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あなまどい
しずかに くびを しめられているとき わたしは いつも いきていました くるうことさえできたら その言葉は やわらかくて まるくて くずもちのような かたまりで そっとほりおこした黒土にうずめると ありたちが いちれつになって 一心不乱に はこんでいきます 勤勉な蟻にも 何割かは いつも働かない蟻がいる こころのいちぶも からだのいちぶも そうしてねむっているから わたしたちは いきていられるのですね 葉先から色のかわりはじめた ひとなつを生きた緑をながめながら わたしは今 ねむるしたくをしています
あなまどい ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1468.9
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2018-11-06
コメント日時 2018-12-20
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
おはようございます。 あなまどいとは、秋の彼岸を過ぎても、冬眠のための穴にこもらないでいる蛇の様子のことだと、検索で 知りました。 しずかに くびを しめられているときとは、ただらぬ状況です。 真綿で首を絞められるかのような困難を経験したという比喩表現でしょうか? 個人的には、わたしには 昔の職場で 首を絞める癖のある上司の下で働いていた体験があるので、首を絞められると、ただただショックだったな。あれは、あらゆる思考力が停止するんだがな。と、自身の嫌な記憶を辿ってみました。ですが、詩文では その時、話者は いきていたと あります。 >しずかに くびを しめられているとき >わたしは いつも いきていました 「必死」という言葉のことを想います。必死とは かならず死ぬと書くわけで、漢字とはうらはらに、とてもその場その場で生き生きと生きていることを示しています。そんな 困難のさなかの人の 苦い意気地を想いました。 くるうことさえできたら って、ことは 人間は 狂うことはできないでしようから 艱難は艱難でしかなく、やわらかくまるい くずもちのような かたまりなはずはなく、おそらく、とても つらい現状の詩なのでしょう。 人生には、もう寝るしかない方法のないようなことも あるのでしょう。 そうやって どうにかこうにか生き抜くことも、あるのでしよう。 凍えながら眠るかのような しぶい作品だと思いました。
0るるりらさん ありがとうございます。首を絞める癖のある上司!!! ・・・精神的、にではなく、実際の行動として、ということであれば、これは大問題、今ならパワハラで訴えられるレベルですね。 おっしゃるように、わたしの「くびしめ」は、精神的な比喩、ですが、ある種、もう限界、というところまで追い込まれた時の、精神的な空白、というのか・・・その中を彷徨うときに、今、実は真に生きている、のかもしれない・・・と思った、のでした。タナトス的なエロスの感覚に近いのかもしれません。 心身が、ともにキリキリと締め上げられる状況に至った場合・・・恐らく、人は生きてはいられないでしょう。体の、少なくとも一部が、むしろ反応しない(心の言うことを聞かない、心と連動しない)からこそ、人は、この地上にとどまることができるのではないか。そんなことを、蟻が黙々とエサを運んでいく動きを眺めながら、感じたのだと思います。 しかし。ああ、いっそのこと、くるってしまいたい、すべてを投げ出してしまいたい、と、思うことは、ありますね・・・。 花緒さん ありがとうございます。ひらがな・・・にしようかとも思ったのですが。 漢字が目に飛び込んできて、そこから「音声」あるいは「イメージ」として、脳内で立ち上がるときの速度と、ひらがなが同様に立ち上がるときの速度の違い、そこにこだわりたいと思いました。 プディングの中のアーモンドプラリネ、のように、漢字を置いていきたい、という感覚を持っている、のですが(なかなか、この感覚をうまく説明できない)葡萄パンの葡萄、とか。 〈意味というより語感〉この〈語感〉は、五感で感じる感覚、かもしれません。 ※ビーレビュー杯不参加作品 書き忘れました。
0非常にヘヴィーな題材を用いているのに、一部かな表記にすることで、その重さを緩和している。人間は余りに辛い経験をするとその衝撃を和らげるために幼児退行化したり、知性をシャットアウトしたりすることがあるらしいが、それに似たものか。話者の心情を表現するのに、この手法(かな表記)は存分に成功している。そして話者が注目したのが蟻の群れ。働き蟻にも働かない蟻がいる。そこから敷衍して、人間の体にも時折機能しなくなる部分があるからこそ「いきていられるのですね」と来る。惜しい所が一つもないといっていい良作でありました。
0ステレオタイプさん ありがとうございます。へびだけにへヴィー(笑) 蟻の群から、働かない蟻を取り除くと、働いていた蟻の一部が、一定の割合で、働かなくなるそうです。予備要員なのか。 常に、どこかを休ませていなくてはいけない、フル稼働はいけない、そんなメッセージであるように思います。
0勤勉な蟻、勤勉なひとの内面に潜む無反応、ねむり…生き物はどこかにセーフティーネットのようなものを備えながら生まれてくるのでしょうか…そういう意味でも非常に興味深い作品だと思います。
0初めは冬眠を連想しましたが、もう一度読んでみると、クマムシが乾燥などに耐えるため体を縮めてまるで死んだような状態になっているのを連想しました。 こうなると宇宙空間に出しても死んでしまうことはないんで、この詩の語り手もひととき寝てしまうだけなのかなと思いました。 くびをしめられるかのような事がなくなれば、また目を覚ますのかなと。
0まりもさんの作品は上手くなくてはいけないし、一定の水準を下回る作品は出されないのかもしれないが、感情が先走りする表現を時々目にすると私はそれに新しさを感じる。本作にある季節感の持たせ方、ひらがな表記による詩作品としての文体には技法としての巧さが読める。しかし、私的な欲を言えば、狂を感じたかった。狂とは生と死の際であり季節が移る時の歪み。仮に、谷川俊太郎の作品がそのまま、まりも名義で投稿された作品があったとして表層で対峙するのが作品だったとしても奥底で直観するのはまりもさんという人間である。少なくとも私は詩人として詩文を読みたいし、批評とは詩人が持つ直観で書かれるものをいい、合理性で作品を読み表すのは解説の域を出ないと思っていて、批評はとても勇気がいる。それをぶつけ、ぶつけられ合うところに私たちの詩があると思う。
0まりもさん作品名「あなまどい」 初めは>を用いた感想。最後に選評。 作成日時 2018-11-06 コメント日時 3 時間前 >しずかに くびを しめられているとき >わたしは いつも いきていました 首を絞められている時に生きている実感が確かなモノに成る。痛みがあるからこそ、感覚痛覚があるからこそ、生きていると実感していると読み取りました。 >くるうことさえできたら >その言葉は やわらかくて まるくて >くずもちのような かたまりで >そっとほりおこした黒土にうずめると >ありたちが いちれつになって >一心不乱に はこんでいきます 「くるうことさえできたら」が甘い考えをあらわしてあると考えました。ありについては、次の連で書きます。 >勤勉な蟻にも >何割かは いつも働かない蟻がいる >こころのいちぶも からだのいちぶも >そうしてねむっているから >わたしたちは いきていられるのですね ここは言葉が死んでいます。事実や真実を重ねる事が詩に生かせていません。考察として光る部分が有るけれど、「ねむっているから~」に私は違和感を覚えます。「そう」を用いずに表現する事も挑戦です。 >葉先から色のかわりはじめた >ひとなつを生きた緑をながめながら >わたしは今 ねむるしたくをしています 解かりやすい表現でした。ですが、あなまどいを感じません。最後の最後に何故眠る支度をするのか。何故あなまどいなのか。題に沿っていると考えさせられたのは一連目だけです。 作品全体の選評に移ります。一部の違和感「~生きている」と「あり」と「そう」と「最後の連」以外に言えることは、前述した通り、一連目以外にあなまどいを感じません。ひらがな表記と漢字のバランスが良いです。読みやすく解かりやすい作品であるという事です。読みやすく解かりやすい作品であるという事は、万人受けします。ですが、読み手には様々な方がいらっしゃいます。読みやすく解かりやすい作品では物足りないと仰る方もいらっしゃるでしょう。季語を使う所ですが、とても慎重に季語を選んだ方が作品の印象をガラッと変わります(良くも悪くも)作品が完成しても、作品は何時までも未完です。眠らせたり、再誕させたり、推敲したり。作者様の自由です。選評以上です。
0一連目を、とても性的なものとして読み取ってしまったのは完全に僕自身の問題なのですが、まりもさんのコメントから、まったくの見当違いでもないのかもしれないと思い、多少安心(?)しています。 その「タナトス的なエロスの感覚」を言葉として強く感じるのはやはり一連目で、ただそれが詩全体に淡く漂っている印象を受けるのは、言葉そのものというより、その使われ方が例えば《くるうことさえできたら》(→実際はくるっていない)、《勤勉な蟻》《働かない蟻》、《ねむっているから》《いきていられる》、《葉先から色のかわりはじめた》《ひとなつを生きた緑》など、(言い方は色々あると思うのですが)「動」と「静」、「あちら」と「こちら」的なかたちになっているからかな、と考えました。
0まりもさん。申し訳ございません。フル・キュレーションを行いますので、今回私が書いてしまった選評は、感想だと受け取って頂けないでしょうか?誠に申し訳ございません。
0運営の渡辺八畳です。 確認ですが、ガイドラインは読まれましたでしょうか。そこにはキュレーションのルールも記されています。例えばつきみさんが行おうとしているフル・キュレーションは対象月の作品全てを読むことが執筆条件となっております。
0誠に申し訳ございません。一度目で理解が及ばず、改めて読んで理解した次第です。それで、感想として受け取って頂けないでしょうか?と書いてしまいました。前月分の作品全てに目を通して「大賞候補作」1作、「優良作」3作、「推薦作」4作を纏めて選評を行う。選評の際、投稿作品の日付日時を書くとで運営さんが助かると、認識しています。フォーラムにも質問を投稿したのですが、前月分とは、月末締めですか?ガイドラインを間違って認識していないので有れば、まりもさんの作品に書いてしまった選評と、今書いているコメントも削除して頂きたいです。理解が及ばず誠に申し訳ございません。御手数お掛けしてしまう事、色々と本当に申し訳ございません。
0月締めです。11月分の選評の対象は11/1〜11/30までに投稿された作品となります。 上のコメントは残しておいて不都合は無いと判断できますので削除は保留します。どうしてもという場合は再度連絡ください。
0渡辺さん了解です。まりもさん。作品に関係のない事を書いてしまい申し訳ございません。不都合が無いので有れば、削除はされなくて大丈夫です。以後気を付けます。
0素敵だなと思いました。 ひらがなで書かれている作品は、 だいたい読みづらいか、変に子どもっぽくなってしまうのがオチですが こちらの作品は冬の寒さでうまく口が回らない感じや 時がものすごくゆっくり流れているような雰囲気を感じることができます。 また、最初の二行だけをひらがなにすることによって、 この二行がとても強いものとして読み手に印象づけられるように思いました。 それにしても、首を絞められた経験のないわたしにとって、 例えそれが比喩だとしても「いつも いきていました」なんて言葉、 どうしたら続けることができるんでしょうか。 そんな言葉、普通は出てきませんし、 そこにまりもさんの書き手としての強さを感じました。 読ませていただきありがとうございました。
0まりもさん。実は、フル選評で優良作に選出してしまいました。不参加である事を知らせて頂けたので、優良作から外しています。選評は選評なので、気になられたらお読み頂ければと思っております。まりもさん。選評お疲れ様です。
0>勤勉な蟻にも >何割かは いつも働かない蟻がいる この2行がとても好きです。 蟻の行列をみてて、何故が外れていく蟻がいて、 どんな集団にも、個の必然というものがあるのだなあ、 と微笑ましくなります。 最初、この作品に触れましたときに、 「あなまどい」と言うタイトルの語感から、 一連目の 「しずかに くびを しめられているとき わたしは いつも いきていました」 への流れが、 詩を読むという歓びに、水を差しているように感じられました。 >その言葉は やわらかくて まるくて >くずもちのような かたまりで >そっとほりおこした黒土にうずめると >ありたちが いちれつになって >一心不乱に はこんでいきます ↑これがそのまま一連にあったらな、と。 その後に、 >しずかに くびを しめられているとき >わたしは いつも いきていました >くるうことさえできたら とあれば、生々しいフレーズが生きるのではないかと 勝手に読み替えてみました。 (他の方のコメントを読んでいませんので、重複があるかも知れませんが・・・。)
0仮名吹さん 勤勉さというものは、どこか感覚を自ら麻痺させていくことのような気もします。それをどう、取り戻すのか、取り戻すべきなのか、眠らせておくのか・・・ 羽田恭さん 実際に首を絞められたことはないのですが(笑)柔道をやっている人から、すうっと意識が落ちる感覚、というのを聞いて、体感してみたいな、と思ったことが、根っこにあります。意識が張り詰めている場所から、ふっとずれたい、というような。 みうらさん 「うまくなくてはいけない」というのは、ウーム、というか、なんと返していいのか・・・いわゆる、減点法に引っかからないように作詩する、というような方向性の「うまさ」であるとしたら、むしろその檻に閉じ込められて氷漬けにされていく恐怖を意識しなくてはいけない。狂うことができたら、というのは、むしろ本心かもしれません。 つきみさん ありがとうございます。確かに、「そうして」はユルイですね・・・~から、と持ってきて、予測通りに落ち着いていく進行は、散文(叙述文)へと傾斜している。それがわかりやすさの追求だということになるのか、ダレている、飛躍の鋭利が失われている、と自戒すべきなのか。「秋」になってしまったので、仕方なく眠る支度、をしている、けれども、実は眠りたくない、のかもしれない、と思いつつ。書き手は眠ることをむしろ望んでいるように見えますね・・・そのアンビバレントが、もっと鮮明に出るような激しさを内在させつつ、音や響きのやわらかい官能をも所有したいという欲望。 柴田蛇行さん 冒頭二行は、確かに詩になっているかもしれないけれど、そこから惰性的に続けてしまっているかもしれない、その惰性の甘さに、身をゆだねる心地よさや落ち着きや安堵を求めたかった、ということもあるのかもしれない、と思いましたが、やはり、冒頭の二行(最初に出た詩行)以外は、ゆるかった、というのが、皆さんの印象でもあり、私自身の反省でもあるような気がしました。 蛾兆ボルカさん 穴と蛇、たしかに性的なイメージがありますね。そこから、からだのいちぶ、というフレーズも出てくる、わけでもある、のですが。身体の疼きを眠らせて、精神の覚醒のみで生きていくのもキツイので、いっそのこと、すべてを眠らせてしまおう、というようなこと、だったのかな、など。 fiorinaさん 論理的説明文のような文言を入れるかどうか、そこで迷うところでもあるのですが、辞典を読んでいて、妙な詩情を感じたりすることもあって(学術的、科学的説明文であっても) くるうことさえできたら、その言葉そのものを、勤勉な蟻に片づけてもらいたい、自分で捨て去ることができないから、というようなこと、なのかもしれません・・・
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