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【赤いコート】
2000年8月の終わり、フランスに渡った。私はフランス語を話せなかった。聞き取ることも出来なかった。そのための困難は戦慄と共に予想していた。(現実は予想をはるかに上回った。)当時私は記憶力に障害があった。そして、絶えず睡魔に襲われていた。初めての海外旅行で、パスポート、ヴィザの取得をはじめとする様々な手続きを、夢遊病者のような足取りでこなさねばならなかった。フランスではなく病院に行くべきだったのだ。 南仏の海岸通りから市内に入る横断歩道で信号待ちをしていると、斜め後ろからふいに体当たりを喰らった。振り向くと2人連れの老女が挑戦的な目で見ていた。フランスに来て数ヶ月がたっていた。語学学校の成績は惨憺たるものだったが、短い単語の聞き取りが出来るようになっていた。 「どうしてですか?」 姉妹のうちの姉らしい赤いコートの老女が答えた。 「あなたはさっき私にぶつかった。謝らなかった。英語でも、中国語でも、フランス語でもいいから、何故謝らないのか。」 「私はごめんなさいといいました」 「いいえ、あなたは言わなかった」妹が同調した。 信号が変わって歩き始めたふたりを追って、「私は日本人で声が小さいが、ごめんなさいといいました」と繰り返した。信号を二つ追ったところで、断固として考えを翻そうとしない彼女たちから離れ、しばらく歩いて振り返った。赤いコートの老女とその連れは振り返らず歩いていった。 そうしたことはそれまでもあったが、私が言いつのったのはそのときが最初だった。それからしばらくして、風景が不意にやさしくなった。行き過ぎる老人たちが、パン屋の主人や、ホテルの警備員が笑いかけてくれるようになった。バスの中でとまどっているとき、後部座席から歩いてきて、切符を入れてくれる人もあった。 赤いコートの老女は、映画「哀愁」で踊り子のヴィヴィアン・リーを戦時下のロンドンに解雇し、悲運の発端を作ったバレー団の「マダム」に似ていた。日本に帰って、私はすでに繰り返し観ていたあの映画をマダムの側からもう一度観た。すると、彼女に似た人が、私の歩いてきた道に何人もいたことに気づいた。(03.9.11)
【赤いコート】 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 957.2
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2017-09-21
コメント日時 2017-09-25
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
返詩的な散文で、ごめんなさい。本作を読んで、フランスを舞台にした物語を以前書いたことを思い出しまして。 【サンドニ通りにあるBANZAIと日本の子供たちを結ぶエリーゼのために】 ファインダーに映る幾人もの女性。次から次へ。探し続ける規定。それは、外見ではない。なぜならそこには会話があるから。ファインダー越しに彼女たちはオディンへ語りかける。 「時間の範囲内であれば大丈夫ですよ」 「そういうつもりではないよ」 「失礼しました」 サンドニ通りでも一番明るい場所に建つオリエンタルキャバレー「BANZAI」。 昼間のオディンが「BANZAI」の地下で働いていることをルマは知らない。 肉体労働。それは文字通り汚物にまみれる仕事だ。 汚物とは形じゃないよ臭いなんだ。ヘドが出そうになる臭いだけど、僕はあれが好きなんだ。とても暖かいから。 そういうふうに説明をするとオディンが通う心療内科の医者は安堵した。 それが本心なのか偽りか、それは優先されるべきことではないと。 ルマによる身体サービスとは別にファインダーに映る世界。 それがオディンの星巡り。 ・・・・ 水曜日の夜はルマがオディンを部屋へ。ルマがドアノブを軽く押す。オディンがルマの前を横切る。異臭が後を追う。しかしルマは表情を変えることはない。それが、ルマの損得勘定だ。200ユーロ200ユーロ200ユーロ。2時間後にルマへ渡されるもの。 ・・・・ 月光がエリーゼのためにであり 人が聴こえない音があることを知っていますか。 よくわからない話はいつものこと。だから僕はわかります、わかりますと笑う。お兄さんが喜んでいる。僕はもっともっと答える。 「はい、わかります」と声に出して笑う。 部屋のライトがつく。 「誕生会のために一生懸命に練習してるって」 ママは僕をみていない。お兄さんのこともみていない。みえていない。 「エリーゼのために。むずかしいって」 知ってるよ。ママ。エリはね、努力なんだ。努力ができるの。陽子と僕はいつもスゴイスゴイってこたえてる。陽子は勉強ができる。僕は勉強はできない。エリはどちらかといえば僕と同じ。でも努力とかはやらないでいいんだ僕は。エリは理科と音楽。陽子は国語と絵。僕は星と月と野球のスコアブック。 「帰り道にエリからきいた」 そうだ。あの帰り道、おどろいたこと。陽子のこと。 ナガラ川の道。通学路。雨が降った日。 陽子と僕はね、傘ささないでいたの。靴がだんだん重くなってぐしゃぐしゃって音がするのが面白くて。でも、エリは違う子。傘をさしてた。 「雨って汚いよ」エリはそんなこと言ってた。 陽子が思い出したように言う。 「エリちゃん、空とか星とか好きだもんね」 僕は思った。陽子は知ってる。なんで知ってる?エリが星を好きになろうとしてること。エリが僕を好きなこと。 「そうじゃないよ。エリは理科が好きなんだよ」 「雲がなんでできるか話せるんだよエリは」 陽子は僕をじっとみた。じっと。でも、エリに話しかける。 「エリちゃん」「プレゼントは空とか星とかのものにするね」 「あんたは何をあげるの?」陽子は傘の先を僕に向ける。赤い傘。 雨に濡れたTシャツ。雨に濡れた髪の毛。陽子のほうが顔は濡れてる。 「わかんない。でも陽子とはぜんぜんちがうもの」 もう決めていたけど言わないんだ。陽子には言わない。 「エリはピアノの曲決まった?」僕はきいた。知っているけど。 エリが言いたいんだろって思った。 エリはにやにやしながら言う。 「エリーゼのために」 言葉をきいてしまうと音が変化します。ピアノは女の子の気持ちを表現するものです。しかし、きみは男の子です。光をみる。星をみながら月をみなさい。ピアノを言葉に変えます。それは、覚悟をしなければならないのです。わかりますか。 よくわからない話はいつものこと。だから僕はわかります、わかりますと笑う。お兄さんが喜んでいる。僕はもっともっと答える。 「はい、わかります」と声に出して笑う。 お兄さんのピアノの話。それは雨の日の朝。ママはカーテンをまだ開けていない。陽子がいつも通りにブザーを鳴らす朝。 ・・・・ 「BANZAI」での労働内容。はじまりは音楽だ。BGMに何を選ぶか。 そこでおまえのサービスの「質」が決まるんだよ。客はおまえを知りたいんだ。足の裏の臭いやら恥ずかしいことも全部だ。キレイな服やら脚のみせかた?そんなものを期待する男は来ない。ムーラン・ルージュだ。そういう心持ちの連中はムーラン・ルージュを賢い顔つきで観に行くもんだろう。 例えばだ。水曜日の常連。オディン。あれを部屋へ入れる。 さあどうだ?BGMはどうする? 「テキトウにいいますよ。わからないので」答えないと次へ進まない。それぐらいのことは予想する。賢い顔つきをしたルマ。 そうだ。「BANZAI」で働く大事な心構え。思いつきで客をワクワクさせること。オーナーのミツオがルマへ期待する。 「エリーゼのために。でどうですか?」
0三浦さん、返詩ありがとうございます。 懐かしい猥雑さがありますね。 通りのどの一角にも、その建物の持つ陰があるように、行間に消えていくような薄暗がりが、 都市の(人々の)存在感をあらわしていると感じました。 フランスを、特にパリを美の都と眺めるのと、実際の生活感は異質ですね。 むかし「ポンヌフの恋人」という映画に描かれたホームレスの若者たちを見て、 (はじめは生々しい描写に嘔吐をこらえきれませんでしたが、) ラストの場面では声を上げて泣いてました(笑)。 私のパリの安宿がモンマルトルのムーラン・ルージュ近くでしたので、深夜、 螺旋階段の踊り場にあった外トイレにいくとき、 ムーラン・ルージュ帰り?のカップルに出くわしたりしてました。 サン・ドニ通りは、それよりもセーヌ川に近い場所ですね。 私は地図を持たずに足の向くままに歩いたので、知らずに通り抜けたかもしれません。 このときのBGMは「巴里の空の下で」(鼻歌)でした。 夕暮れになると、(仕事の後や前のひとときを、)この登場人物たちも、 セーヌにかかる橋やモンマルトルの丘の上で恋人と抱き合い、 あるいは一人エッフェル塔に向かって祈るように過ごすのでしょうか。 川沿いの建物のシルエットが素晴らしく、この時のパリはまさしく美の都でした。 フランスのビルの構造上だと思うのですが、地上に近い部屋は食べ物の腐臭に悩まされますね。 ねばりにねばって最上階に変更してもらったあとは、夜はお向かいのビルの窓に、 フランス人には珍しく?一人食事をとる男性や、素敵なランプの灯りに照らされて読書する女性が見られました。 自室の灯りを消して澄んだ冷たい月光を眺めるときは、静かなピアノの曲が流れるようでした。
0ついしん: 今気づきましたが、拙作に登場する「哀愁」のストーリーとも絡んだ、三浦さんの返詩でしたね。ありがとうございます。
0読んでみて、人との交流の難しさと、美しさを感じました。 僕は日本から出たことがないのですが、旅行をしてみたくなりました。
0〈私が言いつのったのはそのときが最初だった。それからしばらくして、風景が不意にやさしくなった。〉この部分に、詩がある、と感じました。それまでの散文部分は、この一行に到るための助走であろう、という気がします。 助走部分を、もう少し内的リズムに乗せて(もちろん、~た、~た、という、脚韻的なリズムや、否定の繰り返し、畳みかけによる心理的効果はありますが)物語るようにすると、もっと凝縮された作品になったような気がします。 たとえば、〈当時私は記憶力に障害があった。〉というような部分、飯島耕一の『ゴヤのファースト・ネームは』(心理的危機にあったときに綴られた詩です) 外国に半年いたあいだ 詩を書きたいと 一度も思わなかった わたしはわたしを忘れて 歩きまわっていた なぜ詩を書かないのかとたずねられて わたしはいつも答えることができなかった。 わたしはわたしを忘れて・・・音韻的な美しさや、意味の濃度、など・・・が、あるいは参考になるのではないか、と思いました。 〈初めての海外旅行で、パスポート、ヴィザの取得をはじめとする様々な手続きを、〉というような部分も、徹底的に叙述的に語る、のではなく・・・初めて、の事柄であれば、それはクッキリと記憶に刻印されるはずなのに、それがぼんやりとすり抜けて行ってしまう。他者が行っている行為のように、行為を行う自分を見ている私、がいる。 そんな状態を、簡潔に記すことができれば・・・その時の心理的インパクトが、散文的叙述の中からも伝わって来るでしょうし、そうなると、冒頭の散文部分が、単なる叙述的な説明ではなく、冒頭から「詩」である、ということになっていく、のではなかろうか・・・と思いました。あくまでも、私の個人的な詩観であって、ひとつの提案に過ぎませんが・・・。
0*うたもちさん、コメントありがとうございます。 無謀さのゆえに、現地での困難や歓びは波のように押しよせ、その記憶と、 いま日本での揺りかごの日々が混然として、心地よい浮遊感があります。 でも、用意周到な賢い旅は、遙かに上質な経験をもたらしてくれるでしょうね。 変貌した世界を知りつつ、つぎは、そんな旅を私も夢みています。 *まりもさん、コメントありがとうございます。 昔、小説を読んで、詩人の書く散文は美しいが疲れる、と言う素朴な感想を抱きました。 何が詩であるかを、詩人のペンで提示されることに、生意気にも違和感さえ覚え、 この経験から、散文を書くときはベタな叙述である方がいいと思っていました。 詩を書くようになって、多くの詩人の散文に触れるうち、詩であることの他ではなしえない何か、 その光りを感受しつつも、どのようにそれがもたらされるかは今もって何も知らない、と痛感します。 その秘密は何かがわかったら、書くこともどんなに歓びになるでしょうか。 まずはいたずらな叙述をできるだけ排除、その過程で、詩に遭遇したいと・・。
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