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花
祖父が 最近 セケンで聞く ニンチシヨウ というものである と知って 驚きはなく あっさりぼくは 納得したのだった 心中 安心を思ったのだった ぼくの祖父は わるいひと ではないけれども 良い関係なのだけれども よくわからないまま 足元の砂を掴んで 声を張り上げ 投げつけてくる だいたいそれは ぼくの母に言伝があると ぼくを呼びつけたときだ どこにいようと なにをしていても おかまいなく呼びつけて そうして 母にと言伝をいいつける だいたい そんな時だ 逆らえば 断ったりすれば すぐさま 声を張り上げ 砂を投げつけてくる 理由をたずねても 教えてくれない 祖父はやはり ニンチシヨウなのだ ぼくはそう理解し 納得している 友人たちには 秘密にしている ある日 夕方 学校からの帰りに 団地の広場で 友人たちと遊んでいると ベンチにいる祖父が ぼくを呼びつけて 手渡せと言って 花を差し出した なんというものか 名は知らないけれど まっすぐな茎の先に 赤い花弁を開かせていた そんな可憐な 一輪の花だった 迷ったけれども 砂を投げつけられてはと そう思って 友人たちに理由を言って さよならをして ぼくは家に 駆けていった 祖父は笑みを浮かべ 杖をついては 背中を向け またどこかに行った 団地のエレベーター に乗り 10のボタンを押して 上がっていき 家のドアを開け 靴を脱ぎ 廊下を行き 居間でテレビを見ている くつろぐ母の元に向かい 花を差し出した 母はなにもたずねず 花弁を嗅いだり 茎を眺めたり擦ったり いつまでも 慈しむようにして そうして ニコニコしていた ぼくは ベランダに行き そろそろ 夕日が沈みそうな 穏やかな いつもの空の下で 居並ぶプランターの 花たちが揺れる そんなことを感じては 手摺から 腕を伸ばしてみた だんだん薄暗くなる いつもの空の下で ぼくのてのひらも 小さく揺れた 生まれたときから 死に向かっていると 聞いた ニンチシヨウ というものである と思えば 安心なのだけれども 祖父 母 セケン と 皆が知らないようだ 誰も 何も 教えてはくれない 友人たちなら 知っているかも知れない 知らないのかも知れない いつかたずねてみたい 花の名を
花 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1047.9
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2017-08-11
コメント日時 2017-09-21
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
花緒さんありがとうございます。ハナヲテワタシタヒといった作品を改稿したものです。散文の形式を変え、また主題をややずらしてのものとなりました。つかみどころがないといいますか、不明瞭な印象があるかもしれませんね。特に最後の一文など。秘すれば花といった古風なというものでもないですが、揺れやぼかしといったソフトフォーカスみたいな感じも悪くないのかなと考えてみたり。 そうですね。切り詰めるべきだったかもしれませんね。だらだらとしたひとり語りが全体としてはどうなのか、機能を果たしているか否かといったことを意識すべきだったようですね。
0作品全体の、短めの区切りが生み出すリズム。とつとつと思い出を語っているような・・・言葉に詰まりながら、誰にともなくつぶやくように語っているような流れが、リアリティーを与えていると思います。 実際に作者の祖父が認知症であるかどうか、ということとは関係なく・・・世間一般における「名」を与えることによって、理不尽さや憤懣、やるせなさをやり過ごしてきた・・・胸の内になんとか収めてきた、そんな「家族の歴史」があって・・・それが、花を手渡す、という行為によって、和解の香りを帯びる。 だんだん薄暗くなる いつもの空の下で ぼくのてのひらも 小さく揺れた この、さりげない描写が、実に美しいと思いました。プランターに並んで咲いている花・・・でも、その花のどれにもまして、〈母〉にとっては思いのこもった花、だったのでしょう。父と娘の間でだけ共有し得る、幸福な時間を思い出させる花、であるのかもしれない。 手すりから外にのばされた手のひら。その手に差してくる夕日、夕日に照らされた手のひら、次第に赤く、夕日色にそまっていく手のひら。 狷介な祖父(母の父)の、砂を投げつけるような乱暴なやり方でしか伝言を伝えられない、その悲しみは、どこから来るのだろう。あの人は、認知症だから、怒りっぽいんだ、と、納得することでやり過ごしてきた〈ぼく〉は、心の中で、実はそうではない、ことを知っている・・・からこそ〈ニンチシヨウ〉としか、呼びようがないのかもしれません。父と娘(あるいは父と嫁)の間のわだかまりが、溶けた一瞬。それは、〈祖父〉に死が近づいてきた、そのことを彼が意識した、からなのかもしれず・・・ ニンチシヨウ、を、認知しよう、という呼びかけと、それを拒否する気持ちの表れ、と読むのは、深読みしすぎか?と思いつつ・・・ニンチショウ、とヨを小さく表記しないところが、最後まで気になるところでした。(コメント欄に、テワタシタヒ、と旧仮名風?の表記で書かれているので、その辺りも関係あるのかな・・・) それはいったん、脇に置いて・・・〈だらだらとしたひとり語り〉そう言われると、もう少し切りつめていくこともできるのではないかな、とも思いますが・・・全体でリズムを作っている、というところもあり・・・最後に〈友人たち〉を出す方がよいのか、〈ぼく〉の内省だけで止めた方がよかったのか、など・・・。 たとえば、意味から言えば〈そう思って/友人たちに理由を言って/さよならをして〉わけを言って、なんてフレーズは飛ばして、どんどん進行させた方がいい。でも、~って/~言って/~して、と続いていく語尾のリズムなどが消えてしまうので、削るのも、なかなか難しい。冒頭に出て来る、心中/安心 うんぬんのところも、省けるかな、と思ったのですが、後半にもう一度、〈と思えば/安心なのだけれども〉と出てきますよね。ニンチショウ、という病気なのだ、仕方ないのだ、と、理由のわからない怒りへの不信や不安を、安心に替える。一か所いじると、全体が動いてしまうような作例なので、やはり、この長さは必要なのかな、と思いました。
0湯煙さんでしたか。 某所で先に読ませていただいて、とてもよかったです。 ひとつの家の中で、家族の認知症は いつを境にどんなふうに認知されているのか。 身近に接するものだけが知る、 小さな行動の異変を、 ことばに出す以前の一人一人の心の中で、 ゆうぐれのように音もなく(優しく) 進行していくもの。 その戸惑いと、 まだ名付けられないことで 人の生きる自然な姿として老いを受け止め、 足りないことに添っている家族が描かれていると思いました。 そのなかに、 手から手へと赤い花がわたされていくように、 明るんだいくつもの一瞬があると。 三人の表情が見えてくるようでした。
0まりもさんありがとうございます。改行も何もnothingな一つながりな作文でしたが、泥棒さんの作品のスタイルといいますか、とつとつした息継ぎでもって連なるような、そうした語りに形式変えしてみた次第です。どこか全体がつかみどころがない曖昧な感じ、雰囲気はこちらがやはり良いのかなと。 -てのひらが揺れる-の箇所ですが。そうですね。 様々に想像ができるかもしれません。色や光。大事な要素になるかと思いますし、そのあたりは興味深い感想を頂けたかと。 認知症もそれぞれにまた特徴といいますか、症状反応はあるかと思いますが、寄せ付けない、或いは癇癪を起こすという方もおられますね。-ニンチシヨウ-認知しよう。これは意識はしていませんでしたが、後に私も気がつきましたし、あれ?なんだ?という。私としてはまた別の考えからニンチシヨウとしましたが、ややこしい表現となりましたかね。ハナヲテワタシタヒは、-手渡したい-、手渡した日-、と掛けて、描けて、はいました (笑。 最終連については説明といいますか、蛇足気味な感じもしますね。訳を言って、安心/心中、の御指摘された箇所等。必要なのかどうか。語りのリズム、流れと全体の構成との関係からまた考えたほうがよいのかもしれません。
0fiorinaさんありがとうございます。はい、熱帯魚ですね(笑 どんな風に認知されているか?・・・なかなか実際の体験がなければ理解しにくい、されにくい状況かもしれませんね。診察を勧めても嫌がり癇癪を起こしてしまうような方だとそれはそれでまた余計に症状の進行か否かを疑うかもしれませんし、難しいかとも思います。我が身に引きあててといった仏教用語といいますか、考え方があるようですけど、どこかそうした気持ちを思いつつ見守るといったことも問われたりしているかなと。そんなことも感じます。 もちろん悠長なものではないと思いますし、家族だけ理解していればよいといったものでもないのでしょうね。認知=架空を実体とすると
0コメントが途切れてしまいました。 認知=架空を実体とする働きの一つと考えたりしますと、物忘れや徘徊といったものは世間知に刷り込まれた情報なり世界から本来あった元の状態に向かっている過程なのかとも思ってみたり。
0おはようございます。 僕はとてもこの詩が好きです。 一度目は目で追わせていただいて、二度目は大切に音読させていただいています。 第三連の「ある日」という言葉で、パッと詩のお話の展開が広がりますね。 お祖父さんが手渡された大切な想いが込められた名のない花の存在がとても印象的でした。 お祖父さんが手渡された花の意味に深い意味と詩情を感じ、心を打たれます。 こういう詩が書けるのって、やっぱ、すごいなって思います。 詩って、やっぱり、いいものだなって。
0森田拓也さんありがとうございます。三度までも。恐縮します。
0コメントが切れてしまいました。 ある日からは転にあたるのかもしれませんね。便利かつ安易な修辞だったかとも、そんなことを思いますが。
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