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イヴ・サンローランのフランス
フランスが揺れている。フランスを愛する人びともまた悲しんでいる。誰がその最初に悲しみの一粒の芽を蒔き、それから誰が、怒りで我が身を噛み切ったのか。私にはわからない。ただ、どちらも思いの発露、「表現」だと言うことに愕然とする。 * イブ・サンローランとピエール・ベルジェの暮らした部屋を、日がな見ている。(※ドキュメンタリー映画「イヴ・サンローラン」) どんな王宮にもない、怖ろしいまでの蠱惑がここにある。服飾デザイナーとして世界に君臨し、形状、そして何よりも色彩に生涯を掛けたサンローランが、(パートナーの)ベルジェとともに一つずつ買い求め、壁に掛け、配置した部屋。ここにあってさえなお深い苦悩から逃れられなかったサンローランの痛みを秘めたまなざしのように、カメラは濃密な時と空間に時折たたずみ、対話し静かに移動していく。これもまた彼(ら)の作品であり、サンローランの死後、ペルジュによって、解体され競売に掛けられるそれらは、表現のもうひとつの運命を暗示している。 年二回のコレクションの発表は、デザイナーを想像を絶する心身の苦役に追いつめるという。その渦中で、サン・ローランは自己の作品を疑い続けた。喝采は一瞬の夢、次の瞬間葬列となるのだ。若い才能あふれるときには歓びそのものであったチャンスが、名声と引き替えに、己に向かって突きつけてくる刃、責め苦となるとき、生きることと死すこと、そして表現は初めてひとつのものとなる。 白い誘蛾灯に絶え間なくぶつかっていく羽虫たち。そこから逃れることもまた死なのだという直感。 * かつて9・11のテロの翌日、イギリスキューガーデンのシャルロットの庭を見た。そこで、死の病を得ているらしい庭師の少年が、掘り起こした紫の花株を手に、新しく植える場所を物色していた。傍らのベンチで老婦人がひらく新聞には焼け落ちる世界が映しだされていた。少年は黙々と彼の庭に彼の心を表していた。彼が配置し、育て、染め上げた心の色を、今というこの瞬間を、何者も破壊することは出来ないと知っているかのように。世界は表現する。そのことから逃れられないことの絶望として希望として、何故とも知らずこのようにここに私は在ると。
イヴ・サンローランのフランス ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1315.5
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2017-05-25
コメント日時 2017-06-10
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
花緒さん、ありがとうございます。 ひとつには、ヨーロッパは多くの移民と共存していると言うことがありますね。 理解と無理解のるつぼという印象があります。 たとえば、フランス人の乾いた鋭いユーモアに、「どうしてそこで笑えるの?」と、鈍感な私でさえナイーブになることがありました。 どの国にもそれぞれの自己表現の仕方がありますが、その差異が許容できるときと、深く根を残す場合があったのではないかと、 一連のテロ報道を見ながら感じていました。 問題の根は、もっと凄く深いかも知れませんが、思いもかけない浅いところから深まっていったのかも知れません。 笑いの質が違う、と言うような・・・。 フランス文学も映画も、最初はえげつなさを苦手としていましたが、最近はそのすべてが好きになっています。 ドキュメンタリー映画「イヴ・サンローラン」には、フランスの表現が余すところなく描かれていました。 見終わってとくに感じたのは、彼らの勇気と信念でした。 テロも犯罪も、それぞれの当事者にとっては自己表現ですね。 今生きているすべての人、(だけでなく動物や植物、この宇宙さえ)おのおのの自己をあらん限り表現している。 それがこの世の姿だという気がします。 でも、この混沌の世界で「イヴ・サンローラン」の【表現】が私は好きだ!大好きだ!と言いたかったんですね、きっと。 そして、「シャルロットの庭」の庭師の少年が。
0「白い誘蛾灯に絶え間なくぶつかっていく羽虫たち。そこから逃れることもまた死なのだという直感。」これは、個人としての芸術表現、個の世界の表出を求められる(強制される)現代の表現者の孤独なのかもしれません。 「シャルロットの庭」の少年は、世界が続いていくこと、を知っている、信じている。自分が死した跡にも、「世界」が滅びないことを知っている。逆に言えば、自分が死ぬことで、世界を終わらせることも滅ぼすこともできない、そのことも知っている。 テロリズムに追い詰められていく人は・・・自身の死で、世界を変えられる、と信じている(信じさせられている)のでしょうか。誘蛾灯に惹きつけられて死んでいく羽虫たちのように、自分の世界を作る、理想の世界を作る、という「表現」に追い詰められていく若者たち・・・。 芸術、という無謀に吸い込まれていく表現者、世界の変革、という無謀に吸い込まれていく表現者・・・と並列することが妥当かどうか、悩むところですが・・・。 テロリズムもまた、悲憤の究極の表現である。芸術の創造もまた、表現である・・・ということから受けるショックを、どうとらえ、どのように言葉にして保存しておくのか・・・。 詩論とか芸術論に展開しそうな部分と、社会問題に深く繋がっている部分が、一つの作品の中で混交している、その混交こそが現代の矛盾でもあるわけですが・・・ その時の心を写真集に収めた(写心集?)印象を受けました。 それぞれのテーマを、一生かけて(それでも解けないかもしれないけれど)考えていかねばならない。そんな、いくつもの問題点を含んでいる、と思います。 含んでいる、とは思いつつ、その時の心をとりあえずメモ書きのように書き留めた、という、まだナマな素材、という印象が残りました。 重いテーマですが、考え続けねばなりませんね。
0まりもさん、ありがとうございます! コメント全文を頷きつつ読ませていただきました。 >詩論とか芸術論に展開しそうな部分と、社会問題に深く繋がっている部分が、一つの作品の中で混交している、その混交こそが現代の矛盾でもあるわけですが・・・(まりもさん) この小文は、フランスでの最初のテロのショックが続いた頃書きました。 すでにそういう兆しはあったのでしょうが、蓄積したエネルギーが小さな亀裂から噴出したような「シャルリー・エブド」と呼ばれた、フランスだけでなく世界が震撼した襲撃事件です。このとき、(一国の元首や宗教的指導者が、外見や習癖を大きくデフォルメして表現されつづけていたことが、引き金になったと想定され)「表現の自由」が現地の報道で取り上げられました。 このフランス流(に限りませんが)のユーモアは、多くの芸術?の中で苛烈に表現されています。 日本を含め、アジアの人々、国民性も例外ではありません。 けれども、彼らは他者を嗤うのと同様か、それ以上の情熱で自国や自分たちの外見や習癖をあざといまでに描き、嗤い、笑っていた、それが私の印象でした。たとえばオペラや演劇で、カエルを食し、近隣諸国からカエルと揶揄されるカエル王国の物語を、大笑いしながら演じ鑑賞するのです。どこの国にも負けない頑固な愛国心を持ちつつ、【表現】【その自由】において屈しないと言うことも、譲れない自尊心、誇りとなっているように感じました。 けれども、それが他者の誇り、自由を根底から揺るがすとき、【表現の自由】とは何か? (日本にも、「恥辱」や「汚名」のために殺し殺された時代があったと思います。) 国家や民族のレベルでも、個人のレベルでも、ネットの時代はなおさらに。 >「芸術、という無謀に吸い込まれていく表現者、世界の変革、という無謀に吸い込まれていく表現者・・・と並列することが妥当かどうか、悩むところですが・・・。」(まりもさん) そうですね・・・。社会的な狭義の「表現者」と言うことでは並列できないと思います。 ここでは、一本の草木、蝶やトンボや星々でさえ、あらん限りの自己を表現しているという日々の実感を込めて、あえて問いかけたい気がしました。 その上で、 >少年は黙々と彼の庭に彼の心を表していた。彼が配置し、育て、染め上げた心の色を、今というこの瞬間を、何者も破壊することは出来ないと知っているかのように。世界は表現する。そのことから逃れられないことの絶望として希望として、何故とも知らずこのようにここに私は在ると。(作品引用) わたしたちに与えられる次の瞬間は、ここに存在させたものからの遙かなる贈り物であり、今という瞬間はわたしたちがそれを全身で受け取った証しだと思います。与えられそれを受け取った、今を生きている私はそこに十全に存在し、(次の瞬間が何であろうと、)この今において失うものは何もない、と言うのが引用部分の実感です。 まりもさんのコメントは、いつも新しい世界を開いてくださいます。 ありがとうございました。
0天才詩人さん ありがとうございます。お言葉を受け、「アタの涙」の最初の投稿を少し修正加筆し、投稿作とさせていただくことにしました。ご配慮、ありがとうございます。
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