調しましたので、合評作品のログだしは私の方でできそうです。 (【弓庭夜話】へのお誘い~2018/09)

2018-09-17

>前回の弓庭夜話、良くなーーい!!! ゆるかったですかね。。 ご意見しかとうけたまわりましたっ。 5or6(ゴロちゃん。) さん推薦作が語られる次回のために、 夜話にご招待させていただきます。お時間の許す範囲でご参加を! (【弓庭夜話】へのお誘い~2018/09)

2018-09-16

~お知らせ & おねがい~ ①まりもさんが新たにメンバーになってくださいました! 合評ログの掲示板移行もしていただけることに。ありがとうございます。 まりもさんご多忙の際は、他の参加者に声かけしてくださるようお願いしていますので、お時間のある方はご協力ください。 ②【弓庭夜話】は現状暫定10名で、もう10名が参加可能です。メンバーになると、リアルタイムで夜話の進行を眺めることができ、(あ、そこちがうんじゃ?)というときも、気軽に発言できます。一度経験されると、ジムで軽く汗流した爽快感をどなたも言います。もちろん、ロムだけでも大丈夫。ご興味のある方は、以下の誰かに(ツイッターメール又は本コメント欄にて)ご連絡のうえ招待をお待ちください。 みうらさん 杜 琴乃 さん 鈴木 海飛さん 田中修子さん 帆場蔵人さん fiorina ③夜話は基本自由討論ですが、時間管理程度の進行係を毎回お一人にお願いします。当日に声かけされた方は、お気軽に引き受けくださるようお願いします。 「40ぷんたちました~」ほぼ、これだけです! ④月末、bレビュウ掲示板に、翌月の告知(と作品選出)をお願いします。 ある意味、一番大変で、面白いです。合評作の選定基準は完全お任せです。 メール等にて依頼された方は、快くお引き受けくださるようお願いいたします。 ⑤5or6(ゴロちゃん。)さんへ《あなたがネットで読んだ最高の詩を教えてください。》 9月18日(火)23時59分までに本コメント欄にお願いします。 (念のため、twitterメールにてもお願いします。) (【弓庭夜話】へのお誘い~2018/09)

2018-09-16

【弓庭夜話】第三回のおさそい(再掲) 開催日時 9月19日(水)21:00~23:00 開催場所 twitterグループメールにて 対象作品 1 一 「[]」 作成日時 2018-08-06 2 仲程「しらやまさんのこと 夏」作成日時 2018-08-07 3 5or6(ゴロちゃん。)さんに聞く《あなたがネットで読んだ最高の詩を教えてください。》 以上3作品を文字チャットで語り合います。 (【弓庭夜話】へのお誘い~2018/09)

2018-09-16

大きく恐ろしい本当の(?)正義や不正義があって、黙ってそこに命をかけている人々がいるのだろうけど、波打ち際のようなところで、小さな正義やちゃちな不正義を語っているのがわたしたちではないかという反省を持ちました。病弱な父母のなみだながらの叱責を正義に見立てて反抗していた頃の自分がよみがえって、詩の読みとは違っているかも知れないのですが。アンチ正義ならばこそ、うつむいてやった方がかっこいいな、と。 (そのみひうまたはひむ)

2018-09-11

言い忘れてたけど、タイトルが好きだった。→「怪郷」 お盆に里帰りのときは、思い出してね。 (【弓庭夜話】へのお誘い~2018/09)

2018-09-08

“夜話、1回追加のお知らせ” 8月投稿作の中からもっともコメントの少ない作品、bレビの片隅にひっそりと咲いた詩の合評をします。 題して夜話番外編【ゼロの焦点】 お時間のゆるす方はふるってご参加ください。 (初めての方はみうらさん→https://twitter.com/kajitsumiuraにご連絡の上、招待をお待ちください。) +++++++++++++++++++++ 【ゼロの焦点】詳細 <日時> 9月26日(水) 21:00~23:00 <作品> 1かじか 「あすなろ の意味を僕は知らない。 」 2Rata 「あかね美人」 3なつり、はし 「鏡の道化師」 (【弓庭夜話】へのお誘い~2018/09)

2018-09-08

かるべさん、再レスに気がついてなくてごめんなさい。 旅行記楽しみです。 なんかおかしなことが必ず起こりますよね。 (【フランス紀行~パリ】番外編・アテネ散策 Ⅰ&Ⅱ ※)

2018-09-07

帆場さん、再レスいただいてるのに気づいていませんでした。 たぶん、帆場さんの笑いを誤解していないと思います。 あそこはいろんな意味で我ながら可笑しいので、それが伝わってよかったです。 こんな自分があんなところで思わず日本人代表になってるのもw (選評熱いときなんか、上に上がらないでこっそりレスができるボタンがあるといいが。。) (【フランス紀行~パリ】※ )

2018-09-07

まりもさん、私の方こそ、メールで確認すべきでした。 まりもさんの《ネットで読んだ最高の詩》10月以降におたずねにあがりますね。 よろしくお願いいたします。 (【弓庭夜話】へのお誘い~2018/09)

2018-09-06

<作品2> 怪郷 蛭子子 作成日時 2018-08-22 雷様が率いる にわか雨のパレードが行ってしまった後 取られなかったおへそを抱えて お腹いっぱい熱気を吸う かつての八月 道端でへばった龍の汗が蒸発した湿気の中で 幽霊は昼も夜もなく暗闇を探していた 百物語がしたくても ろうそくも友達100人もないから 五人で集まって 知ってる話を語っては 持ち寄った懐中電灯を消した十歳と 夢の海で座礁して 億劫さを抱えた十七歳最終日が そよ風で繋がる あの時も今も結局 お化けを目の前に呼べないでいる 昔はおばけだらけだった 祭囃子もしない都会で ビルもない田舎 それが僕の原風景でも 一夏の冒険なんて アニメか児童書の世界だって なんとなくわかってた 普通に普通な幼少期でも お化けは確かにそこらへんにいた こわいと楽しいが同じ色で 不思議と当たり前が同義だった お化けは夜に出るだなんて俗説で 公園の木陰に天狗が隠れていたりしたもんだ 近づくと消えてしまうんだけど 喋らず話しかけてきた 空を見上げると坊主頭が微笑んでいそうで むしろそれは下を向いている限りわかってて 一二の三で上を向けば今度は下に何かいた 夜更かしは寝苦しいってだけじゃなかった 早起きはラジオ体操のためじゃなかった それも今は昔と同じ箱の中だ 今は昔を積み上げて今の今を生きる 母の語る昔話の綺麗さが退屈で 恐ろしい今は昔を 怪しい今は昔を求めていた昔 今は昔は今も確かに血の中にあるのに 僕は不思議においていかれてしまった 現実に置いてけぼりだ 不思議は勝手に絶好して来た 科学と妖怪が絶交したみたいに 昔は友達だったのに 僕は彼等を説明できない 怒らせてしまったのなら 一人ぼっちにさせてしまったのは僕が先だというなら 謝りたい 久しぶりに自転車を走らせて 不思議なものを探している 妖しいや怪しいを探している だって夏はお化けの季節だし 蝉が読経みたいに鳴いて 入道雲は雲入道かもしれない 結局何とも会えないで ジュンク堂で本を買って帰る もう太陽が金になる時間 青空は静かで 風も涼しくなっている 案外そこらへんにいるかもよ 一瞬何かが見えた気がする ただの寝不足かもしれないけど 帆場蔵人 出だしから表現が凄く好きな詩です。 雷様が率いるにわか雨のパレード、 龍の汗!表現が不思議や怪しいもの、という詩の内容にフィットしすぎです。蛭子子さんには何かが見えているに違いない。 こわいと楽しいが同じ色で、とか懐かしさが溢れてます。 杜 琴乃 懐かしいですね。確かに。 振り向いたら何もいないけど、それは私の死角にいるんだ...みたいな空想したな。 田中修子 これはぜんぜん分からないなぁ~なんでだろう。 帆場蔵人 少年の視点から描かれたノスタルジックな作品だからでしょうか 鈴木 海飛 これ好きですね。 そういえば、 いちにのさんで、 振り返って なんにもいないけど 友達と逃げるように走り出す ことを思い出しましたね。 fiorina この詩は正真正銘冗長ですねw でも、小津映画の、背後にゆる~い音楽が流れていて、登場人物の受けこたえもゆる~い日常が、たまらなく貴重に思えるようになると、陰影のある無駄が愛おしくなりますね。 杜 琴乃 いわゆる?悪魔の証明を、ずっとしたい。願望を感じます。ラピュタ島はあるんだ!みたいな。 fiorina 私は実は生きてる?人間が皆幽霊に見えることがあって、 今は昔&自分自身の心のさまがあの世とこの世を行き交う幽霊、と言う感覚を持つと、 この詩がとても懐かしい。 失われたと言っているんだけど、この人の歩く姿は幽霊を引きずっている。と言うか、みんなそうでは?と思う。 そのことに、ずっとそうだったことに、気づかされた詩でした。 帆場蔵人 単純に読んでしまうと大人になりつつある 少年の揺れる心情を、怪異や妖怪、不思議な存在を不思議と感じなくなりつつある、今と昔を比較することで情緒豊かに描いているように思います。ただ、文中にある十歳、十七歳の終わり、要は大人とみなされ始める年齢当時の回想というよりは、さらに歳を重ねてから書いているような熟れた巧みさを感じます。それを上手いと感じつつも、敢えて青い感傷を打ち出しても面白い、と感じました。 確かに冗長なんですがそれが緩やかな雰囲気を演出していますね。 帆場蔵人 懐古的でノスタルジックな詩、を書こうとされたのはコメントにもありますが、ぼくはノスタルジックな感傷よりも軽妙な語り口に、あぁ、あいつならさっき近所のコンビニで出会ったよ、ぐらいの失われたのではなく、不思議との距離が変わっただけなんじゃないか。絶好してきた、といっているがその裏には実はそんなことはないんだぜ、と笑っているような気配を感じました。 鈴木 海飛 ほえー。すてきな読解 帆場蔵人 ありがとうございます。 鈴木 海飛 そう、妖怪と距離が変わった訳じゃないってのが、 私の読解にもありました。 科学によって滅ぼされたのでなく。 また別のところに姿をかえて潜んでいる。 ふふふ。そーいえばネットの世界には結構妖怪にみえるものが一杯ある。 fiorina 不思議との距離感だけだと、ありきたりになってしまうかとも思いますが、何か読ませるものがありますよね 鈴木 海飛 そうでなくとも、妖怪ウォッチのように 生活でちょっぴりおかしな出来事は 妖怪のせい、とする。 案外いる。なんてなことを思いました。 杜 琴乃 何かきっかけがあれば、見えるようになる、会えるという希望はまだ持っているのでしょう。 fiorina 皆さん的には、妖怪は近くにいますか? 帆場蔵人 知り合いの子どもたちが妖怪宿題かくし、とか描いているんですよね。多分、妖怪は形を変えて無くならないんじゃないかと感じます。 眼鏡かくし、自分の部屋にはいますが。 鈴木 海飛 いる、のかも。 もしかしたら、 知らないひとからみたら私も「妖怪」と呼ばれてるかもしれません。 fiorina w 杜 琴乃 妖怪かぁ。あぁ。これ、ポケモンじゃなくて、妖怪だからいいのか。幻獣だとただ単に未発見の動物に夢を見るだけだけど、妖怪は人間にイタズラしますからね。 スマホとか、急にどこへやったか分からなくて全然見つけられないときは「妖怪モノカクシ」のせいかもしれない。 人間の生活に影響してくるからこそ、妖怪やお化けなのかな。 fiorina 読み返してたらますます好きになった、この詩 帆場蔵人 うちの田舎の猫は二十四歳で元気なんですよ。あれは猫又じゃなかろうか。山奥の村なんで考えてしまいますね。 帆場蔵人 杜さんの言われる感覚が妖怪ってやつですね。詳しくは京極夏彦なんかが書いてますが。 fiorina 冗長の中に素敵な行があるのって、何度も読みたくなりますねw 杜 琴乃 そうですね! fiorina リアルの事件も潜んでいる気がするんですよね 鈴木 海飛 なんかさみしい詩のようだけど、ほっとする。 可愛い詩。いいなぁ 帆場蔵人 夏休み!て感じの映画のモノローグとかで流れそうな、くすぐられるものがありますね。 鈴木 海飛 そうですね! fiorina 夢の海で座礁して 億劫さを抱えた十七歳最終日 こことか、 鈴木 海飛 リアルの事件に妖怪が潜んでるで 、思いだしました。 アメリカのドラマで 「グリム」というのがそれです。 凶悪な犯罪者は人間に化けてるモンスターという設定。 帆場蔵人 グリム!観ました。そうだ、あれはリアルに人狼なんかが社会に根付いている作品ですね! 帆場蔵人 夢の海で座礁した、、、 一抹の寂しさとか虚しさが十歳の夏を懐かしんでいる。 鈴木 海飛 なんか本当、夏の夜話にぴったりw fiorina 読み返してわからないところに妖怪がいそうでw fiorina でも、この説明要るかな、と言うところもあります 帆場蔵人 確かに切り詰められそうな詩句はありますね。 fiorina 私はオーケーでも、これは詩として?と言う方がいたら残念という気分 杜 琴乃 fiorinaさんの、分からないところに妖怪がいそう、に、なるほど! fiorina 何カ所かありますね。コピーしたいんだけど、pcが言うこと聞いてくれません。ようかいか?w 帆場蔵人 出たかw 鈴木 海飛 あははw 杜 琴乃 www fiorina 坊主頭の辺の三行とか、気になります 杜 琴乃 私が一番不思議に思ったのは、「早起きはラジオ体操のためじゃなかった」ですね。少年時代を懐かしむなら、ラジオ体操で良いのでは?と思いました。 鈴木 海飛 もしテストで この詩は冗長だからどこかをしぼめなさいと言われたら 昔の部分を削って行くかもしれません。 今と対比するのに、すこーし、長いのかも。 でも、削りたくない文がチラホラとあってとまどうジレンマ 帆場蔵人 少年が求めていたのは何時もと違う日常で、ありえないのはわかっているけど普段と違う夏休みの早起きは一夏の冒険のスイッチのように感じていたのかな。だからラジオ体操のためじゃなかった そんな風に読みました 杜 琴乃 なるほど!寝苦しいのもあるけど、そのせいだけじゃない、ラジオ体操もあるけど、そのためだけじゃない、ってことかな? fiorina 皆さん、錯綜していて後で応答したくなったら掲示板にどうぞ! 帆場蔵人 だと思います。わくわく感というか。 坊主頭などの部分は確かに削るか、もっと端的に書いてもいいですね。でも好きな雰囲気の詩です。 fiorina 私は坊主頭が何か、17歳で失った少年とか 杜 琴乃 削るなら、四連目(昔はおばけだらけだった...)かな。あえて田舎と都会の対比(時代)を書かなくても伝わると思います。 鈴木 海飛 坊主頭 見上げ入道かその仲間かな なんだろう 帆場蔵人 あ、確かにそれは考えられそう。坊主頭、失われていく少年の自分でしょうか。ぼくはカイトさんのイメージで妖怪として読んでました。 杜 琴乃 ちょっと妖怪について調べたくなりますね。 fiorina そろそろ時間ですが、 杜 琴乃 なにが隠れているのか。 帆場蔵人 あっ、と言う間ですね。 鈴木 海飛 おー、失われてく少年時代 雲とあわせてると 切ない景色なってきた 鈴木 海飛 おもしろかったです。 杜 琴乃 本当に!あっという間です! 帆場蔵人 まさに夏にぴったりな詩でしたね。 fiorina 時間たつの早いですねー 田中修子 ちょいバタバタして書き込めなかったですが、なんか、わかりやすくなりました! 鈴木 海飛 おかえりなさいー。 fiorina 修子さんも、又勉強したことを書いてってね 帆場蔵人 ですね、現代詩に無知なのでそういう話しも聞きたいです。 杜 琴乃 私、コメント欄を読んでやっと何となく分かることが多くて。そういう意味でも読めなかった作品の面白さに気づけるのは本当に嬉しいです。 fiorina 詩が生きてる、みたいな感じになりますね 田中修子 私かなり曖昧な記憶で書いてるのであまり信用しないでくだされば! でもこんなんでよければ、です! 杜 琴乃 そうですね! 帆場蔵人 合表ならではの楽しみ、ですね。詩が拡張されていくような。 fiorina それでは、おつかれさまでした~ 杜 琴乃 はい!お疲れ様でした (【弓庭夜話】へのお誘い~2018/09)

2018-09-06

鈴木 海飛 今回初めて参加させていただきます。よろしくお願いいたします。 fiorina 海飛さん、いらっしゃいませ!こちらこそどうぞよろしく~ 桐ヶ谷忍 こんばんわ。 今夜、参加出来そうになくなりました。 後日ログを拝読させて頂きますね。 皆様たのしまれますよう。 田中修子 こんばんは、挨拶差し上げるのが遅くなり、大変失礼しました。 少し具合がよくないので、見ているだけになるかもですが、大丈夫でしょうか?汗 fiorina 忍さん、こんばんは。残念!又ご都合のよいとき、お待ちしています~ 修子さん、こんばんは。見ているだけでもいいですよ!思わず発言したくなっても、大丈夫ですw 田中修子 ウフフ…ありがとうございますっ! fiorina 【弓庭夜話】第二回開会します。 みなさん、こんばんは、ようこそ~ 恐るべき台風一過、こうして集えることをまずは歓びたいです。 がっつり批評のできる方は、よろしくお願いします! 詩を楽しみたいという方は、こころゆくままに戯れ遊んでください! チャットのわいわいガヤガヤ感を大切に、こだわりの意見、脈絡のない発言も歓迎です。 fiorina (フライングしました。)21時からです。 鈴木 海飛 |見Φ^) |=3 田中修子 ごーん(ゴング) 鈴木 海飛 |人Φ^) 田中修子 鈴木さんて、現フォでも?? はじめましてー。 鈴木 海飛 はじめまして、ですね。現フォでは田中さんのお名前お伺いしておりますよ。 田中修子 あ、やっぱり!! なんとなくご挨拶する機会がありませんで。 私、批評はできないんですよね…… 鈴木 海飛 いえいえ、こちらこそ。 私もできませんよ。 ちょっとでも出来るようになるヒントをいただきにきたのであります。 田中修子 友人で、ゲキカラの批評をくれる人がいて、ものすごく傷つくんですが、その批評に従って書くと、ものすごく上手くなるんですよ。 鈴木 海飛 それはいいですねー。 相性ぴったりという奴ですね。 帆場蔵人 こんばんは〜、なんとか間に合いました。よろしくお願いしまーす。 鈴木 海飛 こんばんはー。よろしくお願いします。 田中修子 聞くたびに胃痛しています爆笑 ですから批評って、人を傷つけるんですよね。それくらいその人の才能を愛してなきゃできない。 私にはそれがないから。 杜 琴乃 こんばんは! 宜しくお願いします✨ 田中修子 よろしくお願いします! 鈴木 海飛 よろしくお願いしますー。 帆場蔵人 こんばんは〜。 ぼくも批評はなかなか。詩を書く上で必要だとは思うけど。 fiorina ちこくw 杜 琴乃 fiorinaさん可愛いすぎですw 田中修子 fiorinaさんらしい!!w 詩文化が衰退したのは、そもそも日本において詩が商業化しなかったのと同時に、批評をできる人がいなくなったからだと、その友人が言ってました。たしかに。 fiorina 今日は2作品を各一時間かけてやります! ww 杜 琴乃 はい! 田中修子 はい!(元気になってきた 鈴木 海飛 はぁい。 <作品1> 標本に溺れ 帆場蔵人 作成日時 2018-08-07 父さんの部屋には 美しい蝶たちがたくさん死んでいる 父さんのお好みの姿勢で ピンに止められ 埋葬もされず ひたすらに あの男から愛を注がれている 父さんの部屋から 解放された死者たちが溢れ出て行く 父さんは膝をつき唖然として ピンの山に 埋没している ひたむきにその男を愛す私を 見もせず 鈍色の空をあらゆる色彩が侵食して 蝶たちの羽ばたきはますます唸りをまして 音という音を飲み込み 静寂を創りだした そこにはわたしやこの男の 鼓動は無い 埃を払い父さんの部屋を掃き清める 誰もが等しくピンで止められている 標本箱の中 みな片手間に夢を見る 蝶たちは羽根を広げて黙りこくっている 杜 琴乃 おぉ。 fiorina 辛口も甘口も歓迎です 田中修子 これ、かっこいいー。 読みやすいし、アンユとかインユとかよく分からなくてもそのままでカッコイイ。 fiorina 比喩が心地いいですよね、魅力ある言い換え、と言うか 杜 琴乃 視点がいくつかあるように思えるのは、あの男、この男、その男という表現故でしょうか... fiorina 暴力的で心地よさを排する比喩というのを、現代詩はあえてしてると感じるけど その意味で古典的手法かも 帆場蔵人 これは詩を書き始めて半年、二年前ぐらいの作品で現代詩をまったく知らないころに書きました。 田中修子 現代詩の主流って、近代詩ぶっ壊せからはじまったことをこのごろ知りました。 だからこれは主流から外れているかもしれないけど、やっぱりいいものはいい。 fiorina 2連の大きな動きが映像的ですね。死んだ蝶たちが、一斉に飛び立っていく 田中修子 第二次世界大戦に社会の批評家である詩人が迎合したところから、それまでの情緒性とかが粉々にされたようなんだけど、こういうふうにただただ映像を思い浮かべてもきれい、っていうのはやっぱり素敵だな~ fiorina 私は、人間も運命(神?)にピン留めされた存在だと思うんだけど、このお父さんはそんなことお構いなしに、蝶の死に没頭している 田中修子 家族の詩かな? 杜 琴乃 なるほど。 fiorina そうなんだ>修子さん 田中修子 そうみたいなんですよぉぉぉ!>fiorinaさん fiorina (叙情的に戦争に加担したのかな) 帆場蔵人 そうですね、家族もですし様々な視点を描くように意識した作品です。関係性を敢えてぼやかしてる。 鈴木 海飛 読んでて、なかなか真実にたどり着けない感じがある。 杜 琴乃 蝶が解放される、というのは所有者が無くなる(亡くなる)ということなのか...? fiorina その父の姿を後ろで見ている人は、いきものの生と死が両方見えているのかな・・・死による解放 田中修子 高村高太郎がよくあげられますね。>fiorinaさん fiorina (なるほど。光太郎さんの功罪) 帆場蔵人 戦後の流れですね。士気高揚のために詩が利用された。草野心平もですね。 でも叙情性が悪いわけでは無いと思いますよ。 杜 琴乃 ようやく自分なりに読めてきた!私もなんとなく掴めないところがあったので。 fiorina カイトさん、詳しくお願→真実にたどり着けない感 帆場蔵人 標本にされた蝶、、、 死んでいながら穢れよりも美しさが目立つ。ただぼくは標本の蝶が怖くもあります。 田中修子 (私なんか高村高太郎も草野心平も大好きだし、抒情詩こそサイコーって思ってます……)>幌場さん fiorina 登場人物を2名に絞ったら読みやすかった 杜 琴乃 コメント欄でfiorinaさんが最終連が良いと仰っていたのがすごく頷けます!最終連いい! fiorina 掃除から入ったのが、個人的に好みwことのさん 杜 琴乃 掃き「清める」という表現がしっくりきました。 帆場蔵人 この登場人物を何処まで絞るかで読みやすさが変わってきているようですね。多分、カイトさんは二人ではなく、さらに深く考えておられるのかと。 鈴木 海飛 わたしは一連目から三連目は父と子を標本箱からじっくりと眺めていた蝶達夢なのだと解釈しました。 鈴木 海飛 蝶の夢がさめて 現実の4連目にながれてくのですが 帆場蔵人 田中さん、叙情性の無い詩は寂しくもありますね。堀口大學の月下の一群などは名訳ぞろい。叙情性爆発です。 杜 琴乃 なるほど。 私は蝶と父を見ている「子供」に絞りました。 杜 琴乃 すごく、この、父さんに愛して欲しい、振り向いてほしいと願う子供かな、と。 帆場蔵人 カイトさんのその読みが凄く新鮮です!多分、多くの人が親と子で読まれるところを発展した読み方をされてますね。面白いです。 鈴木 海飛 4連目だけなんです。 「音」がするのは でも、父さんはでてきません。 埃がつもっている。 はき清める。 蝶が夢の中で、 この男の鼓動はない。 父さんはもうこの世にはいないのかもなって思いました。 fiorina 蝶が人間たちを見ている、と言う空気も流れるでしょうね。標本室では。 fiorina なるほど~ 鈴木 海飛 「音」とは生活音のことです。 杜 琴乃 >そこにはわたしやこの男の鼓動はない とあるので、この一文だけ見ると蝶の視点な気もする。 田中修子 現代詩オブ現代詩なら、この詩の中にはなんらかの形で社会への批評がふくまれていなければならない、ハズ…… 帆場蔵人 もしかしたら標本の部屋は生と死の境い目かもしれない。 死は無音だろうか。 描き手ながら新しい発想が出てきそうです。 社会への批評……なるほど現代詩にはそういう側面があるのですね。 田中修子 私は、標本箱というのが社会で、自分がピンにとめられていることを知らないサラリーマンたちが、素敵な夢(マイホームとか)を見てるのかなあ、といやらしい目で見てしまった。 田中修子 私は現代詩人という肩書がついてしまったので、やっと現代詩の勉強をしはじめたら、現代詩にはどうもそういう側面が非常に強いらしいことが分かってきました。 でも、それが主流であって、「そろそろ、いま生きている私たちが感じていることを詩にしよう」とか、白島さんなんかはロマンを捨てずに詩集が出されたのだから、けっきょくなんでもいいんだろうな、って思うんですけどね。 fiorina ますますいい詩、と言う気がしていますが、みうら君が書きすぎ、と言ってましたね 鈴木 海飛 杜さん>私もそこを何度もよみました。 すると、こどもの姿ではない。 なにかがいるような気がして続く。4連目に 蝶は片手間に夢を見ると でてきます。 私はそこで叙情詩として とらえるのでなく 奇術(トリック)詩としてもとらえようとしたのです。 fiorina なるほど!修子さん頑張ってw 生者は蝶だと 帆場蔵人 標本箱と蝶標本には確かにそういった隠喩があるのは確かですね。 そうですね、三浦さんからそういう指摘を受けました。冗長。情念に絞るべきだと。 杜 琴乃 ふむふむ。 fiorina 私は陰影のある無駄は(この詩が冗長とは感じませんでしたが、仮にそうだとしても)欲しい派です。 田中修子 (純粋にわー、詩ってきれーで読めてたころがなつかしいです涙涙>fiorinaさん) 帆場蔵人 実はカイトさんの読み方はある意味、正鵠を射ている側面があります。時間もいいぐらいなので描きますが、この詩は元々、怪奇幻想小説のプロットなんですね。倒錯的な視点を提示するために、あの男、この男、、、という書き方をしたわけです。 杜 琴乃 私も冗長には感じないです。 fiorina 現代詩である必要というのは、どうなの。書きたいものを私書いてる、じゃだめなのかな?>修子さん、批評精神みたいなのは、絶対必要なのか?現代詩人 fiorina あ、でも作者は種明かししてもいいし、しなくてもいいですよ。未来の読者のために。 杜 琴乃 一連目と二連目が急展開な感じがしたのは、もとがプロットだからでしょうか? 帆場蔵人 種明かし、はこれだけにしておきます。 現代詩という枠は幅広く、吉野弘などは必ずしもそうでは無いと思いますが。 杜 琴乃 (私ならこの一連目と二連目の間にもう一連くらい書いてしまいそうだな。) 帆場蔵人 杜さん、確かにプロットですからそうなった傾向はあります。 fiorina 倒錯が自然だったですね、そういう意味では 杜 琴乃 現代詩的に読むと、現代における親子関係とも読めそうですね。 標本箱がずらりと並ぶ部屋、これは父の理想が飾られた部屋、わたしは常に劣等感のようなものがあり、また父はそれを無意識にわたしに与える存在。そんな父に振り向いてほしくて、頑張っているけどなかなか認められない、そこで父が憎くなり「あの男」と呼んだりする。 fiorina そろそろ時間ですが、概ね堪能されていますけど、残念なところがあればどうぞ。絞り出してw 帆場蔵人 この手の作品にも需要があるようなので怪奇幻想シリーズとしてもっとかいてみたくなりました^^ 鈴木 海飛 叙情詩としては もし、こどもなら こどもの表現が売笑婦 すこしわざとらしい女らしさがある。 あえて、そういう表現をつかってる あの男、その男と 何かが隠れている。 それを見つけるのがかなりてこずって。 なかなか真実にはたどり着けなかったです。 面白い詩でした。 技術が高いデスネ。 杜 琴乃 蝶々は空になって、私たち、ピンで止められた人間を見下ろしている、この蝶の圧倒的勝利みたいな最後が好きです。 帆場蔵人 蝶超勝利!ちなみにイメージはモルフォ蝶です。 田中修子 (うーん、さいきん漢詩を勉強しはじめたんですが、漢詩には「隠逸」だっけ? そういうジャンルがもうあるんですよね。 つまり漢詩もわりと批評的な内容をふくまねばならぬ、なのですが、 そういうのに飽きたのでこの詩は隠逸という、批評的な内容を含まない手法で書いてますよ、というジャンルです。 現代詩にもそういう流れがきっとあるはず。 けれどそれって結局は、「詩とは批評的な姿勢である」ということを知ってから「隠逸」せよ、ということで、 そんなコムズカシイこと言ってたら詩を書く人がいなくなっちゃうじゃんね、ということも思うし、 そもそも批評的な姿勢を持たねばならぬのであったら 詩とは批評的な姿勢をもたねばならぬに対して 反感を覚えるのも大事でしょう? ってかんじで最近思考が迷走してます。>fiorinaさん) ともかくこの詩はぱっと見かっこよくて久々になにも思わないで読めました……。 fiorina 夜話の前と後とで詩の印象が変わりましたか?皆さん ww 杜 琴乃 はい。 もう少し自分なりの解釈を深めたくなりました。 杜 琴乃 モルフォ蝶は美しい! 帆場蔵人 批評は必要ですが詩のうちに必ずしも含ませる必要はないかな。漢詩は深いですね。漱石も漢詩を書いていますし。 鈴木 海飛 もうやめようと思ったんですが私は謎をもうちょっと追いかける気になってます。 fiorina 美しい詩ですよねー一層美しくなりました 帆場蔵人 漫画家の高橋葉介さんの影響があることだけは確かです。 帆場蔵人 たのしんで頂けて何よりでした^_^ fiorina では、皆さん残りは掲示板にどうぞ! 次の詩に行ってもいいですか? 杜 琴乃 はい! 帆場蔵人 はい!待ってました! (【弓庭夜話】へのお誘い~2018/09)

2018-09-06

↑この意味不明な書き込みは、現在みうらくんが誰もフォローしませんと宣言したことに由来しています。 (【弓庭夜話】へのお誘い~2018/09)

2018-09-05

新たに夜話ご参加をお考えの方は、まずtwitterでみうらくん→https://twitter.com/kajitsumiuraをフォローし、ご参加希望を@メールにてお伝えください。 みうらくんからフォローバックがなくても、彼の特殊なメール設定により、夜話ご参加がみうら君の手続きでできることになっています。 (【弓庭夜話】へのお誘い~2018/09)

2018-09-05

はい、今夜です!お待ちしています。 実はまりもさんからの推薦作がまだなのですが、もしかしたら気がついてらっしゃらないかも。 場合によっては、今回は2作品のみとし、まりもさんには10月以降に再度お願いということに。 夜まで待ってみますね。 (【弓庭夜話】へのお誘い~2018/09)

2018-09-05

かるべさん、コメントありがとうございます。 本音を言うとパリの近景は大味だし、道行く人々は(南仏と違って)不機嫌そうだし。 石造りの建物は皮膚に乾きを感じさせ、もう少し窓に緑を欲しくもなりましたが、 あの夕暮れのシルエット、遠景はやはり圧倒的で「翼よ! あれが巴里の灯だ」と言わしめた素晴らしさだと。パリ編はまだいくつか続きますが、どれも自由をすっている歓びの中に苦さが混じります。それでもやっぱり、好きな街です。 帆場蔵人 さん、コメントありがとうございます。 帆場さんはオジさんでしたか。私はお名前にもかかわらず、いくつかの作品から若い女性のように思っていました。 ニホンジンハ、ソンナコトハシナイ~私自身言いながらあれなんか変、と思っていましたが、手持ちの語彙でたたかうにはよかったかも、と後で思いました。 (【フランス紀行~パリ】※ )

2018-09-04

かるべまさひろさん、コメントありがとうございます。 アテネは一週間の滞在で、目的はかねてから憧れの劇場だけでしたが、他の訪問地と違って目に入るものがゴツゴツとして新鮮に雑多だったので、私の記述もその影響を受けているようです。 因みに劇場を堪能した後は、エーゲ海沿いをのんびり歩いていました。 出逢った人も気さくで、ギリシアの古い歌を歌ってくれたり、日本の南国の漁師町を彷彿とさせました。 夜中には一晩中喧嘩している人たちがいて、だんだん抜き差しならない状況を、だれも止めに入る様子もなく、ギャング映画の中にいたような経験もありましたが、割愛しました。かるべさんが旅好きと伺ってつい饒舌に。しつれいしました。 (【フランス紀行~パリ】番外編・アテネ散策 Ⅰ&Ⅱ ※)

2018-09-04

鮮やかな一コマであり、作者の人生が滲んでいるような、読み応えのある一作です。終連もよかったです。 (唯一の友だち)

2018-09-04

新たなご参加者のためにage (【弓庭夜話】へのお誘い~2018/09)

2018-09-02

とかいのいっしつでしぜんとは無関係にいても、たくさんの動物と一緒にいるようなことをはっ犬させてくれたって言う、いみでした。 けんかするたび、もじをかくとき、じぶんでもやってみたくなりますねw (どうぶつ図鑑)

2018-09-02

空からとりだしたことばみたいに目のなかにのこります。 せつめいてきなことばを除くと、 ちょうちょのとぶあとがもっとかろやかになるかと。 (ひみたいに)

2018-09-02

気づかず、たくさんの動物と生きてるんですね! (どうぶつ図鑑)

2018-09-02

じっくり読むと、合評が白熱しますね。黙っていようとしてもついなんか言いたくなる詩揃いですので、ぜったい盛り上がりましょー! (【弓庭夜話】へのお誘い~2018/09)

2018-09-01

早すぎません!早く知りたい~ (【弓庭夜話】へのお誘い~2018/09)

2018-09-01

三浦さん、 >学術の観点からの研鑽 実はある方から家に置いておけないという世界詩論大系6巻、世界批評体系6巻ほかを厖大な詩集とともにいただいたのですが、 その方はほぼ全部に目を通したらしいのです。 図書館の棚には更に多くの詩論が並んでますね。あれらを読破して自分の詩、自分の批評を実践的に書いている人もいるんでしょう。 ネットって、少なくはないそういう凄いひとと、私のように不勉強なままネット詩を漫然と眺めてきただけ、と言う者が混在している場なのですよね。 情熱と知識(技術?)が争っているようなそういう人の詩や批評をごく稀に掲示板で見たことがありました。 難しい理論も語っていたかも知れませんが、若い人たちも反発はしても何か打たれるようにその人のことばを心待ちにし、受け止めていた気がします。 決して堅苦しい学びの場などにはなり得ないのです。 そういう方がまたときおり、ここに立ち寄り居着いてくれればいいなと思います。 bれびが批評を掲げて始まったとき、未経験を告白するキュレーターの、詩を読む誠実さと熱気はとても伝わりました。 (その中で三浦さんは数ではなく、質で勝負していたと思いました。) 何が詩か、は感覚や知識如何に関わらず、ひとそれぞれですね。 私にとっては散歩が一番の詩のような気がしていますから。 知らないことだらけなのですが、自分の好きなオペラの台本などを詩と見なしているところもあって、詩(と物語)に対する感覚は三浦さんとは、 これからも違っていき続けると思います。でも「くたばれ、b」で三浦さんが語ったことはしっかり記憶しています。 経験と未経験が両輪となって、面白い場所が作れるといいですね。 古いログを読んでいたらこんなのが出てきたので、三浦さんにプレゼントします。 中田満帆さんが少年の頃? (無断引用になりませんように・・) 満帆さんの十四の質問。/TAKE 満帆さんの、十四の質問。 1:机の上には,なにがありますか? (理想でも可) 2:顕微鏡で一番見たいのは、なんですか? 3:誤解されたい事がありますか? それはなんですか? 4:夢を文や絵に書きますか? 5:一番恥ずかしい思い出は、なんですか? 6:あなたの初恋があなたの恋のなかで、一番重要だと思いますか? 7:家出をした事が、ありますか? 詳しく教えてくれませんか? 8:新聞記事に胸を痛めることが、ありますか? 9:好きな歌の、歌い出しと終わりを.... 10:泪の後に流れて来るものは、なんですか? 11:恋も愛も、ただの酔っ払いですか? それとも・・・? 12:「サラマンデ」と云う言葉から、なにを連想します? 13:今一番、憎い人は誰ですか? (架空の人物も可) 14:最後に、あなたの年齢・癖・雲を眺めた回数を教えてください。 その答え。 ゴミのような、ゴミのようでないものが いくつもいくつも降り積もり 気づいたときには、それは宝物 じっと、魔法の拡大鏡で見つめると そのなんと、きらびやかな慎ましさ ほんとは、ただの寂しがり屋だと思われたくて ほんとにそう思われたくてお道化る悲しみ 詩にもならない、絵にもならない夢こそ本当の夢だと そう呟くことしかできない 親友が鬱病になるまで気づかず 彼から受けた友情に何も報えなかったことの恥ずかしさ 初恋は、心と心との距離を測るための初めての試練 その正確な距離を測り終えたとき、一番大切な記憶に風化する あのときに、勇気をもって自分という巣から飛び出していれば こんなにも後悔することはなかった 友人の小さな死亡記事を見つけたときの寝起きの私 我が身の切なさを突き崩されて、弔う気持ちさえ忘れていた 流し疲れた後にはただ、穏やかに微笑む鏡の向こうの他人 恋すること、愛すること それが愛しい人であろうと、愛しいものであろうと、愛しい人生であろうと 永遠と一瞬を区別するのは人間の業ではない そう、呪文のように、呪文のように語り尽くすこと 一番愛しい私に、一番憎い私に。 齢、五十五にして、私の心にある雲は あの素晴らしい日々に見た一度限りの無限 忘れもしない、あの永遠の歓喜の転生としての雲 かくして饒舌、そして饒舌。 (批評について・雑感 ※ )

2018-08-31

修子さん、いらっしゃい、おまちしてました~ pcの不調とともに本体も変調を来していましたが、早くも復活いたしました。 体制が固まるまで、日程を含め流動的に進めたいと思います。 8月作品の合評から、月2のペース(9月5日・水 9月19日・水)で行なうこととし、 9月になり次第告知をしますので、みなさまふるってご参加くださいませ。 (【弓庭夜話】第一回のおさそい)

2018-08-31

二条千河さん、 レスが遅れ申し訳ありません。 うれしいです! やはりdvdをお勧めしたいです。 図書館でも借りられるかと思いますが、お買いになってもご損はないかとw オイディプスを歌った歌手(フィリップ・ラングウエッジ)の陰鬱な声と表情に、個人的に非常に惹かれました。 途中赤子になって泥濘をさまようのは、歌手に代わりダンサーの田中泯です。 好きな俳優ですが、悲劇の性質上、主人公に深く感情移入したからには、最後まで同じ歌手に演じてほしかったーとおもいましたが、 二条さんはどう感じられるでしょうか? で、もし図書館でお借りになるようでしたら、蜷川幸雄の「王女メディア」も是非ご一緒に。 演出、主演の平幹二朗、音楽、美術、ギリシャのアティコス劇場すべてが圧巻でした。 長時間を一瞬も飽きさせないうえ、見終わってしばらく人間の根源的悲劇が日常に後を引くようなできばえです。 以上押しつけ満載で失礼いたしました~ まりもさん、 レスが遅れすみません。実はこれはもっと長く書いたものを殆ど要点のみにして、 ギリシア悲劇(物語)は詩?と言う問いを投げかけたつもりでしたが、 作品として投稿するときに、邪心があると書きすぎてしまったり、今回のように骨と皮ばかりになってしまいますね。 好きだといいながら、その好きがほとばしってないのでは・・。 舞台を見た感動をもういちど心ゆくまで書きたい、とおもいつつありますが、 日々うぶ声をあげているみずみずしい現代詩の場に、そんなことをやっててもなあ、とおもったり・・。 (ソポクレス『オイディプス王』 ※)

2018-08-31

花緒さん、コメントありがとうございます。時事ネタと気づかないほど呑気なところがあって、登場人物?が皆嘘つきというのが、優しい印象で残っています。 pcが不調で修理に出します。夜話は当面三浦さんに引き継いでいただくようお願いしました。ご参加のみなさま、よろしくお願いいたします。 (【弓庭夜話】第一回のおさそい)

2018-08-17

コメントありがとうございます! 蜷川幸雄演出は、原作に忠実で長大でしたね。クライマックスの妻の自害が使者の口上で伝えられるだけなのが、原作どおりとは言え、演劇としてもったいないような気がしていました。ストラヴィンスキー作品はその部分を余すところなく描いていました。 アマゾンにありましたので、ご参考までに。→https://www.amazon.co.jp/%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC-%E3%82%AA%E3%83%A9%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%AA-%E3%82%A8%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%97%E3%82%B9%E7%8E%8B-%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%88%E3%82%A6%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%8D%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%B1%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9-%E5%B0%8F%E6%BE%A4%E5%BE%81%E7%88%BE/dp/B0029PY3MK 蜷川幸雄のギリシア悲劇では、「メディア」が演出も俳優も舞台(アテネ)も音楽も圧倒的だったと思いました。 オイディプスについては、短時間に凝縮したストラヴィンスキー作品の方に私的には軍配を挙げています。 (ソポクレス『オイディプス王』 ※)

2018-08-16

みうらくんのきもち 次は難しいぞw fiorina 次は、花緒さん 語り口が最高 みうらくんのきもち 語り口、、そこですか(笑) 杜 琴乃 さすが花緒さん。構成力がすごい fiorina 読ませるにはね、まず みうらくんのきもち つまるところ花緒さんは合理的ストーリテラーだと思う。 fiorina 合理的 みうらくんのきもち 作者本人曰く、思想は要らないと常日頃から云われております。 杜 琴乃 なるほど...? 桐ヶ谷忍 冷静に統制されてますよねー みうらくんのきもち 思想は本作品にも無いと私は断言しますね。。 帆場蔵人 秀逸なショートショートを読んでいる気分でした。ウマイ 杜 琴乃 それです! fiorina 思想はあると思うけど、広い意味で 打ち込んでいる間に断言されちゃったw (pcがおもくてね・・・) 杜 琴乃 思想、気になります。 みうらくんのきもち ショートショート。なりほど。私の深読みなんですけどね、彼は「詩の思想性」に嫌悪感があって。たしかにショートショートの冷たそうなストーリーに一瞬思うんですけど、読者としては、「これ、なんか隠してるでしょ?云いたいことあるでしょ?」と思わせるように誘導してるところがあると思うんですよね。それって思想性に対するシニカルさだと思うのです彼の。 杜 琴乃 思想性 桐ヶ谷忍 花緒さんといえばループ詩で、この詩もループ構成ですね みうらくんのきもち 出た(笑)ループ詩。 帆場蔵人 そのように呼んでるんだ 笑 杜 琴乃 どんどん引きずり込まれていく感じ。思考が追いつきそうで追いつかないまま。 みうらくんのきもち 構成としてのループ詩こそ、まさに思想性の否定。異化作用という思想の伝達ではない、言葉の持つ機能の追究ですね。 fiorina よみやすかったですね 三浦さんの言葉、難しい。わたしがばかなのか? 桐ヶ谷忍 読みやすい割にループしているから、真剣に読まないとこんがらがるような感覚に陥りました みうらくんのきもち でも一つ疑念というか、シニカルという私の読み通りなんですが、タイトルの「どら猫セラピー」。これこそシニカルですよね。 fiorina 相当本人は楽しみながら書いたと思われる。それが伝わってきます 桐ヶ谷忍 散文詩は基本たのしいですね笑 みうらくんのきもち 同じ言葉を云い続けると言葉の意味性が喪失するらしいんです。それを異化作用と。花緒氏本人から教わりました(笑) 桐ヶ谷忍 あ、ずるい 杜 琴乃 なんか分かりそうな気がした瞬間に置いてかれるから、追いかけたくなる作品です。 fiorina 現代人の強迫観念と優しさ、 みうらくんのきもち 琴乃さん!それはまさに異化作用から逃れたいという人間の本能的な現れですよ! 杜 琴乃 おぉ!? 帆場蔵人 既存の言葉の意味の破壊や喪失は詩のひとつの目標だと何かで読みましたね。 みうらくんのきもち 人間は意味を求める動物ということですよね。 fiorina 隣で娘の死を放置したところから、友人が病気になっちゃう みうらくんのきもち 帆場さん深いですね。言葉の意味の喪失こそ詩の原点回帰かもしれない。 桐ヶ谷忍 意味を与えるんじゃないんですかー斬新だなあ fiorina 閑話休題~わたし司会進行放棄してますが、大丈夫ですね。じゆうに! みうらくんのきもち あ、私も一服します(笑) 帆場蔵人 ようやくPCが起動しましたw 杜 琴乃 皆さんPCなんですね! 桐ヶ谷忍 私スマホー みうらくんのきもち 私PCです! 帆場蔵人 ちなみにぼくはこのどら猫、という言葉を見るとじゃりん子チエって 杜 琴乃 私もスマホです! 帆場蔵人 しまった、途中になっちゃったよ みうらくんのきもち 作者はですね、こういった作品には必ず時事ネタをぶっこんでますよ。これは私の主観です。 杜 琴乃 どら猫セラピー...。どら猫。 帆場蔵人 時事ネタですか・・・ 桐ヶ谷忍 時事ネタ…引きこもりが増えたとか? みうらくんのきもち ネット詩の今の一つのトピックとしてある「セラピー」これを盛ってますね。絶対w 桐ヶ谷忍 セラピーかあ fiorina 三浦さん、手の内を知ってる感で読んだと言うこと? みうらくんのきもち wwwwいやいや 桐ヶ谷忍 ところでこのどら猫セラピーって、詩?散文詩?ショートショート? わかりません 帆場蔵人 カウンセリングを受ける現代人増えましたからね。セラピーって言葉も飽和してて菜園セラピーとか音楽セラピーとか、聞きますよね。 みうらくんのきもち ばかばかしい話として言葉を話す猫を持ってきてますが、話者はばかばかしいと云いながらも何か優しさがある。 fiorina 「ヒモのような身体のどら猫」はひものようになって死んだ隣の娘の生まれ変わり? みうらくんのきもち これは散文詩でしょうね。 帆場蔵人 種別としては散文詩かと、境界がぼくには難しいのですが。 桐ヶ谷忍 散文詩ってなんでしょうね ウィキ見たけど定義が分からなくて… みうらくんのきもち 生まれ変わりのところがどこに書いてあるか探せないぐらいに面倒な作品ですね(笑) fiorina ww 帆場蔵人 誰でしたっけ? みうらくんのきもち 詩情が盛られた散文。という定義ですね。 杜 琴乃 「小さな立場を守るために、自分にも、他人にも、嘘をつかずにはいられないのが人間というものではないか。」ここから最後までがすごく好きです。 帆場蔵人 詩は舞踏、散文詩は歩行っていったのは? 桐ヶ谷忍 ぶっちゃけ、この散文に詩情が見いだせない… みうらくんのきもち 詩情があるかないか、この作品に限らず花緒作品の命題ですね。 私は有るとみてます。 桐ヶ谷忍 皆さんは見いだせてますか? 帆場蔵人 花緒さんは敢えて詩情をこの作品から省いたか隠したのかと思いました 桐ヶ谷忍 え、三浦さんはどこに見いだしているんですか? fiorina 優しさ、って詩情と思うんだけど・・・ 桐ヶ谷忍 優しさ! fiorina いちばんの詩情と思ったりする 桐ヶ谷忍 優しさかぁなるほど… 杜 琴乃 なるほど... 帆場蔵人 寄り添う優しさですね みうらくんのきもち 本作は詩情の有無の判定が際どい。みえにくい。しかし、花緒氏はこれを一人称の語りとして文体に詩情を持ってこられたと、そう読んでおります。 桐ヶ谷忍 具体的には…三浦さん笑 みうらくんのきもち 具体的には。。。。。。優しさ(笑) 桐ヶ谷忍 あはは笑 fiorina どんな作品読んでも、根っこの根っこのところからそれがにじむっていうかないと、 こら 帆場蔵人 友人の内的世界に最後に取り込まれたような印象がぬぐえないので、その優しさですらギミックに見えてしまうので、ショートショートに見えてしまう。でも、優しさはあるかな 桐ヶ谷忍 逆にフィオさんのエッセイには詩情を感じるのですが…むつかし! 帆場蔵人 最後の嘘を指摘して、 みうらくんのきもち ギミックが優しさにみえてしまうんですよね。 杜 琴乃 やさしい嘘 fiorina 隣のひものようになって死んだ娘が恩返し みうらくんのきもち それ!優しい嘘! 帆場蔵人 のあたりは優しさを求めているユーモラスさがありますね。 fiorina そろそろ、 みうらくんのきもち はい。fiorinaどうぞ sann fiorina 足りないところ、ないですか? 桐ヶ谷忍 納得しました。読み返してみます。 みうらくんのきもち ドラマ「女王の教室」にも似た花緒さんの掲示板における実務は、高度なやさしさでした。以上! fiorina いま、よめてなかったはんせいはけいじばんにどうぞ 杜 琴乃 はい! 帆場蔵人 了解です (【弓庭夜話】第一回のおさそい)

2018-08-16

fiorina 最初は、百均さんの「祖母包茎」 40分くらい時間を取ります 三浦さん、絶賛していましたが、感想は書いてませんね。 みうらくんのきもち 今、見直しました。書いてなかったっ! fiorina では、おもいのたけをどうぞっ みうらくんのきもち はい。 fiorina 他の方も思いついた時点で、何でもどうぞ チャットのわいわい感、大事にw 杜 琴乃 三浦さんはコメントで「やばい、負けた!」としか言ってないですよね!気になります。 fiorina あのとき私も戦慄する思いで読んだ直後だったので、三浦さんのかきこみが!!でした 何度読んでもいいです・・ みうらくんのきもち 一言で。作者と話者が同一であるか否かは読む者と作者が親しい間柄でなければ、意味を為さないと思うのですが、百均さんを身近に知っている私からすれば、どうしても作者と話者が重なってしまう。百均さんはネット詩の経験が長い。きっと作品を書く際に、親しい読者からの反応を念頭に置いた客観的視点が必ずあると思う。その客観視と作者御自身の内なる創作意欲、あるいは実存として書くべき百均さん個人の現実。その実存と物語の境目が「包茎」と「祖母」という形をして優れて表された作品ではないでしょうか。 fiorina 「包茎」は何を意味していますか? 大人になりきれていない、ということ? みうらくんのきもち それこそ、まさに百均さん御自身が抱えるものとしてみてしまう下品な読みに流されてしまう。果たして包茎は何のメタファーなのか、私が自己投影として読めば、それは「若さ」と読めてしまいますね。 桐ヶ谷忍 祖母が息苦しく精神的に覆い被さっていて、そんな自分を恥ずかしく思っている、とかぼんやり思いましたねえ… fiorina 読み手によって、自分の子ども時代が投影されますね みうらくんのきもち 祖母が話者にとっての「理想としての完成された人間」、それに対する包茎とは「不完全な自身」となるかなあ。 fiorina 子ども時代は、いちばん大変な時代だったと私も思うんですが、 自分の状況がやがて自分で切り開いていけるという、想像が出来ないんですよね。 では、一連から見ていきましょうか 杜 琴乃 母ではなく、祖母。私が祖母にあまり叱られたことがないからか、甘すぎる、優しすぎるところに息苦しさみたいなものを感じるのかも。 fiorina 祖母との距離感は、ひとによってとても違うでしょうね みうらくんのきもち ああ、なるほど。母ではないというところはとても面白い観点。 桐ヶ谷忍 祖母って命に執着する、いわば生き汚い人間に見えるんですよね そんな人に覆い被さられて、でも自分にははねのけることが出来ない恥なのかなと…琴乃さんの読みもおもしろいですね みうらくんのきもち しかし、想像していたよりもチャットでの批評会って面白い(笑) 桐ヶ谷忍 見学のつもりだったのに、つい…笑 fiorina そうそ。はまるんですよね。思ってみなかった視点が出てくるし みうらくんのきもち なるほど。「恥」というのは本作の重要なメタファーに思えてきた。 fiorina でも、もう一度僕を包み込んでおくれ、といってますね 杜 琴乃 自分にとっての祖母を、想像してしまうのですが、年に一、二度しか会わない祖母は特殊な存在ですね。それでいて、死に最も近い人。 桐ヶ谷忍 あーいってた!じゃあ違うなあ みうらくんのきもち たしかに、結語についてみなさんの御意見を多いに訊きたい。 杜 琴乃 私はこの詩、すごく温かくて切なく感じるのですが...皆さん結構違いますね! fiorina わたしもそうですね みうらくんのきもち ああ、わかる。私は7:3ぐらいで切なさが大きいですね。 桐ヶ谷忍 私にはいじけた子供の吐露にしか見えなかった笑 みうらくんのきもち 忍さんのそれは俺も一読目に感じた(笑) 桐ヶ谷忍 ふふ fiorina 子どもの時のむせるようなおばあちゃんとの関係が、大人になりつつある僕に、少し遠くなって、 杜 琴乃 1回いじけてると思います。でも、この祖母のこと、おばあちゃんがやっぱり好きというのが、あるように思えました。 みうらくんのきもち そのね、いじけた吐露がなぜだか妙に優れた切なさに昇華されてるんですよね。なぜだろうな。 一回いじけてるのか。それは間違いのか。 桐ヶ谷忍 そうですね、好きじゃなきゃ最終行は納得できませんね みうらくんのきもち いやあ、忍さん、最終行はね、俺にはナルシズムにもみえるの!俺的にはナルシズム好きだから(笑)良いと思える。 帆場蔵人 ようやく追いつきました。皆さん、失礼します。 祖母への好意的な気持ちは反面息苦しさもかんじている。切なさはありますね。 少しいじけて甘えているような感覚があります。 桐ヶ谷忍 ナルシズムかぁ…それは新たな視点 fiorina それが包茎なのか みうらくんのきもち 帆場さんこんばんは! 桐ヶ谷忍 こんばんは~ 帆場蔵人 こんばんは〜 fiorina こんばんは~ ようこそ! 杜 琴乃 最終的にプライドを捨てて、甘えまくりたいんだ!!みたいなものを感じました。 こんばんは! みうらくんのきもち 琴乃さんのそれ!わかる。 桐ヶ谷忍 ナルシスティックな甘ったれ? 杜 琴乃 思春期を抜けて、素直になる。 fiorina 傷の付け方、付けられ方を教えてもらえてなくて、変な風に傷ついてるんですかね、このとき 死にたいほど みうらくんのきもち これはね、同性の私からすると、ナルシスな甘い感覚がね、めっちゃ心にくるんですよね。最近の人気を得るロックバンドはほとんど、この感性がある。 fiorina そんなときって、自然に死んでいけそうなひとがうらやましいとさえ みうらくんのきもち では、死生観ですかね。この作品についての次のトピック。 話者の死生観は死にたみ(死にたいんだけど死ねないという概念の新語だとおもっております)だと思います。 杜 琴乃 大きな世界=現実を突きつけられて、安心する生簀に戻りたい、でも生簀にはもう死が間近な人間しかいないんですね。 切ない。 みうらくんのきもち 琴乃さんのそれ!胎内回帰や!たしかに本作にある。それは。 fiorina 「「お前の体が欲しい お前になりたい わたしがお前であったら やりたい事があるのに」と 首をしめられてもおかしくない筈の 力強さで ふゆのひ」といったおばあちゃんがかつていて、 みうらくんのきもち でもなぜ祖母なのか。。。 fiorina 今死にたい僕がいる、 杜 琴乃 母は現実かな。 夏休みに行く祖母の家は特別だった。私にとっては。 みうらくんのきもち ああ、なるほど。願望としての祖母と現実の母か。 fiorina 生と死が交錯する→祖母と孫 杜 琴乃 そうですね。 帆場蔵人 なるほど!母は現実。賛成です。願望を投影できる存在? 杜 琴乃 ひたすら甘いんですよ。孫には。 みうらくんのきもち fiorinaさんのその系統はよく言い表していますね。 杜 琴乃 なんでも買ってくれるし、怒らないし、手の込んだ料理とか。 みうらくんのきもち 願望の投影の中に死もあるんでしょうね。そう読める。 fiorina あと五分ですので、言い残したこと。どこがいちばん好きでしたか?作者についても 桐ヶ谷忍 甘い祖母というものが居なかったので、想像するしかない… 杜 琴乃 なるほど!自然に死に一番近い人...。 帆場蔵人 確かに孫も甘いんだけど。 祖母と孫はこれだけみると依存しあってみえますね。 みうらくんのきもち fiorinaさん、はい。私はやはり、結語のナルシスな甘ったれ押しです! fiorina ww 杜 琴乃 とても可愛い孫ですね。おばあちゃんっ子かな。しかも男の子だから尚更。 桐ヶ谷忍 祖母の手の血管を、コバルトで編まれた~とか表現がすごい作品ですね 杜 琴乃 皮膚の質感が伝わってきました! 桐ヶ谷忍 うんうん 帆場蔵人 それはわかります。祖母が浮かびました 杜 琴乃 おばあちゃんの手の独特の柔らかさ。肉のない、柔らかい皮膚。 桐ヶ谷忍 それにしても最初「祖母包茎」なんてタイトル見たときはギョッとしました笑 fiorina おばあちゃんも強くて優しいですね。短い中によく描かれてる。 みうらくんのきもち このタイトルは釣りとして最強ですね。逆にいうと、だから作者と話者がダブルんですよねw 桐ヶ谷忍 ダブりますね笑 fiorina 漠然とした憧憬も感じます、タイトル 杜 琴乃 スラッシュは無くて良いと思いました。及び、または、というより、祖母包茎、ひと息で。 みうらくんのきもち そう!ひと息で付けてるんですよね! fiorina それにしても、こめんともそうですが、 百均さんは繊細でうつくしいですねー みうらくんのきもち 百均さんには是非復帰して欲しいです。。 帆場蔵人 惑星メメシスも繊細じゃないと描けないセンスがありましたね。 fiorina 話せたかなー、皆さん、後で付け加えたいことがあったら、掲示板にどんどん書き込んでね みうらくんのきもち はい。では次へ進行どうぞ。 杜 琴乃 はい! fiorina では、名残おしながら、 杜 琴乃 あっという間だった… (【弓庭夜話】第一回のおさそい)

2018-08-16

fiorina では、三浦さんごすいせんの中田みつほさんさく品です みうらくんのきもち 花緒さんの作品の次にくる作品に運命を感じます 桐ヶ谷忍 中田さんのはほんとに見学に徹します みうらくんのきもち 鈴木清順が死んだあとに 中田満帆 映画音楽というものはおそらく 残り香に過ぎない フィルムにしたっていつかは滅びて 棄てられる 多くのひとの夢は わたし自身の夢と拮抗し、 またちがった現実と入れ替わって、 まざりあうだろう だからなにも悔やむ必要はないんだよ いっときの愉楽のためにこの世界に映画はあるんだから わるいやつらはみな殺しすればいい 車には火を放てばいい かわいい女の子たちには悪女としての余生を与えてしまえばいい だれだってほんとうはいいひとにはあきあきなんだから 清順が死んだあとになって わたしは働いてる酒場で 「殺しの烙印」の音楽をかけた もしかすれば「くたばれ悪党ども」のほうが よかったかも知れない わたしだって できることなら 星ナオミと 踊りたいのだから 映画には見せ場が必要だ 小津は退屈だったし 熊井は社会派という迷妄に終わった 中平は黒い馬であったし ヌーベル・バーグを蔵原がプログラム・ピクチャアに灼いた それでも清順は「映画なんか娯楽だ、滅びてなくなってしまえばいい」とつぶやき、 倒れた壁のむこうにある、 純白のホリゾントは血の色になって、 なにもかもが伝説として 嘲笑されるのである 清順師、 あなたにいえることはなにもありません ただ天国などというものはさっさと爆破してしまうことです 調布の撮影所よりもたちのわるい代物を売れ残った復讐天使たちとともに さようなら fiorina ちょっとでふらぐしてますので、みうらさんしんこう、おねがい みうらくんのきもち 続いて、私のコメントを貼ります。 みうらくんのきもち 戦争の前後を生きた世代の人は、「芸術」などという言葉が持つ、システム側から与えられた仰々しさには、怒髪天されるというか、その怒りを思うと、僕は、「戦争反対」という言葉を偽善的な響きでないリアルさで感じることが出来る。それは、手塚治虫さんの作品にも感じる。手塚治虫さんは「ヒューマニズム」という言葉を云われるたびに激怒したらしい。 前投稿作で、中田満帆氏の作品とは「弱い男をスタイリッシュにした魅力」と紹介させていただいたけれども、世間の欺瞞的なものへの怒り、それも魅力の一つだ。亡くなられた鈴木清順監督へもそうだけれども、中田さんが古き良き時代のリスペクターであることは有名な話。ではなぜ、中田さんは、その時代に魅了されるのか。 欺瞞を暴くカルチャーが、古き良き時代にあるからではなく、今、現在形で進行する欺瞞・欺瞞・欺瞞だらけの世間やら、芸術やら、もっと云えばこの掲示板にさえ、中田さんがうんざりするからなのだと思う。というか、こんなことを書いている私が「お前が欺瞞だらけなんだよ!」と中田さんに怒られそうだ。 みうらくんのきもち では、皆さん、感想など、どうぞ。なかったりして(笑) 杜 琴乃 欺瞞 騙すこと、欺くこと。 (読めなかった...。忘れそうなのでメモ) fiorina 私的には、彼の詩はもっと好きなのがたくさんあります。 みうらくんのきもち 私もじつは、この投稿作品以外に詩集などに好きな作品がありますね。 帆場蔵人 だれだってほんとうはいいひとにはあきあきなんだから    この部分が好きです。まさに欺瞞 fiorina でも、三浦さんがおした気もちはわかる気が みうらくんのきもち ただ、リスペクトする、清順に捧げる詩に、中田作品の本質が一番よく表れているとも思うのです。 みうらくんのきもち 文体としては、中田氏がリスペクトするブコウスキーがあったりします。その技法は見事ですね。 fiorina うーーん みうらくんのきもち 現代詩としては、古いと批判もあります。しかし、現代詩が往々にして陥ること、それを感じるのも魅力ですね。 fiorina たとえば本当の目的を見いだせない時期の甘えに写る 前人性、という気がする 気がついたときには、死が迫ってる 反抗的人生 みうらくんのきもち ブコウスキーもそうですが、清順御自身も最期まで社会性という意味では外れた生涯でもあり、その人間社会との距離感、これは大いに好みと美学によって違いがあると思いますね。 fiorina 格好つけてるようにしか・・・きらめきのある季節ではある みうらくんのきもち そうなんですよ。このかっこうつけが魅力なんですよ(笑) fiorina 映画はたぶんいいと思うけど、そこに酔っていくときの、依っていくときのというか 帆場蔵人 清順の映画はツゴイネルワイゼンなど映像としては印象的でしたね。 fiorina 映画はそこを描くけど、 みうらくんのきもち その娯楽としての映画が傾斜している文化であるというのも大事な観点ですね。 fiorina 作者の心情と重なりすぎるところが、? みうらくんのきもち まさに欺瞞に生きるならば敗北と死を選ぶ美学の投影でしょうね。 fiorina 傾斜→斜陽化? みうらくんのきもち 斜陽です(笑) fiorina 欺瞞と声を大にして言えるのが若さ? みうらくんのきもち その不器用さが一番表現されている作品だと思います。この作品は。燃やしてしまえばいい、死んでしまえばいいという言葉が持つその切なさみたいなもの。 fiorina 私もbれびさったけいいはあまり知らないんですが、とんでもない書き込みはいくつか覚えてます。 みうらくんのきもち んん、そうですね。私のコメントもいけない時がりまして、私は人のこと云えないという(笑) 帆場蔵人 経緯は知らないのですが、いま、他の二作品を読みました。優れた技巧や感性をかんじました。 みうらくんのきもち 私が知る限りでは彼が何故、世に出ないのかと不思議に思っている人を多数知ってます。ちなみに彼は寺山修司の孫弟子です。 fiorina 現ふぉで読めるかも。作品 みうらくんのきもち なんか宣伝になってしまいすみません!w 杜 琴乃 そんなことが...。 「いっときの愉楽のためにこの世界に映画はあるんだから わるいやつらはみな殺しすればいい...」 は想像力とか、空想を楽しむことの欠如を指摘しているのかな。 fiorina いいえ、、私も大好きです。 みうらくんのきもち 空想のなかでの残酷さを敢えて表の現実下で吐いている言葉みたいにリアルさがありますよね。 fiorina 生きづらさの投影 杜 琴乃 映画にはきれいごとはいらない、ということ? みうらくんのきもち なんか今夜、思いました。読者の立場からすれば、作者・作品への愛着の熱量こそ批評だと思いました。 帆場蔵人 映画にも綺麗ごとはいるんだけど、馬鹿馬鹿しいぐらいに逸脱した行為を、法だ、倫理観が、どうだと縛るのはナンセンスだ、ぐらいでしょうか 杜 琴乃 なるほど! fiorina 生きづらさには詩がありますよね。貧しさとか病とか、自分ののどうにもならなさとか みうらくんのきもち 生きづらさの逃避として映画があることは事実かもしれません。良し悪しは別として。 杜 琴乃 うんうん およそ詩人と呼ばれる人はそんなイメージですね。 帆場蔵人 生き辛さ、諦め、、何よりどうにもならない絶望がないと詩は生まれないんじゃなかろうかと思います みうらくんのきもち 是非、次回はみなさんのイチ押しが知りたいです!熱い思いがききたい。 fiorina そろそろですか 全体として第一回の感想お願いします 杜 琴乃 楽しかったです! みうらくんのきもち とても楽しかったとしかいいようがない(笑) 帆場蔵人 まだ現代詩に慣れていない?ので戸惑っていますが、新鮮な経験をしてるなぁ、と。 要は面白かった!です みうらくんのきもち 新鮮でしたね! 桐ヶ谷忍 見学といいつつ、すみませんでした。何かいいたくなるほど楽しくて、つい (【弓庭夜話】第一回のおさそい)

2018-08-16

【作品1】21:00~ 祖母包茎 百均@B-REVIEW ON/ 作成日時 2018-01-31 コメント日時 2018-03-04 死に近づいた人間の、病院食の匂いが、たまらなく嫌いなのに、嗅いでいると、心が落ち着くのは、僕がもう死にたいと思っているからだと、祖母に言ってしまう 「ちがうのよ あなたはまだ子どもだから 全てを 死になぞらえて考えてしまうのよ」と口笛をふくように 伝えてくれる、その言葉の重たさ。 優しくて、重い、コバルトみたいな血管で編み込まれた、あの皮膚色で、やさしく包み込んでくれる、 僕の、死んだ、魚のような目では、決して分からない (((瞳の奥に見える人間の鱗、そこについている傷は人の記憶をつかさどる、祖母は傷の付け方、付けられ方を教えてくれない、父に似ている祖母もまた、教えてくれない、お前には早すぎると言う))) 「お前の体が欲しい お前になりたい わたしがお前であったら やりたい事があるのに」と 首をしめられてもおかしくない筈の 力強さで ふゆのひ みみもとで抱きしめられた、 こたつのなか あの生け簀の中で あの時の強さで もう一度僕を、包みこんでおくれ 【作品2】21:40~ どら猫セラピー 花緒 元メンバー 作成日時 2018-07-04 コメント日時 7 時間前  わたしの友人が言うには、ヒモのような身体のどら猫がいつの間にか家に上がりこんでは、お父さんが病気だから魚を貰っていくでん!などと言いつつ、食べ物を勝手にくすねていくのだという。友人は10年近くもの間、家に引きこもって、外出することもままならなくなっていたから、どら猫だろうがなんだろうが、訪ねてくれる存在がいること自体が嬉しく、どら猫のするがままに任せていたそうだ。とはいえ、親に見捨てられた子供を励ますために、お菓子を貰っていくでん!だとか、洞窟に閉じ込められた人間を助けるために、みかんを持っていくでん!だとか、嘘八百を並べ立てているとしか思えない言い訳めいた口上が気に障ってもいたらしい。  家に引きこもり、誰とも交わることのできなくなった僕にとって、君の存在は本当にかけがえがない。ここにあるものは全部、幾らでも好きに持っていってくれたらいい。だから、君はもう僕に見え透いた嘘をつく必要なんてないんだよと、ある日友人はどら猫に優しく話しかけたそうなのだが、おいらにはおいらの立場があるでん!親に迷惑をかけるしか能がないどら息子のくせして、おいらに上から目線で説教を垂れていやがるでん!と、どら猫は膨れっ面で家を出ていき、次の日から姿を見せなくなってしまったというのだ。  町内会では、どら猫のことが話題になっていて、どら猫をひっ捕まえて、保健所に引き渡してやろうかという話も持ち上がっていたという。友人は、どら猫を殺して何になる!と激昂し、どら猫の捕獲に反対したそうだが、常識人揃いの町内会で、引きこもりの意見が通るとも思えない。近隣の住人たちが、どら猫を捕まえて殺したりしないか心配で夜も眠られず、遂には神経衰弱のような状態になってしまったらしい。  言うのも馬鹿馬鹿しい話だが、人間の言葉を話すどら猫がこの世に存在しているはずはない。それに、部屋から一歩も出られない友人が町内会の寄り合いに参加していること自体、辻褄が合わない。長期にわたる引きこもり生活のせいで、おそらく友人は強迫的な妄想に取り憑かれてしまったのだろう。友人の神経衰弱はもはや入院して専門的な治療を受けるしかない程に酷い段階に突入してしまっているのだろうが、それを指摘して精神病院送りにしたところで、何になるだろうとは思った。  それなら、どら猫を守るために、町内をパトロールしてみてはどうだろうか、とわたしは提案してみた。わたしの意見に賛同した友人は、10年ぶりに家を出て、近所を散歩するようになった。続けて、わたしは、出前を運ぶアルバイトをやってみてはどうかと提案してみた。出前の仕事であれば、否応なく町内を歩き回ることになるし、注文をした家に上り込むこともできる。万一、どら猫がひっ捕まって酷い目に遭わされていたら、助け出す機会も得られるかもしれない。  友人は複数の出前を掛け持ちし、一日中駆けずり回った。毎日10時間以上、町内を歩き回り、次第に健康体になっていった。ある日、友人はわたしの家にやって来て、もうどら猫のことは考えなくて済むようになったよ、と語った。毎日10時間以上歩き回る生活を数ヶ月続けたが、一度たりともどら猫を見かけなかった。ようやく、僕はどら猫なんてこの世に存在していないってことに気づいたんだ。君が僕の妄想に寄り添ってくれたから、気づきが得られたんだと思う。君には本当に感謝しているよ。  10年前、僕の家の隣で、娘が嘘ばかりつくことに不安を覚えた父親が神経衰弱を患い、娘がこの世の生き物でなくなったという妄想に取り憑かれた。父親は、年端もいかない子供を押入れに閉じ込めて、食事を一切取らせなかった。娘は飢えてヒモのような体になるまで瘦せ細り、白骨となって発見された。隣人の様子がおかしいと薄々感づいていたのに、手を差し伸べなかった自分が嫌になり、罪悪感に苛まれた。当時、ローカルテレビは、事件の報道で持ちきりで、ワイドショーやニュース番組を食い入るように見続けたが、識者やコメンテーターと呼ばれる人たちは、役所や学校は何をしていたのかと公的機関を批判するばかりで、隣に住んでいる人間については言及することさえしなかった。隣人の妄想に何の介入もできなかっただけでなく、その結果、どれだけの不幸が起こっても批判さえされない現実に直面し、人と交わる気力が消え失せた。でも君のおかげで、僕はようやく外に出るきっかけを掴んだんだよ。  毎日、友人は、出前の仕事が終わると、わたしの家に食べ物を届けてくれる。やれ、焼き魚定食が余ったから食べて欲しいだの、デザートをもらったけど僕は甘党じゃないから持ってきただの、なんだかんだと理由をつけては食べ物を持って来てくれる。出前のアルバイトをしているからといって、毎日、食べ物を得られるものなのかどうか、わたしは奇異に感じている。どこかで食べ物をくすねているのじゃないかとわたしは疑っているのだけれど、指摘して友人が現れなくなってしまうのが嫌で、未だ何も言い出せないでいる。  こういう話をすると、決まって、この話には矛盾があると騒ぎ立てる人がいる。部屋に引きこもっているだけの人間とどうやってコミュニケーションを取ったのか辻褄が合わないと怒り出す人さえいるが、正直、わたしにはどうでもいいことだとしか思えない。小さな立場を守るために、自分にも、他人にも、嘘をつかずにはいられないのが人間というものではないか。確かにわたしは嘘八百を書き散らかしているだけだが、それを指摘して何になるというのだろう。嘘を指摘して、わたしの立場を奪うなら、もはやわたしはここから消え失せるしかなくなるではないか。 【作品3】22:20~ 三浦さんよりの推薦作品です。 (【弓庭夜話】第一回のおさそい)

2018-08-15

【《あなたがネットで読んだ最高の詩を教えてください。》第一回~三浦果実さんに聞く】 鈴木清順が死んだあとに 中田満帆 映画音楽というものはおそらく 残り香に過ぎない フィルムにしたっていつかは滅びて 棄てられる 多くのひとの夢は わたし自身の夢と拮抗し、 またちがった現実と入れ替わって、 まざりあうだろう だからなにも悔やむ必要はないんだよ いっときの愉楽のためにこの世界に映画はあるんだから わるいやつらはみな殺しすればいい 車には火を放てばいい かわいい女の子たちには悪女としての余生を与えてしまえばいい だれだってほんとうはいいひとにはあきあきなんだから 清順が死んだあとになって わたしは働いてる酒場で 「殺しの烙印」の音楽をかけた もしかすれば「くたばれ悪党ども」のほうが よかったかも知れない わたしだって できることなら 星ナオミと 踊りたいのだから 映画には見せ場が必要だ 小津は退屈だったし 熊井は社会派という迷妄に終わった 中平は黒い馬であったし ヌーベル・バーグを蔵原がプログラム・ピクチャアに灼いた それでも清順は「映画なんか娯楽だ、滅びてなくなってしまえばいい」とつぶやき、 倒れた壁のむこうにある、 純白のホリゾントは血の色になって、 なにもかもが伝説として 嘲笑されるのである 清順師、 あなたにいえることはなにもありません ただ天国などというものはさっさと爆破してしまうことです 調布の撮影所よりもたちのわるい代物を売れ残った復讐天使たちとともに さようなら +++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ 以下作品への当時の三浦のコメント評です。 戦争の前後を生きた世代の人は、「芸術」などという言葉が持つ、システム側から与えられた仰々しさには、怒髪天されるというか、その怒りを思うと、僕は、「戦争反対」という言葉を偽善的な響きでないリアルさで感じることが出来る。それは、手塚治虫さんの作品にも感じる。手塚治虫さんは「ヒューマニズム」という言葉を云われるたびに激怒したらしい。 前投稿作で、中田満帆氏の作品とは「弱い男をスタイリッシュにした魅力」と紹介させていただいたけれども、世間の欺瞞的なものへの怒り、それも魅力の一つだ。亡くなられた鈴木清順監督へもそうだけれども、中田さんが古き良き時代のリスペクターであることは有名な話。ではなぜ、中田さんは、その時代に魅了されるのか。 欺瞞を暴くカルチャーが、古き良き時代にあるからではなく、今、現在形で進行する欺瞞・欺瞞・欺瞞だらけの世間やら、芸術やら、もっと云えばこの掲示板にさえ、中田さんがうんざりするからなのだと思う。というか、こんなことを書いている私が「お前が欺瞞だらけなんだよ!」と中田さんに怒られそうだ。 (【弓庭夜話】第一回のおさそい)

2018-08-15

みんなで詩を読みましょうの夜話が、いよいよ今夜となりました。 残念ながら皆さんからのご推薦がありませんので、 第一回のみ変則として以下をを今週の2作品としたいと思います。 ①百均さんの「祖母包茎」https://www.breview.org/keijiban/?id=1277 ②花緒さんの「どら猫セラピー」https://www.breview.org/keijiban/index.php?id=1971 三浦さん、「ネットで読んだ最高の詩」を、今日の18時までに本コメント欄に投稿してください。 お待ちしています~  (【弓庭夜話】第一回のおさそい)

2018-08-15

ありがとうございます。 >物語に詩が在ったとしても これで充分です。 仮に、 >詩は人為的なものではないと私は信じているのです。詩は降りてくる。詩は聴こえてくるもの。 >人はこれを文字言語として表す他にない としても、↑これらが物語の姿をしている場合があると言うことですね。 (くたばれビーレビュー)

2018-08-14

どの語ね。「日常的に見られた辻斬りや切腹」このぶんみゃくで・・w (ウォシュレット)

2018-08-14

どの後で一番笑ったかを、書いておきますね。→切腹 (ウォシュレット)

2018-08-14

三浦さん、コメントありがとうございます。 「わがまま」とは、裸の王様に裸だと言ってのけた子どものような心の自由という意味でもありますが、私に限って言えば、無知からくる偏食、と言う結果も招いています。長年ネット詩界隈に名をさらしてきたとはいえ、片足のその又小指を浸した程度の関わり方でしたので、若い方々の才能や、「好きだ」をゆるがせにせず向き合っているまりもさんのような存在に触れて、今慌てているわけです。「わがまま」を大切にすればこそ、強靱にしなければならないと思います。そのためには、三浦さんのたけみつ?を振り回す(失礼)ような戦い方のあとに、自然の欲求としてアカデミズムへの回帰と言いますか、系統的、網羅的な過去の業績に虚心に学びたくなるときがくるのでは、と想像しています。 (批評について・雑感 ※ )

2018-08-14

>詩は物語でもない。 三浦さん、この一点に絞って食い下がってみます。 このことばは最近散見するのですが、ポップな現代詩に面白みを見いだしつつある私にも、頷くところはあるのですが、一方で、物語の失われたこの世界を思うと暗澹とします。いにしえの詩人たちは、神々のみならず、人間のみならず、星々や草木にさえ壮大な物語を紡ぎ出し、それらの叙事詩はオペラや詩劇となって上演され、たったひとつしか歩めない人の道筋を無数の生を同時に生きているかのように彩ってきました。過去の詩人たちが担ってきたその役割を現代の詩人たちは放棄しろ、と言うことでしょうか。 (くたばれビーレビュー)

2018-08-14

この詩文の中で、と言うか、三浦さんの中で、ホメロスとかの叙事詩ってどういう位置づけになるか、教えてくださいまし。 (くたばれビーレビュー)

2018-08-14

一つ一つの作品やコメント、書いて読んでと言う単体の行為が、このようなうねりとして波打っていて、個人を押し流したり、引き戻したり。一見空しく思える活動が、そこに深く足を入れたものにしか味わえない歓びというかたちで、充分報われていることを思いました。本当に凄い筆力ユーモアのセンス! (ウォシュレット)

2018-08-13

◯□が安定した愛の形なら、三角は未来形かなあ。 因みになが~い二等辺三角の頂点に☆があるのが理想型とか? それをタイトルに持ってきつつも、何か取り残された感が、 にじみ出ています。 そのために書き急いだようにも、たくさん書いている詩の一つのようにも、読めました。 (△(サンカク))

2018-08-13

【チャットルーム決定】 皆さんが参加しやすいように、twitterのグループメールでのチャットとします。 ご参加予定の方は、twitterでfiroinaをフォローしてくださるようお願いします~ →https://twitter.com/bara20006 すぐにフォローバックさせていただきます。 (【弓庭夜話】第一回のおさそい)

2018-08-13

ざ、ざんねん!とおもったのですが、あさってですよ。15にちです! これからも毎週水曜日を予定していますので、途中から途中まででもおーけ。 ご参加お待ちしてます。ご推薦(自薦、他薦)もよろしくね。 (【弓庭夜話】第一回のおさそい)

2018-08-13

たとえば起きていって蛇口をさっさと閉めることもできるが、放置する。 軽いつみ意識が、自分を放置(見殺し)にしてきたような来し方への怨念と罪悪と重なって、 その自分を生きていくんだという「踊り」終連の「抱きしめて」に強い自省と生命力を感じました。 タイトルはそのものずばりですが、私は何故か「未明」としたいように思いました。 (不明)

2018-08-12

私もstereotypeさんとおなじく、男を父さんであろうとして、最初のコメントを書いたのですが、そうでない読みもできますね。仮に私以外のもう一人の子ども、あるいは私の夫としても読んでみました。父さんの部屋は、死の部屋なのに生きているものたちが、まるで自らピン止めされたがっているように、そこを訪れる、解放されたいのか、呪縛されたいのか、判然としないような濃密な時間が流れているように。 (標本に溺れ)

2018-08-12

死ぬときに思い出す詩があるとしたら、どんな詩だろう。やはり、このような懐かしさを持つ肯定性のある詩、がふっと思い出されるような気がしました。細部の記憶はなく「うりずん」と言う名前だけを思いだし、それだけで何か幸福感につつまれていくだろうと。 エッセイと詩、と言うことで私も少し考えてみました。 詩は行ごとに裏切られていくものとすると、「うりずん」と言うこの作品は、リズムに裏切りがないと言う点で、エッセイを読んでいるように感じました。でも、死ぬときの思い出しかたは詩かなあ、と。 (うりずん)

2018-08-12

「あの男」「その男」「この男」と言い換えられているのが、さまざまな形に標本にされた蝶のように、父さんをピンで刺して観察しているかのような気配として伝わってきます。その視線と父さんへの自然な感情がない混ざって、自分も含めた「誰もが等しくピンで止められ」身動きできないような時間、関係性が描かれています。「埃を払い父さんの部屋を掃き清める」この導入が、詩を重くさせず、終連全体が、とても好ましい。くり返し読むほどに情景がしっくりきて、感嘆! (標本に溺れ)

2018-08-12

お気を使わせちゃったかも知れませんね。こちらこそありがとうございます! (批評について・雑感 ※ )

2018-08-11

桐ヶ谷さん、ありがとうございます! 読んでるだけのご参加も、つい発言したくなってもokです。 以前の経験ですと、皆さんだんだんはまってくるようでした。 文字だけの白熱の仕方があるので、おもしろかったです。 おまちしてますねー! (【弓庭夜話】第一回のおさそい)

2018-08-09

わ、ありがとうございます! 文字チャットは、スポーツで汗を流す爽快さもありますね。 どんな展開になるか見当もつきませんが、楽しみです。 作品推薦の方も、よろしければ! (【弓庭夜話】第一回のおさそい)

2018-08-08

帆場蔵人 さん、ありがとうございます! 途中ご参加もちろん、ご都合のいい時間だけ、というのもokです。 おまちしています~ (【弓庭夜話】第一回のおさそい)

2018-08-08

うれしー!第一回、夜話成立しました。 最高の詩もよろしくね。 杜 琴乃様、ツイキャスで興味を抱いてくださってありがとうございます。 ご参加お待ちしています。他の方々も~! (【弓庭夜話】第一回のおさそい)

2018-08-08

三浦さんは、bれびのために彼らにとどまってほしかったのでしょうか? もともとコミュニティを必要としない詩が、コミュニティのとどまらないからといって 死ぬとは思えません。 三浦さんのこの文の文脈からいっても、詩はすべてをのみこんで闊歩していると想像しています。 (くたばれビーレビュー)

2018-08-06

まりもさんへ >御馳走を頂いた後の、ああ、もう何も言いたくない、というような沈黙・・・ 最高の沈黙ですね。 ちょっと、最近のことなので、bれび的ジャンル横断レスをしちゃいますが、 まりもさんが鵞鳥ボルカさんの「夜」に書かれた選評を読んだ後、この沈黙に浸っていました。 三浦さん(みうらくんのきもち)がtwitterでつぶやいていたとおりでした! >黙って、ああ、そうだったか、そうだったね、と思いを手渡しあえるような、そんな沈黙って、素敵だなあ、と いつも、示唆に富んだお言葉をありがとうございます。 (語り得ぬこと ※)

2018-04-18

るるりらさん、ありがとうございます。 >わたし自身が黙していた多くの時間の昇華されました。わたしの心が、人様の詩の中に あったのです。 本当にこういうことがありますね。 詩を読み、書くことが徒労に感じられることがありますが、 皆でこういう経験をしあっているのだとすると、どんなに報われているか…。 >るるりらの心は舌足らずであるという お褒めの言葉 るるりらさんは、作品もコメントも饒舌な方だと思いますが、 なぜかそう感じるのですね。 そして、詩は余白の文学、とも言われますので、 なにかその足りなさがるるりらさんが先天的に詩人であるゆえんだと、感じました。 表現がまずかったのなら、一旦お詫びしますが、今でも同じ気持ちです。 それに、私は「いつもいつも一杯の心」があながちいいと思わないのです。 むかし、ドストエフスキーの『白痴』という本を読んで、 主人公の美しい青年が「生まれながらの未経験」と作者によって紹介されていたのが、 忘れられません。。 どこまで行っても未経験の主人公を、愛情を込めて書いているのです。 私自身は、これから、様々なことに、どれだけ足りなくなれるかを目指したいと思っているんですよ。 (語り得ぬこと ※)

2018-04-18

KURA_HITOさん、ありがとうございます。 皆さん、語りえない思いをさまざま抱いていらっしゃるのだな、と あらためて。 この詩は短いのに、私自身は妙に饒舌感があって困ったなと思っていましたが、 気に入ってくださって嬉しいです。 (語り得ぬこと ※)

2018-04-18

訂正します。 空間とともに偏在→空間とともに遍在 (語り得ぬこと ※)

2018-04-15

twitterれんけいしました。 (語り得ぬこと ※)

2018-04-15

社町 迅さん、ありがとうございます! >落ち着いている雰囲気に涙をながしたくなります 失われた過去、と思うと涙を禁じえませんが、 私は、時間を矢のようにでなく、空間とともに偏在するものと考えています。 碁盤に黒白の石を打つように、自在に過去も未来も共有できる場所と手段を、 私たちは今与えられているので、たとえ宇宙の果にゆきたいとしても、 なんにも急ぐことはないんだな~、というのが 最近の実感です。 あれ、意味、逸れましたかも!? (語り得ぬこと ※)

2018-04-15

修子さん、ありがとうございます~ 沈黙をしていたひとがふいに溢れるように語り出すのをみると、 語りたくて語れなかったその人の時間を想像します。 ネットはとくにそういうものを画面の向こう側にありありと見せてくれますね。 私は、pc内詩をリアルでないからと忌避する傾向がありますが、 これは、まぎれもなくpc内詩です。 機械のくせに、リアル以上にため息させ涙を流させる、 人間が生み出す機会は人間的だなーと思う今日この頃。 我ながら色彩に乏しく観念的な詩ですが、 修子さんに渋いところを美味しく召し上がっていただけて嬉しいです! >「生命のアルペジオ 鼓動の〇〇リズム」 幻の詩、見つかるといいですね。 私にも、油断をしていてログさえ取らなかった幻の詩がいくつかあります。 詩の一行も思い出せないのに、作者そのもののような鮮烈なイメージが、 波間の岩礁のように確かに存在しています。 ネット詩という場所も、沢山の星が流れては消える夜空のよう。 あなたのあの詩、記憶してますよー、 という、声が行き交う無音の宝庫ですね。 (語り得ぬこと ※)

2018-04-15

自註 今日は短い旅をしてきた。 湖西線には、そのまま降りて住みつきたいような いくつもの小さい集落が、 層をなす山々に抱かれている。 雨で今宵はよく見えないけれど、今頃は 無数の星星がみな独自の時間を持って 静かにあの村のうえを運行しているだろう。 ひとも花もちいさな星。 互いの惹きあう力を感じながら、 他の星の時間と軌道をゆるしあっている。 (語り得ぬこと ※)

2018-04-07

山本琴煢さん、ありがとうございます。 「かつ少し物寂しい、」は喧噪の中にあっても、 ついてきますね。 散文詩ではなく、紀行文・散文のつもりですが、みなさん詩を愛しておられるので、 詩として読まれてしまうことが、いつも複雑なところであります。 (海岸通り ※ )

2018-04-07

twitterれんけい、しっぱいしたので再度。 (語り得ぬこと ※)

2018-04-06

twitterれんけいしました・ (二点)

2018-04-06

心の恋人がこういう詩を描いてくれたら、最高だなーと。 違和や異質から目をそらすことなく、見逃すことなく、「君」の赤すぎることを諭すように、「私」の点である矜持とさびしさをないまぜながら、生きる意志をだれよりも「君」に伝えようとしているようです。 (二点)

2018-04-06

twitter連携しました。 (海岸通り ※ )

2018-04-03

survofさんのコメント欄なので、これまでにしますが…。 実は私も三浦さんに「一ヶ月だけでもやってみません?」といわれて、6月以降に一回だけ目標でやってみることにしたんですけど、そもそも現状10%位も詩が読めていないのですよね。気になる詩を後でじっくりと思って波の彼方にやってしまったものが300篇は下りません。しかも現代詩がよくわからない。 それなのにお引き受けしたのは、なんとか全部読む方法を自分なりに編み出したのと、読んだりコメントしたりで現代というダイナミズムを感じてみたい。 現代詩がわからないということを武器に読んでみるという手もあるな、と思ったのでした。 こういう、どんな詩誌にもサイトにもない、およそ選者というに?な人が含まれている選、というものが、なんか楽しい場所を作りそう、とも。 こうださんもsurvofさんも、とてもときめきのある相応しい方とおもうけどな~ (自分勝手なロマンチスト)

2018-03-27

社町さん、 レスを頂いて、勘違いしていたことがわかりました。 ありがとうございました。 (Rの日記より「遺留品の取り扱いと不要品の処理に関する記述」)

2018-03-26

お二人のコメントをたいへん面白く読みました。こうしたやりとりが、このサイトのあるべき姿では? 罵倒にはなっていませんし、互いに真摯、自説の展開が明確なので、学ぶところ大です。 また、評価基準の偏り?より、自分にとっての詩を大切にする態度を感じました。 <私にキュレーターなんて無理だわーって>ことはなく、こうだたけみさんがどんな独創的な選をされるか、みたいです。 (自分勝手なロマンチスト)

2018-03-26

twitterれんけいしました ( グリンピースのぜんざい~南仏紀行 ※)

2018-03-26

まりもさんへ レスが遅れ、すみませんでした。 火攻め、水攻めとありますが、音攻めも匹敵するかもしれません。 戦国時代、24時間、カネや太鼓を鳴らし続けるというのは、戦術としてあったでしょうか。 相当有効だったと思いますが、味方も疲弊しますね…。 牢獄の責め苦に、バケツから水を滴らせる音を聞かせ続けるというのがあったそうですね。 大抵の人が、すぐにとりあえず自白したのでは? 知り合いのおばあさんが、長い間寝たきりになって県道沿いの部屋に寝かされていたのですが、 亡くなるとき「ああ、うるさかった」と言ったそうです。 音への恐怖は今もどこかにあります。 でも自分の好きな音だと半日でも聞いていられるのですから、不思議です。 それを迷惑だと感じている人もいるかもしれず…。 >戸を閉めたい恐怖 あの絶海の恐怖は二度と味わいたくない思いでしたが、 冷気が部屋に侵入するので、何度か本能的に外から戸を閉めそうになって。 最終的に、バルコニーに出るたび何かを間に挟んでロックがかからないようにしたのでした。 それでも出ずにはいられない素晴らしい眺望でした。 >なぜか太い筆の墨でなぞったような孤独の輪郭線を持っていた。〉という一行がいいですね。ルオーの絵のようです。 私もほんとにそう思いました。ルオーは好きで、「流れ星のサーカス」という版画が、あるんですが、 夕暮れの丘の上で流れ星を見ている人、麓の村に巡回販売の屋台 買い物をする母親と傍らに少年、 少年は頼りない細い首を回して丘の上の人影をみているーー あのなつかしい孤独の輪郭を生み出したルオーも、孤独の好きな人だったのでしょうか。 >自らの内に、深く孤独を秘めていて、それを大切にしている人同士 次のエッセイ「アザミの歌」にもつながるエールとして、嬉しく読ませていただきました。 <『うたげと孤心』という名著>…タイトルに孤独の華やぎを感じますね。 読んでみたいと思います。 いつも、ありがとうございます! ( グリンピースのぜんざい~南仏紀行 ※)

2018-03-26

こんにちは。 やはりネット内情報詩、かと思いますが、なにか既視感があり、巧みに描かれるなと思いました。 あまり詩をつぶさに読んでいないので、申し訳ないのですが、 社町さんのいわれる「ここ最近の雰囲気」「今月にちょうど良いかな」という意味が、 わかるようでわかりませんでした。 教えていただけますか? もし、私が想像していることと合致すれば、少し書いてみたいことがありますので。 私の勘違いでしたら、スルーして下さい。 (Rの日記より「遺留品の取り扱いと不要品の処理に関する記述」)

2018-03-21

ネット内で見る詩には、(ネット内情報や劇画やゲームなど)の情報を基にできた詩が多いように思います。現代がそういう時代だということを痛感するのですが、やはり残念な気持ちになります。スーパーマンでなく、不自由な五体で電源のいらない五感で、書いたものが読みたい。 この詩も全身がちゃんとあるにもかかわらず、頭で書いた詩と感じました。そのなかで、「あたしの初潮を父親が瞬きを失くした顔で否定した」の部分が、作者をのぞかせていて^^。 更に、正義の用い方が安易では?、とおもいました。 正義も不正義もそんな単純ではないよ、という詩のはずなのに、最後に正義をもってきたことで、大きな網ですくい上げるように、大向うの共感をとりこむ、みたいな意図が見えてしまってる気がしました。 (相対化する宗教の欠片~まがいもの~)

2018-03-21

◇    ◇◇    ◇◇    ◇◇    ◇ アラメルモさんへ >詩情に溢れたというよりもこぼれ落ちたような この言葉を嬉しく拝読しました。詩が詩の中でわんわんしてる詩も大好きですが、その詩が終わったあとに種みたいにこぼれたものが、時とともに広がっていく、というのが自分にとっては理想だな、と思っていました。 花のアザミも人のアザミも、しっかりしているのにどこか儚げなところが忘れられません。 ところで、 >夏以降になるかな。 私も夏以降まで忙しくしていますので助かります。ただ、私に劣らずアラメルモさんは「時間を見殺しにする」方ではないか、と何度か感じる折がありまして、そういうふたりの計画では、時間の死体が累々、という自体が心配されますねw。 ( アザミの歌~南仏紀行 ※)

2018-03-19

◇    ◇◇    ◇◇    ◇◇    ◇ 三浦さんの質問⑤について 「掲示板へ作品だけでなく、その作品の背景や意図をコメント欄に書いて開示するということ」は、(もちろん個々の自由という前提で、)私は賛成です。ネットの愉しさは作者がひょっと顔を出すそこにこそあると感じてきました。そして本当の作品は、どんなコメントがあろうが、作者が介入しようがしなかろうが、最終的に、刀折れ矢尽きた野戦場の中天に燦然として輝く月のようなものであると。 ( アザミの歌~南仏紀行 ※)

2018-03-19

◇    ◇◇    ◇◇    ◇◇    ◇ 三浦さんの最初の質問の②と③について エピソードとして日本語が登場しますが、「フランスにおいての日本語」というのは考えたこともなかったかな。 言葉の問題として言えば、その国の言葉を持たずにその国で生活すること、です。 全身のうぶ毛を抜かれ、表皮を削り取られて、生きていくような状態です。 ( アザミの歌~南仏紀行 ※)

2018-03-19

三浦さんへ >しょうがないじゃん」という事柄を云えば他人との言語による共感は有り得ない、という事柄に対する >「しょうがないじゃん」です。これを事柄とは云わないのかもしれませんが。 >そして共感は有り得ないなんてことはないよと言いたいもう一人の自分が「そうじゃねえだろ」と。 なるほど! サイトを運営する上でも、この2つの視点は必要なことかもしれませんね。 「社会的不適合者」としての学びは、決してマイナスにはならないと思います。 でも、もしかしたら三浦さんはまだ本当の自分というものに遭ってないのかな、とも感じました。 今後の動向から目が離せません。 >実存主義の追求をされているとも捉え直しました。異国フランスの体験を持つ人からすれば実存として伝わってくる物語、 >しかし、異国フランスを未経験な、私なんかはそうなのですが、そういった読者からすれば、実感として読めない遠い場所での出来事。 実存主義は、ある事情があって非常に興味深い思想ですが、このエッセイではその追求は全くしていないです。 ところで、三浦さんの言外のご疑問を感じますので、Bレビに何故過去作品を延々と投稿させていただいてるかを書いておきますね。 ⅰ 私は引っ越しが多かったために、沢山の本を泣く泣く手放す過程で、ネットに出会った二十年前に決心して紙媒体から距離を置くようにしました。読むのが遅いためもあり、ネット作品だけでも読み切れない状態でしたので、辛いとか寂しいということはありませんでした。 何よりもこの宇宙遊泳をしているようなネット空間が大好きなんですね。(その恐ろしい魅力が、地獄のようだとも思いますが‥。) それで、ネット内の一箇所、それも個人ブログでなくサイトという大通りに拙作を残し、死後も痕跡が遊泳していたらいいなと思いました。 ⅱ いくつかのサイトを巡り歩いたのちBレビを知ったとき、私がネット空間で一番残念だと思ってきた点が、初めて明確に対処されている場所だということを知り、ここを死後の作品置場にさせていただきたいと思いました。 ⅲ フランス紀行については、2000年8月に旅立つ前、日本の知人たちに残してきた不可解をいくらかでも解消するためと、当時失っていた自分自身への空白を埋めるためです。 ⅳ ところで、これらを事実として書いてきましたが、思えばそれこそが私にとって「誰も信じなくても、しょうがないじゃん」、むしろ、「すべてフィクションでいいじゃん」なのでした! そこで今後はfictionとして、自由に思いつきの固有名詞なども織り込んでいきたいと思っています。 ( アザミの歌~南仏紀行 ※)

2018-03-19

三浦さんへ ひとつおたずねしていいですか? 三浦さんは、どういう事柄を「しょうがないじゃん」とし、どういう事柄に「そうじゃねえだろ」と言いますか? ( アザミの歌~南仏紀行 ※)

2018-03-19

*三浦さん、コメントありがとうございます。 ご質問は、以下の5項目ということでいいでしょうか? ひとつずつ日を改めてお答えしますね。 ①一読して、思うところはfiorinaさんが持つ日本とフランスってなんだろうか、 ②fiorinaさんが作品に落とし込まれているフランスにおいての日本語ってなんだろうか、 ③「この作品はフランスにおける日本語について、fiorinaさんの極私的な体験を基にして書かれていらっしゃるのですか?」 ④他人とわかりあえないというか、他人と行き違いになる体験をした時、(中略)ホントは、ただの運命なんですよね。行き違いになる運命。(中略)なんだか、この一節にある「時間」というのが、その運命を言い表しているって思った次第です。 ⑤掲示板へ作品だけでなく、その作品の背景や意図をコメント欄に書いて開示するということ(作者の後書きみたいな)を、出すということについては、どう思われますか? ◇    ◇◇    ◇◇    ◇◇    ◇ ①について 私に興味があり、書きたいのは、この世に生を受けた生き物として、草花や虫や他のあらゆる存在がそうであるように、 自分が遭遇したひとつの時間、一つの場所、そこに訪れた感受についてです。 たまたま日本に生い育ったわたしが、フランスで生きていた頃を書いているだけですので、 舞台がフランス、私が日本人でなくてさえいいのです。 そのうえで、あえてフランス(あるいはこの後投稿する他のヨーロッパ)における特筆すべき事をあげると、 人間が生きる場所をつくる際の美的なこだわりです。 私は道を歩くことが好きで、死ぬときに振り返って自分の人生の成否を「天空のしたを心愉しく歩いた総時間」 で測るつもりでいますので、みちみちの風景が人生の大切な要素になっております。 今、日本の道を歩いている私がこだわっているのは、フランスではなく日本の風景です。 本気を出せば、美的センス、細やかさ、徹底ぶりにおいても、また私の好きな樹木が主材である点でも、 日本の風景こそが私にとって究極の歓びなのです。 ただ、私たちの国は戦争や災害に踏みにじられ、まだ打ちひしがれている最中なのではないかと思います。 同じく戦禍にまみれて来たヨーロッパが、数百年の長いスパンで風景について考え、美を積み上げようとしているのに反して、 日本の風景にはそれが感じられませんでした。それが私のエッセイに滲んでいる日本への思いでした。 以前は、古い素敵な建物が宝石を捨てるように取り壊され、何の変哲もない鉄筋のビルに変わるのが残念で仕方なかったのです。 ところが、最近の私は新しいビルや町並みにみとれて、上ばかり見て歩いております。 お気づきでしょうか。日本の風景は、確実に変わりつつあるのです。 古い家が取り壊された後に、もっと素敵な日本家屋が、あるいは線と色彩、素材のハーモニーに満ちた 街や村がいたるところに出現しているのです。 ねがわくば、都会のビル群が更に、(西洋のどこにでもある建造物ではなく、)日本美を追求したものであってほしい。 なにか方法があるはずです。 そのようなことを、「時代のカナリア」と私が信じる詩人たちと語り合いたかったのです。 ( アザミの歌~南仏紀行 ※)

2018-03-19

イカイカさんへのレスに書きました、自分の文体を見直すための「希望の丘」のリライトは、このシリーズが完結した後に掲載します。 ( グリンピースのぜんざい~南仏紀行 ※)

2018-03-18

久しぶりに文獄のコメント欄を見たら、随分様子が違っていたので、上記の自分の作品について以外は、とりけします。(度々上がってすみません。) (希望の丘※)

2018-03-05

私、これはそのままで、この文章を書き直したものを今月の一作として投稿しますね。 少し研究するので、10日ほどあとになるかと。ありがとうございます。 ところで、コメントの最後の行は、いかいかさんの弱気が出てると思うので、「可能性あるよね」までで、いいんじゃないかしら。 これは余談ですけど、文極にお世話になったものとして、以前から誰にともなく言いたかったのは、文学獄道でダーザインさんがあえて批評における「罵倒」を打ち出したのは、罵倒に堕してもいいというマイナスへの許容ではなく、豊かな罵倒、美しい罵倒の可能性を信じていたからではないですか? 文極に携わった方には、その可能性を(どんな些細な場であっても)示してほしいものです。 また、今回ご自作コメント欄にも見られるように、ログが残るネットにおいて、延々と罵倒のやり取りをする必然性などはなく、(最初のビッグバンの中に全宇宙があったように、)第一のコメントにすべての言いたいこと、パッションは尽くされている(もしくはそのように書くべきだ)と思います。本当に新しい見解が閃いたときにのみ、注意深く積み上げていけば、議論でいたずらに消耗することもないのでは? そして、作者によって産まれた作品は、別のものにすげ替えようとするのではなく、ましてや、自分が自分の詩においてやりたいことを人にさせようとするのではなく、必要なのは、どんな姿に生まれようと、その作品が最もその作品たり得るような働きかけではないかな。 今回はありがたいコメントを頂いたので、感謝して修練したいと思います。 文体を自分でも、もうちょっといいものにしたいので・・・。 (希望の丘※)

2018-03-05

twitterれんけいをしました~ (希望の丘※)

2018-03-05

twitterれんけいをわすれてました。 (シャルロットの庭※)

2018-03-05

まりもさんへ 「明日、世界が滅びるとしても、私は今日、リンゴの木を植える」 という時の、ながれてゆく時間や人間の意志ではなく、 新聞の記事や私の記憶でもなく、 庭師の静かな行為だけに支配された一瞬が満ち渡っていた、という感じ。 (以前書いた「ダグマ」とかでは、思い切り悲惨と向き合いましたが、 ここでは、) その一瞬の中にいることは、幸福そのものなので、 抑制とは違った、忘我のような感覚だったと思い出すのですが、 作者がこれ言っていいのかなあw いつも、楽しく考える切っ掛けをありがとうございます。 (シャルロットの庭※)

2018-03-05

いかいかさん 自慢かあ‥。 共有できないのだったら、そう取られても仕方ないですね。 私は自分をある時ある場所に何故かいる、感受する器だと思ってるので、 それがどこであろうが、たまたま有り金はたいて降り立った外国であろうが、 貧しかった日本の片田舎であろうが、 道はどこにでも続くし、風景は無尽蔵に広がっているから、 幸福全開で歩き回っているということでは、 卑下すべきだと他の人が思うときでさえ、自慢してるんですよ。 書くときには、これは問題かもね。 後方抱え込み三回転半ひねりみたいなコメント、ありがとうございました。 (希望の丘※)

2018-03-05

まりもさんへ コメントありがとうございます。 ご指摘のように、鉄仮面の島と教会の島は、 強い印象を持っていたので、別に書くつもりで、 あえてサラリと済ましたという記憶があります。 牢内に入ることができるんですが、幽閉当時がそのまま残されてたんです。 冷たい石の床に、泥に汚れた大きな水たまり、太い鎖が 杭につながれてとぐろを巻いていました。 鉄仮面はいませんでしたが(笑 二重の鉄格子の間にまっ黄色のデージーが 咲き乱れてて。海の向こうにカンヌの白とオレンジの街が、 光を浴びていました。 でもこの文においては、彼女たちとの偶然の重なりにただただ驚いていたので、 島は伏線ではなく、丘の上から見る海と同じただの遠景でした。 以前書いた、滞在許可証を取りに県庁に行ったときに、 バレエ留学の日本女性がいて、バレエを諦めるかフランスにとどまるか 凄く迷うのだと話してくれたんですが、 伏線といえば、それが心のなかにあったかもしれません。 ヨーロッパ中に、そういう人がたくさんいるらしいですから。 当日になって舞台に立つことさえできなかった彼女の心情を、 もう少し書くべきだったかもしれませんね。 (希望の丘※)

2018-03-05

とりあえず、凄いと。 またゆっくりコメントさせていただきます。 (いろか におう)

2018-03-04

現実は問題山積であっても、そのさなかに、ネット内で時折包まれる幸福感(しかもあまり根拠のない)に 包まれてしまうときの、困惑とくすぐったさが、「あんまりだな」にゆーもらすにあらわれていると思いました。 最初の「カリ」は塩と感じました。 出だしの「水の声」からも、随所に五感が刺激されます。 「俺は逡巡を凌辱され」は、時折フット思い出し、かつ忘れないだろうという気がします。 (あだらいっぱい)

2018-02-26

生きとし生けるもの(=自分)は清らかになれない、と 仏さまの中でも一番偉い方が遥かむかしに言明されていると聞いたことがありますが、 それでも皆一度は清らかになりたいと思い立つのが、不思議なことだなあと。 その葛藤が文学の大きなテーマで、 『レ・ミゼラブル』はとくに葛藤の醍醐味にあふれていていますね。 あの主人公が、自分との闘いに打ち勝ったように見えても、 心のなかにすでにあった醜い事実は、事実として消えることなくあるとどこかから言われそうです。 でも主人公が、自分の卑小な心を(惨めに悶え苦しみながらも)行為において超越していくかのような展開には、 なぜか強い感動を覚えます。 解決できないところにひ弱な(けれども頑固な)存在として私たちは置かれ、 解決できないところに文学は始まるのかもと思います。 (宗教的な解決とは別に。) その際、清らかになれなさをどれだけ子細にみつめ、書けるかが 清らかになれないというそのことよりも大切かもしれないと、個人的には感じています。 (きよらかなもの)

2018-02-23

昭和の作家の文章の一部のような趣きですが、 一語が詩に変える魔法(お手本)のように読みました。 比喩せずにはいられない人間のいたずらごころが醸す味わいと、 無心に「詩」を「詩」として読んだときの、そのたびごとに、 心のなかで小さく弾ける出あいの素敵さ! インフルエンザ、撃退してください。おだいじに~ (思い出す詩のことなど)

2018-02-20

もはやかえりみられはしないものがたりを ひくくとぎれがちにうたいついでゆけ このエールがいいですね。 長い歴史の、日常の中には、この物語が見え隠れします。 (しらないものをさけることはできない)

2018-02-17

twitter れんけいをします。 (メル)

2018-02-17

一連から既視感があって繰り返し読んでいます。 言葉が非常に正確で、短い言い切りのような一行一行が、 正確さ故に冷たくなく、詩情となっている気がします。 一読のとき、最終連に置いてけぼり感がありましたが、最終的に好ましく感じています。 (メル)

2018-02-17

楽しんで書いたのがリズムになっているので読むのがうれしいという饒舌さが、るるりら作品にはあると思うのですが、本当の魅力はそれにもかかわらず持っている心の?舌足らずさではないかなと。 ただ2読3読するうちに、終盤は怖い感じに終わったほうが、 詩が更に大きくなるのではと感じました。 瀬戸内海にもクジラがいたのか、と調べたら、クジラの大群が現れたこともあるそうですね。 海の被爆は初めて読みました。 (おもてなし妖怪2018)

2018-02-16

twitter 連携をします。 (さよなら、インターネット)

2018-02-15

訂正です。 阿蘇の河口付近に腹ばいになって→阿蘇の火口付近に腹ばいになって (さよなら、インターネット)

2018-02-15

ただいま、家の内外の断捨離中なので、脳内の断捨離としてタイムリーに読みました。 私はネットを覗くたびに、中学校の修学旅行で阿蘇の河口付近に腹ばいになって、底知れない内部を覗いた時のことを思い出します。 同じ頃テレビドラマで、自殺をしようと阿蘇の火口に飛び込んだ人が途中の出っ張りに引っかかって死にきれず、這い上がってきたとき、その姿はもはや人ではなくアメーバーと化していた、というのを観ました。 現代詩は特に、その火口のなかで繰り広げられる阿鼻叫喚に思われ、ネットのなかで地獄と知りつつ魂を身を焼かれる、そのえも言われぬ快感に溺れたとき、心身はアメーバーと化しているのかもしれず、pcを閉じてそこを離れるとき、広々とした阿蘇の草千里を歩き始めるのを感じるのです。 >さよなら、インターネット。僕は生きるよ。 この言葉はだれもが心のなかでつぶやいている声だと思いました。 (さよなら、インターネット)

2018-02-15

アラメルモさんの過去の詩によって、少しご事情を知っていたためでしょうか。 骨となった人への喪失が、 時とともに、 悔恨と言うには苦すぎる自分自身の過ぎし日の像を立ち上がらせ、 心の氷河を凝視している様が見えました。 暗い趣きの詩でも、アラメルモさんの場合、 知というか、認識のひかりが届いているために、 純粋に読む歓びがあります。 ただ最終行の「膠着」という言葉は、 詩全体を硬化させたようで、成功していないと思いました。 肉親(や親しい人)の死に対して、 こうして訪れるものを、私は死後の絆と感じています。 その意味では、決しておそすぎることはなく、 むしろ、その関係は永遠に固定されたのでは? かつて知ろうともしなかった自分自身について知る 最初の機会でもあると思います。 (嗚咽)

2018-01-31

twitterれんけいを忘れておりました~ (アメリカの少年※)

2018-01-31

*百均さん、コメントありがとうございます。 心強いお言葉、とても嬉しいです。 フランスの頃の私は語学のためばかりでなく、言葉を喪失していました。 取り戻した今、あれらの時間に言葉を添わせていく作業かな。 記憶が圧縮した映像のように何故か衰えないので、まだ文章にしていないものも含め、 投稿を続けたいです。 渡仏前後、日本の知人たちにも不可解を残してきたので、いつか、いくらかでも届けばいいなと思います。 (アメリカの少年※)

2018-01-31

*緑川七十七さん、ありがとうございます。 幸せな詩だ‥と、コメントを繰り返し読ませていただいています。 じつは最初、タイトルがあまりにもストレートだったので、 他の表現を探したのですが、これ以外にできませんでした。 その時のことを思い出しました。 (私に※)

2018-01-26

>詩が解釈とともにある姿というのは、いいものですね。 ネット詩の掲示板が(荒れない限りにおいて)、本当に楽しいと思うのはこのせいだったのかと気づきました。 今回蛾兆ボルカ さんの >情景としては、ポスティングの仕事に出掛ける女性をイメージしました。それは日常なのだけど、 >花子は今朝はなぜか詩に出掛けてしまう、みたいな。 >玄関には夫や子どもの革靴が散らばっていて、一瞬イラッとくる。でも、地平線はいつも気持ちが良い。 >見渡す未来を持たない、老人たちばかり残る平日の昼の街に於いてすら。 >なんてゆう感じをイメージしながら拝読しました。 この部分を読んで作品を読み返し、あまりにも映像がピタリとしたので、 笑ってしまうくらいでした。 コメントを読んだからと言って作品が不自由になることはなく、 心の襞、柔らかな疲労、手放せない希望も見え、 短い中に活動的な心が持つ闊達さや人生観が凝縮した素晴らしい一篇だと思いました。 (花子はある朝突然比喩した)

2018-01-25

*まりもさんへ~追記 じつは、まりもさんのコメントの前半部のレスとして、昨夜ずいぶん長く書いたのですが、 割愛しました。いつか別の作品として、書きたいと思っています。 いつも、示唆に富んだコメントをありがとうございます。 (アメリカの少年※)

2018-01-19

*まりもさん、ありがとうございます。 >語り手は、目の充血の原因を知っている もしや、と思うことはありました。 >意図的に平坦に、抑制された筆致で描かれているように エッセイというのは、書くのが楽しいのでどこまでも行っちゃいそうになりますね。 昔「笑いを取ろうとするな」と(他の人が言われているのを)小耳に挟んだことがあるんです。 そうか。笑いも泣きも、取ろうとしちゃいけないんだ、と残念な気持ちになりました。 でも、心を抑えることと退屈な文章はやはり違うと思います。 アラメルモさんのご指摘は、目からウロコでした。 読む人が何故ともしれず活き活きとなる真摯で静かな文、が書きたいです。 一語一行が秘密かも‥。 >その表現が国境を越え人種を越え、人を心身ともに癒す 眼から鼻から皮膚から様々な人種を日々吸収し、いつしか源流へと意識が向くように。 ただ呆然とそこにいただけですが、得たものは歳月とともに重くなります。 あの時観たロシアのダンスがyoutubeにありました。 私の表現が足りないのがよく分かる映像。 → https://www.youtube.com/watch?v=QgNB3ZLp0ho (アメリカの少年※)

2018-01-19

*三浦さん、ありがとうございます。 「もののけ姫」はこの詩を書いた、もしくは「私」が森をさまよってた頃作られてたんですね! 検索したら、壮大な命と蘇りの物語で、傷ついた者のためにいつの世も森は待っている、 この頃観ていればどんなに救われたでしょう。 (タイトルに違和感があったのですが、このあとちゃんと観ます。) 私は子どもの頃、よく夕方から出かけて夜の山に入っていくことがありました。 心細いと懐かしいの半々で、どこまで行けるだろうとずんずん歩いて、 途中でくるりと踵を返すのですが、 帰り道は逆に怖さが押し寄せてきました。 そして気づいたら森に住んでいます。 myアシタカ?は今は遠くに住んでいますが、必要なときはやってきて、 にんげんができる治癒の方法を色々試みてくれます。 誰に教わることもなく傷を舐める、というのは、 森から離れたにんげんも動物も、いまだ森の力を秘めている現れでしょうか。 詩を読み合うことには、同じようなものがありますね。 (私に※)

2018-01-17

コメント修正です 回復期にむかう終練→回復期に向かう終連 (私に※)

2018-01-14

*田中修子さん、ありがとうございます~ 「あなたという夜の母」 森の夜の色、愛憎によって体感している温度が、眼に鮮やかです。 >それは、あなた >わたしのうちにうずくまる >ひんやりとした >しずかな はは 回復期にむかう終練の方に、むしろ静かな涙のあとを感じました。 >2017年の冬の田中修子という私の中にいた私へ、語りかけてくださったような感覚 思うのですが、「ワープ」とか「どこでもドア」という未来の夢みたいな現象は、魂レベルではもともと 実現されているのでしょうね。 修子さんにコメントをいただいて、魂が近いということもあるなと感じますが、 心にしろ体にしろ危機に瀕したときには、人間というより動物の仔に近くなるのではないか。 その際に訪れる、回復への最後の力が野生ではないかと思ったりします。 かつて苦しみの底にいたから動物であった経験。 そのときのことを、傷だらけの小さな生き物としてありありと記憶している。 同じ頃ともに月明かりの森にいたのかもしれませんね。 これは返詩になるかどうか‥。 修子さんの詩と同じ行がある、その頃書いた自虐的な詩を思い出しました。 (笑ってネ。)   *** 踊リカタデワカル キズノアリカニ マーマレード ミタイナ モウ毒ヌッテ アゲマショカ 月アカリ 星アカリ カナシイ瞳ノアカリ 麺麭ナンカ イラナイ モリノチイサナ イキモノヨ カナシミゴトゼンブ タベタゲル サメナイ夢 ミタコトナイノ? (私に※)

2018-01-14

*杜 琴乃さん、ありがとうございます。 詩が、というより私の頭の中がファンタジーだったのか、 この頃は人生の中でも一番たくさん書いたものの、 どれもちゃんとしたものにはなりませんでした。 それらを拾いながら、少し長く書いてみたいと思っています。 おことば、励みになります。 (私に※)

2018-01-14

>昨日夢にみた雪国よりも美しい。 で、思わず笑いました。 「たまらない。あれはたまらない。」「素晴らしい。」 女性が買う!方向に自分を持っていくときは、 多かれ少なかれこのような言葉が心中飛び交ってますよね。 プルオーバーのシルエットがだんだん他人事でないように思えてきます。 プルオーバーが私もじつは苦手ですが、(頭をくぐらせるとき息が詰まる氣がして)、 やっぱり買ってしまいます。 胸元のラインについて深く頷きました。 ただ、 >プルオーバーのシャツを買いまくった。 >もともと被り物は好きではなかったはずなのにプルオーバーのシャツを買いまくった。 ここが最初にあることについてしばし考えました。 後ろに持ってくるとか、なくてもいいかとか。 今までも色々気になる作品にコメントしたかったのですが、 なにしろ読むのが遅いので、置いてけぼりを食っています。 まずは新作からコメントさせていただきました。 (プルオーバー)

2018-01-14

*くつずり ゆうさん、ありがとうございます。 あ、何か映画のストーリーみたいですね、時空を越えた…。 そもそも私の経験はそこまでロマンティックなものではなかったのですが、 だからきっと凄くいい思い出です。 *survofさん、ありがとうございます。 > <辞書ほどのフランス語の知識を持ったやさしい少年の顔を、 > 私はテレビのニュースの画面につい探してしまう。>のラスト ちょうどあの頃から世界がテロの時代に入り、アメリカは派兵などもしていたので、 豊かな知識を活かすことなく散ってしまう命があることを(それが彼自身でなくとも)、 不条理に感じていました。 紀行文は思い出しつつ書くのが楽しいので、押し付けになりそうで心配ですが、 楽しみ、といってくださって心強いです。 *緑川七十七さん、ありがとうございます。 >神の視点から一人称への不思議なゆらぎ、確かにそこにいた彼の存在から、 >もはやテレビの画面の中を探すしかなくなってしまった彼との別離まで、 私も彼も長期滞在でしたので、なんとなく親しくなる時の流れが出ていますね。 言葉ができないので黙って集団の中にいるだけでしたが、 存外いろいろな情報をキャッチしていたことに、こうして文字に起こすと気付かされます。 フランス紀行はまだ続きますので、これからもお読みくださるとうれしいです。 *アラメルモさん、ありがとうございます。 本当に眼の充血の原因、何だったのでしょうか? >綺麗過ぎてもう少し文体に起伏がほしいとも感じました。 >~して。連語というのかな格助詞ですね。これが多用されてますね。 何も考えず自分の呼吸だけで書いているので、気づかない欠点が諸々あるでしょうね。 やっぱり一度ちゃんと考えないとだめですね。 少なくともわたしの理想とするのは、流麗な文章ではないですので。 柳でなく、梅の木、花枝が好きなんです。(柳に失礼かも。) (アメリカの少年※)

2018-01-12

中学生の授業の時、美術の教師が、裸体の美女の絵画「オダリスク」を見せてくれました。 男子たちは様々に反応しながら観ていましたが、翌日から先生はその名のイケベをもじって、 スケベ先生と呼ばれるようになりました。 私たちは同じ経験を何度も何度も繰り返し、積み重ねて ようやく一つの認識を得ることができる、、 それまでは、その経験がなんのためにあったのか、何故自分に訪れたのか、 わからない。 そんな混沌とした時間が生きてきた大半だったと振り返るとき、 その最初の経験を、小学校や中学校の先生たちは、 理解されないことを知りつつも、 最初の経験として伝えようとしてくれていた、と思い返します。 >えいえんの緑が >緑であること以外 >わからないまま、流れて >ぼくはもう疲れました >ごめんね >きっとこのまま死ぬけど ここに若い混沌の、けれども希求を秘めた時代が描かれていると、胸を衝かれました。 とても心に残る作品です。 (moment)

2018-01-10

*奇偶さん、コメントありがとうございました。 >手負い、森、沼の描写がもっとあったら ホントですね。 自作における物足りなさは、気づかないものですね。 この詩は、別の作品としてもう一度書いてみようと思います。 ありがとうございました。 (私に※)

2018-01-10

*アラメルモさん、コメントありがとうございました。 映像、ファンタジー、詩情。私の詩としてはアラメルモさんに評価していただけた方ですね。 ルールに則った酷評私は好きですので、よろしくお手柔らかにガンガンお願いします。 「森の秘沼」は、相当気に入っているところですが、全体として表現が硬いので、 固有名詞で、このよそよそしさを何とかできたかもしれませんね。 フランスの固有名詞は、この後うるさいほど出てきますので、お楽しみに~! (私に※)

2018-01-10

*くつずり ゆうさん、コメントありがとうございました。 (祝・twitter連携、ということで、コメントを個々にさせていただきます。) お名前を拝見するたびに、不思議な感じにとらわれます。私には絶対思いつかないです。 多分以前のお名前を知っていると思うのですが、このふしぎ感をもうしばらく‥。 「野生よ」はどうして出てきたのかわからないように唐突に出てきたのですが、 まりもさんのコメント後に詩を読み返すと、全編野生のことしか書いてないですね(笑)。 そのことに気づいていませんでした。 呼び声のような感じに受け取っていただけて、よかったです。 (私に※)

2018-01-10

*花緒さん、コメントありがとうございました。 初稿の頃は都会にいて、ただ苦しいなと思いつつ書いた詩でしたが、治癒の方法としての沼や森や孤独があると感じ、 書いているうちにポロッと野生よ、という言葉が出て、なんか救われたような気がしました。 今読み返すと、短い割に重複が多いので悩みましたが、どれも削れませんでした。 詩情が少しでもあったとしたら、よかったです。 (私に※)

2018-01-10

*まりもさん、コメントありがとうございました。 >獣の体感を描く、獣を照らす月光の視点で描く、あるいは、 >痛みを抱えたものを呑み込む森(全体がひとつの生命体として)の鼓動が聞こえるような、 >森の意識が聞こえるような まさにこういうところを狙ったのですが、渦中にいるときの甘えというか、がでたのですね。 傷を治す場所でなく傷の治し方、というところに強く意識が働いていたような気がします。 「遠目に見ている景」として読むと、たしかにそうだなあと感じました。 (私に※)

2018-01-10

背中から底がないような落下の感覚に時折見舞われるのですが、 あれって「ああ、の感覚」だったのか、とおもいました。 仏教的ないわれのある感覚だとだいぶ前に聞いたことがあり、自分では納得したのですが。 それだと「ぼくが生きていて、ぼくの脳みそが働いている」あいだだけでなく、もっと長い間の繰り返しの感覚のような気もします。 勝手に「ああ、の感覚」を自分のと同じものにしましたが、またべつの「ああ」だったら、ごめんなさい。 (ああ)

2018-01-07

そこそこなんでも持っていて、希求することもなく与えられ続けていくと こういう「退屈」ができていくのかな、と思いました。 サガンの『悲しみよ、こんにちは』を想起しました。 (shepherd dog)

2018-01-07

うつむいた心の中から、這ってきた乳児が懸命に顔を上げ笑っているようです。 病室の孤独が迫ってきました。 (未明)

2018-01-04

My Way というタイトルにしたところから、割と大きく歌うことを志したのかもしれませんね。 読者としては、いくつかの連の行間を押し開いて、細部を、陰影の濃い薄いをもう少し味わいたい気がしました。 歌っているうちに「希望が見えてきた現在」に移行していくのが、そうだよね、と思いました。 大きな示唆とかでなく、なんとなく自分とも人ともやり取りしていくうちに、(ひどいところで終止符を打たなければ)よくなっていくものですね。 (My Way)

2018-01-03

たゆたうじかんに、「波うつ背」をつたう指を、舟とよんだことがとても新鮮でした。 (意識)

2018-01-02

出雲の阿国によびかけてるような >滝つぼに踊り入りましょう。 入門編の物足りなさは、作者がこれから「滝つぼに踊り入り」 魅せることのプロローグでしょうか。たのしみです。 (透水文化学入門)

2018-01-02

二連はいいなと思いました。 何かをわかってもらう、というのは遠い道のりなので、 すぐ次に「爆弾を 仕掛けた」への展開が(ねらいも含めて)現代的に軽い。 「みんな」をたすけることも、「家族みたいに」死ぬこともないことが、 カラカラと残って、道を歩いているときなどに時折思い出しそうです。 ()

2018-01-02

その生徒が振り返って、春がきたことを伝えたのか、と 二読目でわかりました。 (読み終わったところから詩が広がり続けます。) わかる前に、ひとつひとつのことばが、 自分自身が先生に伝えたくて出来なかった幾つものじかんの言葉と逢うように かるくむねにおちて。 「わたしは学びました。」というところに、ふいに泣けてしまうような。 どんなに平易に書いても陳腐にならない何か技が湯煙さんにあるようで、 大好きな詩「花」をまた思い出しました。 (音信)

2018-01-02

*百均さん、ありがとうございます。 自分から飛び込んだ環境で当然の報いを受けていたのですが、いろいろな国の人と逢えたのはよかったです。 今、後追いでそれらの国の歴史に興味を持っているところ。 百均さんの眼、詩文で様々な国についても読ませてくださいませ。 コメント欄の充実は、みなさんが暗黙の安心感を持ってやり取りできている証しですね。 自由に書く中ではみ出したり、触発されて作品が生まれたり、この活気はネットならではと思います。 今年は殆ど書けませんでしたが、来年はコメント力をつけたいです。 只今おせち料理に奮闘中、年々日本と日本語が好きになります。 皆さま、よいお年をお迎えください。 ( 楢山節考※)

2017-12-31

レスが遅くなり、すみません。 *岡田直樹さん、ありがとうございます。 とてもうれしいです。 あんなにも言葉で格闘した日々があり、今は失われた時間を蘇らせることができる言葉につつまれて、 感無量の思いがあります。 日常をコップ(心)から溢れそうな水をこぼさないように大切に生きる人にとって、 なんの刺激もないかにみえることに無数の奇跡が息づいていること、 (そのことにだれもが気づいたらな、)それが幸福な人生だと思うようになりました。 *三浦果実さん、ありがとうございます。   >あの映画を子供だった私は当時、エロティックで子供がみちゃいけない映画との印象がありました。   >エロティックとは生々しいという意味で。 私は映画を観ていないのですが、小説でそのためらいがありました。 何かおぞましいものに出遭うのではないかと、長い間避けていましたが、読んでみたら意外にもただただ美しく 素晴らしい、としばらく呆然とした記憶があります。   >世界的に広まりえる、普遍的なる物語って構造的には、軽くて単純なものなのかもしれないと そうですね。あの物語の真っ白な雪のようなものかも。 *田中修子さん、ありがとうございます~ 読む御馳走!うれしい‥。   >「楢山節考」読もう!! と思いました。 たぶん映像と違って原作にグロテスクなところはなかったです。 あったとしても感じませんでした。 今回書き込んでいませんが、主人公のおばあさんがすごく素敵なんです。 ぜひ読んでほしいです! *まりもさん、ありがとうございます。 私も映画を観てなくて、最後の息子のセリフは、深沢七郎の小説を昔2度読んだ記憶とイメージによるものでした。 イルネージュという言葉が今もとても好きですが、この経験を通して一つの言葉を獲得したかな?   >ニュアンスや質感の違いを超えて、なにかを伝えることができたとき・・・その時が、   >本当に道の通う一瞬、となるのだろうと思いました。 私はリルケの「ドゥイノの悲歌」がとても好きなのですが、原作では読めませんで、手塚富雄訳で親しみました。 それを自分の拙い朗読で繰り返し歩きながら聴いたのですが、言葉の違いを超えて、 まりもさんの言われる「一瞬」を経験していたと思います。 言葉を習得する段階では、映画の字幕など何故もっと直訳にしてくれないのだろうと不満でしたが、 翻訳者がニュアンスや質感までも伝えるために、いかに苦心しているかを最近は感じるようになりました。 ( 楢山節考※)

2017-12-27

*survofさん、ありがとうございます。 様々な感情が、自分のなかにあったんだと極限はひっぱりだして教えてくれますね。 あの日日を共有していただいたようで、嬉しく読ませていただきました。 *アラメルモさん、ありがとうございます。 お母さんの思い出はいよいよ鮮明になるようですね。寒さは年齢とともに強く感じるので、お母さんは切実だったと思います。 我が家も壁の薄い日本家屋なので、私は最近骨が寒いです。 フランスの女性教師は、初老よりも若い人だったと思いますが、 「楢山節考」はカンヌ映画祭でグランプリを受賞しているので、映画祭のときにリバイバル上映されるのを観ていたのかな? 最初から頷いていました。フランスは食料を自国でまかなえる豊かな印象がありますが、貧富の差の厳しい頃は「レ・ミゼラブル」のように一片のパンを盗んで牢獄へ、という話もたくさんもあったのでしょうね。 フランスでの姥捨て、調べられたら作品で読ませてくださいまし。 *三浦果実さん、ありがとうございます。 BーREVIEW杯不参加の事は以前から考えていたので、スッキリなってうれしいです。 よろしくおねがいいたします。 11月までの拙作への身に余る評価といただいた選評は、とても嬉しく受け取らせていただきました。 ありがとうございました。 ( 楢山節考※)

2017-12-16

とてもよかったです。名作と感じました。 次の行の出方が心地よく、 >ぼくは今日の日を >忘れてしまうだろう この2行が置かれた位置も絶妙でした。 まだ、本当には幸せじゃない、何かを待っているような埋もれていくときが、 愛おしいときだったと、あとでわかることがいまわかってる、というような・・・。 (ある朝にぼくは)

2017-12-16

何か全体既視感があってよどみなく読みました。 >足の脛には河原の石が >居場所と決めて >艶美的な正体を晒す ここ、なぜかわらってしまいました。 ややシニカルな温かみは、作者の個性のようにも。 ネットでは、共有していないようで、様々な光景を、その端々を共有しているものですね。 人知れず赤面したり傷ついたりしているのも、意外に的確に伝わっていると痛感します。 宇宙遊泳しながら呼応しているようなこの空間に、詩は一層神秘的な魅力を添えますね。 「赤い羽根」で師走の光景に呼び戻されました。 (光景)

2017-12-16

>肌を焼くとうめいな痛みに けつれつのときの、全身の皮膚が野焼きにあったような状態。 >心をひくく保ちながら という野生の知恵に惹かれました。 (沈黙)

2017-12-14

田中修子さん、ありがとうございます~ >冒頭のこれだけでなんだか、ゾーっとするほど何かを ボ~ッとうぶ毛が野焼きのように燃え上がる感覚もあったりして、 うぶ毛のことを忘れている今は、生まれた国で生きているなあと実感します。 >独自の潔さ、そうして心の奥の方にこっそり隠れている度胸 現実の私は多分そうではないと思いますので、ある意味の極限状況を、 少し離れてみているような誰かがいて、「潔さ」や「度胸」はその誰かのものかもーと思ったり。 この南仏紀行は、以前投稿した【ダグマ】の前後を埋めるものとして書いていますが、 言葉を喪失して沈黙していた時期に、自分の内側にはたくさんの言葉が降り積もっていたと、あとで気づきました。 その経験から、修子さんの書くものを読んで、幼時の、声にできなかった頃に、 言葉が全身を巡って、励ましたり癒やしたりしながら言葉としても成長したんだろうな、と想像しています。 人体の不思議! ( 出口まで39キロ~南仏紀行)

2017-12-08

コーリャさん、ありがとうございます。レスが遅れてすみません。 >ほんとにあったんだろうなあ  はい。南仏シリーズは、本当にあったことだけを書いています。 経験自体は悲惨ですが、今となっては書くのが楽しいので筆が滑らないようにしなくては…。 レイシズム、は自分以外の人間に対してむかしからなぜか本能的に持っていたので、 言葉の助けがなかった頃の私の目は、動物の仔の怯えに近かったかも‥。 むしろフランス人だからアフリカ人だから、というのは特になかったかもしれません。 >つまり言葉ってのは人と人のつながりの、社会の基本で それがうまく使えないとか全然わからないというのは >いわばその社会から捨てられているようなもので  >それも高速道路で 危険をおかしてまで手を差し出してくれるのは黒人の兄ちゃん ほんとにそうなんです。 その社会からの置いてけぼり状態は、自分だけが井戸の底にいて真っ青な青空を見上げてる、という感覚でした。 言葉がここまでのことをなし得るとは、かつて想像できませんでした。 とくに南仏の人々は、フランスに居るんだからフランス語を話すだろう、と疑わないようで、 道を歩いてたら買い物帰りの奥さんみたいな人に気軽に話しかけられて、 私が行き詰まって黙っていたら、どうしたの?と心配して何度も尋ねてくるので、 走って逃げたこともありました。 相手が悪くもないのに心ならずも嫌な思いをさせるのも、憂鬱のひとつでした。 >そのわからない結果がOKだった それだけのことなんですけど >その時の気持ちはまさにドラマだったろうなあ そういう風に思う文章でした 「そのわからない結果がOKだった」 まさにそれですね。 なんかすごいことをおっしゃっていただいたような気がします。 本当にありがとうございました。  ( 出口まで39キロ~南仏紀行)

2017-12-04

*まりもさん、ありがとうございます。レスが遅くなり、すみません。 >自らの身を守るという切実さが、生み出したものであるのかもしれない。 >そんな、個人を越えて(大袈裟ですが)人類の原体験を肌身で感じているような そうですね。私は子どもの頃から身の程知らずといいますか、環境に頭から突っ込んでいたのでそんな原体験が他にも多かったように思います‥。 このときも、どうしてそんな状況になったの?という当然の疑問はそれとして、この状況はまさにをロビンソン・クルーソーやガリバーのようだ!!と感じていました。身振り手振りは想像していた以上に役に立ちませんでした。 私たちが母国語で何気なくしている会話(おしゃべり)は、実に大海のような語彙の中から最適な語を選びとり、組み合わせて声に乗せ、 成り立っていたのですね。 会話を始める時点で共感の着地点を無意識に探し、それを見出すことで「じゃあね!」笑顔で終わることができていた。 少なすぎる語彙の中では、勇気を出してスムーズに始まったどんな会話も、すぐに座礁し、気まずい沈黙を迎え、それは決裂に似ていました。 >テロの根源にあるものは、不信、疑惑、憎悪、警戒・・・といった感情だと思いますが、 >野生動物が人に怯え、牙を剥き、たとえば傷ついた獣を助けようとしているのに、 >暴れたり噛みついたりする必死さ、その必死さを恐れて、異質なものを排除しよう、 >不信を払いのけようとする感情・・・言葉が伝わらない、介在しない、という情況と、 >それは似ているのかもしれない、と思いました。 地中海を越えてたくさんの人種と言語が行き交い、私には彼らはもはやそれに慣れているようにみえましたが、 歴史の途上で言語はどれほど共に暮す人々を翻弄したろうかと思います。 そしてそれは大陸の人にとっては共通の歴史であり、 日本がどれほど日本語という穏やかな海で私たちを育んできたかを、 世界の中でも特殊なこととしてみるようになりました。 >心細さを抱えている時の心情は、赤ん坊の叫びと似ているのかもしれません。 >驚くほど安易に知らない人の車に乗ってしまった、その驚きの体験記を読みつつ・・・ >車に乗せてくれたアフリカ人は、フランスにもともといる人ではなく、移民なのかもしれない、 >フランスを訪れたばかりの頃の、心細さを知る人だったのかもしれない、と思いました。 その頃はまだテロの時代ではありませんでしたので、外国とは言えヒッチハイクで親指を立てて車を止める映画なんかもよくあったりして、不安よりは「助かった!」と安堵して乗りました。私はドラマの「ルーツ」でクンタ・キンテのファンでしたので、アフリカ人のこともよく知っているような気がしていました。 でも、この後に起こった様々なことを思い合わせると、当時の私が「赤ん坊の判断力」というのは、当たっているかもしれません。 この南仏シリーズを投稿している意味を考えると、我ながら首をひねらざるをえないところがあるのですが、 現実にあったひとつの時間、一つの場所、として流し読んでくださるとうれしいです。 ( 出口まで39キロ~南仏紀行)

2017-12-04

*湯煙さま、ありがとうございます。 >異国の街を移動中に車上からパッと笑顔を見せた途端に集団で睨む相手の側も笑顔になって そういうときの笑顔には翻訳間違いはないでしょうから、一瞬にして流れたものが思い浮かびますね。 昔、アメリカの戦争映画を見ていて、深刻な状況にあってもジョークを投げあいながらというシーンが多く、とても新鮮でした。 (日本の戦争映画にも笑いはあったでしょうが、重く苦く暗いものでした。) 命をどこか軽くしておくと、いい笑顔ができるのかな?とおもったり‥。 ( 出口まで39キロ~南仏紀行)

2017-11-27

*くつずり ゆうさま、ありがとうございます。 >涙が意思を持って流れているようで、愛しさを感じます。 涙はときにはこころの山ひだや木の根を通って流れ、目から零れるときには随分たくさんのことを知っているのでしょうね。 縦書きの文字のようだ、と思うこともあります。 (頬)

2017-11-27

寝たままする、ということの、禁忌を犯すような心の動揺が、幼い頃からの罪悪感をもよみがえらせるさまが、にんげんへのなつかしさのように書かれていて、とても素敵です。前のお作もそうでしたが、跳躍とか飛躍でなく静かに次の連にいざなわれていくのに、詩でなくてはならない何かが深く息づいていると感じます。 (長いつき指)

2017-11-25

*田中修子さん、ありがとうございます~ 例によってわかり易すぎると思っていたんですが、少しは不思議なら良かった! *二条千河さん、ありがとうございます。 >何かを犠牲にして闘うとか、その結果として誇り以外のすべてを失って鉄格子に入るとか、 上記のようなところに「生の手応え」を求めているということは、作中の「私」はもちろん、多くの人にもないのではないでしょうか? 明快に切り込んでいただいて快感を覚えましたが、深読みの印象も受けました。 要約できないところに何かが描けていればと願うところですが、難しいですね‥。 *m.tasakiさん、ありがとうございます。 ごく若い頃、獄中からの通信、という手記が雑誌に掲載されていました。 戒厳令下の国から、どうやって届くのかわからない文章でしたが、その憂いを帯びた筆致を心待ちに読んだ覚えがあります。 言葉(文字)がこの世界にどのように存在するのか、初めて知ったという経験でした。拙作にその痕跡があればと思います。 *まりもさん、ありがとうございます。 『雪の女王』は原作も映画も知りませんでしたので、まりもさんのコメントを繰り返し読ませていただいてます。 愛する人が涙を流すということの神秘に、アンデルセンも見入ったのでしょうね。原作をじっくり読みたいです。 >ゲルダは感性、カイは理性とも読むことができる。 ゲルダとカイを隔てるものがあり(批判精神旺盛な若い日があり)、けれども必ずや「救済され、幸福な魂の全一感を得る」ときには、批判精神もまた最良の形で発揮されるでしょうね。歳を重ねるのがいよいよ楽しみになります。 (頬)

2017-11-22

同感です。心身が健康で長く生きた人こそ本当にすごいものに到達すると思います、どんなジャンルでも。 (「三途川」 下)

2017-11-13

*まりもさん、ありがとうございます。レスが遅れ、すみません。 遭遇はふつう否定的に使われるのですね。 あの句自体はいぜんから知っていて、今もとても好きですが、「遭遇」ということばをつい使ったのは、 意識しないところで、その後の成り行きに関係がありそうです。 >哀しみ、の表し方は、人によって異なる。自身があまりにも深く傷ついてしまっている時には、 >むしろ何事もなかったかのように、記憶の底に深く仕舞われてしまう、ということもある。 表情は自分のためのものなのか、他者のためのものなのか、考えてしまいます。 その接点で、いっときも休まず動いて、時には晒されて、人間の持ち物の中でも相当頑張っている部署ですね(笑。 >自身の悲しみの表現に引き寄せて、それを物差しとして他者を計る、そんな自己中心性をもった書家なのかもしれませんが、 >それゆえに、山頭火の自己中心性・・・ >自己中心から逃れられない悲しみ、を、身をもって知ることのできる書家なのかもしれません。 これはすごいと思いました。山頭火については、詳しくは知らないのですが、 書家の魅力を言い当てていると思います。 以前まりもさんが拙作「歴史遺産」へのコメントに書いてくださった >「器」の言葉は・・・たとえば、貫入にしみこんだ茶渋の色や、金継ぎの痕、時には、火災の煤痕・・・など、 >外見が無言で語るものは別として・・・受け継いできた人々の記憶、その人達の集合的な物語でもある。 が心に残っていますが、 割れた陶器の疵(貫入)から輝き出すような、そういうひとでした。 (個展)

2017-11-08

初読のときには、いくつかのエピソードがやはり唐突に思われました。数日して、 少し飛び飛びに再読したとき、その唐突感が何故か消えていました。 今日、じっくり読み返して、すべてが作者の意図にそったかのように染み込んできました。 無駄な言葉も足りなさもなく、読むという私の行為が、ちょうど、星星を繋いで夜空に星座が浮かぶように、美しい絵を描いたのです。 繰り返し読みたくなるために、一つ一つの情景が、深い闇のそこからやってきた星の瞬きである必要がある。作者はそのことも知っているのでしょう。 素晴らしい才能だと思いました。田中修子という歴史の始まりに立ち会っているような気さえする。 個々に述べたいこともたくさんありますが、黙ってただ三途川にあそぶだけでいいとも思えます。 (「三途川」 下)

2017-11-08

クリスチャンではなくても、ごく自然に自分の中にあった神の存在に対して、つぶやいたり疑問に思ったりしていたことに、さりげない言葉で光を当て、答えてもいるようで、心地よく読みました。 自由を標榜するとき、詩は避けがちなテーマかと思いますが、偉大な存在も言葉が伝え、言葉によらなければ、けっして知ることができないことを想起しました。 (MARIAへ)

2017-11-05

*花緒さん、ありがとうございます。 山頭火の句も、知人の言葉も、問として生きています。そういう大切な疵を、知ってか知らずか誰しもが受けていくのを、 間近に見るインターネットという場の重層性もありますね。 (踏み込みすぎるために、他の方へのコメント付自粛していましたが、少しずつ始めたいと思います。) *斉藤木馬さん、ありがとうございます。 私自身は、他の人にかなしみがあるかどうかを、測るすべは持ちません。 山頭火の句も、その書家の書もその人自身も、今も好きだということだけはいえます。 読んでいただいた方が、「図星」かどうかを判定されるような詩になってしまったことは、残念に思います。でも、美しくありがたいコメントを頂いたと感じています。 (個展)

2017-10-31

なかたつさん、ありがとうございました。レスが遅くなってすみません。 以前私は二つの物語によって、望郷について知っていたつもりでした。 ひとつは『サンダカン八番娼館』という、お金のために異国に渡った若い娘たちが、 多くは死ぬまで日本に帰ることをゆるされず、海沿いに建てられた墓がすべて日本の方向を向いていたという記述によってでした。 もう一つは、『ビルマの竪琴』の若い日本兵が、戦争による彼我の死者の霊を弔うために、 僧となって現地に永久にとどまる決心をし、望郷を振り切って帰国船に乗ることを拒んだときでした。 私の詩の望郷も大きな海を隔てたものでした。 彼らに比べるとまったく自由な帰国がゆるされていましたが、それでも、望郷は知識で想像していたものとは違い、飢餓に等しい感覚だと言うことを経験しました。 いただいたコメントとずっと対話していたような気がします。 「純粋って 残酷よね」と言うことばは、たしかに 「あなた」にも届かず、「私」からも疎まれて、迷子になっていたのかと気づきました。 長い時を経て、あの言葉が過去の情景を引き連れて戻ってきたんですね。 詩に書けたのは、迷子になっていた間に、あの言葉自体が少し大人になったのかも知れません。 (望郷)

2017-10-27

レスが遅くなり、すみません。 ◇田中修子さん、ありがとうございます。 >自分の中にあった感覚や風景を、掘り返されたような。 人生は一瞬だと思いますが、 直線的なエネルギーで、自分も周囲も容赦なく傷つけた若さの記憶は、 夏の夕暮れの心地よさですョ・・。 ◇沼尾奎介さん、ありがとうございます。 >純粋の残酷性について、あれこれ考えさせられました。 純粋の残酷と残酷でない純粋がともにあった時間は、 得がたいものだったと、時々ふり返ります。 ◇はねひつじさん、ありがとうございました。 諍いになった後に、どういうきっかけでそうなったのかを、寄せる波のようにくり返し考えますね。 この詩が始まる前に、「あなた」によって語られていた純粋は、 たとえば、「ベートーヴェンの皇帝の第二楽章がね」、というようなものだったのかもしれず。 残酷な純粋などが登場する場面では、全然なかったので、 「私」はよほど背伸びして、聞きかじりのような台詞を言ったのでしょうね。 真に残酷な純粋が、ここに描けているかは我ながら疑問ですが、 若さの愚かさが書けていればよしとしたいと思います。 ◇夏生さん、ありがとうございました。 >傷つきながら、傷つけたものを匿ってしまう純粋さが憐れのような 今もあらゆる父や母、師なるひとが、身をもって行っていることでしょうね。 自身傷つきながらも匿おうとしてくれた人を、やがて悔恨とともに思い出すとき、 その人はすでになく、「純粋」や「やさしさ」の意味ばかりが残されています。 >純粋が何か考えるより先に動けたことへの羨望と憧憬 若さ愚かさが、苦しくともキラキラする所以でしょうか・・。 ◇まりもさん、ありがとうございます。 >硬質な思惟の言葉が織り込まれているのに、全体にとても柔らかい。 >詩行の飛躍が適度で心地よかったです。 詩行の飛躍も柔らかさも目指すところですが、難しいですね。 この詩では、主語をいくつか省いたので、私の詩が持っている「わかりやす過ぎる」欠点が軽減されたとしたら、よかったです。 「匿う」は「あなた」の行為として書いたのですが、 「わたし」自身の行為として読んでくださった方と、「あなた」の行為として読んだくださった方がいて、 まりもさんは前者だと思いますが、 >恥ずかしさ、に自ら気づきながら、なおもそれを〈小さい生き物のように手の中に匿おうとして〉生きている、生きて行く ととらえた場合の「小さい生き物」の生々しさが、とても新鮮でした。 (望郷)

2017-10-16

*修子さん、今夜はお話ししたい気分でしたので、うれしいです。 >美しい風景の中では、喧嘩も美しくなる、というのは、こういうことなのかもしれませんねぇ~。 今夜は分からず屋ちゃんに対して、心の中でじゃっかん毒づきましたので、喧嘩も美しくなる、 とは済ましていられないことも、多々ありますね(笑。 >(また、テーブルに置く照明を買いました!) この情報がうれしいんです! たくさんコメントありがとう~。 私は詩も批評もあまりに知らないので、今もう勉強しています。 来年になる前に(笑)、皆さんの作品にコメントをたくさん書けるようになりたいです。 ( <歴史遺産>)

2017-10-05

*白島さん、ありがとうございます! >原口統三の『二十歳のエチュード』を思い出していました。 >「純潔という名のこの兇暴」 上記は白島さんの「花の化石」に引用されていて、その存在を初めて知ったのですが、 「花の化石」は全編自分と重ねてしまう詩でした。 そういう場合、胸中でことばが渦巻いていても、コメントができなくなってしまうので、 詩の集いで白島さんが「花の化石」を朗読されたときも、何も言えず失礼しました。 拙詩「望郷」における冒頭の「純粋」はどういうものだったのか。 時に死へ追い詰めるほどのものだったのか。 そういうものを孕みつつも、背伸びして通俗的なところで言葉を発する人間に、 何か大切なものを伝えようとしていた人のかなしみ。 あのかなしみが純粋の意味だったのではと、後にその人の愛した音楽を聴いていて感じました。 今思うのは、「純粋」は歓びであり、死を超えさせるものではないか、 真の生活者こそが知っているものではないかと、言うことです。 追伸: 昨日からNHKのEテレで、 【常盤貴子の旅の手帖、2ndシーズンは「南仏の旅」】 が始まり、南仏の海、街並みがふんだんに紹介されています。 女優さんを初め、映像がとにかく素晴らしいです。 >それさえも打ち消してくれる波の音を、静かに聴いていたい心境になりました。 打ち寄せる波も、きっと映し出されると思います。 →https://cgi2.nhk.or.jp/gogaku/french/tv/ 放 送:水曜日(火曜深夜) 午前0:00~0:25 再放送:翌週 月曜日 午前6:00~6:25 (望郷)

2017-10-04

天才詩人さん ありがとうございます。 すでにフォーラムに kyouto 【詩人の家】(仮名)にむけて として、トピックを立てたのですが、名前の欄に英数字が入ってしまいました。お手数ですが、fiorina と差し替えていただけないでしょうか。よろしくおねがいいたします。 ( <歴史遺産>)

2017-10-01

誤記を訂正します。 ①まりもさんへのレス中  ただ日常使う美しい雑記や、→ただ日常使う美しい雑器や、 ②天才詩人さんへのレス中  もしよろしければ、bレビュウの掲示板で、→もしよろしければ、bレビュウのフォーラム・雑談コーナーで ( <歴史遺産>)

2017-10-01

*アラメルモさん、ありがとうございます。 自分のできる範囲で、どこまで豊かに生きられるか、人生の後半には試せますね。 現ふぉに最初の私信を送らせていただきましたが、 今後はbレビュウの私信、又はフォーラム・雑談コーナーでの公開書簡でいかがでしょうか。 *花緒さん、ありがとうございます。 >滅び行くという美、という観点をもっと推し進めて書かれた物を読んでみたいような印象も受けました。 ものや出来事に時間が宿り、それが美になったり、滅びになったりするのを、 わたしたち人間は、「視ている」「記憶する」存在として、何かを託されているのでしょうね。 焦点を絞ってこれからも書いてみたいような気がします。 「ダグマⅢ」は私にもとても愛着があり、うれしく読ませていただきました。 *まりもさん、ありがとうございます。 コメント(具体例)そのものが、深い洞察と理解を土台にしたクリエイティブライティングと感じました。 私は美術や歴史についての基本的な学びがあまりなく、美術館等の狭い場所も苦手で、 訪れることも稀にしかありません。 ただ日常使う美しい雑記や、散歩の途中に見る建築や庭、見渡す景色に思うことを 無知を怖れつつ書いているのが現状です。 テロや戦争に言及しましたが、基本は、「最高の散歩道を私にくださいな」 というのが出発点です。 それでも、空にも大地にもあふれるほどの圧倒的で繊細な美があり、けれど、 そのことに気づきもしないかのように滅びていきます。 人間はそれを惜しむためだけに生まれたのか、と思うほどです。 そして、滅びまい、滅ぼすまいとする儚い努力を続けています。 自然の無尽蔵に比して、人間に属するものはあまりにも有限であることに気づいているからでしょうか。 映画「イル・ポスティーノ」の郵便配達夫は、そのすべてを虚心に驚き、愛する人でした。 >たしかベトナムのアーティストだと記憶しているのですが(名前を失念しました)描いた作品を、 >野ざらしにするのですね。そして、紫外線に焼かれ、雨に打たれて、朽ちていく、その経過そのものを、美として提示する。 このアーティストも同じ心の持ち主なのでしょうね。 しかし、言葉を持つ人(ネルーダ)は、それらを書き留めました。 「イル・ポスティーノ」には、滅び行く美と、文字を(初めとする記憶する手段を)獲得した人間の運命が描かれていたと思います。 狭い意味での歴史遺産もその有限であることにおいて、できるだけ長く持続して、 現代に失われている美や技術を伝え、復活するよすがとして欲しいと私も思います。 けれども、そのために今生きる人間の生活を遠く離れてしまったら、何のために存在しているのか、 ただ未来に引き渡すためだけの保護になっているのではないかと感じます。 今生きる人間の時間が寄り添うことでしか、まりもさんの言われる「集合的物語、記憶の集積」と言う美を積み重ねることも、 そこに触れた人間たちが生き生きと物語ることもできないと思うのです。 私たちは、あの郵便配達夫であることだけでいいな、と思いつつ、 書き記すという誘惑に負けていくのかも知れません。 *天才詩人さん、ありがとうございます。 >京都に詩人さんのたまり場をつくる話、クラウドファンディング等をつかって本格的にやってみたら面白いのではないでしょうか。 文学極道の「明け方の夢」という荒唐無稽な詩から始まったことですが、本格化するとなると気を引き締めてゆきたいと思います。 目下アラメルモさんとの私信段階ですが、もしよろしければ、bレビュウの掲示板で、クラウドファンディングを含め、多くの方のご意見を聞きながら、 アラメルモさん(清貧に豊かに)と私(孤独な女性詩人が何度も訪れたくなるような、美しくおいしく居心地のよい場)を目指して、 【詩人の家】(仮名)をつくっていきたいです。よろしくお願いいたします。 ( <歴史遺産>)

2017-10-01

まりもさん、小気味よいコメントをありがとうございます。 >歴史的美や、美の思想の欠落、それこそが、話者が問題として投げ掛けたいものではないのか? だめ出しの部分だと思いますが、とてもうれしく読ませていただきました。 上記を考える詩やエッセイで、常に前提として私の中にある柱のようなものでしたので、 今回は、脚色を加えずそのまま置かせていただきました。 が、独立した一編として魅力的に作品化するということが、伝達したい性急さのゆえに往々にしてできていない、と反省しています。 それこそ風景のように、全体と細部の美をともに追求しないといけませんね。 >あまりにも正論を淡々と抑制的に論理的に記しているので、語り手の感動の所在や、こうした発想に至る必然が見えない。 そうですね。他の多くの作品でそれに触れた際、正論と言うより極論と受け取られているのでは、と言う恐れがいつもあるのは確かで、それに対する身構えもあったかも知れません。 ついしん: 以前まりもさんが拙作「ダグマ Ⅲ」へのコメントで書いてくださった >文化遺産や歴史遺産を「人質」にとって、自分たちの短期的、短絡的な欲望を満たそうとする・・・ >この不毛性と・・・文化遺産を守るために、失われる命の問題と・・・。 >ドレスデンの再建に関する、詳細なドキュメントと人々の情熱を見て、圧倒された想いがあります。 に対して、以下の部分は私なりのレスになるかも知れないと思っています。 >そして(これは暴論になるかもしれないが、)それでもなお滅びるものがあるとすれば、 >その「滅び行くという美」の存在も認めていいのではないか。 >むしろ歴史的美をふまえた新たな歴史遺産の創造に積極的に取り組むべきだと思う。 アラメルモさん、コメントありがとうございました。 >美しい論文は充分詩にも成り得るはずで、それは何をもってして美しいと解釈するのか。 >あなたの色、あなただけの言語色をもう少し意識してみたら如何だろう。 >脳裏に浮かぶ瞬間の残像 示唆に富んだコメントありがとうございます。 確かに、かつてそういう散文、批評(嵐のような、天翔る馬のような、万華鏡のような)を連日読んだことがありました。 さては酔っ払って書いてるな、と思ったものでしたが(笑)、 飲んでも飲まなくても、地に足がつき醒めすぎていると感じさせたら、その時点で負け?かもですね。 (余談について。 詩人が気軽に集える拠点作りを、いよいよ始められるのでしょうか。 又、ご連絡しますね。) ( <歴史遺産>)

2017-09-30

あ、時間がかぶっていましたね。 どの問題をとっても 本来なら軽く扱える問題ではないです。 それなのに るるりらという個人あてなのは、辛いです。 世界と一人の人は、どちらが重いという問題では無いと思っています。 ですが、るるりらさんのお気持ちもわかりますので、 この掲示板での訂正はできないとしても、 他へ転載の場合は、タイトルは 広島 末尾への註も割愛した方がいいかもしれませんね。 るるりらさん、ご心労をかけお詫びします。 花緒さん、よろしくお願いいたします。 (広島)

2017-09-27

花緒さん、ありがとうございます。 るるりらさんへの返信のために書いたもので、作品としてみていただけたことが驚きでした。 自分の詩は、詩的な何かに乏しいたどたどしい作文だなあと思っているので、申し訳ない気持ちですが、選んでいただいたことに感謝し、今後の励みにしたいと思います。 タイトルですが、私としましては、広島 のみとし、~るるりらさんへの返信~を詩の末尾に付す、という風に(るるりらさんの方でお差し支えなければ)お願いしたいです。 よろしくお願いいたします。 (広島)

2017-09-27

*うたもちさん、コメントありがとうございます。 無謀さのゆえに、現地での困難や歓びは波のように押しよせ、その記憶と、 いま日本での揺りかごの日々が混然として、心地よい浮遊感があります。 でも、用意周到な賢い旅は、遙かに上質な経験をもたらしてくれるでしょうね。 変貌した世界を知りつつ、つぎは、そんな旅を私も夢みています。 *まりもさん、コメントありがとうございます。 昔、小説を読んで、詩人の書く散文は美しいが疲れる、と言う素朴な感想を抱きました。 何が詩であるかを、詩人のペンで提示されることに、生意気にも違和感さえ覚え、 この経験から、散文を書くときはベタな叙述である方がいいと思っていました。 詩を書くようになって、多くの詩人の散文に触れるうち、詩であることの他ではなしえない何か、 その光りを感受しつつも、どのようにそれがもたらされるかは今もって何も知らない、と痛感します。 その秘密は何かがわかったら、書くこともどんなに歓びになるでしょうか。 まずはいたずらな叙述をできるだけ排除、その過程で、詩に遭遇したいと・・。 (【赤いコート】)

2017-09-25

ついしん: 今気づきましたが、拙作に登場する「哀愁」のストーリーとも絡んだ、三浦さんの返詩でしたね。ありがとうございます。 (【赤いコート】)

2017-09-22

三浦さん、返詩ありがとうございます。 懐かしい猥雑さがありますね。 通りのどの一角にも、その建物の持つ陰があるように、行間に消えていくような薄暗がりが、 都市の(人々の)存在感をあらわしていると感じました。 フランスを、特にパリを美の都と眺めるのと、実際の生活感は異質ですね。 むかし「ポンヌフの恋人」という映画に描かれたホームレスの若者たちを見て、 (はじめは生々しい描写に嘔吐をこらえきれませんでしたが、) ラストの場面では声を上げて泣いてました(笑)。 私のパリの安宿がモンマルトルのムーラン・ルージュ近くでしたので、深夜、 螺旋階段の踊り場にあった外トイレにいくとき、 ムーラン・ルージュ帰り?のカップルに出くわしたりしてました。 サン・ドニ通りは、それよりもセーヌ川に近い場所ですね。 私は地図を持たずに足の向くままに歩いたので、知らずに通り抜けたかもしれません。 このときのBGMは「巴里の空の下で」(鼻歌)でした。 夕暮れになると、(仕事の後や前のひとときを、)この登場人物たちも、 セーヌにかかる橋やモンマルトルの丘の上で恋人と抱き合い、 あるいは一人エッフェル塔に向かって祈るように過ごすのでしょうか。 川沿いの建物のシルエットが素晴らしく、この時のパリはまさしく美の都でした。 フランスのビルの構造上だと思うのですが、地上に近い部屋は食べ物の腐臭に悩まされますね。 ねばりにねばって最上階に変更してもらったあとは、夜はお向かいのビルの窓に、 フランス人には珍しく?一人食事をとる男性や、素敵なランプの灯りに照らされて読書する女性が見られました。 自室の灯りを消して澄んだ冷たい月光を眺めるときは、静かなピアノの曲が流れるようでした。 (【赤いコート】)

2017-09-22

ウエキさん、こんにちは。 >「恍惚の人」は森重ではなく森繁(森繁久彌)ですよね。 ほんとですね(笑)。 ありがとうございます。 (広島)

2017-09-21

現代でも違和感がない近未来、として読みました。 > 悲しい時代があったのね、でも、そんなに変なことかしら >君はそうは思わない? > あなたが私といるように、他の誰かじゃないように、あなたのそばに生まれただけで、あなたにたくさん愛されて... 「君」の柔らかな感性が愛の言葉そのままに、壁という不思議な存在、そんなものをこしらえる人間を照らし出しています。 排他性(壁)が深いところで愛と関わっている、と「君」が直感しているとでも言うように。 「僕」の視線の先にある外界のいびつで不可解なあらゆるものも又、 人間の内側にあらかじめ存在し、それが形をなしたに過ぎないというように。 柔?と剛?そして会話と思考のバランスが良く、みじかいなかに書き込まれていると思うのに、息苦しくないなあ、 と繰り返し読ませていただきました。 (巨大な壁の残骸)

2017-09-18

まりもさん、レスが遅れすみません。 旅先で風邪を引いて、しばらく脱力していました。 >〈血流のような真実となってみるものの血に乗り移ってくる。〉 >これは批評文の中における「詩的」な感受、詩として感覚された部分、ですよね。感動を体感的に伝える部分。観客の血が滾り立つよう>な感覚、と言えばいいのでしょうか。 >文字に、いわば凍結されている演劇を、蜷川の演出が解凍してなおかつ火を入れて、観る者の血に乗り移る、までに高めてくれたことへ>の賛辞であると共に批評でもある。 漠然とした気づきが、詩的感受となりうるということでしょうか。嬉しく読ませていただきました。 そして、まりもさんのこの描写自体が、そのようだ、と翻って感じました。 作者と受け取る側が、一つの作品を支えつつ交感をするとき、そこに詩が流れているとしたら、 何かが達成されていると信じられますね。 >〈「王女メディア」はギリシアの三大悲劇詩人のひとり、〉ここから後の部分は、いわば純粋な批評というのか、作品紹介(本人の感想>、批評、含めた)部分なので・・・その前に破線とか*とか、何か区切りを入れた方がいいような気がしました。 文章を引き締める上でも、これから幕が開くを言う意味でもあったほうがいいと思いました。 いつも、示唆に富んだコメントをありがとうございます。 (<演劇「王女メディア」>)

2017-09-17

この世、今見えているものみな幻であり、リアルと信じていること自体狂気で、自分を含め道行く人は皆狂人だと思います。 自分にとってのありふれたを書き切れば、結果として狂気が描けているのではないでしょうか。 (詩論:再び偽りに終わったとしても)

2017-08-26

三浦果実さん、ありがとうございます。 一度スタッフの方におたずねして、詩でなくてもよい、とお返事をいただきましたので散文を連ねております。 今回のものは、批評と言うより、めまぐるしく流れる情報に埋没した(私にとっての)名作の紹介として 投稿させていただきました。 演劇は好きといいつつ途中で一度は眠くなる私ですが、本作は戦慄の内に全編を楽しみました。 舞台となったギリシアの劇場も一見の価値ありです。 (DVDの個人的な入手は今困難かも知れませんが、図書館にはあるかも知れません。)   >昔のロッキング・オンみたいな ロッキング・オンは知りませんでしたので、今調べましたら楽しそうですね。 書く人も読む人もうれしく元気が出る場、だったのでしょうね。 (<演劇「王女メディア」>)

2017-08-25

るるりらさんへ ありがとうございます。工兵橋だと思います。 「広島と廣嶋の光景を結ぶ大切な橋」だったのですね。 吊り橋から下流を覗くと、柔らかな砂地が半月のように現れて、 静かな流れに桜の枝と陽光が映るのがきれいでした。 土手のうっそうとした桜並木に、これが戦後復活した街?と驚きを禁じ得ませんでした。 上手の苔むした塀の細道を入っていくと、大きな家も並んでいて歴史を感じました。 お線香の香りに誘われて、幟に色とりどりの布を垂らしたお墓が延々と続いているところにも (寺町だと思います。)たどり着きました。       ♢  ♢  ♢ >ドイツ兵が破壊されないと誤解するような力を強調し そのような力はある。という表現をしておせれる。そこに 私は首をかしげたのです。  でも、実際にはドレスデンは破壊されたと書いておられるではないですか?美の力だけでは 崩壊は まぬがれなかったということでは(・・? 風景には破壊を免れる力は無かったのです。            (るるりらさん) ここが争点ですね。そして、再度の問いにくり返しお答えしたつもりでいるのです。 るるりらさんが言われている、「美しい場所だったが破壊されたではないか」、というのは、 美しい場所がだめだったのではなく、破壊した方が無知だったからだと思うのです。 この点を私は、【熟知】ということばで書いたのです。       ♢  ♢  ♢ 【熟知】について 美しい街で歓びとともに寝起きし、それらを作り上げた先人や長いじかんに思いをはせ、 自然にわき上がってくる感謝の念の中で育っていく。 ヒットラーやアメリカの大統領、過去の日本の侵略者がもし生まれ変わったら、 そういう場所で赤ちゃんのときからやり直して欲しいと思います。 一見そういう場所に恵まれていた彼らには、 美しい場所で育つことの内の何かが欠けていた、熟知をしていなかったと思うのです。 人間の暮らしを歓びのうちに皮膚から毛穴から呼吸して、 景色ごと、おいしいパンも葡萄酒もあなたもわたしも、 大切に思わずにいられない。 それがなし得るのは、真に美しい環境ではないかと思っているんです。 それは人びとに平等な福祉であり、やればやっただけ歓びが増していく事業。 家庭が不幸せであるときも、一歩街に出れば目から幸福が飛び込んできて、 ここでなら永遠に生きたい、でも今すぐに死んでもいいわ、と思うような、 一回きりのわたしたちの人生の書き割りであり、舞踏会場。 生きとし生けるものが漏れなく死んでいく場所として、 すべての魂に最高の死に場所を与えることでもあります。       ♢  ♢  ♢ その美しい街、とは、こぎれいな街、ではないんです。 圧倒的に美しい街、信じられないほど素敵な街、人間にここまでできるのか・・・、 ここに爆弾が落とせるなら落としてみろ!とさえ言ってみたいほどの街なんです。 (そして、それらを享受するのは、これから生まれるすべての子どもたちや訪れる世界の人々なので、 分母に無限大が来る、すなわちコストは限りなくゼロに近いと思うのです。) そんな夢物語、と言われるかもしれませんが、 度重なる戦禍にもかかわらず、それを実現しようとしている国は、 たくさんあります。ドレスデンはそれらの地のひとつの例として書きました。 twiterにそういう街や村の画像を集めていきますので、 よろしかったら覗いてみてくださいね。→https://twitter.com/bara20006       ♢  ♢  ♢ >私は、この詩の中にでてくるご年配の方のセリフ部分が好きです。私も暗い様々なことに頭を使うことばかりが良いこととは 私にも思えないからです。 (るるりらさん) 【そげんあたまをつこうたらいかん】について。 私は小さい頃から頭痛がひどく、母親は元気に育つことを最上としていました。 その願い通り、自然のなかを歩き回ることしかしないように育ちましたので、 机に向かってるのをあまり見たことが無かったんだと思います。 「あたまをつかうな」は普通の親とは違うらしいし、 それを頭の弱っていた母がそばから心配そうに何度も言ったので、 可笑しかったのです(笑)。 「私も暗い様々なことに頭を使うことばかりが良いこととは」(るるりらさん) るるりらさんや他の方々に暗く頭を使わせたとしたら、お詫びするしかないのですが・・・。 自分の我が儘な歓びのために、ごく偶に少しだけこうして頭を使うのは決して暗くはありません。 私の時間の本当にわずかな部分ですので、どうかご心配なさらないでくださいね。 再度のコメント、ありがとうございました。 (広島)

2017-08-19

こんにちは~ もともと修子さんの詩には、「届かない腕」を読者のもとに置き去りにして、 何か太いことばのリアルさをずっしりと残しながら、 ぶっ飛んでいく快感があると思っていますが、 本作では「届かない腕なのかもしれない。」 の周辺をぐるぐる巡りながら、追認しているだけに見えます。 最後まで新たな展開が見えず、 読者も一緒に逼塞感の中に取り残されてしまいました。 表層の下に潜んでいる痛点を、なんとか探そうとしているのかも知れませんね。 その行為そのものが病だったのか、治療だったのか、 私にはわからないのですが・・・。 (こんなに-し合っている私と君は)

2017-08-15

「あなた」という人物の魅力が思う存分一連に書かれています。 それをひらいて見せたやや重複感のある2、3連は 一連にまとめて言葉少なにする方が、 タイトルに呼応するかと。 黙するという行為の現代版、積極果敢さを思いました。 (黙すること)

2017-08-15

湯煙さんでしたか。 某所で先に読ませていただいて、とてもよかったです。 ひとつの家の中で、家族の認知症は いつを境にどんなふうに認知されているのか。 身近に接するものだけが知る、 小さな行動の異変を、 ことばに出す以前の一人一人の心の中で、 ゆうぐれのように音もなく(優しく) 進行していくもの。 その戸惑いと、 まだ名付けられないことで 人の生きる自然な姿として老いを受け止め、 足りないことに添っている家族が描かれていると思いました。 そのなかに、 手から手へと赤い花がわたされていくように、 明るんだいくつもの一瞬があると。 三人の表情が見えてくるようでした。 (花)

2017-08-14

追記です。 2連の殺虫剤を抱いてなど、も母の描写でした。 (広島)

2017-08-11

まりもさんへ 過去に「ダグマ」において、自分が住んでいる町や好きな街を 大切そうに書いていた頃、 戦争においてまもられなかった街広島からの声として、 るるりらさんよりコメントをいただきました。 そのレスとして、広島に対する素朴な感情、自分の広島を書きました。 福島は、今回書き添えましたが、年代が矛盾しますね。 ご指摘ありがとうございます。 2連、他国の背を押す、は、ソフィーがそうであったように、 一人の個人が心の中でする、してしまう、ぎりぎりの選択を あくまで個人レベルで考えていましたので、 国同士の行為とは思っていまませんでした。 いつもありがとうございます。 (広島)

2017-08-11

いえいえ~ 随分前同じやり取りをしたなーと思い出しましたが、 お互い変わらず、それなりに健やかなので こういうときは、やっぱり多様性の尊重でしょうね。 メールはゆっくりと夜にしますね。 (広島)

2017-08-09

湯煙さん、ありがとうございます。   >ドナウ川を抱く街と空を一望する風景を硬貨の片面全体に写実的に刻み込んだという うわあ、想像するだにすごいですね! (あとでじっくり検索してみます。) ドイツは壮大なものへの取り組みを厭わず、それをまた精巧な技術で小さいものにも籠めていったのですね。 そういう点で日本と気質が本当に似ているなあ、と思います。 そういえば、日本の10円玉にも、平等院鳳凰堂が描かれていますね。 親戚の小さい男の子が、10円玉のところに行きたいんだ、というので、 一緒に宇治に行ったことがありました。 私は2003年頃からこうしたことを書くたびに、他の人も自分も傷つけているのを感じます。 今はテレビや映画で、他国の美しい風景を見る機会も増えていますので、 お詫びするとともに、どうか少し傷ついた目で、それらを見てほしいと願っています。 かつての自分がそうだったように、見てはいるが視えていない、ということがあるかもしれませんので。 湯けむりさんのコメントは、ダグマに捧げる素敵な贈り物になります。 ありがとうございました。/ (ダグマ Ⅲ)

2017-08-05

るるりらさん、ありがとうございます。 私は自由を大切にしているつもりですので、多様性をというるるりらさんのお気持ちはわかります。 「美しい街や村を、明確な意思を持って住人が育てると、やがてそれは不思議な力で彼等を潤し、護るだろう」という思いから私は発言しました。 この点に関して、「いや、風景など育てる必要も、美しくある必要もない上に、日本の現状は最高に美しい。」という意見は明確に否定します。この点で私は多様性を認めていません。という、一つの立場を取ります。      >そんなことより、建造物や風土への美意識をもっていても、戦争相手に破壊を行えるのは どうしてか?です。      >それは、相手の自分たちとは違う多様性を尊ぶ気持ちが持てない状況だったからです。それを戦争と呼ぶのだと思います。                      (るるりらさん) 繰り返しになりますが、そのことを私は『熟知』という言葉で書きました。 理解はしないが人は人、という、どこか投げやりに聞こえる多様性の尊重よりも、 日々の暮らしの中で大切なものを深く味わい知る(熟知する)ことで、他者の暮らしも自然に大切に思う、 そういう心を小さいときから育てる環境を、と書いたつもりです。 ところで、これは議論の場にふさわしくないかもしれませんが、本音のところを少し書いてみます。 「より美しい風景を」という意見は思いがけず多くの方が反感を示しますので、こどものころ「部屋を掃除しなさい!」と言われたときのような鬱陶しいものがあるのかな、と想像しています。 多くの方が反感を示す、という意味で、るるりらさんは圧倒的に多数派なのですよ。 どちらかというと孤軍奮闘している私に向かって多様性をいうよりも、るるりらさんは多様性を尊重して、私の荒唐無稽?な思いつきを放任あるいは保留して時に委ねるか、多様性を尊重して真意を汲み、みまもるという態度を示してくださればいいのではありませんか? あくまで違いを浮き彫りにし、寄り添うか戦うかしたいとおっしゃるなら、私と一緒にこの本を読んで下さいませんか? 『美しい都市をつくる権利』 五十嵐 敬喜 2冊ありますので、一冊お送りできますよ。 (ダグマ Ⅲ)

2017-08-04

田中修子さん、ありがとうございます。     >とても便利で、わりとおしゃれで、かなりなんでもありますけれど、北の友人が遊びに来た時に「楽しい地獄」と そんな場所がありますよね。若い頃は、そういう経験も良かったかな、と自分を振り返って思いました。 「楽しい地獄」といった北の人は、海や山をふんだんに浴びた人なのでは? その人の存在も含め、修子さんの人生の風景に転機が訪れているのかもしれませんね。 自分の部屋は風景の最初のページですので、そこが変わればおのずとドアを開けた世界も変わっていくと思います。 街自体が変わるか、修子さんが翔び立つかはわかりませんが。 修子さんの言葉には不思議な力を感じますが、もう一方にその風景を携えて生きていけば、 怖い、という感覚よりも、自分に訪れるものをひたすら楽しめると思います。 そんな一人の理想は世の中の理想とリンクしているので、「風景至上」は幻想ではないと思うんですよ。     >ジャン・ジオノの「木を植える男」 ご存知かもしれませんが、日本にもそれを実践し続けて人が存在します。 日本ばかりでなく、世界中に独自の理論で木を植えてゆき、幾つもの砂漠をみどりの森に変えました。 私は彼の方式をyoutubeで学んで我家の庭でやってみましたが、 数年前に植えた苗木が、今は二メートル近くなってやがて林をなす勢いです。 日本には他に枯れない苔を生み出した人もいて、どんな砂漠でもまた雨が降れば、 活き活きをした緑が復活するさまを見たことがあります。 私はビルばかりが乱立する大阪の都市の壁面にこの苔を貼り付けて、 サボテンの森のような愛らしい街となっているのをよく夢に描きます。 現代の技術と古の知恵で、風景は育てていくものという方向性だけが行政、個人ともに一致できれば、 都会の砂漠も、寂れていく過疎の村も、確実に変わっていくかもしれませんね。 (ダグマ Ⅲ)

2017-08-03

    >誤解を産むような表現が 互いに異なった言葉の歴史を持つので誤解はつきものですが、それを解く過程には快感がありますよね。 私自身、風景のことになると何故か戦闘モードに入るようです。気をつけなくては…。 再々レス、ありがとうございました~! (ダグマ Ⅲ)

2017-08-02

るるりらさん、ありがとうございます。 美はあったけど攻撃された、とか、ヒトラーも美しい風景を愛する人だったが破壊をした、という表現に、 美しい風景があっても意味はない、それどころか、ヒトラーゆえに美しい風景までニクイと思われているのかと。 それで、パンもぶどう酒も洋服も靴も美しい風景も、いつも悲惨な歴史とともにあったが、 皆それぞれ独自の価値を持つと言いたくて、質問というより、 「るるりらさん、そんなことはありませんよね!?」という確認の、あえて反語的な使い方をしました。 再レスを受け、勘違いと表現のまずさをお詫びします。 ところで、食いしん坊精神、もったいない種族から言えば、パン一切れのためにだって爆撃を思いとどまってほしいですよね。 美味しいパン、丹精されたぶどう酒、素敵な洋服、かっこいい靴、 そしてそれらを作った人々、を暖かく包み込む素晴らしい場所、 日々の営みそのものが防衛となりますよう。それを甘いと言わないで(→ その他の方)、てかんじかな? (ダグマ Ⅲ)

2017-08-02

Migikataさん、ありがとうございます。 カート・ヴォネガットも作品も知りませんでした。      >破壊し尽くされてなお失われない、人の生きる営みの核のような部分(Migikataさん) そうですね。私も風景て何なのか、と思うとそこにたどり着くような気がします。 住人が存在せず、廃墟となっている美しい街を思うと、人の営みこそが血流だと感じます。 そのうえで、私は無い物ねだりをしているのかもしれませんね。 生き生きとした暮らしをしている日本には、あえて今以上の美しい街は必要ないとも思われてきました。 明日から、『スローターハウス5』を読みます。 感想がかけたらどこかに書いてみますね。 (ダグマ Ⅲ)

2017-08-02

竜野欠伸さん、ありがとうございます。    >ユダヤ人強制収容所跡地が祈祷のための聖地でもあるとしたら、ドレスデンの爆心地もやはり、ドイツの大量無差別爆撃被爆地として祈りを捧げる聖地でもあるでしょうね。(竜野さん) そうですね。日本に置き換えてみればわかりやすいかと思います。 悲惨な歴史も(後世、それが統計になろうと、歴史の解釈を交え政治的に宣伝されようと、) 目を凝らせばひとりひとりの人間の上に降り掛かった苦難であり、運命ですね。 そこに流された血が聖地を作るのかもしれません。 私は、歴史の善悪を知らないかのように、ただその光景に目を凝らしてみたいと思いました。    >佇む美しい風景が戦火から市民を守ることにつながる、という信仰がドレスデンを無差別空爆の惨劇に導ていたとして。(竜野さん) ドレスデンは人間の歓びを追求して築かれ、(戦争がなくても、)美しく芸術を謳歌する街だったのではないでしょうか。 無垢の民という表現には、(仏教的な実感からは)戸惑うものがありますが、いつか誰しもに訪れる死の瞬間なら、 ドレスデンが死の場所だったことを、「ここでなら、いい」と思った人もいたかもしれませんね。        * るるりらさん、ありがとうございます。 たとえば、ヒトラーも原爆投下の米軍も、パンを食べ、ぶどう酒を嗜んでいたと思いますが、 るるりらさんは美味しいパンや芳醇なぶどう酒をヒトラーゆえに遠ざけていますか? 洋服や靴を履かずに生きておられますか? ヒトラーが美しい風景を愛したことは美しい風景の罪ではありません。 むしろ美しい風景のもつ意味を、熟知していなかったからこその蹂躙だと思います。 熟知というのは、本で読んだ知識や想像のことではなく、 その中で生い育ち、街を流れる雲や木漏れ日にさえ宿る神秘の響きを浴び続け、心の中から湧き上がる感謝に包まれる、 ということです。 そういう熟知こそが、他の国の他の街や村を破壊することも、人類全体の喪失であり自分自身の痛みだという想像力の源だと思います。 子どもたちにまず、そのような街をつくってあげなければ、その歓びが長い時をかけて得られたものだと心から感じさせなければ、 熟知には至らないのです。 (ダグマ Ⅲ)

2017-08-01

まりもさん、ありがとうございます。ダクマは今回でおしまいですので、 少し脱線的におしゃべりをしてもいいですか? (読み流してくださいね。) 私には風景が、朝目覚めてから夜目を閉じるまで、絶え間なく目が食している食べ物だという気がします。 その栄養は脳だけでなく、全身にゆきわたり、明日の生きる糧となっている。 その目から食べる栄養を、ありあわせの食材をぞんざいに盛り付けて、美味しいかどうか考えもせず食べているのが 私達の現状だとしたら、どうして目には、心を込めて作ったごちそうを日々食べさせたいと思わないのだろうと。 「別に美しい街でなくても、私の街は故郷は人々が日常を精一杯生きているというだけで無限の価値がある!」 という声を聞くことがあります。 それはそうなのですが、食べ物が栄養価だけでなく美味しいほうがいいように、風景もきっとそのはずです。 「ほんとうに美味しいものを作りたいとねがって心をこめれば、 誰でも美味しい料理が作れますよ」料理研究家の栗原はるみさんが言っていました。 もし故郷の今が、自分自身の心が嵐なら、いつか落ち着いた日常が取りも出せたときに、 心を込めて美味しい風景を。 それがどんな素敵なことかは、いつの間にかそういう街や村の真ん中に生きていたときに感じるのだと思います。 その時、周囲を駆け回っている子どもたちは、わがまちの美しさを隅々まで味わい尽くし、 こんな素敵な場所を作る大人ってすごいな、と思うかもしれません。   >文化遺産や、文化遺産を愛する気持ちが、人間性の最後の砦、となり得るのか。                  (まりもさん) 一人の人間も集団もどんな酷いこともなし得る、と歴史は教えています。 それだから最低のルールとして、法があるのだと思いますが、その法をかいくぐって悪事は行われ、戦争は起きました。 為す術のないかに見える破壊・殺戮に対して、たとえば現在の核が恐怖の抑止力だとしたら、 人間が生きる場所の美しさを熟知した人々自身が、その生きる場所とともに、 最後の砦、歓びの抑止力になると思っています。 (ダグマ Ⅲ)

2017-07-31

花緒さん、ありがとうございました。 先日、近隣国の若い指導者が都市づくりに力を入れているという映像を見ました。過剰な軍備ばかりが伝わってきますが、街をつくるこころは破壊的な未来を描いてはできないと感じ、少し安心しました。 私達の国にあっても荒んだ風景に生い育ち、破壊的な衝動の強いひとびとにとって、美しい風景が抑止力になるなど、到底信じられないことだと思います。 でも、第二次大戦下のパリは、ドイツの司令官のもとでドイツ軍による報復的なパリ壊滅を最後の最後に免れたそうです。単純ではないストーリーがあったとは思いますが、パリという街の姿が大きな役割を担っていたことは確かです。 (私も先日はじめて映画を観て知りました。有名な映画でしたが、題名を失念。) ただ漫然とでなく、確かな意思を持って音楽のように刻々訪れてくる風景をわがまちに育てれば、そしてその価値をより多くの人が熟知すれば、風景はやがて不思議な力を持って人々を護ると思います。 (ダグマ Ⅲ)

2017-07-30

天才詩人さん ありがとうございます。お言葉を受け、「アタの涙」の最初の投稿を少し修正加筆し、投稿作とさせていただくことにしました。ご配慮、ありがとうございます。 (イヴ・サンローランのフランス)

2017-06-10

スタッフの方へ お手数をかけ申し訳ありません。 以下の加筆訂正した文章を、本投稿として差し替えていただくようお願いいたします。 その上で、削除扱いとしていただくようお願いしたことを取り消します。 なお、履歴として最初の投稿も下欄にコピーしておきました。 アタ  9・11アメリカ同時多発テロの実行犯アタは、建築を学ぶ若い陽気な学生であったという。犯行後世界に広まったパスポートの写真は、あごの張った四角い意志的な顔だったが、同時に紹介された学生時代の写真はスリムで、まぶしく世界をみているような魅力的なほほえみを投げかけていた。 (※私は偶然あの日のおそらく同じ頃、パリからロンドンに向かう空の上にいた。事件を知ったのは翌日、立ち寄ったロンドン・ヴィクトリア駅の並んだ大画面が、すべて真っ赤に炎上していた。日本に帰国して程なく、NHKの追跡ドキュメンタリーがあった。フランスの寮生活で親しく挨拶を交わしたアメリカの知人の消息を占うようにして観ていたのだ。)  ナレーションがさりげなく「アタは、爆撃によりイスラムの美しい建造物が破壊されるのを憤っていた」と続けたとき、ふいに涙がこみ上げた。一瞬にして、イスラム建築を愛する、やがてその建造にみずから携わろうと夢見ていた、一人の「陽気な」学生の踏みにじられていった心の軌跡が見えた。 人の命だけでなく、建造物もまた生命を持ち、ときには祈りと魂の象徴であり、そこに暮らす人々の生きる時間そのものなのだ。  それらが破壊されることに対するイスラムとアメリカの違いはどんなものか。(テロリズムを擁護するつもりはかけらもないが、)様々な歴史のもつれ、要因を捨象して、今そのことだけを考えてみる。  その財力を持って平和裡にいつでも失われたものを再現できる国と、ひとたび失われれば二度と(あるいは自分の生存中にはまず不可能に)相まみえることのかなわない国と。  そして何より、建造物に寄り添ってきた長い美しい時を、愛と祈りそのものの掛け替えないものとして共に生きた人々にとって、一瞬にしてがれきとなす破壊がもたらす絶望は。  今なお続く事件に対するあまたの憶測の中で、あの日崩れ去ったアメリカの建築の象徴と、死者と生者がともに見つめたあの真っ青な空が、変貌を遂げた世界の象徴として刻印されている。 「アタの涙 」(修正前) fiorina - 2017-05-25  9・11アメリカ同時多発テロの実行犯であったアタという人物は、建築学を学ぶ若い陽気な学生であったという。爆撃により、イスラムの美しい建造物が破壊されるのを憤っていたと、当時のNHKのナレーションはさりげなく伝えた。犯行後世界に広まったパスポートの写真は、あごの張った四角い意志的な顔であったが、同時に紹介された学生時代のアタの写真はスリムで、まぶしく世界をみているような魅力的なほほえみを投げかけていた。  一つの建造物が破壊されることに対するイスラムとアメリカの違いはどんなものだろう。(テロリズムを擁護するつもりはかけらもないが、)様々な歴史のもつれ、要因を捨象して、今そのことだけを考えてみる。  その財力でいつでも失われたものを再現できる国と、ひとたび失われれば二度と(あるいは自分の生存中にはまず不可能に)相まみえることのかなわない国と。  そして何より、建造物に寄り添ってきた長い美しい時を、愛と祈りそのものの掛け替えないものとして共に生きた人々にとって、一瞬にしてがれきとなす破壊がもたらす絶望は。 9・11のあの日の真っ青な空は、私にはアタのこころに映る。標的としてアメリカの建築の象徴を選んだ彼らの伝言を、私はわき上がる涙とともに心密かに受け取った。 (アタの涙)

2017-06-10

まりもさん、ありがとうございます! コメント全文を頷きつつ読ませていただきました。 >詩論とか芸術論に展開しそうな部分と、社会問題に深く繋がっている部分が、一つの作品の中で混交している、その混交こそが現代の矛盾でもあるわけですが・・・(まりもさん) この小文は、フランスでの最初のテロのショックが続いた頃書きました。 すでにそういう兆しはあったのでしょうが、蓄積したエネルギーが小さな亀裂から噴出したような「シャルリー・エブド」と呼ばれた、フランスだけでなく世界が震撼した襲撃事件です。このとき、(一国の元首や宗教的指導者が、外見や習癖を大きくデフォルメして表現されつづけていたことが、引き金になったと想定され)「表現の自由」が現地の報道で取り上げられました。 このフランス流(に限りませんが)のユーモアは、多くの芸術?の中で苛烈に表現されています。 日本を含め、アジアの人々、国民性も例外ではありません。 けれども、彼らは他者を嗤うのと同様か、それ以上の情熱で自国や自分たちの外見や習癖をあざといまでに描き、嗤い、笑っていた、それが私の印象でした。たとえばオペラや演劇で、カエルを食し、近隣諸国からカエルと揶揄されるカエル王国の物語を、大笑いしながら演じ鑑賞するのです。どこの国にも負けない頑固な愛国心を持ちつつ、【表現】【その自由】において屈しないと言うことも、譲れない自尊心、誇りとなっているように感じました。 けれども、それが他者の誇り、自由を根底から揺るがすとき、【表現の自由】とは何か? (日本にも、「恥辱」や「汚名」のために殺し殺された時代があったと思います。) 国家や民族のレベルでも、個人のレベルでも、ネットの時代はなおさらに。 >「芸術、という無謀に吸い込まれていく表現者、世界の変革、という無謀に吸い込まれていく表現者・・・と並列することが妥当かどうか、悩むところですが・・・。」(まりもさん) そうですね・・・。社会的な狭義の「表現者」と言うことでは並列できないと思います。 ここでは、一本の草木、蝶やトンボや星々でさえ、あらん限りの自己を表現しているという日々の実感を込めて、あえて問いかけたい気がしました。 その上で、 >少年は黙々と彼の庭に彼の心を表していた。彼が配置し、育て、染め上げた心の色を、今というこの瞬間を、何者も破壊することは出来ないと知っているかのように。世界は表現する。そのことから逃れられないことの絶望として希望として、何故とも知らずこのようにここに私は在ると。(作品引用) わたしたちに与えられる次の瞬間は、ここに存在させたものからの遙かなる贈り物であり、今という瞬間はわたしたちがそれを全身で受け取った証しだと思います。与えられそれを受け取った、今を生きている私はそこに十全に存在し、(次の瞬間が何であろうと、)この今において失うものは何もない、と言うのが引用部分の実感です。 まりもさんのコメントは、いつも新しい世界を開いてくださいます。 ありがとうございました。 (イヴ・サンローランのフランス)

2017-06-09

花緒さん お手数をかけ、すみません。 理想的にコメントがいただけたと感じています。 ありがとうございました。 このままの状態で取り下げ扱いにしてくださるよう、お願いいたします。 (アタの涙)

2017-05-30

まりもさん、コメントありがとうございます。 >〈建造物に寄り添ってきた長い美しい時を、愛と祈りそのものの掛け替えないものとして共に生きた人々にとって、一瞬にしてがれきとなす破壊がもたらす絶望は。〉ここで詩を止めてもよかったかもしれません。 >青空という、希望や爽快感を象徴するイメージと、テロリストが歪められた正義によって得る達成感とが重なってしまうかもしれない最終行を重ねるのは、作者の意図とは異なる方向に誤読される可能性があるかもしれない、と感じました。 >ニュースを聞いた時に、涙があふれた、という「事実」を、感情や感慨を交えずに途中に書き込み、文章はあくまでも理智的に、問いを投げかける形で終始する。政治問題を抒情や感情に還元せず、あくまでも理智の段階で受け渡しをして、その後、受け止め手の心の中で情感が生まれるのにゆだねる。 >追伸。「アタの涙」だと、作者がアタに共感し、彼の代わりに流した涙、ということになりそうですが、それでよいのでしょうか・・・むしろ、題名は「アタ」のみの方が、             (まりもさん) 自分でも懸念していた部分と、思いもかけない示唆をいただいた部分とありましたが、全体として見事に指摘していただいたと感じています。 ありがとうございます。 911は陰謀論なども早くから取りざたされており、アタが本当に実行犯だったのかも今となっては私自身疑問に思うところがありますが、2004年当時は上記の報道をそのまま信じていました。そのときのひとつの時間ひとつの場所として、今回細部の修正のみで投稿しました。 じつはパスポートの写真とされるものをはじめてテレビで見たとき、この人は最後の瞬間にも涙しないだろうと言う印象を持ちました。それは今でも変わりません。にもかかわらず、「アタの涙」としたのは、涙を流さない人が体の中で流してきた涙のイメージを込めたと思います。本来創造者である人が破壊者となるには、まず自分自身を破壊しなければならないだろうからです。それでも、読者を信じるという意味でも、センスとしても、タイトルは「アタ」だけがいいですね! 告白すると、長年、私はこの一文に愛着以上の執着を持っていました。 それが最終連で隠しきれずに出てしまって、「政治問題を抒情や感情に還元」となっているのでしょうね。 抒情、感情の他に、「一人の人間の死の瞬間には他の何人も立ち入ることができない」というような宗教的な感慨もどこかにありました。 そういう想いを独りよがりに優先して、繊細な問題についてあえて書くときの配慮が足りなかったと思います。 ありがとうございました。 (アタの涙)

2017-05-29

追記です。 エイクピアさん(お名前間違えていました。ごめんなさい。)のコメントによって、白島さんが書かれていたことが理解できました。 たぶんエイクピアさんは、機動戦士ガンダム、とかそういう世代で、戦士もそういう感覚で使われたかも知れませんね。 戦士ということばにナイーブになった原因は私自身にあり、もともと迷いのある投稿だったのだと思います。 コメントをいただいているので、削除にはしないでいようとおもいますが、削除扱いとさせてくださるよう、スタッフの方にお願いいたします。 しつれいしました~ (アタの涙)

2017-05-28

エイクスピアさん、コメントありがとうございます。 アタが、建築を志したのにもかかわらず、建築を破壊したと言うことにも隠れたドラマを感じますね。でも、そこに戦士、と言うことばが入ってくると、私が書いた文とはかけ離れたものになってしまい、やはりこれは出すべきでは無かったという思いに駆られます。この文章に対するコメントはこれまでとしてくださるよう、勝手ながらお願いいたします。申し訳ありません。/ (アタの涙)

2017-05-27

上記のコメントで、2011年と書いたのを2001年に訂正します。 (アタの涙)

2017-05-27

花緒さん、ありがとうございます。 ひとつには、ヨーロッパは多くの移民と共存していると言うことがありますね。 理解と無理解のるつぼという印象があります。 たとえば、フランス人の乾いた鋭いユーモアに、「どうしてそこで笑えるの?」と、鈍感な私でさえナイーブになることがありました。 どの国にもそれぞれの自己表現の仕方がありますが、その差異が許容できるときと、深く根を残す場合があったのではないかと、 一連のテロ報道を見ながら感じていました。 問題の根は、もっと凄く深いかも知れませんが、思いもかけない浅いところから深まっていったのかも知れません。 笑いの質が違う、と言うような・・・。 フランス文学も映画も、最初はえげつなさを苦手としていましたが、最近はそのすべてが好きになっています。 ドキュメンタリー映画「イヴ・サンローラン」には、フランスの表現が余すところなく描かれていました。 見終わってとくに感じたのは、彼らの勇気と信念でした。 テロも犯罪も、それぞれの当事者にとっては自己表現ですね。 今生きているすべての人、(だけでなく動物や植物、この宇宙さえ)おのおのの自己をあらん限り表現している。 それがこの世の姿だという気がします。 でも、この混沌の世界で「イヴ・サンローラン」の【表現】が私は好きだ!大好きだ!と言いたかったんですね、きっと。 そして、「シャルロットの庭」の庭師の少年が。 (イヴ・サンローランのフランス)

2017-05-27

花緒さん、いつもありがとうございます。 白島さん、こちらでもよろしくお願いいたします。 こうしてじっくり語り合えるのが、とてもうれしいです。 お二人に一文でお返事させていただきますね。足りないところがあれば、再度お返事したいと思います。 ***     ***     ***    ***    ***   *** 2011年9月11日、ちょうどアメリカで同時多発テロが起きていた時間だと思いますが、フランスからイギリスへ向かう空の上にいました。翌日になってはじめて知ったのですが、イギリスのヴィクトリア駅の大画面がすべて真っ赤に炎上していました。(「シャルロットの庭」と言う文章にその日のことを書きました。) 同じ空で起きた偶然と旅先で知ったと言うことで、強い印象が今でもあります。数日後、南仏に帰ったとき、語学留学に来ていたたくさんのアメリカの少女たちがテレビを見て泣き崩れていました。私はすでに一年滞在していて、アメリカ人の親しく言葉を交わした少年たちもいて、(留学期間を終え、彼らはすでに帰国していたので、)その人たちは無事だろうかと気に掛かりました。 私がこの文章を書いたのは2004年頃で、事件の数年後にNHKの追跡ドキュメンタリーを見たことがきっかけです。 私は暴力が生理的に嫌いなので、どんな事情があれテロを肯定することはありません。 アメリカの知人たちのことを思いながらテレビを観ていたのですが、「アタは建築を学ぶ若い陽気な学生で、爆撃によってイスラムの美しい建築物が破壊されるのを憤っていた」というナレーションを聞いたときに、とつぜん涙がこみ上げてきました。一瞬にして、一人の「陽気な」学生の心の軌跡を見せられた気がしたのです。私も大好きなイスラムの美しい建築と、やがてその建造にみずから携わろうと夢見ていたアタの、踏みにじられていった心が見えた気がしました。 人の命だけでなく、建造物もまた生命を持ち、ときには祈りと魂の象徴であり、そこに暮らす人々の生きる時間そのものだと言うことをそのときに一層強く想いました。 とはいえ、アメリカの人々、日本の犠牲になった方々に対してこの文章はどんな意味を持つかと考えました。 そういうすべてをあえて捨象して、一瞬、強烈に、アタの心情に心を寄せた自分を、そのときそこにあった自分を書きました。 あの日の真っ青な空をアタの心に仮託させたのは、善悪を超えて、決意して死に突き進んだ人間が最後の瞳に映すものを、見たような気がしたのです。 日本の特攻隊の少年たちが、おそらく同じ青い空を目に焼き付けて逝っただろうと想像しています。 (アタの涙)

2017-05-26

初めまして。 興味深く拝読しました。 肉を食べないひとが、肉を焼く香ばしいにおいを嗅いでおいしそう、と思うこと自体が、心の中では食べていることだと聞いたことがあります。 そのことがたとえば一頭の牛の死に直結していると。 また、生きとし生けるものには、バクテリアなども含まれ、風邪薬を飲んでも殺戮を行っていると。 それに、樹木の根の張り方、すさまじい生命力を見ると、彼らが牛や豚と同じように声を持っていたら、と 思わずにいられません。 命を奪い合うこの世の闇は計り知れませんが、与えられたひとつの場所、ひとつのじかんを、書くこと(筆の力)で小さく照らすのは、わたしたちがそこに見るもの、感じるものとして存在する意味ではないかと思います。 (牛肉)

2017-05-22

読み進むことがただただうれしい。 知と未知が脳の小径で出会って、小さい瞬間が生まれ続けます。 音楽や絵画に比べると言葉は不自由という人がいましたが、 言葉でしかできない旅をしているようです。 (no title)

2017-04-04

まりもさんへ 「おまえの柔らかさは 刃の上をも渡って行くだろう」 ここは残酷ではなく、すなおに届いて快感でした。 残酷という言葉を使ったのは、エールがつねにそういう一面を持っているのと、「踏み潰す」から数行へのやや違和感のためだったかな。 語りかける相手が他者と言うより自身に近い場合、無意識に強い、そして身体的な言葉が選ばれてしまうのかもしれませんね。 >・・・詩を書くということは、どこか、そんなイメージもあるのかも<          (まりもさん) 昔、雷がごろごろ鳴っている空に、屋根の上で金属片をかざしているようだ、というのを読んだことが忘れられませんが、「おまえの柔らかさは刃の上をも渡って行くだろう」と「虹色の痕跡をひいて」いくカタツムリも忘れないと思います。 (雨後)

2017-03-31

*三浦果実さん B-REVIEWのゆったりとした静かな歩みに、すてきな散歩道を見つけた思いです。どうぞよろしくお願いいたします。 >「ゆとり教育」が成そうとした目的をお判りだろうか。それは、個人主義の確立。<          (三浦果実さん) わたし自身は、ゆとり世代を大きく(上方に)逸脱した世代ですが、個人的に自然を教師にしていましたので、後のゆとり世代の方たちと同じ空気を吸って生きてきました。 そういう日本人は、ダグマにとっては時々首を傾げる存在だったようです。 周囲にいたフランス人や欧米人の個人主義とも異なった、脆弱な個人主義を発散していたことでしょうね。 >美の感性は個人主義に依らなければならない。< とてもうなづくことであると同時に、たとえば大きく切り取った一枚の絵(風景)を、目を瞠るほど美しいものにと願うとき、個人主義が築きあげた今の日本の風景に少し疑問を感じるのです。私のようになんの力も持たないものは、ただ願うことしかできないのですが、 生まれ病み老いて死んでいく人間の避けられないドラマに、できるだけすてきな舞台(書き割り)を、と望まずにはいられません。ダグマも私もその点では一致していました。文中でダグマの言ったことはわたし自身の声でもありました。 三浦さんのコメントが意図したところを感じられたかどうかわかりませんが、コメントうれしく読ませていただきました。ありがとうございました。 ( ダグマ 1 [南仏紀行])

2017-03-30

「おまえの負いつづけた渦巻いた闇 宇宙をたくわえ羊水に満たされた その空洞」 に、雨後に出没するカタツムリをイメージしました。素数の謎から導かれた、宇宙の秘密につながる渦巻きを背にしょって、それを住みかとする、自由なのか不自由なのか判別しがたい存在。 そのもろい甲殻を見ていると踏み潰したい衝動に駆られる。俯瞰するものは、容易に他の存在の生殺与奪を手にしてしまう。痛みさえなく。瞬きひとつで他者を消却する現代において、誰もが意識、無意識にかかわらず行なっていることだと思います。 甲殻を失った存在に、 「おまえの柔らかさは 刃の上をも渡って行くだろう」 とささやく踏み潰したものからの残酷なエール。 「おずおずと 心を手足の先に出して 生まれたての舌で すべてをたしかめていくように」 ここには、ギリシア悲劇の「オイディプス」をかいま見ました。「父を殺し、母と結ばれるであろう」という預言から逃れようとして、その悲劇の成就に突き進んでいくラスト。すべてを失った盲目の赤子として独り泥濘をゆくとき、ようやく宿命の重荷からも解き放たれた「オイディプス」がこのような姿をしていました。 何気ない日常に潜んだ存在の危うさとつよさが描かれていると感じました。3連の描写は特に素晴らしく個人的にも好きです。 (雨後)

2017-03-29

*黒髪さん >存在自体が、劣等的な失礼的かたまりだったので、< >僕が相手でも僕を良くは思わないだろうという、良く分からない達観<          (黒髪さん) 私もかなり説明不足な人間で、それが潔いことと思う節もあって、自分の国でもいきづらいときがありましたが、言葉の不自由な外国ではじめて、「日常の殆どすべてのことは言葉で切り抜けていたのだ!」と痛感しました。 中でも、挨拶というのがとても重要なのに、それをしないで生きてこれた、悪意なき「失礼的かたまり」をごく自然に身につける風土が日本にはありますよね。 お店に入るとき、日本では割と普通に黙ってはいりますが、その習慣のままに「ボンジュ~」抜きで入って品物を手に取って見ていたら、強い憤りを示されたことが何度かありました。 「オズの魔法使い」てき展開が、この頃ひっちゃかめっちゃか起きますが、ひたすら私がブリキやかかしやライオンだったためでした。恥ずかしくて、とても書けないようなことばかりなのですが、黒髪さんと同じような「良く分からない達観」が私にもあるので、書いてしまうんでしょうね・・・。 ( ダグマ 2)

2017-03-19

*葛西佑也さん >孤独にならざるを得ない瞬間が出て来ます。そんな趣を文体と語の選択、その運び方から<        (葛西佑也さん) この旅は不安と孤独と自由をひりひりと感じながら空の下を歩くことが主でしたので、生きることをそれで十全だと感じる自分がいて、それらが文章ににじんでいればいいなと思っていました。他の方の詩を読んで、私のは描写と主張が勝っているなあ、と感じつつあります。こちらで今感じていることは新鮮で、今後への意欲となっています。ありがとうございました。 ( ダグマ 1 [南仏紀行])

2017-03-19

*天才詩人さん B-REVIEWは作品の質量もさることながら、真摯かつ繊細な語らいと学びの場になっていることに魅力を感じます。激しい応酬はなくとも、時をかけゆっくりと浸透し定着していくものが、個人にとっても場にとっても自然な熟成、到達になると信じています。 「ダグマ」へのコメントありがとうございます。 >忌むべきことにそうして膨大な労力を投入して作り上げたメトロポリスも1940年代の空襲で再び灰に帰してしまう。この間、おそらく15年もないわけです。<                  (天才詩人さん) 日本列島を一人の存在としてみると満身創痍の痛ましさですね。それなのに「豊か」と言われるような国になっていることの恩恵は、海外ではより強く感じていました。それ故にこそ、私は無い物ねだりをしてしまうのかもしれません。 パリの裏通りを警視メグレのように歩いていたとき、向こうから歩いてきたフランスの少女に、すれ違いざま「帰れ!」という仕草をされました。ちょうど旅行者や移民が増えすぎて、パリ市民が憤慨しているという記事を読んだばかりの時でした。そのとき、「あなたも日本に来ればいい」と心の中で返したのですが、次の瞬間、私がそうしているように、彼女が歓びにあふれて日本の裏通りを歩くだろうかと考えました。この人が来たいと思うような国でなければ、彼らが営々として築いた美を盗み食いするような旅は、心からの喜びにはならないと感じたのです。経済的な国力とは異なった、もう一つの国の力として、ヨーロッパは小国でも美しい町や村を作り続けている、と感じました。その驚きを、こどものように書いてしまうのかもしれません。 私は漫画経験は、『星の竪琴』『リボンの騎士』『カムイ伝』『ポーの一族』などです。 本当は貸本屋に入り浸って手当たり次第、新聞の4コマ漫画や化粧品の宣伝漫画までむさぼり読んでいましたが、「キャンディーキャンディー」は名前しか知らなかったです。「キャンディーキャンディーを読んで育った一女性の、(でもそれなんかちゃうやろ)という呟き」を聞くために、手に取ってみたいと思います。 ( ダグマ 1 [南仏紀行])

2017-03-18

*もとこさん >特に過去の戦争に起因する差別は、単に第二次世界大戦だけの問題では無く、さらに歴史を遡った様々な因縁がある。<              (もとこさん) さかのぼっていくと、加害被害の関係もあざなえる縄のごとし?で、因縁とか業としか言い様がないほどですね。その憎悪が血の中に残って、折を見て子々孫々にわたり国でも個人単位でも噴き出すので、いつかどこかで自分につながる者が辛い思いをしなければならず、戦いに勝利者てないよと歴史は訴え続けていますね。 私自身も「ジャップ」と言う言葉を投げかけられたこともあり、一歩外に出ると、ちいさなひとりが国を背景にして最前線にいるという実感がありました。「過去を知り学」ぶことが生きることと自然につながっているのを感じました。ありがとうございました。 *白犬さん >子供のころ、絵本の影響で「世界中の人が憎しみを捨てれば平和になる」というようなお花畑なことを言って、兄に「そういうことではない」と徹底的に論破されたことも思い出しました。<                 (白犬さん) (笑い)よいエピソードですね。お兄さんのお答えも魅力的で、「徹底的に論破」もいいなあ、と思いました。 私はダグマより10年遅く片田舎で生い育ちましたので、戦争の影も知らず、社会の中の差別とかいじめとかにも気づかずお花畑全開で生きていました。ふと手に取った「世界」という月刊誌に「韓国からの通信」と言うのがあって、悲しみを帯びた美しい文章に惹きつけられ、そこから知識と世界と文章がつながっているものだと思うようになりました。 ダグマはばりばり実在ですよ。 でもこんなところで自分が語られているとは思いもよらないでしょうね。続きを、と言ってくださるのが本当にうれしいです。ありがとうございました。 *まりもさん >連載小説を読んでいるような感覚になってきました・・・<                (まりもさん) うれし・・・。こうして語り合っていると、実際の旅の時は体験できなかった、知識や思いの深くなったもう一つの旅が今できている気がして、本当に皆さんに感謝です。 >(敗戦を知っている現在から視る、のではなく、未来がまだ見えていない当時の視点で観よう、と思って)< >過去の出来事、その心のわだかまりや、憎悪が、飛び地のように未来にも点在していて、そこに触れてしまうことがある<                 (まりもさん) 興味深いです。未来は油断でできているので、繰り返しそのシュミレーションをすることが大切なのでしょうね。それでも、何かを信じて一歩を踏み出さねばならず、現在というのは、過去に埋められた地雷を踏んづけているだけ、のような気もしてきますね。踏んづけた瞬間に、過去と未来が ★ショート★ みたいな・・・。私も「中道左派」かなと思っていましたが、思いもかけない出来事があると、右や左に大きく傾く心が自分にもあることを思い知らされます。 *花緒さん 「だんだん面白くなって」(花緒さん) ありがとうございます! ええと、5作は「ダグマ」で続くと思いますので、どうぞ愛してやってくださいまし^^  ( ダグマ 2)

2017-03-16

*hyakkinnさん この文は、導入部をはしょったところから始めていますので、不親切なものになっていると思います。すみません。続けて読んでいただけるよう、ピースがはまって少しずつ映像が鮮明になるよう願っています。これからもよろしくお願いいたします。 > >「日本の自然はとても美しい」 > この返事の仕方ですかね。                 (hyakkinnさん) 私もこの表現に少し沈みました。その後、ダグマにドレスデンの写真集をもらったり、ネットで画像検索し、人間が作る街の美しさに明確な意思がある国と、一部の場所を除いてはそういうことをあきらめているかのような国との違いを感じました。日本の自然を褒めてくれたのはダグマの優しさだったと思います。自分の生まれた国やふるさとを愛するのは誰にとっても同じだろうと思いますが、それが絵のように美しく、しかも爆撃で殆ど破壊されたというのは、どんな気持ちだろうと思いました。 ( ダグマ 1 [南仏紀行])

2017-03-16

*黒髪さん リルケは『ドゥイノの悲歌』で「美は恐るべきもののはじめに他ならぬ」と言っています。 この言葉の意味を私がどのくらい理解できているかわからないのですが、 >美しくありたい。そうするのが、生きる目的になるかもしれないな、と< >僕自身としては、そういう究極を、求めるべきだと、考えました。<                           (黒髪さん) 今こう言われる黒髪さんと同じように私も、かつて『ドゥイノの悲歌』に導かれ、人生を歓びのうちに歩き続ける狂気が平凡な私の生に宿っていくのをに感じました。肉体が滅んでも消えることも後悔することもない日常の歓び。 そして、ダグマと歩き語り合う中に更に感じたのは、ヨーロッパでは街全体、そこに生きる人々がすべて(路上にうずくまる物乞いの人も)美の歓びの中に生きているということでした。一人の個人の部屋がどれだけ貧しかろうと散らかっていようと、一歩外に出れば目に飛び込んでくる街が美へそそのかさずにいないからです。 うれしいコメントありがとうございました。 ( ダグマ 1 [南仏紀行])

2017-03-14

*白犬さん、 私も自分の好きなことだけ衝動的に追い求めて、それだけをたいていにんまりしながら書いているので、堅苦しい顔つきはしてるかもしれませんが(時にそういう顔をするのが好きでもありますが)、読む方がどこかに惹きつけられてくだされば、これ以上の歓びはありません。ありがとうございます。 *花緒さん お久しぶりです。すてきなサイトを立ち上げられ、日に日に充実されていく様を拝見していました。 >この一編で、詩情を感得できるかというと、わたしには、あまりよくわからなかったというのが正直なところです。<(花緒さん) 皆さんの詩やコメントを読ませていただいて、「そうかもしれない」と花緒さんに通じる若い方々の感覚を想像的に受け取っています。 私自身は最近、詩文だけに限らずじみ~なものから極彩色まで感受してしまうので、我が身を省みずいうと、利休と秀吉の争いのようなものがいつの時代も表現にはあるなあと素朴に思うのですが、若い頃は退屈こそ暴力だと思っていました。 自分がそうなっているのかもしれないという恐れを抱きつつ、まずは皆さんの感覚に目を瞠りながら少しずつ学ばせていただきたいと思っています。 『ドゥイノの悲歌』は、晩年のリルケが古城に一人暮らして書き上げた生命の賛歌であり悲歌ですが、私は生きてきてこの詩しか読んだと思える詩がないくらいなのに、翻訳でしか朗読できなかったので、ドイツ人に読んでもらえたのは悲願というか、やった~!という感じでした。(いまは、youtubeで簡単に原文朗読が手に入ります。) 長文失礼しました。これからもよろしくお願いいたします。 ( ダグマ 1 [南仏紀行])

2017-03-13

*白犬さん、コメントありがとうございます。 ほほを膨らましてぷっとはき出すのは、他の人にも見たことがありますが、ダグマはとても強い仕草で、国の歴史が痕跡を残しているのかな、と思ったものでした。 この頃は、不安や歓喜の波が大きくて、五感を総動員して切り抜けていたので、事実そのままに書いても目に見えない感情が寄り添ってくれるのかもしれないと思いました。うれしく読ませていただきました。 ドイツは都市も城も小さい村も美しいですね。 私もいつか行きたいです。 ダグマはまた登場しますので、よろしくお願いいたします。 *まりもさん、コメントありがとうございます 「あまりにも正攻法というのか・・・」 「ビルドゥングスロマン」 「翻訳文体」 皆さんにさまざまに指摘されるところですが、端的に言ってくださってすっきり納得できました。 一つ思うのは、環境や日々押し寄せてくるものが予想のつかない困難さをはらんでいる場合、まっとうであることが身の助けになる、という実感を持ったことがありました。 元々の性格や傾向はスイング?やロック?しているのですが、 その反作用というか生き抜くための「まっとう」への矯正がうまくいきすぎた結果かと思います。 もう少し本来自分的なところで、今となっては冒険?も試みたいと思います。 これからもよろしくお願いします *もとこさん、コメントありがとうございます。 この舞台となった2002年頃、日本への原爆投下を知らないアメリカの若い人たちが多いのに驚いたのですが、今や日本も同じ状況だったのですか・・・。 あえて知らせようとする力が働かないと、知らないまま充分生きていけるということですね。 恐ろしい気がします。 でも、これ以上過去の痛ましい事実を知れというのも酷な気さえする、 震災など大災害を老いも若きも目の当たりにしつづけている近年でもありますね。 複雑ですが、やはり知ること自分だけの知識として押さえておくことは、たとえば表現として発する一つの単語の力や豊かさのためだけでさえよいことと、 もとこさんのコメントは感じさせてくれます。 >まあ例えば英国においてはロンドン大火でロンドン橋やほとんどの木造の建物が焼失しましたが、 彼らはこれを新しい都市を造る好機と考えて石造りの建物による新しいロンドンを誕生させました。<(もとこさん) 実は、戦後の焼け野原に立って、同じように考えた日本人がいたそうです。かれは、 「パリのような、ロンドンのような、ワシントンのような、いやそれ以上に美しい都市東京を!」と願い、尽力したのですが、復興の怒濤のエネルギーに飲み込まれて、今の東京になったのだと・・・。 「ドゥイノの悲歌」へのまなざしなど、とてもうれしく読ませていただきました。 ありがとうございました。 ( ダグマ 1 [南仏紀行])

2017-03-12