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<演劇「王女メディア」>
演出:蜷川幸雄 美術:辻村ジュウサブロー 主演:平幹二郎 +DVD ギリシア悲劇は悲劇を通して人間存在の闇を探る。 その闇の彼方に光を求めようとする。 レトリックとリアルの宝庫であり、決して色あせることのない人間の物語だ。 戯曲で読む限り比喩は野太く、一読入り込めないことがあるが、舞台で繰り返し演じられるうちに、 血流のような真実となってみるものの血に乗り移ってくる。 神話を土台とし、人間の系図のあちこちに神がひょっこり登場して、結婚したり子どもをもうけたりするので、 多くのありうべからざる事が人間的な事件と絡み合って、悲劇の大団円へと成就する。 どんな悲劇もまさしく成就なのだ。観客は故しれぬ爽快感の中で、自己の魂と向き合うことになる。 「王女メディア」はギリシアの三大悲劇詩人のひとり、エウリピデスによる、最愛の男に裏切られた女メディアの復讐の物語。 かつて愛の犠牲と共に深く結びついた男女は、愛の喪失のために、象徴である自らの子どもを生け贄にし、 おのおの自身の魂の崩壊によって、ようやくその絆を断ち得るかに見える。 蜷川幸夫演出の舞台は、メディアの怨念を、延々と口から赤い血を滴らせ続ける所作で見せつける。 また、恋敵とその父親の毒殺の情況を、使者から伝え聞くときのメディアの表情と姿態は、絶望の恍惚とすらいえる凄絶なものだ。 平幹二郎の演技は、彼自身が魅入られた如く、妖しい美しさと強靱な精神力をもつメディアを具現した。 人間を超越した美は男性ならではのものかも知れない。 辻村ジュウサブローの美術が色や光を最大限に生かし、特筆すべき効果を上げている。 黄金の衣装に包まれたメディアの、下まぶたに垂らされた銀色のびらびらは、演じる平の動きとともに、 頬の上で光(あるいは涙)の粒子となって散り、メディアの邪悪な行為が、どの瞬間においても、 涙を裏切って行われたことを想起させる。 母性を復讐心へと翻すときの、魂の闇を一閃する執念の光を、客席の最後列の観客にまで印象づけるものだっただろう。 ラスト、メディアはふたりの子どもを手に天に昇り、絶望を生き抜いた果てにようやく訪れる精神の解放が描かれる。 これはアテネのディオニシア祭への蜷川の贈り物だったのかも知れないが、やや不満な仰々しさだった。 琵琶法師で構成されたコロス(コーラス)は、ギリシア悲劇が日本的な情念と相通ずるものであることを、 強烈にアピールしている。 単純でドラマティックな音楽がそれらすべてを統合し、希有な異空間を現出している。(2004)
<演劇「王女メディア」> ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1463.2
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2017-08-25
コメント日時 2017-09-17
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
いや~びっくりした。これは演劇批評ですよね。詩に関係なくとも全く私は問題無いと思いますよ。というか、このようなことが起きないか待っていましたという感じです。なんといいますか、もう、なんだったら、昔のロッキング・オンみたいな、なんでも評論書いて投稿しちゃうぞ!的な掲示板になればいいのにと思います。あ、あ、すみません。これは三浦個人の意見です。とりあえず初コメントで上げさせていただきます。
0三浦果実さん、ありがとうございます。 一度スタッフの方におたずねして、詩でなくてもよい、とお返事をいただきましたので散文を連ねております。 今回のものは、批評と言うより、めまぐるしく流れる情報に埋没した(私にとっての)名作の紹介として 投稿させていただきました。 演劇は好きといいつつ途中で一度は眠くなる私ですが、本作は戦慄の内に全編を楽しみました。 舞台となったギリシアの劇場も一見の価値ありです。 (DVDの個人的な入手は今困難かも知れませんが、図書館にはあるかも知れません。) >昔のロッキング・オンみたいな ロッキング・オンは知りませんでしたので、今調べましたら楽しそうですね。 書く人も読む人もうれしく元気が出る場、だったのでしょうね。
0〈血流のような真実となってみるものの血に乗り移ってくる。〉 これは批評文の中における「詩的」な感受、詩として感覚された部分、ですよね。感動を体感的に伝える部分。観客の血が滾り立つような感覚、と言えばいいのでしょうか。 文字に、いわば凍結されている演劇を、蜷川の演出が解凍してなおかつ火を入れて、観る者の血に乗り移る、までに高めてくれたことへの賛辞であると共に批評でもある。 こうした「生きた言葉」が、説明的な批評文に命を吹き込むのだと思います。 〈どんな悲劇もまさしく成就なのだ。観客は故しれぬ爽快感の中で、自己の魂と向き合うことになる。〉 ここは、「ギリシア悲劇」そのものに対してアフォリズム的に射抜いた部分ですね。 〈「王女メディア」はギリシアの三大悲劇詩人のひとり、〉ここから後の部分は、いわば純粋な批評というのか、作品紹介(本人の感想、批評、含めた)部分なので・・・その前に破線とか*とか、何か区切りを入れた方がいいような気がしました。 前半でテクストを演じる、とは?「ギリシア悲劇とは」?とガツンとつかんでいる、ので、そのつかみの部分を際立たせつつ、後半の各論に導く、というような、視覚的な仕掛けがあると良い、と思った次第。
0まりもさん、レスが遅れすみません。 旅先で風邪を引いて、しばらく脱力していました。 >〈血流のような真実となってみるものの血に乗り移ってくる。〉 >これは批評文の中における「詩的」な感受、詩として感覚された部分、ですよね。感動を体感的に伝える部分。観客の血が滾り立つよう>な感覚、と言えばいいのでしょうか。 >文字に、いわば凍結されている演劇を、蜷川の演出が解凍してなおかつ火を入れて、観る者の血に乗り移る、までに高めてくれたことへ>の賛辞であると共に批評でもある。 漠然とした気づきが、詩的感受となりうるということでしょうか。嬉しく読ませていただきました。 そして、まりもさんのこの描写自体が、そのようだ、と翻って感じました。 作者と受け取る側が、一つの作品を支えつつ交感をするとき、そこに詩が流れているとしたら、 何かが達成されていると信じられますね。 >〈「王女メディア」はギリシアの三大悲劇詩人のひとり、〉ここから後の部分は、いわば純粋な批評というのか、作品紹介(本人の感想>、批評、含めた)部分なので・・・その前に破線とか*とか、何か区切りを入れた方がいいような気がしました。 文章を引き締める上でも、これから幕が開くを言う意味でもあったほうがいいと思いました。 いつも、示唆に富んだコメントをありがとうございます。
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